深森の帝國§総目次 §物語ノ傍流 〉瑠璃花敷波06

―瑠璃花敷波―06

part.06「不穏な昼と眠れない夜*2」

(1)閲兵式の表と裏(中)
(2)閲兵式の表と裏(後)
(3)物思う夜、すずろなる朝のひととき
(4)半可通たちの急展開(前)
(5)半可通たちの急展開(後)
(6)微妙に尾を引く決着

*****(1)閲兵式の表と裏(中)

キョロキョロしていると――

――レオ帝国大使のトップ、金色タテガミの『リュディガー殿下』を取り巻く4人の正妻に混ざって、1人、不思議なレオ族女性が居るのが見えた。

亜麻色の波打つ長髪。ドレスは藤色の地に青い波紋様。『花房』は、ハイドランジア真珠なのかな。 真珠の照りを持つサファイア色をした飾り玉が効果的にあしらわれていて、淑やかな雰囲気を演出している。 ほとんどアサッテの方を向いているから顔立ちは分からないけど、レオ族ならではの華のある美女なんだと思う。

リュティガー殿下に合わせたペアルックの――彩度を抑えたカラシ色に金粉をまぶした――ドレスじゃ無い。 という事は、リュティガー殿下のハーレム要員では無いらしい。でも、正妻たちに混ざっているというのは、どういう事だろうか。

――わたしみたいに、何処かから拾われて来た……訳でも無さそうだし。

「質問よろしいですか、地妻クラウディアさん?」
「なぁに、ルーリー嬢?」
「あちらの青い真珠の『花房』の人、正妻では無いんですか?」

地妻クラウディアは、目当ての人物を見て「ああ」と呟いた。

「リュディガー殿下のハーレムの方で預かっている、『レオ王陛下』ハーレム『水の妻・ベルディナ』よ。呼称は『水妻ベルディナ殿』。 我がレオ帝国が誇る、第二の《水の盾》でもあるわ。まぁ、第一の《水の盾》を輩出したウルフ王国に対する、一種の示威というところね。フフン」

――魔法が関わる政治事情というところでしたか……

複雑怪奇な政治ロジックは良く分からない。クラクラしていると、不意に、頭の上の方から、銀の鈴の鳴るような声が降って来た。

「こんにちは、地妻クラウディア殿。我がウルフ王国の国民を、レオ帝国の大使館に不当に押し込めてはいけませんよ?」

地妻クラウディアに声を掛けて来たのは、如何にも貴族令嬢と思しき美麗なウルフ女性だ。

既に成人しているみたいだけど、溌溂とした雰囲気のある明るい面差しが、良い意味での少女っぽさを残している。右耳の脇に茜メッシュ。 光沢のある薄青色のドレス。淡い栗色の髪――金狼種。

――ウルフ女性は小柄と相場が決まってるのに、高い所から声が降って来たという事は……

そのウルフ令嬢を片腕抱っこしているのは――クレドさんだ。……ほえ?!

クレドさんの方でも、これは奇遇だったみたい。涼やかな切れ長の目が一瞬だけ見開かれた。 その後、訝しそうに目を細め、わたしの『仮のウルフ耳』をサッと辿ったようだった。

――アヤシサ満載の《変装魔法》とかじゃ無いから、このコスプレは、犯罪では無い筈なんだけど。 ショートボブな髪型だから、うなじで締めた黒いリボンの端が背中に流れているのも、バッチリと丸見えだし。

地妻クラウディアは余裕たっぷりの色気のある含み笑いをしつつ、オフェリア姫に優雅な一礼をしていた。 そして、手慣れた様子で、『ランディール卿』の名前と共に宣言していた内容を、繰り返した。

すなわち、わたしを、ランディール卿ハーレム要員として、『穏やか』に勧誘している真っ最中である、という事実を。

――わたしの背後を見通しているクレドさんの眼差しが、凍ったような気がする。

そこ、地妻クラウディアの、巨人のようなレオ族の護衛が立ってる筈の位置だ。 下手に失礼したら、血の雨が降るかも……という不吉な想像があるんだけど、大丈夫だろうか。

淡い栗色の髪が美しいウルフ貴族令嬢は、薄青色のドレスの胸に優雅に手を当てながらも、抜け目のない笑みを浮かべて来た。

「まぁ。ならば、わたくしはウルフ王国の第二王女として、この子を引き留めますわ。国民の保護は国の大事ですもの」
「フェアにお願いしますわね、水のオフェリア姫。我がレオ帝国が、ハーレム要員と見込んだ者を不当に扱ったことはありませんもの、ウフフ」
「我らがウルフ族出身の『水のサフィール』が、体調不良で長期休養になった件は、如何ですの?」
「彼女のハーレム主君『レオ王子殿下』が、充分な医療を用意されている筈ですわ。ウルフ王国のお手を煩わせる事は、ありませんわよ。 詳しくお聞きになりたいなら、『レオ王子殿下』の父であられる、『レオ王陛下』ハーレム『水妻ベルディナ殿』まで、どうぞ」

何だか、牽制の火花が飛び交ってるような会話だなあ。

ウルフ王国の第二王女たるオフェリア姫が、これだけ美人で口達者なら、今は亡き第一王女アルセーニア姫って、どれくらい美人で有能だったんだろう。 ちょっと想像が付かない。

――ハッ。気が付けば、ロイヤルな方々じゃ無いか! わたし、此処に居て良いものなの?!

「あら、此処にいらして頂戴、ルーリー。あなたは明らかに未成年でしょう。 レオ帝国の大使館に連れ込まれないように、シッカリ見張っててあげますわ。それに、わたくしも、ルーリーに興味がありますの。 その『耳』、造り物でしょう。どんな冒険があったのか聞きたいわ」

わたしの狼狽の意味をハッキリと見て取っていたようで、オフェリア姫はイタズラっぽくウインクして来たのだった。 何だか、型破りで親しみやすい王女って感じだ。此処まで来るって事は、正式な行動じゃ無いと思う。お忍びが好きな性格みたい。

ポカンとしているうちに――

地妻クラウディアの方は、ハーレム主君たるランディール卿に呼び出された様子だ。3人の正妻たちも、一緒に手招きしている。

ハーレムの正妻の4人全員で、緊急に決めなきゃならない話題が出て来たらしい。地妻クラウディアは「ちょっと待っててね」と言いながら、 わたしの『仮のウルフ耳』をひと撫でした後、優雅さを失わない見事な速足で、ランディール卿の元に駆け付けて行った。 地妻クラウディアの後を、忠実なレオ族の護衛が威風堂々と付いて行く。

地妻クラウディアと護衛からは一時的に解放された形だけど、ロイヤルな第二王女オフェリア姫に捕まったような形だから、 此処がホッとする場面なのかどうかも、良く分からない。

それに。

クレドさんとオフェリア姫。

悶々と気になって来る。一言では言い表しにくい、微妙な意味で。

――クレドさんがオフェリア姫を片腕抱っこしているって事は、良い仲だったりするのだろうか。 すごく、お似合いの2人って感じだ。クレドさんは落ち着いた静謐な容貌。オフェリア姫は溌溂とした美人。お互いの良さを引き立て合ってるし。

オフェリア姫の左薬指には、茜ラインが見えている。チェルシーさんの物ほど複雑と言う訳では無いけど、それなりに込み入ったデザインのように見える。

わたしがクイッと首を傾げると、オフェリア姫は、すぐに自分の茜ラインに目をやり、目をパチクリさせた。

「あら、イヤだ、クレド隊士、ルーリーが誤解してるわ。 あの地妻クラウディア殿は余計な混乱を起こすのが得意なのよ、ヴァイロス殿下に間違って伝わったら大変。ちょっと降ろして頂戴」

命令に忠実なクレドさんは、即座に、オフェリア姫を降ろした。ん? ヴァイロス殿下の方向をチラリと窺った? どういう事?

豪華絢爛な金髪のヴァイロス殿下は――こちらに背を向けていた。レオ族のリュディガー殿下やランディール卿と熱く議論している事もあって、 気が付かなかったみたい。

地上に立ってみると、オフェリア姫は、わたしより少し背が高い――フィリス先生と同じくらいの背丈だ。

「初めまして、水のルーリー。わたくしは『水のオフェリア』、ウルフ王国の第二王女として『姫』称号を戴く者。 此処とは別の飛び地の領土の出身で、ヴァイロス殿下の婚約者です。同じ《水霊相》生まれ同士、堅苦しくなくやって頂けたら嬉しいわ」

――はぁッ?! あのヴァイロス殿下と結婚する予定なんですか!

「そうなの」

オフェリア姫は、にこやかに答えて来た。

「数日前、ヴァイロス殿下が捕まえたという『耳無し坊主のナンチャッテ暗殺者』って、あなたの事なのね。 女の子が『耳無し』になるケースは珍しいし、この辺りで造り物の『耳』を着けているのは、ルーリーだけだし」

――その節は、お世話になりました、って言えば良いのだろうか。でも、あれは本当に異常な状況だったし、 簡単には説明できないような誤解があった訳だし、地下牢にも入れられたから良く分からない。返答に詰まるとは、この事だ。

返答に詰まっていると、オフェリア姫はコロコロ笑いながら、わたしの頬をフワリと摘まんで来た。

「この子、本当に面白いわね、クレド隊士。この変顔、このピコピコ尻尾、まるで百面相よ……フフフッ。 認めるのは癪だけど、あの地妻クラウディア殿が入れ込むのも分かるわ」

――どうやら、わたしは変な顔をしていたらしい。よりによって第二王女の前で。或る意味、恥ずか死ねるかも知れない。 でも、第二王女オフェリア姫に頬を摘ままれた事は、後々までの土産話になりそうだ。

戸惑っていると、ハシバミ色のユニフォームをまとった黒狼種の上級侍女が優雅な足取りでやって来て、数本の水筒をトレイに乗せて差し出して来た。

お茶サービスみたい。この観覧席にはテーブルを置く余裕が無いから、ティーセットじゃ無くて水筒タイプになる訳だ。

オフェリア姫は、その水筒を優雅に手に取った。

「有難うね、シャンゼリン」

シャンゼリンと呼ばれた黒髪の上級侍女は、ハッとするような美麗な笑みを浮かべ、洗練された所作で目礼した。 貴種なのだろうかスラリと背が高く、生まれながらの貴族令嬢そのもの。両方の黒いウルフ耳に、お洒落な耳飾りを着けている。

黒髪の上級侍女シャンゼリンは、少し離れた位置で控えていたクレドさんにも、水筒の乗ったトレイを差し出した。 シャンゼリンが優雅に首を傾げた拍子に、美しい形をしたウルフ耳の横で、黒い耳飾りがシャラリと揺れる。あの優雅な所作、わたしには、とっても出来そうにない。

クレドさんの方は、お茶は要らなかったようで、驚くくらい器用に謝辞を述べていた。 2人は知り合いだったみたいで(当然だけど)、社交辞令に毛が生えたような内容を話し合っている。

「機会がありましたら、その件について、2人でゆっくり話をいたしましょう――お茶をしながら」

シャンゼリンは、聞き惚れるような流麗な美声の主だ。シャンゼリンは、親しげな様子でクレドさんをお誘いしている。実際に2人は親しいらしい。

2人の間で、後日のお茶の約束が成り立った様子だ。クレドさんの応諾を得たシャンゼリンは、所定の人々に届けるのであろう残りの水筒を、 トレイに乗せたまま歩み去って行ったのだった。

観覧席の間で、上級侍女はロイヤルな方々を中心に、中級侍女はそれ以外の大勢を中心に、お茶を提供して回っている。昼下がりのお茶のタイミングだったんだ。

見ていると、先ほどの黒髪の上級侍女シャンゼリンは、際立った美貌と言い所作と言い、華があるのが分かる。 並み居る侍女たちばかりではなく、貴族令嬢の間に居ても、何となく存在感が違う。際立つ美人って、ああいう人の事を言うのかも知れない。

オフェリア姫が親切にも、解説をしてくれた。

「あのシャンゼリンは、アルセーニア姫の直属の侍女だった人なの。とっても有能な人だわ。今、いろいろ教わっているところ。 不本意ながら――亡きアルセーニア姫に代わって、わたくしが第一王女に繰り上がる事になるから。 順番があるから前後するのだけど、シャンゼリンは、わたくしと同様に貴種の名門の出で、しかも実力があるから、 三位まで繰り上がって『シャンゼリン姫』となるかも、という話も出てるわ」

――わお、実力主義だ。ロイヤルな方々も大変ですね。

オフェリア姫と同じように、シャンゼリンも、飛び地領土の出身の令嬢だそうだ。

シャンゼリンの父親はリクハルド閣下。元・第三王子だったけど早くに妻を亡くして臣籍降下し、縁戚の関係で、つなぎのための一時的な飛び地領主となった。 でも、領主の後継者たちの間で不幸が続いたり揉めたりしたので、状況が落ち着くまでの間と言う事で、リクハルド閣下は今でも領主をやっている。

シャンゼリンは実の娘なんだけど、こういう事情の中で、身を守るためという事もあって養女扱いとなり、侍女コースに入った。 養女扱いだと、身内の後継者争いに巻き込まれない分、安全になる。成る程。リクハルド閣下、シャンゼリン嬢を愛してるなあ。

ちなみに、こういう背景があるので、シャンゼリンは或る意味、悲劇の令嬢。宮廷の貴公子たちが胸を痛め、更にシャンゼリンの元の血筋の良さや美貌もあって、 宮廷社交界では人気があると言う。

結婚適齢期なだけに幾つか縁談もあるそうなんだけど、 シャンゼリンには《宝珠》と目する人でも居るのか、今のところ難攻不落の令嬢なんだそうだ。

*****

勝負スペースでは、新たな立ち合い――それも、最終プログラムの立ち合いが始まっていた。

ヴァイロス殿下が妙に強張った表情で注視している。

勝負ステージに上がっているのは、リオーダン殿下だった。ほえ?!

対するレオ族の隊士の方は、明らかにリュディガー殿下の護衛と分かる、金色の刺繍の入った朱色の戦闘衣をまとっている。 見物席の方でも、ザッカーさんの立ち合いの時以上の、大歓声が上がっているところだ。

オフェリア姫が、上品な顔を強張らせる。淡い栗色のウルフ耳が、怒りの角度に傾いた。

「あの勝負、冗談じゃ無いわ。数年前にアルセーニア姫をハーレム側室に望んでいた、いわくつきのレオ貴族から派遣されて来ている護衛じゃない」

オフェリア姫は眉を逆立てた。お転婆姫そのものの足取りで薄青色のドレスをひるがえし、ヴァイロス殿下のグループへと突き進んで行く。

ランディール卿もリュディガー殿下も居るんだけど、わたしをこの場に連れ込んでいたレオ族ランディール卿の地妻クラウディアがそこに居るので、 自然、わたしは、オフェリア姫の後ろをくっ付いて行く形になった。護衛をお勤め中のクレドさんも付いて来た。

オフェリア姫はヴァイロス殿下を、何と、水筒で、どついた。ヴァイロス殿下を引きずり出して、その長身をかがめさせて、 その豪華絢爛な金色のウルフ耳に、ささやき声を詰め込んでいる。

それに応えて、ヴァイロス殿下が、釈明と思しき内容を返し始めた。

小声でのやり取りではあるんだけど――オフェリア姫がヴァイロス殿下を、わたしとクレドさんが控えている後方まで引きずり出していた物だから、 わたしの『人類の耳』でも、ヴァイロス殿下の小声の説明を、小耳に挟む事が出来た。

――どうやら政治的な示威とか、その辺が関わってるらしいんだけど。

いわくつきのレオ貴族とリオーダン殿下は――アルセーニア姫を挟んで、いわゆる『恋のさや当て』をしていたらしい。 ハーレム事情が関わるだけに話は込み入ってるんだけど、簡単に言うならば、そう理解して良いみたい。

元々、この勝負は、前回の武闘会の折、本人同士で決着を付ける事を約束していたそうだ。 でも、当のアルセーニア姫は、急死してしまった。まさに、予期せぬ出来事――想定外の出来事だ。

その結果。約束していた勝負が、宙に浮いてしまった。

でも、このたび、政治的な意味でアルセーニア姫が生存中としておいて、決着を付けて置く事になったんだそうだ。 レオ帝国側の『配慮』で、リオーダン殿下と立ち合って決着の相手を務めるのが、くだんのレオ貴族・本人から派遣されて来ている護衛の戦闘隊士になったと言う訳。

聞いてみれば成る程だ。外交サポート係な地妻クラウディアも、緊急会議に呼び出される訳だよ。

さっきの、やんごとなき方々の熱い議論は、そういう内容だったんだ。

こういう敏感な話は、こじれると国家同士の戦争になりかねないそうだ。 あちこちから潜入して来て身を潜めている抵抗勢力や他種族の工作員たちに、テロ活動を伴うプロパガンダや、ひいては内乱を起こすような隙を与えないように、 個人レベルの勝負でガッツリ決めておくと言うのも、上手な政治的決着のひとつ。

見物席からの大歓声は、まだ続いている。その合間に、剣戟の音が響いていた。

リオーダン殿下と、レオ族の隊士との勝負は、ほぼ互角。今は近接戦だ。

刃をガッチリと打ち合わせたまま、力比べをしている。 そして、息を合わせているかのように足さばきが変化し、素早く間合いを取っては再び打ち合うという、息詰まるような展開へと流れて行く。

本当は目を逸らしたいんだけど。自分でも、口をアングリと開けたまま、目を逸らせない状態だと意識している。

――勝負の流れが急変した。余りにも速すぎて、目にも留まらぬ変化――

最後の打ち合いの瞬間、両者の刃が、ほぼ同時に、いきなり断裂した。

折れた刃先は――真っ直ぐに、魔法合成されていた透明な防御壁と衝突した。 衝突したのみならず、熟練の2人の戦士による押し出しが合力した、その恐るべき加速度は――魔法の防御壁を、あっさりと貫いた。

――時間感覚が停止したかのように、全ての事象がゆっくりと変容している――

まるで、普通のガラス窓をボウガンの矢が貫いたかのように、魔法の透明な防御壁に、蜘蛛の巣のようなヒビが広がる。

その危険に気付いたレオ族の護衛たちが反応する。並み居るレオ族の正妻たちが、護衛にガードされつつも身を低くする。

青い真珠の『花房』を着けた藤色ドレスのレオ族女性が――『レオ王陛下の水妻ベルディナ殿』という女性が――『魔法の杖』を突き上げた。 青いエーテル光でできた膜が瞬時に湧き上がり、レオ貴族と正妻たちの周囲をカバーする。

不思議な金色のシンボルが浮かんでいる青いエーテル膜。粉々のガラス破片さながらの『防壁の断片』が、ゾッとするような速度で降りかかったけど、 青いエーテル膜は、その断片を全て受け流した。

リュディガー殿下を含むレオ貴族たちと正妻たちの周囲に高速の断片が流れ、大音響を立てながら降り注ぐ。

折れた剣から弾け飛んでいた2つの刃先のうち1つの軌道は、《水の盾》のガード範囲外に居たランディール卿の『警棒』に打ち払われて方向を変えた。 1つの刃先は、観覧席の椅子のひとつを砕きつつ、石畳に――深々とめり込んだ。

もう1つの刃先の軌道は――わたしの心臓のど真ん中。

ヴァイロス殿下がオフェリア姫の腰をさらいつつ、口を開けて何かを言った。 わたしは無意識のうちに前方へ突き出した無力な拳を握り締めたまま、『死の影』を見ているしか無く。

硬い大音響と共に、視界が急に流れた。

続いて――何か硬い物が、もう一つの硬い物に、深々と、めり込んだ音。

凍り付いたような静寂の一瞬。

その後、再び、時間感覚が復活したらしい。世界が急加速した後、正常に回り出した。

わたしの左耳に――『人類の耳』に最初に入って来たのは、後ろに控えているクレドさんの、何処か苦渋めいた硬い声だ。

「力不足で、申し訳ありませんでした」

――はぁ?

気が付くと、いつの間にかクレドさんの手が腰に回っている。あの刃先が心臓に到達する直前に、 わたしの位置を変えていたみたいだ。少なくとも、刃先の軌道が心臓を外れるように。

わたしは、妙にスースーする足元を見下ろした。

――ミントグリーン色の真新しいワンピースの裾が、左上から右下へ、スパッと切れている。切れ込みの間から膝小僧が2つとも丸見えだ。 でも、何処にも痛みは無い。どうやら無傷だ。

そして。

ワンピースの裾が切れて行った先、右足のすぐ傍の石畳に、あの刃先が深々と突き刺さっていた。 半分以上、埋まっている。とんでもない衝撃が掛かった事は明らか。

――え? これ、クレドさんが打ち落としたとか?

クレドさんの右手には『警棒』が握られている。その『警棒』は――表面に、あの刃の断片を受け流した物と思しき、深い裂け目が出来ていた。

――その『警棒』、交換しなきゃいけないね。

わたしは、そんな場違いな事を『狼体』のやり方で喋ったのだった。

*****(2)閲兵式の表と裏(後)

勝負スペースをグルリと巡る観覧スペースの最前部では、ウルフ族の魔法使いたちが忙しく動いていた。

無地の灰色ローブの中級魔法使いたちと、灰色スカーフを巻く下級魔法使いたちの手により、 蜘蛛の巣のようなヒビが入っていた透明な魔法の防壁が解除され、速やかに片付けられて行く。

剣技武闘会の最終プログラムが終わり、防壁が必要なくなったためだ。

魔法の防壁の解除作業を監督しているのは、『風のトレヴァー』長官に「良きに計らえ」と指示された『風のジルベルト』だ。

あの冷涼な顔立ちの、謎の黒狼種を、此処で再び見かけるとは思わなかった。ディーター先生より少し年上な人物。

フィリス先生は、確か、あの『風のジルベルト閣下は第五王子だ』とか言ってたっけ。

ウルフ王国は実力主義だ。

第一王子ヴァイロス殿下が死んだ場合、ジルベルト閣下は、四位に繰り上がるんじゃ無いかな。 リオーダン殿下も死ねば、ジルベルト閣下は更に、第三王子まで繰り上がる。少なくとも王位継承者、『殿下』の称号を得る。

風のジルベルト閣下、刃のようなゾッとするような眼差しをしているし、結構、怪しいんだよね。 すごく偉そうな人だし、そう言う人が、偶然、ボウガン襲撃事件の現場の近くに居合わせたりするだろうか。 それに、動機で言っても――ヴァイロス殿下とリオーダン殿下を、コッソリ、まとめて暗殺しそうな人物のようにも思える。

だけど、憶測だけじゃ何も言えないから、心の底に仕舞っておく事にする。

*****

――わたしは目下、観覧席の椅子のひとつに、呆然とヘタレ込んでいる。

情けない事かも知れないけど、今になって腰が抜けちゃったんだよ。 斜めにスパッと入っている切れ込みを両手で握り込んだまま、震えている状態だ。

少し離れた所にある貴賓スペースでは、ヴァイロス殿下やリオーダン殿下をはじめとするウルフ王国側の外交チームと、 レオ帝国大使リュディガー殿下をはじめとするレオ帝国側の外交チームが、予定外の立ち話――会談をしている。

隣で眉を逆立てているオフェリア姫の解説によると、わたしが死にかけた件について、どちらの方が、より責任が大きいか検討しているそうだ。 双方の落ち度も手柄も入り組んでいるだけに、割と揉めているらしい。

わたしは記憶喪失な一般人だし、全体で見れば無傷で済んだから、そんなに大問題になるとは思わなかったんだけど。

偶然とはいえ――地妻クラウディアが、わたしをハーレム要員の候補として連れ込んで来ていたので、 微妙に外交案件に引っ掛かる要素になったんだそうだ。そんなモノなのか。

つらつらと考えていると、オフェリア姫の淡い栗色のウルフ耳が、ピコッと傾いた。おや?

「だいたい結論が出たみたい」

――そうですか。

やがて、レオ帝国側を代表して、地妻クラウディアが困惑顔をしたまま、やって来た。

「この度は、わがレオ帝国側の非が大きいという結論になったわ。当座の対応として、そのドレス代を補償するわね。 当方では、ルーリー嬢をハーレム要員の候補にする権利については、いっさい変わらず保持。ただ、ルーリー嬢が成人する前に《宝珠》を見つけた場合は、 獣王国の伝統に従って、無条件でチャラ。まぁ、《宝珠》は簡単に見つからない代物だし、あたしとしては見つからない事を祈るけど」

そう言って、地妻クラウディアは『フーッ』と溜息をついた。色々と強引だけど、基本的にはフェアな人でもあるから、嫌な人という訳では無い。

「あなたが死ななくて良かったわ、ルーリー嬢。どんな種族であっても、非業の死は後味が悪いもの。 今日のところは、あたしたちは、これで引き下がる事になるわ。今日のスケジュールは終わったしね。 ルーリー嬢も、ゆっくり身体を休めて頂戴。また機会があったら、お茶会など、しましょう」

いかにも獣王国の盟主を自認するレオ帝国らしいと言うか、謝罪らしくない謝罪ではあるけれど……一定の敬意と配慮をされている事は、ちゃんと分かる。 それに、セリフの一部は、地妻クラウディアの本心なのだろうと言う事も分かる。

「えーっと……ご配慮、有難うございます。ランディール卿の地妻クラウディア殿」

わたしは単なる一般人で、しかも記憶喪失だから、これ以上の『社交的な返礼』って思いつかないんだよね。 でも、この対応は、地妻クラウディアもオフェリア姫も驚かせたみたい。2人とも、マジマジとわたしを見て来る。

わたしは、だんだん、冷や汗が出て来た。何か失敗してましたでしょうか?

「いえ、大丈夫よ」

地妻クラウディアは、イタズラっぽく口の端に笑みを浮かべ、こっそりとウインクして来た。 そして握手を求めて来たので、握手したのだった。これで、今日の一件は、フェアな意味でチャラになったらしい。

レオ帝国の大使一行が、威風堂々な様子で、会場を退出して行く。此処で発生した事故など、まるで最初から無かったかのように。見事な演技力だ。

一団の中で、あの青い真珠の『花房』を着けている『レオ王陛下の水妻ベルディナ殿』が、最高の敬意を払われつつ、かしずかれているのが目立っていた。

それにしても。

あれが最高位に近い――それも第二位の《水の盾》なんだ。

さっきの、あの青いエーテル膜。驚きの守護魔法だ。あれが《水の盾》の魔法。《地の盾》の魔法みたいだった。

刃先と同じくらいの恐ろしい凶器となっていた断片は、水妻ベルディナが合成した青いエーテル膜を、全く傷付けられなかった。 それだけ、あの青いエーテル膜は強靭だと言う事。

そして、それだけ強力な魔法を発動していたと言うのに、水妻ベルディナは、さほど疲れていないように見える。 いや、さすがに堂々と歩くのは少し辛いという感じで、リュディガー殿下おんみずからが腕を貸してエスコートしているけど。

この間、上級魔法使いのディーター先生とジルベルト閣下が、2人で息を合わせて必死で発動した《地の盾》の時と比べて、余りにも違う。 あの《盾魔法》、2人の男性を瞬時に疲労困憊させる程の、強力な魔法だった筈なのに。

第二位の《水の盾》だと言う水妻ベルディナは、それだけ、魔法能力が抜きんでているのに違いない。本当に天才だ。本物の《盾使い》って違う。

成る程ねぇ。レオ皇帝が《盾使い》を――特に第一位の《盾使い》を――身辺から離さない筈だよ。

あんな強力な身辺警護があったら、すごく強い。外交的な優位も圧倒的だろうし。

フィリス先生が以前、『水のサフィールをレオ帝国に奪われてしまったのは、ウルフ王国にとっては損失だった』と言っていたのも納得。

見物客たちは、よりによって貴賓席スペースで、こんな外交上の大問題になりそうな事故が発生していたなんて、夢にも思わないだろう。

――これもまた、要らざる紛争を防ぐための、政治的対応という事なのかも知れない。色々な意味でブラックだなあ。

*****

外交交渉の一部始終の記録は、リオーダン殿下とその従者が担当する事になった。2人は別室で作業中だ。

立て続けの事故、事故処理、外交交渉と続いた極度の緊張が終わり、やっとの事で、静穏な時間が流れ始める。 閲兵式と剣技武闘会が終了した事で、見物席も静かになり始めた。大勢の人の流れが、『茜離宮』の方々に散らばったり、城下町の方へと流れて行ったりしている。

わたしたちは、観覧席の近くにある控えの回廊に移動していた。ちょっとした話し合いとか、待ち合わせのための場所と言う、ささやかな回廊だそうだけど、 恐れ多くも、貴族スペースだ。室外に面して連なるアーチ列柱が美しい。

ヴァイロス殿下は、疲れたような顔で腕を組みつつ、近くのアーチ柱に寄りかかった。

アーチ柱を照らす陽射しは、既に、うっすらとオレンジ色を帯びている。昼下がりの後半に入った事を示す光だ。

ヴァイロス殿下が、脇に慎ましく控えているクレドさんに呟いている内容が、ポツポツと流れて来る。

「あのリュディガー王子がランディール外交官に耳打ちした内容、多分、あのくらいの小声であれば、こちらに盗聴されないと思ったんだろう。 『あの刃先を打ち落とせるように精進しておけ』と言っていたぞ。フン。 クレドは『称号持ち』だし、実力で言えば、今年の春に出た『あの話』を受ける資格は充分にあった。 あの時に辞退していなければ、この場で、もっと条件を引き出す事は出来た筈だ」

クレドさんの黒い眼差しは変わらず、声も硬いままだった。

「リュディガー王子の見解は、買いかぶり過ぎでしょう。あれが私の実力です」
「ハッ。『称号持ち』が言うのか、それを」

謎の会話は――不意に途切れた。

ヴァイロス殿下は、それ以上、言う言葉を持っていなかったらしい。

*****

やがて、新しい人の気配が、回廊に入って来た。

そちらの方を振り返ると――グイードさんとチェルシーさんだった。ビックリ。

グイードさんはヴァイロス殿下に目礼をした後、リオーダン殿下と従者が入っている別室へと向かって行った。 折よく近場に居合わせていた書類仕事の専門家として、リオーダン殿下の作業の補助に呼び出されて来たらしい。

オフェリア姫が、目をキラーンと光らせた。

「ちょうど良い所にいらして下さったわ、チェルシーさん。このワンピースの切れ込み、縫い直せる物かしら?」

チェルシーさんは、わたしが此処に居る事にビックリしながらも、ワンピースの切れ込みをチェックしてくれた。 やがて、チェルシーさんは『フーッ』と困惑したような溜息をついた。

「たぶん、私の知り合いのお針子さんでも無理だと思いますわ、オフェリア姫」

――やっぱりね。その知り合いのお針子さんって、多分、メルちゃんの母親のポーラさんの事だ。

裾を縫い直すのは、ほぼ無理。何となく、そんな気はしていたよ。織り目に沿っていれば大丈夫だったかも知れないけど、 見事に、斜めにピーッと入った切れ込みだから。

オフェリア姫が、ふと思いついたように手持ちの水筒を開け始めた。

「喉は乾いてないかしら、ルーリー。お茶を飲めば、少しは気分が落ち着くかも知れないわ。チェルシーさんも如何?」

――あ。そう言えば。わたし、まだショック症状が残っているらしい。今も手がカタカタ言ってるし。

水筒には、上手い具合に5人分の携帯コップが仕込まれている。感心させられる仕掛けだ。ピクニックなんかに便利そう。 チェルシーさんが礼儀正しく、『有難く』と一礼していたので、使用コップの数は3つになっている。

へー。ピンクに近いカラーの可愛いお茶だ。メルちゃんのお気に入りになりそう。紅茶の一種らしい。色々あるものだなあ。

気を付けてコップを受け取ったけど、手がカタ付いていた物だから、お茶がユラリと揺れる。

一瞬。

お茶の中で、ドロリと濁った色合いのモヤが閃いた。

無意識のうちに全身の毛が逆立つ。

――これ、ヤバい?!

考える間もなく、わたしの手は動いていた。まさに電光石火。

パシンと言う音と共に、携帯コップが3つとも弾かれて跳ね上がった。

ピンクに近いカラーの紅茶がこぼれる――わたしのドレスにも、オフェリア姫のドレスにも、チェルシーさんのドレスにも。

「キャア?!」
「ルーリー?!」

――えッ。わたし、何してたんだっけ?!

手が出てるし……ふ、不敬罪とか?! ロイヤルな方々の前で?!

余りの事だったのか、ヴァイロス殿下とクレドさんは唖然として固まっていた。2人揃って口をアングリしてるなんて、ロイヤルな方々も見た事の無い光景だと思う。

ひえぇ。わたし、死刑とか、凶悪犯とか……!

「ず、ずびばぜん……!」

わたしの喉は相変わらず、しゃがれてしわがれた声しか出せない。まるで悪の魔女だ。泣きたい。

チェルシーさんが、オフェリア姫のドレスをサッと見るなり、一気に青ざめた。

「オフェリア姫、そのドレスの色……! 毒物ですわ?!」

見ると、オフェリア姫の薄青色のドレスは、変色していた。ピンク色の紅茶が掛かった部分から、不気味な青黒い色合いのシミが広がっている。

――えぇぇ! これ、ピンク色の紅茶で、こんな色、付かないよね?!

ヴァイロス殿下が動転した様子で、オフェリア姫の身体をつかんで向きを変えた。

「その茶を飲んだか?!」
「いえ……」

オフェリア姫は、まだ現実を飲み込めていないように目をパチパチさせていたけど、遂に頭が現実に追いついて来たらしい。 サーッと青ざめながらも、さすが、気丈な姫君と言うか、シッカリした声で受け答えした。

「ええ、口の中には入りませんでしたわ、ルーリーが弾いてくれたお蔭で」

――はぁッ?!

*****

ディーター先生とフィリス先生が、緊急で駆け付けて来た。

医学知識に造詣の深い、2人の先生のお蔭で――オフェリア姫の薄青色のドレスの色を変えた毒物の種類は、すぐに判明した。

――強烈なバーサーク毒。

よりによって、前日、あの衛兵を襲って喉笛を噛み切ったと思しき、謎の『狼男』が服用していた違法ドラッグ『爆速バーサーク化ドラッグ』と、 成分が完全に一致した。

信じがたい事に、その毒入りの水筒、ヴァイロス殿下の手元にも渡っていた。

その直後に、事故だの何だのが続いたせいで、ヴァイロス殿下が口を付けて無くて、本当に幸運だった。 ヴァイロス殿下自身が本当にバーサーク化していたら、文字通り、ウルフ王国の消滅の危機だったんじゃ無いかな。

そんな悪意の極みの代物を、誰がお茶に入れたのは、ともかくとして。

元々、オフェリア姫の薄青色のドレスには特殊染料が混ざっていて、毒物に反応するようになっていた。 第二王女から第一王女に繰り上がる立場だし、亡きアルセーニア姫の死因の一部となったのが毒物だったものだから、 最近、こういうやり方で警戒するようになっていたと言う。ちなみに、ウルフ王妃も同じ対策を取っているそうだ。

普段はティーセットでお茶を頂くから、毒物に反応する茶器や布巾で分かったり、揮発成分がドレスに当たって分かったりして、 たいていの毒は排除できていたそうなんだけど。

まさか、水筒にまで仕込まれるとは思わないよね。犯人、やっぱり『茜離宮』の内部に詳しい人物だ。

別の仕切りの中で、オフェリア姫とチェルシーさんと共に、わたしも、ピンク色の毒入り紅茶の掛かったドレスを着替える。 2人と違って、わたしは物品転送用の転移魔法陣で取り寄せるような着替えを持っていなかったら、病棟から取り寄せた、毎度の患者服な、生成り色のスモックだ。

――着替えを済ませ、当座の取調室となった室内スペースに落ち着いたところで――

フィリス先生が、まだショックの収まらぬ顔色をしながら、質問して来た。

「ルーリーは、あれが毒物だと、どうやって分かったの?」

――正確に言うと、『分かった』というのとは少し違うような気がする。

「あの、無意識だったから。お茶の中に、濁った色のモヤが一瞬だけ見えて、『変だ』と直感して……それだけで。 『普通の水じゃ無い』と感じたせいだと思うんですが……」

フィリス先生は、頭を振り振り、『ハーッ』と溜息をついた。

「ルーリーが《水霊相》生まれって事が関係してるんだろうけど、それにしてもねえ。 無意識のうちに『微量分析』やってのけるなんて。それも、『魔法の杖』無しで。あやふやな、初歩的な魔法感覚のみで」

脇で、多数の水筒を並べて毒物の分析作業をしていたディーター先生が、苦笑いしながら声をかけて来る。

「此処でも、無意識で行きどまりか。いずれにせよ、ルーリーが水の異変に極めて敏感な性質で、良かったと言うべきだな。 この鋭敏な色彩感覚、訓練すれば毒見役も行けるかも知れん。いや、もう毒見役をやってのけていたか」

ディーター先生とフィリス先生と、わたしの間で交わしていた『ささやかなやり取り』は、複数のウルフ耳によって、 シッカリと捉えられていた――ヴァイロス殿下やリオーダン殿下、それにオフェリア姫、グイードさんとチェルシーさんに。

そして、クレドさんも、いわく言いがたい眼差しで、わたしを注視している。

――また、あの『眼差し』だ。

驚きのようで驚きで無い、不信のようで不信で無い、いわく言いがたい眼差し。

最初は『驚き成分』が出ていたようには思われるけれど、最近は――何だろう、何かを納得しようとして納得しきれていないような、 そんな『奥歯にものが挟まったような眼差し』って言うんだろうか。気になる。

――何か言いたい事があるのなら、ハッキリ言ってくれれば、わたしに分かる限りの範囲で応答するのになあ。

そんなモヤモヤとした思いは、ディーター先生の言葉で打ち切られた。

「分析結果が出たぞ。此処に集めた今日の分の水筒、毒物が仕込まれていたのは、ヴァイロス殿下の周囲の人物に集中している。 メイン・ターゲットは、どうやらオフェリア姫だ。ヴァイロス殿下やリオーダン殿下がなかなか死なないから、狙いを切り替えて来たのかも知れん。 これらの水筒を中心に配達した上級侍女は、誰なのか?」

ヴァイロス殿下とリオーダン殿下とオフェリア姫が、顔を見合わせた。すこぶる顔色が悪い。

やがて、リオーダン殿下が、言葉を押し出すように口を開いた。頭痛を押さえているかのように、こめかみを揉んでいる。

「だいたい、シャンゼリンが担当した水筒に集中しているようだ。アルセーニア姫の直属の侍女の……そう言えば、 私の立ち合いに用意された長剣も、おかしいようだった。普通、あんな風に、刃先が折れるのは珍しい。しかも2本も」
「シャンゼリンであれば、剣技武闘会に使われる武器庫に立ち入るチャンスは、ある……」

ヴァイロス殿下は、暗くなった顔を更にしかめた。最も信頼する人物だっただけに、衝撃も大きいみたい。

――思い当たる人物と言えばシャンゼリン。よりによって、亡きアルセーニア姫の直属の上級侍女――

ヴァイロス殿下が腕組みをし、思案のポーズになった。

「複数の協力者が居ると考えられる状況で、拙速に身柄拘束して話を聞き出すのも、考え物かも知れんな。 いずれにせよ、急に行動を起こして来たんだ。しばらく泳がせておいて、尻尾を出すかどうか試してみるか」

リオーダン殿下が、「その方が良いかも知れない」と、ボソッと呟いた。

窓の外は、既に日が暮れていて――急速に暗さが広がっていた。

まるで、得体の知れぬ闇黒星《争乱星(ノワーズ)》の下、不吉な闇が息づき始めたかのように。

*****(3)物思う夜、すずろなる朝のひととき

――夜の色は、いっそう深くなった。暗さを増した天球に無数の星々が輝き始める。

わたしは、目下、要警護なチェルシーさんと一緒に、『茜離宮』付属・王立治療院の総合エントランスに戻っているところだ。

今夜に限っては特別措置で、第一王子ヴァイロス殿下の親衛隊メンバーであるクレドさんも付き添って来ている。

チェルシーさんを心配しているグイードさんが、生半可な人材では納得してくれなかったんだそうだ。 グイードさん、すごいゴリ押しだ。大魔王化したら、かつての剣技武闘会8位入賞の戦闘力を発揮しかねない人物。

フィリス先生は、『茜離宮』でディーター先生の仕事の助手を務めているところだ。一区切りの良い所で、一旦、 クレドさんとの交代を兼ねて、病棟に寄ってくれる事になっている。

*****

メルちゃんとは途中で分かれる事になってしまったから心配したんだけど、あの子守を兼ねた護衛さんの付き添いで、 お友達と一緒に、無事に城下町の家に帰ったんだそうだ。異常な出来事が続いただけに、ホッとした。

遅い夕食――総合エントランスのテーブルで、クレドさんも一緒に席についているから、落ち着かない。

クレドさん、ほとんど喋らないんだよね。社交的な性格じゃ無いみたいだ。滑らかな低い声をしていて、良い声なだけに勿体ないような気もするけど。

いつものように人々が戻って来た総合エントランスは、様々な種族の人々が行き交ってザワザワしているところだ。

近くのテーブルでは、入院している家族のお見舞いに来たと思しき、ウルフ族の親戚一同が、賑やかに夜のお茶を囲んでいる。 今日の閲兵式や剣技武闘会の話題が、わたしの『人類の耳』でも聞き取れた。

やがて、チェルシーさんが、わたしに話しかけて来た。

「ルーリー、この間の――メルちゃんのドレスのモデルの、『水のサフィール』のドレス、覚えてるかしら?」

――あ、それ覚えてます。色あせて灰色になってたし、裾がボロボロだったけど、乙女なデザインでしたね。

護衛なクレドさんは、向かい側の席に、静かに座っている。無口と無表情が続いているけれど、 ウルフ耳はシッカリこちらを向いていて、興味深く耳を傾けているらしい事が伝わって来る。

「毒見役で思い出したの。確か『水のサフィール』は、レオ皇帝の毒見役も務めているという話だわ。 レオ帝国は実力主義なんだけど、毒殺などの暗闘の方もハイレベルだとか。 レオ皇帝をはじめとする帝室メンバー臨席の、獣王国の諸国の国王夫妻が勢ぞろいする食事会などでは、 毒が盛られる事が珍しく無くて、毒見役や毒に詳しい魔法使いの同伴が、普通にあるそうなのよ」

――わお。さすがレオ帝国。表も裏もスゴイですね。

「私、あの中古ドレスを入手してから、ずっと疑問だったのよ。『水のサフィール』のドレスが、何故あんな無残な状態なのか。 ドレスの裾のボロボロの原因は、すぐ分かったわ。バラ園か何処かなんだろうけど、棘のある植込みの生け垣を走ったせい。 あのヒラヒラの薄い布地じゃ、まず持たなかったわね」

――成る程。《水の盾》を務める人だから、前日のボウガン襲撃事件や今日の事故みたいな、普通の魔法では対応できないケースで、 緊急出動する事が多かったのかも知れませんね。

「それに、あの大きく広がった灰色のシミが、今まで謎だったんだけど――ルーリーのお蔭で、 やっと原因が分かって来たような気がするの。多分、あのシミは、毒で出来た物よ。 お気に入りのドレスだったんでしょうね、何回も洗濯した痕跡があったわ。 毒に反応する特殊染料も、毒の成分も、あらかた落ちていたに違いない。普通のチェックでは分からないくらいに」

チェルシーさんは、シミジミとした顔になっていた。やっと納得が行った、と言う事もあるに違いない。 憂い深く溜息をつきながらも、穏やかな笑みを口元に浮かべている。

それにしても『水のサフィール』、相当にハードな環境に身を置いていたらしい。

地妻クラウディアの話だと、レオ族以外の、他種族出身のハーレム妻は、制限付きながら、相応に自由が利く立場のように思えるんだけど。

――レオ皇帝を守護する第一位の《水の盾》、水のサフィール・レヴィア・イージス。

レオ皇帝を守護する《水の盾》ともなると――それも、年齢の問題で、 『レオ皇帝のハーレム妻でありながら、その孫レオ王子の仮のハーレム妻』なんて面倒なポジションに身を置くともなると――通常のレオ族のハーレム妻と同じ環境、 という訳には行かないのかも知れない。

――そりゃ、時には体調不良で長期休養もする筈だよ。うん。

やがて――

フィリス先生が、ディーター先生お手製の『警護のための魔法陣セット』を抱えて、戻って来た。クレドさんと交代する形だ。

クレドさん、ヴァイロス殿下やリオーダン殿下の周囲がますます不穏になって来て、ただでさえ忙しい時に、 わざわざ有難うございます。元がグイードさんのゴリ押しだったとしても。

クレドさんは、フィリス先生とチェルシーさんに、順番に丁重な一礼をした。

その後、クレドさんは、わたしの頭についている『ウルフ耳付きヘッドリボン(黒)』を眺めて、『仮のウルフ耳』を撫でて行った。

――ほえ?

思わず、ポカーンとしてしまったよ。何故、耳を撫でて行ったんだろうか。

クレドさんを見送った後も、わたしが訳が分からないままに首をひねっていると――

フィリス先生とチェルシーさんが、大真面目で、『知らなかったのッ?』とビックリして来た。

あの動作が、『若い未婚女性に対して表する敬意のサイン』なんだって。 今までは『仮のウルフ耳』すら付けていない『耳無し坊主』だったから、今までの人たちも、まともに出来てなかったんだそうだ。

記憶喪失だから、分からなかったよ。 通常のウルフ族にしてみれば、此処まで常識に関する記憶が吹っ飛んでいる方が、信じられないんだろうけど。

程なくして、チェルシーさんが目をキラーンと光らせた。

「あッ、そうだ。今のうちにヒルダさんと連絡しておきたい事があったの。 明日の作業に関する事でね。ちょっと、受付の通信室で話して来るわね」

*****

翌日は、不思議なくらいに静かな雰囲気の日で始まった。

閲兵式および剣技武闘会の翌日、すなわち公休日だからかも知れない。もっとも、昨日の事故やら毒殺未遂やらの関係は、大詰めの状態ではあるのだろう。

実際、フィリス先生は、夜が明ける前に、既にディーター先生の所へ助手として出張っている。 病棟の周辺は、休日返上の衛兵たちを増員してある――それも『下級魔法使い資格』持ち、灰色スカーフをまとう隊士たちを選んである。

わたしは、昨夜はグッタリしては居たけれど――妙にモヤモヤしていたせいか、通常の起床の刻よりずっと早く、払暁の刻に一度、目が覚めていた。

夜の風が強かったらしく、窓を開けると、ギョッとする程ヒンヤリした空気が入って来た。思わず掛布団をかぶる。こんな日は、上着、切実に欲しい。

――モヤモヤの原因は分かっている。

色々と良く分からない、クレドさんのせいだ。

わたしが気になる程度には、クレドさんも、わたしの事が気になっているんだろうとは思う。あの、いわく言いがたい『眼差し』を向けて来る事を考えると。 ただ、その『眼差し』が、得体の知れぬ容疑者へ向けて来る物なのか、それとも、もっと別の意味があるのか――と言うのは、今でも分からない。

――滅多にしゃべらないくせに、朗々とした滑らかな、印象的な低い声。

背が高く、髪は――黒い。漆黒の髪にはほとんどクセが無く、真っ直ぐに流れていて、うなじで一つに結わえている。 戦士として鍛え上げているせいだろう、隙の無い立ち居振る舞い。そこに、彫像みたいな端正さが加わっている。

ウルフ族は、だいたい切れ長の目をしている。それがザッカーさんみたいなワイルドな印象になるというケースも多い。 クレドさんの場合は、あの硬質というか静謐というか、冷たさも感じられる面差しのせいで、その辺が、彫像みたいな端正な印象につながっているんだろう。

――わたしは、いわば『例外のウルフ顔』な混血。恐らく、イヌ族の父とウルフ族の母の間に生まれて――母方の種族系統を引き継いだ結果の、 ウルフ族。種族系統の分かりにくい童顔と言うのが泣けて来るけど、かろうじて平凡顔なのが、救いかも知れない。

オフェリア姫とクレドさんとか、

シャンゼリン嬢とクレドさんとか、

ひいてはヴァイロス殿下とクレドさんとか……

ムムム。これって、コンプレックスなんだろうか。訳もなくモヤモヤするし、チクチクしてソワソワするし、そうするつもりは無いけど、 枕を壁に向かって、バシバシ叩きたくなって来る。

或いは、フィリス先生がディーター先生にやっていたみたいに、 ハリセンでクレドさんの脳天を思いっきり殴ってみれば、スッキリするのかも知れない。この妙なモヤモヤは。

砂時計の砂のようにサッと溶けていく、ラベンダー色の謎のエーテル天体《暁星(エオス)》に向かって、 小声で『クレドさんのバカ』と呟いてみた。何となく。

――本物の方の『ウルフ耳』だったら……クレドさんの手って、どんな感じなんだろう?

何故か、そういう事を思いながら、わたしはいつの間にか、二度寝していたのだった。

*****(4)半可通たちの急展開(前)

午前半ばの頃、中央病棟の総合エントランスに、ヒルダさんがやって来た。風呂敷の荷物を抱えて。

相変わらず、ハシバミ色でまとめた中級侍女ユニフォームがキリリと決まっている。 ストレートのセミロング黒髪を颯爽となびかせているのが、如何にもカッコいい。

「まぁ、ご苦労様、ヒルダさん。助かったわ」

病棟にお泊りだった要警護なチェルシーさんが、にこやかにヒルダさんを出迎えていた。 品の良い柔らかな金髪をシニヨンにまとめた、古典的なシニア世代の淑女といった感じ。 年をとっても綺麗な人だから、総合エントランスの方でも、同年代の男性の視線をチラホラ集めている。

――そして、わたしも加わって、魔法文書の作業が始まった。

ヒルダさんが持って来たのは、チェルシーさんが経営しているアンティーク宝飾品店に集まって来ていた、地下マーケットや闇オークション関連のデータ。 チェルシーさんが、ヒルダさんに降りかかって来たアンティーク宝飾品の盗難疑惑を晴らすためにと、方々の同業者のツテを通じてかき集めて来た資料だ。

此処だけの話だけど、アンティーク宝飾品店の経営者なチェルシーさんの、同業者たちの情報網って、ビックリするくらい広くて深かった。 専門業者の情報網って、王宮の衛兵部署でさえ手が回らないような隅々の部分にまで、シッカリ届いていたりするんだよね。

わたしは、既存の魔法文書を魔法的にオープンしたりクローズしたりする事は出来ないので、 チェルシーさんやヒルダさんの読み上げた内容を、順番に、魔法文書フレームのリスト形式でメモする――ただし、『正字』でメモして行く――担当だ。 『正字』でリストアップしておくと、後で魔法でデータベース化する時に、あっと言う間に整理できると言う。

早速、驚きの事実が判明した。

不幸にして異常な死に方をしていたタイスト研究員が指摘していた、盗難疑いのあるアンティーク宝飾品、 『豊穣の砂時計』と『茜姫のサークレット』、『白き連嶺のアーチ装飾』。

あのボワッとした不思議な髪型の黒髪の、今は亡きタイストさんの情報は、正確だったんだよ。ホントに闇に流れていた。

1番目の『豊穣の砂時計』は、盗品マーケットを通じて、大富豪のアンティーク愛好家が入手している可能性が出て来た。 後日、現物を確認して、それが本物なら買い取り交渉をする――という見込みが立った。

2番目の『茜姫のサークレット』は、闇に沈んだまま、浮上して来ていない。 闇ギルドの何処かの有力者が――それもウルフ族のヤクザ女が――手に入れて、私物化している可能性がある。

単なる宝飾品なんだけど、素人目にもパッと分かるような、由緒ある品物だと言う。 貴種ウルフ族の血を引く淑女を装うには、とってもお役立ちな代物(アイテム)なんだそうだ。

これについては、わたしは微妙な気持ちになった。わたしも、或いは記憶に無い母も、もしかしたら、闇ギルド出身のウルフ族の女性だったのかも知れないのだ。

3番目の『白き連嶺のアーチ装飾』の行方が、最も悲惨と言えるかも知れない。元々が建築に使われるアーチ柱の装飾だから、運搬にも苦労するくらい大きな物。 どうも、価値を持つ宝玉部分だけ剥がされて、バラバラの手に乗るサイズの破片の集まりと化し、方々に売り飛ばされて行ったらしい。

チェルシーさんの見立てだと、既に半分くらい、さばけてしまったんじゃないかと言う状況だ。

ヒルダさんが「犯人の野郎、バラバラに引きちぎって、粉みじんにしてやる」と呟いたのは、聞かなかった事にする。

他にもチェルシーさんの見覚えのあるアンティーク宝飾品が――それも相当数が――、転売に流転を繰り返していて、 方々の闇マーケットに流れていたと言う痕跡が見つかった。『白き連嶺のアーチ装飾』の破片と共に。

*****

闇オークションのパンフレットを確認した瞬間、チェルシーさんの目が、キラーンと光った。

「早いタイミングで調査スタートしていて幸運だったわ。まだ出品者のデータが生きてるのよ。 この『仮名:逆恨みのプリンスたち』という出品者、まだ犯人とつながっている筈。早々に取引ルートを割らないとね」
「仮名にしても『逆恨みのプリンスたち』なんて、本当に奇妙な名乗りじゃないの、チェルシーさん。 この復讐の王子様を気取っている出品者、いったい何者なのかしら」

――ホントだね。妙な名乗りだと思うよ。普通、名乗りは複数形じゃ無くて単数形だと思うし。

「あの、何か、いわくあるんですか? この『逆恨みのプリンスたち』って」

チェルシーさんとヒルダさんは、顔を見合わせて、何とも言えない複雑な表情になった。

――本当に何か、いわく、あったんですか?

ヒルダさんが、複雑な顔をしながらも解説してくれた。

「古代の戦国乱世の逸話のひとつに、『逆恨みのプリンスたち』があるのよね。ウルフ族とイヌ族の混血は昔から多かったんだけど、 戦国乱世の頃は、その事実の炎上が激化していてね。 各地の飛び地の、ウルフ王の跡継ぎと目されていたウルフ王子が、実はイヌ族だった、なんて話は、ボロボロあるの。逆もしかりだけど」

――ふむふむ。

古代の頃から混血は、色々な意味で、ハイリスクな存在だったみたいですね。

今でも、イヌ族な『火のチャンス』さんはウルフ族によく似ていて、巻き尾が無かったら、全く分からないというケース。 ウルフ族なわたしにしても、《宿命図》判読の前は、完全にイヌ族と思われていた。

「察しが良いわね、そういう事。《宿命図》判読できる魔法使いを抱えられるほどの余裕の無かった飛び地では、 ルーリーのように、混血と言う出自と紛らわしい外見とで、イヌ族と決めつけられて、 本当はウルフ族なのに、ウルフ王の後継者リストから不当に外されてしまったウルフ王子も居たのよ」

ヒルダさんの解説は続いた。

――後になって、その混血ウルフ王子の名誉回復が為された。その混血ウルフ王子は、元々最高の実力があって、 その飛び地領土における新ウルフ王となり、その領土は強国となった。

しかし、他の後継者王子たち――純血ウルフ王子たち――が、自分が王になれなかったのは、そいつのせいだと逆恨みしたのだ。 後継者王子たちは、新ウルフ王を王位から引きずり下ろし、再びイヌ族の侵入者として扱い、斬首した――

「それが『逆恨みのプリンスたち』という訳」

この件は、今なお評価が定まっていないと言う。

後を継いだ純血ウルフ王も実力者で、その領土は勢いに乗じて発展を続けたという事が分かっている。 当時の政治状況において、後顧の憂いを断つ事も含めて混血ウルフ王を斬首したのは、正しい判断だった――と言う解釈が、学界の主流なんだそうだ。

そう言って、ヒルダさんは解説を締めくくった。

さすが古代の戦国乱世だ。ハードな時代だったんだなあ。今は、ブラックではあるけど、色々な政治的決着のスタイルがあって、 和平を維持するための政治的技術も進んでいる。

レオ帝国の押しの強さは、さすがにアレな所はあるけれど。

帝国体制を通じて、強制的に戦国乱世を終了させたと言う点では、レオ帝国を高く評価する事はできると思う。 『共通の敵』なレオ帝国の存在のお蔭で、バラバラな飛び地領土を連結しただけのウルフ王国も、『統一王国』風な体制となっているしね。

*****

チェルシーさんとヒルダさんは、再び闇オークションのパンフレットのチェックに取り掛かった。

「ヒルダさん、この『金融魔法陣と転移魔法陣のセット』に、見覚えがあって? 出品者『逆恨みのプリンスたち』に送金して物品を転送してもらう時に、 この魔法陣セットを使うんだけど、有効な配線を連結して行くと、どうも見覚えのある紋章になるような気がするのよ」
「んー、すごい隠蔽ありますねえ。暗号化も罠もあるみたいですし。一瞬、こっちの配線の方が本物かと思っちゃいましたよ、チェルシーさん」

――『金融魔法陣と転移魔法陣のセット』なんですか? わたしにも分かるかな?

チェルシーさんが『魔法の杖』で魔法文書パンフレットをオープンし、問題の魔法陣データを普通のペーパーにコピーしてくれた。

わお。この『金融魔法陣と転移魔法陣のセット』、迷路みたい。高難度パズルですね。此処までダミー配線をセットしてのけるなんて、すごい執念。

しかも――これ、秘密通信用の魔法陣を、コッソリとくっ付けてある。多重魔法陣になってるんだ。これもスゴイ。

罠として仕掛けられた配線に下手にエーテルを流すと、謎の出品者『逆恨みのプリンスたち』に秘密通信が飛ぶようになっている。 調査の手が伸びた事がバレて警戒される上に、速攻、証拠隠滅されて逃げられちゃうんじゃ無いかな。

――チェルシーさん、ヒルダさん、そーっと調査用のエーテルを流すのは、ちょっと待って下さいね。 わたし、解析してみます。いっさい魔法を使わないから、犯人にバレない形で取引ルートを割れるかも。

早速ペンを手に取り、普通のブランクのペーパーに、あからさまなダミー配線を除いた状態の魔法陣を転写した。 『魔法の杖』を使えないので、目測とフリーハンドで。魔法陣の軌道計算は、手書き筆算だ。

時々、余白に筆算で弾き出した結果をメモしつつ、指を折って、ダミー配線や暗号化が幾つ重なっていたかを検算してゆく。 検算した後、暗号化を解除してダミー配線を差し引いた状態の魔法陣を、新しいブランクのペーパーに転写する。この繰り返しだ。

……記憶喪失だから、何故そう感じるかは説明できないけど。

執念深くダミー配線をぎゅうぎゅうに詰め込んだ割には、ちゃんとした形になっているダミー魔法陣の数は少ない。 暗号化された成分を解読するのは大変だけど、低次元での軌道構築にとどまる初歩的な罠しか仕掛けられていない。だから、わたしでも手書き筆算で何とか解析できる感じ。

――この魔法陣を作成したのは、下級魔法使いレベルか、頑張っても初歩の中級魔法使いレベルの人物だ。 フィリス先生だったら、もっと難しくて分かりにくい高次元軌道のダミー魔法陣の罠を構築できたと思う。

わたしの『正字』スキルは、この複雑怪奇な『金融魔法陣と転移魔法陣のセット』の解析に、意外に役立ってくれた。 エーテルの反射、屈折、散乱パターンは、それなりに分かるし、 罠として仕掛けられたのであろう有り得ない軌道の方も無視して、さっさか整理できるって感じ。

――フーッ。解析、終わりましたよ、チェルシーさん、ヒルダさん。

あれ? どうしました?

チェルシーさんとヒルダさん、2人ともビックリしているみたい。切れ長タイプの目を真ん丸くしている。

――ぐぅ。

あれ? あれれ? お腹が減ったような気が。

死ぬほど空腹って言うか……目が回ってるような気が!

「シッカリして、ルーリー。急速補給タイプの『濃縮野菜&果物ジュース』を頼んでおいたのよ、急いで飲んで」

チェルシーさんが素早く、小型のスープカップを渡してくれた。一気飲み用のコップでもある。一気飲み!

ひえぇ。一瞬『ブホォッ』と吹きそうになったよ。

あの金髪イヌ族の、今は赤サークレットを取り外された男の、チャンスさんじゃ無いけど。 たくさんの味が濃密に入ってて、別の意味で目が回る。

目が回ったけど――あ、何だか、だんだん人心地ついて来たような気がします。

改めて息をついて、背もたれに寄りかかっていると――チェルシーさんが、上品に首を振り振りしつつ、呆れたような溜息をついた。

「今、昼食時間を大いに過ぎた刻なのよ。あなた、集中力ありすぎるわ。放っといたら本当に寝食を忘れるレベルね」
「末恐ろしいわ、ホントに。良く気が付いて面倒見の良い旦那さんが見つかると良いわね」

ヒルダさんも笑みが引きつっている。ホントにビックリさせてたみたい。済みませんでした。

厨房や配膳の人へも事前に連絡が行っていたみたいで、昼食オーダーストップの刻を既に過ぎてたけど、すぐに昼食が出て来た。お世話になります。 胃腸の調子が戻って来ていると診断されていたお蔭で、この日のメニューは、スープにサンドイッチが付いて来ている。

さて、肝心の『金融魔法陣と転移魔法陣のセット』。意外な取引ルートが割れた。

或る意味『信じられない、信じたくない』ルートが。

何と――当の被害者である筈の、『茜離宮』アンティーク部署、直通だったんだよ。 ヒルダさんの勤め先でもあったから、ヒルダさん、一瞬で分かった。そんな事、有り得るんだろうか。

ヒルダさんは顔をしかめつつ、ブツブツと呟いた。

「このポジション、アンティーク宝物庫のひとつだわ――とは言っても、屋外にある予備の倉庫だけど。 タイストさんが死んだ、あのボウガン襲撃現場の直下に並んでいる倉庫群のうちのひとつ。 このナンバーの倉庫の中は、今は空の筈よ。この倉庫の中で、いったい誰が、何をしてるって言うのかしら」

チェルシーさんも、気になって仕方がないという様子だ。柔らかな金色をしたウルフ耳もウルフ尾も、ピコピコ動いている。

「私が、あの哀れな衛兵の生前の姿を見かけたのも、このナンバーの倉庫の近くだったわ。 ボウガン襲撃事件と、あの『狼男』襲撃事件、間違いなく、裏で、つながっているって事よね」

チェルシーさんもヒルダさんも、知り尽くしている場所だ。金狼種と黒狼種の2人のウルフ族女性は、互いの顔を見合わせて、明らかに同じ事を考えていた。

「行って、見てみましょう!」

*****

さすがに、警護を担当している衛兵たちには、この予定外の外出については、猛反対される筈だ。 それに、そんな話をしたが最後、即座に、チェルシーさんの御夫君グイードさんに、連絡が行く事になっている。

ヒルダさんの言うところによると、大魔王なグイードさんの指示、並み居る衛兵たちをビビらせつつ、『いざ出陣!』並に気を引き締めさせるレベルだそうだ。 さすが大魔王にして鬼神グイードさん。

と言う訳で。

わたしたち3人は、『一瞬だけ、倉庫の中に入って、見て戻るだけだから、大丈夫だろう』と言う事で、警護係の衛兵の目を盗んで外出する事にした。

――衛兵さん、ゴメンナサイ。チェルシーさんが、グイードさんが余り怒らないように説得してくれるそうだから、今は見逃してね!

わたしは動きやすいように、普通のチュニックとズボンのセットを身に着けている。前日、ワンピースと一緒に購入していた品だ。 パッと見には、ジリアンさんのような格好だから、中庭広場のミニ店舗の新人アルバイトにも見える筈。

かくして、わたしは『仮のウルフ耳』もキリリと整えて、『ウルフ耳付きヘッドリボン(黒)』をシッカリと締め直したのだった。

*****(5)半可通たちの急展開(後)

――『茜離宮』、大食堂の脇の回廊の直下、屋外の予備の倉庫群。

病棟を取り巻く官衙の最寄りの転移基地から、『茜離宮』出入り業者用の転移基地へと、一ッ飛びだ。 《風霊相》生まれのヒルダさんのお蔭で、スムーズに転移できた。

宮殿の中に入るコースでは無いので、ほぼ素通りでもある。衛兵の配置状態も、比較的ルーズ。

食材やリネン類を大量に乗せた大型台車の合間を縫って、目的地へと急ぐ。

あ、もちろん、手ぶらだと目立ちやすいので、適当に空き台車を選んで来て、適当な空コンテナを乗せて移動しているところだよ。

やがて、倉庫群に入って行った。倉庫で出来た、ちょっとした格子状の町って感じ。

外側から見る限りでは、何の変哲もない倉庫群だ。中庭広場のミニ店舗と同じような感じで倉庫が並んでいて、 屋上部分には、チラチラと、グリーンカーテンとなっている緑のツル植物が見える。

――ん? さっき、脇にある倉庫の陰で、灰褐色の子犬のような影がサッと動いたけど……気のせいだよね?

「この先が、あのナンバーの倉庫に通じる裏道よ」

チェルシーさんとヒルダさんに注意を促されて、周囲を慎重に窺う。

振り仰ぐと――目の前にあるのは、『茜離宮』別棟だ。

その建物の1階分と2階分は、ずーっと、何も無い壁になっている。3階に相当する高さに、あの大食堂の脇の回廊が横たわっているのが見えた。

わお。3階を中心として、そこらじゅうの壁が穴だらけだ。回廊の列柱もハチの巣みたいになっている。 だいぶ修理が進んでるみたいだけど――あれ、前日のボウガン襲撃事件の痕跡だよね。怖い。

記憶によれば、あの回廊の端が大食堂になっている筈だ。大食堂から伸びる渡り廊下や空中回廊が、『茜離宮』と直結している。

そして――その建物の向こう側に、チラリと、あの3本の尖塔の――玉ねぎ屋根と思しき、白い部分が突き出しているのが見える。

ヒルダさんを先頭に、チェルシーさんとわたしは、コンテナを乗せた台車を転がしつつ、問題の倉庫に接近した。

「誰も居ないみたいよ。このまま行くわ」

ヒルダさんが、『魔法の杖』で倉庫の扉をゆっくりと開いた。

――あれ? さっき、錠前のロック部分が、ピカッと光ったような気がするけれど……

わたしは何やら毛が逆立って、本物の荷物係さながらに、コンテナを乗せた台車を倉庫の中に押し込んだ。 チェルシーさんとヒルダさんが、『外に置いといても良いのに』と言ってくれたけど、何だか不吉な直感がするんだよね。

倉庫の中は、意外に天井が高くて、広々とした感じだ。大きな噴水が1セット置ける――と言えそうな広さがある。 その空間の中に、搬送用の布をかぶった、『大きな何か』があった。

「おかしいわ。この倉庫、今は何も無い筈なのよ」

ヒルダさんが搬送用の布をめくった。次の瞬間、チェルシーさんが息を呑んだ。

「そ、それ! 『白き連嶺のアーチ装飾』の半分……!」

ヒルダさんが「ゲッ」と呻く。

その不完全なアーチの形をした大きな建材は、薄暗い倉庫の中で、なお燦然たる煌めきを放っていた。

素材については詳しくないけれど、明らかに様々な種類の宝玉と思しき豪華な輝きが、芸術的に配列されている事は分かる。 『白き連嶺』をイメージした装飾のためだろう、宝玉の色彩を白系統でまとめてある。

これだけの白い宝玉や透明な宝玉を集めて来るのは、大変だったんじゃ無いだろうか。とんでもない品だ。

ヒルダさんが更に布をめくった拍子に、ペーパーがハラリと落ちた。

――闇オークションのパンフレット。あの、『金融魔法陣と転移魔法陣のセット』が付く――

倉庫の扉の方で、何かが動いた。

ギョッとして振り向く。

明らかにウルフ族男性と見える影が、『ヌーッ』と立ちはだかっていた。何か、大きな武器を右手につかんで、下げているようだ。 攻撃的角度に傾いたウルフ耳。長い脚の間に見える、剣呑なまでに毛を逆立てたウルフ尾。

――見覚えのあるような、小麦色。

「見なかった事にするような、君たちじゃ無いだろうな」

その声は、不吉にかすれていた。

ヒルダさんとチェルシーさんが同時に叫んだ。

「マーロウ室長!」

小麦色の毛髪をした、シニア世代の、洒落たウルフ族の高位文官は――

――腫れぼったい目をしていた。その目は、血の色を帯びてランランと光っている。 ギュッとしかめられた眉目の間には不吉なまでに凶悪な盛り上がりが造られていて、筋の通った鼻が、異形さながらに長く見える。

ウルフ族特有の牙が丸々見える程に――耳まで裂けるかと思う程に、口を引き剥いている。 その口元からこぼれる牙は、異様に長い。ひと噛みで、喉の奥の骨まで到達する程に。

その、ゾッとするような凶相。まるで――そう、まるで――『狼男』みたいだ。

「まったく愚かでお節介な、口先ばかりのメス狼どもが」

その罵倒が終わるか終わらないかの内に、背の高い男の力強い腕が、それに相応しい大きな武器を軽々と構えた。巨大な弓矢みたいな武器を。

――カチッ。

ヤバい……!

わたしは本能的に台車を突き出した。空きコンテナを乗せた台車は、驚くほど軽々と動いた。

――ビシッ。

恐らくはチェルシーさんかヒルダさんを狙ったのであろうボウガンの矢が、空きコンテナにグッサリと突き立つ。 この空きコンテナ、どうも貴重品の運搬用だったらしい。魔法加工が入っていたのか、凄まじく頑丈な素材だ。

――ガラン、ガシャン。

空きコンテナが、ボウガン矢の衝撃を受けて揺れ動き、そのはずみで、固定用の留め具が外れた。コンテナは台車から落ちて、倉庫の床に横倒しになった。

すごい衝撃だ。普通のボウガンで、此処まで衝撃が来るの?

コンテナがもっと軽くて、台車にシッカリ固定されていないタイプだったら、結構な距離をスッ飛んで行っていたと思う。ひえぇ。

ヒルダさんが『魔法の杖』を握り締め、青ざめながらも、叫ぶ。

「室長、気が狂ったの? 何で殺そうとするのッ?!」
「マーロウ室長、落ち着いて話を……!」

チェルシーさんの呼びかけに、マーロウさんは一瞬、眉目を動かしたようだったけど、その目は既に正気の物では無くなっていた。狂気が理性を支配したみたいだ。

「うおおぉぉ!」

まさに『狼男』さながらに、凶相マーロウさんがダッシュして飛び掛かって来る!

チェルシーさんとヒルダさんが、同時に『魔法の杖』を振るう。

発動したのは《火炎弾》と《圧縮空気弾》だ。

その一方的な火と風の衝撃は、その化学反応の倍増も相まって、見事な爆音と共にマーロウさんを弾いた。ちょっとした爆弾だもんね。 マーロウさんは打ち所が悪かったのか、ちょっと目を回しているみたい。

「ルーリー、《緊急アラート通報》を……、あ、魔法が使えなかったんだっけ!」

――そうだよッ!

ヒルダさん、口をアングリしながらも、返す『魔法の杖』で、倉庫の反対側へと《圧縮空気弾》を放った。

倉庫の反対側にあった細い出入り扉が、『ガコォン』と音を立てながら吹っ飛んだ。

「逃げるのよ!」

わたしたちが一斉に駆け出すと、早くも態勢を立て直したマーロウさんが『ウオォ!』と咆える。

大きな『白き連嶺のアーチ装飾』による障害物――わたしたちは必死に足を動かして、グルリと回る。

後を追って来るマーロウさんは、その人の背丈を超える障害物を、驚異的なまでの身体能力でもって、ジャンプして軽々と飛び越えた。うそだぁ。

わたしたちが細い出入り扉をすり抜けた瞬間、マーロウさんが出入り扉に到達した。男の足の歩幅、とんでもなく広い。

マーロウさんは、細い出入り扉を抜けようとして――通り抜けられなかった。

大柄で立派な体格だから、その幅に引っ掛かったんだ。ウルフ族の男女の体格差のお蔭だ。 だけど、すぐに、凄まじい筋力で、出入り扉の周りをメリメリ、バリバリ、と破り出した。えええ!

「マーロウ室長、確か、貴種だった……!」

チェルシーさんが息を呑んで、棒立ちになっている。

記憶喪失なわたしには、ウルフ族の詳しい事情は分からないけれど。

貴種――『大狼王』の血筋――というのは、それだけの意味があるのだろう。 傑出した筋骨や身体能力に恵まれているとか、天然のアスリート体質とか――

「何で! 《緊急アラート通報》が出来ない! 妨害されてるの……?!」

ヒルダさんが真っ青になった。チェルシーさんが《緊急アラート通報》を試した――発動してないみたい。

うろたえている内に、マーロウさんが再び、わたしたちの前に全身を現した。

ヒルダさんとチェルシーさんが、同時に『ヒッ』と、悲鳴ならざる悲鳴を上げた。

――『人体』じゃ無い。毛髪の色は相変わらず小麦色だけど。

強化バージョンになったらしい、やたらと筋骨が盛り上がった体格。身体サイズが一回り大きくなっていて、まさに巨人だ。 はちきれそうになっている高位文官ユニフォームの袖口から見える手は毛深く、長いウルフ爪が伸びている。

頭部は――まさに『狼』。狼の頭が乗っている。まさに『狼男』というべき異様な姿。

――身体全身で理解できてしまう。バーサーク化してるんだ、と言う事を。

その時、近くの倉庫の屋上から――見知らぬ少年の声が響いて来た。声変わりの年頃なのか、少し声質が割れている。

「何やってんだよ! 走れよ!」

同時に、何やらお化けみたいな派手な球体が、『狼男』のおでこにヒットした。

ドゴ、ボォーン!

蛍光黄色と蛍光紫のシマシマが、『スイカ割り』のスイカさながらに砕けるや否や、極彩色の七色が泡立ち、爆弾さながらに噴出した。 極彩色の七色が四方八方に飛び散り、周りの倉庫の生成り色の壁を、極彩色の七色の迷彩に変える。 そこで、極彩色の七色はブクブクと泡立った。謎のバブル爆弾だ。

「ガオォォン!」

マーロウさんは――『狼男』は――余りにも想定外の攻撃を受けたせいなのか、それともその極彩色の七色が目や鼻や口に入ったのか、 目と鼻と口を押さえてグルグル回り出した。その毛深い手の間から、大量の泡がブクブクと吹き出している。

――まさかの『炭酸スイカ』。

チェルシーさんとヒルダさんが、顔や手に付いた極彩色の七色をぬぐいつつ、通路を走り出す。わたしもピッタリ後を付いて走る。

わたしたちは『狼男』の追跡を振り切るため、自分でも説明できないような滅茶苦茶なジグザグ・コースを走った。 『狼男』が通り抜けにくい幅になっている狭い通路が、そんな風になっているんだよね。

倉庫の屋根の上で、謎の少年が大活躍しているらしい。少年って事は、訓練隊士だろうか。 倉庫の屋上から『炭酸スイカ』が次々に飛び出し、群れを成して、『狼男』の顔面や足元を襲っている。

謎の少年は、唖然とする程の身軽さで倉庫の屋根から屋根へとジャンプを繰り返し、『狼男』に先回りしつつ、『炭酸スイカ』で足止めをしてくれている。 上から見ると、わたしたちと『狼男』の逃走追跡劇の全容は、一目瞭然なんだろう。

次の狭い通路の入り口で、20個や30個はあると思しき『炭酸スイカ』の大群が一斉に投げ落とされ、 『狼男』の周りで粉々に弾けた。極彩色のバブル爆弾に取り巻かれた『狼男』は、グズグズの七色の泡に埋まって、もがき始めた。

あの球体、凄まじい爆発力だ。全方向ジェット噴射だ。極彩色の七色の迷彩と泡が、倉庫の屋根にも届かんばかりに飛び散る。 周囲の倉庫の生成り色の壁は、まさに、極彩色の七色のペインティングをされている真っ最中だ。

――『炭酸スイカ』、シェイクすると爆発するって言ってたけど、あんなに爆発する物なの?

チラッと集中力がそれたのが悪かった。

わたしは石畳のわずかなズレに引っ掛かり、足がもつれた。

ドジなわたしの追突を受けたチェルシーさんが脚を崩して、バタッと地面に倒れ込んでしまった。

――よりによって、大型倉庫に面する幅広の通路の真ん中で。えええッ!

「チェルシーさん!」

次の細い通路に入りかけていたヒルダさんが急停止して戻って来た。チェルシーさんを起こそうとしたけど、シニア世代なチェルシーさんは、 転んだ拍子に脚の何処かをひどく痛めたのか、なかなか立ち上がれない。

ヒルダさんとわたしとで、チェルシーさんを両脇から持ち上げた所で――

――バブル爆弾の煙幕を突き抜けて来た『狼男』が、目の前にまで迫って来た!

「グオォ!」

グワァッと開かれた『狼男』の、牙だらけの口の中に死を見た、その一瞬――

目の前を紺色の風がよぎり――

何かが砕けるような、『ガツッ』という異様な衝撃音が走った。

――『狼男マーロウ』は、直角の方向に吹っ飛んでいた。有り得ない方向だ。

ドガシャーン!

その時には、既に。

巨人さながらの『狼男』の盛り上がった体格は、向こう側の大型倉庫の、生成り色のレンガ壁にめり込んでいた。何で?!

「あわ、グイードさん……」

ヒルダさんが口を引きつらせて、へたり込んだ。わたしも唖然として、目の前の、濃厚な殺気をまとう紺色の、大きな背中を眺めるのみだ。

高位文官ユニフォームをまとった、大魔王なグイードさんが、そこに居る。

――まさか、さっき、『狼男』を素手で殴り飛ばしてました?!

向こう側の倉庫まで大通りの幅ほどの距離があるし!

マーロウさんの周りの壁には、蜘蛛の巣のような放射状のヒビが走ってるし!

あの倉庫の壁、シッカリ変形して、へこんで、崩れ始めてるんですけど?!

続く大勢の足音――紺色マントをまとう、ウルフ族の衛兵たちが現れた。

どうやってかは分からないけど、気付いて、来てくれたんだ。衛兵たちは、瞬く間に『狼男』とわたしたちの間に入って、包囲の陣を作る。

別の通路からも衛兵たちが湧いて来た。『狼男』の逃げ道を塞ぐ形だ。

グイードさんの拳骨を受けて壁にめり込んでいた筈の『狼男』は、驚くほど機敏な動作で、壁から身体を抜いていた。 その拍子に生成り色のレンガ壁が更に崩れて、骨折しそうな大きな破片も次々に身体に当たっていたけど、 『狼男』は、全く平然としている――らしい。

あれ程の衝撃を受けて、失神はおろか、骨折すらも無いのか。皮膚も特別製なのか。見当たるのは、軽度の創傷のみ。

――ウルフ族の男性の頑丈さ、半端じゃ無い。たぶん、貴種と言う事もあるんだろうけど。

ユラリと立ち上がったその姿――まるで、立ち上がると共に変身が解けたかのようだ――露わになったその面差しは、 既に人体のマーロウさんの顔だった。身体全身、『炭酸スイカ』由来の、極彩色の七色に染まっていたけど。

人の顔をしている筈の、その人相は――凶悪なままだった。マーロウさんは、七色のマダラに染まった顔面に凶悪な笑みを浮かべ、 やおら『魔法の杖』を突き出した。

「防火壁(ウォール)!」

グイードさんの裂帛の指示が飛び、灰色スカーフをまとった隊士たちが、素早く『警棒』を振る。

ゴオッと言う大音響と共に、大量の《火矢》が襲来した。淡いグレーの色を持って展開した透明な《防火壁(ウォール)》が防ぎ得たのは、 半分以下の数のみという威力。死ぬ!

隊士の1人が、新たに前を取って『警棒』を振るった。クセの無い黒髪がひるがえる――クレドさんだ。

瞬間、三日月の形をした、無数の白い《風刃》が舞い散る。マーロウさんが一度に発生させた《火矢》の数の2倍くらいはある。

突風に吹き消されるかのように、《火矢》が次々に風化して落ちて行った。残りの《火矢》は、訓練された衛兵たちの『警棒』に捉えられ叩き落されて行く。

脇を、新たな影が駆け抜けて行った――黒髪をなびかせた、純白マントの姿が。リオーダン殿下だ!

マーロウさんがギョッとしたように口をポカンと開き、何かを言おうとした。

昼下がりの陽光に、長剣の白刃がひるがえる。高く振り上げられ、一撃必殺の勢いで斜めに走る。

――極彩色の七色の迷彩だったマーロウさんの身体が、血の色を噴き出した。続いて、ドサリ、という音。

そして、夏の昼下がりの陽光の下、凍て付いたかのような静寂が広がったのだった。

*****(6)微妙に尾を引く決着

マーロウさんは、リオーダン殿下に斬殺されて――即死だった。

あんな状況だと、速攻、現場斬殺も止むを得ないのだとか。ヘタに戦闘を長引かせると、捕縛する側の犠牲者が増えかねないし、 わたしたちの身柄保護も覚束なくなるから。

マーロウさんの死体は、指示を受けた衛兵たちが担架に乗せて、速やかに運び去って行った。検死するんだそうだ。 ディーター先生は多忙だから、別の上級魔法使いが立ち会って調べると言う。

いずれにせよ、短い時間だけバーサーク化していた――『狼男』だった――魔法ではありえない事。 後ほど届いた検死結果の報告書には、やはり、『原因:爆速バーサーク化ドラッグ』という風に記されていたのだった。

*****

わたしたちは、気が付いてみると、頭のてっぺんから足の爪先まで七色の極彩色でペインティングされていて、 まだブクブク言っている七色の泡を頭に乗せている――と言う奇想天外な格好だった。『炭酸スイカ』の爆発の余波を食らったせいだ。

わたしの、七色の極彩色の迷彩と化した顔面、クレドさんを何とも言えない表情にさせていた。 リオーダン殿下でさえも呆れ返って、あからさまに溜息をつくと言う反応を寄越して来たくらいだ。

――どうせ、わたしは、こんなドジだよ!

幼児な尻尾だし、童顔で平凡顔だし、噴水に真っ逆さまに落ちて溺れるし、何も無い所でつまづくし、 魔法能力は無いし、『炭酸スイカ』の泡を頭に乗っけて走り回ってるし……!

大魔王化していたグイードさんも、チェルシーさんの奇抜な格好を改めてマジマジと眺めて、大いに毒気を抜かれたみたいなんだよね。 元々、名門の令嬢として育っていたチェルシーさんは、普段は、家でも外でも、上品でオットリとした淑女っていう人だったみたいだから、余計に。

グイードさんの、『新しい道化師スタイルを発明したのか?』という呟きコメントには、ビックリさせられた。 あの四角四面な人が、こういうユーモア感覚を隠してたなんて、ホントに意外だよ。 チェルシーさんとグイードさんが、夫婦として長続きしているのが不思議だったけど、何か納得できた。

――そう言えば。

グイードさんたちが何で、わたしたちが此処に居るのか分かったのかと言うと、病棟に詰めていた『下級魔法使い資格』持ちの、衛兵さんたちのお蔭。

要警護なチェルシーさんに関しては、元々、常時レベルの監視魔法が付いてたそうだ。そのチェルシーさんの位置情報が病棟の敷地から失せた時点で、 すぐに魔法による追跡が始まっていた。

わたしたちは、闇オークションのパンフレットや魔法陣の解析図など、 集めていた資料や作成していた資料を『貴重品』として総合エントランスの受付に預けていたんだよね。 衛兵の問い合わせに応じて、その資料が受付から即座に提出された物だから、行き先がすぐにバレたと言う訳。

――まぁ、すぐに外出がバレた事は、結果的には良かったと言えるかも知れない。あんな風に、事態がスピード展開するとは思わなかったし。

わたしが金融魔法陣や転移魔法陣を解析した事は、『寝食を忘れるほど集中していたのなら納得』なんだそうだ。 ただ、『魔法の杖』無しで、手書きで『正字』を構築していた件については、『魔法使いコースに居たのか?』と、割と驚かれた。

――『正字』スキル、そんなモノなのか。『正字』関連のアルバイトの実入りが良いのも、何となく理解できる。

そして、目撃証言を含む現場検証が始まった。

ちなみに、転んだ拍子に脚を痛めたチェルシーさんは、グイードさんに片腕抱っこしてもらっている状態だ。

チェルシーさんを片腕抱っこしている時はグイードさんは大魔王化しないそうで、 脇に控えている部下も落ち着いた様子で、私とヒルダさんの目撃証言――マーロウさんがチェルシーさんの目の前でバーサーク化した件――を報告している。

わたしたちと『狼男マーロウ』が追いかけっこしていた、滅茶苦茶なジグザグのコースの記録は、 『炭酸スイカ』による極彩色のペインティングのお蔭で、すぐに済んだ。衛兵さんの駆け足のスピード、半端ない。

――『炭酸スイカ』連続投球の腕前を披露した謎の少年は、いつの間にか姿をくらましていた。

あの少年、どうも訓練隊士とかじゃ無いみたい。訓練隊士は、今は強化合宿の真っ最中で、この時期に此処に居るのは有り得ないのだそうだ。 一体、何処の誰だったんだろう。

倉庫の屋根を次々にジャンプして回りつつ、これ程の数の『炭酸スイカ』を全てシェイクして投げまくり、『狼男』に全て命中させてのけた。

――という事実は、グイードさんばかりで無く、クレドさんやリオーダン殿下をも感心させていた。衛兵部署の忍者部門にスカウトしたいくらいの才能なんだって。 確かに、忍者っぽい少年だったもんね。

*****

わたしたちは、問題の倉庫に改めて入った。

下級魔法使いの資格を持つ衛兵たちの手によって、倉庫に掛かっていた錠前がチェックされる。

わたしが直感した通り、この錠前には、マーロウさんの『魔法の杖』直通の秘密アラートがセットされていた。 成る程、わたしたちが錠前を開錠して倉庫に押し入った時、マーロウさんが即座に気が付いた訳だよ。

その錠前には、更に、《緊急アラート通報》の魔法を妨害する、ごく小さなサイズの魔法陣が転写されていた。 この辺り一帯で《緊急アラート通報》が出来ないようにする仕掛けだと言う。

こういう非合法な品々は、闇ギルドでは普通に扱ってるそうだ。押し込み強盗ビジネス用の魔法道具セットらしい。

チェルシーさんとヒルダさんが青ざめながらも、『マーロウ室長って、こういう所、すごくシッカリしてたよね』と呟いている。 色々考えると、わたしたちって、ホントに運が良かったみたい。

わたしが倉庫に持ち込んでいた、あの台車――床の上に転がった空コンテナには、まだボウガンの矢が突き刺さっていた。 その近くに、異様に大きなボウガンが横たわっている。見るからに重厚長大なボウガンだ。わたしの身体サイズを余裕で超えている。ビックリだ。

――こんなに大きなサイズだとは思わなかったよ!

マーロウさんは、こんな物、片手で軽々と振り回していたと言うのか。さすが貴種の血筋。 そして、同じ貴種のリオーダン殿下が、やはり片手で軽々と持ち上げた。

近くに居た普通の衛兵が、そのボウガンを受け取る。片手では無理だったみたいで、『よいしょ』という風に両手で持ち上げている。 そして、『丁度良い』と言う事で、わたしが持ち込んで来ていた台車に乗せると――如何にも重そうな『ドシャッ』という音がした。

――ウルフ族の男性の平均的な身体能力にもビックリだけど、その中でも貴種って、ホントに規格外だ……

リオーダン殿下が、秀麗な顔をしかめて、溜息をつく。

「あの尖塔から持ち出されていた『対モンスター増強型ボウガン』だ。マーロウ殿が持ち出していたんだな。 ――と言う事は――タイスト研究員をボウガンで殺害したのは、マーロウ殿だったのか……」

グイードさんの部下が、クレドさんと共に、ボウガンを動かして観察し始めた。そして「おッ」と声を上げた。

「矢をセットする部分に、マーロウ殿の血の匂いが残ってますよ。セットする時にバネが弾けて怪我したみたいですね。 だから、証拠隠滅を兼ねて持ち出したんでしょう。このポイントだと、恐らく、左手の方を怪我しましたね」

脳内で、記憶が弾けた。そう。確かに、タイストさんが死んだ当日の、夕方の時点で、マーロウさんは左手を怪我していた。包帯を巻いていた!

――あれ、古代遺物の室内装飾の分解研究をしていた時に、怪我したんだ、なんて言ってたけど……!

チェルシーさんとヒルダさんも、同じ記憶を思い出したみたいで、ハッと息を呑んでいた。

「確かに、マーロウ殿は左手に包帯を巻いていたな。喉笛を噛み切られた衛兵の死体の目撃証言を取っている時に、私も気付いた」

グイードさんが不機嫌そうに呟く。

「古代遺物の攻撃魔法の解析は彼の専門だった――うっかり怪我するとは、奇妙な事もあるものだと思ったが。 みずから作った死体の状況を、『耳』と『尾』も含めて、さも無関係の目撃者であるかの如く、証言してのけるとは……大した演技力だ。 レオ帝国担当の外交官になれば、その才能を十全に生かせたものを」

――その後も現場検証は滞りなく進み、問題の倉庫が闇オークションと接続している取引ルートだった事も証明された。 こちらは、わたしが手書きで解析していたデータからも明らか。

アンティーク宝物庫から品々を盗み、闇で売りさばいて不正収入を得ていたのは、マーロウさんだった。

タイストさんは、まさか上司のマーロウさんが犯人だとは思っていなかったみたいなんだけど、ヒルダさんを問い詰めるくらいには、 『幾つかの品が紛失した』と言う事実をつかんでいたんだよね。だから、これ以上追及できないようにと、マーロウさんに殺されてしまった。

タイストさんは下級魔法使い資格を持っていて、下手したら、マーロウさんの犯罪の証拠を発見しかねなかったし。

アンティーク部門の同僚たちの証言によれば、普段から、マーロウさんとタイストさんは食事を共にする関係だったと言う。

マーロウさんは、タイストさんとヒルダさんの口論が始まった時、近くに居て、その内容を間違いなく聞き付けていた筈だ。 いみじくもメルちゃんが言ったように、マーロウさんは、即座にタイストさんを消す事を決めたのだろう。

最初のボウガンの一矢は全て手動で、確実にタイストさんを殺せるように狙いを付けていた。

その後は自動で、尖塔に常備されていた矢の在庫が続く限り、連続セット発射が続くように仕掛けていた。 タイストさんだけじゃ無くて、他の人も同時に犠牲に――と言う風にしておいた方が、『森の中に木を隠す』と同じで、 真相をごまかせるから。

殿下たちは、たまたま、そこに居ただけだったんだけど。

ああいう風に話が大きくなったから、マーロウさんとしては笑いが止まらなかったに違いない。 そして、味を占めてしまったのかも知れない。

衛兵の死体を、あんな場所に大胆にぶら下げて置いたのも、『当の自分は疑われていない』と言う自信があったから――

*****

当座の現場検証が一段落し、チェルシーさんとヒルダさんとわたしは、病棟に戻った。

ヒルダさんは、相応の休養期間を取った後、再びアンティーク部署で仕事を再開する事になった。

チェルシーさんは、転んだ時に痛めた脚を詳しく調べた結果、骨にちょっとヒビが入っている事が分かった。 身体の各所に打ち身やらアザやらも出来ていて、そのまま治療院に3日ほど入院して静養する事になった。

――最初にわたしが転んでしまったせいだ。ゴメンナサイ。

次の日、グイードさんがチェルシーさんのお見舞いがてら、マーロウさんの事件について新たに判明した事を説明しにやって来る予定だ。 魔法による隠蔽工作が少なからず関わって来た事件なので、ディーター先生とフィリス先生も『茜離宮』での仕事に一区切りつけて、 同席してくれる事になっている。

内容が内容なので、他種族も自由に出入りできる総合エントランスの方では無く、ウルフ族のみが入れる、特別ラウンジの方を使う。

そして当日。

わたしは前もってチェルシーさんが入っている部屋を訪れ、ラウンジからの呼び出しに対して、スタンバイする事にした。

チェルシーさんの部屋の扉をノックして声を掛けると、すぐに扉が自動で開く。 チェルシーさんが『魔法の杖』で、遠隔で開いてくれていると言うのは分かるけど、やっぱり、ビックリする。

チェルシーさんは、部屋に付いている小卓の前に座って針仕事をしている所だった。

針仕事と言っても――それは魔法の針仕事だ。

刺繍にしても仕立てにしても、『魔法の杖』の動きに応じて、何本もの針と糸がハイスピードで飛んで行くから、仕上がりが早いんだよ。 ポーラさんがメルちゃんのドレスをお直ししているのをチラッと見た時も、ビックリしてしまった。

名人の針仕事となると、50本くらいの針と糸が一斉同時に飛び回るそうだけど、ちょっと想像できない。

チェルシーさんは、わたしを一瞥するなり、「まぁ」と困惑の声を上げた。

「ルーリー、本気でそのセットそのままで、ラウンジに入る予定なの?」

――へ? この格好の事ですか? 患者服な生成り色のスモックのセット、何かマズかったですか?

昨日のチュニックとズボンのセットは洗濯に出してあるんですけど、まだ乾いてないし、 あれ以外に街着は買っていなかったから、これだけで……『仮のウルフ耳』の方は幸いに防水と防染の加工があったので、 ザッと洗っただけで、もう付けられる状態になりましたけど……

チェルシーさんは、わたしに椅子を勧めながらも、ハーッと溜息をついた。

「あぁ。抜かったわ。フィリスさんは良い娘さんだけど、魔法使いコースのガリ勉だったから、ソッチ方面は疎かったのよね。 ルーリーも大いにソッチの類ね。メルちゃんの方が、ソッチ系が分かってるなんて、何とも奇妙な事だわ」

――済みません、どういう意味か分からないのですけど……?

「いつか素敵な男の子と鉢合わせなんかした時に、慌てたくないでしょう、と言ったでしょ?」

――あれは、『いつか素敵な男の子とデートする時に、慌てたくないでしょう』だったような気がするんですが。

チェルシーさんはイタズラっぽく微笑んで、意味深なウインクをして来た後、針仕事を続行した。

さすが『ドレスメーカーの助っ人さんもやっている』と言う程の腕前だ。素人目にも達者な針仕事だと分かる。

ふと見ると、チェルシーさんが今、患者服なスモックの上に羽織っているのは、チェルシーさんの自作と思しき、淡いラベンダー色の膝下丈の上着。 チェルシーさんの柔らかな金髪と相まって、上品な雰囲気が感じられる。

派手なデザインでは無い――日常使いの品だ。涼しい季節になったら、付属のベルトを締めて外にも着て行ける感じだし、今だったら、夜間の防寒着にもなりそう。

針仕事自体は、ほぼ仕上げの段階だったらしく、すぐに済んだ。

「よし、出来たわ。ルーリーには昨日『正字』をいっぱい書いてもらったからね、御礼よ」

薄い青磁色の上着だ。付属ベルトも、ちゃんと付いている。

チェルシーさんが着ている物と同じ膝下丈タイプ。夜間の防寒着にもなるという意味では、同じ種類の品だ。 でも、裾周りのデザインが違っていて、比較的、活動的な動きが出来るようになっている。

首回りのラインを彩る瑠璃色の小花刺繍が、ちょっとしたワンポイントになっていて、ナニゲに可愛い感じだ。

目をパチクリさせていると、チェルシーさんが『フフフ』と笑いながら、説明して来た。

「夜が冷えて来る頃になったから、ちょうど良いと思うわ。それに、ポーラさんがジリアンお嬢さんの結婚式に、ルーリーをお招きしたいと言ってたでしょ。 その時にも着られると思うし。中庭広場の商店街は品揃えが豊富だけど、こういう、ちょっと気付いて気付かないような『さりげない品』は、少ないのよね」

――な、成る程。どうも有難うございます。

目次に戻る

§総目次§
物語ノ岸辺物語ノ本流物語ノ時空物語ノ拾遺