―瑠璃花敷波―10
part.10「因縁の発生せし処*2」
(1)謎と黙示のスクランブル(前)
(2)謎と黙示のスクランブル(後)
(3)ささやかな突破口
(4)正解と誤解が行き違って決闘
(5)もうひとつの過去の情景
*****(1)謎と黙示のスクランブル(前)
秘密会談な昼食会の翌日――
城下町のメイン・ストリートでは、臨時の『モンスター商品マーケット』が立っている。
モンスター襲撃があった後、この3日間は、このエリアを領土としているウルフ族の業者たちの間で取引を独占していた。
その日程以降は、方々からやって来る、他種族のモンスター関連業者に開放されている。
今は、他種族のモンスター関連業者にも市場開放されている日程だ。
それで、朝も早くから、他種族のモンスター関連業者たちがゾロゾロとやって来ている。『モンスター商品マーケット』は、まさに最高潮だ。
モンスターの硬い骨や装甲などは、特殊建材や魔法道具の原料になるのが多い。
モンスターの血液や肉体部分は、エーテル燃料をタップリ溜め込んでおり、良く燃えるので、機械の動力源になったり、魔法の溶鉱炉の燃料になったりする。
――そのうえ、有毒な個体が混ざっていた場合は、珍しい毒物も採集できるのだ。猛毒と良薬は、同じ紙の裏表みたいな物。
モンスター狩りが儲かる訳だよ。一攫千金も夢じゃない。
*****
目下、わたしは。
ディーター先生の研究室の前に広がっている小さな空き地で、日常魔法の練習をしているところだ。
メルちゃんが持っているような、軽いタイプの『魔法の杖』の備品を提供されている。万人向けの量販品で、魔法道具に毛が生えたような物。
魔法道具の場合は、様々な機能に特化しているから、必要量のエーテルを流すだけで良くて、特に特別な操作は必要ない。
しかし、『魔法の杖』は応用範囲が広い――別の言葉で言えば、目的を限定しない――魔法道具。ゆえに、目的に合わせてエーテル流束を操作すると言う練習が要るのだ。
――理屈面での理解は、バッチリなのだけど。
わたしが描き出した『正字』や魔法陣の形は非常に正確だと言う事で、他の人がエーテル流束を流せば、ちゃんと魔法発動するのだけど。
エーテル流束の体内への呼び込み――エネルギー流入はあるらしいんだけど、魔法発動エネルギーとしては、ちっとも流出して来ていないのだ。
『魔法の杖』は青く光ってるのに、全然、魔法が発動しない。
それこそ、魔法の《霧吹き》を発生させて、手前の花壇を湿らす事さえ難しい。
もう、グッタリだ。
ヘタレまくって石畳の上に突っ伏していると、ディーター先生がやって来て、『ヤレヤレ』と言った風の溜息をつきながらも、
わたしをヒョイと持ち上げてくれた。
今は丈夫なチュニックとズボンのセットなので、布地が破れる心配は無い。背中をつかまれて、荷物みたいに運ばれる格好になる。
降ろされたのは、ベッドみたいに柔らかな緑の芝草の上だ。ディーター先生、お気遣い有難うございます。
「フィリス、エーテル流束は観測できたか?」
「ダメですね。魔法エネルギー量が限りなくゼロです。何が起こっているのか分かりませんけど、拘束具が妨害しているんじゃ無いでしょうか」
フィリス先生は、手に釣り竿を持っているところだ。
その釣り竿から下がっている釣り糸の先に、正十二面体の形をした特別なアンテナがくくり付けられている。
ひとつひとつの面が正五角形だ。虹色をした魔法の棒でラインを組み立ててある、スカスカなスタイル。
この不思議な多面体型のアンテナで、微小なエーテル流束を観測できるらしい。
仕組みは良く分からないけど――便利な魔法道具があるものだと感心してしまう。
「問題の拘束具には、魔法発動を妨害するような魔法陣は見当たらなかったがなぁ。こりゃ、またスタートに逆戻りか」
ディーター先生がそんな事を呟いていると、フィリス先生の『魔法の杖』が白く点滅し始めた。
あの点滅パターンからすると、ディーター先生かフィリス先生に、中央病棟の総合エントランスの方から連絡が入って来てるんじゃないかな。
フィリス先生が通信の呼び出しに応じる。
「ハイ? 総合エントランスに、お客さんが来てる? ディーター先生の新しい論文に興味を持ってやって来た、
他種族の上級魔法使い……鳥人ですか? レオ族の護衛が付いている。知らない人ですけど……ええ、すぐ応対に参ります」
フィリス先生は通信を切ると、ディーター先生に一声掛けて、総合エントランスの方へと走って行った。やっぱり、お客さんだった。
――鳥人かぁ。記憶喪失になってしまったから、実際に見るのは、これが初めてになる。どんな人なんだろう?
「鳥人に興味津々のようだな、ルーリー。尻尾がピコピコしてるぞ」
ディーター先生は面白そうな顔になって、『仮のウルフ耳』を一撫でしてくれた。ディーター先生いわく、フィリス先生の妹のように感じるんだって。光栄です。尻尾フリフリ。
程なくして、フィリス先生と共に、2人の見知らぬ人物がやって来た。大男と小男って感じ。
1人は壮年って感じの、レオ族の筋骨隆々の大男。
茶色のタテガミは、立派と言うよりは無造作な印象。迫力のある古傷が顔面の各所に見えるけど、貴族とは違って、親しみやすい感じだ。
市場の商人たちがよく身に着けるタイプの旅装に、武官タイプの、長剣にもなるのであろうホルダー付き『警棒』を下げている。レオ族の旅商人らしい。
旅商人の旅装は、通常の衣服の上に、鎖帷子のように頑丈なチュニック丈のベストを重ねるタイプ。
このベストは、予期せぬモンスター襲撃や盗賊への対応のため、ハイテク防刃仕様となっているスグレモノ。武官服の紺色の布地にも使われている。
と言う事は、もう1人が鳥人。白い長髪に白い長ヒゲで、お爺さんだと分かる。わたしより背丈はあるけど、小柄。鳥人の平均的な体格って、細い感じなのかな。スラリとしたお爺さんだ。
白い長い髪は、背中でゆるりと結わえられている。民族衣装の名残らしき古典紋様のある鉢巻をしていて、後頭部の結び目の辺りから、銀白色の飾り羽が1本、スッと伸びていた。冠羽みたい。
鳥人のお爺さんがまとうのは、銀鼠色の、丈の長いポンチョだ。鳥人の魔法使いは、ポンチョをまとうみたい。古典的な『魔法の杖』さながらの、先端の曲がった長杖をつきながら歩いている。
ディーター先生が驚いたように目を見開き、身を正した。
「鳥人の大魔法使い殿の訪問を頂くとは光栄です。お初にお目に掛かります。私はウルフ族の上級魔法使い治療師『地のディーター』と申します」
挨拶を受けた鳥人のお爺さんの方は、顔いっぱいに陽気な笑みを浮かべ、鷹揚にゆるりと頷いて来た。
「あぁ、これは正式な訪問じゃ無いから、そう畏まらんで構わんのじゃよ。私は『風のバーディー』じゃ。
このレオ族の若いのと、気楽な諸国漫遊の旅をしておってな。聞けば、この美人の秘書と新婚だそうじゃな。お祝いを言うよ」
ディーター先生は、バーディー師匠の言葉を受けて、滑らかに一礼する。さすが王宮仕込みの所作。
「祝福を有難うございます、風のバーディー・シルフ・マイスター殿。お噂は、かねがね」
ついで、鳥人のお爺さんに『レオ族の若いの』と呼ばれたレオ族の壮年男が、意外に丁重な所作でディーター先生に一礼した。
「私はレオ族の旅商人、『地のレルゴ』と申す。元は戦闘隊士なのだが、元手が溜まったのを幸い、遠隔商売ビジネスを始めている。
大魔法使いバーディー師匠の協力のお蔭で、魔法道具を商う本格的な隊商ビジネスも軌道に乗り始めている。まだ新入りなのだが、贔屓にして頂けると光栄で御座る」
ディーター先生も、レオ族の『地のレルゴ』さんに、敬意を込めて丁重に礼を返している。
わたしが首を傾げていると、フィリス先生がタイミングよく、こそっと解説してくれた。
何でも、魔法道具の運搬を専門とする隊商は、価値が高く危険度も高い商品を運んでいる――という事もあって、戦闘能力が非常に高い者でないと、リーダーを務められないのだそうだ。
なおかつ度々、『マイスター称号』を持つ大魔法使いが、アドバイザーとして同行する。
ちなみに、魔法道具の運搬を専門とする隊商は、大物クラス竜人が、リーダーである事が多い。
大物クラス竜人は、とんでもなく頑丈な竜鱗だけでなく、『竜体』の時の空中戦闘力も突出しているからだ。
魔法道具の業界は、闇ギルドと最も深く接触している部分だ。油断のならぬ危険な魔法道具が出て来る事が珍しくない。
最も深刻な魔法トラブルが起きやすい領域でもある。『マイスター称号』を持つ大魔法使いは全員、この領域の安全保障に関わる事が義務となっているのだそうだ。
――成る程だ。
以前に来ていた『地のアシュリー』という年配のウルフ族の女性も大魔法使いで、
超大型モンスター《大魔王》が出て来るレベルの深刻な《魔王起点》事件に対応したとか、何とか……
――あれ? でも、『風のバーディー』って、確か……
そんな事を思いついていると、『ぬーっ』と大きな人影が傍に立った。ぎょっ。
レオ族のレルゴさんが不思議そうな顔をしながら、大柄な身をかがめて、のぞき込んで来た。
「小っこいの、えらい『炭酸スイカ』カラーリングの毛髪だな。こんなドギツイ染髪料、その辺に売ってねぇ筈だが。
ん? 茜メッシュ……って事は、パッと見、坊主に見えるが、女の子かい?」
仰天の余り、一歩後ずさって、口をパクパクしていると――
鳥人のお爺さんが手慣れた様子で、『魔法の杖』の先端の曲がっている部分を、レルゴさんのベストの端に引っ掛けた。
愉快なお爺さんが、そのまま『魔法の杖』をグイッと引くと、レルゴさんは『うわっ』と言いながら尻餅を付いたのだった。
「レルゴ殿は、ただでさえ身体がデカくて物騒な面相なんじゃから、子供を脅かすんじゃないと、さっきも言ったじゃろうが。
城下町のモンスター商品マーケットでも、その顔面で、子供を泣かしているんじゃからのぅ」
「脅してねぇよ! 第一、私は子供好きなんだからな!」
――コメディだなぁ。
それに、この鳥人のお爺さん、飄々としていて掴み所が無いけど、安心できる人だ。理由は分からないけど、直感的に、そう思う。
声はともかく、妙にシワが少ない……年とっても若く見える性質?
鳥人のお爺さんは、「連れが失礼したのぉ」と笑いながら、わたしを眺めて来た。
そして、『おや』と言う風に目を見開いて来た。『炭酸スイカ』な蛍光黄色と蛍光紫の毛髪、
それに毒々しいまでに真っ赤な『花房』付きヘッドドレスと言う、目の痛くなるような取り合わせを見て、ギョッとしたみたい。
――不思議な銀色の目だ。珍しい色合いだと思う。あのエーテル天体の色を、そのまま映したような……
わたしは少し驚いて、目をパチクリさせた。ジッと見てみたけど……やっぱり、あの色だ。
「……《銀文字星(アージェント)》の目をしてる……」
鳥人のお爺さんは、見る間に訝しそうな顔になった。次に浮かんで来たのは、深い驚愕の表情だった。
「――サフィ? 水のサフィール?」
――その場に、途轍もない絶句が広がった。
*****
ディーター先生の研究室に、上級レベルかつ隠密レベルの《防音&隠蔽魔法陣》がセットされた。
何と、国家最高機密を遥かに超えるような、最高にヤバい機密を扱う、会議室スタイル。
これらの魔法陣を仕掛けたのは、鳥人の大魔法使い『風のバーディー』。
その魔法陣セットの複雑さと来たら、上級魔法使いであるディーター先生でさえ、「何度も見ても、良く分からない」と感心する程だ。
気付いて解除するのにも、ゆうに1カ月は掛かりそうな代物なんだそうだ。
さすが『マイスター称号』を持つ大魔法使い。スゴイ。
研究室の魔法のスクリーンの前に、汎用テーブルが置かれており、その周りに適当に椅子が並べられている。
人数が増えたので、端っこで埃をかぶっていた予備の椅子が追加されているところだ。
最も頑丈そうな椅子を選び、ドッカと座ったのは、レオ族の元・戦闘隊士にして旅商人レルゴさん。信じがたいと言った様子で、茶色をした無造作なタテガミを一層かきむしっている。
「……しかし、我らがレオ帝国の第一位の《水の盾》は、ちゃんと帝都に居る筈だぞ。『体調不良のため長期休養』なら、なおさら、
偉大なるレオ皇帝陛下のハーレムで保護されてる筈だ。鳥人出身の《風の盾》ユリシーズ殿の協力のもと。こっちが本物なら、あっちは影武者――なんて事が、有り得るのか?」
魔法のスクリーンの前に向かい合って着座したディーター先生とバーディー師匠との間で、手早く今までの事情が交わされた。
フィリス先生がお茶のセットを用意しながらも、適宜、補足情報を入れる。
わたしもディーター先生の研究室の中の様子は、だいたい分かるようになって来たから、フィリス先生のお茶淹れのお手伝いをさせて頂いた。
――この時期のウルフ王宮となっている『茜離宮』周辺で起きている、キナ臭い出来事の数々。
アルセーニア姫の急死、王宮の重鎮たちに対する闇討ち、ヴァイロス殿下の暗殺未遂事件。そして出て来た、身元不明なわたし。そして、異様な拘束具――
一連の騒動と事件の全容は、半分も明らかになっていないだろうという状況だ。
アンティーク宝物庫から相当数の宝物が紛失した件に関連して、タイストさん殺害事件が起きた。それがきっかけで、マーロウさんが関わった巨大汚職が、偶然にして露見した。
その汚職が、色々な不穏な事件とつながっていて、そこに、シャンゼリンも関係していたのだろう――というのが、やっと判明したという段階。
「傍目には、獣王国の各地で多く見られる、後継者争いに見えるがのう」
そう言いながらも、バーディー師匠は、あらかた事情を呑み込んでしまったようだ。
――鳥人の脳みそは、きっと特別製に違いない。
続いて――
わたしが、本当に『水のサフィール・レヴィア・イージス』なのかどうか、《宿命図》をチェックする事になった。
レオ帝国の第一位の《盾使い》は、候補に挙がった時点で身元情報が伏せられる。
特に、厳重に伏せられるのが《宿命図》情報であり、これは師匠として関わった魔法使いしか知らない内容になるのだそうだ。
今のところ、水のサフィールの《宿命図》を熟知しているのは、大魔法使いのアシュリー師匠とバーディー師匠、《風の盾》ユリシーズ。
いずれも、《水の盾》サフィールの師匠を務める魔法使い。
他、サフィールが『元・闘獣』だったと言う事情を知っているのも、厳重な紳士協定による7名のみ。
バーディー師匠やアシュリー師匠と共にサフィールの高度治療に関わった直弟子の魔法使いたち3人、
サフィールの『献上』に関わったレオ族の特別大使、偶然ヒントをつかんでいたレオ族の大魔法使い、レオ帝国側で『献上』に関わった取次の、
なおかつレオ帝国の諜報部門の《双璧》として知られる魔法使いにして高位役人2人。
――うひゃあ。いかにも、トップクラスの最高機密!
わたし、此処に居ちゃいけない筈だけど。
窓や扉などと言った出入口をチラチラと見ながらソワソワしていると――生真面目な顔をしたバーディー師匠が手招きして、隣の椅子を示して来たのだった。
「とりあえず、お座り。サフィ……今は、ルーリーと言うのじゃな」
バーディー師匠は、何故だか、わたしがサフィールと同一人物だと確信してるみたい。
レルゴさんをはじめ、ディーター先生もフィリス先生も唖然とした顔で見守って来ているから、すごく落ち着かない……
バーディー師匠は、わたしの両手の平をテーブルの上に並べさせると、ペン程の大きさに縮小した『魔法の杖』を、かざして来た。『魔法の杖』が、淡い白い光を放ち始める。
すると、淡い白い光に照射された両手の平から、青いエーテル光メインの多重魔法陣が、立体映像のように浮かび上がって来た。ほえ?!
レルゴさんが興味津々な顔をして、バーディー師匠とわたしの様子を眺めつつ、タテガミの顎(あご)の部分をガシガシとやっている。
「今、何やってんだ? これは魔法なのか?」
ディーター先生が、その質問に応じて、口を開いた。
「上級魔法の一種なんだ。特殊な透視魔法で《宿命図》の解読をしている。《判読》じゃ無くて《解読》だ。
手相を読み込むスタイルなのは共通なんだが、深層レイヤーまで読み込む事は滅多に無い。そこまで読み込むには相当に透視魔法のセンスが無いと出来ないし、
表層レイヤーの一部だけで、種族系統や正式名が判読できるんでな」
ディーター先生の講義が終わるか終わらないかのうちに――
青いエーテル光をメインとする多重魔法陣の幻影が、それぞれ3次元球体スタイルの魔法陣となって、テーブルの上の空間に展開した。
四色にきらめく無数の星々で、球体細工が作られているような感じだ。その幾つもの球体細工が、重なり合いながら回転している。
――いつか見た不思議な夢の光景を、再現してるみたい。
3次元の天球図のように展開した球体細工のような多重魔法陣は、天球の回転に合わせているかのように、ゆっくりと回転している。
四色のエーテル光の軌跡が、半ばは明るく半ばは暗く、互いに反射と屈折と散乱を繰り返している。その軌跡は、幾つもの星々を結び、星座の群れを構成しているようだ。
星座の群れのうちの一部は、カッチリとしたエーテル魔法陣スタイル。意味深な角度で交差しながら回転し続けている。
これがあるから、多分、わたしたちは魔法が発動できるんだろう。《変身魔法》や《魔法署名》に相当する魔法陣もちゃんとあって、これらは青く彩られていた。《水霊相》って分かる。
素人目にもハッキリと分かるのが、最も外側に展開した、一抱えほどのサイズの球体細工――立体魔法陣だ。四色のエーテル光が明るく、濃くなっている。
レルゴさんが、その最も明るい球体細工をしげしげと眺めて来ていた。レルゴさんの魔法感覚でも、ハッキリと分かるみたい。
「おい、此処の、やたらと空白が目立つ、デカイ領域は何なんだ? この漂ってるモヤモヤ――フィラメント残骸のようなのは、もしかして《宿命図》を構成していた星々が爆発した欠片か」
「全面的な記憶喪失の痕跡ですわ、レルゴさん」
フィリス先生が手持ちの半透明のプレートを見ながら解説している。あ、確か最初の日に、《判読》結果が報告書になってたんだよね。あの後も記録が続いてたんだ。考えてみれば当然だけど。
「フィラメント残骸の周りのモヤが四色に光っているのは、四大《雷攻撃(エクレール)》魔法が通過した証拠です。
最初の頃はモヤが全体に広がっていて、全体構造を不安定化させていました。体内エーテル循環のダメージも甚大で、5日間も意識が戻らない状態が続いていました」
いつしか、バーディー師匠とディーター先生は、『魔法の杖』を動かしながら、わたしには分からない専門用語を交わしていた。
注目の的になっているのは、最大サイズに拡大されたと思しき、3次元の星図の幻影だ。やはり《水》の遊星が多いようで、全体的に青く見える。
様々な明暗レベルの四色のエーテル循環に満ちているけれど、遊星を通じて表層レイヤーまで発現するような有効なエーテル循環が少ないらしく、半分は暗い星系だ。
混血ウルフ族だから、半分くらいの魔法能力が休眠状態になってるんだそうだ。貴種であれば、イヌ族との混血であっても、ほとんどの星系が――魔法能力が活性化しているんだけど。
「ディーター君。この遊星に属する星系は、この傾斜角度で《正式名》とリンクしていたのかのう?」
「私が最初に見た時は、そうでした。今見ると、中間層の内部エーテル相関は随分と回復しています。初歩の《水魔法》……『水まき』や『洗濯魔法』は、問題なく出来る筈ですが」
「うむ。私も、現在の内部エーテル相関の状況を、そう見るぞよ」
やがて、『中間層』と呼ばれているパーツの奥の部分を眺め始めたらしいディーター先生は、次第に驚愕と困惑の表情になっていったのだった。
「……何て事だ。半覚醒状態の星系が――ほぼ休眠状態のエーテル光で構成されている暗い星系だったから、重要な部分だとは思いもしなかった。
《魔法署名》が採取できていれば、気付きもしただろうが……」
*****
「……実に驚くべき事じゃのう」
一刻どころか二刻ほども時間をかけて慎重に《宿命図》を解読した後、鳥人の大魔法使いは、ポツリと呟いた。
「嬢ちゃんは、確かに我らの知る、第一位《水の盾》サフィール・レヴィア・イージスじゃよ。ただし、《宿命図》は大きく変動しておる。
『正式名』にリンクしていた個人的記憶の領域が、大胆かつ精密に破壊されておってな」
ディーター先生とフィリス先生は全身を耳にしていて、レルゴさんは、まだ茶色のタテガミをガシガシとかきむしっている。
バーディー師匠は、深い憂いと安堵のこもった、複雑な溜息をついた。
「――確かに、サフィが、その天賦の才能の全てを懸けて、狙って破壊するなら――と言う程の、見事なまでに徹底した破壊ぶりじゃよ。
少しでも間違いがあれば、《宿命図》そのものが吹き飛び、《無》に帰しておったじゃろう」
続いて、わたしには良く分からない、《宿命図》解読の結果が述べられた。
ディーター先生とフィリス先生が魔法のスクリーンを操作しつつ、口述筆記という形でメモしている。
レルゴさんは、相変わらず茶色のタテガミをガシガシしている。分かったり分からなかったりしているみたいだ。
――個人的記憶の領域が全面的に破壊されているため、身辺知識や経歴の記憶は、正式名に反応するかしないかの、幼児年齢のレベルまで後退した。
正式名は、ディーター先生とフィリス先生の発見のお蔭で幸いに復活済み。《魔法署名》や『狼体』への《変身魔法》は、改めて習得する必要がある。
《宿命図》表層の領域は、《雷攻撃(エクレール)》余波により体内エーテル循環が大きく乱れる程のダメージを受けているが、
目下、問題の無いレベルまで回復している。自然に身に付いた一般知識や概念、思考ベース、身体で覚えたスキル等といった無意識の記憶系列は、ほぼ原状復帰している。
《宿命図》中間層の領域は、《正式名》の破壊、および、それに連動した記憶系列の大破綻により、主要な構成要素において系列軸と回転軸が一変した。
内部エーテル相関は原状を保っているが、万物照応を成す天球エーテル相関において、ほぼ別人の《宿命図》と言って良い程に変容している。
国籍データを改めて取得しなければならないレベル。
《宿命図》深層の領域は、中間層の大変動に応じる形で、大幅な組み換えが生じている。
《宿命図》心臓部――《宝珠》。複数の渦状腕が生じている他は、変動なし。
――以上。
バーディー師匠は、ひととおり解読結果を口述した後、改めて『フーッ』と息をついていた。
不思議な銀色に揺らめく目で、わたしを眺め始める。
「正式名『水のルーリエ』――サフィは、真に優秀な頭脳と魔法感覚を兼ね備えた天才じゃった。『闘獣』育ちで警戒心が強いゆえか、勘も、恐ろしく鋭かった。
あの7日間の混乱の中で、自らの《紐付き金融魔法陣》の真相を悟っておっても不思議じゃない。この解きがたい呪縛を解くのが、サフィの人生の、最大の目標だったんじゃろう。
フリーハンドであらゆる『正字』を構成しうるまでに、必死で『正字』スキルを高めておったのもな」
ディーター先生とフィリス先生、そしてレルゴさんは、無言のまま、わたしを眺めて来ている。
――わたし、そんなに大した人物じゃ無いし、そんなに驚くような事をやってないような気もするのですが……
小柄で細身の体格を銀鼠色のポンチョに包んだ鳥人の大魔法使いは、ユーモアを込めてウインクして来た。
「嬢ちゃんは女の子じゃからの、残りの診断はアシュリー殿の担当じゃな。今、アシュリー殿を『魔法の杖』で呼び出しておる。
かの《紐付き金融魔法陣》は、世間の男一般が見るとマズイ位置にセッティングされておるんじゃよ」
――ど、ど、何処に、その不気味な《紐付き金融魔法陣》とやらが……?!
ディーター先生が、奇妙な顔になった。
「正式名を奪う形――と言うと、ひとつは心臓の真上ですか? バーディー師匠」
「その通りじゃよ、ディーター君。父親や御夫君だったら、ためつすがめつ眺めても良い位置なのじゃろうがのぅ。
これも、『飼い主』付きの『闘獣』の救出を難しくしておる点でもある。もっとも、『飼い主』付きの『闘獣』は、存在そのものが珍しいが」
フィリス先生が、「あの」と、おずおずと口を挟んだ。
「公式には、サフィールは22歳ですね。ルーリーは16歳です。何故こんな事が?」
バーディー師匠は長い白ヒゲを撫でつつ、「良い質問じゃのう」と頷いた。
その瞬間、ディーター先生の研究室の扉が開いた。大魔法使いレベルの魔法陣の仕掛けを扱うのは、同じ大魔法使いレベルにしか出来ない――
扉を開いて、灰色ローブをまとった姿を見せて来たのは、やはり、前日に見かけた、あの大魔法使いの女性だ。
ウルフ族『地のアシュリー』。白髪の多い淡い栗色の髪に、薄い茶色の目をした金狼種。
*****(2)謎と黙示のスクランブル(後)
アシュリー師匠は、わたしを食い入るように見つめて来ていた。
こうして真っ正面から顔立ちを見てみると、大魔法使いなだけあって、シニア世代の淑女なチェルシーさんとは、タイプが違う。
元・淑女と言った感じの老女なんだけど、キリッとしていて、何処かの女王だと言われても納得の風格がある。
「――信じられないわ。想像以上に、『炭酸スイカ』だわ」
わお。妙なタイミングで妙に面白いことを言う人っぽい。レルゴさんが『ガクッ』とコケてる。
アシュリー師匠は驚きと不信の表情を湛えながらも、ソロソロと近づいて来た。
香水かポプリを持っているみたいで、ホワイトフローラル系の微かな香りがある。
盗み見していた時は気が付かなかった。記憶に無い香りだけど既視感があると言うか……妙に考えさせられる香り。
――急に『その匂い』だと思ったけど、母親じゃ無いよね。年取り過ぎてるし。
頬に寄せられた手に思わず鼻をくっ付けて考えていると、アシュリー師匠が、様々な感慨が込められたと思しき、深い溜息をついた。
「本当にサフィね。サフィールは、いつもそういう顔をしたわ。
風俗街の《風魔法》の一種で、空気に混ざった媚薬ガスを分解する時に発生する、副産物としての香りなんだけど……」
――ほぇ?!
何でも、サフィールの母親は、サフィールを風俗街で生み落としていたのだそうだ。
実際、サフィールが、ユリシーズやバーディー師匠やアシュリー師匠に語った思い出話は、闘獣だった時の事を除けば、全て、明らかに風俗街の中での出来事だった。
つまり、わたしは風俗街で生まれ育っていたと言う事。うわあぁ。
闇ギルドの女は妊娠した場合、風俗街の世話になるケースが多いと言う。風俗街は媚薬の本場みたいなものだそうだから、成る程かも。
そして、必然的に、「何故『サフィール=わたし』が此処に居るのか」と言う件が、再び話題になったのだった。
実のところ、記憶喪失なわたしには、全く実感が無いから、どんな顔をするべきなのか分からないんだけど。
――フィリス先生が指摘した、公的に知られている年齢の食い違いのミステリーは、アシュリー師匠の話で、すぐに判明した。
当時、わたしをレオ帝国に連れて行った、レオ族の特別大使の仕業なんだそうだ。
彼は、諜報部門に居た経験があって、情報工作が非常に上手い人だったと言う。おまけに《風霊相》生まれで、そっち方面の才能があった。
非合法な戦闘奴隷『闘獣』は、その育成方法も非合法だ。
出来るだけ早くモンスター狩りの現場に出せるように、血も滴るモンスター肉を食わせて、育成する。
そうすると、異常に成長が早まって――異常なスピードで、身体が成熟するんだそうだ。
わたしの場合、当時の《紐付き金融魔法陣》が記録していた『だいたい5年』という経過年数からすると、
『闘獣』として売り飛ばされたのは4歳から5歳の頃だったと逆算できると言う。
アシュリー師匠やバーディー師匠に保護された時、わたしは、まだ青い産毛がシッカリ残っている筈の年齢、つまり9歳だったんだけど、
その体格は、既に換算年齢14歳の少女レベルだったそうだ。当然、産毛は既に無かった。
保護があと半年くらい遅かったら、実際は未成年――それもギリギリ10歳前後という子供――だけど、
20歳を超えた成年と同じような、交配可能な身体になっていたんじゃ無いかと言う話。ひえぇ。
そして、『闘獣』の数を増やすために、他のイヌ科のオスの『闘獣』と交配させられる事になるのは、確実だったらしい。
レオ帝国に『献上』された時は、わたしは10歳になっていた。でも、モンスター肉を断っても1年くらいは影響が残り続けるので、
その時は、わたしの外見は、ほぼ今と同じくらい、15歳のお年頃だった。
うひゃあ。そんな状態で、レオ帝国の特別大使の情報工作の手腕が加わったら、みんな、わたしの実年齢が分からなかったに違いない。
このような年齢の情報操作が入ったのは、レオ皇帝のハーレム要員としてギリギリ不自然じゃ無いように見せるためだったそうだ。
当時、レオ皇帝は既に、成人間近な孫を持つような年齢だったから。
そして、『飼い主』に追跡を断念させると言う方面でも都合が良いので、これを訂正せず最高機密とした。
モンスター襲撃エリアに近い辺境からレオ帝都の中心へと環境が変わったり、《暗示》で『正式名』を忘れさせられたり(当然、『狼体』への《変身魔法》は厳禁だ)、
本当は10歳なのに宮廷や後宮ハーレムの中で15歳としての分別を要求されたり、それなりに色々あって、急にノイローゼになったと言う。
――そりゃ、ノイローゼになると思うよ。
例えば、同じ年ごろの――遊びたい盛りの――メルちゃんに、そういう事を要求するって事だ。
いっそう信じられないんだけど。サフィールは、周囲の予想以上に思慮深く、優秀だった。
ノイローゼから回復した後は、このような困難で理不尽な要求に、完璧に応えていたそうだ。
しかも、『レオ皇帝のハーレム妻でありながら、レオ王子の仮のハーレム妻』などと言うような、
レオ貴族の女性でも混乱するようなポジションをも、キッチリ務め上げていた。
こんな事になる直前まで、16歳なわたしは、『22歳の成年なサフィール・レヴィア・イージス』を、見事に演じていたと言う。
ウルフ女性の成長期の真っ盛りを襲ったノイローゼ――長期の絶食と食欲不振の影響で、小柄なまま体格が完成してしまったので、
高いハイヒールで身長をごまかして。
――それ、絶対うそだぁ。全く思いつかない。高いハイヒールで歩けていたの?
わたし、何も無い所で転ぶようなドジだよ。
*****
アシュリー師匠の《紐付き金融魔法陣》診断の準備が済んだ。
隣の病室に先に入っていたアシュリー師匠に呼ばれて、病室に入る。フィリス先生も、アシュリー師匠の臨時の助手として控えている。
そして、全裸状態になって、身体の各所にセッティングされていると思しき、謎の《紐付き金融魔法陣》診断を受けたのだった。
――アシュリー師匠の診断の結果。
くだんの《紐付き金融魔法陣》――全部、スッカリ焼き切れていた。
全面的な記憶喪失のせいで、『そうなの?』って言うような感じしか無いけど。
焼き切れて『魔法的に無効化』しながらも、しつこく元の形を保持している残骸が、自力では除去できない老廃物さながらに、固くこびり付いていた。
でも、ベテラン治療師なら、特別な透視魔法を併用しつつ、ゴリゴリと剥がせるレベル。『高度デトックス治療』か何かの応用らしい。
場所が場所なので、心臓の真上にセッティングされていた1つ目以外は言いにくいんだけど、
《紐付き金融魔法陣》は、4つ合わせて1セットなのだそうだ。そして、他の3つも、完全に焼き切れていた。
正式名をガッチリと抱え込む形で密着する代物だから、《宿命図》における正式名の有り様が正常に復活した今になって、
《紐付き金融魔法陣》が、完全に焼き切れた形で無効化しているのは、有り得ないと言う。
フィリス先生は、『闘獣』にしかセッティングされない、完全なる人権無視の《紐付き金融魔法陣》という異常な痕跡を確認して、青ざめていた。
同時に、わたしが元・サフィールだったという事実を、スッカリ納得しちゃったらしい。
――そんなモノなんだろうか。わたし、今でも実感が無いんだけどなあ。
研究室と病室とのドアは、音声を通すために少し開いている状態だったので、ディーター先生の研究室で続いている会話が、ポツポツと聞き取れた。
レオ族の壮年の男ならではの大声でボヤいているのは、レルゴさんだ。
「しっかし、サフィールが、まさか黒髪だったとはな。一度、現役の戦闘隊士だった時に《水の盾》サフィールをチラリと見た事があったんだが、
その時は、サフィールは見事な金髪だったんだぞ。何つーか、最上級の黄金の『紫磨黄金』っていうか。
ありゃ、毛髪の色を変える魔法道具で――『花巻』に付いている装飾品で――変えてたって事かよ」
やたらと事情に詳しい鳥人の大魔法使いバーディー師匠が、レルゴさんのボヤきに応じている。
「同じウルフ族の父親、或いは母親の毛髪の情報を出すだけなら、そんなに《変装》エネルギーは必要無いのじゃよ。
高価にはなるが、オーダーメイド魔法道具で充分じゃ。サフィールの母親が金髪で、その遺伝情報を魔法道具で引き出していただけじゃな。
『飼い主』が探していたのはウルフ族・黒狼種の『闘獣』じゃったし、目くらましになったのぅ」
そして――バーディー師匠の口調が変わった。
「この際じゃ。《風の盾》ユリシーズ殿から預かった内容を、説明しようかの」
空気が、ピンと張った。
「――まず、これは現在時点、最高機密とされておる。洩らすなよ。サフィールは公式には『体調不良、長期休養』とされておるが。
実際は、サフィールは、レオ皇帝の後宮から姿を消したのじゃ。それも、普通では無い方法でな」
バーディー師匠の説明が続いた。
――レオ皇帝の後宮は、ひとつの都のような広さを持っている。最も大きな城館が、レオ皇帝のハーレム館だ。
後宮の都の別の場所には、レオ王のハーレム館があり、また別の場所には、レオ王子のハーレム館がある。
そんな後宮の都の中央辺りに、ひときわ大きな軍事施設がある。モンスター襲撃に備えた施設だ。
最大強度の《雷攻撃(エクレール)》魔法にも耐えられる奇跡の建材、金剛石(アダマント)が全面的に使われている。
後宮の都に強大なモンスター襲撃があった場合は、戦闘隊士と魔法使いとで、この軍事施設にモンスターを追い込んで始末するのだ。
かの当日。
サフィールは夕方の自由時間を使って、この施設に来ていた。普段は人が来ないので、新しく強大な魔法を考案して実験するには、最適な場所でもあった。
そこで、何があったのかは知れぬものの。
軍事施設は、いきなり、大容量の《四大》エーテルが激しく暴発するという、バースト事故を起こした。
バースト事故は、最大級の魔法事故だ。まさに超新星が出現したのと同じような事態となる。
現場近くには、たまたまだが、レオ王ハーレムの水妻ベルディナが居合わせていた。《風の盾》ユリシーズが異変を察知して駆け付けた時、
第二位の《水の盾》ベルディナは、バースト事故に巻き込まれて死にかねない所だった。
ユリシーズは、ベルディナを救出する事、バースト事故による恐るべき衝撃波を抑え込む事に精一杯で、サフィールの身柄までは確保できなかった。
ちなみに、その後――3日もの間、レオ帝都は時ならぬ『雷電シーズン』の如き、激しい雷雨に見舞われていた。季節外れの、想定外の落雷と大雨。
その場の天候を激変させる程の、強力な守護魔法――《風の盾》――が立てられていなければ、バースト事故により、広大なレオ帝都の全体が、
何も無いクレーターの如き荒涼とした地形と化していただろう。
全てが終わった壮絶な現場を、レオ帝宮に勤める上級の戦闘隊士たちや高位役人たちと共に調査してみると。
金剛石(アダマント)の建材で構成されていた巨大な建築――大型モンスターの攻撃にも耐えられるレベルの頑丈さを兼ね備えていた筈の大いなる軍事施設は、
完全に原形を留めぬ更地となっていた。
その更地の周り、《風の盾》が敷かれていたラインに、金剛石(アダマント)を主成分とする瓦礫の山脈が、グルリと出来ていた。
8人ばかりの侵入者――後宮に入る資格を持たない、闇ギルドに属する種類雑多な種族の侵入者たちが、その瓦礫の中から見つかった。
彼らは、皆、死体になっていた。それも普通の死体では無い。体内エーテルを全て抜き取られて、完璧な剥製と化し、更にバラバラになった死体だった。
侵入者たちは、強い魔法使いを拘束するための、拘束用と拷問用の魔法道具を多々持ち込んでいた。
非合法な《雷攻撃(エクレール)》魔法の武器も。いずれも闇ギルドの製品。
サフィールを拉致誘拐ないし拷問するために、後宮まで忍び込んで来ていたという事は明らかだ。彼らを手引きした者が誰なのかは、まだ分かっていない。
更に、全員が全員、死刑囚に使う拘束衣を手にしている状態だった。
誰かがサフィールに拘束衣を着せるのに成功していたらしく、サフィールの『花巻』や普段着が、現場から吹き飛んだ瓦礫の下で見付かった。
サフィールは、消えていた。影も形も無く。
一方で、侵入者たちのバラバラになった死体をつなぎ合わせてみると、数が一致しなかった。
種族系統が不明になるまでに徹底的に干からびて取れた『左腕と思しき物体』だけが、現場に残された死体のいずれとも、一致しなかったのだ。
どうやら、侵入者は、全員で9人だったらしいのだ。
侵入者のうち1人だけは、左腕を失いながらも幸運にもバースト事故を逃れ、更に、後宮からも逃げおおせたらしい――
――バーディー師匠の話が終わった。
レルゴさんが、震え声で、「マジかよ」と呟いている。きっと、蒼白な顔色だろう。干からびた剥製になるなんて、最も考えたくない死に方のひとつだ。
記憶喪失なわたしには、サッパリ分からない――のだけど。
バースト事故。巨大な軍事施設――それも、モンスター対応になっている施設が、跡形もなく粉砕する程の魔法事故。それ程の巨大な魔法エネルギーが、自然に発生する物だろうか?
その疑問に対する回答は、次に続くバーディー師匠の言葉で明らかになった。
「ユリシーズ殿の推測じゃがの、サフィールは《メエルシュトレエム》を発動したらしい。
最高位の《水の盾》が発動する『大渦巻』――ともなれば、そこにバースト事故レベルの大容量エーテルが集中し、更に《アルス・マグナ》が発動可能になっても不思議では無かろう。
それで、サフィの……ルーリーの《宿命図》が大変動を起こした理由も説明が付く」
バーディー師匠のコメントの後、暫しの沈黙が降りた。それぞれに思案に沈んでいる様子だ。
やがて――アシュリー師匠が、再び着衣を済ませたわたしを、ゆっくりと眺め始めた。フィリス先生も、何とも言えない表情だ。落ち着かないなあ。
「サフィは、いえ、ルーリーは……全く覚えてないのね」
――全く覚えてないよ。
元・サフィールと言う実感も、まるで無いし。《アルス・マグナ》って何?
アシュリー師匠は思案深げな顔になった。
「通常の魔法(アルス)に対する上位の魔法が、《アルス・マグナ》よ」
――ふむ?
「通常の魔法は、《宿命図》を通じてエーテル魔法を発動するという在り方。世界の摂理を超える物では無い。
それに対して《アルス・マグナ》は、自分と世界の相関関係そのものを変える魔法だから、魔法の在り方が全く違う。
《宿命図》そのものに――万物照応の有り様に干渉する……文字通り、宿命と運命を一変させる、『大いなる術』なの」
そう言って、アシュリー師匠は、ひとくさりの魔法呪文を呟いた。
――《星界天秤(アストライア)》の御名(みな)の下に。宿命は生を贈与して、運命は死を贈与する。しかしこれら二つのものは、一つの命の軌道を辿る――
その魔法呪文と共に、《星界天秤(アストライア)》を呼び出すための、膨大な数の『正字』を配列する。
それも、多次元の時空に展開する、多重魔法陣というスタイルで。壮絶なまでの記憶力と想像力と――集中力を要求する作業だ。
天球の彼方の《星界天秤(アストライア)》を、傾けようとする行為だ。おのれの《宿命》を動かし、《運命》の軌道を新たに描き直す事だ。
いわば、ひとたび死んだ後、よみがえって来るに等しい行為だ。なかなか、容易な事では無い。
そう言う意味では――ルーリーの前世が、サフィールだとも言える。
アシュリー師匠は、そう説明すると、ディーター先生の研究室に戻るよう促して来た。
まだ確かめなくてはならない事が、山ほどある。長い1日になりそうだ。
*****
魔法のスクリーンの前で――昼食を挟んで、更に検討が続いた。魔法使いのガッツってすごい。
「ルーリーは、真昼の刻に、こちらに出現していたのじゃな?」
バーディー師匠が、早速ピンと来たようだった。
バーディー師匠が手持ちの魔法の杖を振ると、魔法のスクリーンに、あの『大天球儀(アストラルシア)』が浮かび上がる。
三次元の球体は、二次元平面図として展開された。そこに、ディーター先生が、魔法の杖で更に操作を加えた――『大陸公路』の地図が重なる。
――天球の星々のマップと、地上の国々のマップが重なり合うのは、不思議な眺めだ。
天球軸の回転に沿って何回かクルクルと回り、スライドした後、『当時』の状況の図となって来たらしい。
「ルーリーが出現した前後の時刻が此処になる」
ディーター先生が、そう言いながら、魔法スクリーンに展開されていた動画を停止させた。
ウルフ王国では、昼日中の刻だ。
わたしが『昼の星』だと思っていた白い星は――
本当に真昼の時を刻むエーテル天体だった。昼の《銀文字星(アージェント)》。夜だと銀白色の光を放つ天体。昼日中の間は、光の加減で、うっすらとした白い星に見える。
非常に稀な出現をするエーテル天体で、占術的には曖昧な意味合いしか与えられていなかったらしいけど。
――レオ帝都では日没の間際の刻。太陽が西の地平線に接触している。
その瞬間、東雲の《暁星(エオス)》の刻を迎えていたのは――竜王国。
竜王都から少し離れた平原エリアの真上に、あのラベンダー色をした謎のエーテル天体、《暁星(エオス)》が出ているのが、わたしにも見て取れた。
バーディー師匠が不思議な銀色の目をきらめかせて、レルゴさんを鋭く見やる。
「我が友レルゴ殿よ、竜王国でもバースト事故があったのでは無いか? この間、通過した国境の市場で、何やら、そんな事が噂になっておったがのぅ?」
レルゴさんは再び、茶色のタテガミをガシガシとやり出した。やがて、目がパッと大きくなってギュッと細められた。思い当たる事があったみたい。
「あぁ、平原にある大型の転移基地のひとつが、いきなり『大天球儀(アストラルシア)』の地図から消えたんだ。
新しく竜王国に入国する隊商の奴ら、迂回ルートを回らなくちゃいけないとかで、ぶうぶう文句を言ってたぞ。
大物クラス竜人の英雄将軍ラエリアン卿が何かして、転移基地が消し飛んだという噂だったんだが……ありゃバースト事故だったってのかよ?」
バーディー師匠が重々しく頷いた。
「あらゆる、とんでもない可能性を考慮に入れた方が良かろう。こういう類の事象が起こる瞬間というのは、同時多発で奇妙な出来事が同期するものじゃよ。
昔の人類は『シンクロニシティ』とも『引き寄せ』とも言っておったがの。カオスとフラクタルの芸術と言うべき宇宙の、謎めいた表現のひとつじゃ」
ディーター先生が、わたしの方を注意深く眺めて来た。
「ルーリーが此処に現れる前、《雷攻撃(エクレール)》魔法を食らったのは確かだろう。
その他に、何か覚えている事はあるか? 奇妙な光景を見た、感触があった、というような」
わたしは、しばらくの間、思案してみた。あの時、雷雨の嵐の他に、何かあっただろうか?
あると言えば、あるような気もするけど……
「えっと、雷雨で転がされている最中に、大きなショックがあったみたいな事は覚えてます。
それで気絶したみたいで……気が付いたら、あの噴水広場の所……でしたけど?」
アシュリー師匠が、不意に眉をひそめた。
「元が《風魔法》でも《水魔法》でも、エーテル時空の穴の中で、大きなショック――それも気絶する程に強いショックが来るというのは、有り得ないわ。
そんな種類の誤作動が普通に起きていたら、転移魔法による長距離の輸送ネットワークは、成り立たない。《変身魔法》だって、浅くエーテル時空の穴を掘って発動するのに」
バーディー師匠が、「誤作動があったのかも知れんぞ」と、応じた。
「重要な天体が、特別なホロスコープ配置にある。《暁星(エオス)》と《銀文字星(アージェント)》、
それに太陽が――更には闇黒星《深邪星(エレボス)》もが――正確な『合』と『交差』を成す状況下で、2つのバースト級の事故が共鳴したのなら……」
バーディー師匠の言葉が途切れた。でもそれは一瞬だけだった。
すぐにバーディー師匠の『魔法の杖』が、魔法のスクリーンを指す。
すると、魔法のスクリーンに映し出されていた内容が変わり、数多の導線を持つ《風》の転移魔法陣と《水》の渦巻魔法陣が、1セットずつ描かれた。
それに付随して、主だったエーテル天体の作用導線が重なった。
見る見るうちに、多種類の大小の転移魔法陣とメモが次々に浮かび上がり、『正字』で組まれた図式が展開する。
特に異様なのは――大小の転移魔法陣に重なって、限界近くまで大きく揺れ続ける砂時計が、点滅しつつ出現している事だ。
恐ろしく複雑な図面だ。しかも展開が、極めて高速だ。
――と言う事は、バーディー師匠のシミュレーション計算の速度は、とんでもなく速いって事。
やっぱり、鳥人の脳みそって特別製だ。それにしても、さすがベテラン大魔法使いの実力。
ディーター先生とフィリス先生と、アシュリー師匠が、ギョッとして目を剥いている。レルゴさんは訳が分からない様子で、ポカンとしている。
バーディー師匠が思案深げに呟き出した。
「逆算が正しければ、このエネルギー量は凶星《争乱星(ノワーズ)》の爆発――超新星――が関わっているとしか思えない。
竜人の《宿命図》と獣人の《宿命図》は構造が違うから、正確な所は何とも言えないが。
偶然か必然かはともかくとして、記憶系列の破壊に続いて《紐付き金融魔法陣》を全て焼き切るのに、充分なエネルギー量じゃよ」
――この、大揺れし続けている砂時計は、いったい何?
そんなわたしの疑問に対して、バーディー師匠は複雑な笑みをしながら回答を出して来た。
「流入エネルギー量が大きすぎるのじゃよ。この転移ルートは、巨大エネルギーを解消して世界のバランスを戻すために、
恐らく幾つもの分岐に分かれておる。分岐の中には、数年後の未来に直結している物も、恐らくは出ているじゃろう」
――タイム・トラベルですかッ?!
「竜王国でも、大型の転移魔法陣がバースト事故を起こしたのは確実じゃ。そこから流れて来たのは、まさに爆発するタイミングの《争乱星(ノワーズ)》相を持っていた竜人に違いない」
竜人の《宿命図》は、爆発直前の《争乱星(ノワーズ)》相を抱えている事がある。今では非常に珍しいケースだけど、
昔、上級魔法使いレベル同士の『呪い合戦』のような事があった時、人工の《争乱星(ノワーズ)》相が関わる事例が相当数、見受けられたそうだ。
そして、その《争乱星(ノワーズ)》相は、壮絶なまでの大容量エーテルを吸い込んで活性化する闇黒星でもある。
《争乱星(ノワーズ)》相が活性化すると同時に、竜人はバーサーク化する。文字通り、巨大災厄をもたらす竜体――狂竜となって荒れ狂うのだ。
そうなった場合、同族である竜人に討伐されるのみというケースが、ほとんどだ。人工の呪いによってもたらされる、望みもしなかった運命。理不尽な死。
もし、そんな大凶星が、その竜人の《宿命図》から追い出されて、大型の転移魔法陣がバースト事故を起こすためのエネルギーとなったのなら……
「その竜人が、混乱する程の未来の時空に出ていない事を祈るしか無いのぅ。先方にも恐らくは、正式名の破壊と、全面的な記憶喪失が起きたじゃろうからな。
ルーリーを襲った《雷攻撃(エクレール)》魔法の大部分は、この見知らぬ竜人が引き受けた筈じゃ。髪の色が真っ白になっているくらいのダメージも、あるじゃろうな」
――うわぁ。色々、綱渡りだったんだ。
わたしにはサフィールとしての記憶は全く無いけど、何だか申し訳ない気がする。
最悪のタイミングで、わたしがやらかした魔法の暴発のせいで。
この見知らぬ竜人も、わたしと同じくらい、或いは、それ以上に、ボロボロになったんじゃ無いだろうか。
顔を伏せて色々考え込んでいると、バーディー師匠が苦笑しながら、『炭酸スイカ』カラーな頭を撫でて来てくれた。
「こういう事は、すべて天球の彼方の領域じゃ。《宿命》と《運命》は、常に我々の想像を超えている。
昔の人類は、こういう事を総じて『神』と解釈していたそうじゃがのぅ。
《銀文字星(アージェント)》は『幸結ぶ星』とも言われとるからな、死境からよみがえって来た事を今は喜ぶべきじゃし、見知らぬ竜人にも幸あらん事を祈るのみじゃよ」
*****(3)ささやかな突破口
一段落した後、わたしの頭部の『呪いの拘束具』を、改めて調査する事になった。
異様なデザインの金属製のヘアバンドみたいなスタイルなんだけど、今は毒々しいまでに真っ赤な『花房』付きヘッドドレスが一体化していて、訳が分からない事になっている。
わたしの髪を、不気味な蛍光黄色と蛍光紫のマダラに変えた代物でもある。
以前、ディーター先生が『マイスター称号を持つ大魔法使いじゃないと覚束ない』と言ってたけど……
どうなるんだろう。ドキドキ。
魔法のスクリーンには早速、ディーター先生が『門番の透視魔法』でスキャンしていた結果が表示された。
バンドに施されていた彫刻は、驚くほどに緻密な物だった――あの分子レベルの多殻構造が見えている。
この緻密な構造は、バーディー師匠とアシュリー師匠を驚かせた。
「ディーター君、よく此処まで気付いて、しかも詳しく調べ上げたわね。いずれ大魔法使いの会議で、『マイスター称号』を推薦しても良いくらいよ」
「立て続けに5本も論文が出たから、何があったのかと思ったぞよ。この導線が3本目の論文のヤツじゃな。
《宿命図》に干渉して、魔法感覚の機能不全を起こす呪術……成る程のぉ」
バーディー師匠は、意味深な顔でわたしを振り返って来た。
「此処に出現した直後は、ルーリーの魔法感覚は生きておった筈じゃが。確か、『昼の星が見えた』とか言っとったのぅ」
――あ。あの謎のエーテル天体。
そう言えば『殿下』の《地魔法》……楔型(くさびがた)のナイフが、砂のようになって蒸発するというビックリな所も、見えてた。
もし、魔法感覚が生きていなかったら、あの投げナイフは、ジワジワと、別次元に飲み込まれて消えて行くかのように見えたかも知れない。
それはそれで、オカルトでミステリーな眺めだっただろう。
ディーター先生が溜息をつきながらも、説明を加えて来た。
「実は、バーディー師匠。地下牢で、その拘束バンドを魔法的な意味で外すという試みがあったのです。
最初、ルーリーは暗殺者として地下牢に放り込まれていて、拷問……いや、尋問を受ける手筈になっていた。
その前準備として、その拘束バンドを外す事になっていたので……」
不意に、地下牢での記憶が思い出されて来た。
――あの時。確か、クレドさん、警棒をかざして来たんだよね。それが淡く光ったかと思ったら、急に拘束バンドが頭を締め付けて来て……
アシュリー師匠が顔をしかめ、バーディー師匠が訳知り顔で頷いた。
「それで、この導線が活性化したのじゃな。ディーター君が断線に成功しているが、今でも活性化中と言う事は……エーテルの光と色が感知できる程度の、
初歩的な魔法感覚しか機能しておらん筈じゃ。ふむ……日常魔法レベルのエーテル量だけで、魔法陣が稼働するようになっておるのぅ」
そこで、レルゴさんが口を挟んで来た。
「此処まで精密な多殻構造――それも大抵の衝撃に耐える代物となると、これを作れるのは《地魔法》に長けた竜人くらいじゃねぇか?」
ディーター先生とフィリス先生が、興味深そうな顔をした。
今、竜王国と獣王国とは交渉が薄い状態が続いているんだよね。目下、竜王国は内乱地獄で近づきにくい状態だ。
敢えて入国しようとするのは、命知らずの隊商たちや、工作員を兼ねた魔法使い、そして、忍者としての任務にある特殊な学生たちくらいだろう。
レルゴさんの話は続いた。
「ここ最近、私が商売してる魔法道具の業界で流れている噂なんだが。竜王国の上級魔法使いレベルの技術者が闇ギルドに多数入っていて、
軍資金を稼ぐために、方々で精密な魔法道具を作って取引してるらしい。その拘束バンドのような逸品が、
マネーさえ積めば手に入るって話だ。もっとも、その竜人の属している闇ギルドへのツテが無いと、直接の入手は困難だが」
レルゴさんは、茶色のタテガミを、再びガシガシとかきむしった。こうすると思い出しやすくなるらしい。
「竜人の作る合法の魔法道具で、冒険者ギルド向けの特殊な水浄化装置がある――その水浄化装置の心臓部が、多殻構造だって聞いた事がある。
元々、竜王都が『魔の山』にあるだろう。上水からの魔物成分の除去が必須で、退魔樹林やアーヴ種の浄化能力だけじゃカバー出来ないもんだから、
強力な水浄化装置のテクノロジーが発達したそうだ」
――へぇ。そんなのが、あるんだ。『必要は発明の母』っていうけど、スゴイ技術じゃ無いかな。
レルゴさんは不意にタテガミをかきむしるのを止めて、ピンと来たような顔になった。
「体内からバーサーク毒のみを除去して急速排出する医療用の魔法道具を、開発してるという話もあった。試作品(プロトタイプ)は、もう出来てるらしい。
これが製品化したら、バーサーク化した連中を、もっとずっと早く正気に戻せるようになる筈だ。今朝、仕入れたばかりの情報でな、話そうと思ってたけど忘れてたよ。
竜王国の内乱地獄が落ち着けば、その製品も手に入れやすくなるだろう」
新しい医療器具――それも画期的な新製品って感じだ。ディーター先生とフィリス先生のウルフ耳が、ピッと立っている。
バーディー師匠が、感心したような笑みを浮かべた。
「実に有用な情報の宝庫じゃのう、レルゴ殿。まさに今、レルゴ殿は、この拘束具のミステリーを全て解いてしまったぞよ。真っ赤な『花房』のミステリーを除いて」
「はぁ?」
魔法使いでは無いレルゴさんは、ピンと来なかったみたい。わたしも全然、分かって無いんだけど。
アシュリー師匠がディーター先生とアイ・コンタクトしつつ、解説してくれた。
「日常魔法レベルの余波のエーテル量さえあれば、拘束具に仕掛けられた魔法陣は、ほぼ半永久的に稼働し続ける。
竜王都の水浄化装置が、除去した魔物成分を再利用エネルギー源として、ほぼ半永久的に稼働するのと同じ。
ディーター君が魔法陣の影響を弱めたにも関わらず、今でもルーリーの魔法感覚が復活しないのは、そのせいよ」
――ううむ。夢の永久機関みたいだなあ。微小構造を持っているから、微小なエネルギーだけで、各種の魔法陣がちゃんと稼働しちゃうって事なのか。
不気味なくらいに、ハイテクな魔法道具だ。
「この微小な多殻構造が、魔法パワーを除去して、無効化してしまうのね。拘束具が絶対に外れてくれないのも、そのせい。
外すために注がれた魔法パワーも、逆に、より一層、頭部に固着するためのパワーに変えてしまう」
――うわあぁぁ。ますます凶悪な魔法道具だ。日常魔法レベルのエーテル量だったら、しょっちゅう空中を行き交っている筈だ。
それじゃ、一生、外れないって事?
口をアングリしたわたしを、アシュリー師匠は思案顔で眺め始めた。
「非常手段なら、あるわ。この拘束具は、大容量のエーテル魔法には対応していないの。
この多殻構造でさばけない程の大容量のエーテル魔法となると、上級魔法使いレベルの物になるけど、
ルーリーは元・サフィールだった頃と同じように、大容量のエーテル魔法を扱える筈よ。『魔法の杖』さえ、手元にあれば」
フィリス先生が難しい顔をしながら、首を傾げた。
「アシュリー師匠。あの日、ルーリーの『魔法の杖』は、現場周辺を探しても見つからなかったそうなんですが」
「それでは、この辺り一帯を改めて探さないといけないわね。《盾使い》の『魔法の杖』は、特別なのよ。
非常に『重い』から、普通の魔法使い用の物では対応できないわ。特製注文でも時間が掛かってしまうし」
一難去ってまた一難。
でも、どうやら、解決手段は見つかったみたいだ。
わたしの本来の『魔法の杖』は、いったい何処にあるのか――
*****(4)正解と誤解が行き違って決闘
――わたしの『魔法の杖』は、何処に隠れているのだろうか?
そんな事を、考えていると――
ディーター先生の『魔法の杖』の先端部が、《地霊相》生まれのディーター先生に合わせてか、黒いエーテル光の色でもって、点滅し始めた。
『魔法の杖』の通信が来たらしい。
――このタイミングで、ディーター先生に直接だ。どんな内容だろう?
ディーター先生が『魔法の杖』から音声を取り出す。
すぐに、ウルフ貴公子の物と思しき、洗練された発音の、若い男性の声が流れて来た。
『ディーター先生、ご多忙なところ失礼いたします。
衛兵部署と魔法部署の合同調査チーム所属『風のジェイダン』です。先ほど、リクハルド閣下の調査が終了しました。
『3次元・記録球』に収めた物を、これから直接お持ちしますので、転移ゲートの開放をお願いいたします』
ディーター先生は「成る程」と頷くと、早速、脇の出入口と直結するアーチ型の渡り廊下に出て行った。
ほとんど列柱だけという感じの、簡素なアーチ型の渡り廊下は、研究室を取り巻く緑地の上に、角度を持って折れつつ伸びている。
渡り廊下の先端にある、避雷針付きの屋根を持つ、あずまや様式の離れ小屋が、転移基地だ。正方形の床に転移魔法陣が描かれてある。ディーター先生の研究室への直通ルートでもある。
ディーター先生は、緑地に出来たショートカットな道、つまり踏み固められた地面の上を通っている所だ。いかにもズボラなディーター先生らしい。
ちなみに、このアーチ型のスカスカな渡り廊下は、夜間や悪天候の時は、備え付けの《防壁》が展開するから、ちゃんとした壁を備えた渡り廊下に変身する。
最初の日の夕方、移動ベッドに乗せられたわたしが、フィリス先生に運ばれて来た場所でもあるんだよね。
あの時は何もかも分からなくて、目に入る全ての物がビックリだったなあ。
レルゴさんが興味津々で、離れ小屋で作業中のディーター先生を見つめている。
「リクハルド閣下って誰だい? 偉い人みたいだな」
「サフィの、いえ、ルーリーの実の姉にして『飼い主』だった、シャンゼリンの養父だそうよ。この間知ったばかりだから私も詳しくは知らないけど。
リクハルド閣下は、元・第三王子だった人なの」
解説したのはアシュリー師匠だ。レルゴさんとバーディー師匠は、揃って目を見開いている。
レルゴさんは、わたしの顔をマジマジと眺めて来た。
「しかし、この子は混血顔じゃねぇか。第三王子ともなると貴種だろ? 今は亡きシャンゼリンとは、父親が違うのか」
「そうなんでしょうね。母親は闇ギルドの女だったし、記録が無いから分からないけど」
アシュリー師匠の解説を受けて、レルゴさんは腕組みをして思案顔になった。そして、いっそう思案深げになって、わたしをマジマジと眺め続けた。
「今、レオ帝国の親善大使が、こっちに来てるんだよな。リュディガー殿下が。これだけ性質が良くて大人しけりゃ、ハーレム正妻の誰かが目を付けたよな?」
――わお、正解だ。何で分かるの?
レルゴさんは、わたしの反応の意味を正確に読み取ったようで、「そうか、そうか」と納得している。
フィリス先生が複雑な顔をしながら、アシュリー師匠に声を掛けた。
「ランディール卿のハーレムに目を付けられているところですわ、アシュリー師匠」
アシュリー師匠は、苦笑いだ。
「サフィは目下、『花巻』装着しているフリーの未婚妻なの。だから、レオ社会の間では非合法では無いわね。
サフィはレオ皇帝ハーレムの正式な要員で、レオ王子ハーレムの仮の要員と言う事になっていたけど、レオ王ハーレムの正妻たちも、よく勧誘していたわ。
2つのハーレムに属する要員というだけでも充分に多忙なのに、3つや4つのハーレムに同時に属するとなったら身が持たないわ。
フリーと言っても、サフィの身体は、ひとつしか無いからね」
――レオ族のハーレムのルールって複雑だなあ。
ともかく、他種族から引き入れるハーレム妻――特に未婚妻――に関しては、そういうルールって事になってるらしい。
成る程、他種族の女にキチンと検討された末にハーレム主君として選ばれた、そういうレオ族の男ともなれば、それは確かに、尊敬の対象になる筈だ。
レルゴさんは、目をキラーンと光らせた。わたしの『炭酸スイカ』カラーな頭をナデナデして来る。
「ランディールか。ヤツも遂にエリートの仲間入りだなぁ、ハハハ! 嬢ちゃん、ランディールは悪くねぇ男だぞ。
ヤツと共にレオ皇帝陛下の親衛隊に所属して戦闘隊士を務めてた私が保証するから、間違いねぇ。
ヤツは、いずれ皇帝となるレオ王陛下の下で順当に出世する道もあったが、敢えて傍流の王子リュディガー殿下を選んだという、気骨のある男だしな」
何でも、リュディガー殿下は傍流だから、皇位継承権において、今のレオ王子よりも更に格下なんだそうだ。
でも、お飾りの親善大使のように見えてリュディガー殿下は、自身のハーレムを良く維持している。
そして、クマ族から引き抜いた美人なハーレム妻を持っている。彼女は訳あってクマ社会では冷遇される立場だったそうで、
今はリュディガー殿下のハーレムで落ち着いた生活をしているそうだ。
クマ族を大人しくさせとくのは難しいそうなんだけど、リュディガー殿下は、彼女を冷遇するために拘束し続けようとする一団を、どうやってか説得したらしい。
クマ族の一部の男たちとは、マジで拳で会話したそうな。しかも、任されたレオ族領地の運営の手腕も、ひときわ光っている。
――聞いてみると、正統派のヒーローって感じだ。
あの金色タテガミなリュディガー殿下の、あの偉そうな雰囲気からすると、メルちゃんの言う『俺様ヒーロー』の系統なのかも。
そんなリュディガー殿下に、ランディール卿は惚れ込んだ。将来の不利の可能性にも関わらず、現在のレオ王の配下となるよりも、
傍系王子リュディガー殿下の配下となる事を決めたのだそうだ。『惚れた男に付いて行くぜ』って感じらしい。
――でも。
わたしにとっての『特別』は――クレドさんだ。
あの《盟約》の時は焦って転んでしまって、かじり付く形になってしまったけど。
わたしが、おでこに口付けしても大丈夫なのって、クレドさんだけ。それ以外で口付けするとしたら、グローバル慣習の親愛の口付けになる。
レオ族ランディール卿の姿は見た事あるから知ってる。顔は余り見えなかったけど、優れた力量は伝わって来たし、あの地妻クラウディアの夫な人だから、良い人なんだろうと思う。
でも、ランディール卿のおでこに、特別な意味で口付け出来るかっていうと……ちょっと、結構、だいぶ違う気がする。
どうやって、レルゴさんを不快にさせずに、上手に説明できるだろうかと思案していると――
――不意にバーディー師匠が、鳥人ならではの細長い手で、わたしの左手を取って来た。ほぇ?
バーディー師匠は即座に、わたしの左薬指に出ている淡いサインを見破ったみたい。さすが大魔法使いの実力。
「うむ? レルゴ殿、この子は《予約》が入っとるぞよ。権利を主張するなら、『決闘』しなきゃいかんぞ」
「なにぃーッ?!」
レルゴさんは一気に爆発したみたいだった。
ざっくばらんな感じだった茶色のタテガミが、バババッと広がって、まさに戦闘態勢って感じ。ギョッとしちゃう。
そこで、フィリス先生が、ふと思い出したと言ったように付け加えて来た。
「そう言えば、さっきの『風のジェイダン』って人、いつだったかの夜、ルーリーに『耳撫で』して来てたわね。
あれ、『茜メッシュ』に触れて来るタイプだったかしら?」
――そうだったような気がしますけど。
わたしは記憶をおさらいし、『確かにそうだった』と思い出して、フィリス先生にコックリと頷いて見せた。
横を、一陣の風が通ったような気がして――おや?
戦闘態勢なレルゴさんが、腰の『警棒』をサッと抜いて、研究室の緑地に面した大窓を飛び出して、ディーター先生の元へと、荒々しい駆け足で接近してるんですけど?
いつの間にか、アーチ型の渡り廊下の先にある離れ小屋が、白いエーテル光で溢れていた。転移魔法だ。白いエーテル光が収まり、そこに居たのは――
――黒髪黒目を持つ黒狼種。紺色マント姿のクレドさんだ。
貴公子な金狼種ジェイダンさんじゃ無い。何で?!
ディーター先生とクレドさんが、レルゴさんの荒っぽい急接近に同時に気付いて、目をパチクリしている間にも。
レルゴさんは『警棒』を剣技武闘会スタイルの長剣に変形して、クレドさんに『礼儀正しく』突き付けながら、大音声を張り上げた。
「我が刎頸の友、レオ族が男ランディールに代わって、ハーレム求婚の権利獲得の決闘を申し込む! 《風》の貴様、ルーリー嬢を《予約》したそうだな!」
クレドさんは目を見張ってたけど、即座に話が通じたみたい。
流麗な動作でもって、スラリと腰の『警棒』が抜かれた。クレドさんは、その『警棒』をレルゴさんの物と同じような剣技武闘会スタイルの長剣に変形するや、
『礼儀正しく』レルゴさんの刃部分と交差させた。
――えぇぇ! 受けて立つの?!
「私の研究室をメチャクチャにしてくれるなよ」
何故かディーター先生も、事態を理解したうえに、承知しているみたい。ブツブツとボヤきながらも『魔法の杖』をサッと一振りし、
強力な結界ラインを、2人の男性の周囲に速やかに形成していた。
緑の芝草の上に、黒いエーテル光を放つ4本ラインがグルリと巡っていて、それに沿うように、4枚重ねの透明な《防壁》が立ち上がっている。
剣技武闘会の時の勝負スペースより少し狭いけど、ちゃんとした魔法の《防壁》で仕切られた勝負スペースが出来ていた。
2人の戦士は、合図も無しに、いきなり剣闘をスタートした。『不意打ちは卑怯』という定番の言い回しは存在しないらしい。
刃先が地面ギリギリをかする度に、緑の芝草の細かい葉が飛び散る。
紙一重でかわしているみたいで、毛髪の毛先も一緒に飛んでいる。
刃先が空気を切る音も、圧倒的な剣戟の音も響いて来ているし、いつ血飛沫に変わるかと思うと、とっても生きた気分じゃ無い。
そして、レルゴさんの刃先が遂にクレドさんの動きに到達したのか、クレドさんの左腕、防具に覆われていない部分から血飛沫が散った。
クレドさんは身をひねりつつ、後方に飛びのく。その空間をレルゴさんの長剣が薙ぎ払った。よけてなかったら、クレドさんの左腕は、ザックリと刻まれてたと思う。
クレドさんの足の運びに、隙が出来たみたい。レルゴさんは勢いに乗って一歩踏み込み、長剣を突き出した。
一撃必殺――クレドさんの喉元を突く位置に。
クレドさんの右手が、熟練の舞手みたいに高速でひるがえった。長剣の先端が、昼下がりの陽光に一瞬、閃く。
絶妙な角度で再び交差した双方の長剣は、耳をつんざくような剣戟音を立てた――片方の長剣が刀身をひねりつつ、空を舞った。
バーディー師匠が「アッ」と驚きの声を上げた。
空を舞った長剣が、斜めに地面に突き立つ。
その長剣を取ろうとして地表面近くに左手を伸べ、姿勢を低くした――レルゴさんは。
長剣を、取れなかった。
クレドさんが、レルゴさんの左手を足で踏み締めて動きを封じている。そのうえ、レルゴさんの首筋に長剣の刃を押し当てていた。
――沈黙が落ちた。
しばらくの間の――理解したがゆえの、絶句したがゆえの、静寂。
やがて、にわか審判を務めていたディーター先生が、何でもないかのように、灰色ローブに包まれた肩をヒョイとすくめた。
『魔法の杖』を持った方の手で、気だるげに金茶色の無精ヒゲをコリコリとかいている。
「こりゃ、文句なしに、勝負あったな。双方、退けい」
クレドさんが残心を見せつつ長剣を片手正眼に収め、レルゴさんが態勢を立て直しつつ長剣を下段構えで取った。
次の隙があり次第、双方ともに、再び不意打ちの剣闘に対応できる格好だ。
でも、これで――本当に勝負は終わったらしい。
ディーター先生が『魔法の杖』を一振りした。地面に描かれていた4本の黒い結界ラインが消え、4枚重ねの《防壁》が雲散霧消する。
レルゴさんは『フーッ』と息をつきながら、クレドさんの方は乱れた黒髪を左手で直しながら、長剣を再び元の『警棒』に戻し、警棒ホルダーに収めている。
「貴様がレオ族だったら、レオ皇帝の親衛隊にスカウトする所だ。刃引きをした模造剣じゃ無かったら、私の右手は切り飛ばされていただろうな」
レルゴさんは首を振り振り、実力を認めた相手への敬意なのだろう、軽く胸に手を当てるスタイルの敬礼をした。
さすが元・戦闘隊士。意外に洗練された所作だ。ビックリ。
「ランディールと私は、元々、レオ皇帝の親衛隊を務めていた同輩でな。剣の腕で言ったら、私の方が上なんだが……大した腕前じゃねぇか、風のジェイダン殿」
クレドさんは、レルゴさんの敬礼に同じ動作で応じながらも、首を傾げた。
「私はジェイダン本人ではありません。同じ《風霊相》ですが……」
レルゴさんの目が、テンになった。――あれ?
そんな所へ、ディーター先生の研究室の大窓から、バーディー師匠が、愉快そうな顔をしつつレルゴさんに声を飛ばした。
脇に控えているフィリス先生は苦笑いしていて、アシュリー師匠は、ヤレヤレと言った様子だ。
「レルゴ殿、魔法道具の隊商リーダーとして、その早トチリのクセは直さんといかんぞ。
フィリス嬢が続けて説明しようとしていたのに、戦闘態勢で飛び出して行っちまったじゃ無いか、若いのぅ」
バーディー師匠のツッコミは、さすがに響いたらしい。
レルゴさんは、涙目で地面に突っ伏した。そして、しばらくの間、落ち込んでいたのだった。
その落ち込みぶりと来たら、クレドさんが肩を叩いて、なだめなきゃいけない程だった。
――レルゴさん、可愛い所がある。憎めないと言うか……
*****(5)もうひとつの過去の情景
急に始まり急に終わった、レルゴさんとクレドさんの剣闘。
クレドさんの方は左腕から出血していたから心配したんだけど、ディーター先生の熟練の《治療魔法》で、傷が塞がってしまった。
本当にかすり傷だったみたいだけど、ビックリだ。
信じられなくて、思わずクレドさんの傍に寄って、何度も首を傾げながら、シゲシゲと眺めてしまった。
ついでに、血が出ていた筈の左腕を、何度も触ってしまった。包帯はおろか、傷薬すら不要らしい。
《治療魔法》、ビックリだ。
ディーター先生の研究室の、お決まりの席に座り込んだレルゴさんが、何故か生温い目でクレドさんを見据えた。
半ば、むくれているかのように、テーブルに肩肘を突き、片腰に片手を当てているという格好だ。
「おい貴様、わざと左腕を差し出したんじゃ無いだろうな」
クレドさんは何食わぬ顔のまま、小首を傾げて応じるのみだ。
「疲れが残っていたせいかと。《魔王起点》の後始末に関わっていたので」
「貴様、煮ても焼いても食えないヤツだな」
わたしには良く分からない会話だ。男同士でしか通じないような、特別な意味があるんだろうか。
「そう言えば、何でジェイダン君がクレド君に入れ替わったんじゃ?」
バーディー師匠が面白そうな顔で、まさに素晴らしいタイミングで、要点をつく質問を口にした。バーディー師匠、ナニゲにタダ者じゃ無いよね。
フィリス先生の手招きで、わたしは一応、フィリス先生の隣――定位置に座る形になった。
「ジェイダン殿は直前になって、魔法部署の『風のトレヴァー』長官から緊急召喚があったのです。シャンゼリンの死体に新しく現れた魔法陣の件で。それで、代理で私が参りました。
事前説明が無くて済みませんでした」
クレドさんの説明に、アシュリー師匠が、「ああ」と納得したように頷いた。
「シャンゼリン側の方にあった《紐付き金融魔法陣》が、やっと出現したのね。『飼い主』側の物は、死体になってから数日は経たないと、浮き上がって来ないから」
――何だったっけ?
何か重要な事を聞いた気がするけど、今日明らかになった事の方が色々と非現実的すぎたし、衝撃的すぎて、余り覚えてないなあ。
そんな事を考えている内に、クレドさんが持って来た『3次元・記録球』の再生が始まった。
不思議な魔法道具、手乗りの黒い球体な『3次元・記録球』は、起動エネルギーとなるエーテル流束を受け入れるや、テーブルから少し浮き上がり、そのまま空中に留まった。
次に、《土星(クロノス)》のような輪っかをポンと出して、スピンし始めた。そして、ミラーボールさながらに、あらゆる色にキラキラと輝き出した。
近くで見ると、一層ビックリな変身ぶり。ホントにオカルトでミステリーな魔法道具だ。
かくして、『3次元・記録球』の光が投射された魔法のスクリーン上には、元・第三王子だと言う『リクハルド閣下』の立体像が現れた。続いて音声の再生が始まったのだった。
*****
――リクハルド閣下は、実年齢よりもやつれた印象のある、黒狼種の男性だった。
高位の貴種ならではの覇気や、年齢や地位相応の重厚さは感じられるんだけど――やはり、やつれているという印象の方が強い。
元々は第三王子として『殿下』称号を戴いていた人物だ。だけど、妻を失った事で、臣籍降下したと言う。
権謀術数に長けた人物で、今のウルフ国王陛下とは随分とやり合っていたそうだ。目端や口元の表情には、今なお衰えぬ狡猾さが感じられる。
ジルベルト閣下と幾つも変わらない年齢なんだけど、心労のせいか、その絶世の美形中年な面差しの顔色は、悪い。
オールバックにして、うなじで豪華な髪留めでもってまとめた黒髪には、白髪が多く混ざっている。10年ほどは、余計に年を取っているように見える。
低く渋い声が響く。グイードさんに似た声音だけど、ずっと暗くて疲れた雰囲気のある、冷え冷えとした響きだ。
『さよう、通称『風のシャンゼリン』――正式名『風のシンディ』は、我が養女だ。同時に、我が血を分けた実の娘でもある。
我らがウルフ王国に大変な混乱を引き起こした件、謝罪すると言う他に無い』
リクハルド閣下は、臣籍降下に伴う事情と言い、その後の『殿下』への復帰を狙った蠢動と言い、
ザ☆秘密主義なジルベルト閣下に負けず劣らず(?)、裏では色々と黒い噂がある人物だったそうだけど。
シャンゼリンが、想像以上に冷酷な性格だった事、普通じゃ無い死に方をした事は、さすがにショックだったらしい。
リクハルド閣下は、不意に遠く空を眺める眼差しをして、語り始めた。
『確かに私は、24年前、『風のキーラ』と名乗る紫金(しこん)の女と出逢った。あれは美しい女だった。
詳しい事情は省くが、私とキーラは、双方の合意によって男女の情を通じる関係となった。
その結果としてキーラは妊娠していた。その子が、今『風のシャンゼリン』として我々が知る、ウルフ女性に間違いない』
リクハルド閣下とキーラの奇妙な共同生活は、1年も続かなかったと言う。
闇ギルドの歴戦の悪女『風のキーラ』は、いきなり姿を消したのだ。妊娠したまま。
その際に、リクハルド閣下の一族のアンティーク宝物だった『紫花冠(アマランス)』――紫の宝玉を装飾した女性用サークレットも、一緒に失せていた。
――キーラが姿を消して、14年後。
紫の宝玉を装飾したサークレット『紫花冠(アマランス)』を持つ、1人のウルフ族の美少女が、領主館に現れた。
最初は、行儀見習いに参上した、地元の町の娘だろうと思われていたのだけど。
珍しい紫金(しこん)の髪。悪女キーラに、そっくりな美貌。
見間違いようも無い、リクハルド閣下の一族のアンティーク宝物――紫の宝玉で装飾された、由緒のあるサークレット『紫花冠(アマランス)』。
それが、キーラの娘――正式名『風のシンディ』――シャンゼリンだった。
――《土星(クロノス)》さながらの輪っかを出した『3次元・記録球』による再生映像は、回り続けている。
リクハルド閣下の不思議な告白は、続いていた――
*****
中年の黒狼種リクハルド閣下と、うら若き金狼種14歳のシャンゼリン。
実の父と実の娘の、感動の再会ではあったのだが。
シャンゼリンは、キーラの生き様をそのまま受け継いだかのような、やはり闇ギルド育ちの女だった。
この年齢で窃盗事件は数知れず、殺人事件を起こした数は10件を超えていた。
――シャンゼリンは、幾つかの闇ギルドから、『生死問わず』の暗殺者を差し向けられていた。
母親『風のキーラ』は既に死んでいた。魔法道具の市場を荒らし回った際、予期せずして起きた魔法道具の爆発に巻き込まれ、
血みどろになって死んだ――闇ギルドの悪女、キーラらしい最期。
――そこで、思わぬ話題が出た。
シャンゼリンには妹が居る。妹は、別の場所で生活をしている。
母親キーラが死んだ後、その遺品のうち金になる物は、シャンゼリンが独占し、外出を重ねて浪費した。
やがて、外出先で貯金が尽きたシャンゼリンは、素晴らしいまでのタイミングで妹の存在を思い出したのだ。
シャンゼリンが、かつて母親と妹と過ごした風俗街に、舞い戻ってみると。
風俗街の代表者は、風俗街で生み捨てられた子供たちを、近所の(それなりに慈悲のある)人身売買マーケットの商品として出品していた。
その中に、シャンゼリンの妹が居た。
シャンゼリンは人身売買マーケットに忍び込み、良い値段の商品として売られていた妹を、その取引の儲けごと風俗街から盗み取った。
そして、妹を、人身売買マーケットの手の及ばないところに移動した。
当然ながらシャンゼリンは、その風俗街と人身売買マーケット業者からも、高額の賞金首として狙われているところだ。
資金が尽きた後、シャンゼリンは思うように逃亡生活が出来なくなった。それで、母親の思い出話に聞くだけだった、実父リクハルド閣下が領主を務める、飛び地に来たのだ。
リクハルド閣下は、その謎の妹の行方について、それとなく探りを入れてはいたのだが、シャンゼリンが妹について言及したのは、数えるほどしか無い。
言葉の端々をつなぎ合わせた、何とも、曖昧な情報ではあるけれど。
妹は、無能な混血だと言う。亜麻色のモフモフの毛髪をしたイヌ族の小男を、父とする。父親の名前は、『風のパピヨン』とか『風のパピィ』とか言うらしい。
何ともパッパラパーな名前を持つイヌ族の父親の方は、フリーの忍者調査員か探偵稼業のような事をしていたらしい。現在の居住地は勿論、その行方も生死もハッキリしない。
――父と娘の異様な再会から、1年の時が経ち。
シャンゼリンは、宮廷出仕が可能な年齢――15歳になっていた。元々の頭の良さもあり、ひととおりの行儀作法を完璧にこなせる程の、優秀な資質を見せた。
ふとした折に見せる、ゾッとする程の凶悪な人相を除けば、ほぼ完璧な『深窓の令嬢』だった。
シャンゼリンは、確かにリクハルド閣下の実の娘だった。地元の上級魔法使いにも、ひそかに《宿命図》を調べてもらっている。
シャンゼリンの真の《宿命図》は、確かにリクハルド閣下を実の父とするパターンだった。
それゆえ。
シャンゼリンは、リクハルド閣下の『実の娘』として、ウルフ宮廷に乗り込む計画を立てていた。『元・第三王子の、実の娘』。王女コースに入るのも可能な程の、高位の貴族令嬢。
だが、リクハルド閣下は、シャンゼリンを『養女』とした。
平穏な日々を過ごしているうちに、少しずつ自然に、シャンゼリンを『生死問わずの高額の賞金首』としている闇ギルドの面々と完全に縁が切れる筈だ。
そうして、そのドス黒いまでの凶悪な生き方を変えてくれるかも知れぬ――という期待があったから。
『条件を満たせば、高貴なる第三王子だった私の、実の娘として――真の貴族令嬢として公認しよう。その条件とは何か。それは、シャンゼリン自身で考えてみよ』
今の時点では、シャンゼリンを一族の者として数えるのみであり、特に貴族令嬢として公認するという考えは、無い。リクハルド閣下は、シャンゼリンに、そう告げていた。
そして将来、期待すべき兆候が見えて来たならば。
その時は、リクハルド閣下は、満を持して――シャンゼリンを『実の娘』と公認するつもりではあったのだ。
実の娘として公認されない立場。つまり、高位の貴族令嬢としてでは無く、宮廷勤めの侍女として、ウルフ宮廷に出入りする事になる。
シャンゼリン自身は、それを、どう受け取ったのか。
――その回答は、領内の流血事件となって返って来た。
1年の間にシャンゼリン本人を目撃していた、地元の有力者の不審死が続いた。
犯人はシャンゼリンだ。高価な魔法道具を縦横に駆使した、完全犯罪。
この1年の間に、シャンゼリンには目も眩むような大金が転がり込むようになっていた。それで買い揃えた非合法の魔法道具によるものだった。
特に、身元を偽るための非合法の魔法道具は高価なのだが、シャンゼリンには、それらを買い揃えられるだけの謎の収入があったのだ。
――公的機関の金融魔法陣を経由しない、謎の大金。
シャンゼリンの謎の妹からの送金だと言う事は、容易に推測できた。
まだ闇ギルドに居ると言うシャンゼリンの妹が、何をやっているのかは知らないが。余程の不法行為か――危ない橋を渡っているようだ。
――こんなタイミングで、謎の妹という存在が、大金を稼ぐようになるとは。実に余計な事を。
続いて、リクハルド閣下の一族の令嬢、黒狼種・正式名『風のシャンゼ』が、家族や親戚もろとも、いきなり姿を消した。
他人の空似とは言え、シャンゼリンと容貌が似ていた事がアダになった。
シャンゼリンは、本人確認のリスクを全て片付けたうえで、その令嬢の《宿命図》を自分の物として、宮廷に乗り込んで行ったのだった。
更に、《変装魔法》の道具でもって、自身の容貌の系統を、相応に工作していた。万が一、闇ギルドの者たちと面を合わせる事になっても、自身が賞金首だとバレないように。
これが、いわゆる『身内の後継者争いの件』及び『実の娘だが、養女扱いとなっている件』の真相である。
シャンゼリンは、自身が悲劇のヒロインとなるように都合よく話を捻じ曲げ、編集し、巧みに吹聴していた訳だ。
もっとも、シャンゼリンの黄金時代は、続かなかったようで。
宮廷に上がってから3年も経たないうちに、シャンゼリンから金の無心が始まるようになった。
シャンゼリンは、ウルフ貴公子を次々に罠にかけて恐喝もやっていたらしいが、正確な人数は分からない。
先方にしても、恐喝の黒幕が誰なのかは分からない状態だったらしく、リクハルド閣下の方へは、苦情は来なかった。
かくして――
ここ最近の出来事でヘマをしたせいで、シャンゼリンは、『ウルフ族、黒狼種、正式名:風のシャンゼ』という在り方が、都合悪くなった。
シャンゼリンは、この数日のうちに、この存在を消す事を決定していた。王族子弟たちの毒殺が失敗に終わり、『上級侍女シャンゼリン』に疑いの目が向いた事を、敏感に察知していたのだ。
リクハルド閣下の陰気な告白は続いた。
『あれは、マーロウ裁判の真っ最中の事だったか。シャンゼリンから連絡があった。我が亡き妻の一族の出身として、『金狼種・風のシンシア』という貴族令嬢の存在を、
捏造しておいてくれと言う内容だ。最初は理由が分からなかったのだが、『茜姫のサークレット』を手に入れたと聞いて、大いに納得がいった』
そして、現在。
シャンゼリンは、まさに闇ギルドの悪女さながらの、普通では無い死を遂げた。両の手に余るほどの、数多の不法行為と――国家転覆レベルの、重大犯罪の実績を残して。
敢えて言えば、功績らしき物は、あるのかも知れない。『類は友を呼ぶ』法則と言うべきか、ウルフ貴公子マーロウと言う第一級の汚職者にして危険分子を、
早々に、白日の下にさらすくらいには。
――これも、自業自得なのか。身から出た錆、と言う名の。
そのように締めくくり、絶世の美形中年なリクハルド閣下は、座っていたソファの背もたれに沈み込んだ。そして、疲れた眼差しをして、在らぬ方を振り仰いだ。
『我が養女シャンゼリンは確かに、我が血を分けた実の娘であった。結局、養女扱いのままであったが、その件について、私は逃げも隠れもしない。
心残りはと言えば、もっと別のやり方もあったのかも知れぬと言う点だ』
*****
――『3次元・記録球』の再生は、終了した。
早速、レルゴさんが、呆れたような溜息をつく。
「おい、巨額の汚職だの重大犯罪だの、毒殺を含む暗闘だのは、レオ族の優秀さゆえの暗黒面だと思っていたが。ウルフ族も、なかなかドス黒い事をやってんじゃねぇか。
このシャンゼリンと言う女、陰謀が全て成功していりゃあ、ウルフ王国どころか、我らがレオ帝国の国盗りをすら、やってのけてたぞ」
バーディー師匠が、飄々と受け答えする。
「まさに、不世出のファム・ファタルじゃのう。闇ギルドの生き様を、これ程に見事に具現化していたとはのう」
魔法のスクリーンの中、次第に薄れていく、リクハルド閣下の立体像――バーディー師匠は、不思議な銀色の目を揺らめかせつつ、
数奇な運命に見舞われた1人のウルフ族の男に、ジッと見入っていた。
「そもそも、人ひとりの生と死を変えるのは、難しいものじゃよ。
本人の意識が生まれ変わらぬ限り、どれほど外界の環境を整えても『大いなる彼方』には到達せぬ――という、《アルス・マグナ》の根底にある真理を証明しておる」
バーディー師匠の思慮深い穏やかな声が、『3次元・記録球』の、テーブル着地音に重なる。
「因縁とは、過去と現在を結ぶ人の心が作る物。天球は、劫初と終極の『界(カイ)』を『刻』として指し示すだけで、それをどう結ぶかは、人次第じゃ」
*****
暫し、厳粛な沈黙が続いた後。
レルゴさんのお腹が、盛大な『空腹』の鳴き声を上げた。続いて、わたしのお腹も、鳴き声を上げ始める。
――うわあぁぁ。こんな時に、同調しなくても。
わたしのお腹の鳴き声は、ちゃんと区別して分かるみたい。
ディーター先生とフィリス先生とクレドさんが――クレドさんまでが――『おや』と言った風で、わたしを注目して来た。身の置き所が無い……
バーディー師匠とアシュリー師匠が、少しの間、意味深そうな様子で顔を見合わせる。
――な、何だろう?! 元・サフィールも、こうやってお腹を鳴かせていたとか……?!
何かを納得しているかのような、思い出しているかのような謎の頷きを数回した後、バーディー師匠は、愉快そうに「フォフォフォ」と笑い声をあげた。
「かくして、いつものように日は沈む、そろそろ夕食の頃合いじゃのう。我々は、ディーター君の研究室で馳走になろうかのう」
窓の外に広がる空は、いつの間にか、茜色に染まっていたのだった。
*****
クレドさんは、親衛隊士として色々と多忙な身だ。
ディーター先生の研究室での夕食会に同席する時間は無く、早々に『茜離宮』に引き上げる事になっている。
そもそも『3次元・記録球』の再生に立ち会う時間を取れたのも、必要上の事であって、余裕があっての事では無い。
――モンスター襲撃事件があったばかりだし、シャンゼリン事件の後始末も大変なのは、うん、良く分かる。
リクハルド閣下の長い告白は、シャンゼリンの数々の余罪を、明らかに示唆していた。
シャンゼリンに恐喝されていたと思しきウルフ貴公子たちを割り出すと言う、気の滅入るような調査も加わってきた状態。
複数の貴公子たちが、その地位と立場を利用して、脅されるままに不正行為に手を出していたとしたら、オオゴトだ。
――わたしが元・サフィールと言うのは、どうやら揺るぎようも無い真実みたい。それなら、
シャンゼリンは、間違いなく、わたしの実の姉だ。母親が同じ『風のキーラ』。今でも、とっても信じられないけど――
*****
ふとした隙間を捉えて、バーディー師匠とアシュリー師匠に、シッカリと釘を刺された。
――わたしが元・サフィールだったと言う事実は、誰にも明かしてはならない。
今の時点で、『記憶喪失なルーリー』と『第一位《水の盾》サフィール・レヴィア・イージス』が同一人物だと大々的にバレるのは、色々とマズいそうだ。
目下わたしは、魔法が全く使えない状態だから、完全なる無防備状態と言える。
最低限でも。
わたしの頭部の拘束具――『呪いの拘束バンド』が無事に外れるまでは、わたしが元・サフィールである事実は、最高機密扱い。
クレドさんにも話してはならない。クレドさんは優れた人材だけど、強い魔法使いじゃ無いから、そっち方面は相応に無防備なんだそうだ。
勿論レルゴさんも、シッカリ釘を刺されていた。
もし、秘密を守れないなら、強い《暗示》を施して、半永久的に忘れさせてあげる――という、
それも、2人の大魔法使いによる、れっきとした恐るべき脅しと共に。
レオ族の大の男が、それもトップクラスの戦士が、本気でビビってる顔は、初めて見たと思う。
クレドさんが、ディーター先生の研究室を退出しながらも、レルゴさんの状態に気付いたくらいだ。
「レルゴ殿、急に体調が悪くなったというような事はありませんか? 顔色が悪いですが……」
「いや、旅の疲れが出たせいだろう、一晩寝りゃあ、キレイさっぱりよ。ハ……ハハハ……」
――レルゴさん、苦しい言い訳っぽい感じですよ……
クレドさんは暫し首を傾げていたけど、レルゴさんの言い訳を、納得する事にしたようだった。
そして、不意に――意味深な眼差しで、わたしの方を見つめて来た。ドキッ。
「――そのうち、リクハルド閣下と会って、話してみたいですか?」
え、えっと……?
わたしは思わず、口をポカンと開けていた。
――会ってみたいと思う気持ちは、あるんだよね。
実のところ、まだ実感が無いし、会ってどういう事になるのかは分からないし、全く想像が付かないけど。
わたしとは直接の血のつながりは無いけれど――わたしの実の母親とも、実の姉とも、深く関わった稀有な人物だ。
クレドさんは謎めいた眼差しでジッと見つめて来ていたけれど、わたしの無言の反応に、何らかの得心が行く物があったらしく、わずかに頷いて来た。
いつだったかのように、クレドさんは、わたしの『仮のウルフ耳』をひと撫でして来た。
『呪いの拘束バンド』と真っ赤なヘッドドレスとの一体化に挟まれて、一種の残骸となっている、『仮のウルフ耳』を。
その後、クレドさんは器用な所作で、順番にディーター先生たちに退去の一礼をした後、身を返して、薄暮の中を立ち去って行ったのだった。
――あれ?
クレドさん、気付いているんだろうか。わたしが、元・サフィールな事。
――気付いているとしたら……何故?
妙な直感でモヤモヤするままに、クレドさんの後ろ姿をジーッと見つめてしまう。
見つめていると、うなじでまとめられている、クセの無い漆黒の黒髪に目が行った。
ジルベルト閣下やリクハルド閣下みたいに、宝飾細工のある豪華な髪留めでまとめていない。武官だから当然かも知れない。
――あれ、髪紐だよね。
無口で無表情なクレドさんらしいと言うのか……
全く飾り気の無い――何だか今、初めて気が付いた気がするけど――多分《風霊相》生まれと言う事実に合わせてあるのだろう、白い髪紐だ。
武官――隊士の髪型は、機敏な動作を妨げる物で無ければ、基本的に自由らしい。ザッカーさんみたいな短髪の人も居たし、
クレドさんよりも髪を長く伸ばしている人も居た。だから、髪紐の方は、自分で必要だと思ったら買う、という感じなんだろう。
わたしの色彩感覚を信じるとすれば、あれ、何処にでもある、高くも安くも無い普通の品だ。そして、そろそろ、くたびれかけてる所だ。
そして――不意に、思いついたのだった。
――髪紐、作って贈ろうかな。何か、守護魔法陣みたいなのがセットで付けられるなら、そういうのも付けて。