深森の帝國§総目次 §物語ノ傍流 〉瑠璃花敷波09

―瑠璃花敷波―09

part.09「因縁の発生せし処*1」

(1)夜明け前の地下牢より
(2)天球《暁星(エオス)》の空の下
(3)容疑者たちの証言
(4)紫金の色のファム・ファタル
(5)秘密会談な昼食会

*****(1)夜明け前の地下牢より

目撃証言の記録と当座の現場調査が、ひととおり終わった。

モンスター襲撃事件とシャンゼリン殺害事件が重なっただけに、現場調査の報告書の量が倍増している。

ディーター先生やフィリス先生は、引き続き、他の上級・中級魔法使いたちと一緒に、報告書作成の真っ最中だ。 魔法使いたちは、高度な《疲労回復》の魔法を活用できているお蔭なのか、疲労の色は全く見られない。

ほとんどの隊士たちも、《疲労回復》の魔法で、一時的に体力の余裕が延長している。その分だけ、後日、死んだようにグッスリ眠る事になるだろうけれども。

わたしは何故か《疲労回復》の魔法が掛かりにくいタイプだった。しかも、今頃になって『モンスター襲撃の夕べ』の疲れが出たのか、全身グッタリだ。 モンスター残党と思しきムカデ型モンスターの類が出てくる度に、ギョッとするものの、逃げ出す気力は無い。

ディーター先生とフィリス先生の診立てによれば、『呪いの拘束具』による締め付けに抵抗して、喉を無理に動かして『遠吠え』したのが、 響いたのだろうと言う事だった。

*****

体力に余裕のある隊士たちの手によって、枯れ池に突き刺さっていたT型の大型建材の残骸が取り出され、回収された。

シャンゼリンの死体がぶら下がっていたT型の大型建材の残骸は、 装飾パターン等がスッカリ剥ぎ取られていて、何処から来た物なのかは結局、分からなかった。此処には、建築の専門家は居ないもんね。

だけど、もしかしたら、あのT型の大型建材の残骸の正体は……紛失していたアンティーク宝飾品の一部、『白き連嶺の装飾アーチ』の成れの果てかも知れない。

前日、マーロウさんが不正に使っていた倉庫の中にあった『白き連嶺の装飾アーチ』は、チェルシーさんによれば、 半分しか残ってない状態だったと言うし……素人目で判断した結果だから、何とも言えないけど。

今や、事件の全容は、ひとつながりに繋がっていたらしいという状況だ。連続殺人事件って事。恐ろしい。

クレドさんに片腕抱っこされたまま、ディーター先生やフィリス先生をはじめとする事件調査チームの動きを眺めていると、 その事件調査チームを警護しているザッカーさんの『魔法の杖』が、急に瞬いた。

――おや?

ザッカーさんが『魔法の杖』を構えがてら、ちょっかいを出して来た蛍光レッドのムカデ型モンスターをヒョイとよけて、踏み潰す。

中型モンスターとは言え、弱体化しているから小型モンスター程度の雑魚になっているんだろうけど……さすが親衛隊を務める上級隊士、なおかつ猛将の実力。

すぐに『魔法の杖』の通信リンクが確定した。ザッカーさんが目をパチクリさせている。

「おッ? 地下牢からの緊急連絡だ……なぬッ?」

ザッカーさんは、すぐにこちらに顔を向けて来た。正確には、わたしを片腕抱っこしている、クレドさんの方を。

「おぅ、そのチビ、早速お手柄みたいだぜ。さっきの『遠吠え』の副音声が、なかなか口を割らねぇ脱走犯を、ガチでビビらせたんだとさ。 バーサーク化したにも関わらず、えらく早く正気に返っていた、あのイヌ族の脱走犯だよ。 ヴァイロス殿下の暗殺未遂の時の記憶が正常に残ってる可能性があって、引き続き尋問してたヤツだ」

――何ですと?! あの、口に出して言うも憚られる、あの黒いカサコソの名前だけで?!

クレドさんの無言の促しに応え、ザッカーさんは、『魔法の杖』で受け取っていた通信を再生して聞かせて来た。

くだんの『イヌ族の脱走犯』の自白内容は、このような内容だった――

『んあ? オラの名前はもう分かってんだろ、水のニコロだよ、ニコロ。『闘獣』崩れの殺し屋だ。 モンスター狩りの際に、モンスターを呼び寄せる囮になる所を運よく脱走したが、『例の黒いアレ』恐怖症も引きずって来た、ケチな野良犬さ』

オッサンと言う年ごろのせいなのか、それとも散々に『例の黒いアレ』トラウマを発動しまくった後のせいなのか、意外にくたびれた声音だ。

ふと気が付くと、周囲の隊士たちも、興味深そうにウルフ耳をピッと傾けて来ている。調査チームの手も止まっていた。

『今から告白するから、耳かっぽじって、よう聞け。あんたらウルフ族の超・美形なキンキラキンの王子、闇の女にえらく怨まれてんな、ワハン』

そして、くたびれた声音による、不思議な告白が続いた。時々挟まれる『ワハン』は、イヌ族の独特の嘲笑らしい。

『オラたちゃ、間違いなくキンキラキンの王子をターゲットに、闇討ち仕掛けたさ。闇ギルドの仲介を経た依頼によってな。 この依頼をしたのは、えらい美人な黒毛のウルフ女でさ。シャンゼリンって言う。 あの女、こういう闇工作やら流血やらが本領でな。誰かに指示を受けてたらしいが、まさに闇ギルドの悪女だぜ、あのタマは』

嘲弄まざりの告白なんだけど、わたしにも分かる。この『イヌ族の脱走犯』っていう人――水のニコロと名乗った人――は、真実を述べている。

ディーター先生もフィリス先生も、調査チームの人たちも、目を丸くしている。まさに目の前で死んでいるのが、その上級侍女・シャンゼリンだから。

『シャンゼリンの誘導で、オラたちは、黒髪キンキラやら金髪キンキラやら、年取った偉そうなウルフ男やらを襲ったのよ。 上級侍女ってえのは、宮殿の奥へも入れるんだな。侵入も脱走も簡単で笑いが止まらなかったぜぇ、ワハァン』

――いかにも『オッサン』な声音が、だんだん眠そうになって来ている。そろそろ限界っぽい。

『だがぁ、ヤキが回ったのかねぇ。最後の金髪キンキラ、魔法使いやら斥候やらが、ドエライ包囲と追跡をして来たんでなぁ、 逃げ切れなかったのよ。おまけに想定外の事があったんでなぁ、ワハァン。 下手に喋ったら、オラがシャンゼリンに暗殺者を放たれて殺されかねないんでなぁ。その辺、命の保証よろしく頼まぁ……グウ……』

不思議な告白は、イビキに取って代わった。

いつの間にか近づいて来ていたディーター先生が「おい、寝るな」と突っ込んでいる。

ザッカーさんもクレドさんも、他の人たちも同じ気持ちだろう。 ヴァイロス殿下の暗殺未遂事件のミステリーを含めて、今まで分からなかった事実が、急に浮上して来たのだから。

それにしても、シャンゼリン、スゴイ言われようだ。『闇ギルドの悪女』って。

確か、オフェリア姫の言うところによれば、 とっても実力のある貴種だから、近々、『第三王女シャンゼリン姫』になるかも知れない……じゃ無かったっけ?

*****

イヌ族の脱走犯こと『水のニコロ』の自白は、重要なターニングポイントだ。

ヴァイロス殿下の暗殺未遂事件に関わったとされる容疑者は、一応ひととおり身柄の拘束は済んでいて、地下牢につないで、連日、尋問中。

容疑者たちは、『バーサーク化イヌ族、男3名』、『バーサーク化ウルフ族、男2名』、『イヌ族の脱走犯、男2名』、 『正体不明のコソ泥チビ1名、未だ捕まらず』――

バーサーク化すると、ガチで10倍から20倍くらい戦闘力が上昇するんだそうだ。 一般のウルフ族であっても、バーサーク増強パターンによっては、貴種ウルフ族に近い戦闘力となる。殺し屋ともなれば、なおさらだ。

リストに上がったのは全員で8名なんだけど、実際に捕縛され容疑が確定して、地下牢に居るのは、6名だ。 だから、総合すれば、当日は60人から120人の暗殺者が活動したのと変わらないという訳。

除外されている2名のうち、1名は、わたしだ。重傷患者で記憶喪失かつ『呪いの拘束バンド』に取り付かれているため、 脱走の可能性が極めて低い――更に『容疑者では無い』と見なされている。残りの1名『コソ泥チビ』は、今なお捕まっていない。

ちなみに、その『コソ泥チビ』は明らかに成長期前の子供――腕の中に収まる程に小さな子狼なので、バーサーク化する程の体力は無い。すなわち容疑者では無い。

でも窃盗容疑は掛かっていて、今でも指名手配中。何故か訓練隊士の紺色マントを、2つばかり盗んでるそうだ。《風》のマントと《水》のマント。

大胆にも、大食堂で出している訓練隊士向けの食事を1セット無銭飲食したうえ、侍女たちの小物、つまり髪飾りや耳飾り等のアクセサリー類を、少しばかり盗んでいる。 金に換えたらしく、後日、城下町の中古アクセサリー買取店から盗品が出て来たそうだ。その『コソ泥チビ』、いったい何者なんだろう。

閑話休題。

ずっとバーサーク化していた方の容疑者たち5名は、タップリ3日もの間、正気じゃ無かったため、正常な記憶を問うのは、もはや不可能らしい。 そして、早く正気に戻っていたイヌ族の脱走犯こと水のニコロと共に、何かに怯えているのか、どれだけ尋問しても、頑として黒幕の正体について口を割らなかったと言う。 それで、ずっと膠着状態が続いていたそうだ。

ディーター先生とフィリス先生は、すぐに転移魔法で地下牢に駆け付ける事になった。

このイヌ族の脱走犯の気が変わらないうちに、眠気を覚ます魔法を仕掛けてでも、自白を続けさせるためだ。ザッカーさんも精鋭を選んで、同行だ。

ただし、クレドさんは、わたしを病棟に送り届ける任務を引き受けたため、今回は転移魔法陣に入っていない。 そして、わたしを相変わらず片腕抱っこしたままだ。

――わたしが頼りなくて済みません。わたし、男に生まれてたら良かったよ……

転移魔法は、《風霊相》生まれなフィリス先生の、十八番だ。フィリス先生が早速、近くの平坦な地面に、白いエーテル流束で転移魔法陣の形を描き出した。 即席の転移魔法陣だ。得意中の得意というだけあって、形も正確。

ディーター先生やフィリス先生と共に転移魔法陣に入ったザッカーさんが、精鋭の部下を整列させつつ、クレドさんに声を掛けた。

「その『炭酸スイカ』モドキの方のチビを病棟に送り届けたら、クレドも急行しろよ。 あの時に取り逃がした『コソ泥のチビ』の方の正体についても、改めて確認しなきゃならん」

クレドさんが頷いた間にも、即席の転移魔法陣が稼働した。白い《風》エーテル光があふれ、白い列柱となって、魔法陣の内側に集まった人たちを覆い隠す。

そして、白い列柱がバラけて消えると、その場にあった転移魔法陣も、転移魔法陣の内側に集まっていたメンバーも、既に消えていた。

転移魔法だと分かっていなければ、とってもオカルトでミステリーな眺めだ。エーテル魔法、やっぱりスゴイ。

*****(2)天球《暁星(エオス)》の空の下

地下牢での更なる調査に対応するためのメンバーを送り出す、転移魔法が終わった。

クレドさんは、居残り組の隊士たちや魔法使いたちに、 引継ぎやシャンゼリンの死体の運搬などの手続きを任せると――わたしを片腕抱っこしたまま、さっさか歩き出したのだった。

――隊士の移動スピード、やっぱり半端ない。クレドさん、わたしよりも夜目が利くみたいだし。

見る見るうちにレンガ焼きの作業小屋を通り過ぎて行き、周囲の光景は城下町に変わった。『茜離宮』直通の大通りに出て、そこで角を曲がる。

行く手の丘の上に――未明の闇を照らす夜間照明に縁取られた、特徴的な建物の影が見えて来た。 玉ねぎ屋根を乗せた3つの尖塔と、宮殿を構成する多数の棟だ。

夜の間、城下町の各所の『魔除けの護符セット』から出ていた四色のサーチライトは、今は役目を終えて、消滅している。

幾つかの、石祠タイプになっている『魔除けの護符セット』を通り過ぎる。古すぎて効力が切れ掛かっていた魔除けの魔法陣の方は、 強いエーテル魔法の負担に耐えきれなかったみたいだ。魔法陣のパターンが溶けて崩れていて、ボードごと砕けたり焦げ付いたりしている。

――わたしが製作していた『魔除けの魔法陣』、ちゃんと役立ったのかな?

そんな事を考えていると、それがクレドさんに伝わったみたいで、クレドさんが少し歩みを緩めた。不思議そうな顔で、のぞき込んで来る。 色々あった後なのに、相変わらずの端正さ。ドキッ。

――イヤイヤ、何でも、ありませんから!

クレドさんは暫し無言で首を傾げていたけど、重要な事じゃ無いと納得したみたい。すぐに歩調が早まり、元通りになった。

夜間照明が復活し始めた城下町の各所には、モンスター死骸の山が出来ている。

下水道を兼ねた溝には、モンスターの血だまりが出来ている。蛍光レッドと毒々しいオレンジと紫色が入り混じっていて、何とも凄まじい色合いの水だ。 後で、アーヴ水を流して浄化する予定になっていると言う。

手ぐすね引いていたと思しき民間のモンスター関連業者が、夜明け前から早くも出動している。

モンスター毒に対応している手袋や長靴など、防護セットをまとった大勢の業者たちが、モンスター死骸やモンスター血液を回収し、次々に大きな台車に乗せて運搬していた。

民間のモンスター関連業者が大声で交わし合っている内容が、耳に入って来る。

モンスター残骸が多いので、臨時の『モンスター商品マーケット』が立つのだそうだ。

より大きくて新鮮なモンスター死骸をゲットし放題という黄金の3日間は、このエリアを領土としているウルフ族の業者で、独占しておく。 その日程以降は、方々からやって来る、他種族のモンスター関連業者に開放する予定らしい。

行き交う人々の間に見える、極彩色の大小のモンスター死骸の山――

どういう商品になるのかとアレコレと考えていると、不意にクレドさんが声を掛けて来た。

「その切り枝は、まだ手放す気になりませんか?」

――切り枝?

うわ。わたし、ずっと切り枝を抱えたままだったみたい。一晩中。無意識だったから気が付かなかった。

――でも、このままで良いよね?

毛髪の色が不気味な蛍光黄色と蛍光紫のマダラになっちゃったとか、そこに毒々しい程に真っ赤な『花房』付きヘッドドレスを着けてるとか、 お化粧が流れて『物凄い顔』になっている事を考えると。

クレドさんの右手が伸びて来て、切り枝の位置を外側に直して来た。

「それだったら、私との間に切り枝を入れるのは、意味が無いでしょう」

――ほぇ?

だって、わたし今、『炭酸スイカ』モドキっていう、お化けもビックリの、物凄い格好ですよ? 間近で見てたら、 クレドさん、眠ったら悪夢に見るんじゃ無いですか?

「ルーリーは、いつでも可愛いですよ」

――はぃ?!

何か想定外の事を言われた気がする。

ピシッと固まっている内に、動く彫像なクレドさんは大通りの端にある市井の転移基地に入った。 転移魔法陣をセットした、仕切り付きの小間が多数並んでいるから、転移基地と言うよりは、転移ターミナルだけど。

此処から、『茜離宮』外苑の敷地にある転移基地に移動するらしい。わたしとフィリス先生も最初に辿っていた、最も一般的なルートだ。

転移ターミナルの小間のひとつに入ると、クレドさんが転移魔法陣を起動した。クレドさん、《風魔法》使えるんだ。 確か《風刃》も上手だったし、《風霊相》生まれだったりするんだろうか。ビックリ。

魔法陣の周囲が白いエーテル列柱に囲まれている間、クレドさんの言葉が耳元で続く。

「例のイヌ族『火のチャンス』は、一発殴っておかないと気が済みません。私より先に、ルーリーの礼装姿を堪能した筈ですから――そのような、 ボロボロになる前の礼装姿を」

――クレドさん、内容はともかく、声音が怖いですよ……

わたしが頭をグルグルさせている内に、白いエーテル列柱がバラけ、見覚えのある『茜離宮』外苑の緑地が広がった。

辺りはまだ未明の闇に包まれていて、暗い。『茜離宮』外苑の各所に散在する樹林の辺りは、一層シンとしている。

外苑に設置された、庭園用のあずまやのような転移基地を出る。道脇の提灯さながらに、一定距離ごとの置き石にセットされている夜間照明が、ボウッと光っていた。 一方で、東の空には、東雲の兆しが湧き上がり始めている。

――《暁星(エオス)》の刻が近い。

クレドさんは、わたしを相変わらず片腕抱っこしたまま、丘の上に続く並木道を登り始めた。暫しの沈黙の後、クレドさんが再び口を開く。

「どんな姿であれ、ルーリーが生きていて良かったと思いました。ディーター先生と共に到着した時、あの小屋の周りは既にムカデ型モンスターで一杯で、 ヤブの端に水色の薄布の切れ端が掛かっていた。一瞬、ルーリーを失ったかと思いました。 ディーター先生が、その方向の奥に、フィリス先生が形成した《防壁》があると気づくまでは」

――あ。ヤブをこいだ時、薄布の方はベリベリに破れちゃってたんだよね。あれ、案外、目印になってたんだ。

クレドさんは疲れたような溜息をつくと、次に見えて来た樹林の傍で、わたしをそっと下ろした。

あ、抱っこしたままだったから、やっぱり疲れちゃったんだ。お手間を掛けてしまって済みません。

今まで緊張で感覚が薄くなっていたから気が付かなかったけど、この切り枝、割とズッシリしてる。いつもより重かった筈だよ。

わたしの指は、強張りは解けていた。ソロソロと切り枝を樹林の根元に転がしておく。本来はレンガ焼きの作業小屋の辺りに戻すべきだったんだろうけど、 同じような種類の樹林だから、問題では無いよね。

そして、クレドさんの方に向き直ると――

――クレドさんは、わたしの前にひざまづいていた。古式ゆかしき、あのやり方だ。

「……ゲッ?」

エッと言ったつもりが、声がしゃがれていて、ゲッになってしまった。うわあぁぁ。

今! ひざまづかなくても! と言うより、何やってるんですか、クレドさん!

クレドさんが端正な面を上げて来た。

切れ長の黒い眼差しには、強い光が浮かんでいる。思わず心臓を鷲掴みにされるような、そんな、射抜いて来るような強さだ。

目をそらせないまま――漆黒に見入られたまま、息が止まる。

――低く滑らかな声が、払暁の直前のヒンヤリとした風と共に流れて来た。

「水のルーリエ。我が正式名は、風のクレディド――此処に《盟約》を望む者」

脳みそが動かない。立ち尽くしたまま呆然としていると――

――クレドさんの大きな右手が、わたしの左手を取った。

「正直、この名を使う事は、もう無いだろうと思っていました。 何故なのかは分かりませんが、ルーリーは放っておくと、いつの間にか想定外の危機に巻き込まれている。今回は運が良かったのかも知れないが、次は?」

次は――

わたしにも、分からない。わたしは魔法が使えないし、何も無い所でつまづくようなドジだし。

クレドさんは、わたしのそんな無言の呟きも、顔と尻尾から読み取ったみたい。不意に口元に綺麗な笑みを浮かべて来る。

ただでさえ落ち着かなくなった心臓が、更に跳ね上がってしまう。

「ルーリーは未成年ですから、《盟約》と言うよりは《予約》になります。 成年になったら《予約》を解除して、また改めて考える事も出来ます――良いですか?」

何に対して『良い』のか分からないけど、思わずコックリ頷いてしまった。 訳も分からないまま、自分よりも背の高い立派な男性を目の前にひざまづかせているのは、とても落ち着かない。

この妙な事態が早く終わってくれれば、それだけホッとするような――

クレドさんは恭しく首を垂れ、その右手に取っていたわたしの左手の――薬指の根元に、口づけして来た。

ビックリする余り、身体が震えたところへ――クレドさんの低い声が、重なる。

「天球に標(しるべ)せるアストラルシア、我が茜と見初めし《水の宝珠》。その意あらば、《宿命の盟約》をもて連理たらしめたまえ」

知らぬ間に全身が震え出していた。

クレドさんが再び、ゆっくりと面を上げた。

何かを待っているのか――探っているかのように、漆黒の不動の眼差しがジッと見入って来る。

――な、何だっけ? 《盟約》? 《宝珠》?

痺れてしまったかのように、頭が動かない。何か重要な事だったような気がする。スッカリ忘れてるっぽいけど。これって記憶喪失の中にあったっけ?

再び、ヒンヤリとした風が吹いた。東の空の底が、ボンヤリと明るい裾をまとい始めていて――薄明に包まれた辺りの光景は、うっすらと淡いラベンダー色を帯びている。

――《暁星(エオス)》の刻。

クレドさんが彫像のように端正な無表情をゆるめて、うっすらと諦念をまとったような笑みを浮かべた。

「その気が無いのであれば、『幻の刻』が終わるまで待てば良いですよ。すべてが幻であったかの如く――この申し出も無かった事になりますから」

――『幻の刻』。短い間に現れては消える不思議なエーテル天体が、天球の刻を彩る間だけの、事らしい。例えば、《暁星(エオス)》のような。

不意に、ディーター先生とフィリス先生が同じ事をしていたのを、脈絡も無く思い出した。

――あれは何の刻だったっけ。草木も眠る……じゃない。

銀色の星の光――《銀文字星(アージェント)》の刻だった。《銀文字星(アージェント)》は最も気まぐれな出方をするエーテル天体で、 出現の条件が絞り込まれる前の時代は、占術師泣かせの星だったとか何とか……

不思議なラベンダー色の光が強まり、そして、空が本物の明るさを増すや、ふうっと薄らいで行く。

クレドさんの右手が外れた。

――この一瞬を逃したら、『次』は永遠に来ない。何故かは分からないけど。

わたしは弾かれたようにクレドさんの右手を追っていた。

よくやるように、わたしは何も無いところでつまづき、転倒しかけて――

――ゴスッ。

ブホォッ。口周りを打った……何か硬いところに。この痛さ、泣くわッ。

一瞬、気が遠くなってクラッとした――けれど、バランスを崩した筈の身体は、何故か地面に激突していない……ようだ。

やがて。

クレドさんの、珍しく呆然としたような声が耳に入って来た。

「……これは事故ですか? それとも拒否ですか?」

――ほぇ?

気が付くと――クレドさんの腕が、わたしの身体を支えていた。

わたし、いつの間にか転倒するところを、クレドさんに抱き留められていたみたい。

それから、それから、拒否か事故かって……そりゃまあ、ドジでこうなっただけで、そんな訳、有るとか無いとか……

あれ? わたしが打ったのって口周りだよね。口周りを何処に打ったんだっけ。目をそろりと開けてみる。

――えぇえええぇえぇぇぇえぇえええ!!

わたし、クレドさんのおでこに、かじり付いてるーッ!!

思わず『ビョン!』と身を起こしてしまったよ。さっき、ガチで『ゴスッ』というスゴイ音がしてたよね……!

――と言う事は、転倒する勢いで。勢いで……もう泣きたい。消えて無くなりたい……

クルリと回って駆け出した――

――けれど、いつものように膝を捉えられて、片腕抱っこされる態勢になってしまった。 いつも不思議に思うんですけど、クレドさん、いつ動いてるんですか?

いろんな事がゴチャゴチャなままにジタバタしていたら、不意に、真っ逆さまに落っこちそうになった。もう片方の大きな腕が出て来て、ガッツリ固定される形になる。

そして、クレドさんの、呆れたような溜息が落ちて来た。

「病棟まで送りますから、大人しくしていてください。記憶喪失で、基本的な事すら抜けているのを忘れていましたよ。 ルーリーは放っておくと、見当違いの方向に走り出して行方不明になる性質ですね」

……『ぎゃふん』する気力も無い……

クレドさん、肩をできるだけ震わさないようにしてるみたいだけど、喉が「くっくく」言ってるの分かりますし、 吹き出し笑いしてますよね? せっかくの《盟約》が、こんな事になってしまって、笑うしか無いんですよね?

振り仰ぐ空は――払暁だった。

ラベンダー色の不思議なエーテル天体は、既に無い。まばゆい朝の太陽が、闇を打ち払っているようだ。

行く手には既に、見慣れた『茜離宮』付属・王立治療院があった。多くの病棟と共に並び立つ官衙の、ゲート部分が見える。

うつむくと、真っ赤なヘッドドレスから下がる真っ赤な『花房』が、シャラリと顔の左右に流れた。 その毒々しいまでの赤さとは裏腹に、胸の底には、乾いたような虚しさが広がる――

……おや?

左薬指の根元が妙に熱いような気がする。

違和感に気付き、左手を近くに持って来てみると――熱を持った部分には、見慣れない色合いが浮かんでいた。 茜色と言う訳じゃ無いけど。茜色をごくごく薄くしたら、こういう色合いだろうと言う淡い色が浮かんでいるのだ。

地肌の色に余りにも馴染み過ぎていて、注意して見ないと分からないくらいだけど。時折、朝の陽光にペカリときらめいている。

――こういうの、敷波紋様って言うんだろうか。

クルクルした成長曲線。その隙間を埋めるように、古典的な波紋様に似た、レースのようなパターンが詰め込まれている。 そして、指を一周するように、5個くらいの青い花蕾のようなパターンが並んでいる。

……青と言うよりは、色が薄いから水色って感じ。この花蕾のようなパターンが、開花した花のパターンだったら――青いバラみたいになるんだろうか。 チェルシーさんの茜ラインに出ていた花パターンは、赤いバラだったような気もするし……

いつの間にか。

わたしを片腕抱っこしているクレドさんの足取りが止まっていた。

クレドさんは、ハッキリとした驚愕の表情を浮かべている。唖然としながらも食い入るような眼差し。 その先にあるのは、わたしの左手薬指の根元だ。

いったい、何?

「――《宝珠》が……正式名が……本当に『水のルーリエ』?」

クレドさんの声は、動揺の余りか、かすれている。いつもは、滑らかな声なのに。

「何故、ルーリーなんですか?」

――ほぇ?

訳が分からないうちに、クレドさんの伸びて来た右手に、顔の向きを変えさせられた。 まだ驚愕の表情を浮かべているクレドさんと、真っ正面から向き合う形になる。真っ赤な『花房』のビーズ同士が立てる音が、シャラリと響く。

――か、顔が近すぎる!

左側『人類の耳』の直下辺り、茜メッシュが始まっていると思しき位置に顔を寄せられるやいなや、 そこに耳でも鼻でも無い、柔らかな感触を押し当てられた。

――ひえぇえ?!

物理的な意味での、変な叫び声を上げなかったのだけは、褒めてもらいたい。全身がビシッと固まった。

そして、現実が、ふうっと遠くなっていった。

*****

一応わたしは、そのまま無様に長い間、失神した訳では無い。

ちょっと気が遠くなっただけ。頭の中は真っ白だったけど。

絶賛☆混乱中なわたしは、クレドさんに片腕抱っこされたまま、中央病棟のゲートを通過した。

病棟の総合エントランスでは、大天球儀(アストラルシア)ニュース・チャネルから流れて来る、モンスター襲撃の顛末に聞き入っている人々で一杯だ。

わたしたちは、病棟のスタッフに誘導されて、傷病者の搬送用のゲートから病棟に入った。前もって連絡が入っていたみたい。

重傷者用に振り分けられたメイン・ルートの方では、夜を徹したモンスター襲撃の結果、戦場みたいになっていた。 緊急用の、大型の転移魔法陣のゲートが開かれていて、大量搬送が可能になっているところだ。

様々な創傷を負った隊士たちや、運の悪かった一般人たち、それに逃げ遅れていた犠牲者たちが、担架に乗せられて次々に処置室に運び込まれている。 各々の《霊相》を明示するためだろう、意識のない重傷者たちの手首には、四色のいずれかのリボンが巻かれている。

気付くと――クレドさんの表情は、憂いを湛えて曇っている。

メイン・ルートを搬送されて行く重傷者たちを見てみると、クレドさんと同じ《風霊相》の隊士たち――それも若手の割合が多いのが分かる。 物理的な情報伝達を担当していた、《風霊相》の『斥候&伝令』たちなんだろう。モンスターの群れを振り切って駆け抜けると言うのは、相応に難しい仕事だったらしい。

――あの《風霊相》の隊士たちの中には、クレドさんの同僚も、後輩も、多い筈だ。クレドさん、あの人たちが心配なんだろうな。

クレドさんは、見た目からして硬質さと冷たさが目立っていて彫像みたいだし、そのうえ、滅多に感情を見せない性質だ。

パッと見た目では、分かりにくい人だけど。

それでも、ジッと見ていると、人間らしい暖かさが通っているのが見えて来る。奥底には色々な物があって、思慮深くて、優しい――

――わたし、好きになったのが、クレドさんで、良かったと思う。

*****

幸い、顔見知りのフルール先生の手が空いているタイミングだった。クレドさんはわたしをフルール先生の手に預けると、そのまま、『茜離宮』へと向かって行った。

元々クレドさんは《疲労回復》の魔法を施される事になっていたんだけど、不要だったらしい。

フルール先生の見立てでも、そういう結果になった。 わたしの歯が当たってた筈のおでこも無傷みたいだし、ウルフ族の男性の頑丈さって、そういう物なんだろうか。よく分からない。

そのまま、わたしは元の病室に戻された。

病室に付いている水回りで、汚れを落としたり着替えを済ませたりした後――

やはり何もかも頭一杯なまま、今度こそ本当に、失神するように寝入ったのだった。

*****(3)容疑者たちの証言

目が覚めたのは偶然だった。

魔法の砂時計を見ると、午前半ばを過ぎた刻のあたり。わたしが居るのは、いつもの病室だ。隣の部屋が、ディーター先生の研究室になっている。

窓の外は快晴。

夏の後半ならではの、まばゆい青空と白い雲が広がっている。

窓から見えるのは、背の高い常緑樹だ。ディーター先生の研究室、及び付属する特別病室を取り巻きつつ、仕切りを兼ねると言う事もあって、衝立のように並んでいる。

研究室の方から、複数の人の話し声と、複数の茶器が立てる特徴的な音が聞こえて来た。

ディーター先生の研究室からは更に別の渡り廊下――アーチ状の通路が、敷地へと飛び出している。 その先に、正方形の床を持つ小さなアトリエみたいな、或いはあずまやみたいな、避雷針付きの屋根を備えた離れ小屋が設置されている。

見慣れた緑の樹林と生成り色の建築。

そのずっと先の方、小高い丘の上には、今や見慣れた眺めがある。3つの玉ねぎ屋根を乗せた尖塔。 全体的に華やかな赤みを帯びた、大きな高層建築物だ。遠目にも、宮殿だとハッキリわかる――『茜離宮』だ。

最も高い尖塔に立てられている金色の旗が、ふわりふわりと波打っていた。今日は、あの辺りの風は強いらしい。

ボンヤリと、妙に心惹かれる所のある旗の動きを眺めていると――

いつしか、感覚がハッキリと覚醒して来ていた。隣の部屋、つまりディーター先生の研究室の方で、人の気配がする。

モンスター襲撃があった夕べの事が嘘のように思える程、穏やかな、静かな午前の半ばだ。 注意していると、複数の人の話し声と、複数の茶器が立てる特徴的な音が聞き分けられるようになって来た。

――ディーター先生とフィリス先生が戻って来ているみたい。そして――もう1人の、見知らぬ人が居るらしい。

わたしは、そっとベッドから身を起こした。

頭部にハマっている、いわゆる『呪いの拘束バンド』。

その拘束バンドに食い込んで謎の一体化をしてしまった、ヘッドドレス似の真っ赤な魔法道具。

そこからお下げみたいに下がっている真っ赤なビーズ製の『花房』がシャラシャラ音を立ててしまうので、 手近なタオルでギュッと頭全体を押さえ、音がしないように固定しておく。

さながら、ほっかむりをして侵入しようとしているコソ泥だけど、この際、致し方ない。

何となく直感があり――慎重に気配を消して、研究室との仕切りのドアに近づく。不意に閃いて、 メルちゃんと一緒にコソコソしていた時のポイントに身を落ち着けた。

都合よく古びて隙間が出来ている秘密のポイント。盗み見と盗み聞きに、最適なポイントだ。

*****

「まぁ、そんな訳で? フフフ。噂のチャンスさんは、名前の通りに、チャンスをもたらしてくれたのね」

豊かなコントラルトの声。声を潜めているんだけど、良く通る声だから、『人類の耳』でもシッカリ聞き取れる。

見知らぬ人の声だ。人影の形からすると、間違いなく灰色ローブをまとう魔法使い。袖や裾の辺りがキラキラしているところからして、どうやら上級魔法使いらしい。

茶器を扱う、ゆったりとした女性らしい仕草。明らかに年配の女性だ。ディーター先生とフィリス先生は、 魔法のスクリーンの前で、その見知らぬ人と一緒に、お茶を囲んでいるところだ。

「フルールから話を聞いた時はビックリしたわよ、フィリス。 ディーター君は、私の弟子の中でも最も優秀な『ポンコツ』だからねぇ、ホントに、こんなポンコツで良かったのかしら。年もちょっと行ってるし」

ディーター先生は、恥じ入ったように後頭部をかき回しながら、苦笑いしている。

「ひどい言い草ですなぁ、アシュリー師匠」

――アシュリー師匠。

この見知らぬ年配の女性は、『アシュリー師匠』と言うらしい。ディーター先生にとっては、頭の上がらない人みたい。 アシュリー師匠って、何処かで聞いた名前のような気がするんだけど……

首をひねっていると、奇跡的に記憶がピコーンと閃いた。ジリアンさんとジュストさんの結婚式を、祭司として取り仕切った、あの中級魔法使いの老夫婦が言ってた名前だ。

――ウルフ族出身の大魔法使いとして尊敬されている『地のアシュリー』先生……とか言ってたっけ。それじゃ、あの年配の女性が、そうなのか。ほえぇ。

豊かなコントラルトの声音が、再び響いた。

「ともあれ《盟約》成立にお祝いを言うわね。魔法使い同士の《盟約》は、両方ともに変に知識があり過ぎてスムーズに成立しない事の方が多いから、 ホッとしたわ。特に、ディーター君の恋は、私には見え見えだったからね、フフフ」

フィリス先生は、ほんのりと頬を染めつつ、お茶を一服しているところだ。あまり見ない表情だ。可愛い。

「さて、そろそろ本題に移りましょうか、ディーター君にフィリス。最近、立て続けに発生した事件に関連して、相談したい事があるそうね」
「まずは、こちら、『3次元・記録球』データをご覧いただけますか、アシュリー師匠。込み入った訳になりますのでね」

ディーター先生が『魔法の杖』を一振りして、テーブルの真ん中にあった、手の平に乗る程度の大きさの黒い球体細工を光らせた。

黒い球体細工は瞬く間に《土星(クロノス)》よろしく輪を持ったミラーボールに変身して、あらゆる色合いにきらめく。

――あれが、『3次元・記録球』と呼ばれる魔法道具なんだ。すごい。

そして、魔法の《土星(クロノス)》型ミラーボールから発する光が魔法のスクリーンに当たって、立体映像が浮かび上がって来た。

すごく精密な立体映像で、思わず本物の光景が出現したのかと思ってしまう。幻影魔法とか蜃気楼魔法とかの応用なんだろうか。

立体映像と並行して、音声の再生が始まった。

わたしの居る場所からは立体映像の方は一部分しか見えないんだけど、地下牢の中だとすぐに分かる。あのゴツゴツの石の床や石の壁の様子、今でもクッキリと覚えている。

『んあ? オラの名前はもう分かってんだろ、水のニコロだよ、ニコロ。『闘獣』崩れの殺し屋だ』

前にも聞いた事のある、音声の再生から始まった。くたびれたオッサン風の、イヌ族の脱走犯の声だ。

『モンスター狩りの際に、モンスターを呼び寄せる囮になる所を運よく脱走したが、『例の黒いアレ』恐怖症も引きずって来た、ケチな野良犬さ……』

声の主は――本当に『くたびれたオッサン』風だった。

顔全体が古傷だらけで、ずっと手入れされていないのが明らかな、ボサボサの無精ひげが生えている。 いかにも戦士という感じの、物騒なまでに筋肉の盛り上がった大柄な体格。茶色のイヌ尾の毛並みは荒々しく荒れていて、茶色のイヌ耳にも迫力のある切れ込みが多数。

『オラたちゃ、間違いなくキンキラキンの王子をターゲットに、闇討ち仕掛けたさ。闇ギルドの仲介を経た依頼によってな。 この依頼をしたのは、えらい美人な黒毛のウルフ女でさ。シャンゼリンって言う。あの女、こういう闇工作やら流血やらが本領でな。 誰かに指示を受けてたらしいが、まさに闇ギルドの悪女だぜ、あのタマは。 シャンゼリンの誘導で、オラたちは、黒髪キンキラやら金髪キンキラやら、年取った偉そうなウルフ男やらを襲ったのよ』

そこで一旦、再生が止まった。ディーター先生が再び『魔法の杖』で、ミラーボールをつつく。

「これが、冒頭の告白です。この後はイビキがメインですので飛ばします。強制的に『気付け』を施して、続きの証言をさせました。 なお、他のバーサーク化イヌ族とバーサーク化ウルフ族は、当時、完全にバーサーク化していて記憶が曖昧なため、 有効な証言は取れませんでしたが、別件で興味深い内容を喋りました。これは後ほど……」

アシュリー師匠は、こちらに背を向けている状態で表情は分からない。

でも、ほとんど白髪になった淡い栗色の頭部が、思慮深く頷いた様子が見える。 シャンゼリンの名が出た時は、さすがに「まぁ」と言っていたけど、その後は、落ち着いて耳を傾けているようだった。

*****

水のニコロという名前のくたびれたオッサン――イヌ族の脱走犯にして元・暗殺者の証言は続いた。

ヴァイロス殿下の前にあった数々の襲撃事件に関しては、『正常に』最初から最後までキッチリ、バーサーク化していたので、余り記憶は無いと言う。

ただ、あの日は――ヴァイロス殿下の暗殺を仕掛けた日は。

たまたま、水のニコロに与えられた『バーサーク増強用』の食事が腐っていて、余り食べられなかったそうなのだ。

それは、バーサーク化しやすくなるための、血も滴るモンスター肉をメインとした、ゾッとするようなエサだ。 生肉だけにエーテル成分はタップリなんだけど、血が滴るので衣服が汚れる事このうえなく、前もって裸になって、 或いは『獣体(狼体や犬体)』になってガツガツ食うのがマナー。

モンスター成分が身体全身に回ると、異常ハッスルする。そこへ禁術《バーサーク化の魔法》が掛かると、容易にバーサーク化するのだ。

獰猛な狼男や犬男となって、狂乱のままに荒れ狂った間は、記憶に無い。

衛兵が駆け付けて来たタイミングで、いつものようにシャンゼリンが出て来た。

シャンゼリンは『茜離宮』の裏口をオープンし、バーサーク化イヌ族とバーサーク化ウルフ族を逃がすべく、ムチで追い立てた。 彼女自身は高度な《隠蔽魔法》のための魔法道具を持っていて、常に姿が見えなかったので、本能で襲いたいと思っても襲えなかったと言う。

『シャンゼリンは、闘獣を扱った経験があったらしい。如何にも『深窓の令嬢』ってな顔をしておいて、 バーサーク化したオラたちをムチで追い立てるのは、プロ並みに上手かったぜ』

――とは、水のニコロを含む、容疑者全員の感想だ。

あの日。いつものように――証拠を残さず脱走できた筈だった。

裏口を少し行った先、『茜離宮』の外苑の何処かに、更に抜け道へと通じる入り口がある。 シャンゼリンは、襲撃犯を探し求めて右往左往する衛兵たちを尻目に、バーサーク化していた襲撃者たち全員を外苑へと追い立てた。

外苑の緑地の一角に、こんもりとした樹林が並び、身を隠すのに適当なスペースがある。そこは、更に城下町への逃走経路も備えていた。 いつものように、その逃走経路を使って、行方をくらます事が出来た筈だった――

――だが。

不意に。異変が発生した。

噴水広場を取り囲む樹林に到達したところで、シャンゼリンが急に《隠蔽魔法》を切り、姿を現した。

『……が! あのクズが! 今頃、正気に返ったと言う訳!』

謎のセリフだ。その時、水のニコロはバーサーク化が収まり、正常な記憶が回り出していた。

シャンゼリンは悪鬼の如く激怒しながらも、左手の平を天頂に向けた。

『我が闘獣! 我が《紐付き金融魔法陣》の下に帰り来よ! 骨が折れるまでお仕置きしてやる、 妹のくせに飼い主に逆らって行方不明になりやがって、あのクズが!』

だが。実際に身を現したのは。

紺色マントをまとった、少年と思しき人影だった。

少年は、頭上に差し渡されていた樹枝の上に前々から潜んでいたようなのだ。先回りしていたらしい。少年は、そこから、シャンゼリンに飛び掛かったのだ。

謎の少年はシャンゼリンの『魔法の杖』にくっついていた、灰色の宝玉細工をむしり取った。余りにも鮮やかな手際だった。

『いえーい! もーらいッ!』

シャンゼリンは一瞬、唖然とした後、再び悪鬼の如き形相になった。

『このガキ! 返しな!』

シャンゼリンはムチを振るったが、紺色マントの少年は恐ろしく素早かった。サーカスの軽業師さながらの、アクロバットな身のこなし。 シャンゼリンのムチを、全てかわして――少年は、かき消えた。

『チクショウ! コソ泥めが! 隠蔽魔法の魔法道具が……!』

シャンゼリンは苛立ちの余り、水のニコロを含む容疑者たちを、ムチでビシバシ殴り始めた。

そうしているうちに、追っ手の魔法使いによる探知魔法のエーテル流束が、まるで漁網が投じられたかのように、頭上に揺らめいた。

『探知が掛かった……と言う事は、斥候が出たね!』

シャンゼリンは、水のニコロを含む容疑者たちを、その場に放置して、自分だけ『狼体』になって――それも、何故か金色の狼になって――何処かへ逃げ出した。

――黒髪なのに金色の狼になった! その余りにも異様な、不自然さ。

バーサーク化の継続中だった容疑者たちは、その異様なまでの不自然さに仰天する余り、ポカンとした。水のニコロは、スッカリ正気に返った。 同時に、ムチによる指示が急に無くなった事で『これから、どうするんだ』と混乱した。

そして、追跡して来た衛兵たちを返り討ちにしつつ、てんでバラバラに逃げ出したのだ。

もっとも、斥候の動きが余りにも想定外で、全員、捕まってしまった訳だが。

*****

水のニコロの、自嘲を含んだ証言は、次のような締めくくりで終わった。

『あのチビのコソ泥は、間違いなくコソ泥だな。考えてみりゃ、あんな年齢のガキが、正式な隊士の紺色マントをまとう筈がねぇしなぁ』

そして、魔法の《土星(クロノス)》型ミラーボールがスピンを止めた。ディーター先生の『魔法の杖』による操作が入ったのだ。 すぐに『3次元・記録球』がスピンを再開し、魔法のスクリーンでは、別の立体映像に切り替わった。

ディーター先生は、フィリス先生から渡された半透明のプレートを参照しつつ、アシュリー師匠に簡単な解説をした。

「この記録は、水のニコロを含む容疑者たち全員の証言です。彼らは、アルセーニア姫の暗殺事件にも関わっていました――直接にではありませんが」

驚きに次ぐ驚きだ。アシュリー師匠も同じ気持ちみたいで、何度も溜息をついているのが見えた。

容疑者たち全員による証言の続きは、以下のような物だった。

――アルセーニア姫が暗殺された当日の夜までさかのぼる。

夜の闇に紛れて、容疑者たち全員で、『モンスター毒の濃縮エキス』用の大型容器3本を運んだ。

その容器は、恐るべきことに、全て空だった。いったい何に使ったのか、 使用前の容器を運んで来た筈の初期の運搬担当者たちはどうなったのか――は、聞くのも恐ろしいから、聞いていない。

水のニコロを含む容疑者たち全員は、シャンゼリンの指示で運び、城下町の外れにあるレンガ焼きの作業小屋から少し離れた空き地に『不法投棄』した。

そこで、奇妙な出来事を目撃したと言う。

フード姿の、種族系統は不明だが獣人と見える大柄な男と、シャンゼリンとが、言い争いをしていたのだ。

『報酬が足りないよ、報酬が!』
『欲深な女だな! 最高級の隠蔽魔法の宝玉細工じゃ足りないってんなら、そろそろ、その頭を引っこ抜いてやる!』
『へへぇ、やれるもんなら、やってみな。あたしはキーラの娘だよ! あたしの顔を引っこ抜けるなら、やってみろってんだ!』

フード姿の巨人は物騒に唸った――どうやらクマ族なのでは無いか。確証は無いが。

『俺は、これから王族との大型取引を控えていて忙しくなる。貴様にやれるものは無い。報酬は、闇ギルドの女らしく、他からむしり取りゃあ良いじゃ無いか。 あの小麦色のお高くとまったウルフ貴公子のヤロウ、アンティーク宝飾品を取り放題だったぜ。今度『茜姫のサークレット』とやらを売りに出すとか言ってたぞ』

シャンゼリンは『ふーん』と言い、不意に黙り込んだ。そして――

まさに闇ギルドの女さながらに、シャンゼリンは美しすぎる高笑いをした。

『茜姫のサークレットは、あたしの物だよ! アルセーニアは所詮は混血さ、あの死に様でも足りないくらいだ、 貴種のウルフ族たる、あたしが苦労して来た過去に比べりゃね。そろそろ、あの愚かな男にも分からせてやる頃だよ。 あんなバカが、あたしの父親とは思いたくも無いけどね!』

そして、シャンゼリンは即席の転移魔法陣で去って行ったらしく、気配が消えた――

*****

魔法のスクリーン上の立体映像として再現されていた、イヌ族とウルフ族で構成された6人ばかりの容疑者たちは、 引き続き、陰気な顔をして、ブツブツと証言を喋り続けている。

ディーター先生が、おもむろに『魔法の杖』を振った。要点説明が終わったみたい。

魔法の《土星(クロノス)》型ミラーボール『3次元・記録球』がスピンを停止し、発する光が止む。 球体の周りに出ていた不思議な輪っかが、球体の中に消えていく。

それと共に、魔法のスクリーンに映し出されていた立体映像が消滅した。

地下牢の中ならではの暗い色で構成された、幻の立体映像が終わったおかげだろうか、研究室の中がサーッと明るくなったようだった。 窓から注ぐ陽光の角度は、高い。そろそろ真昼の刻と言って良い頃合いだ。

気が付くと、わたしの身体は震えていた。何故かは、分からないけど。

目下、盗み見と盗み聞きをしている状態だし、気配を悟られると色々まずいから、意識して息を調整する。

――うん、大丈夫。

自分でも不思議だけど、記憶に無くても身体が覚えているらしいんだよね。無意識レベルまで叩き込まれたスキル。

何も無いところで転んでしまうような、ドジなわたしが、本当に『闘獣』だったのかどうか――は、自分でも分からない。

でも、身体の方は、恐らくはモンスター狩りには必須だったのであろう『気配を消す』スキルを、シッカリ発揮しているみたいだ。謎だ。

*****(4)紫金の色のファム・ファタル

研究室の中では、3人の魔法使いによる茶会と密談が続いている――

慎重に息を整えた後、改めて秘密の『のぞき穴』に目を当ててみる。

相変わらず、こちらに背を向けて座っているアシュリー師匠が、ほとんど白髪になった淡い栗色の頭部を傾げている。 灰色ローブのフード部分を外しているので、うなじでまとめた長い栗色の髪が揺れているのが見える。

「私が『マイスター称号』を得て大魔法使いに昇格した後、ウルフ王国の宮廷に顔を出さなくなってから、随分になるわ。私はシャンゼリンの顔を知らないのだけど」
「こちらです、アシュリー師匠」

フィリス先生が、魔法のスクリーンに映像を出した。

黒髪バージョンのシャンゼリンだ。明らかに貴種と見える美麗な容貌。

「上級侍女シャンゼリンは、宮廷では、この姿でした。死んで初めて判明した事ですが、この黒髪は《変装魔法》によって変色させたもので、 本当は金狼種でした。死体から採取した《宿命図》も、合わせて表示します」

そこで、ディーター先生がタイミング良く、補足説明を入れた。

「アシュリー師匠。宮廷の公式記録にあるシャンゼリンの《宿命図》――『ウルフ族、黒狼種、女性《風霊相》生まれ21歳、正式名:風のシャンゼ』は、本人の物では無かったのです」

白髪混ざりの淡い栗色の髪をした老女――アシュリー師匠が、重々しく頷く。

「彼女は身元を詐称していたのね、ディーター君。スパイの常套手段。それにしても、上級魔法使いと上級隊士が揃って、 スパイまがいの危険人物の侵入を、王宮の奥深くまで許してしまうなんて。ウルフ王国の威信に関わる事だわ」

ディーター先生は、アシュリー師匠の指摘に、苦々しそうな様子で応えていた。

「死体から取り出した《宿命図》は、『ウルフ族、金狼種、女性《風霊相》生まれ推定23歳、正式名:風のシンディ』という結果を示しました。 これについては、魔法部署と衛兵部署の合同調査チームが、 シャンゼリンを養女にしている人物、すなわち元・第三王子リクハルド閣下に真相を問いただしているところです」

ディーター先生が説明している間にも、フィリス先生は、『魔法の杖』を通じてスクリーンの画像を調整していた。

魔法のスクリーンに映し出された黒狼種シャンゼリンの黒髪が、見る間に、金髪に置き換わる。 妖しく紫を帯びた黄金色の、見事な髪だ。波打つような美しいウェーブが入っていて、それが余計に豪奢に見える。

シャンゼリンの映像の脇に並べられた多重魔法陣セットのような物は、シャンゼリン自身の《宿命図》らしい。『宿命図』というメモ書きが付いている。

アシュリー師匠が、激しく息を呑む音が響いて来た。乱暴に置かれた茶器が、ガシャンと音を立てる。

「……サフィール!」

その言葉の異様さに、最初に気付いたのはディーター先生だった――ディーター先生は思わず、と言った様子で、椅子をガタンと鳴らしながら立ち上がった。

「今、誰の名前を言われましたか?!」

ディーター先生の顔は青ざめている。フィリス先生も頭が追い付いて来たようで、『魔法の杖』を中途半端に構えたまま、目を大きく見開いていた。

――サフィール。

それは、普通の名前じゃ無い。

仮にも高位の魔法使いたる人物が、驚きの余り口にするようなら、それは、普通の意味を持つ――例えば、その辺の一般庶民の――名前では無い。

――レオ帝国の第一位の《水の盾》。水のサフィール・レヴィア・イージス。

息詰まるような一瞬が過ぎた――

アシュリー師匠は大きく息をつきながら、胸に手を当てたようだった。

――盗み見している状態だと後ろ姿しか見えないから、良く分からないけど。驚きすぎて、心臓が止まりかけたのかな。大丈夫だろうか。

しばらくして、アシュリー師匠は、ディーター先生とフィリス先生を順番に見やったようだ。

「ごめんなさいね、余りにも……似ていたから。シャンゼリンが、サフィールである筈は無いのに。 あの、シャンゼリンは、背丈は――添付の《宿命図》で見る限りでは――フィリスと同じか、少し高いくらいだったのでしょう?」

フィリス先生が、戸惑いながらも頷いた。

「シャンゼリンは、ウルフ族女性の平均より少し背丈が高い方でしたね。スラリとしていて」

アシュリー師匠はフィリス先生の言葉を聞いて、急に気持ちが落ち着いてきたようだった。不意に身体をねじって、病室の方を――わたしの居る部屋の方を――振り返って来た。

――ぎょっ。気付かれた?!

「音を立ててしまったわ。隣の病室には、誰か居るの?」
「私が担当している特別患者が1人。推定16歳の少女で、厄介な魔法道具トラブルを抱えています。その点でも、アシュリー師匠に相談したいと思って、連絡していたんです」

ディーター先生の応答に、アシュリー師匠の、ビックリしたような声が重なる。

「闇ギルドの魔法道具が関係してるの? 連絡は無かったような気がするけど」
「今すぐ命に関わるという訳でも無いんですよ。連絡レベルが『重要度:高、緊急』じゃ無かったせいですな。ですが、モンスター襲撃の際、《魔王起点》の影響範囲内で一晩を明かしましてね」

ディーター先生が、そろそろと椅子に着座しながらも、アシュリー師匠の確認に応じていた。

「それゆえの散々な体内エーテル状態で、更に《宿命の盟約》をやらかしました。 相手はモンスター撃退に関わった隊士の1人で、その極度の疲労をも引き受けてしまっています。 《疲労回復》魔法が掛かりにくいタイプで――丸3日間、熟睡が続いています。あの状態では、明日の朝か昼あたりまで、目が覚めないのは確実ですな」

アシュリー師匠は暫し絶句した後、ゆるやかに頷いていた。

「そう。それなら問題は無さそうね。その疲労困憊のケースだと、《疲労回復》魔法を施しても3日間は目が覚めないから……その特別患者の件は、後で、私も見てみましょう。 ごめんなさいね、ディーター君。驚かせてしまって……フィリス、もう一度、お茶を淹れてくれる?」

――わたし、どうやら《疲労回復》魔法を施されていたみたい。

モンスター襲撃の夜に施されていたもの以外は覚えてないんだけど、あれから今日で丸3日間? うわぁあ……

今の時点で目が覚めたのは、オカルトでミステリーな事だけど。もしかしたら、タイミングが大いにズレて、《疲労回復》魔法がピョコッと効いたという状況なのかも。

少し間が空いた後――アシュリー師匠が、ポツポツと話し出した。

「私が持っている情報に、間違いなければ――シャンゼリンとサフィールは、姉妹よ。同じ母から生まれた」

――いきなり、重苦しいまでの静寂が広がった。

ディーター先生とフィリス先生は、顔色を変えて絶句している。

アシュリー師匠の声は、苦い。

「大魔法使いでも、一部の人しか知らないわ。トレヴァー長官も、レオ皇帝さえも知らないの。この情報を管理しているのは、レオ帝国の《風の盾》だから。 私が直接に、『風のユリシーズ』に――ユリシーズ・シルフ・イージスに依頼した事よ。7年前の、サフィール『献上』の際に」

ディーター先生が、動揺の余りか、しきりにこめかみを揉みながらも質問を返した。

「だが今、アシュリー師匠は……我々に明かしておられる」
「事後だからよ。最大の難問だった――サフィールの『飼い主』が、間違いなく、死んだから。 この時をもって機密保護レベルは、国家最高機密のレベルまで開放されたわ。ただし、厳重に紳士協定が成り立つ関係者限定のね」

アシュリー師匠は改めて、紫金(しこん)の髪をしたシャンゼリンの脇、添付資料として出ている《宿命図》を、じっくりと眺め始めた。

「そう、このシャンゼリンの《宿命図》は、サフィールの血縁で無ければ有り得ないパターンよ。 なおかつ、サフィールを呪縛する《紐付き金融魔法陣》の元となった《魔法署名》は、この《宿命図》で無ければ出来ない。 風のユリシーズも私たちも、ひそかに探し続けていた人物が、こんな形で出て来るなんて……闇ギルドを幾ら探っても出て来ないのは、何故なのかと思っていたけれど……」

アシュリー師匠の話は続いた。

「水のサフィールは、元々は名を封印された『闘獣』だったのよ。私が保護したウルフ族の『闘獣』たちの中に居た。 超大型モンスター《大魔王》狩りがあった現場でね。闇ギルドの依頼による不法なモンスター狩りは、後始末がキチンとしていない。 人工の物だった場合は、人工の《魔王起点》を分析して塞がなければならないのは分かってるわね」

――うん、わたしにも分かるよ。

ディーター先生とフィリス先生も、青い顔をしている。

――《大魔王》が出て来るレベルの《魔王起点》、途方もなく深刻なレベルなんだろう。上級魔法使いどころか、大魔法使いで無ければ対応できない、と言う程の。

「たまたま近くで、鳥人の大魔法使い『風のバーディー』がフラフラ飛んでいてね。彼も引っ張って来て、ようやくの事で《魔王起点》を塞いだの。 この7年前の《魔王起点》事件は、魔法部署の資料室にもあるから、詳細を知りたければ後で読んで。 私からは余り言いたくないのよ、悲惨な現場だったから。しかもその後、闇ギルドでは、《大魔王》商品で大儲けした人が何人も居たわ」

アシュリー師匠は、『やり切れない』と言った風に何回も首を振りつつ、語り続けた。

――闘獣としてのサフィールには、正式名を封印するタイプの《紐付き金融魔法陣》が刻印されていた。

つまり、この闘獣には、正式名を強奪する事で絶対的な支配者となった、『飼い主』が居た。 サフィールの働きに応じて、『飼い主』に儲けが入るようになっていた。

――《大魔王》商品で大儲けした人の中に、サフィールの『飼い主』が居たのは明らかだ。

当のサフィールは。

重傷を負って、他の動けなくなった『闘獣』たちと同様、モンスター襲撃の現場に放置されていた。

闘獣マーケット業者による回収が間に合わなければ、雑魚モンスターのエサになるのは確実だった。これまでとは別の闘獣マーケット業者に見つかれば見つかったで、 獣体拘束用の首輪が別の業者の物に交換され、怪我から回復次第、檻に入れられて取引され、次のクエストに放り出される運命だ。

サフィールの『飼い主』の方は――何処か遠くの安全圏に居て、《紐付き金融魔法陣》を通じて振り込まれた大金を手にして、ホクホクしているところの筈だ。

所詮、闘獣は戦闘奴隷に過ぎない。

闘獣の飼い主としては当然の事だけど、一片の慈悲も与えるつもりは無かったと言う事。『自力で生還せよ、そして生還したら、また出撃せよ』と言う事だ――

ちなみに、獣体拘束用の首輪は、いつかは壊れる代物だ。幸いにして偶然、獣体拘束用の首輪が外れた闘獣の場合は、まだ動けるようなら、その場から脱走して自由になれる。

――『飼い主』を持たない、野良の闘獣であれば。脱走に成功すれば、相応の自由を手に入れられるケースが多いのだ。例えば、元・闘獣だったと言う『水のニコロ』のように。

アシュリー師匠は、ディーター先生に『3次元・記録球』の、音声のみの再生を注文した。

「そう、この『水のニコロ』という、イヌ族の脱走者が記憶していた、シャンゼリンの言葉。私たちが施した対抗措置は、一応は有効だったみたいね」

黒い《土星(クロノス)》さながらに輪を出した球体からは、再生された証言内容が湧き上がって来ている。

『我が闘獣! 我が《紐付き金融魔法陣》の下に帰り来よ――』

アシュリー師匠は、数回ほど、納得がいったように頷いている。

「レオ帝都に居るサフィールに何かがあって、『飼い主』にもシンクロして伝わる程に《暗示》が薄れるような事態が起きたに違いない。 でも、ユリシーズの処置が早かったのね。サフィールは《召喚》に反応しなかったんだわ」

アシュリー師匠は、きりっと背筋を伸ばし、ディーター先生とフィリス先生を順番に眺めた。

「シャンゼリンの死体は、きちんと氷漬けにしてあるでしょうね? もし、まだ死体保存の魔法を施していないようなら、魔法部署の方で、すぐに対応してちょうだい。 あと数日もすれば、くだんの《紐付き金融魔法陣》が死体の表面まで浮き上がって来る筈よ。重要な証拠だから」

ディーター先生が『仕事の顔』で応じている。

「勿論です、アシュリー師匠。この『水のニコロ』による証言は魔法部署の方でも了解済みです。 魔法部署のトレヴァー長官ご自身が《紐付き金融魔法陣》という要素に気付いて、 シャンゼリンの死体から《紐付き金融魔法陣》を取り出す事の重要性を強調していましたから、その点は抜かりは無いかと」

アシュリー師匠は重々しく、シッカリと頷いた。

「シャンゼリン側の《紐付き金融魔法陣》データが取れたら、提供してちょうだい。私たちが持っている、 サフィール側の《紐付き金融魔法陣》データと一致すれば――サフィールに対する『闘獣』としての呪縛が、やっと終了したと言う証になるわ」

白髪の多い栗色の毛髪を持つ、老女――ウルフ族の大魔法使い『地のアシュリー』の、静かな声が続いた。栗色のウルフ耳とウルフ尾が、心の波立ちを伝えるかのようにユラユラと揺れている。

「これも最高機密なのだけど……サフィールの正式名は、今でも不明なのよ。情報統制によって秘密になっているんじゃ無くて、本当に不明なの」

豊かなコントラルトの声が、思案深げな響きを帯びた。

「その闘獣を保護した時、《紐付き金融魔法陣》の存在に気付いて――これは途轍もなく厄介な事になったと思ったものよ。『飼い主』付きの闘獣は珍しいうえに、救出に成功した事例が非常に少ない。 下手に《紐付き金融魔法陣》や《宿命図》を探って、正式名を他人が呼ぶと……その瞬間、《紐付き金融魔法陣》のシンクロを通じて『飼い主』が異変に気付くのよ。どれだけ離れていても」

――『飼い主』が異変に気付いて、『証拠隠滅を兼ねて、死ね』と、《紐付き金融魔法陣》を通じて命じれば。

その闘獣は指令に応じて、みずからの《紐付き金融魔法陣》を破壊しつつ、自殺する。証拠となる死体が残らないようにするため、焼身自殺という手段が最も多い――

必然として。獣王国全体で、『闘獣の飼い主』は、種族を問わず死刑の対象である。 闇ギルドの構成員でさえも、利害の衝突の次第によっては、『闘獣の飼い主』を「生死問わずの高額の賞金首」とする程だ。

アシュリー師匠は、ディーター先生とフィリス先生の理解状況を確かめたのだろう、ひとつ頷いた。そして、更に言葉を重ねていった。

「名を封印されたその闘獣に、高度治療を施したのは、バーディー殿と私なのよ。獣体拘束用の首輪を調べて《水霊相》と分かって、 青い宝玉の名前――『サフィール』という名前を与えた。それが正式名だと認識するように、強い《暗示》を施した。サフィールが《紐付き金融魔法陣》を通じた指令に応じなくなるようにね」

ディーター先生とフィリス先生の沈黙は続いている。ウルフ耳は、シッカリと『傾聴』の角度という状態だ。

「シャンゼリンにとって、サフィールは『金の生る木』だったんでしょうね。優秀な闘獣の飼い主と言うのは、非常に儲かるのよ。 あの《紐付き金融魔法陣》は、既に4年――ほぼ5年くらいの物になっていたわ。《水の盾》としての強い魔法能力が無ければ、 サフィールは、1回目か2回目のモンスター狩りで死んでいたでしょう」

ディーター先生が戸惑いの表情を見せた。腕を組みながらも、片方の手で金茶色の無精ひげをコリコリとやり出す。

「しかし、『狼体』で使える魔法は限られている筈です。しかも闘獣となれば、『魔法の杖』の支給は望むべくもない」
「その通りよ、ディーター君」

アシュリー師匠はお茶を一服し、説明を続けた。

「ただ、あの子は、ひとつ幸運を持っていた。母親の形見の『魔法の杖』を持っていたの。もっとも、名前の刻印が入っている根元の部分しか残って無かったけど。 そのお蔭で実の母親の名前は解明できた――『風のキーラ』という名前が。お察しの通り闇ギルドの女。レオ帝都で事件を起こしていたそうでね、大使館の方に幸いにも《宿命図》記録が残っていたわ」

――『風のキーラ』。

最近、何処かで聞いた名前のような気がするけれど――今は思い出せない。

アシュリー師匠は、深い溜息をついた。

「サフィールは、あの頃から、まさに《盾使い》と言うべき天才だったわ。ボロボロの『魔法の杖』で、対モンスター強度レベルの《防壁》を形成してのけていた。 それも、指導者も師匠も無しで。闇ギルドの魔法使いたちの物真似でよ。『闘獣』グループとしても、サフィールが入っていたグループは生存率と成功率が共に高かった。 《大魔王》狩りなんて無茶なクエストが出されたのは、その成功率の高さを見込まれての事だったに違いないけれど」

シャンゼリンが、サフィールの素質に気付いていたかどうかは分からない。単なる『金の生る木』でしか無い存在の、その本質を、わざわざ、理解しようと思うだろうか?

フィリス先生が痛ましそうな顔になった。

「では、シャンゼリンは、実の妹を『闘獣』にして売り飛ばして、その稼ぎで生活していたと言う事ですね」
「闇ギルドでは普通の事よ。まさに度を過ぎた弱肉強食の不法地帯ですからね、あそこは」

アシュリー師匠は重々しく頷き、再びお茶を一服した。

「サフィール自身もね、最初はまさに『闘獣』――ケダモノだったの。私は絶対に、この子を『人』にすると誓ったわ。 獣体拘束用の首輪が外れて『人体』に戻っても、四つ足の方が自然だったんでしょうね、四つ足で移動する習慣が、なかなか直らなかった。 食事をする時も手を使わずに、直接、皿に顔を突っ込んで、がっつくという風でね。そこに手を出すと、手に噛み付いて威嚇するやら咆えるやらで」

――『魔法の杖』を取り上げて置いて、サフィールに行儀作法を教える日々がスタートした。

最初こそ混乱と抵抗は激しかったが、10日ほども経つと、サフィールは納得したような様子を見せ始めた。 《暗示》の効果が定着し、《紐付き金融魔法陣》の影響が弱まったせいもあるだろうが――

きちんと教育を施してみると、サフィールは素直に応えた。元々、思慮深く、素直な性質だったのだ。

サフィールは、『人体』の動きを、みるみるうちに習得して行った。言葉も、魔法も。 モンスター狩りで鍛えたスキルのせいなのか、サフィールは観察力が高く、違和感を見抜く力が優れていた。魔法使いには、必須の能力だ。

1年を回る頃には、サフィールは、城館の行儀見習いの適正診断を受ける予定のウルフ族の子供たちと余り変わらなくなった。

四つ足で移動しがちな、警戒心の強すぎる、問題行動の多い野生児っぽい少女ではあったけれど。 《紐付き金融魔法陣》による呪縛の無い、野良の『闘獣』の少女であれば、城下町の孤児院に、自信を持って預けられるレベル。

やがて、アシュリー師匠は悩ましそうな様子で、こめかみを揉み始めた。

「今でも、この選択が正しかったかどうかは分からないけど。ちょっとした折に、大魔法使いネットワークにヒントが洩れて。 レオ族の大魔法使いに、サフィールの存在を嗅ぎつかれてね」

そのレオ族の大魔法使いは、サフィールの、最高位の《水の盾》としての素質に気付いた。 大魔法使いから情報を入手したレオ帝国の特別大使は、サフィールに関する、ありとあらゆる機密保護を施したうえで、満を持して迫って来た。

そもそも、機密保護というのは、極めて難しい仕事なのだ。レオ族の特別大使の仕事は、大魔法使いをすら感心させる程のレベルだった。 レオ皇帝でさえ、サフィールの秘密を知らない状態なのだ――アシュリー師匠は、その要求を強く拒否する事は出来なかった。

「飼い主を持つ闘獣だから、いつ飼い主に《召喚》されるかも分からないし、《暗示》が破れるタイミングと飼い主の指令次第によっては、 とんでもない事になる――という事情を明かしたけれど。それでも、レオ族の側の意思は変わらなかったわ。 それで、鳥人の大魔法使いバーディー殿と相談して、『風のユリシーズ』と直接会うと言う条件と引き換えに『献上』に応じたの」

この時点で、ウルフ王国の魔法部署のトップ、トレヴァー長官にサフィールを引き渡す事も出来た。でも、アシュリー師匠は、そうしなかった。

何故なら、ウルフ王国では目下、世代交代に伴い、王位継承者の争いが活発化する恒例のお家騒動シーズンに入っていたからだ。 飛び地領土をリンクしただけの統一王国の、政治的な弱点でもある。

第一王子と第二王子は、なかなか決まらない。 第三王子が臣籍降下してなお返り咲こうと陰謀を巡らせており、魔法部署に居る第五王子が胡乱な動きをしている。第四王子は不慮の死。

かくも統制の取れていない国内状況において、闘獣サフィールの飼い主に、しゃしゃり出て来られては、対応しきれないのは確実だった。 第一、誰が飼い主かも分からなかったのだから。

「サフィールの『献上』の事情について、情報操作をしたのはアシュリー師匠ですか?」

フィリス先生の質問に、アシュリー師匠は苦笑いをしながら応じた。

「レオ帝国の特別大使の手練手管よ。呆れるほどのウソが盛られたけど、でも結局、それで良かったのかも知れないわね。 飼い主側にしてみたら、サフィールの手掛かりが、ほぼ消えた形になったのだから」

アシュリー師匠は、再び紫金(しこん)の髪をしたシャンゼリンの映像に見入った。

「シャンゼリンは頻繁にサフィールの《召喚》を試みていたようね。以前、《風の盾》が7日間も行方不明になったと言う騒動があったでしょう。 あれは、サフィールがノイローゼから回復したタイミングだったの。ノイローゼから回復すると同時に《暗示》が薄れた状態が続いていて、 そんな状態で《召喚》があったから、サフィールが行方不明になった、と言うのが真相よ。ユリシーズみずからが連日《風魔法》を使って、あの子を回収してくれたわ」

――その時に、たまたま《紐付き金融魔法陣》の稼働中のコピーが取れた。

飼い主は、血縁の者らしい――という事が判明した。それも、サフィールに良く似た容貌の。

ディーター先生が、ゆっくりと身をねじった。魔法のスクリーンに映し出されたシャンゼリンの面差しを、観察し始める――貴種を思わせる美麗系の容貌を。

「サフィールと、シャンゼリン……この姉妹を生み出した『風のキーラ』なる闇ギルドの女、伝説級のファム・ファタルですな。 もしかして、母親キーラも紫金(しこん)の女でしたか」
「ええ。『風のキーラ』は金狼種だった事が分かっているわ。見事な紫金(しこん)の色合いのね」

フィリス先生が、そこで怪訝そうな声を出した。

「サフィールは黒狼種では無いんですか? 実際のところ、金狼種か黒狼種かも分かっていませんが……」

アシュリー師匠の背中が、ピクリと緊張する。

「何故そう思うの? フィリス」
「私の知人の、チェルシーさんとポーラさんの指摘です。チェルシーさんが最近、アンティーク方面で、サフィールの中古のドレスを入手してまして。 お針子さんのポーラさんが、そのドレスを再現したんですけど、金髪よりも黒髪の方が映えるデザインでしたので」

――あ。あのメルちゃんドレスのモデル。わたしのは破いてしまったけど、水色の乙女なデザインだったなぁ。

フィリス先生の説明が続いた。

「サフィールの出身地だという辺境では、今でも現役の意匠ですね。水色の地に刺繍を施した薄布をまとわせるスタイルで、スカート部分の装飾が薄布の段重ねです」

アシュリー師匠は――動転したかのように、茶器をカタリとテーブルに置いた。

「……私が作ったドレスだわ」

今度は、ディーター先生とフィリス先生が仰天する番だった。

「そ、そう言えば、サフィールは、辺境から出て来たと言う事になっていましたね……あそこ、当時のアシュリー師匠が居た土地ですね」

アシュリー師匠は額に手を当てて、『ハーッ』と溜息をついていた。色々驚き過ぎて、ぐったりしたような感じだ。

「いつか、そんな時が来ると思っていたけれど……不要になったと言う事かしら」
「違うみたいですよ。そのドレス、異常にボロボロになってましたから。詳しい事はチェルシーさんが調べていると思いますが。 ――あ、そう言えば。アンティーク部門の方で『風のキーラ』の名前が出た事があったような……」

アシュリー師匠は、眉目の間を揉んでいる格好だ。そのまま、少しの間、沈黙が続いた。

「思い出してくれて有難う、フィリス。そのチェルシーさんと言う人に話を聞いてみたいわ。紹介してくれるかしら」

フィリス先生は頷き、自身の『魔法の杖』とアシュリー師匠の『魔法の杖』とを交差させた。淡い光がボンヤリと光りつつ、シンクロする。 チェルシーさんの連絡先とかがコピーされたに違いない。

――わたしの方は、と言えば。

疲労回復の魔法の効果らしき物が、急に切れて来ているのを感じる。もう、限界だ。

わたしは、そろそろと床を移動して――再びベッドに収まった。

――そう言えば。さっき、わたしは四つ足で移動してたっけ? メルちゃんと一緒にコソコソしてた時も、無意識のうちに、四つ足の移動をしていた?

一瞬の――疑問と、違和感。

そのまま、わたしは失神するように、本来の疲労回復のための熟睡に入ったのだった。

*****(5)秘密会談な昼食会

――ぐぅ。きゅるる。

空腹を主張するお腹の音で、目が覚めた。目をパッチリ開いてみると――

わお、太陽が南中の位置にある。真昼ッ?!

思わずワタワタと腕と尻尾を振り回すと、掛け布団がバサッと落ちた。再びお腹が『ぐぅ』と鳴る。空腹すぎて死ぬ……

「おぉ、すごい腹の音だな。隣まで聞こえて来たぞ」

おかしそうに笑いながら研究室のドアを開いて来たのは、ディーター先生だ。何やら謎の含み笑いも付いている。 その、やたらと聴力のあるウルフ耳、反則じゃ無いですか!

そして――

ディーター先生の金茶色の頭部の後ろから、 何やら黒いウルフ耳が飛び出しているんですけど……クレドさんに似てるけどクレドさんじゃ無いような……誰?!

ギョッとして、目を見開いていると。

ディーター先生より少し年上と言った感じの、背の高い黒狼種の上級魔法使いが、ディーター先生の後ろから姿を見せた。

ウェーブの掛かった漆黒の髪。チラホラと白髪が混ざり出しているけれど、それ程と言う訳じゃ無い。冷涼な顔立ちに、刃のような黒い眼差し。 その眼差しの冷たさと来たら、ジッと見つめられていると、さながら伝説の貴種の祖だと言う『大狼王』に睨み据えられたような気がして来るほどだ。

――上級魔法使い『風のジルベルト』閣下。ザ☆秘密主義だという噂の第五王子。この気迫、さすが貴種!

ピシッと全身が固まった。ベッドの上で、やや身を起こしたまま。

ジルベルト閣下の涼しすぎる眼差しが、頭のてっぺんから足の爪先まで、ジロジロと眺めて来ているのを感じる。だんだん、背中にイヤな汗が伝い始めた。

――まさか、取って食うとか?!

やがて、ジルベルト閣下が、無表情に口を開いた。この冷涼にして端正すぎる無表情、やはり誰かに似ているような……

「私には『炭酸スイカ』を取って食う趣味は無いぞ。甥には、あったようだが」

――ほぇ?!

口をアングリと開けている内に、『何やら面白い事』を言っていたようなジルベルト閣下は、再びディーター先生の後ろに引っ込んだ。 そのまま、貴族そのものの威風堂々たる立ち居振る舞いでもって、隣の研究室へと消えて行く。

ジルベルト閣下が身を返した拍子に、後ろ髪をまとめている髪飾りが、キラリと光を反射した。見事な宝飾細工の付いた髪飾りだ。さすが貴族の装い。

部屋の空気がガラリと変わる。ジルベルト閣下の存在によって『ピシッ』と凍っていた空気が無くなると共に、 わたしの身体も硬直を止めて、バッタリとベッドに沈み込んだ。

その拍子に、真っ赤なヘッドドレスからお下げヨロシク流れる、毒々しいまでに真っ赤なビーズ製の『花房』が、 シャラリと左右の頬に掛かる。……夢じゃ無かった。夢だったら良かったのに。

――氷漬けにされて、極彩色の七色のリボンを頭に飾られるのかと思った……ぐぅ。

ディーター先生が今にも吹き出し笑いをしそうな顔をしながらも、3枚ほどのクッキーを乗せた皿と、1杯の水を差し出して来た。

「まぁ、ともかく、あと一刻ほどで昼食会だ。補助クッキーを食っとけ。腹の虫も当座は大人しくなるだろう。 フィリスは今は忙しいんでな、一人で着替えとかは出来るな?」

――昼食会? 昼食会と言いました?

「ああ、ジルベルト殿はルーリーと話し合いをするために来られたのでな。 昨日のうちに、チェルシーとポーラとメルセデスから、ルーリーの衣服だと言うグリーンの外出着が物品転送の魔法陣で送られて来たが、あれで良いだろう」

――えーっと。ジリアンさんの結婚式に行く時に来ていた、おニューの外出着。 中級侍女のユニフォームに似た、ワンピースとベストのセット。……で、昼食会。昼食。

補助クッキーを口に含んだところで、いきなり、その恐るべき意味に思い至った。

――は?! 昼食会ですと?! 何で、ジルベルト閣下と?!

思わず尻尾が『ビョン!』と跳ねちゃったよ。わたし何か、マズイ事しました?!

ディーター先生は、相変わらず意味深そうな含み笑いをしながら、わたしの頭を撫でて来た。 そこには、『呪いの拘束バンド』とヘッドドレス似の魔法道具の一体化に挟まれて固定されてしまった、『仮のウルフ耳』が付いている。

「少なくとも、ジルベルト殿には、ルーリーを取って食う予定は無いから安心しろ。 それよりも、一刻で準備を済ませてくれ。ジルベルト殿は遅刻されると、途端に不機嫌になるのでな」

――わ、わ、分かりましたッ!

ジルベルト閣下と向き合って食事する勇気はありませんが……!

*****

わたしは超特急で身体を清め、寝ぐせの付いた髪を整えた。

あれから髪色は変わらず、蛍光黄色と蛍光紫のマダラに変色してしまったままだから、髪型だけは丁寧にしないと。

とりあえず『呪いの拘束バンド』がハマったままと言う事もあって、その周りの髪は余り乱れていない状態だから、ブラッシングは早く済んだ。

グリーンのワンピースとベストのセット、元々、仕事着から発展した簡素なデザインだから、パパッと着られて良かった。 簡にして要を得たデザインって、素晴らしい。

頭部が、『呪いの拘束バンド』と真っ赤な花房付きのヘッドドレス、それに『炭酸スイカ』カラーリングされた毛髪、という凄まじい状態なので、 どうにも落ち着かない。出来るだけ礼を失しないように、丁寧に動作するのみだ。

ドアをノックして、ディーター先生の研究室に入る。

ディーター先生の研究室の、窓に近い一角が片付けられていて、昼食会の場が出来ていた。

研究室のゴチャゴチャした部分が気にならないように、 簡単な仕切りも立てられている。テーブルをセットしたのはフィリス先生だ。フィリス先生、ホントに何でも出来るスーパー助手だなあ。

ディーター先生とフィリス先生とジルベルト閣下は、既に席についていた。前菜を済ませていたようで、フィリス先生の淹れたお茶を一服している所だ。 フィリス先生の誘導で、一礼して空いている席に着座する。

ジルベルト閣下は貴族そのものの仕草で茶器を扱いながらも、わたしの一挙手一投足を注意深く眺めている様子だ。緊張する。

――そう言えば。

風のトレヴァー長官から『お尋ね』を持って派遣されて来た貴公子『風のジェイダン』と言う人、 ジルベルト閣下は秘密主義だから、下手に喋ったら、情報を握り潰されるとか言ってたっけ。

でも、この場合、何をどう喋るべきなんだろう。

――と言うか、この秘密会談な昼食会の目的って、いったい何?

ドキドキしながらも、『何か言葉があるのだろう』と待ち受けていると、ジルベルト閣下が茶器を降ろした。 涼しすぎる黒い眼差しでわたしを見据えつつ、おもむろに口を開いて来る。

「水のルーリエ嬢。ルーリーと呼ばせて頂こう。私は第五王子の位を戴く『風のジルベルト』。 ちなみに、クレドは、我が甥だ。ヤツの正式名『風のクレディド』は、既に知っている事と思うが」

――や、や、やっぱり、タダ者じゃ無かった~ッ!!

で、でもクレドさん、王族の関係者だったって事……信じられないけど納得できるとか……うそだぁ。

ピシッと固まっていると、ジルベルト閣下が面白そうに口の端を上げた。

こんな形容が、この冷涼で無慈悲そうな人に適用できるとは思わなかったけど、優美な笑みだ。ハッとする程、クレドさんと似ている。

と言うよりはむしろ、クレドさんが、この人に似ている、と言うべきなのかも知れない。

――誰かに似ていると思ったのは、間違いじゃ無かった……

ジルベルト閣下は、涼しすぎる眼差しを更に細くした。刃のような光が揺らめく。口元は優美な弧を描いているのに、目が笑っていない。気温が下がりそうだ。

「――と言う事は《盟約》の際、ヤツはおのれの身分を、何も説明しなかったのだな。今一度、吊るしてやらなければなるまい。 それに、『炭酸スイカ』とはな……本気で眼科の受診を考えねばならぬようだ」

……《盟約》? 《盟約》と言いました?

少しの間、意味が分からなくてポカンとしてしまった。そして――思い出した。

あああぁぁあぁぁぁああ!!

確か、クレドさんと《盟約》と呼ばれるような行為はしてたよ! 前の《暁星(エオス)》の刻に! 転んでしまったし、 結局かじり付いてしまったし、事故っぽい感じだったけどさ!

「左手を出してくれたまえ」

さすが貴種、第五王子。上級魔法使いにして魔法部署の幹部。命令し慣れている口調だ。

思わずピッと指を揃えて、両手を差し出してしまう。

ジルベルト閣下の大きな右手が――わたしの左手を取って来た。

意外に柔らかな扱いに驚く。

ジルベルト閣下は、意図の窺い知れぬ黒い眼差しで、わたしの左薬指に出た《盟約》のサインを、ジッと観察していた。

左薬指にある謎のラインは、陽光にかざして、やっとペカリと反射しているのが分かる。

何とも曖昧な代物ではあるのだ。記憶喪失なわたしには、こんなに薄くても《盟約》が成立しているのか、それすらも良く分からない。

茜色と言うには到底及ばない、ごくごく薄い、地肌に溶け込みそうな程の仄かな色合い。 レースで出来た敷波紋様のようなパターンがあって、それと組み合わさるように、見覚えのある薄い水色の花蕾が5つばかり、指を取り巻いている。

「もう良い」

ジルベルト閣下が手を放してくれたので、そそくさと手を仕舞う。緊張してしまった。まだ心臓が落ち着かない。

フィリス先生が『食事を始めて良いわよ』と促してくれたので、ジルベルト閣下をチラチラと窺いながらも、食事を始めたのだった。

――圧倒的な存在が目の前にいるせいか、余り食事している感覚が無い……

ディーター先生が次第に面白そうな顔になって、いっそう無表情になったような印象のあるジルベルト閣下を見やった。

「お忍びの成果は如何でしたかな、ジルベルト殿」
「この目で見ても、正直、まだ信じられん。《予約》が成立しているうえに、本物の《花の影》を、この目で見る事になるとはな」

――《予約》?

首を傾げていると、フィリス先生が有能な秘書の顔をして、小声でそっと解説してくれた。

「未成年の場合の《盟約》は、色が薄い方の《予約》になるの。ルーリーが成年だったら、ちゃんとした茜色の《盟約》として成立してたわ」

――あ。成立してたんだ。《盟約》。何か実感が無いけど。頭がグルグルしてるけど。

どうやら、ジルベルト閣下は、驚けば驚くほど無表情になる性質らしい。 クレドさんは感情の分かりにくい人だけど、この人も、相当に分かりにくい人だなぁ。さすが血縁。

ジルベルト閣下は腕組みをして思案する格好になり、ブツブツと呟き出した。

「ヤツは幼い頃に両親を失ったが、第五王子の血縁という立場からすれば、宮廷の貴公子の1人として、 リオーダン殿下と同様、アルセーニア姫との《盟約》を望みうる立ち位置にあった。 オフェリア姫ともだ。シャンゼリン嬢とは、王宮の社交行事で顔を合わせて以来、5年以上も付き合っていたから、 そのうち何かあるかと思っていたのだが――」

そこで、ジルベルト閣下は、鋭い眼差しでチラリとわたしを見据えて来た。ぎょっ。

「――あの日か、ヴァイロス殿下の暗殺未遂事件があってから、ヤツは急にシャンゼリン嬢を眺める事に興味を無くした。文字通り、あっさりとな。 原因が、この妙な混血顔の『炭酸スイカ』とは思わなんだ。 回廊で見かけた時は、女に無関心な余り、イヌ顔な童顔趣味のボーイズ・ラブに走ったのかと案じたくらいだからな」

やっぱり血縁。ジルベルト閣下は、クレドさんの保護者な人物でもあったんだ。クレドさんを良く見てた訳だ。 それにしても、良く見てるなぁ。魔法部署の幹部って聞くと、何か忙しそうだなと思うんだけど。

ジルベルト閣下は、相変わらず意図の窺い知れない冷涼な眼差しをしたまま、ジロジロと観察して来る。やがて、ジルベルト閣下が再び口を開いた。

「ルーリーが、どこぞのハーレム団の妻の候補として、レオ帝都に居たのは確実なようだな。 その『花房』をさばきつつ食事マナーをやり遂げるのは、レオ帝都に定住する訓練されたハーレム妻を除いては、ほとんど居ない。 ましてや、ウルフ族の未婚の娘の中では、なおさらだ」

思わず、息が止まる。

顔の左右に長く垂れている、毒々しいまでに真っ赤な『花房』。これ、手元の扱いがマズいと、『花房』となっているビーズの下端が、 フォーク類に絡まったり料理皿に突っ込んだりしかねない代物。

――無意識のうちに、『花房』をさばいてたんだ。骨の髄まで叩き込まれた、身体的スキル。

ジルベルト閣下の指摘は続いた。

「どこぞのレオ族の有力者か御用達の豪商――と言った関係で、我が甥と遭遇し、相思相愛になるまでの関係があった筈だが。 全面的な記憶喪失で、まるごと覚えていないそうだな。《宝珠》だけが記憶喪失のショックを切り抜けて、 相思相愛の想念を保持していたと言うのは、論理的には説明が付くし、多くの前例もあるから納得はできるが、不思議な話だ」

――うーん、それは、わたしも不思議な話だと思うよ。

噴水広場での初対面は最悪の状況だったし。高所トラウマ、地下牢の階段が原因だし。

ジルベルト閣下が腕組みをしつつ、不意に眉の端を吊り上げる。不穏な表情だ。ぎょっ。

「つくづく妙な娘だ。実に分かりやすく顔と尻尾に書いてあるくせに、訓練で会得したスキルなのか、元ハーレム要員としての表現規制ルールがそうなのか、 恋愛表現だけは非常に分かりにくい。その《予約》成立の証が無ければ、実は我が甥に無関心なのかと思うほどだ。 シャンゼリン嬢の方が恋愛と誘惑の手練手管を使っていた分、分かりやすかったという事もあるが。普通に、ヤツの額に口付けをしたんだろうな?」

うわあぁぁ。思い出しちゃったよ。黒歴史の中の黒歴史。

――あれ、転んで失敗して、口周り、ぶつけたんだよね。頭突きするような感じで、おでこに、かじり付いたって言うか……

茶器を口に運ぶ途中で、ジルベルト閣下の動きが止まった。文字通り目がテンになっていて、『は?』という感じ。

ディーター先生が、ジルベルト閣下の隣で、口をパカッと開けている。ほぇ?

「転んで、頭突きする勢いで――衝突しがてら、かじり付いたのか?」

ディーター先生の素っ頓狂な口調が続いた――暫し、奇妙な沈黙が広がった。

やがて、ジルベルト閣下が顔を伏せて、肩を震わせ始めた。クレドさんと似た笑い方だ。さすが血縁。

「ふ、ふ、ハハハハハ……! それではヤツも、事故か、拒否か、分からなくて、困っただろうな……! そうか、 ヤツの、あの時の変顔は、そういう訳だったのか……!」

ジルベルト閣下の吹き出し笑いは、目の端に涙をにじませるほどの、バカ笑いになったのだった……

*****

ジルベルト閣下との昼食会は無事に終わった。

わたしが此処に現れた最初の日からの、アレコレの経緯は、あらかた明らかにされた。特に秘密でも何でも無いもんね。

かくして、ジルベルト閣下は、肩を震わせながら帰って行った。

記憶喪失から始まった、今のところ1カ月足らずの人生だけど、そんなに傑作だったんだろうか……

意外に笑い上戸な人だから、ビックリだ。

ジルベルト閣下が、わたしに対して如何なる印象を持ったのかは――謎。

クレドさんは、第五王子の血縁な名門の出身、しかも純血の貴種のくせに結婚の意思が無かったから、 ジルベルト閣下は、それなりに気を揉んでいて、扱いに困っていたそうだ。 クレドさんのような貴公子は元々、それなりのウルフ族の令嬢と早めに婚約するのが普通だから、余計に。

これもビックリなんだけど、クレドさんの王族としての継承順位、高かった。 クレドさん自身は何も言わなかったし、クレドさんの言動からして、その辺は無関心なように見えるんだけど。

ジルベルト閣下の一族の後継者たちの中では、傍流の出身ながらトップ。ひとたび望めば、本家の嫡子を差し置いて、 ジルベルト閣下から直接に第五王子の地位が転がり込んでくる。 親衛隊に所属するのは貴種ウルフ族でも難しいのに、そのうえ、更に能力を求められる『斥候』だし。

そんなクレドさんは、ウルフ貴公子としては、まだまだ新参の年齢。

親衛隊士としては若手ベテランなんだけど、その分、諸国の社交界におけるウルフ貴公子としての経験は、少ない方。 いわゆる御令嬢たちにとっては、この上なく好都合な獲物ではある。

クレドさんが性質の悪い女に引っ掛かった場合は(特に、闇ギルドと関係のある女に引っ掛かった場合は)、 金銭問題とか脅迫問題とか、色々大変になるのは、火を見るよりも明らか。

わたしが闇ギルドの悪女と判明したアカツキには、ジルベルト閣下おんみずからが、『始末』する予定だったそうだ。

なおかつ一族を率いて、所属先の闇ギルドを、ぶっ潰す計画も立てていた。さすが貴種。怖い。

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深森の帝國