深森の帝國§総目次 §物語ノ傍流 〉瑠璃花敷波01

―瑠璃花敷波―01

part.01「水のルーリエ*1」

(1)見知らぬ噴水
(2)疑惑と恫喝
(3)地下牢
(4)陰謀めいた話
(5)魔法使い治療師
(6)今、起きている事

*****(1)見知らぬ噴水

――見渡すかぎり、激しい光と闇の乱流。

荒らぶる雷雨と、強風のただなかに放り込まれたようだ。

グルグル転がされているせいか、どっちが上で、どっちが下なのかも分からない。

うう……胃がでんぐりかえる。船酔いの時みたいに、気持ち悪い……

思わず頭を抱える。手に触れるのは、幅広のヘアバンド――または、ターバン型と思しき、違和感のある金属物。

――あれ? わたし、こんな物を頭部にハメてた……?

*****

次に大きなショックが来た時、わたしの視界は暗転した。

*****

――閉じた瞼(まぶた)を透かして染み通って来る、チラチラとした陽光の感触。

半日陰なところっぽい。陽光がチラチラとしているのは、葉群を通って来ているせいだ。

頬に触れる風はヒンヤリしている。ビックリするほど近くで、水音がした。

絶え間なく続く水音――とは言っても、川とは違うみたいけど、これ、何だろう?

頭がズキズキする。

浮遊感と気持ち悪さが落ち着くのを待ち、目をそっと開ける。仰向けに横たわったまま――空を眺める。

何故に、屋外の樹木の下で仰向けになっているのか――という疑問はおいといて、特に違和感は無いみたいだ。

抜けるような青空――空色をした天球。昼の星だろうか、真上に近い場所に、白く丸い天体が見える。 遥かな上空では一定の風が吹き続けているらしい。昼の星の周りでは、白い筋雲がゆったりと流れていた。

背中に感じるのは、滑らかに磨かれた石の床。石畳を敷いているんだ。 継ぎ目は感じられるけれど、水平に隙間なく敷かれているせいか、ほとんど一枚板と変わらない。

首を回すと――

傍には見知らぬ噴水があった。絶え間なく続く水音は、此処から出ていたらしい。

寝そべっている状態だと一部分しか見えないけど、円形の仕切りで囲っているのは分かる。

噴水の真ん中と思しき所には、古風な水瓶(みずがめ)の形をした透明なオブジェがあった。 その水瓶(みずがめ)の口の部分から、水を噴き出すと言うスタイルだ。

水瓶(みずがめ)の形をした透明なオブジェの中で、草のような物がユラユラと揺れているのも見える。

……草、というよりは、柔らかな水草……藻のようだ。 淡い色合いの揺らぎの中、どこまでも青い瑠璃の小花のようなのが、群れを成して咲いている……

大きく息をつき、ゆっくりと身を起こす。着ている物は、やけにピッタリしていて、動くたびに布地がひきつれる。

石畳に手を突くだけで、体重を支えている腕がカクカクと震えた。でも、疲労とは明らかに違う。ひどい違和感だ。 身体全身にも、筋肉が勝手に伸縮しているような、ギシギシというような不吉な感覚がある。

おまけに――これ、すごく窮屈な衣服だから、動きにくい。

衣服の窮屈さと頑丈さのお蔭で、身体がカクカクと勝手に動き出すのを抑える事が出来ているという感じ。謎だ。

……此処は、何処……?

まず、わたしが居るのは、ささやかな噴水広場らしい。

噴水の周りに石畳スペースがあって、その周りは芝草だ。 傍らには枝葉を大きく広げた樹木があり、石畳の上に半日陰を作っている。ちょっと先には、林も生えている。

林の隙間を透かして、なだらかな丘陵をした地形が広がっているのが分かる。

丘の上に、町並みのスカイラインらしき物が見えた。丘を越えた所には町があるみたい。 屋根とかは……あれ、屋根なんだろうか? ポイントポイントに、何だか、 プックリとした玉ねぎ型って感じの屋根っぽいものが乗ってるんだよ。

小高い丘に作られた、庭園を抱え込んだ街区のような場所に見える。 そこかしこに樹林群が散在していたり、花壇があったり噴水があったり、あずまやがあったり……丘全体に人の手が入ってるみたい。 ずいぶん広々としたスペースだ。

気温が高い季節の頃らしい。陽光は充分に強くて、直射日光を受けている方の石畳は、相当に熱を持っている。 ヒンヤリとした風が無ければ、此処は、もっと暑かったに違いない。

涼しい風が吹いて来る方を眺めると――はるか上の方に、大きな山脈が見えた。頂上にうっすらと雪が掛かっている。 成る程、あの山脈から涼しい風が吹き降ろして来るんだ。夏場でも割と快適な場所なんだと思う。 今が夏かどうかは、誰かに聞いてみないと分からないけど。

噴水の音は相変わらず続いている。噴水の更に向こう側に何かあったみたいな気がして、わたしは、もう一度、目を戻した。

生け垣みたいな緑の葉群の向こう側、この丘陵エリアで最も標高が高い場所に――

――赤みを帯びる華やかな切り出し石を多く使った、塔のような建築物が見える。

下の方は地形の盛り上がりや葉群に隠れていて分からないけど、床面積は結構ありそう。塔を持った城館みたいな物だと思う。 頂上部は3本の尖塔に分かれている。塔の頂上に、玉ねぎの形さながらの、プックリとした白い屋根。

最も高い玉ねぎ型の屋根の上には、重そうな金色の旗がダラリと下がっている。穏やかな天気だし、風は余り無いんだ。

遠目にボンヤリとではあるけれど――その赤みを帯びた塔のバルコニーとかで、割と多くの人影っぽいのが動いているのが見える。 忙しく行ったり来たりしていて変な雰囲気だけど、あの人たち何をやってるんだろう?

此処は何処なのか、あの人たちに聞いてみないと――わたし、寝巻のままだとか、変な格好じゃ無いよね?

改めて、身体を見下ろしてみる。

濃灰色の無地の、窮屈なチュニックと細身のズボン。ザラザラとして硬い布地で出来ている上に縫製が特殊なのか、妙に動きにくい。 これじゃ服全体が、ちょっとした拘束具だよ。あとで針と糸とハサミが手に入ったら、縫い直さないと。

何だか男の服装っぽい気もするけど、まぁいいか。わたし、どうも男みたいだし……あれ、ボク、女だったかな? どっちだったっけ?

足は――両方とも、裸足(はだし)。

何処かで靴が脱げちゃったのかも知れない。

でも。今、わたしが座り込んでいるこの石畳は、手入れが行き届いていて綺麗だ。石畳の道を外れた所には、緑の芝草も生えている。 芝草の上を歩いて行けば、足の裏も余り痛くならないと思う。

立ち上がろうとすると身体がカクカク、どころか、ガクガクとするけど、このキツイ着衣が妙に支えになるし、ゆっくりとだったら大丈夫な筈。 片方の手を付いて、片側に重心をずらして――

一瞬。

ビシッと鋭い音が走った。

左頬に――ピリッとした痛み。次に、ジワジワと、そこから生暖かいものが滲み出して来た。

これ、血が出てる……? 何で?

口をアングリと開けたまま、異物が飛び去った方向を振り返る。

近くの置き石に、大型の楔(くさび)のような刃物が、深々と突き刺さっていた。 よほど勢いが付いていたのか、その端は、まだブルブルと震えている。

呆然と見守っているうちに、楔(くさび)の形をした刃物は、砂時計の砂のようなサラサラとした質感になる。 そして、速やかに黒いモヤとなって分解し、蒸発して行った。

後に残ったのは、石の表面に刃物が食い込んでいた証の、黒い穿孔だ。楔穴(くさびあな)だ。

――魔法だ……うん、魔法だと思う。

「お前は何者だ? どうやって此処に現れた?」

不吉な響きを込めた低い声音が、飛んで来た。

*****(2)疑惑と恫喝

声が聞こえてきた方向に――恐る恐る首を回す。

――噴水広場の端に1人、丈の長い純白のマント姿の若い男が、威風堂々と立ちはだかっていた。両肩には、金色の房の付いた肩章。見上げる程に背が高い。

豪華絢爛そのものの、うねる金髪は、背中の中ほどまでの長さがある。殺気を湛えて不吉にぎらつく金色の目。 純白のマントの下には、濃いロイヤルブルーが鮮やかな、仕立ての良い着衣。金色刺繍と思しき、魔法陣のようなテキスタイル紋様がキラキラしている。 身分の高い人物らしい。

際立つような華やかさのある顔立ちだ。正統派の美青年と言って良い。

頭の左右に、イヌ科の耳がピンと立っている。かの美形な顔立ちと相まって「或る意味、シビレル(キャー♪)」と称賛するところ。 だけど、この男のまとう殺伐とした空気は、社交辞令を受ける気分では無い事をありありと示している。

右手下段に構えている長剣――あの堂々とした、恐ろしいまでにぎらつく銀白色の刃部分の長さは、わたしの背丈ほどもあるんじゃ無いかと思うくらい。

手や腕の要所には、手甲などの防具。袖の無い夏向きの着衣だから、マントの下から突き出した、その腕の逞しさが丸わかりだ。 見世物なんかじゃない、本当に戦闘向きに鍛え上げられた筋骨のセット。

さっき、楔(くさび)のような刃物を投げて来たのは、この人?

だとしたら、この距離で、あの石の表面に深い楔穴(くさびあな)を作る程だ、ものすごい筋力だと思う。

脚の間に見える金色のフッサフサは……あれ、イヌ科の尻尾だよね? 狼の尻尾みたいな気もするけれど。 尻尾全体の毛が刺々しい感じで逆立っていて……怒髪天レベルで激怒してるって事? 何で?

イヌ科の耳に、イヌ科の尻尾? ――獣人のイヌ族? ウルフ族?

――この天球の下、確か獣人とか竜人とか、いろいろ居たような気がする。あとは魚人とか。

息詰まるような緊張感。頭も混乱しているせいか、ゴチャゴチャとしか思い出せないけど。

左頬からは、まだ生暖かい血が流れているのを感じる。 ツーッと流れ出した物は顎(あご)を伝い、首筋を下り、濃灰色のチュニックに染み込んで行った。 この布地、汗や血でベタベタしないみたい。超・硬いくせに、血の吸い取りは、すごく良いらしい。

不意に、頭が奇跡的に働いた。

玉ねぎ型の屋根を認めた時に、気付くべきだったのだ。

――ここは獣王国の領土の、何処かだ。 目の前にいる人物は、イヌ族の男性にしては背が高すぎる。したがって、ウルフ族と判断すべきなのだ。

しびれを切らしたかのように、金髪ウルフ族が再び口を開いた。

「お前は変身魔法で完全な人体に変身しておいて、迂闊にも耳が遠いのか? そのくせ、いつの間にか、この場に侵入して来ている。 どうやって、この場に現れたと聞いている」
「此処は、何処ですか?」

豪華絢爛な金髪の男は、瞬時に間合いを詰めて来た。目にも留まらぬ熟練の手さばきで、喉元に長剣を突きつけて来る。

「聞いているのは私だ! 黒のバーサーク工作員か、この宮に潜り込んで来たイヌ族の忍者か、暗殺者か!」

――忍者? 暗殺者?

息を詰まらせて座り込んだまま、一瞬、とんでもないことに気付く。身体全身が、凍り付いた。

何も覚えていない! 自分が何処の誰なのか――イヌ族か、そうで無いのかも分からない!

これを、どう説明するべきなのか。思いつくままに口走るのみだ。

「こ、これがどういう事なのか、何も分からなくて! ……何故、此処に居るのかも、此処が何処なのかも――」

喉が渇いているのか、喋りにくい。

身体は相変わらずガクガクしていて、変な風にしか動けないし、風邪をひいているのかも知れない。 喋るという事が、こんなに努力が要るものとは思わなかった。声が不自然にヒビ割れて、しわがれている。

「戯言(ざれごと)を申すな、痴(し)れ者!」

金髪美青年が、激怒ゆえの怒鳴り声で応じて来た。カッと開いた口の端に、ウルフ族ならではの牙が見える。怖い!

噴水の向こう側――赤みを帯びた塔の方から、新しい足音が聞こえて来た。

5人ほどの新たな別の人物が、戦士そのものの身のこなしで駆け寄って来ている。 このウルフ耳の金髪美青年の大声を聞き付けて、噴水周りの異常に気付いたに違いない。

新たにやって来た5人は、どの人も金髪の男と同じように背が高い。頭の左右に同じようにウルフ耳が生えていて、後ろにウルフ尾が生えている。

いずれも袖なしの夏向きの着衣で、要所に手甲などの防具を付けているのが見える。 違いと言えば、着衣の色が紺色である事、丈の短いマントを着けている事、毛色が少しずつ色合いの違う金色だったり黒色だったりする事。

「殿下! 従者も衛兵も連れずに、宮を離れては……」

――この純白マントの、ウルフ耳にウルフ尾の、金髪美青年が、『殿下』?

呆然としていると、5人ほどの新来の男たちは腰に回した警棒ホルダーのような物に手を掛けつつ、 『殿下』と呼ばれた金髪の男の左右に並んだ。

素人目にも分かる程の、見事な防御展開だ。『殿下』と呼ばれた純白マントの男は、 『フン』と鼻を鳴らしつつも、いつの間にか腰のホルダーに長剣を収めている。

――純白マントの下には、警棒ホルダーみたいな物しか無いけど。

あの長剣の堂々とした刃部分、何処に消えたんだろう?

楔(くさび)の形をした投げナイフっぽい物も、蒸発して消えたりしていた。長剣も同じような物だったのだろうか。 魔法って、時々分からない――と言うか、まだゴチャゴチャしていて実感が湧かない。

5人のうち1人――黒髪の男――が、鋭い視線を投げて来た。金髪とはまた違うタイプの美青年といった風で、ずいぶん落ち着いた感じの人だ。

「……子供?」
「この恰好だ、ただの子供では無いだろう。魔法使いでもあるまいに、いきなり現れた。 白いエーテル光が転移魔法の先触れになる筈だが、それすら無かったからな」
「隠密レベルの転移魔法? 熟練の忍者か――暗殺者か? それにしては『魔法の杖』を持っていない……」

――何やら、事態が更に悪化しているんじゃ無いだろうか。

パッと見、わたしは子供に見えるらしい。でも、普通、子供がポンと現れたくらいで、 此処まで『忍者』だの『暗殺者』だの、物騒な解釈をされる物なの?

「地下牢に連れて行け。こやつ、身体の動きが変だし、声も加工が掛かっている。バーサーク状態だろう。 拷問してでも、此処に侵入して来た目的を白状させる。未だに『黒幕』は見つかっていないし、 子供だからとて、容赦はするな。私は父上に報告するが、後ほど――」

5人からの『応』との返答を受け、『殿下』と呼ばれた豪華絢爛な金髪男は、膝下丈まである純白のマントを華麗にひるがえして、 大股で堂々と歩き去って行った――

――赤みを帯びた塔の方向に。

5人の男たちの動きは素早かった。

あっと言う間に奇妙なシーツを被せられ、袋詰めの格好になる。視界が塞がれてしまって、何も分からない。

何らかの魔法の仕掛けがあるのか、袋詰めにされた瞬間、手足の自由が利かなくなった。そのまま、何処かへと運ばれて行くのを感じる。

クルリと回転する。何処かの角を回ったらしい。

一部の足音が遠ざかって行くのが、布地を透かして聞こえて来る。5人の男たちは二手に分かれたようだ。

しばらくすると、階段を下りているのか、特徴的な上下の揺れが続く。

袋詰めにされているせいで周りの状況が見えないから分からないけど、この下り階段の段差、 やたらと大きくない? 大波を上がったり下がったりしている小舟になったような気分だよ。

3人ばかりの男たちの会話が、布地を透かして聞こえて来た。

「拘束魔法陣をセットしたこのシーツ、残り少なくなって来てるんだが」
「このチビなら、バーサーク状態でも『拘束シーツ』無しで大丈夫だろ。魔法道具だって安くないんだから」
「先着のヤツの尋問が済むまで、柱に拘束鎖で繋いでおけば良い。それで黒幕がおびき寄せられるのなら、事件解決の手間も省けると言うモノだ」

――どうやら、すぐに拷問されるという事にはならないみたい。それでも、到底ラッキーとは言えない。

何分、経ったのか。

不意に袋詰めから解放された。

乱暴に放り出され、ゴツゴツした石の床に『べしっ』と落とされる。勢いよく叩き付けられたのと、ほとんど変わらない。

高速度で側頭部を打ち、ガツンとした衝撃が返って来た。金属製のヘアバンドが衝撃を吸収したのか、ショックはそれ程という訳では無いけれど。

――うう、痛いよう……

ゴツゴツの床に打ち付けられた胴体の方が、ジンジンと来る嫌な痛みを訴えて来る。思わず涙がにじんだ。

3人の男たちは、骨を折らない程度に手加減してくれたらしいんだけど、すごく痛い。間違いなく内出血してる。 一刻ほどもしたら、身体全身、アザだらけになっているに違いない。

薄目を開けて、ザッと見回す。ゴツゴツとした石積みと鉄格子に囲まれていて、暗い。

入り口と思しき鉄格子扉とは反対側の、天井の端の方に、明かり取り用の細いスリットが開いているのが見えた。 スリットからは、だいぶ傾いた陽光が差し込んで来る。日が沈んだ後は、ほぼ暗黒の世界になるんだろう。

1人が背中をつかんで持ち上げたので、視界が新たに開けた。 規則的に並ぶ十数本ほどの、めいめいの鉄柱に、鎖が巻き付いているのが見える。

その鎖の先にあるのは……あれ、輪っか? 首輪なの?

3人の男たちは、日常業務をこなすようなスムーズさで鎖付きの首輪をハメて来た。

「先着の奴ら全員、尋問中だな。静かで結構な事じゃ無いか」

――全然、結構じゃ、無いッ!

わたしが太い鎖付きの首輪の重量感に参って、グッタリとへたれて横たわっているうちに――

3人の男たちは、他にも何か軽口や愚痴らしきものを交わしつつ、さっさかと地下牢を出て行ってしまった。

「こんな事が続くとな、やっぱり思うよなぁ、かの《青き盾》が我らが王族の護衛メンバーに入ってたらと。何と言っても、最高位の《水のイージス》って評判だし」
「同感、同感」
「3年くらい前のすげぇ偉業の話、今でも信じられないよな。闇ギルドの暗殺魔法使い軍団の必殺の一撃、それも強烈なモンスター毒付きの攻撃魔法から、見事に防衛してのけたとか」

鉄格子扉が、ギイギイ、ガシャーン、と重い音を立てた。続く『ガシャン』という音は、錠前が掛かった音に違いない。

地下牢という特殊なスペースだけあって、反響が良いみたい。硬いブーツの踵(かかと)が立てる足音が、不穏な雰囲気タップリに、長く響く。

グオォォーン……オゥワォーン……

あれ、何?

ブーツの踵(かかと)が立てる音じゃ無い。陰々と、不気味に響いて来る。

聞いているうちに、背筋がゾワゾワして来る。 闇夜の人外魔境を徘徊する、恐ろしいモンスターの咆哮みたいな……或いは、呪われた腐乱死体(ゾンビ)の凄惨な呻き声みたいな……

ギャギャオーン……

不意にハッとした。全身の毛が逆立つ。

――あれ、拷問を受けてるという人たちの呻き声なんじゃ無いだろうか。

*****(3)地下牢

――万事、休す、か。

わたしは目下、地下牢の石の床の上、うつ伏せになって、グッタリとのびてる状態。

何故、あの噴水広場に居たのか分からない――という事が、そんなにいけない事だったの?

ゴツゴツした石の床は冷たく、裸足(はだし)は、みるみるうちに氷みたいに冷えて行った。

時に悲鳴となって響いて来る呻き声に、なおさらに恐怖が増す。

凄惨な呻き声が収まるたびに、今度は自分の番なんじゃ無いかとビクビクし通しなものだから、全身の毛がすっかり逆立ってしまっている。

天井の隅に開いた細いスリットから洩れる陽射しの角度は、先ほどよりも浅くなっているみたいだ。わずかにオレンジ色も混ざって来ている。

――あそこまで、手が届くだろうか。

首に掛かっている首輪は金属製で、冷たくて重い。太い鎖が付いているから、なおさらだ。 わたしは両腕両足を突っ張り、ヨロヨロと身体を浮かせると、四つん這いになったまま、ヨタヨタと端に近寄った。

ゴツゴツの壁に手を掛けて、立ち上がってみた。

背を伸ばしてみた。

次に、腕を伸ばしてみた。

爪先立ってみた。

――とっても、届かない。

思いっきりジャンプしても、思ったように飛び上がれない。身体各所をきつく締め付けて来る濃灰色のチュニックのせいでもあるし、 金属で作られた首輪の重量が加わっているせいでもある。

それに。

改めて見回してみると、この地下牢、全体的に大づくりなのだ。地下スペースなのに、天井がやけに高い。 ウルフ族の男たちの、あの見上げるような背丈を標準としているに違いない。

この身体は『子供』と判断されただけあって、小柄な方なのは確からしい。 見える部分――手の指や、濃灰色のチュニックの袖に包まれた二の腕を確認する限り、あの人たちみたいに筋骨隆々とは到底、言えないし。

何度目かのトライの後、感覚の失せた足がもつれ――尻餅をつく。バランスが崩れて横に倒れそうになり、咄嗟に頭部を庇った。 『べしっ』という衝撃が、胴体に走る。

――やっぱり、痛いよう……

身体が変な風にカクカクしていて、上手く受け身のタイミングが取れなかった。 胴体の別の部分を、強く打ち付けたみたいだ。ゴツゴツの石の床のせいで、腕にも脚にも何か所も出血を作ってしまって、なかなか起き上がれない。

あの人たちみたいに、わたしも尻尾が生えていたら、もうちょっと上手に身体のバランスが取れていたかも知れない。 この『尻尾の無い身体』は――本来の重心が取りにくいと言うか、微妙な違和感があるのだ。何故だか、そんな気がする。

相変わらず頭部にあるのは、異様な金属の感触。 ヘアバンドやターバン――幅広のカチューシャのように、頭頂部から耳のラインをグルリと覆う形で、頭部を保護しているかのようだ。

先ほどの記憶を、慎重に思い出す。

あの金髪で純白マントの『殿下』には、わたしの姿は『完全な人体に変身したイヌ族』のように見えたらしい。 でも、この妙なヘアバンドがあるから、頭の左右にイヌ科の耳なり何なりが、出て来ないのでは無いだろうか?

これは、頭部の保護のためでは無いような気がする……

わたしは再び、冷たい石の壁に手をついて、ゆっくりと身を起こした。

ヘアバンドのせいなのか、前髪がバサッとかぶさっていて、ちょっと見通しが悪い。 改めて毛先を見てみると、黒だ。わたしは黒髪らしい。後ろ髪に手を滑らせてみる――

髪の先に、手が触れた。顎(あご)ライン辺りで、バッサリと短くなっている。

――『子供』と言われたのも納得の、坊主頭だ。

ザンバラな毛先を触って調べているうちに、急にギョッとする。どうも、元からこの髪型では無かったらしい。 先ほどまでハサミが入っていたのでは無いか――という感触がある。

――最近、髪の毛を切っていた……?

手の違和感がしつこい。フラフラと手を動かしてみる。 元々の髪の毛は、腰のラインまであったのでは無いか――という事を、その違和感は無言で告げている。そんなに長いという事は――

――そう言えば、わたしって男だった? それとも、女だった?

しばらくグルグルと考えた後――手で胸をペタペタと触ってみる。

濃灰色のチュニックの硬い布地を通して、かすかな盛り上がりが感じられた。

何とも頼りない存在感ではあるものの、それでも――男には有り得ぬラインだ。

性別の記憶すら、薄くなっていたらしい。ひとつの事実が判明したところで、今の状況が変わる訳では無いけれど。

「隠密の――『転移魔法』使い?」

不意に、背後から、聞いた事のあるような無いような、朗々とした滑らかな声音が飛んで来た。

うろたえながらも身を返し、天井のスリット直下の石壁に背を張り付ける。

入り口の仕切りとなっている鉄格子が、いつの間にか開いている。背の高い人物が1人、そこに居た。

ウルフ族の男だ。頭の左右に黒いウルフ耳。背が高く、髪は――黒い。 その漆黒の髪にはほとんどクセが無く、真っ直ぐに流れていて、うなじで一つに結わえられている。

もうすっかりお馴染みな感じのする、短い紺色マントと袖なし着衣のセット。脚の間には、チラチラと黒いウルフ尾が見える。 素人目にも分かる、隙の無い端正な立ち姿だ。

――いつ、入って来たのか。

地下牢の鉄格子の扉を、音も無く開けるという事自体、異様な違和感を感じざるを得ない。

男は、無言で腰のホルダーに手を掛けたまま、ひたと動かぬ強い視線を投げて来る。

闇を切り取ったかのような黒い目には、いわく言いがたい鋭い光があって――

強い感情が込められているみたいだけど、それが何なのかは分からない。 切れ長の涼しい目元をしていて、余裕で美青年の範疇に入る均整の取れた顔立ちだけど、ピクリとも表情が動かないから、むしろ彫像のように見える。 『殿下』とは違い、感情の読めないタイプっぽい。

不意に、記憶がよみがえる。

この人は、『殿下』の傍に駆け付けて来た5人のうちの1人だ。少し喋っていたから……

――これから、拷問が始まるとか……?!

自分でも、ザーッと血がひいていくのが分かる。恐怖の余り、真っ青な顔色をしていると思う。 こんな時だけど、尻尾が生えてたら、多分その尻尾は限界まで丸まって縮こまっている所だよ。

距離を取るべく、壁に背を張り付けたまま、じりじりと立ち位置をスライドする。

首輪についている鎖が、ピンと張った。この鎖の端は柱に固定されているから、それ以上は移動できない。

男は、不意に腰の物を抜いた。

思わず身体が強張る。

そこにあるのは、肘(ひじ)から指先までの長さの、ただの『警棒のような物』に見えるけど――

一瞬のうちに間を詰められ、肩をつかまれて固定される。足音も空気の流れも全く無かったから、男がいつ移動したのか、全然分からなかった。

つかんでくる手は乱暴では無いけれど、超人なみに筋力があるのか、ジタバタしてもピクリとも動かない。 愕然としているうちに、『警棒のような物』は数回、頭部をグルリと覆う金属製のヘアバンドに触れながら淡く光った。

途端に、金属製のヘアバンドがギリリと締まった。頭部を砕かんばかりに、きつく締め付けて来る。

「――痛い! 痛い!!」

ミシミシと、頭蓋骨が不吉な音を立てた。これが『拷問→処刑』じゃ無かったら何だと言うのか。

しゃがれた叫び声をあげ、頭を抱え、もんどりうって倒れ――

しかし、ゴツゴツの石の床に激突するような衝撃は、来なかった。

――?

異様な金属製のヘアバンドの締め付けは――今は、消えてるみたい。

*****(4)陰謀めいた話

この人、すぐに気が変わって、『拷問→処刑』をストップしてくれたんだろうか? でも、何故?

身体が宙に浮いているような気がする。腰を抱えられている……のだろうか。

朦朧としていて、何がどうなっているのかハッキリとは分からないけど、この男が、すんでのところで身体を支えて来たらしい。 背中をつかまれて運ばれていた時と、結果的に体勢が同じだから、どっちもどっちだけど。

「――自分で自分を拷問するような拘束用の魔法道具を、好きこのんで着ける筈が無い」

意外に穏やかな声音。地下牢の中だから音が反響していて、 馬鹿にされているのか、憐れまれているのかは分からないけど、少なくとも剣呑な気配は無い。

――不意に、首輪の重量感が失せる。首輪を外されたらしい。

太い鎖が、『ガシャリ』と音を立てて落ちた。

腰をつかまれて、荷袋さながらに抱えられたまま、地下牢の鉄格子の扉を通り過ぎる。

全力疾走スピード、いや、それどころか、それを遙かに超えているような恐ろしいスピードで、幾つもの鉄格子が続いている廊下を通り過ぎて行く。

――あだだだ。いたーい! 腕が回ってるそこ、そこらじゅう内出血してるから! このスピード、傷口に塩を塗りこんでるから!

わたしを運んでいる人、このスピードで移動するのが普通なの? 息切れしている気配が全く無いんだけど。

不意に、急な階段が現れた。やっぱり、ものすごい段差だ――と思っていたら、今度は、全くスピードが緩まないままに、恐ろしい急上昇が始まった。 重力が加わった分、胴体の肉が押し付けられて、痛みが一層ゴリゴリと襲ってくる。

このスピードで階段を上っている――のが見えている、と言うのは、究極の恐怖の光景だ。

何処まで登るの?! でもって、今度は高い所から落ちたりするの?!

目が回る中で、いつまでも終わらない自由落下の恐怖が急激に膨れ上がった。叫び声をあげる時のように喉がひきつるけど、声は出ない。 目を閉じたいけど、閉じられない。

トラウマになりそう――というか、絶対にトラウマになってる。 頭の痛みは無くとも、身体全身がゴリゴリと痛いし、このスピードだけで気が遠くなるし、気が遠くなって気分が悪くなって来るし……

地上に出たのか、不意に視界が明るくなった。

目の前をサーッと流れていく石の床に降り注ぐ陽光は、淡いオレンジ色。 次々に通り過ぎる列柱の物と思しき影が、長く伸びている。夕方が近づいて来ているみたい。

幾つかの角を曲がり――別の部屋に運び込まれたらしい。

生成り色の壁に、両開きの窓が並んでいた。

透けるような薄布を張った物置棚が、あちこちにズラリと詰まっている。 薬品を収める物置棚らしく、呼吸の度に、何種類もの薬品の匂いが鼻に入って来た。

新しく2人、淡い灰色のフード付ローブをまとった人物が出て来た。部屋の主っぽい。1人は背が高くガッチリしていて、1人は背が低くスラリとしている。 2人とも、頭部を覆うフードの形が、イヌ科の耳と思しき突起によって、変形している。

――魔法使いみたいだな……

そんな事を思い付いているうちに、寝台と思しきクッションの利いた何かに、ポスンと転がされた。うぐっ。痛みが響く。 頭がクラクラして、再び朦朧とした気分になる。

「先生がた。先ほど捕らえたこの者、偶然の迷い人のようです。頭部のバンドは『耳』と『尾』を出せなくするための拘束具のようですが、外せますか?」

黒髪黒目のウルフ族、紺色の着衣をまとった男の人が――まともに喋っているらしい。

灰色ローブをまとった2人が、キビキビとした歩みで、傍に寄って来た。さっき『先生』と呼ばれていた2人だ。

「変なバンドだな。イヌ族が好む意匠のサークレットのように見えるが……普通、こんな角度で頭部にハメないよな」
「隠密レベルの魔法陣が幾つか掛かってますね。裏側にも何か怪しそうなのが――横にあるのは……封印?」

背が低くスラリとした灰色ローブの方は、女性らしい。涼やかな声をしている。

灰色ローブの男女2人は、少しの間、アレコレと言葉を交わしていた。やがて真剣な雰囲気になり、 めいめいの手に棒を持って――どうも、これは『魔法の杖』らしい――奇妙な金属製のヘアバンドの各所をつつき出した。

頭を締め付けるほどでは無いけれど、ピリピリとした刺激が何度も脳みそに走る。 不快な痛みだ。しびれるような頭痛に、思わず首をすくめる。無意識のうちに喉の奥から、しわがれた呻き声が漏れた。

やがて、奇妙な責め苦が終了する。気が付くと、身体が丸まっていた。

薄目を開けて窺ってみると、背が高くガッチリしている方は、金茶色のヒゲを短く刈り込んだ中年男と知れる。 声の調子からすると30代から40代くらい――という割には、顔が意外に若い。

灰色ローブをまとった中年男は、首を振り振り、長い長い溜息をついた。

「誰が拘束バンドをハメたか知らんが、《宿命図》にまで干渉するとは……ひどい事をしやがる」

脇に立っている背の低い女性の方は――顔色がすっかり変わっていて、口元が強張っている。

――どういう事?

黒髪黒目のウルフ族が、口を開いた。

「判読結果を下さい。この少年について、尋問から様子見に変更する件、ヴァイロス殿下を説得しなければなりませんので」

灰色ローブの中年男が、怪訝そうな顔で応じる。

「殿下が、『事件の新たな容疑者を捕らえた』とか言ってたが、まさか、この嬢ちゃんか?」
「……嬢ちゃん?」
「おい、何処に目が付いてんだ、クレド隊士。彼女は同じウルフ族の女の子だ。人体換算年齢で、ほぼ16歳といったところだぞ!」

――そうだったっけ?

そろりと心当たりのある方向を窺ってみる。この黒髪黒目の人は、『クレド隊士』と言うのか。クレドさん?

かすかに見開かれた感のある、切れ長の黒い目と、まっすぐかち合う。

眉目秀麗といって良いその静謐な面差しには、目立った表情変化が無くて、感情が読みにくいけれど――どうやら驚愕を湛えているらしい。

訳知り顔をした灰色ローブ女性が、半透明のプレートを『魔法の杖』でつつきながら、口を挟んで来た。

「これだけ髪が短かったら、分からないわよね。控えめに言っても、種族系統の区別がつきにくいタイプの童顔だし、 換算年齢12歳ほどのバーサーク化した少年として扱ってたんじゃ無いの。この着衣の下、見えなかったから分からなかったんだろうけど、 地下牢の石の表面に何度もぶつかって内出血だらけよ。女の子の身体は構造上、頑丈じゃないからね、よく骨折しなかったものだわ」

――無言。無反応。

わたしが小柄らしいのは分かるけど、それに加えて、そういう童顔なの?

灰色ローブ女性の作業は素晴らしく早かった。

半透明のプレートが、脇にあったデスクに用意されていた数枚の紙の上に乗せられて、うっすらと光る。 すると、瞬く間に、半透明のプレートに浮き上がっていた文字列――『判読結果』と思しき物が、紙の上に転写されていた。

灰色ローブ女性は、その書類を手に取り、読み上げ始めた。

「当座の報告書。獣人ウルフ族、黒狼種、女性《水霊相》生まれ推定16歳。 頭部バンドは恐らく、闇ギルドに属する奴隷商人の拘束具を拷問、および虐待用に改悪した物」

――闇ギルド? わたしは、闇ギルドに居たんだろうか?

書類を読み上げる女性の声が続く。

「この拘束具は、変身魔法に干渉し『耳』と『尾』を強制的に沈めている。したがって自らの意思で『耳』と『尾』を出す事はできない。 更に、拘束具によって声帯の運動が歪んでおり、魔法呪文の正常な詠唱は不可」

ええッ! わたし、耳と尾が出せない状態だったんだ!

改めて注意してみると、ヘアバンドの端がうなじに掛かっている感触がある。 この部分で、声帯に影響を及ぼすポイント――身体のツボ――を、ギュウッと締め付けて異常を起こしているらしい。

灰色ローブ女性は、ひとたび息をついた後、最後のメモを読み上げた。

「全身に対モンスター強度レベルの《雷攻撃(エクレール)》魔法の痕跡あり、全面的な記憶喪失は確実。以上。 ――追伸、地下牢での『男扱い』により、物理的なスリ傷、切り傷、打ち身、各種アザが新たに加わっている。幸いに骨折はナシ」

――うん、確かに記憶喪失だと思うよ、わたし。此処に来る前の事、まったく思い出せないし。

それにしても――

対モンスター強度レベルの《雷攻撃(エクレール)》魔法?

それが何なのかは分からないけど、普通に生きてる人に対して使って良い魔法では無いだろう。 人の記憶を全て抹消する魔法なんて、日常的にポンポン使われたら大変だ。

2人の男性は、何を考えているんだろうか――重い沈黙が漂っている。

――これから、どうなるんだろう。急に不安が濃くなって来る。

丸まったままジッと動かないでいると、灰色ローブ中年男が再び話し出した。

「この拘束バンドを押さえている封印がクセモノでな。魔法の影響が《宿命図》にまで食い込んでいるし、 術の解除を妨害する不可視の――隠密レベルの魔法陣が幾つも掛かっている。闇ギルド方面に、それ程の上級魔法使いが居るという話は聞かんがな」

灰色ローブ中年男の声音は、緊張しているのか、険しい。

「爆弾を抱えているようなもんだが、自爆テロとは違って、本人のみが潰れるだけだ。周囲への影響は全く無い。 この嬢ちゃんが、今回の事件の容疑者どころか、危険人物ですら無いのは確実だ。ただ、この爆弾は普通の魔法使いには解体できん。 『マイスター称号』を持つ大魔法使いなら、扱えるだろうが……」

――何やら、すごい話になって来たような気がする。記憶が無いせいか、自分の事なのに実感が湧かない。

それに、『今回の事件の容疑者』。

此処では――あの赤みを帯びた塔の周りでは――何か事件が、陰謀が、起きていたのだろうか。

金髪の純白マントの『殿下』をピリピリさせ、この黒髪の『クレド隊士』その他を走らせるような、特殊な事件が。 そこへ、身元不明の怪しい、忍者とも暗殺者とも見える自分が、運悪くも迷い込んだという事か――

*****(5)魔法使い治療師

必死になって考えているうちに、いつの間にか時間が経ったらしい。

目の端で――誰かの手で寝台の隅にランプがセットされ、夜間照明の光らしきものがポウッと灯された。

寝台だと思った物は、移動ベッドだったみたい。動かされる感覚を感じてハッと気が付くと、周りにいるのは灰色ローブ女性1人だけだった。

移動ベッドに乗せられたまま、幾つかあるドアのうちの、ひとつを通り抜けて行くのが分かる。 廊下のような場所を渡った後、ドアのある小部屋に入った。天井の高さは充分にあるけど、テントの中と同じくらい狭いような気がする、正方形のスペースだ。

傍に付き添っている灰色ローブ女性が、『魔法の杖』を一振りする。

――次の瞬間、小部屋を取り巻く壁が消滅した。

常夜闇のような深い闇と化したようだ。ベッドの端に灯った夜間照明の光は変わらないのに、周りを取り巻いている筈の、小部屋の壁が見えない。 不思議な眺めだ。

灰色ローブ女性の方は落ち着いているから――たぶん、危険な事は無いんだろう。

それでも、少しドキドキしつつ様子を窺っていると――再び、周りの壁がスーッと現れた。

――ドアの外から洩れて来る光の方向が、変わったような気がする。

ドアが開いた。灰色ローブ女性は、わたしを乗せたままの寝台を、別の部屋へと移動して行く。

最終的に落ち着いた部屋は、同じ淡い色の壁をしてるけど、個室という感じがするくらい狭いスペースだ。 小卓と3脚ばかりの椅子と――水回りや物置棚みたいなのが各所にあるけど、それだけだ。 多分、病室――それも1人か2人用の、隔離スペースみたいな所なんじゃないだろうか。

両開きの、2つ並んだ窓の近くに、移動ベッドが固定された。再び、ドアが開いて閉じた。 灰色ローブの女性が一旦、その場を離れて、元の部屋の方に何かを取りに戻って行ったみたいだった。

窓の向こう側に見える光景は――既に夕景だ。

日が沈んでいく方向――西方でなだらかにうねる丘の上に、3本の高い塔を持つ大きな建物の影が見える。周りには樹林が散在している。 遥かな天球には、茜雲が広がっていた。

ボンヤリと窓を眺めていると、窓の端に、ピンと立った耳の、四つ足の小さな影が見えた。子犬みたいだけど、逆光になっていて良く分からない。

窓の外から、こっちを見ている? 迷い込んで来た子犬かな?

――と思ったら、その影はサッと引っ込んだ。すぐに気配も失せてしまった。

何だったんだろう?

そのうち、灰色ローブ女性が戻って来た。何らかの作業をしているのか、近くでガタゴトと言う音が続く。

音が止むと、フードを外した灰色ローブ女性が、ヒョイとのぞき込んで来た。

20代後半くらいの有能な雰囲気のある美人だ。金茶色の目をしている。 赤銅(あかがね)色に近い金髪。右側の生え際の近くに、妙に存在感のある紅色――というよりは茜色のメッシュが入っている。 頭部の左右には、やはりウルフ耳が付いていた。

「これから服を剥(は)ぐわよ。全身消毒して、湿布を巻くから」

目をパチクリさせていると、赤銅(あかがね)色の髪をした美女は、更に言葉を続けて来た。

「説明を忘れていたわね。此処は治療院の病棟の一つ。私は同族の金狼種『風のフィリス』よ。中級魔法使い治療師。 同じく同族の金狼種『地のディーター』先生は、上級魔法使い治療師。今、ディーター先生は、本部の偉い人に、『耳無し坊主』について報告に行ってるところ」

――『耳無し坊主』……話の流れからして、わたしの事で間違いない。

獣人は普段から、種族ごとの特有の『耳』や『尾』を出しているらしい。 同じ獣人に属しているくせに『耳』も『尾』も出していない自分は、正体を隠している工作員だと思われても不自然じゃない状況だし、 胡散臭いまでに念入りに変装をしているように見えるんだろう。

相変わらず、風邪をひいた時のような喉の違和感がある。だんだん惨めな気持ちになって来た。

拷問の恐怖が終わって、身の回りに気が向くようになったせいだ。無意識のうちに、此処へ運んで来た人の滑らかな声や、 この女性の涼やかな声と比べてしまう。

――この風邪っぽいの、治るのかな……

やがて、『風のフィリス』と名乗った女は、魔法の杖を振って「風の精霊王の名の下に」と呟いた。

濃い空気が身体の下に入り、身体がフッと宙に浮く。すぐにチュニックが波打ち、全裸に剥(む)かれた。

――えッ。このキツイ服、サイズ変えられたの?! ……というか、実は魔法の伸縮素材だったの?!

「楽にしてちょうだい。全身消毒液プールに入れるから」

いつの間に用意されていたのか、透明な青緑色の液体で満たされた、人体サイズの水槽が傍にある。 消毒液という割には、強い消毒作用を持つ薬品にありがちな、鼻を打つような匂いは無い。 微香レベルだけど、むしろ清潔な花のような香りだ。不思議。

フィリス先生が『魔法の杖』で起こした不思議な風は、全裸になった身体を運び、水槽に沈めた。

瞬く間に、細かい泡だらけになる。 目や鼻にちょっと水が入ったけど、余り刺激は無い。そして、再び引き上げられ、乾燥を施され、寝台に戻された。

「全身消毒、終わり。アザだらけになってるわね」

チラッとだけど、全身消毒液プールだという水槽の中には、いつの間にか、古い血液や泥といった汚れが沈んでいるのが見えた。 細かい泡の洗浄パワーのお蔭かも知れないけど、こんなに短時間で全身消毒が済むなんて、魔法の消毒液みたいだ。すごい。

ツンとした匂いのする湿布を巻かれているうちに、疲れが頂点に達したのか、いつの間にか気が遠くなって行った。

*****

それからの時間の感覚は、余り無い。

ふうっと意識が浮上して目が覚めると、真っ暗だったり真昼間だったり、どうも一日の経過の順番がハッキリしない。 傍に人の気配があったり無かったりもするけれど、見かけるのは、灰色ローブをまとった2人の人物だ。

バラバラなタイミングで、「飲みなさい」という女性の声――『風のフィリス』と名乗った女性の声だ――と共に、 生ぬるく苦い飲み物が喉に流し込まれる。

次にハッキリと目が覚めたのは、時間を巻き戻したのではないかと思えるほどの、あの日とそっくりの、快晴の昼日中の刻の事だった。

前日と同じ、淡い色の壁の個室スペースに――恐らくは同じ寝台。軽い掛け布団が掛かっている。

全身がだるい。でも、以前のようなギシギシという違和感は薄らいでいる。頭を傾けて、しばし呆然と窓の外を眺めていると、 反対側の方で『カシャ』という音がした。

「――あら、気が付いたの?」

ヒョイとのぞき込んで来たのは、やはり『風のフィリス』――フィリス先生だ。何かに注意しているのか、 赤銅(あかがね)色の頭髪に囲まれた左右のウルフ耳が、前方向に傾いている。

やがてフィリス先生は、『よろしい』とでも言うかのように、頷いて来た。

フィリス先生は、部屋の別の方向に向かって声を投げた。

「ディーター先生、患者の意識がハッキリしたようです」

*****

ドアが開いて閉じた雰囲気がしたかと思うと――

すぐに、背の高い灰色ローブ中年男が、フィリス先生の隣にヒョイと顔を出して来た。

『地のディーター』先生と呼ばれていた――上級魔法使い治療師。『上級魔法使い』で、更に『治療師』という風なのかも知れない。 フィリス先生の様子を見ていても、この人物が、相当に大きな尊敬と敬意を受ける立場にある人だという事は、良く分かる。

最初に見た時もチラッと思ったけど、ウルフ族の成人男性と成人女性の、人体の体格差って、大きいのが普通なのかな。 こうして見ると、まるで大人と子供だ。

ディーター先生は、フィリス先生と同じ灰色ローブだ。でも、中級魔法使いだと言うフィリス先生のローブが無地なのに対して、 上級魔法使いディーター先生のローブには、金色の刺繍糸で、肩章の代わりであろう複雑な縁取り刺繍がされているのが分かる。

30代後半ごろと思しき金狼種の中年男――『地のディーター』先生は、前日と同様に、金茶色のヒゲを短く刈り込んでいる。 同じ金茶色をした髪も、短く刈り上げてある。フードを外しているので、頭部のウルフ耳がヒョコヒョコと向きを変えているのが、丸わかりだ。

「体内エーテル循環が安定している。熱も下がったようだし、気分は悪くないようだな、嬢ちゃんや」
「は、あ……ゴフッ」

応じる声を出そうとして――咳き込む。喉がカラカラだ。

フィリス先生がすぐに、傍に用意していたのであろう水差しを取り出して来た。

「水を飲みなさい」

枕を重ねて半身を起こした状態になり、水を受け取る。 半身を起こして初めて分かったけど、今着ているのは、生成り色の無地のスモックだ。病人服らしい。

一服すると、喉が楽になったような感じがした。しゃがれ声のままだけど、少しだったら喋れる感じ。

わたしは、恐る恐るフィリス先生の顔を見た。

「ね、熱……ですか?」
「一定以上の攻撃魔法を受けた後の、身体の正常な反応だけど。弱った身体で、更に物理的にアザだらけになったのも響いたみたいね。 まる5日間、寝込んでいたわよ」

――記憶に無い。これもまた、ちょっとした記憶喪失かも知れない。

水分を取りつつ呆然としていると、ディーター先生が椅子を引いて来て座った。

「実に興味深い――非常に勉強させられるケーススタディだったよ。 高度魔法と多重魔法陣に関する新しい論文が、4本や5本は書けるだろう。呪術や医術の方面も含めてな。今の『尾』の調子は、どうかね?」

――尻尾?

恐る恐る、何となく心当たりのある位置に手を伸ばしてみる――

毛並みが惨めに乱れてペッタリとしているけど、確かにウルフ族の尻尾だ。 半身をねじって見てみると、確かに黒い尾があり、触るたびに確かな感触で応えて来る。

「は、生えてる……」
「獣人ウルフ族だから当然じゃ無いか。とりあえず、不自由は無いようだな」

ディーター先生は目ざとくも、わたしの動転にシンクロして黒い尾がピコピコ揺れているのを、見て取っていたらしい。

――そう言えば、尻尾って、感情の動きにシンクロしやすいとか……

やがて、ディーター先生はフィリス先生が手渡した半透明のプレート――メモ帳のような物らしい――をひっくり返しながら、説明を始めた。

「嬢ちゃんの頭部のバンドは、奴隷に対して非合法に用いる拘束具が元になっていてな。当然、闇ギルドで普及している製品だ。 『耳』の機能を抑え込んで本来の聴力を制限しているから、奴隷商人の商談の内容を盗み聞きしにくく、 奴隷自身が、なかなか契約満了に持ち込めないと言う状況になりやすい」

何でも、獣人は割と頑張っちゃうので、騙されて奴隷に落とされるという羽目になっても、契約満了タイミングで機会をつかんで、 逃げ出せる人が多いらしい。こちらは『半ば合法的な奴隷取引』というか、違法スレスレな底辺労働者の派遣ビジネス業界での話なんだけど。

でも、それだと、ガチの奴隷商人としては困る。 それで、闇ギルドでは非合法に拘束具を使って、奴隷の数を安定して確保しておくのだそうだ。

そして、わたしを拘束している魔法道具の場合は、更に魔法加工がされていて、ありとあらゆる拷問の機能が付いているらしい。 そして絶対に外せないようになっているという。下手に外そうとすると、仕掛けられた魔法陣が爆発しかねないから、 さながら自殺のための爆弾を抱えている状況というところ。

だんだん、身体が震えて来るのが分かる。 聞けば聞くほど、『呪われた拘束バンド』をセットしていると言う、絶望的な状況だけど……何で、こんな事になったんだろう?

「魔法陣ごとの配置や導線が、複雑に絡み合っていてな。 全体像の解析も無く、下手に拘束具を外すのはリスクが高い。不便だが、もうしばらく辛抱してくれたまえ」

ディーター先生は、そこで一旦、言葉を切った。腕を組む格好になって、短く刈り込んでいるヒゲを、片方の手でコリコリとかき始める。

「ほぼ記憶喪失の状態だろうと予測はしているが。名前は思い出せんか?」

コクリと頷いて見せる。自分の名前。年齢。わたしが獣人ウルフ族である事実に、《水霊相》生まれである事実――全て、思い出せない。

この世界――『大陸公路』の一般知識に関しては、『よく考えていれば、ボンヤリとではあるけど思い出せる』と言うような感触はある。 一般的な言葉や概念なんかは、ちゃんと覚えているし。

なんだろう、無意識のうちに身に付いた一般共通な知識や思考ベース――といった物は残ったけど、 自分の身元や経歴、個人的な思い出といった内容が、スポッと抜けたみたいに空白になっているんだよね。 自分を構成していた個人的な記憶系列が、ほとんど吹っ飛んでしまったという感じ。

――あれ? でも《水霊相》って何だったっけ?

「あの、《水霊相》って何ですか?」
「そこからかッ?」

ディーター先生は仰天したようだったけど、すぐに気を取り直して、簡単な説明をしてくれた。

「生命元素として振る舞う『エーテル』という存在がある。一言で言えば、宇宙の、最も基本的なエネルギーの流れだな。 この世界には、《火》《風》《水》《地》の四種類の性質を持つエーテルがあるんだが、実際に生まれ出て来る生命が、 どのエーテル成分を最も多く含んで生まれて来るかは、決まっていない」

ふーん。エーテルって、宇宙論的なエネルギーなんだ。それは生命を作るエネルギーでもあって、四種類ある。 どれも等しく生命元素として振る舞うから、一定量さえ確保すれば、エーテルの種類はどれでも良いみたいだ。

ディーター先生は、わたしの顔に理解の色を認めたみたいで、ホッとしたような様子になった。ディーター先生の説明が続く。

「この世のすべての生命は、エーテル成分の偏りを持って生まれて来るんだ。 その偏り度合いは、我々生き物すべてが体内に持つ、生命設計図――《宿命図》に表示されている。 《宿命図》に表示された、その偏りパターンを、我々は《霊相》と言い習わしている。 例えば私は《地》のエーテル成分が多いから《地霊相》生まれ。フィリスは《風》のエーテル成分が多いから《風霊相》生まれだ。 嬢ちゃんは、《水》のエーテル成分を多く持って生まれて来た。――と言う訳だ」

成る程。それで、わたしは《水霊相》生まれと言われたんだ。わたしの《宿命図》は《水》エーテル成分が多いらしい。

「あの、エーテル成分の偏りって、分かる物なんですか?」
「変身魔法に伴うエーテル光の色でな。単純に見るだけでは分からん、魔法感覚を意識して使わんとな。 だから我々の名乗りに《火》だの《風》だのが付くんだ。変身魔法による証明が出来ない場合は、《宿命図》判読の結果で証明する」

ディーター先生はフーッと息をつくと、再び説明を続けた。さすが『先生』というか、講義風で分かりやすい。

「おいおい分かるだろうが、《宿命図》関連は高度な魔法が必要だから、相当に訓練しないとならんし、魔法の才能の有無も大きくモノを言う。 例えば、フィリスが嬢ちゃんを《風魔法》で空中に浮かべた筈だが、あれだって出来る奴は少ない」

わたしはビックリして、フィリス先生を眺めた。フィリス先生は困ったような顔をして、肩をすくめている。

「私は《風霊相》生まれだから、《風魔法》が平均より上手に発動できると言うだけの事よ。 《水霊相》生まれなら、《水魔法》を発動するのは、他の《四大》魔法よりはスムーズに出来る筈だけど。 もう少し体内エーテル状態が回復したら、水まきの魔法や洗濯魔法で試してみましょう。 すぐに魔法が出来なくても、機械や道具で大体の事は出来るから、心配しなくても良いわ」

不意に、地下牢に放り込まれる前に色々と見かけた、不思議な現象が思い出された。 わたしは、もう少し喋れるようにコップの残りの水を飲み干しながら、思案してみたのだった。

「えっと、『殿下』っていう人? ……が、楔型(くさびがた)の投げナイフを投げて来てたんですけど、あれ、砂になって蒸発してたし、 長剣の刃部分が、いつの間にか消えたり……魔法ですよね?」

ディーター先生が苦笑した。フィリス先生は『ヤレヤレ』と言った風に、額に手を当てている。

「おやおや。あの殿下は、キツイ性格だからなあ。うむ、《地魔法》の一種だ。 普通の金属よりも硬い物質を魔法で合成できるから、土木建築や戦闘の方面では必須のスキルだよ。特に、竜人の《地魔法》には定評がある」

*****(6)今、起きている事

話が一区切りつき、ディーター先生が「さて」と言いながら、真剣な顔になった。

「嬢ちゃんの体内にある《宿命図》には、名前の欠片が不完全に残ってるんだ。『リエ』という断片が残っている。 本名を突き止めないと、変身魔法や魔法署名などで不具合が出やすいから、非常に悩ましい問題でなあ。 完全に名前部分が吹っ飛んだのなら、新しく名前をセットする治療魔法が出来たんだが」

名前って、そんなに大事な物だったんだ。でも、わたしは名前を思い出せないし、どうしたらいいの?

ディーター先生は、頭をひねり始めた。ブツブツと呟いている。

「女の子の名前で『リエ』を含む物というと……『アマーリエ』、どうかな?」

ピンと来ない。そこまで、セレブ風な名前じゃ無かったような気もするし。

「ラエリアン……これは違うな。マリエ。ジュリエット。リエラ。アリエル……」

色々あるんだ。ディーター先生は早くも名前の候補ストックが尽きたみたいで、半透明のプレートに国民名簿っぽいデータを呼び出している。

フィリス先生が少し首を傾げた後、わたしを見て来た。

「確か、出現場所は、あそこの外れの噴水だったのよねえ。あの噴水の水中花の名前、 『ルーリエ』種って言うんだけど……『水のルーリエ』、どう?」

わたしは思わず、息を止めていた。

――今までの名前のリストと違って、ピンと来る物を感じる。『これ!』というような感じ。

無意識のうちに尻尾がパタタッと跳ねたらしい。ディーター先生とフィリス先生が『おや』と言うような顔をして来た。

「ほう。《水霊相》生まれの女の子の定番の名前か。難しく考える必要は無かったらしいな」
「一件落着ね。呼称の方は『ルーリー』って事になるかしら」

2人の先生は、ホッとしたような顔になった。もっと手こずる事を想定していたみたい。

*****

ディーター先生の話は、次に、目下の情勢の説明になった。

ちなみに、これは、わたしの扱いに関する限りの、特例だそうだ。 わたしの身柄は、体調管理や拘束具の調査研究を含めて、当分の間ディーター先生の管理下に置かれる事になっている。

わたしが一応は16歳で、基本的な分別は付く年齢である事、そして凶悪すぎる拘束具をハメて現れて来たと言う、その異常性を考慮しての事だと言う。

この異様な拘束具に関する懸念は非常に大きく、大陸公路の魔法使いネットワークを通じて、獣王国を構成する全諸族に調査を依頼しているところ。

特に、わたしに対して問題の拘束具を用いた奴隷商人、或いは拘束具を製作した魔法使いを捕まえたら、聞かなければならない事が山ほどある。 拘束具をハメた上に、何故に更に、対モンスター用の最高強度の《雷攻撃(エクレール)》魔法を撃つ事になったのかを含めて。

――そう、くだんの《雷攻撃(エクレール)》魔法、禁術指定の魔法だったんだよ。

バラバラ死体とか、腐乱死体(ゾンビ)みたいなメチャクチャな死体になるのはまだ良い方で、死体すらも残らないというのが普通。 竜人の場合は、途方もなく頑丈な竜鱗を備えているお蔭か、辛うじて生存記録はあるそうだ。

わたしが竜人なみに、身体全身のカクカクと記憶喪失で済んだのは、非常に珍しいケース。

身体の不自然なカクカクとした動きは、大量のエーテルが急激に体内に流入したせい。 《雷攻撃(エクレール)》魔法を食らった時の症状らしい。エーテル調整をやったから、今は無理しなければ徐々に回復するとの事。 元々、体内エーテル許容量に余裕があったと言うのが大きいみたい。

エーテル許容限界を超えると、身体のカクカクでは済まない。エーテル過剰は、心神喪失と凶暴化――バーサーク暴走を起こしまくるそうだ。 過剰アルコールによる酒乱が、もっと有害になったようなもの。

故意に人に対して《雷攻撃(エクレール)》魔法を使うのは禁じられていて、『大陸公路』共通の、第一級の犯罪でもある。 今回の魔法発動者――間違いなく中級から上級の魔法使いレベル――の正体は分からないけど、今回の事で、お尋ね者の扱いになっている。

禁術《雷攻撃(エクレール)》魔法を撃ったのが誰なのかは、さておき。

魔法使いでも何でもない、一般向けの『魔法の杖』は、 そもそも《雷攻撃(エクレール)》のような超・重量級の魔法を発動できるようになっていない。

衛兵や親衛隊が持ってるような『戦闘用の魔法の杖』――あの警棒のような物だ――は、充分に『重い』ので、 強大な魔物を駆除する時に、安全装置を外せば《雷攻撃(エクレール)》発動が可能だ。 でも、それだって、使用者によっぽどの魔法パワーや身体的・精神的ガッツが無いと発動できないし、きっちり使用記録を取るようになっていると言う。

ともあれ。

何故に『殿下』が、あれ程に恫喝して来て、あまつさえ拷問も辞さぬと言う決断を下して来たのか、その理由を理解するには、 今、此処で何が起きているのかを知らないといけないらしい。

ディーター先生に促されて、窓の外を眺める。

西の方角に、前日も見かけた、赤みを帯びた高層建築物がスッとそびえたっていた。 3本の尖塔の頂上部、玉ねぎ型の白い屋根が、獣王国の領土の一部である事を示す。

この『大陸公路』には竜人、獣人、鳥人、魚人――四種の亜人類が居る。いずれも、基本的に変身能力持ちだ。 普段は人体スタイルで、かつて絶滅した人類さながらに都市を作り、社会生活を営む。 竜人は尖塔を有する都市を持つけど、竜人の作る尖塔は円錐形。プックリした玉ねぎ型の屋根を持つのは、獣人の建築様式のみ。

そして此処は、獣王国の飛び地、ウルフ族が自治権を持つ領土のひとつだ。ウルフ王国としても認定されている。

ディーター先生の説明は続いた。

「王宮は、また別の地にあってな。此処は避暑地で、あそこにある尖塔付きの宮殿は、夏の離宮だ。 元々は王妃のための離宮だったから、『茜離宮』と呼ばれている――名前の由来は分かるな?」

わたしは、『知らない』と言う代わりに、目をパチクリさせた。

フィリス先生が補足説明をして来る。

「ウルフ族の女性は、頭の毛の何処かに茜色のメッシュが入るの。《宿命図》の特性でね。 ウルフ族女性とイヌ族女性は体格が同じで基本的に見分けがつきにくいから、ウルフ族男性にとっては特別な意味のあるサインになる。 『茜離宮』の名前は、このメッシュの色にちなむ訳」

成る程、フィリス先生の右側の生え際に、茜色をしたメッシュが見える。

赤銅(あかがね)色をした髪の中でも、その鮮やかな色は存在感がある。 天然ならではの、輝きと深みのある色合いだ。一般的な人工染料で、まして毛髪という素材の上で、この色合いを再現するのは非常に難しいと思う。

わたしもウルフ族女性という事は――何処かに、茜メッシュが出てる?

心の中の、その疑問を読んだかのように、フィリス先生が手鏡を差し出して来た。

鏡に映ったのは、大きな黒い目をした、少年とも少女ともつかぬ童顔な顔立ちだ。 目尻の切れ込みが浅いから、切れ長の目が多いウルフ族の中では、比較的にイヌ族にも見えるタイプなんだそう。 左側の頬には、まだ切り傷の痕がうっすらとある。

顎(あご)ラインまでしか無い、ザク切りの短い髪型。何だか浮浪者みたいだなぁ。 チャコールグレーな色合いの黒髪の間から、人類の耳が横に飛び出している。ウルフ耳は無い。 代わりに、頭部のその位置を覆い尽くすように、複雑な彫刻が施された金属製の不気味なデザインのバンドが、ターバンか何かのように巡っている。

(驚くべき事に、この複雑な彫刻すべてが、拷問用と虐待用に開発された様々な魔法陣を並べた物なんだって。 既知の拷問魔法陣は、全部入ってるとか。誰が作ったのかは分からないけど、すごい執念だ。怖い!)

「男と思われたのも無理ないわね。髪を切ったばかりのせいかどうかは分からないけど、茜メッシュが見当たらないから。 ルーリーが女の子だと分かったのは、《宿命図》を判読した後の話よ。 今は行方不明者のデータ照合をしてるから、身元が分かったら、また説明するわ」

一区切りつけると、再び、この場の現在状況の話に戻った。

目下、この離宮――『茜離宮』では、王族と関係のある人物を標的とした、暗殺事件や傷害事件が続いていると言う。

最初の犠牲者――謎の暗殺者の手によって、不可解な状況の中で非業の死を遂げたのは、この離宮に一番入りしていた第一王女アルセーニア姫。

あの豪華絢爛な金髪の純白マントの『殿下』――ヴァイロス殿下の実の姉にあたる人物だ。

続く別の日に襲われて負傷したのが、アルセーニア姫の婚約者、リオーダン。 更に巻き込まれたのが、アルセーニア姫と共に宮入りしていた内務大臣、他、数名の高位役人。

さすがに事態を重く見たウルフ王国の国王と王妃――ヴァイロス殿下と、亡き王女アルセーニア姫の両親だ――が、 露払いを兼ねて、ヴァイロス殿下を名代として『茜離宮』に差し向けた。

そしたら、今度はそのヴァイロス殿下が、『茜離宮』に忍び込んだ襲撃者と遭遇し、浅いながら傷を負った。

魔法使いを含む親衛隊士たちが痕跡を追って容疑者を捕まえてみると、ウルフ族とイヌ族だった。 ただし、異常に攻撃的にハッスルして暴走している状態――バーサーク化して正気を失っていると言う。 拷問してみても意味のある証言を取るのは非常に困難な状態だし、正気に戻ったところで、記憶が残っているかどうかは怪しいらしい。

これらの一連の出来事が、まさに大詰めを迎えていた時に――

――わたしが、あの噴水広場に、謎の出現をしていた。

*****

――ウルフ王国・第一王女アルセーニア姫の、不可解なまでの非業の死。

それに続く――ウルフ王族の関係者、それも重鎮メンバーをターゲットとした闇討ち。

ガチの陰謀だ。不穏すぎる。

わたしは、いつの間にかゴクリと生唾を飲んでいた。

「ウルフ王国を揺るがす一大事……って事ですか?」

フィリス先生とディーター先生は、揃って渋い顔をして頷いて来た。

「今はまだ『国家機密』扱いだが、そのうち獣王国の全国ニュースになるだろう。 この内乱じみた騒動は、ウルフ王国の自治権に響く問題にもなりかねない。レオ帝国からの余計な政治干渉は、御免こうむりたいところだ」

わたしが迷い込んできたタイミングは、本当に最悪だったんだ。

よりによって、あの『殿下』――ヴァイロス殿下の暗殺未遂事件が起きたタイミング。あの時の『茜離宮』が、遠目にも騒がしいように見えたのも、納得。 暗殺者と思しき容疑者――犯人たちを捕まえたり、調べたりしている真っ最中。

記憶喪失とは言え、先方にしてみれば、わたしも得体の知れぬ侵入者の1人でしか無い。拷問されて死ぬ事になったとしても不思議じゃ無かったと思う。

フィリス先生が腕組みをしながら、愚痴めいた口調でブツブツと話し出した。

「最強の守護魔法を扱う『盾使い』が1人でも居れば、王族の身辺ガードは確実だったと思うけど、 レオ皇帝が『イージス称号』を持つ魔法使いを身辺から離す筈が無いわね。 よりによって『イージス称号』の1人は我らがウルフ族の出身だって言うのに、後宮ハーレム風習を持っててドケチなんだから、レオ族の男ってのは」

ディーター先生が苦笑している。『レオ族の男って、ドケチ』というのは、フィリス先生の口癖らしい。

「腹が減っているんじゃ無いかね、水のルーリー。私は午後から御前会議だから、食事の世話はよろしくな、フィリスよ」

目次に戻る

§総目次§

深森の帝國