深森の帝國§総目次 §物語ノ傍流 〉瑠璃花敷波14

―瑠璃花敷波―14

part.14「もつれた意図と謎の追跡*2」

(1)晴れた昼下がりの笑劇(前)
(2)晴れた昼下がりの笑劇(後)
(3)追憶は夕べの風と共に(前)
(4)追憶は夕べの風と共に(後)
(5)星に願いを、裏の高難度クエスト

*****(1)晴れた昼下がりの笑劇(前)

かくして。

チャンスさんとサミュエルさんにとっては、より若く狙いやすい方が、ターゲットになったのだ。

私とメルちゃんが居て、しかも、ガードと思しき存在が――隊士でも何でもない、少年と、オッサン。

チャンスさんとサミュエルさんは早くも、『バババッ』と、わたしたちのグループにスリ寄って来た。

急に、大柄の、パンチパーマの、黒焦げの男2人が傍に来たから、本当に『うわッ!』だよ。

チャンスさんが大柄な体格をグイグイと押し込んで来て、わたしと初老な店主さんの間に割り込んで来た。 サミュエルさんは、わたしの反対側の方、わたしとメルちゃんの間に、大柄な体格を押し込んで来た。

ひえぇ。おまけに、ウエストが2人の手に捕まった。圧倒的、図々しさだ!

わたしのピンチに気付いた初老な店主さんが気付いて、わたしの身体を引っ張り出そうとしてくれた。でも、 大柄な2人のイヌ族と、初老なウルフ族1人では、ちょっと苦しい勝負だ。それに客商売だから、下手に騒ぐ訳にもいかない。

「なーなー、その台車のコンテナ、随分と厳重に封をしてあるじゃねーか。何が入ってんだよ」

チャンスさんは好奇心いっぱいに目をランランと光らせながら、コンテナのロック部分をガタガタとやり出した。

メルちゃんが、大人の体格に挟まれた身体をくねらせて脱出しながらも、抗議を始める。

「開けられたら困るのよ。開けないでよ。大変だったんだからね、詰め込むの!」
「ヒョオオ! よっぽどの物らしいな!」

――実際、コンテナの蓋(ふた)を開けられたら困る。『見られたら困る』と言う意味じゃ無い。

ぎゅう詰めにしている状態だから、いったん蓋(ふた)が上がった後で、再び詰め込むのが大変だから困る、という意味なんだけど。

「見たら、後悔するぜ」

ジントが不吉な調子で『魔法の杖』を振りながら、チャンスさんを脅している。でも、少年の脅しだから、余り効果は無いっぽい……

当然ながら、怖いもの知らずな性質のチャンスさんは、ジントの挑発に乗ったかのように、燃えたのだった。 『見るな』と言われれば言われる程、人間って、余計に見たくなるよね……!

「てやんでえ、べらぼうめ! おいサミー、こっちのロックが外れたぜ、一気に……ワン!」
「うおん!」

ばおーん。

ちょっと気の抜けたような音を立てて、コンテナの蓋(ふた)が持ち上がった。

一斉に、パカッと口を開いた、わたしと、メルちゃんと――更に、訳知り顔なジントの、目の前で。

今しがた、むごたらしく爆殺されたかのような、『火のチャンスさん(化けの皮)』のバラバラ死体が現れたのだった!

初老な店主さん、サミュエルさん、チャンスさんの順番に、恐ろしい悲鳴が上がる。

「バ、バラバラ死体~ッ?!」
「殺人事件だ、大事件だあぁ~?!」
「オレが死んでるうぅぅうぅ~ッ?!」

チャンスさんは一気に青ざめて、バッタリと仰向けに倒れた。見ると、口から泡を吹いて失神している。

サミュエルさんは腰が抜けたかのようにヘタリ込み、ブルブル震えながらコンテナを指差した。今や、涙と鼻水を流しながら、ヒイヒイと訳の分からない事を言っている。

という訳で、わたしは一気に自由になり、そそくさとポジションを変えられたのだった。ジントが器用に、わたしの背後に身を隠した。ザッカーさんやクレドさんを警戒しての事だ。

「どういう事?!」
「バラバラ死体ですって?!」

余りと言えば余りにも物騒なキーワードに仰天したせいか、ラミアさんとチェルシーさん、オフェリア姫は、一瞬、棒立ちになった。

ザッカーさんとバロンさんとクレドさんは、さすがに立ち止まらず、駆け付けて来た。3人の隊士の背中に守られる形で、アンネリエ嬢も殺到して来る。

大柄な隊士3人が殺到して来たものだから、思わず後ずさってしまったよ。わたしとジントとメルちゃん、 それに初老な店主さんは、たたらを踏みながら後ずさり、台車を遠巻きにするように並ぶ形になった。

台車に載せられているコンテナ――コンテナの中身は、蓋(ふた)による押しつけが急に無くなったせいで、弾みで中身が少し飛び出している。

――人間の腕や脚と思しき生々しい物体が、おぞましいまでにバラバラの方向になって飛び出しているという状況だ。

本物の死体じゃ無いから血は流れてないんだけど、血の色が、いっさい見られないというのが、かえって不思議に思える風と言うか……

アンネリエ嬢が、満を持したかのようなキンキン声で、絶叫した。

「こ、このルーリーは残虐な殺人犯よ! ザッカー、早く逮捕しなさいよ!」

――ななな、何て事を! それ、誤解ッ!

一気に縮み上がっちゃう。

ザッカーさんが、コンテナの中身を素早く検分して来た。バロンさんとクレドさんも一瞬、疑わしそうな顔になって、わたしとジントとメルちゃんを眺めて来る。

「オッ?」

驚きの声を上げたのは、ザッカーさんだ。一度、二度と『本格的なバラバラ死体』を眺めた後、面白そうに、ニヤニヤし始めた。

――さすが場数を踏んで来た隊士というべきか、すぐに真相に気付いたみたい。

「こいつぁ、良く細工したもんだなぁ。実物より凄みが増した分、良い男になってんじゃねぇか」

バロンさんとクレドさんも真相に気付いたみたいで、『如何にも珍しいものを見た』と言わんばかりの顔つきだ。 2人とも、思いっきり絶句している。滅多に目撃できないような表情かも知れない。

ザッカーさんが早速、『火のチャンス(化けの皮)』の頭部の破片を3つばかり、ラミアさんやチェルシーさんやオフェリア姫にも見えるように、摘まみ上げて見せる。

ラミアさんが、仰天そのものの顔つきで、目をパチパチさせながら近寄る。 チェルシーさんとオフェリア姫も、上品に絶句しながらも、本物の死体じゃ無い事に気付いたみたいで、ラミアさんの後に続いて来た。

「あら? これ、断面が《地》エーテルじゃ無いの」
「衣服データも含めて、まるまる全身を精巧に複製したシロモノなんだ、ラミア女史。実に真に迫っている。 あの極め付きの変人ディーター先生が、火のチャンスの『化けの皮』を使って、何やら大掛かりな魔法実験をやらかしたようだ」

バロンさんが、ガックリとしたように顔に手を当てた。やっぱり、誰かに似てるなぁ。

「先刻、ディーター先生の研究室の方で、異常な爆音と震動が生じたようだという報告が来たから、念のため駆け付けていたんだが。 一部の樹木が丸ハゲになっていたり、《火》エーテルが血痕さながらにバラまかれていたり……あの凄まじい魔法事故の現場の原因が、こいつだったのか……」

初老な店主さんが、「何と摩訶不思議な」と呟いている。

――ともあれ、にわかに持ち上がった『火のチャンス殺害容疑』だったけど、綺麗に晴らせて良かったよ。ちょっとだけ、ホッとする。

アンネリエ嬢は、何故か、なおさらに不機嫌になった様子だ。肩を怒らせて、サミュエルさんを『ギンッ』と睨みつけている。

足をバンと踏み鳴らすやいなや、アンネリエ嬢は再び、『魔法の杖』をビシッと差し向けた。サミュエルさんと――まだ意識が朦朧としているチャンスさんに。

「この無礼者が! 不良の駄犬が! だいたい、あんたら、その袋の中身の方は何なのよ! もう一度《火炎弾》にしてやっても良いのよ、 この、おっちょこちょいの、スカポンタンが!」

ボンヤリと目を覚ましたチャンスさんと、恐怖が去り始めたサミュエルさんが、応答する前に。

アンネリエ嬢の『魔法の杖』の先端で、赤いエーテルが燃えた。

思わずギョッとする。貴種ならではの――相応の容量を持つエーテル。あれが《火炎弾》になったら、相当に大きな爆発になりそう。

しかし。

その赤いエーテル光は、狙い通りの《火炎弾》として絞られる事は無かった。

アンネリエ嬢が、怒髪天の余り集中できていなかったせいか、それとも、アンティーク魔法道具『炎のバラ』による補助が無くなっていたせいか――

加工前の《火》エーテルで出来た、まさに『原初エネルギーの流れ』そのままに、ターゲット目がけて勢い良く飛び出したのだった。

――謎の風呂敷包みに包まれている、中身を目がけて。

「ひょえぇ!」

チャンスさんとサミュエルさんが、同時に奇声を上げた。

赤いエーテル光が充分に染み込んだのであろう謎の中身は、遂に怪現象を呈し始めた。

風呂敷包みが、モゴモゴ……と、うごめき始める。中身――中にある何かが、動いているのだ。 中身にあるのが何なのかは知れないが、丸っこい物体と、やたらシャカシャカと動くタイプの微妙に三角形な物体だ。

不吉なくらいに、数が多い。100以上は確実だ。しかも――

――何やら、エーテル反応が進行しているのか、猛烈にサイズを増しているような……

全員の眼差しが、2人のイヌ族の荷物に集中する。

そして、その恐るべき中身が、遂に白日の下に正体をさらした!

*****

――2人のナンチャッテ渡世人なイヌ族、火のチャンスさんと、火のサミュエルさんの。

中庭広場に持ち込んでいた、荷物の中から、全部で100匹から200匹と言う数で、爆誕して来たのは。

――赤と黒だ。黒と赤だ。ワラワラと湧いて来た、とにかく、それなのだ!

「ど、毒ゴキブリ!」
「ザ……ザリガニ!」

それも、タダの毒ゴキブリと、タダの赤ザリガニでは、無いのだった!

「化け物ーッ!」
「イヤーッ!!」

見るからに、中型モンスターな、パワーアップ版の、血に飢えた毒ゴキブリと赤ザリガニなのだった!

「ウッヒョオオオ!」

ジントが火事場の馬鹿力を発揮して、メルちゃんを横抱きにして、猛ダッシュだ。初老な店主さんを先頭にして、小物屋さんへと避難する。

元々が倉庫なミニ店舗は意外に、避難シェルターとして使えるのだ。物品を保護するための《魔物シールド》が常時、発動している状態だから。

野次馬と化していた隣近所のミニ店舗の店員たちも、叫び声を上げながら、店の中に引っ込んだ。

ラミアさんとチェルシーさんとオフェリア姫は、同時に身を返して、背後にあった宝飾品店に引っ込んだ。 次いで、アンネリエ嬢も「キャーキャー」言いながら引っ込んだ。

わたし? わたしは勿論、パニックだ。全力で『毒ゴキブリ☆トラウマ』発動だ!

何故か、わたしは、チャンスさんやサミュエルさんと、全く同じ行動を取っていた。

すなわち、最も目に付いた手近な避難所――緑地に生えている街路樹に木登りしたのだ。

考えての事じゃ無いし、無我夢中だったから、何故そんな事をしたのかは、説明できないよッ!

続いて、重量のある中型モンスターならではの、ドロドロとした地響きが地面を震わせ始めた。 誰かが《緊急アラート通報》魔法を発動したようで、辺りに超高音のサイレンが鳴り響いている。

多分ザッカーさんだろう、呆れたような太い声が、わたしに向かって投げられた。

「ウソだろ、バカなのか」

――『バカは高い所が好き』と言うけれど、ホントにそうだよッ!

*****

結論から言えば、このナンチャッテ・モンスター襲撃は。

経過時間が、一刻を過ぎて二刻に到達する前に、速やかに終了した。

中型モンスターとは言え、卵から孵化したばかりで装甲がフニャフニャ状態だったし、全体で200匹未満だったから。 それも、『モンスター狩り資格』を持つ隊士たちにとっては雑魚モンスターな、赤ザリガニと毒ゴキブリ。

治療院の警備を担当していた隊士たちの応援だけで片付いたし、主戦力を担当したザッカーさんとクレドさん、 それに、クレドさんと同じくらい目立たないタイプのバロンさんもが、『モンスター狩り資格』を持つ上級隊士だった。ビックリだよ。

そして、毒ゴキブリ(赤ザリガニも含む)の死屍累々となった地上と、高所トラウマ発動レベルの樹枝の間で、わたしは毎度の如く、身動き不能になっていたのだった。 ダブル恐怖だし、自己嫌悪まみれだし、もうイヤ。

事態が収拾して、やっと出て来れるようになった初老な店主さんと、ジントとメルちゃんがやって来て、「おーい」と、 枝の上に居るわたしに向かって声を掛け始めた。ラミアさんとチェルシーさんも来ている。

「信じられないわ。あの非現実的なまでに高いハイヒールで、木登りも出来るなんて」
「それくらい、ハイヒールが普通な生活だったという事よね」

ラミアさんとチェルシーさんが、ひたすら感心しているけど、それ、いっそう自己嫌悪の種だから。

ひとつ先の街路樹の近くで、ザッカーさんが臨時の指揮官として、テキパキと、応援に来た隊士たちに指示を下している。

城下町の民間業者に依頼して、中型モンスターに進化していた毒ゴキブリと赤ザリガニの死骸を引き取ってもらう。 そして、治療院の下級魔法使いと中級魔法使いたちに依頼して、この辺り一帯のモンスター毒の解毒と浄化の作業を進める。やる事が一杯ある訳だ。

別の街路樹の方では、いっそう怒髪天な様相になったバロンさんが、高い幹にへばりついたチャンスさんとサミュエルさんに、「降りろ」と呼び掛けている。 左右に並ぶ隊士たちが、既に捕縛用の道具を揃えて手ぐすね引いている状態だ。

逮捕、身柄拘束、そして地下牢行きが既に確定しているのは確かだ。チャンスさんとサミュエルさんは、意味不明な「あわわ」という修飾語を何回も唱えて抵抗しているけど、 いずれ、強制的に引きずりおろされるのは確実だろう。

意外な一幕が――展開した。

アンネリエ嬢が感極まった様子で、クレドさんに駆け寄ろうとした所――

怒髪天なバロンさんが、信じがたい程の身のこなしで、アンネリエ嬢の腕をつかんで、背中側に逆さにひねって拘束した!

「無礼者! 一隊士の分際で! その穢れた手を離しなさい、バロン!」

緑地の上とは言え、地べたに直に座るように押し付けられているんだよね。犯罪者を拘束する時のやり方で。 アンネリエ嬢は、金髪の縦ロールな髪型を振り乱し、迫力のあるキンキン声で命令している。

でも、バロンさんの方は、何故か動じなかった。今までのやり取りを見る限りでは、宮廷内の地位関係からして、バロンさんの方は不利な感じ……の筈なんだけど。

ザッカーさんが、図ったようにピッタリのタイミングで、クレドさんに「あの高所恐怖症を降ろしておけ」と指示している。 その指示を受け取った形になったクレドさんが、こっちに向かって来た。

ジントは体力的に、わたしを抱え降ろすのは無理なので、むくれながらも素直に引き下がっている。

バロンさんに抑えつけられたままのアンネリエ嬢が、まだ何かギャンギャンと言っていたけど。 わたしは呆然自失が続いていたから、余り理解できていない。こういう、男の側のルールって、良く分からない。記憶喪失のせいもあると思うけど。

この前のように木登りして近付いてきたクレドさんが、やはり、この前のように腕を差し出して来た。そして――直前で、ためらうかのように動きが遅くなった。

一瞬かち合った、クレドさんの眼差しは――憂慮の色を湛えて揺れている。

――あ。

その一瞬、クレドさんの謎の動きの理由が、奇跡的なまでにピコーンと閃いた。

――わたしが、あんな事を言ってしまったせいだ。噴水を通じて、地下水路から這い出て来た、あの時。

極度の恐怖と疲労のせいで混乱していて、地下水路に居た謎の隊士の正体と、地上に居たクレドさんとが、一緒になってしまっていたから。

それに、わたし、クレドさんの手を力いっぱい、バリバリ引っかいてしまっていた。今、クレドさん、手は大丈夫なんだろうか。

――えっと。あの時はゴメンナサイ。今は、わたしは大丈夫なんだよ……って言うか、全然、大丈夫じゃ無いけど!

顔を動かした拍子に、視界の端に地面が出て来たから、ピシッと固まってしまった。冷や汗がドッと流れる。あの地上との距離、全然、大丈夫じゃ無いッ!

ジレンマに悶々としている内に、クレドさんの方は何かを承知したみたい。

クレドさんは素早く身を乗り出すと、圧倒的なまでの腕力で、わたしの身体を引き剥がしに掛かって来た。ひえぇ。

視界がグルリと回って、気が遠くなるや否や――

ズザッと、地上に足が付いた音が響いた。わたしの足音じゃ無くて、クレドさんの方の足音だ。一瞬だったから、飛び降りたんだと思う。 反射的に、ギュッと目をつぶっていたから、確かな事は言えないけど。

……あれ。え? クレドさん、まだ、わたしを抱っこしたまま……?

あれ、ボンヤリとした感覚しか無いけど……ハイヒールを脱がされているような。

思わず、ソロリと、目を開けてみると。

小物屋さんの初老な店主さんが傍に来ていて、わたしの両足からハイヒールを脱がしていた。えッ?

やがて、初老な店主さんが首を振り振り、『ハーッ』と溜息をついて来た。

傍に居たジントが、タイミング良く「ホレッ」と収納袋を差し出す。 初老な店主さんは、その収納袋に白いハイヒールを収めると、わたしに視線を合わせて来て、解説を続けてくれた。

「やっぱり足をくじいてますよ、お嬢さん。非常事態だったとは言え、ハイヒールは、木登りするための靴じゃありませんからね。 今は痺れているから平気なんでしょうけど、そのうち相応に腫れて痛みますから、冷水で冷やして置いて下さいよ。お大事に……後はよろしく、隊士さん」

――お手間おかけして済みません。お世話になりました。

初老の店主さんの最後の『よろしく』は、クレドさんへの物だ。クレドさんは承知した様子で、一礼していた。

かくして、初老な店主さんは、ラミアさんやチェルシーさん、メルちゃんにも丁重に目礼した後、小物屋の方へと急ぎ足で戻って行ったのだった。

――足をくじいたって事は、今は歩いたら、さすがにマズいのかも知れない。

余り感覚が無いし――何故だか、無意識の方で警告を感じる。ハイヒールを履いて練習していた時に、失敗して痛い思いをした経験から来ているのかも。 こういう直感は、無視しちゃいけないって、確信できる。

わたしは改めて、クレドさんをシッカリと見つめた。クレドさんが、ビックリしたように目を見開いている。

「あ、足の代わりを……よろしくお願いします。ご迷惑じゃ無ければ」

相変わらずのしゃがれ声で、途中で声が詰まっちゃったけど。

「――承知」

クレドさんは、最初の時のように、目礼を返して来たのだった。

近くでは、ラミアさんやチェルシーさんが、ホッとしたような顔になっていた。ご心配おかけしてたみたいで、済みません。

今、ハッとして両足を見てみると。

わお、両足とも、うっすらと青くなった部分が広がっている。ひえぇ。ハッキリと、くじいてたんだ。

*****(2)晴れた昼下がりの笑劇(後)

気が付いてみれば――

向こう側の街路樹では、チャンスさんとサミュエルさんが、既に地上に引きずり降ろされた状態だった。

2人のイヌ族は、拘束魔法陣がセットされている拘束シーツでもって、袋詰めにされている。頭を突き出して何やらギャアギャア喚いてるけど、 当分の間、地下牢に放り込まれて、念入りに事情聴取される事になるんだろうなあ。

訳知り顔なメルちゃんが、眉根を寄せながら早口で喋っていた。

「火のチャンスが、あの古い見張り塔のところで、クマ族のヤクザなオジサンたちと、何か大きな箱をやり取りしてたんだよね。アレ、何が入ってたのかと思ったんだけど、 毒ゴキとザリガニの卵だったんだわ」

ジントにも異論は無いという様子だ。ジントは「ケッ」という感嘆詞を付け加えた後に、補足を続けた。

「さすが、クマ族のヤクザ連中って言うか、とんだ報酬だよな。『金になるから取っとけ』とか何とか言って、『魔の卵』の運搬、やらしてたって事でさ。 ザリガニ牧場の方はエーテルが薄いエリアだし、この辺りみたいに余剰エーテルが流れてるポイントなら、『魔の卵』からイキの良いモンスターが出やすいからな」

*****

一刻もしないうちに、モンスター死骸の運び出しが、あらかた済んだ。

あちらこちらの浄化予定のポイントで、立ち入り禁止のバリケードが立っている。 その内側では、解毒と浄化の作業を担当する隊士たちと魔法使いたちが、忙しく立ち回っていた。

ちなみに、わたしたちが『エーテル燃料の集積場』に持って行く予定だった『火のチャンス(化けの皮)』の方は、 別の隊士さんが、作業のついでに、代わりに持って行ってくれる事になっている。

そして。

中庭広場の一角で、バロンさんが拘束し続けていたアンネリエ嬢は、ザッカーさんの手に渡った。 正しくは、ザッカーさんがアンネリエ嬢の背中をヒョイとつかんで、吊るしている格好だ。

アンネリエ嬢は顔を真っ赤にして、あらん限りの上品な悪口雑言を繰り返している所なのだけど、ザッカーさんは何故か、面白そうなニヤニヤ笑いを浮かべている。

オフェリア姫が困惑顔で手を揉みながら、クレドさんに片腕抱っこされ続けているわたしに、申し訳なさそうに声を掛けて来た。

「アンネリエの件では、本当にゴメンナサイね、ルーリー。アンネリエは、ウルフ王妃を輩出した一族の高位令嬢なの。 それに《宿命図》に、《盾の魔法陣》を持っている《盾持ち》でもあるの。 おまけに、小さい頃から身体が弱くて、ずっと国宝レベルの重要人物として大事にされ続けて来たから……まだ少し子供っぽい所があるの」

――ほえぇ!

アンネリエ嬢の《宿命図》の中には、《盾の魔法陣》の構造があるんだ。成る程、それで《盾持ち》なのか。 小さい頃から身体が弱かったって事は、小さい頃から《盾魔法》を使えたって事かな。

成る程ねぇ。《盾魔法》を使える人材は貴重で、でも、限界近くまで大容量エーテルを扱うから倒れやすくて、そういう事もあって、 王族に準じる扱いになるとか、強い護衛が付くとか……色々、納得だ。

アンネリエ嬢が再び、癇癪を起こし始めた。

「こんな卑しい混血顔に、頭を下げるんじゃ無いわよ、オフェリア。悪いのは全部、この卑しい悪女よ! 何処の闇ギルドからポンと出て来たのかも分からない、 下品なランジェリー・ダンスのチビ女! 国宝級の《盾持ち》たる、このあたくしを襲ったのだから、地下牢に放り込んで拷問して、死刑にしてやりなさいよ!」

そこで、バロンさんが、しかめ面に手を当てて、これ見よがしに大きな溜息をついて見せた。ザッカーさんは、いっそう愉快そうなニヤニヤ笑いをしている。

バロンさんは、そんなザッカーさんを、疲れ果てたと言わんばかりにジットリと眺めた後、不意にクレドさんの方に顔を向けた。おや?

「クレド。アンネリエが、此処まで二重人格の勘違い女だったとは、正直、想定外だった。剣技武闘会の日以来、ヴァイロスの名をもって、 貴様の婚約者としてアンネリエを推薦していたが。本日付で、それを取り消そうと思う。わが従妹の事では、余計な苦労を掛けたな」

クレドさんは無表情なまま、一礼していた。ほえ?

もっと激しい反応をしたのは、アンネリエ嬢だった。目がテンになった後、改めてキャンキャンと騒ぎ出したのだった。

「あんた不敬罪だわよ、バロン! その辺の一隊士が、ヴァイロスの名前を騙るなんてね! この数々の無礼、 地下牢で拷問つきのお仕置きレベルの罪よ! 覚えてらっしゃい!」

バロンさんは、一片たりとも恐れ入ったと言う態度を見せる事無く、アンネリエ嬢をジットリと眺めた。

「別に覚える必要は無いし、覚えたくも無いな、わが従妹どの。私が、ヴァイロス本人なのだから」

――はぁ?!

バロンさんは、やおら、うなじをまとめていた髪紐を取り外した。すると。

嘘のように《変装魔法》がスルリと解除された。

次の一瞬、そこに居たのは、あの豪華絢爛な金髪の美形なヴァイロス殿下だ。ビックリだ。ひえぇ。知ってる誰かに似てると思ってたけど、ヴァイロス殿下、本人だったんだ!

アンネリエ嬢は、これ以上ないと言うほど真っ青になって、口をアングリと開けていた。多分、何もかも無かった事にして失神したい気持ちなんだろう。

圧倒的なまでに豪華絢爛な美形のヴァイロス殿下は、面倒くさそうに喋り出した。

「今日のモンスター暴走が起きたのは、アンネリエが余計な癇癪を起こして、あの荷物の中の『魔の卵』に充分なエーテル量を注いだからだ。 まあ、タイミングが早過ぎただけに被害なしで済んだから、公的には偶発ミス、ゆえに不起訴処分という扱いとなるだろうが」

アンネリエ嬢を真っ直ぐ見据えているヴァイロス殿下の金色の眼差しに、一瞬、怒気が混ざる。

「身勝手な行動で、わが婚約者のオフェリアまで危険にさらした事実は変わらん。叔母上には、よくよく話をしておくから、観念して再教育を受けているんだな」

――くだんの『叔母上』という人物は、アンネリエ嬢にとっては、恐るべき人物らしい。

金色のウルフ耳に『叔母上』という言葉を入れた瞬間、アンネリエ嬢は、呆気なく失神していた。失神した振りをしているだけかも知れないけど。

如何にも残念だと言った風に締めくくった後、ヴァイロス殿下は、再び髪紐で、豪華絢爛な金髪をまとめた。すると、再び《変装魔法》が掛かって行き、 普通な金髪の、目立たないタイプのバロン青年が現れたのだった。

バロンさん、もといヴァイロス殿下は大きく息をつくと、不意に踵(きびす)を返して、直下の低い植込みに手を突っ込んだ。 余りにも素早く、そうと感じさせない動きだ。

――ほえ?!

ヴァイロス殿下が、植込みに突っ込んでいた手を、ゆっくりと引き上げる。

――驚愕と諦念がないまぜになった、灰褐色のウルフ耳とウルフ尾をした少年が、襟首をつかまれた恰好で、引きずり出されて来た。

「……ジントッ?」

わたしは思わず、しゃがれ声な驚き声を上げてしまったよ。

この先の方で設定されている臨時の捜査本部の方で、メルちゃんや、ラミアさんやチェルシーさん、小物屋さんの初老な店主さん他の人々と一緒に、 目撃証言の真っ最中だったんじゃ無かったのッ?!

バロンさんなヴァイロス殿下は、わたしの声をシッカリと、ウルフ耳に入れていた。片方のウルフ耳がスッと動き、また元の位置に戻る。 そして、アンネリエ嬢の時とは打って変わって、興味津々な眼差しで、ジントを眺め始めた。

「ほお。この忍者もどきの少年は、ジントと言うのか。口封じの危険を冒してまで、第一王子の最高機密を探り出そうとするとは、なかなか勇気があるな」

わお。さすが、『殿下』の実力! ザッカーさんとクレドさんが取り逃がしたジントを、一瞬で捕獲するとは!

ザッカーさんが楽しそうな笑みを浮かべた。オフェリア姫の方は、目をパチクリさせている。

「こりゃ、あの時の『チビのコソ泥』じゃねぇか。成る程な。そういう事だったのか。まさか、その患者服も盗んで来たんじゃねぇだろうな?」

ジントは盛大にむくれながらも、灰褐色の尻尾を生意気そうにピコピコ動かす。『狼体』の喋り方。

(てめーら、何でオレが居るのが分かったんだよ)

バロンさんなヴァイロス殿下が、しげしげとジントを眺めながら応答する。ジントの小生意気な態度は、全く気にしていないらしい。 意外に懐が深いタイプの王子様みたいだ。ビックリ。

「今はフェアな条件という訳では無いのだ、済まんな。その患者服は、元々、ベッドを抜け出した患者の発見を容易にするために、 微細ながら位置情報発信の機能が付いている代物だ。更に今、『迷子の輪』がハマっているだろう。位置情報発信の機能が増強されている状態なんだが、失念していたのか?」

返って来たのは――無言。

――ジントは、まさに『しまった』という顔をして、ガックリとうなだれていたのだった。何て分かりやすい。

2人の大魔法使いが『迷子の輪』をセッティングしただけあって、違和感が全く無いくらいにフィットしてるから、どうかすると存在を忘れていたりするんだよね。

*****

ジント的には――まさにベスト・タイミングと言うべきか。

もうじき、ジントは、12歳になる所なのだ。つまり男の子にとっての標準的な仕官コース、入隊試験を受ける年齢だ。 成長が比較的に早いタイプの子だと、11歳の内に受けるケースが多い。

という訳で――

ジントは早速、ザッカーさんに『これは是非、試してみないとなぁ?』と楽しそうに凄まれた。

そして、速攻で、入隊試験の会場へと連行されて行く事になった。 臨時で、即日で、第一王子の所属の親衛隊の隊長さん直々に入隊試験を担当すると言われてしまう程なのだから、ジント、よっぽど目を付けられていたんだね……

もっともジントの場合、ガチの本番で、 ザッカーさんの部隊の追跡を振り切って見事に逃げおおせて見せたという『とんでもない実績』があるから、合格は確実なんだろう。

逃走する隙なんか、ある筈もなく。ジントの身柄は、相変わらず襟首をつかまれた格好のまま、バロンさんなヴァイロス殿下の手から、ザッカーさんの手に移った。

事が済んだ後で、ジントをディーター先生の研究室に戻す事については、ザッカーさんが引き受けてくれた。逃げないように、コソ泥をしないように、行動監視付きで。

ジント本人は、『ぎゃふん』と『トホホ』の入り交ざった表情だけど。

――うん、頑張ってね。案外、ジントにとっては、新しい人生が開ける日になるかも知れないよ。

*****

ジントは、楽しそうな顔をしたザッカーさんに襟首をつかまれたまま、『茜離宮』衛兵部署に連行されて行った。

――ちなみに、失神中のアンネリエ嬢の方も、ザッカーさんの部下たちが呼び出されてやって来て、連行して行ったんだよね。 アルセーニア姫の遺品『炎のバラ』をどうやって入手したのか、改めて事情聴取しなければならないから。

アンネリエ嬢の、これまでの言及を検討する限りでは、『クレドさんに良く似た偽者』が関わって来た可能性がある。 非常に奇怪な証言内容となるだろうなという事が、何となく想像できてしまう。

その人物は。

この間、地下水路で目撃した――あのクレドさんに良く似た、謎の隊士と同一人物なんだろうか。

*****

その後、わたしは、何故に中庭広場に居たのか、聞かれてしまった。今はバロンさんなヴァイロス殿下と、お忍び中だったオフェリア姫に。

考えてみれば、実体は精巧な『化けの皮』とは言え、『火のチャンス』のバラバラ死体を運んでいたところだったもんね。 上手くターゲットを仕留めた後、証拠隠滅にいそしむ、殺人犯さながらに。

結果から言えば、わたしとジントとメルちゃんが、おやつの買い出しを兼ねて、魔法事故の後片付けを言い付けられていたという事で、納得されてしまった。

――実は、あの魔法事故さながらの大爆発、周辺に震動が轟き渡るような騒動になっていたそうだ。

大魔法使いなアシュリー師匠の魔法の《防壁》が掛かっていたから、異変に気付いて駆け付けて来た隊士たちが、現場に入れなかっただけで。

バロンさんなヴァイロス殿下が、第一王子の権限で、やっとディーター先生の『魔法の杖』に職務質問を掛けられたそうだ。それも、おやつの刻になってから。 つまり、わたしたちとは行き違いだった訳だ。

しかも、ディーター先生は、ヴァイロス殿下の職務質問に対して、飄々とした様子で「ちょうど良い所に来たな」と返信して来た。そして何と、 バロンさんなヴァイロス殿下とザッカーさんとクレドさんに、あの爆発現場の清掃を依頼したのだと言う。ひえぇ。

ディーター先生、ホントに『極め付きの変人』……

そう言う形で、機密保護を図ったとか……でも、考えてみれば、すごく上手なやり方って感じ。 ヴァイロス殿下とザッカーさんとクレドさんを襲って、秘密を聞き出そうとする不審者が、この地上に存在するとは思えない。

そして。

バロンさんなヴァイロス殿下の件。

ヴァイロス殿下は、必要に応じて《変装魔法》で身をやつして、出歩いているのだそうだ。ビックリだ。

この『バロン隊士』は実在する人物だし、本当にオフェリア姫の親衛隊に所属しているメンバーだったりする。『バロン隊士』本人は、 ヴァイロス殿下の指示を了解したうえで、別のところに居るそうだ。

当然、アンネリエ嬢は『バロン隊士』を知っているんだけど、それだけに――アンネリエ嬢の方にしたら、今回の件、いっそう混乱の種になりそうだなあ。 彼女が『ヴァイロス殿下がバロン隊士に化けてる件』を触れ回るのは確実だけど、衛兵部署の方で『無かった事』扱いになるのも確実だ。

それに、アンネリエ嬢の行動パターンを見る限りでは、アンネリエ嬢の発言が信用される可能性は、『限りなく低い』と確信しちゃうんだよね。

目下、身元不明で記憶喪失なわたしに関しても、その発言が公的な意味で信用される可能性となると、半分よりも少ない状態だと思う。知り合いも余り居ないし。

オフェリア姫は、『今回のバロン隊士』が、ヴァイロス殿下だと何となく気付いたそうなんだけど。

わたしも『何となく違和感を覚えていた』という件については、意外にガチで、クレドさんと、バロンさんなヴァイロス殿下に驚かれた。 魔法使いでも、そこまで観察力のある人物は珍しいという。そんなものなのか。

――改めて考えてみると。

もしかしたら、『闘獣』としての経験と、レオ帝都における『サフィール』としての経験のせいかも知れない。無意識レベルで身に付いた習慣とか、スキルの類。

自分の過去――前世の記憶が全く無いだけに、何だか、自分でモヤモヤすると言うのはあるけれど。

*****

夕方の『茜離宮』公的スケジュールが始まるまでの、一刻から二刻ほどの間。

恐れ多くも、ジントの着替えの調達を、クレドさんに手伝って頂いた。しかも、バロンさんなヴァイロス殿下とオフェリア姫にも、手伝って頂く事になった。

そして更に恐れ多くも、ナンチャッテ・モンスター暴走で粉々になって、しかも行方不明になった、元々のわたしの靴のお代を、オフェリア姫に弁償して頂いた。 そして、中庭広場の靴屋さんで、普通の、ハイヒールでは無い方の靴を、2足ばかり調達して頂いた。

あらかた、ショッピングの用件が済んだところで――

4人で、カフェ店の店先に並ぶベンチに、腰を下ろした。

噴水周りの石畳スペースにあったパラソル付きテーブルの方は、モンスターに踏み荒らされていて使えなくなっていたので、 カフェ店が予備のベンチを店先に出していたのだ。

中庭広場の商店街は、スッカリ落ち着きを取り戻している。

元・深窓の令嬢で、そのまま王女コースに入っていたと言うオフェリア姫は、こういう庶民的スペースには全く縁が無かったそうで、楽しそうな顔をしている。

バロンさんなヴァイロス殿下とオフェリア姫は、お互いにお忍びで外出するのは、今回が初めてだったそうだ。

普段は公的スケジュールで一杯だから、こういう機会は普通は存在しないのだとか。うん、何となく分かるような気がする。王族って、たいてい忙しそうだもんね。

今回はザッカーさんに『アンネリエ嬢の二重人格を、よーく目撃しておけ』とゴリ押しされて、こういう事になったんだそうだ。 この点では、ザッカーさんとアンネリエ嬢に感謝するところ(?)かも知れないね。

ひとしきり、雑談が済んだ後。

バロンさんなヴァイロス殿下が茶を一服し、ジント少年の件について、呆れた様子でコメントして来た。

「あの忍者もどきが、まだ着替えを調達していなくて患者服のままだったのは、まさに僥倖としか言えん。 ザッカーの部隊の追跡を単身で振り切ってのけるヤツは、上級隊士どころか親衛隊メンバーでも10人も居ないんだ。 『迷子の輪』がうろついているのに気配が無いから、まだ我々の知らない怪現象があるのかと、驚かされてしまったくらいだぞ」

くだんの『チビのコソ泥』が子供なのは確実だったから、衛兵部署の方では衝撃を受けていたんだそうだ。うーむ。

ひとしきり、ジントが、難関中の難関とされている忍者コースに行くのは確実だとか、 数日後、宮廷の公式行事として、魔法道具の業界で活動している商人たちとの社交パーティーがあるから、 王族としては再び忙しくなるとか、そういう将来の見込みや計画を話した後。

バロンさんなヴァイロス殿下とオフェリア姫は、夕方の公的スケジュールへの対応のため、早々に『茜離宮』へと引き上げて行ったのだった。

予想通り、バロンさんなヴァイロス殿下は、オフェリア姫を片腕抱っこして帰路についていた。

*****(3)追憶は夕べの風と共に(前)

「――あの、クレドさん」

バロンさんなヴァイロス殿下とオフェリア姫を見送っている間に、わたしの心は決まっていた。

わたしは改めて、わたしの《宝珠》な人を、まっすぐ見た。緊張で声が震えてるけど、落ち着かないと――

クレドさんは、微かに目を見開いた。割と驚愕してるって事だ。

ほとんど無表情――と言うか、どちらかというと鑑賞用っていう位に端正な彫像めいた人だから、最初はやっぱり、ピンと来ない方なんだけど。 ジッと見ていると、この人にも感情があると分かるんだよね。それも、とても人間らしい感情が。

「大事な話があるんです。他人が滅多に来ない場所って知ってますか?」

相変わらずのしゃがれ声が続いてるけど。

――『呪いの拘束バンド』に取り付かれていた時に比べると、締め付けが無くなった分、安定して声を出せるようになっている。 まだ喉の筋肉の変形が戻っていないから疲れやすいものの――長い話をしても大丈夫なくらいには。

クレドさんの表情は、ほとんど変わらなかった。彫像さながらの、端正なまでの無表情。 でも、その切れ長の黒い眼差しは、わたしをマジマジと観察しているところだ。『目下、訝しく思っている』って事なんだろう。

わたしの頭部を覆う三角巾。『手品師の変装、黒ウルフ耳キャップ付き三角巾』という商品名が付いた、この三角巾には、仮のウルフ耳が縫い付けられている。 もっとも、前のような丸ごと複製じゃ無くて、本物のウルフ耳に付ける方の耳キャップ形式だけど。

クレドさんの不思議そうな眼差しを受けて、今しがた『あ、そういう事か』と納得が行った。

何やら企んで、これを装着して来たの、ジントなんだよね。

パッと見た目には、相変わらず『炭酸スイカ』カラーリングな毛髪と、 真っ赤な『花房』付きヘッドドレスが張り付いて訳の分からない事になった『呪いの拘束バンド』を、上手に隠している状態に見えるんだと思う。

わざわざ『手品師の変装』なんていう口上が付く程だし、トリックさながらの《変装》の機能が付いているのだろう。 ラミアさんやチェルシーさんも、全く気付いてなかったみたいだし。

クレドさんは、わずかに眉根を寄せた。思案顔だ。しばし、沈黙が続いた後。

「――分かりました」

そう言ってクレドさんは、ベンチから立った。そして、わたしを再び、片腕抱っこして来たのだった。

*****

中庭広場を出て、『茜離宮』の外苑を成す丘陵スペースに出る。

方々に踏みならされた散策ルートが展開しており、それに沿って樹林や各種広場が散在している。改めて眺めると、広々とした空間だ。

緑の丘に、涼しい夕風が吹き始めていた。夕方ならではの明るいオレンジ色の陽光が、斜めに降り注いでいる。

話すべき内容を、アレコレ組み立てているうちに――いつしか、足の違和感が、ジワジワと増してきたような……

――ほえ? 何か痛い?

ギョッとして、素足を見下ろすと――

ひえぇ! 両足とも腫れてる! シッカリ、紫色に!

ガーンと、頭をトンカチで殴られたような気分になっていると、わたしを片腕抱っこしているクレドさんが、呆れたような溜息をついて来た。

「やっぱり、失念していたみたいですね。もうじき、外れの噴水広場に着きますから、そこで足を冷やして下さい」

……ま、また、ドジに近い事をやらかしてしまった……

幾つかの樹林を通り過ぎ――

程なくして到着したのは、わたしが最初の日に出て来た、ルーリエ種の噴水広場だった。ディーター先生の研究室から近いポジション。 お気遣い有難うございます、クレドさん……

早速、噴水プールの縁に腰を下ろして、素足を水につける。冷たくて気持ち良い。

――『外れの噴水広場』と言うだけあって、シンとしている空間だ。

更に斜めになって差し込んで来た夕方の陽光が、噴水全体を暖かみのある金色に染め上げている。

クレドさんが傍にしゃがんで来て、この噴水広場についてガイドをしてくれた。

「この噴水は、古い時代に作られた物です。当時はメイン・ルートの脇にあったそうですが、外苑の拡張工事に伴ってルートから外れたため、 今は人が立ち寄る機会は少なくなりました。規模を拡大したルーリエ種の噴水広場が別に新設されていて、そちらの方が鑑賞用としても業者用としても利用が多いですね」

――ウルフ耳で聞くと、クレドさんって、こういう声なんだ。

今は内緒話モードなせいか、随分と声量が抑えられているものの、低くて滑らかな声という部分は共通している。

クレドさんの説明は、続いた。

「ただ、此処は、古い時代の物と言う事もあって、山から引いて来た一番水が出ています。後の時代に造成された大型の噴水の方は、 古い時代の噴水を通過して来た水を再利用しているのが多く、業者たちの間では、二番水、三番水などと呼びならわす事で、区別しているそうです」

説明が一区切りついた後、沈黙が続く。

冷たい水で足が冷えて、上手い具合に痛みが引いて行ったので、あとは湿布という事にして両足を水から引き揚げた。

――此処は、やっぱり『百聞は一見に如かず』って事で、三角巾を取って見せた方が話が早い。

わたしは、スルリと三角巾を取って、再びクレドさんの方を振り向いた。耳キャップが外れた拍子に、本物のウルフ耳が、ピコッて動く。

「あの、実は、ですね……」

声を掛けながら、チラリと見上げると――

クレドさんの方は――絶句していた。

最初の日、わたしが実は女の子だとディーター先生に説明された時に見せた、あの驚愕の表情だ。 さすが、ジルベルト閣下の血縁。彫像めいた印象が、なおさらに血の通わぬ彫像そのものになっている。

――えーっと。大丈夫ですよね? 生きてる? ……と言うか、動けるよね?

「さっきのディーター先生の魔法事故というのが、わたしの『拘束バンド』が外れた時の爆発の事で……」

続きを言うか言わないかのうちに、いきなり『ドン』と衝撃が来て、目の前が暗くなった。ほぇ?!

低く押し殺された――それでもなお、荒々しいまでにかすれた声が続く。

「ルーリーは……! 何度、私の心臓を止めたら気が済むんだ?!」

え。驚きの余り、口調が飛んでる? でもって、わたし、今クレドさんに、ぎゅうぎゅう抱き締められているような気が……

って言うか、マジで、あばら折れる。息が止まる。窒息する!

目の前に、この世の物では無い星が見え始めた頃――ようやく、クレドさんの恐るべき腕の力がゆるんだ。思わず、ゼェゼェと新鮮な空気を補給していると。

「済みません。加減を失念していました」

クレドさんはポツリと釈明して来たけれど、その腕は、まだわたしにガッシリと絡みついたままだった。何だか、身柄拘束を思わせるやり方だ。 尻尾をピコピコさせて喋ってみる。

――あの、一応わたし、いきなり居なくなったりしませんよ?

「その表明だけは、信用しない事にしています。もう驚きませんから続きをどうぞ、我が《宝珠》」

――この体勢で喋るの?

そんな疑念を抱いていると、それが即座に伝わったみたい。

クレドさんは、いつものように、ヒョイと片腕抱っこをして来た。もう一方の腕は、相変わらずわたしを身柄拘束している感じだ。 『わたしを地上に置いておく』と言う選択肢は無かったみたい。

最初は目が回るような思いだったけど。それでも、ディーター先生の研究室で進行した『呪いの拘束バンド』を取り外すための手術の内容を説明し始めると――

口のチャックが飛んだかのように、余談の部分――バーディー師匠がジントに『血縁関係の秘密』という爆弾を落とした部分――まで、話が続いたのだった。

*****

「ジントは、ルーリーの実の弟だったんですね」

――余り驚いてないみたいだけど、知ってたんですか、クレドさん?

クレドさんは、意味深な溜息をついて来た。『何となく察する物はあった』という意味だ。 ジントのやらかしたアレコレについて様々に思うところがあったのか、少しの間、目が据わっていた。

「気配を出し入れする時のパターンが、他人の空似という以上に似ています。父親が同じなら納得です。 ジントが近くでコソコソしている時、《隠蔽魔法》がある状態でも、ルーリーは何となく『お見通し』だったのではありませんか?」

――わお。さすが斥候というところ? 気配の動向に敏感なんだ。

クレドさんは、暫し口を引き締めて沈黙した後、再び語り始めた。

「シャンゼリンとサフィールに関しても、同様に類推が成り立ちます。同じ母親を持つ姉妹ともなれば、その類のシンクロ感覚は、もっと強かったに違いない。 距離を越えた呪縛の関係があったのなら、なおさら」

――うげ。

いきなりの言及だから、幼児退行な尻尾が『ビョン!』と跳ねちゃったよ。

……これって、『元・サフィールです』って、尻尾で白状したのと変わらないよね。

恐る恐る、クレドさんの方を眺める。

クレドさんが、ゆっくりと端正な面差しを向けて来た。クレドさんの顔には、驚きは浮かんでいない……?

「シャンゼリンの死体は、今は《変装魔法》が全て剥がれ落ちています。顔面の系統の、整形と細工のための魔法も含めて。 今のシャンゼリンの容貌は、ルーリーと全く同じ系統です」

――知らないうちに、全身が震えて来る。

「ルーリーは混血ならではの顔立ちではありますが、今なら誰が見ても、シャンゼリンとルーリーは共通の母親を持つ姉妹だと気付くでしょう。 魔法部署の方で、まだ《宿命図》や《魔法署名》による検証が無いから、ヴァイロス殿下もザッカー殿も、何も言わないだけです」

そこまで事態が進んでるとは思わなかった。わたしと、シャンゼリンは――そんなにも、目鼻立ちが共通しているのか。

わたしの無言の疑念に、クレドさんはシッカリと頷いて来た。ひえぇ。

「ルーリーがサフィールと同一人物だと言う事は、《盟約》が成立した時に気付きました。 レオ帝都に居る筈の金狼種のサフィールが、何故に黒狼種で、ボロボロな状態で出て来たのかまでは分かりませんでしたが。年齢の逆転についても」

――え? えぇええ?

混乱しすぎて、頭がグルグルしてしまう。サフィールが金狼種って。え。

そう言えば、あの時、クレドさんは何と言ってたんだっけ。色々いっぱいだったから、すごく曖昧だけど。

――『何故、ルーリーなんですか』

って言ってたような……それから、『本当に正式名が、水のルーリエなのか』と確認して来ていたような……

グルグル考えていると、クレドさんが不意に右手を伸ばして――わたしのウルフ耳を撫でて来た。ほえ?

――既視感のある感覚だ。

思わず耳をピコピコしてしまう。バーディー師匠が撫でて来るのとは別だけど、こういう風に撫でられるのは何となく好みだ。 ウルフ耳が少しずつ『もっと撫でて』という風に、ペタッと寝始める。尻尾を、こっそりとフリフリ。

「記憶は……やはり無いんですね。あの時と反応が同じだから、無意識の方で何となく覚えがあるという風でしょうか」

クレドさんが興味深そうな顔をしていて、納得したように呟いている。

――あの時と反応が同じ? 何だか聞き覚えのあるフレーズだ。どういう事?

不意にクレドさんが、口元に綺麗な笑みを浮かべて来た。わ、ドッキリ。

「我が《宝珠》。私は6年前、レオ帝都で『水のサフィール』と逢いました。ノイローゼだった『かの御方』を訪問すると言う名目で」

――はあッ?!

*****

6年前――今現在からすると、正確には、むしろ7年前に近いという頃合い。

レオ帝都から派遣されて来た高位レオ族の特別大使が、ウルフ王国の宮廷に立ち、ウルフ国王夫妻の前で、珍しい注文を口にした。

――第一位《水の盾》たる『水のサフィール・レヴィア・イージス』が、重度のノイローゼのため、《盾使い》としての役割を満足に果たせなくなっている。 ついては、身辺警護と見舞いのため、同族ウルフ族を幾人か選び、レオ帝都に派遣されたし――

ウルフ王国の宮廷は、爆弾を投げ込まれた時のような大騒ぎになった。

誰を派遣するか。場合によっては後々の人脈にも関わって来る要素だから、重臣たちが揃って手を上げたのだけれど。

相手は、ノイローゼに陥った16歳の少女だと聞く。しかも、かなり警戒心が強い性質で、下手に撫でようとすると、すさまじく威嚇して来ると言う。

当時、第一王女になったばかりのアルセーニア姫が、同性で年齢が近いという事もあって、最有力候補だったのだけど。

宮廷を訪れて来ていたレオ族の特別大使が、早くもアルセーニア姫に目を付け、自身の正妻の1人を交渉人に立てて、『我がハーレム妻となれ』と、熱心な勧誘行為をして来た。

――そう、資質の良い未婚ウルフ女性は、ハーレム妻として、方々のレオ族から勧誘されかねない立場なのだ。 既婚ウルフ女性であっても、未亡人なら、やはり狙われる。この辺の積極性は、イヌ族とレオ族は余り変わらない。

お年頃のウルフ女性をレオ帝都に派遣するのは、リスクが高すぎる。 自然、サフィールの《宿命図》を調査したうえで、《宝珠》の相性の良い男性を派遣した方が良いのでは無いかという事になった。

この案は、レオ帝国側に、即座に却下された。

《宝珠》盟約が成立した場合、獣王国の伝統に従って、レオ帝国はサフィールを解放しなければならなくなるからだ。

更に驚くべきことに、『サフィールの《宿命図》を探ってはならない』『結婚適齢期の成人男性を寄越してはならない』という要求も付いて来た。

特に、《宿命図》関連については、鳥人出身の《風の盾》ユリシーズの直々のお達しだったから、 忍者の才能のある魔法使いをコッソリ混ぜると言う案は、あえなく、ボツになってしまった。

こういう、諜報や機密保持といった領域に関して、《風の盾》は、超能力にも等しい魔法的支配力を発揮する。 しかも鳥人は、レオ族と対等な外交関係を築いている種族であり、優れた大魔法使いを最も多く輩出している種族でもある。獣人全体に対して公平である事は、確実だ。

鳥人全体としての意思でもある内容を、ひっくり返すのは――不可能。

――当時は、サフィールの深刻な身辺事情などの理由が分からなかったから、ウルフ族の間では、不公平だという怒りが渦巻いていた。

侃々諤々のすえ。

剣技の師匠として『剣聖』称号を持つ、最高齢のウルフ族の剣客――通称『老師』が、身辺警護のリーダーとして選定された。

この『老師』、ちゃんとした本名はあるものの、剣の腕前があまりにも凄いので、『剣聖老師』や『老剣士』と言えば、ほぼ「あの人の事か」と、 全国的に通じてしまうという程の人物だ。

彼は、ウルフ王国の上級隊士を担当する現役教官を引退した後、魔境に近い田舎で、剣道場の主として悠々自適の生活をしていた。 でも、ウルフ国王おんみずからの要請でもって、このたび大舞台に引っ張り出されて来たと言う訳だ。

ちなみに、この『剣聖老師』の道場の門下生は、王族の子弟が多かったのは勿論の事、上級隊士の候補と見込まれた若手たちで占められていた。 わざわざ魔境の近くへ、王族の子弟まで送り込まれる程なのだから、この『老師』が如何に非凡な人物であったかは容易に察せられるだろう。

老剣士は、要請を受ける条件として、『つきしたがう従者の選定は、自分に選ばせてほしい』と要求した。 よりによって、レオ帝都の、それも後宮の都に――レオ皇帝の孫たるレオ王子のハーレムに――男として、乗り込むのだから。

その困難な要求を、ウルフ国王および重臣たちに呑み込ませた老剣士は。

何故か、昔懐かしの『クジ引き(!)』で、2人の少年従者を選定した。

考えてみれば分かる事だった。王族や重臣の子弟だの、上級隊士候補の若手だの、あとあと面倒になりそうな門下生たち。 下手にエコヒイキするよりは、公平にクジで決めた方がギクシャクしない。

門下生の中には――当時はまだ『殿下』称号は無かったけれど、王族子弟のヴァイロスもリオーダンも居た。 ザッカーもクレドも、上級隊士候補の若手として修業に来ていた。

当たりクジを引いたのは――クレドと、王族子弟のベルナール。ベルナールは後に、第三王子になる。

クレドはジルベルト閣下の甥ではあったけれど、両親を失っているので、公的な立場としては、ジルベルト閣下が身元保証をしている孤児に相当する。

ジルベルト閣下の一族に連なる者とは言え、継承順位の低い、影の薄い眷属の出身だ。 それゆえに、重臣の間でささやかれる内容は、あったものの――ジルベルト閣下が強引な手段で黙らせた。 逆に、ジルベルト閣下が何か策謀したのではという胡乱な噂さえ飛び出す程だった。

ベルナールは、出発間際になって急に体調を崩してしまったので、改めてクジ引きによって、代理が選ばれた。それがリオーダンだった。

*****(4)追憶は夕べの風と共に(後)

噴水広場に降り注ぐ夕陽の角度が、少し浅くなった。

中央の噴水口の装飾となっている透明な水瓶(みずがめ)の中では、相変わらず、ルーリエ種のミントグリーン色の藻が、夕方の金色を帯びた光と共に踊っている。

「ベルナールさんって、身体が弱かったんですか?」

その質問に、クレドさんは首を振って応えて来た。

「ベルナール殿下は当時から強い人でした。当時のヴァイロスは第一王子の座をほぼ確実にしていましたが、 ベルナールはそれに続いて、第二王子の候補で――ただ、あの頃はベルナール殿下も少年でしたから、単身で中型モンスターの襲撃に対応するのは難しかったでしょう」

老師の道場は魔境に近い場所にあるので、夜中に魔物がウロウロしている事は珍しく無かったのだそうだ。何て恐ろしい。

ベルナール殿下の体調悪化の原因は、中型モンスターの毒。寝込んだ割には、ほぼ後遺症ナシで済んだのは幸い。 左腕に少し不調が残ったので、新しい第二王子の座は難しくなったけれど、突出した強さと実績でもって、今は第三王子となっている。

――あれ。でも。確か、クレドさんって……

そっと見てみると――クレドさんは苦笑いしている。わ。こんな顔もするんだ。

「わたしは成長期が遅れていて、剣の腕前でも後れを取っていましたから、色々言われましたね。ザッカー殿には随分と庇われました」

へー。ザッカーさんって、昔から『頼れるアニキ』だったんですね。

*****

――老剣士と2人の少年従者、それに使節を兼ねた役人たちと隊士たち。

一行は老師の道場から直接に出発し、幾つかの転移基地と宿場町を経由して、レオ帝都にあるウルフ王国大使館に滞在した。 そして、レオ族の巨人のような戦闘隊士たちに囲まれて、後宮の都に入った。

サフィールは、ノイローゼにも関わらず。

レオ皇帝の顔に泥を塗る訳にはいかぬ――という圧力によってか、青い礼装をまとって会見の場に出て来た。

第一位《水の盾》サフィール・レヴィア・イージス。16歳と聞く割には、小柄。 その所作は、ノイローゼの影響か、既に成人を迎えた大人のようにも、幼い少女のようにも見えた。何ともチグハグな、奇妙な印象を受ける少女。

昼日中の陽光を弾く、見事な黄金の毛髪。光を反射するたびに妖しく紫がほのめく金色は、何故か、肩先の長さで切り揃えられている。

両脇の髪をお下げみたいに流して、青い『花巻』で装飾している。名前にちなむのであろう、青いサファイア類がビーズのように結わえられていた。 そこに、更にハイドランジア花を模した造花――水色の大振りな宝飾細工も付け加えてある。

肩先までしか長さの無い髪に対して、レオ皇帝ハーレム要員としての宝石の山のようなココシニク風ヘッドドレスと、胸元の下まで流れる豪華な『花巻』は、随分と重たく見えた。

黄金の髪に縁取られているのは、貴種を思わせる、整った容貌。だが、顔色は死人のように青く、頬はゲッソリとこけており、 生気の欠けた目の下には、濃いクマが出来ていた。明らかに、ノイローゼに伴う絶食や不眠障害の症状。

初日は、サフィールは一言も発せず、老師の声掛けにボンヤリと反応するだけに留まった。ただ、警戒心が強い性質と言うのは、かねてから知らされていた通り、真実だった。 警戒し始める距離がハッキリしていて、その内側に指先が入っただけで、全身の毛を逆立てて威嚇して来る有り様。

初日の会見が終わった後、老師が首を傾げた。

――サフィールは、肉体ひとつで、大型モンスターと幾度となく対峙した経験があったのだろうか、と。

サフィールが警戒モードに入る距離。大型モンスターに肉薄してなお、安全に毒牙を回避しうる、ギリギリの距離なのだ。 それも常に、前後左右に対して、正確に距離を取っている。しかも臨機応変だ。実戦で通用するレベル。

上級隊士に必須の察知能力ではあるけれど、実戦ナシで、この距離感覚をつかむのは非常に難しい。 老師の門下生のほとんどが――修行中という事もあるけれど――その距離を、なかなか読み切れず、身に付けられていないと言うのに。

1カ月近い会見を経ても、サフィールの警戒モードは、なかなか解けなかったが。

ふとした折に、老師がウルフ王国の夏の離宮『茜離宮』の外苑や城下町のマップを開くと、サフィールは好奇心を刺激されたのか、 尻尾をピコピコさせながら――近寄って来た。辺境の生まれで、まだ1回も『茜離宮』を訪れた事が無いという、尻尾での告白と共に。

それがきっかけで、徐々にサフィールとの距離が縮まった。『耳撫で』しても大丈夫な程度まで。

*****

サフィールとの会見日数が1カ月を超えると、それなりに色々ある。

会見時間が伸びて、昼食や茶会を挟むようになって来たけれど――それと共に、毒が盛られるようになった。レオ帝都の暗闘には付き物だ。 数日、風邪を引いたように体調悪化するタイプから、お腹を下すタイプまで。

要は、老師と2人の少年従者に、恥をかかせようとする試みだ。次のレオ帝宮の社交パーティーで、噂の種にして、笑いものに出来るから。

サフィールは、毒物をすべて察知してのけた。

1回、冗談どころでは無い即死性の毒物が食事に混ざってきたけれど、サフィールは、それも気付いた。 犯人は孫世代のレオ皇位継承者の1人。給仕に変装して、その場で毒を仕込んでいたのを老師に見抜かれて、身柄拘束された。

この件は、ちょっとしたお家騒動に発展し、そのレオ皇帝継承者の一族が取り潰しになった。 元々、禁制品の密輸など穏やかならぬ商売を手掛けていた上に、現在のレオ王子に繰り返し暗闘を仕掛けていた、問題のある一族だったと言う。

その後、その残党を、最も天才的な手腕を持っていた1人『風のサーベル』という貴種のレオ族が、上手に取りまとめた。 今はレオ王の派閥のリーダーとして、巨大な特権を享受している人物だと言うが……それは、今は置いておく。

――転機は、それから少し後のこと。

その日は会見時間になっても、サフィールが現れなかった。

一応、身辺警護を担当していた老師と共に、リオーダンとクレドも、ハーレム館や庭園を探し回る羽目になった。 侍女を務めているレオ族少女たちに聞いても、サフィールの行方は分からない。館のゲートは出ていないと言うから、館内に居るのは確実だけど。

そして――クレドが、何故か、庭園の隅の木の上に登っているサフィールを発見したのだった。

サフィールが、パニックになって木登りしたのは明らかだった。グシャグシャになった『花巻』を金髪にくっ付けたまま、木の上でガタガタと震えている。

だが、この辺に、それ程に『恐ろしい物』が存在しただろうか。大型モンスターはおろか、中型モンスターの姿さえ無い。 それに『イージス称号』持ちレベルの強い魔法使いが、大型モンスターごとき恐れる筈が無いのだ。

『……サフィール殿、何で木に登ってるんですか?』

木の下から、クレドが呼び掛けてみると。

サフィールは涙目になって何処かを指差し、金色の尻尾をバシバシと木の枝に打ち付けて応えて来た。

クレドが首を傾げながらも、その方角を眺めると。

近くの回廊の柱の1本に、見慣れた小型モンスターが居る。

――毒ゴキブリ。

モンスターの割には身体が巨大化せず、非常に異例な場合を除けば、最大の大きさでも大皿と同じくらいのサイズに留まる。 無論、大皿と同じくらいのサイズになったら、それはそれで、ちょっとした脅威ではあるけれど。

あらゆる防虫剤が利かず、しかも何故か、いつの間にか《魔物シールド》を突破して物陰でカサコソ動き回っている――あの馴染み深い害虫。

老師の道場でも、しょっちゅう模擬剣に食らいついて、毒でボロボロにしている。 一方で、放置されて腐って行く大型モンスターや中型モンスターの死骸を瞬く間に処理してくれる益虫だ。どちらとも言えない、微妙で身近な存在ではある。

――まさか、あれが、パニックの原因なのか……?

標準的な大きさだ。手の平と同じくらいのサイズだから、女子供でもサクッと始末できる。大群で沸いて来ても、 町内の民間業者レベルで駆除できる下級モンスターだ。サフィールが怖がるとは思えないのだが。

クレドは大量の疑問符を頭の上に浮かべながらも、『魔法の杖』から《殺虫光線》をパチッとやって、『毒ゴキブリ』を焼却した。 『毒ゴキブリ』を完全に退治する場合は、《殺虫光線》の魔法を使う。10歳の子供でも扱える、最も小さな《雷攻撃(エクレール)》魔法だ。

回廊の柱にへばりついていた『毒ゴキブリ』が、完全に炭化して粉々になった。

すると、サフィールは、ホッと息をついた。そんなに脅威だったのかと、眺めていると。

『あ、そこの木の枝にも2匹――』

サフィールがしがみついていた木の、別の枝にも、『毒ゴキブリ』が出ていたのだった。

ちなみに、この害虫、1匹いれば、周辺にも10匹は出ているだろうと言う、厄介者だ。つまり、完全に駆除しきる事は難しい。 害虫対応の《透視&探知魔法》があれば別なのだが、これは特別な魔法道具が必要だから、清潔を旨とする医療機関や、無菌状態が必要な特別保管庫などでしか装備されていない。

新たに近くに出た『毒ゴキブリ』(しかも2匹)に対する、サフィールの反応は、劇的だった。

文字通り『ビョン!』と飛び出して、ひとッ跳びで、クレドに飛び掛かって来たのだ。

重力加速度も加わっての不意打ちを食らったクレドは――まだ小柄な体格に留まる少年と言う事もあって――ひとたまりも無かった。

クレドは勢いのままに、後方に『吹っ飛ばされた』。低木の植え込みに突っ込みがてら、地面に頭と背中を打ち付けた。 受け身を取り切れなかったクレドは、一瞬、気が遠くなる。

硬い石畳じゃ無くて、柔らかな緑の芝草の上だった事が幸いした。しかも、植え込みが衝撃を或る程度、緩和してくれた。 バキバキに折れた低木の枝葉が衣服の間に入り込んで来て気分は最悪だったけれども、とりあえず無事。

頭と背中を打ち付けた衝撃で、クレドが朦朧としていると――別の足音が聞こえて来た。

――侍女を務めるレオ族の少女が1人。侍女頭と思しきレオ族の年配の女性が1人。

片や、茂みの中で仰向けに横たわったクレドの上に、サフィールが飛び乗っている状態。傍から見ると、微妙な誤解を受けかねない状況ではあったのだが。

植え込みが上手い具合に死角を作っていたせいで、レオ族の侍女と侍女頭は、クレドとサフィールの存在に気付かなかったのだった。

『さっき、毒ゴキブリが《魔物シールド》に穴を開けたんですよ。塞いだんですけど、30匹は入ってるんじゃ無いかと』
『確かに、チラホラ居るわね。さっき専用の魔法道具を入れるよう注文したから、手の空いてる子で良いから、駆除メンバーを集めてちょうだい。 サフィールが戻る前に、この辺りに毒ゴキブリのエサを配置して数を集めておいた方が、早く済むわ』
『サフィールが通った後で良かったです。この辺の木の上には居ませんし、殺虫剤の煙を焚いて、一気にやれます』

侍女を務めるレオ族少女は、ひとしきり木の上をチェックした後、侍女頭に連れられて、その場を離れて行った。 じきに、大勢のレオ族少女たちを連れて戻って来るだろう。にわか『毒ゴキブリ』駆除チームだ。

――たかが『毒ゴキブリ』30匹だけで、大騒ぎか……?

徐々に意識がハッキリして来たクレドは、そんな事を思ったのだった。

サフィールは、『30匹の毒ゴキブリが居る』と聞いたせいなのか、クレドにしがみついたまま、腰が抜けたかのように動かない。 すぐに、人が集まって来るだろうに――人が集まって来たら、説明に苦しむ事態になるだろうに。

『まさか、本当に腰が抜けてるんですか?』

最悪の答えが返って来た。しかも、尻尾で。次に『毒ゴキブリ』の姿を見かけたら、大声を上げるかも知れない、と。

――それは、相当に、マズイ。

何が何だかではあるけど、最高にマズイような気がする。

そう直感したクレドは、やっとの事で身を起こし、必死の形相をしたサフィールの身体をズルズル引きずりながらも、目に付かないであろう別の場所に移動したのだった。

――何だか、良い香りがする。

クレドは思わず、そのときめくような気配の源に目をやった。

すっかり乱れてしまった『花巻』の奥――サフィールの首の左脇に――ひと筋の鮮やかな茜色が見える。

――《宝珠》。

いきなり閃いた直感に愕然としながらも、改めて眺める。他の『茜メッシュ』とは、明らかに違う色合いだ。深い驚愕と衝撃と――疑問。クレドの頭は、別の意味で混乱し始めた。

やがて、到着したのは――ルーリエ種が入っている水場だ。

ししおどしの仕掛けがある。水瓶(みずがめ)の形をした水時計や、魔法の砂時計の代わりに違いない。魔法道具の洗浄では、或る程度、時間を正確にカウントする必要があるから。

ルーリエ種が入っている水場というのは、魔法道具の洗浄という特段の用事が出来ない限りは、他人はやって来ない。そして魔法道具の洗浄は、通常の場合は、10日に1度くらい。

『水場に出ましたが、此処で良いですか?』
(――水場?)
『えぇと、水中花は、ルーリエです』

サフィールの反応は奇妙だった。

さっきまでクレドの肩に埋めていた顔を起こした後も、かなり長い間、金狼種にしては濃い色の目を、パチパチしている。 そうやって目を大きく見開いていると、むしろ可愛いと言う印象になって、年下の少女にも見える。身長は、ほぼ似通っているのだが。

いわく言いがたい驚きのような物が、サフィールの痩せぎすの全身を覆ったかのようだった。

サフィールは次に、口をパクパクさせながら、水中花とクレドを交互に眺めた。そして――急に身を返して、ハーレム館の中へと駆け込んでしまった。

――その日の会見は急に取りやめになった。あの直後、サフィールが発熱したためだ。

サフィールが寝込んだ原因は分からない。

当時のクレドとしては、ノイローゼが続いて弱っていたタイミングで、毒ゴキブリ関連のパニックを起こしたのが原因だろうと納得するしか無かったのだった。

*****

いつしか――夕陽が地平線に接近していた。ヒンヤリした夕風が、再び吹き渡る。

クレドさんの思い出話は、そこで一旦、途切れた。

――ひえぇ。わたし、しょっぱなからクレドさんに、ご迷惑お掛けしてたみたいだ。覚えてないけど。

多分――それが、アシュリー師匠やバーディー師匠の《暗示》が破れた要因だったんだろう。忘却していた本名『水のルーリエ』を、不意に思い出した理由。 それが後で、7日間の行方不明につながってしまったとか、何とか……

「え、えっと……その節は、大変、ご迷惑お掛けしました……?」

申し訳ない気持ちで、ソロリとクレドさんを眺めると――

クレドさんは顔を伏せて、肩を小刻みに震わせて、忍び笑いをしていた。

笑い声は、ウルフ耳でも分からないくらいに押し殺されていたけど。片腕抱っこされてる状態だから、笑ってるって事が、シッカリ伝わって来る。

「6年前に、同じ言葉を頂きましたよ。体調が回復して、再び会見した時に。その後は、ルーリーは何か吹っ切れた事があったみたいで、 表情が増えて来ていました。残念ながら、ノイローゼの改善が見られたタイミングで、訪問打ち切りの話も決まりましたが」

――そ、そうだよね。レオ帝国、その辺は容赦ないみたい。

わたしを片腕抱っこしたまま、クレドさんは踵(きびす)を返して、ディーター先生の研究室へと歩を進めて行った。

気付けば、夕陽が地平線に接触している。もう夕食の刻に近い。

クレドさんは静かな声で、再び語り出した。

「高い適合率を示す《宝珠》は、ほぼ1人しか出て来ない事が知られています。存在しない事も珍しくありません。 その1人を除けば、平均レベル……好意に応じて半分より少し上の所で適合するか、 それ以下となります。《花の影》が左指に現れた時点で、ルーリーが何処の誰なのかは分かりました」

記憶喪失なわたしは――ポカンとしている事しか出来ない。

左指を取り巻く茜ラインに含まれている薄い水色の花蕾のようなパターンを、《花の影》と言うらしい。 チェルシーさんは《火霊相》生まれだから、《花の影》の色が真紅になったんだろう。

――『この世で0人か、居ても1人だけ』って、レア過ぎる。

そりゃ、ジルベルト閣下が仰天して、『本物の《花の影》』とか何とか、あんな奇妙な事を言う筈だよ。 レオ族ランディール卿の地妻クラウディアも、『簡単には《宝珠》は見つからない』ってバッサリ斬ってたし。

色々グルグルしている間にも――クレドさんの静かな言葉が続く。

「それに、今回の髪紐に付いていたメッセージカードに、ルーリエ花が挟まれていました。 6年前と同じように。《魔法署名》そのものが不可能だった――という事情が分かってみれば、説明が付きます」

え。――あれ。ええぇぇえ!

――わたし、正式名と身元を証明する《魔法署名》の代わりに、自分の名前と同じ名前の――ルーリエ花を挟んでたって事?!

「答えは、とても単純で――目の前にあったのに、随分と遠回りしてしまいましたね。毛髪の色の食い違いも、年齢の逆転の件も、そうです。 毛髪の色を変える《変装魔法》用の魔法道具が存在する事や、闘獣が異常なスピードで成長させられるという事は、衛兵部署では必須の知識になっていますが……失念していました」

その後、クレドさんは暫しの間、沈黙を続けていたけれど。

不意に目を強くきらめかせて、わたしを振り向いて来た。ドキッ。

「6年前、私の分の護符の刺繍のみに小細工が掛かっていたと言う事は、その頃からルーリーは、私に『特別な意味』で関心があったと、うぬぼれて良いみたいですね」

そう言って、クレドさんは、わたしの『茜メッシュ』の位置に口付けして来たのだった。ドッキリ。

*****(5)星に願いを、裏の高難度クエスト

ザッカーさんにしごかれたジントが、ヨレヨレになって戻って来ていた。

ちなみにメルちゃんは、総合エントランスに迎えに来たダンディなパパさんとポーラさんと一緒に、城下町の家の方に帰宅済み。

ヴァイロス殿下とクレドさんが保証した通り――

ジントは、過去の優秀者に並ぶスコアでもって入隊試験に合格して、しかも忍者コースに引き入れられていた。 本格的に、色々な護身術や、『正字』を含む魔法の知識を習う事になるそうだ。忙しいね。

それから――衛兵部署の方でも専門の理容師が勤めていたそうで、ジントの浮浪児な髪型は、すっかり整理されていた。 ディーター先生にからかわれて、ジント本人はプリプリしていたけど、ケビン君やユーゴ君と同じような、城下町の今どきの男の子って感じになったと思う。

夕食後、ジントの着替えを詰めていた荷物を解いている時に、分かった事だけど。

クレドさんは、ジントが戻って来ていた事に気付いていたらしいのだ。ジントの目がある事を承知で、わたしに口付けしてたって事。

「あいつぅ。ぜってー、性格、悪ぃぜ! 姉貴がスッポ抜けてる所を分かってて、やってんじゃねーか」

……ジントは一応『弟』だから、その辺は無関係な気が。

「男と男の話し合いには、色々あるんだよ」

――そ、そう? わたしは記憶喪失だし、ウルフ族の基本知識とかも、ジントの言う通り、色々抜けてるんだよね。

何故ジントがプリプリしているのかは、良く分からないけど……

多分だけど、その件、聞いても教えてくれない内容だよね、ジント?

*****

――ザッカーさんに体力の限界までしごかれていたのが、やっぱり効いたらしい。

ジントは、夕食を腹に収めて入浴した後、わたしが寝る予定の隣のベッドで、すぐに熟睡に入ってしまった。 明日も、ガッツリしごかれる予定だそうだから、実に正しい選択だ。

さすがに血がつながってる弟と言うべきなのか、この熟睡パターン、何となく、わたしがやってるのと似てる感じがする。

ディーター先生の研究室からお借りした魔法の教科書に目を通しながらも。

しばしの間、不思議な気持ちになって、弟の寝顔をしげしげと観察していると――

――病室のドアが、音を立てずにスッと開いた。アレ?

バーディー師匠?

銀鼠色のポンチョに身を包んだ、小柄でスラリとした鳥人の大魔法使いが、銀白色の冠羽をヒョコンと揺らしながら、静かに入って来た。 いつものように、穏やかな笑みを湛えている。

「フォフォフォ、ジント君は、スッカリ熟睡じゃな。……うむ、良い機会じゃ。落ち着いて、サフィと……いや、ルーリーと話し合いたいと思っていたからな」

――あ、そう言えば、この数日、色々トラブルが連続していたし、アレコレと忙しすぎて、必要事項のやり取りしか出来ていなかったような……

「この病棟の中は、私は余り知らんのじゃよ。ゆっくり話が出来る場所を知っているかね?」
「えっと、それなら……あ、中央病棟の屋上階に、空中庭園がありましたから……」
「では、そこにしようかのぅ」

そんな訳で。

わたしとバーディー師匠は、いつだったか、クレドさんが教えてくれた場所を目指したのだった。 あそこ、確か晴れた夜は『連嶺』が見えるんだよね。絶好の観光ポイントって感じで。

……だけどね!

失念してたけど、わたし、高所トラウマだった……!

総合エントランスと同じように、他種族の多くの人たちが、たむろしている公共スペース。 その真ん中に『ババーン』とばかりに現れた、5階層をぶち抜いている螺旋階段。

その螺旋階段の高さを見るなり、頭からザーッと血が引く音を感じてしまった。

――あ……あの螺旋階段、あんなに高かったっけ? 記憶より高いような気がするんだけど。

「おぉ、ルーリーは高所トラウマだったか。記憶喪失のうえに、何とも妙な性質が身に付いたものだな」

バーディー師匠は、鳥人ならではの細長い手を差し出して来てくれた。細長い手なんだけど、暖かくて感触が良い。 バーディー師匠は、わたしの手を引いて、スペースの端までスムーズに寄って行く。

――記憶は無い。でも、身体的には既視感がある。 わたし、『闘獣』としてバーディー師匠やアシュリー師匠に拾われた頃、こうして、手を引かれて歩いていたのかも知れない。

バーディー師匠は穏やかに苦笑しながらも、わたしに話しかけて来た。

「あの螺旋階段は、ウルフ族の隊士たちの緊急ルートのような気がするが。高所トラウマで無くても、ルーリーの歩幅では苦労するだろうし、 ルーリーが1人で螺旋階段を登れた筈が無い。と言う事は、あのクレド隊士が、ルーリーを抱えて登って行ったのじゃな?」

――わお。ドッキリ。まさに正解。ビックリしちゃう。

わたしの百面相に何を読み取ったのか、バーディー師匠は『魔法の杖』を構えつつ、イタズラっぽい笑みを返して来た。そして。

「転移魔法陣で行ってみるかのう」

異議なし――と、わたしが頷くなり、足元にサーッと《転移魔法陣》が展開した。ついで、瞬く間に《風》エーテル光が閃いた。

わお。さすが大魔法使いなバーディー師匠。魔法の展開スピードが早い。

次の瞬間、バーディー師匠とわたしは、屋上階の空中庭園に居た。

――記憶にある通りの、静かな空間。低い植え込みが広がっていて、その間で夜間照明がボウッと灯っている。

そして。雲は若干、出ているものの――心当たりのある方向には。

――見えた。遥かなる『連嶺』だ。地平線の彼方、何処までも続く、無数の星々で出来た天の渚。

バーディー師匠が目を細めて微笑んだ。

「ほほぅ。此処は、良い場所じゃな。……こういう所をルーリーが気に入ったのは、意外じゃが」
「そう……なんですか?」

記憶喪失になる前の『サフィール』を、バーディー師匠は知っているんだよね。 元・サフィールなわたしも、こういう場所、気に入っていたと思うんだけど……実感が無いからなぁ。

バーディー師匠は、わたしのピコピコ尻尾の呟き、ナニゲに、シッカリとチェックしてたみたい。穏やかに微笑みながらも、「いや」と返して来た。

「意外な事にな。サフィは、こういう開けた場所は、好きでは無かった。……と言うよりも、瞬時に警戒モードに入った。恐らく『闘獣』としての記憶のせいだな。 隠れる場所の無い広大な平原や丘陵地帯は、今でも、大型モンスター狩りや超大型モンスター狩りの場として、良く選ばれている。 大型の攻撃魔法を、限界まで発動できる場でもあるからな」

――あれ。

やっぱり、バーディー師匠の声、若返ってるような気がする。気のせい……じゃ無いよね?

*****

しばし、ヒンヤリとした夜風が流れた。季節が進んだせいか、頬を撫でる風は、とても涼しい。もう少ししたら、一気に冷え込むんじゃ無いかなという感じ。

バーディー師匠の長い白い髪が、夜風に吹かれて、ユラユラと揺れている。白髪なんだけど、白髪っぽく無い気もする。

やがて、バーディー師匠が『魔法の杖』を突き直して、クルリと振り返って来た。長い白ヒゲの中で、面白そうな笑みが浮かんでいる。

「拘束バンドも外れたし、近いうち、退院という事になるだろう。これからどうするかは、考えてあるのか?」

――まぁ、一応それなりに。少し戸惑いながらも、コックリと頷いて見せる。

「少しずつ町に出て行って――あの、今はジントも居るし、ジントと、町で暮らす事になるかなと。『正字』スキルは良いところまで行ってるみたいだから、 魔法文書のフレーム作成とか、魔除けの魔法陣とか製作して、生計が立てられるんじゃ無いかと……」

バーディー師匠は白ヒゲを撫でながら、耳を傾けて来ている。

「成る程……だいたい普通に、ウルフ王国に居たいと言う事だな。だが……」

しばし、バーディー師匠の苦笑が続く。

「ルーリーの『正字』スキルは、将来の上級の魔法職人(アルチザン)ないし魔法使いとして有望な人材というレベルまで行っているのだ。 実際、ウルフ王国の魔法部署が目を付け始めている」

――そ、そうだったっけ? あ。確か、この間の『魔除けの魔法陣』、魔法部署の人が、研究のためだとか言って、買い取ったとか何とか……

「それにな。ジントとメルに《隠蔽魔法》を頼んでいたのは、ルーリーが《水の盾》を発動している様子を、部外者に見られないようにするためだった。 《盾魔法》が使えると判明した時点で、レオ帝国に献上されるか、ウルフ王国の魔法部署に身柄を確保されるか、 或いは――闇ギルドに狙われるか、でな。普通に暮らしていくのは難しそうだな」

そう言う訳だったのか。そして、そう言うモノなのか。困った。周りを困らせるつもりじゃ無かったんだけど。

――でも、今更、『サフィール』に戻れるのか、戻りたいかと言うと……それは、無い。 未婚妻と言っても、ハーレム妻って……実感さえ無い状態だし。それに、わたし、クレドさんが――

不意に、バーディー師匠が訳知り顔で突っ込んで来た。楽しそうに。

「――ルーリーは、クレド隊士が好きなのだな」

うわ。ドッキリ。直撃ストレート。多分、わたしの顔、赤くなってる。

バーディー師匠は、いっそう笑みを深めて、鳥人ならではの細長い手で、わたしの頭を撫でて来た。

――バーディー師匠、撫でるの上手だ。尻尾フリフリしちゃう。

やがて、何だか若返ってる感じのバーディー師匠の、静かな声が流れて来た。

「我が愛し子よ。全面的な記憶喪失と知って、ビックリしたが。ディーター君が言うように、確かに僥倖だったようだ。 今のルーリーは、記憶喪失や高所トラウマのせいで色々と不便をしてはいるようだが、サフィだった時よりも、遥かに自然で豊かな表情をしている」

バーディー師匠は、ゆっくりと手を止めて、わたしの顔をのぞき込んで来た。バーディー師匠の目元に見えるのは、嬉しそうな笑みだ。ちょっと不思議。

「サフィは、自分の立ち位置を良く分かっていたのか、或いは、早くも人生に絶望していたのか……このような将来の夢や希望は、まして恋心は、一度も口にして来なかった。 それだけに驚きはしたが……」

――そうだったのかな。

「うむ。新たに、大いに心配になるところは出て来たがな、ルーリー。正直、私は、ホッとしたよ」

確かに……幼児退行した分、おバカになっている部分は、一杯あると思う。それに、元・サフィールって、ホントに色々やってたみたいだし。 身体スキルの数々、自分でビックリしてるところだし。

バーディー師匠は、少し目をパチクリさせた後、「フフフ」と笑い出した。「フォフォフォ」じゃ無くて「フフフ」。 やっぱり、魔法で若返ってますよね? 鳥人の魔法って、ホントに不思議なのがあるなぁ。

「そうだな、ルーリーが察した通り、『《水の盾》サフィール』の行動範囲は広かった、という事だけ、言っておこう。 いきなりサフィが消えた事で、ストップしたり後退したりしている部分が多いくらいでな。だが、今のルーリーが心配する事では無い。 今のルーリーにとっての最優先は、このウルフ王国に、歩む道を見つける事なのだろう――唯一の《宝珠》と見初めたクレド隊士と共に」

――それはそれで、もうひとつの高難度クエストではある。

そう言って、バーディー師匠は、ウインクして来たのだった。そして、バーディー師匠は思案顔をしながら、おもむろに、遥かな『連嶺』に目をやった。

――記憶を奪い、また与えるのは海――
――命を救い、そして滅ぼすのは愛――

バーディー師匠の白ヒゲの中から、不思議な詠唱が流れて来ている。短い詠唱みたいで、すぐに終わった。

「その、詠唱は……? 呪文?」
「呪文に近いかも知れんな、我が愛し子よ。サフィとルーリーの間に起きた、この稀なる事象を考えると、この古い謎めいた言い回しが『成る程』と思えて来る」

バーディー師匠は、そこで、深々と息をついた。

「まさしく海なのだ。《運命》と言うのはな。時に、津波のように押し寄せて来て、岸辺にあった全てを奪い去る。 そのようにして、一瞬のうちにして歴史を……記憶を奪うが、その岸辺に新たな《宿命》の軌道をもたらすのも海なのだ。 愛と言うのもな。命とは、愛とは何か――と言うのは、問いを立てるのも難しいが」

静かな声が――途切れる。

いっそう夜の雲が濃くなり、空は闇の色を増して行く。季節の変わり目ならではの、ヒンヤリと湿った夜風が吹き渡った。

地平線に横たわる星々の『連嶺』――『星を宿す海』は、次第に湿度を増す空気の中で、ボンヤリとした波しぶきのような姿を帯び始めている。 まさに『幻の最果ての渚』と言うべき眺めだ。

――星の大海、星宿海。永劫の時を寄せては返す、星宿海の渚よ――

少しの間、謎めいた沈黙が続いたけれど――やがて、クルリと振り返って来たバーディー師匠の面差しには、いつものように、穏やかな笑みが浮かんでいた。

「そろそろ、子供は寝る時間じゃな。空気も冷えて来た。戻ろうかの」

バーディー師匠は『魔法の杖』を一振りし、やはり大魔法使いならではの見事な手並みで、《転移魔法》を発動した。

今度の《転移魔法》は、バーディー師匠がルートを記憶したと言う事もあるに違いない。 ひとッ飛びで、わたしたちは、ディーター先生の研究室の扉の前に転移していたのだった。スゴイ。

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深森の帝國