深森の帝國§総目次 §物語ノ傍流 〉暁闇剣舞姫

暁闇剣舞姫

◆Part.1「竜王都争乱~狂戦士」
1-1.暁星(エオス)の刻/1-2.城壁と退魔樹林/1-3.想定外の前線/1-4.汝の敵を愛せ
◆Part.2「行き行きて、その時」
2-1.神殿付属医療院/2-2.宿命の凶星《争乱星》/2-3.宵闇の中の群像/2-4.神殿に集える者たち/2-5.待ち人、今ひとたび/2-6.幕間…『魔法の杖』概論
◆Part.3「近くて遠き者たちを」
3-1.神殿付属ノ大図書館/3-2.付属カフェの午後/3-3.聴け、つねならぬ鐘鳴りいでぬ/3-4.親と子と身の上話と/3-5.朝の応接室にて
◆Part.4「運命のスイングバイ」
4-1.緑葉の下の厩舎にて/4-2.魔法職人の一点物/4-3.名残惜しき人々/4-4.思い惑いの曲がり角/4-5.行方知れぬ流れに抗い
◆Part.5「―凶星、是か非か―」
5-1.記述の中に手掛かりを求め/5-2.奇怪なる交錯/5-3.霧中の迷走と混乱の末に/5-4.仮面の占術官/5-5.天秤の御名の下に/5-6.宵闇の中の行き違い
◆Part.6「深き淵に星は巡りて」
6-1真夜中を駆け抜ける/6-2逃亡者と追跡者/6-3大型の転移魔法陣/6-4反逆の刃を振るいて/6-5凶星の夜と暁星の朝/6-6怒髪天と惑乱の人々/6-7恋人たちの残照/6-8竜王都の長い夜
◆Part.7「悠かなり雪白の連嶺」
7-1.最北部の辺境に来たりし者/7-2.驚愕と戸惑い、そして……/7-3.涼しき蒼穹の下、白妙の風/7-4.最北部の辺境という所/7-5.ささやかなダイアローグ/7-6.天球は巡りて、風立ちぬ

◆Part.1「竜王都争乱~狂戦士」

1-1暁星(エオス)の刻

天球は夜の色に包まれていた。東側の稜線の一角が、あるかなきかの白い炎を燃やし始める。

――大陸公路、竜王国――竜王都は未明の終わりの刻。

気の遠くなるような断崖絶壁に築かれた、城壁を兼ねる軍用道路は、馬がすれ違える程の幅しか無い。 そのうえ、落下防止のための安全柵などといった設備も無い。天空の回廊さながらの城壁ハイウェイだ。 地形に沿って直線的に延びて行ったり、クネクネと折れ曲がったりしている。

未明の闇の中、その命取りな狭さの城壁の上を、疾風のように駆け抜けていく人馬一体の影。

*****

東天の最下層で燃える稜線の白い炎が、左右にゆっくりと延長して行く。

――もうじき、東雲の暁星(エオス)の刻。

竜人の女武官「風のエメラルド」は、お気に入りの城壁の一角で、馬に合図を掛けて停止した。馬と言っても、竜人の馬だ。 哺乳類の馬では無く、淡いアッシュグリーン色のトカゲである。俊足を誇る二足歩行タイプのトカゲ――恐竜で言えば、まさに「オルニトミムス」類だ。

早朝の早駆けで、全身が気持ちよく火照っている。馬の方も同様だ。

女武官は、自らの背丈の高さほどの位置にある馬上の鞍でヒラリと身をひるがえし、地上に舞い降りた。 ほとんど足音のしない、柔らかな着地。熟練の戦士ならではの、身のこなしだ。

――もう春も終わり。夜明け直前の空気は気持ちよくヒンヤリとしており、非番の日の楽しみとなっている早駆けをした後の熱を、適度に冷ましてくれる。

エメラルドは、頬を撫でる一陣の風に、暫し目を閉じた。

高い位置の武官仕様ポニーテールにまとめ上げている髪留めを外し、背中まで届く濃い緑色の髪を、風に晒す。 その髪は緩やかなウェーブが掛かっていて、濃淡の色ムラはあるもののエメラルド色だ。

エメラルドは、竜王都の神殿に勤める武官、つまり神殿隊士だ。 生命の根源パーツを成す《宿命図》において、四大エレメントのうち《風》をメインとする《風霊相》生まれとして示されているので、正式な名乗りも「風の――」となっている。

非番の日ではあるが、予期せぬ緊急出動に備えて、エメラルドは神殿隊士の制服をまとっていた。 聖職に準じる立場に相応しく、白く漂白された武官服だ。なお、通常の武官服は、黒みを帯びたミリタリー・グリーンである。 神殿では威信をかけて、これを物理的にも魔法的にも手間を掛けて白くしているのである。

エメラルドが佇んでいるのは、巨大山岳地帯――通称『魔の山』――の外縁部を成す断崖絶壁に、数多の尖塔と共に聳え立つ高い城壁の上だ。

城壁の上に一定距離ごとに並ぶ尖塔の上では、竜王国の黒い紋章旗が、威風堂々とひるがえっている。

再び目を開け、城壁の内側の方へと視線を巡らせる。 闇に慣れたエメラルドの視界には、《地魔法》の粋を尽くした城館や尖塔、摩天楼といった高層建築物が入って来た。

竜王都の中でも、この辺りは富裕なエリアとあって、摩天楼が密集しているのだ。これらの建築物は、全体的に淡くグリーンを帯びた薄灰色の魔法建材で構成されている。

窓枠や扉、屋根と言った各ポイントは黒色や濃灰色がメインであるが、 下町になるに従って、住民たちの習慣や趣味、或いは資金力に応じて、多彩な色合いをした天然素材の割合が増えていた。

*****

――竜王都の城壁の上から望む天球。夜明け直前の星図が広がっている。

エメラルドは笑みを含みつつ、早駆けの馬を務めた気の良い相棒の方を見やった。

竜人は素晴らしく夜目が利くのだ。その気になれば、闇夜でも或る程度ヘッチャラである。

淡いアッシュグリーン色を全身にまとったトカゲ姿の相棒は、今は手綱を外されて、城壁を兼ねた軍用道路の各所を気の赴くままにウロチョロしている所だ。 時折、路面に鼻を近付けてヒクヒクさせ、恐らくは仲間の同種のトカゲが残した謎の印――トカゲ同士の間だけで通じるサイン――を読み取り、 長い首を傾げたり、自身でも『フンフーン♪』と鼻を鳴らして、謎の印を残したりしている。

エメラルドは確信していた――この相棒は、鼻歌を歌えるに違いない。

竜人の馬となっているトカゲは、『クラウン・トカゲ』と言う。その顔形は可愛らしい。おっとりした楕円形で、トカゲにしては愛嬌のあるつぶらな目がチャームポイントだ。

クラウン・トカゲは元々、断崖絶壁の魔境に棲息していた。断崖絶壁を縦横する優れた脚力を持っており、 魔境にはびこる魔物と張り合える程の猛烈な速度で長く走り続ける事も出来るので、竜王都の創建の頃に竜人の軍馬として早くも活用され、以来、重宝されている。 頭頂部にフッサフサとした、合歓(ねむ)の花冠のような繊細な色合いと形をしたフサフサの飾りが生えているため、ユーモアと洒落を込めて、「王冠(クラウン)トカゲ」と名付けられているのだ。

目の前をヒラヒラと飛び交う夜行性の蝶を見つけると、クラウン・トカゲは、面白そうな鳴き声を上げながら蝶を追いかけて行った。 蝶とトカゲは、目もくらむような高さの城壁を軽々と飛び降りて、城壁に沿って並ぶ、鬱蒼とした樹林へと消えて行った。蝶は今まさに、樹林にある寝床へと戻って行くところだったろうに、災難である。

エメラルドは、ひとしきり笑い声を立てた後、頭上を振り仰いだ。一陣の風が再び吹き、女武官のエメラルド色の髪が流れる。

夢のようなラベンダー色をした一つ星、暁星(エオス)が輝きを強めた。

夜と朝が入れ替わる、ほんの少しの間だけ、天球の中で最も輝く不思議な星だ。

暁闇の空の中、見る見るうちに、ラベンダー色のオーロラさながらのエーテル光が燃え上がった。 じっと観察していると、そのラベンダー色の薄明光線は、天上と地上を結びつつも、天球に、不思議な魔法陣の幻影を描いているように見える。

(本当に、何らかの天然の魔法陣を描いているのかも知れない。例えば、はるかな宇宙のメッセージを伝えようとして――)

――暁星(エオス)。その正体は、物理的な意味での星では無く、エーテルで出来た未知の天体だと言われている。 いずれにしても、その不思議な有り様には興味が尽きる事が無く、エメラルドの最もお気に入りの星である。

たまゆらの、幻の刻だ。暁星(エオス)の刻は、とても短い。

東側を白々と縁取っていた薄明は次第に金色を帯びて行った。未明の闇に沈んでいた天球も、やがて炎のような紫と紅に彩られて行く。

払暁のまばゆい陽光に取り巻かれた暁星(エオス)は、見る間にラベンダー色を失い、赤らみを増す空の中に解けるように、かき消えて行った。

――まるで、ラベンダー色の砂糖細工が、熱い紅茶の中でサッと溶けるように――

エメラルドは、もう一ヶ月ほど前になろうか、この一瞬をモデルにしたと言う紅茶のメニューを試した時の事を思い出した。 あの紅茶のメニューの名前も、「暁星(エオス)」だった。

恋人とのデートの一環で、滅多に着ないような華やかな色彩の下裳(ラップスカート)を重ね、 高級レストランで初めて食事をした時――メニューで見かけて興味を持って、食後の紅茶として頼んでいたのだ。 ちなみに、このレストランは、王宮や神殿の御用達として外交パーティー会場にもなる、メインストリートの高級レストランである。

(四大エレメントのエーテルに満ちた、この世界の、魔訶不思議の一つだ)

エメラルドは一つ息をつき、伸びをした。エメラルドが選んだビューポイントからは、摩天楼の如き高層建築が多いこのエリアの中でも、 天球で繰り広げられる星と光の華麗な舞踏劇が、建物の影に邪魔される事なしに鑑賞できたのであった。

1-2城壁と退魔樹林

すっかり姿を現した太陽が、竜王都を擁する『魔の山』の断崖絶壁の東側全体に、浅い角度の陽射しを投げかけている。

クラウン・トカゲは、まだ蝶を追いかけているらしく――或いは、他の楽しみ事を見つけたのか――城壁沿いの樹林の中から戻って来ない。

城壁の外側は魔物がはびこる魔境となっているのだが、魔物と遭遇してしまう事については、それ程、心配はしていない。 元々クラウン・トカゲは、魔境を走り回っていたトカゲである。

エメラルドは、もう少しクラウン・トカゲを遊ばせておく事にした。こんな時だからこそ、気晴らしは大切だ。

――数日前まで、エメラルドも相棒のクラウン・トカゲも、竜王都を戦場とする紛争で前線に出ており、 そこで運悪く『バーサーク竜』の群れによる無差別攻撃と遭遇し、その灼熱のドラゴン・ブレス空爆の中で、一歩間違えば死ぬような大変な状況にあったのだから。

エメラルドは、その激しい戦闘の内容を思い起こした。

――ストリートに並ぶ多数の高層建築の屋上や側壁を足場としてジャンプ移動する、人馬一体となった竜人武官とクラウン・トカゲ。 双方の突撃部隊が激突していた前線の上空に、翼を大きく広げた竜体の影が現れ――

(まさに、竜体をした『狂戦士(バーサーク)』。敵味方の区別なくドラゴン・ブレスを吐きまくるような、 あんな理性を失った凶暴な奴らもまた、我々と同じ竜人だなんて、何という事だろう)

――前線は、尋常に雌雄を決するどころでは無くなった。正気を失った異形の竜体から放たれた灼熱のドラゴン・ブレス空爆によって、 辺り一帯が大火事となり、双方ともに陣容が乱れた――

目下『バーサーク竜』は、一片の疑いも無く、即座に討伐すべき対象だ。 だが、同族という事もあって、リスクの高さを無視して、生きたまま捕獲する方に力を入れているのが実情だ。強制的に竜体を解除して人体に戻すと、正気になるのである。 しかし、余裕の無い戦場においては、どうしても『ドラゴン退治』さながらの討伐ケースが増える。

実際、数日前の戦場では、バーサーク竜によるドラゴン・ブレス空爆の範囲が野放図に拡大しかねないという危惧があり、 エメラルドを含む神殿隊士の迎撃チームは、半数の重傷者を出しながらも、3体のバーサーク竜を討伐する羽目になっていた。 重傷者の方は、次の機会にバーサーク化する可能性があり、今は傷を癒しながらも、厳重な監視下に置かれているところだ。

(竜体を解くと同時に、バーサーク状態も解けるだけに――なおさら理不尽だ)

エメラルドは、どうしようもない苦々しさを感じつつも、歯を食いしばるしか無い。

竜王都は、権力闘争の真っ最中である。新しく即位した竜王を中心とする王国派と、神殿を中心とする神殿派とに分かれて、 竜王国を左右する『絶対権力(或いは、絶対正義か?)』を争っているのだ。

竜人ならではの尊大さや気の短さが災いし、将来を見据えての政治構造の組み換えプロセスにおいて、話し合いでは決着をみる事が出来なかった。 竜王国の首脳部は、王国派(改革派)と神殿派(現状維持派)に、大きく分裂した。 竜王国そのものの歴史の浅さ、政治力の未熟さも相まって、武力衝突のステージへと突入してしまったのである。

竜王都で、最も広い平坦スペースを独占するのが王宮エリアだ。岩山の頂上部に位置しており、4~5階層が密に連なった回廊である。 その次が、幾つかの街区を挟んで王宮エリアと隣り合う神殿エリアだ。

目下、戦場となっているのが、王宮への攻略ルートとなっている諸街区と、神殿への攻略ルートとなっている諸街区で、 前線となっているのが両方の街区が接触している所である。この運の悪いエリアが激戦区となっており、最も荒廃が激しい。 一部は既に廃墟ストリートと化しており、治安悪化に乗じて、闇ギルドも跋扈し始めている。

幸い、竜王都の全体を巻き込むような戦争には発展していないが、混乱が長引くに従って、バーサーク竜が急激に増加した。 急激に増えたバーサーク竜は、今や、竜王都の治安維持に関して、第一級の懸案となりつつある。

一度、バーサーク竜と化した竜人は、その後は、監視などの処置を必要とする『ハイリスク竜人』として扱われる。 『バーサーク危険日』が到来したタイミングで『変身魔法』を使うたびに、繰り返しバーサーク化するためだ。 しかもバーサーク化は、武官に付き物の創傷を通じて伝染する。竜体に伴うドラゴン・パワーが上昇すればする程に、強大なバーサーク竜になる。

――いつ、何処で、誰がバーサーク化するのか。バーサーク竜が発生するのか。

これについては、神殿の上級魔法神官による『神祇占術』方面からの研究の進展があって、まだ理論レベルながら、或る程度は予測が付くようになって来ている。 だが、一定以上のドラゴン・パワーを備えている竜人武官にとっては、特に自身の将来の破滅に直結する、最も恐るべき不吉な疫病と言えた。

更に、社会不安も急上昇したせいか、不穏な噂が回り始めている。 正常な竜人を無理矢理にバーサーク化するような、まさに同族を生物兵器と化す『禁断の魔法』が横行し始めているのでは無いか――という噂が。

バーサーク竜の出現は、今のところは紛争エリアに限られているが、このまま権力闘争が長引き、対策が遅れてしまうと、未来は分からない。

*****

エメラルドは、かぶりを強く振ってモヤモヤした思いを振り払うと、 足元に置いていた刀剣――柳葉刀に似た反り返った太刀で、竜人が使う最も標準的な武器である――を手に取った。

刀剣を片手正眼に構える。呼吸を整えて無心になり、最初の荘重な一振りを決める。 その一振りに続いて、素早い二振り――朝の体操代わりの演武を、ひとくさりこなす。緩急自在。身体の調子は良い。

――そろそろ、朝食の頃合いだ。

エメラルドは城壁の端に立つと、今まで刀剣だった物を魔法の杖に変化させ、更にそれを『笛』に変化させた。 そして、城壁直下から城壁の上まで聳え立つ巨木の樹林に向かって、その魔法の笛を吹いた。

クラウン・トカゲだって腹が空く頃合いなのだ。樹林帯から遠く離れていたとしても、笛の音が届かない距離にまでは離れて行かないし、 それ程しないうちに帰還して来る筈である。

エメラルドは魔法の笛を、再び基本形である魔法の杖に戻した。

魔法の杖――何という事の無い、肘から指先までの長さを持つ単純な1本の棒である。その太さで見ると、警棒か、或いは分枝の無い十手のようにも見える。 戦闘用の機能が強化されており、様々な武器への変化が特にスムーズだ。武官に支給される標準的な品で、特に『戦闘用の魔法の杖』と但し書きが付くケースが多い。

相棒の帰還を待つ間、エメラルドは、魔法の杖を手元でもてあそびつつ、朝の陽光を浴びる樹林を改めて見やった。

城壁に沿って街路樹さながらに並ぶ『退魔樹林』は、摩天楼の如き樹高を誇る、成長の早い巨木の一種だ。

全面、緑色をした大きな樹形は、一見して、巨大な竹によく似ている。つるりとした翡翠のような光沢、竹を思わせる規則的な多数の節目、鋼のような硬度と、しなやかさ。 濃い緑色をした葉の表と裏には、虹色の光を反射する不思議な斑点――曜変天目――が散らばっている。

退魔樹林というネーミングが明らかに示す通り、その巨木全体から発散する或る種の樹香によって、城壁の外側に広がる魔境からやって来る魔物の接近を、或る程度、防いでくれる。 非常に特徴のある巨木だから、魔境の中でも良く目立ち、安全圏の位置を示す手頃なサインとなるスグレモノだ。

風にさやぐ葉群れを彩る、虹色の不思議な斑点――曜変天目は、光の透過率・反射率が極めて良い。 曜変天目を透かし、下方に向かって透過と反射を繰り返した陽光は、鬱蒼とした巨木が林立する樹林の中、まるで光の雨のように地上に降り注いでいる。

そういう訳で、退魔樹林の根元には、意外に下生えが密集している。こうした下生えは、多種類の昆虫や動植物の揺り籠でもある。

やがて、エメラルドの魔法の笛を聞き付けたクラウン・トカゲが、頭頂部のフッサフサを風になびかせつつ、断崖絶壁の下に姿を現した。 持ち前のジャンプ力で、樹林帯の先でいきなり切れ落ちている急峻な断崖絶壁を登って来る。

クラウン・トカゲの後方から、不気味な海綿に似ている異形の魔物が4体、現れた。いずれも、驚く程に大きい。 1個体が、1つの民家に匹敵するサイズだ。ご丁寧に、赤・青・白・黒のフルセット・チームである。 それぞれ、人の頭の大きさ程もある珠を連ねた、数珠のような4色の極彩色の長い触手を振り回して、猛スピードで追いかけて来る。

しかし、淡いアッシュグリーン色をした相棒は、魔物から食料(エサ)と目された状態にも関わらず、少しも意に介していない。

退魔樹林の樹香が強くなる範囲に接近するや、不気味な海綿に似た異形の魔物は、揃って、その移動スピードを鈍らせた。 その隙に、賢い相棒は、グンと距離を引き離した。明らかに駆け引きのスリルを楽しんでいる様子だ。

魔物のうち1体――黒色の海綿が、なおも油断のならないスピードで退魔樹林の根元の下生えに向かって大きく身を躍らせて、見事、着地する。 クラウン・トカゲの行く手を塞ぐ形である。

クラウン・トカゲは次の一瞬、巨木の間を縫って、惚れ惚れする程の大ジャンプを見せた。

――高く分厚い城壁となると、その重量も凄まじい。 傾斜の激しい断崖絶壁の上で城壁を安定させるため、城壁の外側には、一定の間隔を置いて、巨大な空中アーチ構造をした梁――フライング・バットレス風の壮大な幾何学的構造体が並んでいる。

大ジャンプしたクラウン・トカゲは、唖然とした様子の黒い海綿状の魔物を差し置いて、巨木の中間層を横断している、その幾何学的構造体に足を掛けたのだ。

斜めになっているとは言え、断崖絶壁の急峻な地形に沿って、急速に立ち上がったラインを描いている梁だ。 最高レベルの《地魔法》が施された、恐らくこの世で最も理想的な強靭さを実現している建材である。 かなり登りにくい筈だが、充分に勢いの付いていたクラウン・トカゲの脚は、軽業師も同然に、その恐るべき急傾斜を軽々と駆け上がって行った。

一瞬、道のりのショートカットのために逆様になって駆け切ったところなど、魔物で無くても、『貴様には"重力"という、この世で最も重要な物理的感覚が無いのか』と叫びたくなる光景である。

結局、クラウン・トカゲは、モノの数秒で城壁の上に到着した。

――城壁ハイウェイの上には、ハイウェイをまたぐアーチを脚部とした尖塔が、一定距離ごとに並ぶ。

1つ先の尖塔の下、アーチ通路をくぐって、朝の巡回当番の神殿隊士2人が現れた。各々、2匹のクラウン・トカゲにまたがっている。 白い武官服をまとった2人は、それぞれの手に、『槍』に変化させた魔法の杖を携えていた。

城壁直下までカバーする初歩的な『探知魔法』を展開していた巡回当番の神殿隊士2人は、早速、城壁直下に集結した4色の海綿状の魔物を見つけて目を丸くした。 次いで、魔物を脅すため、『槍』を振り回し、魔法の火花を次々に落とす。魔物はそそくさと、退魔樹林の向こう側へと退散して行った。

「また新しい芸を開発したんじゃ無いの、相棒?」

エメラルドも、流石に呆れが止まらない。

トカゲの姿をした相棒は、『スゴイでしょ、褒めて』と言わんばかりに、つぶらな目をきらめかせて、エメラルドの手の届くところに長い首を下げて来た。

巡回中の神殿隊士2人もまた、呆れたような訳知り顔で、各々のクラウン・トカゲの上からエメラルドに手を挙げて挨拶して来た。

エメラルドも苦笑しつつ、手を挙げて応える。その後、淡いアッシュグリーン色をした相棒のおねだりに応え、頭頂部の繊細なフッサフサを、丁寧にモフモフしてやった。

1-3想定外の前線

――数日後の竜王都。

朝から快晴ではあるが、空の半分は雲に覆われている。その空の下で、市街戦に伴う煤煙が幾本も立ち上っていた。 神殿軍の防衛線は、竜王配下の軍の猛攻撃に押されて、かなり後退している。

竜王配下の軍を指揮しているのは、猛将として有名な大型竜体の竜人だ。 小さな街区の下町に住む小型竜体の竜人を両親としながら、大型竜体の持ち主として夢のような立身出世を遂げたという経歴の持ち主だ。 竜王の側近中の側近――『英雄公』の二つ名を取る大将軍ラエリアン卿である。

なお、大型竜体を持って生まれた竜人は、『卿』を付け加えた呼称となるのが定番だ。その突出したドラゴン・パワーに敬意を表しての事である。 『卿』が付けば、ほぼ大型竜体の竜人と判断して間違いない。

今日のラエリアン卿の軍事作戦は、橋頭保の確保であろうと知れた。 前線となったスペースは、大型竜体の着地に耐えられる巨大な見張り塔を備えた、街区のメインストリートだ。

見張り塔は、城壁に挟まれたメインストリートを横断する、これまた城壁素材で出来た巨大アーチの上に建築されている。 神殿への攻略ルート上にあるメインストリートの通行状態を眼下に望み、かつ左右する位置にある。軍事的に見れば重要なポイントだ。

前線では、戦闘モードたる竜体に変身した、数多の神殿隊士と、ラエリアン軍の武官とが、空中戦を展開していた。 街区を彩る高層建築の屋上や壁の間を飛び交いながら、ドラゴン・パンチやドラゴン・キックを繰り返している。

それぞれの後方に集結しているのは片や神殿の下級魔法神官、片やラエリアン軍の魔法使いだ。 自軍を有利に導くために、四大エーテルの《雷攻撃(エクレール)》魔法を展開する。複雑な魔法は人体でないと発動できないので、魔法使いは人体のままだ。

《雷攻撃(エクレール)》魔法による四色の閃光が激突するたびに、きな臭い煙を伴った爆発音が幾つも轟く。 摩天楼の建材が砕け、散弾銃さながらに超音速の砕片を爆散させた。その場に居た竜体の幾つかが、爆発の熱や砕片に襲われて、鱗に次々に穴を開け、痛みで悶える。

――赤い《火雷》、白い《風雷》、青い《水雷》、黒い《地雷》。

魔法使いが発動する強烈な《雷攻撃(エクレール)》魔法は、数多の竜体を一斉に翻弄していた。

無数の《風雷》がゴウゴウと音を立てて弱い建物を木っ端みじんに切り刻み、その陰に潜んでいた竜体の全身の鱗が切り飛ばされて行った。 そこへ襲いかかった《水雷》が、強化バージョン《水砲》さながらに竜体を打ち、城壁に叩き付ける。

エメラルドは腕の立つ神殿隊士の一人として、竜体に変身した状態で前線近くに出張っていた。 エメラルドの竜体は均整が取れていて、敏捷に動ける事を示唆している。その鱗は、人体の時の髪色に準じた、ムラのあるエメラルド色だ。 濃いアッシュグリーン色が標準的な中にあって、その宝石のような澄んだきらめきは、目を引くだけの物はあった。

一方で、竜体に関しては、色合いの揃った美しい鱗であれば鱗の強度も揃っているという、重要なポイントがある。 故に、色ムラのあるエメラルドの竜体は、竜人としての美的感覚に照らせば、美点も欠点もある平均的容貌という事になる(完璧美人では無い)。

だが、エメラルドの竜体の能力の高さは、人体の時の物と同様、平均を遥かに上回る緩急自在の身のこなしとして、明らかに示された。

「重傷者、多数! 前線に出動して、回収可能な隊士を全て回収せよ!」

指揮官によるゴーサインに応じて、エメラルドは、他の救助部隊の隊士と共に前線に飛び出した。 数多の《雷攻撃(エクレール)》魔法をほぼ見切り、白い翼でジグザグに滑空しつつ、舞踏の名手さながらに次々にかわして行く。

エメラルド竜は、前線で動かなくなった神殿隊士を目指して突進した。 《風雷》でボロボロになり、更に《水雷》で城壁に叩き付けられて全身骨折する羽目になった、あの哀れな竜体だ。

突進の勢いを利用して、妨害して来た敵方の竜体の腹部にドラゴン・パンチをお見舞いし、地面に叩き付ける。 更に襲って来た《水雷》を、《風魔法》をまとったドラゴン・ブレスで丸め込んだ。 《水雷》だったものは、ドラゴン・ブレスの強風を食らって一瞬ジュッと音を立てた後、水球となってプカリと空中に浮かんだ。

微小な水滴であれば、魔法が無くても物理的現象として空中を漂うが、 このような大きな水球を浮かべるだけの《風魔法》となると、《風霊相》生まれの竜体としても大したものだと言える。

エメラルド竜は水球を蹴鞠と見立て、《風魔法》の威力を加えたドラゴン・キックを繰り出した。 水球は、《風魔法》によって生じたジェット気流に乗って、元の方向へと正確に飛び去って行く。

豪速球ストレートさながらの水球は、ラエリアン軍の魔法使い(人体)の1人を見事、捉えた。

想定外の反撃を食らう羽目になった魔法使いは、自分の後ろに居た大勢のバックアップ部隊を巻き込みつつ弾き飛ばされた。 雨水処理用の水槽に落ち、続いて落ちて来た水球の形崩れによって、水位の増した水槽の中に浮かぶ。 誰かがタイムリミットまでに救助しなければ、余分な水を流す水門に吸い込まれ、 下へと向かう水路に乗って、遂には一番麓の回廊を巡る水路の何処かで、赤っ恥と共に拾われる事になる筈だ。

エメラルドは、前線における戦闘プロセスを可能な限りの短時間で切り上げ、敵を深追いはしない。前線の押し戻しは、あくまでも前線部隊の担当だ。 エメラルドは、目的の竜体状態の隊士の脚部を竜の手で引っつかむと、赤い《火雷》が猛然と飛び交う中を、高跳びと滑空を繰り返して後方に退却したのであった。

エメラルドが、意識を失った重傷者を最後方の治療部隊に引き渡したところで、神殿の軍全体に、《風魔法》を使ったアラートが響き渡った。 ラエリアン軍の側に内容が洩れぬよう、ノイズ暗号による機密保護が施されている。

「緊急応援、求む。我が神殿直下の街区、第3階層、第4街区の広場、ラエリアン軍に属するバーサーク竜1体、出現。 既に下級魔法神官による防衛がスタートしている。バーサーク討伐および捕獲レベルに到達せる上級武官は、可能な者は全員、アラートに応じよ。繰り返す――」

エメラルドは竜体状態のまま、長い首を鋭く巡らせた。 頭部の後ろへと生えている2本の竜角を改めて調整し、繰り返されたアラートを一字一句、洩れなく捉える。違和感がぬぐえない。

(1体のバーサーク竜だけでも相当数の被害が出る――ラエリアン卿の軍事作戦の一環か? それにしては妙なパターンだ)

神殿攻略ルートからは、明らかに外れているのだ。軍事作戦の常道で行くとしたら、バーサーク竜は陽動作戦の側だ。 先にバーサーク竜で派手に混乱を起こしておいて、本命の方、メインストリートの攻略を容易にする。作戦を遂行する順序が、明らかに逆である。

更に別の懸念が浮上して来た。神殿の上級魔法神官によるバーサーク出現予測の占術の精度が上がって来て、 特にバーサーク化しやすい『バーサーク危険日』が特定されるようになって来たが、今日は『バーサーク危険日』では無い。

最近は神殿の奥にまで侵入して来る敵側のスパイ活動が激しくなり、『バーサーク危険日』の情報が漏洩するようになっている。 ラエリアン卿が、『バーサーク危険日』に合わせてバーサーク化しやすい武官を差し向けて来る事が増えて来ており、それは今や一種の様式美と言えた。 猛将ラエリアン卿は容赦なく、使える戦力は何でも使うのだ。

だが今のところ、ラエリアン卿は、『バーサーク危険日』では無い日に、特定の武官を思い通りにバーサーク化させる方法は見つけていない筈である。 神殿の方でも、それは同様だ。

――それなのに、バーサーク竜が出た? ラエリアン卿の――或いは、竜王の――配下の魔法使いの誰かが、遂に『禁断のバーサーク化魔法』を開発したのか?

(胸騒ぎがする)

エメラルドは上級武官――ベテランの一人だ。竜体を解除し、素早く人体に戻る。 髪留めでもって、緑色の髪を高い位置の武官仕様ポニーテールにまとめ、白い武官服をまとう、いつもの姿だ。 手には魔法の杖を握っている。今までの多彩な《風魔法》は、この魔法の杖を介していた物だ。

エメラルドは人体の姿を取るが早いか、目的地までの最短ルートを疾走した。武官として訓練された身体能力を発揮して、自陣のテントの屋根やバリケードを幾つも飛び越えて行く。

「相棒!」

声を張り上げると、いつも通り、相棒のクラウン・トカゲが、戦闘を避けて身を隠していた建物の陰から姿を現して並走して来た。 エメラルドはストリートの石畳を蹴り、空中でヒラリと身を浮かべ、後ろから追いついて来たクラウン・トカゲの背にまたがる。

人馬一体となったエメラルドとクラウン・トカゲは、瞬く間にトップスピードに達した。 対バーサーク緊急招集に応え、エメラルドに先行しているクラウン・トカゲと神殿隊士は、数人も居ない。少し遅れて、後ろから駆けて来る数の方が多いくらいだ。

*****

対バーサーク竜の戦場となっている街区の中央の広場は、混乱の極にあった。

中央部で、ほぼ黒と言って良い程の黒々とした竜体が、高跳びと滑空を繰り返して、白い武官服をまとった神殿隊士たちを追い回している。 バーサーク竜の、狂乱状態ならではの激しい動きに対応できる隊士が居ないのだ。神殿の主戦力は前線の方に集中していて、竜王配下ラエリアン軍との戦いの真っ最中である。

広場は既に、ドラゴン・ブレスにさらされた無残な瓦礫で、いっぱいだ。

広場に出ていた屋台店や荷車(リヤカー)店など、ほぼ天然素材の燃えやすい物は、防火魔法陣を仕込んだ特別な魔法道具で保護されていたが、 ドラゴン・ブレスの余波を食らうたびに防火魔法陣の効果が崩れていき、端々に火が付き始めていた。今にも火達磨と化さんばかりだ。

このまま放置していれば、一刻もしないうちに、街区の方へも延焼するだろう。

だが、経験不足の新人の神殿隊士たちは、バーサーク傷を受けないように逃げ回る事に精一杯で、広場周辺の街区の保護にまで注意が向かない。

5人から6人ほどの下級魔法神官が一丸となって懸命にドラゴン・ブレスを防いでいるが、武官でも何でもない一般人の犠牲者が増え始めており、あちこちから悲鳴が上がっていた。

交易や観光などとして運悪く居合わせた、他の亜人類の者たち――数こそ少ないが、獣人、鳥人、魚人たちの姿も見える。

獣人パンダ族は色合いからして目立つ。その飛び跳ねるような身のこなしが注目されて、イヌ族・ネコ族・ウサギ族といった弱小タイプの獣人に、 避難のための乗り物として取り付かれていた。両腕を翼に変えて飛び回る鳥人の脚に取り付いた獣人も居る。

魚人は、ヒレのようなヒラヒラの付いた、トロピカルカラーの長衣をはためかせながら走り回っている。 頭には乾燥を防ぐための特別なターバンを巻いていて、魚の細長いヒレを変化させたアクセサリーで、ターバンの結び目を装飾している。 衣服に火が付いて、慌てて人魚に変身し、思い切ったジャンプで雨水処理用の水槽に飛び込むという有り様だ。

先頭を切って到着したベテランの隊士が、上官として、新人隊士たちに指令を飛ばした。

「広場を封鎖して、一般人の避難を援助せよ!」

新人隊士たちが即座に指令に反応し、広場に取り残された一般人たちを目指して散開する。

広場には、エメラルドを含め、クラウン・トカゲと共に急行したベテラン隊士たちが次々に到着していた。

クラウン・トカゲは、ベテラン隊士たちが背中から飛び降りるや否や、訳知り顔で広場を縦横に走り回る。適当に数があるので、バーサーク竜の気を反らすには、うってつけだ。

ただし、クラウン・トカゲによる目くらまし効果は、一瞬でしか無い。

バーサーク竜が鋭くベテラン隊士たちの方向を振り向いた瞬間、先頭に居たベテラン隊士が、『魔法の杖』を電光石火の勢いで振るった。

――斜めに振り上げられた、その『魔法の杖』から放たれたのは、数多の手裏剣だ!

黒い刃の群れが、バーサーク竜の顔面を襲う。《地魔法》の産物だけに、その刃は重い金属並みの衝撃力を備えているのだ。

バーサーク竜は恐るべき反射速度を見せた。魔法の杖が変化したと思しきエーテルのモヤが光るや、鋭い剣戟音と共に、手裏剣の群れが弾かれてゆく。

一方で、手裏剣によって生まれたその空隙は、クラウン・トカゲの一群が方々の物陰に身を隠し、ベテラン隊士たちがバーサーク捕獲チームを組むのに、充分な時間だった。

エメラルドは、先着のベテラン武官と共に、第1班のメンバーとして先陣を切った。隊士4人、下級魔法神官2人から成るバーサーク捕獲チームである。

一人の魔法神官が地上にバーサーク竜を拘束するための《拘束魔法陣》を展開。 もう一人の魔法神官が、バーサーク竜を牽制しつつ捕縛チーム全員を守るための、《雷攻撃(エクレール)》魔法を発動し始める。 クラウン・トカゲは此処では必要ないため、安全になるまで物陰に隠れていてもらう。

《雷攻撃(エクレール)》魔法の合間を縫って、エメラルドを含む4人の隊士は魔法の杖を振るい、包囲を詰めた。

《風刃》、《手裏剣》、《火矢》、《水砲》……武官の攻撃魔法が、バーサーク竜を取り巻く。

飛び道具を使ってバーサーク竜の足元や翼を狙って動きを奪い、《拘束魔法陣》の内側に追い込むという作戦だ。 下級魔法神官と息を合わせ、城壁の出っ張り、燃え残った屋台の上、三本角(トリケラトプス)車の停車ポール、街路樹――利用可能な限りの足場を飛び回り、連続して攻撃魔法を放つ。

なお、今はあらかじめ竜体解除の魔法陣を描き込んだ、巨大なシートもある。通常の魔法陣より変化はゆっくりだが、大型竜体にも対応できるよう仕込んであるので、効果はテキメンだ。 拘束魔法陣の中で動けなくなったバーサーク竜に、このシートをかぶせるという方法もあるのだ。

――バーサーク竜の抑え込みは、想像以上に難しい任務となっていた。

バーサーク竜の全身を覆う、有刺性の異形の鱗が問題だ。バーサーク毒を含む棘が長く突き出しており、バーサーク傷を負わずに近づくのは容易では無い。 異形の棘を持つ鱗がこすれ合い、耳障りな騒音をひっきりなしに立てている。

バーサーク化している本人も、鱗の着け心地については最高に不快な気分になっている筈だ。それでも、人体に戻ろうとしないのはどう言う訳なのか。 自分で自分を不快にして、他者への攻撃性をつのらせているのか。

黒いバーサーク竜が装備する魔法の杖は、竜体を取り巻くエーテルのモヤとなって漂っていた。 エーテルのモヤは高速で閃き、ひっきりなしに鋭い剣戟音を立てて、雨あられと注ぎ続ける攻撃魔法を蹴散らしてゆく。 返り討ちとなって跳ね返って来た飛び道具が、捕縛チームの身体をみるみるうちに傷付けていった。

敵ながら天晴れな身のこなしだと言わざるを得ない。

――バーサーク竜の出現頻度が上がったため、ベテラン武官が次々にバーサーク傷を負い、その結果として、強いバーサーク竜が急増している。 このバーサーク竜も、恐らく熟練の武官であろう。とは言え――

(強すぎる!)

竜体サイズを見るとエメラルドと同じ小型竜体だが、近衛兵レベルの強さだ。下級魔法神官の《雷攻撃(エクレール)》魔法をすら、弾いてしまう。

エメラルド属する第1班は早くも息切れを起こし、第2班へと交代する。隊士の数が揃わなかったため第3班は人数が足りず、体力に余裕のある隊士が飛び入りする事になっていた。

通常は、バーサーク竜1体当たり、4人の隊士と2人の下級魔法神官が対応する。 竜体のままバーサーク傷を受けると、自身もその場でバーサーク化してしまうという懸念に加えて、クラウン・トカゲの脚力が急に必要になった場合に備えて、人体のまま対応するのだ。

変身魔法にしても、《宿命図》エーテル魔法を通じて、全身組織を細胞レベルで切り替える――と言う精密さが要求されるため、電光石火と言う訳には行かない。

変身状態が混乱したままフリーズした場合は、《宿命図》エーテルそのものに干渉するレベルの、特殊な治療魔法が必要になる (この手の治療魔法は神官にしか出来ない。神官が扱うエーテル量とエーテル深度は、武官や一般人に比べて圧倒的に大きく、深い)。

バーサーク竜は漆黒の翼を大きく広げた。

黒い竜翼に沿って攻撃魔法が轟音を上げる。《地魔法》の手裏剣が猛然と飛び散った。

広場の街路樹を足場にしていた隊士の1人が、慌てて身をひるがえす。手裏剣の群れがその空間を切り裂いた。 隊士は2人の魔法神官を巻き込みつつ地面に叩き付けられ、3人もろとも失神する。失神はしてもペシャンコにならなかったのは、竜人としての身体の物理的頑丈さのお蔭だ。

「剣舞姫(けんばいき)……! 奴は女(メス)だが、称号持ちだ!」

バーサーク竜の足元への接近に失敗したものの、もう1人の隊士は、バーサーク竜の爪牙の特徴をハッキリと確認していた。

後方に退いて体力を回復していたエメラルドは、ハッとしてバーサーク竜の爪に注目した。 竜爪は薄灰色だ。しかし、このバーサーク竜のそれは、濃密な地エーテルによる、漆黒の補強部分に縁どられている。

確かに上級魔法による補強パーツだ。

エメラルドは一瞬、唖然とした。

そのうちにも、2人の隊士が一斉に城壁に叩き付けられた。何処かの骨が折れる時の嫌な音が響く。

「くそぅ! 2班合同で取り押さえるんだ! 今、上級魔法神官の出動を依頼した! 到着まで堪(こら)えろ!」

下級魔法神官のうち、最も年かさのベテランが指示を下した。

隊士たちの消耗も激しく、3人が失神ないし骨折で脱落していた。最初は辛うじて3班分の人数であった物が、2班でしか回らなくなって来ている。 事態が手に負えなくなるのは、もはや時間の問題と言えた。

1-4汝の敵を愛せ

黒い翼、黒い鱗――黒いバーサーク竜は、咆哮した。その咆哮は、だが、同族たる竜人にとっては言葉である。

『私に近づかないで!』

黒いエーテルをまとったドラゴン・ブレスが、エメラルドの方向を襲う。

エメラルドは持ち前の身のこなしで横っ飛びし、綺麗にかわした。エメラルドの立っていた位置の石畳が、ドラゴン・ブレスの衝撃で、後方へと盛大に弾け飛ぶ。

大重量と大衝撃を伴う、《地》の攻撃魔法の威力は、実に恐るべきものであった。

石畳の破片は、超音速の石礫となって飛び散り、三本角(トリケラトプス)車の停車ポールに掛かっていた掲示板を穴だらけにし、停車ポールを傾けた。 その余波で、停車ポール下の転移魔法陣も傾く。

8人のベテラン隊士がチームを組み、総がかりで対応しても苦戦するレベルだ。 4人の下級魔法神官が加勢していたが、武官より遥かに身体能力に劣る下級魔法神官(人体)は、バーサーク竜にとっては倒しやすい相手と言えた。

バーサーク竜は、細長い漆黒の瞳孔を持つ薄い金色の目を、ギラリと光らせた。

《雷攻撃(エクレール)》魔法の切れ間を逃さず、黒い竜尾を猛烈な速度で振り払う。 その竜尾は、《地霊相》にとっては最も適性の高い《地》の攻撃魔法《石礫》をまとっていた。

3人の下級魔法神官が、黒い竜尾になぎ倒され、次々に吹っ飛ばされていく。《石礫》に対する防衛が間に合わず、3人はそろってズダボロになり、そのまま城壁へと叩き付けられた。

長い竜尾を高速で振るったため、その遠心力で、バーサーク竜の足が一瞬、地上から浮く。

それは間違いなく好機だった。

エメラルドは、先輩のベテラン隊士と共に、最大限の長さにした長物を構えてバーサーク竜の足元に迫った。

――不安定になっている竜体の足元を、渾身の力で薙ぎ払う。強い手応えが来た。

バーサーク竜は身体をふら付かせ、遂に黒く光る拘束魔法陣に足を突っ込んだ。

「やったか!?」

しかし、バーサーク竜は拘束魔法陣に捉えられたにも関わらず、死に物狂いで魔法に抵抗した。

「いかん!」

最も年かさのベテランたる下級魔法神官が、真っ青になった。

バーサーク竜は、その圧倒的なドラゴン・ブレスで、拘束魔法陣がセットされていた石畳を粉砕した。自身の鱗が砕けるのも構わずに。

普通のバーサーク竜は、拘束魔法陣に捕捉された段階で諦観の気分が湧くのか、若干、狂乱が収まるのだが――

――だが、この女(メス)のバーサーク竜は――

(何故だ!? 何が、この女を、これ程までに頑(かたく)なにさせているのだ!?)

最初は些細な物であった違和感が、エメラルドの中で急に膨れ上がった。

咆哮の中で聞こえて来た言葉。バーサーク化の狂乱の中にある竜体としては、意外な程に、決然と拒絶するという冷静な気配があった。 そもそも、今日は『バーサーク危険日』では無いのだ。では、何故――

――改めて広場の状況を確認したエメラルドは、西側に珍しい看板が掲示されているのに気付いた。 四色の『卵』を描いた、妙に女性向けを思わせる繊細なフレームデザインの看板だ。

(――まさか!?)

或る可能性に思い至り、エメラルドは、ハッと息を呑んだ。

年かさの下級魔法神官は、流石にベテランだ。バーサーク竜の再びの攻撃魔法を、ギリギリでかわす。 しかし、高速の竜尾には意表を突かれ、城壁にしたたかに叩き付けられる羽目となった。

そこで下級魔法神官は、失神した。打ち所が悪かったのは明らかだ。

――バーサーク竜を取り逃がしてしまう――もはや、討伐しか無いのか。

戦闘モードに対応できる強い拘束魔法陣を扱う魔法神官が、1人も居ない。エメラルドを含め、隊士の全員が真っ青になった。

「と……、討伐に移行!」

臨時チーム代表を務めるベテラン隊士が叫んだ。上級魔法神官は、まだ到着していない。

バーサーク竜が、素早く身構える。竜体を取り巻くエーテルのモヤの中で、《地魔法》のエーテル流束が激しく閃いた。「討伐」という言葉に反応したかのようだ。

(――やはり、この女は!)

エメラルドの中で、半分以上の確信が固まった。

同時に、バーサーク竜が絶望的なまでに強烈な攻撃魔法――ドラゴン・ブレスを放つ。

その方向は――やはり、エメラルドが推測した通りのものだった。

「東はダメだ!」

エメラルドの警告に従い、広場の東側に集結していた隊士たちは、死に物狂いで散開した――広場の西へと。

《地魔法》の《石礫》の大群が、今まで隊士たちが立っていた石畳をえぐり取って行った。量を倍増した《石礫》の嵐は、燃え残った屋台を完膚なきまでに粉みじんにした。

そして、運悪くも、新人隊士の手引きで、その先に通じるストリートへと避難していた一般人に、襲い掛かる。

「防壁(ウォール)!」

ベテラン隊士の1人が、咄嗟に初歩的な守護魔法を放ったが、余りにも壮絶なドラゴン・ブレスの前には無力だった。

魔法でできた淡いグレーの防壁は、火山弾さながらの暴威の中、見る間に粉砕していった。

――絶体絶命だ!

次の瞬間。

空気が――エーテルが、ビシリと音を立てた。

死の絶望に立ち尽くした新人隊士と一般人たちの目の前で、ドラゴン・ブレスは黒い火花となって激しく爆(は)ぜ、さえぎる物の無い遥かな上空へと跳ね返っていった。 まるで、見えない鏡に全反射を食らったかのようだ。

「なッ、何だ!?」

その疑問のどよめきは、すぐに収まった。

三本角(トリケラトプス)車の停車ポールの下で、新しく出現した1人の男が、魔法の杖を掲げていたのだ。 その魔法の杖は、強力な《四大》エーテル魔法が発動した事実を証明するべく、赤く明るく輝いている。

――ドラゴン・ブレスによる黒い煤煙が、ひとしきり収まる。

そこには、《火》エーテルで合成された赤い盾が展開していた。

ドラゴン・ブレスを全て弾きおおせた《盾魔法》。 火を象徴する金色のシンボルが刻まれたシンプルな半透明の赤い《防壁》だが、その圧倒的な防衛力は、今まさに示されたばかりだ。

その男の衣服は、一見して街着さながらの高い襟の淡色の上衣(アオザイ)と濃色の下衣およびショートブーツという、よく見かける組み合わせだ。 その上に、文官風の、長いスリット裾付き羽織(ローブ)。それは、特別な伝統装飾とされる赤い鱗紋様に彩られていた。

「――《火》の上級魔法神官だ!」

新人隊士が叫んだ。黒いバーサーク竜は再び、薄い金色の目をギラリとさせた。

上級魔法神官は、強い魔法を発動したばかりで息切れが収まっていない。恐らく、此処へ転移する時にも、かなり体力を使った筈だ。 三本角(トリケラトプス)車の停車ポール下の石畳はひどく乱れていて、そこにあった転移魔法陣の形がズレていたのだから。

一瞬の、隙。

上級魔法神官の息が整う前に、バーサーク竜の攻撃態勢が整った。バーサーク竜は黒い翼を広げ、手裏剣の嵐を巻き上げようとしている。

「――ダメ!」

エメラルドはバーサーク竜を抑えようと、本能的に動いた。先輩隊士の1人が何か叫んだが、もはやエメラルドの耳には入らない。 体内の《宿命図》エーテル魔法が燃え、エメラルドの身体は、見る間に竜体へと変じる。

バーサーク竜はギョッとしたように口を開け、長い首を巡らせた。《地魔法》の轟音が一瞬、収まる。

――漆黒の翼を持つ黒色の地竜と、純白の翼を持つエメラルド色の風竜が対峙した。

そして、瞬く間に竜体同士ならではの、くんずほぐれつの戦いになった。バーサーク竜がエメラルド竜の首に噛み付こうとする。

エメラルド竜はバーサーク竜の足元がガラ空きになったのを狙い、自慢の足技を振るい、渾身の力でバーサーク竜の膝を蹴り砕いた。

バーサーク竜が痛みにひるんだ隙に背中を捉え、バーサーク竜をうつ伏せにして組み敷く。黒い翼がボンヤリと上がっていたままだったので、その隙間に潜り込めた形だ。

そのまま、竜体バージョンのレスリング技さながらに、頭部と両肩のポイント、無事な方の片脚をガッチリとホールドする。

バーサーク竜は激しく抵抗した。長い尻尾を振り回し、エメラルド竜の足元を攻撃する。

瞬く間に、エメラルド竜の鱗が光沢を失い、ボロボロになって行く。バーサーク竜の有棘性の鱗のせいだ。 バーサーク毒が含まれている棘は鋭く、身悶えするたびにエメラルド竜の鱗を突き刺し、中の肉を貫いた。

足首のみならず、鱗の弱い腹部をこれでもかと突き刺される形になり、エメラルド竜は激痛に呻いた。バーサーク毒は、気が遠くなるような激痛をもたらすのだ。

バーサーク毒に汚染された血液が鱗の外へ溢れ出し、直下の石畳を染めて行った。

「無茶だ!」

隊士たちが茫然として叫ぶ間にも、上級魔法神官は素早く魔法陣を展開した。

上級魔法神官の手前の石畳の上、漆黒に艶めく光を放つ、黒い檻の如き拘束魔法陣が展開する。 そこに、強制的な竜体解除を施す金色の魔法陣が重なって輝き始めた。通常の2倍の明るさだ。

2竜体をカバーする大きさとエネルギーを備えた魔法陣は、上級魔法神官の魔法の杖の動きに応じて、破壊を免れた滑らかな石畳の上を、滑るように移動して行った。 バーサーク竜とエメラルド竜を目指して、着実にスライドして行く。

バーサーク竜は絶望と拒否を込めた鳴き声を上げ、拘束魔法陣から遠ざかろうと、身体をくねらせる。実に奇妙な反応であり、行動と言えた。

エメラルド竜は、先程から感じていた違和感を確かめるべく、尻尾でバーサーク竜のお腹を捉えた。

(――妊娠している!)

この竜体は、卵を抱えているのだ。しかも、お腹が大きく膨らんでいる――臨月であるのは明らかだ。

バーサーク竜の妙な行動にも納得がいく。広場の西側には、この女が叩こうとしていた『卵』の看板が掛かっていたのだ――この辺りでは唯一の、産婦人科を専門とする医療局の看板が!

その気になって感覚の焦点を合わせてみれば、バーサーク竜には母親としての意識があり、その妙な鳴き声の中に、ハッキリとした訴えが混ざっているのが分かる。

(私、絶対この子を産む! お願いだから、邪魔しないで! 人体化は、今はイヤ!)

竜体で無いと出産できない。メスのバーサーク竜は本能で、竜体解除の魔法による強制的な人体化に抵抗していた。 今にも産卵しようとしているところで、陣痛の痛みで、いっそう荒ぶっている。

別の最寄りの産婦人科は、魔境を幾つも連ねた先の回廊にある。竜人の出生率が低い事もあり、産婦人科の数は少なく、分散していた。 いつ出産するか分からない臨月状態では、竜体のまま、魔境を通って行かなければならない。

――転移魔法陣は、魔境に分断されて孤立している回廊同士を連結する重要な交通手段だ。 しかし、平坦スペースに限りのある竜王都では、ほとんどの転移魔法陣が、戦闘モードたる竜体状態に対応していないのだ。 自力飛行できない小型竜体は、クラウン・トカゲの協力が無ければ魔境を突っ切る事は不可能だ。 だが、クラウン・トカゲは、手足に鋭い爪を持つ竜体を乗せて、長く走る事は出来ない――

ホールドした箇所から激痛と流血が広がり、エメラルド竜の鱗がボロボロになって行くが、構わず抑え込む。そして、バーサーク竜に対する下半身の締め付けを緩めた。

『産みなさい! 私が抑えてやるから!』

バーサーク化している竜体の意識に、その語り掛けが通じるかどうかは、未知数だ。しかも陣痛が始まれば、妊婦は、一切の感覚が弾け飛んでしまうと聞く。

一方で、上級魔法神官は、舗装状態が乱れた石畳に苦労していた。滑らかな平面で無いと、正確な形の魔法陣を維持し続けるのは難しいのだ。

しかし、程なくして、地上に展開された二重の魔法陣は、ようやく難所を通過した。今まさにバーサーク竜とエメラルド竜が折り重なっているポイントに潜り込もうとする。

――エメラルド竜は、死に物狂いで叫んだ。

『止めて! 彼女、卵を産もうとしている!』

それは竜体ならではの咆哮ではあったが、同じ竜人である面々には、ちゃんと言葉として伝わった。

その場にいた全員が真っ青になる。上級魔法神官は唖然として、魔法陣の移動を停止させた。判断の付かない状況に直面し、上級魔法神官の表情は迷いで歪んでいる。

「まともな産婦人科にかからなかったのか!? 鎮静効果のある妊婦用の丸薬がある筈だが」

臨月に入った妊婦は、気が立っていて危険な状態だ。戦闘モードたる竜体であり続ける時間が長びくからだ。 妊婦がバーサーク化していた場合、ほぼ例外なく、卵をあきらめて強制的に竜体を人体に戻すのが暗黙のルールになっている。 つまり卵は変身魔法に伴うエーテル凝縮で砕け、中のヒナは死ぬのだ。割合こそ少ないが、竜人の出生率の低さに直結している原因の一つだ。

上級魔法神官は暫し口元を引きつらせていたが、決心は早かった。魔法の杖が再び赤く光る。

「水の精霊王の御名(みな)の下に……《調整》!」

黒い檻の如き拘束魔法陣の上で金色に輝いていた竜体解除の陣が、姿を変えた。青い光に輝く、全く異なる魔法陣が展開する。 青い魔法陣は、円周に囲まれたヘキサグラムを何種類もの円環が彩るという、複雑なパターンだ。 その黒と青の魔法陣の組み合わせが、改めてバーサーク竜とエメラルド竜の真下の地面に潜り込んで行った。

ベテランとは言え、まだ独身と言った年頃の若い隊士が目を丸くする。

「何ですか、あれ?」

「いつか、結婚したら覚えておきたまえ。エーテル循環を整える医療用の魔法陣の一種で、女性のヒステリー、 特に妊婦の気分を落ち着ける効果が入っている――バーサーク状態の妊婦に効くかどうかまでは分からんが」

上級魔法神官の身体は、疲労で震えていた。言葉の切れ目ごとに、激しい息遣いが入る。 上級魔法神官と言えども、即席かつ遠隔スタイルで最高難度の《水魔法》を発動するには、大いに体力を使うのである。

魔法神官が懸念した通り、バーサーク状態の妊婦には効果は薄い――と言えた。普通の妊婦なら、リラックスの余りウトウトとしてしまう程の反応を示すのだが――

バーサーク竜は相変わらず大暴れして、刃物魔法を繰り出していた。竜体を取り巻くエーテルのモヤと化した魔法の杖を、全力で振り回しているのは明らかだ。 エメラルド竜は何度も致命傷を負いかけるが、防刃魔法で本能的にしのいで行く。

2つの竜体がうねる度に魔法の杖に相当するエーテルのモヤが光り、鋭い剣戟音が響く。 意外な事に、真下に展開された青い魔法陣は、バーサーク傷の激痛で錯乱しかねないエメラルド竜に、冷静な判断力を与えていた。

やがて、バーサーク竜はカッと目を見開き、身体を細かく震わせた。前腕が2本ともパタリと地面に落ちる。竜の手で石畳をガリガリとかきむしり出した。 妙に人の声に似ている呻き声が続く。陣痛の痛みがひときわ強くなり、魔法を繰り出すどころでは無くなったのだ。

――ついにバーサーク竜は出産した。大きく竜体をくねらせると、赤い色の卵が転がり出す。

卵の大きさは、人の両手に乗る程度だ。クラウン・トカゲやダチョウの卵を、ほんの少し上回るサイズである。 サイズが小さすぎるために拘束魔法陣の影響を受けず、その領域の外に転がって行った。

特に素早い隊士が卵を拾い上げ、三本角(トリケラトプス)車の停車ポールの台座の上に卵を安置する。 台座は石畳の乱れに伴って少し傾いていたが、その上には苔が生えており、卵の手頃なクッションになっていた。

上級魔法神官は、即座に青い魔法陣を竜体解除の魔法陣に変えた。

金色の魔法陣が放射する四色のエーテル光が周囲をグルリと巡り、2つの竜体を人体に変えてゆく。

やがて四色のエーテル光が消え、役目を終えた魔法陣は、砂時計の砂のようにサラリとした微粒子となり、空中に蒸発していった。

そこは、血みどろの人体――2人の女武官が横たわる場となっていた。

エメラルドの全身は、血にまみれて無残な状態である。 かねてから担架を用意していた隊士たちが駆け付けて、エメラルドの身体を担架に移すと共に、武官の間では一般的な、一時的に激痛を緩和する鎮痛魔法を施した。

バーサーク化していた方の竜体は、人体になった後も出産のショックで頭がフラフラしたまま横たわっている状態だ。

上級魔法神官はその隙をついて、女の首に素早く拘束具を嵌めた。 竜体への変身を禁じる拘束具は、幅広のチョーカーの形をしている。首輪のように、喉元にある逆鱗を、すっぽりとカバーするのだ。

今までバーサーク竜だった女武官は、人体の姿になってみると、意外に美女だ。返り血を浴びた武官服、艶やかな黒い髪、薄い金色の目――見る間に、目の焦点が合って行く。

チョーカー型の拘束具を装着させられたばかりの女は、ギョッとしたようにお腹に手を当てた。当然、卵の感触が無い。口をポカンと開けて素早く身を起こし、辺りをサッと見回す。

三本角(トリケラトプス)車の停車ポールの台座に置かれていた赤い卵に気付くなり、女は異様に折れ曲がった片足を引きずりながらも、ダッシュで駆け寄って行く。 赤い卵を抱き締め、卵の中から確かな鼓動と身動きの気配を感じると、女の目に涙が溢れた。

「私の赤ちゃん……!」

広場にはひとしきり、念願の母親となった女の号泣が響いた。

意識を取り戻したばかりの、ベテランの下級魔法神官が、驚き覚めやらぬと言ったように頭を振った。 半分意識を取り戻したばかりで朦朧としては居たが、出産の瞬間を確かに目撃していたのである。

「全く何という……ひとつ間違えていれば、貴殿の地位も危うかったろうに――火のライアス殿」

赤の神官服をまとう上級魔法神官は、すっかり疲れ果てて魔法の杖にすがってはいたが、そのワインレッド色の目には、ホッとしたような薄い笑みが浮かんでいた。 注意して見れば、ベテラン下級魔法神官と同じくらいの、中堅の年齢層である。

「汝の敵を愛せ――とは、この事だよ」

上級魔法神官は、呆けたまま担架に乗せられているエメラルドを、感嘆の眼差しで見つめた。

◆Part.2「行き行きて、その時」

2-1神殿付属医療院

対バーサーク竜の作戦が終了したとあって、広場は解放され、瞬く間に人が集まって来た。

バーサーク竜の発生の一報を受けて被害状況の視察に駆け付けた街区役所の担当スタッフは勿論、竜王都の街角広報『風の噂』や『井戸端会議』を名乗る野次馬も。

ひと山の灰塵と化した自分の屋台店や荷車(リヤカー)店を見い出し、ショックで騒ぐ店主も居るが、たいていは立ち直りが早い。 中には商魂たくましく、いずれ街区役所から支給されるであろう『バーサーク災害見舞金』の額を予測計算し、先行取引を始めた人も居る。

新人の神殿隊士が、魔法の杖を持って駆け回り始めた。 バーサーク竜やエメラルド竜から剥がれ落ちた多数の鱗の表面を、《火魔法》で焼いて毒性を弱め、あらかじめ用意した鱗専用の焼却処理袋に入れていく。

正常な鱗は焼却の必要が無いのだが、バーサーク竜の鱗やバーサーク毒に侵された鱗は毒を持つので、最終処分に回す前に、安全に焼却処理しておかなければならない。

一般的に、武官による処理作業は、その場しのぎのレベルに留まる。時間も技術も限られるからだ。本格的な作業は、それを専門とするプロの魔法職人の手に任される事になる。

広場の各所に、バーサーク毒に汚染された血痕が散らばっている。汚染された血痕は《水魔法》で洗浄され、歪んだ石畳は《地魔法》で修復されたが、 これについても、本格的な部分は魔法職人が担当する事になっており、『立ち入り禁止』を示すバリケードによって囲われていった。

無残になった街路樹は、造園業を専門とする魔法職人によって癒される予定だ。 造園業が専門の魔法職人は、城壁の外に並ぶ退魔樹林の維持管理にも、公務として関わっている(城壁の外に出る時は、武官が護衛に付く)。

瓦礫の撤去に関しては、ドラゴン・パワーの出番だ。 人体より一回り大きいサイズの幾つかの竜体が、ビックリするような大きな瓦礫を竜の口でガッチリとくわえ、或いは竜の手でむんずとつかみ、広場を忙しく往復し始めた。

こういった土木工事の類の作業は、竜人がまだ人体変身の能力を得ていなかった超古代の頃、普通のドラゴンとして、岩山や峡谷に洞穴を掘って生活していた時代からの十八番(おはこ)である。

*****

――バーサーク傷を負ったエメラルド。バーサーク状態で出産を済ませたばかり、なおかつ片脚が折れ曲がっている状態の女武官。 2人とも高度な治療を必要とする事態であり、担架に乗せられたまま、幾つかの転移魔法陣を経由して、神殿付属の医療院に緊急搬送された。

神殿付属の門前街区、そのメインストリートにある医療院――

その医療院の救急外来は、一般的な街区の医療局に比べると非常に充実している方だ。

しかし今や、救急処置用のベッドの数が足りなくなった――という状態である。 広場で展開した対バーサーク捕獲作戦で重傷を負った他のベテラン神殿隊士や下級魔法神官、それに巻き添えを食った一般の重傷者も一緒に運び込まれたためだ。

かくして、赤い卵を抱きかかえたままの黒髪の女武官と、ボロボロのエメラルドは、偶然ながら同じベッドを共有する事になったのである。

翼の生えた竜体にも対応できるような正方形のベッドであるため、人体状態の2人は、並んで横たわる事が出来た。この正方形のベッドは、竜人共通の標準的なサイズである。

ちなみに、図体のでかすぎる大型竜体の場合は、この竜人共通の標準的なサイズのベッドに収まるためには人体状態で無ければならないので、その辺りは、むしろ制約は大きい。 睡眠中に、無意識のうちに竜体変身をやってしまうと大変なので、普段の生活でも、あらかじめ竜体解除の魔法陣がセットされたシーツをベッドに敷いて寝るのが決まりである (そして勿論、寝相が悪すぎる場合は、竜体変身を禁ずる拘束具で対応するのだ)。

数人の女性スタッフの手を通過して、2人の女武官は裸にされ、全身を清められ、傷を縫われた。

今は2人とも、既に患者服をまとっている状態だ。

竜人の一般的な衣服は――武官服も含めて――喉元に生えている『逆鱗』をスッポリ覆うように、高い襟を備えたデザインとなっている。

だが、今まとっている患者服は、袖なしVネックのデザインだ。首回りがスースーして落ち着かないが、非常事態なのだから致し方ない。

なお、バーサーク化していた黒髪の女武官の方は、再びの予期せぬ竜体変身、及びそれに伴うバーサーク化を防ぐため、 チョーカーの形をした特殊な拘束具を装着したままである。

*****

物理的な救急処置が済んだ2人の女武官は、正方形のベッドに並んで乗せられたまま、高度治療室へと運ばれて行った。

高度治療室は、特別に仕切られた部屋となっていた。

一般的な救急処置室より狭いが、壁の表面や戸棚の中には、高度治療用の不思議な魔法道具が幾つも掛かっている。 最も目立つのが、「医の聖杯」を刻んだ青い円盤装置だ。大皿と同じくらいのサイズである。

エメラルドに対する高度治療は、《宿命図》エーテル状態を汚染するバーサーク毒を抜く事が中心となる。

バーサーク化した竜人が何度もバーサーク化するのは、全身にバーサーク毒が定着するのみならず、 《宿命図》の近くにまでバーサーク毒が食い込み、『バーサーク危険日』ごとに活性化して《宿命図》エーテルの様相を激しくかき乱すからだ。 《宿命図》エーテル魔法――変身魔法が不安定になり、心身ともに暴走しやすくなるのである。

まさに《宿命図》は、竜人の運命の全てを決める根源パーツなのだ(大陸公路の他種族でも事情は共通している)。

《火》のライアス神官の立ち合いの下、2人の女武官の担当となった女医「地のウラニア」が、ベッド脇に陣取る。 周囲には、研修医であろう男女スタッフたちが控えていた。

ウラニア女医は、武官養成コースの鬼教官のような、いかめしい顔立ちをしている。もう中高年と言って良い世代のベテラン女医であり、灰色の鋭い眼差しも相まって、近づきがたい雰囲気だ。 しかし、半分ほど白髪が混ざった髪をキッチリと髪留めでまとめており、エメラルドは何となく親近感を覚えた。

ウラニア女医は魔法(アルス)の杖を振り、何度見直してみても分からないような、難解なパターンを持つ3次元立体の青い魔法陣を、幾つも空中に描いて行った。 ウラニア女医は、上級魔法神官の神官服を身に着けている――ベテランの上級魔法神官でもあるのだ。熟練された動作は、舞手の流麗な演技を思わせる。

3次元立体の青い魔法陣は、いずれもバーサーク毒を抜くための魔法陣である。多数の青い魔法陣は、白色の光を放って無数の青い粉末に変化し、エメラルドの全身に降り注いだ。

エメラルドの全身に毒抜きの魔法が行き渡ると、1回目の救急処置としての物理的な洗浄では取り切れなかったバーサーク毒が、 既に縫われている状態の傷口から、魔法陣の力に包まれた青い液体となって、にじみ出て来る。

ウラニア女医は、エメラルドの全身の傷口から出て来た青い液体を、消毒済みの布で手際よく拭き取ると、 脇にあった処理袋にテキパキと封印して行った。スタッフの1人が訳知り顔で、その処理袋を何処かへ持って行く。

女医は続けて、ベッドの枕元に置かれた「医の聖杯」が刻まれた青い円盤の上で、魔法の杖を振った。 女医の魔法の杖の動きに応じて、濃いペリドット色をした2本のエーテル流束が、引き出されて来る。

宝石のようにきらめく2本のエーテル流束は、輸血管さながらに、エメラルドの左右の腕に挿入された。

ウラニア女医は、バーサーク傷を負った隊士を何人も治療して来たのであろう、手慣れた様子でテキパキと説明を付け加えて来た。

「エーテル補給を応用した高度治療です。《宿命図》のエーテル循環を加速して、この装置を通じて全身のバーサーク毒を急速排出しています。 エメラルド隊士の竜体サイズだと、バーサーク毒は3日目の辺りで急に痛みが消える見込みだけど、同時に《宿命図》の中の星々の相として定着してしまいますからね。 完全に排出できる訳では無いから、後ほど、そうね、1週間くらい後で、改めてバーサーク毒の残留状態を検査しますよ」

ウラニア女医は一旦、言葉を切った。暫く首を傾げて思案した後、再び説明を続ける。

「エメラルド隊士の場合は、いささか珍しいケースになります。1ヶ月ほどは医療院に観察入院という事になるけど、傷が塞がり次第、頃合いを見て外出許可を出しておきましょう。 次の『バーサーク危険日』に備えて、竜体変身を禁じる拘束具が必要になるレベルかどうかも、判断しておく必要がありますから」

エメラルドは、了解の印に瞬いて見せた。全身の激痛がひどく、うなづいて見せると言う身振りすら出来ない。 しかし、青い円盤に刻まれた「医の聖杯」が回転すると共に、全身の激痛は急に緩和し始めた。 体内に侵入したバーサーク毒が、どんどん抜けているのだ。このペースでいけば、翌日には我慢して動ける状態くらいには回復できそうだ。

隣に横たわっていた黒髪の女武官は、「そんなやり方があるのね」と興味深そうな顔をしている。 実際この青い円盤を使った治療法は、まだ新しく登場したばかりで、巷の街区に普及しているものでは無いという状態だ。

やがて、ライアス神官とウラニア女医の指示に従い、研修医スタッフたちは高度治療室を退出して行った。

入れ替わりに、半透明のプレートを脇に抱えた青年が1人やって来た。

青年は魔法の杖を振り、再び閉まった扉の面に、複雑な魔法陣を設置した。 魔法陣パターンの上で白いエーテル流束が輝いており、その周囲は、隠密スタイルを示すランダムな四色パターンで縁取られている。

――《風魔法》の一種、『防音魔法陣』だ。しかも、最高レベルの秘密保護が入っている。

この部屋全体が、機密会議室と同じレベルの部屋になったのだと分かる。

治療タイムは終わり、事情聴取タイムが始まったのだ。

2-2宿命の凶星《争乱星》

ライアス神官は、今までバーサーク状態だった黒髪の女武官に、改めてワインレッド色の穏やかな目を向けた。

「貴殿は非常に協力的なようだ、プロセルピナ。名前は?」

「元・王宮隊士、今はラエリアン軍に属する突撃隊を務める『地のセレンディ』です」

――ちなみに『プロセルピナ』は、《地霊相》生まれの不特定多数の女性全員に対する呼称である。《地霊相》生まれの不特定多数の男性であれば、『プルート』になる。

「セレンディ隊士の《宿命図》をチェックさせてもらうよ」

ライアス神官はセレンディの脇に立つと、セレンディの片手を取り、手の平を通じて《宿命図》を透視し始めた。

手相を読むようにして《宿命図》を透視する――神官のみが習得している特別な占術であり、《神祇占術》と呼ばれている。 《宿命図》という、まさしく天神地祇の領域を占い、裏読みするのだ。故に《神祇占術》だ。

ライアス神官は、もう一方の手で、ロウソクを持っている時のように魔法の杖を立てて持っていた。 その魔法の杖の先端部には、まさしくロウソクの炎のように、チラチラと赤く揺らめく光がある。

ライアス神官の脇には、先ほど扉に防音魔法陣を設置していた青年が控えていた。 持ち込んで来た半透明の魔法素材のプレートに、ペン程の大きさにした魔法の杖で記録を取っている。 下級魔法神官だ。神官服の独特の装飾は、上級魔法神官ほど目立つ物では無いが、その白い鱗紋様で《風霊相》生まれの者と知れる。 成体になるかならないかという青年は、ライアス神官の弟子にして助手らしいと予想できる。

ライアス神官は、やがてハッとしたように目を見開いた。

「セレンディ隊士は《争乱星(ノワーズ)》持ちなのか? 元々バーサーク化しやすい性質。 《宿命図》の星々に、強い屈折の相と共に、乱反射の相がある――バーサーク化の確率は、60%から70%という所か……」

宿命の凶星――《争乱星(ノワーズ)》。

エメラルドは息を呑んだ。

――竜人の中にも、元々暴発しやすいタイプはある。暴発した時の自らのドラゴン・パワーの大きさに酔い、欲望のままに身を持ち崩して闇ギルドの者となるのも多い。 そうした粗暴なタイプの《宿命図》に多いと聞かれる、代表的な凶相だ。

後方に退いて耳を傾けていたウラニア女医が、ギョッとしたような顔をした。

「50%超えで、今まで一度もバーサーク化しなかったのは長い方だ」

――というような事を呟いている。

セレンディは、薄い金色の目を笑みの形に細めた。ライアス神官の占術の能力に感嘆している様子だ。

「先天性の《争乱星(ノワーズ)》相です、《火》の神官どの。残念ながら、強い《争乱星(ノワーズ)》が関わるバーサーク化は、手遅れになった重度のバーサーク傷と同じように、 高度治療では解決できないそうですね。一度バーサーク化したら、その後は、もう拘束具で抑えるしか無いとか……」

ライアス神官は苦い顔をして、ゆっくりとうなづいた。間を置いて、セレンディの説明が再開した。

「元々《四大》エーテル魔法の発動パワーは充分だったのですが、《争乱星(ノワーズ)》のせいで暴発しやすくて、神官や魔法使いになるのは無理だと言われました。 攻撃魔法を多く扱う武官としてなら生計を立てる事が出来ますし、どの分野の魔法職人(アルチザン)を目指すのが良いか、時間を掛けて探す事も出来ましたので」

エメラルドは、その内容に納得しきりだった。セレンディが発動していた《四大》エーテル魔法は、そのパワーが桁違いだったのだ。

武官は、その職業の特性上、文官よりも定年が早い。退官後の生活を考えると、収入が安定しやすい各種の魔法職人(アルチザン)がベストだ。 武官として身に着けた特殊技能を生かす事も出来る。魔法の熟練度を高める事を兼ねて、 武官を選ぶというのは妥当かつ賢い選択だ――エメラルドも武官の一人として、そういう将来図を描いている所だ。

――ライアス神官は、更に質問を重ねた。 武官を目指す前、そして武官になった後の経歴。セレンディはエメラルドより少し年上に属する世代なのだが、その経歴は、エメラルドや他の武官の経歴と似たり寄ったりであった。

半年に一度の王宮隊士の武闘会がある。 そこでセレンディは次第に、近衛兵と同じレベルの上位に食い込む常連となり、「剣舞姫(けんばいき)」の称号を得たと言う。 憧れの近衛兵に配属されるかと思いきや、竜王都争乱がスタートし、急遽、ラエリアン卿の軍隊に配属される事になったのだ。

「私の夫は、元は私の幼馴染で、我が唯一の《宿命の人》でした。大凶星の相にも関わらず、今まで一度もバーサーク化しなかったのは、夫のお蔭で――神官なら、理屈はご存知ですね」

セレンディの言葉に、ライアス神官は相槌を打って見せた。

――ライアス神官の質問の内容は、次第に核心に近づいて行く。

「既に理解している事と思うが、『バーサーク危険日』では無い日に、セレンディ隊士はバーサーク化した。 その気が無かったにも関わらずだ。何故そんな事が起きたのか、我々は知らなければならない。最近の生活状況について説明してくれたまえ」

セレンディは、赤い卵を胸の上で抱え直した。頭の中で内容をまとめ始めたのであろう、目があちこち彷徨い始める。

エメラルドは聞き耳を立てた。勿論、ウラニア女医も注目している。

セレンディは、ポツポツと語り出した。

「半年以上前になります――軍規に基づいて出産休暇を申請しましたが、こんな世相です。 ラエリアン卿の下でも隊士の人手不足が深刻になっている上に、元々《争乱星(ノワーズ)》持ちという事もあって出産の許可は出ず、早期の堕胎を指示されました」

忌むべき大凶星――《争乱星(ノワーズ)》の相を持つセレンディには、出産する資格すら無いのか。 もっと弱小な、武官にすらなれない程の貧弱な竜体であれば、バーサーク化する程のパワーは無く、問題は無かったであろう。バーサーク化しにくい大型竜体でも、同じように問題は無い。

――普通の生を全うしようと努力を続けて来た結果、たまたま、最悪の条件が成就してしまった。運が悪かった――或いは、巡り合わせが悪かった。言ってみれば、それだけの事だ。

臨月の時期のバーサーク化のリスクについては、充分に承知はしていた。 『バーサーク危険日』と出産日が重なれば、100%に近い確率でバーサーク化するであろうと言う、《宿命図》が描く未来予想図の確かさについても、充分に理解はしていた物の――

セレンディは、《宿命図》に沿って自動的に決定された内容に、どうしても納得がいかなかった。

悩んだ末、セレンディは上官の指示通り堕胎したと言う事にして、こっそりと卵を抱え続けた。 もしかしたら、もしかすれば、『バーサーク危険日』では無い日に、穏やかな出産日を迎えられるかも知れないでは無いか。 《宿命の人》たる夫が、自分のバーサーク化を抑え続けていてくれたように。

「臨月に入ると、前線任務が体力の限界を超えるようになりました。上官の指示に違反したと言う事が分かれば、軍規にのっとって全財産没収の上、追放される。 ですから、体力回復剤に頼りました。そうですね……最近は1日にボトル5本、服用していました。武官向けの標準支給の品で、最高濃度の物を」

ウラニア女医が、「感心できない」と言う風に眉根をしかめて首を振った。

「信じがたい乱用レベルね。男性の竜体であっても、その服用パターンは問題外ですよ」

セレンディは少し首をすくめた後、再び説明を続けた。

「臨月に入れば、卵との胎内リンクが切れるから、子供は薬物の影響を受けなくなると本で読みました。子供が大丈夫なら――それに幸い、『バーサーク危険日』では無い日に予兆があって。 最初の陣痛の予兆が、あんなにキツイとは思わなかった。今日の前線で、突撃作戦に掛かる少し前に、前もって……痛み止めを飲んで……」

そこで、セレンディは気まずそうな顔になって口ごもった。

ライアス神官がピクリと眉を跳ね上げる。

「――どの種類の痛み止めを? どれくらいの量を?」

セレンディは、ますます首を縮めた。胸の上で抱きしめている赤い卵と同じくらい、頬が赤く染まっている。

「その……余り覚えてないけど、激戦区エリアの近所に『よろず何とか』という、ドラッグ類も扱っている総合商店があって……《地霊相》向けだという、 黒い帯が付いたボトルを、10本くらい。竜体のままだったから……」

ライアス神官は怖い顔をして、脇に控えていた青年助手の方を振り返った。

「エルメス君、確か激戦区――あの廃墟ストリートに近い場所で営業中の、不自然に勇気と善意に満ち溢れた総合商店『よろず★ハイパー☆ミラクル屋』は、 『疑惑』の対象だったな? 闇ギルドの違法ドラッグも一緒に扱っていると言う噂がある、いわく付きの」

エルメスと呼ばれた《風》の下級魔法神官は、口を引きつらせていた。

「黒い帯が2本入っているボトルなら、違法ドラッグである可能性が高いです。普段は『ドラゴン・パワーの底上げをする』という触れ込みで売られていますが、 売り上げを伸ばすためか、全く別の薬効を宣伝していたりするので、正確にどんな被害が出るのかは、まだ判明していなかったかと……」

ライアス神官は、あごに手を当ててブツブツと呟き始めた。

ウラニア女医は、セレンディを穴の開く程に注視した。医師として、セレンディに違法ドラッグの症状が出ているのかどうか、 物理感覚も魔法感覚も総動員して、注意深く観察しているのだ。やがて、ウラニア女医は、溜息をついた。

「この場合は、ただでさえバーサーク化しやすいレベルの《争乱星(ノワーズ)》持ちだった事に感謝すべきかも知れませんね」

ウラニア女医は続いて、ライアス神官を厳しく見やった。

「多分――ライアス君、全くの想定外だけど――偶然に、『禁断のドラッグ』が出来た可能性がありますよ。ボトル10本を一気に服用したケースは、恐らく闇ギルドにとっても初めての事。 この件、闇ギルドの手の者が野次馬に混ざって、服用の影響を観察していたかも知れません。それはともかく、予想される作用機序としては――」

ウラニア女医とライアス神官とエルメス神官は、部屋の隅に寄ってヒソヒソ話を始めた。エルメス神官が《風魔法》によるノイズ暗号を、その会話に仕掛けている。 見るからに、最高機密に属する内容であるという事が窺えた。

セレンディは暫くその会話を眺めた後、気まずそうな様子のまま、エメラルドの方に顔を向けて来た。

エメラルドは瞬きし、そっと首を動かして応じた。痛みがだいぶ引いて来て、頭の向きだけなら何とか変えられる状態だ。青い円盤の形をした装置は、非常に良い働きをしている。

セレンディは、おずおずと口を開いた。

「バーサーク傷を負わせてしまうつもりは無かった。互いに対立する者同士で、こんな事を言うのも何だけど――ごめんなさい。 もしかしたら、エメラルド隊士の武官としての将来を、奪ってしまったかも知れない」

エメラルドは、セレンディの薄い金色の目をマジマジと眺めた。シャンパンゴールドと言うのだろうか、こうして見ると、なかなか神秘的な色合いの目だ。

――全体的に見れば、セレンディの行動は余り褒められたものでは無い。だが、セレンディは《争乱星(ノワーズ)》に呪われた宿命を持ちながら、その生き方を歪ませる事は無かった。 だからなのだろう、普通は不可能だとされていたバーサーク状態での出産に挑み、無事に我が子の宿った卵を抱く事が出来たのは。

――不思議な巡り合わせだ。《運命》は、時として、こういう事をするものらしい。

「『エメラルド』で良いです、セレンディ先輩。私は、自分の行動を後悔はしていません」

「私の事は、『セレンディ』で構わないわ」

エメラルドは承知し、わずかにうなづいて見せた。

気が付けば、喉の痛みが薄らいでいる。この分であれば、もう少し喋る事が出来そうだ。

――自分の将来が一気に不確かになったのは問題だが、セレンディにしても、事情は同じような物なのでは無いか。しかも、セレンディの方が、事態は切羽詰まっている筈だ。

エメラルドは懸念を口にした。

「セレンディは――許可なしに前線離脱したのでしょう? 致し方の無かった事でしょうけど、武官としては……ラエリアン卿の下には、帰還できなくなったのでは無いですか?」

セレンディの薄い金色の目は、穏やかなままだった。セレンディが口を開きかけたところ――

――ヒソヒソ話が終了したのであろう、ライアス神官と助手エルメス神官が、再びベッド脇に戻って来た。

ウラニア女医は、今まさに高度治療室を出て行くところだ。此処で最も地位の高い神官として、神殿トップに近い機関に報告しに行くのであろうと予想できる。

ライアス神官は咳払いし、セレンディに説明を始めた。

「セレンディ隊士、ウラニア女医の伝言だが――エメラルド隊士に蹴り砕かれたその片足は、骨格からして完全に粉砕されている。 高度治療を施しても元に戻らないレベルでね。杖を突けば歩けるが、武官としては難しい」

セレンディは、『承知している』と言う風にうなづいていた。武官としての勘で、うっすらと気付いていたようだ。

「当分の間、経過観察という事で、拘束具を付けたまま監視下に置かれる事になる。かなり行動制限が掛かるが、卵の方は心配は要らない。 医療院の中の、竜体解除の魔法を施した個室に入ってもらうが、初脱皮を迎える前の幼体には影響は無いし、元は産後の女性が回復を待って滞在するためのスペースを手配してあるから」

ライアス神官は、高度治療室で一晩様子を見た後、問題が無ければそれぞれの個室に移る事になる――と追加説明をした後、若いエルメス神官を引き連れて、高度治療室を出て行ったのであった。

2-3宵闇の中の群像

――エメラルドは早速、片脚を蹴り砕いてしまった件でセレンディに謝罪した。

セレンディは朗らかに笑い出し、「気にしていない」と返して来た。卵の殻を通じて我が子の確かな感触を感じているからだろう、セレンディの顔は明るい。

耳を澄ましてみると、赤い卵の中から、子供が「クルクル」と喉を鳴らす音が聞こえて来る。おまけに、卵の殻を叩く音も。 母体の外に押し出された後の成長の早さからして、大型竜体という程では無いが、小さすぎる竜体という訳でも無いらしい。ハッキリした事は、卵の中から出て来ないと分からないが。

「ラエリアン軍の軍規に幾つも違反しているから、どのみち武官としての未来は無かったわ。 片脚1本失ったところで特に違いは無いし――もともと臨月を迎えた時点で、『一身上の都合』で武官を退くつもりだったから」

そのタイミングを失したのは、ラエリアン卿が、大規模な軍事行動を連続して策定したからである。

そんな事を話している内に、医療院の女性スタッフが入って来た。

気が付けば、もう夕食の時間帯である。だが、まだ普通の食事ができる程には回復していなかった2人の女武官には、夕食代わりの栄養剤が与えられたのであった。

「そう言えば、私のクラウン・トカゲは今、どうしてます?」

「乗り手が戻って来ない事に気付いて、自分で厩舎に戻って来たそうですよ」

エメラルドに馬の状況を問われた女性スタッフは、質問の内容を予期していたかのように軽い笑みを浮かべた。 続いて、「そう言えば」と、セレンディの方に目を向ける。

「あの広場の城壁の外で、はぐれ者のクラウン・トカゲが1匹、ウロウロしていたそうです。広場の城壁の破損個所をチェックしていた隊士が気付いて回収して――その隊士のクラウン・トカゲが、 そこで盛んに鳴き続けて動こうとしなかったので、調べたところ、気付いたと言っていました。セレンディ隊士の馬ですよね? 手綱が我々の物とは違っていたそうですし」

セレンディは申し訳なさそうな笑みを浮かべた。

「間違いなく、私の相棒だわ。背中にだいぶ傷がついている筈です――竜体のまま、乗せてもらったから」

「あのトカゲは出血していたそうですが、そういう訳でしたか。当分、我々の方でお世話させて頂きますね」

話が一段落した後、女性スタッフは若い女性らしく目をキラキラさせて、セレンディの了解の元、赤い卵を暫く撫で回した。お年頃の竜人女性は、ほぼ全員が卵に特別な関心を覚える。 卵を見ると撫で回したくなるのである。そして女性スタッフは「ごゆっくり」と言い、速やかに高度治療室を退室して行った。

*****

同じ頃――夕闇に沈む神殿の長い廊下の一角で、ささやかな会話が交わされていた。

天球の上では、既に夜の刻を刻む数多の星々がきらめいている。

神殿の一角。その棟の連絡路となっている長い廊下は、複雑な格子細工を施された欄間(らんま)や、芸術的な欄干で彩られている。建物側の壁には、大きな格子窓が列を成して並んでいた。

外に目を向ければ、神殿の高い塔や、反り返った屋根を重ねる巨大な複合棟がシルエットとなって、星空を切り取っている様が見える。空の半分は、朝から雲に覆われたままだった。

「師匠は、バーサーク化した妊婦に関する暗黙のルールは熟知していた筈です。そのリスクも。急に横紙破りを決めたのは……」

「言わんでくれ」

若い弟子エルメス神官の指摘を受け、ライアス神官は苦い顔をして、在らぬ方を眺めた。 今になって考えてみると、弾劾裁判に突き出されるギリギリのラインだったと、ライアス自身でも震え上がってしまう。そうなったら――

「何故、我々は、あのようなケースに対しては、これ程に無力なんだろうな……?」

――そんな事をボヤくライアス神官の、横紙破りのきっかけにして懸念の対象が、タイミング良くと言うのか、悪くと言うのか、近付いて来た。

小さな子供らしい、テンポの速い軽い足音が聞こえて来る。その足音の主は、2人の神官が陣取っていた一角につながるコーナーを回って、長い廊下に転げ出すように走り出て来た。

「エルメース! 私の《宿命の人》!」

その身長が、まだ大人の腰の高さにも達していない少女だ。

幼女向けのピンク色の、まるっとしたリボン造花の髪飾りが目立つ。まだ本格的な花簪(はなかんざし)を装着する年齢では無い。 クシャクシャしたビリジアン色の肩上までの髪に、ワインレッドの目。

丈の短い軽快な上衣(アオザイ)――これも可愛いピンク色だ――をまとった少女は、エルメス神官の身体の周りをクルリと回り、 大人の恋人たちの間で交わされるようなロマンチックな抱擁と口づけをねだった。

「お前には、そう言うのは、まだ早い」

ライアス神官は、いっそう苦り切った顔になり、小さな女の子をヒョイと抱え上げた。エルメス神官と引き離された少女は、盛大にむくれる。

「もう、お父さん! 《宿命の人》同士でも、《宝珠》の相性を合わせて行くには時間が掛かるんだから! こんな調子じゃ私たちの《宝珠》の相が太鼓判レベルになる前に、 私がシワクチャのおばあちゃんになっちゃうでしょ!」

「あのなぁ、いつも疑問に思うんだが、ライアナ、そう言う『大人の知識』を何処で仕入れて来るんだ? それに、一人で此処まで来たのか? お母さんはどうしたんだ?」

ライアナと呼ばれた少女は、平均以上に可愛らしい顔立ちだ。父親ゆずりのワインレッドの目がきらめく。成体脱皮を迎える頃になれば、すこぶる色気のある妙齢の美女になるだろう。

問題なのは、少女の頭の中身だ。口を開けば、おしゃまな内容がポンポン出て来るので――しかも、相当に意味を理解して喋っているらしいので――父親・ライアス神官としては、気の休まる暇が無い。

流石に、父親の腕の中の特等席がお気に入りという年頃で、抱っこされると大人しくなったり、オモチャや絵本を抱えて父親の膝の上に乗って来たりするところは、年相応に可愛らしいのだが……

「お母さんと来たのよ、変な勘繰りはしないで頂戴。お母さんは受付ロビーの大天球儀(アストラルシア)の近くで、いつもの平原の令夫人や役人たちと長いお話をしてるわ。 《雷電》災害とか、山から下りて来る魔物への対応とか、大型転移魔法陣の物資輸送のギブ&テイクとか――ああいう交渉が、如何に大変で長くなるか、知ってるでしょ」

――確かに、遊びたい盛りの幼体にとっては、死ぬ程に退屈な時間だろう。

そう納得しながらも、ライアス神官の脳内には、平原エリアの令夫人や役人たちが、魔法の杖で台座の上の大きな球体をつついて、地元の状況を長々と説明している様子が浮かんだ。 大天球儀(アストラルシア)は受付ロビーの常灯を兼ねた案内板の一種なのだが、地図表示機能もあるから、この類の話し合いには便利なのだ。

小さなライアナの、『立て板に水』の如きお喋りが続く。

「それで私は、ちょっと時間をもらって、愛しのエルメスが浮気してないかどうか確かめに来たのよ。 《宿命の人》同士でも、恋人をシッカリ捕まえておくためには、その辺はキチンとしなくちゃいけないって、令夫人が令嬢にアドバイスしてたしね」

目下、ライアナに熱烈な求愛を受けているエルメス神官も、苦笑いするばかりだ。 可愛い女の子に追いかけられるのは悪い気分では無いが、それでも、師匠の愛娘となると、相応に恐れ多い気持ちになるのである。

そんなエルメス神官の慎ましい気持ちを知ってか知らずか――父親の腕の中にすっぽりと納まった小さなライアナは、エルメス神官の方を振り向くなり、 猫の目のような表情豊かなワインレッドの目を、キッと釣り上げた。

「さっき、『地獄耳魔法』を展開してたら、神殿の受付の方で、綺麗な女の人がエルメスの居場所を聞いてたのが、耳に入ったのよ。《地》の下級魔法神官の女の人。 平凡すぎるアッシュグリーン色の髪を、こう、クルクルのお洒落な巻き巻きにして、花簪(はなかんざし)の長い房とシャラシャラと……あれは髪は長いわね、 キーッ! 目はアーモンドの形をしていて、目尻の方への睫毛が長くて、目の色は黒に近い吸い込まれるような濃紺色、……って言うのも癪だけど!」

――いつもながら、正確無比な人相描写だ。

その『綺麗な女の人』が誰なのか、ライアス神官とエルメス神官には、すぐに心当たりが付いた。近ごろ、事務連絡で顔を合わせるようになった新人秘書に違いない。

小さなライアナは、お行儀悪く鼻をフンッと鳴らして、更に喋り続けた。

「もちろん、受付さんの『位置情報魔法』を、『虚報(ガセネタ)魔法』で、こっそり邪魔してやったわ。『機密会議してるから後ほど』って感じでね。 ねぇ、エルメス、この私の目を盗んで、こそこそ彼女と浮気して無いでしょうね? ウソはダメよ、既に自己紹介済みの顔見知りだって事は『地獄耳魔法』で分かってるんだから」

――将来は、天才的なスパイになれるのでは無いか。

ライアス神官もエルメス神官も、幼いライアナが事も無げに披露して見せた、油断のならぬ魔法使いぶりに、舌を巻く思いである。

エルメス神官は、ライアナの気分を損ねないように、おずおずと事情説明を始めた。

「えーと、それだったら、新しく来た『地のティベリア』嬢じゃ無いかな。《水》の大神官長ミローシュ殿の所の……次の緊急会議の予定を連絡しに来たんだと思うよ。 上級魔法神官を招集する会議の――多分、今回の『疑惑の総合商店』の件で。済みませんが師匠、すぐに確かめて来ます」

だが、頭の回り過ぎるライアナは、回れ右したエルメス神官を、素直に解放してやらなかったのであった。すかさず、子供用の可愛らしい魔法の杖をビシッと振る。 その杖の先端部には、如何にも女の子らしい、ピンクのチューリップの花のような飾りが付いている。

駆け出したエルメス神官の足元に、オモチャのような可愛らしい拘束魔法陣が展開した。しかし、狙いは唖然とする程に正確だった。

エルメス神官は、その『子供のイタズラ』そのものの拘束魔法陣に、見事に足を引っ掛ける羽目になったのだ。

幼体さながらにスッ転び、床に打ち付けた額をさすりつつ、情けない顔をして起き上がったエルメス神官である。 これでも、神殿に属する下級魔法神官の中ではトップの成績を維持しており、上級魔法神官への昇格年齢についても、ほぼ最年少タイ記録となるであろうと言う、エリート中のエリートなのだが……

おしゃま過ぎるライアナは、大人の女性が色仕掛けをする時のようにキュッと肩をすぼめて、鏡の前で念入りに練習した流し目ポーズをエルメス神官にくれてやった。 ただし、色気が皆無のお年頃なので――父親の腕の中にすっぽりと納まったままなので――それは色仕掛けと言うよりは、可愛らしいおねだりのポーズになっている。

「よくって、私の《宿命の人》。幼体趣味の犯罪に走ったりしなければ、ボーイズラブの方の浮気は、許してあげない事も無いわ。でも、私以外の女との浮気は、絶対に、厳禁だからね」

――何やら、とんでもない内容が飛び出したような気がする。

エルメス神官は呆然とする余り、開いた口が塞がらない。ライアス神官でさえも、恐怖の面持ちで愛娘を見直すという有り様である。

「……なぁ、娘よ、意味を分かって言っているのでは無いだろうね?」

小さなライアナは『おすまし顔』になると、文字通り『立て板に水』の詳細説明を加え、そのはかない望みを木っ端みじんに粉砕して見せたのであった。

*****

――セレンディの赤い卵が孵ったのは、未明のさなかの事だった。

ベッドに横たわってウトウトしていたエメラルドは、隣から何やらゴンゴン、カシャカシャといった聞き慣れない音が続く事に気付いた。 『此処は工場だったろうか』と頓珍漢な事を思いながら、うっすらと目を開ける。

未明とあって、ほとんどの照明は無く、暗い。だが、エメラルドの竜人としての夜間視力は、すぐに機能した。

此処は医療院の高度治療室の中だ。

ほぼ痛みが引いた首を巡らせてみれば、あの『医の聖杯』が刻まれた青い円盤が、枕元にセットされているのが見える。『医の聖杯』は、今もクルクルと高速回転していた。

――パリン、カシャン。

不思議な音は、すぐ隣からする。セレンディが横たわっている所だ。続いて、小さく震えるような動きの気配。

エメラルドは、その方向に頭を傾けるなり、目をパチクリさせた。

同じベッドを共有しているセレンディは、枕にもたれて半身をわずかに起こしたまま、薄い金色の目を大きく見張っていた。 とは言え、竜人特有の細長い瞳孔が最大限に開いている状態なので、わずかな光をも反射して、実際の目はペリドット色にきらめいている状態である。

セレンディは、こちらに半身を向けて横たわっている状態であり、その剥き出しの両腕は、 ベッドの上に置かれている卵を緩やかに囲う形である。その赤い卵の上部が、少しずつ砕け始めている。

――孵化するのだ。

エメラルドは唖然として、卵のヒビが少しずつ増えて行くのを眺めるのみだった。 記憶に無いだけで、自分もこうして生まれて来た筈だが――やはり、驚嘆の思いが自然に湧き上がって来る。

息を詰めて待ち続ける、未明の闇の中の数刻が過ぎた。

卵の中の存在は、流石に連続して固い殻に挑み続けるのは疲れるらしく、しばしば小休止が入る。しかし、何やら効率的に殻を破る方法を閃いたらしい。 卵のヒビは、横方向にグルリと回る形で広がった。遂にヒビが大きく広がり、まるで鍋のフタをパカッと持ち上げるかのように、上部分の卵殻が分離する。

赤い卵殻の上半分を赤い帽子のように頭に乗せた、小さな小さなドラゴンが、卵の中から上半身を元気よく突き出した。 両手の上に乗るようなサイズだが、幼体ならではの丸っこい頭部には生え初めたばかりの突起のような竜角があり、《火霊相》を示す赤色の竜翼も、小さいながらシッカリと備わっている。

エメラルドもセレンディも、無言のまま、卵の中から出て来た新しい命を見つめるのみだ。余りにも感動が大きいと、何も言えなくなる――今が、まさにその瞬間だった。

赤ちゃんドラゴンは、まだ夜間視力が不充分なのか、つぶらな目を不思議そうにパチパチさせている。 セレンディの目に良く似た、薄い金色の目だ。匂いか何かで母親が分かるのであろう、クルンと首を巡らせた後、セレンディの方向を真っ直ぐ見つめる。

「――ニャア」

エメラルドは一瞬、目がテンになる思いだった。子猫の鳴き声のようだ。赤ちゃんドラゴンは、こういう鳴き声なのだろうか?  孵化の瞬間は滅多にお目に掛からない珍しい場面だから、無事に、健康に孵化した時に聞かれると言う『初鳴き』が、どういう物なのかは、全く知らないのだが……

セレンディは目を潤ませて、卵の中から赤ちゃんドラゴンを、そっと取り出した。

卵から孵化したばかりの幼体は固い鱗が生えておらず、柔らかな鳥の羽のようなフニャフニャの薄鱗に覆われている。 通常の鱗に比べると、色も一段階ほど白っぽく、半透明に見える。初脱皮の際に、この薄鱗が、ドラゴンならではの堅牢な鱗に置き換わるのだ。

「――本で読んで勉強はしてたけど、ホントに『ニャー』って鳴くのね。ビックリしたわ」

セレンディは口元がすっかり緩んでいた。赤ちゃんドラゴンを撫で回し始めると、子供の方は母親の手の感触が心地良いのか、早速「クルクル」と喉を鳴らし始めた。 そして、卵殻に挑み続けていた時の疲れが一気に来たらしく、母親の手を枕にして、スピスピと鼻音を立てながら眠り込んでしまったのである。

エメラルドは驚きの余り、呼吸を忘れていた。ようやく、詰めていた息をホッと吐き出すと、セレンディを祝福した。

「おめでとう、セレンディ。何となくだけど……男の子?」

「男の子ね。夫に良く似てる――夫も、オリーブ・グリーンの竜体をしていたの」

セレンディは、妊娠中の間に暇を見つけては街区の図書館に通い、その手の知識を詰め込んだと言う。 1年くらい経って初脱皮を済ませた後、程なくして人体変身の能力――変身魔法を本能的に獲得すると言うが、その時が今から待ちきれないと付け加えたのであった。

やがてセレンディは、畏まった様子でエメラルドを見つめて来た。

「――エメラルド隊士、貴殿は命の恩人だわ。この子の名付け親になってくれる?」

「普通は、神官が名付け親を務めるんですよ。ただの武官には、恐れ多い事では無いかと……」

「エメラルドに付けてもらう名前が、一番良いと思うの。直感だけど」

――思わぬ大役だ。名前は一生の贈り物である。何も知らぬ赤ちゃんドラゴンは、小さな赤い翼を折りたたみ、丸くなってお眠り中だ。 エメラルドは改めてその様子を眺め、戸惑いながらも、考えをまとめた。

「セレンディのご夫君の名前は、何と言いますか?」

「火のファレルだけど」

――ふむ。平凡と言えば平凡だが、《火霊相》の男の子に相応しい、定番の名前だ。変身魔法の際、音声に依らない特別な方法で自分の名前を《宿命図》に向かって唱える。 最近は凝ったネーミングも増えて来たが、伝統の中で選び抜かれて来た定番の名前であれば、変身魔法のミスが起こる可能性も低い筈だ。

「この子の名前は『火のファレル』――それで良いですか?」

エメラルドの提案に対し、セレンディは輝くような笑みで応えた。

2-4神殿に集える者たち

竜王都の大神殿。

幾つもの高い塔や反り返った屋根の数々に彩られた、その複合型の巨大建築は、竜王都の創建の頃から、少しずつ増改築されて来た物だ。 岩山の頂上にある一等地の、かなり広い部分、それも緑豊かなエリアを独占している。

最も古い部分は「聖所」と呼ばれている。巨大建築の中心部に、ポッカリと空いたスペース――中庭のようにして存在する。 この周りに最初の建物が出来、それが外側に向かって増改築され拡張していって、今のような複合型の巨大建築になったのだ。

この「聖所」と呼ばれるスペースは、此処が神殿に相応しいとされた『理由』が存在する場所でもあるが、 現在は聖なる《神龍》の住まう聖地とされており、非常に限られた特別な人々しか立ち入る事が出来ない。

特別に立ち入り許可を得ている、数少ない大神官たちの説明によれば。

――「聖所」は、長い時を経て偉大な樹幹となった退魔樹林と、原初の緑の下生えに覆われていて、いっそう荘厳な虹色の光の雨の降り注ぐ場である、という事になっている。

竹によく似た樹形をしている退魔樹林。成熟した樹幹サイズで、よく見かけるのは、せいぜい2、3人が手をつないで足りる程度であるが。 「聖所」のものは、10人以上が手をつないでも回り切れない程の、驚くべき規模であると言う。

その中心の空き地に、《神龍》を礼拝するための、創建当時の様式の礼拝所がポツンと置かれている――

歴史は伝説となり、伝説は神話となる。今や、「聖所」の最奥部に存在するとされる《神龍》は神格化された存在であり、神殿の『絶対不可侵の権威』を保証する物となっていた。

――神殿政治は、《神龍》をトップとする、古代の神託政治さながらの王権神授スタイルだ。

神殿の支配体制は、4名の大神官長の下、大神官、上級魔法神官、下級魔法神官、そして方々の街区や地方に赴任している一般の神官(特定占術と治療魔法のみ扱う)から成る。

なお、その他に、神殿と《神龍》を専門に守護する特殊な神官――4名の『盾神官』が存在するのだが、彼らは神殿政治には直接タッチしていない。

神殿の基本方針は常に、《神龍》の意思を占い、その神聖なる結果に沿う事を理想として、4名の大神官長と、数少ない大神官による『大神官会議』で決定されて来た。

世俗と密に関わる実務的な部分は、『上級魔法神官会議』が担う。4名の大神官長の臨席の下、大神官たちのうち委任されて議長を務める者が会議のプログラムをコントロールし、 そこで、神殿に属するほとんど全ての上級魔法神官たちが、議題について議論したり提案したりするのである。

*****

――その日、午前の半ば辺りの刻に、緊急の上級魔法神官会議が開催される運びとなった。

急に決まったスケジュールとあって、神殿の中では、朝も早いうちから、下準備をしている下級魔法神官たちが忙しく立ち回っていた。 上級魔法神官たちも、今回の緊急会議の内容を前もって把握するべく、秘書や助手を務める下級魔法神官たちから上がって来る会議資料に、次々に目を通している。

神殿の受付ロビーに程近い大食堂の中でも、多くの上級魔法神官たちが朝食もそこそこに、半透明のプレートに詰め込まれた会議資料を展開する光景が広がっていた。

半透明の魔法素材で出来たプレートの盤面は、開いた本と同じくらいの大きさだ。従来の水晶玉より操作性が良い上に、詰め込める情報量が多く、情報処理スピードが速い。 そのため、会議記録や速記記録を取る時などに広く使われている。元は文官の必須の仕事道具として開発された物だが、魔法職人(アルチザン)による改良が重ねられ、 今や、神官にとっても欠かせない仕事道具となっていた。

――大食堂の端には、出入口を兼ねる大きな「平底円門」が並んでおり、そこから朝の光が差し込んで来る。 「平底円門」は、丸窓の底部が大地につき少し欠けた形をしていて、辺境では「洞門(どうもん)」と呼ばれている。建物の内と外をつなぐ、竜王国独特の出入口用の建具である。

朝食の席の上、ライアス神官も《火》の上級魔法神官の1人として、半透明のプレート盤面に次々に展開される資料に目を通している。 弟子にして助手エルメス神官が、大急ぎで準備した資料である。

予想通り、『疑惑の総合商店を速やかに取り締まるか、それとも泳がすか』に関する政治決定の件が主要テーマになっていた。 その次に重要なテーマが、『見張り塔の戦い(引き分け)における戦後処理の方針』だ。そして、いつもの『次のバーサーク危険日に関する占術予測の検討』。

ライアス神官は面を上げ、「エルメス君」と、いつものように傍に控えている若い弟子の名を呼んだ――

――その時、エルメス神官が応じる前に、別の焦ったような声が割り込んで来た。

「済みません、ちょっと宜しいでしょうか?」

ライアス神官とエルメス神官は、朝食テーブルの席に立ち寄った人物を振り向いた。

――若い男だ。しかし、エルメス神官よりは明らかに年上で、あと数年もしたら中堅の年齢層に入るという頃合いである。

身に着けている神官服の装飾は、青い鱗紋様に彩られている。《水》の上級魔法神官だ。 標準的なアッシュグリーン色の長めの髪を、後ろで簡素にまとめている。濃い水色の目が印象的な、すこぶる眉目秀麗な容貌は、遠目にも目立つだろうと思われた――

エルメス神官が素早く応じる。

「何か御用でしょうか?」

「昨日、隊士がバーサーク傷を負ったと言う情報を小耳に挟んだのですが、詳細をご存じありませんか? 昨夜遅くに出張から戻ったばかりで――私の知人の隊士かも知れなくて」

エルメス神官は、ひとつに結わえるにはまだ短すぎる髪に指を突っ込んで考え始めたが、すぐにピンと来た――と言った様子で、再び口を開いた。

「昨日の出来事でしたら、エメラルド隊士ですね。昨夜は付属医療院の高度治療室に入っていましたが、今朝はもう個室の方に移っているかも知れません。 詳細を知りたければ、医療院の女性スタッフに聞いて下さい」

エルメス神官は、エメラルドとセレンディの食事担当を務める、若い女性スタッフの名を挙げた。 《水》の上級魔法神官は、エメラルドの名に、うろたえたような顔をしている。果たして、ビンゴだったようだ。

「ライアス殿、エルメス殿――情報、感謝いたします」

濃い水色の目をした眉目秀麗な男は、一礼して速足で去って行った。ライアス神官とエルメス神官は、その様子を暫く眺めた。

――過去10数回ほど、上級魔法神官会議の時に顔を合わせたという記憶があり、 1回、自己紹介をし合ったという記憶も確かにある。だが、咄嗟に名前を思い出せない。

見ていると、大食堂の出入り口「平底円門」アーチの1つに差し掛かったところで、くだんの《水》の上級魔法神官は、ちょうど向こう側からやって来た若い女性と衝突した。 2人ともに驚きの声を上げた後、丁重に謝罪を交わし合っている。お互いに頭の中が一杯で、注意散漫だった様子だ。

――この場所に不慣れな様子の若い女性の方は、果たして、新しく入って来た秘書、地のティベリア嬢だ。 綺麗な濃紺色の目の美人である。エルメス神官と同じように、神殿の事務や助手の方面を担当する、下級魔法神官の女性用の神官服をまとっている。

エルメス神官はハッとした。それはまさに天啓だった。

――謝罪を済ませた後、お互いに初対面の場合は、自己紹介が続く筈だ。

エルメス神官は早速、ペン程のサイズに縮小していた魔法の杖をこっそりと振り、《風魔法》の一種『地獄耳』を発動する。 小さなライアナを真似して、スパイもどきの一連の作業を済ませた後、エルメス神官は、ライアス神官を振り返った。

「彼の名前は、『水のロドミール』でした」

ライアス神官は苦笑しつつ、「今度は名前を忘れないようにしよう」と返した。

2-5待ち人、今ひとたび

エメラルドとセレンディは、『願わくば、高度治療のお世話になるのは、これで最後にしたいわね』と笑い合いつつ、 高度治療室での朝食を済ませた。相変わらず栄養剤のみの食事である。通常の食事は、3日間を過ぎた後から始める事になっていた。

赤ちゃんドラゴンのファレル君は、未明の奮闘の疲れでウトウトしている所だったのだが、 食事担当を務める若い女性スタッフが、やはり目をキラキラさせて『キャアキャア』言いながら構いたおしたので、 ポテポテと歩いて見せたり、小さな翼をパタパタ動かして見せたりと忙しくなっていた。なかなかサービス精神のある男の子のようである。

「赤ちゃんドラゴンって、何を食べるのかしら?」

流石にセレンディは忙しすぎて、そこまでは勉強していなかったようだ。助けになったのは、やはり食事担当の若い女性スタッフである。

「此処で用意できますから心配は要りませんよ、セレンディ隊士」

若い女性スタッフは、ポテポテと歩いて来た赤ちゃんドラゴンをヒョイと抱き上げ、その白っぽい柔らかな鱗を堪能するかのように、撫で回した。 初脱皮前の幼体の柔らかな鱗は、触り心地が良いのである。

「孵化直後から3日間は水だけで大丈夫なんです。多分、母体の回復タイムの関係でしょうけど――昔は我々は、水場の近くで出産していましたしね」

その内容は、エメラルドにも覚えがあった。女性の竜人の間では、この辺りの事は一般常識である。

女性スタッフの説明が続いた。

「その後は当分の間、水場に生える数種類の草の実が主食になりますけど、 この種の草は、元々魔の山でもある竜王都では生えていませんので、山麓エリアや平原エリアから取り寄せる形になります。 1ヶ月くらいで胃腸が完成して来ますので、その後は、我々の通常の食事内容に、徐々に慣らしていくと良いですね」

エメラルドは、いつか自分も母親になる機会があるかも知れないし、その時のために覚えておこうと、心に留めておいたのであった。

*****

――朝食後、エメラルドとセレンディ親子は、速やかに各々の個室に移された。

エメラルドは、3日間は青い円盤のお世話になる身だ。移動先の個室の壁にも、ウラニア女医の立ち合いの下、 青い円盤が不思議なインテリアさながらにセットされる事になった。

エメラルドの主治医を務めるウラニア女医は、一度、バーサーク毒の排出ペースをチェックし、「全身重傷の有り様はともかく、エメラルド隊士は運が良い」と感心した。 恐らく、『バーサーク危険日』を外れていた事が、プラスに働いたのだろうと言う事だった。

「私は、これから上級魔法神官の一人として緊急会議に出席しなければならないので、今日の往診は、この早朝1回で終わりです。 昨夜のうちにエメラルド隊士の寮にある長持を持ち込みましたので、身の回り品の不足は無いと思いますよ」

ウラニア女医は、「何かあったらスタッフに言って」と言い残して、同伴していた女性スタッフと共に、忙しそうに去って行った。

エメラルドは枕を立てて半身を起こし、ベッド脇に置かれた黒い長持を、つらつらと眺めた。武官に標準支給される品である。

上下2つの平たいトランクボックスに分解できるスタイルで、クラウン・トカゲに積んで移動する事の出来る最大サイズだ。時には野営用の簡易テーブルや簡易ベッドとしても使える。 軍規に従って身の回り品は全て、野営セットと共に長持に収納する事になっているので、急な異動や遠征、赴任に対応できる。そして今回のような、予期せぬ入院にも。

フタに取り付けた魔法署名付きの錠前のみがエメラルドの趣味を反映したラベンダー色だ。退魔樹林の落ち葉から曜変天目の部分を切り取って作った、キラキラした虹色の造花の飾りが付いている。

――恋人は出張が多い人だ。もし昨夜、帰還していたとしたら、エメラルドの部屋の鍵が開いていて、しかも長持が消えている事に気付いて、ギョッとしたかも知れない――

久し振りに1人になったせいか、エメラルドはフッと恋人の事を思った。

その時、個室の扉からノック音が響いた。このノック音のパターンは――

「――ロドミール!」

まさに噂をすれば影、いや、念ずれば通ず。エメラルドは驚きのままに、枕元に置いてあった魔法の杖を手に取り、 先ほど女性スタッフから支給されたばかりの『扉の開錠魔法陣』を空中に作成すると、扉に向かって投げた。

この1ヶ月ほど御無沙汰だった恋人のロドミールが、扉を開けて入って来た。 転移魔法陣を慌てて使っていたのは明らかだ。《風魔法》の乱れに伴う突風を食らったのであろう、ロドミールの髪は乱れている。

「ああ、無事で良かったよ、エメラルド!」

ロドミールは濃い水色の目を潤ませ、ベッド脇に両膝を突いてエメラルドを抱擁した。その拍子に創傷が疼き、エメラルドは呻いた。

「済まん、バーサーク傷を受けていたって事を忘れてた」

「大丈夫。来てくれてありがとう、ロドミール」

エメラルドは息を詰まらせた。会いたくても会えなかった1ヶ月の間、積もった話も色々あるが、特にこの一昼夜は、色々な事が起こり過ぎていた――何から話したら良いのかも分からない。

ロドミールはエメラルドを見直すと、改めてギョッとしたような顔になった。

「そんなに痛かったか!? 涙が……」

「大丈夫よ。ホントに大丈夫。ただ、色々あったから……」

――そう言えば、此処に椅子はあっただろうか。エメラルドは改めて個室の中を見回し、「やっぱり」と息をついた。

「何が『やっぱり』なんだ?」

「此処には椅子が無いの、ロドミール。多分、寮のと同じくらい、狭い個室だからだと思うけど――そこに長持があるから、座って」

ロドミールは苦笑し、簡易ベンチさながらの長持に、そっと腰を下ろした。やや気分が落ち着いたのか、大きく溜息を付きながらも、乱れた髪をかき上げる。 ロドミールは早速、高速回転中の青い円盤装置に気付き、ジッと見つめた。やがて、感嘆そのものの眼差しになる。

「――もしかして、主治医は、地のウラニア女史?」

「良く分かるのね、ロドミール」

「お手本にしたくなるくらい見事な魔法陣が掛かってるからね。彼女はバーサーク傷の第一人者だし、ホッとしたよ」

エメラルドは改めて、青い円盤装置に目をやった。

――自分には、あらかじめ刻まれていた「医の聖杯」が回転している様子と、 円盤の中心から出て来るペリドット色のエーテル流束が自分の両腕に連結されている様子しか見えないが……上級魔法神官レベルにしか分からないような、 不可視の魔法陣が掛かっているらしい。

「そう言えば、ウラニア女医は先ほど、緊急会議に出席しなければならないって、忙しそうだったけど。ロドミールは大丈夫なの?」

「ああ、私は元々、出張から帰還する日程が早まっただけだから。上級魔法神官と言っても、若手のうちは、下級魔法神官と余り変わらないな」

ロドミールは自嘲的な笑みを浮かべた。広大な平原エリアの各所や、他種族の諸王国への出張が多く、神殿の中央部の動きからは、どうしても縁遠くなってしまう。 上級魔法神官になったばかりではあるが、中央に詰めている同期に後れを取りつつあるのは、やはり気に掛かる事なのだ。

エメラルドにとっても、その辺りは理解できる部分だ。エメラルドが早くも上級武官として活躍できるようになったのは、 皮肉な事だが竜王都争乱が勃発して、この数年のうちに急に経験値が積み上がったせいである。

エメラルドは微笑み、「大丈夫だと思うわ」と返した。

「たいていの竜人って、竜王都の城壁の中に閉じこもってしまう分、大陸公路の諸王国には無関心になりがちでしょう。 外交ルートの維持だって重要な任務なんだし、見ている人は、ちゃんと評価してくれる筈よ」

エメラルドは、ロドミールが出張のたびに土産話として持って来る、大陸公路の諸王国の話題を聞くのが、いつでも楽しみなのだ。そこからロドミールとの交際が始まったと言っても良い。

「エメラルドは、ちゃんと見ていてくれる人の一人目だよ、多分」

ロドミールは朗らかに笑い、ウインクして来た。

「――ちょっと《宿命図》をチェックしてみても良いかな?」

エメラルドがうなづいて片手を差し出すと、ロドミールは、ライアス神官がやっていたように、手相を読むような格好で透視魔法を使い出した。ロドミールの魔法の杖の先端部が青く光り出す。

やがて、ロドミールは顔を上げた。

「さっき、『健康運』の項目を一時的に強化しておいたよ。『上級占術』の一種でね。バーサーク毒には効かないけど、その全身の重傷については、治りが早くなる筈だ」

「ロドミールが居ると、いつでも大丈夫な気がするわ」

「それは買いかぶり過ぎだよ。こんな事くらいしか出来ないんだから、これくらいしないとね」

そんな事を語り合っていると、ロドミールの魔法の杖が『ヒュルル』と音を立てた。《風魔法》を使った遠隔通信の呼び出しだ。

『――《水》の上級魔法神官ロドミール殿、緊急会議に来られたし』

ロドミールは首を傾げた。

「名指しで呼び出しが来るなんて珍しいな。今日の議題は大陸公路の諸王国とは無関係だった筈だけど」

「外交経験を踏まえての見解が、必要になったんじゃ無い?」

「頭の固い大神官の連中がそう考えたとしたら、ビックリだよ。ともかく急がなくちゃいけないようだ」

別れ際、ロドミールとエメラルドは、互いの頬に親愛の口づけを交わした。

2-6幕間…『魔法の杖』概論

エメラルドはロドミールが個室を出て行くのを見送った後、長持の中を改めた。 フタの裏の収納スペースに読みかけの本を詰めていたのを思い出し、読書には良い機会だと思ったのだ。

『魔法(アルス)の杖』を取り巻く若干の歴史と知識をまとめた本である。 最も身近な道具なのだが、余りにも身近過ぎるために却って知らない事が多く、冒頭部の内容からして感心させられたものだ。

エメラルドは、改めて冒頭部から読み直し始めた――

*****

――魔法(アルス)工学入門シリーズ、『魔法の杖』概論より――

この世界は、四大エレメント《火》、《風》、《水》、《地》によって構成されている。 そして、四大エーテルとは、四大エレメントが生成する四種のエネルギー場の事を言う(場についての精密な定義は、物理学の本を参照されたい)。

各種のエーテル操作術『魔法(アルス)』によって、古典的な物理手段を跳躍した結果を得る事が出来る。

『魔法の杖』は、人類によって発明された。超古代においては、『人類』と呼ばれる種族が唯一、『知性』なるモノを持ち、種族的繁栄を独占していたのである。

さて、『魔法の杖』には無数と言って良い形態があり、『ただの一本の棒(基本形)』から、多種多様な宝石細工を施した『宝器』、権威の象徴を施した『笏』まで、色々ある。

当然ではあるが、天然素材をそれらしく成型しただけでは、『魔法の杖』にならない。 四大エレメントをそれぞれ司るとされる四大『精霊王(エレメンタル)』が、四つの有効なシンボル記号として刻まれて初めて、『魔法の杖』としての機能を発揮するのだ。

――ただし、四大『精霊王(エレメンタル)』なる神的な存在が、本当に存在するかどうかは今なお解明されていない。 四つのシンボル記号は、世界最初の魔法陣にして神聖文字である。 学問的誠実さを追求する限りにおいては、そういう、究極の、『万物の理論』という意味での《場の単位》が存在するのだ、と言うべきである。

『魔法の杖』を製作するには、先述したように、四つの有効なシンボル記号を、位相幾何のルールにのっとって任意の場所に刻めば良く、色や形にこだわる必要は無い。 これが、『魔法の杖』のデザイン可能性を無限に広げているのだ(位相幾何については、数学の本を参照されたい)。

――賢明な読者諸君は、此処で既に気付いたと思うが、『魔法の杖』の拡張バージョンにして特化バージョンが、巷で見られる『魔法陣』なのだ。

エーテル魔法のパワーを発動する全ての魔法陣は、四大エレメントを司る四大『精霊王(エレメンタル)』のシンボル記号が、必ず入っている。生物・無生物を問わずだ。

生物が、その根源に授かった天然の魔法陣が、すなわち《宿命図》と呼ばれる物だ(なお、《宿命図》占術教本の序文を、補足資料として付記した。必要があれば参照のこと)。

魔法陣を通じて各種のエーテル魔法を発動する時、元々は無色透明である不可視のエーテルは、それぞれのエレメントに応じた色(シンボル色)で光り輝く。 《火》の赤、《風》の白、《水》の青、《地》の黒。

我々が、目的に応じて様々な魔法陣を人工的に作成する時は、エーテル魔法の効率アップのため、各種のシンボル記号に応じた各種のシンボル色を入れるのが定番だ。

※他の色を自由に使っても問題は無いが、その場合、パワー効率が格段に落ちる事が分かっている。 よほど自民族の特色を出したいと言うような、狂信的なまでの自民族中心主義(エスノセントリズム)の持ち主でも無い限り、滅多にやらないだろう。

――『人類』と『魔法の杖』の歴史に、学ぶべき事は多い。以下、簡単に記そう。

超古代のミレニアムが終わる頃、『世界終末予言』なる『バーサーク的な存在』が、人類社会を席巻した。 その詳細は明らかでは無いが、最終戦争(ハルマゲドン)が始まり、破滅的なまでのエーテル魔法が横行した事が知られている。 その結果、四大エレメントのバランスが遂に崩れ、全世界レベルの変動が起きた。

最も大きな世界的変化は、天球の回転軸の変化である。

元は『銀河(天の川)』などといった名前で呼ばれていた、天球のほぼ中央部を横断していた星々の壮大な帯は、地平線にまで下がった。

現在は、回転軸の刻々のズレもあって、微妙に半円形をしたギザギザの不定形の山脈か虹のように地平線上で輝き続けているという状態だ。 ゆえに、『軸光山脈』、『連嶺』、『時の虹』などと呼ばれるようになっている。『時の』というネーミングは、かつての北極星さながらに、時と方角のガイドとなるからだ。

四大エレメントの均衡が崩れた事によって、気象も不安定になった。

定期的な巨大エーテル乱流――《雷電》と呼ばれる狂乱的な荒天に見舞われる季節が生まれたのも、 大きな変化だ。これについては、更に込み入った専門的な説明が必要になるので、割愛する。

人類は、破滅的なまでのエーテル魔法を横行させた事で、更にとんでもない置き土産を残した。

生物兵器として作成されていた、各種の亜人類である。現在の大陸公路に生きる我々の祖先だ。 人類は、元々知性の無かった動物を適当に選び、強い生命力と知性とを与え、更に人体変身能力を付け加えたのだ。

これら亜人類が人類に対して反逆を起こした事も、人類絶滅のきっかけになっている。 人類・亜人類入り乱れる大陸公路で、遂に全世界レベルの変動が起きた時、生命力の強い亜人類しか生き残れなかったのである。

――獣人、竜人、鳥人、魚人。

かつての大絶滅の危機を乗り越え、現在の大陸公路に繁栄する亜人類を大別すれば、こうなる。 そして、これら四種の亜人類のそれぞれに対して、科、属、種の単位で区別できるような各種族が属している。

ちなみに獣人に属する全種族を数えれば、レオ族、ネコ族、ウルフ族、イヌ族、クマ族、パンダ族、ウサギ族である。元となった動物については、説明は不要だろう。

*****

補足資料『《宿命図》占術教本』序文より――

古き《謎》はかく語りき…
宿命は生を贈与して
運命は死を贈与する
しかしこれら二つのものは
一つの命の軌道を辿る――

《宿命図》は個人によって内容が異なる。

神官の《神祇占術》を通して観察すると、個人の《宿命図》は、3次元立体の星空――ボンヤリとした形の、範囲のハッキリしない量子で構成された天球のように見える。 超古代の人類は、それをハイパー・ホロスコープ、アカシック・レコードの一部、霊魂、魂の地図、運命の設計図などと言っていたが、それは今は置いておく。

そのボンヤリとした天球の如き範囲の中に、万物照応のルールに沿って、四大エレメントの素粒子――分(わ)け御霊(みたま)――が星々のように配列されている。 世界の四種のエネルギー場、すなわち《四大》エーテル流束が、その素粒子と反応し生命の炎となってきらめくので、《宿命図》は3次元立体の星空のように見えるのだ。

透視能力に優れた者であれば、その3次元立体の星空の如き《宿命図》の中に、屈折の相、反射の相など、 《宿命図》の星々のエーテル反応の軌道が結ぶ個性的な相関――すなわち、ホロスコープで言うアスペクトのようなパターン――を見い出す事が出来る。 大凶星とされる《争乱星(ノワーズ)》のような相も。

個人の《宿命図》に含まれる四大エレメントの含有量には偏りがあり、その偏りの度合いによって、 いずれかの《霊相》の生まれと判定される。《霊相》の傾向次第で、得意とする《四大》エーテル魔法の種類も偏って来る。

ちなみに、大自然によって授かった「偏り」や「混在」が無いと、生命の根源パーツ《宿命図》として機能しない。

これが世界の不思議な所で、いわゆる無属性や全属性と言ったような完全な均衡タイプの《宿命図》、 或いは純粋な火属性、水属性といったような単一タイプの《宿命図》は、存在しないという事が知られている。

完全な均衡タイプの代表的な物が「竜体(本体)解除の魔法陣」であるし、単一タイプは、例えば「拘束魔法陣(地属性)」、「転移魔法陣(風属性)」として機能する――

◆Part.3「近くて遠き者たちを」

3-1神殿付属ノ大図書館

――神殿街区のメインストリート内、付属アカデミー「知の殿堂」。

この付属アカデミーが「知の殿堂」という二つ名を頂くのは、竜王都最大の規模を誇る大図書館があるからだ。竜王都最大の規模――すなわち竜王国最大の規模である。 最も古い建築部分や蔵書の類は、古代の竜王都創建の時代にまでさかのぼり、今や博物館的な価値すら認められている。

竜王都争乱が始まって既に数年経過しているが、それでも遠路はるばる、他種族のアカデミー遊学中の学生たちがやって来ている所だ。

元々は、王宮関係者も神殿関係者も区別なく出入りしていたが、今は、神殿が「王宮関係者では無い」と判断した者しか出入りできない。

王宮関係者ではあるがアカデミー遊学中であるために、アカデミー周辺への立ち入りを許可された――という竜人学生たちも少なくない。 遊学中は、戦闘への参加を含む過度な政治活動は禁じられており、治安維持に関わる武官や魔法使いの監視下に置かれている。

――大図書館の受付ロビーからは、若い緑に輝く街路樹が並ぶ、前庭が見える。街路樹に仕切られたその向こう側を横切るのが、神殿街区のメインストリートだ。 学生寮を含め様々な商店があり、朝の早い時間帯から物資や人々の輸送を担う大型の三本角(トリケラトプス)車や中小型の荷車(リヤカー)が、多くの学生や神官、役人たちと共に行き交う。

このメインストリートを挟んで、大図書館と医療院は隣接していた。 そして、神殿中央部に向かって少しばかり距離を歩いた先に、高級レストランや御用達の店が並ぶ、神殿の門前プロムナードが広がっていた。

*****

大図書館の広々とした受付ロビーには、常灯と案内板を兼ねた大天球儀(アストラルシア)が幾つも配列されている。

この大天球儀(アストラルシア)は、無色透明の魔法素材で出来た球体だ。数人の子供がスッポリ収まれる程のサイズである。

台座の上に浮かぶようにセットされた球体――大天球儀(アストラルシア)は、実際の天球の回転に合わせてゆっくりと回転する仕掛けを持っている。 天球の星図をリアルタイムで発光表示するようにもなっており、夜間は、この発光が常灯の役割をするのだ。

大天球儀(アストラルシア)を魔法の杖で操作すると、施設案内図に変化する。 更に特定の方法で操作すれば、竜王国の地図も――大陸公路の全体の地図も――表示できる(ただし、機密保護が掛かっている部分は曖昧な映像になる)。

常灯と案内板を兼ねた、この魔法インテリアは、ユーモアと洒落を込めて、特に『アストラルシア(星の光輝)』と呼ばれている。

ちなみに大図書館に限らず、神殿や街区役所や平原エリアの公民館など、一定以上の規模を持つ公的な施設のロビーには、必ず、このタイプの大天球儀(アストラルシア)がある。 ただし規模によって設置可能な数が増減するので、小さな施設では、1個しか置いていない所も多い。

*****

――その日の、昼下がりの刻。快晴だ。大図書館の受付ロビーには、学生たちや、蔵書がお目当ての利用客たちが多くたむろしている。

受付ロビーで最も壁際にある大天球儀(アストラルシア)の横には、床タイル単位ごとに転移魔法陣がセットされた一列がある。 そのうち1つの転移魔法陣が、先ほどから稼働していた。その魔法陣がセットされている床タイルのボンヤリした白い光と、ヒュルヒュルという風音は、「使用中」のサインだ。

転移魔法陣の上を白いエーテル光が一巡して立ち上がり、白い柱のようになる。やがて白い柱が微細なエーテル粒子となって空中に分解していく。 転移魔法陣スペースには、いつの間にか、魔法の杖を携えた一人の竜人男性が佇んでいた。

余りにも日常的な出来事だ。最も近くに居た一般人でさえ、転移魔法陣から新しく人が湧いて来た事には、ビックリしていない。 だが、その新入りの男の正体を知れば、誰もが、それなりにビックリしたであろう。

転移魔法陣から出て来た、中堅といった年齢層の男は、気楽な街着姿だ。簡素な上衣(アオザイ)とズボン。 だが、長いスリット裾を持つ文官風の羽織(ローブ)の特殊な紋様を見れば、《地》の上級魔法神官と知れる。 うなじで一つにまとめた背中までのアッシュグリーン色の髪、黒緑色の目、思慮深そうな顔立ち。

《地》の上級魔法神官は、早速、最寄りの大天球儀(アストラルシア)を魔法の杖でつつき、大図書館の蔵書案内を閲覧し始めた。

彼は疑問顔になって暫し首を傾げた後、顔なじみの司書が居る受付コーナーに接近して行く。

先程から《地》の上級魔法神官の存在に気付いていた司書――若手ベテランの女司書でもある――は、既に受付嬢の顔をして待ち受けていたのであった。

若い女司書は、標準的なアッシュグリーン色の髪を軽やかなシニヨンに巻き、事務女官として指定されている定番のタッセル付き花簪(はなかんざし)を装着している。 女官仕様の堅実な下裳(ラップスカート)。竜王国の紋章入りの、カッチリとした蔽膝(エプロン)は、男女問わず正式な公務員である事を示すものである。

春の空のような柔らかな色の目をした女司書は、訳知り顔で口を開き、他の人には聞こえないような小声を掛けた。

「こんにちは、セイジュ大神官。どんな資料をお探しでしょうか?」

「超古代の人類の政治交渉の内容とか、獣王国の多族間の政治交渉のあらましをまとめた物は、あるかな? 特に領土紛争の類をどうやって片付けたか――という事例があれば良いが」

女司書は、手持ちの半透明のプレートを魔法の杖でつつき始めた。女司書の持つ半透明のプレートが、目の回るような速度で、蔵書情報を繰り出して行く。 一昔前であれば、もっと情報処理スピードの遅い、魔法の水晶玉を撫で回しているところである。

女司書の蔵書検索は、いつものように手際が良かったが、長引いていた。 内容が内容だけに――特に、超古代の物は尚更に――数が少なく失われた部分も多いため、資料としてお勧めできるレベルかと言うと、怪しい物があるのだ。

「流石の『風のユーリー』嬢でも、こればかりは難しそうだね」

セイジュ大神官は、諦めたような苦笑いを浮かべていた。ユーリー司書は顔をしかめてブツブツと呟いていたが、 それは不快のためでは無く、脳の中で更に大量の記憶が引き出され、回転しているからだ。

「セイジュ大神官、本日の御用は推察するに、先日の上級魔法神官会議の議題に関して、新しい提案として出て来た内容――ラエリアン卿との講和、というか、 竜王陛下との和議――と関係していると思われますが、如何です?」

「まあ、そうなんだが……何だ、緊急会議だったのに、既に巷に詳細が出回ってるのか?」

「そうでも無いです。実のところ、昨夜の女子会……食事会で、ウラニア女医の所の研修医スタッフから聞いたばかりなんです。たまたま同期の親友でして」

ユーリー司書は、そこで言葉を切り、しかめ面になった。

「まぁ途中でカン違いのおニューの下級魔法神官サマの乱入があって、食事会の後半は結局、ハチャメチャでしたけど。 最近の新人は変なのが多いですねぇ、昨日あたり王都に来たばかりの新人だそうですけど、何だかしつこくて、イヤんな印象でしたよ。 入院患者の個人情報なんてペラペラ喋るもんでも無いのに、親友に強い酒ドンドン飲ませて聞き出そうとするんですから」

ユーリー司書は暫しプリプリしていたが、そこで、そそくさとキマジメな顔に戻った。そのままセイジュ大神官を眺め、更に言葉を続ける。

「――おほん、話がそれて失礼いたしました。講和もしくは和議の提案の件ですね。 目下、最悪のタイミングなので、ラエリアン卿は聞く耳を持たないだろうって事で却下されたそうですが、『再検討に値する』と、出席者全員で一致したそうですね。 提案者が、えっと……《水》の上級魔法神官のロド……何某(なにがし)さんとか言う、若手のイケメンさんで、今後注目の人材だとか」

セイジュ大神官は、疲れたような笑みを浮かべてうなづいた。

「今は、珍しく『バーサーク危険日』が詰まっているんだ。 ライアス神官とエルメス神官の開発した占術方式の正確さには定評がある――1か月も経たないうちに、次の『バーサーク危険日』が到来すると言う予測が発表されて、大騒ぎになったよ。 今、上級魔法神官の若手たちが、グループごとに数日かけて慎重に計算検証をしているが、まぁ間違いは無いんだろうな。 過激派なみの熱血の神官たち《神龍の真のしもべ》グループは、『計算検証だけじゃ生ぬるい』と言ってるがな」

ユーリー司書は察し良く、うなづいた。 手には既に魔法の杖を構えており、『地獄耳』その他の盗聴魔法を防ぐための、ノイズ暗号を周辺に施している。それも図書館の静謐を保つためのホワイトノイズである。

「注目の占術方式ですね。現在の『バーサーク危険日』予測の的中率は、70%をレコードしているとか」

ユーリー司書は優秀な聞き役だ。女官同士のクチコミ・ネットワークを持っていて色々な話を聞き込んで来るし、 秘密とされた内容に関しては、口は堅い。セイジュ大神官は、深い溜息を付いて苦笑いをし、更にボヤいた。

「前回の『死兆星(トゥード)』の相より、『争乱星(ノワーズ)』の相の方が強く展開する見込みだ。 死亡率が低い割に、軍事作戦の成功率が上昇する。かの猛将ラエリアン卿が、この大奇襲のチャンスを逃す筈が無いからな」

ユーリー司書は訳知り顔で相槌を打ち、早速、聞き込んだ話を披露した。

「そして勿論、この重要情報は、ラエリアン卿に漏洩していますね。 昨日、1人の学生が怪しい通信をした直後、居なくなったそうですし。変装が達者な上に、逃げ足が素晴らしく速かったそうで……また忍者ですね。 神殿の『盾神官』が揃っていなければ、我々は既に『英雄公』ラエリアン卿の足元に、五体投地していましたね」

セイジュ大神官は、ちょっとの間、複雑な笑みを浮かべた――複雑な顔をする事しか出来なかったのだ。

ユーリー司書は、閃いた――と言った様子で、半透明のプレートを小脇に抱えながら立ち上がった。

「良さそうな書棚にご案内いたします、セイジュ大神官。政治交渉の事例集という訳には参りませんが、狙った内容には、かなり近いと思われます」

*****

――ユーリー司書は有能だった。

セイジュ大神官が案内されたのは、大陸公路の多種族の豪商たちの間で起きた、トラブル解決の事例をまとめた書棚である。 各地の大市場には、商売に有利となるホットスポットがあり、それを巡って、豪商たちの間で、 冒険者ギルドから雇い入れた用心棒――闇ギルドから派遣されたヤクザも含む――を使った私闘が多々発生する事があった。

「セイジュ大神官、こちらの棚が、諸王国の国境地帯に位置する大市場の事例をまとめた物です。 双方の法律が入り乱れて難しい交渉となった事例が揃っていますので、今回の案件の参考になるかも知れません」

セイジュ大神官は適当に本の内容を確認し、微笑んだ。――確かに、大いに参考になりそうだ。

「ユーリー嬢の着眼点の鋭さには、いつも感心させられるよ」

「恐れ入ります。では、ごゆっくり、どうぞ」

ユーリー司書は柔らかな空色の目に会心の笑みを浮かべて、静かに立ち去って行った。

*****

セイジュ大神官は、精読の候補に挙がった幾つかの資料を書棚から取り出すと、近くの読書コーナーに腰を下ろした。

特定の資料と、書棚の本来の位置との間が一定以上の距離になると、『位置情報魔法』を併用した盗難防止用の蔵書タグが、そっと稼働し始める。 隠密スタイルだから、ほとんどの一般人は気付きもしないのだが、流石に大神官としての魔法能力を持つセイジュにとっては、いつも「おッ」というくらいにはビックリさせられる現象だ。

結論から言えば、豪商の間で起きた数々のトラブル解決の模様は、読み物としても興味深い内容であった。

従来、神殿のトップ層は、『このような方針でやれ』『このような結果が望ましい』というような意見しか出して来なかった。 ほとんどの外交実務は王宮から派遣された文官の担当となっていたのだ。

神殿が直接に外交案件にタッチし始めたのは、王宮側と対立した結果、神殿が関わった案件については、神殿が片付けなければならなくなったからである。 流石にアカデミーが関わる案件が多いのだが、いざ、そうなってみると、神殿のトップ層の頭の古さが浮き彫りになって来たのが実情だ。

意外に自らが属する組織の問題点には、気付かない物だ。大神官長や特定の派閥を作っている高位の神官の間では、認識は浅いままだ。 しかし、セイジュ大神官のように特定の派閥に属さず、飄々と独立を保っている神官の間では、『王宮側の主張も、或る程度は納得できる』という認識が、ジワジワと広がって来ていた。

――セイジュ大神官が、読書に没頭していた頃――

大図書館の受付に戻って行くところだった『風のユーリー』司書は、背の高い男と行き逢い、男の問い合わせに対応していた。 いつものように半透明のプレートを魔法の杖でつつき、訳知り顔で回答する。

「セイジュ大神官でしたら、あちらの読書コーナーにいらっしゃるようです」

洗練されたファッションを身にまとった背の高い男は、軽くうなづくと、颯爽とした足取りで目的地に向かって歩き出した。

3-2付属カフェの午後

セイジュ大神官は書棚に戻り、次の資料を探している所であったが、その訓練された感覚は、背後に接近して来た人物の気配を、即座に捉えた。

振り返ると、そこにはセイジュ大神官の親友が居た。とは言え、その親友の性質を良く知るセイジュ大神官は、あからさまに額に手を当て、困惑の溜息を付いて見せるのみである。

――風のゴルディス卿。

洗練された長袍ファッションに身を包む、背の高い男だ。腰まで届く程のストレートの黒髪、銀色の目。

お忍び中らしく器用に気配を抑えているが、見る者が見れば、即座に大型竜体の竜人と知れる。 高身長に対して痩身の故か、中性的なまでに細く見える腰は、女性よりもいっそ妖艶である。

ゴルディス卿は、セイジュ大神官の胡散臭げな眼差しを、モデルさながらの完璧な微笑みで迎えた。 いつもながら、男ですら見惚れる程の美貌だ。その芸術的なまでに麗しい笑みは、危険なまでの誘惑パワーを持っていると言える。

「何で、いつも私を連行するんだ」

「貴殿が私との議論に付いて来れる第一人者だからだよ、セイジュ殿」

ゴルディス卿はセイジュ大神官の腰に手を回した。その仕草が色っぽく、セイジュ大神官は落ち着かない。

「そろそろ、ボーイズラブの噂が出かねないところだ。いい加減、控えてくれないか? ゴルディス卿」

ゴルディス卿はニヤリとした。壮絶な色気のある笑みだ。 中堅と言える年齢層に入ってなお、中性的な均整の美を失わない彫りの深い顔立ちだけに、接近されると、その迫力に圧倒されてしまう。 セイジュ大神官も顔立ちは悪くないのだが、ゴルディス卿の醸し出す妖怪的な美に比べると、やはり一般人の範疇に入るのだ。

――こやつ、本当に妖怪から生まれて来たんじゃ無いだろうな……

そんな失礼な事を、本気で検討し始めるセイジュ大神官であった。

ゴルディス卿は、大型竜体に生まれ付いた者ならではの信じがたいまでの怪力を発揮し、セイジュ大神官を大図書館の付属カフェに連行した。

カフェ入口のところでゴルディス卿は、殊更に色っぽい仕草で、幾分か背丈の低いセイジュ大神官のあごに手を触れた。 そして、ゴルディス卿はセイジュ大神官の耳元に、優しくキスをするかのように口を寄せた。

その「意味深な場面」に目を見張っていた、 大図書館の付属カフェの利用客の一部――お年ごろの女子会グループ(特定ジャンルの文芸サークルの方々)が何を思ったかは、此処では言わないでおこう。

「親愛なるセイジュ殿、我々の《宝珠》の適合率は80%ラインだ。我々が男と女の組み合わせだったら、 今ごろは《宿命の人》同士として、めでたく結婚していた筈だ。今宵は男同士で素敵な一夜を過ごしてみようじゃ無いか、フフフ」

セイジュ大神官は、すっかり苦り切っていた。

偶然ながらゴルディス卿とは、各種エーテル魔法陣の分析や鑑定を扱う学問分野の方で、長年、机を並べた同窓だ。 付き合いも長くなり、ゴルディス卿の性質については表も裏も熟知するようになって来たものの、セイジュ大神官は、いまだにこの男の言動に振り回されてばかりなのだ。

「ゴルディス卿が言うと、冗談も冗談に聞こえないんだ。人目のあるところで、なおさら誤解を招くような言動をするのは止めてくれたまえ。 貴殿の背中には真っ黒な翼が生えていると、私は確信しているよ」

「心外だな、セイジュ殿。私は《風霊相》生まれだから、純白の翼持ちなんだが」

「ゴルディス卿に関しては、私は本気で《宿命図》のお告げを疑っているんだ」

セイジュ大神官の強い主張により、窓際の端のテーブルでのティータイムになった。 初夏の季節に相応しい、軽やかな雰囲気の衝立で仕切られており、プライバシー保護のための軽いホワイトノイズ魔法も掛かっている。

――なお、セイジュ大神官は、重要な事実に気付いていなかったという事を述べておこう。 この「見えるようで見えない、見えないようで見える」という曖昧なシチュエーションは、下心タップリの観察者の脳内イメージを、余計に掻き立てるという結果になったのである。

「言っておくがゴルディス卿、《宝珠》の適合率は確かに最も決定的な基準なんだが、実際の恋人関係となると多様になるんだ。全てはプロセス、時間展開の積み重ねだよ」

ゴルディス卿は楽しそうな顔で、セイジュ大神官の議論に耳を傾けている。洗練された仕草でティーカップを手にしている様は、今すぐに宮廷社交界に放り込んでも違和感が無いレベルだ。

――そう言えば、こやつ、宮廷社交界の出身だった……

セイジュ大神官は理由の無い頭痛を感じながらも、『風のゴルディス卿』――王宮側、つまり敵側の分子にして、宮廷社交界の貴公子――が此処に居る理由について、改めて考えを巡らせた。

ゴルディス卿は、一言で言えば「変人」だ。その中性的な妖しいまでの美貌は、幼体の頃から、或る種の変態の異常な関心の対象になって来たと言う。 男性にしては長い髪は、竜体由来のドラゴン・パワーも関係があるが、宮廷画家(初老の男性)に命がけで「その美しい髪を切らないでくれ」と頼み込まれ――いや、脅迫されたのが主な理由である。

セイジュ大神官は、『変態こそ芸術の真髄』なる名言(にして妄言)を残したと言う、宮廷画家の想像上の首を、脳内でギリギリと締め上げた。 ゴルディス卿の優れた芸術的素養には感心させられるが、同時に、そのくだんの宮廷画家が、ゴルディス卿を「変人」に育て上げたのは確実なのだ。

宮廷社交界のかなり上の方で、ゴルディス卿が関わる色恋沙汰から発展した私闘があった。性別の詳細は言わないでおこう。 その事件の詳細は伏せられたものの、宮廷画家が一枚かんでいたのは確からしく、宮廷画家は『一身上の都合』により辞職。

程なくして始まった王宮と神殿の対立を幸いとしたのかどうか――両親および一族の決定により、アカデミー学生と言う名目の『連絡係』として、厄介払いも同然にゴルディス卿は此処に来た。

もっとも、王宮と神殿の話し合いは決裂し、竜王都争乱が続いている今、ゴルディス卿の『連絡係』としての存在意義は無くなっている訳だが……首脳部の対立が政界の暗闘レベルに留まっていた頃、 両親を含め一族にかなり犠牲者が出たので、ゴルディス卿が王宮側に戻る理由もまた、それ程あるという訳では無いのだ。

当時、まだ青年と言える程に若かった頃のゴルディス卿の心の奥に、何が去来したのかは、セイジュ大神官を含め、他人の知るところでは無い。

宮廷社交界よりは居心地が良いのか、ゴルディス卿は居座り続けている。

――その気になれば、大型竜体を持つ竜人の一人として、かの猛将ラエリアン卿と同じように、宮廷の重臣としての華々しい活躍も可能だろうに、 つくづく、欲の薄い「変人」だ。或いは、宮廷社交界の裏の歪みを散々見て来て、嫌になったのだろうか。

セイジュ大神官は少しの間、ラエリアン卿の鍛え抜かれた格闘家のような体格を思い浮かべた。 あやつが前線に竜体で出て来た場合は、50体以上の上級武官レベルの竜体を揃える必要があると聞く――

いずれにせよゴルディス卿が、「知の殿堂」たる大図書館を気に入っているのは確かだ。 ビックリするような額の寄付金を大図書館に出して来たという事、純粋な学究生活が続いているという事があり、神殿側は、ゴルディス卿の存在を黙認している状態である。

セイジュ大神官は、そっと親友の表情を窺い見た。想像以上に怜悧な頭脳の持ち主であるらしいが、時として硬質な光を宿してきらめく銀色の目は、その内心を容易には映し出して来ない。

改めて考えてみると、この男が、数奇かつ過酷な運命に翻弄されたのは確かなのだ。 だがゴルディス卿は、危うい政治的立場に追い込まれながらも、その高度な政治的判断力と巧みな政治的手腕を振るって、自分の居場所を獲得したのだ。そして今は、飄々としているように見える――

*****

セイジュ大神官とゴルディス卿のティータイムの会話は、いつしか、《宿命図》と《宝珠》の鑑定に関する専門的な議論になっていった。

――《宝珠》は竜人の《宿命図》の心臓部にある相である。 大陸公路の全種族のうちでも、特に一夫一妻制の習慣のある種族に共通する、特徴的なパーツだ(獣人ウルフ族は、《宝珠》を持つ種族である事が知られている)。

《宝珠》相は、特に「陰・陽の星」、つまり、より原初的な星々――光明星と暗黒星の群れで構成されているという点で、特異的である。 通常、我々が観測しうる空間において、ほぼ完全な真球となる配列をしており、この真球の中心点が、位相幾何的に「時軸」に一致している。 《宝珠》の相は、この「時軸」を中心としてスピンし、独特の恋愛運を紡ぎ出す。

厳密にいうと、《宿命図》や《宝珠》は、我々の通常の時空に存在する幾何学的構造体では無い。《宝珠》のスピンは、我々が思い描くような回転とは違う。 通常の時空での《宝珠》の1回転は、《宝珠》空間では表面と裏面が2交代しつつ回転するため、総合4回転になる。

数学的な意味での想像力の跳躍が必要になるが、話を分かりやすくするために、3次元立体の真球を2次元平面の真円と見立ててみよう。 すると、《宝珠》の原理は、白黒で塗り分けられた独楽だと考える事が出来るのだ。

白黒2色のみで塗り分けられた独楽が回転すると、その面に、見かけ上、多彩なカラーや模様パターンが現れたように見える。

《宝珠》も、また同じだ。《宝珠》が時軸の周りを独楽さながらに回転すると、光明星と暗黒星の群れが、その人ならではの、特徴的な彩りを生み出す。

「《宝珠》が適合する」「《宿命の人》同士」というのは、カップル候補となる2人の《宝珠》相を白黒で塗られた独楽と見立て、 時軸の上で2つの独楽がクルクル回転した場合に、光明星と暗黒星、つまり陰・陽の星々がバランス良く、 お互いに足りない色や形を上手く補い合っているかどうか――で、大枠が決まる。

言ってみれば、《宿命の人》同士が構成する二重の《宝珠》相は、絶妙な様相を保ちつつ、時の円舞曲を踊っているような物である。 人によっては、理想的な二重像を《花の影》と言ったりする。 勿論、各々のスピン速度、交差する角度、見かけ上の濃淡パターンや補色パターンの組み合わせなど、計算項目が多いので、《宝珠》占術は意外に難しい。

――そこまでの前提を確認し、ゴルディス卿は口を開いた。

「そもそも、その《宝珠》を回転させるには、《宿命図》が、命ある魔法陣として稼働していなければならない訳だ。 生命の根源たる《宿命図》を稼働させるのに必要なエーテル量というのは、計算できるだろうか?」

セイジュ大神官は笑みを浮かべた。窓の外では、まばゆい昼下がりの陽光が、緑濃い葉影の間で、キラキラと揺れている。

「それは難しい問題だな、ゴルディス卿。人工生命は深遠なる謎だよ。《宿命図》は、万物照応の因縁の糸――運命の軌道を紡ぎ出す魔法陣でもあるが、 あらゆる運命の軌道を動かすのに必要なエーテル量でさえ『宇宙的規模になるだろう』以外には分からない。これは計算の不可能性と言うか――不完全性定理の領域でもある」

ゴルディス卿は「ふむ」と満足げにうなづいてお茶を一服すると、更にツッコミを重ねた。

「とは言え、貴殿を含めて上級魔法神官の連中は、『上級占術』を使って、我々のような凡人の運命を、或る程度は左右しているのだろう」

「ゴルディス卿の場合は、凡人とは到底、言えないな」

セイジュ大神官はそう切り返しながらも、『上級占術』に関する指摘については、認めた。

「いわゆる健康運、恋愛運、金運については、『上級占術』で或る程度は動かせる。ただし、結果は個人の器によるところが大きいんだ。成就祈願(オマジナイ)と変わらないよ」

セイジュ大神官は、数年前『上級占術・匿名相談コーナー』で、恋愛相談に乗っていた事を説明した。

「とある男女カップルは、《宝珠》適合率が50%ラインでね。親友フェーズから恋人フェーズへのシフトを相談しに来た。 交際の実績次第では適合率80%くらいまでは行く可能性が見込めたから、恋愛運を強化しておいた事がある。順調に行けば、今ごろは婚約を考えている頃合いの筈だ。順調に行けば、な」

ゴルディス卿は、無言で眉を跳ね上げた。セイジュ大神官は、それが疑問のサインである事を熟知していた。

「星々の配置は必ずしも確定的な物では無いんだ。ドラマチックな恋愛を成就させるためには、時の試練による個人の成長は必須だよ、当たり前だろう」

「貴殿は顔に似合わずロマンチストだな、セイジュ殿」

セイジュ大神官は、からかい半分の含み笑いを返してやった後、お茶を一服した。

一見、皮肉屋そのもののゴルディス卿にしても、竜人に生まれ付いた者の常として、唯一の《宿命の人》を求めているのだ(対象となる性別については、個人次第だから何とも言えないが)。 大型竜体の方が数が少ない分、その辺りの感覚は鋭敏になりやすい。

「まあ何だ、《宿命の人》だろうが何だろうが、ちゃんと出逢って、告白と交際から始めない事には、何も始まらんな」

セイジュ大神官は一旦そう切り上げると、ゴルディス卿と共に、仕切りの方を振り向いた。

「盗み聞きの技術を教えた覚えは無いんだが、エレン君」

セイジュ大神官は驚きもせず、仕切りの脇に向かって、呆れた――といった調子で声を掛けた。

その仕切りの脇では、セイジュ大神官やゴルディス卿と比べて少し若い――ユーリー司書と同じくらいの――世代に属する《風》の上級魔法神官の男が、セルフサービスの茶を手に持って微笑んでいた。 やや淡いアッシュグリーンの髪をうなじの下で1つにまとめた平凡な姿である。どちらかと言えば繊細な顔立ちで、透明感のある琥珀色の目が印象的だ。

「ユーリー司書が、セイジュ師匠がゴルディス卿に連行されて監禁されたと教えてくれたんですよ」

「連行し監禁したとは人聞きの悪い」

ゴルディス卿はそう言いながらも、面白そうにニヤリと笑みを浮かべた。余りの椅子を、年若いエレン神官に示し、歓迎の意を表す。

「ユーリー司書は神出鬼没だな。必要な時に必要な場所に、何故かいつも居て、まるで待ち構えていたかのように、必要な情報をポケットの中から出して来る――何でも無い事のように」

「彼女くらい守備範囲の広い司書は、貴重ですよ。何で事情通なのか分からないけど、女官同士のクチコミの伝搬力って、そんなに凄いんでしょうか」

エレン神官は、ひとしきりユーリー司書の能力に感心した後、自分で椅子を引いて来て、そっと腰を下ろした。

セイジュ大神官もまた、ユーリー司書の情報の早さに感心する1人だ。

「ストリートに出る不審者の情報などは、女性にとっては夜間の安全に直結するから、通常の物理法則を出し抜いて光よりも早く伝わるのかも知れん。 1日前、1人の学生が怪しい通信をした後、見事な逃げ足を披露して、いきなり姿を消したそうだ。後で警備担当に確認してみるが、ほぼ忍者(スパイ)で決まりだろうな」

エレン神官は唖然として、「知りませんでしたよ」と、口をポカンと開けるのみであった。

*****

「問題の、その成就祈願(オマジナイ)とやらについて、私は深刻な疑惑を抱いているんだが」

ゴルディス卿は話題を戻して、茶を飲み干した。茶は、もう既にぬるくなっていたのだが、さほど気に留めていない様子である。

一番若いエレン神官が気を利かせ、セルフサービスのカウンターから新しいティーポットを取って来て、セイジュ大神官とゴルディス卿の茶を淹れ直した。

ゴルディス卿は軽く一礼してティーカップを手に取ると、卓上から香料セットを選び、目分量で好みのフレーバーを追加した。 やはり宮廷社交界の出身と言うべきか、上品かつ芸術的な香り付けとなっている。恐るべき複雑な調合を涼しい顔でやってのけた男は、言葉を続けた。

「逆もまた真なりだ。私は、こう思っている。成就祈願(オマジナイ)の影響力が、実際に或る程度の影響力を持つならば、 それを逆用する事も出来るのでは無いか――とな。そう……破局に到る『呪い』として」

セイジュ大神官とエレン神官は、同時にギョッとしたような顔になった。虚を突かれた形だ。

ゴルディス卿は、持ち前の観察力で2人の表情の変化をシッカリと読み取ったのであろう、銀色の目を鋭く光らせた。

まるで凍て付いたナイフのようだ――大型竜体ならではの威圧に満ちた眼差しは、セイジュ大神官とエレン神官の腰を、魔法のように椅子に縫い付けた。2人は無言のまま、身動きできない。

ゴルディス卿は、ベルトからペン程の大きさに縮めていた魔法の杖を取り出すと、ペンのようにクルリと指先で回しただけで、その場に緻密な防音魔法陣を展開した。

――隠密レベルの魔法陣だ。本来は白く輝くであろう魔法陣のラインは、無色透明な不可視のラインと化している。 《風》魔法に関しては、風のゴルディス卿はいつの間にか、上級魔法神官なみの腕前に達していた。

「健康運の強化が、生命線の増強に直結するのなら――その生命線を断つとされる大凶星《死兆星(トゥード)》の呪いが、有り得る。 大凶星《争乱星(ノワーズ)》の呪いも、同じく有り得るのだろう……バーサーク化の呪いとして」

エレン神官が、うろたえた顔でセイジュ大神官を振り向く。セイジュ大神官は苦い顔だ。

「何をどう考えれば、そんな考えが湧いて来るんだ? ゴルディス卿」

「フフン……」

ゴルディス卿は、鼻先で笑って見せた。妖怪的な美を湛えた面差しだけに、いっそう迫力がある。口元には薄い笑みを浮かべているが、鋭い銀色の目は、笑っていない。

窓の外では、穏やかな青空のもと、昼下がりのまばゆい陽光が踊っていたが、その場だけ、急に氷点下の光景になったようだった。

「ライアス神官とエルメス神官の開発した新しい占術方式は、『バーサーク危険日』予測に対して、安定して70%の的中率を達成したと言うでは無いか。 平均50%の的中率が続いたのであれば、偶然の範囲で収まるだろう。 だが、70%の的中率が3回以上も繰り返された――しかも、80%の的中率を射程範囲に収めた――となると、何らかの根拠があると考えなければならない」

そこでゴルディス卿は一息つくと、ティーカップを手に取り、優雅に一服した。

「かの猛将ラエリアン卿は、自他ともに認める『筋肉脳』だが、英明なる現在の竜王の、側近中の側近と言われるだけの能力はある。 タダの『ごり押しバカ』だと侮っていると、いずれ痛い目を見るのは神殿のトップ連中だ。 竜王の指示か、ラエリアン自身の決定かはともかくとして、彼らがこれ程までにスパイ活動に力を入れているのは、 『バーサーク危険日』予測の恐るべき的中率と、それがもたらす可能性に既に感づいているからだ、分かっているだろう」

セイジュ大神官は目を細めた。思慮深そうな黒緑色の目には、警戒心が浮かんでいる。

「言っておくがゴルディス卿、ふざけた陰謀論は止めてくれたまえ。そもそも、今の竜王都争乱は、我々神殿の側が仕掛けた物では無いんだ。 『禁断のバーサーク化魔法』の開発のために、上級魔法神官が紛争を目論んだのでは無いかとの巷の噂は、根拠の無い代物だ」

ゴルディス卿は、銀色の目を刃物のように閃かせ、間を置かずに鋭く切り返した。

「そうだろうとも。内乱の長期化による我が竜王国の弱体化を喜ぶ竜人は居ない――仮想敵国の鼻薬を嗅がされて思考停止した連中か、 善良な竜人を装って『ふざけた陰謀論』を振りまいた闇ギルドの者でも無い限りな。 だがセイジュ殿、こういう『ふざけた陰謀論』であっても、案外、真実を射抜いているという可能性は、有り得るのだ」

ゴルディス卿は更に、『バーサーク危険日』では無い日にバーサーク竜が発生したと言う、ここ最近の事件を持ち出した。

「問題の武官のバーサーク化には、異常に強い――不自然なまでの強さの――《争乱星(ノワーズ)》が関わっていたそうだが、 その《争乱星(ノワーズ)》が、果たして本当に天然の物だったのかどうか、疑わしい所だな。 ウラニア女医は優秀な女医だが、隠し事が多過ぎる。何なんだ、あの完膚なきまでに黒塗りされた医療報告書は」

ゴルディス卿の目には、深い不信の念が宿っている。

セイジュ大神官は、呆れた――と言ったように首を振った。

エレン神官は、年長の2人の丁々発止に圧倒されたまま、無言を続けている。

「疑い深すぎるのはゴルディス卿の短所と言うべきか、長所と言うべきか……」

鋭い銀色の眼差しを避けるような形で、セイジュ大神官は眉間を揉み始める。ひとつ溜息をついた後、セイジュ大神官は、ゴルディス卿を説得するかのように、強い調子で続けた。

「確かに、あの報告書は黒塗りが多かったが、記述があっただろう、『先天性の《争乱星(ノワーズ)》』だったと。 《宿命の人》たる伴侶が、今までバーサーク化を押し留めていた――《宝珠》は《宿命図》の心臓部だから、その影響力は決定的だ。ウラニア女医は虚偽報告はしない。 彼女は、その辺りは極めて厳格な人だ」

ゴルディス卿は目を細めた。相変わらず目は笑っていない。どうだかな――と言わんばかりだ。

「ウラニア女医の厳格さについては、今のところは同意しよう。だがな、セイジュ殿……」

ゴルディス卿は、そこで深い溜息を付いた。銀色の目から、大型竜体ならではの威圧感が消えた。代わりに憂いの表情が浮かぶ。 常にハッキリとモノを言うこの男にしては珍しく、暫し口ごもっていた。

ゴルディス卿は若葉が揺れる窓を見やると、誰に言うとも無く呟く――

「――権力は腐敗する、絶対的権力は絶対に腐敗する――超古代の書物に残されていた、古い箴言が引っ掛かる。神殿は、果たして、このままで良いのか否か……」

その呟きに反応したのは、エレン神官であった。

「新しい占術方式の開発とか、神殿のやり方には、問題があるという事ですか?」

「全般的にな。やり方――と言うよりも、その権力の在り方、と言った方が正確だが。 頭のイカれた神殿内部の過激派《神龍の真のしもべ》グループの、狂信的な自民族中心主義者(エスノセントリズム)の如き言動が、神官の全員に伝染しないと、言えるのか?」

ゴルディス卿の眼差しは、見えない何かを見通そうとでもするかのように、窓の外を射抜いている。

「そもそも、神殿の聖所に住まうとされる絶対不可侵の象徴――《神龍》とは何だ? 何重もの秘密の扉の奥にある、 そのような調べようもない代物が、真実、神であり権力の根源だと言うのか? かくも迷信そのものの《神龍》の何が、 大神官長の面々だけで無く、神殿の《盾神官》たちをして、全力を挙げて守護するに値する――と、決心させるのだ?」

エレン神官は、その繊細な琥珀色の目に狼狽を浮かべていた。無言のまま、ゴルディス卿の横顔に琥珀色の眼差しを注ぐのみである。

ゴルディス卿は、まだ明確な焦点となる物を見い出していないのか、その視線の先は、窓の外の何処かをそぞろに移り続けている。

セイジュ大神官もまた、心の奥底に違和感を抱き始めた1人だ。だが、まだ答えは無い――

*****

ゴルディス卿はティータイム席の窓を通して、暫し外を眺めていたが、やがて面白そうな顔になった。 ゴルディス卿は、大型竜体の竜人ならではの卓越した視力をもって、大図書館の付属カフェを取り巻く庭園の樹木の間に、複数の人影を見い出したのである。

「目下の注目の人材が、活躍中だな」

セイジュ大神官とエレン神官も、ゴルディス卿の視線の先を注目する。

カフェ庭園の庭木の間を歩いていたのは、3人だ。

先頭を行くのは、中高年と言って良い世代の《水》の上級魔法神官だ。頭の半分以上は白髪だが、にじみ出る威厳があり、足取りも確かである。 その神官服の裾には、上級魔法神官の服には無い大きな縁取りパーツがある――神殿トップの4人のうち1人、《水》の大神官長なのだ。

その脇には、《地》の下級魔法神官の制服をまとった若い女性が控えている。濃紺の目をした相当の美人だ。 見るからに、先頭を行く《水》の大神官長の秘書を務めているのであろうと予想できる。

一番後ろに居て、《水》の大神官長の話に応じているのは、《水》の上級魔法神官の制服をまとった若い男だ。 遠目にも目立つ眉目秀麗な容貌で、濃い水色の目が印象的である。

「セイジュ師匠、あの方は《水》の大神官長ミローシュですね。脇に居る若い女性は、ミローシュ殿の令嬢の……地のティベリア嬢。 ここ最近、《水》の大神官長の直属の秘書として、神殿に勤め始めたとか……」

弟子エレン神官の指摘にセイジュ大神官はうなづき、最後を行く若い男をしげしげと眺めた。

「最後の男の方は、前の会議で良い提案をして来た彼だな。水のロドミール……」

ゴルディス卿は無言のまま、ニヤリと笑みを浮かべ、窓を少し開けた。ペン程の大きさの魔法の杖をクルリと回すと、微かな風の流れに乗って、3人の会話が届いて来るようになった。

――《水》の大神官長ミローシュは、誰かに内容を聞かれているとは全く気付いていない様子で、最後尾を付いて来るロドミールに声を掛けている。

「ロドミール君、わざわざ付いて来てもらったのは他でも無い。この前の『竜王との和議』に関する提案の件で、改めて評価したかったからだよ。 時期が悪くてあのような結果になったが、実際は我々、大神官レベルでは、ロドミール君の案には随分、考えさせられている」

ロドミールは穏やかに微笑み、「恐れ入ります」と一礼した。ロドミールの身のこなしは洗練された物で、ティベリア嬢は感心の眼差しを向けている。

「今はまだ若すぎるが――ロドミール君、その豊富な国際経験は貴重なものだ。順調に実績を積んで行ってくれたまえ。そう遠くない将来、私の名で大神官に推薦したいと思っている」

ロドミールは、まさか此処まで自分が高く評価されるとは思っていなかったのであろう、無言で目を見開いていた。暫し呆然とした後、慌てて再び一礼すると言う有り様である。

ミローシュ大神官長は足を止めて、若者の様子を微笑ましく眺めた後、「さて」と、おもむろに口を開いた。

「今日はもう一つ、大事な話があるのだが……詳しくは、私のカフェルームで話そう」

ミローシュ大神官長は、ユーモアたっぷりに話のさわりを明かしてロドミールを仰天させ、「驚いただろう?」などと、からかっている。若者いじりは、年寄りの楽しみだったりするのである。

そして男女3人は、庭木の奥へと歩み去った。そこには、大神官長向けの、専用のカフェルームがあるのだ――

エレン神官は目を丸くして、ゴルディス卿の方を見やった。隙を突いた形になったとは言え、大神官長にさえ気づかれない程の隠密レベルの《風魔法》と言うのは、大したものだと言える。

「……『地獄耳』魔法ですか。これはまた……」

ゴルディス卿は、人の悪い笑みを浮かべた。盗み聞きした事に対して、良心の呵責を全く覚えていないのだ。

「期待の若手を大神官に抜擢とは、ミローシュ猊下も見る目があるじゃ無いか」

ゴルディス卿の批評には、いつもの3倍以上の皮肉が満載されている。セイジュ大神官は、ヤレヤレと言ったように首を振るばかりであった。

3-3聴け、つねならぬ鐘鳴りいでぬ

3日間が過ぎ、更に念のための日程を過ぎて、エメラルドから青い円盤装置が外された。

入院してから、既に1週間ほど経っている。バーサーク毒は、想像以上に身体に疲労を与えていた。 最初のうちは入浴しただけでもグッタリと疲れ果て、夜は夢も見ない程に深く寝入ったものであったが、 食事が通常の物になって来ると同時に筋肉量も回復して来たのか、重量のある長持も動かせるようになって来た。

女性スタッフと共に往診に来た《地》のウラニア女医は、エメラルドの2度目の精密検査の結果を一通りチェックし、いつものように、いかめしい表情を向けて来た。

エメラルドは、ウラニア女医の表情の変化については何となくパターンを承知し始めていた物の、やはり、その一瞬は思わずギョッとした物であった。

「エメラルド隊士、結論としては、意外に被害が少なかったと言えそうですよ。前回の検査結果を踏まえて今回の検査結果を見る限りでは、バーサーク化のリスクは抑え込めましたから、 新たなリスク要因が増えない限りは、恐らく大丈夫でしょう。傷の塞がり具合も良好ですし、近場を歩き回る程度であれば、許容範囲ですね」

ウラニア女医はテキパキと必要事項を告げると、やはり、いつものようにエメラルドの個室を速やかに出て行った。

後を任された女性スタッフ――もはや顔なじみと言って良い、いつもの食事係――が、「良かったですね」と言いながら、青い円盤装置を運搬ボックスの中に箱詰めした。 箱詰めが終わると、女性スタッフはベルトに下げていた半透明のプレートを取り出し、内容を確かめつつ説明を始めた。

「今後は、退院までの間、私が治療師(ヒーラー)と食事係を務めますので、宜しくお願いしますね。まず最初にですね、次の『バーサーク危険日』が1ヶ月も経たずに来る事が分かってます」

エメラルドは思わず息を呑んだ。

「すごく間が詰まっているような気がするけど。前は3ヶ月とか半年ぐらいのペースだったのでは?」

「ええ、当たり年っていうか、当たり月っぽい感じですよね」

女性スタッフは、困ったように眉根を寄せて微笑んだ。

「ウラニア女医の見立てでは、エメラルド隊士の《宿命図》の状況が、その時までに安定するかどうかというのが分からないので、念のため拘束具を用意するとの事です。 残留してしまった分のバーサーク毒が、新しい星々の相として、1ヶ月くらいで《宿命図》に定着するんですけど、エメラルド隊士の《宿命図》は、まだグラグラしてますから」

エメラルドは少しの間、首を傾げた。

「よく分からないけど《宿命図》ってグラグラしたりする物なの?」

「えぇまぁ、この青い円盤装置の副作用ですね。《宿命図》エーテル循環を限界近くまで加速してますから。バーサーク毒を急速排出できる代わりに、《宿命図》をえらい勢いで揺さぶってしまうんですよ」

「考えてみると、納得できるような気がするかも……」

エメラルドは武官としての訓練コースの一環で、流れの早い川に飛び込んで、その水の流れに翻弄された事を思い出した。 あの時も、目が回ったり、身体の感覚が落ち着かなかったりして、川から上がった後も暫くの間、他の訓練仲間と共に、地面にへたり込んでいた物だ。

「ウラニア女医の今回の見立ては、後ほど神殿隊士の部門に報告しますので、退院直後の任務は、前線では無い何処かという事になると思います。後日、辞令が届くと思いますけど」

女性スタッフは説明を終えると、満面の笑みを浮かべ、半透明のプレートに挟み込んでいた封書を取り出した。

「エメラルド隊士宛ての封書です。これは、ボーナス入ってますね!」

エメラルドは封書を受け取り、早速開封した。

女性スタッフの予想通り、バーサーク竜を取り押さえた件に関する褒賞金が書面に記されていた。今回の対象が母子だった事もあり、少し上乗せされた金額となっている。 書面の中央にエメラルドの魔法署名で有効になる金融魔法陣がセットされてあり、これを動かして金額情報を魔法の杖に移行すれば、受け取りは完了だ。 確かに授受が成立した事を保証する立会人は、女性スタッフである。

そして、見慣れない書状が同封されていた。複雑な縁取りパターンが施された、高級な書状だ。

――この度、4大神官長の連名において、1体のみでバーサーク竜1体を取り押さえたという実績を評価し、『剣舞姫(けんばいき)』の称号を授与する。授与式の日程は追って通知する――

エメラルドの読み上げを聞いていた女性スタッフが目を丸くした。

「すっごいじゃ無いですか! 士爵クラス認定に次ぐ名誉ですよ! この授与式って、4人の大神官長から直接、祝福を受けるんですよね。新しい近衛兵の叙任式の時みたいな感じで」

*****

その日は、更に嬉しい事があった。

昼食になる少し前、恋人のロドミールが入院中のエメラルドのお見舞いに来たのだ。上級魔法神官ともなると諸般多忙が日常であり、神殿に何日も詰めているのが普通だ。

ロドミールは、エメラルドが包帯だらけの身体でストレッチをしているのを見て、最初はギョッとしたような顔になったものの、すぐに濃い水色の目を嬉しそうにきらめかせた。

「思ったより元気そうでホッとしたよ」

「上級魔法神官が扱う『上級占術』って凄いのね。さっき、傷の塞がり具合も良いと言われて……ロドミールが『健康運』の項目の強化をしてくれたお蔭だと思うわ」

ロドミールとエメラルドは、いつものように頬に親愛の口づけを交わした。 ロドミールが、簡易ベンチに早変わりした長持に腰を下ろすと、エメラルドは早速、長持から取り出していた野営用ティーセットで、ささやかなお茶を淹れた。

「あのね、今日、ビックリするような書状が来たの。見て」

エメラルドは、先ほど来た『剣舞姫(けんばいき)』称号授与の書状をロドミールに見せた。ロドミールは惚れ惚れした様子で書状に見入った後、エメラルドに心配そうな眼差しを向けて微笑んだ。

「4大神官長の連名か……今は無理できないから、体力の回復次第だね。ストレッチも良いけど、ゆっくり療養しろよ」

ロドミールは複雑な笑みを浮かべていた。エメラルドが危険に身をさらす事を本分とする職業に就いている事で、恋人としては心配の種が尽きないのだ。 エメラルドとしては、「心配かけてごめんなさい」としか言いようが無い。

お茶を一服したロドミールは、ふと思いついた様子でエメラルドを見直した。

「確か、バーサーク毒が少しでも残留していると、《宿命図》の星々の相が微妙に変化するんだよ。また《宿命図》をチェックさせてもらって良いかな?」

「ええ」

以前のように、ロドミールはエメラルドの片手を取った。エメラルドの手相を読むような格好で、丁寧に《宿命図》を透視して行く。 ロドミールがもう一方の手に持っている魔法の杖の先端部が、やはり神秘的な青い光をまとい始めた。

通常の《四大》エーテル魔法を発動している時のようなシッカリした光では無く、向こうが透けて見えるような透明な光だ。 そして、ロウソクの炎のようにチラチラと揺らめいたり、ボンヤリとした光輪がユラユラと現れたり消えたりする。

――こうして見ると、透視魔法を使っている時の光は、不思議な感じがする……

エメラルドは、その妙に心惹かれる有り様を、じっと眺めていた。この光は青いけれども、ラベンダー色であれば、あの《暁星(エオス)》が、最後の一瞬の中を揺らめいているような感じかも知れない。

やがて、ロドミールは戸惑ったように息を呑み、顔を上げて来た。

「エメラルド、《宿命図》の相が少し不安定なんだけど、それについては何か言われなかったか?」

エメラルドは少し首を傾げた後、すぐにピンと来た。――女性スタッフが、そういう事を説明していた。

「ああ……あの青い円盤装置の副作用みたい。限界近くまでエーテル流束を加速したから、そのせいでグラグラしてるって説明を受けたの。 次の『バーサーク危険日』までに《宿命図》が安定するかどうか分からないから、念のため拘束具を着けておく事になるみたい。知らない事って一杯ある物なのね」

ロドミールは、はたと気が付いたように「あぁ、そうだった」と言いながら頭に手をやった。どうやら、他にも考える事で頭が一杯で、失念していたらしい。

「出張から戻ったら戻ったで、忙しいんじゃ無い? ロドミールこそ、無理はダメよ」

「私は大丈夫だよ。忘れてないかな、エメラルドは今、重傷者の筈なんだが」

エメラルドは、思わず吹き出し笑いをした。――と。不意に真昼の鐘の音が耳に飛び込んで来た。

「もう真昼の刻ね。ロドミールは昼食は、まだ?」

「まだなんだけどね。この後、すぐ用件があるから、また出掛けないと」

ロドミールは暫しエメラルドの髪を触れた後、「じゃ、また後でね」と言い残して、個室を出て行った。

――カシャン。

まだ続いている真昼時の鐘の音の中、エメラルドの耳は、聞き慣れない物音を捉えた。

(長持から、何かが落ちた……?)

エメラルドは野営ティーセットを片付けた後、長持の周りを調べ始めた。物音の正体は、すぐに見つかった。ロドミールの落とし物だ――エメラルドは、それを拾い上げた。

神殿の一角にある『上級占術・匿名相談コーナー』の割当チケット――「未使用」。

割当チケットを眺めているうちに、エメラルドの脳内に、数年前の記憶がよみがえった。 交際期間が長くなり、そろそろ《宝珠》適合率を見てもらおうという事で、当時はまだ下級魔法神官だったロドミールと一緒に、恋愛相談に行った時の記憶だ。

(確か、ロドミールとの《宝珠》適合率は50%――親友ラインだったけど、じっくり考えて交際すれば、80%まで適合していく筈だから、大丈夫だろう、と言われたんだった……)

いずれにせよ「未使用」チケットだ。割り当てられた日時は、2週間後の午後の刻となっている。倍率が高いから、入手するのは意外に大変な筈だ。 ロドミールの物か、ロドミールに預けた他人の物かはともかく、「大事な忘れ物ですよ」という一報は入れておくべきだろう。

――それに……と、エメラルドは思案した。リハビリがてら、その辺を歩き回れるのだ。エメラルドの脳内には、セレンディと赤ちゃんドラゴンのファレル君の顔が思い浮かんだのであった。

3-4親と子と身の上話と

エメラルドは長持の中を改めた。

普段から武官服を身に着けていたから、街着は少ない。衣服収納スペースの一番底には、高級レストランでのデートのための華やかな一張羅を仕舞い込んである。 もう季節が違うから、今回の褒賞金を使って、これを新調するのも良いかも知れない。

エメラルドはVネックの患者服から街着に着替えた。よそ行き用の襟の高いグレーベージュ色の上衣(アオザイ)に緑褐色のズボンという、アッサリとした格好だ。 ちなみに、梯子を上り下りしたり、転移魔法陣からの突風に吹き上げられたり、といった事が多いので、男女の別なくパンツスタイルが基本で、様々な重ね着でお洒落するのが普通である。

エメラルドは、いつものように魔法の杖を携えて個室を出た。

医療院の一角に、通信室として特に仕切られた長い部屋があり、そこには、長い机に乗せられた遠隔通信セットが20セット並ぶ。

遠隔通信セット――腕一杯に抱えるくらいの大きさの正六面体だ。かなり大振りな装置と言って良く、その中の空間には、 素人には良く分からない、遠隔通信のための複雑なシステムが収まっているのだ。

正六面体をグルリと巡る四つの面は《四大》に応じた四色で塗り分けられており、上下の面はペリドット色。 六つの面全てに、《風》のシンボルを各所に使った銀白色の特殊な魔法陣がセットされているのが、光の反射でキラキラして見える。下の面は見えないが。

正六面体の上には、正六面体と同じくらいの大きさの、大天球儀(アストラルシア)を縮小したような球体細工が乗っている。 これが遠隔通信のためのアンテナであり、魔法の杖でつついて接続先につなぎ、コールする事が出来るのだ。

遠隔通信セットを魔法の杖で起動し、神殿の持ち場に戻ったであろうロドミール宛に、先方の執務室にもある筈の遠隔通信装置にコールを飛ばしてみるが、 意外な事に「不通」である。そのままコールを続けていると、同じ持ち場に居るロドミールの同僚が返信して来た。

『――水のロドミール殿は現在、遠方出張中。帰還次第、一報入れます』

確か、ロドミールは、「用件」と言っていなかったか。それに、「また後でね」とも。それが遠方出張に変わったのだろうか――

エメラルドは幾何学的工芸品めいた球体のアンテナを眺めているうちに、微かな違和感を覚えた。 しかし、武官が急に出向先を変える事は普通にあったし(エメラルドがバーサーク捕獲作戦に急行したのも同じ理屈だ)、 上級魔法神官もそんな物なのだろうと納得する事にした。

*****

エメラルドは、セレンディとファレルが入っている個室を訪れた。

セレンディとファレルが入っている個室は、エメラルドが入っている個室とは余り離れていないが、エメラルドの個室とは違って、竜体解除の魔法陣が床一面に描かれて稼働中である。 上級魔法神官が手を入れたのであろう、不可視ではあるが、バーサーク化した場合に反応する数種類の《監視》魔法が掛かっている――と言う気配も感じられた。

エメラルドより早く回復していたセレンディは、流石に街着姿である。 基本のパンツスタイルは医療院から提供されている品だが、その上にセレンディ自身の好みであるらしい、カラシ色の型染めの入った、ゆったりとした淡灰色の上衣(アオザイ)をまとっている。 医療院の中には衣類など生活雑貨を扱う店舗が入っており、一通りの物は揃うようになっているのだ。

赤ちゃんドラゴンのファレル君は、孵化直後より一回り成長していた。 エメラルドが医療院付属のお店で買って来た、オモチャの蹴鞠を気に入った様子で、セットで付いて来たゴール用の網ポケットの中に鞠を蹴り入れようと奮闘し始めた。

個室に備え付けられたささやかなテーブルで、少し遅めのランチを取りつつ、エメラルドとセレンディは、積もる話に興じた。 最近の話題が尽きると、自然に出自や来歴の話になるものである。

「エメラルドは何処の出身なの? 髪に色ムラがあるから、エーテルの季節変動の大きい地域……辺境の出身っぽい印象があるけど」

「それが余りハッキリしなくて。私自身は、大陸公路の公路警備隊が詰めている転移基地の駐在所で育って――周りの大人がほぼ武官だったので、自然に私も武官になったという感じで……」

不思議そうな顔をしたセレンディに、エメラルドは補足を付け加えた。

――元々エメラルドの両親は、数人規模の竜人隊商のメンバーだった――らしい。「らしい」と言うのは、両親が誰なのかハッキリしないからだ。

エメラルドの両親が働いていたと思しき、その竜人隊商は、大陸公路の難所で、魔物の大群に襲われて全滅している。 救難信号を受けた最寄りの公路警備隊が到着した時には既に遅く、ほぼ全員が海綿状の魔物に徹底的に消化された後で、 鱗の藻屑と化していた。そして、クラウン・トカゲの優秀な鼻が、石ころに紛れて転がっていた竜人の白い卵――中には、エメラルドが居た――を発見したのだ。

セレンディは思案深げに相槌を打ち、改めてエメラルドの顔にじっと見入って来た。

「父親か母親のどちらかが……ロゼワイン色の目をしていたかも知れないわね」

「……?」

セレンディは薄い金色の目に笑みを浮かべた。

「目の色は、両親の色を受け継ぐパターンが多いから。エメラルドに名付け親を頼んで良かったわ。あのね、そのロゼワイン色、私の夫と似たような色合いなのよ。 エメラルドの目の方が、少し青みがあって紫っぽいけど」

――成る程。直感にも理由があった訳だ。エメラルドは少し納得したのであった。

セレンディは未亡人だ――と言うよりは、未亡人になって間も無いのだ。 夫は《火霊相》生まれの竜人で、近くの街区で魔法道具のオーダーメイドを手掛ける魔法職人(アルチザン)であったが、 前回の『バーサーク危険日』の折、バーサーク空爆に巻き込まれて横死したと言う。

「ここ最近、バーサーク竜が関わる災厄が不自然に増えているでしょう。ラエリアン卿が仕掛けてるのも勿論あるけど、それだけでは説明が付かない。 王宮関係者の中では、かなり多くの人が神殿に疑いを抱いているの」

セレンディは続けて、王宮側で急速に広がっている『疑惑』を説明した。

前回と前々回の『バーサーク危険日』の際は余りにも被害の拡大が早く、死亡者数が急増していた。 火の回りの不自然な早さ、城壁の不自然な弱体化、魔物がパワーアップして乱入して来るタイミング――神殿側が、 何らかの未知の魔法を発動して、不自然な後押しをしているのでは無いかと疑えるレベルだったと言う。

エメラルドは愕然とするばかりだった。神殿側でも大変な思いをしてバーサーク竜を鎮圧していたが、王宮側の方で、それ程に不自然な事態が起きていたとは思わなかったのだ。

不審に思った魔法使いが、《神祇占術》の心得のあるメンバーから成る特別調査チームを作り、被害の大きかった街区一帯の住民の《宿命図》を調べた。 その結果、不自然なまでの《死兆星(トゥード)》の一斉同時多発の痕跡が確認できたと言う。

ちなみに、セレンディの夫の《宿命図》にも、一斉同時多発のタイミングで《死兆星(トゥード)》の相がスタンプされていた。

――1回目の一斉同時多発《死兆星(トゥード)》の相は、王宮エリアの直下、二階層下の街区の一角を中心に広がっていた。

――2回目の一斉同時多発《死兆星(トゥード)》の相は、王宮エリア攻略ルート上にある一階層下の街区メインストリートの中央広場を中心に広がっていた。

1回目の《死兆星(トゥード)》爆心地は偶然だろう。2回目の《死兆星(トゥード)》爆心地も、ギリギリ偶然かも知れない。 それでも、爆心地が王宮エリアに接近して来ている――その不気味な事実は、竜王の顔を青ざめさせ、王宮関係者に抜きがたい疑惑と危機感を抱かせるには、充分すぎる要素だった。

――ラエリアン卿いわく。

――神殿は、腐敗しきっている。今や神殿のトップ層は、『バーサーク化魔法』どころか、 更に上を行く禁断のエーテル魔法『死の呪い』に手を染め、何度殺しても飽き足らないレベルの罪を重ねている。 かくなる上は、もはや容赦なく、大神官長から大神官から、下級魔法神官に至るまで、全員を誅殺すべし!――

エメラルドは、言うべき言葉が見つからなかった。エメラルドは無言のまま、眉根を寄せ、何か反証になるような物はあっただろうか――と思案を巡らせる他に無かった。

セレンディは、足元にポンポンと転がって来た蹴鞠をヒョイと止めた。 蹴鞠を追ってトテトテと走って来た、淡いオリーブ・グリーン色の赤ちゃんドラゴンを抱き上げると、膝の上に乗せて撫で回す。 ファレルは母親の膝の上で気持ち良くなったのか、つぶらな金色の目をウットリと閉じて「クルクル」と喉を鳴らし始めた。

「戦争って良くないわね。武官として生計を立てて来た身で言うのも、アレだけど。 あのように激昂して怒鳴っていたラエリアン卿の方が、実際のバーサーク竜よりも余程、本物のバーサーク竜みたいに見えたわ」

セレンディは長く深い溜息をつくと、エメラルドの方を振り向いて苦笑いを漏らした。

「――真実のためというよりは、証拠の無い疑惑や、証明できない迷信のために、人は争うものなのかも知れないわね」

*****

その後、エメラルドは暫く、赤ちゃんドラゴンの蹴鞠の遊び相手を務めた。遊び疲れたファレルがお昼寝を始めたのを確認した後、エメラルドは暇乞いをする事にした。

セレンディは「今日は有難う」と言い、続けて思い出したように言葉を続けた。

「明日、エメラルドが良ければ是非、また来て頂きたいの。この子の《宿命図》の判定結果が出る日なんだけど――それに、国籍も出来るけど――1人では心もとなくて。 それに、私の相棒の様子も気になるし。『エメラルドの付き添いがある』という事であれば、クラウン・トカゲの厩舎までなら散歩できるという許可を頂いたから」

エメラルドは「そういう事なら」と快諾した。エメラルドにしても、自分の相棒がどうしているかは気になる所であった。

3-5朝の応接室にて

翌日の午前の半ばの刻――

エメラルドは、セレンディとファレルの個室を訪れる前に、念のため、再び医療院の通信室に入り、ロドミールに連絡を取ってみた。 しかし昨日と同じように、ロドミールの同僚が余りハッキリしない返答を寄越して来た。

いずれにしてもロドミールの不在が続いているらしい。

問題の忘れ物――『上級占術・匿名相談コーナー』のチケットには使用期限があるが、まだ2週間先(今日の時点で、1日減ったが……)というタイミングだ。 使用期限が来る前までに連絡が取れれば良いのだから、余り急がなくても良い。

そもそも上級魔法神官ほどの魔法能力を持たないエメラルドは、ロドミール本人の魔法の杖へ向けての、直通メッセージを送る事は出来ないのだ。

通信セットを使わずに直通メッセージを送るには、本人の位置が『位置情報魔法』で精密に割り出せていなければならないし、その上、 『機密会議の途中』だとしたら、メッセージを送れるどころでは無い。

エメラルドは気を取り直し、セレンディとファレルの居る個室へと足を向けた。

クラウン・トカゲの厩舎を回るという事も考えて、いつもの髪留めで、サッと髪型をまとめた……うなじの後ろで簡素にまとめる形だ。 野外用のざっくりとした羽織も準備してある。

*****

昨日のように、エメラルドが赤ちゃんドラゴンの蹴鞠の遊び相手を務めているうちに、約束の時間になった。

セレンディが訪問者のノック音に応じて扉を開けると、そこには、いつかの上級魔法神官と下級魔法神官が居た。

――火のライアス神官と、その若き弟子の、風のエルメス神官だ。

赤ちゃんドラゴンのファレル君が早速、小さな赤い翼をパタパタさせてライアス神官とエルメス神官に駆け寄り、握手よろしく差し出された手に順番に鼻をすり付けて、愛嬌を振りまいた。 エメラルドに対しても物怖じは全くしていなかったし、なかなか人懐っこい男の子のようである。

プライベートに属する事なので、専用の応接室で話をしましょう――との事で、 エメラルドを含む一行はセレンディの個室を出て、医療院の中にある別室――天球儀の形をした常灯のある応接室に入った。

応接室の中心に円卓があり、台座の上に乗せられた小ぶりな天球儀が、ボンヤリと光っていた。片手に載る水晶玉ていどの大きさだ。 大人4人が、円卓の周りに並ぶ椅子に腰かける。

赤ちゃんドラゴンのファレル君はセレンディの膝の上にお座りである。 初めて見る卓上の天球儀に大いなる関心を抱いた様子で、円卓の上に身を乗り出し、つぶらな金色の目を見張って、そのゆっくりとした回転をジッと眺め始めた。

ライアス神官が口を開く。

「セレンディ殿、ファレル君の《宿命図》を元にした身元証明書が出来たので、まずそれを渡しましょう。これで、竜王国の国籍を持つ者としての、全ての扱いが受けられるようになる」

セレンディはお礼を言って、ファレルの身元証明書を受け取った。濃いペリドット色をした特殊な正方形のカードに、《宿命図》ホログラムが描かれてある。 《火霊相》生まれを暗示するかの如く、赤い色の多さが目立っていた。

セレンディは魔法の杖で身元証明書をつつき、ブレスレットの形にしてファレルの手首に巻いた。 本来の身元証明となる『魔法署名』が出来ない幼体のうちは、こうして身元証明書を『魔法署名』代わりに身に着けておくのだ。迷子カードにもなる。

赤ちゃんドラゴンは不思議そうに首を傾げて、新しく装着されたペリドット色のブレスレットをクルクルと回し出した。

ライアス神官は、穏やかなワインレッド色の目で赤ちゃんドラゴンを眺めた後、再びセレンディの顔を見て、更に言葉を続けた。

「我々が解読したところ、ファレル君の《宿命図》には《争乱星(ノワーズ)》は見られなかった。たまに遺伝する事があるのだが、ファレル君は両親の特徴を上手に受け継いだようだ」

セレンディは両手で口元を覆い、ホッとしたかのように大きく息を付いた。今まで、緊張で呼吸を止めていたのは明らかだった。

「――良かった……!」

他人事ではあるが、エメラルドも同じ思いだ。

凶相とされる相にも種類があるが、特に大凶星とされるだけあって、《争乱星(ノワーズ)》持ちは色々と苦労が多い。 バーサーク化しやすい性質は、ほとんど天災のような物だ。竜人という種族全体としても、そのリスクをコントロールし切れているとは、まだまだ言えない状態である。

エルメス神官が補足説明をする。

「成体脱皮までの間に星々の相が成長するので、今の時点では確定的な事は言えませんけど、神官や魔法使いに向く感じですね。いずれにしても、色々な事を経験させてやって下さい」

赤ちゃんドラゴンは、エルメス神官が持っている半透明のプレートに興味津々で鼻を近付けた。 エルメス神官は上手にいなし、ファレル君をボールのように丸めて転がす。ファレル君は新しい楽しみを発見し、キャッキャッとはしゃぎ出した。

セレンディが、その様子を意外そうに眺めた。

「エルメス殿は若いのに、幼体の扱いに慣れてますね?」

「えぇまぁ、師匠の小さなお嬢さんに、随分と鍛えられましたから……」

ライアス神官が困惑顔をして、弟子の頭を軽くはたいた。

――そう言えば。エメラルドは、ふと思いついた。

「普通は手の平から《宿命図》を透視するみたいですけど、竜体状態でも透視できるんですか?」

その質問に答えたのは、ライアス神官だ。

「基本的には、手の平でも何処でも読める。手の平は《宿命図》の情報が密集している場所だから、透視するのに便利でね。 出生時の《宿命図》は翼から読み取る事になっている――成体でも翼から読む事は出来るが、手の平に比べると面積が大きくなるから、やはり時間が掛かるな」

――成る程。魔法でも、或る程度は物理条件に左右される訳だ。もしくは、身辺サイズのレベルでは、古典的な物理条件の方が支配的と言うべきか。

エメラルドは、ロドミールに『上級占術』の一種だと言う「健康運の強化」を施された事を思い出した。

「健康運や恋愛運、金運を動かす時も、手の平を通して『上級占術』というのを施すんですか?」

「そうだ。読み取りより格段に難しい――高度治療のレベルになるから、出来る者は限られるが。 それに倫理といった面でも、微妙な要素を含んでいる。色々な影響を見極めた上で、それを施すかどうかを決める必要がある」

一区切りついたところで、エルメス神官が口を挟んだ。

「神殿の《盾神官》が、最高位の上級占術の使い手です。神殿の守護《四大イージス》――特に《風の盾》は、《死兆星(トゥード)》のような予期せぬ凶星の接近をも跳ね返すのですよ」

「それが、ラエリアン卿の怒りと疑惑を、尚更にかき立てている訳ですね……」

セレンディは複雑な顔をして微笑んだ。

「現在は、珍しく《風の盾》が揃っているそうですね。その人の名前は確か――」

――風のエレニス・シルフ・イージス。

神殿に属する神官は多く、何がしかの称号を持つ神官も少なくないが――イージス称号を持つ《盾神官》は、《四大》に応じた4人しか居ない。その4人のうちのトップだ。

誰が《盾神官》なのかは神殿の最高機密であり、4人の《盾神官》の顔を知る者は限られている。 特に、《風の盾》の顔を公に知るのは《風》の大神官長なのだが、《風》の大神官長から最高機密を聞き出そう――という命知らずは居ない筈だ。

「そう言えば、エレニスとエルメスって、何だか名前が似てますよね」

エメラルドの投げた言葉に、エルメス神官は苦笑いして答えるのみだ。

「滅相も無いです、エメラルド隊士。名前が似てるだけの事ですよ。私が《風の盾》だったりしたら、今ここに、こうして居ないでしょう。 そもそも《盾神官》が神殿を取り巻く凶運を如何にして察知して弾いているのかは分からないんですが、我々とは異なる、本能的な予見能力とか、超能力みたいなモノがあるんでしょうね」

◆Part.4「運命のスイングバイ」

4-1緑葉の下の厩舎にて

2人の神官との会合が終わった後、セレンディとエメラルドは、あらかじめ行き先を申告しておいた特定の転移魔法陣を経由して、クラウン・トカゲの厩舎を訪れた。

クラウン・トカゲの厩舎は、医療院から少し離れた樹林公園にある。転移魔法陣を使えば一ッ跳びだ。

武官の寮の隣、城壁に接した細長い樹林公園の中で、淡いアッシュグリーン色を全身にまとったクラウン・トカゲが、思い思いにたむろしている。

樹林公園の中には、クラウン・トカゲのための水飲み場や餌場の他、荒天時の避難のための若干のシェルターが完備されている。 厳重な《監視魔法陣》や《拘束魔法陣》がセットされた仕切り柵がグルリと設置されているのだが、クラウン・トカゲの逃亡を防ぐためでは無い。 クラウン・トカゲは、闇市場で高く売れるのだ――馬泥棒が入って来るのを防ぐための物である。

季節は既に初夏となっていた。吹き抜ける風が快い。

真昼に近い陽差しの下、クラウン・トカゲの厩舎を取り巻く樹林公園の緑の葉群が、キラキラと揺れている。

セレンディは片脚が機能しないため、杖を突いて歩くと言う格好だ。赤ちゃんドラゴンのファレル君は、セレンディの肩につかまって、初めて見る外の光景をキョロキョロと見回している。

エメラルドは、自身の魔法の杖を使って仕切り柵のゲートを開くと、セレンディ親子を中に導き入れた。

新たに入って来た竜人の姿を見て、近くの淡いアッシュグリーン色の一群が、クルクルと長い首を振り回し、 ノンビリとした不思議そうな声で鳴き交わした――「誰か来たぞ」と言い交わしているらしいのは明らかだ。 中に、面白そうな鳴き声が混ざっているのは、赤ちゃんドラゴンの姿を認めたからだろう。

「相棒!」

エメラルドが声を掛けると、エメラルドの相棒を務めるクラウン・トカゲが早速、駆け寄って来る。 いつものように「撫でて」と言わんばかりに、長い首を降ろして来た。エメラルドは「心配かけたね」と言いながら、久しぶりの相棒のフッサフサを、モフモフした。

セレンディは、エメラルドの相棒の脚部の辺りを触れて、感心したような顔になった。

「まだ若いからか、ちょっと甘えん坊だけど良い馬ね。これは長距離に強いタイプだし、良く走ってくれるわ」

「分かります?」

「馬丁の人に、少し見分け方を教えてもらった事があるから」

ちょっとしたポイントを話し合っていると、馬丁といった風の若い男が近寄って来た。 ざっくりとしたパンツスタイルの上下に、浅葱色の丈の短い羽織を腰のベルトで留めているという格好であるが、ロングブーツに包まれた足取りや、キビキビとした身のこなしは、武官そのものだ。

「連絡を受け取ったが、貴殿がセレンディ隊士なのか?」

「ええ、私がそうです。武官を退いたので、もう隊士じゃありませんけど」

快活そうな顔立ちをした若い馬丁は、街着姿のセレンディを、頭のてっぺんから足の爪先まで観察した。少し面白そうな顔になる。セレンディのファッションセンスに感心しているのだろうと予想できる。

実際、ファッションに疎いエメラルドの目から見ても、セレンディのセンスは、筋が良いと分かるのだ。

留め紐と花簪(はなかんざし)の付いた淡灰色のベレー帽。そこから流れる、背中までの波打つ黒髪。 季節に合わせて、カラシ色の型染を施した淡灰色の上衣(アオザイ)を小粋に着こなしている。春夏期の街歩き用のショートブーツ。

若い馬丁は、セレンディの肩に乗っている赤ちゃんドラゴンを、かなり長い間、見つめていた。にわかには信じがたい経緯で生まれて来た事を、聞き及んでいると見える。

「地元の神官が、卵の中の赤ちゃんには不思議な予見能力があって、 臨月に入ると、母子ともに生存確率が最も高いタイミングを選んで生まれて来る――なんてオカルトな事を言ってたんだが、本当らしいなぁ」

――それは初耳だ。エメラルドの横で、セレンディも驚いたように目を見張っている。

「本当ですか、それ?」

「いやいや、単なる民間伝承だよ。大絶滅の時代を切り抜けたんだから、そういう超能力はあっただろうって事さ」

若い馬丁は「付いて来てくれ」と言い、エメラルドとセレンディを樹林公園の奥の方へ案内し始めた。

「俺は『水のゲルベール』と言う。とりあえず貴殿の馬に、ちょっと問題が発生してな。どうするべきか悩んでたんでね……今日は来てくれてよかったよ、セレンディ殿」

茂みの一角を曲がったところで、馬丁ゲルベールは、行く手の葉群の間を指差した。

緑濃い葉群に顔を突っ込んで名残の花の蜜を摘まんでいる、新顔のクラウン・トカゲが居る。 人の気配に気づいてクルリと振り返り、セレンディの姿を見るなり、喜びの鳴き声を上げて近寄って来た。

「相棒! その頭の毛の色は……!?」

セレンディは絶句した。

クラウン・トカゲの頭頂部の、合歓(ねむ)の花冠を思わせるフッサフサは、真昼に近い陽光を反射して、金銀をまぶしたかのようにキラキラと光っている。何とも豪華なフッサフサだ。

「これ……もしかして、『繁殖ラメ』とか言うアレでは……?」

エメラルドも、開いた口が塞がらない。

セレンディの馬は、何故かセレンディの真似をしたかのように、妊娠の兆候を示していたのだ。

赤ちゃんドラゴンのファレル君は、セレンディの相棒の金銀にきらめくフッサフサに、熱い眼差しを注いでいる。「触りたい」と思っているのは明らかである。

若い馬丁ゲルベールは、頭に乗せていた黒いベレー帽を外し、ヤレヤレと言った様子でガシガシと頭をかきむしりながら、説明を始めた。

「此処に来た時は、背中がえぐれてる状態だった。 竜体状態のまま、にっちもさっちも行かなくなったセレンディ殿を乗せて走ったからだと聞いている――全く大した馬だ。 武官は皆、こういう相棒に巡り合いたいと思ってるもんだ」

次いで、馬丁ゲルベールは、「困ったもんだ」と言わんばかりのキッとした眼差しで、近くに居たもう1匹のクラウン・トカゲを睨んだ。

そのオスと思しきクラウン・トカゲは、一瞬、木々の間に身を引っ込めた。しかし、再びソロリと首を突き出して来ている。 愛嬌タップリの目元や口元には、ニヤニヤ笑いを浮かべているような曲線が浮かんでいた。

「治療魔法を施して大人しく寝てもらっていたんだが、申し訳ない事に、俺の相棒が夜這いをやらかしてね。 何故なのか分からんが、一目惚れよろしく気が合ったらしい。普段は中性なのに、一晩でオスとメスに変化して結婚しやがった。 繁殖シーズン最終日だったんだが、駆け込みも同然に、その一晩で成功しちまった」

――という事は、今日で、早や1週間か。エメラルドは素早く計算した。

「1ヶ月以内に、落ち着いて卵を産める場所に移動する必要がありますね? クラウン・トカゲは、山を下りて産卵するから……平原エリアの放牧地とか……」

「ああ。1ヶ月以内に手を打たないと、こいつら揃って駆け落ちしちまう。それに、セレンディ殿の相棒はセレンディ殿の言う事しか聞かないらしい」

セレンディは、まだ呆然と相棒を見つめていた。

母親の肩に乗っている赤ちゃんドラゴンのファレル君が、手の届く所に来た金銀のフッサフサを、モフモフし始める。 竜体ではあるが、赤ちゃんのうちはフニャフニャ鱗の上、鋭い爪が生えていないので、人の手に近い。 クラウン・トカゲも、満更でもないと言った様子で、モフモフされるのを楽しんでいる様子だ。

「モノは相談なんだが――俺は、元はバーサーク傷を受けた武官で、今は竜体変身を禁じる拘束具持ちでね」

エメラルドとセレンディはビックリして、若い馬丁ゲルベールの首元を注目した。

快活な顔立ちをした若い馬丁は、何でも無い事のように首元を覆う高い襟を開いて見せた。 そこには確かに、セレンディが装着している物と同じタイプの、チョーカーのような拘束具がある。

「ホントは数日前に、繁殖トカゲたちを引き連れて地元の放牧地に戻ってる筈だったんだが、目下こんな状況で、足止め食らってる形なんだ。 山麓のグランド回廊のゲートで同郷の仲間と合流する手筈なんだが、随分お待たせしてるんで、そろそろ殴られそうなんだよ」

そこで馬丁ゲルベールは、ヘニャッと顔をしかめた。

――同郷の仲間たちがイライラして腹を立て始めている様子を、思い出したらしい。 竜人は気が短いのだ。クラウン・トカゲの繁殖成果を持ち寄って喜びの再会を果たす場が、タイミング次第では袋叩きの場となりかねない――

「セレンディ殿が良ければ、セレンディ殿の『頑固な困ったちゃん』と一緒に来て欲しいんだ。 地元の駐在の神官や武官たちが、バーサーク問題にも対応できるベテラン揃いだから、 セレンディ殿の受け入れについても、各方面から『問題は無い』というお墨付きを頂いてある」

馬丁ゲルベールは襟を閉じ、セレンディの片脚を改めて注意深く眺めた後、再び言葉を続けた。

「トカゲの群れを引き連れているから、1匹や2匹の時とは違って王都の転移魔法陣は使えないし、魔境を突っ切って一気に山を下りる事になる。 それに、大陸公路の飛び地にある末席の管区の方なんで、 最寄りの大型の転移基地を経由して1週間は走る事になるんだが――片脚が動かなくても『魔法の杖』の方は問題は無いし、馬で走る事も出来るだろう?」

セレンディは戸惑いながらも、「ええ」と、うなづいていた。

体力的には問題は無い。訓練された武官ともなれば、疲弊して朦朧となった状態であっても、クラウン・トカゲと共に、魔境を一気に突破する事くらいは出来る。 魔境では、魔物の大群をかわしつつ退魔樹林にガードされた城壁まで到達する事が、最優先事項になるからだ。

馬丁ゲルベールは、ホッとしたように快活に笑った。

「そりゃ良かった。セレンディ殿の馬は竜王都の創建時代の純血種の子孫で、いわばサラブレッドだから、駆け落ちされて行方不明になったりしたら、えらい損失になる所だったよ。 セレンディ殿は《剣舞姫(けんばいき)》称号持ちだそうだが、そのご褒美の馬だったんだろう?」

セレンディは誇らしげに微笑み、「その通りよ」と返した。

エメラルドは、セレンディの馬を改めて観察した。

――確かに、サラブレッドと言って良い均整の取れた体格だ。 頭頂部のフッサフサがまとう『繁殖ラメ』――金銀のきらめきも、素人目にも『恐らく極上モノだろう』と知れる。

「転移基地にある大型の転移魔法陣の利用申請を急がないとな――大陸公路の隊商と取り合いになるから、割と順番待ちになるんだよ。 セレンディ殿の身柄移動の申告についても、合わせてやっとこう。順調にいけば1週間後には出発だから、よろしく準備しておいてくれよ」

若い馬丁は説明を終えると、赤ちゃんドラゴンのファレル君の鼻先をチョンとつつき、「よろしくな」と声を掛けた。

「地元に婚約者が居るんだが、いわくありの美女同伴でも、チビッ子のお蔭で怒られないで済みそうだ、ハハハ」

「仮《盟約》を結んだ婚約者が居るのね。バーサーク傷を抱えていても『問題ない』って言ってくれてるの?」

エメラルドの質問に、馬丁ゲルベールは照れくさそうな笑みで応えた。

「太鼓判レベルまで適合した《宝珠》相は、バーサーク傷が出来た程度では揺らがないらしい。 彼女から『正式に《盟約》を解除したいとは思わない』と言われた時は嬉しかったね。今回、地元に帰ったら、正式に結婚する予定だよ」

――竜人の間では、婚約関係を結ぶ時、互いの《宿命図》に、仮の『魔法署名』を刻む事になっている。 《宿命図》心臓部を成す《宝珠》相にまで達する、特別な儀式魔法だ。仮《盟約》と言いならわされている。

正式に結婚する場合は、双方の合意のもと、『魔法署名』を正式なものにする。これが《宿命の盟約》だ。

逆に、婚約関係を解除する場合は、双方ともに、仮の『魔法署名』――仮《盟約》――を解除するという形になる。

若い馬丁は、後をエメラルドとセレンディに任せて、役所の方へと去って行った。

4-2魔法職人の一点物

ランチの頃合いだが、医療院とは距離があり、時刻までに戻るのは難しい。

エメラルドとセレンディは、いつもの食事担当の女性スタッフに遠隔通信で連絡を取り、了解を取った。 樹林公園近くの広場にある商店街でランチ弁当を買い込み、クラウン・トカゲと一緒にお昼時を過ごす事にしたのである。

樹林公園の一角に戻ってみると、エメラルドの相棒、セレンディの相棒、それに馬丁ゲルベールの相棒が、 大樹の根元に3匹で集まり、鼻先を付き合わせて、何やらトカゲ同士の会話をしている所であった。 お互いの乗り手について情報交換しているのであろうと窺える光景である。

「クラウン・トカゲたちがどうやって会話するのか良く分からないけど、ちゃんと会話してるわね」

「鼻歌で合唱も出来るんでしょうね」

セレンディとエメラルドは、暫し相棒たちの不思議を笑い合った後、樹下にあるピクニック・テーブルで、弁当のフタを開いた。

赤ちゃんドラゴンのファレル君は、まだ通常の食事は出来ない状態なので、セレンディの足元の草むらに座り、セレンディが手持ちの袋から出した草の実を食べている。 固い皮に包まれているが、中身はマシュマロのようになっていて、消化が良さそうだ。 ファレル君は『マシュマロもどき』をフニフニと噛み、次いで、その中心にある草のタネをプッと吹き出して行く。

竜王都では魔物成分が多すぎて発芽のチャンスは無いが、この種の草は、こうして生息分布を広げているのであろうと理解できる光景であった。

暫くすると、セレンディの相棒が、辺りの人の目をキョロキョロと気にしながら近づいて来た。

「どうしたの、相棒?」

セレンディが声を掛けると、セレンディのトカゲは傍にしゃがみ込み、前足に持っていた「木の枝のような何か」を差し出して来た。

赤ちゃんドラゴンのファレル君が、クラウン・トカゲの背中が地上に近づいたのを幸い、薄い金色の目をキラキラさせながら、よじ登って行く。 クラウン・トカゲの背中の傷は、治療魔法のお蔭ですっかり塞がっており、ファレル君がしがみついても問題は無い様子だ。

「――これは……」

セレンディは、ペンのような大きさの2本の棒を手にして、目を潤ませていた。何も言えない程に感極まった様子で、 相棒のフッサフサをモフモフしている。気もそぞろなモフモフであったが、クラウン・トカゲは気にしていないようだ。

「聞いても良いかしら、セレンディ? それは一体……?」

エメラルドがそっと尋ねると、セレンディは声を詰まらせながらも、何度もうなづいた。

「私の夫の形見みたいなものね。あの日、燃え残った品物で――夫は魔法職人で、オーダーメイドの『魔法の杖』を製作していたから。 陣痛を抱えて、あの広場に飛び込んだ時に何処かに落としたと思っていたんだけど、相棒が拾ってくれた」

エメラルドは、セレンディの相棒のトカゲを暫し眺め、それは有り得る事だと納得した。

クラウン・トカゲの鼻は、魔法感覚も含んでいるせいか非常に鋭い。乗り手の落とし物を見つける事ぐらい、造作も無い筈だ。 それに――ちょっと余計に閃いて、乗り手が戻って来るまで、こっそりと隠し持っている事も。

「――そう言えば、エメラルドは結婚しているの?」

気分が落ち着いたのか、セレンディは食べ終えたランチボックスを片付けながら、エメラルドに質問を投げて来た。

「彼とはまだ恋人の関係だけど、そのうち結婚するかも。何というか遠距離恋愛だから、なかなか難しいけど……」

「そうなの? エメラルドの恋人は『バーサーク問題』を気にする性質かしら?」

「多分、気にしない方かと」

エメラルドは、ロドミールがいつもと変わり無く手を触れて来た時の事を思い返した。ついでに、最近、なかなか連絡が取れない状態だという事も思い出した。

「実は今、彼は最近、出張から戻ってきたところで、竜王都の何処かに居るとは思うんだけど――諸般多忙みたい。 何故か彼の同室の同僚に聞いても、『遠方出張中』になっていて、なかなか連絡が付かなくて……」

セレンディは「ふーん」と呟きながら、暫し思案していた。やがて、手元の2本の棒――魔法の杖を見て、パッと閃いたような顔になる。

「エメラルド、彼氏の『魔法署名』が掛かった品とか、そう言ったモノ持ってる?」

エメラルドは不思議に思ったが、とりあえずベージュ色の留め紐付きのベレー帽を取り外した。 いつもの髪留めを外す。精緻な彫り込みがされた品だが、武官向けとあって頑丈である。

「この髪留めに彼の魔法署名が入ってる。彼からの贈り物だったから」

「あら、恋人としての魔法署名ね。熱愛みたいね、良かったわ。ちょっと借りるわね」

セレンディは髪留めをピクニック・テーブルの中央に置いた。2本のペン程の大きさの魔法の杖のうち1本を選び、それを振る。 すると、髪留めを中心とした、金色と黒色が均等に入り混じる魔法陣がテーブルの上に展開した。拘束魔法陣とは異なるパターンだ。

エメラルドは、武官として見慣れたパターンの魔法陣だという事に気付き、目を見開いた。

「――《位置情報魔法陣》? 本人応答を必要としない方の捜索型の魔法陣は、魔法神官じゃ無いと出来ないと思っていたんだけど……」

しかも、何だか、魔法神官がセッティングする魔法陣よりも滑らかに稼働しているようだ。 均等に散開していた金色の光の粒子が一旦、中央の髪留めの周りに集まり、その円周上を踊るように一巡する。 魔法署名の情報を読み取っているようだ。その後、金色の光の粒子は青い光の粒子となって散開し、黒いパターンの上を高速で巡回し始めた。

「青い光……という事は、エメラルドの彼氏は《水霊相》なのね」

「そうだけど……」

やがて、青い光の粒子が再び中央部――エメラルドの髪留めを囲む円周に戻って行った。

黒い魔法陣が形を変え、幾本もの直線ラインを描いて行った。 一目で、神殿街区の概略図だと知れる。縮小率の調整のためか、何回か描き直しが生じたが、やがて神殿の平面図のマップが出来た。 青い光の粒子は再び移動し、一つのポイントに集まってボンヤリと光った。そこは、《水》の大神官長の執務室と連結する控え室と知れた。

「彼氏は、此処に居るみたいね。機密会議という程では無いけど、重要会議の途中という感じ。遠方出張じゃ無くて良かったわね」

元々、神官や魔法使いになれるレベルの相に生まれていたと言うだけあって、セレンディの《四大》エーテル魔法のパワーは、大したものだと言える。エメラルドは、絶句する他に無い。 役目を果たした魔法陣は、速やかに微細エーテル粒子に戻り、空中に消えて行った。

「やだわ、そんなに感心しないで、エメラルド。夫が作ってた『魔法の杖』が優秀なのよ。専門店からオーダーメイド注文を受けてたくらいだから」

セレンディは、足元に身体をすり付けて抱っこをねだって来た赤ちゃんドラゴンを、ヒョイと抱き上げた。

ファレル君は、クラウン・トカゲの背中や尻尾で何回も滑り台を楽しんでいたが、そろそろ遊び疲れたらしく、ウトウトとしている所だ。 赤ちゃんドラゴンは、セレンディの膝の上で小さな赤い翼を折りたたんで丸くなるや、あっと言う間に眠り始めた。

セレンディは息子を撫で回した後、再びエメラルドの方を向いて、言葉を続けた。

「――それに、エメラルドは、私より魔法使いとしての素質はある筈よ」

「それは、流石に無いと思うけど……」

実際、エメラルドの《宿命図》の相は、どちらかと言うとエーテルの無駄使いの多いタイプである。

エーテル流入量は、むしろ充分以上といって良いレベルなのだが、エーテル集中の力が弱く、魔法使いレベルの発動パワーに達しないのだ。 《四大》エーテル魔法を発動する時は、ギリギリまでエーテルを溜め込んでおいて、『魔法の杖』の整調機能に頼って、有効なレベルの魔法を、無駄なエーテル漏出と共に発動するという感じだ。

セレンディは、エメラルドの説明を聞いて、ますます確信めいた表情になった。

「それだったら、魔法使いとしての本来の素質は、かなり大きい物ね」

膝の上で丸くなって眠っているファレル君を抱っこし直し、セレンディは暫し思案顔になったが、再び言葉を続けた。

「あのね、私、バーサーク化していた時の記憶はボンヤリとしてるんだけど、相当に高難度の刃物魔法を発動していたという感触はあるの。エメラルドは防刃魔法で、ほとんど弾き返した筈よ。 全身重傷の件は、ごめんなさいね。でも、エメラルドが致命傷なしで乗り切れたのは、それだけ魔法使いの素質があるという事の証拠になるわ」

セレンディは、手元の2本の魔法の杖――いずれもペン程の大きさに縮めてある――をジックリと眺めると、片方をエメラルドに渡した。

「エメラルドは《風霊相》生まれだから、こっちが良いかも知れないわ。《風魔法》が強化されてるし」

――正直、半信半疑だ。エメラルドは少し首を傾げた後、試しに『扇風』の魔法を起こしてみる事にした。いつものように魔法の杖を振る。

――ゴォッ……!!

一瞬、そこには、唖然となる程の《風魔法》のジェット気流が吹いた!

セレンディの相棒のクラウン・トカゲが、ジェット気流に乗って空中を吹っ飛ばされて行き、茂みに真っ直ぐ突っ込んだ。 馬丁ゲルベールのクラウン・トカゲが、茂みの中から、目を回したセレンディの相棒を引っ張り出す。

エメラルドの相棒のクラウン・トカゲが慌てた様子で駆け付けて来て、前足で地面を削り、エメラルドの身体を掘り出した。 エメラルドの身体は、自分で巻き起こしたジェット気流に自分で吹っ飛ばされ、その直後の風圧によって転がされ、柔らかな泥に半ば埋まる格好になっていたのだ。

「だ、大丈夫? エメラルド、何処かの骨が折れてなきゃ良いけど……」

流石にセレンディも慌てて立ち上がった。セレンディの腕の中でウトウトしていたファレル君も、驚きの余り、お目目パッチリだ。

「い、一応、無傷だと思う、けど……」

エメラルドは、メチャクチャに吹き乱れ、泥だらけになった髪を抑えながら身を起こした。 いい年して、派手に黒歴史を作る羽目になってしまった。むしろ「泥歴史」とでも言うのが、この状況にピッタリなのか。恥ずかしさの余り、身の置き所が無い。

――足元に、ちょっと風を吹かせるつもりで魔法の杖を振ったのが幸いしたと言える。

ジェット気流をまともに食らったピクニック・テーブルの椅子は、元々据え付けだった物がすっかり吹き飛ばされており、 樹林公園の低木の茂みを幾つもブチ抜いて、仕切り柵の前で粉々になっている。仕切り柵でジェット気流が止まったのは、 仕切り柵にも、城壁と同じような攻撃魔法への耐性が施されているからだ。『馬泥棒よけ』様々である。

「アレ、片付けなきゃいけないわね」

エメラルドはセレンディの魔法の杖をベルトに挟み、腕まくりした。

「さっきの《風魔法》を応用すれば良いわよ」

セレンディが器用にアドバイスして来る。『それもそうか』と、エメラルドは思い直し、ベルトからセレンディの魔法の杖を抜き出した。

――多分、スタンダードの大きさじゃ無いので、調整の感覚が狂うのだ。

基本形に直してみると、肘から指先までの長さだ。武官に標準支給されているサイズと余り変わらない。 少し操作を加えると、神官の杖のように、円環体が先端部に付いた。これであれば、細かい調整も付けやすい筈だ。

エメラルドは先程の感触を慎重に検討しながら、粉みじんになった椅子を運べる程度の『つむじ風』を巻き起こしてみる事にした。

流石に、先ほどの災難でスッカリ震え上がったセレンディの相棒は、《風魔法》の及ぶ範囲から逃げ出して、シッカリと警戒している。

――案ずるより産むが易し。

最初の数回の『つむじ風』による物体移動で、エメラルドは、すっかり感触をつかんだ。

武官標準支給の『戦闘用の魔法の杖』――量産品――より、ずっと扱いやすいのだ。 エメラルドが魔法を発動する際は、エーテル漏出による騒音が相当に出るのだが、魔法の杖のエーテル整調機能が素晴らしく優秀なお蔭か、エーテル騒音がほとんど出ない。

――セレンディの夫は、とても腕の良い魔法職人だったのだ。

エメラルドは、つくづく感心する他に無い。

「これなら、『地獄耳』も出来ちゃうわね。私は騒音が大きいから、図書館なんかでは魔法厳禁だったし、軍事作戦でも、偵察方面に回る事は無かったんだけど……」

セレンディは、エメラルドの魔法発動の様子を暫く観察した後、会心の笑みを浮かべた。

「やっぱり私より魔法使いに向いてるわ。その魔法の杖は、エメラルドにあげる」

「ご夫君の形見でしょう? 魔法職人の一点物だし、こんなに優秀な魔法の杖、想像以上に高価な品だと思うけど……」

「息子の命を助けてくれたお礼よ。それに夫も、エメラルドに使ってもらえれば喜ぶと思うの」

セレンディは、もう1本の魔法の杖を取り出して、イタズラっぽく微笑んだ。

「こっちは《火魔法》が強化されているタイプ。この子が大きくなったら、渡すつもり」

――確かに、赤ちゃんドラゴンのファレル君は、偶然ながら《火霊相》生まれだ。さぞ役に立つに違いない。

セレンディは、再び目を閉じて眠り出した赤ちゃんドラゴンを、慈しみの眼差しで見つめた。

「バーサーク化した私を取り押さえてくれたのが、エメラルドで良かった。 私にはもう夫は居ないし、この子だけだから。もし――通常のケースと同じように、卵を失う事になっていたら……、 生きている理由は無くなって、竜王側でも神殿側でも、どちらでも構わないから、バーサーク竜で構成される特攻隊に志願していたと思う」

セレンディは、ふと視線を虚空に彷徨わせた。

「バーサーク化する時は、寝ている間、一種の悪夢のような物を見るのよ。無意識の――深層レベルの心身のエーテルの乱れが見せる物。『そうなりたい人』にとっては、 ドラゴン・パワーの突き上げとか――ハッスルするようなイメージになるみたい。そうして、『バーサーク危険日』が始まると同時に、周り中のエーテルを一杯に吸い込んで、バーサーク化する。 心の底で暴走する望みを、夢を、そのまま、なぞるみたいに。拘束具を付けてると、バーサーク化はしないんだけど……」

セレンディはエメラルドの方を振り向いて、穏やかに微笑んだ。

「夫が生きていてくれた時は、悪夢は見なかった。今ね、この子が傍に居るお蔭かしら、また悪夢は見なくなったの。私、エメラルドに救われたと思ってる」

エメラルドには、返すべき言葉が見つからなかった。

――初夏の陽気を含んだ柔らかな風が、樹林公園の間を流れて行く。

暫し、静かな時間が過ぎた後――

「――何だぁ? 何で、此処の低木一帯に、ブチ抜き穴の行列が続いているんだい?」

役所への各種申請を済ませて戻って来た若い馬丁ゲルベールが、間抜けな声を上げた。次いでゲルベールは、 エメラルドの爆発したような髪型と、泥漬けになった姿に気付き、ギョッとしたような顔になった。

「……あのな、此処は、魔法チャンバラ遊びとか、泥んこ遊びには余り向かないと思うんだが……」

セレンディとエメラルドは、『女性の名誉にかけて、見なかった事にしてくれ』と、若い馬丁ゲルベールを脅迫したのであった。

4-3名残惜しき人々

1週間後に出発すると言う予定が決まり、セレンディの行動制限は解除された。

セレンディとファレルの長距離移動の準備は、順調に進んで行った。

クラウン・トカゲに乗って連日疾走するのだ。武官に標準支給されるタイプの長持を神殿街区にある軍専門の店で購入したり、 念のため『退魔樹林アロマ』を含む軍用の野営セットも一緒に揃えたりする。

「チビッ子も居るし、安全なコースを選んで行くけど、道中は何があるか分かんないからな」

――とは、若い馬丁ゲルベールの言である。

エメラルドにも異論は無い。エメラルドの両親も、隊商向けの標準的なコースを辿っていた筈だが、運悪く難所で魔物の大群に遭遇し、骨すら残せず、わずかばかりの鱗の藻屑と化してしまったのだ。

食事担当の女性スタッフは、「赤ちゃんが居なくなると、寂しくなるわー」と言いながらも、赤ちゃんドラゴンのための草の実を丸1ヶ月分、用意してくれた。 そして、ウラニア女医からの餞別だという、当座の生活資金も揃えてくれたのであった。

ウラニア女医は、ただでさえ諸般多忙の身であった。 『疑惑の総合商店』への対応、やがて迫り来る『バーサーク危険日』への対応――などと言った重要案件が重なって来たため滅多に姿を見せなくなったが、 バーサーク状態での出産という出来事は、女医にとっては、非常に印象深い物であったらしい。

*****

出発日を明日に控えると言う日――

エメラルドは、いつものようにセレンディや馬丁ゲルベールに付き合って、衣料雑貨類が並ぶ商店街を回った。 赤ちゃんドラゴンを安全に運ぶための背負いカゴや、夜間防寒用の毛布を探すのだ。

赤ちゃんドラゴンのファレル君は流石にまだ小さく、適切なカゴを選ぶのは骨が折れたが、店スタッフのアドバイスもあって、納得のいく買い物が出来たのであった。

セレンディは、荷物を医療院の個室に配達するよう手配を済ませると、頼りがいのある店スタッフに更に声を掛けた。

「――宮廷社交界にも着て行けるような装束を扱ってる店は、ありますか?」

「それでしたら、やはり門前街区のブランド店が良いでしょうね」

その後、三本角(トリケラトプス)が牽く乗合バスの停留所に並びつつも、若い馬丁ゲルベールは不思議そうな顔をした。 しかし、セレンディは、いつものように片腕にファレル君を抱え、片手で杖を突き、ニンマリと笑うだけだった。

「どういう事だ? 俺の地元には、宮廷なんぞ無いよ。収穫祭の市踊りはあるが、放牧地と公路の市場だけだからな」

「付いて来てのお楽しみよ。ゲルベール君の方がエメラルドの世代に近いから、より正確なコメントが聞けると思うし」

――門前街区は、ブランド店が並ぶだけあって煌びやかな雰囲気に満ちていた。

馬丁ゲルベールは、場違いな雰囲気を感じて腰が引けている。エメラルドも、半分はゲルベールと同じ気持ちだ。 しかし、流石に元・王宮隊士と言うべきか、セレンディは堂々とした物だった。

「この店が良さそうね」

セレンディは一目で目標の店を見極めると、片手で杖を突きつつ、堂々と中に入って行く。

店スタッフが完璧な営業スマイルで微笑みつつ出迎えると、セレンディは、やはり堂々とした様子で「シルフィードの物を」と注文を繰り出した。

エメラルドとゲルベールはポカンとしていたが、ポカンとしているうちに、 エメラルドの方は着せ替え人形よろしく、セレンディの注文に応じた数セットの衣装を着せ替えられる形になった。

店スタッフは、数回エメラルドを着せ替えているうちに、セレンディの狙いに気付いたらしい。

「もしかしたら、こんなのが良いかも知れませんですね」

流石に専門家と言うのか、ピンと来た店スタッフの提案は、セレンディの狙いにハマったようだ。

セレンディは、更にワンセット着せ替えられたエメラルドの姿を眺めて、会心の笑みを浮かべた。 馬丁ゲルベールの方は、感心そのものの顔つきで、エメラルドを眺めて来たのであった。

「フフフ……宮廷社交界でも注目を浴びるわね、このシルフィードは。どうかしら? 同年代の男の目から見て」

「いやぁ、此処まで別人になるとはね。女ってのは化けるもんだな。あの爆発した髪型で、見事な泥漬けだったのが……」

「一言二言多いわね、水も滴る友達。地元のカワイコちゃんを怒らせないようにしなさいよ」

エメラルドは、訳が分からないままに、装着中の上質な衣装を見下ろした。

流行に関係の無い定番のデザインだから、長く着られそうだ。格式のある振袖の羽織と下裳(ラップスカート)は、 いずれも透けるような高級レース生地で出来ていて、宮廷社交界でも通用する出で立ちになっている。

正装とあって丈の長い上衣(アオザイ)は、上半分がオフホワイトで、下方に向かって徐々に色が濃くなるように紫色のグラデーションが付いている。 夏らしいミントグリーンの刺繍糸による華奢な印象の蔓草パターンが全面に施されており、上下の彩りの差を適度に引き立てていた。

エメラルドは暫し戸惑った後、不安を込めて、セレンディに苦笑いをして見せた。

「今まで着た事が無いタイプの彩りだけど、合っているのかしら?」

「大丈夫よ、シルフィード。髪の色には濁りが無いし、目の色も繊細な色合いだから、こういう難しい色が意外に着こなせてるわ」

「当店からも、自信を持ってお勧めいたしますよ。お似合いの品があって、よう御座いました」

店スタッフは更に興が乗ったらしく、最近の流行だが、いずれ定番の装いになるだろうと言う事で、大判のスカーフを勧めて来た。 元々は魚人の間で普遍的なファッションなのだが、留め紐付きのベール帽子に比べて髪型が崩れにくいという事で、 女性の間で急速に広まって来ているという話であった。

確かに、門前街区を闊歩するお洒落そうな女性の姿をチラチラと観察してみると、半数ほどはスカーフ姿である。 頭から被ったスカーフの端が留め紐代わりになるので、留め紐付きのベール帽子の変形と言う感じで、余り違和感が無い。

ワンセットのドレスとスカーフは、いずれも相応に値の張る品であったが、最近エメラルドが受け取っていた褒賞金で、充分お釣りが来た。 ボンヤリとではあるが、元々、ロドミールとのデートに備えて夏用のお洒落着を用意しておこうかという考えがあった事もあり、 エメラルドの買い物は、すぐに決まったのである。

*****

翌日の早朝、セレンディとファレルは、若い馬丁ゲルベールと共にクラウン・トカゲに乗り、繁殖トカゲの一群を引き連れて、竜王都を出発した。

「向こうで落ち着いたら、何年かしたら、息子と一緒に竜王都に行く事があると思うわ。エメラルドが、その時までに、恋人とゴールインしてると良いわね」

「あの変装は、マジで化けるぞー。ビックリさせてやれよ」

「クルクルー(=赤ちゃんドラゴンが喉を鳴らした音)」

医療院のゲートの前で、それぞれ陽気な挨拶を交わす。そして、印象深いひと時を共に過ごした3人+1竜体は、名残惜し気に手を振りつつ、分かれ道に立ったのであった。

快晴となった空と、吹き抜ける風――既に夏の盛りの色をまとっている。

エメラルドは、その後、医療院の個室で、セレンディから譲ってもらった魔法の杖を振り、覚えたばかりの『位置情報魔法』を発動した。 個室の床タイルの上に展開された魔法の地図には、それぞれのクラウン・トカゲにまたがった馬丁ゲルベールとセレンディ&ファレルが、 素晴らしいまでの快速で魔境を突っ切って行く様子が反映されている。

少し操作を加えると、簡易ではあるが、魔法の地図が3次元立体の地形図となる。『魔の山』を示す地形図の中で、 青い光と黒い光、そして一回り小さな可愛らしい赤い光が、着実に山麓へと向かっている動きが明らかに見て取れた。

(流石、場数を踏んだ経験者と言うべきか、こんなに短時間で山を一気に下りられるルートがあるとは思わなかった)

エメラルドは、馬丁ゲルベールが選択したルートに感心しきりだ。この分だと、夕暮れ前には山麓エリアに到着する。

繁殖トカゲの群れを引き連れているから、脱落トカゲが出ないようにスピードを調整している筈だ。魔物を撃退するための攻撃魔法を展開する時にも、若干の時間ロスが出る。 もし、魔物の追跡をぶっちぎりで振り切るレベル――クラウン・トカゲの最大スピードが出せるとしたら、ずっと短い時間で、山を下り切る事が出来るに違いない。

(いつか、転移魔法陣を使わずに大急ぎで山を下りる必要があった時に、役立つかも知れない)

その日は1日、ゲルベールが選択したルートの研究になったのであった。

*****

――未明を少し過ぎた刻。

エメラルドは喘いで、ベッドに身を起こした。心臓が、まだ早鐘を打っている。

(嫌な夢を見た……)

ゾッとする程の、リアリティのある悪夢だ。

未明の闇の中で目を凝らす。

自分の手が異形の竜の手になっていない事を何度も確かめた。二の腕、肘、両手首――

バーサーク竜体に特有の、異形の鱗は生えていない。皮膚の下に仕舞い込まれている鱗も、今のところ、違和感は全く無い。

その事実にホッとしつつも、エメラルドは底知れぬ予感に、ブルッと身を震わせた。

セレンディが、ボンヤリと述懐した内容が、思い出されて来る――

――バーサーク化する時は、寝ている間、一種の悪夢のような物を見るのよ。 無意識の――深層レベルの心身のエーテルの乱れが見せる物。『そうなりたい人』にとっては、ドラゴン・パワーの突き上げとか――ハッスルするようなイメージになるみたい。

そうして、『バーサーク危険日』が始まると同時に、周り中のエーテルを一杯に吸い込んで、バーサーク化する。心の底で暴走する望みを、夢を、そのまま、なぞるみたいに――

4-4思い惑いの曲がり角

エメラルドは、まんじりともせず朝を迎えた。

様々な不安が一斉に湧き上がって来て、一睡もできなかったのだ。痺れてしまったような頭で、どうしたものかと考えてみた結果――

――とりあえず、いつも朝一番でやって来る食事担当の女性スタッフに相談してみる事にしたのであった。

「――バーサーク化する夢ですか? 思ったより《宿命図》の乱れの副作用が大きいみたいですね」

「よくある事なんですか?」

「隊士の半分は、そういう夢を見るんですよ。今回は、次の『バーサーク危険日』がもう1週間後に迫ってますから、天球の星々との万物照応の影響も大きいのかも知れません。 明日までに拘束具を準備しておきますので、念のため、それを付けて置いて下さいね。もし眠れないようでしたら、強めの睡眠薬も用意できますから」

女性スタッフは、半透明のプレートを魔法の杖でつつき、難しい顔をした。

「ウラニア女医は、1週間後まで時間が取れないんです。くだんの『疑惑の総合商店』、当分泳がして尻尾をつかむって事に決まっちゃったんで、 次回の『バーサーク危険日』に備えて多数のスパイを放って、問題のドラッグの購入者の洗い出しとか、 色々なデータをリストアップしなくちゃいけなくなったんです。研修医スタッフ全員、休日完全返上で大車輪ですよぅ、もぅ」

――想像以上に大変な事になっているらしい。エメラルドは苦笑するしか無かった。

今日はロドミールにとっては休日に当たるから、少しは時間が出来る筈だし、 会いに来てくれるのでは無いかと思ったのだが――朝食を済ませて数刻後、予期される時間帯になっても、ロドミールは来ない。

エメラルドは医療院の遠隔通信セットで、再びロドミールの呼び出しを試してみる事にした。だが、接続先に出て来たのは、やはりあの同僚であった。

「――あ、この間のロドミール殿の彼女さんですね」

「ロドミールは、まだ捕まらないんですか?」

接続先に居るロドミールの同僚は、平身低頭と言った口調である。半ば、涙声すら混ざっていた。

「ホントにごめんなさい。僕はまだ連絡係を担当しているだけの下級魔法神官の修行中の新人ですし、 位置情報魔法を充分にマスターしてるとは言えないんです。それに、ロドミール殿のメッセージボードは、ずっと『遠方出張』という内容のままなんです。 多分、エメラルドさんの入院で動転して忘れてたんだと思いますが、 その後も忙しすぎるせいか、こちらには一瞬だけ顔を出しただけで、すぐ転移して、どっか行っちゃいました。 その時は、メッセージボードも一瞬だけは『一丁上がり』だったんですけど」

――どうやら、ウラニア女医の忙しさが、ロドミールにも伝染したらしい。

エメラルドは釈然としない物を感じながらも、遠隔通信を切り上げた。こうなったら、自分で『位置情報魔法』を使って探してみるしか無い。

エメラルドは個室に戻ると、セレンディの魔法の杖を取り出した。髪留めの『魔法署名』を使った『位置情報魔法』で、ロドミールの位置を割り出してみるのだ。

真昼の刻。ロドミールは機密会議の途中らしかった。

魔法陣は、神殿の中の何処か、という所までは絞り込んだ。しかし神殿の一定以上の奥となると、良く分からない目くらましが掛かっているかのように、位置探索中の青い光が迷走し始める。

エメラルドは、青い光の動きをジッと観察した。

一定のパターンがあるように見受けられる。神殿の中心部に行けば行くほど、青い光の動きが鈍くなるのだ。 時間を掛けて平均を取ってみると、青い光が探索を諦めたかのようにスゴスゴと戻る、一定のラインが何となく浮かび上がって来た。

(この辺りって、《神龍》が存在するとされている、聖所を取り巻くラインだ)

エメラルドは暫く考え、神殿隊士の間では――竜王都の中でも――常識となっている内容を思い出した。

――神殿の4人の《盾神官》が、《神龍》と神殿を守護している。特に《風の盾》――「風のイージス」は、《死兆星(トゥード)》の接近すら跳ね返す。

(神殿の守護の力は、《死兆星(トゥード)》のような強い凶相すら弾き返すのだ。私の『位置情報魔法』による魔法攻撃――と言うか、魔法干渉なんて、物の数にも入らないんだろう)

エメラルドは、目の前でまざまざと浮き上がって来た事実に、慄然とする思いだった。セレンディは強い魔法使いだし、ロドミールも上級魔法神官なのだから、実力は相当な物だ。

だが、この守護――絶対防御――の有り様には、全く別次元の強さを感じる。 今この瞬間も、猛将ラエリアン卿が揃えた第一級の魔法使いによる、神殿守護を破るための魔法攻撃が、ひっきりなしに襲い掛かっている筈だ。 それでも、ビクともしないのだ――この絶対防御は。

――風のエレニス・シルフ・イージス。

(何て強い魔法使いだろう――『風のエレニス』と言う神官は)

*****

エメラルドは、集中して魔法を発動し続けている事に疲れて来て、暫しウトウトとした。

フッと意識が戻り、ハッとして窓の外を眺めてみると、既に午後の半ばを過ぎた辺りである。エメラルドは、今日は此処までにしようかと思案し、魔法陣を解除しようと床タイルを眺めた――

(――!!)

エメラルドは、驚きの余り心臓が口から飛び出す思いだった。魔法の地図は、神殿を出て、門前街区へと移動している。 鮮烈な青い光が、自信満々に、一点で光っている。エメラルドにとっても、記憶にある場所だ。

(今、ロドミールは、高級レストランに入ろうとしている!)

医療院と高級レストランは、そんなに離れていない。メインストリートを挟んで隣り合う大図書館ほどには近くは無いが、歩いて行ける――近場と言って良い――距離だ。

これはチャンスだ。場違いだろうが何だろうが、直接に顔を合わせなければ、話したい事も話せない。 例えば、ロドミールの忘れ物の、『上級占術・匿名相談コーナー』の「未使用」チケットの件とか――

エメラルドは個室を飛び出そうとして、ハッと気づいた。

問題の高級レストランには、ドレスコードがある。お金があっても、場所に合わせた適切な衣装をまとっていなければ、客と認識してもらえない。 自分の普段の、あっさりとした――と言うよりは、ざっくりとした街着姿を見下ろし、エメラルドは焦ったが、すぐに閃いた。

――持つべきものは、友!

エメラルドは長持を開き、セレンディや店スタッフの勧めで買ったばかりの、正装を取り出した。 宮廷社交界を念頭に置いた格式の品だけに、高級レストランでのディナーでも充分に戦える装いである。馬丁ゲルベールも、「これは化ける」とコメントしてくれたのだ。

――化ける。

エメラルドは、更に思案する。ロドミールが何をしようとしているかは未知ではあるが、彼が目的も無しに、高級レストランのような場所へフラリと立ち寄るだろうか。

この衣装で、印象が変わる程に化けられるのならば、ロドミールが何をしようとしているのか、こっそりと偵察する事も出来よう。 偵察任務の経験は無いが、武官に必須の技術として、身体に叩き込んである。

ロドミールの顔を見たい。しかし、高級レストランのような場所で、ロドミールが恥をかいてしまうような騒ぎを起こすつもりは無い。

エメラルドは手早く装いを整えた。

いつもの習慣で、髪型をキッチリとした武官仕様ポニーテールにまとめた後……思い直して、ハーフアップにして流すスタイルに変えた。 素人ならではの型崩れがあるが、スカーフで適当に覆ってしまえば分からない。ついでに、微妙にアヤシイ所だが、お忍び中の良家の令嬢を装って、人相も或る程度、隠しておく事にする。

いつもの髪留めだけでは、気配か何かで、バレる可能性がある。エメラルドは手頃な物が無いかと見回した。

長持の錠前に付いていた曜変天目の造花をカンザシに見立てて、スカーフで覆われていない部分に挿してみる。 退魔樹林の落ち葉から切り取った曜変天目パーツは、定番のアクセサリーに使われる素材だから、違和感は無いだろう。

夕方の光へと移り変わる窓の面に全身を映し、高級レストランで客と認識してもらえる装いである事を確認する。

その後、エメラルドは、ペン程の大きさにしたセレンディの魔法の杖を握り締め、速足で神殿街区へと飛び出して行った。

*****

休日の宵とあって、高級レストランやその他の店が並ぶ高級プロムナードの客足は多い。目下、最悪のタイミングという事があって、医療院のメンバーは休日の恩恵に与れなかった訳だが。

――「お忍び中の良家の令嬢」設定で、経験豊かな店スタッフをペテンに掛けられるだろうか?

いざ高級レストランのゲートに接近する所で、エメラルドは暫し逡巡した。だが、どんなに取り繕っても、失敗する時は失敗するのだ。 事前情報は多いに越した事は無い。エメラルドは早速、物陰で『地獄耳』魔法を発動してみた。

セレンディの魔法の杖は、優秀だった。エーテル騒音が出ない――ほぼ隠密レベルである。セレンディの魔法の杖は、早速、役立ちそうな会話を流して来た――

『――おい、まだ彼女たちの用事は終わらないのか? 会食の時間に遅れちゃうよ。今夜は御本尊も出て来る絶好のチャンスだろうに。 特等席をキープしたんだ、上級魔法神官との取り合いにまでなってね。さっき、上席のオッサンを見たらビッグネームじゃ無いか、冷や汗かいたよ』

『シェルリナ嬢と此処の友人たちの買い物は長くなるって、言っただろうが。女ってのは、そんなもんさ。この分だと、此処へ来るのは客が一巡した頃だな、ハハハ。 まぁ、展望台のバーまで行って貴重な休暇を楽しもうじゃ無いか。此処からの夜景と、特製のカクテルの組み合わせは、見ものだ』

――ふむ。感じからすると、この「噂のシェルリナ嬢」は、エメラルドが化けても不自然に思われないお年頃のようだ。 一回り若そうな感じもするが、夜間営業の店を回れる年齢――既に成体と見なされる年回りだという事は、確実である。

エメラルドは、高級レストランに乗り込んだ。「お忍びの令嬢」という設定どおりに、足取りは武官風では無く、女官風を装っておく。

物慣れた店スタッフが、「いらっしゃいませ」と言いながら、にこやかに出迎えて来た。客と認識されたようだ――第一関門は突破した。 ただし、物慣れた風のスタッフは騙しにくいから、臨機応変に理由を取って付ける事にする。

「シェルリナ嬢の代理で参っております。彼女は知人と待ち合わせしているのですが、もう少し遅くなりそうなので。 ただ、時限までには間に合わせるとの事でしたので、今、先着の方々をお呼び頂く必要は御座いません。 万が一の中継のため、シェルリナ嬢の席に着いておきたいので、ご案内お願いしますわ」

――よし。舌を噛まずに、滑らかに言いきれた。店スタッフは少しの間、不思議そうな顔をしていたが、特に疑うべき理由は思いつかなかったらしい。

「どうぞ、こちらで御座います。お客様、お名前は何とお呼び申し上げれば宜しいでしょうか?」

「私は《風霊相》です。シルフィードで構いません」

「了解いたしました。お茶などは、如何いたしましょうか?」

エメラルドは頭全体を覆ったスカーフで、適当に人相をカバーしつつ、少し首を傾げた。ちょっと考えた後、以前に此処で頼んだ紅茶メニューを思い出す。

「では、《暁星(エオス)》を……紅茶のメニューにあった筈ですけど」

「承りまして御座います、シルフィード。では、こちらで多少お待ちくださいませ」

エメラルドは、神殿でよく見かける女官の身のこなしを思い出しながら、慎重に案内された席に着いた。 ざっと観察してみる限りでは、7人席だ。『地獄耳』で聞いた限りでは、4人から5人の会食だろうと思われたのだが、「噂のシェルリナ嬢」を取り巻く知人の方が数が多いらしい。

エメラルドは、設定が上手く行ったと、ホッとした。

中階層に位置し、趣味の良い仕切りで予約席ごとに仕切ってあるため、落ち着いて会食が出来る――かなりの上席だ。 地上階層はひっきりなしに客の出入りがあり、展望台と連結する屋上階層はバーとなっていて、ザワザワした雰囲気の方が強いものだが。

(会食席という事は、ロドミールは誰かと会食しているという事だ。一体、誰と……?)

思案しているうちに、先ほどの店スタッフが丁重な様子で茶を運んで来た。女官を装ってキチンとした感じの御礼で応え、魔法の杖を通じて都度清算を済ませる。 店スタッフが去って行った後も、思い出せる限りの卓上マナーを思い出しつつ一服する。

――美味しい。

お気に入りの紅茶は、記憶にある通りの不思議な彩りと、豊かな味わいだ。少し気持ちがほぐれ、エメラルドは思わず笑みを漏らした。

待ち合わせと言う偵察上の設定どおりに、一旦クルリと辺りを見回し、調度を観察する。

卓上には半透明のプレート――医療院の女性スタッフが常に持ち歩いている折り畳みタイプが置かれている。 中身を展開してみると、神殿街区のガイドブックだ。相当量の情報を詰め込めるというメリットを活用している訳だ。

エメラルドは、ペン程の大きさをしたセレンディの魔法の杖で半透明のプレートをつつき、ガイドブックに目を通している振りをしながらも、『探知魔法』を併用した『地獄耳』を発動した。

探知魔法は、退魔樹林を超えて城壁に這い寄る魔物を探知するための手段だから、 城壁ハイウェイをパトロール中の当番の隊士たちからの物が、此処まで混ざって来ても不自然では無い。しかし、まさか恋人にこれを使う羽目になるとは思わなかった。

*****

ロドミールの位置は、すぐに判明した。

探知魔法の測定結果を半透明プレートの中に展開してみると、四色の濃淡のイメージのみだが、2つ仕切りを隔てた会食席で、3人で会食している様子が浮かび上がる。

――《水》の青、《水》の青、《地》の黒。

セレンディの魔法の杖は、早速、会話の模様を運んで来た。最初は、初老と思しき男の声だ。

『――ロドミール君。貴君は、神殿隊士を務める女武官エメラルドと親しいと言う噂を聞いているが、エメラルド隊士との関係は、どのような物なのだ?』

エメラルドは、一服しかけた紅茶を、吹き出しかけた。

いきなり自分の名前が出て来るのは、ギョッとする。危ない所ではあったが、粗相という程のレベルでは無く、ホッとする。

『ミローシュ猊下、猊下がお気になさるような事は、何も御座いません』

これは、ロドミールの声だ。気のせいか、ロドミールの声は緊張していて、硬い感じだ。

――それに、猊下。ミローシュ猊下と言えば、《水》の大神官長ミローシュの事では無いか――そう、 「噂のシェルリナ嬢」の男友達がいみじくも感想を漏らしたように、想像以上のビッグネームだ。 いつの間にか、ロドミールは大神官長と親しく会食するようなレベルにまで出世したらしい。

エメラルドは跳ね回る心臓をなだめ、手巾で口元を抑えつつ、耳を澄ませた。ロドミールは慎重に言葉を選びつつ、「ミローシュ猊下」の問いに答え始めた。

『――実は、エメラルド隊士の《宿命図》に、恐るべき大凶星と思われる相が浮き出て来ているのです。 次の『バーサーク危険日』の時にバーサーク化する可能性が、かなり高い。それで、前々から注意して観測しておりました。 勿論、私は、彼女と恋人関係にあった事はありません。ですが、彼女は私にとって、大切な『親友』の1人です』

――どういう事なの?

エメラルドは呆然としたまま、何も考えられなくなった。

そうしているうちにも、ミローシュ大神官長は、『成る程』と呟き、ゆっくりとうなづいたようだった。

『そう言えば、エメラルド隊士は重度のバーサーク傷を負っていたと、ウラニア女医から報告を聞いた。経過は良好だそうだが、親友としては、やはり心配だという事は理解できるよ』

暫し間が空いた。ミローシュ大神官長は、お茶かお酒を一服したらしい。やがて再び、初老の男の声が穏やかに続いた。

『ティベリア、お前は素晴らしい男を見初めたようだ。しかも、お互いの《宝珠》の適合率は80%ラインと出ている。 お互いに、限りなく《宿命の人》同士だ。父親としては、何も言う事は無い。勿論、すぐに――と言う事は出来ないが」

再び、意味深な間が空いた。

ロドミールの性格からすると――ロドミールは、ティベリア嬢と思しき女性に、笑みを浮かべて見せたのでは無いだろうか。 《宿命の人》に対して本能的に湧き上がって来る、本物の愛情を込めた微笑みを。

――《宿命の人》。《宿命の人》。《宿命の人》……!

エメラルドもまた《宿命図》に支配される竜人の1人として、今や、理解せざるを得なかった。

――ロドミールがお見舞いに来てくれたのは、恋人としてでは無かった!

4-5行方知れぬ流れに抗い

翌朝――

エメラルドは、医療院の個室で目を覚ました。

窓の外に広がる空は、既に夜明けを迎えていた。

――おかしな事だが、いつベッドに入っていたのだろう? 失神するように眠りに落ちたせいか、不気味な悪夢の感触は残っているが、内容を覚えていない。

それに、昨夜はドレス姿だった筈だ。いつ、お茶を済ませてレストランを出たのかも、記憶は定かでは無い。 偵察に無様に失敗していた、などという結果になっていなければ良いが、明確な記憶が無いだけに、何とも言えない。

エメラルドは、ベッドの中で、つらつらと考えを巡らせた。 昨夜は、無意識のうちに武官としての習慣が機能し、キチンと着替えを済ませ、入浴も済ませた上に、いつもの寝巻に着替えて寝ていたらしい。

ただし――セレンディの魔法の杖を握り締めたままで。まるで、その杖が命綱でもあるかのように。

ロドミールには《宿命の人》が居た。《宝珠》適合率、80%ライン。本物の婚約を思案するレベル。

しかも、そのお相手と来たら、神殿トップを務める4人のうち1人、《水》の大神官長ミローシュの愛娘だと言うのだから、目を見張るべき大躍進が、おまけに付いて来る。 神殿組織の特徴を考えてみても、ロドミールは数年後には、間違いなく大神官に昇格しているだろうと予想できる。

親友の1人としては、ロドミールの幸運を喜ぶべきなのだろう。元々、ロドミールとエメラルドの《宝珠》適合率は50%、すなわち親友ラインだ。 時間を掛けた交際を通じて、《宝珠》適合率はかなり上昇したとは思うが、依然、太鼓判レベルと言う訳では無い。

――しかし、それでも――

エメラルドの心の底には、モヤモヤしたわだかまりが残った。

「《宿命の人》が居るなら居たで、変に行方をくらましたりしないで、ハッキリ言ってくれたら良いじゃない」

エメラルドは深い溜息を付き、ベッドで丸くなった。

――これが、失恋というものか――

心の中に、仄暗い空虚が出来たようだ。自分で思っている以上に心身に大きな衝撃を受けたらしく、いつもの気力が湧いて来ない。 いつか読んだロマンチック恋愛小説みたいなドラマチックな涙は出て来ないが、その代わり、モヤモヤしたわだかまりの密度が、次第に色濃くなっていく。

エメラルドは、武官としての習慣で、いつの間にかロドミールの言葉の内容を精査し始めていた。

――実は、エメラルド隊士の《宿命図》に、恐るべき大凶星と思われる相が浮き出て来ているのです。次の『バーサーク危険日』の時にバーサーク化する可能性が、かなり高い――

エメラルドは、不意に引っ掛かる物を覚えた。

ロドミールの口調は硬かったが、あれは間違い無く、何らかの確信を抱いている口調だ。 50%以上の確率で、いや、100%に近い確かさで、エメラルドがバーサーク化する――とでも言わんばかりだった。

(ロドミールは、私の《宿命図》の何に、気付いたんだろう? 私自身は「もしかしたら」というだけの事しか知らされていないし、 実際、ウラニア女医も、女性スタッフを通じての伝言ではあるけれど、「宿命図が不安定になっている」という以上の事は、言及しなかった――)

それに。

大凶星の相が浮き出て来たという事に気付いていたのであれば、ロドミールは何故、気付いた時点で、口で直接、警告してくれなかったのだろうか?

――流石に、徹底的に武官向きの気性と言うべきか。ロドミールを「スパイ容疑者」と見立てて問いただすべき項目を思案しているうちに、気力が湧いて来たような気がする。

エメラルドはムクリと起き上がると、いつもの街着に着替えた。長持の中を改めて調べる――

(――?)

思わずギョッとして息を呑む。昨夜は着ていた筈の、あの新品の正装が行方不明だ。何処へ消えたのだろう?

エメラルドは余りハッキリしない記憶を呼び起こそうとしたが、思い出せない。

困った――偵察活動に、やはり無様に失敗していたのだろうか? 夜の街の何処かで、変態に遭遇して、衣装を剥ぎ取られたとか……

「――エメラルド隊士? 何を探してるんですか?」

いきなり背後から女性スタッフの声がして、エメラルドは思わず「ヒャッ」と言いながら飛び上がった。

「え? あら、ごめんなさい! そんなに驚かせるとは思わなくて。お手伝い必要ですか?」

女性スタッフは、いつも通り人懐っこく、気を利かせて来た。脇には、朝食を乗せたワゴンがある。 何でもない事だが、その変わらぬ態度と光景に、エメラルドは少しホッとしたのであった。

女性スタッフは、エメラルドの様子がいつもと少し違うという事に気付いたらしい。 エメラルドが朝食を取っている間、「やはり、セレンディさんやファレル君が旅立った後は、寂しいですね」と微笑みながら、巷で流れている、時事的な雑談や噂を並べていったのであった。

――そして意外な事に、その中で、エメラルドのドレスの行方が判明したのであった。

「そう言えば、エメラルド隊士。新人のコック見習いくんが『昨夜遅く、幽霊を見た』って震え上がってたんですよ。女性用の入浴場の方なんですけどね」

「女性用の入浴場……」

「怪談(ホラー)に興味おありですか? それが何とも不気味な話で。 こんな、『バーサーク危険日』やら特殊作戦やらに対応して、研修医スタッフはおろか医師すらも総出で大車輪なんて言う、 おバカな程に多忙な時期じゃ無ければ、パトロールの方にも余力が割けた筈なんで、こんな事は普通は無かったと思うんですけどね。 医師や研修医って、同時に特殊技能のある上級魔法神官でもありますから」

――その、哀れな新人くん、いわく。

女性用の入浴場は、一切、明かりが付いていなかった。それなのに、誰かが利用しているらしく、お湯の音がした。 そこからして、まず不自然だ。闇の中で目を凝らしていると、やがて、ひとりでに、入浴場の扉が開いた。 誰かが魔法で開いたようだが、聞こえて来てしかるべき、エーテル騒音(ノイズ)が無い。 余程の魔法の熟練者らしいが、そんな熟練の魔法使いは、今のところ、医療院に入院していないのだ。

更に、信じがたい光景が続いた。ピチャ、という滴り音に続いて、入浴場の扉から、グッショリと濡れた、若い女性向けのドレスが出て来た。 上から下に向かって白から紫のグラデーションになっている、惚れ惚れするような染めのドレスだ。 そのドレスは、見る間に青い炎に包まれ、燃え上がった。燃え上がりながら、新人くんの方をユラリと振り向いて来た――

女性スタッフは眉根を寄せつつ、ヤレヤレと言ったように首を振った。

「そこで、新人くんは恐怖の余り、記憶が切れちゃったんですね。悲鳴を上げる事も忘れるくらい怯えて、一目散に逃げ出した……という事の他は、覚えてない状態なんですよ。 でも想像してみると、不気味だけど不思議な幽霊って感じですよねぇ。一体、どんなミステリーがあったんだか」

エメラルドは、微妙な気持ちになった――ごめんなさい、想像力の強すぎる新人くん。見習いという事は、人体換算すれば、まだ12歳といったところだろうに。

「えっと、それが幽霊だと言う根拠は何だったんですか? 燃えたのなら、その灰が残っている筈ですが」

女性スタッフは、困ったような苦笑いを返して来た。

「それが不思議なところでしてね、エメラルド隊士。灰すら残さず燃えちゃったみたいですね。 原子レベルになるまでに分解しちゃったのなら、もう普通の魔法使いでは追跡できないんですよ。 それに、新人くんが死ぬほど怯えたと言う事の他には被害は全く無いですし、警備隊の魔法使いによる調査が入るかどうかは、 この『バーサーク危険日』を間近に控えた時期には、流石にねぇ」

雑談が一段落したところで、女性スタッフは「昨日、説明していた、バーサーク化を抑える拘束具です」と言いながら、 セレンディが装着していたのと同じタイプのチョーカーを渡して来た。

「――あの、治療師(ヒーラー)であれば、《宿命図》は読めますか? 私の《宿命図》に、バーサーク化する兆候が出て来ているのかどうか、どうも気になるんですが……」

暫し、女性スタッフは驚いたように瞬きした後、申し訳ないと言った様子で眉根を寄せて微笑んだ。

「ごめんなさい、エメラルド隊士。治療師(ヒーラー)は、神官のように《宿命図》を読む能力は無いんですよ。 せいぜい大天球儀(アストラルシア)の各種操作とか、『位置情報魔法』を組み合わせるところまででして、普通の魔法使いと、どっこいどっこいです」

女性スタッフは、あごに手を当てて、慎重に思案する格好だ。

「――言ってみれば、あらゆる『位置情報魔法』の上を行くのが、《宿命図》占術――《神祇占術》なんですよね。 《宿命図》は量子状態みたいにボンヤリしてる代物ですし、その星々の位置と速度を判読する能力があると判明した時点で、神官に昇格するんです」

次いで女性スタッフは、エメラルドを安心させるかのように、自信満々の笑みを浮かべたのであった。

「ウラニア女医の見立てによれば、エメラルド隊士の場合はバーサーク化リスクをほぼ抑え込めたという事ですし、 《宿命図》の乱れが大きいというだけですので、そんなに心配は無いと思いますよ」

*****

女性スタッフの説明は、論理的には納得できる。だが――

エメラルドは、女性スタッフが「ごゆっくり」と言って個室を出て行った後も、つらつらと思案に沈んだ。

ロドミールとの長い交際の甲斐あって、ロドミールのちょっとしたクセや口調の微妙な変化などは、ほぼ網羅している。勿論、完全にと言う訳では無いけれど。

そのロドミールの、確信のある口調が、やはり、どうにも引っ掛かる。

偶然か故意か、いずれにしても、ロドミールが『遠方出張』ないし『諸般多忙』を言い訳にして、ずっと行方をくらます形になっていたのは事実だ。 ティベリア嬢への嫉妬も大いに含めつつ――と正直に認めながらも、疑い深く検討してみれば、まるで、浮気に際してアリバイを作っていたかのような行動である。

それに目下の、自分の問題は――そこまで考えて、エメラルドは不意に閃いた。

――バーサーク化を自力で阻止できるような方法は、あるのでは無いか?

そう思いつくと、エメラルドは居ても立っても居られなくなった。

ちょうど、医療院の隣に、大図書館があるでは無いか。古今東西の書籍が揃う《知の殿堂》大図書館になら、ヒントが眠っているかも知れない――

*****

神殿付属の大図書館の受付では、いつもの業務が続いていた。新しい書籍の受け入れと、その分類である。

若手ベテラン司書『風のユーリー』は、いつものように新しく入ってきた書籍の概要を簡単なメモにまとめ、手持ちの半透明のプレートに詰め込んで行った。――これで良し。

ユーリー司書は、新人司書のグループと共に最後のチェックを済ませると、新人司書たちに、新しい書籍の本棚への収納を指示した。 書籍の山を乗せたワゴンが、新人司書たちと共に転移魔法陣で所定の位置に移動して行ったのを見届ける。

受付に戻ったユーリー司書は、早速、新顔の存在に気付いた。

思案顔をしながら、受付ロビーにある大天球儀(アストラルシア)を魔法の杖でつついている。明らかに、此処に不慣れな様子の、恐らくは新規利用者だ。

同年代の女性だ。エメラルド色のムラのある髪をキッチリとした武官仕様ポニーテールにまとめており、見るからに文官では無い。 ざっくりとした街着をまとっているが、その鍛えられた足取りは、確実に武官の類だ。 不安げな面差しは、人並みに埋もれて目立たないタイプの人相として形作られているものの、ジッと見ると、繊細な柳眉が意外に上品な雰囲気を醸し出している。

ユーリー司書は、エメラルド色の髪をした若い女性に近づいた。

「いらっしゃいませ。お手伝い出来る事は、ありますでしょうか?」

新顔の女性は、ユーリー司書の、竜王国の紋章入り蔽膝(エプロン)――公式な事務女官としての制服――を眺めて、ホッとしたような顔を向けて来た。 だが、その質問は、とんでもない代物だった。

「――凶星に関する資料は、何処にありますか? 主にバーサーク化に直結する《宿命図》相についてですけど」

ユーリー司書はギョッとしながらも、魔法の杖を構えて、手持ちの半透明のプレートをつつき始めた。

「あの、その類の資料を利用する人については、直近の個人情報を確認させて頂く事になっております。『バーサーク危険日』対応の一環として――差し支えなければ……?」

「ああ、済みません。私は今、隣の医療院に入院中で……『風のエメラルド』です」

「あ、バーサーク傷を受けた方ですね。事情は大変良く分かりました」

エメラルドは困惑の笑みをこぼすばかりだ。

「分かるんですか?」

ユーリー司書は、シッカリとうなづいた。

「ええ。バーサーク傷を受けた方々は、回復期になると、その類をお調べにいらっしゃるのが多いですから」

「そういうモノなんですね」

ユーリー司書は手元のプレートをつつき、スケジュール表を眺めた。この後は新人司書のローテーションだ。 ベテラン司書はその分、手が空く。いつもなら『風の噂』や『井戸端会議』に流す書籍情報をピックアップするところだが――

ユーリー司書は、長年の司書としての勘で、エメラルドが『必ずや、解答を見つけてやろう』と決意をしている事に気付いた。何らかのタイムリミットがあるのか、焦りも仄見える。 どのような解答を見い出そうとしてるのかも謎だが、そのミステリーは、ユーリー司書の直感を揺さぶり、好奇心をかき立てるのに充分であった。

――それに、エメラルドとは良い関係が築けそうだ。例えば、一緒に女子会するレベルの。

それは、もはや確信だった。ユーリー司書は、春の空のような柔らかな色合いの目を細め、ニッコリと微笑んだ。

「この『風のユーリー』が御一緒いたしましょう、エメラルドさん。実は私も、バーサーク関連については不案内なのです。この機会に、共に知見を深めたいと思います」

◆Part.5「―凶星、是か非か―」

5-1記述の中に手掛かりを求め

――禍福(かふく)は糾(あざな)える縄の如し。

この数日間でユーリー司書と親しくなったエメラルドは、含蓄のある箴言を、実感と共に噛み締めていた。 超古代に由来するらしいと言う事の他には、詳細が良く分かっていない箴言ではあるが。

標準的なアッシュグリーンの髪を軽いシニヨンにまとめ、役所指定のタッセル付き花簪(はなかんざし)を装着し、 女官仕様の堅実な下裳(ラップスカート)に竜王国の紋章付きの蔽膝(エプロン)をまとう――ユーリー司書は、若いながら、大図書館『知の殿堂』の中を知り尽くすベテラン司書だ。

ユーリー司書の春の空のような柔らかな色合いの目は、実に夢見るような眼差しを形作っているが、 その応答には、鋭い機転とユーモアが利いている。そして、的確な情報を引き出して来るそのスピードは、武官としての目から見ても惚れ惚れするレベルであった。

ユーリー司書とは、何という事の無い最近の出来事を語り交わす仲になった。

まだロドミールの名前を出せると言う程では無い。しかし、男友達となかなか連絡が付かず、涙声の同僚がいつも出て来る――という事は気楽に話せた。 連絡メッセージボードでは、いつも『遠方出張』、たまに『一丁上がり』となっているらしい――これはこれで、笑い話ではある。

ユーリー司書は『一丁上がり』という言い回しを面白がって、コロコロ笑ってくれた。

次の半日公務の日、午後から女子会というか食事会に来ませんか、というお誘いも頂いているが――

*****

――次の『バーサーク危険日』まで、残り2日。

日に日に、我が身がバーサーク化すると言う悪夢の内容が、ハッキリとしたリアルな感覚と共に再現されるようになっている。

今朝などは、全身にギシギシとした違和感が残っていた。単なる幻覚だと言い聞かせながらも、違和感が消えるまで、ベッドの中から出る事が出来なかった。

セレンディは、こういう、身を灼くような不安を抱えて生きていたのか――

ふと小耳に挟む形になったセレンディの述懐を思い返すにつれ、悩みが増す。 気休めかも知れないと思いながらも、支給された拘束具を、1日中、装着するようになった。チョーカーの形をした、バーサーク化を抑える拘束具だ。

こうやって資料に取り組んでいる間は、幾らか悩みを忘れられるのだが――それでも、解決には程遠いのは、事実である。

いつものように、バーサーク関連の資料をピックアップしていたユーリー司書は、エメラルドの顔をジッとのぞき込んだ。

「エメラルドさん、体調は大丈夫ですか? 顔色が悪いですし、余り良く眠れていないのでは?」

「確かに、眠れてはいないですね」

エメラルドは苦笑するしか無い。

ユーリー司書は、エメラルドのプライバシーに踏み込んだ質問はして来ないが、エメラルドが深刻なタイムリミットを抱えて焦っている事を充分に理解しているらしい。 『特定の分野に関心を示した利用者の監視』という事情もあるのだろうが、大図書館の開館の刻から閉館の刻まで、ほとんどの時間を資料検索と読み込みに付き合ってくれるのだ。

エメラルドは天井までギッシリと詰まった本棚の前に陣取ると、《風魔法》を使って、ユーリー司書がピックアップした本を、順番に取り出して行った。 魔法の『つむじ風』がヒュルルと渦巻き、目的の本が次々に空中を飛んで、用意していたワゴンに積み重なる。

「いつもながらスゴイですねぇ、梯子、要らないですね」

ユーリー司書が感心する。ユーリーも《風霊相》生まれだから《風魔法》は得意な方なのだが、その得意分野はどちらかと言うと、 力任せの運搬よりは、ホワイトノイズ魔法の発動や、空気で出来た『魔法の栞』の細工といった方面に偏っているのだ。 その得意分野を生かして、司書になった訳だが……人生、何がどう転ぶのか分からない物だ。

一通り資料が揃うと、ユーリー司書は本の山を乗せたワゴンを押しつつ、エメラルドを、いつもとは異なるコーナーに案内した。

「今日は、上級魔法神官の研究グループによる読書談話室の予約が多くて、この階層の読書談話室は、ほぼ塞がってしまっているんですよ。 隅っこの方に、ホワイトノイズ魔法の掛かった仕切りをセットして仮設の読書コーナーを作っておきましたので、どうぞ」

やがて、読書コーナーに到着した。エメラルドはワゴンから資料を降ろしながらも、ふと首を傾げた。

「上級魔法神官の研究グループって、そんなに数がありましたか?」

「えぇ、『バーサーク危険日』占術には複雑な計算式を使うそうなんで、複数の研究グループに分かれて慎重に検算をやってるそうです。 本当に、その日なのかどうか――占術の正確さを、そうやって高めていくそうですよ。今は、連続して3回、最高70%の的中率をレコードしているそうです」

エメラルドも、その話は聞き覚えがあった。その驚異的な的中率が達成されているからこそ、神殿勢力を制圧しようとしている将軍ラエリアン卿が、ひっきりなしにスパイを放って来るのだ。

仮設の読書コーナーに腰を下ろしたエメラルドとユーリー司書は、いつものように資料を開いた。やがて、ユーリー司書が有望な記述を見つけたようだ。

「エメラルドさん、こんな記述がありましたが、如何です?」

エメラルドは、示されたページに目を通した。

――2つの大凶星、《死兆星(トゥード)》と《争乱星(ノワーズ)》の、《宿命図》における違い――

《死兆星(トゥード)》――《宿命図》において、「死相」と判定される星配置である。 運命線の上に一時的に出現する予兆的な歪曲相であるが、変化の激しい運命線に現れるため、事前に検出するのは極めて難しい。 例外的に3代目の竜王の《宿命図》運命線で検出した事例があるが、当の本人は《風の盾》による守護を得ていたため、死亡しなかった。 この相は、運命線の上に予兆的に現れた後、生命線の上に転写されると考えられている。 事後の《宿命図》において、星々の異常変位によって生命線が断ち切られている様相が検出できる。

《争乱星(ノワーズ)》――《宿命図》において、「破局の相」とする星配置である。 何らかの理由で、この相が《宿命図》に定着した竜人は、心身状態が元々乱れやすく、バーサーク化しやすい。 ただし、ドラゴン・パワー極小&極大、または《器》極大の場合は、バーサーク化しにくい。 バーサーク傷を受けた場合、バーサーク毒による新たな星々が展開し、一時的・疑似的ではあるが《争乱星(ノワーズ)》様の《宿命図》凶相を示すため、 これが定着する前に、速やかにバーサーク毒を抜く事で対応する。

エメラルドは一通り読んだ後、思案を口に出して呟いた。

「一部、知らなかった部分もあるけど……医療院の中で、既に知られている事しか書かれてないみたい。この《器》というのは何かしら?」

「占術用語みたいですね。ちょっと検索しますので時間を下さい」

ユーリー司書はブツブツと呟きながら、大量の情報を手持ちの半透明のプレートに呼び出した。やがて、ユーリー司書は眉根を寄せて思案し始めた。

「ユーリーさん、何か見つかりました?」

「曖昧な記述だけです。どうも上級占術の奥義みたいですね。大神官のみ立ち入りできる『禁書目録』の書物にしか、 《器》というタグが付いてないんです。……えぇッ! この目録、7冊しか無い! ――何が書かれているんだか」

ユーリー司書は、更に検索を進めていた。ありとあらゆる糸口を試してくれているのは明らかだ。エメラルドはユーリー司書に注意を払いつつ、別資料のページを繰って行った。

やがて、ユーリー司書は顔を上げた。エメラルドもパッと顔を上げる。

「健康運、恋愛運、金運は『上級占術』で動かせる。そして、魔法(アルス)の結果と《器》との間には、相関関係がある――と言う付記が出てるのがありますね。 えっと、資料の名前は――」

――パキッ。

「えッ」

ユーリー司書は、手に持っている魔法の杖を眺めて、目を丸くしていた。エメラルドも絶句である。

「えっと……ユーリーさん、魔法の杖が……」

「不調……っていうか……カンペキ、壊れましたね……ハハハ……」

5-2奇怪なる交錯

――ユーリー司書の魔法の杖は、度重なる酷使で遂に限界が来たのか、見事に真っ二つに割れていた。

横にへし折れたのでは無く、縦にヒビが入り、綺麗に、割り箸を割ったみたいに割れてしまったのである。不調を誤魔化しつつ使うどころでは無い。

ユーリー司書は首を振り振り、魔法の杖の割れ目を合わせようとしていたが、無駄な試みである事は明らかである。

「一瞬だったんで、余り自信は無いんですけど、確か『天秤』という語が入っている資料名でしたよ」

「良く分からないキーワードですね。市場とか、お金? ……って事は無いでしょうし……」

「司法や裁判のシンボルも『天秤』なんですよね。まさかの『異議あり! 逆転判決』とか?」

ユーリー司書は盛んに首を傾げた後、「確か、予備の備品がありますから」と呟いて立ち上がった。

読書コーナーの仕切りを出ようとしたところで――ユーリー司書は、不意にギョッとしたような顔をし、サッと顔を引っ込めた。

「何か?」

「シーッ……私、あの人、苦手なんですよね。この間の食事会に割り込んで来て、友人に強い酒を飲ませたヤロー……」

エメラルドは仕切りの隙間から、ユーリー司書をギョッとさせたと思しき、その人物を、そっと窺った。若い男だ。 下級魔法神官の制服を着用しており、2人ばかりの上級魔法神官――いずれも男だ――と会話しつつ、隣の読書談話室へと入って行く。

(聞いた事のある声音……?)

エメラルドは、すぐにピンと来た。

意外にも、エメラルドの既知の人物である。ロドミールの同僚。目下、連絡係を任されていると言う、修行中の新人の下級魔法神官だ。 いつも接続先で応答して来て、『位置情報魔法すら充分にマスターして無くて』と、涙声で平身低頭してきた人物。

(――いや、でも何か……ちょっと待って。何かが、決定的に、おかしいような気がする――)

それは、いきなり閃いた。まさに雷撃のようなショックだった。

エメラルドは、ユーリー司書を激しく振り返った。 余りにも強く振り返ったので、髪留めが少しズレて、エメラルド色の髪が一筋、ほつれる。

ユーリー司書は一瞬ギョッとしていたが、流石に受付のベテランだ。すぐに『何でしょう?』と眼差しで聞いて来る。

「ちょっと変な事を聞きますけど、ユーリーさんは『位置情報魔法』マスターしてますよね?」

「え、えぇ、そうです。公務に携わる文官は皆、受付に回される可能性がありますし、中級の『位置情報魔法』を充分にマスターしてる事が必須条件です。 大図書館の資料検索なんて、『位置情報魔法』のカタマリですよ」

エメラルドの直感は、今や確信に変わった。

「下級魔法神官ともあろう者が、受付の人が皆マスターしている『位置情報魔法』を、充分にマスターして無くて――という事は、絶対に、有り得ないんですよね?」

「それは、そうですよ。神官は全員、上級だろうと下級だろうと、 辺境赴任の無印だろうと、《宿命図》を読めるんですから……《宿命図》占術の初歩が、最上級の『位置情報魔法』なんですから」

エメラルドの脳内は、高速で回転し始めた。武官としての直感に、ビシバシ引っ掛かるのだ。例えば――

「――忍者(スパイ)……?」

「えッ……」

ユーリー司書は、目を大きく見開いた。次いで、ユーリー自身にも思い当たる事があったのか、頭を抱えて、必死で考え出す。 記憶を掘り返せるだけ、掘り返しているのだろう。

「えっと、エメラルドさん、あの人は確か、おニューの新人です。えっと、入って来たのが……そう、 エメラルドさんが入院した日の翌日です。そう! それに、ウラニア女医の弟子でもある親友に強い酒を飲ませて、 バーサーク傷を受けた患者さんの事やら、バーサーク化した武官の事やら、聞き出そうとしてました……!」

――容疑、確定。

エメラルドは険しく目を細めた。セレンディの魔法の杖を、慎重に振る。

彼等――怪しい3人組は、密室でもある読書談話室の中に入って行ったのだ。明らかに、密談のためだ。 防音魔法やノイズ暗号、ホワイトノイズ魔法といった、ありとあらゆる情報漏洩防止の対策を用意している筈だが、 何としてでも、何が密談されているのか、知らなければならない。

セレンディの魔法の杖は、エメラルドの意思に、良く応えた。 エメラルドの、上級武官としての経験の限りを尽くして設計した、高性能な『地獄耳』を忠実に描き出して行く。 その様を注目していたユーリー司書が、目を丸くする。

「え、エメラルド、さん……、その魔法陣、一体……?」

それは、実に奇怪な魔法陣だった。無意識のうちに造り上げていたエメラルドも、ギョッとする程だ。

見た目は――3次元立体の魔法陣だ。

正円錐形の形をしており、大皿サイズの基盤面に《風》のシンボルが白く輝く。 正円錐形の頂点からは、基盤面に向かって幾本もの竜角のような形をした突起が緩やかな角度で伸び、 次第に基盤面を取り巻く、緻密な網の目をしたパラボラ型になった。白いパラボラの縁で、四色の光がチラチラと燃え始める。

新種の巨大キノコさながらに、大きなパラボラを頂点に乗せる格好になった白い正円錐形。

そのナゾ物体スタイルの魔法陣はフワリと浮き上がった。読書談話室の壁に、基盤面とパラボラの縁をピッタリ張り付けるや、チラチラと光りながらも透明になって行く。

今、エメラルドとユーリー司書の目に見えるのは、チラチラと燃える四色の光で出来た、単純な円環が、目標となった読書談話室の壁に張り付いている様子のみだ。

即席の『無色透明パラボラもどき』の魔法陣は、暫し様々な小細工と衝突していたのか、沈黙が続いていたが――急に、3人の男たちの声を捉え、焦点を合わせた模様だ。

『――では、2日後にバーサーク危険日が到来するのは間違いないのだな』

『ええ、夜明けと同時に。それと同時に、逆方式を立ち上げ、運命の《呪い》を発動すれば……』

『前回と前々回の《死兆星(トゥード)》照応は、爆心地の場所がズレて失敗してしまった。今度こそ、この占術方式であれば、 遂に我ら、《神龍の真のしもべ》が、究極の大逆転魔法によって、闇ギルドに身をやつしているバーサーク義勇軍と共に、竜王都の全てを正常化して――』

どうやら、『地獄耳』を超える『超・地獄耳』に成功したらしい。いわば『ハイパー壁耳』だろうか。

エメラルドとユーリー司書は、互いの目を見合わせた。 ユーリー司書は、半透明のプレートをきつく抱き締めて口をパクパクさせていたが、すぐに頭が回り出したらしい。

「う、噂の、神殿内部の熱血派、過激、そ、その魔法の杖、ちょっとお借りし、このプレートに録音し……!」

*****

――やがて、奇怪な密談が終わった。3人の男は、読書談話室を出て行った。

エメラルドとユーリー司書は、偶然に耳にした事実の異様さに、身体をカタカタと震わせるのみだ。

呆然自失の時間が過ぎた後――エメラルドの発音器官が、本来の機能を取り戻す。

「えっと、ユーリーさん、これって誰かに通報するにしても……上級魔法神官がかなり入ってそうですし、通報先って、限られますよね」

「うッ、うう……とりあえず、当ては無くも無い、かな……」

窓の外に見える光景は、既に夕方だった。大図書館の閉館の刻だ。今日は、もう、資料検索どころでは無い。

エメラルドとユーリー司書は、『3人の男の間で交わされた奇怪な密談の件』の通報先を慎重に選別し、 通報先が決まるまでは口外厳禁――という申し合わせをしたのであった。

5-3霧中の迷走と混乱の末に

遂に『バーサーク危険日』まで、残すところ後1日だ。

エメラルドは、もはや馴染みとなってしまった、あの嫌な違和感と共に目を覚ました。

――昨日の大図書館では、資料検索どころでは無く、ほとんど調査にならなかった。まるで、神か、神に等しい誰かが妨害しているみたいだ。

(こんな非合理な事を次々に思いつくのも、睡眠不足で頭が疲れているせいか。それとも、バーサーク化の前兆の1つか)

エメラルドは、いつもの朝食を済ませた後、ボンヤリと大図書館で取っていたノートを再読した。 このノートは、半透明のプレート様式である。 武官標準支給の品で、基本的なメモと検索機能しか無いが、今のエメラルドにとっては、なかなか便利な道具となっていた。

エメラルドは、最後のメモに目を通した――

――『2つの大凶星、《死兆星(トゥード)》と《争乱星(ノワーズ)》の、《宿命図》における違い』。

竜人の変身魔法の暴走に伴う、バーサーク化との関連が深いのは、《争乱星(ノワーズ)》だ。かのセレンディも、先天性の《争乱星(ノワーズ)》持ちである。

*****

《争乱星(ノワーズ)》――《宿命図》において、「破局の相」とする星配置である。 何らかの理由で、この相が《宿命図》に定着した竜人は、心身状態が元々乱れやすく、バーサーク化しやすい。 ただし、ドラゴン・パワー極小&極大、または《器》極大の場合は、バーサーク化しにくい。 バーサーク傷を受けた場合、バーサーク毒による新たな星々が展開し、一時的・疑似的ではあるが《争乱星(ノワーズ)》様の《宿命図》凶相を示すため、 これが定着する前に、速やかにバーサーク毒を抜く事で対応する。

★付記・資料名『天秤(?)』――健康運、恋愛運、金運は『上級占術』で動かせる。そして、魔法(アルス)の結果と《器》との間には、相関関係がある。

*****

エメラルドは、何回も読み直しているうちに、記述の奇妙さに引っ掛かった。

『何らかの理由で、この相が《宿命図》に定着した竜人は、心身状態が元々乱れやすく、バーサーク化しやすい』

何らかの理由で――何らかの理由で?

(どうして、こういう記述なのだろうか?)

こういった際どい内容に関わる著者が、何の理由も無く「言い回し」を選ぶ筈が無い。エメラルドは、必死に推理した。

セレンディは先天性の《争乱星(ノワーズ)》相を持っている。天然に授かってしまった大凶星であって、それ以外の何物でも無い。 バーサーク傷を受けた場合も、《争乱星(ノワーズ)》に呪われたのと同じ結果になる訳だが、それはバーサーク竜と対峙した結果であって――

(それ以外にも、バーサーク化する原因が有り得る、という事なのだろうか?)

今のところ、最も怪しいのは、セレンディを強制的にバーサーク化させたと思われる、『疑惑の総合商店』の違法ドラッグだ。 目下、ウラニア女医と彼女が率いる研修医スタッフのチームが、全力で対応している問題である。

(だけど、私は、その違法ドラッグを摂取していない)

メモをつらつらと読み直していると、聞き慣れたノック音がし、次いで、いつもの女性スタッフが顔を見せた。 そして女性スタッフは、遠隔通信セットを乗せたワゴンを押して入って来たのであった。

遠隔通信セット――腕一杯に抱えるくらいの大きさの正六面体と言い、その上に乗せられている、 正六面体と同じくらいの大きさの天球儀に似たアンテナと言い、かなり大振りな代物だけに、ワゴンに設置するだけでも大変だったのでは無いだろうか。

「あの、済みません、エメラルド隊士。《水》の上級魔法神官ロドミール殿から、遠隔通信が入ってますよ」

「……え?」

我ながら、間抜けな返事だ。ベッドに座ったままだったエメラルドは、枕元からボンヤリと魔法の杖を取り出し、遠隔通信装置を起動させた。

すぐにロドミールの声がやって来た。

「――あ、私だよ。こんなタイミングでごめん、エメラルド。 ついさっき、同僚から、何回か呼び出しが来ていたらしいと聞いたばかりなんだ。一体、どういう用件だったんだい?」

エメラルドは一瞬、ポカンとした。

どういう用件だっただろうか。最近は、バーサーク化をどうやって自力で阻止するか――という問題で頭が一杯だったから、すぐには思い出せない。

「何だったかしら。最近、悪い夢を毎晩見るようになって、眠れてないから――と言うよりは、睡眠薬で寝てる状態だから……」

ロドミールは、接続先の向こうで絶句しているようだ。暫し沈黙が続く。 ロドミールの背後で、ロドミールの同僚らしき人物の声がブツブツと続いているのが、接続先から聞こえて来た。

「あ、同僚さん、居るのね。新人の下級魔法神官さん。何か随分ご迷惑おかけしちゃったみたいね。 ロドミール、メッセージボードはキチンと更新しなきゃダメよ。ずっと『遠方出張中』のまま放置されてたから、同僚さん随分、困ってたようだし」

「メッセージボード? 何を言ってるんだ、エメラルド? まぁそれは良いけどさ、 何かカードみたいな物、見なかったかな? いつの間にか紛失したみたいで――何処で落としたのか思い出せないんだ」

ロドミールは、焦っているようだ。口調が少し早い。

エメラルドは暫く考えてみたが、エメラルド自身にも思い当たりが無い。ボンヤリと首元に手をやる。 そこには、すっかり馴染みとなった、チョーカーの形をした拘束具の感覚があった。 気休めでしか無いが、バーサーク化を抑え込んでくれる道具とあって、ついつい感触を確かめてしまう。

「カードみたいな物? メッセージボードの事じゃ無いの? 何か、次の『バーサーク危険日』の検証とか、 上級魔法神官のグループでやってるって話、風の噂で聞いたけど。ともかく、こっちはちょっとそれどころじゃ無いから、通信を切っとくね」

エメラルドは、通信を切った後になって、今まで武官用の魔法の杖で通信していた事に気付いた。 セレンディの魔法の杖は、ペン程の大きさにして、ベルトに挟み込んだままだった――我ながらウッカリしていた事に気付き、ちょっと「フフフ」と笑ってしまう。

女性スタッフは、礼儀正しく耳を塞いで待機していた。 「終わりましたか」と、にこやかに確認した後、いつものようにキビキビとワゴンを押して、個室を出て行った。

――そろそろ、大図書館の開館の刻だ。この1日が、最終決戦日だ――

遠隔通信を、手際よく切り上げられて良かった。エメラルドは、セレンディの魔法の杖を使い出して以来、余り使わなくなった武官用の魔法の杖を暫し眺めた。

(これは、今日1日は、長持に入れておいたままでも良いかも知れない)

外出する時は、使用する予定の無い身の回りの品は、全て長持に収めておく事になっている。 エメラルドは長持のフタを開き、中身を適当に移動し、武官用の魔法の杖を収める場所は何処が良いか、検討し始めた。

失恋のショックで、綺麗な色をしていた新品の正装を燃やし尽くしてしまったクセに、何故かスカーフだけは燃やし尽くすのを忘れていたりする。 我ながら、おかしな所で抜けている。そのスカーフを広げた瞬間――

――カシャン。

何処かで聞いた事のあるような物音だ。エメラルドは、スカーフの間から落ちた物をジッと見つめた。

――『カードのような物』だ。

(え? ちょっと待って? まさか、ロドミールが言ってたのは――)

一気に、記憶がよみがえる。何で忘れていたんだろう――こんな重要な事を!

神殿の一角にある『上級占術・匿名相談コーナー』の割当チケット――「未使用」。

震える手で、カードを――チケットを拾い上げる。このチケットは倍率が高いから、入手するのは大変なのだ。 エメラルドの心臓が、早鐘を打ち出した。確か、このチケットには、あらかじめ割り当てられた、使用指定日が付いていた。記憶によれば、それは――

――今日の、午後の刻だ!

エメラルドは、未使用チケットに刻まれた指定日時を凝視したまま、いつの間にか震えていた。

本来はロドミールに返すべきなのだろうが、得体の知れぬタイムリミットが迫っている今、もう、なりふり構って居られない。エメラルドは、口元を引き締めた。これはチャンスだ。 数少ない上級魔法神官に《宿命図》をチェックしてもらえるチャンスだ。絶対に、逃す訳にはいかない。

エメラルドは逸(はや)る心を落ち着け、まずはユーリー司書に連絡する事にした。

彼女は、いつものように大図書館の受付でスタンバイしているであろう――ユーリー司書に向かって、魔法の杖を使った直通の遠隔通信を飛ばしてみると、間もなくして応答が来た。 少しタイムラグがあったのは、予備の備品の魔法の杖を使っているからだろうと予想できる。

『――お早うございます、エメラルドさん。もうじき大図書館が開館しますが、如何いたしましたか?』

『ユーリーさん、今日は、他に重要な用事が出来たんです。大図書館には行けなくなった事をお知らせしたいと思って。こちらの都合で色々振り回して、ごめんなさいね』

『いえいえー。お気になさらず。ちょっと心配してたんですよ。何か意外にお元気そうでホッとしました。例の件は、鋭意、検討中という事をお知らせしておきます。 では、またのご利用をお待ちしておりますね』

流石、ベテラン女官のユーリー司書は、いつもと変わらぬテキパキとした軽やかな受け答えだ。 『例の件』と言うのは、あの『3人の男の密談の件』の事だ。ユーリー司書の機転の利く言い回しに、感心させられてしまう。

――ユーリー司書が、あんなに機転が利くのだ。自分も、ちょっとは知恵を絞ってみなければ。

忍者(スパイ)などと言った思わぬ人目がある事を考えると、誰なのかが分かってしまうような形で、医療院から直接『上級占術・匿名相談コーナー』に出向くのは、 やはり考え物だろう。昨日の密談に参加していた2人の上級魔法神官の、いずれかに当たってしまわないとも限らない。

エメラルドは、セレンディの魔法の杖を再び眺めた。セレンディ親子や馬丁ゲルベールとの買い物の際に、武官用の杖から移行していた褒賞金の残りが、まだ入っている。 此処は、再び資金を活用して、偵察スタイルで行くのが正解だ――

*****

一方、手際よく遠隔通信を切られた形になったロドミールは、困惑しきっていた。

同室に詰めている同僚が、怪訝そうな様子で疑問を投げて来た――ロドミールと同じ、上級魔法神官だ。

「エメラルド隊士と喧嘩したのか? それに、私の事を『下級魔法神官の新人さん』って……それに、『メッセージボード』って何の事なんだい?」

「私にも訳が分からないよ。彼女は疲れているんだな、多分」

――と、その瞬間。

ロドミールと同僚が詰めている、その執務室のドアが、音を立てて激しく開かれた。同僚が、入って来た人物を見て目を丸くする。

「――ウラニア女医!?」

ウラニア女医は、一層いかめしい顔をしていた。その後ろから、武官を伴った研修医スタッフが、素早く部屋に飛び込んで来た。

「さて、『定期健康診断』です。全員、ベッドに寝なさい」

ロドミールと同僚は、訳が分からぬままに武官に口を塞がれ、そのまま、誘導に従って部屋の隅に移動する。

数人の研修医スタッフが、鮮やかな手際で遠隔通信装置を分解し始めた。ロドミールと同僚は、目を見張ったまま、それを眺めるのみだ。

やがて、遠隔通信装置の基盤プレートが現れた。そこには、有り得ない筈の、魔物の血管のような禍々しい雰囲気の異様な魔法陣がセットされていた。

「――『血管に、致命的な異常あり』です! 緊急手術!」

研修医スタッフが掲げてみせた基盤プレートの魔法陣を目撃し、ロドミールと同僚は、武官に口を塞がれたまま、愕然として立ち尽くすしか無かった――

――盗聴魔法陣だ!

数人の研修医スタッフが手分けしてて各々の魔法の杖を振るい、異様な魔法陣の上に更に別の魔法陣をセットし始めた。 訳が分からぬ程に複雑な重ね合わせになっているが、盗聴魔法陣を逆手にとって、情報収集ステージに上げようとしているのは明らかだ。

「ウラニア女医、『緊急バイパス手術』が終了しました」

「大変よろしい。さて、事情説明しますよ、お二方」

ウラニア女医は、まだ呆然としているロドミールと同僚に向き直り、キビキビと説明を始めた。

「お二方は出張が多く、また、ここ最近も、長く執務室を留守にしていました。そこを狙われたのです。 この盗聴魔法陣は、此処に接続して来る本来の遠隔通信コールを妨害し、別の通信網に転送する物です」

だんだん、『とんでもない陰謀に巻き込まれていたらしい』という事を理解し始めたロドミールと同僚は、青ざめて行った。 硬直したまま、ウラニア女医の説明に耳を傾けるのみだ。

「――我々は、その通信網は、闇ギルドの勢力下にあると睨んでいます。 今日の朝一番で、『メッセージボード』という闇ギルド用の隠語が割り出せましたので、神殿の全ての通信内容に対して、緊急に隠密監視を施しておりました。 それに引っ掛かったので、取り急ぎ措置を取りました」

ウラニア女医は、灰色の眼差しをギラリと光らせた。

「不自然と思われる通信内容を記憶しているのでしたら、一切合切、説明をして頂きましょう。 隠密捜査に全面協力を願います。お二方で、やっと3例目の検出です。尻尾をつかむための情報が、少なすぎるのですよ」

5-4仮面の占術官

エメラルドは衣料雑貨店を回り、新しい街着を購入した。念を入れ、スカーフも新調する。

そして、人目の無い物陰に入ると、いつものザックリとした街着を処分し、セレンディが着ていたような、洒落た型染めのある街着に着替えた。 かつての「変装」並みに化けるという程では無いだろうが、いつもは無地の物だったから、程々に別人に見える筈だ。

――この辺で引き上げれば、約束の刻に充分、間に合うだろう。

エメラルドはスカーフを巻き、街着の裾を捌きつつ、神殿の一角にある『上級占術・匿名相談コーナー』を目指した。

*****

神殿は、巨大な複合建築スタイルである。

その中で、『上級占術・匿名相談コーナー』は、不特定多数の来客に対応するためとあって、正面ゲートに近い棟が割り当てられていた。 見た目は街区役所とアーケード回廊を組み合わせたスタイルで、意外に入りやすい感じである。

エメラルドはスカーフで半ば人相を隠したまま、指定チケットを首尾よく手に入れたのであろう10数人の来客と共に、暫しアーケード回廊の下で待機した。

10数人の来客のうち、半分以上は男女カップルで手をつないだ格好だ。 男女ともに、アーケード回廊の列柱の影に入って、互いに他の訪問客の人相を目撃しないようにコソコソとしている。 女の半数以上は、更に念を入れて、濃色のスカーフで半ば人相を隠している。

一見してアヤシイ儀式か何かに集まった不審者たちだが、相談のほとんどは恋愛問題――《宝珠》に関する事だ。程度の多少はあれ、面映ゆさを感じて当然なのである。 エメラルドは、数年前は自分も、こうしてロドミールと手をつないでスタンバイしていたという事を思い出し、少しチクリとするものを感じた。

ちなみに、この匿名相談コーナーが出来たばかりの頃は、こうしたコソコソとした行動が公然と出来る場所という事があって、とんでもない陰謀の舞台となった事もあった。 例えば、竜王国を転覆させるための反乱軍の面々が、外観を真似した建物を建てて、反乱アジトとしていたり――

やがて、誘導担当であろう下級魔法神官の制服をまとったスタッフが出て来て、来客を招き入れる。 エメラルドは、10数人の来客と共に、建物のフロントに足を踏み入れたのであった。

フロントは、さながら大図書館の広々とした受付ロビーを縮小したような様式であるが、地上階層の床全体を使った、正方形に近いフロアとなっている。 或る程度プライバシーを守るため、窓の数は少なくなっており、薄暗い空間だ。

――各種の事務を担当していると思しき下級魔法神官が並ぶ受付デスクが、奥にあるだけだ。 支柱と欄間(らんま)が規則的に並ぶガランとした空間の中、7台の大天球儀(アストラルシア)が円陣を組む配列で設置されている。

10数人の来客たちは、「お一人様」と「お二人様」に分かれた。「お一人様」であるエメラルドを含めて、ちょうど7グループになっている。 来客たちは、思い思いに、それぞれ選んだ大天球儀(アストラルシア)に近寄ると、手持ちの魔法の杖の先端に「未使用」のチケットをくっ付けて、 大天球儀(アストラルシア)をつつき始めた。

エメラルドも同様にして、セレンディの魔法の杖の先端にチケットを取り付け、目の前の透明な球体をつつく。

7台の大天球儀(アストラルシア)の中できらめいていた、模型の星々の光が、ランダムにかき回されて行く。 すると、大天球儀(アストラルシア)の位置に従って7グループに分かれていた各々の来客の足元に、即席の転移魔法陣が展開され、白く輝き出した。

エメラルドの足元でも、見慣れたパターンの転移魔法陣が白く輝いている。魔法陣から白い光が柱のように立ち上がり、 ヒュルルと言う風音を立てながらも、魔法陣の外周円に沿って一巡する。

一瞬ではあるが、7台の大天球儀(アストラルシア)の傍に、7本の白い光の柱がセットされたかのように、ユラリと立ち上がっていたのであった。

やがて、転移魔法に伴う風が収まって行く。

エメラルドの視界を塞いでいた白い光の壁が薄くなり、微細なエーテル粒子となって分解して行った。エメラルドは既に、別の場所に転移させられていた。

目の前にあるのは、フロントに並ぶ大天球儀(アストラルシア)では無い。ランダムに割り当てられた上級魔法神官が控えているに違いない、応接室の扉である。

――他の来客たちも同様に、上級魔法神官が「占術官」として待ち受ける、応接室の扉の前に、各々転移している筈である。 それぞれ、ランダムに割り当てられるというプロセスで――

エメラルドは風で吹き乱れたスカーフを直し、応接室の扉をノックした。

「――どうぞ」

中から占術官の声が応えて来た。穏やかなそうな男の声だ。とりあえず、大図書館の読書談話室に居た怪しげな男たちの、いずれの声音でも無く、ホッとする。

*****

匿名相談コーナーの応接室は、医療院にある応接室と同じくらいのスペースであった。

窓外からの盗み見を防止するため、応接室の窓はマジックミラーとなっており、更に濃いグレーが掛かっている。昼下がりの刻ではあるが、応接室の中は薄暮に近い明るさだ。

2人用の小さな円卓の上で、中に天球儀を仕込んだ水晶玉のような球体が、台座の上でボンヤリと光りつつ回転している。

エメラルドを担当する事になった占術官が、円卓の向こう側の椅子に座っていた。

《風》の上級魔法神官の神官服をまとった男だ。匿名相談コーナーの流儀に応じて人相を隠す仮面を装着しているが、 エメラルドと余り違わない――若手ベテランの上級魔法神官だと知れる。

占術官を務める上級魔法神官もまた、プライバシーを守るため、こうして仮面を装着して対応するのだが、これが逆に、 一定以上の上級占術スキルを持っている事の資格証明になっているのだ。

エメラルドは一瞬、数年前に訪問していた時は、中堅と言った年齢層の《地》の占術官だったという事を思い出し、 スカーフの中で、ちょっと微笑んだ。あの時の占術官は愉快なユーモアのある人物で、コウモリの仮面を装着していたのだ。

今回の《風》の占術官は、穏やかで生真面目な性質らしい。 標準的な《風》の白い仮面で、薄い金色の唐草パターンが施されているところは熟練の上級魔法神官ならではの威厳を感じるが、仄かに紅茶の香りをまとっていて、何となく親しみを覚える。

「今日は、どうぞよろしくお願いいたします、《風》の占術官」

「椅子にどうぞ。いずれの《霊相》の生まれですか?」

「同じく《風》ですので……」

「分かりました。ではシルフィード、相談を伺いましょう」

エメラルドは《風霊相》生まれの女性なので、不特定多数の呼称は「シルフィード」となるのだ。不特定多数の《風霊相》生まれの男性であれば、「シルフ」となる。

貴重な時間を、無駄にできない。エメラルドは呼吸を整え、単刀直入に切り出した。

「私の《宿命図》に、バーサーク化の兆候が強く出ているのかどうか、確認して頂きたいのです」

「――珍しい内容ですね。普通は《宝珠》の件、つまり恋愛運の相談が多いのですけど」

占術官は暫し、困惑の余りか絶句していたが、事が事である。「失礼」と言い、エメラルドの手を取った。 片手に魔法の杖を構えると、手相を読むような格好になる。その杖の先端部で、淡い白い光が仄かに光り出した。

「この《宿命図》は、一般には、強い武官の相とされる――表層の乱れは大きいが問題なし。 中間層の広範囲で散乱の相が見られる。《四大》エーテル魔法発動に際して無駄な漏出の方が大きく、エーテル騒音(ノイズ)が相当に出るタイプだが……」

占術官はブツブツと呟きながらも、次第に《宿命図》の深層部の読み込みに入って行ったようだ。

――やがて。

占術官は、ハッと息を呑んだ。エメラルドは武官ならではの動体視力で、それを察した。

「何かありましたか、占術官?」

「シルフィードの直感は正しかったようです。かなり不味い事になって来ています」

占術官はエメラルドの手を解放して椅子に座り直し、説明を始めた。

「心臓部、つまり《宝珠》相の1つ上……相当に深いレイヤーで、普通では有り得ない星々の異常変位が見られます。リアルタイムで進行中の。 『バーサーク危険日』の到来と共に異常変位が極大となり、《争乱星(ノワーズ)》相として爆発する見込みです」

占術官は、動揺の余りか青ざめていた。口元が、わずかながら引きつっている。

エメラルドは暫し首を傾げ、以前から何となく感じていた仮説を口にした。

「普通では有り得ない……自然では無い。人工的、故意な物だと考えられるという事ですね?」

占術官は、中央の小さな『水晶玉もどき』に魔法の杖をかざし、上方向へ投射される光束を引き出すと、 目にも留まらぬスピードで、3次元立体の魔法陣の如き図解を空中に描き始めた。

「此処に来たからには、何が起きているのか知りたい筈です、シルフィード。少し複雑ですが説明します」

*****

《宿命図》は、大きく表層、中間層、深層、心臓部のレイヤーに分かれる。 実際は、我々の時空で解釈できるような構造体では無いので、正確な状況を再現した言い回しと言う訳では無いが、便宜上、そういうモノだとしておく。

心臓部にあるのが《宝珠》相である。陰・陽の原初的な星々が作る構造体だ。今は詳細は割愛する。

表層は、変身魔法に応じて心身の位相を変える領域だ。竜体(戦闘モード)と人体(平常モード)の移り変わりは、此処でコントロールされている。 竜体解除の魔法陣や、神官が使う治療魔法は、主にこの表層に関わる物である。

中間層は《宿命図》で最も広大な領域だ。《四大》の断片たる星々が特徴ある配列を作っており、個人個人の《四大》エーテル魔法の発動の状況を決定している。 《争乱星(ノワーズ)》相は、この中間層に現れる特徴的なパターンの配列であるが、表層を荒らす力が強く、バーサーク化する原因ともなる。

――深層は、上級占術によって読み取り、または『成就祈願(オマジナイ)』として干渉する領域だ。万物照応のレイヤーと言って良い。 健康運、恋愛運、金運といった各種の運命線の不可視の軌跡と、それに沿って刻々変動する星々の配置で出来ている。

*****

「そして、シルフィードの《宿命図》の状況を簡単に描くと、こうなります」

占術官は更に図解を変形した。

天球儀の模型も同然に、無数の星々が散在している。神官では無いエメラルドには、どの星が重要な星なのかも分からない。

占術官は、瞬く間にボンヤリとした繭のような星々を選び、ラインでつないで、一つの星座のような構造体を描き出して見せた。 無数のラインで緻密に構成されているため、一見して歪みの無い、3次元の真球に見える。

「これが、シルフィードの中間層で、じきに爆発するであろう《争乱星(ノワーズ)》相です。 今は卵のような状態ですが、『バーサーク危険日』の到来と共に、大量のエーテルを吸い込んで爆発し、 中間層における明るい星々の相として定着すると共に、表層に出て来て荒れ狂う事になります。しかも、この通り断片どころか、ほぼ100%という完全形です」

エメラルドは目を凝らした。

魔法感覚を合わせてジックリと観察してみると、不思議な真球の各所で、四色のエーテルの光が、異様な躍動性をもってキラキラと点滅しているのが見える。 バーサーク化する時に、この四色のエーテルの光が、超新星も同然に、まばゆく輝く事になるらしい――

仮面の占術官は、こめかみを揉んでいる。仮面の下で、きつく眉根を寄せているのだろうと想像できる。

「普通は、このような繭(まゆ)状態の星々で《争乱星(ノワーズ)》相が形成される事はありません。 先天的に授かる《争乱星(ノワーズ)》は、最初から、中間層における、ハッキリとした星々の相として配置されている。 バーサーク毒による疑似的な《争乱星(ノワーズ)》は、後天的ではあるけど、やはり中間層における、現役の星々の相として分布します」

説明を聞いているうちに、エメラルドは、ボンヤリとした星々で構成された『真球の星座もどき』の構造体があるという事実そのものが、異常なのだと言う事が感じられて来た。

占術官の説明は続いた。口調に、苦さが混じっている。

「1つ下――深層における星々の異常変位が、中間層にこのような異形の相を作り出しているんです。 此処まで完全に構築されているのは珍しいですね。100%に近い確かさでバーサーク化する事が予想されます」

エメラルドは、思わず身を乗り出した。

「でも、私は今まで、《争乱星(ノワーズ)》を持っていると指摘された事はありません。大凶星の断片が10%でもあれば、 神殿隊士の入隊考査の段階で、不適格と判断された筈です」

「シルフィードは、神殿隊士なんですか。でしたら、これは間違い無く人工的にセットされた物です――上級占術を通じて」

エメラルドの脳裏で、不吉な想像が湧き上がり始めた。占術官は、仮面の奥で、気づかわし気な眼差しをしている。

「最近、上級魔法神官の誰かに、《宿命図》をチェックしてもらったと言うような事はありませんでしたか?」

そう問われたエメラルドは、慎重に記憶を掘り返した。

――ここ最近で、関わりのあった上級魔法神官は3人だ。

火のライアス神官。

地のウラニア女医。

水のロドミール。

他には、下級魔法神官と言うのもあって少し微妙だが、技術的には、風のエルメス神官も候補になるだろう。

「医療院の女医。他には、――恋人に。今はちょっと問題があって……別離状態ですが。彼は上級魔法神官です。 私が大怪我していたので、傷の治りが早くなるように、健康運アップのオマジナイをしてくれた……」

占術官は「別離?」と呟き、仮面の奥で一瞬、眉根をひそめたようだった。再びエメラルドの手を取り、魔法の杖を光らせる。

「健康運の周辺に――確かにありますが。シルフィードの回復と共に、 星々の変位も正常な範囲に戻っている。過去の痕跡であって、バーサーク化には関与していない……」

占術官は、程なくしてエメラルドの《宿命図》の構造を飲み込んだらしく、更に透視魔法が続いた。 やがて、魔法の杖の仄かな白い輝きが、一瞬フラッシュに変化して閃き、エメラルドはギョッとした。

「さっきのフラッシュは、何ですか?」

占術官は、再びエメラルドの手を解放すると、疲れたような溜息を付いて椅子の背にもたれ、身体を沈めた。

「――シルフィード、此処だけの話ですが。異常変位は、恋愛運の領域の物のようです。 先程、星々の異常変位の解除を試みましたが……どうも《宝珠》相にまで食い込んでいるようで、解除は不可能でした。 あ、いや……《宝珠》そのものが原因なのか……?」

「どういう意味ですか、占術官?」

仮面の占術官は、やりきれない――と言った風に首を振った。

「多分、タイミングが最悪だった。くだんの恋人は、ただでさえ不安定な状態の《宿命図》の――それも心臓部に、 シルフィード本人の同意も無しに干渉したんでしょう。 シルフィードは、彼と、結婚を前提とした恋人関係を結んでいた。互いの《宝珠》の適合と調和のために、 仮の《魔法署名》を交わしていたのではありませんか?」

エメラルドは、うなづいた。占術官は、重々しく言葉を続けた。

「私の推測が正しいなら――彼は、シルフィードの《宝珠》に刻んであった、自分の《魔法署名》をこっそりと解消し、 更に恋愛運も操作しておく事で、別離、つまり恋人関係の自然解消を期していたに違いありません。上級占術が使えるからこその方法ですね。 『正式な手続き』ではありませんが、そうして関係を清算する――いつの間にか恋人関係から友人関係に戻る――という手続きがあるんです」

エメラルドは、ロドミールの性格を改めて思い直した。

――ロドミールには、確かにそういう行動をする所があるかも知れない。

『気を回す』とでも言うのだろうか――エメラルドの真剣な思いを察していたからこそ、『他に好きな人が出来た。別れよう』などと爆弾発言をして、 ただでさえ大怪我で弱っていたエメラルドに、更なるショックを与えたくない、と言うような。

「秘密裏に……とすれば、思い当たるのは、2回目に《宿命図》を見てもらった時……あの時は、 1回目の健康運のオマジナイの時よりも、ずっと長かったから……あの時、真昼の刻の鐘が鳴っていた――」

――それが、こうなったと言うのか。エメラルドは自嘲した。

「自分の何が、悪かったのでしょう? ――《宿命の人》同士じゃ無いのに、敢えて結婚を前提として、交際を続けた事……?」

仮面の占術官は、言うべき言葉が見つからないのか、無言でエメラルドの言葉に耳を傾けるのみである。

「彼が、別の女性とお話をしているのを見ました。直接的にではありませんけど。《宿命の人》同士だそうで、 とても良い雰囲気だった――関係を清算したいなら、このように、こっそりと罠にハメるような形ででは無く、直接、口で言ってくれたら良かった。 失恋確定という事になったら、その時は泣いたかも知れないけど……多分、 多少は未練がましく付きまとったかも知れないけど……綺麗に別れる事は、多分、できたと思いますから」

これは、怒りだろうか。それとも、悲しみだろうか。エメラルドは、やり場のない思いを込めて溜息をついた。

占術官は、相槌を打ちつつ呟いていた。

「男の方では、そう考えなかったのかも知れませんね。 シルフィードの気持ちは、それなりに真剣だったから――ストーカー行為のリスクも考え合わせて、こういう方法になったのでしょう。 それが、最悪のタイミングで起きたために、『バーサーク化の呪い』として発動してしまった。 この異形の卵は、瞬間的に発生した筈です。彼は――この卵を見て、相当に動転した筈ですが……」

占術官は、エメラルドの《宿命図》の図解に現れた《争乱星(ノワーズ)》の卵を改めて眺めていた。そして――やがて、仮面の下で顔をしかめたようだった。

5-5天秤の御名の下に

――これも、《運命》なのか。《運命》だと言うのか――?

かなり長い時間、エメラルドは落ち込んでいた。

仮面の占術官の方は、エメラルドがチラリと見た限りでは、深い思案に沈んでいるようだった。 占術官は、円卓の上の『水晶玉もどき』が投射する光の中に浮かび上がった、エメラルドの《宿命図》の図解を、しげしげと眺めている。

やがて占術官は、ふと思いついたと言った風に立ち上がり、応接室の奥の戸棚からティーセットを取り出して来た。

「紅茶はお好きですか、シルフィード?」

エメラルドは思わず、ボンヤリとうなづいていた。

*****

暫し、応接室に、馥郁たる紅茶の香りが漂った。

エメラルドはボンヤリと紅茶を一服し、取り留めも無い思いをアレコレと巡らせた。 そして、次第に感覚が戻って来た――という気分を覚えたのであった。

エメラルドは、手持ちのティーカップの底に薄く残った紅茶を、ジッと眺めた。あと一服で尽きる量だ。 『お代わり、要りますか?』という占術官の確認に、ゆっくりと首を振って、謝辞の意を示す。

エメラルドは、もう何度目になろうかと言う溜息を、もう1回ついて、ボソボソと呟いた。

「私は、このまま――この結果の《宿命図》の軌道のままに、生きていくしか無さそうですね」

――自力でバーサーク化を阻止する手段は無さそうだ。セレンディのように、強い《争乱星(ノワーズ)》持ちとしての生を覚悟するしか無い。 想像もしていなかったし望みもしなかった事だが、諦めて、現実を受け入れるべきなのだろう。

「――それは違う」

仮面の占術官の声音は、ほとんど憐れみそのものだったが、緊張を含んで硬い物になっていた。

「占術は、ある程度の道筋――可能性の輪郭を指し示すだけです。上級占術は……呪いもそうだけど、そもそも他人の道を捻じ曲げるための物では無い。 上級魔法神官だから、そう言う事が出来る力――権力があるからと言って、名を懸けた契約が関わる『正式な手続き』を省略して良い理由には、ならない」

この《風》の仮面の占術官は、普通の人なら目を背けてしまうであろう真実に対して、真摯に向き合っている。 上級魔法神官として失敗して、恥をかく事も厭わず、大凶星の解除を試みてくれたのだ――ロドミールなら、多分しなかったであろう事だ。

――とは言え、ロドミールの『失敗は許されない、失敗する様を他人に見せる事は出来ない』という考えも、理解はできるのだ。 上級魔法神官たるロドミールは、竜王国の誇りを背負って行動する立場にある。

――エメラルドの《宿命図》に、《争乱星(ノワーズ)》の卵を発生させてしまったと言う事実に際しては、 事情説明もせず立ち去ってしまうと言う行動につながってしまった訳だが――

エメラルドは最後の一服をして、薄く微笑んだ。自分でも、惨めな表情になっているだろうと分かっているが、それでも笑むという事しか出来なかった。

「――『正式な手続き』を通さずとも問題は無いと言う事例は、実際に、あった訳でしょう」

切り返された形になった占術官は、無言で、円卓の端に置いていた魔法の杖に視線を落とした。 無意識のクセなのか、口をきつく引き結び、顎に手を当てている。まさに考える人のポーズだ。

こういった異常な事態に対抗するための術は、やはり禁術や秘法といった領域に属するに違いない――エメラルドには、 占術官の頭の中で、あらゆる可能性が検討されているらしいという事が、うっすらと察知できた。

やがて占術官は、ゆっくりと面を上げた。薄い金色の唐草模様の入った白い仮面を透かして、エメラルドをジッと見つめて来るその目の色は、淡い琥珀色だ。

仮面の占術官の目の色は、『水晶玉もどき』の光の揺らめきが入ると、薄い金色に色を変える。エメラルドは、ふとセレンディの薄い金色の目を思い出した。

暫し間が入った後、占術官は口を開いた。穏やかだが、確信めいた口調だ。

「翌日、『バーサーク危険日』の到来と共に、100%に近い確かさで、シルフィードはバーサーク化する。 しかし、シルフィードは元来、好戦的な性格では無いし、過剰な暴力を良しとしない考えの持ち主でしょう。 心身の、病的なまでの異常なズレは、何者にとっても耐えがたい苦しみの筈です」

占術官は少し沈黙してエメラルドの《宿命図》の図解を眺めた後、魔法の杖を手に取って、円卓中央の『水晶玉もどき』をつついた。 投射光が収まり、中空に浮かんでいた複雑な図解は消えて行った。占術官は再び、言葉を続ける。

「シルフィードの《宿命図》が吸い込むエーテル量は、充分以上の物がありますね。 エーテル漏出が無駄に大きいタイプなので、魔法発動が上手くいかなくて、平均的な魔法パワーしか出ないようですが……この散乱の強さであれば……」

占術官の淡い琥珀色の眼差しは、エメラルドを真っ直ぐに見つめて来た。その眼差しは、異様に強い光を湛えている。

「一期一会の瞬間に――2つの軌道を、《星界天秤(アストライア)》の御名(みな)の下に――懸けてみませんか?」

――『天秤』。

エメラルドは無意識のうちに目を見開いていた。昨日、ユーリー司書が気にしていたキーワードだ。

占術官の説明は、次のような物だった。

――バーサーク化の呪いとして仕掛けられた《争乱星(ノワーズ)》の卵を、事前に解除する奥義が存在する。 大昔、神殿内部の抗争で『呪い合戦』のような事があって、その時に上級魔法神官の間で、奥義として確立した。

奥義――というのがポイントだ。それは、壮絶なまでに大量のエーテルを扱うのだ。

「基本的には、バーサーク化の瞬間、四方八方から体内の《宿命図》に流入して来る大容量エーテル流束に対して、 最大強度の《四大》エーテル魔法を、全方位でぶつける――と言う形になります。 《宿命の軌道》と《運命の軌道》が正面衝突する、その二重の衝撃で、卵となっている構造体を激しく揺さぶり、完全に破綻させる」

占術官の説明は続いた。エメラルドは、いつの間にか、息を詰めて耳を傾けていた。

「ただ《争乱星ノワーズ》の卵が、爆発のために呼び集めるエーテル量は膨大です。 そのエーテル量に匹敵する、ないしは上回る程の、エーテル魔法が発動できなければなりません」

流石にベテランの上級魔法神官と言うべきか――占術官の説明は、よどみない。

「竜体解除レベルのエーテル魔法では話になりません。上級魔法神官の中でも、それ程のエーテル量を扱える《器》となると限られてくる」

――《器》。

エメラルドは再び、目を見張った。ユーリー司書が、大図書館の資料を調べているうちに拾い上げてくれた、謎のキーワードだ。

占術官は、エメラルドの表情の変化に気付いた様子である。 エメラルドが上級魔法神官としての知識を持たない事に配慮したのであろう、占術官は《器》について追加説明をして来た。

「《器》と言うのは神官用語です。 その人の《宿命図》が内に溜めて変容する事の出来るエーテル量には個人差があり、その大小に関し、《器》と言っています。 魔法パワーの威力を決める基準とは違います。 強靭さと柔軟さの掛け合わせと言うか――変容幅の大きさと言うか――魔法使いとしての器量を決める要素です」

――どうやら《器》というのは、かなり込み入った概念であるらしい。

エメラルドの単純な思考では理解はしにくいものの、『単純なパワーアップ』と『高度化&ハイテク化』とが、全く異なっている事は分かる。 正確な理解では無いだろうが、だいたい、そういう事なのだろうと思える。

占術官は思案深げに息をつき、エメラルドを眺めて来た。白い仮面の角度が変化し、その仮面の唐草模様が、再び微かな金色にきらめいた。

「シルフィードと同じような、上級魔法神官としての力量や経験が無かったケースで、奥義に成功した人が1人しか居ないので、参考程度にしかなりませんが……」

占術官は一旦、席を立つと、応接室の奥にある別の戸棚から半透明のプレートを取り出して、戻って来た。 魔法の杖でプレートをつついて該当資料を呼び出し、占術官は説明を再開した。

「竜王都創建の時代から間も無い頃の事例です。 くだんの成功者は《地霊相》の人で、城壁維持に関する《橋梁魔法陣》……重量分散のための魔法陣を吹っ飛ばして、奥義の発動の媒体にしたそうです。 シルフィードの場合は《風霊相》なので、《転移魔法陣》を媒体に、奥義を発動すると言う方法になります」

占術官の説明が暫し途切れ、奇妙な沈黙が降りた。

エメラルドは、息をするのも忘れて考え込んでいた。

「魔法陣を、大容量エーテル発散の道具として使う……と言うと、《四大》雷攻撃エクレール魔法で魔法陣を切り刻んで、 そこからエーテルを一気に噴出させるという事になりますか? ――雷電シーズン中の転移魔法陣の落雷事故に、そんな話がありますが……」

占術官は一瞬、仮面に覆われていない口元を、皮肉っぽく歪ませた。

「それでは、魔法陣に組み込まれていたエーテルが飛び散るだけで、《宿命図》に仕掛けられた《争乱星(ノワーズ)》の爆発は、阻止できません。 大型の魔法陣は、本人の《宿命図》に連結された大容量エーテルの貯蔵回路に過ぎない。エーテル魔法の発動は、あくまでも本人の《宿命図》が主役です」

ほんの一瞬だが、エメラルドの脳裏に、或る光景が浮かんだ。

いつだったか、前線となった見張り塔の戦いで、ラエリアン軍の魔法使いと対峙した時の光景だ。

竜体状態の神殿隊士に強い攻撃魔法を続けざまにお見舞いし、城壁まで吹っ飛ばして全身骨折させた魔法使いは、後ろに大勢のバックアップ部隊を引き連れていた。 あの魔法使いは、息を合わせたバックアップ部隊から充分な量のエーテル供給を受けて、強烈な攻撃魔法を続けざまに繰り出して来ていたのだ――

そして、この場合。

バックアップ部隊に相当するのが、膨大なエーテル量を溜め込む力のある、大型の魔法陣だ。

全方位・最大強度の《四大》攻撃魔法のターゲットが、バーサーク化エネルギーとして四方八方から流入して来る、大容量エーテル流束――

エメラルドの表情に理解の色を認めたのか、占術官は暫し沈黙し、エメラルドの様子を眺めて来た。 そして占術官は、ホッとしたようにうなづき、説明を続けた。

「――この奥義の発動は、結果として《宿命図》を書き換え、その人の運命を大きく変えて行きます。我々、上級魔法神官の間では、 通常の魔法(アルス)に対する上位概念として、この奥義に『アルス・マグナ』という名を割り当てています」

この世界には、天地万物の照応の原理がある事が知られている。《宿命図》は、それを図式化した物だ。 その天地万物の照応の原理そのものに干渉する奥義――大魔法なのだ。

宿命の凶星《争乱星(ノワーズ)》を動かし、《宿命図》を書き換える――運命を変える。

大いなる魔法(アルス)――

――アルス・マグナ。

エメラルドは少し首を傾げ、眉を寄せた。

「中小型の転移魔法陣の方が、エーテルが溢れやすい分、その現象が起こしやすい気がしますが……」

占術官は溜息をついた。

「残念ながら、大型の魔法陣でないと『アルス・マグナ』の衝撃に耐えられません。魔法陣そのものの《器》が違います。 大凶星たる《争乱星(ノワーズ)》のエネルギーを相殺するには、転移ハブ駅にあるような大型の転移魔法陣が必要になるでしょう。 それに……そもそも転移魔法陣は、こんな事のために作られてはいませんから、或る意味、非常識というか……想定外の使い方でしょうね」

――それでも。

エメラルドはスカーフの下で、歯を食いしばった。

それでも、一縷の望みが、無い訳では無い。

エメラルドは、大図書館で見い出した内容を思い返していた。

――《器》極大の場合は、バーサーク化しにくい――

――魔法(アルス)の結果と《器》との間には、相関関係がある――

このくらいの事ではバーサーク化しないと言う事を証明し、それゆえの未来をつかみ取るには、やるしか無いのだ。

自分が――己の《器》が、『アルス・マグナ』を起こせるかどうかだ。

「私、やってみます」

かなり長い間、占術官は無言のまま、円卓の傍で立ち尽くしていたが、やがて「そうですか」と溜息をついた。占術官なりに心配しているのは明らかであった。

「ではシルフィード、手を……両手とも」

エメラルドは疑問に思いながらも、素直に両手を差し出した。

占術官は、その上に魔法の杖をかざして来た。

エメラルドの両手の上で、一瞬、鏡がクルリと回って光を反射したかのような、複数の白いフラッシュが閃く。

「――え?」

不思議なフラッシュは、一瞬だった。フラッシュが走っていた空間の中に、今度は水晶玉のような透明な色合いとサイズをした、1つの球体の幻影が現れた。 見る間に、円卓の直径と同じくらいの大きさに膨らむ。

複数のフラッシュから合成された物だからだろうか、その幻の球体は微妙にユラユラと揺らいでおり、像が定まらない。

――まるで不確定性原理をイメージ化したかのようだ。

その透明な水晶玉のような球体の中に、魔法による幻影と思しき、白い天秤のイメージが浮かび上がった。どうも二重像らしいが、多重像にも見える。

占術官は、エメラルドの戸惑いと疑問には答えず、呪文のような言葉を紡ぎ続けていた。 仮面の上からでも、ギョッとする程の無表情をしているという雰囲気が窺える――この魔法は、凄まじい集中力を要求するのだ。

「……《星界天秤(アストライア)》の御名(みな)の下に――宿命は生を贈与して、運命は死を贈与する。しかしこれら二つのものは、一つの命の軌道を辿る――」

見ているうちに、天秤の形をした幻影に変化が現れた。

片方の皿には、《宿命図》の図解で描かれていた《争乱星(ノワーズ)》の卵が乗せられた。もう片方の皿には、暁星(エオス)と思しきラベンダー色に輝く球体が乗せられた。

暫くすると、不思議な天秤の幻影は砂時計の砂のようなサラサラとした感じの粒子のカタマリになり、遂には微細エーテル粒子となって、蒸発するように消えていった。

占術官は、エメラルドの両手の上にかざしていた魔法の杖を引っ込めた。

これで、《星界天秤(アストライア)》という名前の、不思議な魔法は仕上がったらしい。

――限界を遥かに超える体力を使うような、高難度の魔法だったようだ。

占術官は立ちくらみを起こしたかのようにグラリと傾ぎ、円卓の上に手を突いて身体を支えた。 その身体は激しい疲労のためか、震えている。うつむいた顔――その口から洩れる息遣いも、相当に長い間、乱れていた。

やがて――占術官は、ようやくの事で息を整え、説明を始めた。

「シルフィードに仕掛けられたバーサーク化の呪いは、翌日『バーサーク危険日』の夜明けと共に発動します。 夜明けを知らせる暁星(エオス)が、空で輝き出したら、『アルス・マグナ』発動のタイミング――同時に、タイムリミットと考えて下さい」

一期一会のチャンス――次は無い。究極の幸運とはそのような物だ。武官として、日ごろから戦いの場にあったエメラルドは、実感と共にシッカリとうなづいた。

仮面の占術官は、口元に柔らかな笑みを浮かべた。

「私からも、些少ですが《風》の加護を添えておきました。性質が《風》だけに気まぐれな物ですが、上手くタイミングが合えば、『アルス・マグナ』の発動は、より効果的になると思います」

エメラルドは一瞬、目を見張った。

*****

「月並みな言い方しかできませんが――相談に乗って頂いて有難うございます。あと、加護の力添えも」

エメラルドは上級占術の相談を切り上げ、退去することにした。バーサーク化のタイムリミットが迫っているのだ。手をこまねいては居られない。

エメラルドは扉の前、所定の場に立つと、白い仮面をつけた占術官を真っ直ぐ見つめた。

「――呪いを仕掛ける方は、ホンのちょっと手を加えるだけで済むのに、仕掛けられた側がそれをくつがえすには、相当に死に物狂いにならないといけないんですね。それは、不公平とは言いませんか?」

占術官の仮面の奥の眼差しは、穏やかだが強い光を湛えていた。

「運命は、なにぶん不確定性な物ばかりで分からない事が多いですが、それが運命の側からの――死を贈与する側からの、答えなのかも知れません。 我が身の生として贈与された宿命を、そこに現れた凶相を、本気で書き換えようとするなら、全力を尽くして対応してみろ――という事が」

エメラルドは無言でうなづいた。突風に備えて、スカーフをシッカリと手で押さえる。

占術官は、エメラルドの用意が済んだ事を確認すると、エメラルドの足元に転移魔法陣を展開した。

転移魔法陣は白く輝き、正確に作動した。白い柱が風音を立てて一巡した後、そこからエメラルドの姿は消えていた。

瞬きする程のわずかな間に、エメラルドは、『上級占術・匿名相談コーナー』のフロントとなっている場、大天球儀(アストラルシア)が並ぶ地上階層のフロアに戻されていたのであった。

*****

――窓の外の光景は、既に夕方だった。

エメラルドが『上級占術・匿名相談コーナー』の棟を出て、少し経った頃。

担当の占術官は、深い溜息をついて、白い仮面を外した。仮面から出て来たのは――風のエレン神官だ。淡いアッシュグリーンの髪、薄い琥珀色の目。

エレン神官は、強い危機感を感じると共に、苦い思いを抑えられない。

――上級魔法神官の間で、越権行為が、余りにも軽々しく扱われている。

仮にも上級魔法神官たる者が、このような類の些細な問題で――しかも、 新しい恋を始める際、今までの恋人との契約関係を秘密裏に解消する必要が生じた、ただ、それだけの理由で――非常時にしか認められない越権行為に、手を染めるとは。

《神龍》を中心とする神殿政治において、上級魔法神官は、『上級占術』を通じて人々の運命を変えると言う、ほとんど神にも等しい、独裁的な権力を認められている。

絶対的権力は、確かに判断基準をおかしくするようだ。権力に、酔い始めたという事か。

――権力は腐敗する、絶対的権力は絶対に腐敗する――

エレン神官の中で、いつだったかのゴルディス卿の警鐘が、いっそう重みを増していた。

5-6宵闇の中の行き違い

落日の刻だ。辺りは既に薄暮に包まれている。

エメラルドは『上級占術・匿名相談コーナー』のフロントを出ると、人目に付かない道を駆けて行き、医療院の個室に戻った。 道々、我が身のタイムリミットである翌日『バーサーク危険日』の到来までに、何を済ませておかなければならないか、素早く整理する。

エメラルドは個室に入るなり、首元を覆っていたチョーカーのような魔法道具――竜体変身を禁ずる拘束具を引きちぎった。

――『上級占術・匿名相談コーナー』では、想像以上の示唆を得られた。それに一縷の望みも。

同時に、仮面の占術官の言葉も思い出されて来る。

――この奥義の発動は、結果として《宿命図》を書き換え、その人の運命を大きく変えて行きます。 我々、上級魔法神官の間では、通常の魔法(アルス)に対する上位概念として、この奥義に『アルス・マグナ』という名を割り当てています――

エメラルドは夕食を早めに済ませると、ベッド脇の長持のフタを開いた。退院後の任務に備えて、新しく支給されていた白い武官服を収めてある。神殿隊士の制服である。

いつものように髪留めで長い緑髪をキッチリとした武官仕様ポニーテールにまとめ、武官服に袖を通した。着慣れた物という事もあり、これがやはり、一番落ち着く。

その布地はビーズのように細かい竜鱗で出来ており、魔法で出来た鎖帷子のようなものだ。軽さに対して、その頑丈さは驚くべきレベル。 強力なドラゴン・ブレスや、バーサークの有刺鉄線のような鱗からも、或る程度、防衛してくれる。自前の竜体に由来する鱗や皮もかなり頑丈な方だが、二重化すると、防衛力はやはり違うのである。

出で立ちの準備が整うと、エメラルドは、道々整理しておいた必要事項や確認事項を、次々に済ませて行った。

*****

夜がトップリと暮れた頃。

ロドミールと同僚は、ウラニア女医の隠密捜査の一環でもある、詳細なチェック作業から解放された。

――貴君らは偶然にも、闇ギルドの通信システムの要素として使い回されていたらしい、明日も色々調べなければならないので、是非ご協力を――という要請、いや、命令と共に。

知らず知らずのうちに、良からぬ事を企む誰かに付け狙われていたらしい――という状況は、流石に不気味である。

ロドミールは、剥き出しになった遠隔通信装置の基盤を何度も見直した。

魔物の血管の如き、四色の迷彩で出来た不気味な魔法陣。その上に、研修医スタッフたちの手によって、通信傍受のための隠密スタイルの魔法陣が仕掛けられている。

――これからは、通信を全て、ウラニア女医が率いる隠密調査チームに記録される事になるのだ。

ロドミールは、不意にハッとした。

――という事は、エメラルドからの遠隔通信も、全て傍受されるという事だ。そして、そのデータは大神官たちに回り、そして、大神官長たちも閲覧する事になる。

ロドミールは焦った。

エメラルドは、まだ《宝珠》に起きた変化の影響を受けていない。こういう心理関係の変化は、一朝一夕には進まないのだ。

こんなにも想定外の事態が急速に進むとは思っていなかった。エメラルドとの通信内容の如何によっては、恋人関係がまだ清算し切れていない事を、立証してしまう。 しかも、《水》の大神官長ミローシュ猊下やティベリア嬢には、『エメラルドとの間に恋人関係は無い』と公言してしまっている――

――エメラルドは何と言っていた?

『最近、悪い夢を毎晩見るようになって、眠れてないから――と言うよりは、睡眠薬で寝てる状態だから……』

ロドミールの中で、ごくごく小さな『引っ掛かり』に過ぎなかった物が、急速に膨れ上がって行く。

――あの日。真昼の刻の鐘が、荘厳に鳴り響いた日。

気のせいだ――と、思ったのだ。思い込もうとしたのだ。 エメラルドの《宝珠》相に巻き付いていた自分の魔法署名を解き、それによってランダムに振動し始めた恋愛運の軌跡を調整し――その瞬間。

心臓部という位置に相応しく、《宝珠》は極めて原初的かつ堅牢な構造体であり、猛烈な速度でスピンしているのだ。 魔法署名はバラバラの断片になって飛び散り、一部は《宝珠》に不完全に引っ掛かったまま、巻き込まれてしまった。

恋愛運の軌跡が、不安定になった《宝珠》の回転に引きずられて、大きく跳ね狂った。

慌てて抑え込もうとしたが、間に合わなかった。 跳ね狂った軌跡は瞬く間に無数のエーテル流束を放ち、《宿命図》の中間層にボンヤリとした繭のような星々を配置し、『或る形相』を結んだ――

――禍々しい可能性の「卵」を。

ただし、あの時に見た限りでは、粗雑で脆い構造体に過ぎなかった。エメラルドが元気になってから、解除なり修正なり対応すれば、間に合うだろう、と思える程度には。

(今なら、まだ間に合う筈だ。『バーサーク危険日』は、まだ到来していない。 魔法署名を上手く解除できなかったのが原因だから――ちゃんと事情を話して、同意の下で、『正式な手続き』で解除し直せば――)

ロドミールは口元を引き締め、座っていた椅子から立ち上がった。

隣でグッタリとしながら遅い夕食を取っていた同僚が、ビックリしてロドミールを振り向く。

「何だ、ロドミール? 神殿街区の外へは出ちゃいかんって言われただろ。転移魔法陣も、行き先申告制の小型の物だけって事で」

「街区の外には出ないから大丈夫だ。医療院にちょっと行って来るから」

「エメラルド隊士の所か。彼女、意外に綺麗な声してるんだな。意外に美人でもあるんだろう、うらやましい。 暫く大変だから会えないって程度なら大丈夫だろうが、アレコレ喋るなよ。ウラニア女医は情報漏洩については、ピリピリしてんだから」

「分かってる」

*****

ロドミールは神殿のゲートを出て、夜のメインストリートを走った。

――転移魔法陣を経由しない状態では、時間が掛かりまくって、しょうが無い!

門前街区の高級プロムナードは、いつものように夜間営業中の店が色とりどりの華やかな常灯と看板を出している。 昼の仕事を終えて、夜の街に息抜きに繰り出した人々で一杯だ。歩行者天国ならではの雑踏である。

中央部にある高級レストランの辺りで雑踏の密度が最高潮になった。

この時期の定例交渉プロジェクトの打ち上げなのか、神殿勤務の役人たちと平原エリアの役人たちが高級レストランのゲートに集まって、 予約席が空くまで待機していたのだ。そして何やら、盛んに雑談を交わしている。

「――でさ、その折り畳みプレートにあった『バーサーク危険日』注意報、わずか1週間後って事にショックを受けたのか、 青ざめてサーッと行っちゃったんだよね、そのシルフィード」

「シェルリナ嬢の代理だったのかい、本当に? 御本尊が大金を積んで、探偵や魔法使いたちにその謎のシルフィードを探させてるけど、 知り合いの《風》女官の中にはおろか、平原エリアの令夫人と令嬢たちの中にも居なかったし、1週間経っても見付からないんだろ? 逃げ足の達者なスパイだったんじゃ無いのか」

「それは無い無い。スパイだったのなら、御本尊の到着と同時に姿をくらますってのが、まず有り得ない。 御本尊の方が、完全無視されてショックを受けてたくらいだからな」

「まさに事実は小説よりも……って所だね。新しい紅茶メニュー『暁星(エオス)』を知ってたって事は、ここ最近の客に違いないんだろうが、 店スタッフ全員、口を揃えて『全く記憶に御座いません』って、どんだけよ」

一時的にではあるが、高級プロムナードの雑踏に阻まれていたロドミールは、その雑談を小耳に挟む形になった。

良家の令嬢と思しき竜人女性が1人、錯乱して行方不明になったらしい。 こちらも注意が要る案件だが――警備担当に通報するように促すのは後回しだ。今は、エメラルドの問題の方が最優先だ。

――ティベリア嬢との事を、ちゃんと説明して、エメラルドとの恋人関係を清算しよう。

元々そのつもりで、『上級占術・匿名相談コーナー』のチケットを入手していたんだし、最初から話し合えば良かったんだ。

偶然にも、今の同僚とエメラルドとの《宝珠》の相性は良い感じだ。 もし嫌じゃ無ければ、同僚と一緒に『上級占術・匿名相談コーナー』に行ってみてはどうか、という事も含めて――

――そう言えば、今日がチケットの割り当て指定日だった。執務室の遠隔通信セットが乗っ取られていたのも想定外だった。 あんなタイミングで、ウラニア女医と隠密調査チームが介入して来なければ、今頃は――

雑踏を抜けたロドミールは、心の中こそ千々に乱れていたものの――その後は、スムーズに医療院のゲートに到着できたのであった。

ロドミールはエメラルドの個室をノックした。

いつものエメラルドからの応答が無い。部外者に対する開錠魔法陣が扉に飛んで来たと言う気配も無い。

ロドミールは疑問符を頭の上に浮かべつつ、扉に手を掛けた。

扉は難なく動いた――ロックが掛かっていないのだ。

――様子がおかしい。

ロドミールは息を呑みつつ、エメラルドの個室に踏み込んだ。

正方形のベッドは、空っぽだ。だが、長持は消えていない。ストリートの、夜間営業中の店にでも行っているのか――

夜目が利く竜人としてのロドミールの目は、ベッドの上に驚くべき物を見い出した。

引きちぎられた、チョーカー。竜体変身を禁ずる拘束具だ。その近くで、微かな光をキラリと反射する物があった。

――エメラルド色の鱗だ。

ロドミールは、信じられない思いで、その鱗のカケラを拾い上げた。

――バーサーク体特有の、有棘性の鱗。

まだエーテル成分が通っている。この鱗は、剥がされてから間もない、真新しい物だ。恐らく、拘束具を引きちぎった時に、偶然に、勢いで剥がれ落ちたものに違いない。

鱗の持ち主であるエメラルドの異変に合わせて、鱗も変化したのだろう――その鱗は正常な物の面影を留めていたが、 バーサーク化の前駆症状をハッキリと示していた。異形の棘が、確かに生えかけている。

――まさか。

ロドミールは、焦りのままに医療院のゲートを飛び出した。最寄りの行き先申告制の転移魔法陣を発動し、エメラルドの馬が預けられている筈の、クラウン・トカゲの厩舎に転移する。

厩舎ゲートの前で、エメラルドから教えられた、その相棒を呼ぶための魔法の『笛』を吹く。エメラルドの恋人であるロドミールの呼び出しにも、クラウン・トカゲは反応するのだが――

――来ない。

近くに居たクラウン・トカゲたちが物珍しそうにロドミールの身体に鼻を寄せ、ヒクヒクさせた。上級魔法神官というのは、やはり珍しい存在なのである。 そのうちの数匹が、つぶらな目を不思議そうにパチパチさせ、『その子は居ないよ』と言わんばかりに、頭頂部のフッサフサをフルフルと振って来る。

――エメラルドは、相棒のクラウン・トカゲと共に消えた。

こんな時間帯に消えるという事は、趣味としている城壁ハイウェイの朝駆けどころでは無い。幾つもの魔境を突っ切って――何処か遠くへ移動しているのだ!

(エメラルドは、自分がバーサーク化するという事を知らないんだ! 私が、 ちゃんと言わなかったから! よりによって、『バーサーク危険日』は明日の夜明けだ――彼女がバーサーク化するのを、何としてでも止めなければ!)

ロドミールはショックで青ざめながらも、警備担当の部隊の一つ、『バーサーク捕獲部隊』に緊急通報をした。

――神殿隊士1名、行方不明。バーサーク化の可能性あり。払暁の刻までに捕獲し、拘束具を付けるべし。

*****

その頃――

山の頂上に広がる神殿街区を出奔したエメラルドは、魔境を幾つも駆け抜け、回廊街区を猛スピードで降下して行くところであった。既に8合目の辺りだ。

目的地は、大陸公路と連結する平原エリア。そこに点在する大型の転移ハブ駅――すなわち、大型の転移基地だ。

背筋に、ゾワゾワとした嫌な感覚が広がり始めている。『バーサーク危険日』のタイムリミットが押し迫って来ている事を証するかのように。

――そんなエメラルドの道連れは、エメラルドの良き相棒であり続けたクラウン・トカゲである。

◆Part.6「深き淵に星は巡りて」

6-1真夜中を駆け抜ける

既に真夜中の刻だ。

天球の頂からややズレた場所で、真夜中の刻を刻む深邪星(エレボス)が輝いている。 皆既日食の時の太陽のような、特徴的な妖しい外観と輝きを持つ闇黒星だから、非常に見つけやすい『時の目印』だ。 その正体は、やはりエーテルを主成分とする天体とされているが、詳細は明らかでは無い。

城壁沿いの退魔樹林が、夜の風にしなり、さやいでいる。その神秘的なざわめきは、竜王都の名物の、「笹鳴り」とも「笹鳴き」とも呼びならわされている物だ。

エメラルドは、相棒を務めるクラウン・トカゲの背にまたがり、魔物の群に追われながらも、闇に沈む断崖絶壁を駆け下りていた。 クラウン・トカゲは、その驚くべきスピードとジャンプ力とで、魔物の群を振り切って行く。

――竜王都を擁する『魔の山』の地形は、ほとんどが気の遠くなるような断崖絶壁だ。

竜人の居住地である街区を守る城壁の各所には、強力な魔除けの魔法陣が施されている。 更に、その特殊な樹香によって魔物の接近を防ぐ退魔樹林が、城壁の外に寄り添うように林立している。

退魔樹林に守られた城壁を出れば、あっという間に異形の魔物の大群に襲撃されるのだ。 身を守る力のない傷病者や幼体が城壁の外に迷い出れば、断崖絶壁に跋扈する魔物どもの、胃液の中の藻屑と消えるのが常である――

エメラルドは退院間近とは言え、目下、医療院に観察入院中の身であり、真夜中の遠出は禁じられている。 足が付かないように、移動記録の残る各所の転移魔法陣を使用せずに、魔境を突っ切って行くのだ。 勿論、クラウン・トカゲのスタミナと相談して、城壁と退魔樹林が接近している、出来るだけ安全なコースを選んでいる。

(馬丁ゲルベールの選んだルートを、研究しておいて良かった。想像以上に短時間で走破できている)

幾つかの魔境を突破した後、エメラルドとクラウン・トカゲは、7合目辺りの、或る街区を取り巻く城壁ハイウェイで小休止を取った。

巡回パトロール中の隊士の目を盗み、一定距離ごとに設置されている尖塔の一つを選んで、相棒に水を飲ませておく。 何故か、トカゲ同士で何らかの了解が成っているらしく、パトロール中の隊士たちを乗せていたクラウン・トカゲは、チラリと首を巡らせただけで、「素知らぬ振り」をしてくれた。

エメラルドは闇の中で目を凝らし、馬丁ゲルベールが選んでいたルートに目当てを付けて行った。

見た目は、ベテラン武官でさえ怯む程の凄まじい断崖絶壁だ。

だが、退魔樹林の力強い根が網目のように広がっており、絶壁の各所に手頃な足場を構成している。 クラウン・トカゲの足場となるポイントが上手い具合に並んでおり、卵を抱えた繁殖トカゲでも走りやすい状況になっているのだ。

エメラルドは、鼻をすり寄せて来た相棒の手綱を取り、アイコンタクトを通じて、走破ルートを示して行った。 賢い相棒はルートを飲み込んだらしく、鼻をヒクヒクと動かして『覚えた。一気に行けるよ』と言う風の身振りを返して来た。

――此処から山麓まで、ノンストップで一気に駆け降りるのだ。1週間前、馬丁ゲルベールとセレンディ・ファレル親子が、そうしたように。

「よし。行くよ!」

再び人馬一体となったエメラルドとクラウン・トカゲは、目も眩むような高さの城壁を一気に飛び降り、再び魔境へと入って行った。

闇がどよめき、不気味な海綿状の魔物が地響きを立てて現れた。

巨大な数珠で出来た触手を振り回して来る。巨大蜘蛛さながらの姿をした海綿状の魔物は、即座に、エメラルドとクラウン・トカゲを美味な獲物と判断したようだ。 長い触手が、断崖絶壁の岩々をあっさりと削りつつ、猛烈なスピードで迫って来る。

目の前に迫って来た数珠の群れ――魔物の触手を、クラウン・トカゲは見事な大ジャンプでかわし、エメラルドは《風刃》でバラバラに切断する。

傍目から見ても相当に薄気味悪い魔物だ(これらの魔物の食事光景は、もっと不気味である)。しかし、厳しい戦闘訓練を受けたベテランの竜人武官であれば、一人でも撃退できる。

エメラルドは戦闘用の魔法の杖を振るって《風刃》魔法を縦横に繰り出し、しつこく立ちはだかって来るパワフルな魔物を、ことごとく撃退して行った。

夜の空気は冷えて重くなり、山おろしとなって断崖絶壁を吹き降りて行く。その風の道が、魔境の中の走破ルートを疾走するエメラルドとクラウン・トカゲの、追い風となっていた。

永遠に続くかとも思える、魔物との駆け引きが、不意に途切れる。

女武官と相棒は、再び、退魔樹林の並ぶ細長い安全圏に入っていた。

エメラルドの頭上を、橋梁にも似た、幾つもの巨大なフライング・バットレス風の構造体が通り過ぎて行く。 断崖絶壁に建造された各所の回廊や街区を、城壁もろとも支えるための、竜王都ならではの建築様式である。

夜空を横切る壮大な構造体の各所に、重量分散のための大きな《橋梁魔法陣》が――しかも、署名入りの物が――夜間照明も同然に、誇らしげに輝いている。 《地霊相》生まれの竜人の大工――魔法職人(アルチザン)や、それに準じる魔法使いたちの傑作だ。

エメラルドの脳裏に、一瞬、仮面の占術官の説明がよみがえった。

――竜王都創建の時代から間も無い頃の事例です。くだんの成功者は《地霊相》の人で、 城壁維持に関する《橋梁魔法陣》……重量分散のための魔法陣を吹っ飛ばして、奥義の発動の媒体にしたそうです――

(その人は、大型の《橋梁魔法陣》を吹っ飛ばしたのだ。複数の街区を擁する大きな回廊が、丸々崩落したに違いない)

歴史に疎いエメラルドには、その記録があったかどうか思い出せない。

しかし、それ程の大災害であれば、街角の人形劇で度々取り上げられるような伝説になっていた筈だ。回廊の崩落に伴う犠牲者が、ほとんど出なかったのだろう。 恐らく、工事の初期で、地盤固定のための施工に続いて《橋梁魔法陣》がセットされたばかりの頃だったか、或いは建て替え工事中で、ほぼ全街区の住人が居ない状態の回廊だったのだ。

(大丈夫。私の選択は、絶対に間違っていない)

エメラルドの内心の不安に呼応したように、クラウン・トカゲが困惑の鳴き声を上げて、駆けていた城壁ハイウェイの半ばで足を緩め、首を巡らせて来た。 エメラルドは、相棒の気持ちを落ち着かせるため、『何でも無い』という風に、クラウン・トカゲの頭頂部のフッサフサを撫でたのであった。

気が付けば、既に『魔の山』の麓――竜王都へのゲートを兼ねるグランド回廊である。

エメラルドを背中に乗せたクラウン・トカゲは、自慢の脚力で大ジャンプを披露し、城壁からグランド回廊へと飛び降りた。

グランド回廊を巡回していた武官がエメラルドに気付き、誰何して来た。その武官服はエメラルドの物とは異なり、黒みを帯びたミリタリー・グリーンだ。一目で竜王配下の武官だと知れる。

「こら! そこの男! ……神殿隊士か!?」

エメラルドは髪留めで髪を固くまとめていた。男女共通の武官仕様ポニーテールだ。巡回武官は、エメラルドを男だと判断したに違いない。

誰何を無視して、エメラルドは、クラウン・トカゲもろともグランド回廊を飛び出した。そして、その先に広がる広大な扇状地――大陸公路に連続する平原へと駆け去って行った。

エメラルドの予想通り、巡回中の武官は、それ以上追っては来なかった。

竜王側の部隊――特に英雄ラエリアン卿を中心とした近衛部隊にしても、翌日『バーサーク危険日』に予想されるバーサーク竜が巻き起こす災害と、 それに乗じての軍事作戦や防災作戦に備えて、スタンバイ中なのだ。たかが小型竜体の逃亡兵と思しき1人、緊急に捕縛する対象では無い。

――ちなみに、クラウン・トカゲに乗っているという事実そのものが、小型竜体竜体の持ち主である事を証明している。 大型竜体の竜人は、人体の状態でも自前の身体能力が極めて高いので、そもそもクラウン・トカゲに乗る事はしない。 クラウン・トカゲの方でも、大型竜体を警戒して近寄らないのだ(人体の時は、また別だが)。

*****

「――エメラルド隊士の転移魔法陣の使用記録が、まだ見付かりません!」

バーサーク捕獲部隊の本部は、大騒ぎになっていた。

上級魔法神官ロドミールからの緊急通報を受け、バーサーク捕獲部隊に配属されている下級魔法神官が、数人がかりで『位置情報魔法陣』を稼働させていた。 エメラルドの身体から剥がれ落ちていた異形の鱗を手掛かりとし、魔法による捜索を試みて、その移動ルートを割り出しているところである。

バーサーク捕獲部隊の隊長は、苦り切っていた。

エメラルド隊士は、これまでに大きな問題を起こした事は無い。隊長の見るところ、標準的な、むしろ目立たない方の忠実な神殿隊士であった。 およそ1ヶ月前、卵を抱えたままバーサーク化した剣舞姫(けんばいき)称号持ちの女武官を、エメラルドが見事に取り押さえたという一件は、注目に値する実績だ。 回復を待って、エメラルド隊士をバーサーク捕獲部隊に引き抜きたいと思っていた程だったのだ。

――神殿に絶対の忠誠を誓った身で、何故バーサーク竜と化す危険を冒して、竜体変身を禁ずる拘束具を引きちぎって逃走したのか。 しかも、竜王軍の大将にして猛将ラエリアン卿による大攻撃が予想されるタイミングで、だ! 事と次第によっては、軍規違反、反逆者として逮捕しなければならない!

「エメラルド隊士の行き先は、分からんのか!」

焦れた隊長が、下級魔法神官たちに怒鳴る。 しかし、エメラルド隊士の使用記録が残っている転移魔法陣が存在しないため、移動ルートを割り出すのは、容易では無い。

やがて、下級魔法神官たちの魔法の杖によって、大天球儀(アストラルシア)の中に呼び出された3次元立体地図の上に、位置情報ポイントが次々に表示されて行った。 使われた記録のある転移魔法陣の数は、やはり、ゼロだ。

エメラルド隊士を示す白い点は、リアルタイムでは、ほとんど見えない。エメラルド隊士は偵察スタイルを取って、『位置情報魔法』妨害をしているのだ。 しかし、ほんのわずかな間ながら、無駄なエーテル漏出による魔法破綻が起きるたびに、魔境を猛烈なスピードで突っ切って行く白い点が現れる――

隊長、副隊長と言った上官たちは、感嘆の唸り声を上げざるを得ない。

強い魔物が多いだろうに――どうやって、これ程の猛スピードを維持しているのか。 転移魔法陣を使わずに一気に『魔の山』を下りるルート――『魔の山』全体の走破ルートを、エメラルド隊士は、どうやって見い出しているのか。

「これだけの魔境を一気に突っ切って、移動スピードが落ちないのか……」

「クラウン・トカゲの足があるとは言え、驚異的な移動速度だ。 そんなに急いで、何処へ行こうと言うんだ? 王宮の回廊の方へは向かっていないから、竜王側の方に寝返るという訳では無さそうだが……」

そうしている間にも、割り出せる限りの痕跡が次々に記録され、点と点が線でつながれて行った。 7合目の辺りで、少し小休止したらしいという動向が浮かび上がる。その後は――ノンストップの急降下。

ようやく下級魔法神官たちが、声を張り上げた。

「エメラルド隊士は、山麓グランド回廊に向かっています! 平原に逃亡する可能性あり!」

「バーサーク竜を、平原に野放しにする訳にはいかんぞ! 平原の豪族たちの支持……物資援助を失えば――かの鬼畜、英雄ラエリアン卿でさえ、そんな暴挙はやっていない!」

「全員、出動! エメラルド隊士を緊急捕獲する!」

隊長の指令に応え、バーサーク捕獲部隊は各々のクラウン・トカゲを駆り、未明の闇に飛び出して行った。

6-2逃亡者と追跡者

エメラルドの目指す大型の転移ハブ駅までは、まだ相当の距離がある。

魔の山での全力疾走に加えて、平原に広がる丘陵地帯の中、転移魔法陣を使わずに長距離を走り続けていた。さしものクラウン・トカゲも、哀れっぽい鳴き声で疲労を訴えて来る。

「ハードな行程だったから、ごめんね」

扇状地を流れる大河から分かれた水路の一つ――水場で一旦、足を止める。エメラルドは相棒の背から降り、相棒の鼻先を撫でて、手綱を外した。

淡いアッシュグリーンを全身にまとう相棒は、エメラルドの手に鼻をすり付けると、いそいそと水場に駆け寄った。長い首を降ろして、水を飲み始める。 クラウン・トカゲと言えども、ぶっ続けで全力疾走した後は、喉が渇くのである。

エメラルドは水場に林立する雑木林の下、相棒のクラウン・トカゲがウロウロするのを見守った。 一旦、小休止すれば、クラウン・トカゲの脚力の回復は早い。進化の過程で、原始的な疲労回復の魔法を獲得したからだとも言われている。

何という事も無しにフッと息をつき――夜空を振り仰ぐ。

未明の闇の中、宝石箱をひっくり返したような満天の星空が広がっていた。

天球の回転軸の方向にある、彼方の地平線に視線を向けると――星々の密集した帯。手前の凸凹の地平線が形作るスカイラインが、クッキリとしたシルエットとなっている。

――『連嶺』。

行けども行けども、その無数の星々で出来た光の帯は、地平線に打ち寄せて来る果ての無い波のように、何処までも横たわっているように見える。 超古代の大激変の影響で、天球の回転軸が刻々ズレているからだ。しかし、特徴的なギザギザの連なりは手頃な目印となっている。

大陸公路や大海洋を横断する隊商は、あの『連嶺』で、行く手の方角を見定めて、進んで行くのだ。

元々は、かの光の帯は『天の川』『銀河』と呼ばれていたと言う。であれば、今、『天の渚』のように見えるのも道理なのだ。

――星の大海、星宿海。永劫の時を寄せては返す、星宿海の渚よ――

星明かりのみが降り注ぐ未明の闇の中、クラウン・トカゲは、頭頂部のフサフサした飾りを機嫌よく揺らしながら、気ままに水を飲んでいる。 水場の周りは、竜王国の物流を支える主役、大型の荷車を牽く三本角(トリケラトプス)の足跡で一杯だ。

水場を取り囲む雑木林の中、やがて相棒は、夏の季節物のベリーの類と言った木の実を見つけて、嬉しそうな顔で食み始めたのであった。

エメラルドは、身体の凝りをほぐそうとして伸びをした。

――バーサーク化の前駆症状である有棘性の鱗が出来始めている影響で、こうして人体の姿を取っていても、以前とは全く違う軋みを感じる。 ゾワゾワするような嫌な感覚は相変わらずのままだが、それに加えて、ザワザワするような感触が強くなって来ていた。

エメラルドは眉根をひそめ、辺りを慎重に見回した。物理感覚と魔法感覚の両方で、耳を澄ます。

(この、身体の外から来ているような、ザワザワする気配は何だろう?)

エーテルの音であろうと思われるのだが――竜王都の濃密エーテル・ポイントで聞かれるような、大水量の滝が流れ下るような音とは異なっている。 むしろ――不定形の、異様なざわめきだ。乱流を伴った強い風に、密集した木の葉が吹かれて、意志を持った何かの如く、不吉にざわめく時のような。

(これは、騒音? まさか――)

――偶然とはいえ、注意深く耳を澄ましていた事は、エメラルドにとっては幸運だった。

武官として訓練されたエメラルドの耳は、馴染みのある――しかし、警戒する必要のある――地響きを捉えたのである。

「――来る!」

エメラルドは飛び上がるが早いか、武官支給の戦闘用の魔法の杖を構えて、水場を取り巻く雑木林の陰に身を潜めた。

しかし、相棒のクラウン・トカゲは、逆に「馴染みのある地響き」のせいで反応が鈍く、かえってソワソワとベリー類の周りを動き回り始めている。 『奴らが来る前に甘いベリーを出来るだけ独占しよう』という心積もりが丸見えである。

*****

水場の近くまで接近して来たのは、クラウン・トカゲに騎乗している部隊であった。30人から40人程。

未明の闇の中、一対のペリドット色の点々のようなきらめきが、幾つも幾つも閃いた。微妙に高い位置では青白い一対の点々が、同じくらいの数でキラキラと光っている。

闇の中でペリドット色に光るのは、竜人の目の特徴である。青白く光る方は、クラウン・トカゲの目だ。 充分に夜目の利く竜人とクラウン・トカゲの目は、その瞳孔が最大限に開くと、星々のわずかな光すらも鋭く反射する。

竜人以外の他種族が見れば、間違いなくギョッとするであろう。特に、竜人と事を構えた場合、夜間の戦闘では絶対に見たくない光景である。

エメラルドの竜人としての夜間視力もまた、充分に機能した。 クラウン・トカゲに乗っているのは、神殿隊士と下級魔法神官である。武官服はエメラルドの物と全く同じデザインで、神殿配下の者たちだとすぐに分かる。

先頭部分に出て来たクラウン・トカゲの背の上で、隊長と思しき年長の人物が、大声を張り上げた。

「おい! 本当に、この近くにエメラルド隊士が居るのか?」

その声に応じたのは、下級魔法神官の1人だ。

「間違いありません! 手がかりの真正性については、ロドミール神官が保証しています!」

バーサーク捕獲部隊に配属されるだけあって、バーサーク捕獲に関する各種の魔法の熟練度は、一定以上のレベルに達している。 隊長は思案顔でひとしきり髭をしごくと、後方に展開した隊士たちに、サッと手を振って合図した。

「徹底捜索せよ! 1斑あたり1つずつ、拘束具は行き渡っているな! 見つけ次第、拘束具を付けて捕獲しろ!」

隊士は展開し――そして勿論、魔法による捜索が加わった事もあって、エメラルドの位置が割れるのは早かった。

「ゲッ! そんな所に!」

いきなり顔を合わせた捜索班の面々とエメラルドは同時に驚いたが、攻防もまた同時にスタートした。

魔法の杖を構え始めた追手たちを、先手必勝とばかりに、エメラルドは《風魔法》の風圧で一斉に薙ぎ倒す。 エメラルドが魔法の杖を一閃すると、その風圧で雑木林が一斉にざわめき、残りの隊士たちも気付いて駆けつけて来た。

「エメラルド隊士! 観念して拘束具を付けろ!」

出て来たのはバーサーク捕獲部隊の副隊長だ。副隊長は《地霊相》の生まれで、《地魔法》の使い手である。その魔法の杖が一閃すると、 《鉄の刃》と化したエーテル魔法がほとばしり、エメラルドを取り囲んでいた雑木林が一斉に切り倒されて行った。

轟音と地響き――それに、大量の木っ端を含む、土煙。

エメラルドの相棒を務めるクラウン・トカゲの目の前のベリー類の低木も、斬り飛ばされていく。 クラウン・トカゲは仰天しながらも、見事なジャンプ力を披露し、《鉄の刃》から身をかわした (そもそも、それくらい素早くないと、竜人の馬など務められないのだ)。

息を呑む一瞬が過ぎ去った後、一帯の雑木林は腰までの高さの切り株と化し、手ごろな空き地が出来ていた。 《風霊相》生まれのエメラルドの得意とする、《風刃》魔法どころでは無い。実際の戦闘においては、《地霊相》生まれの者が、最も強い戦士と目されているのだ。

雑木林の中に居たエメラルドは、追手の隊士ともども、一定ラインの下に身を伏せて《鉄の刃》をかわしていた。 追手の隊士のうち、新人たちは流石に、副隊長の本気の魔法を味わって、半ば腰が抜けている。

急に見通しの良くなった空間の中、エメラルドは改めて戦闘用の魔法の杖を構え、慎重に立ち上がった。 クラウン・トカゲの背に乗っている副隊長と――その真後ろに、同じくクラウン・トカゲに騎乗中の隊長を見据える。

「捕えろ!」

エメラルドが、無言ながら表明して見せた抵抗の意思に対して、隊長の反応は素早く、指令は明確だった。 副隊長による包囲の指示に伴い、隊士たちは捕縛のための長杖を構えて、一斉にエメラルドを取り囲む。

(まだ目的地にも着いていないのに、こんな所で捕まる訳にはいかない)

エメラルドは歯を食いしばると、隊士たちの突撃に応戦した。戦闘用の魔法の杖を、長杖に変えて振り回す。

下級魔法神官による、人体捕獲用の小型拘束魔法陣が、次々に花が開くかのように足元に展開する。 ただし、それは美しい観賞用の花ではなく、エメラルドを絡め捕ろうとする食虫花のような物だった。

エメラルドはベテラン武官ならではのキレのある身のこなしで、それを器用に避けつつ、追手の隊士たちを翻弄した。 エメラルドは隊士たちから繰り出される杖術による突撃をかわし、切り株と地上の間を、まるで鳥のように飛び回っていく――半ば空中の格闘戦といったスタイルだ。

エメラルドの長杖は、長物の形式であるという事実を無視しているかのように、縦横無尽に空中を舞い、高速で回転した。 その様は、乱戦を切り抜けるための純然たる暴力でありながら、バトン・トワリングを思わせる華やかさだ。

バーサーク捕獲部隊の隊士たちは、エメラルドの長杖に己の長杖を絡め捕られ、或いは受け流された衝撃で、姿勢をぐらつかせた。 その拍子に、運の悪い幾人かは、エメラルドの足技をお見舞いされ、地上に展開した拘束魔法陣に蹴り込まれて行く。 相当数の隊士たちが、まるで石につまづくかのように拘束魔法陣に足を取られ、次々に転倒して行った。

エメラルドの強さをまざまざと見て取った副隊長が、『我ながら抜かった』といった渋面をした後、下級魔法神官たちに向かって新たな指令を怒鳴った。

「チクショウ! 貴様ら、大型の拘束魔法陣を合成しろ! まとめて拘束だ」

その指令に応え、下級魔法神官たちは大急ぎで、隊士たちをつまづかせていた多数の小型拘束魔法陣を解除した。

大型竜体をも拘束できるような厳重かつ強力な拘束魔法陣を展開するには、複数の――少なくとも3名以上の――下級魔法神官たちが、息を合わせなければならない。 上級魔法神官なら1人でも展開できるが、あいにく、バーサーク捕獲部隊には、人数が少なく貴重な上級魔法神官は、配属されていなかった。

(――チャンス!)

エメラルドは、一瞬のスキを見逃さなかった。

「ヘイ、相棒!」

仰天したまま固まっていたクラウン・トカゲが、乗り手たるエメラルドの呼び声に応え、多数の切り株を飛び越えて、猛烈なスピードで駆けつけて来る。

「行かせん!」

流石にハッと気づいた隊長が――彼は《火霊相》生まれであった――エメラルドの逃走先と予期できる方向に、障壁となる炎の壁を出現させたが、一呼吸だけ遅かった。

エメラルドのクラウン・トカゲは、エメラルドと同じく戦場のベテランだった。乗り手たるエメラルドの指示に忠実に応え、いきなり立ち上がった炎の壁に、反応すらしない。

クラウン・トカゲの突進方向に一瞬だけ先んじて、エメラルドは平行に助走した。そして、ヒラリと飛び上がり、軽業師も同然に、疾走中のクラウン・トカゲの背に着座を決める。 そのまま手綱も無しに、炎の壁に向かって、クラウン・トカゲに全力疾走の掛け声を掛けた。

「行け!」

「何だと!?」

「まさか!」

隊長も副隊長も唖然として、エメラルドの身のこなしを注目するばかりだ。

わずか数歩でトップスピードに達したクラウン・トカゲは、エメラルドを長い首にしがみつかせたまま、地面を強く踏み切った。瞬間、エメラルドの背中で、純白の竜の翼が大きく開く。

バーサーク捕獲部隊の面々が、唖然として見送る中を――クラウン・トカゲは、高く伸びた炎の壁を城壁と見立てたかのように、滑らかに飛び越えて行く!

城壁攻略の際に必須となる――お手本にしたくなる程の、惚れ惚れするような高跳びの技だ。

物理的に言っても、竜翼による揚力効果は、かなり高いのだ。 魔法感覚を働かせて観察してみれば、その高跳びの軌道に沿って、エメラルドの《風魔法》による飛翔バックアップも加わっているのが見て取れる。 クラウン・トカゲと、乗り手たるエメラルドと、完全に息が合っているのは傍目にも明らかだった。

「とにかく追え! 見失うな!」

副隊長の怒鳴り声が再び響き渡り、隊士たちは慌てて、各自のクラウン・トカゲを呼び集めた。

6-3大型の転移魔法陣

目的地――平原エリアの転移基地まで、あと一息だ。

地平線の彼方に輝く『連嶺』は余り変わらないように見えるが、天球は確かに回転していた。 真夜中の刻を刻んでいた深邪星(エレボス)は、西の空で妖光を失いつつある。タイムリミットでもある夜明けの刻が近いのだ。

バーサーク捕獲部隊による包囲を破って逃走に成功したものの、エメラルドの胸中には、苦い思いがわだかまっていた。

追手に加わっていた下級魔法神官は、あの時、確かに言っていた――『手がかりの真正性については、ロドミール神官が保証しています』と。

(では、バーサーク化する個体として、私を捕獲するように通報したのは、ロドミールなのだ!)

ロドミール本人が何を考えていたにせよ、こうして本気で、追手を差し向けてまで、バーサーク化阻止の試みを妨害して来るとは想定していなかった。

――バーサーク化の呪いを仕掛けられる程に、自分は忌むべき者と見なされていたのか。

――ロドミールは、それ程に本気で、この身をバーサーク化する個体としたかったのか。

自分でも、全くのヒステリーだと分かっているが、思考の筋が混乱して行くのを止められない。苦い思いの次に湧き上がって来たのは、怒りだ。

――感情の暴走が、バーサーク化につながると言う――

しかし、幾ら抑え込んでも、内から湧き上がる深い怒りは、押しとどめようが無い。激情に歯を食いしばり続けるエメラルドの身の奥では、バーサーク化の前駆症状としての、 有棘性の鱗の不吉な軋みが広がり続けていた。

エメラルドの自制心を取り戻したのは――頼りになる相棒、クラウン・トカゲだ。クラウン・トカゲは、急に足を止めたのである。

「相棒?」

一瞬、怒りに我を忘れていたエメラルドは、行く手に素早く目をやり、ハッと息を呑んだ。

「――着いた……!」

そこは、物流の要たる大型の転移基地――それも、大規模な中継ハブ駅だった。

エメラルドが居る小高い丘の上からは、ひときわ目立つ、円筒形をした建築物が見える。 その円筒形をした建築物の胴回りは、堂々としたサイズだ。時として数体ほどの大型竜体が翼を休めるのに利用する、大型の見張り塔にも匹敵する規模だ。

床面積の大きさに対して、建物は意外に平たく見える。せいぜい5階層程度の高さといったところだ。 断崖絶壁の摩天楼を見慣れているエメラルドにとっては、低層の建築物である。

円筒形をした建築物の屋根部分は、ドーム型をしている――屋根の覆いは無く、梁構造が丸見えだ。 中央部分でひときわ高くスッと立ち上がった1本の支柱の周り、 強化加工を施された金属製の梁が蜘蛛の巣構造となって、円筒形の建物の上に緩やかな曲線を描いている。張力構造を備えたハイテク建築物である。

金属製の支柱に金属製の梁。雷電シーズン中の落雷事故を防ぐための物だ。

その建物本体をグルリと取り巻いているのは、竜王都の物と同じ城壁だ。竜王都の物と同じように、フライング・バットレス風の構造体が、壁面に規則的に並んでいる。 大型の転移魔法陣が事故を起こすと、爆風が四方八方へ飛び散る事が知られている。突風やつむじ風どころでは無い。 周りに被害が及ばないように、城壁で封じ込める形になっているのだ。

微かな星明かりの下ではあるが、その円筒形をした転移基地を取り巻く城壁の外には、やはりそれなりの規模の倉庫街が、放射状に並んでいるのも一望できる。 倉庫街とセットになった、三本角(トリケラトプス)用の厩舎を兼ねた駐車場も並んでいるのだ。

これ程の大型の転移基地となると、夜間は完全休業となる。 日が出ている間、大量のエーテルを費やして大型の『転移魔法』を繰り返す――と言う激務に追われた転移魔法陣の作業員――魔法職人(アルチザン)たちは、 各自、安全対策を施した寮に戻って、グッスリと寝入っている筈だ。

「行くよ、相棒!」

エメラルドの指示に応え、クラウン・トカゲは、頭頂部のフッサフサをなびかせて、円筒形の建築物へと真っ直ぐに駆け出した。 入り組んだ倉庫の群れも何のその、断崖絶壁を縦横する脚力でもって倉庫の屋根に飛び上がると、そのまま屋根を伝って、ショートカットさながらに爆走して行く。

断崖絶壁に建造された城壁の高さに比べれば、この転移基地を取り巻く城壁の高さなど、物の数では無い。 エメラルドとクラウン・トカゲは、フライング・バットレス風の構造体を駆け上がり、さながら鳥のように、城壁をヒラリと飛び越えて行った。

*****

円筒形の建築物の中は、ほぼ真円に近い円形の床を持つ、広大な空間だった。

ガランとした大広間――その中央部に、1本の壮大な支柱が天を突くかのように立っている。

広大な空間は吹き抜けとなっており、差し渡された梁の間から、夜空が見える。 蜘蛛の巣のような張力構造のラインに沿って組まれた、覆いの無いドーム屋根は、大型の転移魔法陣の稼働に伴う大風の発生を受け流すための、 巨大な開口部そのものだ。魔法陣の稼働に失敗した場合に出て来る爆風も、覆いの無いドーム屋根から出て行くようになっている。

真円の形をした大広間の周縁部を、アーケード回廊が巡っている。アーケードの列柱の間ごとに、円筒形の建物を取り巻く城壁が見えた。 アーケード回廊の礎石は城壁素材で出来ており、そこから半地下と言った感じの溝が掘られている。 万が一、事故が起きた場合、作業員たちはこのアーケード回廊から半地下となっている溝に飛び降りて、爆風をやり過ごす事になっている。二重三重に安全対策が取られている訳だ。

メンテナンス作業のためであろう、地上から屋上へと向かう長い梯子が、円筒形を成す内壁の構造に沿って各所に設置されているのが目につく。

エメラルドはクラウン・トカゲから降りると、魔法の杖を夜間照明に変えて早足で歩き回り、広々とした床一面に描かれている多数の転移魔法陣をチェックしていった。

真円をした基底床は、城壁素材に準じるレベルの緻密な《地魔法》が施された、非常に堅牢な濃灰色の一枚板で出来ていた。 ダイヤモンドより硬く、鋼鉄より粘りがある。そこに、魔法陣パターンの形をした溝が、精密に刻まれている。 転移魔法陣を稼働させる時は、この基底床に刻まれた溝に沿って、白く光るエーテル流束を流すのだ。

小型の転移魔法陣は、大広間の基底床の円周部分に沿ってズラリと並んでいる。

中型の転移魔法陣は、お互いに多少の間を空けつつ、大広間の中心に程近い場所に、規則的に散在していた。

最も巨大な転移魔法陣は、やはり中央部にあった。魔法陣の中心軸が、この円筒形の建物の一本柱となっている支柱と一致している。

――流石、多数の転移ゲートを備えた、大型の転移魔法陣と言うべきか。

最大サイズの転移魔法陣は、その直径が大きいため周囲の転移魔法陣と重なり合っている。中小型の転移魔法陣を付属の転移ゲートとして抱えるスタイルだ。 やり方次第では、1回の稼働で、小分けされた多数の荷物を多方面に、一斉多発的に同時転送できる。作業員の体力を極力、無駄使いしないような稼働スケジュールが組めている筈だ。

――狙うべきは、この最大サイズの転移魔法陣だ。

次に取るべき行動を思案し始めたエメラルドは、不意に、不安そうな面持ちで後を付いて来る相棒に気付いた。 手の届く所に、うなだれるように降ろされたクラウン・トカゲの頭頂部の繊細なフッサフサを、ことさらにモフモフしてやる。

「相棒、しばらく私から離れておいで。私は当分の間、正気じゃ無くなるかも知れないからね」

相棒は――不思議な事だが――エメラルドの事情を察知しているかのようだった。クラウン・トカゲは長い首を巡らせて、暫しの間、鼻をヒクヒク動かした。 そして、目当てが付いたかのような様子で、大広間の周縁部をぐるりと仕切っているアーケード回廊のアーチを潜って行った。

クラウン・トカゲは、アーケード回廊の礎石の下に身を沈めた。半地下構造となっている溝――避難場所に身を潜めたのだ。

エメラルドは、今更ながらに、相棒の察しの良さに舌を巻いた。

6-4反逆の刃を振るいて

エメラルドが息をつけた時間は、ほんのわずかだった。

背筋を走るゾワゾワとした嫌な感覚と共に、魔法感覚で捉えられるザワザワとした不定形の不気味な騒音もまた、その存在感を急速に増している。 エメラルドが、その正体を探ろうと感覚を集中し始め――

――そして数分も経たないうちに、バーサーク捕獲部隊、すなわち追手の足音が、転移基地の正面出入口の周りを取り巻いたのであった。 くさっても、バーサーク捕獲を専門とする特殊部隊と言うべきだ。態勢の立て直しは素早いし、魔法を利用した追跡のテクニックも優れている。

「くそう! 既に何処かに転移、逃亡したか!?」

「夜明けまで間が無い! とにかく突っ込め!」

地団太を踏む隊長と副隊長の命令に応じて、捕獲部隊の面々が、正面ゲートを破って内部へとなだれ込んだ。

エメラルドの方は――まだそのタイミングでは無かったため、転移魔法陣を稼働させていなかった。

バーサーク捕獲部隊の面々と、エメラルドは、中央の1本の柱のやや前で、対峙する。

エメラルドの足は、目を付けていた大型転移魔法陣の主要ラインを踏み締める形になっている。万が一のタイムリミットとなる夜明けまで、大型転移魔法陣のラインから離れるつもりは無い。

隊長と副隊長は、エメラルドがやや腰を落として戦闘用の魔法の杖を構える様を、息を呑んで注目した。

――多勢に無勢だろうに、徹底抗戦するつもりか。

隊長はクラウン・トカゲにまたがったまま、ズイと先頭に出た。そして、ベルトに手を突っ込むと、そこに挟んでいた、チョーカーさながらの物体を取り出した。 竜体変身を禁ずる拘束具だ。隊長は、手錠のようにも見える「それ」を掲げて、大声を張り上げた。

「エメラルド隊士! 今一度、忠告する! 速やかに拘束具を付けて、バーサーク危険日をやり過ごせ!」

エメラルドは柳眉を逆立て、今一度、決意を表明するべく、激しく首を振った。髪留めでキッチリとまとめられた、濃いエメラルド色の――ただし、色ムラのある――髪が、一筋ほつれた。 一筋だけではあったが、その一筋の髪は、背中まで届く程の髪の長さを、ハッキリと示している。

「私は、絶対にバーサーク化しない」

その宣言は、隊長の指示に対する直接的な拒否である。

同時に――エメラルドにとっては、ロドミールの思惑と、その上級魔法神官ならではの、神の如き占術的支配に対する、反逆であった。

隊長の額に、青筋が立った。

「もはや、これまで……! 者ども、徹底的にやれ! 必ずや身柄を確保しろ!」

既にクラウン・トカゲから降りて半円型の包囲隊形を組んでいたバーサーク捕獲部隊の面々は、構えていた魔法の杖を、各自、一斉に様々な刃物に変えた。 覆いの無いドーム型の屋根から降り注ぐ星明かりを反射して、各々の一対のペリドット色のきらめきの中ほどに、多数の白銀色の光がギラリと閃く。

エメラルドもまた、魔法の杖を刃物に変えた。その手にあるのは、柳葉刀に似た、反り返った太刀だ。竜人の持つ刀剣の中では、最もよく見られる標準的な物である。

戦闘開始の合図は無かった。

双方ともに実戦慣れしている戦士であり、互いに隙を突かんと、ほぼ同時に足を踏み込んでいた。

エメラルドは、ベテランの上級武官ならではの腕前を見せた。《風刃》をまとわりつかせた刀が、左から右へ低い位置で一閃するや、 一番手前に居た何人かの隊士が、カマイタチに襲われたかのような創傷を足元に受けて姿勢を崩す。特に不慣れな新人はダメージが大きく、一撃で地面に転がる有り様だった。

水場での揉み合いとは、全く別の乱戦となった。

それぞれの得意とする《四大》エーテル魔法の四色の閃光がほとばしった。 純然たる剣術がぶつかり合う形となる斬り合いも多く繰り返され、転移魔法陣が描かれた大広間に、見る間に血飛沫が散っていく。

多勢に無勢というだけあって、エメラルドもまた、無傷と言う訳には行かなかった。 特に重量のある魔法の《石礫》の類は、《風魔法》による風圧では防ぎきる事が出来ず、ガードの薄い二の腕や向う脛にダメージを食らってしまう。

竜人の使う刃物は充分な強度を備えており、特製の武官服は、その連続攻撃にさらされて急速に破損して行った。 破損した箇所については、自前の竜体に由来する鱗と皮で、刃物の衝撃に耐えなければならない。

エメラルドの竜体としての強さは、武官としては充分な物である。

だが、純粋に竜体としてのパワーで見れば、自らを上回る大きな竜体の主から力任せに繰り出される物理的攻撃――斬撃には、やはり大きなダメージを受けてしまう。 持ち前の身軽さで致命的な事態には至っては居ないものの、エメラルドの身体には、深手が増え始めていた。

一方で、乱戦状態とあって、下級魔法神官による援護は限られていた。攻撃魔法は幾つかあるが、武官ならではの猛烈な戦闘速度には、付いて行けないのだ。

拘束魔法陣を展開するのも考え物だ。床一面に描かれた転移魔法陣の群れの上で拘束魔法陣を展開すれば、余分なエーテル同士の反応や干渉が起きて、 相殺になって無効と化すか、転移魔法陣が予期せぬ恐るべき誤作動を起こすか、いずれかである。

代わりに下級魔法神官たちが展開したのは、魔法による封印である。円筒形の建物全体が完全な密室となり、全ての出入口が塞がれた。 蜘蛛の巣さながらの覆いの無いドーム型の天井にも、魔法の透明な障壁がピッタリと隙間なく広がった。

エメラルドの逃走経路は、すっかり失われていた。

「どうだ! もはや袋のトカゲだ! 死にたくなければ、早々に投降しろ!」

副隊長が怒鳴ったが、乱戦の模様に変化は無い。

エメラルドは巧みな剣さばきで、早々に追っ手の半数を戦闘不能にし、地面に這いつくばらせている。 魔法の威力をまとった刃物の攻撃に対しても、その防衛力は、平均を遥かに抜いていた。

このままでは、まさかでも何でもなく、エメラルドは、隊士を全員倒してしまいかねない。そして、転移魔法陣を使って、何処かへ逃走を――

副隊長は「クソ!」と悪態をつくと、自ら刃物と化した魔法の杖を構え、クラウン・トカゲの背から飛び降りた。

見れば、エメラルドの顔面には既に深い裂傷が出来ており、血の川を流している。全身もまた刀傷にまみれていた――特に、腹部の出血がひどい――

――だが。

深い暁闇の中でペリドット色にきらめく女武官の眼差しは、なお衰えぬ戦意を見せてぎらついていた。 副隊長の飛び入りに対して驚くでも何でも無く、刀剣を八双に構える。その熟練の動作は舞手さながらであり、その構えは、端正とすら言えた。

――『剣舞姫(けんばいき)』。

副隊長は一瞬、心の中で舌を巻いていた。

近々、エメラルドは、その栄誉ある称号を獲得する見込みだったのだ。その実力は感嘆すべきレベルであった。

(だが、今や満身創痍!)

副隊長は、裂帛の気合を発するや、容赦なくエメラルドに斬りかかって行った。副隊長は己の優位性を確信していた。そして、それは正しかった。

エメラルドの刀剣は、剣戟によるダメージを既に限界まで受けていた。 副隊長の、一撃必殺とすら言える大重量の《地魔法》をまとった斬り込みを、真正面から受け止めた瞬間、誰もが驚く程、あっさりと――

――エメラルドの刀剣は、真っ二つに折れて弾け飛んだ!

エメラルドは自らの刀剣に執着はしなかった。残った柄で、副隊長の刃を流しつつ、身をひるがえして飛びすさる。

副隊長の斬撃は、その勢いのままに、そしてエメラルドの巧みな受け流しで軌道を曲げられ、結果として、足元の基底床に刻まれていた転移魔法陣の溝に、刃を取られていた。 副隊長は、すぐさま刃先を引き抜き、下段に持ち替えると共に鋭く振り返った。

副隊長の目が、中央の支柱の傍まで後退したエメラルドの姿を、瞬く間に捉える。

――エメラルドは、今や丸腰だ。全身の裂傷が明らかに倍増しており、出血量も増えている。 特に、《地魔法》の余波を食らって無数の深い裂傷を負った脚部は、もはや体重を支え切れず、震えている状態だ。

戦況を冷静に見て取っていた隊長が、再び大声を張り上げた。

「エメラルド隊士、これが最後の忠告だ! 無駄な抵抗を止めて、投降しろ!」

隊長はエメラルドに向かって、チョーカーの形をした拘束具を投げつけた。

しかし――当然ながらと言うべきか。

エメラルドは幾分かダメージの少ない方の片腕を振り抜き、拘束具を弾いたのであった。拘束具は、大広間の周縁部を取り巻くアーケード回廊の近くまで滑り去って行った。

「救えん、頑固者が!」

隊長は表情を歪め、歯噛みした。

6-5凶星の夜と暁星の朝

――異変は、突然だった。

それまでザワザワとした背後の耳障りな騒音に留まるレベルの物だった、不気味なざわめきが、いきなりハッキリとした轟音となって響き始めたのである。

「何だ、これは?」

エメラルドだけでは無く、その場に居た誰もがギョッとして、訳の分からぬ現象に――ゴウゴウとうなるような、嵐のような不気味な音に――感覚を尖らせた。 すぐに轟音は、実体を伴った風となって吹き荒れ始めた。

吹きすさぶ風は瞬く間に速度を上げ、隊士たちの体勢をぐらつかせる程の豪風となって行く。密封された空間の中で、風は乱流も同然にメチャクチャに方向を変えた。

「《争乱星(ノワーズ)》だ! 《争乱星(ノワーズ)》が、エーテルを呼び集めている!」

「今日の――『バーサーク危険日』の、《争乱星(ノワーズ)》だ……!」

異様にエーテル成分の多い風なのだ。流石に、その手の知識に詳しい下級魔法神官たちが、風圧によろめきながらも、素早くその正体に気付いた。

エメラルドは、下級魔法神官たちが口にした内容に息を呑み、不吉な予感と共に頭上を振り仰いだ。

透明な魔法の障壁に塞がれたドーム型の開口部を通して――夜空に見えるのは、夢のようなラベンダー色をした一つ星。

――暁星(エオス)!

(タイムリミットだ!)

エメラルドは大きく喘いだ。

身体中の鱗の違和感がひどく、今やギシギシと言う不吉なこすれ合いを伴っている。負傷による痛みはさほど無いが、身体が膨れ上がるような、狂乱的な熱量と内圧を感じる。

今まで戦闘に集中していたから気付かなかったのだが、これ程の深手を受けて、なお感覚が鈍いのは、バーサーク化の途中にあるからだ!

「――いかん!」

そう叫びながらも、副隊長もまた、次の行動が決められず呆然としていた。

暁星(エオス)の輝きは強まり、辺りは薄紫色の光に染まり――揺らめき始めた。

異様な轟音を立てて吹きすさぶエーテルの風の中。

全員が腰を低く落として足を踏ん張り、姿勢を安定させながらも……『次に何が起こるのか』と、魅せられたかのように、薄紫色の光に見入るのみだ。

床一面に描かれた幾つもの転移魔法陣が、まるで命ある物であるかのように震え、轟音と共に、前日の残余分の白いエーテル流束を噴出している。その噴出量は、指数関数的に増大して行った。

《争乱星(ノワーズ)》が巻き上げるエーテルの風の風圧と轟音は、雷電シーズンの時の荒天を思わせる激しさで、建物全体を軋ませた。

急速に高密度になったエーテルは、透かし天井から差し込んでくる暁星(エオス)の微光を、気ままに屈折させている。

まさに薄紫色の陽炎だ――今や、オーロラのように舞い狂っているようにも見える。 辺りの光景が幻想的に揺らめいて合成像を結び、蜃気楼魔法さながらの、存在しない筈の幻影を繰り出し始めた。

隊長は、その有り得ない程の幾何学的な幻影に、思わず目を凝らした。ちょうど、エメラルドの背後に合成されているのだ。像のブレが大きく、多重像そのものなのだが――

――天秤?

最大サイズの転移魔法陣の中央部に立ち尽くす格好になったエメラルド自身も、また、変化していた。 心理的抵抗があって、変化は異様にゆっくりだが、確かに竜体への変身が始まっている。

まず、バーサーク竜ならではの、有棘性の鱗の生えた尻尾が現れた。 次に足先に、異様に長く鋭い爪が生えた。不気味な異形の鱗は、足全体を覆い、足首を覆い、次第に下半身を上昇しつつ広がって行く。 血にまみれ、破損し尽くした武官服は、竜体変身の進行と共に、次第に濃いエーテルのモヤの中に消えて行った。

さながら、神話に出て来る人頭蛇身のような姿だ。エメラルドは立ちくらみを起こしたかのようにグラリと傾ぎ、基底床に両膝を突いた。 エーテル風の轟音の隙間の中で、ガシャ、という異形の鱗の音がした。

「バカ野郎! 誰か、拘束具を付けろ!」

隊長が叫んだが、副隊長の動きも隊士の動きも、鈍かった。エーテルの暴風は、それ程の風速に達していたのだ。 ガランとした空間で無ければ、竜巻に巻き込まれた状態さながらに、ありとあらゆる置物が飛び交っていただろう。

クラウン・トカゲでさえ、風圧に翻弄されて滑らかな基底床の上を滑り出す有り様だ。 しゃがみ込んで重心を低くし、四つん這いになって丸くなった格好のまま、ズリズリと押され、或いは転がされて行く。 基底床が余りにも硬く滑らかなため、自慢の脚力が役立たないのだ。大広間中に、クラウン・トカゲのパニック状態の鳴き声が響いた。

薄紫色のオーロラが揺らめく中、濃厚なエーテル流束が、荒れ狂う渦巻きを形作っている。 エメラルドの背後では、人体より一回り大きいサイズの不思議な天秤の幻影が、崩壊と再構成を繰り返し、白い炎のように激しく揺らめいていた。この世の物ならぬ光景だ。

大容量のエーテルを呼び集め続ける《争乱星(ノワーズ)》。 まるで、全ての物を呑み尽くすブラックホールだ。大広間を満たしていたエーテルが渦を巻き、エメラルドの身に吸い込まれて行く。

大広間の空気を満たしていたエーテルが尽き、転移魔法陣のエーテル残量もが尽きると、エメラルドの中で活性化し続けている《争乱星(ノワーズ)》は、 頭上に狙いを付けたようだ――ドーム型の開口部を覆っていた魔法の障壁が、バリバリと音を立てて剥がれ落ちた。 みるみるうちに粉みじんになり、元のエーテルと化し、エメラルドの身の周りで渦を巻く。

「嘘だろう」

下級魔法神官たちは、もはや魔法発動して阻止できる段階では無い事を理解し、青ざめた。

魔法を発動すればするほど、《争乱星(ノワーズ)》が喜々として、 魔法を構成しているエーテルをバーサーク化のエネルギーとするべく、粉々にして吸い込んでしまう。

恐るべき大凶星――《争乱星(ノワーズ)》の覚醒。

エメラルドは、激情と絶望が相半ばする中、必死で我が身をまさぐった。死に物狂いで、此処まで到達した物を――何か、手段は無いのか。無かったのか。

手にも違和感を感じる。見れば、大きさはともかく、もはや人の手では無い。鋭く長い竜の爪と――異形の、棘の生えた鱗。

(――!?)

存在感も曖昧になりつつあるベルトに手をやった瞬間、ペンのような大きさの、棒状の物に手が触れた。

人の手と同じようには指先が扱えず、爪の先で挟んで、それを引っ張り出す。あと一瞬タイミングが遅ければ、武官服と共にエーテルのモヤに溶けていただろう。

(――セレンディの魔法の杖だ!)

戦闘の際に邪魔にならないように、ペン程の大きさに縮小して、ベルトの間に挟んでいたのだ。

とは言え――

――もうほとんど竜体と化した身で、どうやって魔法の杖を振るえば良いのかも、見当がつかない。

そういえば、私は、どうして此処に来ていたのだろうか――どのような魔法を発動する事に、 なっていたのだろうか? 焦りの余りなのか――意識までバーサーク竜の物となりつつあるのか、もはや思い出せない。

エメラルドは両膝を突いた姿勢のまま、祈るような気持ちで再び空を仰いだ。異形の鱗に包まれた両腕が、だらりと垂れた。 魔法の杖の先端部は、基底床の上に描かれた転移魔法陣を指している。

透かし天井の間に見える一つ星は、今まさに始まった払暁のまばゆい陽光の中で、ラベンダー色の仄かな輝きを失おうとしている――

――暁星(エオス)……!

エメラルドは、両手でシッカリと挟み込んだ、その小さく頼りない物に、我が身の中で荒れ狂うエーテル量のすべてを叩き込んだ。

*****

大広間を満たしていた薄紫色の微光が、暴風の轟音が、不意に消えた。

一面の闇――無風と静寂。

反射的に、下級魔法神官や隊士たちの魔法の杖が夜間照明さながらに光源となり、周囲の様子を照らし出した。

静寂は、一瞬だった。

これまでとは違う圧倒的な地響きが、建物全体を揺らした。

次いで、再びのエーテルの閃光と爆音が、瞬間的に大広間に満ちた。大広間は、白昼のような明るさになった。

限界濃度に達した大容量エーテル流束が衝突し、揉み合い、爆発的な連鎖反応を起こして行く。その様は、まるで大広間に樹状放電が満ちたかのようだ。 空気を切り裂き続ける止め処も無い轟音は、竜人の生物学的な可聴域の範囲を超え、腹の底に染みるような重低音となって鳴り渡った。

「隊長! 建物の封印が破れた!」

下級魔法神官たちが上官の次の指示を待たず、我先にと、大広間の周縁部を取り巻くアーケード回廊へ――半地下の溝の中と飛び込んだ。隊士たちも、クラウン・トカゲたちも、パニックだ。

――多数の大きな雷撃が一閃したかのような、言いようの無い、重い衝撃音が轟く。

内壁に、地上から屋上まで裂ける如き、幾条もの巨大なヒビが入った!

隊長と副隊長も、建物の崩壊を直感的に察知し、下級魔法神官たちの逃走先を――アーケード回廊の下の半地下の空間を目指して、回れ右した。 残っていた隊士たちも、無風状態を幸い、後に続く。

エメラルドが、何かしたとしか思えない。

バーサーク捕獲部隊の面々の全員が、そう確信していた。

ドーム型構造の吹き抜けを通して見える夜空は、もはや夜空では無かった。払暁の空でも無い。

《争乱星(ノワーズ)》による予期せぬ現象か、それともエメラルドが、魔法を使って天候を変えたのか――雷電シーズンを思わせる不気味な黒雲が、雷光と激しく揉み合いつつ、どよめいている。

一瞬の静寂の後、唖然となる程の雷光をまとったダウンバーストが、ドーム型屋根を目指して襲い掛かって来た。

「まさか、《雷攻撃(エクレール)》魔法か!」

「爆風が来る!」

半地下の空間に避難したバーサーク捕獲部隊の面々は、アーケード回廊を形作る列柱の、城壁素材で出来た基部にしがみついた。大型の転移魔法陣の事故が起きた時の作業員が、そうするように。

吹き抜けのドーム屋根に張り巡らされていた、金属製の蜘蛛の巣のような張力構造は、巨大落雷を防ぎ切った。だが、ダウンバーストの風圧に呆気なく踏みつぶされた。 ドーム型の曲線を描いていた屋根が落ち込んで行き、支柱が滅茶苦茶にひしゃげ、大広間の床の上に無残に崩れていく。

大広間の床と激突したダウンバーストは、そこで終わらなかった。

膨大な風圧は出口を求め、四方八方に向かって爆散した。

大広間の床の上に落下した内壁の破片、張力構造を成していた梁の断片、支柱の成れの果て――あらゆる物が、爆風に押し流された。 猛烈な勢いで、周縁部のアーケード回廊へ――そして城壁へと、次々に飛散する。

半地下の空間の上を超音速の爆風が通り過ぎ、溝の中にあった細かな小石を、ことごとく吸い出して行く。

バーサーク捕獲部隊の面々は、自身もまた吸い出されそうになりながらも、シッカリと列柱の基部にしがみついていた。クラウン・トカゲは、自慢の脚力を持つ両足を溝に踏ん張って、堪えている。

生物学的に頑丈、かつ俊敏な竜人とクラウン・トカゲで無ければ、とても生き残れなかったであろう。

アーケード回廊を成す列柱は、基部を残して全て吹き飛んだ。

内壁もろとも円筒形の建築物全体が四方八方へ向かって粉砕し、大広間の基底床とアーケード回廊の基部、わずかばかりの礎石を残す、巨大な更地と化した。

外周部たる城壁の下には、元・建物の成分だった物の残骸が吹き寄せられて、うず高く積み重なった。

魔法攻撃に対する盤石なまでの安定した耐性と、物理的強度とを同時に備えた堅牢な城壁で無ければ、倉庫街へも大きな破片が吹き飛び、深刻な被害が及んでいたに違いない。

一陣と言うには激烈すぎる爆風が過ぎ去った後、礎石の上に顔を出したバーサーク捕獲部隊の面々は、綺麗な更地と化した大広間を、呆然と見つめるばかりだった。

ダウンバーストと共に大量のエーテルが注ぎ込まれたのは明らかだ。

剥き出しになった大広間の基底床の上で、数多の転移魔法陣が白く輝き、稼働していた。 《風魔法》の結晶である転移魔法陣――《風魔法》の特徴である白いエーテルの光が、高温の炎のように立ち上がり、明るく輝いている。

――炎のように明るく? ――明るすぎる!

エーテル量が多すぎるのだ!

これ程の多数の転移魔法陣を満たして、なお溢れかえる大容量のエーテルというのは、普通ではありえない!

下級魔法神官たちが何やら、そのような事を叫んでいたが、すっかり震え上がっていた面々の耳には、入らない。

白いエーテルの輝きは、見る間に複数の色に彩られて行った。赤、白、青、黒――四色のエーテル魔法の輝きだ。 気まぐれに踊る四色――《火》、《風》、《水》、《地》、四大エレメントのまばゆい光で彩られている。

そして勿論、転移魔法陣は、四色のエーテル魔法で稼働するようには出来ていない。 早くも、数多の小型サイズと中間サイズの転移魔法陣が、尋常に光で出来た柱を回転させつつも次々に誤作動を起こして、上下左右にガタガタと震え始めた。 基底床に刻まれたパターン溝が、過剰エネルギーを捌(さば)き切れないのだ。中小型の魔法陣パターンの溝が溶解し、次々に構造破綻して行く。

中央の巨大な転移魔法陣の上で、四色のエーテルで出来た壮大な炎の柱が立ち上がった――摩天楼の如く高く立ち上がった柱ではあったが、 見る間に形が崩れ、再びの凶暴なダウンバーストの姿となって、地上に襲い掛かる。

我知らず浮足立っていたバーサーク捕獲部隊の面々は、再び身を伏せた。

四色の極彩色のダウンバーストの中で、不意に渦巻きのような乱流が生じた。乱流は瞬く間に巨大化し、ダウンバーストの風圧をそのままに、壮大な下降トルネードと化す。

それに応じたかのように、巨大な転移魔法陣が、太陽よりも明るく輝いた。再び、四色のエーテルで出来た壮大な炎の柱が、大渦を巻きつつ立ち上がる。

中空に出現したのは、上昇と下降の二重スパイラルとなった四色の極彩色の壮烈な構造体だ。 摩天楼の如き高さを持った構造体は、重力に従うかのように基底床へ向かって圧縮されつつも、有り得ない高速度で回転した。

きつく縒(よ)り合わされたせいに違いない――二重スパイラルを構成していた四色が見る見るうちに溶解し、一方が金色に輝き、もう一方が銀色に輝いた。さながら陰と陽の二重スパイラルだ。

――大容量エーテル魔法の膨大な負荷に耐え切れなかったのか、基底床の全体に、見る見るうちに凸凹の歪みと裂け目が広がって行く――

金と銀のエーテルが暴発した。

真円の形をした平坦な床は、超新星の如き激しい光を放ちつつ、不定形の風船さながらに大きく膨れ上がった。

そして遂に、《地》エーテルの結晶であった基底床は、壮絶なまでの大音響と共に爆散した。

無数の砕石と化して摩天楼よりも高く噴き上がり、砂の如く粉みじんとなり、元の微細エーテル粒子に分解して行った。

*****

倉庫街や作業員寮に宿泊していた数多の隊商や作業員たちが、にわかに騒ぎ出した。

多種族のとりどりの人々が、通りに出るや否や、口々に叫びをあげて、中央部にあった筈の転移基地の成れの果て――城壁のみ残してポッカリと開いた空間と、 その上に揺らめく微細エーテル粒子の黒煙を指差した。黒煙は《地》エーテルの物と思われるが、今まさに雲散霧消して行くところだ。

経験した事のない激しい局地的荒天――ダウンバースト。その後に連続した数多の轟音と爆音、謎の妖光、次いで再びの爆発音と、それに続く超新星の如き爆裂。これで目が覚めない人は居ない。

「誰か居るのか!」

「どうなってんだ!」

作業員たちが先頭を切って、城壁の封印扉を開錠し、現場に飛び込んだ。

いつもの平常さを取り戻した、夏の盛りの、日の出のまばゆい光の中――

転移魔法陣はおろか、大広間の基底床すら残っていない、見事なまでに更地と化した空間。

かろうじて残った周縁部の礎石の陰、半地下となっている溝の中に、まだ現実を取り戻していないバーサーク捕獲部隊の面々と、仰天したまま固まったクラウン・トカゲの一団がたむろしている。

隊長と副隊長が頭を振り振り、それでも作業員たちの姿を認めるや否や、しゃきっと背筋を伸ばして大声を上げた。

「一般人の立ち入りは禁止だ! 良いと言うまで誰も近付けるな!」

流石に、治安をあずかる武官の指示は絶対だ。壮絶なまでの現場を見て取った作業員たちは一瞬で納得し、後から付いて来た隊商の商人たちを倉庫街へと押し戻した。

だが商人たるもの、その野次馬根性は平均を超えている。 再び閉じられた城壁の中には立ち入らなかったが、全員が全員、朝食も着替えも忘れて、興味津々と言った様子で、現場の周りで『壁を透かして見る魔法は無いか』と騒ぎ始めた。 中には、倉庫街の屋根の上に登って、魔法の望遠鏡で城壁を透かして、現場を見てやろうと言う集団も居る。

バーサーク捕獲部隊の面々は早速、エメラルド隊士の身柄を捜索したが、見事なまでに更地と化した空間には、身体の欠片すら残っていなかった。 文字通り、エメラルド隊士は消えていた――爆発で蒸発したのか、何処かへ転移したのか、それすらも定かでは無い。

「隊長! エメラルド隊士のクラウン・トカゲが居ます!」

隊士の1人が、隊長の元へ、余分の1匹のクラウン・トカゲを牽いて来た。余りにも驚き過ぎたせいなのか、クラウン・トカゲは大人しい。

「エメラルド隊士の忠実な馬よ。お前の乗り手の欠片が、わずかでも残っていれば、拾って来れるか?」

隊長が問い掛けると、クラウン・トカゲは今、正気に返ったとでも言ったように、つぶらな目をパチパチさせ、頭頂部のフッサフサを、フサフサと揺らした。 クラウン・トカゲは暫く鼻をヒクヒクさせると、何やら確信を持ったかのように、周縁部の礎石の一部に駆け寄った。そこには、支柱の基部と思しき砕石が突き刺さっていた。

クラウン・トカゲが、不思議がっている時の特徴的な鳴き声を上げる。

副隊長が前に出て、礎石に突き刺さった砕石を取り除くと――そこに、朝の光をキラリと反射する物があった。

「エメラルド隊士の髪留めですな」

副隊長は、女物の髪留めを隊長に示した。爆風で、他の砕石もろとも礎石に突き刺さっていたのだ。髪を挟み込む部分がすっかり無くなっており、残っているのは金属を彫り込んだ装飾の部分だけである。

クラウン・トカゲは、それ以上、反応しない。エメラルド隊士の身体は、もはや元型すら留めぬ原子と化し、或いは微細エーテル粒子と化したか――もしくは行方不明で、此処では回収不可能なのだ。

――暁星(エオス)と共に去りぬ――

この場に残されたのは、髪留めだけであろう――と、隊長は、やっと判断を下したのであった。

6-6怒髪天と惑乱の人々

少し時間をさかのぼる。

風のユーリーは、半透明のプレートをベルトに挟み、魔法の杖を手に携えて、未明の闇の中をコソコソと動き回っていた。 やたらと夜目の利く他の竜人たちに見つからないように、全身黒装束、すなわち忍者コスプレと言う格好だ。

――目指すは、上級魔法神官が詰める研究棟の1つ、その屋上階にある、植え込みに囲われた秘密の中庭だ。

秘密の中庭のある屋上階へと続く壁の下、アーケード回廊が巡っている――

ユーリー司書は、アーケード回廊の柱の影から顔を出した。柔らかな空色の目には、決意が浮かんでいる。

持ち込んで来た魔法の杖を、細い梯子と化す。そして、屋上階にある秘密の中庭まで登れるように、梯子を壁に立てて、ソロリソロリと登って行く。誰にもバレていない筈だ――

「――大図書館の本のお姉ちゃん、何してんの?」

ユーリーはギョッとする余り、梯子から転落した。もっとも、3段ばかりの差でしか無いので、丈夫な竜人にとっては、スッ転んだのと変わらない。

「イテテ……え、お嬢ちゃんは……」

ユーリーは身を起こし、声を掛けて来た幼女と思しき人影を見上げた。

ビリジアン色のクシャクシャの髪、ネコの目のような表情豊かなワインレッドの目、大人の腰の高さにも満たない背丈。平均を遥かに超える美少女だ。

だが、扮装がおかしい。ユーリーを真似したかのように、忍者コスプレになっているのだ。ただし完全な黒装束では無く、少女の好みなのか華やかな赤みが入っていて、臙脂色に見える。

「え、何で、その恰好なの? えっと……ライアス神官のところの……ライアナちゃん。スペクタクル人形劇と紙芝居は、まだ10日後だよ」

小さなライアナは、「えへへ」と笑って、クルリと一回転した。忍者ごっこ気分らしい。

「おねだりして、お父さんの研究室にお泊りしてたんだけど、眠れなくって。アーケード回廊を探検してたら、そしたら、お姉ちゃんが忍者ごっこしてるから、 私も混ぜてもらいたいと思って、急いで着替えて、こっそり来ちゃった。ねッ、良いでしょ?」

親に言わずに出て来たのか。ユーリーは一瞬、頭がクラッとするのを感じたが、場合が場合だけに――時間も迫っているだけに――追い返す事も出来ない。

ユーリーは精一杯、怖い顔をして、ライアナに迫った。

「良い? ライアナちゃん。これから、本物のスパイをやるの。悪い大人たちが、この上にいるの。私のいう事をよく聞いて、奴らに見つかっちゃダメよ。 逃げて、と言ったら、全力で逃げて、お父さんに知らせて」

ライアナは、ユーリーの本気度にビックリした顔をしていたが、屋上階の中庭に続く梯子を眺めて何となく事情が分かって来たのか、マジメな顔で「ウン」と小さくうなづいた。

壁に梯子が改めて固定され、忍者コスプレ姿の大小の人影が、よじ登って行った。

――此処で、世代の違う「にわか女子会」の2人は、重大な事実に気付かなかったという事を、述べておこう。 そのアーケード回廊を見下ろす位置にある、別の塔の上に居た――やたらと視力と聴力の良い――別の人物がビックリして、その様子を注目していたのである。

「これは、放っておけん」

*****

忍者姿の2人は、梯子を登り切り、屋上階の中庭をグルリと囲む植込みの中に、身を潜めていた。

ユーリーは既に半透明のプレートを植込みの隙間に当てて、音声付きの映像記録を取る構えである。 小さなライアナは、目の前で展開する奇妙な儀式に驚く余り、大きな目を一層大きく見張っていた。

中庭の真ん中では、上級魔法神官と下級魔法神官から成る10数人の男女が、《神龍》を礼拝するための物と思しき荘厳な祝詞を唱えつつ、行列を作って円を回っている。 10数人の人影が、神官服に共通の長い裾をなびかせて円を回る度に、古代の儀式さながらに、奇妙な魔法陣が中央に描かれて行った。

ライアナは目を細め、胡散臭げな眼差しになった。

「お父さんとエルメスの研究してる天球探査の魔法陣によく似てるけど、何か違う……」

中庭の中央で、魔法陣が、おぼろな四色の光を放ち出した。しかし、このサイズの魔法陣を稼働させられる程のエーテル量には満たない。 10数人の男女は魔法の杖を構えて、未明の空を仰ぎ、何かを待ち受けているようであった。

「来た」

「現れたぞ! 手筈通りに――」

地平線の上を、薄明がうっすらと覆っていた。次の瞬間、薄いラベンダー色の光が地上に満ちた――その光源は、暁星(エオス)だ。天球の中ほどで、わずかな間に輝きを強める――

10数人の男女が魔法の杖を振り、暁星(エオス)の光を魔法陣の上に集束した。

中庭に描かれている魔法陣のおぼろな光が、極彩色さながらの強烈な光となった。

複雑な円周パターンに沿って、四色の極彩色の柱が、炎のように揺らめきながら立ち上がる。その火柱の高さは、人の背丈の3倍ほどだ。

四色が組み合わさった火柱の頂上部は、ペリドット色の微細エーテル粒子と思しき物を、空中に大量に吐き出した。

魔法の杖を最も高く掲げている、リーダー格と思しき上級魔法神官が、興奮に全身を震わせている。

「世の者どもよ、見よ。恐れ多くも畏くも、高く尊き《神龍》の御名(みな)の下、大いなる御業(みわざ)を――」

――だが。

不意に、地上を満たしていた薄紫色の光が消えた。暁星(エオス)の光は変わらないのだが、『地上を満たす光』がこちらに来ないのだ。 魔法陣の上に降り注いでいた薄紫色の光束が、途絶えた。四色の火柱も、瞬く間に雲散霧消する。

魔法陣の周りで円陣を組み、魔法の杖を構えて息を合わせていた10数人の男女は、その有り得ぬ事態にうろたえ、口々に騒ぎ始めた。

「光束が切れた――」

「そんなバカな。計算は合っているんだ! 誰かが気付いて、横取りでもしていない限り――」

リーダー格と思しき上級魔法神官は、その瞬間、招かれざる『忍者もどき』の存在に気付いた。訓練された魔法感覚の賜物だ。

「――誰だ!」

上級魔法神官の魔法の杖がうなり、ユーリーとライアナの周辺の植込みが、一気に引きちぎられた。

《地魔法》と《風魔法》の併用だ。流石、上級魔法神官ならではの実力と言うべきか、凄まじい威力だ。ユーリーもライアナも圧倒されて、腰を抜かして座り込むばかりである。

10数人の男女が血相を変えて、ユーリーとライアナを包囲する。

「よくも、記録を取ろうとしていたな。生かして帰す事は出来ん」

リーダー格と思しき上級魔法神官の男が、杖を振り上げた。ユーリーは、その声に聞き覚えがあった――大図書館の読書談話室で密談していた3人の男のうち、1人だ。

ライアナが素早く魔法の杖を振って、得意中の得意たる《火魔法》による《火矢》を放った。素晴らしいまでの反射速度だ。 包囲した神官の半数が不意を突かれて、「アチチ」と叫びながら後ずさる。

しかし、上級魔法神官の男は、そのオモチャのような《火矢》の群れを、難なくはたき落とした。

「死ね……!」

上級魔法神官の男の魔法の杖が、強烈な白い光と轟音を生み出した。最大最強レベルの《火矢》と《風刃》と《石礫》と《水砲》が放たれた。

ユーリーはライアナを抱きしめ、小さなライアナが粉みじんにならないようにガードしたが、過剰殺戮(オーバーキル)と言うべき激烈すぎる攻撃魔法の合わせ技では、望みは薄いと言えた。

再び白い閃光が輝き、凄まじい剣戟音にも似た風音が響く。中庭の中で壮絶なまでの魔法と戦闘が展開し、屋上階の全体が震動した。 その震動は、上級魔法神官の研究棟となっている、城壁素材の建物全体を揺るがす程だった。

――天球の中の暁星(エオス)が揺らめいて消えるまでの、ほんの瞬きの間に、全てが終わった。

払暁の光の下、凄まじい騒動が収まるや否や、方々から「何が起きたんだ」という大勢の疑問の声が上がって来た。 アーケード回廊の下から、数々の上級魔法神官や、その助手の下級魔法神官たちが、寝ぼけ眼で飛び出して来たのであった。

*****

それから、一刻も経たないうちに――

神殿内の棟のうち、警備担当が詰める棟の――機密会議室の扉が、凄まじい程の怪力で蹴り破られた。

会議室で、今まさに大詰めという所だった、隠密調査チームのリーダーたるウラニア女医および医師&研修医スタッフ、 調整役のセイジュ大神官、その助手のエレン神官――それに今回の『バーサーク危険日』に関する意見係として招集されていたライアス神官とエルメス神官が、ギョッとして顔を上げた。

同室していた、警備担当リーダーを務める神殿隊士長がビックリして、侵入して来た人物に声を掛ける。

「――ゴルディス卿!?」

ウラニア女医がサッと立ち上がり、灰色の目をギラリと光らせた。

「ゴルディス卿と言えども、許可なしの入室は――」

「緊急事態だ。ユーリー司書とライアナ嬢の話を聞いた方が良いと思うが」

「ライアナ!?」

唖然とするライアス神官の下へ、小さなライアナが泣きべそ顔で飛び込んで来た。忍者コスプレ状態で。

「悪い大人たちに、バラバラにされる所だった――!」

セイジュ大神官が思わず「悪い大人?」と呟き、足元に蹴り砕いた扉を踏みしめて傲然と立つゴルディス卿を、胡散臭そうに眺めた。

ゴルディス卿は、相変わらず妖怪めいた玲瓏たる美貌を保っており、美しすぎる魔王そのものだ。ストレートの黒髪も、今しがたセットしたばかりの流れるような輝きである。 洗練の極致たるファッションセンスに満ちた上等な仕立ての着衣にも、乱れは無いが……

一方ライアナは、強烈なショックを受けたという事は明らかで、父親・ライアス神官の腕の中にスッポリ収まったまま泣きじゃくるばかりで、話にならない。

「誤解するな、セイジュ殿。大の男が幼体の殺害に及ぼうと言う場面を黙って見逃す程、私は慈悲深くは無い」

「相当に誤解を招きそうな物言いだが――ゴルディス卿、今、何と言った? 幼体の殺害だと?」

セイジュ大神官の聞き返しの内容を理解して、ライアス神官とエルメス神官は、口をアングリしたまま固まった。

そして――ゴルディス卿の背後から、忍者コスプレ状態のユーリー司書が、決まり悪げな様子で顔を出して来たのであった。

*****

――その後。

場を変えた機密会議室の中では、ユーリー司書の半透明のプレートに記録されていたデータが再現されていた。

『――では、2日後にバーサーク危険日が到来するのは間違いないのだな』

『ええ、夜明けと同時に。それと同時に、逆方式を立ち上げ、運命の《呪い》を発動すれば……』

『前回と前々回の《死兆星(トゥード)》照応は、爆心地の場所がズレて失敗してしまった。今度こそ、この占術方式であれば、 遂に我ら、《神龍の真のしもべ》が、究極の大逆転魔法によって、闇ギルドに身をやつしているバーサーク義勇軍と共に、竜王都の全てを正常化して――』

その密談の内容に続いて、謎の『メッセージボード』を利用した種々の連絡内容が交わされた。

結論から言えば『メッセージボード』は、目を付けて置いた上級魔法神官の不在を活用するための、盗聴魔法をはじめとする仕掛けの総称であった。

上級魔法神官・本人が居ない場合は『遠方出張』というサインが出るようになっており、一瞬でも本人が部屋に居たら『一丁上がり』というサインが出るようになっている。

『遠方出張』で構成される通信ラインを結合し、上級魔法神官向けの優先通信システムを丸ごと、グループ内の遠隔通信に拝借する。 こうして、密談の内容は更に続いた。『神龍の神罰・争乱星(ノワーズ)バージョン』なる奇怪な儀式をするための時間と場所の指定、メンバー招集の内容となっている。

――ユーリー司書は、これを「鋭意」検討し、通報のための証拠データとして現場を記録しようと、忍者コスプレ状態で乗り込んで行ったのであった。

上級魔法神官の社会的地位は非常に高い。神殿の権威と権力に守られた特別な人々を、しかるべき場に突き出すためには、それ程の確証が要る――という、どうしようもない事情もあった。

機密会議室の面々は呆然としたまま、通報データの内容に注目するのみである。

此処だけの話ではあるが、ウラニア女医の唖然とした表情は、めったに見られない珍しい代物であった。

ゴルディス卿は皮肉満載の口調で、端的な事情説明をした。

「たまたま私が、暁星(エオス)観測のためにあの塔に出ていなかったら、ユーリー司書とライアナ嬢は今頃、草葉の陰で元型すら留めぬ細切れになっていた筈だ」

――忍者コスプレ状態のユーリーとライアナを順番に眺めるゴルディス卿の銀色の眼差しには、皮肉満載の口調とは裏腹に、面白がっているような光が浮かんでいる。

「それにしても……そんな風に、如何にも『不審者でござる』と大声で主張するような恰好でスパイをやろうと言う、勇気のあり過ぎる人物が、この世に本当に実在するとは、この私にしても驚かされたよ」

ユーリー司書と小さなライアナは凹んだ。ゴルディス卿の皮肉は痛いが、助けてもらった手前、何も言えない。

次に、半透明のプレートは、ユーリーとライアナが遭遇した出来事を全て再現した。奇怪なグループとゴルディス卿との戦闘によって、データが乱れた所まで。 すなわち、この奇怪なグループのリーダー格と思しき上級魔法神官が、『幼体の殺害未遂』という重大犯罪をやらかした――という証拠も挙がったのである。

「彼をすぐ逮捕しなきゃいけませんよ」

血相を変えたライアス神官を正気に戻すべく、エルメス神官が声を掛けた。そして、その件については興味を失った、と言った風のゴルディス卿の声が割り込んで来た。

「喋れる程度には生かしてあるから、何をさえずるか試してみるんだな。その前に、現場の拘束魔法陣の周りに集まって来た野次馬の連中を引き剥がす必要があるだろうが」

エレン神官は、口を引きつらせて苦笑する他無い。セイジュ大神官が、呆れたように突っ込んだ。

「奴らを半殺しにしたんだな? 大型竜体ならではのドラゴン・パワーで……ただでさえ近衛兵レベルの腕前なんだから、少しは手加減してくれたまえよ、ゴルディス卿。 貴殿が以前、闇ギルドから放たれた暗殺者グループを撃退した際、竜体変身して暗殺者どもに何をしたか、こっちはスッカリ承知しているんだ」

ウラニア女医がピクリと眉を跳ね上げ、青ざめた医師&研修医スタッフの面々に合図して見せた。

「尋問の前に、救急処置と蘇生処置を施しておく必要がありそうね。現場に急行する。準備しなさい」

*****

――警備担当の将官と配下たちが、ウラニア女医のチームと共に現場急行した後。

この場で最高位の神官として、現場報告を取りまとめる代表となったセイジュ大神官は、ゴルディス卿の顔をマジマジと眺めた。

「どうやって、警備の厳しい機密会議室に乱入できたんだ? 選りすぐりの神殿隊士と魔法使いを配置してある筈だが」

「なに、簡単な事だ。親愛なるセイジュ殿に愛の告白をするから案内しろ邪魔するな、と触れ回っただけだ。大型竜体の恋路を邪魔する余り、蹴られて死にたい奴は居ないだろう」

「……何だと?」

セイジュ大神官は開いた口が塞がらない。その背後ではエレン神官がポカンとしていた。

ライアス神官とエルメス神官は、驚愕の表情で振り返った。忍者コスプレ姿のユーリー司書と小さなライアナが、警備係として残った数人の忠実な神殿隊士(特に女隊士たち)と共に、興味津々で注目する。

「恋に狂った大型竜体の乱入という騒動で、真の通報内容への注目は外れた筈だ。この辺りにも奴らのスパイが居ない訳では無さそうだからな」

ゴルディス卿は涼しい顔で解説した。

セイジュ大神官は、胡散臭そうな顔で、ユーリー司書と小さなライアナを振り返った。

世代の違う2人の忍者コスプレ女子は、無言ながら揃って、シッカリとうなづいて見せたのであった。

――恋に狂った大型竜体(ただしボーイズラブ)。今まさに禁断の愛を告白せんとする大型竜体の貴公子(しかも絶世の美貌)が、何故か従者として引き連れている、忍者コスプレ姿の、世代の違う2人の女子。

後々まで語り草になるような、非常に奇妙な取り合わせの光景だったに違いない。2人の真の通報者の存在が、全くかき消えてしまう程に。 『証人の保護』としては、これ以上の物は無いと言うくらいに優れた方法だが――

セイジュ大神官は、涙目になって机に突っ伏した。女隊士の面々も加わった、「にわか女子会」のキラキラした眼差しが、かえって痛い。

「どうしてくれるんだ、ゴルディス卿……私のボーイズラブの噂が確定したような物じゃ無いか」

「大型竜体とのボーイズラブは、注目されがちとは言え恥にはならん筈だ。あきらめて結婚してみるか?」

6-7恋人たちの残照

その日の朝一番で、上級魔法神官会議が緊急招集された。

招集したのは《地》の大神官長だ。セイジュ大神官の要請を受けての事である。

上級魔法神官の若手たちと一緒に列席したロドミールは、信じられぬ思いで耳を傾けるのみである。

――神殿の中で最も優秀な頭脳を集めたと言われている《神龍の真のしもべ》グループが、その才気ほとばしる熱血の余り、闇ギルドの手の者と共に、呪術に手を染めていたと言うのだ。

上級魔法神官会議は、現場から上がって来る逐次報告を挟みながらも、慌ただしく進行した。

証人保護のため詳細は伏せるが、ある方法で事前に、その計画の存在をキャッチした目撃者が出た。 その善良なる目撃者は、更に呪術の現場の模様を、音声付き映像で記録した。そのデータは、確保済みである。 目撃者たる2人――1人は幼体であった――に対し殺害未遂を行なったと言う、オマケの証拠も付いている。

『バーサーク危険日』に合わせて展開される呪術であり、まさに《争乱星(ノワーズ)》が主役である本日の夜明けと共に発動した。 『バーサーク危険日』が続く間、バーサーク化する傾向のある全ての竜人たちを、ランダムなタイミングでバーサーク化させ続ける――と言う、とんでもない異常現象を狙った物である。

その緊急性を考慮し、既に警備担当の配下が出動している。

バーサーク化する可能性のある「ハイリスク竜人」を順次、身柄確保し、竜体変身を禁ずる拘束具を装着するのだ。 逐次報告の内容によれば、数体は、あわやバーサーク化する直前であった。相当数の竜体が錯乱して行方不明になったため、鋭意、追跡中である。

上級魔法神官会議は速やかに進行し、今や既にテロリスト集団となった《神龍の真のしもべ》の面々に対する弾劾裁判を行なう事が、尋常に決定された。

そして、果たしてその呪術の成功率が如何なるレベルなのか、全面的に調査すべし――との意見が採用された。 いずれ和議を結ぶことになるであろう王宮に向けての公式見解も、その調査結果に沿って作成しなければならない。

*****

上級魔法神官会議の進行が、ほぼ終わりになって来た頃――

エメラルド隊士を捕縛する手筈になっていた、警備担当の配下のバーサーク捕獲部隊が帰還した。

此処では、エメラルド隊士もまた、バーサーク化する個体「ハイリスク竜人」に相当する扱いとなっている。その情報は当然ながら、今日のバーサーク竜体に関する逐次報告の中に埋もれる事になった。

――エメラルド隊士、行方不明。錯乱して行方不明になった他の相当数のバーサーク竜体と同様、全ての地方管区に《宿命図》情報を緊急提供し、発見の報を待つ――

「エメラルド」という個人に関する報告に、ピリピリしながらも注目し、待ち受けていたのは――ロドミール1人だけであった。

実際は、別途に報告された事故、すなわち平原エリアにある大型の転移基地に生じた爆裂事故『超極大バースト事故』の方が、 「エメラルド隊士がその場に居たと言う事実」とは切り離されて、注目を集める事態となっていた。

*****

――古代・中世の頃は、転移基地となりうる施設、すなわち、長期にわたって安定した転移魔法陣を維持する技術が存在しなかった。

優れた技術を持つ、それも《地霊相》生まれの熟練の魔法職人(アルチザン)を集め、鋼鉄よりも堅牢な金剛石(アダマント)の表面を直接ノミで削り、 大変な苦労をして転移魔法陣をセットする――というのが定番であったのだ。 ゆえに、基底床を成型する技術が確立する前の時代においては、王宮や神殿を除けば、転移基地に相当する施設は、地方の一大拠点となるレベルの城塞都市にしか存在しなかったものである。

日々、強度も濃度も激変する《風魔法》が突き抜ける転移魔法陣の基底床には、ひときわ優れた魔法耐性に加え、雷電シーズンに横行する巨大な連続落雷にも耐えうる、物理的安定性や永続性が要求される。 当然ながら、通常の物理的摩擦で徐々にすり減って劣化してしまう天然素材の一枚板では、この過酷な条件を満たす事が出来ない。

鉄などは、熱で伸び縮みしたり、水分や塩分で錆びたりしてしまうので、転移魔法陣の基底床として使うのはリスクが高すぎる。 ハイテクが進んだ現代でも、念入りに《地魔法》で成形した、金剛石(アダマント)レベルの特殊な基底床を使い続けているのだ。

この事実を考慮すると、『転移基地の基底床の全体が粉みじんとなって吹っ飛ぶ』魔法事故が、如何に例外的で、驚くべき有事であるか――と言う事が理解されるであろう。

*****

神殿に、真昼の刻の鐘が響き渡った。

上級魔法神官会議が一区切りつき、報告も含めて翌日に再開という事でお開きになった。上級魔法神官は全員、新たに発生した各種案件で多忙になるのだ。

ロドミールは、釈然としない思いに沈んだ。気の置けない同僚との慌ただしいランチの後も、気分が落ち着かない。

頭の痛くなるような大量の案件に没頭した後、わずかばかりの休憩時間に入ると――いつの間にかロドミールの足は、閑静な中庭を巡る回廊のある離れに向かっていた。 元々、瞑想のための場として設置されていた物であり、1人で考え事をするには、うってつけの場所だ。

――エメラルドは、何処へ行ったのだろう? エメラルドの普段の魔法能力を考えると、大型の転移基地を吹っ飛ばせる程の威力は無い筈だし、何から何まで、謎のままだ――

やがて、思案に沈むロドミールの所へ、バーサーク捕獲部隊の隊長が一礼しながら近付いて来た。

少し魔法感覚を働かせてみると、ロドミールの同僚による『位置情報魔法』のエーテル残響が漂っているのが分かる。この隊長は、ロドミールの同僚に、ロドミールの居場所を聞いたに違いない。

強烈な嵐に巻き込まれたのか、バーサーク捕獲部隊の隊長の武官服は、泥や細かな瓦礫の欠片にまみれ、大きく乱れている。 武官服ならではの強力な防護機能が無ければ、もっとひどい事態になっていただろうという事が読み取れる。

隊長は疲れた顔をしていたが、キビキビと口を開いた。

「ロドミール殿、この度は、ハイリスク竜人の早期通報に感謝します――残念ながら力及ばず、生死不明かつ行方不明と言う結果になってしまったのですが。 これは、エメラルド隊士の唯一の残留品、髪留めです。調べてみた所、貴殿の魔法署名が刻まれていた。 剣舞姫(けんばいき)称号の栄誉を受けた程の『親友』を通報するのは、心苦しかったろうと推察します。貴殿に是非ともお渡ししたいと思い、持参しました」

バーサーク捕獲部隊の隊長は、流石にプロの武官だ。余計な事をくだくだと並べず、端的な事実報告のみだ。

隊長は、差し出されたロドミールの手に髪留めを乗せると、「バーサーク竜体の捜索と捕縛がありますので」と言い、深々と再び一礼して中庭を去って行った。

――『親友』?

ロドミールは呆然として、エメラルドの髪留めに見入った。変わらないように見えるのは、彫り込まれた金属模様だけだ。半ば恐れにも似た思いを抱きつつ、髪留めを観察する。

如何なる運命のイタズラが働いたのか、偶然にして、ロドミールの今後の人生の障害となりうる『エメラルド隊士』という存在が、ほぼ抹消された。

だが、エメラルド隊士との関係は実際は恋人関係であった――という事実を立証する、決定的な証拠が残った。その裏側を返し、そこにある筈の魔法署名を確認するには、大変な勇気が要った。

静かな中庭に差し込む光は、既に夕方の装いである。

オレンジ色を増した浅い角度の陽射しの中で、異様に変形し塗装が剥げ切ってしまった髪留めが、鈍く反射してきらめく。

――恋人としての魔法署名が刻まれている筈の、品――

ロドミールは、ゆっくりと髪留めの裏側を返した。魔法感覚で捉えられる、魔法署名のきらめきが目に入る――

(――!?)

ロドミールは愕然とする余り、一瞬、何が何だか――訳の分からない思いに満たされた。

そこに刻まれている自分の魔法署名は、何故なのか、恋人としての魔法署名では無く、親友としての魔法署名に変化しているのだ。

――人工の《争乱星(ノワーズ)》。呪いとして無理矢理に仕掛けられた「卵」が覚醒する時は、《宿命図》において、超新星さながらの衝撃を伴う。 バーサーク化の呪いを通じてバーサーク化する時には、膨大なエーテル流束の嵐が心身に襲い掛かる――と言う非公開の伝承さえある。 大図書館の中でも、特に『禁書目録』とされる希少な数冊にしか、その記述が無いとも聞く。

――この髪留めに刻まれた魔法署名の、余りにも有り得ざる変容は、その壮絶なまでの、 大容量エーテル流束の衝撃が加わったからなのだろうか? それに、何よりも――エメラルドの心身に、実際は何が起きたのだろう?

不意に、中庭を取り巻く回廊を構成する列柱の奥から、女性の声がした。

「――その髪留めは、エメラルド隊士の物ですの?」

ティベリアの声だ。半ば呆然自失だったロドミールは、思わずギョッとして、不自然なまでに狼狽してしまったのであった。

「済みません、立ち聞きしてしまったのですわ。エメラルド隊士とは、長年の親友だと伺いました。交際は数年以上になるとか――さぞお辛い事と存じます」

列柱の陰から姿を現したティベリアは、同情を込めた眼差しをして佇んでいた。先程まで、声を掛けるべきか否か、迷っていたのだ。

ロドミールは無言のまま、濃い水色の目をした眼差しを、髪留めに落とすのみだ。 その眉目秀麗な面差しには、言いようの無い複雑な表情が浮かんでいたが――食いしばった口元は、何も言葉を吐き出す事は無かった。

ティベリアはロドミールの横に淑やかに立ち、濃紺の目をきらめかせて、中庭に注ぐ夕方の陽射しを静かに眺め――そして、口を開いた。

「エメラルド隊士と同じように、私も、ロドミール殿と時間を掛けて、良き親友というところから交際したいと思います。 私たちの《宝珠》適合率は80%ですけど、残りの20%がどういう答えを出すのかは、まだ分かっておりませんわ。 ロドミール殿はエメラルド隊士に対して誠実だったと、私は信じます――親友として」

中庭に注ぐ陽射しの角度が更に浅くなり、夕陽に包まれた中庭の陰影を、いっそう深めて行った。

ロドミールは複雑な表情をしたまま、ただし《宿命の人》に対する思慕を込めた眼差しで、ティベリアを見つめた。 ティベリアは憂い深くも美しく微笑み、その一途な愛情が含まれた眼差しに、やはり愛情を込めて応えた。

「ロドミール殿が大神官に昇格するまでの数年の間に、私たちは結論を出せる筈ですわ。長い時間ではありませんけど、短いとも言えない時間ですわね。どうか、よろしくお願いいたします」

6-8竜王都の長い夜

落日の刻を過ぎると、いつものように夜空が広がり、時を刻む星々が輝いた。

いつもと同じでは無いのは、竜王都を中心とする情勢である。

結果的に、ラエリアン卿の激怒レベルを更に押し上げる事になったが――竜王国の全体に及ぶ非常事態という事で、王宮側にも、『バーサーク竜の異常な大量発生』の旨、警告してある。

王宮の近衛兵をはじめとする、バーサーク捕獲部隊に相当する多数の部隊が、神殿の部隊と同様に、全員出動という状況だ。 ランダムに発生し続けるバーサーク騒動は、竜王都の回廊街区ばかりで無く、大陸公路に散在する多数の管区でも、燎原の火の如く広がっていた。

そして。

何故なのかは不明だが、幸いにも――くだんの《神龍の真のしもべ》グループがやらかした呪術テロは、完全には発動していなかったようなのだ。

ペリドット色をした『謎の呪いの飛散エーテル粒子』が充分な量に達しなかったせいなのか、落日の刻を回ると、バーサーク竜の発生が少なくなったのである。 『バーサーク危険日』が完全に終了する少し前に、バーサーク騒動が収束するという見込みが立って来たのだ。

*****

――今は、真夜中の刻に近い。

闇ギルド混成軍が、このバーサーク騒動に乗じて竜王国を完全に破壊せんとして、完全武装の状態で王宮エリア前に集結していた。 日が沈むや否や、夜襲も同然に、物理的・魔法的に大攻撃を仕掛けていたのだ。

ついでながら、『穢れた多種族の者どもが出入りし、よって竜王国は欲と悪にまみれ切ってしまった。この竜王国を完全浄化するための正義の戦いであり、 本来の純粋なるドラゴン族の聖性を復活するための聖戦である』とは、このたびの闇ギルド混成軍の主張である。

王宮エリアの近くでは、今まさに、ラエリアン卿の軍隊と闇ギルド混成軍との大決戦が繰り広げられている。

ひっきりなしに轟く、凄まじいまでの空爆音は、双方の竜体の群れから放たれるドラゴン・ブレスの衝撃による物だ。

強い魔法使いたちによる攻撃魔法の、まばゆいまでの《四大》エレメントの閃光もまた、夜空を焼き焦がさんばかりである。

戦闘に伴う様々な轟音が、複数の街区を挟んで隣り合っている神殿エリアへも響き渡っていた。

*****

「――占術は立派な教義を持つ宗教だ。それ故に、それだからこそ、まともな頭脳の持ち主が相手にしてはならぬ領域だ。 一旦、泥沼に――魔境に入ってしまうと、真実に向かって思考する力が、見る見るうちに失われて行く。 後で死ぬような大変な思いをしないと、人は、なかなかそういう迷妄から抜け出ることが出来ないものだ」

特等席の円卓に陣取ったゴルディス卿は、上質なハーブティーを一服し、ゆっくりと述懐した。

――此処は、神殿の中でも特に奥まった一角にある、重役向けの――つまり、大神官向けの喫茶室である。 大図書館の付属カフェなどと比べると、意外に小さなスペースだ。セルフサービス型であるという部分だけは、共通だが。

重厚な雰囲気に満ちた喫茶室の中、やはり重厚なデザインの円卓が均等に配置されている。 各々の円卓の上では、片手に載る程度のサイズをした「水晶玉もどき」の天球儀が常灯の役割を果たしつつ、天球の回転に合わせて、ゆっくりと回転していた。

多数の案件の処理を済ませて、疲れ切った顔をしたセイジュ大神官とエレン神官が、ゴルディス卿と同じ円卓に同席していた。 疲労回復を促すハーブティーが、2人の神官の前に用意されている。そこから立ち上る香(かぐわ)しいフレーバーは、ゴルディス卿お手製の調合による物だ。

流石に大型竜体ならではの圧倒的なドラゴン・パワーと言うべきか――ゴルディス卿の妖怪めいた美貌には、疲労の片鱗は一切、認められない。 夜明け方に複数の上級魔法神官との大乱闘をやらかした上に、1日中、機密情報を含む膨大な案件に関わり、大神官レベルで行なわれる重要決定のアシスタントを務める身となっていたのだが。

「占術は、いつでも権力と愛に――底知れぬ恐るべき狂気の闇に、荒れ狂う深淵に――関わる物だな。 我々竜人の占術では、愛は《宝珠》相として、権力は《宿命図》相として表現されるが、 それでも、権力と愛を織りなす生死の深淵を占う事が、占術の要である事には変わりない。それは遥か昔に絶滅した『人類』なる種族の占術においても、同様だった筈だ」

ゴルディス卿の静かな述懐が終わった。セイジュ大神官とエレン神官は、それぞれの思いを抱えて一服した。

暫し、沈黙の時が流れる――

――やがて、エレン神官が口を開いた。透明感のある淡い琥珀色の眼差しには、決意が宿っている。

「ゴルディス卿は、以前から神殿の聖所に在る《神龍》の正体を知りたがって居られましたね」

「ああ、知りたいね。神殿の連中が、敗色の色濃い今でも目が覚めないのは、《神龍》の存在が大きい」

セイジュ大神官が、鋭くエレン神官を振り返った。

「――本気か?」

「ゴルディス卿は皮肉屋で、矛盾に満ちた変人ですけど、信頼できる人でしょう」

「最後だけ余計な批評が入ったような気がするな。セイジュ殿の入れ知恵か」

3人は深夜のティータイムの席を立ち、神殿の奥の間へと入って行った。エレン神官が即席の転移魔法陣を形成し、稼働させる。《風霊相》生まれだけあって、一連の動作は滑らかだ。

転移魔法陣の風音と白い光が収まった後、3人は、神殿の更に奥まったスペースに転移していた。

ゴルディス卿にとっても、微かながら確かに見覚えのある場所だ。以前、セイジュ大神官の友人として、かなり奥まで入った事がある。 ただし、或る一角の奥へは、あらん限りの偵察技術を応用しても、物理的にも魔法的にも侵入する事は出来ていなかった。

エレン神官は、驚くべき事に先頭に立ち、何でも無い事のように、その一角の更に奥へと、セイジュ大神官とゴルディス卿をいざなったのであった。 エレン神官の魔法の杖の動きに応じて一陣の微風が流れ、不可視の結界を切り開くかのように、現実(リアル)と見まがう程の迷路の幻像を結んでいた蜃気楼魔法が解除されて行く。

複雑怪奇なまでの迷路の幻影が砂の如く分解して行くと、呆気ない程にシンプルな構造の廊下が現れる。

ゴルディス卿は、無言で眉を跳ね上げた。ゴルディス卿の胸の内には、ジワジワと、とんでもない可能性に対する深い直感が湧き上がって来た。

やがて、3人は――かの伝説の「聖所」を取り巻く、最も奥の回廊へと踏み入っていた。

城壁素材で出来た高い回廊の壁には……延々と、人の背丈を遥かに超える大型の『盾』パターンが連なっている。

――《地》の金色のシンボルが刻まれた半透明の黒い盾。《火》の金色のシンボルが刻まれた半透明の赤い盾。《水》の金色のシンボルが刻まれた半透明の青い盾。 この一つ一つが、上級魔法神官レベルを超える、強大な《盾魔法》だ。

エレン神官は或る一角で足を止めると、やはり何でも無い事のように、『盾』の隙間に出て来た非常扉と思しき、シンプルな扉を開錠した。

そして3人は遂に、真夜中の闇に沈む聖所に足を踏み入れたのであった。

微かな星明かりが降り注ぐのみの野外の空間だが、3人の目は、即座に竜人ならではの優れた夜間視力を発揮した。

原初の森の欠片と思しき10数本の退魔樹林が、回廊に沿って、グルリと円陣を成している。竹によく似た樹形の、摩天楼の如き巨木。 規則的な節目で区切られた、滑らかな光沢を持つ緑色の樹幹は、伝承の通り、10数人が手をつないでも回り切れない程の巨大さだ。

下生えは濃いが、定期的に手入れがされており、一筋の獣道のような道が付けられている。

頭上では、退魔樹林の葉の中で虹色にきらめく曜変天目が、星々の光を透過して、意思ある精霊か何かのように色彩を変えて揺らめいていた。

3人は、円陣を組んで立つ退魔樹林の、その中の円形のスペースへと入って行った。伝承によれば、そこに、竜王都創建の時代の、《神龍》を礼拝するための古い礼拝所があるのだ。

――やがて、古く底光りする礼拝所が現れた。

魔法建材の技術が確立する前の、天然の……退魔樹林から切り出した木材を組み立ててある。大変な手間をかけて磨き上げ、特別なニスを施してあるものだ。

古代様式の小さな礼拝所の周りには、不思議な空き地が広がっている。

広さこそ堂々とした物で、大型竜体が降り立つことができる見張り塔と同じくらいの面積だが、そこには、何も無いように見える。

だが――壮烈な程に強大な魔法が掛かっている気配が、明らかに漂っている。此処こそが、神殿の絶対防御の要だ――そう直感したゴルディス卿は、注意深く魔法感覚を働かせた。

その正体は、すぐに知れた。絶対防御を構成する《風の盾》の魔法だ。ゴルディス卿は眉根を寄せて、その端や切れ目が何処にあるのか、探り始めた。

――《風の盾》による魔法の透明な障壁は、恐るべき滑らかさと堅牢さを保ちつつ、遥か天球の彼方へと延びているように見える。

まさに、天を打つが如き、壮大な魔法だ。

わずかに立ち位置を変えて眺めると、透明な魔法の障壁の向こう側の、星々の位置が少しズレて見える。物理的な光学迷彩すら掛かっているのだ。

とんでもない魔法である事は、明らかだ。ラエリアン卿が近衛兵レベルの竜体を数百体以上も揃え、 ラエリアン卿もまた竜体と化した上で、満を持して全軍突撃したとしても、絶対に破れないであろう。

エレン神官は魔法の杖を一振りして、《風の盾》を解除した。余人には到底、解析しえぬ絶対防御の構造が――厳重な光学迷彩もろともに――見る間に、分解して行く。

ゴルディス卿は、思わず呻いていた。この瞬間ばかりは、本気で驚いていたのだ。

「エレン君が、あの《風のイージス》だったのか……!?」

風のイージス――《風》の盾神官。

神殿の中で、最も謎めいた存在。《火》・《水》・《地》の、各々の盾神官の上に立つ――4人の盾神官のトップにして、神殿が誇る最高位の《上級占術》の使い手。 なおかつ、かの『英雄公』ラエリアン卿の猛攻をもってしても崩れぬ、絶対防御の要――

――風のエレニス・シルフ・イージス。

そのエレン神官――『風のエレニス』は、余りにも若く、繊細さすら感じられる面差しを、ゆっくりとゴルディス卿に向けた。 透明感のある淡い琥珀色の眼差しは、今は闇の中で、ペリドット色にきらめいている。その年には似合わぬ、底知れぬ深みと威厳をもった輝きだ。

「セイジュ師匠には、既に話しましたが――私は、この『バーサーク危険日』に先立って、 宿命の凶星の呪いを受けた《風霊相》生まれの人の、一つの命の軌道を懸けて、秘法『星界天秤(アストライア)』を発動しています」

低い声で告白を続ける《風のイージス》は一旦、言葉を切って、うつむいた。 ゆるやかにまとめられた髪型の下の表情は、氷を思わせる硬質さだ。食いしばっていると言っても良い程にきつく引き締められていた口元は、 だが、やがて、ふと洩れた溜息と共に、あの柔らかな笑みを浮かべたようだった。

「――その人が、大いなる術『アルス・マグナ』をやり遂げたかどうかは、将来になってみないと分かりませんけど。 今日の別件報告にあった、大型の転移基地の、四色を伴った大きな爆裂事故を考えると、恐らくは――」

ゴルディス卿は、再び息を呑んでいた。

セイジュ大神官は苦い顔をして沈黙しているが――弟子の選択を理解し、支持しているのは明らかだ。

――『星界天秤(アストライア)』は、秘法中の秘法だ。 生と死を、天秤にかける――宿命の軌道と運命の軌道を精密に正面衝突させる事など、並の上級魔法神官に可能な所業では無い。

かつて『人類』なる種族の絶滅を引き起こした、かの全世界レベルの大変動にも、『星界天秤(アストライア)』の術が関わっていたと言われている――

――『アルス・マグナ』。宿命と運命の交差する瞬間、理不尽な生と非合理な死が出逢う、その究極の場でのみ発動する、大いなる変容の術だ。 その本人が、自身の限界を超えるべく発動する大魔法。天地万物の相関と照応の有り様に、干渉するレベルの――

この世の相関構造は、可視にせよ不可視にせよ、総じてカオスとフラクタルだ。まさに『無限』と言う名の怪物なのだ。

秘法『星界天秤(アストライア)』は、その『無限』に干渉する術だ。 たった一個人の中で偶然に起きた、『アルス・マグナ』による変容の波が、どのように拡大して行くのか、或いは、さほど影響を及ぼさずに静かに収束して行くのかも、全く分からない。

ゴルディス卿は、同情の意を込めた眼差しで、若いエレン神官を見つめた。

エレン神官にしても、『星界天秤(アストライア)』を発動する事を決断する際、深く懊悩した筈だ。

――為すべきか、為さざるべきか。それは常に、究極の――荒れ狂うカオスの深淵との応答だ。 怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。深淵を覗くならば、深淵もまた等しく見返して来るのだ――

エレン神官は、遠い目で在らぬ方を眺めては居るものの、いつものエレン神官である。 形の良い口元に、あの柔らかな笑みを浮かべている。その眼差しは穏やかだが、深い哀しみと喪失感を湛えているようだった。

「神殿が――神官たちが、内部から腐敗していると言うゴルディス卿の見立ては、正しかった。 だから、いつか到来するであろう『星界天秤(アストライア)』の明日のため、ゴルディス卿にこそ、見て欲しいのです。神殿の中心、《神龍》の正体を」

エレン神官――『風のエレニス』は、ポッカリと広がっている空き地の方を見やった。

「今、《風の盾》による目くらましは消えています。魔法感覚で、ご覧になって下さい」

ゴルディス卿は再び、空き地を注目した。

――円形をした空き地いっぱいに、白金色に輝くエーテルの「柱」が立っていた。互いに密着した3本柱に見える。

不思議な白金色の3本柱は、遥か天球の彼方へと延びつつ――先端部が何処にあるのかは、全く分からない。 柱の先端部は、天球の上に広がる星宿海の彼方に、無限なる宇宙の深淵のもとにある――と言うべきなのだろう。

その偉大な胴回りを覆うのは、樹皮と言うのか、竜の鱗のようにも見える幾何学的な文様パターンだ。 各所で、宝石のような光がランダムな点滅パターンとなり、またある時は特定の点滅パターンとなり、複雑な様相を展開しながらキラキラときらめいている。

「初代竜王の弟だった、神殿の初代の大神官長は、これを《神龍》と呼びました。この『魔の山』が無限のエーテル資源に恵まれているのは、この3本柱の影響だと言う事が分かっています。 何故3本柱なのかは分かっていませんが――この世が3次元空間と1次元時間で構成されている事と、関係があるのかも知れません」

ゴルディス卿は、心の底から感心していた。

「まさに世界樹だな」

――竜王国の繁栄を約束する、圧倒的な存在だったのだ――伝説の《神龍》は。成る程、大神官長たちや盾神官たちをして、聖なる物だと認識させる程の、壮大な存在だ。

「占術をもって、この名前の無い、偉大なるエーテルの柱から、神意を読み取った。神官は占術を行ない、その神意を伝える役割だった」

口承で伝えられる、いにしえの神殿秘史を呟いているのは――セイジュ大神官だ。

「だが、いつしか――絶対不可侵の権力という、ゴルディス卿の言う『迷信』と同化してしまった――らしいな」

セイジュ大神官は、やりきれないと言った複雑な表情をして、長く深い溜息をついている。ゴルディス卿が在らぬ方を向いて、「変人の神官も居るでは無いか」と、似合わぬ慰めを呟いた。

結論から言えば、《神龍》は、太陽やその他の天地万物の存在と同様、人知を超えた偉大なる大自然の相の1つであって、それ以上でも以下でも無いのだ。 勝手に権威・権力の根源とされ、解釈され、更には歪んだ占術でもって、都合の良い理由をこしらえるのに利用されただけだ――

エレン神官は、再び魔法の杖を一振りした。瞬く間に《風の盾》が広がり、白金色のエーテルの柱を覆い隠して行った。

*****

満天の星空の下、王宮エリアの方角から轟いて来る激しい戦闘の轟音は、まだ続いている――

運悪く主戦場として選ばれた頂上に近い広大な諸街区の凄まじい壊滅ぶりは、もはや語る必要はあるまい。広大な更地となり、此処は将来、大市場のためのスペースとなる。

闇ギルド混成軍は、ラエリアン卿の、大型竜体ならではの偉大なるドラゴン・パワーの下に、完全に壊滅する事になるであろう。 そして、大勢の強大なバーサーク竜や魔法使いを含む残党が、ラエリアン卿に対する更なる憎悪――もはや信仰レベルと化した憎悪――を抱きつつ逃げ散って行く。

ラエリアン卿は、この後『お礼参り』と称する、数々の狂信的な暗殺者グループの集中ターゲットとなるのだが――これは、また別の話である。

*****

一刻ほどの時間が経過し、聖所を出た3人は、即席の転移魔法陣を通じて喫茶室に戻っていた。

重役向けの喫茶室は神殿の中でも高い階層にあり、そこから伸びる展望テラスで、竜王都を取り巻く地平線が一望できる。

展望テラスに出た3人の眼差しは、自然に――地平線の彼方に広がる『連嶺』を振り仰いでいた。

遠い昔は『銀河』とも呼ばれていた、星々の密集する壮大な帯だ。凸凹の地平線が形作る手前のスカイラインが、シルエットとして、クッキリと浮かび上がっている。 こうして眺めると、まさに、永劫の時が寄せては返す、星宿海の渚だ。

まだ見ぬ『星界天秤(アストライア)』の明日へと向かって天球は刻々と回転し、『連嶺』のギザギザの形状が、ゆるやかに移り変わって行った。

◆Part.7「悠かなり雪白の連嶺

7-1最北部の辺境に来たりし者

――竜王国の最北部の辺境。文字通り世界の端に位置し、「世界の屋根」の二つ名を取る山岳地帯である。

万年雪を頂く急峻な岩山と深い峡谷とが、縦横に走っているエリアだ。 もっと低い麓の方では――ほとんどの大陸公路や竜王都の方では、既に緑の輝く季節と言うのに、この恐るべき高山帯は、やっと雪解けが始まったばかりだ。

方々に散らばっていた近場の竜人たちが、冬越しのために集まって来ている《大砦》――

その《大砦》は、峡谷を織りなす険しい岩山が高密度で林立する中で、ひときわ大きな岩山の頂上に、もう一つ岩山を乗せたかの如く聳(そび)え立っている。 古代・中世様式の大きな円形塔や城館、高い城壁を備える、古風な外観と構造を持つ城塞だ。大所帯を収容可能な、一つの回廊&街区に匹敵する程度の居住スペースを備えている。

辺境の国境線がまだ確定していなかった古代・中世の頃は、大陸公路の版図を賭けて、毛色の異なる種族ごとのみならず、同族の有力者の間でも王位を争って対立していた戦国乱世であった。 《大砦》創建当時の頃は、現在につながる統一版の竜王国の、王室の血筋が定まったばかりの時代に相当する。当時は、新興国・竜王国の威信をかけた壮麗な建築物であったのだ。

そして今や《大砦》は、竜王都創建の時代の記憶を伝える、風格のある歴史遺産といった風情だ。時の流れによって蓄積された、古色蒼然たる雰囲気が全体に滲み出ている。

*****

――雪解けが始まるか、始まらないか、と言う不安定な気候である。その日は季節の戻りがあり、未明から本格的な雪が舞っていた。

分厚い灰色の雲の下、《大砦》を囲む城壁内部の建築物の1つ――それも転移基地が、驚く程に明るく光った。 今日の予定表には入っていないのに、いきなり転移魔法陣が稼働したのである。しかも、一定以上の長距離レベルか、一定以上の大量物資レベルだ。

「何か凄い光ったぞ! 誤作動か? 大量のエーテルが飛び散ってる」

「鳥人の誰かが、急性の鳥頭でも発症して、大量の荷物を間違って転送して来たか」

「有り得ん! 第一、此処の転移魔法陣は古代遺物も同然の『旧々々式』なんだ! 中央の軍事予算も、こんな辺境には滅多に回って来なくてな、設備更新が……」

「魔物か、バーサーク体か、それともドラゴンスレイヤーを持って襲って来た、人類の勇者の復活か!?」

《大砦》に詰めていた辺境警備の朝当番の隊士たちが、口々に騒ぎながら、夜明けの雪が降り注ぐ『見張り回廊』へと飛び出した。

この『見張り回廊』は、全方向への緊急出動に備えて、《大砦》の高階層をグルリと一周するアーケード回廊様式となっている。 隊士たちの訓練場所であり、体力維持のためのランニングの場所であり、更には竜体でのジャンプや着地にも耐えられる、頑丈な造りとなっているのだ。

隊士たちは、武官として訓練された竜人ならではの、高い身体能力を発揮した。

竜体に変じるや否や、《大砦》を巡る『見張り回廊』を全力疾走し、転移基地の最寄りのコーナーから一気に飛び降りる。 10数階層ほどの間をつなぐフライング・バットレス風の梁の上を、積雪に足を滑らせもせず駆け降りて行く。

この辺り一帯では、転移基地は《大砦》にしか無い。城門前広場の真ん中に堂々と立ち上がる、円筒形の吹き抜け構造の塔だ。

円筒形をした塔の頂上の周りには、足場となる細い張り出しがある。ほんの瞬きほどの間に、7体の竜体は各々の背中から四色とりどりの竜翼を広げ、 フライング・バットレス風の梁から滑空しつつ飛び降りて、その足場に正確に着地したのであった。

吹き抜けの塔を煙突となさしめたかの如く、転移魔法陣から噴き上がる白いエーテル流束――それが渦を巻く柱となって、回転していた。 大量放出されていたエーテル魔法は、次第にユラユラと揺れる煙となる。それが空中に漂う白いモヤとなり、やがて吹き流されて消えて行く。

転移魔法が終わった。

隊士(竜体)たちは各々の疑問顔を見合わせると、足場の上に身を屈め、円筒形の壁の頂上から首を伸ばして中の様子を窺った。 独特の風音の残響が続いた他には、特に警戒すべき物音は聞こえて来ない。

少し間を置いた後、風音の残響の名残が尋常に消えた。吹き抜けとなっている円筒形の底を、なおも窺ってみる。 吹き抜けとなっているのだが、その空間の底は、真っ暗だ。竜人の視力をもってしても、底の様子は分からない。

隊士(竜体)たちは、円筒形を成す塔の底に降りて、何があったか確認しなければならない事を理解した。

円筒形を成す吹き抜けの壁の内側は、創建当時と変わらぬ、異様にツルツルとした滑らかさを維持している。魔法の潤滑剤が掛かっているのだ。 如何なる魔物であっても、この壁に取り付くには大変な努力が要ると、素人目にもハッキリと見て取れるであろう。

隊士たちは各々、人体に戻った。魔法の杖を梯子に変形し、足場にシッカリと固定する。

吹き抜けの塔の底に向かって梯子を降りて行くと共に、暗さが急速に増す。昼なお暗い空間だ。特に今日は雪空という事もあって、雪がちらつく円筒形の空間の底は、闇夜のような暗さだ。 相当に夜目の利く竜人で無ければ、夜間照明も無しで底に降りるのには、非常な勇気が要る。

隊士(人体)たちは、いつでも戦闘モードたる竜体に変じる事が出来るように警戒しつつ、魔法の梯子を降りて行く。

その目の細長い瞳孔は、夜間と同じく既に最大級に開き切っており、微かな光をも反射していた。 闇夜のような暗さの中で、梯子に沿って並んだ一対の目が7セットばかり、キラキラとペリドット色に光っている。

底に近付くと、円形をした金剛石(アダマント)製の一枚板――基底床に、幅と深さが一定した溝でもって、 古い時代の転移魔法陣が、精密かつ慎重に刻まれているのが分かるであろう。今は積雪によって、ほぼ隠されている状態だが。

ノミを使って精密に刻まれた転移魔法陣は、創建当時としては最先端技術の限りを尽くした代物ではあるのだが、現代の最新型にして大型の物に比べると、随分と小ぶりなサイズだ。 大陸公路を行き交う隊商の、それも山道仕様の中小型の荷車(リヤカー)を、ギリギリ転移させられるという規模である。 或いは、人体状態の小隊――突撃隊メンバー程度の人数を、頑張って転移させられると言う程度か。

転移基地――吹き抜けとなっている円筒形の空間の中は定期的に除雪されてはいるのだが、今日は、未明から降り続けていた雪が既に相当に積もっている状態である。

――先程の光は、この積雪をものともしない程の明るさだったのだ。

7人の隊士(人体)たちは梯子の途中で留まり、畏怖の念を抱きつつ、慎重に転移魔法陣の中央を窺った。1人の隊士が、照明灯の魔法を発動した。

――転移魔法陣の中央部で、何やら人体らしき物が、湧き出て来たかのように横たわっている。だが、人体にしては異形のパーツが目立ち、得体の知れぬ妖怪にも似た雰囲気がある。

リーダー格の――特に腕っぷしに自信のある大柄な男が、遂に基底床に降りて、転移魔法陣の中央に近づいた。

転移魔法陣の中央、うつ伏せ状態になり、積雪に埋もれてグッタリと横たわっている人物は――確かに竜人だ。

慌てて変身したためにミスをしたのか、それとも変身途中だったのか、背中に竜の翼の片方を生やしている。翼の色は白く、《風霊相》生まれの者と知れる。 何があったのか翼は痛ましいまでにボロボロになっており、全身、血だらけだ。腕にも脚にも、ギョッとするような裂傷が出来ていて、まだ出血が続いている。

隊士は、すぐに異様な特徴を見い出した。人体なのか竜体なのか――変身状態が混乱したまま、フリーズしているのだ。 成る程、異形のパーツが目立つ訳だ。ほとんど人頭蛇身の妖怪といった所だ。

ほぼ人体といった様相なのに、ブーツが脱げている両足の先端には、竜体さながらの鋭い爪が生えかけていて、素足は鱗でビッシリだ。 後ろの腰の部分から、同じくビッシリと鱗をまとう長い尻尾が生えている。 その尻尾もまた、無残な程に傷ついて血まみれだ。しなやかに動くであろう細めの長い尻尾だが、目下ピクリとも動かない。

少年か或いは女性を思わせる、妙に細い肩の辺りに手を掛ける。次に、首周りをカバーする高い襟の中に指を差し入れ、喉元の方にある逆鱗の近くまで指を滑らせる。 だが、あってしかるべき反応が無い。意識を完全に失っているのだ。

(喉仏が無い!)

隊士は、ハッと息を呑んだ。積雪に半ば埋もれていた人物を掘り出し、抱き起こす。

背中まで届く長い髪を振り乱した状態。女ならではの、緩やかな曲線を描く胸。続いて、やはり男には有り得ぬ、曲線を描く腰。 鱗でビッシリと覆われた顔面は、ゾンビさながらに裂傷にまみれていて、血の川を流している――が、明らかに女だ。

「大怪我をしてる女だ! まだ若い!」

「何だってぇ!」

「若い女だって!?」

残りの6人の隊士たちが殺到した。梯子の形から解放された魔法の杖が次々に光源となり、せせこましい基底床の上は、たちまちのうちに夜間照明の光で溢れた。

注意して見ると、女の着衣は、神殿隊士がまとう武官服である。聖職に準じるという事もあって、大変な手間を掛けて高度に漂白されているという、ハイテク品だ。 相応に値の張る品だが、今や元型を留めぬ程に破損しており、鮮血に染まって見る影も無い。

「壁に取り付けてある担架を出せ! 1人は重傷者発見の旨、本部に連絡! 1人は、そこにある封印扉を開錠!」

リーダー格の隊士の指示に応え、6人の隊士たちが素早く対応する。

担架の上に横たえるべく女の身体を動かすと、その拍子に、女の指の間から1本の魔法の杖がこぼれ落ちた。 肘から手先までの長さの、標準的なサイズだが武官用の物より少し細い杖だ。リーダー格の隊士は素早くそれを拾い上げ、自身の武官服のベルトに挟んだ。

この転移魔法陣は、その昔は、敵方の突撃部隊が転移して来た場所である。今は、時として予期せぬ魔物たちが、原始的な転移魔法を使って湧いて来る場所だ。 そのため、円筒形の塔の地上部分の出入り口となっている扉は、転移して来た者の正体を確認するまでは、魔法で厳重に封印されたままとなっているのだ。

今、封印扉がいっぱいに開かれた。全開状態で、荷車(リヤカー)がギリギリ通過できる幅となる。

隊士たちは、身元不明の女の身体を乗せた担架を運び出し、今しがたバッと開いたばかりの《大砦》の正門扉を駆け抜けて行った。 開扉担当の隊士たちもまた、唖然とした顔で、担架の上に乗せられた血みどろの女を注目するのみだ。

予期せぬ来訪者だ。しかも白い武官服をまとっているのだ。竜王都の中央神殿か、竜王都に匹敵するような裕福な地方管区の神殿の関係者である事は明らかで、何があったのか瀕死である――

《大砦》の中は、久々の大事件で、上も下も大騒ぎになった。

辺境警備部隊の隊長や副隊長が出張って交通整理をしたが、長い冬ごもりで退屈しきっていた野次馬たちが殺到して来るのは、当然の結果と言えた。

*****

身元不明の女は、担架に乗せられたまま、速やかに《大砦》の治療室に運ばれた。

同時に、数少ない治療魔法の使い手たる神官が呼び出された。 既に100歳を超えているのでは無いかと思える程のシワだらけの、歩行器代わりに魔法の杖をつくような魔女さながらの老婆だ。 しかし、足腰はシャンとしており、緊急事態とあって、驚く程に身のこなしにキレが出ている。

婆神官は、担架ごと治療室のベッドに横たえられた、ゾンビ状態も同然の異形の女を一目見るなり、年の功ならではの即断力を披露した。

「まず武官服をむいて、裸にするよ。次に全身消毒。鱗の破損が全身に広がっているから、ほぼ全身の鱗を抜かなきゃならないね」

――素晴らしく簡にして要を得た、直接的な物言いだ。

治療室に留まって次の指示を待ち受けていた隊士たちは、ポカンと口を開けるのみである。中には、全身の鱗を無理矢理に引っこ抜かれる時の痛みを連想したのか、痛そうな顔をした若者も居た。

「男たちは出てな。パメラとパピ、フェリア、ララベル、治療師(ヒーラー)としてアシスタントしな」

婆神官の指示を受けて、男たちは速やかに治療室を退散した。

治療師(ヒーラー)資格持ちの女隊士2人と、やはり治療師(ヒーラー)資格持ちの、白衣を素早く身に着けた2人の女が残る。 白衣姿の2人の女が治療室の戸棚の間を走り回ると、ベッド脇やその近くのテーブルに、救急処置に必要な数々の手術器具が、あっと言う間に揃った。

消毒作業を済ませた女隊士2人が、大怪我をしている身元不明の女の武官服を、手際よく剥ぎ取り始めた。女性向けの衣服の構造が分かっている事もあって、速やかだ。 しかし、大抵の怪我に慣れている武官でも、身元不明の女の全身に広がっている重傷には、流石に青ざめている。

裂傷と火傷と打撲傷のオンパレードなのだ。あらゆる種類の攻撃魔法を受け、岸壁か何かに何度も叩き付けられたような形跡があるし、物理的な意味での刀傷が目立つ。 腹部の裂傷は内臓にまで到達して大出血を起こしており、ほぼ致命傷だ。まだ息があるという事実の方が、いっそ奇跡と言うべきだ。

人頭蛇身と言うべき混乱した変身状態で、顔面や尻尾を含め、全身を鱗がビッシリと覆っている。 深刻な骨折が全身に及んでいるものの、鱗のお蔭で、幸いにして極端な変形は無い。治療魔法で復活できるレベルの骨格が維持されているのだ。 事情は知れぬが、本能に従って全身を堅牢な竜鱗で保護していたのは、賢い選択だったに違いない。

女を全裸にすると、4人のアシスタントは「せーの!」と担架を持ち上げ、ベッド脇に用意してあった透明な青緑色の消毒液プールに女の全身を浸した。 数秒後、消毒と洗浄が済んだと言うサインの泡が一面に立つ。

全身を清められた女は、担架ごと再びベッドの上に戻された。清められた分、なおも出血が続いている全身の裂傷が、いっそう生々しい。 消毒液プールの中には、細かな泥や汚れ、雑菌、古い血液と言った浮遊物が残った。

婆神官は魔法の杖を青く光らせ、治療魔法を開始した。

女の背中に生えたままの片翼を微細なエーテル粒子に分解し、女の身体の中に押し込むや否や、麻酔を施す。

全身麻酔が掛かったと言う婆神官の合図に応え、各々、鱗を引っこ抜くための特別なペンチを持った4人のアシスタントが、総がかりで破損した鱗を抜き取り始めた。

軽いヒビのみの鱗であっても思い切って抜き取らないと、替えの鱗が綺麗に生えて来ず、竜体での身体動作に支障が出てしまう。武官としても、1人の竜人としても、それは致命的な事態と言えた。

「よほどの死闘を演じて来たみたいだね」

婆神官は何回も魔法の杖を振り、最高レベルの治療魔法を発動しつつも呆れた。

5回、6回と杖を振り、強い青い光を通じて、ペリドット色をしたエーテル粒子を限界ギリギリまで呼び出しては、そのたびに女の身体に注いでいる。 しかし、あっと言う間に身体の奥に吸い込まれてしまい、身体全身を覆う重傷からの出血が止まらない。明らかに、止血どころでは無いという状況なのだ。

婆神官は、女の身体状況を素早く透視した。

大出血を乗り切るためであったのだろう、生命を維持するための基幹エーテルの消耗が激しい。 混乱した変身状態を整理するために必要なエーテル量すら枯渇している――更には、とんでもない事に、生命の根源パーツを成す《宿命図》エーテル状態にすら響くほどの枯渇レベルとなっていた。

――このままでは、全身麻酔から覚めても、危険なレベルの昏睡が続いてしまう。

婆神官は腹を決めると、治療室のドアをサッと開けた。

ドアの外にズラリと並んだ幾つもの顔が、目と口を丸く見開き、どよめいたが、婆神官は少しも驚かない。ドアの周りに野次馬が集まっている事は、百も承知だった。

「誰か、余分の魔法の杖を持ってないかい。普通より強めのヤツだ」

隊長や副隊長と共に野次馬を交通整理していた、あの大柄な体格をしたリーダー格の隊士が駆け付けて来て、「女の傍に落ちてた」と魔法の杖を差し出して来た。 驚く程に精密な細工がされている魔法の杖で、作風もハッキリと出ており、腕の良い魔法職人による一点物らしいと知れる。

「こいつぁ掘り出し物だね。《風魔法》が強化されてるのも、ちょうど都合が良い」

杖を受け取った婆神官は、再びドアを閉じて治療室に引っ込んだ。

ドアの外で再び野次馬が騒ぎ出したが、婆神官は意にも介さない。 身元不明の女のベッドの柱に、夜間照明よろしく魔法の杖を紐でくくり付けると、自分の魔法の杖を再び振って光らせた。

ベッドの柱にくくり付けられた細い魔法の杖の先端部に、白い折り紙で出来た可愛らしい風車のようなモノが現れる。 即席のミニ風車は扇風機のように高速で回転し、大量のエーテルを呼び出し吸い込んで集めるや、濃度の高いエーテル流束を紡ぎ出した。

婆神官は、宝石のような濃いペリドット色にきらめき始めた濃密なエーテル流束を引っ張り、輸血のための管を挿すかのように、女の片腕に連結した。 長い尻尾を生やした異形の女は、ほぼ全身の鱗を抜かれて赤膚を晒している状態だ。ベッドの下には、ギョッとするような数量の、破損した鱗が散らばっている。

血流に乗って、女の全身にエーテルが急速に補給されて行く。頃合いの良いタイミングで、婆神官は再び自分の魔法の杖を振り、裂傷からの出血を止めた。

婆神官の杖が再び光ると、女の身体の周りがエーテルのモヤに包まれ、混乱したままフリーズしていた変身状態が整理されていった。 尻尾が引っ込んで、ベッド上での姿勢が安定する。わずかに残った正常な鱗も皮膚の内部に退き、替えの鱗を準備する状況が整った。

女が麻酔から覚めないうちに、婆神官と4人のアシスタントとで、再び総がかりになって、裂傷を手際よく縫い合わせる。そして、全身に包帯を巻く。 包帯には創傷に効く薬草成分が染み込んでおり、ツンとした匂いがするものの、あらゆる種類の傷の回復を早めるスグレモノである。

身元不明の女の怪我は全身に広がっていたため、「まさにミイラ」と言ったような見かけになった。 頭部も包帯でグルグル巻きになり、長い髪は、ほぼ包帯の下に隠れた。包帯に覆われていないのは、目、鼻、口を含むわずかな顔面のみだ。

麻酔が切れると、ミイラとゾンビを混ぜこぜしたような姿になった女は、うっすらと目を開けた。夢見るようなラベンダー色の目だ。 ボンヤリとしては居たが、婆神官の顔を認識した様子で、口がポカンとした形になる。

婆神官はテキパキと語り掛けた。

「あんた、ひどい怪我だ。此処まで治療魔法が必要になるレベルと言うのは、この辺じゃ見ないね。今は寝てな」

女は力尽きたように目を閉じると、深い眠りに落ちて行った。

7-2驚愕と戸惑い、そして……

――ボンヤリとした、柔らかな夕暮れのような明るさを感じる。

女は、ゆっくりと目を覚ました。女が最初に感じたのは、全身の疼くような痛みだ。

――そうだ。私は、大怪我をしていた。あの時は死に物狂いだったせいで、余り痛みを感じなかったけど。

慎重に視線を動かす。古色蒼然としているが、清潔感を感じる天井だ。部屋の中は、薬草の匂いで一杯だ――医療局とか、医療院と言った場所に違いない。 窓があるのだろう、ベッドの右側に仄かな明るさが漂っている。オレンジ色に偏った色合いからすると、どうやら夕方らしい。

「おや、目が覚めたかい。あんた、3日間ずっと寝てたよ」

女は思わず、声のする方向に視線を動かした。

ベッドの左側に、婆神官が居た。女が目覚める頃合いを見計らって、傍に居たのだ。

婆神官は、時代錯誤なまでに古風な、たっぷりとした神官服をまとっている。装飾も今の物とは違って古典の鱗紋様となっているが、その青い色は、明らかに《水》の神官である事を示していた。

髪は当然ながら、ほぼ総白髪だ。若かりし頃の名残が残る側頭部の左右の一房が、それぞれリボンで結わえられ、お下げとして身体の前面に流れている。 その左右の一房の髪は、宝石のような光沢を放つ濃い緑色である。

アクアマリン色の目を愉快そうにきらめかせ、これまた古風なデザインの大振りな椅子に、100歳を超えた魔女さながらに鎮座している。 そして、これまた古代様式の、種々の宝石細工のある魔法の杖を携えていた。 杖の先端部にある円形枠に嵌め込まれた水晶玉は、手の平より一回り大きいサイズの見事な品で、透明な青に染まっている。

――この婆神官は、《水霊相》の生まれなのだ。ジワジワと感じられる、ただ者ならぬ風格と、威厳。うっすらとした確信しか無いが、大型竜体の竜人に違いない。

婆神官に攻撃の意思が無い事を見て取った女は、それでも用心深く、目の届く限り、見知らぬ場所をザッと観察した。

天井は、木製の剥き出しになった梁と、頑丈な漆喰がほとんどだ。部屋の設備は、どれもこれも旧式の物で、ベッドでさえ、切り出したままの魔法加工の無い、古代さながらの天然木材である。 いずれも、退魔樹林から取れた木材と知れる、青竹色や老竹色だ。特徴的な節目も、しっかり見て取れる。

昔ながらの職人が居るのであろう、古典的な定番の彫刻を施し、ニスを丁寧に塗って仕上げた、素朴な伝統工芸品だ。

部屋の仕切りも、歴史教科書に出て来るような古典的な織や模様の薄布を、透かし彫り細工を施した木枠に張った代物だ。 透かし彫りや薄い布地を透かして、向こう側にあるドアの位置がうっすらと窺える。現代社会に必須の、機密保護も何もあった物では無い。

――当時の言葉では『御簾(みす)』とか『簾屏風(すだれびょうぶ)』とか言ったか。

古代・中世の時代に迷い込んだような気すらして来る。そうで無ければ、古代&中世ワールドを本格的に再現した人形劇の、歴史考証もバッチリの実物大の舞台セットか。

婆神官の背後では、治療師(ヒーラー)と思しき白衣の女性が2人、キビキビと動き回っていた。

1人は若い女で、1人は中年女だ。その白衣のデザインも旧式だが、もっと馴染みのある近代の頃の物だ。 当時、爆発的に流行したと言われているレース細工の幅広のフリルが二段も付いていて、現代が求める機能性には少し欠けるが、エレガンスな感じだ。

2人の女性は、婆神官の助手に違いない。部屋の仕切りの間を行き来しながら、小声でささやきかわし、あれこれと整理作業をやっている。 薄布の仕切りを透かして女の状態に気付いたのであろう、2人は仕切りの後ろから顔を出して、様子を窺って来た。

2人とも、白衣に合わせて、伝統紋様を織り込んだ白いヘアバンドで各々の髪を留めている。 若い方は残りの髪を後ろにフワフワと流しており、中年の方は古風なシニヨンの髪型にしている。古代・中世の頃の治療師(ヒーラー)さながらの格好だ。

――私、包帯しか身に着けてない状態なの?

女は、不意に、自分が包帯グルグル巻きの状態だという事に気付き、目をパチクリさせた。

包帯が寝巻代わりなのか、包帯以外の布地を、全く身に着けていない。掛け布団さえも回復の邪魔になると判断されたのか、掛け布団すら掛かっていないのだ。 その代わり、暖房のための《火魔法》が適切に稼働しており、空調は完璧だ。

「まさにココはドコ? ワタシはダレ? って顔してるわねぇ」

ややふくよかな体格をした若い白衣女が先に仕切りから出て来て、婆神官の背中から、丸い顔をヒョコッと出した。 次いで、婆神官の横を回り込み、ベッド脇にしゃがみ込んで、愛嬌のある可愛らしい笑みを浮かべた。

――若い。私と同じ年ごろみたい。

全身を包帯でグルグル巻きにされた女は仄かな親近感を感じ、やっとの事で口元に薄い笑みを浮かべた。

若い白衣女は、明るいオリーブ・グリーンの髪と明るい赤銅色の目をしていて、見るからに陽気そうな性格だ。 若い白衣女は、部屋の仕切りの向こう側で既に準備していたのであろう、ストローの付いた水差しを持っていて、顔の近くに寄せて来たのであった。

女は全身の痛みをこらえつつ、ストローを通じて、水分を少しずつ補給した。

――美味しい。これは、天然の湧き水だろうか?

大出血の影響なのか、自分でもビックリするレベルの水分欠乏状態だったらしい。驚く程の水量が入った。 やがて、喉の状態が、次第にマシになって来た――少しなら、喋れるかも知れない。

婆神官は、女の状態を注意深く観察していた。女がホッと息をついて落ち着くと、婆神官はテキパキと説明を始めた。

「さて、あんたの状況を説明するよ。あんたは3日前、雪が降る朝、この《大砦》の転移基地に現れた。全身ズダボロでね。 治療魔法を全身に施したけど、傷はまだ完全には塞がってない。 こんな田舎じゃ、高度治療やら上級占術やら使える魔法使いが皆無でね、竜王都と比べりゃ、野蛮で乱暴で原始的な治療法しか無いんだよ」

女が1回うなづいたのを確認し、婆神官は更に説明を続けた。

「今は、あんたが来てから3日目の夕方だ。ほとんどの鱗を引っこ抜いてあるから、替えの鱗が生え揃うまで、 数ヶ月――そうだね、安全を見て1年ほどは、竜体への変身は厳禁だよ。体内エーテル欠乏が深刻だから、変身どころじゃ無いだろうがね。 安静にしてな。寝床と食事の心配は無いよ、今のとこはね」

女は改めて、うなづいた。全身ズダボロだったと言う自覚はあるのだ。

《大砦》――随分と古風な名前だ。余程の田舎に転移して来たらしい。しかも、雪がまだ降っていると言う。相当に北方の田舎のようだ。 数ヶ月から1年とは随分と長い療養期間だが、医療技術も設備も不充分な田舎とあっては、致し方ない。

魔法感覚を使わなくても、耳を澄ませてみると、この部屋の出入口と思しき古風な木製のドアの外から、相当数の野次馬らしき人々の話し声や足音が感じ取れる。 一番手前の人々が、ドアの隙間にピッタリと聞き耳を張り付けているらしいという気配も。

どうして、どうやって転移して来たのかは自分でも分からないが――此処の人々をビックリさせてしまったのだという事は、容易に理解できた。

次に婆神官は、ベッドの傍のテーブルに備え付けられた、細い魔法の杖を示した。ちょっと首を回すと視界に入って来る。 テーブルには台座代わりの細い首の花瓶があり、魔法の杖が切り花よろしく、セットされているのだ。

魔法の杖の先端部で、まさに幾何学的な形をした白い花さながらの可愛らしい白い風車が、軽快に回転していた。 魔法の風車の中心からは淡いペリドット色にきらめくエーテル流束が伸びていて、女の片腕に、栄養補給のための点滴さながらに連結されている。

「あんたの魔法の杖だろうけど、当分、基幹エーテル補給に使わせてもらうよ。今は、これと治療魔法とで、骨格を優先的に修復してるところだ。 あたしゃ上級占術やら高度治療やらは使えないから、健康運の強化というレベルで回復を早める事は出来ないけど、骨格の修復だけは得意中の得意でね。 次に目が覚めた時には、日常動作レベルは問題ない筈だ。変身魔法にも対応できる。ただ、武官としての強度は戻らないから、そこは覚悟おしよ」

もう、武官に復帰する事は出来ないのだ――全身の疼くような痛みを考えると、日常動作や変身魔法が出来るだけでも、幸運だと思える。 女は、理解したと言う印に、再びうなづいた。

婆神官は、すこぶる感じ入ったと言った風の笑みを浮かべると、すぐにテキパキと確認の質問を投げて来た。

「あんた、《風霊相》の生まれだね。名前は何だい、シルフィード?」

女は口を開いたが、すぐに名前が出て来ない。思い出そうとして――やがて、とんでもない事実に気付き、絶句した。

「思い出せない……」

婆神官の後ろで待機していた、白衣姿の2人の女性が、ポカンとした顔になる。

ふくよかな若い女性の方が、信じられないと言う風に明るいオリーブ・グリーンの髪を振り乱して、素っ頓狂な声を上げた。

「ホント?」

「これが、かの話に聞く『記憶喪失』というものかしら……!?」

そう続いたのは、白髪の混ざった薄いオリーブ・グリーンの髪に淡い水色の目をした中年の女性だ。年相応に、落ち着いた顔立ちをしている。

世代の違う2人の女性は、口々に疑問の声を上げた。

――神殿隊士の白い武官服だったから、神殿隊士なんだろうとは思うけど。こんな辺境じゃ中央のニュースが来るのも遅くなるから、 我らが竜王国の王都で大きな政変らしき物があったと言うような事くらいしか知らないけど、そんな不気味すぎる『ミイラゾンビお化け』になる程の、本格的な戦闘があったのか――

「辺境……?」

女は辺りを見回し、次いでベッドの右側にある窓に、目をやった。夕方の陽光が、そこで仄かに漂っているのだ。

武骨なまでに簡潔な、着雪と寒気を防ぐ事のみに特化した窓だ。中世風の両開き窓の周りに漂う陽光は、温かみのある金色とオレンジ色に満ちているが、 見える限りの外枠には、積雪の名残が凍り付いているのが分かる。

夕方になって気温が急低下したのであろう。窓の外には、見かけを裏切るような、ブルッと震えが来るような冷気が漂っているに違いない。

窓の外の光景に気付くと――女は深く驚嘆する余り、何も言えぬまま、目を丸くした。

――深い雪に包まれた壮大な連嶺が、驚くほど近くに見える。

赤みを帯びた金色の光の中、いつまでも見ていたくなるような、息を呑む程に見事な夕映えの絶景が広がっているのだ。

「雪山……」

婆神官は、女の視線の先を見やった。

「あたしらは、アレを『雪白』って呼んでる。此処は、竜王国の最北部の飛び地だよ。今まさに雪解けが始まったとこさ」

「雪白の……『連嶺』……?」

「そんな大したもんでも無いけどね。あんたは名前を思い出せない訳だ。此処に来る前の事は、どうだい?」

「神殿隊士……を、やっていたのだろうとは思いますが……」

女は視線を彷徨わせながらも、必死に思案した。断片的な記憶しか掘り出せないのだ。

「夜間の戦闘……闇の中で戦闘をしていた。ずっと遠くの場所で。でも、自分の名前は思い出せない」

婆神官は、女を注意深く観察していた。アクアマリン色の目の表情は変わらなかったが、物理感覚も魔法感覚も使っているのは明らかだ。 やがて婆神官はハッキリと診断を下したのか、一つうなづくと、更に別の質問を投げて来た。

「あんたの持ってた魔法の杖だけど。武官用のモンじゃ無いんだよね。そっちは?」

「知人から頂いた……そう、女友達……敬愛する先輩から譲ってもらったと言うような記憶があります。実際の戦闘で使った覚えは無いですが」

世代の違う若い白衣女と中年の白衣女は、興味津々で耳を傾け、相槌を打っていた。

後ほど、この建物《大砦》に居るであろう他の人々に、新情報の話として広めるであろう事は、女にも流石に、うっすらと予想できた。 とは言え、ほぼ記憶喪失となった身には、機密どころか、話せる内容も大して無いのだが。

2人の白衣女は、顔を見合わせて早口で喋り合っている。

「王都で、偉い人たちが何か揃って荒れてて、幾つかの管区で紛糾があったって、前の夏に来た軍需物資の運搬業者が言ってたわ。麓の大きな管区では、本格的な戦闘も増えてるって」

「こんな田舎じゃ、情報が来るのも遅いからねぇ。新しい竜王が即位したと言うニュースが此処まで届いたのも、何と3年後のタイミングだったのよう。転移魔法陣が回ってる、この現代によ!」

名無しの女は、婆神官と2人の白衣女を、しげしげと眺めた。改めて眺めると、不思議な組み合わせだ。

「あの……お名前は……?」

「あたし、『火のパピ』よ。山一つ越えたとこの、村長の娘」

「私は『水のパメラ』。もうこんなオバサンだけど、宜しくね」

「あたしゃ、『水のエスメラルダ卿』じゃ。でも、こんな年になって『卿』も何も無いからね、婆で結構だよ」

――やはり大型竜体の竜人だった。エスメラルダ卿。つまり、エメラルド卿。

女は何故か、訳も無く急に笑いたくなり、喉の奥で笑い声を立てた。

「何じゃ、失礼な嬢ちゃんだね。これでも、あたしゃ若い頃は絶世の美女だったんだよ」

「済みません……若かりし頃の髪の色が、まさに……そんな色合いだったんですね」

婆神官――エスメラルダ卿はユーモアを込めて、アクアマリン色の片目をつぶって見せた。 若かりし頃の髪の色を伝える一対のお下げが、まさに名前そのものの宝石のような緑色に輝き、揺れている。

「まあ良いさ。笑えるという事は、回復も早いという事だからね」

そして婆神官は少しばかり、困惑した表情になった。

「ついさっき、竜王都発信の緊急メッセージで、新しい行方不明者の《宿命図》の情報がドッと入って来たんだけど――それも、 バーサーク体が大量発生したとかで、バーサーク化して錯乱して行方不明になったヤツのだけど。 シルフィードの《宿命図》にはバーサーク化の痕跡は無い。それだけじゃ無い、過去の行方不明者の、どのデータとも一致しない」

名無しの女は、目を見開いた。

――それは、とんでもない事態では無いか。

肝心の《宿命図》そのものが、全ての行方不明者のデータと一致しない――

女の理解の表情を見て、婆神官は重々しくうなづいて見せた。婆神官の説明が続く。

「実は、シルフィードの《宿命図》には名前が無いんだよ。バーサーク化の痕跡が無いのは幸いだが、《宿命図》エーテル枯渇が深刻過ぎたんだね。 表層レイヤーのエーテルが完全に枯渇していて変身状態がフリーズしたままだったし、見るところ、名前や記憶に関わる部分まで破綻するレベルだったんだろう」

婆神官は、ヤレヤレと言ったように首を振った。その眼差しには、まだ困惑の表情が浮かんでいる。 婆神官の長年の経験の中でも、恐らくは初めての事態――普通は有り得ない事態なのだという事が窺える。

「身元証明も変身魔法も不可能な『名無し』ってとこだ。記憶の巣が残っていて、名前やら何やら思い出せれば、不完全な魔法署名であっても使えたんだよ。 類縁なんかを通じて本来の国籍データを突き止める事は出来たし、その国籍データを取り寄せて来て、魔法署名の原状復帰のための治療も出来たんだがねぇ」

女は急に不安になって、眉根を寄せた。

自分は、一体、何処の誰なのか。徹底的な天涯孤独――『名無し』だ。《宿命図》そのものに名前が無いままでは、魔法署名も変身魔法も出来ない。 困惑の余り、何をどうしたら良いのか――何を言えば良いのかも、思いつかない。

一方――婆神官は、魔法の杖の先端部にある青い水晶玉で額をコツコツとやって思案していたが、やがて結論が出たのか、サッパリした顔になった。

「正式にシルフィードの《宿命図》を記録して、竜王国の新しい国籍データを作成するよ。出生地『雪白』でね。 普通は親の分からない卵から孵化したばかりの幼体に適用するんだが、『名無し』なら、成体も幼体も変わらんからね」

婆神官は、窓枠に置かれた小さな花瓶と、そこに挿してある花を眺めた。

「リリフィーヌって名前にしとこうかね。あの花の名前だよ」

「……?」

女は――やっとの事で窓枠の花に気付いた。

スミレ程度の大きさの、小さな白ユリのような花――植物図鑑で見たような記憶がある。雪解けの時期のみに花を咲かせる、スプリング・エフェメラルの一種だ。

――小さくて白い……何だか、自己像のイメージと違うような気もするけれど。

女は暫く考えているうちに、失神するように目を閉じ、再び寝入った。

「今日は此処までだね。次に起きた時は、もうちょっと話が出来ると思うよ。さて、ちょっと《大砦》の役人どもの尻尾を叩きに行くかい」

婆神官と2人の白衣女は、うなづきあった。

7-3涼しき蒼穹の下、白妙の風

続く数日の間、女は深く寝入っていた。

ハッキリしない夢と記憶の断片を漂い続けた――クリアな断片もあったが、所詮は断片であり、前後の脈絡が無い。

そして次に起きた時は、女はかなり体力が戻って来ていた。

前回に目覚めた時とは違い、掛け布団が身体の上に掛かっている。全身の骨格が、ほぼ修復されたに違いない。 相変わらず全身、包帯をグルグル巻きにしている状態だが、前回の時の疼くような痛みは、ほとんど引いていた。

最低限の必要なエーテルも身体に補充されたようだ――前回に見かけた、 可愛らしい白い風車を先端にくっ付けていた魔法の杖は、今はベッド脇のテーブルの花瓶から抜き取られ、まるで最初から、そこにあったかのように横たわっていた。

自分の名前すら思い出せない、全てを失った女にとっては、かつての身を偲ぶよすがだ。

――とは言っても、偲ぶような記憶すら、それ程ある訳では無いが。

婆神官から『リリフィーヌ』と言う新しい名前をもらった。《宿命図》に向けて念じてみると、『リリフィーヌ』が新しい名前として結ばれてあるのが分かる。 しかし、それが自分の名前だと言う実感は、まだ無い。かと言って、前の名前は、今でも全く思い出せない。

――宿命は生を贈与して、運命は死を贈与する。しかしこれら二つのものは、一つの命の軌道を辿る――

――星の大海、星宿海。永劫の時を寄せては返す、星宿海の渚よ――

いつか何処かで――確かに、神殿隊士として学習した覚えのある言い回しだ。

真夜中の刻、広々とした丘陵地帯を、クラウン・トカゲにまたがって延々と駆け抜けていたような記憶は、ある。宝石箱をひっくり返したような星空、地平線に広がる『連嶺』。

その中で、ふと一息ついた時間があって、その時、確かに、こういうような言葉を思った。ハッキリしない夢の断片の中で、唯一、クリアに浮かび上がって来た記憶だ。

竜王国、竜王都、《宿命図》、バーサーク問題――こういった一般知識は、不便を覚えない程度には承知している状態なのに、自分の身元や来歴に関する事だけ、すっかり抜け落ちている。

婆神官に名付けてもらうまでは、『名無し』だった女は、何とも言えない気分になって、軽く溜息をついた。

窓の外は快晴だ。

身も心も吸い込まれそうな程に青く深く、何処までも澄み切った蒼穹が広がっている。窓から見える純白の山々の間を、まばゆいばかりに白い雲がたなびいていた。どうやら、正午に程近い刻らしい。

手前に見える背の高そうな樹木の枝で、輝くような緑の葉が勢いよく萌えている。この部屋は、《大砦》なる建物の中では、どうやら中階層といった場所にあるらしい。

目下ベッドから動けず、窓から地上を見下ろせない状態だ。窓の外にはチラチラと周辺の岩山や山脈の頂上が見える――しかも総じて雪をかぶっている――ところからして、 相当に険しい山岳地帯の真ん中なのだろうという事は想像された。この辺りの大いなる主が、かの『雪白』なのだ。

パピかパメラが窓を開けておいたらしく、柔らかな微風と共に新鮮な空気が入って来ている。

気温は充分に上昇しており、風は涼しい。少し暖かみもあり、窓を開けても問題のないレベルである。 標高差を考えてみると、麓の方では、既に濃い緑の季節に違いない。耳を澄ませば、何処か遠くから、微かな雪解け水の音も聞こえて来る。

リリフィーヌは、そろそろと慎重に身体を起こし、ベッドの端に枕を立てて寄りかかった。

身体の痛みは無く、違和感も皆無だ。婆神官が『得意中の得意』と言うだけあって、全身骨格の再構築は見事に仕上がっているようだ。 頭のてっぺんから足の爪先まで、分厚い包帯に覆われている状態だから良く分からないが、傷口も、ほぼ塞がっているらしい。腹部の辺りには、まだ強い痛みが残っているが――

暫し時を忘れて、女は、窓の外に広がる『雪白の連嶺』を、飽かず眺めた。

すると――窓枠のずっと上で、何やら梯子が掛けられたような『ガシャ』という音がした。次いで、梯子がきしむような音が続く。誰かが梯子を降りて来ているらしい。

息を詰めて、待ち受ける。窓から、見知らぬ人物が顔を出して来た。

リリフィーヌはギョッとして、もたれていた枕から身を起こした。包帯しか身に着けていないと言う事もあり、反射的に半身をひねり、両腕で胸のラインを隠す。 胸は包帯ですっかり隠れていて素肌は全く見えない状態なのだが、獣人や魚人と言った他種族と比べると、竜人は基本的に慎ましい性質なのだ。

「――失礼した、まさか起きていて……下着? 包帯……」

見知らぬ人物は一瞬、絶句した後、バツが悪そうな様子で謝罪し、驚愕の余りか無意識ゆえか、女性の顔を赤面させるような、デリカシーの無い言葉を続けて投げて来たのであった。 ボソボソと呟いただけの低い声音だが、声の低さからすると、どうやら男らしい。

――早朝ならまだしも、既に日が高くなっている時刻なのだが……胡乱な男だ。

リリフィーヌは、武官としての記憶にある無意識の習慣で、黒みを帯びたミリタリー・グリーン――標準的な色合いの、竜人専用の武官服をまとった人物を、ジッと見つめた。

大型竜体では無いが、竜体としては大柄な方だと分かる。人体の状態であっても、そのガッチリとした大柄な体格の特徴は明らかだ。 もう1回ほど脱皮して、文字通り『もう一皮むければ』、小型竜体の持ち主としては最高位に位置する、士爵クラスにも到達するに違いない。

同じような年ごろの、若い男だ。如何にも武官といった風の、いかつい顔立ち。明るめのオリーブ・グリーンの髪。まさに今日の蒼穹のような色をした、涼やかな青い目。 竜人特有の、縦長の漆黒の瞳孔。

竜人以外の他種族の不審者が、人体変身した時の人体同士の類似性を利用して、竜人の振りをしてスパイ工作をして来るケースは意外に多い。 しかし、同じ縦長タイプの瞳孔を持つ他種族であっても、竜人特有の瞳孔の形と色合いを真似るのは、意外に難しい。逆もまた真なりだ。

――この人物は明らかに、本物の竜人だ。激しく胡乱だが。

見知らぬ男は太い眉をしかめていたが、それは恐らく、包帯グルグル巻きのミイラ、なおかつゾンビの如き顔面の人物にジッと見つめられたが故の、戸惑いと困惑のためだろう。 『ミイラゾンビお化け』だと言われた程の、己の不気味な姿を考えてみれば、確実に、お化け屋敷ホラー的な意味で恐怖される状況ではあるのだから――

リリフィーヌは不意に、妙な事に気付いた。

――何故なのか、いかつい顔をした男からは、最初に驚愕があった以外には、恐怖はおろか、生理反射的な攻撃の意思すらも感じない。

「あの……?」

リリフィーヌが警戒心満載で問い掛けると、無意識のうちにリリフィーヌを眺めていたらしい男は、ギョッとしたように瞬きし、何故か目の端を赤らめた。

「窓枠が壊れて無いか、見に来たんだ」

如何にも取って付けたような理由だ。スパイ偵察にしては、抜けている――抜けまくっている。窓枠には、おかしな所は無いようだが……胡乱だ。 決定的に胡乱なヤツだ。リリフィーヌは口を引き締め、眉をキッと逆立てた。

リリフィーヌの表情の変化の意味を、即座に読み取ったらしい。男は焦ったように、窓枠の花瓶に新しい花を挿すと、サッと顔を引っ込めた。直後、再び梯子の軋み音が聞こえて来る。

焦っているのだろうか、不自然な程に速いペースで上の方に登って行っているようだ――おそらく、この辺りは見張り塔のような構造になっているのだろう。

(おかしな人……)

リリフィーヌは、小さな花瓶の中で新しく増えた花々を見つめた。

雪解けが進んだ時期の花だろう。陽光を一杯に受けるようにパラボラ形に開いた花弁は、仄かなラベンダー色だ。 花弁が繊細なまでに薄く、裏がボンヤリと透けて見える。透明感のある、夢見るような不思議な色合いは、昔から気になり続けていた、そして好みになった色合いを思わせる――

リリフィーヌは暫く考えて、ようやく、暁星(エオス)に似ている花だと思いついたのであった。

――まさかとは思うが、この繊細な花を傷つけずに持って来るのは、大変だったのでは無いだろうか?

花々を見つめているうちに、ある可能性が閃き、リリフィーヌはドキリとして目を見張った。状況こそ、激しく胡乱だったが。改めて脈絡を考え直してみると、まさか、あれは――?

――蒼穹そのものの、明るさと深さを同時に兼ね備えた青い目の男。

いかつい顔立ちは、ボンヤリと記憶にあるような無いような、都会で見かけるような『モデル風イケメン』という訳では無いが、 闇ギルドで身を持ち崩した者たちに見られるような、バランスが崩れた歪(いびつ)な顔立ちと言う訳では無い。

改めて考えてみると、印象そのものは悪くは無い――それどころか、割と良い。結構、良いかも知れない。

チグハグな方向に迷走し始めた心を落ち着けるべく、リリフィーヌは『考える人』さながらに、クラクラしているような気もする頭を、シッカリと抱えた。

グルグル巻きの包帯に手が触れる。

そう、大怪我をしているせいで、ちょっとばかり、おかしくなっているだけだ。きっと、そうだ――

――ギョッとするようなタイミングで、部屋のドアが古典的な『ガチャ』と音を立てた。そして、ドアが開かれた。

リリフィーヌは仰天した。

頭を両手で押さえたまま、勢い良く振り返る。ちょっと見た目には、無抵抗を示す『ホールドアップ降参』の格好である。

ドアを開けて入って来たのは、婆神官だ。毎度のように時代錯誤なまでの古風な衣装に身を包んでおり、前回と同様、白衣姿のパピとパメラを従えている。

「おッ、やっぱり起きてたね、リリフィーヌ。リリーで良いね。そろそろだと思ったんだよ」

婆神官――エスメラルダ卿は魔女さながらの得意満面の笑みを浮かべ、ヨシヨシと言う風にうなづいている。

リリフィーヌはドギマギしながらも、ギクシャクと両手を降ろした。

――妙な男が出て来た事について、話すべきだろうか。それとも、そうすると、あの男は、もう来なくなるのだろうか。

暫しクルクルと考えていたリリフィーヌは、迷走する心を、とりあえず意識の脇に置いておく事にした。

婆神官は古風な魔法の杖を、部屋の端にある杖立てに無造作に突っ込む。透明な青色に輝く見事な水晶玉が、水の精霊か何かのようにペカリと光った。

年の功と言うべきか。重ねて来た年齢が自然に醸し出す豊かさと言うべきか。その何でも無い日常の一連の動作だけでも、実に味わいがある。一挙手一投足の全てが、見ていて飽きない。

見ていると、婆神官は腕まくりをし始めた。

婆神官の後ろに居たパメラが、部屋の仕切りを移動する。

すると、あらかじめ用意していたのであろう大きなタライが現れた。タライには既に水が張られている。

落ち着いた中年女性――パメラが手持ちの魔法の杖を振ると、タライの中の水は暫くの間、水の精霊が笑っているようなコポコポとした水音を立てた。そして、丁度良い感じの乳白色の湯に変わった。

蒸気と共に、薬草の特有の香りが漂って来る。

エスメラルダ卿はタライの中の状況を確認すると、再びリリフィーヌの方を振り向いて来た。

「此処の隊士たち、むさいのが頑張ってくれたんで、谷底の良い薬草が入ったんだ。今日は薬湯風呂に入ってもらうよ。 この《大砦》にはもう一人、若手の神官が常駐してるんだけど男だからね。今は遠慮してもらってるが、この薬湯は、そいつの自信作だ。良く効くよ」

くだんの若い男の神官というのは、婆神官の自慢の弟子か、助手と言った立場の人に違いない。

婆神官の美しいアクアマリン色の目が誇らしそうにきらめいているのを見ると、もしかしたら、婆神官が属する一族の血縁関係者かも知れない。 一族から優れた神官が出る事は、一族にとっては誇らしい出来事でもあるのだ。

婆神官は、リリフィーヌを頭のてっぺんから足の爪先までサッと眺めた後、言葉を付け加えた。

「お腹は包帯は取れないけど、頭と手足の方は外しても良い頃合いだね」

リリフィーヌは、感謝を込めてうなづいた。

《大砦》の人々をビックリさせたのは間違いないし、色々と迷惑を掛けてしまっている。それにも関わらず、《大砦》の人々は、 予期せぬ行き倒れとして現れた身元不詳の怪しい女を、歓迎してくれているのだ。

ずっと絶食状態だったから、足がまともに動かない。栄養分に富む薬草が入ったブレンド果汁を頂いて少し経った後、 リリフィーヌは、パピとパメラの介助の手を借りて、ゆっくりと薬湯に身を沈めた。久し振りの入浴だ。流石にホッとして、気分がほぐれる。

――入浴中に包帯を解くので、リリフィーヌは素っ裸になる。

パピがピョコピョコとした足取りで素早く窓に駆け寄り、窓を閉じて、『のぞき見防止』の魔法が掛かったカーテンをひいた。 次いで、パピは、窓枠に置かれている小さな花瓶の花の変化に、目ざとく気付いたのであった。

「花が増えてる。しかも何コレ、崖下のレア物なのに、水切りもせず突っ込んで――」

パピは暫し不思議そうな顔をしたが、すぐに陽気そうな赤銅色の目をきらめかせて、パメラの方を勢いよく振り返った。 明るいオリーブ・グリーンのフワフワした髪が、パッと広がる。愛嬌のある顔全体には、ニンマリとした笑みが浮かんでいた。

「ねぇ、パメラおばさん、最近、挙動不審な人が居るよね? イヤーン、ス・ケ・ベ♪」

「女性の部屋に顔を突っ込むなんて、全く……後で往復ビンタの罰だよ、あのバカ野郎……」

パメラの握りこぶしは、激怒の余りかプルプル震えている。おまけに、落ち着いた中年女性には似つかわしくないような、過激な言葉を口にしたようだ。

リリフィーヌは大きなタライに張られた薬湯風呂の中で、婆神官に手足の包帯を解かれていた。 リリフィーヌはボンヤリと目を閉じていて、パピとパメラの間の意味深な会話の内容には、注意が向かなかった。

やがて、脳みそへの血流量が増えたお蔭なのか、急にクリアになったリリフィーヌの脳内で、一つの懸念が不意に形を結んだ。

これは重大な問題だ――リリフィーヌはパッと目を開いた。

「――あ、あの、エスメラルダ卿、私……もしかしてバーサーク化しやすいとか、宿命図に《争乱星(ノワーズ)》が食い込んでるとか、そういう事は……ありませんか」

婆神官は呆れたような様子で、即座に切り返して来た。

「何言ってんだい、そんな、パピより小さい竜体のクセして……まぁ武官の相は妙に強いけどね」

「パピより小さい……?」

パピは小型竜体ではあるが、ふくよかなせいか、見るからに武官と同じくらいの大きめの竜体を持つ竜人だ。武官としては、最低限、これくらいの竜体サイズが必要となる。

――その、パピより小さい……?

それでは――かつて神殿隊士だったという過去、ボンヤリと残っている記憶の断片と、矛盾するのでは無いか? リリフィーヌは、違和感がぬぐえない。

婆神官は、リリフィーヌの頭部の包帯を解き終わった後、部屋の隅に置かれていた鏡を持って来た。

「見てごらん、これがリリーだよ」

リリフィーヌは、鏡を見るなり息を呑んだ。

「髪が白い……」

髪が――長さは記憶にあった物と余り変わらないが、違和感を感じる程に白い。

リリフィーヌは愕然とするままに、鏡の中の自分を調べた。

これは確かに、今の自分らしい。顔立ちは余り変わっていないようだ。そこだけはホッとする。

だが、髪の白さがショッキングだ。それに――目の色も少し変わったような気がする。自分の目の色は、確か、もう少し赤みの強い色合いでは無かったか。

リリフィーヌが眉根を寄せると、鏡の中の人物も妖精めいた繊細な柳眉を寄せて、同じ顔を返して来る。

ほとんど色の無い、白い髪。神殿隊士の武官服のように、いつの間にか髪の毛が――鱗の色が――恐ろしいまでに脱色されてしまったらしい。 そして、暁星(エオス)に似ているような気もする、透明感のあるラベンダー色の目。

――これが、自分? 本当に自分なのか?

寝込んでいた間にやつれたという事は認めよう。しかし、エスメラルダ卿が言う通りの、どちらかと言うと小柄に属する竜体だ。有り得ない。

――知らない間に身が削れてしまったのだろうか。それとも自分の霊魂が、この哀れな身元不明の――行き倒れの重傷者と思しき見知らぬ人物に、 憑依してしまったのだろうか。記憶にあるよりも竜体のサイズが縮んだような気がする。

婆神官が包帯を外す事を決めただけあって、手足や顔面の傷は塞がっており、元・裂傷だった名残の傷痕が、凸凹状態となって残っている。

相応にゾンビ状態を思わせる外観ではあるが――幸い、竜人の整形修復力は相当に高い。 一旦、傷が塞がれば、数日のうちに凸凹も消えて、本来の正常な形になるだろう。鱗の再生だけは、やたらと時間が掛かってしまうので、こればかりは致し方ない。

リリフィーヌは、震える手で自分の髪をつかみ、目の前に持って来て、改めてその色を眺めた。やはり白い。鏡のマジックでも、己の幻覚でも無い。

薬湯風呂の中で呆然としたまま、リリフィーヌは気が遠くなるのを覚えた。

――そこからは、どうやら呆然自失の状態だったらしい。

パメラとパピが慌てて「ゆだっちゃうわ」などと言いながら駆け寄って来た。ついでにリリフィーヌの頭を洗い、髪も清めてくれたらしいという事を、ボンヤリと感じる。

リリフィーヌは面目ない気持ちになり、ボソボソとお礼を呟いたが、頭がクラクラする余り何が何だか分からない状態だ。

リリフィーヌは薬湯風呂から引き上げられた後、パピの《火魔法》によって手際よく全身を乾燥させられた。此処の患者服の流儀なのだろうか、 Vネックの物では無く、古典的なガウン型の寝巻のような物を着せられ、ベッドの上に戻される。

リリフィーヌは、まだ呆然としていた。

「私の髪は、もっと黒かったような気がする……、いえ……、色ムラは割とあったような気がするけど」

パピが、リリフィーヌの髪をしげしげと眺めて来た。

「緑色は付いてるわよ。淡いミントグリーンと言うか……光沢はあるから緑系の真珠色? 白緑色ってレベルだけど」

「髪が白くなる程の大変な思いをしたのね」

パメラが目をウルウルさせていた。リリフィーヌの母親に相当する年代――中年の年ごろと言う事もあり、リリフィーヌを娘のように思い始めているらしい。

婆神官は、杖立てから自分の魔法の杖を取り出して来ると、リリフィーヌの手の平を取った。

手相を読むようなスタイルで、リリフィーヌの《宿命図》を読み込んで行く。 神官が専門とする魔法――《神祇占術》が稼働しているのだ。水晶玉の中で、透明感を増した青い光がチラチラとダンスしている。

「竜体は、平均より少し小さい方だね。その割には筋肉の質は良く、武官向き。厳しい戦闘訓練を受けてたのは確かみたいだね。熟練度が高い。 地方によっては小柄な武官も居るから、余り変だとは思ってなかったよ。健康運は目下、弱いけど、或る程度なら回復の見込みはある。 金運も問題ない。物欲が無さすぎるのが問題なくらいさ。恋愛運は、ちょっと注意が必要という感じかねぇ」

――はて。

過去のボンヤリとした記憶の中では、恋愛運は――と言うよりは、《宝珠》は――

「恋愛運……?」

リリフィーヌの聞き返しに、婆神官は珍しく、ブツブツとハッキリしない事を呟きながら首を傾げた。 水晶玉の中の青い光も、首を傾げたような形になった。やがて、キラリと瞬いた後、平常通りのほぼ球形を満たす光の形となって、落ち着いたのであった。

婆神官は、パピがタイミングよく引いて来た大振りな椅子に腰を下ろし、再び口を開いた。

「リリーの《宿命図》は、竜体サイズに対して武官向きの相が強すぎるんだ。 あんたの違和感が本当なら、転移魔法陣が稼働している間に事故か何かがあって、《宿命図》の様相が変化したか、星々の配置が付け替えられたと考えられるんだがねぇ」

そこまで言うと、婆神官は暫し、魔法の杖の先端部にある青い水晶玉を撫で回した。水晶玉を撫で回すと言う古典的なやり方で、 何らかの記憶情報を呼び出しているらしいと知れる。やがて婆神官は一つうなづき、説明を続けた。

「ふむ。金剛石(アダマント)級の基底床を使う魔法陣――《地》の橋梁魔法陣や《風》の転移魔法陣、それに《火》の溶鉱炉魔法陣なんかで、 基底床そのものの変形を伴う、想定外の大事故が発生する事が稀にあるんだ。神官用語で『バースト事故』と言うんだけどね」

婆神官は、いつも通りのテキパキとした口調になった。しかし、リリフィーヌを見つめる、そのアクアマリン色の眼差しは気づかわしげである。

「滅多に無いケースだけどね。バースト事故に巻き込まれると、性質の似た《宿命図》が共鳴して、その様相が変化するらしい。 大昔、竜王都の回廊と城壁を支える橋梁魔法陣のデカイのが吹っ飛んだ時、そこに居合わせた《地霊相》生まれの人の《宿命図》が大きく変化したという、真偽不明の伝承があるんだよ。 何にせよバースト事故を切り抜けた生存者が居ないから、雲をつかむような曖昧な話だが」

リリフィーヌは、「そう言う事なら」と何となく納得した。初めて聞いた内容が多いが、 竜王都の橋梁魔法陣に起きた大異変については、そんな感じの話を小耳に挟んだという記憶が、ボンヤリと残っているのだ。

リリフィーヌの納得顔を眺め、婆神官は思案深げな顔になって沈黙した後、再び話を再開した。

「転移魔法陣の誤作動――雷電シーズン中の落雷事故や、四大《雷攻撃(エクレール)》魔法による誤作動なら、無くは無いね。 雷電シーズン中の転移魔法陣の使用が、厳しく禁じられている理由でもある。リリーも、その辺の一般常識は承知してると思うがね」

リリフィーヌは、婆神官のその確認に、うなづいて見せた。常識的な事は、何故か覚えている。

婆神官の話は続いた――その語りは、プロの語り部そのものだ。リリフィーヌは、暫し引き込まれていた――幼体が、歴史人形劇を上演する語り部たちの演技に引き込まれている時のように。

「転移魔法陣が四大《雷攻撃(エクレール)》の類を受けると、魔法陣の形が切り刻まれて、組み込まれていたエーテルが噴出するんだが、 同時に雷撃が感電事故を起こしまくって、想定外の転移ルートを開きまくるのがある。 それに運悪く巻き込まれた竜人の髪、つまり竜体の時の鱗がマダラに脱色されちまった、記憶も飛んだ、という事例があるよ。 リリーの火傷の半分は《雷攻撃(エクレール)》の物に似ていたし、そんな感じだったんだろうね」

婆神官は語り続けながらも、魔法の杖の先の水晶玉で、額をコツコツと叩いていた。思案している時のクセらしい。

「誤作動を起こした転移ルートを割り出すのは、カオス問題を解くのと同じで、不可能なんだ。 リリーが何処から来たのかというのは流石に特定できないけど、相当に追い込まれていた状態だった事は確かだね」

婆神官の後ろでは、パピとパメラが興味津々で耳を傾けていた。相当に珍しい話だったようだ。 この話も、《大砦》に居る他の人たちに広まるに違いない――身元不明の女に関する新情報として。

「誰か強い魔法使いが、バーサーク体を倒そうとして四大《雷攻撃(エクレール)》をやらかしたに違いないわ。 麓や平原の方では本格的な戦闘があったとか、そういう噂が来てるし、バーサーク騒動もあったばかりだし」

「竜王都の大改革だか大政変だか知らないけど、とばっちりに巻き込まれる方としては、たまったもんじゃ無いわよねぇ。 英雄公のとんでもない武勇伝とか……幾つもの街区が吹っ飛んだとか、仰天モノだし」

パピとパメラの時事雑談が、一段落した。

婆神官は、額にコツコツと当てていた魔法の杖を降ろし、思案顔を解いた。フッと息をつくと、リリフィーヌの方を振り向いて、アクアマリン色の目を面白そうにきらめかせる。

「凶星《争乱星(ノワーズ)》が入っているかどうかは、この婆には分からんが。リリーの《宝珠》の相は、フラフラしてる状態なんだ。 『恋愛運は注意が必要』と言うのは、そう言う事だよ。明らかに独身で――まっさらな《宝珠》で、恋人の気配も婚約者の気配も皆無。 しかも結婚適齢期なのに、《宿命の人》を見つけにくい状態だからね。その気があるなら、自分の目と耳と感覚をフル動員して、見つけな」

婆神官の説明が終わった。リリフィーヌは、呆然として呟いた。

「独身……、恋人や婚約者の気配が、皆無?」

――どういう事だろう?

強烈な違和感がぬぐえない――が、婆神官が言うからには、真実であるに違いない。

そこへ、パピがニヤニヤして口を突っ込んで来た。

「あーら、挙動不審なヤツなら、すぐそこに居るわよ」

パピはニヤニヤしていたが、すぐに、そのニヤニヤは盛大な吹き出し笑いに変わった。相方のパメラが、ヤレヤレと言った風に額に手を当てて首を振る。 その横で、パピは腹を抱え、涙を流し、ピョコピョコ飛び跳ねながら、壁をドンドン叩いて大笑いする勢いだった。

「あの、いかつい顔で、一体どんな顔して花を花瓶に挿して行ったのかと考えると、あぁ可笑しいわ!」

エスメラルダ卿は「フォフォフォ」と笑い、リリフィーヌは目をパチクリさせた。

7-4最北部の辺境という所

薬湯風呂を使ってから3日後。

リリフィーヌの重傷の中で最も深刻だった腹部の傷跡が塞がり、遂に全ての包帯が取れた。

食事も徐々に、通常の物となった。辺境ならではの素朴なメニューである。 筋肉が回復して来ると、病み上がりさながらに補助杖付きではあるが1人で歩けるようになって来て、 衣服も襟の高い上衣(アオザイ)を含む薄緑のパンツスタイルになった。流石に傷病者向けの、時代の影響を受けない簡素なデザインだから身に着けやすい。

この3日間、リリフィーヌは、《大砦》周辺の地理や歴史、生活スタイルについて、エスメラルダ卿とその弟子である若手の神官の男から、少しずつ教わった。 若い男の神官は、やはり、婆神官の孫だった。

リリフィーヌは、どうやってか自分が、本当に世界の端に転移して来たのだと言う事実を知って、最初は呆然とするばかりであった。

真相は今なお不明だが、リリフィーヌは《雷攻撃(エクレール)》魔法を受けた中小型の転移魔法陣の誤作動に巻き込まれたと推測されると言う。 そして、極めて出現確率の低い――幸運にも寿命の長い――分岐ルートに吞み込まれた。 そこから次々に分かれて延長して行った小さな分岐ルートを渡って行き、最終的に、《大砦》の転移魔法陣に湧いて来た――らしい。

――此処、竜王国の最北部の辺境は、飛び地となっている竜王国領土の一つだ。 周辺には、獣人、鳥人、魚人など他種族の王国領土が、やはり飛び地スタイルで散在している。緩衝地帯を兼ねた空白の土地が、あちこちにあるのだ。

いずれにしても深い峡谷に彩られており、夏の通商シーズンごとに回って来る辺境ルートの軍需物資の運搬業者や、 深山幽谷を専門とする巡礼者や隊商――放浪癖のある変人の竜人や、渡り鳥タイプの鳥人が多い――以外は滅多に来る事は無いと言う徹底した僻地だ。

春・夏・秋の間の居住スペースは、竜人がまだ人体変身の能力を得ていなかった古代から変わらぬ、谷間に点々と掘られた洞穴である。 洞穴の中に人体向けの集合住宅を建てて数世帯が共住するスタイルであり、そうした洞穴が十数個集まったクラスタが、村とされている。 勿論、作業小屋となっている洞穴や、倉庫代わりとなっている洞穴もある。

そして、そうした峡谷の個々の洞穴クラスタ――村々をつなぐ人体向けの交通手段は極めて限られており、剥き出しの鎖場と梯子しか無い。

《大砦》とは別に、村ごとに魔物対策用の小ぶりな砦が分散している。春・夏・秋の間は村長が特別に、村ごとの担当の隊士メンバーと共に此処に詰めているのだ。

冬季は完全に連絡が寸断される。各々の洞穴に分散していた住民は、『雪白』の山おろしに襲われる厳しく長い冬の間、 奇跡的に広い平地を伴う、麓に近い《大砦》に集まって冬越しをするのだ。転移基地を置ける程の平らなスペースがあるのは、此処しか無い。 色々考えると、リリフィーヌは幸運だったと言えるだろう。

*****

1週間ほど経った後の日の夕方――

《大砦》の役人たちと、会食を兼ねて面談を行ない、リリフィーヌの今後の身の振り方を決めるという事になった。

リリフィーヌが歩ける程度に回復してから後も少し間が空いたのは、すこぶる強い魔物が《大砦》の城門前広場や転移基地に連日転移して来て、その撃退と始末に数日ほど要したからだそうだ。

リリフィーヌが転移基地に現れた際、尋常ならぬ大量のエーテルが飛び散った。 周辺の魔物たちは日を追って痕跡を辿り、発生源たる転移基地にまでやって来た。退魔樹林に防護された城壁を乗り越えて、食い付いて来たのだ。 ただでさえエーテルが希薄な地域なので、濃密なエーテルが大量に飛び散ると、そういう事が起きやすいと言う。

リリフィーヌは平身低頭した。婆神官が魔女さながらに含み笑いして言う所によれば、

「むさいのの手頃な運動になったんじゃ無いかね。フォフォフォ」

――と言う事ではあったが。

会食に先立って、パピとパメラと婆神官の手により、リリフィーヌの衣服が一そろい、用意された。 元型を留めていなかった武官服から、どうにかして復元サイズを予測計算したに違いない。少し緩かったが、全体的には問題は無い――いや、あるのか。

問題と言うべきか、言わざるべきか。

辺境の人々の間では現役の日常着には違いないのだが、作業服の方にしても、中世さながらの古典的な衣装なのだ。実物大の歴史人形劇のコスプレをしているみたいだ。 リリフィーヌは、時代錯誤にも感じられる伝統衣装を眺め、不自然じゃ無いのかどうかという点で、すぐに自信が無くなった。

舞台衣装さながらの極彩色では無いのだけが、せめてもの救いか。現代では礼装とされている伝統様式の上衣(アオザイ)は、まだ自分でも実感のない目の色に合わせたのか、淡い藤色。 中世衣装の定番「山岳用の袴」そのものの下衣は、オフホワイト。

武官服のようなシンプルな短い丈のものにしてもらおうとは思ったのだが、首回りを覆う高い襟から胸周りに向かって、白い糸で手の込んだ伝統刺繍が施されてあり、交換を申し出るのも心苦しい。

チラリと同年代の女性パピの衣装を見てみると、極彩色だ。白衣の下には、こういう類の衣装があった訳だ。 茜色の地にマリーゴールド色の刺繍。ただしパピの場合、明るい赤銅色の派手な目をしているので、不自然では無い。

――郷に入れば郷に従え、と言う。この服の縫い方は、早く覚えておく必要がある。リリフィーヌは、固く心に留めた。

一方で、春夏用のハーフブーツは、すぐに気に入った。高山帯ならではの峻烈な気候と地形に鍛えられて進化したのか、履き心地が最高なのだ。 寒気がきつくなる秋冬になると、防寒性を高める事も含めて、ロングブーツになると言う。

時代錯誤なまでの伝統衣装の着付けに奮闘して、早や昼下がりのティータイムの刻。

ようやくにして、髪型と、魔法の杖を挟むための古風なサッシュベルトが、やっと整った。 ほぼ着付けが仕上がったところで、パメラは《大砦》の面々との取次のため、先に部屋を出て行った。

パピは出来上がりをつらつらと眺めて「良いわー♪」とコメントしてくれたが、リリフィーヌは物慣れぬ状況という事もあって、引きつった笑いしか浮かべられない。

――パピに倣って髪をゆるく下ろし、伝統紋様が織り出された幅広のリボンを、中世さながらにヘアバンド形式で巻いてあるのも、果たして合っているのかどうか。 現代の花簪(はなかんざし)の元とされている、花組み紐の細工にタッセルを長く垂らした装飾が、ヘアバンドの両脇に施されている。

今となっては、以前の普段の髪型がどうだったのか、思い出せない。標準的な武官仕様ポニーテールだったであろう事は確かだが、何か違うような気がするのだ。

婆神官はリリフィーヌの反応を興味深そうに観察し、ユーモアたっぷりに片目をつぶって見せた。

「どうやら、リリーが今まで居た所は、いわゆる『ハイカラでアーバンでナウ』な街着が普通だったらしいね。 此処じゃ《大砦》そのものの事情もあるんだが、気候も地形も峻烈すぎるから、こういうのが日常着さ。 街着と言うよりは訪問着だから、当分の間は着回しが利く筈だよ。ま、取っときな」

*****

古代・中世の賓客さながらに、リリフィーヌは婆神官と2人の女隊士に先導されて、部屋を出た。付き添いを務めるパピが隣にいる事で、ようやくホッとする。

2人の女隊士フェリアとララベルは、要所要所で、ガイドさながらに《大砦》の中を説明して来た。

「此処は《大砦》の治療塔でして、リリー殿の部屋は、この塔の一室でもあるんです。 円形塔の中階層の中央に治療室があって、入院療養のための部屋が窓側に沿って並んでます。 地階層は薬草などの貯蔵庫。高階層の方は辺境の巡礼者のための礼拝所になっている所なので、テラスからの見晴らしは良いですよ。 もう少し体力が付いたら、《大砦》内の散策コースとしてお勧めします」

リリフィーヌは、ふと、窓から顔を出して来た胡乱な武官を思い出した。では、あの男は、礼拝所テラスに梯子を掛けて降りてきたに違いない。 状況を考えると、何だか段々おかしくなってくるのだが……

流石に傷病者向けの施設とあって、治療塔の出口からは緩やかなスロープといった廊下が《大砦》本館への入口に向かって続いていた。 女隊士2人の説明によれば、リリフィーヌは担架に乗せられて、このスロープを運ばれて来たと言う。

通路の壁には、中世様式の欄間と格子窓が並んでいる。夜間照明ともなる常灯は中世さながらの、底面からタッセルを垂らす提灯タイプだが、光源はさすがに現代の物だ。

スロープのような廊下が尽きた所で、かなり大振りなサイズの、古代の石造アーチをした「洞門(どうもん)」入口が現れた。

――《大砦》の大広間に出た。中央広間でもある。高階層までの吹き抜けとなっており、面積は広大だ。 まさに古代・中世の城の世界だ。《大砦》の外観も同様なのであろうと知れる。

ひたすら、物理的戦闘の衝撃に耐える頑丈さを追求した、武骨な石積みの壁。 今は魔法耐性に優れた城壁素材によって補強カバーされているが、創建当時の面影がハッキリと残っているのだ。 そこに、中世さながらに、竜王国の紋章旗や垂簾(すいれん)が掛かっている。

その下で、まさに中世から出て来たような恰好の、大勢の人々がたむろしていた。皆、周辺の村に住む村人である。

現在の大広間は、社交場を兼ねた多目的広場だ。荷車(リヤカー)を利用した多数の食事処やカフェ、手芸教室、日替わりの蔵書コーナー、 それに絨毯を敷いた所では手工芸品の修理コーナーなどが並んでいる。中世の街角の広場そのものである。

此処では流石に、時代錯誤なまでの伝統衣装の方が、空気に馴染んでいる。 現代風の物は定期的に軍需物資供給を受けている武官関係の物のみだが、昔から竜人武官はシンプルを旨として来たという事もあり、暫く眺めているうちに、違和感が全く無くなってしまった。

――記憶にボンヤリとある、街区の広場よりずっと広い。

大広間は、昔は《大砦》の内部に侵入して来た敵方の突撃部隊を迎え撃つ戦場となっていたところだ。 有効な魔法陣を敷かれるのを防ぐため、大広間の床には、つまづくと言うレベルでは無いものの、天然の岩山の表面を活用した凸凹の名残が広がっている。

元は様々な飛び道具を使って敵方の部隊を迎え撃つためであったのだろう、吹き抜けに沿って10数階層ほど、連続バルコニーがグルリと設置されている。 その古風な組格子の欄干を備えたバルコニーの奥は、定番のアーケード回廊となっており、各々、 各階層の居住スペース――昔は《大砦》に詰める各部隊が入っていたスペース――への連絡路となっていると分かる。

各階層の連絡路は、もっぱら梯子だ。ほとんどは鉛直に立っている梯子だが、一部分、老人や傷病者向けと思しき、手すり付きの梯子階段がある。

大広間の中央辺りに、城壁素材で出来た太い柱が規則的に立てられており、吹き抜けとなった空間をぶち抜いて、遥か高階層の天井――中世さながらの城館の中央屋根――を支えていた。 高階層の方で、城壁素材の梁が張力構造を成して縦横に走っている。そして、数名ほどの武官が、梁をショートカット通路として歩き回っているのが見える。

2人の女隊士は更にガイドした。

一方の端、一段低くなっている長方形の広間が正門扉と連結する玄関ロビーフロントだ。

竜王国の他の場所と同様、大天球儀(アストラルシア)を4台、セットしてある。僻地という事もあって、最近、その1台に、特別に遠隔通信機能が追加された。 今は、これで竜王都や近くの管区からの緊急メッセージや官報、主要ニュースが受けられるようになっている。刻々の市井ニュース配信機能といったような物は付いておらず、交渉中だと言う。

リリフィーヌは少し首を傾げた。

「此処には、クラウン・トカゲは居ないみたいですね?」

「ああ、寒すぎるからですよ。夏場は、トカゲ放牧の人がチラホラと来てますけど」

此処ではむしろ、竜体の方が力仕事や移動に役立つので、変身魔法を得意とする人が多いのだと言う。

だいたい《大砦》の特徴を飲み込んだリリフィーヌは、2人の女隊士と婆神官の先導に従って、大広間の中で方向を変え――そしてギョッとした。 大広間の中に居る大勢の村人たちの目が――巡回パトロールを務めているらしい隊士たちの目も――全てこちらを注目しているのだ。

横で、パピがニンマリと笑った。

「リリーってば美人の類だし、いきなり転移基地に神殿隊士の姿で現れた上、2週間以上も面会謝絶だったでしょ。 おまけに記憶喪失だとか、髪が白くなる程の大変な出来事に巻き込まれてたらしいとか、みんな興味津々なのよぅ。 対策を打つ前まで、あの部屋のドアに集まってた野次馬の数を知ったら、ビックリするわよ」

どう反応するべきか分からず、リリフィーヌは、困惑の笑みを浮かべる他に無い。

2人の女隊士と婆神官は、大広間の中央辺りへとリリフィーヌを先導した。そこは、青い水中花が入った大きな水槽をしつらえた水場となっていた。 水汲みコーナーが幾つかあり、周囲に水飲み場を併用したカフェテーブルが並ぶ。

リリフィーヌはピンと来た。

――いつだったかの美味しい水は、この水場の水だ。植物図鑑によれば、青い水中花は、少しずつ水を浄化する魔法の力を持っていて、 魔物成分が多いために綺麗な水が手に入りにくい地域では、必須の装備だと言う。竜王都などでは、大量の水を効率よく浄化するための強力な水浄化装置があるので、余り必要では無いが。

水飲み場に並ぶカフェテーブルの1つに、パメラと、すこぶる高齢の老婦人が並んで座っていた。2人とも、やはり伝統衣装をまとっている。 リリフィーヌが近づいて来たのを見て、パメラが穏やかに立ち上がり、老婦人はウキウキとした様子で青灰色の目をきらめかせた。 ほとんど白髪だが、左右の側頭部に流れるアッシュグリーンの髪が、かつての鱗の色を伝えて来る。

「まぁ、パメラ、これが噂のリリフィーヌ嬢ね。今日はご苦労様、婆神官どの」

目をパチクリさせたリリフィーヌに、パピが手際よく解説して来た。《大砦》の先代の大将夫人で、元・武官だと言う。

「この度は大いなる厚遇を頂きまして、幸甚に存じます」

リリフィーヌが一礼すると、先代大将夫人は、いっそう目をきらめかせた。

「竜王国の最北部、雪白の《大砦》にようこそ、リリフィーヌ嬢。先代の大将夫人です。早速だけど、演武といった物は出来て?」

リリフィーヌは暫し考え――そして、ハッとした。身体に叩き込まれた動きであるせいか――何故かクリアに思い出せるのだ。

婆神官が「大丈夫かね?」と尋ね、更に2人の女武官とパピとパメラが、心配そうに眺めて来た。リリフィーヌは大丈夫と言う風にうなづいて見せた。

「では、少し場をお借りします。身体が本調子ではありませんので、模造刀で失礼いたしますが」

リリフィーヌはベルトから魔法の杖を抜き、ボンヤリとした記憶に沿って、柳葉刀のような反り返った刀の形に変えた。

――朝日を浴びて、確かにこういう演武をした覚えがある。前後の脈絡は全く覚えていないけれど。

片手正眼に武器を構える。次いで高く構え、荘重な一振り――そして、素早い二振り。寝込んでいた間に衰えていた筋肉が震えるが、耐えられない程度では無い。 丈の短い武官服だと回転しても裾は広がらないが、今着ている淡い藤色の伝統服は丈が長いため、身体回転に応じて、フワリと円状に広がった。

一節分の演武の区切りで、身体を低く構えて模造刀を小脇に収める形になり、そこで一区切りつけた。

体力欠乏が大きく、早くも息が上がっている。記憶にあるような武官用の刀剣を持つ事は、骨格の強度と武器の重量とのバランスの関係上、不可能だ。 筋肉の方は、婆神官が言う通り、何故か強いまま維持されているので、こういった動きに耐えられるが――

――やはり今となっては、武官に復帰する事は出来なくなったのだと、リリフィーヌは改めて実感したのであった。

気付くと、大広間は静まり返っていた。大広間の全員の目と口がポカンと開いたまま、リリフィーヌを注目している。やがて、先代大将夫人が満面の笑みを浮かべて来た。

「凄いわ。婆神官どの、リリフィーヌ嬢は本当に熟練の神殿隊士だったと、私は確信したわ。 戦闘用の動作の基礎が、ほぼ入ってる。それに、動きも正確よ。王宮勤めの武官には無い動きも入ってるわ――神殿隊士は、祭礼用の演武もこなす必要があるから」

エスメラルダ卿は、魔女のように悪戯っぽく含み笑いをしながらも、飄々とうなづいている。

「神殿隊士の制服をたまたま着ていただけの偽物じゃ無いかと言う噂もあったけど、見事なもんだね。一気に疑惑が払拭できたんじゃ無いかね」

「リリフィーヌ嬢、数ヶ月から1年ほどは《大砦》に留め置きになると聞きましたよ。体力が回復してきたら、若手の女隊士の演武の教官をお願いしたいわ。 私がやってたんだけど、もう寄る年波で腰がおかしくてね、フフフ」

程なくして大広間の中に、いつものようなざわめきが戻って来た。口々に、先ほど目撃した内容を噂し合っているのだろうと知れる。

先代大将夫人は、謎めいた笑みを浮かべて、パメラとリリフィーヌを順番に眺めた。リリフィーヌにだけ聞こえるように、こそっと耳打ちして来る。

「リリフィーヌ嬢、あのいかつい顔の大柄な武官の男、覚えてるかしら? 彼は何て言って来たの? ええと、半透明の薄紫色の花を持って来た時?」

「……窓枠が壊れて無いかどうか、見に来たと言ってましたが……」

あの日、窓から顔を出して来た妙な男の武官の事は覚えている。リリフィーヌは、覚えている通りの言葉を説明したのだが――高齢の老婦人は、 盛大に吹き出し笑いをしたのであった。爆笑の余り、目じりには涙がにじんでいる。パメラの方は、唖然としていた。

「アッハッハ! ホッホッホ! ホントに、お嬢さん、そんな奇天烈な、面白い事を言わせたのね。ホントに、タダの、『挙動不審なヤツ』ねぇ!」

――やがて、笑い上戸と、それに伴う一時的な呼吸困難の発作が収まった先代大将夫人を先頭にして、一行は会食の場だと言う奥の間へと移動して行った。

元は竜王が滞在した時の玉座の間だったというだけあって、古典的ながらも重厚かつ豪奢なスペースだ。 今は、《大砦》の役人たちが詰める仕事場である。その一角が、折々の会食の間として解放されている。 竜王都からの巡回役人や辺境の巡礼者の送迎、辺境巡回の隊商たちとの会食&取引の場となっていると言う。

――その入口アーチで警備している大柄な隊士たちの中の1人が、何とも言えぬ奇妙な眼差しで見つめて来る。

リリフィーヌは、その男に見覚えがあるような気がして来た。隊士たちのリーダー格と思しきその男は、岩のような『しかめ面』なのだが、目の色は蒼穹の色だ。 あの日、窓から顔を出した、いかつい顔の若い武官の男に違いない。

――結論から言えば、『挙動不審なヤツ』の正体は、すぐに知れた。

会食の間に揃った《大砦》の役人の面々の自己紹介に続き、辺境警備部隊に配属されている小隊のリーダーの1人として名乗って来たのである。 彼はパメラの息子で、『水のグーリアス』と言った。

7-5ささやかなダイアローグ

――会食の結果。

リリフィーヌは当分の間《大砦》に滞在し、体力が回復次第という事で、パピの父親が村長を務める「村=洞穴クラスタ」への受け入れが決まったのであった。 同年代の気心の知れる知人が居るという事で、少しホッとする。

翌日――風は少し強いものの、快晴だ。今日の風で、雪解けがいっそう進むに違いない。

竜体への変身はまだ禁じられているが、少しの間なら外を出歩けるという程に回復して来ている。 リリフィーヌは、リハビリがてら――パピやパメラの手芸作業の手伝いの合間に、まずは部屋の窓の直下に見える緑地に降りてみようと思いついた。

直下に見える緑地は、気持ち良さそうな緑の芝草に覆われている。高原性の樹木を取り巻く緑の葉も、本番さながらの濃い緑色だ。

婆神官の話によれば、後1週間もすれば、ほとんどの村人が方々の洞穴クラスタに散らばる予定との事だ。 その前日は大広間で《大砦》冬ごもり終了の打ち上げがあり、ちょっとしたお祭り騒ぎになると言う。パピやパメラ、他の村人たちにしても、その準備作業で大わらわだ。

繁忙期の人の時間を取るのは心苦しい。リリフィーヌは、手持ちの魔法の杖を梯子に変えると、窓から直接、降り始めた。 地上の緑地まで5階層ほどの高さだ。何となく記憶にある、摩天楼が並ぶ街区の高層ぶりに比べれば、ドウという事は無い。

中ほどまで降下した頃だろうか――

「――何してる!?」

リリフィーヌは、ただでさえ神経過敏な状態だったのだ。以前は、絶対にやらかさないような間違いをした――

誰何の鋭い声音にギョッとした弾みで、手を滑らせ、梯子から転落したのである。己自身の失敗に愕然とする余り、悲鳴を上げる事すら忘れていた。

武官としての記憶通りに、素早く受け身の姿勢を取る。しかし、病み上がりに近い身で、しかも全身の鱗がほぼ失われている状態で――地上との激突に耐えられるだろうか?

――数秒後、リリフィーヌの身体を襲ったのは、地面の硬さでは無かった。リリフィーヌは目をパチクリさせる。

いつか見た覚えのある、蒼穹の色を映したような青い目がリリフィーヌをのぞき込んでいた。

*****

涼しい風が、樹林の間を吹き抜けて行く。

「悲鳴すら上げず、スーッと落ちて来るからビックリした」

――と、グーリアスは、硬い声でボソッと呟いた。

グーリアスは色々と言いたそうな顔をしていたが、最初に誰何で驚かせた側だという事もあるのか、それきり口を噤んだ。蒼穹の色を映したような青い目で、リリフィーヌをジッと眺めて来る。

――私、そんなに変な風に見えるんだろうか? 白緑色の髪は、確かに色が薄すぎる方だと思うが。 今着ている服か? エスメラルダ卿いわく訪問着だから、確かに緑地を探検するには、少し妙な格好には違いない筈だが――

リリフィーヌは、梯子から落下した恰好そのままにグーリアスに抱えられて移動させられた後、少し先にある樹林の中のベンチに座らせられ、 バツの悪い思いで、物問いたげなグーリアスの視線を受けるのみである。梯子は既に魔法の杖の形式に戻っており、今はベンチの脇に立つグーリアスの手に押収されている状態だ。

――流石に、辺境警備部隊の小隊を指揮する小隊長の1人と言うべきか。

一見して、くつろいだ風の立ち姿に見えるのだが、感心する程に隙が無い。不意を突いてタックルしても、逆に取り押さえられる羽目になるだろう。

リリフィーヌは未練がましく魔法の杖にチラリと目をやり、ついでに、グーリアスの背後に広がる『雪白』を眺めた。

こんな状況ではあるが、このベンチからの『雪白』の眺めは、まさに絶景だという事に気付く。此処にベンチを設置した人物は、この眺めを飽かず楽しんでいたに違いない。

「――美しい光景ですね」

「あぁ。綺麗だと思う」

地元の人でもそうなのだと、リリフィーヌは納得したのだが――どうも妙だ。グーリアスの視線は、『雪白』の方を向いていないような気がするのだが……

リリフィーヌが疑問顔でグーリアスの方を見つめると、グーリアスは何故か、あの時のように瞬きした。いつも『しかめ面』なせいか、分かりにくい男だ。 おまけに、非常に口の重い――必要事項しか喋らないタイプらしい。

リリフィーヌは少し思案し、当たり障りの無い話題から始める事にした。

「この《大砦》には転移基地があると聞きましたが、私が湧いて来たと言う転移基地は、どちらに?」

「城門前の広場の真ん中だ。此処からだと、《大砦》の構造上、城門前広場とは隔絶されているから見えにくい。『見張り回廊』や正門扉からであれば見える」

――少しずつ事情を聞いてみれば、転移魔法陣の基底床の上で意識を失っていたリリフィーヌを、最初に確認した隊士だと言うでは無いか。 リリフィーヌは思わずベンチから飛び上がり、身を乗り出していた。

「確認しますけどグーリアス殿、私の髪の色は、目の色は、その時から、こんな色でしたか!?」

グーリアスはリリフィーヌの剣幕にギョッとしたようだったが、シッカリとうなづいて来た。 グーリアスは、あの時のようにジッとリリフィーヌの顔を眺め、過去の記憶と照合しつつなのだろう、ポツポツと語り出した。

「最初は竜人じゃ無い別の異形に見えた。あの時は雪が降っていて、転移基地の底は闇夜並みに暗かった――髪や鱗が白いと言う事よりも、 全身重傷の状態の方が記憶に残っている気がする。目の色は見てない」

そこでグーリアスは一旦、言葉を切った。リリフィーヌが意味深な間に気付いて小首を傾げると、グーリアスは思案顔をしながらも、説明を付け加えて来た。

「救急処置が一段落した後、婆神官どのが、シルフィードの目の色の事を話した。暁星(エオス)だったと。全身麻酔が切れた後、一瞬、意識が戻って、目が合ったとか」

リリフィーヌは暫しうつむき、足元の地面を見つめた。

――そう、ボンヤリとだが、あの時、目の前に見知らぬ老女が居てビックリしたと言う記憶がある。

まだ混乱が残っては居るのだが――此処に転移して来た瞬間から、この状態だったのだと、納得するしか無い。 幾つかのハッキリしない断片を残して、過去とは、ほぼ縁が切れてしまったらしい。全てと言う訳でも無いだろうが。

自分の神経過敏の理由は、自分でも分析できている。

――根無し草。寄る辺の無い孤独感。

つらつらと思いを巡らせていると、自然に、この男が窓から顔を出して来た件を思い出した。実に奇妙な事態ではあったが――リリフィーヌは半ば困惑しながらも、呟いた。

「いつだったかは、花を有難うございます。パピがちょっと言ってましたが、珍しい花だそうですね」

グーリアスは、あたふたと顔をそむけた。ムニャムニャと、よく聞き取れない言葉を呟いている。注意深く観察してみると、どうも顔を赤らめているのでは無かろうか。 どうやら、あの遭遇は、グーリアスにとっても決まり悪い出来事であったらしい。両者ともに、痛み分けと言ったところだろうか――

グーリアスは、樹林を透かして見える『雪白』を眺め続けていた。一陣の微風が流れ、暫しの沈黙が過ぎた後――

――グーリアスは『雪白』を背にして、再びリリフィーヌを振り返って来た。

「暁星(エオス)の光で、『雪白』が不思議な――何処までも透き通るような――色合いに染まる瞬間がある。 この一帯では、その一瞬を『エフェメラル・アストラルシア』と言っている。あの花の名前も、そうだ。 リリフィーヌ殿の目の色は、そう言う不思議な色をしている。リリフィーヌ殿が元気になったら、この《大砦》の展望台から見せたい」

グーリアスを眺めているうちに、不意に――リリフィーヌの中で、確かな直感が閃いた。心臓が、ドキリと跳ねる。

リリフィーヌは絶句し、息を詰まらせるのみだった。

7-6天球は巡りて、風立ちぬ

――大広間からは、賑やかな音がずっと続いている。

《大砦》冬ごもり終了の打ち上げで《大砦》中の人々が集まり、お祭り騒ぎになっているのだ。

この1週間、グーリアスは当番の間を縫って、リリフィーヌに根気よく《大砦》の内外の構造を案内してくれた。 お蔭で1週間前に比べると、リリフィーヌは、《大砦》の中を1人で歩き回れる範囲が広がった。まだ《大砦》全体の構造を飲み込めている訳では無いが、いずれにしても、さほど深刻な問題では無い。

リリフィーヌは、お祭り騒ぎが続く大広間で一通りの挨拶を済ませ、正門扉と連結する玄関ロビーフロントに降りると、 そこに設置されている大天球儀(アストラルシア)をつついた。見る間に、一抱え以上もある「水晶玉もどき」の中に、《大砦》の概略図が浮かぶ。

この1週間、幾度となく魔法の杖で大天球儀(アストラルシア)をつついたが、それでも、そのたびに現れる《大砦》の概略図には、目が回るような思いをする。 この《大砦》は元々、古代・中世の主流だった物理的戦闘に備えて建造された物だ。要所要所に、敵方の侵入を阻むための迷路が広がっている。

リリフィーヌは体力が完全には戻り切っておらず、更に替えの鱗が生え揃うまでは《大砦》のお世話になる身だ。パピの村を訪ねるのは、安全を見て更に1年後という事になっている。 先代大将夫人から依頼された一時的な仕事もあるし、《大砦》から人が少なくなる前に、1人で歩き回れる範囲を少しでも拡大しておかなければならない。

リリフィーヌが大天球儀(アストラルシア)の前で首をひねっていると、程なくしてグーリアスがやって来た。

暫し見つめ合った後、グーリアスは承知したという風に一つうなづき、リリフィーヌの案内に立った。 不思議な事だが、この1週間の間に急にお互いの距離が縮み、幾つかの事柄についてなら、言葉を交わさずとも通じる仲になっている。

*****

――リリフィーヌが入っている療養部屋の窓の下に広がる、緑地――

後で分かった事だが、これは《大砦》を一巡する空中庭園となっており、いわば城内の散策路を兼ねている場所である。 部屋の窓から梯子を出して降りて行けば、直通で簡単に到着するのだが、《大砦》の中をまともに通過して目指そうとすると、 その途中で難所と言うべき迷路にぶつかり、そこで常に苦労させられる事になるのだ。

先日、リリフィーヌが梯子から落ちた件は、グーリアスにとっては想像以上にショッキングな出来事だったらしい。 『二度と梯子で降りるな』と、隊士たちのリーダー格としての口調で、きつく申し渡されてある。

体力(及び、自前の鱗)さえ回復すれば、リリフィーヌにとっては最も確実かつ安全なルートなのだが……時として、他人の心理は、大いなるミステリーだ。

《大砦》の中の迷路は、地下迷宮(ダンジョン)さながらの、複雑怪奇な石積みの迷路なのだ。 敵方を怯ませるためだったのであろう奇怪かつ不気味な彫刻の群れすらあり、お化け屋敷も同然だ。古代・中世の建築技術の限りを尽くした、今となっては謎そのものの遺跡である。 うっかり迷路に入った村人たちが老若男女問わず迷子になり、涙目パニックになって、隊士たちに遭難信号を送って来るそうだ。

――グーリアスに手を引かれて、意味不明なまでに曲がりくねった迷路を通り抜ける。闇の中から大口を開けてワッと出て来るような奇怪な彫刻の群れには、やはりギョッとさせられる。 しかし、グーリアスに手を引かれているリリフィーヌにとっては――特別にときめく、ささやかな時間だ。

陽光の降り注ぐ緑地に出た頃には、リリフィーヌの心の内では、或る決心が固まっていた。

――窓の下を過ぎて少し行ったところに、田舎ならではの素朴なデザインの手すりが付いた、あのベンチがある。 リリフィーヌはグーリアスの手を借りて、ベンチに腰を下ろした。グーリアスが隣に座って来る。

グーリアスは、リリフィーヌの表情に拒絶などの気配が無いのを確認すると、ゆるく流したままのリリフィーヌの淡い色の髪を撫で、そしてその肩に、そっと腕を回した。

リリフィーヌは、濃い緑色にきらめく樹林の間を透かして、昼下がりの空の下、万年雪がいっそう白く映える『雪白』を眺めた。 やはり、このポイントから眺める『雪白の連嶺』は、まさに絶景だ。

リリフィーヌは、淡い藤色の上衣(アオザイ)をまとう姿だ。第1着目として揃えられていた、あの伝統衣装である。 ボンヤリと記憶にあるような無いような、都市圏のユニバーサルな衣装とは違っていて、今はまだ違和感を感じる。だが、時間が経てば、この違和感も次第に薄らいでいくのかも知れない。

*****

(やはり、思い出せた限りの事は、話しておかなければ――)

婆神官に新しい名前をもらうまでは名無しだった女が、『雪白の連嶺』に見入りつつ思案をしていたのは、実際は2分、3分の事だった。 元々武官を本分としていたという事もあり、決断は早い方である。

リリフィーヌは、グーリアスを振り返った。

「――グーリアス殿、私にはまだ話していない事があります」

グーリアスはリリフィーヌの眼差しを見て瞬きした後、ゆっくりとうなづいて来た。

普通では考えられない程の大怪我をして、転移魔法陣から出て来た女だ。 婆神官の推測によれば、転移魔法陣の事故か何かで、《宿命図》も恐らくは変容してしまっている――記憶系列が破綻し、自分の名前すら失うレベルの変容だ。 想像もつかないような秘密があるだろうという事は、グーリアスは承知していたのであった。

だが――

「私には以前、恋人が居ました」

まさに爆弾宣言であった、と言うべきか。次の一瞬、グーリアスは、気が遠くなったような顔になっていた。『バキッ』という奇妙な音が響いたが、グーリアスは反応していない。

「グーリアス殿、ベンチの手すりが……」

リリフィーヌは奇妙な音の原因に気付き、グーリアスのもう一方の手を見つめて、絶句するばかりだ。

つくづく、リリフィーヌの肩に触れている方の手では無くて、幸いだったと言うべきだ。

グーリアスは全く表情を変えぬまま、竜人ならではの圧倒的な筋力を持つ手で、その手に触れていた哀れなベンチの木製の手すりを、粉々に握り潰していたのであった。 後で、修理しなければなるまい――いや、修理しなければならない。

グーリアスは焦った様子で、リリフィーヌから視線を外した。

一息置いた後、グーリアスは改めて気付いたと言う風に焦った様子で、リリフィーヌの肩から手を外し、 手すりの残骸を隠すような形で両手を組んで、握り締めた。ややうつむいた、いかつい顔は、いつも通りしかめ面のままだったが、目の端は赤くなっている。

「あ、いや、その、考えてみれば……当然か……リリー殿は……良い人だから」

そのモゴモゴした口調を裏読みすれば、『綺麗な人』とか『魅力的な人』と言おうとしたらしいというのが、何となく分かる。

――転移魔法陣に出て来た時の、ゾンビ状態も同然だったであろう凄まじい顔面を見ておいて、そう思う心理というのも、非常に謎なのだが……

リリフィーヌは戸惑った後、どうやら続けても大丈夫らしいと判断した。

「続けて大丈夫ですよね、グーリアス殿……その、『居ました』という事です。エスメラルダ卿の見立てでは、 私の《宿命図》の《宝珠》相は、まっさらだそうですから……今は縁が切れているのだと思います。正式な手続きで関係を清算したような記憶が無いので、自分でもアヤフヤですが……」

リリフィーヌは面差しを上げると、『雪白』の彼方に広がる虚空へと、視線をさまよわせた。過去の記憶を思い出そうとする時のクセだ。 グーリアスはそれを充分に承知しており、黙したまま、次の言葉を待っている様子だ。

「今でも、前の名前は思い出せません。恋人だった人の事も、同じくらい……『居た』というような、曖昧な感触だけです。 私が以前の名前を思い出せないのは、その人が、名前に関わる何かをしたから――かも知れません」

竜人の間で、恋人や婚約といった類の関係を結んだり、逆に関係を清算したりする時には、 《宿命図》の心臓部たる《宝珠》と魔法署名とが関わっている――そこからして、名前に関わる『何か』に相当するのだが……

リリフィーヌは諦念と共に、暫しの間、目を伏せた。

思い出せる限りの記憶の断片と、今の状況と、微妙に食い違っているような気がするのは、確かだ。 しかし、《宝珠》に何が起きたのかも分からないし、思い出せない事を幾ら考えても、しょうがないでは無いか。

「いつか、私の旧名を知っている人に出会うかも知れませんけど――その人が、恋人だった人かも知れませんけど――気にしないでくれたら良いと思います。 今の私は、リリフィーヌ……リリーでしかありませんから」

リリフィーヌは再び、ゆっくりとグーリアスの方を振り向いた。まだ傷にうっすらと覆われているものの、 しなやかで均整の取れたリリフィーヌの片手が、どちらかと言えば『ごつい』と言える、グーリアスの手の上に重なる。

「今はまだ、気持ちが落ち着いていないんです。でもグーリアス殿、貴殿の《宝珠》との間で、暫しの署名を交わしたいと思っています」

――結婚を前提とした、恋人関係として。

グーリアスは蒼穹の色をした目をきらめかせ、少年のように頬を赤らめたまま、リリフィーヌを見つめた。

万感の思いを込めた無言の時が、過ぎて行った。樹林の間を涼しい風が吹き渡り、濃い緑の葉がきらめき、さやいだ。

――1年後の同じ日、同じ場所で――2人は竜人特有の伝統的なやり方にのっとって、互いの手をつなぎ、正式な結婚関係そのものである《宿命の盟約》を交わす事になるであろう。

その予兆とも言うべき、その様子を目撃していたのは、いつの間にかグーリアスの手から転がり落ちていた手すりの残骸と、濃い緑にきらめく樹林と――その遥か彼方に見える『雪白の連嶺』のみだった。

*****《終》*****

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深森の帝國