深森の帝國§総目次 §物語ノ傍流 〉瑠璃花敷波11

―瑠璃花敷波―11

part.11「深く沈める謎の通い路*1」

(1)けぶり降りしきる雨が下
(2)違和感に満ちた光景
(3)ランチトーク:噂話を小耳に挟む
(4)予期せぬ遭遇そして尾行
(5)怪しき行き先を突き止めて
(6)大暴走と大脱出

*****(1)けぶり降りしきる雨が下

――クレドさんに、髪紐、作って贈ろうかな。

と、何となく思いついたは良いけれど。

髪紐の作り方、誰に『それとなく』相談すれば良いだろうか?

翌日になっても、わたしは病室で1人、頭をひねったのだった。記憶喪失って、こんな時、すごく不便だよね。

――朝から雨が降っている。ボンヤリとけむるような、仄かな雨が降りしきる、そんな1日だ。夏から秋へと移り変わる、季節の変わり目。天候は不安定。

そう言えば。図書館とか、図書室とかって――『炭酸スイカ』風呂と同じように、病棟にもあったっけ?

結論から言えば、ちゃんとあった。併設されてた。何かウキウキする。

ディーター先生とフィリス先生に聞いてみたところ、そこなら図書を守るための防御魔法が完備されているから、 わたしの身の安全も相応に確保できると言う事で、『自由に行って大丈夫』とのお墨付きを頂いた。有難うございます。

折よく研究室を再訪して来ていたバーディー師匠とアシュリー師匠が、『サフィは図書室がとっても好きな子だった』と、吹き出し笑いをして来た。 ちなみにレルゴさんは、同業者や隊商メンバーと共に城下町の『モンスター商品市場』に繰り出して、色々な取引をしている真っ最中との事。

バーディー師匠とアシュリー師匠いわく、サフィールは本好きだったらしい。

最初、アシュリー師匠に保護されていた時も、文字を覚えるが早いか、読書に夢中になり出した。 1年足らずで無学な『闘獣』が普通の子供たちに追いつくのは大変な事だけど、サフィールは、やってのけた。

レオ帝都でも、ハーレム館の併設の小さな図書室だけでは飽き足らず、レオ皇帝に直接オネダリして、帝国の第一図書館に連れて行ってもらうという一幕が、あったそうだ。

老レオ皇帝の方でも、サフィールが皇帝の直轄である第一図書館に入り浸っている間は、 レオ王やレオ王子との話し合いの際、ハーレム未婚妻たるサフィールの扱いについて頭を痛めなくて済むので、歓迎していたのだとか。

更に、第一図書館の隣に、《風の盾》である鳥人の魔法使い『風のユリシーズ』に与えられた館があって、 『ユリシーズと会うのも楽しみ』と言う理由があったそうだ(サフィールが自分で公言した事だ)。

ユリシーズはサフィールの師匠を務める人物だ。非常に警戒心の強かったサフィールが、レオ帝都で、最も早く、良く懐いた人物だと言う。

一度、レオ皇帝とレオ王とレオ王子の間で、未婚妻サフィールの扱いについて、冗談じゃないレベルの紛糾があった時。

サフィールは『ユリシーズと結婚する』と宣言して、三者を一斉同時に黙らせた事がある。半分以上、本気なのが窺えたそうだ。 《風の盾》ユリシーズの方は既に中年だったし、鳥人と獣人とでは種族そのものが違うから、適切な結婚相手とは到底、言えなかったのだけれども。

――元・サフィールなわたしは覚えてないけど、ユリシーズは鳥人だと言うし、バーディー師匠みたいな人だったんじゃ無いかなと思える。 バーディー師匠の事は割と一目惚れで好きになったし、傍に居て安心できる人だ。

全面的な記憶喪失になっても、変わらない部分ってあるらしい。何か不思議だ。

*****

今日は雨が降っている事もあって、少し涼しい。

チュニックとズボンのセットに、チェルシーさんから頂いた淡い青磁色の上着を合わせて、図書室を訪れる。

中央病棟に併設されている図書室は、意外にスペースも蔵書の量もあった。嬉しくなる。

外光を可能な限り入れつつも、同時に図書を痛めないようにするためだろう、淡い色の壁に、細く高い窓が規則的に並んでいた。

図書室に読書に来た患者さんや研修医たちを、チラホラと見かける。魔法使いコースの弟子と思しき、灰色スカーフを巻いた14歳から15歳くらいの少年少女たちも。

ひと通りザッと見て回ると、病棟ならではの物か、医学書が多め。魔法関係の書籍に思わず手が伸びそうになりながらも、そもそものきっかけを思い出して、手芸コーナーを探す。

――『その手の物がある』と思えるような本棚を探してるけど、なかなか見つからないなあ。

ウロウロしながら、次の本棚に回ろうと、通路に出ると――

――ドスン。

わッ。誰かと、ぶつかった!

ちょうど、わたしと同じくらいの体格の子だったみたいで、私と同じように、先方も尻餅を付いている。 周りに、半透明のプレートやら着替えやら、不思議な荷物やらが散らばってるようだ。ゴメンナサイ。

「イテテテテ……あれ、『炭酸スイカ』……?」

何やら、聞き覚えのあるような声だ。それに、見覚えのあるような金髪ウルフ少年だ。10歳くらいかな。誰だったっけ。

「いきなり何で尻餅してんだよ、ケビン~」

金髪ウルフ少年の後ろから、更に聞き覚えのある声がして来る。金髪ウルフ少年が身を起こして周りに散らばった物をかき集めた所で、 黒髪ウルフ少年がヒョコッと顔を見せた。わお。覚えのある顔だ。

――そうだ! この子たち、メルちゃんが引っ張って来ていた男の子たちだ。

今は亡きタイストさんが、ランジェリー・ダンスの店に入り浸ってたの何だの、ボウガン襲撃事件に絡んで不思議な情報を持って来ていた、男の子たちだ。

金髪のケビン少年と、その付き添いの黒髪ウルフ少年だ。思い出せて良かった。

「わぁお。『炭酸スイカ』だ~」

黒髪ウルフ少年が目を丸くする。そりゃそうだよね。蛍光黄色と蛍光紫の毛髪に、ドギツイまでに真っ赤な『花房』付きヘッドドレス。 わたしだって、道化師が『炭酸スイカ』の仮装をしていると思っちゃうよ。

ケビン少年は、不思議そうな顔で、わたしの顔をマジマジと眺め出した。相応に長い間、首を傾げていたけれど、ようやくパッと閃いたような顔になった。

「何か、会った事がある顔だと思った。あの、『狼男』に襲われた衛兵さんの死体が出てきた日だったっけ、 雨が降る前に、中庭広場の噴水の所で……フィリス先生と一緒に居た、患者さんだよね」

わお。正解だ。パチパチ~。ケビン少年、やっぱり、良く気が付いて観察力のある少年だ。

「姉ちゃん、何でまた、そんな不思議な毛髪の色になってんの? その髪飾り、すっげぇ真っ赤じゃん。 今日は宮廷の方で、国王夫妻ご臨席の政財界の社交パーティーやってんだけどさ、余興の道化師ジャジャジャジャーン、って訳じゃ無いよね」

黒髪ウルフ少年が、物珍しそうに注目して来ている。

うーん。これ、どう説明すべきなんだろう。とりあえず、まずは自己紹介だよね。

*****

金髪ウルフ少年は『火のケビン』10歳。黒髪ウルフ少年は『地のユーゴ』同じく10歳だった。2人とも『茜離宮』城下町出身の少年で、仕事見習い中。

ケビン少年は、魔法使いの親方に魔法使いとしての素質を見込まれていて、魔法使いコースに入れるかも知れないそうだ。 ケビン君は伯父さんの手伝いに駆り出される程、複数の台車を一斉にコントロールするのが上手とか言ってたし、観察力は良いし、何となく、そんな感じはしてたよ。

ユーゴ少年の方は、順当に下級スタッフのコースに上がるらしい。物怖じしない性質だし、口達者だから、もしかしたら外交方面なんかで素質を発揮しそう。

12歳になって筋骨が出来てきたら、ケビン君もユーゴ君も、武官コースの方に寄って、一度は入隊試験にチャレンジしてみる予定だそうだ。

入隊試験に落ちた場合でも、基礎体力の強化と基本的な護身術の会得を兼ねて、強化合宿への参加は必須になる。 その結果次第で、合格するケースも多いらしい。仕事見習いの男の子なら、一度は通るコース。成る程。

わたしの事情は色々と説明しにくい事が多すぎるけど、とりあえず『記憶喪失の治療』と『耳パーツの治療』、その他、諸々、治療中って事で。

2人は意外に賢かった。しゃがれ声の治療も、その一環に入っていると、納得している様子だ。

毛髪の色が蛍光黄色と蛍光紫のマダラになったのは、 金髪イヌ族の不良プータロー『火のチャンス』が持ち込んで来た魔法道具のせいだけど……喋っても良い内容を脳内で慎重にまとめた後、『火のチャンス』の名前を出してみる。

すると。『火のチャンス』の名前が出た瞬間――ケビン君もユーゴ君も、詳しい事情説明も無いのに、一斉に「分かる、分かる」と、納得して来たのだった。

渡世人にしてプレイボーイなイヌ族のチャンスさん、色々とトラブルメーカーな有名人みたい。名前を出しただけで説明完了できるなんて、或る意味、凄すぎる……

最近のチャンスさんは、ボワッとした不思議な髪型で、静電気トラブルを起こして回っているので、尚更に『お目立ち』なんだとか。 夜になればなったで、体内の静電気がバチバチ言っていて、ボーッと青白く光っているんだそうだ。それで最近は『怪人・夜光男』なんていう称号を戴いてるのだそうだ。

閑話休題。

――この際だから、『髪紐の作り方』が載ってるような本が何処にあるのか、2人に聞いてみようか。

「うーん、それだったら……手工芸コーナーじゃ無いかな。あっちで、色々な爺さんと婆さんが良く見てる」
「魔法を使う方だったら工芸コーナーで、魔法を使わない方だったら手芸コーナーだね」

――わお。端的で、かつ素晴らしい解説だ。ケビン君とユーゴ君が案内してくれると言うので、有難く後を付いて行く。

年配の人の多い少し賑やかなコーナーに、お目当ての内容の本が並んでいた。どうも有難う、ケビン君、ユーゴ君。

ケビン君とユーゴ君は、これから見習い仕事に出ると言う。国王夫妻ご臨席の政財界の社交パーティーで、給仕や荷物運びといった、小姓を務めるんだって。頑張ってね。

*****

手芸関係の図書が並んでいる書棚グループの場から、2つ分の違う分野の書棚を挟んで、窓に面した読書コーナーがある。

古代・中世の歴史遺物の発掘記録をまとめたアーカイブ・コーナーの隣なんだけど、ほとんどがコピー資料という事もあるのか、あまり人が来ない。 此処なら、落ち着いて集中できそうだ。

窓の外では、相変わらず霧雨のような、ほの明るい昼日中の雨が降っている。

――本の中身は、そんなに難しそうな内容じゃ無かった。ホッとした。

手芸本に目を通しているうちに、髪紐には、魔法加工の糸を使って作る物と、普通の糸を使って作る物があると分かって来る。

魔法加工のある糸を揃えて、守護魔法陣のパターンを編み込んで行けば、ささやかながら守護機能付きの物が出来る。 ハンカチ等に魔法の糸で守護魔法陣を刺繍して、道中安全の護符を作り出す場合と、原理は同じだ。

悩みに悩んで選び抜いた、お気に入りのお手本の挿絵を見ながら、『こんな風かな?』と、手で糸を組んで行くイメージを、練習してみる。実物が無いと想像しにくいけど。

そうして一刻くらい悩んでいると――良く知る声が降って来た。

「あら、本当にこっちに居たのね、ルーリー」
「あらあら、まぁまぁ、楽しそうな事にチャレンジしてるわね」

――ほぇ?!

パッと振り仰いでみると――チェルシーさんとポーラさんだった。ビックリだ。

チェルシーさんとポーラさんは、かしこまった礼装姿だ。そのまま宮殿に入れるような、良家のマダムって感じ。

「さっき、そこで、メルちゃんのお友達のケビン君とユーゴ君と行き逢ったのよ。 『炭酸スイカの仮装をしてる姉ちゃんが居る』って話してたから、もしかしたら、と思ったの。フフフ」

ポーラさんが面白そうに説明して来た。メルちゃんのお友達つながりだったんだ。成る程。

2人は、くだんの国王夫妻ご臨席の政財界の社交パーティーを、ちょっと抜け出して来たんだそうだ。 ポーラさんとチェルシーさんは同じ机に座りながらも、順番に近況を話し続けた。

今日の国王夫妻ご臨席の政財界の社交パーティーでは、メインの話題が、やはりモンスター襲撃の件になっていると言う。

ポーラさんとチェルシーさんは、前日のモンスター襲撃の際、もしかしたら、わたしが死んだんじゃ無いかと心配したそうだ。 フィリス先生と一緒とは言え、よりによって《魔王起点》に突っ込んで行ってた訳だし。ご心配おかけしました。

わたしが寄贈していた『魔除けの魔法陣』は、意外に頑張ったみたい。

古くなって交換時期が来ていた『魔除けの魔法陣』が多く、 次々にオシャカになっていて気が気じゃ無かったけど、『ルーリー特製の魔法陣』は、その損失分を見事にカバーしてのけたんだとか。

しかも終盤の頃、『いよいよ危ないか』と思った時、中級魔法使いの老夫婦が『緊急時の拡張機能が付いてる』って事に気付いて、拡張した。 そしたら、魔除け用の物じゃ無い通常の守護魔法陣も、魔除けとして動員できるようになった。ホッと一息付けたと共に、驚いたと言う。

通常の守護魔法陣に干渉して、臨時に魔除け用に変えてしまう――というような拡張機能というのは、通常の市販品では有り得ない機能らしい。 普通は、モンスター襲撃が激しくなる周期に合わせて、魔法部署の特別プロジェクトとして作成するような代物。

しかも、魔法玩具店に並んでるような安価な工芸用の基盤ボードなのに、実戦レベルで戦えた。 さすがに頑張り過ぎて、基盤ボードの各所が溶けたり焦げ付いたりして、変形しちゃってるそうなんだけど。

モンスター襲撃があった後で、魔法部署の人たちが、壊れてしまった『魔除けの魔法陣セット』の新調を兼ねて、城下町の状況調査をしていた。 その際に、『ルーリー特製の魔法陣』に非常な関心を寄せて来て、その基盤ボードを買い取ったそうだ。魔法部署の研究室の方で、研究すると言う。

――わお、オオゴトになっちゃったかな。

最後の説明を終えたチェルシーさんが、手持ちのハンドバックから、金一封を出して来た。

「……と言う訳でね、魔法部署の人たちからの買取金を、ルーリーにお渡ししておくわね」

――あ、有難うございます。これで新しく『魔法の糸』が買えそう。

「何か作る予定なの? これ、髪をまとめる時の……くくり紐よね?」

チェルシーさんが興味深そうに、本のページを眺めて来た。ポーラさんも自分の専門領域だからか、目をキラーンと光らせている。

わたし、急に顔が火照って来た……

「どっちかと言うと、この髪紐のデザインって、男物よね~?」
「そして、《風霊相》生まれの人向け、よね~?」
「金狼種と言うよりは、黒狼種向け、だったりして~?」

チェルシーさんとポーラさんが、意味深な笑みを浮かべて来た。わたしが出逢った人って、まだ少ないから、すぐに誰なのかは分かるみたいだけど、そこで妙な超能力を発揮しなくても!

「貴種の名門出身のアンネリエ嬢が、いらっしゃるわよね……チェルシーさん」
「面白い展開ね。彼と彼女は、宮廷の社交パーティーの方に居るけど。賭けます? ポーラさん……ウフフ」

いかにも宮廷社交界に出入りしている良家のマダムたち、という顔をして、ポーラさんとチェルシーさんは、2人して盛り上がっている。わたしには全く分からない内容だ。何だろう。

暫し、首を傾げていると――

――ドレスメーカーのお針子さんなポーラさんは、何でも入る手元の風呂敷包みから、魔法のように、多種類の糸見本を取り出して来た。

ポーラさんは、いつも仕事道具を持ち歩いているんだろうか。不思議だ。

「布と糸については専門家だから、任せちゃって頂戴ね。時々、性質の悪い粗悪品をつかまされる事があるから、布と糸はシッカリ選別する必要があるのよ」

ポーラさんお勧めの、《風霊相》と相性の良い種類の糸を見せられた。色々あるなあ。

――少しの間、クレドさんの印象を思い返してみる。端正なまでの硬質さと冷涼さを併せ持った面差しを。

第五王子なジルベルト閣下の血縁の貴公子として、宮廷社交界のイベントに出席する事も――あるのかも知れない。だったら、格式のある色も入っていた方が良いかも。

お手本では、3色を選ぶ事になっている。地の色として防染機能付きの白磁色、描画色として銀鼠色、格式のあるハイライト色として銀白色。 ほとんどモノトーンなんだけど、分かる人は分かる組み合わせになるだろうと思案してみる。

ポーラさんが早速、面白そうな顔になった。

「忍者みたいな組み合わせねぇ。これ、汚れに強い普段使い用として使えるのに、イザと言う時は宮廷仕様に変身するわよ」

わお。さすがプロ。

ポーラさんの店の方で質の良い糸を揃えて販売してくれるそうで、今日ポーラさんが揃えている分は即座に買い取り、 足りない分は予約買い取りしておく事にする。翌日には全部、揃うそうだ。転移魔法陣による物品輸送が発達しているお蔭だ。早い。

図書室の本は持ち出しは出来ないそうで、必要なページは、チェルシーさんが普通のペーパーにコピーしてくれた。日常魔法、大活躍だなあ。

*****

練習用に、3色パターンの移り変わりが良く分かる黒、白、赤で何回か試してみる。練習用の糸は、ポーラさんの余り物から。

基本4色は大量に仕入れて大量に使うんだけど、その分、微妙な長さの余り糸が出て来て、処分に困ったりするそうなので、有難く頂く事にした。

髪紐作りは、最初は模様が曲がったりしたけど、慣れて来ると段々、綺麗なパターンで編めるようになった。面白い。 必要な道具は、手の平サイズの工芸ペーパーの要所に穴と切り込みを入れた物を、魔法で硬くした物だけで事足りる。

ちなみに工芸ペーパーを硬くするのは、今のわたしには出来なかったので、チェルシーさんとポーラさんのご協力を頂いた。有難うございます。

準備が出来上がってみると、ポシェット等に入れて、あちこち持ち運べる手軽さだ。

そんな訳で――

ポーラさんとチェルシーさんから、ささやかな練習作品について『意外に上々』とのお墨付きを頂いた後。 残りは、日々、図書室に通って好きな本を眺めつつ、手元でチマチマと編み上げて行くという制作スタイルになった。

プロの人だと、わたしが作ろうとしている髪紐は2日から3日で出来るそうだ。

――結論から言うと、わたしが髪紐を完成させたのは、4日後になったのだった。

*****(2)違和感に満ちた光景

この数日間、病棟に併設されている図書室に通いつつ、髪紐をチマチマと編む作業が続いた。

習慣になって来たから、やがて仕事見習いが再開したメルちゃんも、この時間にわたしが何処に居るのか、パッと了解してくれるようになった。

一方で。

わたしの『魔法の杖』の行方は、杳として知れなかった。

――最初の日に、わたしが出て来たのは、このエリアの外れにあるルーリエ種の噴水広場だったんだけど。

相変わらず『殿下』が作った置き石の楔穴(くさびあな)の他には、異変は無い状態だ。

そう言えば、後で知った事なんだけど。

あの置き石の裏には、『毒ゴキブリ・モドキ』という、毒ゴキブリによく似た無害な大型昆虫が張り付いていたらしいんだよね。 何処にでも居る――珍しくも何とも無い、年中、見かける昆虫。

ヴァイロス殿下の魔法の投げナイフは置き石を貫いていて、その哀れな『毒ゴキブリ・モドキ』は串刺しにされていたみたい。 置き石の裏で、腹に大穴を開けられた死骸になって、転がっていたと言う。

これはこれで、不思議なシチュエーションだ。偶然だろうか?

そして。

最近の変化と言えば、シャンゼリンの普通じゃ無い死に方がニュースになった。

更に、シャンゼリンが元・第三王子リクハルド閣下の実の娘だという事実が、ウルフ宮廷の中だけでの話じゃ無くなって、全国的に広まった。

シャンゼリンについて良く知らなかった城下町の方では、大きな衝撃が続いているところだ。レオ族をはじめとする、他種族の間でも――例えば、レオ帝国の親善大使の一行の人々とか。

リクハルド閣下は、実の娘シャンゼリンのやらかした犯罪の数々と、それらの犯罪を幇助した責任を問われて、無期限の謹慎処分を受けている。 宮廷への出入りは不可。宮廷行事などで必要な場合は、代理人の派遣のみとなる。

もっと重い処分も当然、有り得たんだけど。

今、リクハルド閣下が領主として治めている領土は、シャンゼリンがひそかに巻き起こしていた連続殺人事件からまだ回復していなくて、 実力のある後継者が出て来ていないのだそうだ。見込みのあった後継者たちの間で、かなり大勢の死人が出ていたと言う。

だから、その飛び地領土に関しては、リクハルド閣下が、引き続き監督する事になっている。 シャンゼリンが死んでから後、リクハルド閣下は、新たな陰謀に手を染めている気配は全く無い。その行動を評価しての決定だ。

――今になって見れば、このシャンゼリンの得意とする暗闘が、『茜離宮』でも展開しつつあったと言う訳だ。恐ろしい。

とりあえず、ウルフ国王夫妻は、今は胸を撫で下ろしているんじゃ無いかと思う。第一王女アルセーニア姫が最初に、暗闘の毒牙に掛かったのは、本当に残念だったけど。

*****

わたしが髪紐を作り始めて4日目――

クレドさんに贈る新しい髪紐が完成した。守護魔法陣を編み込んである髪紐。

白磁色の地。守護魔法陣の連続パターンを描くのは銀鼠色。ただし、1本から2本のみの細い糸で編み込んであるから、一見、無地に見える程に、『気付いて気付かない』代物だ。

パターンの要所ごとに、ハイライトとして選んだ格式のある銀白色がシッカリ入るので、やろうと思えば、国王の前でも使える礼装レベルの装飾品になっている。

――なかなか『良い仕上がり』っぽい感じ。

意外に綺麗に編み上がったので、ホッとした。わたし、色々ドジだし……

端をキッチリ始末して、これで完成だ。

かねてから用意していた宛名付きの『物品転送ボックス』に、慎重に箱詰めする。 メッセージカードの方は何も思いつかなかったので、『宜しければお使い下さい。水のルーリエ』とだけ記入しておく事にした。

メッセージカードには本人証明のための《魔法署名》も添付する必要があるんだけど、そっちは出来ないから、普通の手書き署名だけだ。

図書室に併設された庭園にあるルーリエ種の噴水から、瑠璃色をしたルーリエ花を数個ばかり摘み取って、《魔法署名》の代わりに、 メッセージカードの端にある折ポケット部分に挟んでおいた。この折ポケット部分は、本来は、更にメッセージカードを挟んだりするための物なんだけどね。

――あれ?

不意に、わたしが座っている椅子の傍で気配が動いたような気がして、そちらに目をやる。

――やっぱり、気のせい?

この不思議な気配に気づいたのは、髪紐を作り始めて2日目からだ。

誰も居ないのに、微妙に空気が動くんだよね。『幽霊かな』と思ってギョッとしたけど、攻撃的な気配は無いし。 どっちかと言うと、好奇心いっぱいに、フラフラ漂ってる背後霊みたいな……

最初の2日目の時は、一刻ぐらい、この気配が漂っていた。誰か居るのかとキョロキョロしたけど、誰も居ない。 本棚を回っても、いつもの年配の方々の顔ぶれしか見えないから、気のせいかなと思った。

3日目も午前半ば頃に一刻ぐらい居たようだったけど、その時は退屈そうな気配が漂っていた。髪紐がまだまだ仕上がらなかったからだと分かったのは、 夕方に、その気配が再び現れてからだった。その時は、髪紐、あと一息で仕上がる所だったんだよ。

その時は、やっと、この長さで『髪紐だ』と分かったみたいで、よく空気が動いてた。だから、独り言で『次の日のお昼ごろには出来上がるかな』と呟いてやった。 その気配は、『そうか!』みたいな感じで、ヒュッと消えて行った。何か面白いというか……空気の精霊なんだろうか。

で、今日、4日目。何かその気配、髪紐が仕上がった時から、ピッタリ傍にいる感じがする。ルーリエ花を摘んでる時も、何だか傍で興味深そうに見てる気配があったし。

今日は季節の戻りが強くて、夏の真っ盛りの時のように暑い。ヒンヤリとした風が無かったら、バテてたかも。 この3日間は淡い青磁色の上着を着てたけど、今日は久しぶりに、夏向きのチュニックとズボンのみ。

いったん図書室を出て、メルちゃんとの待ち合わせ場所、図書室の最寄りの食堂へ向かう。この数日の定位置のテーブルに、メルちゃんが昼食を乗せたワゴンを運んで来ていた。

――今日は暑いね、メルちゃん。お茶も冷たいタイプだ。

わたしが図書室の方に行ってる事は、ディーター先生やフィリス先生、バーディー師匠やアシュリー師匠にとっても都合が良いそうだ。 『呪いの拘束具』に関する研究とか、レオ帝都に居る《風の盾》ユリシーズさんとの秘密連絡とかが続いていて、 ディーター先生の研究室には、常時、最高機密レベルの魔法陣がセットされている。

子供なメルちゃんと言えども、下手にディーター先生の研究室に近づける訳には行かない。

当座は機密を守るため、フィリス先生がメルちゃんの代理を含めて、色々な雑事をこなしているところだ。フィリス先生、ホントにスーパー秘書、兼、助手って感じ。

「ルーリー、あのね、今日はね、すっごい話題なニュースがあってね」

昼食が始まるが早いか、メルちゃんが弾丸スピーチを始めた。

そう言えば、ここ最近の話題なニュースって、城下町に来ているサーカスの大ヒット中の人気演目、『爆弾聖女・薔薇薔薇(バラバラ)の逃走追跡劇』だったんだよね。

クライマックスが、爆弾聖女・薔薇薔薇(バラバラ)が魔法の絨毯に乗って『ジャジャジャジャーン』と登場するシーン。

本来はスペクタクル人形劇なんだけど、それをリアル舞台劇バージョンにしたと言う。 熟練の軽業師が役柄を演じつつ縦横に飛び跳ねて、幻覚魔法もパワーアップした物だから、興奮が止まらないとか何とか……

それを上回るくらいの、余程ビックリなニュースらしい。何だろ?

「近いうちに、黒髪の王子様のリオーダンの新しい婚約者、決まりそうなんだってさ。アルセーニア姫の喪が明けたから。オフェリア姫の方も、第一王女に繰り上がってるし」

――成る程。王族ともなると、一匹狼と言う訳には行かないんだろうね。

「でね、此処がビックリなんだけど、アルセーニア姫と《盟約》交わしてた人、リオーダンじゃ無かったんだって。 昔の第二王子の……えーっと、長男かな、次男かな? とにかく今の第三王子『火のベルナール』とか言う人が相手だったみたい。 リオーダンと第二王子を争ってた人だったから、余計に驚きだよって、お友達とも話してたの」

――不思議な話だね。リオーダン殿下とアルセーニア姫は婚約者同士なのに、まだ《盟約》してなかったって事?

「婚約が先で、お付き合いしていて、お互いに良い感じになった時に《盟約》するのも、多いよ」

その辺は、非常にフレキシブルなんだそうだ。《宝珠》は簡単に見つからない物。

お互いに《宝珠》同士じゃ無い場合は、婚約期間が長くなるのは普通。 その間に、片方に《宝珠》が見つかったら、結果を速やかに公開して、元々の婚約は解消。片方は、また別の良縁を検討する。

婚約を解消した後、次の良縁を探すのに時間が掛かる――という問題があるので、《宝珠》を得た場合は、特段の理由が無い限り、速やかに公開するのが義務。成る程。

メルちゃんの話は続いた。

「今の話題の有名な『純金の悪女シャンゼリン』がね、第三王子ベルナールが何故か、ズルズルと秘密のままにしてたのを察知して、 その点でベルナールを脅迫して、お宝とか、色々、貢がせてたんじゃないかって。 それがアルセーニア姫にバレそうになったんで、シャンゼリンがアルセーニア姫を殺したんじゃないかって事になってるのよ」

――ううむ。絶句だ。

あれだけの犯罪を秘密裏にやってのけたシャンゼリンなら、『やりかねない』って所が、如何にも恐ろしい。

ただ――アルセーニア姫の命を本当に奪ったのって、心臓に打ち込まれていた、特別な矢だ。 『対モンスター増強型ボウガン』から発射された矢なんだよね。そっちの方のミステリーが、矛盾になってしまう。

幾ら悪女とは言え、シャンゼリンは女だ。

小柄なウルフ女性が、あの『対モンスター増強型ボウガン』を運び込む事は、絶対、無理。シャンゼリンが、中級から上級の魔法使いでも無い限り。

そして、シャンゼリンの本当の《宿命図》――『正式名:風のシンディ』――を判読する限りでは、魔法使いとしての力量は無かった事が、明らかになっている。

シャンゼリンには、間違いなく、怪力の仲間が居たと思う。仲間と言えるかどうかは微妙だけど。

モンスター襲撃の際《魔王起点》の近くで、シャンゼリンの死体を発見した時、フード姿の大男を見た。クマ族っぽいんだけど、実際は、種族系統の不明な大男。 彼が間違いなく、何かを知っていると思う。でも、あの日以来、あの近くでは不審人物を見かけないそうだ。何処へ消えたんだろう。

*****(3)ランチトーク:噂話を小耳に挟む

わたしは、いつの間にか、つらつらと思案に沈んでいた。

――この一連の、特にアルセーニア姫の暗殺事件で、誰よりもショックを受けてるのはリオーダン殿下じゃ無いだろうか。

婚約者だったアルセーニア姫が、いつの間にか、リオーダン殿下じゃ無い他の男と《盟約》して、それをひた隠しにしていたと言う。 しかも、謎の非業の死を遂げた。リオーダン殿下、よく耐えてるなあ、と思う。

ウルフ王国のルールは良く知らないけど。

その第三王子『火のベルナール』という人は、第一王女アルセーニア姫と結婚する事で、第二王子に繰り上がれるチャンスはあったのかも知れない。

そんな事になったら、リオーダン殿下は……第三王子に繰り下がるか、臣籍降下か、どっちかになったんじゃ無いかな。

かつては第三王子だったリクハルド閣下も、奥方を失った事で、臣籍降下が決定したと言う話だったし……

ただ、『火のベルナール』と言う人、アルセーニア姫と《盟約》を交わす際、リオーダン殿下と正面切って、公式な立ち合いを伴う『決闘』をしていなかったそうだ。

公式な立ち合いを伴う『決闘』――

――つい、前日にあった、クレドさんとレルゴさんの『決闘』を思い出してしまったよ。

あれ、魔法使いの立ち合い――それも大魔法使いという証人を2人も揃えての、公的な決闘だったんだ。

ディーター先生とフィリス先生が決闘を止めなかったのも、クレドさんが決闘の申し込みを受けて立ったのも、あの後でレルゴさんが急に納得したのも、理由があった訳だ――

*****

メルちゃんの噂話は続いた。

意中の男性or女性が、他の男性or女性と婚約中ないし《盟約(或いは、予約)》中だった場合、公式な立ち合いを伴う『決闘』を経て、求婚の資格、つまり《盟約》を申し込む権利を得る。

ただ、要らざる負傷を避けるため、一般人の場合は刃物を伴う『決闘』は無しで、『土俵の上』で事を決めるのがほとんど。男女いずれにしても、『公開でやる』というのが必須条件。 女性だって、意中の男性を獲得するために、他の女性と堂々とコブシで戦うのだ。

資格も無しに権利だけコッソリと行使した――という形だと、他人の公開の婚約者ないしは公式な伴侶を盗み取った、つまりコッソリと不倫したという事になるので、 特に王族の場合、『殿下』や『姫』称号を得るのは望み薄だとか。

シャンゼリンは、その辺りの弱みを上手く握って、『火のベルナール』を脅迫したという事になっている。 ただ、噂は噂に過ぎないし、ベルナール殿下に調査が行ってない事を考えると、『事実では無い』と考えて良さそうだ。

実際、ベルナール殿下の側に与する勢力や友人が居て、『それは違う』と抗議している。

ベルナール殿下ご自身は、リオーダン殿下と、尋常に勝負する予定は、あったそうだ。アルセーニア姫の急死が、余りにも、いきなり過ぎて、タイミングが前後してしまっただけなんだとか。

権謀術数の都合で、意図的に流す噂だってあるのだ。誰が噂を流したかによっては、不穏な気配も、無きにしも非ず。 立場によっては、そう言う見方や意見があるという事なのだろう――と考える他に無い。

アルセーニア姫が急に死んでしまったし、死の真相が分かってないだけに、周辺の事情も曖昧になってしまった。

――メルちゃん、色々と詳しいね。考えさせられる。

「これもビックリなんだけどね、リオーダン殿下の新しい婚約者、《水の盾》サフィールかも知れないんだって」

――ブホォッ。お茶吹いた。ゲホ、ゲホッ。

「大丈夫、ルーリー?」

だ、大丈夫だよ。ちょっと、余りにもビックリして、むせただけだから。

「そう? とにかくね、大天球儀(アストラルシア)ニュースの方で、サフィールはアルセーニア姫と同じくらい綺麗な人だって話が出てるのよ。 サフィールの方は、レオ帝都の華だから高嶺の花なんだけど、レオ貴公子と同等の求婚の権利が、ウルフ貴公子にも認められるって話になって……」

――無い無い。それ、絶対、無い。だってサフィールって……

あ、ムニャムニャ、公式には、そう、年増でしょ?

「1年くらいしか違わないもの、メルも年の差が気になったけど、考えてみたら、大人になったら、そんなに問題じゃ無いじゃん。 ルーリー、この間、ヒルダさんが話してたでしょ? サフィールは一時期、すっごいノイローゼになってて、その時、老剣士と2人の少年が、お慰めに行ってたって」

――お、お慰め。

お慰め……かも知れないね。ん? んんん? そんな話、あったっけ?

「あったのよ、ルーリー。その時の少年のうち1人が、リオーダン殿下だったのよ、その時は殿下じゃ無かったから、ただのリオーダンだったけど。 同族で顔見知りって言うアドバンテージは、強いよね」

――え?

ええぇぇええぇぇえ!! 知らなかったよ! 全然ッ!

メルちゃんの、ビックリ情報によると。

何でも最近のサフィール、体調不良と長期休養が長引いて、長引いて……ゲホン、ゲホン……

これ以上は、レオ皇帝の第一位の《水の盾》としての重圧に耐えられないだろう――という話が出始めているそうだ。 年齢の問題で複雑なポジションに置かれてしまったが故の、様々にハードワークだったのも、響いたとか、何とか……

年老いたレオ皇帝自身も、数年来の懸念事項を全て解消できたとかで、タイミング的にも、そろそろ退位する年齢。この数ヶ月の間に、退位する見込み。

つまり、サフィールは、この数ヶ月の間に、確実にレオ皇帝のハーレム妻としての地位を解かれるだろうって事。 しかもサフィールは、今でも『花巻』を装着していると言う――白い結婚中の『未婚妻』だ。

レオ王とレオ王子が早速、次のハーレム主君の候補として取り沙汰されている。次のレオ皇帝になるレオ王のハーレムに入るだろうと言うのが、大勢の見方なんだそうだ。

ただし、『降下の未婚妻』に関しては、レオ族以外の他種族も、夫候補として名乗りを上げて良い事になっていると言う。 その辺は、獣王国の盟主としてのレオ帝国のフェアプレー精神とか、政治的な不満を爆発させないための理由があるらしい。

サフィールがフリーになった場合、ウルフ族のうちの誰が、第一候補の夫として立つのか。

その最適任者が、第二王子で独身なリオーダン殿下――と言う訳。ウルフ国王がリオーダン殿下に打診してみた所、反応は微妙ながら、悪くは無かったと言う話。

……今のタイミングで、レオ帝国側から、そんな話が流れ出すというのは不自然な気がする。

バーディー師匠やアシュリー師匠は、レオ皇帝の直属の《風の盾》ユリシーズさんと知り合いだと言うし、その辺で、何かしてるんだろうとは思うんだけど。

わたしの知らないところで、変な風に話が曲がってやしないだろうか。何だか、すごく不安だ。どうなるんだろう……

*****

「あ、ねえ、ルーリー。噂をすれば影だよ」

――ん?

メルちゃんが、軽食コーナーの向こう側をチョイチョイと指差している。

昼食時の人だかりの向こう側に――

ウルフ貴公子たちのお忍びと見えるグループが、幾つか見える。そのテーブルのうちの、ひとつが。

わお。艶やかな黒髪のリオーダン殿下。いつもの純白マントじゃ無いから見違えたよ。プリンスじゃ無くて、普通の貴公子って感じだ。

一緒に居るのは、色っぽい琥珀色の毛髪が印象的な、金狼種の貴公子ジェイダン。 全員で3人――残りの黒髪の1人は知らない人だけど、やはり同年代のウルフ貴公子、という風な人物。

高貴な彼らが、何故に、病棟の併設の図書室の近くの軽食コーナーまで出張ったのか。

――と言うようなことを、一瞬、思ったけど。

グループに居る見知らぬ黒髪の貴公子、この暑さでシャツ1枚だから、上半身全体に巻いている痛々しい包帯が透けて見える。彼は入院患者みたい。

大怪我して入院した友人の貴公子を、リオーダン殿下と貴公子ジェイダンが見舞っている、という風らしい。成る程だ。男の友情だね。

メルちゃんは美形な彼らをシッカリ鑑賞した後、満足した様子で、昼食の最後のデザートを完食した。

ワゴンに、空になった料理皿を片付けていると――見覚えのある若い中級侍女さんが、やって来た。フィリス先生と同じくらいの年齢。金狼種。誰だったっけ。

ハシバミ色のユニフォームをまとった中級侍女さんな彼女は、困惑顔をしながらも、金茶色のウルフ耳を礼儀正しくピッと揃えて来た。受付さんみたいな人……受付さん?

「あら、この間の……フィリス先生が診てた患者さんね。覚えてるかしら、サスキアよ」

――サスキアさん。ああ! サスキアさん!

ボウガン襲撃事件の時に、わたしは気絶しちゃったんだけど――フィリス先生が手が離せないでいる間、わたしを見ててくれた『茜離宮』エントランス・ホールの受付さんだ。

わたしがビックリしていると、メルちゃんがピンときた様子で口を開いた。

「ユーゴ君の、おねーさんね」
「あぁ、メルちゃん。いつも弟と仲良くしてくれて有難うね。ねぇメルちゃん、ユーゴが何処へ行ったか知らない?」

――ほぇ?

首を傾げていると、サスキアさんは困った様子で、金茶色のほつれ毛をいじり始めた。

「お昼に一度、居場所の連絡を入れて来る筈だったんだけど、連絡が全然、来なくてね。 ケビン君と一緒に、城下町のモンスター商品マーケットを見物して来るって言うから、大型台車なんかには気を付けて、と言ったのに。 午後からは図書室で自習してる筈なのに、あの子ったら、いったい何処を、ほっつき歩いてるのやら」

――黒髪ウルフ少年のユーゴ君、サスキアさんの弟さんだったんだ。

でも、わたしは、今日はケビン君もユーゴ君も見かけてないよ。

メルちゃんも「朝から、2人とも見かけてないわ」と首を振っている。

「案外、大人気のアレ、サーカスの『爆弾聖女・薔薇薔薇(バラバラ)の逃走追跡劇』見物とか、そっち方面に足を延ばしてるのかも」
「そうかも知れないわねぇ。ケビン君は幻覚魔法を見たがってたから……」

サスキアさんは困惑顔を続けながらも、「お邪魔してゴメンね」と笑って、急ぎ足で駆け去って行った。 受付コーナーの方が忙しいんだろうな。空き時間に、弟のユーゴ君を探しに来たって感じだったし。

すべての料理皿をワゴンに積んだところで、メルちゃんが誘いかけるように、目をパチパチさせて来た。

「午後はどうする、ルーリー? メルは暇よ。その『物品転送ボックス』を受付に届けたら、モンスター商品マーケット、ルーリーも見物してみる?」

――うーん。今日は暑いからねえ。

読みかけの本があるから、それ一緒に見てみる? 昔の地下迷宮(ダンジョン)の図解があって面白いよ。

メルちゃんの目がキラーンと光った。

「地下迷宮(ダンジョン)って言うと、古代の失われた財宝の話もあるんだよね。『茜離宮』にも地下迷宮(ダンジョン)の伝説があるよ」

――決まりだね!

ワゴンを洗い場に出した後、メルちゃんとわたしは、図書室の『地下迷宮(ダンジョン)コーナー』を攻略したのだった。

*****(4)予期せぬ遭遇そして尾行

古代から中世に及ぶ地下迷宮(ダンジョン)の発掘調査の図版は、非常に興味深い内容だった。

地下の方に真の玉座があったり、味方にしか分からない迷路にして迷い込んで来た敵を迎え撃つような仕掛けになっていたり、 色々考えるものだなあと思う。本来の用途は、れっきとした水路なんだけど、敵に攻め込まれて絶体絶命となった場合の、脱出路として使われたり。

攻撃魔法を施して、侵入して来た敵を迎え撃つようになっている仕掛けは、多かった。

特に興味深いのが鳥人の開発した、《雷撃》仕掛けの地下迷宮(ダンジョン)。どちらかというと、鳥人だから、空中回廊で出来た迷宮に仕掛けるケースの方が多いんだけど。

効率よく《雷撃》を放つには、扇形の構造の方が都合が良いと言う事を鳥人は発見していた。《雷撃》の罠のあるゲートには、《雷撃》を発動する、 扇形の装飾品の振りをした、魔法道具が仕掛けられていたと言う。

扇形をしている魔法道具だったから、『雷撃扇』という名前が付いていたそうだ。

考えてみると放電図形って、放射状なんだよね。成る程だ。

そして。

わたしは、奇妙な本を見つけたのだった。

中世の『茜離宮』を記録した図版のひとつ――数ページに渡って、ページが欠落している。

誰かがページを切り取ったみたいだ。うっすらと刃物が走った痕跡が残っている。この失われた数ページに如何なる図解があったのかは分からないけど、 本を破壊するなんて、ちょっと信じられない。

メルちゃんも、この破損にはビックリしたみたい。この図書室は持ち出し厳禁だから、持ち出して良いのはコピーした物のみ。 『魔法の杖』でアッと言う間だし、魔法が使えなくても受付に頼めばパッとやってくれる。

わざわざ、ページを切り取って持って行くだろうか? 司書さんに見とがめられるリスクを冒してまで?

近くの本にも異常があるんだろうか。メルちゃんと一緒に、順番に本をパラパラしていると――

――不意に、背後で、人の声が飛んだ。

「あ、何やってんだよ?」

少年らしき声だ。それに続いて、素早く遠ざかる駆け足のような音。

――何だろ?

パッと振り返る。誰も居ない。

大判本でもある図版を出し入れする時に肩紐に引っ掛かるので、一時的に近くの読書テーブルに置いていたポシェットも、そのままだ。

――あ、確か、この4日間、頑張って作ってた髪紐。

さすがに、ちょっと不安になって、ポシェットの中をチェックだ。

――『物品転送ボックス』には、特に変な箇所は無い。 一応、仮の封を切って中も開けてみたけど、『ルーリー特製の髪紐』も、メッセージカードも、そのままだ。うーん?

メルちゃんも振り返って来て、不思議そうにしている。

でも、何もおかしな箇所は無いんだよね。ポシェットの中には、金目になる物は入ってない。素人の作った髪紐を欲しがる人も、さすがに居ないと思うし……

気合を入れて、再び作業開始だ。

――結論。

ページ破損の憂き目にあったのは、此処のコーナーの本棚では1冊だけだったみたい。 被害が軽微というのは歓迎すべき事なんだろうけど、何だかモヤモヤする。病棟に帰る時に、一度、司書さんに話しておくべきだろう。

一段落したところで、わたしは再びポシェットを手に取った。『物品転送ボックス』を改めて確認する。宛名はキチンとしてるし、変な所は無い。 中を開けてみると、メッセージカードはそのままで、髪紐も――

「あ、ルーリー! 急いで来て! 大変、変なの、早く!」

――な、何? メルちゃん?!

メルちゃんが焦りながら、窓の外を指差している。

オレンジの光が入り始めた、昼下がりの後半の陽光の下。わたしたちが居る2階の窓からは、1階の外に広がる、図書室周りの、裏道さながらの通路が見える。

その裏道の上。2人のイヌ科の男が居る。

1人は、ボワッとした不思議な髪型の金髪のイヌ族男、『火のチャンス』。

あの不思議な髪型が続いているって事は……まだ体内の静電気を全て発散しきれていないって事。フィリス先生、どれだけ大量の静電気でもって、チャンスさんにお仕置きしてたんだろう。

もう1人は。ガラの悪そうなウルフ族の若い男。相応に筋肉ムキムキの立派な体格の上に、妙にフリル&レース満載の上等な衣服をまとっていた。

フリル&レース満載なウルフ族の若い男は、見事な純金な金髪が自慢らしく、腰まで長く伸ばしている。結わえていないままの長い金髪を、 しきりにフサッ、フサッと振っているので、そのたびに金髪が陽光にきらめいて、何ともまばゆい。不機嫌そうに腕組みをしながら、チャンスさんと何やら、応答を繰り返している。

両者の間で、話が決着したようだ。

チャンスさんが腕に抱えていた工芸ボードらしき物を、足元に置く。そして日常魔法用の細い『魔法の杖』でもって、工芸ボードにエーテルを流す。

すると、工芸ボードの上で、魔法陣が赤く輝いた。チャンスさんが《火霊相》生まれだからだろう。

輝きが収まると、今度はガラの悪そうなウルフ族の若い男が、フリル&レース満載の上等な衣服の胸元を開いた。胸毛ビッシリ、かつ筋肉が盛り上がった胸が見える。 若いウルフ族の男は、衣服の胸元から同じく日常魔法用の『魔法の杖』を取り出し、嫌そうにエーテルを流した。

工芸ボードの上で、同じ魔法陣が、今度は青く輝いた。

見ていると、チャンスさんと謎のウルフ男は、『これで取引は成功した』というような雰囲気で、チラリと視線を交わし合った。

ガラの悪いウルフ男はフリル&レース満載の上等な衣服をヒラヒラさせて身を返すと、肩を怒らせて、さっさか向こう側へと歩き去る。 チャンスさんは再び工芸ボードを腕に抱え、ウルフ男とは逆の方向へと、ヒョイヒョイと歩き去って行った。

奇妙な遭遇の現場だ。しかも、非合法の、アブナイ取引っぽい雰囲気が、途方もなく、する。

それに、あの工芸ボードに浮かんでいた魔法陣って――

メルちゃんが決死の形相で、わたしを振り返って来た。

「あいつ、何か企んでるよ……! 追っかけてって、確かめないと!」

――完全同意!

わたしは、『物品転送ボックス』の封を正式な物にすると、メルちゃんと共に駆け出した。

図書室のカウンターに『物品転送ボックス』専用のポストがあるから、取り急ぎ、放り込む。

すると、ポストの前面に魔法陣の模様が黒く輝いた。金融魔法陣だ。『料金を入れて下さい』という意味。

わたしは『魔法の杖』が使えないので、メルちゃんに立て替えてもらう形。

メルちゃんの『魔法の杖』が料金データを含むエーテルを流すと、魔法陣が青く光る。

――やっぱり!

チャンスさんが持っていた工芸ボードに浮かび上がっていた魔法陣は、金融魔法陣だ。しかも、公式な物には有り得ない、余分な配線が入っていた。 と言う事は『裏金』――マネロンしてるって疑惑も、大いにある。

これは、ますます、チャンスさんが何をしているのか、突き止めないと。

メルちゃんとわたしは、図書室を飛び出し、チャンスさんが歩き去った方向を目指して走ったのだった。

*****

プレイボーイなチャンスさんは、いつものように、病棟の総合エントランスで手あたり次第に、女の子たちに声を掛けていた。お蔭で、追いついた。

でも、イヌ族の女の子たちの方にしたら、ラブラブの最中に放電されてビリビリしちゃったら、多分お楽しみどころじゃ無いんだろう。 ほとんどの女の子たちが、ギョッとした笑みを浮かべながら、辞退している。

「ゴメン~ダメよ~。静電気を完全に出してからだったら、大丈夫よぅ」
「スゴーイ。『怪人・夜光男』ってホントだったのね。こんなに静電気があったら、暗い所でホントに光るわよぅ」

チャンスさんは、連日、完敗しているらしい。しばらくの間、緑地に面するアーチ列柱のひとつに抱き着いて、たそがれていた。 ボワッとした不思議な金色の髪型だから、余り悲壮感は無いんだけど。

やがて、チャンスさんは、すっかりススけた様子で、中庭広場へと歩き出した。最初はトボトボとした歩き方だったけど、次第に普段の歩き方になった。

普段のヒョイヒョイとした歩き方になると、チャンスさんは男だから、歩幅がすごく広い。追いつくのは大変だ。

わたしは『炭酸スイカ』カラーな頭部が目立ってしまうので、いったん、生成り色の三角巾で、清掃スタッフ風に頭部を隠す。 この三角巾は、ウルフ耳を通すための穴が付いているスグレモノだ。

この4日間、図書館に通う時に、こうして目立つ毛髪を隠していた。『呪いの拘束バンド』も、真っ赤な『花房付きヘッドドレス』も隠れるから、便利。 『魔法の杖』は使えないんだけど、細い棒を持っていれば、如何にもプロの清掃スタッフだ。

「あいつ、城下町へ行くわ」

メルちゃんが物陰からヒョコッと頭を出して、眉根をキュッと寄せている。

中庭広場、ミニ店舗が並ぶ商店街をブラブラした後、チャンスさんは、一般の転移基地が並ぶ、交通ターミナルへと移動して行く。 それも、城下町の大通りに直結するコースだ。極めて一般的な移動コースだから、今のところ、アヤシサは無いけれども……

一般の転移基地は、だいたい最大3人ほどが入れる扉付きの小間を幾つも連ねた風になっている。順番に並んで、空いた小間に順番に入って行くと言う風だ。 公共施設に設置されている集団トイレに見えなくも無い。実際に人間を出し入れする訳だから、『人間トイレ』かも。

チャンスさんが入った小間が、赤いエーテル光で溢れた。すぐにエーテル変換装置が働いたようで、赤いエーテル光が白いエーテル光に変換される。 そして、正常に転移魔法陣が稼働した。転移魔法が終了すると、小間の扉が自動的に開く。

「それッ!」

空いている時で良かった。メルちゃんとわたしは、チャンスさんが使っていた小間に飛び込んだ。

直前の客データ、つまりチャンスさんが使用した転移データが、まだ残っている。行き先は、やはり城下町の大通りだ。

メルちゃんが『魔法の杖』を振ると、青いエーテル光が溢れて行く。

小間の扉に設定されている別の魔法陣が、白いエーテル光じゃ無い事を感知して反応した。 扉にある魔法陣が4色に光り、青いエーテル光を白いエーテル光に変換して行く。そして、尋常に転移魔法陣が稼働したのだった。

*****

――『茜離宮』城下町の大通り。

わたしたちが転移して行った先は、大通りに面する転移ターミナルだった。わたしたちと同様に、方々から転移して来た人々が、次々に小間の扉を開けて出て来る。

大通りに出てみると。

広い幅を備えた大通りの端から端まで、モンスター関連マーケットが立っている。夕方が始まる刻になっていたけれど、夏を思わせる陽気な暑熱が残っていた。

他種族のモンスター関連業者が多く行き交っていて、にわか国際マーケットと言う風。夜間も熱気が続くだろうと言う賑やかさだ。 モンスター肉やらモンスター骨やらを乗せた大型台車も、盛んに行き来している。

一度、交差点の真ん中で大きな台車同士がぶつかって、荷台から、あの蛍光レッドのムカデ型モンスターの死骸がバラバラ落ちて来た時は、 ホントにビックリしちゃったよ。一体どんな商品に変身するのだろうと思うと、今から背筋がゾワゾワして来る。

「あいつ、居た! ランジェリー・ダンスの店に入って行く!」

メルちゃんが目ざとくも、チャンスさんを発見した。わたしもメルちゃんの後を追って行く。

噂のランジェリー・ダンスの店、『盛り場の一等地にある』という話は本当だった。

大通りの隣にある盛り場――と言う絶好のポジションに『ミラクル☆ハート☆ラブ』という大きな看板を掲げた大きな店が、デデンと建っている。 ダンスホールとカジノ、ゲームセンター、それにレストランと酒バーが、入り乱れて入っているような雰囲気のお店だ。

この時間から早くも、多くのお客さんを迎えている。営業内容からして、夕方からお店が開くのは当然なんだろうけど、繁盛してるなあ。

建物全体は、『大人向けの遊園地な雰囲気』というのか、キャンディ・カラーのポップなシマシマ模様や水玉模様が付いている。 そして、真っ赤なハート模様が散らばっている。如何にも『その手のお店』という感じ。 なおかつ、周りを、如何にも『その手のラブホテル』といった建物が取り巻いている。

盛り場とされている街区は、一般の商業街区と、街路樹や水路でキッチリ分けられているし、建物の色がすごく違うから、良く分かる。 一般の商業街区は、生成り色を中心とした様々な色合いのアースカラーに統一されているんだよね。

チャンスさんは、あの怪しい金融魔法陣がセットされている工芸ボードを抱えたまま、『ミラクル☆ハート☆ラブ』に入って行った。

ただし、チャンスさんは何を気取っているのか、正面の入り口では無く、その脇の――細い通路に入った所にある、少し小さい入り口から、コソコソと入って行く。

でも、この事実は、メルちゃんとわたしにとっては、限りなく好都合だ。目立たずに入れる。 コソコソしたいお客さんが使ってる入り口だ。

明らかに従業員と思しき、酒バーやレストランの給仕ユニフォームをまとった人も出入りしてる。何故に給仕ユニフォームと分かったのかと言うと、 若い女性がメイドさんの格好なんだよね。ただし、ミニスカートだったり、網タイツだったり、ビキニ型だったりする。

ウサギ族の場合はバニーガール風で、ネコ族の場合はキャットガール風だ。 信じがたいことに、クマ族やウルフ族、レオ族のためのユニフォームもあった。

しかも、髪型も髪色も奇抜だ。パンチパーマ、トサカ・スタイルの盛り上げ髪型、宇宙人みたいな髪型、それに蛍光カラーのシリーズ。

此処では、三角巾を取った方が目立たないようだ。わたしは三角巾を取り、真っ赤な『花房』付きヘッドドレスと、 『炭酸スイカ』カラーな頭部をさらす事にしたのだった。

メルちゃんは、蛍光ピンクに白い水玉が付いた、金銀ラメもタップリな耳覆いを取り出して、ウルフ耳にかぶせている。 こういうのは、冬用の暖かいのがあるんだけど、パーティー仮装用のタイプもあるんだそうだ。

――でも、メルちゃん、こんな妙な仮装道具、いつも持ち歩いてるの……?

*****

出入口から、そろそろと、遂に『ミラクル☆ハート☆ラブ』の中に入る。

お店の中は――赤を帯びたライトアップがされていて、薄暗い。天井のあちこちで回っているミラーボールがチカチカしていて、すごく派手な印象だ。

大広間の所定の場所――特別に段が付けられていて舞台のように高くなっている場所では、 ワルっぽいファッションに身を包んだバンドが控えていて、「ヘイヘーイ」と合いの声を掛けながら、騒々しいまでに賑やかな音楽を演奏していた。

良く見ると、本当に舞台だったみたい。段が付けられて高くなっている場所は幾つかあって、中央にポールが設置されている。 天井で回っているミラーボールの光も舞台中央部に集中していて、今まさに中央部に出て来たネコ族と思しき女優をピカピカと照らしていた。

「さぁ、お待ちかねの登場だァ! 魔都の女王ピンク・キャット~ォ!」

司会も兼ねているらしい楽団(バンド)メンバーの1人が、「いぇーい」と威勢よく掛け声を掛けながら、「ジャジャジャーン♪」と、ギター風の楽器をかき鳴らした。

ピンク・キャットがお目当てと思しき客たちが既に客席に着いていて、酒のグラスを酒瓶に当てて拍手代わりの音を出したり、指笛を吹いて演技をオネダリしたりしている。

舞台に登場して来たネコ族の女優は、本当にピンク色を帯びた毛髪だ。染髪料で染めているらしい。

顔面には、スパンコールがきらめく妖艶な黒いマスク。マスクと言うよりは、目鼻立ちを巧みに隠している華麗な装飾品という風だ。それが余計に背徳的な雰囲気を演出している。 マスクからは、ハッとするような緑の目がのぞいている。

そして、何とも妖艶な黒い長いマント姿だ。

イントロと思しき、流れるようなメロディに乗って、濃いピンク色の高いハイヒールで、シャナリ(カツン)、シャナリ(カツン)と誘惑的な歩みを披露した後、 中央のポールに挑発的な雰囲気で立った。ご丁寧にピンクに染めた尾が、マントの打ち合わせから誘うように出て来て、色っぽく揺らめく。

ピンク・キャットは、徐々に振れ幅が大きくなっていくメロディに合わせて、その黒いマントを脱ぎ始めた。 チラチラと見える裏地が赤になっていて、表の黒との対照が鮮やかだ。最初は焦らすように、ゆっくりと脱いでいって――

――最後に大きな身振りをするや、ババーンと黒マントが放られた。回転するミラーボールがタイミング良く、強い光を放射する。

すると、スパンコールに彩られた黒色のスゴイ下着が、虹色に輝きながら現れたのだった。

その瞬間、客席で「おおぉッ!」と、大きなどよめきが上がった。「待ってました!」とか、「ヒュー、ヒュー!」とか言ってる。まさに大歓声だ。

ピンク・キャットの黒いランジェリーは、それだけの見ものとも言える。着ていない方が、よほど慎みがあるんじゃ無いかと思ってしまうような、スゴイ下着だ。

黒いマントの下に黒いランジェリー。濃いピンク色の高いハイヒール。変態のセンスを、いやがうえにも刺激するファッションなのは、間違いない。

天井にセットされているミラーボールが、回転を速めた。

ダンス音楽を担当する楽団(バンド)の演奏が、いっそう腹に来るような、迫力のある重低音のビートを奏で始めている。 ドラムと金物、それに低音域の、ベースギター風な楽器が中心だ。やがて、高音域を担当するリュートやバイオリン、ハープ類が、華やかで速いメロディをスタートさせた。

客席からの歓声に包まれたピンク・キャットは、華麗な装飾に彩られた黒いマスクを――それをつけた顔を――左右に振りながら、同時に身体をくねらせ、クルクルとダンスを踊り出した。

あんなに高いハイヒールを履いているのに、すごいバランス感覚だ。仮面で視界が怪しくなっている筈の中で、何故にコケないのか、全く分からない。

迫力満載なビートの音楽に乗って、ピンク・キャットのダンスは、佳境に入って行った。

中央のポールに脚を絡ませながらも、ピンク色のハイヒールを装着した足先を高く振り上げる。黒い下着の間で、金粉や銀粉をまぶしたのであろう胸の谷間が、 妖艶にキラキラと輝いた。背徳的な黒いマスクからのぞく緑の目も、誘惑ポイントが高い。まさに、アブナイ誘惑の、ランジェリー・ダンスだ。

メルちゃんが、唖然としたように呟く。

「よく、あんなに身体が曲がるよね」
「ネコ族だからかも」

わたしは、そう応じるしか無い。

ネコって元々、身体がすごく柔らかいのだ。ピンク・キャットの身体のくねらせ方も、信じられない程の柔軟さがあって、 それが余計に色っぽい。時々、ポールから完全に手を放してクルクルとスピンし、美しく脚を交差させて見得を切る一幕もある。 あんなに高いハイヒールで、見事にバランスをとっているというのも、さすがプロ、という所だ。

――ハッ! そう言えば、チャンスさんは何処に居るのか?!

メルちゃんも、やっと本来のターゲットを思い出した様子で、大広間の中を見渡す。

意外にも、チャンスさんは、すぐ見つかった。ピンク・キャットの舞台を取り巻く客席に居て、「ゲヘヘ」と笑っている所だ。 こういう見ものは、絶対に見逃さないという所が、如何にもチャンスさんらしい。

抜き足、差し足を始めた所で――

「あぁら、あんたたち、初めてのお客さんでしょ?」

――ギョッ。

アブナイまでに胸元を広げた、給仕ユニフォーム姿のイヌ族の女の子が、垂れ耳をピコピコ動かしていた。

給仕ユニフォームのスカート部分はちゃんと長いのだけど、大胆なまでに深いスリットが何本も入っていて、網タイツに包まれた色っぽい脚が、チラチラと丸見えだ。 給仕ユニフォームの定番のエプロンも、ちゃんとした布地と言うよりはレース飾りさながらで、ミニスカート丈しか無い。

唖然としていると、イヌ族の女の子は、手持ちのバスケットを差し出した。

「初めてのお客さんには、サービスでプレゼントする事になってるのよ。おひとり様、ひとつずつ、クジ引きで、どうぞぉ」

イヌ族の女の子が差し出して来たバスケットの中を見ると、香水瓶らしき、色とりどりの様々な形の容器で一杯だ。 いつだったか、チャンスさんがメルちゃんに差し出して来た、媚薬入りと思しき見覚えのある香水瓶も混ざっている。

とりあえず――最も無難そうな、大人しそうな香水瓶を拾う事にした。フラスコみたいな丸い容器に、透明な液体が入っている。

メルちゃんも同じ事を思ったみたいで、少し思案した後、『これが危なくなさそう』と思ったのか、黒い液体の入った、カッチリとしたデザインの香水瓶を拾っていた。

「熱い夜を、楽しんでねぇ~♪」

イヌ族の女の子は、投げキッスとセールス・トークを振りまいた後、 これがお店での定番のスタイルなのか、お尻をフリフリと振るスタイルで歩き去って行ったのだった。

あんなにお尻をフリフリするのだから、バランスを取る尻尾が無かったら、コケてたかも知れない。

さすが、プロだと感心しちゃう。

*****(5)怪しき行き先を突き止めて

メルちゃんとわたしは、チャンスさんに気付かれないように、改めて接近した。

幸いにして、チャンスさんは、妖艶なランジェリー・ダンスを演技しているピンク・キャットの胸とお尻から、目が離せない様子だ。 スゴイ下着だけに、『大事な所』が見えそうで見えない――という『チラ見なスリル感覚』が、たまらないらしい。

――ピンク・キャット、すごいよ。さすが、プロだよ。

やがて、ピンク・キャットのランジェリー・ダンスが終了した。

ピンク・キャットは黒いマントを拾い上げ、挑発的な歩みをしつつ、クルクルと振り回している。 ランジェリーを危なくズラしたり、ウインクをしたり、投げキッスをしたりしていて、余興の演技サービスにも余念が無い。

大喜びな客たちが、ヒューヒューと囃し立てながら、換金チップをチップ箱に投げ込んでいる。

ダンス・プログラムの合間は、アルコールを堪能する時間となっているようだ。心得た給仕たちが、興奮の収まらない客たちに、次々に新しいアルコールを供給している。 気分が盛り上がっていると、アルコールの消費もスピードアップするからね。ホント、上手く出来ている。

チャンスさんを足止めしてくれた御礼だ。わたしたちも、礼儀正しいウサギ族な給仕ボーイから少し換金チップを買い取って、近くのテーブルのチップ箱に入れて置いた。

楽団(バンド)の演奏が、飲み話を邪魔しない音量に収まって来ている。司会を務めている1人が、陽気なテンポの音楽に合わせて飛び跳ねながら、次のプログラムを案内していた。

「いえぃ! 楽しんだかーい? お次は、 あの話題のスペクタクル舞台『爆弾聖女・薔薇薔薇(バラバラ)の逃走追跡劇』のランジェリー・ダンス版だ! 見て損は無し! さぁ、 クラクラするような素敵な夜を楽しもうじゃ無いか!」

近くの物陰で息を潜めながら、チャンスさんを見張っていると――

チャンスさんが陣取っているテーブルに、別の客らしき人物が近づいて来た。ガニ股で歩いて来て、椅子にドスンと腰かける。

これまた、ワルっぽいクマ族の不良青年だ。ちょっと肥満気味の、縦にも横にも、ふくよかな体格。 角刈りなヘアスタイルなものだから、海賊さながらに額に走っているX型の傷跡も、いっそう凄みを増している。

さすがに今日の暑熱が、クマ族な毛深い身体に、こたえているらしい。

何処で手に入れたのかと思うような、『ナンチャッテ暴走族トロピカルなキラキラ&ヒラヒラ』の上下を、裸の上に直接まとっている。 しかも、色黒の胸元の辺りに、『ツキノワグマの月輪模様』を模した、刺青がある。

――まさに『街角のチンピラ』と言う風の、クマ族の不良青年だなあ。

チャンスさんと、謎のクマ族の青年は、一言二言くらい交わした後、互いに手に酒瓶を持ってカチンと打ち合わせた。

次にクマ族の不良青年が、持って来た大型カバンを、テーブルの下で滑らせる。チャンスさんが足元でそれを受け止め、 持ち込んで来ていた携帯魔法陣ボード――不正な金融魔法陣がセットされていた代物――を、大型カバンに入れて、クマ族の不良青年の足元に戻す。

クマ族の不良青年は『魔法の杖』を取り出し、チャンスさんが既に取り出していた『魔法の杖』をつつく。 2本の『魔法の杖』が暫し、シンクロしながら光った。その後、2本の『魔法の杖』は、スルスルと、お互いの持ち主のホルダーの中に納まった。

ワルっぽいクマ族の不良青年は、酒瓶の酒を豪勢にラッパ飲みすると、 気取っているかのように、『ナンチャッテ暴走族トロピカルなキラキラ&ヒラヒラ』に包まれた肩を揺らしながら、立ち上がった。 ブツの入った大型カバンを無造作に抱えて、店の奥へと入って行き、奥の階段を登って行く。

チャンスさんは、酒グラスに残っていた酒をグイッと飲み干した後、満足そうに席を立って――酔っているのか、いないのかも不明な、ヒョイヒョイとした足取りで、 『ミラクル☆ハート☆ラブ』を出て行ったのだった。

メルちゃんとわたしは、頷き合って、チャンスさんの後を再び追跡した。

既に日は暮れていて、夜間照明が灯り始めている。早めの夕食の時間帯だ。ちょうど良い場所に屋台が出ていたので、 最もポピュラーで、なおかつ安全な、ナッツ類とドライフルーツ類を買って、エネルギー補給用とする。

「あいつ、何処へ行くつもりなのかしら? この先は運河よ。その先は国境だってのに」

次の植え込みの陰に身を潜めたメルちゃんが、ドライフルーツをかじりつつ、訝しそうに目を細める。わたしも、そーっと植込みの上に目を出してみた。

確かに、あの金髪の、ボワッとした不思議な髪型をしたチャンスさんが、運河の傍でウロチョロしている。如何にも怪しげだ。

――やがて、チャンスさんは運河へと降りて行った。 長身が、頭のてっぺんだけを残して、向こう側に沈む。程なくして、ボワッとした不思議な髪型が、上下にユラユラと揺れながら、滑るように移動し始めた。

「渡し舟に乗ったんだ! 急ごう!」

メルちゃんとわたしは、運河を仕切る欄干に駆け寄ると、慎重にチャンスさんが滑って行った先を窺った。

夜の運河の上を、プカプカと渡って行く渡し舟の影が、確かにある。焦って見回すと、幸いと言うべきか、一回り小さな小舟が、桟橋の下に残っていた。

チャンスさんは大柄な体格だから、大きな渡し舟を選ばないといけなかったらしい。わたしとメルちゃんだったら、残っている方の小舟でも充分だ。

――追跡、再開!

メルちゃんが《水霊相》生まれな事は、運河の上の追跡では、すごく有利。《水霊相》生まれだと、《水魔法》は発動しやすい。

チャンスさんは、上流へと向かっている。静電気をタップリまとっているお蔭で、全身が青白くボーッと光っているから、すぐに分かった。 『怪人・夜光男』も納得の、お目立ちぶりだ。せっせとオールを漕いで渡し舟を前進させている。

一方、メルちゃんは《水魔法》でもって水の流れを調整して、スイーッと移動だ。 わたしは、重心が偏らないように体重を移動させているだけで大丈夫だった。

一刻をよほど過ぎて、まるまる二刻ほども経った頃だろうか。

前方で、チャンスさんの『バッシャ、バッシャ』というオールの音が途絶えた。

――此処は、運河に流れ込んでいる細い支流のひとつだ。既に川岸は石積みの護岸では無く、丈の高い水草がモサモサと生えている。 比較的に岩場が多いために、天然の舟着き場となっているらしいポイントがある。

その岩場で、チャンスさんの渡し舟が乗り捨てられていた。チャンスさんは既に上陸したらしい。

乗り捨てられた渡し舟は、プカプカと漂いながら、川の流れに乗って運河へと戻って行く。ズボラだけど、実に上手な証拠隠滅だ。 戻って行った渡し舟は、元の桟橋のところでせき止められる形になる筈だ。

辺りは、既にとっぷりと暮れている。

――ねえ、メルちゃん、家の家族の方とか、フィリス先生への連絡は大丈夫?

メルちゃんは、ニンマリとした笑みを返して来た。

「フフフ、今日は暑いから、ついでに『炭酸スイカ』風呂に行ってるって連絡したよ。あと一刻や二刻くらいは、ごまかせるよ」

――そうなの? さすが、メルちゃん?

そんな確認を交わしながらも、適当な大岩を見繕って、そこに、わたしたちが乗って来た渡し舟を係留した。戻る時に、舟が無いと大変だしね。

*****

――チャンスさんは、何処へ消えたんだろう?

城下町の中では、夜間照明が一杯あって、追跡も楽だったけど。

こんな端っこまで来ると、本当に真っ暗だ。季節の変わり目のせいか、雲が多いから、星明りも頼りない。

草ボウボウで、ヤブだらけ、岩だらけで足場は悪いから、幾ら大の男の脚力を持つチャンスさんでも、そんなに遠くまで行って無い筈なんだけど。

地面に鼻を近付けて、ウルフ族ならではの嗅覚が、チャンスさんの痕跡を拾ってくれるかどうか、試してみる。

「あッ、あっちで、何か物音がした」

メルちゃんの黒いウルフ耳が、ピコピコッと動いた。いつの間にか、あのパーティー仮装用と思しき派手な耳覆いを、取り外してあったようだ。 『人類の耳』よりも数倍は感度が良いし、超音波も拾ってくれるから、羨ましい限りだ。

背の高い草に身を隠し、ヤブの中をスリ抜けながら、音源へと素早く接近する。小柄な体格って、こんな時は便利だね。

足場は、やはり悪い。ゴツゴツとした岩石が剥き出しになっていて、その隙間に土が溜まり、 そこに辛うじて、荒れ地に強いヤブや低木類が固まって生えている、という感じの土地だ。

ヤブの途中で、チャンスさんがへし折って行ったと思しき、新しい乱れが見つかった。

やがて、わたしの『人類の耳』でも捉えられる物音が響いて来た。

――鉄格子の『ガタガタ』と言う音に重なって、ガシャガシャ……と、硬くて、ザラつくような音が、やけに広範囲から響いて来る。 大型の動物が居るのか、唸り声も聞こえて来る。

穏やかな場所じゃ無いらしい。

一気に、総毛立った。嫌な感じがする。

メルちゃんも同じみたいで、慎重な動きへと変化した。最寄りのヤブと思しき茂みに身を隠し、コッソリと窺う。

そこに、あるのは――牧場みたいな施設だ。沼の臭いがする。

沼の周りを頑丈な鉄格子で囲っているらしい。鉄格子の内側で、何やら、多足タイプの昆虫型の怪物みたいな影が押し合いへし合い、 ガシャガシャと言うザラつくような音響を立てている。

時折、チカチカと光るのは目玉だろうか。2ツ目を持つ、人体よりもずっと大きなサイズの怪物のように見える。

ハッキリと断定できないけど、赤黒い不気味な色合いをしているようだ。それに、ドロリとしたような血の臭いも漂っている。 何が起こっているのか、闇で詳細が分からないだけに、ホラーだ。

鉄格子が切れている場所をカバーするように、大きな見張り塔のような円柱形の塔が立っている。闇の中でも、意外にドッシリと安定感のある造りが窺えた。

中世の頃は現役だった、本物の見張り塔みたい。此処は、緩衝地帯なんだ。今の国境線が確定した段階で、打ち捨てられたんだろう。

*****

やがて、円柱形の塔の、倉庫の扉みたいな巨大扉が、『ガシャン』と音を立てて開く。 5人から6人くらいの、クマ族の男たちと思しき特徴的な人影が続々と出て来た。鉄鎖を束ねて、肩に掛けているのが分かる。さすがクマ族の男と言うべきか、怪力だ。

――ドロリとした血の臭いがドッと溢れて来た。この重い臭い、最近、嗅いだ事がある――

これ、もしかしなくても、血の滴るモンスター肉の臭いだ。

6人組ほどのクマ族の人影が消えた後。

続いて、クマ族と思しき2人組の影が扉の内側から現れた。次に、ボワッとした不思議な髪型をした、青白くバチバチと光るイヌ科の人影が現れる。チャンスさんだ。

クマ族2人と、チャンスさんは、何やら、両手で抱えるサイズの大きな箱をやり取りしている。何が入ってるんだろうか。 箱を受け取ったチャンスさんの様子からすると、ズッシリとした重さがあるようだ。

チャンスさんは暫しの間、箱をクルクルと回すと、大柄なイヌ族の男ならではの筋力を発揮して、ヒョイと担ぎ上げた。 箱にロープをセットして、背負い袋みたいに担げるようにしたらしい。

程なくして、2人組のクマ族と、『怪人・夜光男』なチャンスさんは、ひどく崩れた敬礼を交わす。

クマ族の2人組は扉の内側へと消え、扉が『ガシャーン』と音を立てて、閉じられた。

チャンスさんは、全身から赤いエーテル光を放ち始めた。《変身魔法》だ。見る間に、赤いエーテル光の人影が変形し、立ち耳と巻き尾を持つ、大型犬の形となる。

次の瞬間、そこには、金色の毛皮をした、大きな『犬体』が出現していたのだった。人体を余裕で上回るような、堂々たるサイズだ。

ただし、全身は静電気を帯びてボーッと青白く光っており、バチバチと火花を立てている。 自慢なのであろう金色の毛皮の方も奇妙にボワッとしていて、間が抜けている風だ。

背中に背負った箱の方は、サイズが大きすぎたのか、そのまま身体を取り巻くエーテルのモヤには溶け込めなかったらしい。 見た目、大きな犬が、箱をロープでくくって背負っているスタイルだ。

金色のボワッとした毛皮をした大きな雑種犬は、まさにチャンスさんならではのヒョイヒョイとした足取りで、あっと言う間にその場を離れて行った。

方向からすると、川を下って、運河の側から再びウルフ王国に入国するつもりだろうと分かる。

犬には『犬かき』という泳ぎ方がある。流れの遅い運河を渡るのは、あのような荷物を抱えていても簡単。 毛皮は濡れるけれど、今日は気温が高いから、そんなに気にならない筈だ。

この付近ではクマ族が多い――という事実を考えてみると、此処は、クマ族が支配する飛び地領土との緩衝地帯、という事になるらしい。

あのクマ族たちも割とヨロシク無い事をやってるみたいだから、ウルフ族なわたしたちを見かけても、クマ族の側の公的機関に、 領土侵入やら何やらの名目で即座に突き出す、ような事はしないと思うけど……

――此処、いったい何をしている所なんだろう?

心臓をドキドキさせながらも、慎重に、怪しい音源との境界となっているらしい鉄格子に近づく。メルちゃんの持っている『魔法の杖』が、コッソリと夜間照明の光を放った。

「で、でかい、ザリガニ……」

メルちゃんが絶句する。

わたしとメルちゃんは――呆然と、立ち尽くすのみだ。

人体サイズを遥かに超える、信じがたいまでの大型の、赤黒いザリガニの大群が、鉄格子の内側で押し合いへし合いしている。沼地を囲い込んでいるのも納得だ。

――ザリガニ牧場なんだ。

でも普通、ザリガニは、此処まで大きくならない。モンスター肉を食わせて、超大型化させているのに違いない。

大部分のザリガニたちが、旺盛に脱皮している。脱皮するたびに一回り大きくなる筈だ。ガシャガシャと言う硬い音は、ひっきりなしに続いている。 大型化して行くスピードが、指数関数的に加速しているって事だと思う。

――このザリガニたち、『ザリガニ型モンスター』に進化しているよね……

不吉な予感が、ジワジワと湧き上がって来た。これ、ウルフ王国の隊士たちに知らせるべき事態だと思う。 この『ザリガニ型モンスター』が、更に大型化して、狂暴化して、鉄格子を破って暴走するような事態になったら……

メルちゃんとわたしは、ジワジワと後ずさった。後ずさって行って――

不気味な『ザリガニ型モンスター』の大群に気を取られていたのが、マズかった。

――バチ、バチ、バチッ!

一歩、足を踏み間違えた瞬間、身体全身をつんざくような静電気ショックが走った。ビックリするような火花が立ち、大音響と共に、辺り一帯が明るくなる。

「バレた!」

――逃げろ!

メルちゃんとわたしは、回れ右で逃げ出した――けど、逃げられなかった。

静電気ショックは意外に強烈で――メルちゃんとわたしは、身体全身が痺れて、転倒してしまったのだ。

「誰でぃ! 泥棒め!」

古い見張り塔の、大きくて重そうな扉が、『ガシャーン』と開き。

2人組の巨人のようなクマ族が、手に『警棒』タイプの魔法の杖を構えて、現れたのだった。

*****(6)大暴走と大脱出

メルちゃんが、真っ赤になって激怒している。

「もう、もう、こんな事になるとは思わなかったわ! あの『火のチャンス』、今度会ったらタダじゃ置かない! 殴り倒して、しばき倒して、 押し倒して、『炭酸スイカ』で投げ倒してやるから!」

メルちゃんのふんわかした黒髪は、静電気ショックのせいで、変なパンチパーマと化していた。

「あの『怪人・夜光男』を本気でブッ殺すなら、列に並ばなくちゃダメだよ」
「そうそう、メルちゃんは3番目だからね」

応じて来たのは、メルちゃんと同い年の、2人のウルフ少年だ。片方が金髪で、もう片方が黒髪。

*****

――此処は、見張り塔の最上部の梁から吊り下げられた、巨大な鳥籠のような、空中牢屋。この見張り塔は、天井部分が無くて、完全なる吹き抜け構造だから、 この空中牢屋は文字通り、『野ざらしの鳥籠』ってところだ。

何と、先客が居た。

今朝から行方不明になっていた、ケビン君とユーゴ君だ。2人とも、やはり奇妙なパンチパーマ風のヘアスタイルだ。 金髪と黒髪が、双子みたいにパンチパーマで揃えてあるので、ちょっとした見ものではある。

ケビン君とユーゴ君も、朝市でチャンスさんの怪しい行動を発見し、追跡していた。そして、わたしたちと同じように静電気ショックの罠に引っ掛かって、 『とりあえず』、この空中牢屋に押し込められていたのだった。

空中牢屋には、エーテル魔法を遮断する仕掛けが付いていた。空中牢屋に閉じ込められたところで、『魔法の杖』が使用不可になったと言う。

――ユーゴ君も、姉のサスキアさんと、連絡が付かない筈だよ!

即座に殺されなかったのは、本当に幸いだったと思う。 全員まだ子供だし、人身売買マーケットに売り払った方が、よほど金になるからに違いない。近い将来の運命を想像すると、到底ラッキーとは言えないにしても……

美少女なメルちゃんは、別ルートの嫌な目に遭う可能性もあったのだけど。

想定外の静電気ショックのお蔭で、メルちゃんも、わたしと同じように痺れまくり、ヨダレ垂らしまくりの変顔になっていたので、 クマ族の男たちの、そっち方面の好奇心を刺激しなかったようなのだ。

*****

ケビン君が、暗い顔をしながら解説して来た。金色のウルフ耳が、ゲッソリとヘタレている。

「あの静電気ショックの罠、静電気を提供したのは、あの『怪人・夜光男』のチャンスなんだよ。あのクマ族の2人、ラガーとゾロが笑いながら話してた。 フィリス先生は、静電気をタップリ流し過ぎちゃったんだね」

――うーん。回り回って、こういう結果につながるとはねぇ。この世は驚きで満ちている。

記憶喪失だけど、わたしが、此処では一番の年上だ。シッカリしないと。

どうしたものかと頭を抱えると、静電気ショックでパンチパーマ風になった髪の毛に、手が触れた。 わたしが一番、スゴイ恰好だろうな。『炭酸スイカ』カラーリングで、そのうえに、即席パンチパーマだし。

次に身体をアチコチ探ると。

ポシェットに手が触れた。あ。夜の屋台でゲットした、ドライフルーツ類とナッツ類、まだ残ってたっけ。ナッツ類の方は、まだ封を切って無いから……

ユーゴ君のお腹が、キュルキュル鳴っている。ケビン君もゲッソリした様子だ。朝から何も食べていなかったに違いない。 成長期を控えた男の子に、これはキツイだろう。

「ナッツ類があるから、取りあえず食べて。ドライフルーツも、まだ半分以上は残ってるから、少しずつと言う事で……良いよね、メルちゃん?」

メルちゃんも、コックリ頷いて来てくれた。

ケビン君とユーゴ君は、早速、目をキラーンとさせて、ナッツ類を食べ始めた。さすが男の子だ。お腹に物が入ると、だんだん元気になって来たらしい。

金髪と黒髪のウルフ少年コンビは、気分が落ち着いて来たのか、2人で探り出した事を口々に説明し始めた。

――此処は、やはり、ウルフ族の飛び地領土とクマ族の飛び地領土との、緩衝地帯だった。

この見張り塔は、本物の遺跡。その頑丈さを生かして、鉄格子で囲ったザリガニ牧場の要としている。 ちなみに、このザリガニ牧場は、闇ギルド御用達の、違法のザリガニ牧場だ(クマ族の2人組、ラガーとゾロが、そう言ったから間違いない)。

違法ザリガニ牧場を運営しているのは、クマ族のチンピラたちだ。10人か、そこらの仲間が居る。 『茜離宮』城下町に立った『モンスター商品マーケット』からモンスター肉を横流しして来て、ザリガニに食わせて育成しているところなのだ。

くだんの金髪イヌ族の不良プータロー『火のチャンス』は、静電気ショックの罠に協力している。更に、モンスター肉を横流しする専門の業者との連絡係もやっているらしいが、 それ以上の悪事を、チャンスがやっているかどうかは、分からない。

近々、闇市場で、『ザリガニ型モンスター』の取引が始まる。此処に集められているザリガニは、そのために育成されている。

牧場でザリガニを追ってるのは『闘獣』。元・レオ族のライオンな『闘獣』が、5匹、居る。

本物の高級ブランド品は、《魔王起点》から沸いて来た『ザリガニ型モンスター』なんだけど、此処に居る不良クマ族たちは、 この偽物なブランド品を水増しして投入して、儲けをかすめ取る予定だとか……

――うーむ。せこい。

何とも『せこい所業』だけど……儲けは意外に大きそうだし、れっきとした犯罪だ。どうした物か。

再び、ケビン君とユーゴ君が、ひもじそうな顔で見つめて来たので、ドライフルーツを1セットずつ分ける。 ついでに、お腹が空いて来たメルちゃんにも。

わたしは既に16歳で、身体が完成しているせいか、余りお腹が空かないんだよね。魔法も使ってないし。

――あれ。何か、足りないような気がする。

「何が足りないって? ルーリー?」

メルちゃんが、不思議そうに聞いて来た。

――えーと、香水瓶だったっけ? クジ引きの。2個とも、何処かに落としちゃったみたい。クマ族の2人組、ラガーとゾロだっけ。乱暴に運ばれたからね。

「あ、ホントだ。ランジェリー・ダンスのお店の香水瓶が……」
「そんな所へ、何しに行ってたんだよ?」
「ろくでなしのチャンスが、入ってったからよ」
「なるほど~」

わお。チャンスさんの名前、此処でも説得力、満点だ。スゴイ。

――うおぉぉおおおん。わおぉおおぉぉん。

――ガシャ、ガタン。ドスン、ゴシャン。バスン。ドス、ドス、ドス……

おや? 何やら、この見張り塔の下の方で、騒いでいるような……

「何だろ?」

ケビン君とユーゴ君が、ヒョイと下の方をのぞき込んだ。鳥籠さながらの空中牢屋が、ガクンと揺れる。

――うわ、わたし、遥かな下の方が見えるとダメなの!

ピシッと全身が強張った。高所トラウマ発動だ。もう、イヤ。

「おぉ?!」
「何か、すげー! ワッ、扉が吹き飛んだ!」

すぐに『ガシャーン』という大音響が響いた。ホントに扉が吹っ飛んで倒れたらしい。

ザザザザッ、という轟音と振動が続き、ゴゴゴ……という騒音と共に、見張り塔の全体が揺れ始めた。

――何が起きてるの?!

「巨大ザリガニの大群だ! 入って来た! 目玉が真っ赤……攻撃モードだ!」
「レオ闘獣じゃねぇか! ザリガニを追ってる牧場用の闘獣が、5匹、全員、居る!」

再び、鳥籠スタイルな空中牢屋が、グランと揺れた。そして『ガチャ』と音を立てた。

「おい、ロックを解除したぞ! この見張り塔は崩れる! 出ろ!」

――何?!

ケビン君とユーゴ君が仰天しながらも、頭上を振り仰ぐ。見知らぬ声は頭上から降って来たのだ。

見ると。

あの灰褐色の毛髪をしたウルフ族少年が、サーカスの軽業師さながらに、空中牢屋の上部に取り付いていた。隊士の紺色マントをまとっている。

灰褐色の少年が再び『魔法の杖』を振るうと、空中牢屋の上部パーツが、半分ほど、バチンと音を立てながら吹き飛んだ。

吹き飛んだ上部パーツは、遥かな下の方へ――見張り塔の基底床へと落ちて行った。巨大ザリガニと、レオ族『闘獣』が、押し合いへし合いして大混乱している、その真ん中に。

「ガウ、ガウ、ガウ~ッ」
「ぐぉおおぉ」

ゾロとラガーの物と思しき、クマ族の不良な2人組の――呻き声とも悲鳴ともつかぬ、怪獣さながらの重低音の雄たけびが上がって来る。

それに重なっているのは、空中牢屋のパーツの一部だった物の、『ゴキ、バキ、ベキ……』という、背筋の寒くなるような怪音。 ハッスルしたクマ族ならではの、信じがたいまでの怪力で、メチャクチャに折り曲げられて、『ご臨終』しているのだ。

――バーサーク化している!

クマ族の2人組は、既に、『人体』の鳴き声を上げていない。

正真正銘の凶獣としての、狂乱の雄たけび。その異様なまでに血を欲する攻撃的な声質からして、完全にバーサーク化したクマ族だ――と理解できる。

熊の頭を乗せた、パワフルで獰猛な巨人であろう事は確実だ。手にも足にも、ゾッとするような鋭い熊の爪が、飛び出しているだろう。

――再び捕まったら大変だ!

ケビン君とユーゴ君は、即座に身軽な『狼体』へと変身し、灰褐色の少年の促しに応えて、先に脱出だ。梁を伝って、見張り塔の縁へと駆け出す。 そして、疑問顔で足を止め、振り返って来た。

灰褐色の少年が『魔法の杖』を振り回して、急き立てる。

「急げ! 今、ザリガニ共も闘獣も、クマ族の2人も、混乱してて頭が回ってねぇ! こいつら、より多くの獲物の匂いのある方向へ暴走するぜ、 先に、城下町の隊士たちに通報しろよ! オレたちは後から行く!」
『了解!』

金色と黒色の少年『狼体』は、見張り塔の下へと身を躍らせた。

――『狼体』だと、見張り塔の高さも何のその、らしい。

やがて遥か下の、混乱の性質が変わった。

灰褐色の少年の警告通り、巨大ザリガニと、レオ族な『闘獣』と、バーサーク化クマ族の2人組は、 『より多くの獲物の匂いのある方向』――つまり、『茜離宮』城下町の方向へと、向きを変え始めたのだ。

更なる混雑と振動で、見張り塔の全体が動揺する。巨大ザリガニの大群の突進。巨大なザリガニ・ハサミの衝突。 レオ闘獣の爪と牙による突き崩し。それにバーサーク化クマ族の2人組が起こす、魔法の衝撃波。

ありとあらゆる攻撃を受けて、古びた見張り塔の石積みの壁が、バラバラと崩れ始めた。

メルちゃんが『狼体』に変身し、上部の穴から『ビュンッ』と飛び出す。続いて、わたしだ。

わたしは『狼体』に変身できない。灰褐色の少年と『人体』に戻ったメルちゃんに、両方から手を引っ張られつつ、ヒイヒイ言いながら空中牢屋を這い出て、梁にしがみつく形になった。

そして――そのまま、凍り付いたように動けなくなってしまった。『高所トラウマ』発動だ。

「チクショウ、姉ちゃん、動けよ! この塔、本当に崩れる!」
「ルーリー、動いて!」

――ごめんよぅ! 2人だけでも、先に逃げて~!

「冗談じゃねぇよッ! 姉ちゃんが死んだらオレが斥候に殺されるんだ、面が割れてんだから!」

塔全体が、不吉な『ビキビキ』という重低音を立て始めた。基礎部分に亀裂が入ったと言う事だ。

「あれあれあーッ!」

見張り塔が大きく傾き、メルちゃんが意味不明な悲鳴を上げる。

足を滑らせた瞬間のメルちゃんの腕を、灰褐色の少年の手がつかんだ。わずかながら筋骨が付いていたお蔭か、少年の態勢は大きくグラつきながらも、梁の上で持ちこたえる。

身軽なメルちゃんは、一時は宙ぶらりんになりながらも、すぐさま梁の上で態勢を立て直した。ウルフ族のバランス感覚は優秀だ。

バーサーク化クマ族の2人組が『魔法の杖』で放つ衝撃波が、見張り塔の基底部分から最上部の部分まで達する、幾条もの大きな裂け目を作る。

――ビシ、ビキン、バシィン!

石積みが重力崩壊を始めた。余りにも攻撃を受けすぎて脆くなっていた下層部の石積みが、上層部の重量と動揺を支え切れなくなったのだ。

「高所トラウマ……メル、姉ちゃんの目をふさげ!」

メルちゃんは、少年の指示の意味を一瞬で理解したようだ。

梁にうつ伏せにしがみついたままの、わたしの背中に馬乗りになる。馬乗りになるや否や、メルちゃんは、わたしの目を両手で、ピッチリとふさいできた。

――わッ! 何も見えない!

別の意味で総毛立つ。顔をフルフル振ってみたけど、メルちゃんの手は、シッカリへばりついたまま、取れない。

見張り塔は、いよいよ、決定的な角度に傾き始めたらしい。不吉なまでの轟音が、いつまでも続く。重力を感じる方向が、今までのお腹の下から、横腹に移動した。

――この塔って、横倒しに倒れようとしてるの?!

少年の手が、わたしの腕に掛かるのを感じる。次の瞬間、左右のひじの位置に、順番に強烈な打撃が入った。わたしの腕の感覚が無くなった!

ひじを打った一瞬、腕の全体の感覚が無くなる程にジーンと来て痺れる事があるけど、あの応用らしい。

少年が、わたしの痺れた腕を引っ張ったらしい。「うおぉ」と言う気合と共に、わたしの身体が梁から引き剥がされた。

塔が更に、不吉な『ギギギ』という軋みを立てている。

次の一瞬――足元の感覚が無くなった。空中に放り出されてるって事だ。ひいぃ!

「手ぇ離すなよ!」

少年のわめき声の直後、自由落下しているのであろう、猛烈な空気抵抗が全身に掛かって来た。

「あれあーッ!」

少年が足場の名残を力いっぱい踏み切ったのか、暫し横殴りの風が来る。

メルちゃんは死に物狂いならではのガッツでもって、後ろの方から、わたしの目を両手でふさいだままだ。お腹に、メルちゃんの両足がシッカリ絡みついているのを感じる。

「風の精霊王の名の下に……パラシュート!」

少年の詠唱だ。続いて、有り得ない強風が足元から吹き上げて来た。魔法の風らしい。

――パンッ!

強靭な布のような物が――足元から吹き上げて来る強風を捉えたような音だ。自由落下の速度が、止まった。代わりに聞こえて来るのは、ゴウゴウと言う強風の音だけだ。

ゴウゴウと言う強風の音の他にも、何やらゴロゴロ、ドロドロ……と言う重低音も重なって来てるんだけど、強風の音の方が大きすぎて、良く分からない。

左手首が痛い。少年の左手が、わたしの左手首を強くつかんでいるのを感じる。

わたしの背中にはメルちゃんが取り付いていて、相変わらず両手でわたしの目をふさいでいる所だ。 外界の様子が全く分からないけど、足元の感覚がまるで無い。空を飛んでるって事だろうか?

数刻も経ったように思われたけれど――

――実際は、ピンク・キャットのランジェリー・ダンスの、一節の演技タイムにも満たない時間だっただろう。

足元が、何やら、背の高い草と思しきワサワサした物に触れ――ヤブのてっぺんの方を、かすったらしい。ザザッとした感触が来るや否や、強風が息切れしたかのように弱まった。

続いて、身体全身が、ヤブに受け止められたらしい。ペキペキという小枝の折れる音が続き、バサバサという葉擦れが重なる。

そして――少年とメルちゃんと、わたしは、ヤブと思しきカタマリを飛び出し、少しの間、結構な勢いで、ゴロゴロと転がったのだった。 荒れ地に散らばっているのであろうゴツゴツの石が、身体を打ちまくって来る。

やがて、いきなり別のヤブに突っ込んだような衝撃が来た。そこで、わたしたちの身体は、転がるのを止めたのだった。

「あたたたた……」

最初に声を上げたのは、メルちゃんだ。力尽きたかのように、わたしの背中でグッタリとなり、わたしの目を塞いでいた両手も外れる。

――ごめんよ、メルちゃん。大丈夫?

視界が戻ってみると。

わたしたち3人は、やはり、地上のヤブの中で転がっていた。灰褐色の少年も、ヤブの中にうつ伏せに埋まったまま、傍でゼェゼェと息をついている。

――息を整え、全身のズキズキとした痛みが鎮まるまでの、沈黙の時間が続いた。

こりゃ間違いなく、全身、すり傷だらけだ。

ヤブに受け止められてショックが弱められたとは言え、ヤブの小枝は鋭いし、此処、荒れ地ならではの、ゴロゴロとした石が転がってるからね。

見張り塔だった堂々たる物体は、ひとつ先の盛り上がりの上で、完膚なきまでに瓦礫の山と化していた。 ザリガニ牧場となっていた筈の、グルリと巡る鉄格子も、ホンの名残、という程度しか残っていない。

そして、あれ程に居た『ザリガニ型モンスター』の大群は、今や皆無だ。

5匹は居たと言うレオ闘獣も、2人組のバーサーク化クマ族も、何処かへと行ってしまったのか、影も形も――気配すらも、無い。

その代わりに、四方八方に、石積みの残骸が荒々しく散らばっている。

見張り塔は大きく揺れ動いた後、吹き抜け構造を成していた壁が、裂け目に沿って四方八方に割れて倒れて行ったらしい。 あのバーサーク化クマ族が起こした、魔法の衝撃波による爆裂のせいなのだろう。

塔の崩壊の及ばない距離にある――それも、落下の衝撃を緩和してくれるヤブの所まで、灰褐色の少年は、どうやってか飛んでくれたのだ。

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深森の帝國