深森の帝國§総目次 §物語ノ時空.葉影和歌集 〉「神無月叙情:紺地金泥風」

神無月叙情――「紺地金泥」風

秋風は もみずる袖をひるがえし
梢に 陽差し斜めなり

澄み明らかなり 青き空
雲無き真昼の青空よ
果てなき空のわだつみよ

紺碧の 遥けき天(あめ)の彼方より
光は黄金(きん)と零(こぼ)れ落ち
木の葉と共に舞い降りる

…いよいよ冷たく冴ゆる季節(とき)…

白き風なり 白き風!
誰が袖ふれし 風の色!

冬近き 緑は黄金(きん)を照り返し
さらさらさやぎ しきりに揺すれ

…たまゆらの あやしき歌を 織り成しぬ…

冬を貫く 常盤(ときわ)の緑
寂静の緑の焔の 不動の悲しみ

重き荷を背負いて 傷ついて
それでも見上ぐ 《無限》の底を

…紺碧の空に白き風神…

秋風は もみずる袖をひるがえし
木の葉に 陽差し斜めなり

梢の先に 風が鳴る 風が鳴る――

解説

「紺碧の空から光が黄金と零れ」…という部分、これは「紺地金泥」を意識しています。

個人的な感触ですが、日本の美意識の底には「紺地金泥」という様式があると思います。
――(付記:インターネット検索では「紺紙金泥」の方が検索しやすいようです)

これは、初期の仏教受容の際に、写経スタイルの一種として編み出された文字様式だそうです。 「紺地金泥」は、日本の文字様式、大和調の文様文化の出発点です。異文化との出会いの火花が生み出した様式であり、 またそれゆえに、合わせ鏡よろしく、 日本の奥底に漂っている「美意識のようなもの」を、鮮やかに映し出していると思われます。

また、紺地金泥で描かれた絵もあります(時代の都合上、殆どは仏教曼荼羅らしいですが)。

作業としては「金泥を塗りこめる」訳ですが、 意識の上では、「どのように金地を射抜くか」という感覚に近かったと思います。 闇の中から、黄金=光を射抜くのです。 木漏れ日が描く模様のように、細い隙間から洩れ出てくる光の綾模様を愛でる、という感覚があったと思います。

この感覚は時代を超えて、漆器の蒔絵にも登場する――森の民の感覚です。

日本の真昼は余りにも明るく、冬季の昼間も、明るい。 そして陽光にしても雨風にしても、降り注ぐときは激しく降り注ぐのです。 屋根の造形にしても、庇(ひさし)が長く出ているのがスタンダードだったのであり、 その絶妙な環境が、「紺地金泥」や「たまゆらの光」の感覚を生んだと思います。

これはまた、日本の芸術において、「日本の絵は陰影を描かない」という特徴に繋がっているわけで、 伝統的な大和絵では、「陰影」が描かれておりません。 日本人の感性の中において、 光は黄金の描線として射抜かれていたのであり、後には、黒い線描に凝縮されたのではないでしょうか。

三次元造形のものを二次元造形に写像するとき、そこには様々なパターンがあり、 文化の差は、この芸術の作業に、もっとも顕著に現れるのです。 日本人は、西洋人とは異なる光‐影の解釈を行なった、という事であると思います。

西洋人は、陰影を、描くべき「色」のひとつとして捉えた節があります。 だから西洋画は、「黒い描線」を描かない代わりに、陰影表現が精密になるのです。 遠近法の発達は、この陰影を突き詰めた果ての、偉大なる成果と申せましょうか。 大和絵と同様に黒い描線に集中していたら、 近代西洋画に見られるような精密な遠近法の世界は、ルネサンスという条件があったとしても、絶対に描出できません。

実際、メロヴィング・カロリング美術からロマネスク美術にかけて、 黒い描線が主役だった頃は、西洋でも、陰影、遠近法、という発想そのものがありません (当時はドーム壁画や、羊皮紙に聖書写本の挿絵が殆ど/木版画は製紙法が普及した14世紀以降。 元々ケルト人やゲルマン人は文様や幾何造形に強く、抽象的な造型感覚を持っていたそうです。 この辺は、いかにも古代の森の民の感性です)。

――「詩的な気分」のコアと思っているのは、大体以下です。

……他所者であるおまえ、
ほかの星よりなお遠く遥かから由来する
星であるおまえ。
絶対の孤独が受け継がれるようにと
この地球に売られた星。……

他の方の作品の一部なのですが、何処で見かけた詩句かは失念しております。 うろ覚えで何とか再現したものなので、実際の詩句とは若干異なっている可能性があります。 もし原詩をご存知の方がいらっしゃれば、ご連絡いただければ幸いです。

――《絶対の孤独》と《無限》とは、同じ「詩的なもの」の裏表。

そういう詩想があっても面白いと思うのです…


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