深森の帝國§総目次 §物語ノ傍流 〉瑠璃花敷波03

―瑠璃花敷波―03

part.03「密室の謎と謎の襲撃*1」

(1)朝の会話:王子と王女
(2)再びの噴水広場にて
(3)偶然の取っ掛かり
(4)宮殿ゲートを通過する
(5)王妃の中庭:密室の中の姫
(6)三尖塔の見える回廊にて

*****(1)朝の会話:王子と王女

――ああ、これは夢だ。わたしは今、夢を見ているところなんだ。

長くて、ハッキリしない内容の夢。常夜闇のような空間の中を、幾つもの『断片』が漂流している。

しばらくすると、まさに『星宿海』というべき光景が現れた。常夜闇のような空間の中、次々に『断片』が星の影を映し始めている。 眺めていると、やがて、無数の星団が重なる壮麗な空間となったのだった。

でも、まだ何かが足りない――足りない? わたしの名前?

――わたし、『水のルーリエ』だけど。

無数の星団の運動は、劇的だった。

名前が意味を持って走り抜けた瞬間――曖昧に漂っていた全体が波立ち、ひとつの構造となって結び付き、連動して、一斉同時の回転を始めた。 まるで、本物の天球の回転を見ているみたい。

四色のエーテルの光が、半ばは明るく半ばは暗く、互いに反射と屈折と散乱を繰り返しながら、きらめいている。 エーテル光の軌跡は、数多の魔法陣みたいな構図となって、多次元調和的に折り重なっていった。気のせいかも知れないけど、青い光が一番多いように感じられる。

――あの奥にあるのは、何?

中心部と言うべきかどうかは分からないけれども。そういう感じのする場所で、猛烈な速度でスピンをしている構造体がある。 スピンをしているって事は分かるんだけど、スピンの方向はハッキリしない。もしかしたら、これも多次元構造体なのかも知れない。

あれ、金の星と銀の星で出来ているのかなあ。良く分からないけど、不思議に心惹かれる構造体だ。 花みたいだな……でも、球体のような形をした花って、あったかな?

周りの天球は、着実に、『水のルーリエ』の名前と共鳴しながら、星々の系列を再構成し始めている。 断片に過ぎなかったものが次々に連結されて、系列を持った構造体となっていく様は、不思議だ。

空白部分が大きく広がっている箇所がある。これ、多分、個人的記憶の領域だ。これから少しずつ、わたしが新しく作り込んで行く部分なんだろうと思う――

*****

――夜明けと共に、目が覚めた。

ボンヤリと、明るい方に顔を向ける――最寄りの窓から見えるのは、東雲だ。

夜を残した空の中で、ラベンダー色をした暁星(エオス)が輝いている。エーテルで出来た未知の天体。 今まさに、払暁の光で溶けて行くところだ。砂時計の砂で出来た何かみたいだなあ。

夜明けの空模様はスッキリしていて、今日も快晴だろうなという感じ。

わずかながらも魔法感覚が復活し、エーテルの色と形が分かるようになったお蔭なのか、それとも、自分の名前が関係する不思議な夢のお蔭なのか。 その辺りは曖昧なものの、エーテル物体に関しての一般知識が、ピンと来るようになった。思い出せない知識の方が、もっとずっと多い状態なんだろうけど。

あ、そう言えば、窓にはカーテンが掛かって無いんだよね。遮光とか保温とか、どうなってるんだろう。

窓ガラスには、うっすらと、モヤみたいな何かが含まれている。 時間を掛けて窓ガラスを良く見ていると、太陽がだんだん高くなると共にモヤが変化して、サングラスみたいに偏光が掛かって来るのが分かる。

詳しい仕掛けは良く分からないけど、多分、魔法で色々調整しているんだと思う。便利だなあ、魔法って。

やがてフィリス先生が、朝食のワゴンを引いてやって来た。 夜間・早朝当番の配膳担当者(メルちゃんとは別の人)が持って来てくれたそうだ。

「お早う。昨日は、グッスリとお眠りだったわね、ルーリー」

昨日、わたしは一度目を閉じた後、翌日までずっと目が覚めなかったそうだ。まだ体調が不安定なせいらしい。

そして、わたしが眠りこけている間に、ちょっと驚くような話があった。

このシーズンの宮廷となっている『茜離宮』での御前会議が終わって、夕刻の頃ディーター先生が戻って来ていたと言う。 その時、あの豪華絢爛な金髪の『ヴァイロス殿下』が、直属の部下や従者たちと共に、おんみずからディーター先生に同行して来てたそうだ。

――うわぁ、『殿下』と言えば第一級のロイヤルの重要人物じゃない? そんな人物が、ホイホイと、 身元不明の侵入者の顔をのぞきに来るものなの?

あの美形な怖い人に、爆睡中の変な寝顔をのぞき込まれていたのかと思うと、ぞわぞわ鳥肌が立って来るし、色々な意味で落ち着かない。

「ルーリーは、昨日まで面会謝絶の状態だったのよ。先方にしてみれば5日間も待たされていた訳だから、 相当に時間が惜しかったんでしょうね。殿下が関わる王宮警備の仕事の一環で、 『容疑者/危険人物では無い』という事実の追認が第一義だったから。 ただの追認だから、『代理の役人を寄越す』というやり方でも問題は無いんだけど――」

フィリス先生は、そこで思慮深く首を傾げた後、更にコメントを付け加えて来た。

「お年頃の女の子だという報告が、先に行っていたからかも知れないわ。 洗髪の際に、偶然に茜メッシュが見つかった件を新たに報告したら、ディーター先生もホッとした顔になっていたもの。 魔法使いでも何でもない普通の人は、《宿命図》による証明を簡単に信じないのよ、普通に見えるような代物じゃ無いから」

喋っている間にも、フィリス先生の手はテキパキと動き、朝食のテーブルが瞬く間に整った。

「うまそうな匂いだな」

廊下の方のドアとは違う、研究室の方につながっているドアから、ディーター先生がボソボソと呟きながら顔を出して来た。 金茶色のヒゲを、相変わらず無精ヒゲ風に刈り込んでいる。

ディーター先生は朝が弱いのか、寝ぼけ顔だ。 ウルフ耳がフニャフニャと傾いていて、明らかに頭の半分が、まだ夢の中という雰囲気。 生あくびを何度もしているし、着ている灰色ローブも、後ろ前だ。フード部分が、幼児がやる『よだれかけ』みたいに首元に垂れ下がっている。

フード付きの灰色ローブを、どうやったら後ろ前に着られるんだろう……『この世の七不思議』レベルのミステリーだと思う。

フィリス先生が、口元をキッと引き結んだ。ウルフ耳も不吉に傾いていて、攻撃スタイルの角度だ。

手に『魔法の杖』を握り、見上げるような背丈までシッカリ届く長さの、見事なハリセンに変化させる。 そして、フィリス先生は助走を付けて飛び上がり、ディーター先生の脳天を、ハリセンで思いっきり『ベッチン!』とやった。

――最大強度で殴っていますよね、フィリス先生?

「ディーター先生! ローブが後ろ前ですから直して来て下さい!」
「おお……ほぉ?」

どうやら、ディーター先生は、ガッチリした体格という事もあるのか、まったく、こたえてないらしい。

ウルフ族男性の身体って頑丈らしいんだけど、どのくらい頑丈なんだろう?

あのゴツゴツの石の床の地下牢に放り込んで拷問するくらいだ、相応に頑丈なんだろうとは思うんだけど……うん、たぶん、 わたしの半分くらいのアザの数に留まったりするのかも知れない。良く分からないけど。

ディーター先生は、何とも子供っぽい、モノグサなやり方で後ろ前を直し始めた。ローブのベルトをゆるめて、袖を抜いて、ローブをクルッと回して、 改めて袖を入れる。そしてベルトを締めると言うスタイルだ。上級魔法使いとしての威厳が、まるで『カタナシ』という感じ……?

フィリス先生が、『ヤレヤレ』といった溜息をつきながら、ディーター先生向けに濃いコーヒーを淹れ始めた。

――あれ? 先生がたも、病室で朝食を頂くんですか?

フィリス先生いわく、わたしが此処に運び込まれて来てから、こうだったらしい。 食事をしている間も、『呪われた拘束バンド』の解析を続けていたそうだ。研究のためでもあったそうだけど、その節は、有難うございます。

濃いコーヒーを飲み、胃袋に食事が収まり出してから少しすると、ディーター先生がシャッキリとした顔になって来た。 目が覚めて来たんですね。

「ああ、茜メッシュの件で思い出したが、フィリスがルーリーの髪をかき分けて茜メッシュの位置を示した時の、 ヴァイロス殿下、以下の面々の顔は、実に見ものだったな」

感想を言う程の出来事だったんだろうか。 わたしにしても、ジリアンさんの美容店で、合わせ鏡でもって初めて見た時はビックリしたけど、それだけだ。 先方がどんな顔をしていたのか知らないから、わたしは余り実感が湧かないなぁ、という感じ。

「茜メッシュが見付かった事が、そんなに驚く事なんですか?」
「おお」

ディーター先生は、切り分けたパンの間に卵焼きと付け合わせを器用に挟みながらも、面白そうな顔で頷いて来た。

「フィリスにしても男側の心理の肝心な部分までは推察が行かんだろうなぁ。 知らぬは『茜メッシュ持ち』ばかりなり、というところだな」
「茜メッシュが、『天球に標(しるべ)せるアストラルシア』と古典ポエムでも言い習わすくらいには特別なサインだ、 という事は理解しておりますとも、ディーター先生。 特別なライトアップ、色眼鏡、幻覚魔法による小細工などなど、厳選された条件下で無ければ、人工染料では同じ色合いを再現できないくらいですから」

ディーター先生は、訳知り顔と言った様子で苦笑している。

「深い意味があるんだ、あるともさ……その証拠に、ヴァイロス殿下、以下の面々は、退出の際はシッカリ『敬意』を表して来ただろう」

――アストラルシアって、あの総合エントランスにあった魔法道具『大天球儀』の事ですよね。

わたしは少しの間、思案してみた。

――あの真ん丸の球体な大天球儀でもって、茜メッシュに例えるというのは、ちょっと苦しい気もしないでは無い……

うん、異性の心理ロジックは永遠の謎だと思うよ。わたしも、何でそういう風につながるのかは、分からないし。

無意識のうちに、茜メッシュがあると思しき位置の髪に手が伸びる。メルちゃんと同じくらいの長さ――肩の長さまで髪の毛が伸びて来れば、 『人類の左耳』の下あたりから、一筋の茜色が見えて来るようになる、筈。

不意に――何という事は無いけれど、ポンと思い浮かぶものがあった。

――非業の死を遂げたと聞く第一王女アルセーニア姫も、頭の毛の何処かに――

「あの、アルセーニア姫も、茜メッシュが何処かに生えてたんですか?」

2人の先生は、揃って頷いて来た。やっぱり、あったんだ。 ウルフ族女性だから当然としても、わたしにとっては、まだちょっと不思議な感じがする。

ディーター先生は、パンをムグムグとやってゴクリと飲み込むと、少しの間だけ、窓から見える『茜離宮』に目をやった。

「中央の生え際にな。非常に目立つ位置だったから、宮廷の貴公子たちの目を釘付けにしていたよ。 それにまぁ、『殿下』の実の姉君だ。ルーリーにしても、アルセーニア姫の美貌は推して知るべし、というところじゃ無いかね」

そう言ってディーター先生は、様々な感情が込められたと思しき深い溜息をついたのだった。

「若くして花の命を散らすとは、むごい事もあったもんだ。秋には、婚約者のリオーダン殿と結婚する予定もあったから、余計にな。 かの第一王女としての地位、美貌、頭脳……非の打ち所の無い姫君そのものだった。 弟のヴァイロス殿下でさえショックで落ち込んで、1日中、無口になったと言う程の大事件だったのさ、アルセーニア姫の急死は」

――『殿下』の、あの激怒には、アルセーニア姫の事件の事もあったのかも知れない。あの時は散々恫喝されたけれども、 姉思いの弟としての思いも入り交ざっていたんだろうなと、今にして納得するような思いだ。

ヴァイロス殿下の実の姉君アルセーニア姫の急死は、ホントに気の毒だったと思う。

わたしは記憶喪失だけど、王女の急死事件には間違いなく関わっていないと、これは確信をもって言える。 『殿下』を暗殺しようとして此処に来た訳でも無い、筈。

――容疑が、少しでも晴れていたら良いのだけど。

そして、アルセーニア姫殺害事件の真犯人も、首尾よく捕まってくれたら良いと思う。

*****

「朝の入浴と言う訳には行かないけど、包帯が取れる状態だから、身体を拭くだけでも違うでしょう」

――という事で。

ディーター先生に一旦ご遠慮頂いて、朝食後、フィリス先生の付き添いでタオルを使わせてもらった。

湿布と包帯を外して、お湯で絞ったタオルで全身を拭く。うっ。身体をひねる度に、痛みが響く。

だけど、身体全身に出来たアザは、昨日よりは紫色の面積が少なくなっているみたい。 転んで出血してしまった部分とかは、既に傷口が塞がっている。痛みは……意外に残っている。

「数が多いから、時間は掛かるわよ」

フィリス先生が苦笑いしながらも、痛み止めを処方してくれた。 良く効く鎮痛成分が入ってるから少しは動きやすいかも知れないけど、無理しないように、という注意と共に。

着替えは今のところ無く、患者服な生成り色のスモックの上下のみ。今は夏だから、薄手でも大丈夫みたいだけど。

「フィリス先生、あの、灰色の上下は何処ですか?」

途端に、フィリス先生は苦虫を噛み潰したような顔になった。

「あれは処分したわ。ルーリーは完璧に記憶喪失だったから分からなかったのね。処刑日程が確定した死刑囚が着用する物なの。 脱走したイヌ族の凶悪犯に見えてたかも知れないわね。安心して良いわ、現在の脱走犯のデータリストに、 ルーリーの《宿命図》と一致している物は無かったから」

――凶悪犯の脱走を防ぐための一種の拘束衣だったんだ。『殿下』が長剣を突きつけて来たのも納得だ。

わたし、随分アヤシイ恰好してたんだなあ。よく瞬殺されなかった物だと思う。

*****(2)再びの噴水広場にて

患者服である生成り色の無地のスモックを、再び身に着けた所で、フィリス先生が話しかけて来た。

「歩行の方は一応、問題ないし、今日はルーリーが出て来た噴水広場に行ってみましょう。何か気が付いた事があったら、教えてちょうだい。 殿下たちは――ディーター先生もそうだけど――ルーリーが転移魔法の先触れも無しに、どうやって降って湧いて来たのか知りたがってるのよ」

転移魔法は《風魔法》の一種だけど、隠密レベルの転移魔法を発動できる魔法使いは、 《風霊相》生まれの上級魔法使いの中でも5人に1人くらい。 獣王国の全体でも、登録済みの《風霊相》上級魔法使いは300人にも満たない状態だから、そちらの調査の方面は、すぐに結論が出たそうだ。

フィリス先生は《風霊相》の生まれで、中級魔法使いながら《風魔法》は専門。 転移魔法もお手の物だけど、それでも、隠密レベルの転移魔法は発動できないと言う。

ディーター先生は上級魔法使いだけど、《地霊相》だから転移魔法は専門外で、標準的なレベルに留まる (とは言え、上級レベルの《風魔法》を幾つか発動する事は出来るから、それはそれで凄い事だそうだ)。

あらかじめ転移魔法陣が刻まれていないポイントに、即席で転移魔法陣を構築するという事は、 正確で精密な転移魔法陣をゼロから描き出していくという事。しかもフリーハンドで。 まして隠密レベルとなると、何も分からない暗闇の中で、正確な図形を描こうとするようなもの。非常に神経を使う作業になる。

まっさらな石畳という場で、即席で隠密レベルの転移魔法を発動する――というのは大変な事。 それこそ『マイスター称号』を持つ大魔法使いレベルじゃないと――というくらい高難度な代物なのだ。

そんな説明をしながらも、フィリス先生は、物置棚から新しい包帯を取り出して来た。

――あれ? 身体には、もう包帯を巻かなくても大丈夫だったですよね?

「包帯を頭部に巻いていた方が、周りの人に余計な詮索をされにくいのよ。 『耳』パーツを再生するためにやって来た入院患者さんという風な感じになるから。 出逢う人たち全員に、その拘束バンドの件を説明している暇は無いしね」

と言う訳で、昨日と同じように、外出に先立って、フィリス先生に包帯を頭部に巻き巻きしてもらったのだった。

*****

――特にピンと来るような感触は……無い。

わたしが出て来たと言う場所には、あの噴水が、存在するけれど。

記憶にある通りの滑らかな石畳。その周りに、緑の芝草。傍らに背の高い樹木が立っていて、頭上で緑の枝葉をいっぱいに伸ばしている。 真昼の頃には、あの日と同じように、この樹木の下に広々とした半日陰が出来る筈。

見覚えのある置き石も、記憶にあるままの位置に鎮座していた。その石の表面に、『殿下』が作った魔法の楔穴(くさびあな)も残っている。

だけど、此処に来る前に何があったのか――全く思い出せない。

ボンヤリと、『雷雨の嵐に巻き込まれてメチャクチャに転がされていた』らしい、というような感触はあるけれど。 それは、四大《雷攻撃(エクレール)》魔法に伴う典型的な現象だそうだ。《火》の雷光、《風》の強風、《水》の豪雨、《地》の震動。

「――或る程度は覚悟はしていたが、そこまで徹底的な記憶喪失だとはなぁ」

調査研究で付き添って来たディーター先生が、呆れ気味の溜息をついている。フィリス先生も、記録のためのノートを持って来ていながら手持ち無沙汰だ。

――思い出せなくて、ごめんなさい。でも、本当に何にも思い出せないんだよ。

わたしはもう一度、チラチラと噴水の方を眺めた。

真ん中で、水を噴き出しているオブジェがある。古風な水瓶(みずがめ)の形をした透明な噴水口だ。 いつの間にか、フラフラと惹きつけられるように、わたしは円形をした水槽の端にしゃがみ込み、手を掛けていた。

噴水の底となっている面は、地面よりも深い所にある。適当な深さの穴を掘って、そこに噴水をセットしてあるのだ。 それで、地上部分の水槽の仕切りの高さが、わたしの膝丈よりも低い位置まで繰り下げられている。

――あの日、寝そべったままでも、噴水の中央部に水瓶(みずがめ)の形をしたオブジェがあるのが楽々見て取れた訳だ。

透明な容器の中で、『ルーリエ』種だという青い水中花が踊っていた。病棟の中庭広場でも見かけた、 ミントグリーン色をした蔓草タイプの藻。そこに、瑠璃色をした六弁の小花が付いている。

オブジェの外にも分枝を伸ばして、噴水全体にワッサワッサと広がっていて、 円形をした水槽の中でユラユラと揺れていて、如何にも気持ち良さそうだ。

――わたし、植物の方の『ルーリエ』に生まれてたら、なーんにも考えないで生きていられたのに。

その心中の呟きは、実際の呟きになって洩れていたらしい。

フィリス先生が『魔法の杖』をハリセンに変形して、『ペチン』と頭をはたいて来た。 病棟に担ぎ込まれて来た最初の時の方が、ヘタレて弱っていたけど、ウルフ族ならではのガッツがあったんだって。

決まり悪い気持ちになって噴水を眺めていたら、別の道が噴水広場から伸びているのに気づいた。しょっちゅう使われているらしく、 車輪の転がった痕跡みたいな物もある。

――ここって、『道外れの噴水』じゃなかったの? あれ、でも『外れの噴水』って言ってたよね?

「あの道は、何ですか?」

その質問に答えたのはディーター先生だった。

「ここら辺の別棟――『茜離宮』の控えの棟への運搬ルートだ。病棟向けの魔法道具とか――この運搬ルートを運ばれて来るのは、魔法道具が多いな。 此処に『ルーリエ』の噴水があるのも、その関係だね」

成る程。魔法道具の運搬ルートの途上にある、洗い場ポイントなんだ。穴を掘って、水槽の地上部分の仕切りの高さを繰り下げてあるのも、 洗い場として便利なように設計されているからなんだろう。

しげしげと見慣れぬ道を見ていると、ディーター先生が「おや」と言いながら、横を見やった。 『茜離宮』と直結する、メインの散策路のある方向だ。

「ヴァイロス殿下たちが、レオ帝国の大使と散策に来ている。こちらは裏方らしく、引っ込んでいようじゃ無いか」
「やんごとなき方々が勢揃いね」

成る程、仕切り壁そのものの樹林を透かして、きらびやかな一行がゆっくりと歩んでいるのが見える。 ごくごくわずかな高低差ではあるけど、こちらの方が丘の上になるから、一行の様子が良く見えた。

フィリス先生が適度に解説を入れて来てくれる。

豪華絢爛な金髪が、ウルフ王国の第一王子『火のヴァイロス』殿下。続くのが、ウルフ王国の第二王子、黒狼種『風のリオーダン』殿下。 どちらも、ロイヤルブルーの着衣に純白のマントだ。公的な場だからか、2人とも頭部に、ウルフ族の物だと言う銀色のサークレットをしている。 遠目にも分かる美形な人々だから、眼福というところ。紺色の軍装姿の親衛隊が、付き従っている。

一方、朱色の着衣をまとった巨人風な5名はレオ族の戦闘隊士だ。中央に居るレオ帝国の親善大使一行――緋色の着衣の5名の貴族男性たちと、 付き従う10数人ほどの、ココシニク風ヘッドドレスも『花房』も豪華絢爛なレオ族貴族女性たちを、それぞれ護衛している。

唯一の金色のタテガミの、最も偉そうなレオ貴族男性は、レオ帝国の開祖『金獅子大帝』に由来する貴種の血が入ってるそうだ。 レオ帝室の血縁メンバーなんだ。一般のレオ族男のタテガミは、薄茶色、茶色、黒色と様々みたい。

ウルフ族の貴族令嬢や侍女たちも、レオ族の貴族女性の相手のためか、数を合わせて参列している。 令嬢は思い思いのドレスだけど、侍女の方は、上級侍女のユニフォームをまとっている――動きやすそうなストンとしたハシバミ色のドレスに茜色の縁取り紋様。

黒髪をした若い上級侍女の1人が、特別にヴァイロス殿下やリオーダン殿下のサポートをしているのが目立つ。 今は亡きアルセーニア姫の直属の侍女を勤めた人だそうだ。傍に居ただけあって事情を良く知っているから、アルセーニア姫の代理をしてるらしい。

ヴァイロス殿下もリオーダン殿下も、ウルフ王国の開祖『大狼王』につながる貴種の名門の血筋と、 鍛え上げた実力によって決まった王位継承者の称号を持っていて、それが『殿下』なんだそうだ。 今のところ、ヴァイロス殿下が一番の実力者だから、第一王子という事になっている。

――ヴァイロス殿下にリオーダン殿下に、レオ帝室の血を引く貴種の大使。亡きアルセーニア姫の代理の上級侍女。

外交行事のひとつで、レオ帝国から派遣されて来た親善大使の視察に対応しているそうなんだけど、何とも凄い顔ぶれだ。 今は亡き第一王女アルセーニア姫が生きていたら、この外交メンバーに必然的に加わって来ただろう。

護衛をしている男たちは、みんな大柄で筋骨隆々だ。この一行を襲おうとするバカな人は居ないんじゃ無いかなと確信してしまう。 ヴァイロス殿下を襲った暗殺者たちだって、バーサーク化していて正気じゃ無かったという話だし。

――アルセーニア姫は何故、殺されたのか。

――誰が、よりによってヴァイロス殿下、すなわち第一王子という存在を、亡き者にせんとしたのか。

レオ帝国の大使がやって来たのは、ここ数日の事だそうだ。ウルフ王国の国王夫妻も、だ。 事件が集中したタイミングがタイミングだけに、とってもキナ臭い物を感じてしまう。

「――そう言えば、リオーダンって、以前、聞いた事のあるような名前……?」
「急死したアルセーニア姫の、婚約者です」

新しい人の声が入って来た。前にも聞いた事のあるような、滑らかな低い声。

ギョッとして振り返ると――

そこには、以前にも見た事のある、黒髪黒目のウルフ族の男性が居た。

――ディーター先生が『クレド隊士』と呼んでいた人だ。

明らかに軍装姿だ。丈の短い紺色マントを羽織っていて、紺色の袖なしの着衣に手甲などの防具を追加して、警棒ホルダーを下げている。 きらびやかな一行を護衛しているウルフ族の親衛隊と、同じユニフォーム。

「クレド隊士か。今日はどうしたんだ、非番か?」

ディーター先生は既に接近に気が付いていたみたいで、訳知り顔で、黒いウルフ耳の背の高い人物に声を掛けている。

「一応の非番です」
「一応の、か。まぁ、レオ帝国の親善大使が来ている時期だからな。それにしても、よく気付いたな」
「警戒対象の身元不明の人物が、気配を隠していませんから」

――わたしの事ッ?!

思わずクレドさんの方を見上げる――わたしの顔は、きっと警戒バリバリで強張っていたと思う。

観察してみる限りでは――

警戒対象と言っている割には、クレドさんの黒く涼やかな眼差しには、剣呑な気配は無い。黒いウルフ尾の方も、 つややかな毛並みを保ったまま、無表情だ。

静謐さを湛えた、彫像みたいに整った硬質な面差しは感情が読みにくいけど、それでも、わたしを注意深く眺めているのは分かる。 黒いウルフ耳も、わたしの方向をまっすぐ向いて来てるし。

――わたし、まだ容疑者扱いなの?

背が高いゆえの『上から目線』で、クレドさんの視線が移動している。

わたしの頭部に巻かれた包帯。その下には、直には見えないけど、相変わらず『人類の耳』が飛び出していて、 奇妙な金属製のヘアバンドがハマっているところだ。

バッサバサの浮浪者な髪型が整理されたが故に、あらわになった目鼻立ちの周辺とか、顎ライン辺りをしつこく眺めて来ている。 何か気になる事があるんだろうか。何となくだけど、茜メッシュが存在する辺りに、長々と注目して来ているような気がする。

次いで、生成り色のスモックの上下に、サンダル――というか、患者服セット。

最後に――やっと生えてきた感のある尻尾。

わたしは、思わずパッと尻尾を隠した。

身元不明なだけに怪しさ急上昇の行動だろうけど、毛並みが惨めにペッタリしている状態だから、余り他人に見せたくないんだよ。 おまけにクレドさんみたいな、漆黒というような美しい黒じゃ無くて、色あせた不真面目なブラックというか、チャコールグレーだし。

――そう言えば、この人、ヴァイロス殿下の部下だよね? ヴァイロス殿下が、わたしのおバカな寝顔をのぞき込んでいた(かも知れない)時、 クレドさんも、そこに居たんだろうか?

頭がゴチャゴチャしていて、自分でも何をしてるのか混乱してる。 尻尾を背中に隠して抑え込んだまま、サササッと後ずさると、足が噴水の仕切りにぶつかった。

勢いで身体がグインと傾いた。天地がひっくり返る。

――そう言えば、この噴水プールの仕切りの位置、低かったよね……!

ディーター先生とフィリス先生とクレドさんが、揃って、口をポカンと開けていた。

「@@@~ッ!!」

続いて『バッシャン』と言う水音、身体全身を襲う冷たい水、絡み付くミントグリーン色の蔓草タイプの藻。

――わたし、噴水に落っこちたんだ! 沈む! 溺れる! わたし泳げないの!

「あー、そこまで慌てなくても大丈夫だ、よし……ソレッ」

苦笑いしながらも沈黙を破ったのは、ディーター先生だ。

さすがウルフ族男性ならではの、見上げるような背丈を持つ体格ならではと言うのか、筋力がすごい。胸倉をつかむ形だけど、 あっという間に引き揚げてくれて有難うございます。あと少しで、鼻の中に水が入るところだったよ。

フィリス先生は何が『ツボ』にハマったのか、アサッテの方向を向いて肩を震わせている。

「これ、フィリス、《風魔法》でルーリーを乾かしてやってくれ」
「お任せを……(プフッ!)」

*****

――動転して、ひっくり返って噴水に落ちたなんて、黒歴史の中の黒歴史だ。

おまけに体温保持と安定のため、クレドさんのマントをお借りして、くるまっているというのも――

――恥ずか死ねる。この世で最も深い地下迷宮(ダンジョン)の、底の底まで、穴を掘って埋まりたい……

ウルフ族の人体スタイルは、男女の体格差が大きい。この紺色マント、クレドさんにとっては丈が程よく短くても、 わたしにとっては余裕で膝丈まであるんだよ。

ディーター先生いわく、体調は落ち着き始めてるけど、身体を急に冷やすのは厳禁。 濡れてしまったスモックや下着は、フィリス先生が預かってて《風魔法》で乾燥中。つまり、このマントの下は全裸って事。

――これって、変態ファッションか何かじゃ無いだろうか……

居たたまれなくて、陽射しで暖かくなった芝草の上で小さくなって座り込んだまま、ボンヤリと丘の向こうを眺める。

*****(3)偶然の取っ掛かり

フィリス先生の《風魔法》は、まだ続いていた。

ディーター先生とクレドさんは、ヘアバンド様式の拘束具の影響と記憶喪失について話し合っているらしい。 『声質の歪み』とか、『右や左の魔法陣』とか、『記憶喪失』とか、話しているのがポツポツと聞こえる。

背中にクレドさんの視線を感じるけど、振り返ってみる勇気は無い。

――樹林が開けていて、割と見渡せる状態だ。瀟洒な大型あずまやに続く散策路が見える。

間もなくして、その散策路に再び、きらびやかな一行が現れた。 周りを取り巻くウルフ王国侍女の人数が増えていて、しかも手に、何かティーセットらしき物を持っている。 大型あずまやで、お茶会みたいな事をやるらしい。

獣人の中でも、大柄で強靭な体格を誇る有力な種族が、レオ族、ウルフ族、クマ族だ。 互いに拮抗する軍事力や国力を持つレオ帝国とウルフ王国の外交行事だけに、 実際は牽制の火花の飛び交う茶会だろうけど、傍目には優雅に見える。

「ルーリー、服が乾いたわよ」

程なくしてフィリス先生が、声を掛けて来た。《風魔法》の速乾性、半端ない。

――お世話になります。

早速、手ごろな茂みの中でゴソゴソやる。

ウルフ耳の機能にも男女で結構な差があって、先祖の頃から狩りをより多く担当していたウルフ族男性の聴力は、すごく良いらしい。 ディーター先生とクレドさんには丸々聞こえてるんだろうけど、 マント下は全裸という変態ファッションならではの決まり悪さに比べれば、まだマシだと思う事にする。

*****

着替えを済ませて、フィリス先生と一緒に、茂みの中から出てみると――

ディーター先生とクレドさんの話題は、別の内容に移っていた。思わず耳をそばだてる。

――ウルフ王国の第一王女アルセーニア姫、その非業の死のミステリー。

死んだ場所は、『茜離宮』の奥の中庭。通称『王妃の中庭』だ。

王妃が、ちょくちょくティータイムを開催する場とあって、非常に警備の厳しい場所でもある。

ただ、不気味な暗殺事件が、まだ解決していないので、ウルフ王妃は不測の事態に遭遇するのを防ぐため、 今は、いっさい足を踏み入れていないそうだ。そりゃそうだよね。

中庭の中央に観賞用と庭園装飾を兼ねた見事な噴水があるんだけど、アルセーニア姫は、その噴水の石段で、寝ているかのように死んで居たそうだ。

定時巡回で参上した中庭エリア担当の中級侍女が、『風邪をひく』と思って近寄ると――アルセーニア姫の心臓を正確にぶち抜く形で、意外に太い矢が刺さっていた。

これは、普通なら有り得ない事。

そもそも第一王女たるアルセーニア姫には、宮廷の上級魔法使いによる強い守護魔法が、常に掛かっていたのだ。

上級魔法による防御壁を貫くというのは、大変な事だ。手で投げたのなら、熟練の、とんでもない怪力の戦士によるものとしか思えない。 魔法で飛ばしたのなら、より力量のある上級魔法使いによるものとしか思えない。そういう、一撃必殺の食い込み具合だったそうだ。

そして。

その凶器となった矢には、指紋も匂いも、抜け毛すらも付いていなかった。魔法の気配も、だ。

つまり、絶滅した人類さながらの、何らかの機械仕掛け、おそらくは『対モンスター増強型ボウガン』による殺害。 殺害手段は絞り込めたんだけど、その後が、実にミステリーだった。 発射ポイントと思しき場所――向かい側にあったアーチ回廊の何処にも、侵入の痕跡は無かったと言う。

現場において、アルセーニア姫に気付かれずに他人が姿を隠せるのは、アーチ回廊の後ろ、死角になる部分だけ。

くだんの『対モンスター増強型ボウガン』というのは、かなりデカイ武器だ。 矢が飛んでいる間は、その猛烈な加速度による空気抵抗で、騒音も大きくなると言う。噴水の水音とは明らかに違う、不吉な音だそうだ。

聴覚の鋭い衛兵に気付かれぬように暗殺するには、文字通り、アルセーニア姫の心臓の真上で、ボウガンを発射しなければならない。

武器そのものは機械仕掛けだから、非力で小柄な女性でも発射はできるんだけど……その大きさや重量を考えると、男の力じゃないと、楽々運べない。 厳しい警備を突破して『王妃の中庭』にまで凶器を持ち込んで、更に現場から持ち出してのけるというのは……不可能に近い。

――そう、さながら密室殺人なのだ。

不幸にも第一発見者となってしまった中庭エリア担当の中級侍女が、すごくすごく疑われてしまったのは、当然だ。

目下、その不運な中級侍女は、真相が明らかになるまでの期限付きで、行動制限と常時監視の処置となっている。 もう10日ほどになるけれど、今のところ問題の中級侍女は、全くの潔白っぽい感じだそうだ。

――誰が、一体どうやって、アルセーニア姫を暗殺したのか。

暗殺を担当する忍者が、隠密レベルの転移魔法を使って、侵入していたとでもいうのか。いや、それは絶対に有り得ない。

百歩も千歩も一万歩もゆずって、仮に、 マイスター級の超・精密な魔法を扱える忍者だったとしても――常日頃から用心深く気配に敏感だったアルセーニア姫に、 どうやって、そんなに近づけたのか――

*****

不意にピンと来るものがあった。ディーター先生たちが、わたしが如何にして降って湧いたのか知りたがった理由。

「……あ、それで、どうやって此処に、わたしが出現したのか知りたかったんですか?」

フィリス先生は、ヤレヤレと言う風に溜息をついた。『正解』という事だ。

「そう言う事。ただ、ルーリーが出て来たのは屋外だから、隠密レベルの転移魔法が関わっていたら……いや、 普通の転移魔法だったとしても、ヴァイロス殿下が気付いて現場保存するまでの間に4回呼吸するだけの時間があったのなら、 エーテル痕跡の検出は……難しいわね」

――思い出してみる限りでは。わたしが、そろそろと身を起こして、周囲を観察するだけの時間はあった。

「……少しどころじゃ無い隙間は、あったような気が……」
「やっぱり」

フィリス先生は、一気に疲れたような顔になった。 《風魔法》が専門だけに、わたしが寝込んでいた間も、多分この噴水の周りで調査を繰り返していたんだろう。 無駄骨を折らせてしまって、済みません……

気もそぞろに、キョロキョロして――必然的に噴水が目に入った。ここ、噴水広場だもんね。

真ん中にある透明な水瓶(みずがめ)の形をしたオブジェの中では、相変わらず『ルーリエ』種の水中花が揺れている。

相変わらず――いや、何か変わった気がする。

先刻とは、何かが違う。

しばらく見つめてみて――わたしは、やっと違和感の正体に気付いた。

――瑠璃色の六弁花の数が、少し増えた。

何故、増えたんだろう? そう言えば、青い水中花の生態って、どうなってたっけ? そうそう、水を浄化するんだ。 水の、余分な成分を除去して、浄化する。成分を除去してるって事は、養分として取り込んでるって事。

この増えた分の水中花、わたしが噴水に落ちたせいだと思う。サンダルについていた土とか、細かい埃とかが水に入ったから、 それを取り込んで、水中花の数が――

いきなり、脳内でスパークが弾けた。もしかしたら、もしかすれば……?!

「あ、あの……ッ」

わたしは取るものもとりあえず、ディーター先生に声を掛けた。しゃがれてヒビ割れた声だけど、構うものか。

――?

な、何だろう? ディーター先生もフィリス先生も、興味深そうな顔で注目してる。 無機質な彫像そのもののクレドさんも、相変わらずの良く分からない『上から目線』の目付きだけど、ちゃんと注目して来ている。

ポカンと口を開けたまま戸惑っていると、フィリス先生が解説して来た。

「あのね、ルーリーの尻尾が……『閃いた!』って、急に跳ねたから。 記憶喪失で、尻尾の経験度も退行したせいなんだろうけど、幼体みたいに、ストレートで分かりやすい……」

ああぁぁあぁぁぁあぁあッッ!

この無意識の尻尾が!

幼児退行してるなんて! 思わなかったよ!

今更だけど、惨めにペッタリしている毛並みの尻尾をパッと隠して、背中でギュッと握っておく。

「何か言いたい事があるんだろう、水のルーリーや」

ディーター先生が、短く刈り込んだ金茶色のヒゲをコリコリしながら、優しく聞き返してくれた。 本当は笑いをこらえているんだろうけど、気配りのデキるお人だと思う。

「アルセーニア姫の死亡した場所、中庭には、噴水があるんですよね? その噴水、観賞用で室内装飾用なら、 観賞用の水中花……も、もしかして、あります?」

しゃがれ声で、しかも喉をなだめつつ、つっかえながらだけど、何とか要点を言い切れた。

フィリス先生が不思議そうな顔をしながらも、呟く。

「……『王妃の中庭』の水中花は、ハイドランジア種とオルテンシア種だわ」

――果たして、あった! しかも2種も!

フィリス先生の回答は続いた。

「確か、最近、オルテンシア花が開花してるのよ。咲き終わりを待って花を採集する旨、申し入れてあるけど……」

ディーター先生は「ふむ?」と呟き、首を傾げていた。まだピンと来てない、という顔。

フィリス先生は、言葉を続けようとして――次の一瞬、目がテンになった。パッとわたしを振り返って来る。

「まさか……噴水の水中花が、水の浄化をしている間に、何か証拠になるような成分を取り込んだ可能性――を、考えてる?」

――そう、そうだよ。

わたしはコクコクと頷いて見せた。わたしの喉は、ちょっと喋っただけで疲れてしまうから余り喋れない。 無言が多くなるのは、申し訳ないです。

噴水の水の中で何が起きてたのかは、意外に盲点だったんじゃない? 話を聞く限り、アルセーニア姫が死んだのは、噴水の傍って感じなんだけど。

ディーター先生は、瞬時に顔を引き締めた。仕事の顔だ。

「水中花を調べて何が出て来るか、試してみる価値はありそうだ。現場には入れるのか、クレド隊士?」
「ご案内します」

――クレドさん、意外に高位の隊士だったみたい。豪華絢爛な金髪の純白マントの第一王子ヴァイロス殿下の傍にも来ていたし。

あッ、そうだ。紺色マントをお返ししないと――

――不意に、大きな影から伸びて来た大きな手に、膝をさらわれた。

「……げ?!」

しゃがれ声の変な叫びになったのは、勘弁して欲しい。 急に視点の高さが変わって――

――た、高い! 高いって! 高所恐怖症、自由落下トラウマだから!

パニックのままに手を振り回して、そこにあった『何か』にギュッとしがみつく。こ、怖かった……

だけど、何にしがみついているのか分かったら、改めて、ふうっと気が遠くなりそうだった。

――クレドさん、何してるんですか。何で、わたしを抱っこしてるんですか……?!

お姫様抱っことは違う。片腕に乗せるというか、左腕だけでヒョイと抱えるやり方だ。 体格差の要素があるから自然に可能なやり方になるんだろうけど、いや、それどころじゃ無い!

「降ろして下さい、あ、歩け、ますから!」

バッと両手を離して降りようとのけぞったら、グラついた上半身が、頭部の重みと重力に引っ張られて、『カックン』と後ろに倒れて行った。 ひえぇ。真っ逆さまに落ちるぅ!

すぐにクレドさんの右腕が背中に回って支えて来た。

「危ないですから、つかまっていて下さい」

――いや、そうは言ってもですね、わたしは自分の足で歩けますから。当分の間は、ちょっとはカクカクはするかも知れないけど、それだって徐々に回復する見込みで……

うう。気が付いたら、わたし、クレドさんの左襟部分につかまって体勢を立て直している格好だ。 つまりクレドさんの襟首をつかみ上げている、いや、引っ張り下げている形だ。死にたい……

*****(4)宮殿ゲートを通過する

フィリス先生の、何でも無い冷静な声が、とどめを刺して来た。

「そのまま大人しく運ばれてなさい、ルーリー。外出を始めたばかりの重傷患者に、介助なしでの『茜離宮』への移動は認められないわ」

介助。重傷患者への介助ですか、そういう事ですか。でも、わたしも『茜離宮』へ……?

「ルーリーの身柄は目下、ディーター先生の預かりよ。ディーター先生の目の届かない場所をうろつかれた末に、 事情を知らない衛兵や役人たちに――とりわけ加減の出来ない下級魔法使いたちに――その頭部の拘束具に魔法干渉される訳にはいかないの。 そしてディーター先生は、これから手が離せなくなる訳。 『茜離宮』だろうが何処だろうが、適当な介助者に運んでもらって、ディーター先生の傍を離れないでいるのが一番いいのよ」

さすが王立治療院に勤める魔法使い治療師。すごい説得力。

考えてみれば、納得できる。

この『茜離宮』が目下ウルフ王国の宮廷になっているから、宮廷勤めの上級・中級・下級の魔法使いも多く来ている筈だ。 ディーター先生が拘束具トラブルの専門担当。それに、事情を知らない下級魔法使いレベルの衛兵や役人たちが、 下手に拘束具を触ってきたら、場合によっては命にかかわる事態になる。

わたしは観念して、クレドさんが支えて来る動きに任せた。傾きが変わって肩につかまりやすくなったので、 素直につかまる。最悪、命にかかわる訳だから、恥ずかしがっても居られない。

「よ、よろしくお願いします……」

しゃがれ声のモゴモゴとした声掛けだったんだけど、クレドさんは目を伏せて、折り目正しく目礼して来た。 目を伏せてても、彫像みたいに端正だなあ。切れ長の目尻が美しい。

「承知。私は『クレド』と申します。お見知りおきを」

て、丁寧ですね。最初の時の態度がどうだったか余り覚えてないけど、扱いが正反対だから、ビックリします。一定の敬意を払われているって感じ。

――『敵認定はしてない』って理解して良いんだろうか? あ、それとも『男』扱いじゃ無い方……うん、『重傷患者』扱いだと、 こうなるって事かも知れない。わたしにも、一応は乙女ゴコロという物があるし、ドキドキしちゃうんだけど。

紺色マントは、いつの間にかクレドさんが右手に持っていた。いつ渡したのか、落としていたのかも覚えてないけど。そして、紺色マントを再び掛けられた。あれ?

「離宮の中は空調が利いていて、冷却の強いスペースもありますから」

*****

――さすがウルフ族、足のスピード半端ない。『茜離宮』の敷地の景色が、みるみるうちに流れていく。

目下わたしは、人体なクレドさんに抱っこされたまま、さっさか移動しているところだ。

後方では、金茶色のオス狼と赤銅(あかがね)色のメス狼が並走している。金茶色の大きな方がディーター先生で、 それより小さめの赤銅(あかがね)色の方がフィリス先生。右側の目の上に、茜メッシュがシッカリ入っている。

――変身中の着衣や荷物なんかは、どうなるのかって? それは、身体を取り巻くエーテルのモヤに溶け込むんだそうだ。 荷物が一緒に運べる状態だから移動に便利。『魔法の杖』をはじめとする身の回り品も、ほぼ変身魔法に対応している。

敵陣や悪路、モンスター出現エリアなどを一気に突破する高速移動では、身軽な『狼体』で移動するケースが多い。 運べる荷物の量や使える魔法が制限されるんだけど、そのデメリットを考慮して決めるんだとか。

クレドさんは、わたしを抱えて走っている状態なのに、しかも俊足な狼の前を取ってるのに、全く息切れしていない。 わたしの方は、視点が高い所にあるせいで気分が悪くなるし、目も回るから、後ろ向きにつかまって、恐怖を我慢してるところなんだけど。

いつだったかの、あの猛烈な移動スピードにはビックリしたけど、ウルフ族男性にとっては、あれで普通の駆け足レベルらしい。 もっとも、隊士であるクレドさんとか、訓練が入ってる人の言っている『普通』は、平均男性レベルで考えちゃいけないと思う。

やがて、樹林に囲まれた秘密基地のような、小さなあずまやに到着した。

プックリとした玉ねぎ屋根は通電性の良い金属製で、中央部分に、金属製の避雷針がスッと伸びている。 此処が最寄りの軍用の転移基地。『茜離宮』のゲートと直結しているそうだ。

その周囲には、不可視の『警戒・監視の魔法陣』がセットされていると言う。 一定以上の距離の内部に入って来た侵入者を感知すると、それがモンスターだろうと人間だろうと、『アラート付きの拘束魔法陣』が瞬時に発動する。 侵入者を拘束すると共に、警備の本部や近辺に緊急アラートを出すようになっているそうだ。

その厳重な警備が、クレドさんの『魔法の杖』で一時的に解除され、あずまやに踏み込めるようになった。

ディーター先生とフィリス先生は、既に人体に戻っている。何でも、この転移魔法陣は『人体』にしか対応していないそうだ。 人体の方が捕まえやすいとか、最悪でもモンスター類の転移が無いようにするとか、防衛上の理由もあるみたい。

あずまやの下の、一枚板の滑らかな金剛石(アダマント)床に、一定の幅と深さを持った溝でもって転移魔法陣が刻まれている。

フィリス先生が早速、転移魔法陣を起動した。

転移魔法陣の図式を刻んだ溝の中に、白いエーテル光が満ちて行くのが分かる。 やがて、白いエーテル光は、魔法陣の一番外側のラインを覆う列柱の形になった。

白い《風》エーテル光で出来た列柱は、瞬く間に、周囲を隙間なく取り巻いて行く。

魔法感覚が使えるようになっていなかったら、たぶん、このタイミングで周りの光景が消滅して、虚無とも思える常夜闇に包まれたように感じたと思う。 それはそれでパニックになりそうだ。

ディーター先生が『呪われた拘束バンド』の影響をどうやって弱めたのか知らないけど、魔法感覚は重要な器官だから、 強い封印が掛かってた筈だ。一部分だけであっても、拷問や虐待の魔法陣に引っ掛からないように呪いを解除してのけるというのは、 相当に難しいと思う。さすが上級魔法使いと言うか、ディーター先生の手腕はすごい。感謝します。

一呼吸置いた後、白いエーテルの柱がバラけて行く。白い光が収まると、既に見知らぬ場所に居た。 変わっていないように見えるのは、足元に刻まれている転移魔法陣の図式のみ。

わたしたちが転移して来たのは、『茜離宮』の前庭に設置されている転移基地だ。

目の前にいきなりそびえたっているのは、赤みを帯びた切り出し石が美しい『茜離宮』だった。 遥か頂上部の所に、玉ねぎ型の白い屋根を乗せた3つの尖塔が見える。

前庭の奥に宮殿ゲートがある。両脇に詰所と思しき玉ねぎ屋根の小屋があって、その対称性が芸術的だ。

宮殿ゲートに近付くと、即座に、門番を務めている若手のウルフ族の衛兵が、長物を交差させて通せんぼをして来る。 しかし、ウルフ耳にウルフ尾の背の高い衛兵たちは、ディーター先生とフィリス先生とクレドさんの顔を確認するや、無言で敬礼してスペースを開けて来た。 顔パスなんだ。

ただ、わたしに関しては――クレドさんに抱えられたままだったけど――そのままゲート通過するという訳には行かなかった。

わたしは、改めて地上に降ろされ、規定通りに門番の『魔法の杖』でもって透視魔法にさらされ、持ち物を全て調べられた……何も持ってなかったけど。

頭部の包帯の下に隠されていた魔法道具『呪いの拘束バンド』の存在については、ディーター先生とフィリス先生が、割と説明させられる羽目になった。

ちなみに問題の拘束バンドは、門番の透視魔法には反応しなかった。

拘束バンドを製作していた悪の魔法使いは、門番が使う透視魔法については、まるで考えてなかったらしい。 不審物を調べるための魔法だから、かなり叩くスタイルなのに。 これはディーター先生を割と驚かせた――後で詳しく調べてみる事になった。

そして今、ディーター先生が、門番から差し出された書類に魔法署名をしている。 《地霊相》生まれだからだろう、その魔法陣にも似た複雑な魔法署名の図には、黒色が多く含まれているように見える。

フィリス先生に聞いてみると、『責任をもって、この者の身柄を管理している』という旨の保証書だと説明された。 さすがロイヤルな場所は、警戒レベルが違う。

そして常時、居場所を発信するという、ブレスレット様式の魔法道具をハメられた。何故か男児用で、可愛い短剣飾りのついてる品だった。 近所の町々では『迷子の輪』と呼ばれている代物だそうだ。

わたし、男の子じゃ無いし、迷子になるような年頃の幼児でも無いんですけど……

――クレドさん、わたしを再び片腕抱っこする時に、ちょっと肩が震えたみたいだけど……もしかして、 その彫像のように端正な無表情の下で、吹き出し笑いしたんですか?

ともあれ、宮殿ゲートを無事に通過できたと言って良いみたい。

宮殿のエントランス・ホールには、あの『大天球儀(アストラルシア)』が、規則的に8台ほど並んでいた。 その間を抜けて、アーチ列柱が続く長い長い廊下を、右へ折れ、左へ折れながら、さっさか移動する。 これは迷子になりそう。1人じゃ帰れないかも……

先頭を行くディーター先生とフィリス先生は、移動しながらも、何かを忙しく話し合っていた。 クレドさんは相変わらず、わたしを抱えたままだ。

――わたし、重くないですか?

クレドさんは、その確認に、あっさりとした様子で「いいえ」と返して来た。そうですか。

ふと気が付くと――各所で見張りに立っている何人かの衛兵や、通りかかった役人たちが、不思議そうな顔で振り返って来ている。

――もしかして、わたし、割と目立ってるんでしょうか?

クレドさんは前方に注意しているように見えて、その実、わたしの事にも注意を払っているみたい。すぐにクレドさんから返答が来た。

わたしに関しては、初見という事に加えて、頭に大袈裟に包帯を巻いた『耳無し坊主』の入院患者な姿が、とっても目立ちまくっているそうだ。 普通、病人がこっちに来る事は余り無いそうなので、ちょっとした話のタネになる勢いだとか。

注意してみると、微笑ましいと言う感じの視線も感じる。パッと見、『隊士に憧れている男児が紺色マントを借りて、云々』という風に見えるらしい。 別の意味で恥ずか死ねるのでは無いかと、微妙な気持ちになって来るんだけど。

初めて来た場所だから、思わずキョロキョロしてしまう。この『茜離宮』は、まさに宮殿だ。 元々、王妃のための離宮だったと言うだけあって、繊細な装飾が多くて、見飽きない。 各所の女性向けの施設も充実していて、女性が暮らしやすそうな感じ。

もうじき、問題の死亡現場――噴水のある『王妃の中庭』に到着するらしい。

ディーター先生とフィリス先生は、クレドさんと情報交換しつつ、アルセーニア姫の死の状況について要点をまとめていた。

それは、こんな風だった。

――あの日。

婚約者同士のリオーダン殿下とアルセーニア姫は、いつものように中庭の噴水の前でティータイム歓談をしていた。

やがてリオーダン殿下が、人に呼ばれて中庭を退出した。

茶器を担当していた姫直属の侍女が、アルセーニア姫とひとしきり相談した後、次のスケジュール対応のため退出した。

その後、アルセーニア姫が1人で居たのは、一刻の間のみだった。

そして一刻の後。噴水エリア担当の中級侍女(第一発見者)が、定時巡回で中庭に入って来た。アルセーニア姫は既に死んでいた。

これらのタイムは、要所で見張りに立っていた衛兵たちが証言したという――

*****(5)王妃の中庭:密室の中の姫

アルセーニア姫の死亡現場、通称『王妃の中庭』。

そこに直結する連絡ルートの各所に、ベテランの衛兵が並んでいた。警備が厳しいというのはホントだった。

病棟に詰める上級魔法使い治療師というのは、人間の死に際の現象に詳しいだけあって、一目置かれているらしい。 クレドさんも、ヴァイロス殿下直属の親衛隊メンバーという事で、顔パス。

此処でも、わたしの扱いがちょっとした議論になったんだけど、 『クレドさんが監視するからには大丈夫だろう』という事で、渋々と言う形で通過オーケーとなった。 クレドさんは、第一王子ヴァイロス殿下の親衛隊に所属するくらいだから、腕っぷしの強いエリート隊士なんだろう。

そんな訳で。

わたしは、陽光が降り注ぐ中庭で、やっと地上に降ろされて――今まさに、問題の噴水を眺めている。

さすが王族のスペースと言うか、中庭(パティオ)って言っても、呆然となるような広さなんだよ。外にあったルーリエ種の噴水広場の、10倍は明らかに超えている。 ぐるりと、華麗な彫刻を施されたアーチ列柱が取り巻いていて、駆けっこ大会だって開けそうな感じだ。

中央に大きな噴水。ベンチになりそうな石段が、噴水プールの仕切りとなって取り巻いている。

石畳は噴水の周りにあるだけで、他は緑の芝草に覆われていた。 中庭の縁にそって、ぐるりと一巡するように、種々の花を揃えた花壇もしつらえてある。

噴水の近くに優雅なカフェテーブルがあるんだけど、亡きアルセーニア姫は、噴水の石段に座ってお茶を飲むのを好んだとの事。 意志の強い、元気な王女様だったそうだ。あのヴァイロス殿下の姉君な人だから、何となく納得。

噴水の周りをウロウロしていると、石段の傍に居たフィリス先生が、手招きして来た。

「此処は踏まないようにね」

――と、フィリス先生が注意して来た。

噴水プールの仕切りを兼ねている石段の一部に、黄色のラインで人間の形っぽいのが描いてある。思わず息を呑む。

「げ、これって……」
「そう、アルセーニア姫の死体があった場所よ」

――此処で、アルセーニア姫は、どうやってか飛んできた矢に、心臓を貫かれて死んだ。分かっていても、毛が逆立ってしまう。

そっと、『矢が飛んで来た』と思しき方向を振り返ってみた。

確かに見晴らしの良い中庭で、隠れるような場所は無い。

一面の緑の芝草に、くるぶし丈までしか無い可憐な花々が点在している。中庭の縁に沿って並ぶ花壇の高さも、それくらいだ。

アルセーニア姫の正面で、死角が出来るのは、端っこを巡る回廊の列柱の、陰になるところのみだ。

犯人は、どうして背後から襲わなかったんだろうかと思ったけど、ベンチ代わりになる石段を見て納得した。 この幅じゃ、腰を下ろす事は出来ても、足をシッカリと踏ん張れないと思う。反撃でも食らったら、噴水の中に落ちちゃうじゃ無いか。 噴水の中から飛び出している装飾用の彫刻には、鋭い先端を持つ物もある。あれに背中を刺されるのは痛いと思う。

噴水の反対側から矢を発射すると言うのも、考えられない訳じゃ無いけど。

しきりに跳ねる水の壁や、噴水を彩る装飾細工の群れを透かして、正確に狙いをつけられるだろうか? しかも、 上級魔法使いによる防御壁に守られたターゲットに対して、短い時間で一撃必殺……プロでも難しそうだなあ。

確実に殺(や)るとしたら、やはり正面からだろう。

改めて、噴水の頂上部の様子から、順番に眺めてみる。

オルテンシア種の藻は、セレスト・ブルーをしていて、薄いカーテン状だ。 噴水を彩る様々な装飾細工が作る芸術的な水流に沿って、カーテン状の藻を揺らめかせている――さながら、セレスト・ブルーのオーロラだ。

青いガラス細工のような、半透明の大輪の花がひとつだけ、水しぶきの掛からない静かなポイントでプカプカと浮かんでいる。 腕ひとかかえ程もあるサイズだ。あんなに大きな花だとは思わなかったよ。

次に、噴水の中をのぞき込んだ。

とっても普通の、何処も変わったところの無い透明な水だ。噴水プールの底面は、意外に浅い。 ウルフ族男性の平均的な体格であれば、ちょっとジャンプして、ひとまたぎして、この高低差を踏み越えられると思う。

噴水の底面に固定されているハイドランジア種が、絶妙な深度の所に見えた。 白サンゴみたいな純白の幹が目立つ。根の方は黒。実際に、白サンゴや黒サンゴと同じクオリティを持つそうだ。まさに全体が宝玉品。 赤色が無いのは、赤が火の色なためで、水の中では維持が難しいからだろう(海洋産の天然サンゴには、赤サンゴがあるそうだ)。

枝の数々に付いている淡い水色のポッテリとした鞠状の集団花――ハイドランジア花――が、水中に降り注ぐ陽光を虹色に反射してキラキラしている。

「フィリス先生、あのハイドランジア花の数、増えてるように見えますか?」
「ここ最近は来てなかったから、分からないけど。前に招かれた茶会の時と、変わらないように見えるわ」

ディーター先生は『魔法の杖』を使って、この噴水に一つしかないオルテンシア花を、そーっと採集しているところだ。

そして、危なっかしく身を乗り出しているディーター先生が水に落ちないように、クレドさんが灰色ローブをつかんで支えている。 クレドさんって、見た目はスラリとしてる方なんだけど、良く見ると筋骨はちゃんと太さがあるし、力持ちだ。

その様子を眺めた後、わたしは、もう一度、噴水の中をのぞき込んだ。

記憶喪失のせいで、正直、水中花の事は余り良く知らない。でも、逆に言えば、先入観なしで観察する事は出来る状態だと思う。 だから、目に付く疑問点をピックアップするのみだ。

「あの、ハイドランジアの上の方の幹が、何だかフニャフニャな、気が」
「空気に長い時間さらされてしまうと、そうなるのよ。 枝や根を採集する前に《宝玉加工》を施して永久硬化しておくと大丈夫なんだけど、これはプロの採集業者たちの秘密技術だから、私も知らないわ。 フニャフニャな部分はサンゴとしての質も落ちるし、花も実も付けなくなるから、剪定対象ね」

だいたい、一刻から二刻が限度だそうだ。さすが、深窓の令嬢みたいな水中花。 よく見ると、水面に近い方にあるフニャフニャな部分は、噴水全体のハイドランジアに広がっている。

――いつ頃かは、分からないけど。

最近、しばらくの間だけ、噴水の水位が下がっていたらしい。

水が少なくなる夏場だから、そう言う事は多いというのは、フィリス先生の言だ。この『王妃の中庭』に定時巡回があるのは、 ハイドランジア種にとって最適な水位を常に確認し維持するため、と言うのもあるそうだ。

そんな事を話していると、ディーター先生が「よし!」と声を上げた。

「何か新しい物が見つかりましたか、ディーター先生?」
「まあ、これをご覧、フィリス」

ディーター先生は、採集したばかりのオルテンシア花を大型の水盆に入れながら、会心の笑みを浮かべている。 その後ろに居るクレドさんは、ディーター先生の一挙手一投足を注意深く眺めていた。

フィリス先生が、水盆に入った貴重なサンプルを、慎重に観察し始めた。

「このオルテンシア花、黄白色のスジが入ってますね。咲き終わりの花は、青緑色のスジが入る筈なんですけど」
「その通り。この数日の間に、このサンプルは内部反応の処理が間に合わなくなって、異常変色するほどに弱った訳だ。かなり強烈なブツの筈だ」

オルテンシア種は、大輪の花を付ける水中花だ。カーテン状の藻が取り込んだ様々な養分が、 ほとんど花部分に集中するから、大輪の花を付ける事が出来る。つまり花部分には、成分が濃縮されているという訳。

ディーター先生の『魔法の杖』は、問題のオルテンシア花の成分分析を速やかに進めて行った。 その分析データが、フィリス先生が持っている半透明のプレートに転送され、反映されていく。

半透明のプレートを眺めていたフィリス先生は、急に眉根をひそめ、顔色を変えた。

「まさか――これ、モンスター毒の濃縮エキス?!」

ディーター先生が眉の端を跳ね上げる。 フィリス先生から半透明のプレートを受け取り、一瞥するや、ディーター先生は難しい顔をして思案し始めた。

「筋肉弛緩と倦怠感をもたらす成分がメイン――薄めたエキスは、外科手術の際の麻酔薬でお馴染みだが。 このデータからすると犯人のヤツ、大型容器3本分くらい、他の麻酔性の違法ドラッグと一緒に、一気に噴水にブチ込んだらしいな。 此処にはモンスター毒に対応できる『アーヴ』種が無いし、解毒機能が追い付かなくて当然だ」

フィリス先生が、息を呑みつつも口を挟んだ。

「オルテンシア花の花蜜に、濃縮されたドラッグ成分――モンスター毒が含まれるという事態だった訳ですか?」
「まさに、な。オルテンシアの花蜜は甘味だし、デトックス効果やら美容効果やらで、ご婦人方に喜ばれる類のものだ。 アルセーニア姫も、問題のティータイムの時に、茶にオルテンシアの花蜜を入れて楽しんでいた筈だ。まさか、それが汚染されていたとは……」

クレドさんが素早く思案し、そこから導かれる推論を付け加えて行く――

「では、アルセーニア姫がモンスター毒入りの花蜜を摂取し、その麻酔効果により意識が朦朧としたタイミングで、 犯人が中庭に侵入し、凶器を用いたという事になりますね……それも、正面から」

――その場に、胃の重くなるような沈黙が落ちた。

*****

アルセーニア姫が、何故、犯人に気付かなかったのか、悲鳴すら上げず、大人しく殺されるままだったのか――と言う状況は、ようやく分かった。

だけど、大きなミステリーが相変わらず残っている状態だ。

第一、アルセーニア姫の死亡現場は、限りなく密室に近いのだ。

それに、大型容器3本分の、モンスター毒の濃縮エキス。その大型容器は、わたしの身体サイズを超える大きさだそうだから、とんでもない量だ。

それだけの量を一気に入手するなんて、プロの『超大型モンスター狩り』くらいだろう。 闇ギルドを通じて入手した場合は、立証できる程の記録が残っているかどうかは望み薄らしい。

別の日に持ち込んだのだろうとは思われるけれども、これを、どうやって、警備の厳しい『王妃の中庭』に持ち込んだのだろう。 そんな危ない代物、容器も中身も含めて、門番や衛兵の透視魔法にバリバリ反応するそうだから、並み居る衛兵が絶対に見逃さない筈だ。

それに、犯人は、わずか一刻の間に、どうやって現場に侵入し、アルセーニア姫を殺害し、誰にも見られずに脱出しおおせたのか。

ディーター先生とフィリス先生は、遅い昼食を取りつつも、第一王女アルセーニア姫の急死事件について、専門的な議論を交わしている。

――此処は、『茜離宮』の一角にある役人向けの大食堂。

ヒラの若手役人や衛兵や、各種部隊の隊士が多いけど、 たまに重役が顔を見せたりする。見習いの少年少女たちが、オーダーを受けた皿を持って、テーブルの間をクルクル駆け回っていた。

わたしは、相変わらず消化の良いスープ類のメニューだ。食後のお茶が出るけれど、何となく飲む気にはなれない。

食堂の各所にはセルフサービスの水場があって、水をもらって飲めるようになっている。 アーヴ種の水中花――無数の青い数珠の形をした藻が、透明な水瓶(みずがめ)の形をした水槽の中で踊っていた。

わたしがテーブルを立って一歩を踏み出すと、背後から声が飛んできた。

「水場に行きたいのですか?」

ギョッとして、バッと振り返る。クレドさんがいつの間にか背後に、背後霊みたいに立っている。

――さっきまで影も形も無かったみたいなんだけど、いつから、そこに居たの?!

振り返った時の勢いで、わたしは思わず、たたらを踏んでいた。バランスを崩した身体を、クレドさんがサッとつかんで戻してくれる。 見上げるような背の高さなのに、気配を全く感じなかったからビックリするよ。まだ心臓がバクバク言っている。

介助者なクレドさんは、相変わらず、無言で『どうするのか』と聞いている。

「み、水場まで……」

昼食時のピークを過ぎているとはいえ、まだ多くの人でザワザワしている食堂の中、 声質の悪いボソボソとした呟きではあったんだけど――

――クレドさんの聴覚は、シッカリ認識したらしい。 クレドさんは頷いた後、やはり手際よくわたしの膝をさらって来た。今日4回目の片腕抱っこだ。

一瞬だけど、ドッと冷や汗が出て、目が回って、頭がクラッとする……

高所トラウマが定着しちゃったみたい。ウルフ族なのに高所トラウマってどうなのよ、と思うんだけど。

食堂を行き交う人々の波を次々によけて、クレドさんは比較的に人のまばらな、落ち着いた水場まで行ってくれた。 『重傷患者=わたし』への配慮ですね、有難うございます……

食堂の端にある水場は、片方が回廊につながっていて、片方が窓に接していた。 クレドさんに降ろしてもらって、水を汲みがてら、窓の外をのぞいて見る。 3階にある食堂だから、『茜離宮』を取り巻く庭園の一部が良く見えた。

――ずいぶん距離があるから、わたしの視力ではよく分からないけど、あの何となくきらびやかな一行、 今朝も見たレオ帝国の大使を中心とした一団なのかな。外交行事が終わったとか……?

疑問が顔に出てたみたい。クレドさんは私をジッと見た後、窓の外を一瞥して、「あちらはレオ族の大使の方々です」と解説して来た。

しばし沈黙が続き、わたしは水を一服した。アーヴ種が浄化した水には定評があるというだけあって、美味しい水だ。

「ルーリーは、本当に以前の記憶が無いのですか?」

クレドさんが話しかけて来た。

――うん、そうだよ。

コックリと頷いて、応えて見せる。

「何処に居たかという事も?」

クレドさんの漆黒の眼差しは、いわく言いがたい表情を浮かべている。

何だろう。

信じられないとか、驚いたとか、そう言うのとは別の物っぽい気がするんだけど。 最初に地下牢で目を合わせた時にも、クレドさんの眼差しには、こういう『何か』があったような気がする。

そう言えば、わたしの頭部のヘアバンドが『変なモノ』だって事に最初に気付いたの、クレドさんだよね。 何で、気が付いたんだろう。あんな、全員が全員、誤解して見逃して当然な状況の中で。

――聞いてみようかな。

「えっと、クレドさん……」

*****(6)三尖塔の見える回廊にて

その時――後ろの方から威勢の良い男の声がした。

「よー、クレド! 何やってんだ、坊主のお守りかぁ?」

いきなりの大声だから、ビックリして飛び上がっちゃったよ。 振り返ってみると――そこには、クレドさんと同じような紺色の着衣をまとった、ウルフ族の背の高い男が居た。知り合いかな。クレドさんは無言で目礼を返している。

筋骨隆々と言うよりは、「おぉ……」ってなりそうな筋肉ムキムキの印象が強い人だ。 暑がりな性質みたいで、紺色マントを外してバサバサとやっている。オレンジに近い金髪の金狼種。

それなりに目鼻立ちは整ってるけど、頬骨や顎(あご)の骨が目立つガチッとした顔立ちで、粗暴に近いワイルドさがある。 ウルフ耳にも、過去の激闘で付いたのだろう切れ込みがあって、迫力満点だ。

ウルフ族男性、色々な人が居るんだなあ。女性もだけど。

そう、この筋肉ムキムキでオレンジ金髪なウルフ耳の男を、熱い眼差しで見つめる黒髪美人のウルフ族女性が、更に後ろに居るんだよ。すこぶる色っぽい。 ハシバミ色の、丈の長いワンピースドレス。カッチリとしたベスト。

昨日会った『風のヒルダ』さんと同じ、中級侍女のユニフォームだ。 20歳に近いけど20歳は超えてない感じ。わたしより背が高くて、フィリス先生と同じくらい。

――わたしは、16歳にしては成長不良の類に入るみたい。チェルシーさんやポーラさんに『ちゃんと食べなさい』と言われたし、 10歳のメルちゃん用のドレスが、サイズを合わせる前とは言え、苦しくない程度に着られたし。

オレンジ金髪ウルフ耳の男は、いかにも『頼れる兄貴』っていう風な感じで、言いたい事をポンポン言っている。

「坊主、そろそろ入隊年齢ってとこだな。訓練隊士として合格したら、俺んとこに来いよ。『火のザッカー』って言えば大抵は分かるからな」

――わたしを男だと誤解しているのは確実だ。

大食堂の空調は割と強い状態で、身体が冷えないようにクレドさんの紺色マントを借りて、スッポリくるまっているせいだと思うんだけど、口を挟む暇がない。

そして、『火のザッカー』と名乗った筋肉ムキムキなオレンジ金髪ウルフ耳の男は、ちょうど腕を絡ませて来た黒髪美人のウルフ女性に、ニパッと笑みを向けた。

「忙しい、忙しい。じゃあな、坊主」

筋肉ムキムキのオレンジ金髪男『火のザッカー』は、カノジョと思しき黒髪美人の中級侍女を、ヒョイと片腕抱っこした。 そのまま、昼下がりの陽光が降り注ぐ回廊へと歩いて行く。堂々たるサイズの、オレンジ系の金色なウルフ尾が、気取っているかのように、フサアッとひるがえっている。

じゃれ合ってるみたいで、『火のザッカー』の大きな背中越しに、クスクス笑いが聞こえて来る。 黒髪美人のウルフ女性の黒い尻尾が、ザッカーさんの片腕の下に流れつつ、笑い声に合わせてリズミカルに揺れていた。 『忙しい』と言ってる割には、これから楽しい休憩時間だったっぽい。

へぇー。あんな風に、実際は良くある事なんだろう、片腕抱っこと言うのは。友情の延長っていう感じなのかな。 わたしは記憶喪失してるから、その辺の感覚、まるで無いんだけど。

ひたすら感心して後姿を目で追っていると、クレドさんが、ちょっと身をかがめて来た。

「驚きましたか?」
「えっと、それなりに色々」

クレドさんは不意に、口の端に綺麗な笑みを浮かべた。静謐な印象のある顔立ちだから、心に沁みとおるような笑みという感じ。 一応ちゃんと鍛え上げた体格をしてる男性に対して、こういう形容は変かも知れないけど、優美なんだよ。

初めて見る笑みだから、ビックリした。胸がドキドキしてる。何かおかしな事とか、楽しい事とかありましたか?

*****

突然――大きな怒鳴り声が響いて来た。

「いい加減、認めろ!」
「冗談じゃ無いわよ!」

クレドさんの黒いウルフ耳が、スッと、騒動の方向を向いた。ザッカーさんが向かっていた、回廊の方だ。

怒鳴り合っている声は、一方は男で、一方は女。

わたしの『人類の耳』でもハッキリ分かったくらいだから、大食堂の方でも、近い方の場所の人は皆、気付いたみたい。 チラッとだけど、大勢の人のウルフ耳が、一斉に回廊の方を向いたから、ビックリしちゃった。

男と女の痴話喧嘩なら、どうって事は無いみたいで、みんな興味津々ながら、様子見だ。

でも。

何か変な雰囲気だ。痴話喧嘩と言うよりも――それに、あの女の人の声は――

わたしは水の入ったコップを持ったまま、駆け出していた。

足元にあった、出っ張りか何かに、爪先が引っ掛かった――転ぶ、と思った瞬間、視点が急に上昇する。

「ほぇ?!」

気が付いたら、再びクレドさんに片腕抱っこされていた。今日5回目の抱っこですね……っていうか、クレドさん、いつ動いたんですかッ?!

「水場周りの溝で、器用につまづくんですね」

明らかに、呆れられていると分かる。確かに、アーヴ種の水場周りと、その他とで、床を覆うパネルのパターンが違う。 どうやら、小さな子狼ですら滅多にやらないような、ドジらしい。 いつの間にか放り出していたコップも、クレドさんの手にキャッチされていた。

クレドさんは呆れながらも、わたしの意図は理解していたみたいで、そのまま素早く回廊へと歩を進めて行ってくれた。

――回廊の中ほどで――

灰色のスカーフをした黒髪のウルフ男と、黒髪の中級侍女とが睨み合っている。

ウルフ男の方は、一見して役人なんだけど、どちらかと言うと研究職っぽい雰囲気だ。割とボワッとした不思議な髪型が、黒髪だけに、いっそう目立つ。

「分かってるくせに! だいたい、アレは君の……」
「言い掛かりも大概にして! こっちは忙しいのよ!」

中級侍女が、勢いよく『魔法の杖』を振り上げた。強い風が湧き立ったみたいで、ストレート黒髪がザーッとなびく。 中級侍女が押していたワゴンは、大百科事典みたいな分厚い書籍で一杯だったんだけど、 その1冊がブンッと空を飛び、見事、背の高い黒髪のウルフ男の脳天にヒットした。

いかにもな――『ゴンッ』という音。

「わぉぉん!」

灰色スカーフをした黒髪のウルフ男が、頭を抱えて膝をついた。予想外の急襲だったみたい。何か痛そう。

黒髪ストレートの中級侍女は、『バシン』と音を立てて、武器となっていた書籍をワゴンの上に戻した。 ハシバミ色の丈の長いワンピースドレスの裾をひるがえして、ワゴンを押しながら、大股で歩き去って行く。

その姿が、回廊の途中にある正方形の小さなスペースに引っ込んだ。次に、その小さなスペースが、白いエーテル光で溢れた。転移魔法だ。

ポカンとして見ていると、白いエーテル光が収まった後、中級侍女の姿は消えていた。何処かに転移したんだ。

「――あれ、『風のヒルダ』さんじゃ無いの」
「相変わらず気の強ぇ女だな。《風魔法》は不安定だけど、本を投げるのだけは上手ってのは、まぁ」

先に来て見物していた男女カップルが、口々にコメントしていた。 筋肉ムキムキの、オレンジ金髪男な『火のザッカー』さんと、その黒髪のカノジョさんだ。

――それに『風のヒルダ』さん。昨日、メルちゃんの姉ジリアンさんの美容店で会った人。覚えのある声だと思ったのは、間違いじゃ無かった。 でもヒルダさんは、何故あんなに怒っていたんだろう?

ザッカーさんがカノジョさんを降ろし、頭を抱えてうずくまっている哀れなウルフ男を助け起こした。

「おめぇ、名は何だったっけ? アンティーク宝物庫の方でよく見かけるが」
「あぁ、私は『地のタイスト』だ。古代の魔法道具の――宝飾品も含む――歴史研究員だよ」
「実に災難だったな、タイスト研究員。幸い、コブは出来てないが……一体、何を喧嘩してたんだ?」

タイストさんは、いかにも研究職というか、ウルフ男にしては割とヒョロリとした感じの体格だ。 ヒルダさんの攻撃は相当にキツかっただろう。

「ああ、ちょっと確認したい事があってね。なに、そんなに大した事でも無いんだが」

――あれは、確認してるって言うよりも、問い詰めてるって感じだったけど。

タイストさんは、頭をハッキリさせるかのようにブルブル振るった後、ザッカーさんにお礼を言って、大食堂へと入って行った。 遅くなったけど、これから昼食を食べるんだって。それも、テイクアウトで、仕事部屋で仕事しつつ食べる予定だそうだ。

何か釈然としないけど。

――あとで、ヒルダさんに会ったら、ヒルダさんにも聞いてみようかな。迷惑じゃ無ければ。

ふと目を巡らす。回廊は開放的な造りになっていて、周囲を取り巻くパノラマな景色が、目に入って来た。

――向こう側の奥殿――重役のためのスペースっぽい一群の建築の上に、白い玉ねぎ屋根を乗せた3本の尖塔が、良く見える。

へー。何と言うか、隠れた意外な観光ポイントだ。思わず、3本の尖塔をしげしげと眺めてしまった。 陽光の角度の都合で、半分は陰になってるけど、明暗がクッキリしていて1枚の絵になるって感じ。

ザッカーさんとカノジョさんが、下の方にある別の一角を指差した。

「坊主、こっちにも面白い物があるぞ。あそこの備品倉庫の屋根、『炭酸スイカ』の実が鈴なりだ」

クレドさんが意を汲んで、わたしを抱っこしたまま回廊の手すりに近寄ってくれた。指差しの方向に誘われて、下の方を眺める――

――うわ、高い。目が回る。わたし、高所トラウマだった……!

頭からザーッと血が引く音を自分でも感じたくらいだから、たぶん、わたしの顔は真っ青になってると思う。 わたしの狼狽ぶりが余りにもあからさまだったのか、ザッカーさんとカノジョさんが不思議そうな顔になった。

「おい坊主、もしかして高い所が苦手だとか?」

わたしは口を引きつらせたまま、コクコクうなづいた。命綱さながらに襟首を引っ張られる形になったにも関わらず、 クレドさん、一歩後退してくれて有難うございます。

「高所恐怖症だと、武官は厳しいかもねえ。タイストさんみたいな文官の研究職コースなら大丈夫かしら」

黒髪のカノジョさんが頬に手を当てて小首を傾げていると――

――大食堂の入り口の方から、タイストさんが再び現れて来た。片方の手に料理皿の乗ったトレイを持っている。

昼食時のピークを外れているから、オーダーの方は余り混んでいなかったと思うけど、割と時間が掛かってたよね?

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深森の帝國