深森の帝國§総目次 §物語ノ時空.葉影和歌集 〉「神々の身土」

神々の身土――形霊(カタチ)と形代(カタシロ)

日の影の ゆりくる きしべ
色無き空に 終わりの星を抱いて たてるもの
はるかに あおぐや 神々の身土を

空の裂け目より カムナビは たたり
幾条もの ひらめく いかづちを まとい
聞けるや 鳴りて響(とよめ)く 雲の音(ね)を

はるけき 神々の身土
海と山の間に やちまたは うねり
風と光に 川は さやげり

果てしなくも 崩れゆく
在りし月日を 偲ぶとき
うつろひの 波目は震え

地の底に とどろく水の音(ね)を聞けば
たぎりおつ かなしみ うずき

うつしよの 裂け目を さまようもの
名も無き神々の名の下に
うましもの――

あきらけく
さやけく
けやけし――

思いは まだ なさざるに のたうち
神々は柱のかたちして 荒び
歌をとどろかす
火を噴く山並みの 如くに

形霊(カタチ)と――形代(カタシロ)

たれにも 形得(かたえ)ず かなしみ――

滝の音(ね)
ほろびにいたる 誘水(イザナミ)
裂け目より出ずる
黄泉の底の 水の声――

因果の蔓(かげ)は 雲にからまり
無限の苦さが にじむとき

しんとして 御中(みなか)に けむれ
雲の影に
ひそやかに 化(け)もちて たてるもの

天の原 ふり放(さ)け見れば
その果てに――

緑なす 花綵(はなづな)の 現(うつ)しき島々――

さ青(を)なる 誘生(イザナキ)が花
神々の身土よ

添付の詩歌――《星ノ夜、影ノ朝》

星降り注ぐような夜、影の湧き立つような朝、
磁気圏に、透明薔薇の炎群(ほむら)燃え。

天(あま)つ瑠璃(るり)を敷き詰めて、しきりに稲妻とどろかせ。

渦と取り巻く金と銀、敷地をつなぐ照(て)り起(むく)り、
柱をなして天地と立てば、数無き裂け目が出来上がる。

ナヰフルかな、

ナヰフルかな、

かなしむべし、

さ青(を)なる地球(ほし)を。

星降り注ぐような夜、影の湧き立つような朝、
有為転変の現世(うつしよ)に、なお遠白き、時の八重潮。

月日が空をひとめぐり、鈴の音(ね)ほのかに鳴り渡る。

解説――カタチとカタシロ

「意識」と「精神」――或いは、「カタチ」と「カタシロ」。

「人類の集合無意識」というのは本当にあるのかも知れませんが、 人間と言うのは、表面上は、個々に意識が分離している生き物であります。 優れた意識を持つ人も出てくるけれども、それは全体に広がらないものである…というのは、 歴史上、明らかになっております…

例えば、キリストは出たけれど、人類全体にキリストの意識が広がっているわけでは無い…という歴史的事実。 でも、キリストのように考え行動しようと言う、いわば「キリスト精神」という概念はあるわけです。 クリスチャンの代表であるローマ法王が、本当にキリスト精神を代表して体現しているのかどうかは分かりませんが、 「文化的・象徴的な面では、一応、体現しているのかも知れない」と考えておきます。

――さて、日本語には、「型」というのがあります。そして「形」というのもあります。

紛らわしいので「型=カタシロ」、「形=カタチ」という風に明確にしてみます。

…「カタチ(形霊)」と「カタシロ(形代)」…

概念的には、「カタシロ」=「デッサン(基礎)」で、 「カタチ」=「絵画作品(応用またはイメージの核心)」と言えるでしょうか。

…しっかりとした「カタシロ(基礎)」に、しっかりとした「カタチ(応用または核心)」が宿る…

この関係は、精神の変容や進化といった課題についても、言えると思うのであります。

神道を例に取れば、「カタシロ」=人間、「カタチ」=神、です。

…神道には「神を降ろす」、「託宣」というものがありますけれども、 そこでは「ミソギ」ということを非常に重視するそうです。 「神の座は清らかでなければならない」というような約束事があるわけです。 では…この「ミソギ」とか「清らか」と言うのは何なのか。 ここに、精神的な意味で言う「カタチ」と「カタシロ」が関わってくる…と、思案しました。

神道では、人間は、神の依り代…と申します。つまり「神のカタシロ」、 神が宿る器(うつわ)であります。ゆえに、依り代となる人物は、厳しいミソギを経て、 「神のカタチ」が宿るのに相応しい「清らかなカタシロ」となるように、身体も精神も、 極限まで変容させる必要があるわけです。

――ちなみに、その筋の人物の話ですが、ミソギという行動には、 コツとかがある訳では無いようです。ただひたすらに、清き明かき真心を込めてミソギをするのみ…だそうです。 「神が宿るときはどんな感覚なのか?」というのも聞いてみましたが、正直、 「全存在の究極的転換(のようなもの)」というのが、あまり理解できませんでした…

(以前、ご縁あって、「天之御中主大神」を降ろしたという人物の話を聞く機会がありましたが、 身体全体で、あまりにも広大無辺な宇宙や、銀河の群れを見たとか、そういうような話でした。 でもそれでも、その人物曰く、神さまを本当に降ろしたわけでは無く、その端っこにさわらせて頂いた、 というレベルだそうですけれども…「生きとし生ける全てのものへの深い愛情」と言えるものは、確かにあったそうです)

神道の場合は、「依り代の条件(=カタシロの条件=)」が非常に厳しいレベルで制約されるのですけれども、 人間社会の中では、神道とは違って、そんなに制約されるわけでは無いです。 ひどい悪事をしないとか、せいぜい世間様の目に適う程度に普通の人物かどうか…という程度。

デッサンが出来ていなければ、自由な絵画への応用が出来ない。 人間でも同じで、基本的な思考の基盤…「精神という名のカタシロ」が出来ていなければならない…、 それは出来れば、可能な限り透明度が高く、色々な事象を深く見通せる精神でなければならない、 …「次世代の精神の基盤」というカタシロなくして、「次世代の人類社会」というカタチもまた、降りて来ない…

精神は直観し思考する。思考は言語によって構成される。

旧時代の崩壊ないし終焉の過程というのは、 新しい精神を彩ることになる、新しい言論の構築の過程でもあるのです。 おそらくは――この「災厄の時空」と同時進行して、変容してゆく言論という形で、 入れ替わり立ち替わり、出現してくるものなのです…

旧時代から新時代へ――「時空」の変容と共に言論が進んで、 現実への適応や工夫もそれなりに進んで、精神の変容も進んで――その「最後の日」に、 新たな時代を築く新たな精神の基盤――カタシロ――というようなものが、 見えてくるようになるのでは無いか…と、思案しました。

いわば、新たな時代を予感させる「地平線のようなもの」が、 精神の変容が進むと共に、視野に入ってくるのでは無いか。

地平線が見えた後は、長い長い「生みの苦しみ」がスタートする…「変容」の本質は、「混沌」なのです。 大いなる混沌の中で、我々の精神は――言論は――試されている。 「混沌」の果てにあるものは何か…「その時」を目撃したいと願っております。

解説――身土の変容

…或る人物が言う事には、日本は、大地の力がとても強いのだと言う。 そして、古代から現代に至る、様々な《意識》―《時空》が、濃密に混ざり合っていると言う。 「産土」、「地霊」、…言い方は色々あるが、一まとめで言えば「八百万の神々」である。

そして、八百万の神々が宿る日本列島の大地は、とても強い霊威を秘めている…

今、突きつけられているのは、「先人を超越する」という重いテーマであろう。

《災禍の時空》が、日本人の変容を促す… 巨大な災厄は、国を、人を変える。政治、経済、社会、文明も変わる…

何を見て、何を学び、何を考えなければならないのか…何を変えなければならないのか。

…想像力は創造力でもある…

その模索の積み重ねが、将来の結果となって表れる。 しかし、その結果が明らかに目に見えるようになるのは、更に数年の時を経た後の事になるだろう。 社会の変容に伴う《破壊》と《創造》は、一朝一夕に出来るような仕事では無い。

その間、日本列島の大地は、まるで嵐の中の小船のように揺さぶられる筈である。 およそあらゆる《禍ツ霊(マガツヒ)》が沸き立っては崩れ、不安と災厄を撒き散らしながら震え続けるのであろう。 まるで、古代神話の《常夜闇(トコヨノヤミ)》の時代のように…

…《常夜闇(トコヨノヤミ)》の到来は、深く眠り続けていた神々を叩き起こすものなのだ…

神々は物語をものがたり、人々はその物語を、我が身の生死をもって生きる。 人々が神々の物語を表現する時、人は神である。

神に祈っても、神は何もしない。神は人を救わない。

ただ神を感受した人の心に宿り、現世の人の命を通じて、無限の変容の物語をものがたる。

生と死の間を渡りゆき、変容を遂げてゆく四季折々の大自然…人も社会も、宇宙も、また変容する。 神々の力とは、おのづから成長し変容し続ける大自然の、《無限》の力に他ならない。

…目の前の現実に真摯に対応する。その時、八百万の神々の力が発動するのである…


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