深森の帝國§総目次 §物語ノ時空葉影和歌集 〉「時ノ神楽」

時ノ神楽――花綵列島に寄す

天にあまねく
地にあまねく
八百万うつしむ国ぞ

――緑なす 花綵の 我らが列島――

空の彼方を おし渡り
海の彼方を おし渡り
現し御世を 揺らぐもの
時ノ神楽を 誰か知るらむ

――緑なす 花綵の 我らが列島――

天にあまねく
地にあまねく
八百万うつしむ国ぞ

我らが美し 現し国
まほろばの ――緑の花綵 連ねる国ぞ――

落ち激つ 時の渡瀬
流され命の
幸かなしむ

豊かなれ 日影のほとり
気振り立つ 常世の岬
青葉渦巻け 袖ひるがえれ……

威烈は 真素にして
天照は 真赭なり
今一度の 時を揺すれ
今一度の 波を揺すれ

千入や千入
命の雫を 括り染め

色いや重きて
匂い立つ
花なる君よ
花照るや君

君流離の 美し花珠
時渡瀬に 青らむ星よ
涙の痕こそ血の色に
しとどに濡れて
その白布に浸み透れ――

天にあまねく
地にあまねく
八百万うつしむ国ぞ
まほろばの 美し列島
玉響の――星に連なる

アメにあまねく
ツチにあまねく
やおよろづ うつしむ国ぞ

――みどりなす はなづなの われらがしまじま――

空のかなたを おしわたり
海のかなたを おしわたり
うつしみよを ゆらぐもの
時ノ神楽を たれか しるらむ

――みどりなす はなづなの われらがしまじま――

アメにあまねく
ツチにあまねく
やおよろづ うつしむ国ぞ

われらがうまし うつし国
まほろばの――みどりのはなづな 連ねる国ぞ――

落ちたぎつ 時のわたらせ
流されいのちの
ミユキかなしむ

ゆたかなれ 日影のほとり
けぶり立つ 常世のミサキ
青葉うづ巻け 袖ひるがえれ……

タケハヤは ましろにして
アマテルは まそほなり
今ひとたびの 時をゆすれ
今ひとたびの 波をゆすれ

ちしおやちしお
命の雫を くくりぞめ

色いやしきて
匂い立つ
花なる君よ
花照るや君

君さすらいの うまし はなだま
ときわたらせに あおらむ星よ
涙のあとこそ血の色に
しとどに濡れて
そのしらぎぬに しみとおれ――

アメにあまねく
ツチにあまねく
やおよろづ うつしむ国ぞ
まほろばの うまし しまじま
たまゆらの――星につらなる

伝承歌(ツタエゴト)/葉影和歌集

解説

「うつしむ」は、妙に不思議な印象のある言葉です。

「うつしむ」の名詞形が「うつしみ」で、これは「空蝉(うつせみ・うつそみ)」と同根である事が知られています。 現し臣(うつしおみ)からの変化で、この世の人。また、現世。

この「うつしみ」、すなわち「目に見えない神に対するこの世の人」という意味から、 「あの世の人」との対比で、「はかなさ」を暗示する言葉に変容していったと考えられます。 この変容が生じ始めたのは『万葉集』の頃であり、たとえば大伯皇女の和歌で、 その予兆が読み取れるものであります。

うつそみの人なる我や明日よりは二上山を弟背(いろせ)とわが見む ―― 大伯皇女(巻2/165)

その後の和歌の伝統の中で、この世のはかなさを暗示するときの言葉として使われるのが一般的になり、 「空蝉」という当て字も作られたと言われています。 この言葉は、「世」「人」「命」「身」などにかかる枕詞として知られています。

――枕詞は、時として、おそろしく古い時代の言葉の記憶を留めています――

先の枕詞の傾向を考えると、 「うつしみ」は、元は神に関わる言葉であったと思われます――祝詞など。 ――とは言え、神に対する祝詞で、 「この世のはかなさ」を意味する言葉が本当に使われていたのか――というと、 実際は怪しいものではあります。

おそらくは、原始の頃は名詞形ではなく、「うつしむ」という動詞形で使われていたのかも知れません。 そして、そこには、間違いなく、豊かにして荒々しい大自然に対する深い驚異と畏敬の念が満ちていた――

その意味を分解すれば、「虚(うつ)/現(うつつ)」+「染む」。 そして、祝詞の中では、「神うつしむ」という風に使われていた――と想像するものであります。

彼方の神の気が「虚(うつ)」の中に「現(うつつ)」と現れ、 しきりに「虚(うつ)」と「現(うつつ)」の間を泡立ち揺らぎながら、 万物に染み渡り、ゆき渡っているという意味で使われていたのでは無いか――と 云う仮説を立ててみる事が出来ます (日本神話では、最初に生まれた島は、「淡路島」といいます。 原始、泡立つ島≠ニいうイメージがあったのでは無いでしょうか…)。

想像もつかないほどの遠い昔から、激しい天変地異を通じて、 山が崩れ谷が埋まる――という歴史を経験し続けてきた原始の日本人が、 この国を「永遠磐石の神おわす国」「恒常不変の大地」と考えていたとは、 とても思えないのであります。

原始の日本人は、この花綵列島(現世)の事を、 一期一会という形で「神の気」が現れたものであり、 「虚(うつ)」と「現(うつつ)」の間を豊かに変容してやまない国―― 「一期一会の御世、神、無限にうつしむ国」――と感じていたと推察するものです。

そして更に――神うつしむ――無限にうつろう――その茫々たる古代の詩的言語の深淵の底に、 「無限の詩学」に述べられるところの、 ある種の詩的直観Seer of the Silence=\―の存在を、確信するものであります。

》編集後記

この詩歌作品は、殆ど「伊勢の海」から取材してきたものと申せますでしょうか。

※「花珠(はなだま)」というのは、伊勢の真珠を調べていて知った言葉です。 特に質が良く、ひときわ照り輝いている真珠のことを「花珠」というそうです。 ただし、真珠は何が起こるか分からない自然の中で育ってゆくものであり、 「花珠」を決める明確な基準は無いそうです。

二見浦を訪れた際、波の音をじっと聞いていて、非常に不思議な気持ちになりまして、 その気持ちをそのまま詩歌という形で映し出してみた…という感じです。 どうしてこの詩歌が浮かんできたのかについては、こうした思い出の他には、 さほどはっきりとは、説明できません。

詩歌制作、及び言葉の整理の過程で、波の音の記憶に刺激されたのか、 一部、原始的な掛け声を思わせる詩句が入り込んできました。 古代の歌謡に掛け声が多数入ってくる理由は、 周囲の大自然から歌をもらってきたからだろうか――というような、 不思議な想像をかき立てられる経験でした。

完成形では、この掛け声的な詩句を、 何とかして意味の通る言葉に整理した…という風になっております。

――伊勢の海には、不思議に太古の荒々しい物語を語りかけてくるような印象があります。

伊勢の海 波しづかなる春に来て 昔のことを聞かましものを ―― 良寛

『日本書紀』に是神風伊勢国則常世之浪重浪帰国也、傍国可怜国也 (この神風の伊勢の国は、常世の波の敷浪寄する国なり、かたくにのうまし国なり)=\―と記されたように、 古代人の感覚においても、おそらく「常世の岬」というような、 荒らぶる時空の境界めいた不思議な印象があったのではなかろうか…と思われるところであります…


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