深森の帝國§総目次 §物語ノ傍流 〉瑠璃花敷波04

―瑠璃花敷波―04

part.04「密室の謎と謎の襲撃*2」

(1)不意打ちのような襲撃
(2)事件の後の長い夜(前)
(3)事件の後の長い夜(中)
(4)事件の後の長い夜(後)

*****(1)不意打ちのような襲撃

タイストさんは器用にトレイを運びながら、声を掛けて来た。

「大食堂の方で、ディーター先生とフィリス先生を見かけたのでビックリしたよ。 アルセーニア姫の暗殺事件で、新しく分かった事があって――行き逢った魔法使いたちが集まって来て、ちょっとした報告会議になってるところだ」

魔法使いって基本的に、不可解な出来事に対する興味が強いみたい。さすが研究職で技術職ってところだね。 灰色スカーフをしている下級魔法使いなタイストさんも、興味を持って、概要を聞き込んでいたようだ。

ザッカーさんが「なぬッ!」と、目をカッと見開いている。

「こいつぁ、ヴァイロス殿下やリオーダン殿下にも話を上げとかないとな。どういう話だったんだ?」

そう言っている間にも、ザッカーさんは腰のホルダーから『魔法の杖』を取り出して、別の一角に向けながらも、端の方を点滅させていた。 赤い点滅の光は少し続いた後、金色を帯びた安定した光になった。先方が持っている『魔法の杖』と、通信リンクが確立した状態になったという事だろう。

――『魔法の杖』って、遠隔で連絡も出来るんだ。本当に万能道具だなあ。

タイストさんは少し思案した後、『王妃の中庭』にあったオルテンシア花の異常について、話し出した。 ディーター先生とフィリス先生が明らかにした内容の、受け売りだ。

タイストさんの説明が『モンスター毒の分析』に関する佳境に差し掛かったところで――

――回廊の中央にあった正方形のスペースで、転移魔法が展開した。白いエーテル光が溢れる。

ビックリして注目していると、豪華絢爛な金髪のヴァイロス殿下と、艶冶玲瓏な黒髪のリオーダン殿下が現れた。 2人とも純白マントをまとっている。後ろには、それぞれの従者と思しき2名の紺色マント姿が続いていた。

ザッカーさんとカノジョさんとタイストさんは、驚いていながらも、手慣れた様子で敬礼した。 男の方は右手を上げる挙手注目の敬礼で、クレドさんも、わたしを左腕で抱っこしていながらも、同じ姿勢だ。 カノジョさんは女性だからか、膝を折り、ワンピースドレスの左右を摘まんでの、優雅な敬礼。

――ひえぇ。ウルフ王国の第一王子と第二王子、フットワークが軽すぎるよ!

適切な反応が思いつかない。抱っこされたままでは女性バージョンの敬礼は出来ないから、 とりあえず、クレドさんのマネをして、右手で挙手注目の敬礼をしてみる。

ヴァイロス殿下とリオーダン殿下は、2人とも物慣れた様子で頷いて応じて来た(わたしが数日前の身元不明の侵入者と同一人物だという事には、気付かなかったみたいだ)。

「先ほどの、アルセーニア姫の殺害現場の説明を、もう一度聞かせてくれ」

リオーダン殿下が促す。それに応えてタイストさんが頷き、口を開いた。

一瞬。

空気を切り裂くかのような――『ビイイィーン』という――奇妙に尾を長く引く、不吉な音。

直後――

タイストさんの額の、中央からやや脇に外れた辺りに、『ビシッ』と音を立てて、『何か』が突き刺さった。

余りにも突然で、一部始終を見ていてなお、何が起きたのか分からない――

――今まさに説明をしようとしていたタイストさんは、そのまま、ポカンと口を開けていた。 その、『男の人差し指ほどの太さの何か』が突き刺さった額から、鮮やかな血の筋が流れ出す。

タイストさんの、ややヒョロリとした体格が、糸が切れた人形か何かのように、ゆっくりと斜め後方に崩れ落ちた。 手に持っていた料理皿のトレイも床に落ちて、『ガシャガシャーン』と音を立てる。

再び、あの不吉な、尾を長く引く騒音が続いた。それも、幾つも。

ビシッ、ビシッと音を立てて、同じように、意外に太さのある何かが、回廊の手すりにも、列柱にも、その奥の壁にも、次々に突き刺さる。 手裏剣か――じゃ無ければ、太い矢だ。

「攻撃だ!」

2名の従者が、続く矢を『魔法の杖』で叩き落とした。変形するだけの余裕が無かったのだろう、警棒スタイルのままだ。

ヴァイロス殿下とリオーダン殿下が、それぞれ身をかわした――続いてひるがえった純白マントを次々に矢が突き抜けて、回廊の敷石に、ビシッ、ビシッと、斜めに突き立った。

この矢、石よりも遥かに硬い物質で出来てるんだ。

わたしの目の前で、『ギンッ!』という衝突音と共に、何かが一閃した。

続いて、矢が床に突き立つ時の、『ビシッ』という音。

クレドさんが身を返しながら、『魔法の杖』を振って、矢をはたき落としたみたい。すごい動体視力に、反応速度だ。わたしには矢が見えなかった。

わたしの『人類の耳』では分からなかったんだけど、『ウルフ耳』で聞こえる超高音の周波数の――緊急アラートが鳴り響いていたらしい。 大食堂の方から、灰色ローブ姿の魔法使いや紺色マントの隊士たちが、血相を変えながらも姿を現した。

新しく来た隊士たちの方へも矢が飛んで来るから、まさに戦場だ。

――『ゴオッ』と言うような、無数の矢が立てる音が続く。見るも恐ろしい結果を予兆する騒音だ。

ほとんどの魔法使いたち――中級魔法使いたち――は、口を大きく開けたり口に手を当てたりしているから、たぶん叫び声を上げてるんだと思う。

最前線に出て来たディーター先生と、もう1人の灰色ローブ姿の上級魔法使いが、息を合わせて『魔法の杖』を大きく振りかざした。 袖口に施されている金糸刺繍の縁取りが、一瞬きらめく。

「地の精霊王の名の下に……《地の盾》!」

――空気が、ビシリと音を立てた。或いは、濃密に呼び集められたエーテルが、音を立てた。 同時に、『ドドドッ』と言うような、無数の矢が突き立った音が続いた。

――生きてる?

奇妙な程に静まり返った瞬間。恐る恐る、目を巡らす。

回廊に注いでいる陽光が、少しだけ暗い。

見ると――回廊の列柱の並ぶ間ごとに、半透明の黒いシートみたいな物が出来ている。その1枚1枚に、金色の不思議なシンボルが輝いていた。

――あれが恐らくは、《地魔法》特有の、サインか何か、なのだろう。

いつ出来たんだろうか――これが、恐ろしい矢の群れを食い止めたのは確かだ。 無数の剛毛が生えたみたいに、半透明の不思議な黒いシートの外側に、無数の矢が突き立っている。

矢による攻撃は、先ほどの大群が最後だったみたいだ。もう、新しい矢は来ない。

「あの第二の尖塔を調べろ! 1人も逃がすな!」

リオーダン殿下の指示に応じて、ザッカーさんをはじめとする紺色マントの隊士たちが、『応』と返しながらも回廊の別の一角へと走り去った。

リオーダン殿下の右頬に、うっすらと血の筋が出来ている。どれかの矢が掠(かす)ったみたいなんだけど、 それでも紙一重の差でかわしたのだから、すごい身体能力だ。

ザッカーさんの黒髪のカノジョさんは、回廊の柱の陰で失神している。幸いに無傷の様子。 早くも中級魔法使いが、2人掛かりで担架に乗せて運び去って行く。

ヴァイロス殿下は血の気を失っていたけれど、早くも従者と共に、床に崩れ落ちていたタイストさんの死を確認していた。 美形な顔をしかめている。ヴァイロス殿下の純白マントには、矢が突き抜けた孔が、数個ほど出来ていた。

ディーター先生と、もう1人の上級魔法使いが、肩で荒い息をしている。 どちらも立派な体格の男性なのに、2人共に一瞬で疲労困憊したと言う風で、回廊の床の上にへたり込んでいた。 あの半透明の黒いシートを魔法で合成するのは、すごく疲れる作業だったみたいだ。

「おい、もう……大丈夫みたいだ。私は、ハァ、疲れたから……君らが、片付けてくれ」

上級魔法使いの、息を切らしながらの指示に応じて、並み居る無地の灰色ローブ、中級魔法使いたちが動いた。 震えながらも、めいめいの『魔法の杖』を振り、安全を確認しつつ、半透明の黒いシートを取り込み始める。

剛毛が生えたようなシートが、次々にフニャフニャになって回廊の床に折り畳まれて行くのは、不思議な光景だ。 突き刺さっていた無数の矢が、シートと一緒に重なって、カシャカシャと固い音を立てている。

ディーター先生とタッグを組んで魔法を発動していた上級魔法使いが、ボソボソと喋り出した。 わずらわしげに頭部のフードを外したので、黒いウルフ耳と、うなじでまとめた、ウェーブの掛かった漆黒の髪が露わになっている。 ディーター先生より少し年上という感じの男性だ。冷涼な顔立ちに、刃のような黒い眼差し。

「相変わらずの《盾》の腕前だな、『地のディーター』君。貴様も魔法部署の幹部になるべきだった。 『風のトレヴァー』長官の、後継者の資格付きのな」
「前にも言った筈だが、『風のジルベルト』殿。宮廷の上層部の余計な面倒は嫌いなんだ。それに私は目下、別の興味深いテーマを抱えている」
「ふふん……意外に他の理由もありそうだがな」

ディーター先生と話している上級魔法使い『風のジルベルト』は、立ち居振る舞いからして、いかにも貴族という感じ。 刃のような黒い眼差しで、わたしの方をギロリと眺めて来る。そしてクレドさんの方も意味深に眺めた後、溜息をついた。 そして、その場を離れて、彼は部下と思しき中級魔法使いたちに次々に指示を下し始めたのだった。

――あの溜息の意味は、一体、何だったんだろう? クレドさんにも、何か含むところがあるんだろうか?

あれ? それに――『風のジルベルト』さんの、あの冷涼な顔立ちって……?

邪魔をしないよう、脇で控えていたフィリス先生が、早速ディーター先生の傍に駆け寄った。ディーター先生を助け起こすと共に、わたしに声を掛けて来る。

「怪我は無いわよね? クレド隊士のガードは満点だったわ、傍目から見てても」

言われてみて初めて、わたしは相変わらずクレドさんに片腕抱っこされていた状態だった事に、気が付いたのだった。 それから、今まで意識もしてなかったけど――身体が震えていた。

*****

タイストさんは、シッカリと死んでいた。額を矢に貫かれて。太さのある頑丈な矢は、 タイストさんの頭蓋骨を突き抜けていて、その先端が、反対側にまで飛び出していた。

矢が飛んで来たのは、あの白い玉ねぎ屋根を乗せた3本の尖塔のうち1本から。 あの距離を考えると、ものすごい勢いで打ち込まれていたという事は、明らかだ――

*****(2)事件の後の長い夜(前)

――『対モンスター増強型ボウガン襲撃事件』。あるいは『地のタイスト研究員・殺害事件』。 『茜離宮』大食堂の脇の回廊で起きた、流血騒動の事だ。

たまたまヴァイロス殿下やリオーダン殿下が居合わせた事で、 『第2のヴァイロス殿下&リオーダン殿下・暗殺未遂事件』ともなった――この大事件は、 一刻もしないうちに、ウルフ王国全域のトップ・ニュースになった。

つまり、『ウルフ王国の第一王女アルセーニア姫・暗殺事件』をはじめとして、ここ最近続いていた『茜離宮』周辺のキナ臭い動きについて、 『茜離宮』に駐在するレオ帝国大使一行も、公的に知る事態となったのだった。

*****

気が付くと――既に、オレンジの光が強まっていた。夕方の始まりだ。

わたしは、今まで何して居たんだろう? 寝ていたんだろうか?

思い切って目をパチパチさせると――見知らぬ金茶色の髪のウルフ女性が、ヒョイとのぞき込んで来て、「アッ」というような顔になった。 彼女は、すぐに後ろの方を向いて、声を上げた。

「フィリス先生、患者の意識が戻ったみたいです」

程なくしてパタパタと言う足音が近づいて来た――新たに出て来た顔は、やはりフィリス先生だった。

「ルーリー、気分はどう? 今まで気絶してたのよ。まだ体内エーテル状態が不安定な状況で、強いショックを受けたせいね。 あの襲撃の真っ最中に失神しなかったと言うのも、大したものだけど」

少し頭がフラフラするけど、それ以外は何とも無いみたい。えーっと、此処は何処でしょうか?

「いま居るのは、『茜離宮』のエントランス・ホールよ。ルーリーが気付き次第、病棟に戻す事になっていたから」

フィリス先生は手早く説明して来た後、テキパキとした様子で、隣に居た金茶色の髪の中級侍女の方を振り向いた。

「見ててくれて有難うね、サスキア」
「どういたしまして、フィリス先生。大した事が無くて良かったです。 今回の事件の続報は、引き続き『大天球儀(アストラルシア)』ニュースの特別チャネルで、お知らせいたしますので」

サスキアと呼ばれていた、フィリス先生と同年代と思しき中級侍女は、にこやかに微笑んで持ち場に戻って行った。 彼女の持ち場は、『茜離宮』エントランス・ホールの受付コーナーだ。受付に詰めている女官の1人なんだ。

わたしが横になっていたのは、『茜離宮』エントランスに並んだ長椅子のうちの1つだった。 周りには、大きな窓と列柱が交互に並んでいる。窓を通して、オレンジ色に色づいた明るい陽光が差し込んで来ていた。

身を起こすと、エントランス・ホールの中央部分に、見覚えのある『大天球儀(アストラルシア)』が8つ並んでいるのが見える。 最初に入って来た時とは違って、人々が慌ただしく行き交って、ザワザワしている様子だ。連絡係と思しきヒラの役人たちや侍女たちが多い。

フィリス先生が訳知り顔で、その様子を一瞥した。

「まぁ、あんな大事件じゃね。よりによって、『茜離宮』に襲来したモンスターを駆除するための物だった増強型ボウガン装置が、 殿下たちを暗殺するための武器に転用されるなんて」
「殿下たちの暗殺未遂事件だったんですか?」
「さあ? ルーリーは、どう思う?」
「暗殺事件になったのは、偶然だと思うんですけど」
「論理的に考えれば、そうなのよね。ディーター先生も同じ見立てだわ」

ディーター先生は、急遽、今回の襲撃事件に関する捜査メンバーとして召喚されていると言う。現場に居合わせたせいだろう。

……それとも、ディーター先生に意味深に絡みつつ話しかけていた上級魔法使い――『風のジルベルト』と呼ばれていた、黒狼種のせいかも知れない。 クレドさんに謎の眼差しを投げていたのも、妙に気になる……

何故そう思ったのかは、説明できない。単なる直感だし。

ともあれ此処で、わたしがする事は何も無い。邪魔にならないように、病棟に引き返すのみだ。

――あ、クレドさんの紺色マント、お借りしたままだった。今まで長椅子で気絶していた間、掛布団の代わりになっていたんだ。 フィリス先生、これ、どうしましょうか?

「取っときなさい。あとで返せば良いわ、それは武官標準の備品だし、着替えは幾らでもあるから」

フィリス先生の説明によれば、わたしは襲撃が終わった後も、少しの間は意識がシッカリしていて、キョロキョロしていたんだそうだ。 そして、タイストさんの死体を運ぶための担架が到着した瞬間、クレドさんの腕の中で気絶したと言う。

成る程、言われてみれば、タイストさんの額に矢が突き刺さっているところを――あの矢の先端が、 頭の反対側にも突き抜けていたところを――見た後の、記憶が無い。 クレドさんには散々ご迷惑をお掛けしてしまったなあ。後で、お詫びと御礼をしないと。

*****

フィリス先生の転移魔法は、『茜離宮』ゲート前の転移基地と、 『茜離宮』付属・王立治療院の中央病棟の総合エントランス前の転移基地を連結していた。

「もう少し、総合エントランスに居ても大丈夫かしら、ルーリー? 大天球儀(アストラルシア)ニュースの続報を確認したいの。 疲れたら言ってね、病室まで付き添うから」

――大丈夫です、フィリス先生。

大天球儀(アストラルシア)の近くの手頃なテーブルに落ち着いた後も、フィリス先生は、気もそぞろな様子だ。 こんな大事件に遭遇してしまったんだし、すごく理解できる。周りを見てみれば、今日の襲撃事件は早くも、 総合エントランスに集まった人たちの第一の話のタネになっている様子だ。

フィリス先生が、半透明のプレートを魔法の杖でつついた。先刻、サスキアと言う女官が話していた、特別ニュース・チャネルを開いたみたい。 半透明のプレートの上で、一定タイミングごとに文字列が移り変わっている。

程なくして、フィリス先生の姪――黒髪の見習い少女メルちゃんが、 夕食を乗せたサービスワゴンを手で動かしながら、わたしたちの居るテーブルまで、速足でやって来た。

「あの病室に居なかったから、総合エントランスだと思って来たの。『茜離宮』で血みどろの大事件があったって言うし!」

メルちゃんも、すこぶる興奮している様子だ。ウルフ耳はピシッと伸びているし、目はランランと光っているし、ウルフ尾も落ち着かなげにピコピコ揺れている。 見るからに『何か見たでしょ、聞いたでしょ、話して、話して!』という風だ。

と言う訳で。

メルちゃんも加わったテーブルで夕食を取りつつ、フィリス先生が魔法道具を通じて受信した、最新のニュース内容に耳を傾ける事になった。

――『対モンスター増強型ボウガン襲撃事件』。 あるいは『地のタイスト研究員・殺害事件』、『第2のヴァイロス殿下&リオーダン殿下・暗殺未遂事件』。

くだんの尖塔から飛んで来て、タイスト研究員の頭部を貫き、更に回廊に降り注いだ矢の大群。これらは、すべて『第二の尖塔』と呼ばれている、 あの玉ねぎ屋根の尖塔3つのうち、1つから発射されていた物だった。

元々、3本の尖塔の最上階部分は、モンスター類の襲来に備えて、『対モンスター用の増強型ボウガン』をグルリと設置している場だ。 問題の増強型ボウガンは、自動で矢が尽きるまで連続発射が出来るようになっていた。

矢は、モンスター狩り用の、《地魔法》による特別合成品。普通に入手するのは難しいけど、『モンスター狩りの資格』持ちなら、誰でも入手可能。 『モンスター狩りの資格』は武官の基礎スキルでもある。襲撃に使われていた矢は、尖塔の最上階部分の常備品として積み上げられていた物だった。

これが、第2回目の『ヴァイロス殿下&リオーダン殿下・暗殺未遂事件』だったかどうかは――結局、分からないままである。

ヴァイロス殿下とリオーダン殿下が、今回、この回廊に居たのは、本当に偶然だったのだ。今日のスケジュールには全く無かった行動だった。 つまり、暗殺者にとっては――暗殺を企てた人物が居たとして――全く予想もつかなかった事態だった筈なのだ。

この襲撃の主目的は、タイスト研究員の殺害だった可能性もある。 タイスト研究員が、何か重要な事実をつかんでいたとしての話であり、これは目下、捜査中だ。

そして。

くだんの尖塔に誰が立ち入っていたのかは、分からない。いずれにせよ、巡回の穴を突かれた形だ。 犯人は、『茜離宮』の内部スケジュールに詳しい人物である事は明らかだが、ほとんどの文官・武官がそうである以上、 容疑者を絞り込むのは、極めて難しい――

「何て恐ろしい事件かしら。飛んできた矢に、頭を串刺しにされて死んだなんて。すごく痛いわ」

メルちゃんが眉根をギュッと寄せて、夕食のおかずのハンバーグを、フォークで『ブスッ』と突き刺した。

フィリス先生が、メルちゃんの食事マナーを注意しようとしたところ――

――ドサッ。

誰かが、何かを、落とした……?

フィリス先生とメルちゃんのウルフ耳が、瞬時に音源の方向にピッと向く。わたしも、その方向を確かめた。

シニア世代の、初見のウルフ族男性。

着衣は、紺色の――軍装姿じゃ無くて文官服の方だけど、襟や袖口に、地位を示すハシバミ色の3本ラインがある。 上級役人――高位文官に違いない。光沢のある小麦色の髪をしている。細かいウェーブの掛かった髪が、洒落た印象だ。

さっきの『ドサッ』と言う音は、この人が手荷物を落とした音だった。

「あ、あ、これは失礼を。お嬢さんがた」
「いえ、お気になさらず……何処かでお見かけしたような……あ、マーロウさんですか?! あの、チェルシーさんの――」

フィリス先生が目を見張りながらも応答している。上級役人のユニフォームをまとった、洒落た人物は、フィリス先生の顔見知りの人だったみたい。 チェルシーさんの関係者……?

チェルシーさんと同じくらいのシニア世代に属するウルフ族・金狼種の男性は、小麦色の髪に囲まれたウルフ耳をいぶかしげに動かしながら、 フィリス先生の顔を見直していた。そして、パッと閃いたような顔になった。

「久し振りだし奇遇だからビックリしたよ、フィリス嬢。あの頃、フィリス嬢は、まだ駆け出しの下級魔法使いだった。 覚えていてくれたとは嬉しい。チェルシーは今でも良くフィリス嬢の話をして来る。立派になったもんだね」

ひととおりの社交辞令を済ませた後、フィリス先生が、見知らぬ上級役人――高位文官の男性について、説明をしてくれた。

「ルーリーにメルちゃん、この人は『火のマーロウ』さんで、チェルシーさんの元・上司よ。 今は出世して……ええと、アンティーク宝物庫を含めて統括している、歴史宝物資料室の室長ね」

――初めまして、よろしくです。

いつものようにメルちゃんは、ズバリと要点を聞く。

「おじさんは、さっき、どうしてビックリしてたの? いきなりカバンが落ちたから何? って思っちゃったんだけど、 えーっと、おじさんは怪我をしてるのね。怪我、痛む?」

成る程、見てみると『火のマーロウ』さんと言う小麦色の髪のシニア男性は、左手に包帯を巻いている。何かで怪我をして、 此処、『茜離宮』付属・王立治療院に出向いて、治療してもらっていたんだ。

「古代の室内装飾品の仕組みを分解して調べていたんだが、攻撃魔法の仕掛けに気付かなかったんでね。 仕事に付き物のリスクと言うところだな。古代の戦国乱世の頃に製作された『防衛機能付きの室内装飾品』だったんだから、 もっと注意して扱うべきだったんだが」

マーロウさんは決まり悪げな様子で、怪我していない方の手でうなじをシャカシャカとやりながら、苦笑いして答えて来た。 そして、いっそう気がかりな様子になって、大天球儀(アストラルシア)の方にチラリと視線を投げた。

「タイスト君が死んだ……なんて。優秀な部下の研究員の1人だったんだが、この短い時間のうちに、そんな死に方をするとは。 何があったんだろう?」

フィリス先生が、「ニュースに出ていた以上の事は、まだ私も知らないんですよ」と応じた。

「いや、此処でボヤボヤしている訳には行かない。済まんが、失礼するよ……お嬢さんがた」
「怪我をしてらっしゃるんですから、お大事にしてくださいね、マーロウさん」

フィリス先生の声掛けに対して、マーロウさんは丁寧に目礼を返すと、急ぎ足で総合エントランスを出て行った。

*****

「フィリス先生。火のマーロウさんは、今でもチェルシーさんと親しそうですね」
「ええ、そうなのよ、ルーリー。アンティーク宝飾品の鑑定などで、今でも時々会っていると聞いた事があるわ。室長になった今でも、研究熱心な方ね」

成る程。確か、チェルシーさんは、趣味と実益を兼ねたアンティーク宝飾品店を経営していると言ってたっけ。 アンティーク物のコレクションも手掛けていて、前日の『水のサフィール』の中古ドレスも、そのツテで入手したと話していた。

フィリス先生は、再び半透明のプレートを操作しつつ、「そう言えば」と付け加えて来た。

「マーロウさんは、『大狼王』の血を引く名門の貴種の出身の人なの。若い頃は、『殿下』称号レベルの力量を認められていた事もあったみたい。 でも基本的に研究者気質な穏やかな方だから、結局は、並み居る荒くれ共を取りまとめる方面は――王族を務めるのは――向かなかったようで。 今は臣籍降下という形で、古代アンティーク部門で天職を満喫してらっしゃるみたいね」

――へぇ。あのシニア世代のウルフ族男性が。

言われてみれば、マーロウさんには何処となく気品と余裕が感じられるし、納得できる。文官ユニフォームだったから先刻は気が付かなかったけど、 思い出してみると、あの体格も、貴種ならではの立派な体格っぽい感じがする。

フィリス先生の問わず語りは続いた。

「チェルシーさんも名門の出身の令嬢だし、チェルシーさんとマーロウさんは、昔は、 結婚するんじゃ無いかなと思うくらいには良い仲だったの。今からしてみると、友情の延長だったみたいだけど。 ほら、チェルシーさんは結局、別の男性と――今の御夫君、衛兵部署の方に勤めている堅物の文官さんと結婚したから」

驚きそのものの話だけど、一方で、そんなに意外さは感じない。

チェルシーさんは品が良いし、マーロウさんも雰囲気は同じくらい洒落ている。 確かに若い頃は、職場結婚も噂される程に、お似合いの2人だったんだろうな、と納得だ。

お互いに良い雰囲気で、同じアンティーク物への情熱を共有していて、何故に結婚にまで至らなかったのかは不思議だけど、 本人たちにしか分からないような理由があったんだろう。

メルちゃんが、再びハンバーグを『グサッ』と突き刺しながら、喋り出した。

「それにしても、あの小麦色のおじさんの言う事も、もっともよね。頭を串刺しにされて死ぬなんて、普通の死に方じゃ無いもの。 しかも偶然とはいえ、王子様まで死ぬところだったんでしょ。犯人は、きっと、すごく焦ってたのよ」

メルちゃんの頭の中は、血みどろなシーンの再現と想像図で一杯のようだ。

そうだよね。これくらいの子供には、事件の話はショッキングな筈だ。 わたしも緊張のあまり途中で気絶しちゃったし、年齢から言えば似たり寄ったりかも。

不意に――記憶が巻き戻った。

あの時。

タイストさんは激しく怒鳴り合っていた。誰かと――

――そう、『風のヒルダ』さんと。ヒルダさん。あの時、すごく怒っていた。魔法を使って、重い本を投げつける程に。

「ルーリー?」
「もしもーし、応答せよー? ルーリー、帰還して来てる?」

記憶の再現に没頭していたみたい。フィリス先生とメルちゃんがビックリした顔でのぞき込んで来ている。 メルちゃんは、わたしの目の前で手を振っていた。

――あ、わたしは大丈夫だよ。ちょっと考えごとをしてただけだから。

「ビックリしたわ。いきなりピタッと不動になるんだもの。集中力が強いのね」

フィリス先生に指差されて、自分の手を見ると――スープを入れたスプーンを持ったままだ。

わたし、スープをスプーンですくった姿勢のまま、固まってたんだ。 それは、自分で考えても、かなりオカルトでミステリーな眺めだと思う。ビックリさせて済みませんでした。

わたしはスープを口に含んで喉を湿らせた後、慎重に声を押し出して行った。喉に適当に湿り気があると、喋りやすさが違うんだよね。

「あの、思い出した事があって。タイストさんは、大食堂に入る前、ヒルダさんと大喧嘩してたんです。 ヒルダさんは重い本を魔法で持ち上げて、タイストさんを殴っていて。割と離れてたんですけど『ゴン』という音、わたしにも聞こえるくらいで……」

フィリス先生は、目を見張っていた。フィリス先生は気付かなかったのかな。タイストさんとヒルダさん、かなり大声で叫び合ってたんだけど。

「ええ、私は気付かなかったわ、ルーリー。回廊に近い端の人たちが、何かに気付いた様子は見えていたんだけど。 あの時は、『風のジルベルト』閣下が、ディーター先生の傍にいらしてたから。彼は魔法部署の幹部で、同時に第五王子でもあるの。 『殿下』の称号は第三位までしか付かないから『ジルベルト殿下』では無いんだけど」

事のついでのように説明した後、フィリス先生は、わたしに、当時の状況について細かく質問して来た。

そして、フィリス先生は、タイストさんとヒルダさんの謎の喧嘩について詳細を聞き終えた後、真剣な顔になって考え込んだのだった。

「それにしても、ヒルダさんは一体、何をそんなに腹立てていたのかしら? 本を投げるほど怒り狂うなんて、よっぽどの事よ。 だからと言って流血に及ぶ、と言う訳じゃ無いだろうけど……」

フィリス先生は首を振り振り、「これは、ディーター先生に話を上げておかないと」と言って、立ち上がった。

「私は通信室に行って来るから、メルちゃん、ルーリー、申し訳ないけど、ちょっと待っててね」

フィリス先生は、総合エントランスの受付の方へと駆けて行った。そちらの方に通信室があるらしい。

「フィリス叔母さんが行ったのは、一般の通信じゃ無くて、秘密通信の方ね」

メルちゃんが、訳知り顔で解説してくれた。

一般的に、『魔法の杖』を使う通信は、特に秘密にする必要の無い通信。

そして、盗聴されると困るような内容を通信する時や、国境をまたぐような遠距離通信をする時には、 特別な通信機をセットしてある通信室を使うそうだ。例えば、金融魔法陣の情報とか、辺境の飛び地との連絡とか。成る程ねえ。

「すっかり暗くなったし、フィリス先生が戻って来たら病室に戻る頃かな……」
「あ、ねぇ、ルーリー。まだ身体が大丈夫なら、もう少し、此処に居てくれる?」

メルちゃんが、わたしのスモックの袖をつかんで、オネダリして来た。

――『茜離宮』で気絶して少し睡眠をとる形になったから、身体の方は、余り疲れていないけど……?

回答を得て、メルちゃんは俄然、張り切った様子になった。パパパッと夕食の後片付けを始める。

サービスワゴンに使用済み食器を積んだところで、 メルちゃんは身を乗り出して来て、わたしの『人類の耳』に口元を寄せて、内緒話をする格好になった。

「良かった。今、お皿を洗い場に持ってって、お茶セット持って来るから待っててね、ルーリー。 あのね、秘密の中の秘密なんだけどね……実はね、フィリス叔母さんは、ディーター先生の事が好きなのよ」

……はい?!

「中級魔法使いは、上級魔法使いの助手になるんだけど。 フィリス叔母さん、魔法部署の偉い上級魔法使いの助手の話も来てたくらいなんだけど、 それを蹴って、ディーター先生の助手を希望してたのよ。高度治療師の資格だって簡単じゃ無かったのに。 それなのに、何年も告白しないで片思いしてるのよ。見てて、ホントにジレジレするったら、無いわッ」

――き、気付かなかった……!

「フィリス叔母さんとディーター先生は、両片思いよ。このメルが言うんだから、間違いないわ。 ルーリーも、メルと一緒に『ラブラブ作戦』、してね!」

――は、はあ。わたしに出来る事なら。

メルちゃんはニンマリと笑みを浮かべ、『ラブラブ作戦の事は、誰にも言っちゃダメよ』と念押しして来た。そして、 スキップ混ざりの急ぎ足で、サービスワゴンを押して、洗い場へと向かって行ったのだった。

*****

わたしは少しの間、メルちゃんが言った事を考えてみる事にした。

中級魔法使いは、上級魔法使いの助手になる事が決まっているらしい。魔法使いの育成カリキュラムが関係しているのだろう。

くだんの『魔法部署の偉い魔法使い』と言うのは、例えば、今日見かけた『風のジルベルト(にして、第五王子)』のような人が、そうなのに違いない。 彼は、何人もの中級魔法使いに、指示を出していた。そう出来る立場の人なんだ。

ディーター先生は、今回の事件の捜査チームに引き入れられている。助手であるフィリス先生は、本来は、それを補佐する立場。

それが、わたしの付き添いという事で、フィリス先生は病棟に戻された。ディーター先生の指示――つまり、ディーター先生の意思だ。

ディーター先生の方は、フィリス先生の身の安全を心配して、わたしという理由を付けて、不気味な殺害現場から病棟へ戻した――と考えられるのだ。

――うん、納得できる。正直、ビックリした。

ビックリしたけど、何となく『これは真実だ』と思える。

メルちゃん、諜報力すごい。将来は、きっと、恐るべき忍者や工作員になれると思う。

*****(3)事件の後の長い夜(中)

総合エントランスのざわめきは、まだ続いている。

そこかしこから、『大食堂の脇の回廊で』とか『矢の群れが』とか聞こえて来る。今回の大事件は、夜を徹しての話題になりそうな勢いだ。

ふと1人になったテーブルを眺めると、備え付けの半透明のプレートが置かれているのが分かった。 フィリス先生の持っている物よりサイズが一回り小さくて、初心者向けみたいな感じ……わたしでも扱えるかな?

プレートの端に、押しボタンみたいな物が6つ程ある。 順番に押して行くと、端っこのボタンで、プレートに文字列が浮かんだ。これが起動スイッチだったらしい。

――読める。

最初に出て来た文字列は、ガイドブックの類。どうやら、わたしの記憶喪失は、文字まで忘れるようなレベルじゃ無かったみたい。 文字の記憶が無意識レベルで蓄えられていたお蔭かも知れないけど、とりあえずホッとする。

考え考え、操作ボタンを押していると、やがて大天球儀(アストラルシア)のニュース・チャネルとリンクした。 トップニュースが、やはり今日の襲撃事件の事で、早くも新しいニュースラインが到着している。

――凶器となった『対モンスター増強型ボウガン』のひとつが、尖塔の最上階にある襲撃ポイントから持ち出されて、行方不明になっている事が判明した。 捜査本部は次のように呼び掛けている。見慣れない『対モンスター増強型ボウガン』を発見次第、手を触れずに、本部まで通報されたし。 慣れぬ人や非力な女子供が矢をセットしようとした場合、思わぬタイミングでバネが弾けるなどして大怪我をしやすいので、くれぐれも注意されたし――

行方不明……『対モンスター増強型ボウガン』が、ひとつ。

よりによって。あの襲撃に使われたと思しき『凶器』のひとつが、行方不明……

問題の、『対モンスター増強型ボウガン』は――犯人が持ち出したんだろうか?

この武器は機械仕掛けで、撃つだけなら女子供でも出来ると聞いた。でも、矢をセットする作業の方は、遥かに大変らしい。 『対モンスター増強型――』と言うくらいだから、よっぽど筋力が無いと完全には扱い切れないんだろう。

アルセーニア姫の暗殺事件に使われた凶器も、『対モンスター増強型ボウガン』と推測されていると言うのが、すごく気になるけれども……

*****

「へーい、カノジョ、ひとり?」

ビックリして――声がした方向を、見上げる。

すこぶる背の高い、金髪の男。一見して、ウルフ族・金狼種。

頭部の左右から出ているのは、ウルフ耳っぽい耳。王子様みたいな、赤色のサークレット。 ワルっぽいけど、ギリギリ『奇抜』という程度には節度のあるファッション。

「……巻き尾って事は……イヌ族さん?」

ワルっぽい雰囲気ながらも、顔の造作が平均以上に整っている――金髪サークレット男は、さりげなく『尾』を隠してたみたいなんだけど。

このテーブル、エントランスの端にあるから、ガラス窓が隣にあって。背後が、宵闇で暗くなったガラス窓に反射して見えるんだよね。巻き尾も、バッチリと。

「あっちゃー。ガラス窓かぁ。よく気付くね、カノジョ~」

金髪イヌ族の赤サークレット男は、背後のガラス窓を一瞥し、憎めない笑みを浮かべた。

ワルっぽい髪型をした金髪頭に手をやって、姿勢を傾けた拍子に、赤いサークレットが夜間照明にきらめく。 わたしの頭部にハマってる『呪いの拘束バンド』と、デザインが似ている。

その赤いサークレットは、額の中央部分が開いていて、左右対称に複雑なパターンの幅広のバンドにつながっているという華やかな様式だ。

へえー。イヌ族が好む意匠のサークレットって、こんな風みたい。

ウルフ族が好む意匠のサークレット――ヴァイロス殿下やリオーダン殿下がしていた銀色のサークレットとか――は、 普段使いじゃ無いみたいで、もっと細いラインだったけど。

金髪イヌ族の赤サークレット男は、ニヤニヤ笑いなんだけど、バカにしてる訳じゃ無いから、そんなに気にならない。 イタズラっ子が『エヘヘ、失敗した~』とか言ってるような感じ。

わたしがウルフ族って事は、この金髪イヌ族の赤サークレット男は承知していると思う。わたしの尻尾は毛並みがペッタリしてるけど、明らかにウルフ尾だから。

――でも、このヒト、一体どんな用事があって声を掛けて来たんだろう?

今は頭部に包帯を巻き巻きして、『人類の耳』も『呪いの拘束バンド』も、キチンと隠せている状態だ。 わたしの外見は、『耳パーツ手術の順番待ちの患者』には見えても、『アヤシイ忍者・工作員』には見えてないと思うんだけど……

小首を傾げていると――

――金髪イヌ族の赤サークレット男は、わたしの髪の周辺に素早く鼻を寄せて来た。

そして、髪の各所で、クンクンやり出した……匂いを嗅いでる?!

「な、何ですか?」
「変な声~。オレの勘は、確かに女の子と告げてるんだけどさー。紺色マントしてるし、男の子だったのかなー。 声変わり中のウルフ少年にしちゃ、匂いが違うような気がするんだけどさぁ」

ま、まさかの変態?! こんな、人目が一杯ある所で?!

金髪イヌ族の赤サークレット男は、わたしの顔の左側に――まさにドンピシャで、 『茜メッシュ』が存在する辺りに――鼻を移動した瞬間、「ウヒョオッ?!」と奇声を上げた。

ギョッとして、思わず、のけぞる。

金髪イヌ族の赤サークレット男が、わたしの頭部の包帯から飛び出している、わずかな髪をかき揚げて来た。『茜メッシュ』の位置だ。

その一瞬、金髪イヌ族の赤サークレット男の目がキラーンと光った。巻き尾が『大歓喜!』と叫ぶかのように、左右にブンブン振れる。

次の瞬間には、金髪イヌ族の赤サークレット男は、ビックリする程キレイな姿勢で、ひざまづいて来た。

「これは運命の出会いだ、お嬢ちゃん! オレの名前は『火のチャンス』と言うんだ! キミの正式名を教えてくれ! そして、《宝珠》をオレにくれ!」

――はぁッ?!

金髪イヌ族の赤サークレット男は、唖然とするほど素早くわたしの手を取り、左手薬指の根元に口づけして来た。 そして、いっそう目をランランと輝かせて、期待に満ちた笑みで見つめて来たのだった。

「わたし、お宝も何も持ってませんが……?!」

金髪イヌ族の赤サークレット男『火のチャンス』は、幅広の赤いサークレットの中央部の間隙、 すなわち装飾に覆われていない額の真ん中に、手をやった。そして、グイグイと顔を近付けて来た。

――か、顔が近すぎるって!

「オレの額に熱い口づけをしてくれれば、《宝珠》が……(ベッチン!)フゴォッ!」

気が付くと――『火のチャンス』なる金髪イヌ族の赤サークレット男は、脳天に強烈なハリセン攻撃を受けて、テーブルの下の床につんのめっていたのだった……

フィリス先生とメルちゃんが戻って来ていた。何が何だか分からない状況だったから、ホッとした。

「ルールは守りなさい、火のチャンス。《宝珠》盟約は、結婚制度に関わる神聖なルールよ!」

フィリス先生の容赦の無い視線を受けて、さすがに『火のチャンス』なる金髪イヌ族の赤サークレット男も、青ざめて縮こまっている。

わお。サークレットの色が《火》の赤なだけに、青ざめた顔色とのコントラストが印象的だ。 『火のチャンス』は、尻尾を丸めて引きつった笑いをしたまま、テーブルの端にズリズリと後ずさり出した。

フィリス先生、不吉な雷光をまとった『魔法の杖』もとい『ハリセン』を突きつけて、本気で激怒してるもんね。ウルフ耳の角度も、攻撃的角度に傾いているし。

「なんだ、まぁ久し振りだね、風のフィリス嬢。その物騒なモン引っ込めてくれ、話せば分かる。そして《宝珠》の予約について、2人で話し合おう」
「不良プータローと話し合う事なんか無いわよ」

けんもほろろな、フィリス先生なのだった。その脇では、サービスワゴンにティーセットを乗せて運んで来ていたメルちゃんが、意味深な様子で、ウンウンと頷いている。

「えっと……《宝珠》って何ですか?」

わたしが思わず発した質問は、金髪イヌ族の赤サークレット男『火のチャンス』を徹底的に驚かせたみたい。 チャンスさんは、ウルフ族に似た細い目を真ん丸に見開き、文字通り飛び上がった――文字通り。

「くうッ! 千載一遇の《宝珠》完全ゲットの好機だったのか!」

などと大声でボヤいたのが一層いけなかったらしく、フィリス先生のハリセンが、再びうなりを立てたのだった。

*****

金髪イヌ族の赤サークレット男『火のチャンス』を床にお座りさせたまま、夕食後のティータイムが始まった。

「全く、油断も隙も無い……この自称・御曹司『火のチャンス』は、この辺でも有名な『不良ドンファン』だから、気を抜いたらダメよ。 普通のイヌ族の男は、此処まで失礼な夜討ち朝駆けは――記憶喪失の隙を突くような不意打ちは――して来ないんだけどね」

フィリス先生がお茶を一服しながら、イヌ族『火のチャンス』に関する辛辣な人物紹介をして来た。

「男として『真実の愛』を追い求める事の、何が悪いってんだよ」
「貴殿のは、度が過ぎてるし、目的をはき違えてるのよ。『宝珠メリット』に目がくらんでるんでしょう。 《宝珠》は、一夫一妻制において《宿命の盟約》を決定する要素であると言うのが第一義であって、 それに伴う男性側の、危険察知能力の向上だの、身体能力や魔法能力の上昇だのは、《盟約》の副産物でしか無いんですからね」

金髪イヌ族の赤サークレット男、チャンスさんは、なおもブツブツと呟いていた。

「でも《宝珠》の増強効果ってさあ、10人の恋人と同時ラブした以上に凄いし、ほぼ永続的って言うしさぁ」
「唯一の人に一生の愛を捧げる事の意味を、ちゃんと理解して言ってるのかしら? その言い草って」

――何だか、全然かみ合っていない会話だなあ。

聞けば、イヌ族は多夫多妻制で、ウルフ族は一夫一妻制なんだそうだ。そりゃ、話が合わないよね。

ウルフ族は獣人の中で唯一、一夫一妻制の慣習を持つ種族として、《宿命図》の中に《宝珠》という内部構造を備えている。 他に《宝珠》を持つ種族は竜人のみだそうだから、割とレアな代物(アイテム)らしい。

メルちゃんが、お茶の中に可愛い花の形の砂糖を溶かしながらも、「そう言えば」と声を掛けて来た。

「お姉ちゃんと恋人は、《宿命の盟約》したのよ。あとで、お姉ちゃんの左の薬指を見てみると良いわ」
「左の薬指?」
「そうー。おでこにキスした時に、女の方の左薬指に《盟約》のサインが出るの。 お姉ちゃんの恋人は大歓喜したっていうのかしら、その後、お姉ちゃんを抱っこして近所の通りを爆走して、勢い余って、うちのドア、ブチ壊してたのよ。 普段は超・冷静沈着って人なのに、あんな風になるなんて、男って全く、バカよね」

前に会った時は、ジリアンさんの指を余り見てなかったから、良く覚えてないなあ。何か結婚指輪があったような気はするんだけど。

それにしても『おでこにキス』。

それで《盟約》というのが成り立つのか。

チャンスさんが『額に熱い口づけを』と迫ってきた理由は良く分かったけど、 そんなに簡単に《宿命の盟約》が成り立つんじゃ、グローバル慣習の『親愛の口づけ』挨拶をする時なんかは、大変なんじゃ無いだろうか?

――心の中の疑問が、バッチリと顔に出ていたらしい。フィリス先生が訳知り顔で説明して来た。

「そんなに簡単に成り立つ物でも無いわね、《宿命の盟約》と言うのは。 お互いに、最初から《宝珠》が合致して、しかも一定以上の好意を寄せ合う相手なんて、見付かる方が珍しいわよ。 イヌ族とウルフ族とは、子孫を作る事を前提にしての交配が可能だけど、イヌ族は《宝珠》を持たない種族だから、 正式に結婚しても《盟約》の証は出ないの」

そこで、チャンスさんが再び口を出して来た。

「オレにベタ惚れって言うくらい、夢中になってくれれば話は簡単だぜ。《宝珠》パワーもな」

ビックリしてチャンスさんを振り返る。

チャンスさんは、とっておきの物だろう色っぽい上目遣いと仕草とで、赤いサークレットに指を掛けた(犬座りでコレをやれるのも凄いかも)。 しかし、すぐに底意が透けて見える『ドヤ顔』そのものの満面の笑みを浮かべて来た。

「それにルーリーちゃん、キミ、イヌ族の父とウルフ族の母の混血でしょ、その顔立ちからして。子供は母方の種族で生まれるしさ。 オレはウルフ族の父とイヌ族の母の混血だけど、有力部族の血を引いてるからサークレット持ちの御曹司だったりするんだ。 これこそ、運命の恋人の出会い……(ゴッチン!)ブホォッ!」

フィリス先生、容赦ない。今度のハリセンは頑丈なタイプだったみたいで、シッカリ固形物っぽい音がした。

ようやくの事で、金髪イヌ族の赤サークレット男・チャンスさんは、大人しくなったようだった――と言うのは、まだ早かった。 チャンスさんは魔法か何かのように、ポケットから綺麗な香水瓶みたいな物を取り出し、メルちゃんに向かって捧げ持った。

「メールーちゃん♪ コレ、試してみない? その黒髪を、あっと言う間に輝くような金髪に変えてくれる、革命的な新商品の染髪料だよ」

――あ。メルちゃんって確か、『金髪コンプレックス』だったんだっけ。メルちゃんの目がキラーンと光った。

メルちゃんが香水瓶に手を伸ばしたところで――やはり、フィリス先生がサッと奪い取った。

「フィリス叔母さん、メルの金髪~!」

メルちゃんの抗議にも関わらず、フィリス先生は素早く『魔法の杖』を光らせて、香水瓶の中を照らした。『成分分析』の魔法みたい。 すぐに分析結果が出たみたいで、フィリス先生は、返すハリセンで、『火のチャンス』さんを『ゴッチン!』とやった。

「子供に危ない物を出すんじゃ無いわよ、この不良プータローが! これ、即効性の強烈な媚薬じゃ無いの。しかも、 我がウルフ王国の法律に引っ掛かる危険ドラッグ成分が、シッカリ入ってる!」

再び床に手を突く形になったチャンスさんは、それでも綺麗なひざまづきの態勢を取った。

古代の王子様がやるような、女性にとってはドキッとするような、あのポーズだ。赤サークレットも相まって、本物の王子様に見える。 鏡の前でいっぱい練習したに違いない――舞台役者並みに、サマになっているのが凄い。

「城下町の盛り場の一等地にある『ミラクル☆ハート☆ラブ』の新商品だから危なくないぜ。ちゃんと毛髪に金色のキラキラが出るし、 あと引かないから、アルコールと混ぜても二日酔いは無いし」

……セリフの方は、シッカリ残念だった。ドヤ顔の笑みも。

「ランジェリー・ダンスの店ね。夜の営業で、どんな風に『媚薬』が使われるのか、推して知るべしだわ」

再びフィリス先生の『魔法の杖』が、フィリス先生の激怒に応じてか、不吉な雷光をまとい始めた。 『魔法の杖』が変形して行ってるんだけど、ハリセンとは別の、もっと物騒な『何か』だ。

さすが(?)のチャンスさんも、命の危険を感じたみたい。

チャンスさんは口を引きつらせながらも、「じゃあな~」と、 モデル並みにカッコ良く身をひねって見せて来た後、サーッとその場を退散して行ったのだった。

*****(4)事件の後の長い夜(後)

「あなた、イヌ族の父とウルフ族の母の混血なの?」

斜め後ろから、見知らぬ声が降って来た。張りと色気のある、大人の女性の声だ。

振り返ると――レオ族の美女が居た。絶世の美女だ。ウルフ族の平均的な女性よりも、頭ひとつ分、背が高い。

美しいドレープのある濃紫色の、光沢のある細身のドレス。妖艶なデザイン。その中で盛り上がっている胸が、お見事だ。黒に近い濃い茶色の、ウェーブのある長い髪。

定番のココシニク風ヘッドドレスは、サイズ抑え気味ながら、ひときわ洗練された意匠や豪華な宝飾が、群を抜く富裕さを感じさせる。 お下げみたいに流れている左右の『花房』が、ダイヤモンドのような虹色の光を放って、キラキラと輝く。その先端に黒い宝玉が付いている――《地霊相》生まれの人みたい。

フィリス先生とメルちゃんもポカンとしている。圧倒的な美女オーラ、半端じゃないもんね。

ポカンとしているうちに――レオ族の圧倒的な美女は、ヒョイと椅子を引いて、わたしの隣に座って来た。

色っぽく脚を組んだものだから、妖艶な紫色のドレス下半身の深い切れ込みの間から、なおさらに色っぽい太腿とふくらはぎがチラリと見える状態だ。

レオ族の紫ドレスの美女は目礼して、わたしの左手を取った――何故か、わたしの左薬指を注意深く観察しているようだ。

「まだ未婚なのね。しかも、《予約》も何も無い、まっさら」

レオ族の謎の美女は、御満悦と言った様子で呟いた後、「失礼したわね」と言いながら左手を離し――わたしの顔を、しげしげと眺め出したのだった。

「確かに、これは混血の顔だわ。でも顔の造作は悪くない。身体つきも貧相だけど、全体バランスは、むしろ上々の類。 ちゃんと食べればモノになるし。 ウルフ族の母親の方は、あたしと同じ程度には、まぁまぁ絶世の美女に違いないわ。胸のサイズは、あたしには負けるだろうけど」

わお。すごい自信。圧倒的な美女が、当然のように美貌とナイスバディを自慢しておいて、嫌味が無いのがスゴイ。

「さっきまで、話が聞こえてたから耳を澄ませてたのよね。とりあえず初めまして、ウルフ族のルーリー嬢。それにフィリス嬢、メル嬢。 レオ帝国の親善大使リュディガー殿下が、こちらに来ている件は知ってると思うけど、 あたしの夫が、そのリュディガー殿下の部下の1人なの。レオ族ランディール卿の《地》の妻、クラウディアよ」

――はぁ。初めまして。

同じ目線になってみると、『地の妻・クラウディア』と名乗ったレオ族女性のヘッドドレスの網目の間から、 確かにライオンの『耳』が生えているのが分かる。腰の後ろからは、ライオンの尻尾。尻尾の先に、ライオンならではの濃色の房。

レオ族の美女クラウディアは一瞬、面白そうな顔になって、別の方向に視線をやった。

「あのイヌ族のナンパ男は、早くも今宵の『恋人たち』を見つけたみたいね」

――ひとつ先の大天球儀(アストラルシア)の傍に、あの金髪イヌ族の赤サークレット男、『火のチャンス』が居る。

3人の男性と3人の女性から成るイヌ族同士のカップルを組んで、その中で、ワンワン、キャンキャンと笑い合っているところだ。集団デートみたいな感じだ。

ビックリして眺めていると、『火のチャンス』が、わたしに気付いた。 ご機嫌そのものの、輝くような笑みを向けながら、ヒョイヒョイと接近して来る。

「これから皆でラブラブする所なんだ。女の子が4人増えても、 全然オッケーだよ! これから『ミラクル☆ハート☆ラブ』でデートだけど、一緒に来るかい?!」

――そのお店って、確か盛り場の『ランジェリー・ダンスの店』って言ってませんでしたか?

ポカンとしていると、レオ族の美女クラウディアが、色気のある笑みを浮かべた。

「ごめんなさいね、ルーリー嬢は既に、あたしとの先約が入ってるのよ、ナイス・ワンコ君。 男と女の数が揃わなくなったら後々大変なんでしょ、6人で夏の情熱の夜を楽しんでらっしゃいよ」

チャンスさんの方は、『それも、そうだ』という風に納得したみたい。 カッコ良くパチリとウインクを寄越して来た後、スキップして、集団デートっぽいグループに戻って行った。

6人のイヌ族の男女は、クスクスと笑い合いながら、総合エントランスを出て行く。

「あの不良プータロー、何気ないふりして、ルーリーもメルちゃんも数に入れてたわね。未成年は利用厳禁の店なのに」
「顔が良くても金髪でも、無限に無節操な浮気者は、サイテーだわ」

フィリス先生が、ハーッと溜息をついている。メルちゃんは目が据わっていた。

訳が分からなくて首を傾げていると、レオ族の美女クラウディアが、面白そうな顔でわたしを眺めて来たのだった。

「あの6人のイヌ族の男女は、求愛ダンスで盛り上がった後、お互い裸になって、 夫婦の愛を交わし合う事になってるのよ。今回は1人当たり3人の異性と、ないし2人の同性も加えて」

――はぁッ?!

「イヌ族は、ウサギ族やネコ族と同じように多夫多妻制ですもの、重婚は普通だわ。未成年の内は当然ダメだけど、 成年になったら、お互いに合意が成り立ち次第、男同士でも女同士でも、複数の人と次々に結婚してるし。 重婚していない成人イヌ族の方が、異常なくらいだし……この場合の結婚は、レオ族やウルフ族、クマ族の考える結婚とは、ずいぶん違うわね。 繁殖期も何も関係ない――『お祭り気分』そのものだから」

うわぁ。クラクラする。そこまで進歩的な結婚スタイルとは思わなかったよ。

フィリス先生もメルちゃんも何も言って来ないという事は、レオ族の美女クラウディアの解説は、ほぼ正確って事なんだろう。

「で、でも、例外はあるんですよね? ウルフ族とイヌ族の交配……と言うか、結婚となると」
「それは無いわね」

即座に、否定が返って来た。『火を見るよりも明らかな事実である』と言うかのように。

「血統書付きの貴種――イヌ貴族の方は、繁殖期に限っては血統書付きの子孫を残すための義務があるけど、 その最低限の義務さえ満たせば、雑種との重婚の方は自由だし。ウルフ族との重婚は男女ともに雑種扱いで、ほぼ無制限。 同性だろうが異性だろうが、お堅いウルフ族をランジェリーと媚薬で落とす事は、称賛されるスキルのひとつだそうよ。 さっきのナイス・ワンコ君のような容貌の整った混血は、男女ともに、割と見かけるわね」

恐るべき解説を涼しい顔で語り終えたレオ族の美女クラウディアは、改めて、わたしの顔をしげしげと眺めて来た。

「元々混血は、当たり外れが大きいのよ。成長期に気性が荒れやすいから、半永久的に人相が悪くなりやすいし、バーサーク化しやすい。 叩けば埃の出る冒険者ギルドや闇ギルドに属する混血の方が、イヌ族、ウルフ族、男女ともに多いくらいよ。 戦闘奴隷の方でもね。あなたの御母堂の事は知らないけど」

レオ族の美女クラウディアは、そこでニンマリと、底意のある色っぽい笑みを見せた。

「その素晴らしい落ち着きぶりを見込んで。ルーリー嬢に、私の夫のハーレム妻として囲われて頂きたいの。 他種族から獲得した『性質の良いハーレム妻』というのは、レオ族男性にとっては、レオ社会において名誉と尊厳、社会的地位の上昇につながるのよ。 ハーレム妻になってくれるなら、耳パーツの手術代も、こちらで負担してあげても良いわ」

一瞬、言われている意味が分からなくて、考え込んでしまったよ。

――えーと、つまり、わたしを、レオ族のハーレムに入れたいって事で、その打診をされているって事?

フィリス先生が不機嫌な様子になって、口を挟んで来た。

「耳パーツの手術は、《高度治療》の領域よ。高く付くわ」
「それは全く問題ないわ、フィリス嬢。わがレオ帝国にも優秀な高度治療師が揃ってるし、夫は裕福だから」
「この際だから聞いておきたいけど、他種族のハーレム妻が入って来ても、クラウディア殿は嫉妬とかしないの?」

レオ族の美女クラウディアは、平然とした様子で、濃紫色のドレスからチラリと見える脚を色っぽく組み変えた。

「嫉妬? 何で嫉妬するの? レオ族とウルフ族の間には子孫は出来ないし、愛情の方も、それに見合う儀礼的レベルだし。 儀礼婚というか、成人になり次第『人体』同士で夜伽をする事には、なるけど――」

クラウディアは、組み変えていた足を、イタズラっぽくブラブラした。高いハイヒールが、脚のラインの艶やかさを一層、増している。

周囲の、あぶれたイヌ族やネコ族やウサギ族、それにレオ族の、とりわけ男性たちの視線が釘付けになっている気配が、わたしにも感じ取れた。

クラウディアの説明が続く。

「――儀礼婚にも関わらず、ルーリー嬢が同じウルフ族の男との浮気を禁じられる事になるのは不便だろうけど、 《宝珠》って簡単に見つからないそうだし、我が夫が『宝珠メリット』を頂いても、そんなに問題では無いでしょう。 『接待役のハーレム妻』ならウルフ族の男との恋愛も制限付きで自由だけど、 『宝珠メリット』付きの妻を『接待役』に落とすなんて勿体無い事は、しないわよ」

あっさりと言い切ると、レオ族の美女クラウディアは、艶麗そのものの笑みを、わたしに向けて来た。

「ハーレム妻としての生活は楽しいわよ。監視付きになるけど物見遊山だって自由だし、贅沢も出来るわ。 思い切って、出世街道に足を踏み入れてみたいと思わない?」

――やっぱり、話がかみ合ってないみたい。レオ族は一夫多妻制ハーレム型が基本みたいだし。

メルちゃんと一緒になって呆然と耳を傾けていると、クラウディアが、改めてかしこまった風で、声を掛けて来た。

「ルーリー嬢は記憶喪失だそうだから、基本を説明しておくわね。レオ族の男性は、甲斐性ナシだの犯罪者だのは別にして、 1人あたり4人のレオ族の正妻を持つ事が義務なの。 《火》の妻、《風》の妻、《水》の妻、《地》の妻――我が夫の《地》の妻が、このあたし、クラウディアって事。 レオ族では、女性の出生率の方が高いから自然にそうなる訳」

聞いてみれば、成る程だ。社会の男女バランスを保つためと言うのも、あるのかも知れない。

「レオ族男性の財産の80%は、我々4人の正妻が持ち寄った持参金が元手になっていて、引き続き、我々、正妻が管理してるの。 今のところ、我々4人の正妻の事業は上手く行っていて、夫の固有資産も順調に増えている。他種族から複数のハーレム妻を迎えても問題ないくらいにね」

レオ族の美女クラウディアは、そこで、余裕たっぷりにお茶を一服した。濃紫色のドレスの美しいドレープが、 豊かな胸を演出しつつ、夜間照明に揺らめく。

「ウルフ族女性は『宝珠メリット』付き、低リスク高リターンの、有望なハーレム要員の候補だわ。フィリス嬢も、幾つか申し入れを頂いている筈よ。 メル嬢も地は良いから、あと数年もしたら候補になるわね。いずれにせよ、大人しい性格じゃないと扱いにくいから、性格パターンと相談の上になるけれど」

メルちゃんは、いきなり自分も名指しされて、開いた口が塞がらないと言う顔だ。 顔を赤青、目を白黒している様は、美少女だけに、妙に絵になっている。

――何だか、投資商品みたいな扱いだなぁ。

実際、レオ族の4人の正妻にとっては、他種族から引き入れたハーレム妻は、『夫を飾り立てるビジネス商品のひとつ』という感覚なのかも知れない。 『嫉妬の対象では無い』と言うのも、リアル感を持って理解されてくるから、ビックリだ。

「監視の目を盗んで勝手に行動する、夫以外の男性に浮気して《宝珠》を捧げる――この2点さえ犯さなければ、あとは自由よ。 衣料費や食費なんかの手当も出るし。それだけじゃ足りないなら、我々正妻の事業を手伝えばボーナスが出るし、自分でビジネスを起こしても良いのよ。 繁殖期のクマ族の愛の巣に監禁されて、使用人と一緒に子守を手伝わされるとか、 イヌ族とのパッパラパーな関係に泣かされるよりは、ずっと条件は良いと思うわ」

クラウディアは、胸元に垂れて来た黒茶色の波打つ髪を優雅に払うと、美しい灰色の目をキラリと光らせて、わたしをひたと見つめて来た。 間違いなく、ターゲットを定めた、ガチの目だ。ギョッとする。

「ルーリー嬢は、混血にしては雰囲気が良いわ。一見してイヌ族系の平凡顔だけど、おそらくは美麗だった母親の特徴が、シッカリ出ている。 お化粧すれば化ける筈よ。こうして話してみると、とっても大人しくて従順で扱いやすそうだし、ますます優良物件ね。 『茜離宮』じゃ無くて、こっちを試してみて良かったわ。こんな掘り出し物、ウルフ族の貴種の令嬢たちを回っても、滅多に見つからないもの」

――評価して頂いて光栄ですけど、何だか怖い!

「ああ、今すぐにでも我が夫の印付きの、鍵付きブレスレットをハメて、連れて行きたいわ。他のハーレム団に横取りされる前に」

レオ族の美女クラウディアは、濃紫色のドレープを持ち上げている見事な胸元から、シャラリと音を立てて、本当に『鍵付きブレスレット』を取り出した。 隠しポケットがあったみたい。

その『鍵付きブレスレット』は、クラウディア自身の手首にもあるのと、同じデザインだ。 独特の紋章のようなデザイン・パターンで、ぐるりと彩ってある。異なるのは、鍵の有無だけ。

そして、『ハメても良いでしょ?』と言わんばかりに、ウットリした顔で、ジリジリと迫って来る。

――本気で怖いッ!

わたしは思わず飛びすさり、フィリス先生の背後に隠れて縮こまった。 『尾』の先端がお尻にピッタリくっ付いているから、自分でも、尻尾が丸まって震えているのが分かる。

わたしが座っていた椅子が、ガタンと音を立てて倒れたのは、逃走のオマケという事で。

「あら、残念。でも、あたしは諦めないわよ、これ程の優良物件。まぁ、今日はもう夜も遅いし、ルーリー嬢も疲れているみたいだし。 今回のボウガン襲撃事件で、我が夫の滞在シーズンも偶然にして延長したのよ。また日を改めて、ゆっくり話し合いましょうね」

レオ族の圧倒的な美女クラウディアは、紫色のドレスのドレープを美しくひるがえし、スラリと席を立った。 ついでに、優雅な所作で、わたしが倒した椅子を立て直した。

そして――豪華な紫色の綿毛扇を取り出し、美しすぎる高笑いをしながら、クラウディアは立ち去って行ったのだった。

このようなタイミングで綿毛扇を出すと、『宿に戻るわよ』というサインになるらしい。 何処に居たのか、侍女と思しきレオ族の少女が出て来て、クラウディアの背後を、荷物を持って粛々と付き従って行く。

レオ族の未婚の少女は、お下げスタイルの『花房』を着けないらしい――ライオン耳がピョコンと生えている少女の頭部に装着されているのは、 《火霊相》生まれという事を示すのであろう赤色ビーズを連ねた、カチューシャ風ヘッドドレスだけだった。

*****

「大変なヤリ手に、目を付けられちゃったみたいね」

さすがのフィリス先生も、呆然としている。メルちゃんが圧倒された様子で、コクコクと頷いた。 お茶はスッカリ冷めていたけれど、そんな事も気にならないくらいという様子だ。

「貴種クラスの親善大使の部下になるというのは、レオ族の社会の間では、相当に実力を認められているという事だわ。 ウルフ族に負けず劣らず、レオ族の社会も実力主義だから……」

フィリス先生が、当惑した表情のまま、わたしを振り返って来る。

「ルーリーは、父親と母親の事は、覚えては――居ないんでしょうね?」

――全く覚えてないよ。

わたしは、情けない思いになりながらも、コクリと頷いた。 これは自分の直感だけど、両親と過ごした時間って、ほとんど無かったような気がする。

母親の匂いだったら、「その匂い」がすれば分かるかも知れない――と言う曖昧な感覚はあるけど、父親の方は、全く実感が無い。

イヌ族の父親だったとしたら、イヌ族の行動パターンからして、ほとんど母親の傍に居なかった筈。当然かも知れない。

メルちゃんが口を開いた。

「ルーリーの感覚としては、一夫一妻制が一番、シックリ来る?」

――そうだね。レオ族スタイルの一夫多妻制ハーレム型なら、ギリギリ耐えられるかも知れないと言う感触はあるけど。 やっぱり、一夫一妻制が一番な感じ……

そこまで考えてみて――急に顔が火照って来た。

一夫一妻制って。

それって、文字通り、わたしの唯一となる《宿命の人》を探してる――『わたしだけの恋人=夫、絶賛☆募集中』って事なんじゃ無いか!

わたしの中に、そういう、熱い恋人を求めるような情熱的な部分って、本当にあったんだろうか。

こういう事を真剣に考えて喋るのは、ハッキリ言って慣れてない。まだ10歳のメルちゃんよりも、16歳のわたしが慣れてない、って、どういう事?

わたしの狼狽ぶりは、あからさまだったみたい。フィリス先生が不思議そうに首を傾げて来た。

「何処で育ったのかは皆目、分からないけど、ビックリするくらい純粋培養な環境だったのかしらねえ」

――それ以上、ツッコまないでください。わたし、立ち直れません……

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深森の帝國