深森の帝國§総目次 §物語ノ傍流 〉花の影を慕いて.余話(小説版)

花の影を慕いて/余話.「君が緑の目を見ざりせば」

《制作ノート》――中世、騎士の時代をモデルにしたスピンオフ。

王国が天下統一を成し遂げて、まだ日が浅い戦国乱世の後半。各地の有力諸侯・騎士たちにとっても、王室に取って代わる下剋上のチャンスがあった時代。
狂信者が栄え、魔女弾圧が横行した暗黒の風習や迷信も、長く長く尾を引いており、当時「ゴールドベリの巫女」は「ゴールドベリの魔女」と呼ばれていた。
――本編『花の影を慕いて』登場人物、オリヴィア・ゴールドベリの先祖の物語。

(0)あらすじ/梗概/495文字

貴族令嬢リデルは、父親よりも年上の相手ホールデン子爵との政略結婚にのぞむ。だが婚礼馬車は街道を荒らし回る野盗騎士団に襲撃され、リデルは従者と共に囚われの身となった。

野盗騎士団はホールデン子爵へ花嫁の身代金を要求した。騎士クズレや落伍者が集まる野盗騎士団だが、妙に規律正しい。その主要メンバーには、ジュードとローガンのコンビが居た。

リデルとジュードは惹かれ合うが、やがて身代金が到着し、2人は離れ離れになった。

最初の予定どおり、リデルはホールデン子爵の花嫁として城へ赴く。ところが、饗宴の大広間で、リデルは怪異な老司祭から「緑の目の魔女」と糾弾され、魔女裁判および火炙りのため塔に閉じ込められた。その情報を知ったジュード青年は単身、リデル救出のため城に潜入。そこへジュードの相棒ローガン青年が加わり、2人の青年は協力してリデル救出を成功させる。

一方で、情勢急変に伴う好機をつかんだ野盗騎士団は、ホールデン子爵の城を急遽攻略。野盗騎士団の正体はホールデン子爵の悪事を摘発するための王国の騎士団だった。

平民ジュード青年は救出などの功績により王国騎士へ出世し、リデルと結ばれる。

(1)緑の目のレディ・リデル

闇夜を切り裂く青白い雷光。つづいて爆裂する雷鳴。

荒れ狂う天候の脅威が、華麗なゴシック様式に彩られた城を、その高い塔の数々を揺るがしている。

目を遠くやれば、壮絶な時化の海が望めたであろう――岩壁を打つ荒波の響きが、此処までとどろいて来ている。

領主の城を取り巻く緑の木々が、暴風雨にあおられて大きく揺れ動き、騒々しい葉鳴りの音を立てていた……

*****

――自分が、この世で最もバカな所業に及んでいることは分かっている。

ジュードは、短丈マントを異国ターバン風に巻きつけただけの無防備な頭部を、勢いよく振りかぶった。

顔面を止めどもなく流れる雨水を振り払い、歯を食いしばる。

特殊な道具を駆使して、最初の難関である高い城壁を、速やかによじ登って行く。

――少年だった頃、群を抜く身軽さを、リーダー・ヴィンセントに見い出され……厳しい特殊訓練を受けて来た。

それ以来、尊敬するリーダー・ヴィンセントのもとで、数々の大きな作戦の中で、重要な片腕として動いてきたことは、誇りだ。

だが。

――この信じがたい愚行が、リーダー・ヴィンセントにバレた上に、目下の作戦すなわち、昼も夜も徹底的にマーク中の、この大きな城の攻略を左右する事態になれば。

ヴィンセントも、内偵に入って城内の逐次情報を流してくれている仲間たちをも、命の危険にさらしかねない。場合によっては、即座に縛り首か、火刑だ。

何故なら、この一帯を荒らしまわる野盗騎士団のひとつとして……しかも騎士クズレの、外道な落伍者ならず者の馬賊として、この大きな城の主に、生死問わずで名指しされているのだから!

再び大きな雷光が走った。

一瞬、ジュードの人相が青白く浮かび上がる。

地味な茶髪をした若者。険しく眉根を寄せ野盗らしく荒んだ風だが、均整は取れていて清潔な印象。

早くも眼下に見下ろす形になった樹林から、ジュードの愛馬のいななきが微かに聞こえる。さすがに、これほどの悪天候には、馬も不安を覚えている様子だ。

「もう少し我慢してくれ……必ず生きて戻るから、お姫様も一緒に」

愛馬のいななきが、返事のように返って来た。そして、静かになった……

程なくしてジュードは、吹き付ける雨風をものともせず、城壁の上へ到達した。

城壁をつなぐ空中回廊は複雑に折れ曲がっているが、あらかじめ頭に叩き込んである城の見取り図のとおりだ。迷わず分岐のひとつを選び、目当ての見張り塔へと忍び寄る。

見張り塔の警備は、城主の財力を見せつけるかのような、華麗な薔薇色甲冑をまとう『薔薇色聖騎士団』の騎士1名。

ジュードの殴る蹴るを受けて、あっという間に失神し……石床に沈む。

石床と甲冑とがぶつかった時のけたたましい金属音は、外を荒れ狂う嵐の轟音にまぎれてゆく。ほかの見張り塔へ、その異変が伝わることは無かった。

猿轡をかませ、支柱に縛り付け。必要な処置を済ませたジュードは、はやる胸のままに、見張り塔のバルコニーへと駆け寄った。

激しく降りそそぐ雨を透かして、はるかに望むのは……さらに高所へとそびえている、ゴシック尖塔の黒い影。

その塔の頂の窓辺に、ささやかなランプの光。重厚な鉄格子に閉ざされた古い窓の形が浮かび上がって見える。貴人の幽閉のための、塔。

目を凝らしてみれば、窓辺のランプは、愛しいあの娘がいつも置いている位置だ。間違いなく。

ジュードの心臓が、大きくドキリと跳ねた。せつないまでに痛く、苦しく。

緑の目の、レディ・リデル。

明日の婚礼の儀で――早ければ今宵にも、この大きな城に住まう領主の奥方に――

いや、させない。断じて。

これから、オレがさらいに行く。

闇夜の中を荒れ狂う天候は、ひっきりなしに突風の向きを変えていた。ざあっと流れる雨が、若者の顔面を再び、びしょぬれにする。

ジュードは今一度、顔面をぬぐい。異国ターバン風にまとめた当座の頭巾を、締め直した……

…………

……到達して見てみると、見るからに手ごわそうな、硬度の高い石で出来た壁だ。王国を代表するような名工が手掛けたのは明らかで、古い時代の物にしては、驚異的なまでに凹凸が少ない。

雨水が滝のように流れ落ちる石造りの尖塔の壁は、この手の侵入に慣れた青年ジュードでさえも、相当ためらいを覚えるところだ。

「だが、やるしかない」

ジュードは腰に巻いたロープを繰り出した。先端には、石壁へ打ち込むための、登攀用の金属楔が取り付けられている。

「そういうと思ってたよ」

不意打ちの、背後からの男の声。

ただでさえ過敏になっていたジュードは、ビクリと振り返り……振り返りざまに、手に持っていた金属楔を、過たず音源へ振り下ろした。

嵐にまぎれてゆく鋭い金属音。声の主もまた、相当の手練れだ。

信じがたいまでの神業でもって――金属楔を短剣で受け止めた声の主が、苦笑を漏らす。聞き慣れた、おそろいの鎖帷子の音。時折閃く雷光が照らす琥珀色の双眼と、長めの金髪。

「落ち着け。兄弟子を攻撃するとは、あとで夜通し、シンクレア流の腕立て伏せの罰だ」

「ローガン! 何故――」

闇の中で、それほど年齢の違わぬ若者は、お互い瞬時に刃を退いて残心をとる。

「変なところで一途だからな、ジュードは。まして、忍ぶれど色に出でにけり……それはさておき、あの馬は自分で引綱を解いて、俺の馬を連れ出した。それで俺も、ジュードの行き先が分かったという訳だ」

「前から疑ってたが、あの――シンクレアの馬たち、本当に妖魔の子孫だったりするのか?」

「妖魔では無いぞ、妙に勘が良いのは、かの神秘の『一族』と同じく王国の七不思議のひとつだが……おい、ロープを間違えるな、こっちだ」

「ローガンも登ると?」

「こいつは難敵だ。黒魔術の全盛期ゆえの技術。妖魔契約による怪物的なまでの破壊力に耐えられるように、造成された――現代の名工さえも再現できない『狂気の石壁』。1人よりは2人がかりで」

「リーダー・ヴィンセントは……」

ローガンは、グッと詰まったかのように沈黙し、わざとらしい咳払いを返した。それが答えだ。

その後は、もはや最強のチームとなった2人の青年の間に、言葉は要らなかった。

*****

最低限の家具のみの、殺風景な石造りの小部屋。

華麗な城館とは別に分けられている、古く陰気なゴシック尖塔に、その小部屋はあった。

その窓は鉄格子によって封印されている。暴風雨に翻弄されて、ビリビリと震えているところだ。

簡素な椅子に腰を下ろしたのは、うら若い令嬢だ。金糸銀糸に彩られた豪華な婚礼衣装をまといながらも、椅子の背に、憔悴したように上半身をあずける。

窓の外でひときわ大きな雷光が炸裂し、令嬢はギョッとするままに頭部を起こした。

黒髪の巻き毛の下に輝くのは、真夏の木々の万緑よりもなお鮮やかな緑の目。

――『この女は魔女だ。魔女裁判にかけよ。徹底的に火あぶりにして清めるのだ。その緑の目、忌まわしき妖魔契約の、黒魔術の証なり!』

城館の贅沢な大広間で――饗宴の場で放たれた激しい侮蔑と殺意の言葉は、婚礼の儀を執りおこなう事になっていた禿頭の司祭からものだ。

雷鳴がボンヤリとして来る……極度の緊張と心労で疲れ切ったリデルは、いつしか、まどろんでいた。

まどろみの中で、記憶は過去へとさかのぼり……

……最初の鮮烈な記憶は、目の前で両親が長剣による斬撃を浴び、2人とも意識を失って石床へ横たわったところ。

リデルは6歳から7歳という年頃だった。

だが、その襲撃者の顔は、よく覚えている。その名前も、記憶に深々と刻まれている――もっとも先方は、血まみれの男女に取りすがって泣きわめいていた幼女のことなど、覚えてもいない。

先ほどの贅沢な饗宴の場で、本人が、そう言ったから間違いない。

――『あれは、すべて燃えてしまったから生存者は居ない。高潔なこと王国第一という私が、手を下したというようなフザけた内容など、根も葉もない噂に過ぎない。ハハハ……!』

放火を主導していた本人が、何を言うか。片腹痛い。

襲撃者の一味が笑いながら去って行った後、偶然に通りかかった勇敢な騎士の決死の救護が入らなかったら、リデルは、両親もろとも瓦礫の下で、一握りの灰になっていたところだ……

……リデルは華麗なドレスの硬い胴着に、そっと手をやった。

胴着の狭間に慎重に仕込んである短剣は、変わらず其処にある。何の装飾も無い実用一辺倒の品だが、特にこれを選んで、持ち出したのは……

不思議に甘やかに思い出される。たった数日の出来事なのに。

張りつめていた何かがゆるみそうになり、痛む胸を抑えながらも、リデルは素早く頭を振った。

先ほどは想定外の、司祭からの糾弾で呆然となったうえ。『魔女封じ』とされる古いゴシック尖塔の小部屋へ幽閉されて、チャンスを逃してしまったけれど。

(次は、必ず仕留める。あの憎むべき仇の心臓を)

(2)黒魔術の中のボーイ・ミーツ・ガール

ジュードとリデルの出会いは、1週間ほど前――

*****

年頃の娘に成長したブランドン侯爵令嬢リデルのもとには、縁談がやって来ていた。

ホールデン子爵との政略結婚。

海沿いの広大な土地を領有するホールデン子爵は、王族に近い高貴な出自を誇り、王国第一の高潔な騎士としても知られている。宮廷重鎮たちの覚えめでたく、領内の港における数々の貿易事業も成功しているとのことで、王族もうらやむ金持ちだ。

国王・女王と、王国教会の大主教の連名による結婚命令書が届いた、その日の夜。

添えられていた肖像画を一瞥した瞬間、リデルの緑の目は凍り付いた。次に、熱心な承諾と……青ざめた笑み。

ブランドン侯爵は不審を覚えた。

婚礼馬車が出発した後になってから分かった事だが。

令嬢の部屋に運び込まれていた、等身大のホールデン子爵の全身肖像画に起きた変化が、言外の真意を示していた。

きらびやかな衣装をまとった、年齢・立場相応にふくよかなシニア男性の肖像の、その心臓の位置に……短剣が、深々と突き刺さっていたのだった。

*****

その日、ブランドン侯爵令嬢は婚礼衣装をまとい、特別あつらえの馬車に乗って出発した。

馬車を警護する、壮年の男騎士と女騎士。馬車を操縦するのは、老御者。いずれもブランドン侯爵家の忠実な家来。

やがて……鬱蒼とした岩山樹林エリアを縦断する、細いながらも重要な街道に差し掛かる。

木立と巨岩が密集していて、木漏れ日はあるものの路上は薄暗い。

道路整備は大いに不足していた。馬車の通行は相応に可能だが、激しく揺すぶられること確実な、荒れた道だ。

街道の入り口。

石塚さながらの道標の周りは、『黒魔術封じ』のオマジナイで一杯だ。『聖別の盾』を模した護符、ありとあらゆる道中安全の護符……エキゾチックかつ奇妙なオブジェの数々。

男女の騎士は、馬上で『聖別の盾』と長剣を構え、戦闘態勢となった。

老御者も片腕に『聖別の盾』を装着した。馬車の連絡窓を通して、老御者は令嬢に警告を投げる。

「この辺りを跋扈しとる罰当たりな騎士クズレの馬賊ども、ホールデン子爵が討伐に力を入れておられるが、なかなか根絶が難しいとか。お嬢様、くれぐれもご注意を」

リデルも顔を引き締めて、頷いた。揺れに備えて、馬車に取り付けられている吊り革をシッカリつかむ。

「地図には、奇岩街道と書いてあったけど。追剥街道という二つ名で有名なだけのことはあるわね」

「御意」

老御者は、馬車の速度を上げた。高速移動に伴い、木漏れ日が目まぐるしく移り変わる。

予想どおり、気を抜けば舌を噛みそうなガタ揺れが馬車を襲って来た。不規則な凹凸の連続に、車輪が悲鳴を上げる。

馬車の窓をゆっくり眺める余裕があれば、本来の名前どおりの、不思議な奇岩・巨石の群れが、緑濃い樹林と共によぎって行くのを楽しめたであろう。

そして、この日、この婚礼馬車は不運だった。

早々と、複数の盗賊団や野盗騎士団の見張りの目に、引っ掛かっていたのだった……

*****

「デカいシノギだ。気を引き締めて行け!」

街道を見下ろす位置に鎮座まします偉大なる巨岩、通称「見張り岩」の上。無精ヒゲのシニア男、リーダー・ヴィンセントが指令を下した。

口々に「応」と返したのは、いかにも野盗という出で立ちの馬賊だ。

正式な作法での長剣の扱いや騎乗に長け、かつては本物の騎士だったという過去をうかがわせるものである。

そして実際、リーダー・ヴィンセント率いる野盗騎士団は、数多くの騎士クズレ、落伍者といった罰当たりな面々を抱えていることで知られていた。

*****

「敵襲!」

リデルの馬車を警護する女騎士が、鋭い警戒の声を上げた。

奇声を上げながら襲って来る、戦斧持ちの覆面男。徒歩の戦斧持ちが4人、5人ほど。

女騎士は馬に拍車をかけて突進し、長剣を振るって、先頭の覆面男の戦斧を弾いた。

異形音と怪異な火花。異臭の光煙を噴いて、覆面男が転倒する。

老御者が『聖別の盾』を掲げた。『聖別の盾』に触れた光煙は、怪異な火花と散る。

続いて、木立や岩陰の間から、徒歩の戦斧持ちが20数人ほど。

そして別の一団が、別の岩陰の分岐から新しく現れた。馬賊である。話に聞く野盗騎士団だ。

「ヴィンセントの悪魔! 大斧槍(ハルバード)で皆殺しじゃ!」

戦斧持ちの1人が、怪異な煙幕に包まれて変身した。

煙幕から出現したのは、大斧槍(ハルバード)を持つ半裸の巨漢。全身、邪悪な記号を組み合わせた暗色の刺青(タトゥー)だらけだ。

妖魔さながらの異形の奇声。大斧槍(ハルバード)の攻撃で、その辺の巨岩が砕けてゆく。

あおりを食らったかのように騎馬戦士の1人が馬もろとも倒れ、落馬した。

一瞬の間をおいて、騎馬戦士の後ろの巨岩に壮絶なヒビ割れが走った。巨岩は、異臭の光煙を噴出し砕け散った。

「大斧槍(ハルバード)の怪物だ!」

周囲にいた騎馬戦士たちが、警戒の大声を上げて素早く散開する。

「黒魔術!」

「盾を装着! 聖別の盾!」

大斧槍(ハルバード)が舞い、黒魔術の爆炎が閃き――異臭の光煙どころではない――それを受け止めた『聖別の盾』の表面で、壮烈な火花が散った。

盾が間に合わず、無防備に構えられていた一部の長剣は、異形の爆炎を浴びるや、一瞬にして錆びたかのようにボロボロになって形を失った。

野盗騎士団の足並みが混乱し始めた。

大斧槍(ハルバード)の狂戦士は、野盗騎士団の、若くて弱そうな1人へと殺到する。

その地味な騎馬戦士は、曲芸さながらの手綱さばきで、馬を方向転換した。

いきなり空いた間隙――返って来ない手応え。巨漢がよろめく。

脇から新しく出現したのは、金髪の騎馬戦士だ。

すれ違いざまの、疾風迅雷のごとき斬撃。

肉と骨を、鉄剣が断つ音。

――木漏れ日の中を舞い上がる、大斧槍(ハルバード)を握り締めたままの極太の片腕と……黒魔術を帯びた、怪異に光る血しぶき。

その金髪青年は、天才的なまでの長剣の腕前でもって、化け物のような巨漢の腕を斬り飛ばしていたのだった。

反動(ダメージ)は大きかった。黒魔術の成分に触れた長剣は、瞬く間に錆びたかのように崩れ、刃の形を失った。

一瞬の、静寂の後。

徒歩の戦斧持ちの盗賊団が、パニックのままに散る。

チャンスを見て取った警護の男騎士が「行け!」とハッパをかける。

婚礼馬車は混乱を押し通った。数人ほどが車輪の下になり、骨折の音と悲鳴が連続する。

「ローガン、馬車が!」

「確保しろ! 誰か、剣を貸せ!」

「それ、持ってけ!」

野盗騎士団は、手際よく二手に分かれた。素早い戦況判断。寄せ集めのくせに、見事に統率の取れている軍事行動。

その有り様を見て取った男女の騎士は、敵ながらあっぱれ、と舌を巻いていた。

程なくして後。

婚礼馬車は、本来の路線を外れて危険な獣道へ追い込まれていた。元は巨岩だった大きな砕片が車輪を歪め、車軸を損傷している。

戦斧持ちの盗賊団の数名と、10人編成ほどの野盗騎士団が、見る間に迫って来る。

男女の騎士が迎撃のため方向転換する。走行能力を失った馬車の周りで、混戦が始まった。

あっという間に全滅したのは、戦斧持ちの徒歩の盗賊団だ。大斧槍(ハルバード)の巨漢を失って、無力に近い状態になっていたという風だ。

野盗騎士団の戦闘力は、正規の騎士団に匹敵するレベルだった。

「いざ参る!」

金髪の騎馬戦士――ローガンと呼ばれていた――が、新たに調達したばかりの長剣を構えて、警護の男騎士へ呼ばわった。

男騎士が「応」と返す。

双方ともに突進し、人馬一体の一騎打ちが始まった。何故か、周囲の野盗騎士団は、礼儀正しく距離をおいて控えている……

一騎打ちは、伯仲していた。互いの太刀筋が、尋常に金属の火花を散らして交差する。

勝負を決めたのは馬の足取りだ。凹凸の地形を知り尽くす野盗の馬のほうが、足さばきが一段上だったのだ。

最後の会心の剣撃でもって、金髪青年ローガンは、警護の男騎士を馬上から振り落としていた。

警護の女騎士のほうも多勢に無勢で、速やかに長剣を奪われ、あの手この手の武器でもって馬上から引きずり降ろされる。警護の騎士は、2人ともに拘束された。

「逃げるのだ、リデル!」

まだ猿轡をされていなかった女騎士の、鋭い指令が飛ぶ。

老御者が、馬車馬を既に自由にしていた。

かねてから叩き込まれていた手順に沿って、リデルは馬車の緊急ドアを開き、前面部から飛び出した。御者席を踏み切って、馬へとまたがる。そして、駆け出す。

木下闇にも目立つ婚礼衣装が、ひるがえる。

リデルの『直感』が、ホールデン子爵の領地への正しい方向を選び取る。道なき道と見えた濃い茂みには、微かながら、明らかに人と馬の足によって踏み分けられている隘路があった。

「マズいぞ、此処はいいから追え、ジュード!」

ローガンの声に応え、地味な茶髪の騎馬戦士ジュードが、リデルの追跡を始めた。

木立が密に並んで薄暗い隘路の中の、逃走追跡劇がつづく。

リデルの馬は、パニックのままに、突如として行く手に現れた泥濘(ぬかるみ)へ突っ込んだ。深みにハマって、つんのめる。

衝撃で、リデルの身が馬上から放り出された。高々と。

目の前に奇岩。

鋭く飛び出した突起が、死神の大鎌のように高速で迫って来る。

リデルは、叫ぶことすら忘れていた。

ジュード青年の馬が、矢のようにすべり込む。

曲芸師さながらに馬上の鞍から跳躍したジュード。宙に浮いたリデルの身を捉え、地上へと引きずり落とす。

わずか指三本ほどの差で、死の突起との激突を回避して。

重なったジュードとリデルの身体は、隘路を縁取る灌木の茂みへと、勢いよく突っ込んだのだった。

*****

その夜。

街道を見下ろす位置に鎮座まします神さびた巨岩、通称「見張り岩」にほど近い野盗騎士団の野営地に、多くの篝火が立てられた。

レディ・リデルの婚礼馬車が、約束の刻にホールデン子爵のもとへ到着しなかった事。

いつもより多くの篝火が、奇岩街道――その二つ名「追剥街道」――の、あちこちに見える事。ホールデン子爵の自慢の城からバッチリ見えるような高台を選んで、見せつけるかのように盛んに焚かれている。

この二つの事実から、ホールデン子爵が、この状況をどう理解するかは明らかだ。

ホールデン子爵のもとには、既に、うら若き花嫁の身代金の要求が届いていた。

目玉の飛び出るような金額だが、野盗騎士団の要求に応じなければ、十中八九、花嫁の無残な死体がホールデン子爵の領地にうち棄てられる……そうなれば、富と名誉と権勢を誇るふくよかなシニア男、ホールデン子爵は、王国の中で、それなりに気まずい立場に立たされる事になるだろう。

(3)目の前の盤面いっぱいの違和感よ

篝火が焚かれている、リーダー・ヴィンセント一味の野営地のひとつ。

宵の底、木立の中に紛れるようにして、意外に丁寧な造りのコテージがある。外側から鍵が掛かっているその中に、花嫁は、丁重に閉じ込められていた。

あの死神さながらの奇岩との衝突を回避して、灌木の茂みに突っ込んだ後、リデルは失神してしまっていた。急遽コテージへ運び込まれたため、着の身着の――各所が破れて汚れた、純白の婚礼衣装のままである。

コテージの扉の外から、丁重なノック。次いで、鍵が外れる音。

ギクリとして身を起こし、緑の目を見開くリデル。震える手が、胴着の秘密のポケットに触れた。

扉が開いて人影が現れた瞬間、リデルは気合を込めて、隠し持っていた短剣を突き立てた――突き立てようとしていた。

強い衝撃が走った後、短剣は弾かれ、コテージの床に叩き付けられていた。

人影は、リデルの動きを予期していたかのように、熟練の身のこなしでもって短剣の突きをかわし、弾いていたのだった。

男ならではの凄まじい力で、リデルの手首が拘束される。

「放しなさい、無礼者! 騎士ルーファスとジョゼフィンをどうしたの! グレアムは!?」

戸外でランプが動き、辺りに光を投げた。

リデルの手首を拘束していたのは、茶髪青年。地味だが、均整の取れた人相。リデルの緑の目の鮮やかさに気付いた様子で、しげしげと注目して来る。

そして、妙に気品のある声音と共に、無精ヒゲのシニア男が新しく入って来た。意外に背丈がある。

「御父上におうかがいしていた通りのお転婆ですな、レディ・リデル。だが、ケガも無く、お元気なようで何より」

「だから申し上げたでしょう、リーダー・ヴィンセント」

ランプ担当の若い金髪青年が快活に笑っている。いつ拾ったのか、弾かれていたリデルの短剣は、既にその手にあった。

新たに登場した無礼者たちを、リデルはキッと睨み付ける。

「まぁまぁ、むさくるしい男たちが並んでたら、収まるモノも収まりませんよ。ささ、間を空けて下さいな」

さらに扉の向こうからテキパキと現れたのは、気の良さそうな丸い顔をしたシニア女性。整った言葉遣いや着衣など、何処かの貴族の正式な家政婦といった風。

荒(すさ)んだ集団の中で、それなりの淑女が無事で居られるとは思えない。リデルは呆気に取られた。

シニア女性は、手押し車で持ち込んで来ていた湯桶を床に降ろすと、懐かしそうに微笑んで、淑女の礼をした。

「ブランドン侯爵令嬢レディ・リデル。お健やかにお育ちになられて。御母堂に似て、お小さい頃はよく熱を出されてハラハラさせられておりましたが。わたくし昔、ブランドン侯爵家の乳母、兼、家政婦でしたの。今は亡き侯爵夫人には大変よくして頂きまして」

リデルは、訳の分からない思いで見つめるばかりだ。既に手首の拘束は解かれていたが、戸惑いのあまり、脱走という考えすら浮かばない。

「もしかして……アガタ夫人? とか……」

「あら、名前を憶えていてくださってたなんて光栄ですわ」

「よく話してましたから……シスターと侯爵夫人が、いえ、母が」

丸い顔をしたシニア女性は、にこやかに笑いを返すと、テキパキと3人の大の男たちをコテージの外へ追い出したのだった。

「泥だらけで凄いことになって、お嬢様。お城の設備には到底及びませんが、湯あみしてサッパリしてしまいましょう」

アガタ夫人はリデルのほうを再び眺め、察し良く説明を加える。

「従者の方も、お馬さんも、別の所で元気にしてますよ。随分と疲れている様子でしたが」

「野盗の仲間なの? 戦斧とか、大斧槍(ハルバード)とか……」

アガタ夫人は、気の良さそうな丸い顔に、申し訳なさそうな笑みを浮かべた。

「詳しい事はお教えできないのですよ。ただ、ヴィンセント殿も、他の方も、公正で頼りになる方である事は保証しますわ。あの悪徳領主ホールデン子爵よりも、ずっと。そのうち皆さんとお話できる機会も下さるでしょう」

「悪徳領主ですって? 宮廷の評判では……」

「あんなの嘘っぱちですよ。地元の人たちは、みんな知ってます。すさまじい苛斂誅求で脱走する領民がドンドン増えてるし、貿易の品は禁じられた毒物やら密輸品やら、山吹色の賄賂だの、黒魔術だの、時代遅れの魔女裁判だの……魔女裁判を始めた元凶の狂信者は、既に地獄の底まで召されたというのに。まぁ、難しい話は後にしましょうね」

アガタ夫人の熟練の介助のお蔭で、リデルの湯あみは想像以上に快適なものとなっていた。

リデルは緑の目を閉じて、ウトウトし始めた。いっぺんに色々な事が起きて、疲労困憊だ。

やがて、アガタ夫人は、豊かな黒髪の巻き毛をかき分けて、リデルの背中を流し始め……

ハッと息を呑んだ。

うら若い貴族令嬢レディ・リデルの背中には。

既に癒えた状態とはいえ、ほぼ全面に、痛ましいまでの火傷痕が広がっていたのだった……

*****

疲労困憊のリデルが寝入った頃。

夜も眠らぬリーダー・ヴィンセントの野営地の一角。拠点コテージの中で、さらなる検討会議があった。

アガタ夫人が不安そうな顔をして、こっそりと包んだものを小卓の上に広げる。

リデルが着替えて寝入った後に……女性ならではの、縫い目の乱れ・ホツレ糸1本たりとも見逃さぬ緻密な手際でもって、婚礼衣装一式を隅々まで調べ上げた――その成果だ。

暗殺用の小さな短剣の数々。各所へ隠し持つための自作の剣帯。さらに、最初に取り上げていた短剣――婚礼衣装の胴着に隠されていたブツも追加される。

早速、金髪青年ローガンが刃物を改め、ヒュウと口笛を吹いた。

「禁術の毒物を塗ったのか? 色が其れっぽいが」

脇に控えていた毒見役が、刃部分に鼻を近付けて検分する。

「毒の臭いはしない。狩猟の定番の痺れ薬の類だ。かなり酩酊するが基本的に無害。加熱で作用成分が無効化する。何せ、その後、解体して料理して、食うんだからな。染色ハーブの匂い……草木染めで、特定の毒物の色を出した訳だ。かなり上手に染まってる」

「禁術を偽装? 手の込んだイタズラにしても、ギョッとさせられる代物だな?」

「うむ、こっちの色合いは誤り……薬物図鑑を参考にしたな。塗色ミスが指摘されてた旧版のヤツだ。だが、初めて見る組み合わせだ。実に興味深い」

しまいには、毒見役はウキウキとなって、メモを取り始めたのだった。

無精ヒゲのシニア男リーダー・ヴィンセントが、半ば面白がっている顔を『客人』の面々に向けた。

拘束済みの男女の警護騎士と老御者。名前は既に判明している。ルーファス、ジョゼフィン。そしてグレアム。

「大した重装備だな。誰にも気付かれずに、リデル嬢は、これだけの数を準備していた訳か?」

ブランドン侯爵家の忠実な家来は、3人全員、知らぬ存ぜぬだ。さすがに男性陣は呆然としていたが、女騎士ジョゼフィンは、チラリと訳知り顔を見せた。

令嬢の短剣の数々をどうするかについて、リーダー・ヴィンセントと、その側近たち――金髪青年ローガンや茶髪青年ジュードも居る――の間で、相談がつづいた。アガタ夫人も交えて。

充分な距離を取った野営地の他の場では、夜通し篝火が焚かれ、戦士たちのよもやま話が続いていた。酒が振る舞われていたが、話題は意外に堅い。

「まさか今日という今日に、例の黒魔術のギャングが釣れたとは」

「あの大斧槍(ハルバード)の怪物を生け捕りに出来たのは大きいぜ」

「リーダー・ヴィンセントのご指示どおり、聖別済みの盾を準備して正解だったな。あんな本格的な黒魔術に当たるとは。狂信者が生きてた時代ならともかく、今は、王国あげて黒魔術の根絶に全力だから」

「特別に例の枠を空けて尋問中だ。奴は自慢の腕を失って相当ガックリ来たな、興味深い内容を喋り出した」

……小耳に挟んでいるうちに、ブランドン侯爵家の家来たちの胸の中には、違和感が育ち始めていた……

*****

ジュード青年を、レディ・リデルの食事及び世話、見張りの担当とする、というリーダー・ヴィンセントの決定が下った。

「何で、オレが?」

首を傾げたジュード青年に、金髪青年ローガンが苦笑いを返す。

「お姫様は天然のトラブルメーカーだ。対応できるのはジュードくらいだろう。偶然にして大斧槍(ハルバード)男を釣り上げた件や、奇想天外な落馬と激突未遂の件も踏まえての決定だ。気を締めて、頑張ってくれ」

リーダー・ヴィンセントは無精ヒゲを撫でながら、思案顔になった。

「アガタ夫人の説明によれば、リデル嬢の背中一面に火傷痕が残っている」

「貴族令嬢には、むごい話ですね。異常な特殊性癖で有名なホールデン子爵、そんなこと気にしないような気もしますが」

「ブランドン侯爵令嬢が火事に遭ったという話は無かったような気がするんだ。いや、ブランドン侯爵は確かに昔、夫人と令嬢と共にアクシズ領を表敬訪問している。アクシズの丘の天文台が火事になった時、騎士仲間と共に救護と消火に尽力していたそうだ」

心得た顔をしている金髪青年ローガンが既に衣装棚を開き、必要な衣装を用意し始めている。その間にも、無精ヒゲのシニア男リーダー・ヴィンセントの話は続いた。

「リデル嬢が6歳の頃、アガタ夫人がブランドン侯爵家を退職した。その後、ブランドン侯爵一家はアクシズ領を表敬訪問し、余談ながら、例の天文台の火事騒ぎがあった。そしてブランドン侯爵一家は領地に帰還した。リヴェンデル女子修道院の派遣女医シスター・G・エルダーを伴って」

「優れた医療で知られる女子修道院ですね。火傷治療のための女医の派遣、不自然では無さそうですが」

ローガンが情報を補足する。

「古参の家来、老御者グレアム氏によれば、シスターはブランドン侯爵邸に、そのまま滞在していたとか。それも数年という長期にわたって。女医としてブランドン侯爵夫人の最期を看取ってくださったばかりでなく、使用人が病気や怪我をした時にも診てくださったので、たいへん心強かったと」

「だが、あのリデル嬢の緑の目……この深刻な違和感、ハッキリさせておかないと気が済まん」

リーダー・ヴィンセントは、そうボヤいた後、急な遠方出張へと出発して行った。

ジュードは首を傾げるばかりだ。

「……あの令嬢、予想のはるか斜め上を突っ走る、白の『ビショップ』なのか? 女ビショップ、か?」

「ホールデン子爵は、さしずめ、チェス盤の黒の『キング』だな……白の『キング』リーダー・ヴィンセント、どう動かれるのかな?」

ジュードが生真面目な顔になって『ギロリ』と睨んでも、金髪青年ローガンは面白がっているだけだった。

(4)意外に重要な疑念と危機一髪の転回点

朝食の盆を持ち、ジュード青年は、例のコテージの扉を開いた。

と同時に、レディ・リデルが棒切れを振り回して襲って来た。

かねてから気配を読んでいたジュードは、盆を持ったまま、毛ひとすじ程の差で難なく棒切れをかわす。

棒切れと、コテージ扉とが、『バーン』という……いかにもな騒音を立てた。

「済みませんが、レディ……令嬢向けの敬語って、これで良いのかな? こちらの扉、回転トリック仕掛け」

「回転扉」

瞬く間に真相を悟った緑の目は、苛立ちに燃えていた。全力を込めた扉からの返礼をまともに食らい、腕も手も痺れているのは明らかだ。

「何処から棒切れを……あ、根性で、椅子の背の横木を1本減らしたんですか」

リデルは、お行儀悪く鼻を鳴らす。いま着ているのは、広く着られている、簡素な編み上げ胴着&スカート。豊かな黒髪を後ろでひとつのお下げ三つ編みにして、おきゃんな町娘といった風だ。

「接合がゆるんでたからよ。妙にガタつく訳だわ」

一瞥しただけで、その仕事は丁寧に行なわれたと分かる。

「こんな事言うと、お怒りになるんでしょうが、染色師だけじゃなくて指物師の素質もありますね」

リデルは一瞬、沈黙した後、探るような眼差しになった。

「その頭は何回入れ替えて来たのかしら、野盗さん?」

「オレはジュード。この頭は自前です。変な妖魔とも契約してませんし」

「では、サー・ジュード……」

「オレ貴族どころか本物の騎士でも無いんで、レディ・リデル。冷めますから、早めにどうぞ」

「ちゃんとした加熱料理を出せるなら、宿場町で料理屋を始めても良いのに勿体ないわね。だから野盗は頭が悪いんだわ、フン!」

――火のような気性のお姫様だ。

ジュードは何だか楽しくなって来て……口の端に、そっと笑みを浮かべた。

レディ・リデルは、強烈に興味深い。印象的な緑の目は、リデルの気分の変化に応じて繊細に表情を変える。その辺の宝石など比較にもならないくらい、いつまでも見ていたくなるような神秘的な輝きだ。

ポンポンと進む会話は気持ち良いくらいだ。相棒ローガンと、チェスゲームをしているかのように。

侯爵令嬢なのに、明らかにジュードを、相応の知性を備えた対等な人間と認識していて……見下して来ない。

朝食が済み、ジュードはふと浮かんだ疑問を、投げた。

「ホールデン子爵と結婚したいと思ってるんですか? レディ・リデル」

「結婚しなければならないからよ」

「あんな多くの短剣を仕込む程に、ですか?」

「早くしなきゃいけないの。うかうかしていたら、他の令嬢がホールデン子爵の、ぎ……いえ、奥方になるから」

ジュードの反射神経と鋭い聴覚は、奇妙な間を聞き逃さなかった。

(他の令嬢がホールデン子爵の犠牲になる、と言おうとしたのか? 背中の火傷痕を気にしないかも――という異常性癖にも懸けて?)

扉がノックされ、野盗騎士団の仲間の声が、扉越しに響いて来る。

「お食事中、失礼しまーす。ホールデン子爵からの使者が来てます。身代金の値下げ交渉の件で」

緑の目をパチクリさせるレディ・リデル。

ジュードは一礼して、素早くコテージを後にした。

*****

意外にも、ジュードとの会話は楽しい。

リデルはその事実に戸惑いを覚えながらも、ホールデン子爵の名で冷や水をかけられたような気分になり……

混乱してゆく気持ちのままに、先ほどまで食卓だった簡素なテーブルに突っ伏した。

リデルの中で、違和感が形を取る。

貴族でもないし本物の騎士でもない――それは、本当なのだろうか?

先祖から受け継ぐ『直感』は「それは違う」と告げている。

嫡流では無いのだろう。ほぼ平民。顔立ちや雰囲気は――ご落胤や私生児は、よくある話だ。しかし。

騎士(ナイト)の叙爵の儀式が『見えた』。

道なき木下闇を一瞥しただけで、ホールデン子爵の領地へ続く隘路が『見えた』ように。

……野盗の一味だけに筋が通らないし、ホールデン子爵のように、有り余る不正なお金で取っ掛かりを得たのであろう、とも思いつつ……

リデルは、この疑念を棚上げしておくことにした。

*****

女騎士ジョゼフィンが、リデルが閉じ込められているコテージに現れた。

ジョゼフィンに腰紐を付けて監視しているのは、リーダー・ヴィンセント側近の毒見役だ。中年だが、好奇心でキラキラしていて雰囲気は若い。それなりに鍛えているものの、学者という印象。

「ああ、ジョゼフィン! みんな、ひどい事されてないの?」

「監視下にありますが、法外な事態は無く」

壮年の女騎士は、監視役をチラリと振り返った。

「忌憚なく喋らせて頂きますよ」

「ご自由に」

女性2人で着座し、身を入れて話をする姿勢になる。

中年騎士は――紳士らしく、立ったままだ。

「我々は可能な限り、状況を検討しました。この野盗騎士団は、奇妙です」

「それは私も感じる」

「騎士ルーファス殿と野盗ローガンの――あの金髪変人ローガン・シンクレアだそうです――立ち合いは、王国騎士の正規戦にのっとった一騎打ちでした。野盗騎士団メンバーほぼ全員『騎士クズレ』かと。そこで奇妙な点が出てきます」

「王国騎士の誓いを放棄した後で、そのような正規戦をやるメリットは無いという訳ね。騎士道を外れた卑怯な……黒魔術を利用した攻撃手段をとっても、王様からも女王様からも、何も言われないのだし」

「御意。徒歩の盗賊団が襲撃して来た件、覚えておいでですか」

「戦斧が見えたわ。大斧槍(ハルバード)の人は、間違いなく妖魔契約……黒魔術の狂戦士。あの声を聞く限り、頭の入れ替え50回以上やってる筈。あと少しで人の顔では無くなってたかも。何か、そこでも奇妙な点が?」

「黒魔術を使う大斧槍(ハルバード)付きの盗賊団と、こやつら野盗騎士団、追剥ぎ仲間では無いようで。我々は、別々の一味に、同時に襲われていたのでは、と」

「別々の追剥ぎ一味が、無関係に、同時に……」

「戦斧の盗賊団に襲撃されていたのを、野盗騎士団に救ってもらったらしく。ドッチもドッチの悪者ですが、騎士道をわきまえている分、野盗騎士団のほうが『よりマシな悪』です。その辺の盗賊よりもカネにがめついのは、ともかく」

中年騎士が愉快そうに笑った。

「公平な判断、恐悦至極。最後の感想も妙にツボに……戦況判断の訓練がなってない若い連中に、聞かせてやりたいくらいだ」

*****

ホールデン子爵から派遣されていた身代金の値下げ交渉人が、値下げどころか『花嫁の純潔の維持料』名目のもと上積みされた金額に真っ青になり、ヨロヨロと退去して行った後。

ローガンやジュードなど、リーダー・ヴィンセントの留守をあずかる側近のもとに、緊急連絡が入った。

十代前半を抜けきらぬ伝令は、先ほど退去した値下げ交渉人と同じくらい、真っ青になって慌てていた。息を弾ませ、どもりながらも。

「レディ・リデルが逃走を!」

*****

――あの令嬢が、従者たちを見捨てて逃走するか?

ジュードは疑問に思いながらも、伝令の少年の後を追う。

仲間と共に駆け付けた現場は、神さびた巨岩が形作る、偉大なる谷間だ。

午後の後半の光が降りそそぐ断崖。腰紐を付けたままの女騎士ジョゼフィンと、監視役にして毒見役の中年騎士が、そこで揉み合っている。もう少しで、傍で切れ落ちている崖下へ墜落しそうだ。

近づいてみると。

女騎士ジョゼフィンが無謀にも崖下へ飛び降りようとしていて、それを毒見役の中年騎士が制止しているところであった。

「何やってんだ」

訳を問うローガンへ、女騎士ジョゼフィンが鋭く振り返った。

「リデルが崖から落ちた。シスター・Gから特に託された『一族』、此処で死なせる訳にはいかんのだ!」

「一族?」

女騎士ジョゼフィンは「しまった」とでもいうように、グッと口を締める。

奇妙な言動だ、と疑念を抱きつつ。ジュードは取り急ぎ、崖の状況を一瞥した。

目のくらむような断崖絶壁。各所に、強靭な根や蔓を持つ植物が張りついている。

「此処から墜落したと? 逃走じゃなくて?」

伝令の少年がギュッと目をつぶり、耳まで赤くなりながら、モゴモゴと説明した。

「あの、『逃走』じゃなくて『消失』で。さっきは、どもってしまって」

ローガンがジュードの隣へ立ち、断崖絶壁をのぞき込む。

「そこだな」

人ひとり墜落した痕跡が、密集した緑の中の微かな乱れとなって、残っていた。

はるか下で突き出した平面には、風化した落石が散らばっていたが、考えられうる限り最悪の何かは、無い。

「蔓で落下が止まったか……生存してる筈だ。こんな谷間じゃ、暗くなるまで間が無い。行くか、ジュード」

「応」

ローガンとジュードのコンビは、熟練の作業を始めた。いつもの荷物袋から、種々の特殊道具を取り出す。

使い慣れた金属楔を、ハンマーで、深々と岸壁に打ち込む。手ごたえを確かめた後、ジュードはロープを通して特殊な結索を仕掛け、ゆっくりと体重をあずけた。

別のポイントにも打ち込んでおいたロープ連携中の金属楔を、ローガンが確認している。やがてローガンは頷き、断崖絶壁の懸垂下降を始めたジュードへ向かって、無言で親指を立てた。

*****

先ほどから絶句していた女騎士ジョゼフィンが、やっと口を開いた。

「何なのだ、あの2人?」

毒見役の中年騎士が、訳知り顔で応じる。

「あのコンビに掛かって無事だった城壁や防壁は、たぶん無いな。『狂気の石壁』は試してないが。アカデミー学園闘争の時に敢えて指定しても良かったかな、裏をかく形になって、例の『ツルッパゲ野郎』を退治できたかも知れん」

「ツルッパゲ野郎?」

「忘れてくれ、女騎士ジョゼフィン。過去の話だし、結局、仕留め損ねた」

やがて、崖の上で待機中だったローガンが「よし!」と気合を入れ、近くのシッカリした岩壁に、新しく金属楔を複数、打ち込んだ。支点を増やして負荷を分散するためだ。新しくロープを通して連携させ、長く長く垂れる端を、手際よく崖下へ送り込む。

若干の間を置き、各ロープがピンと張った。ローガンが連携ロープの組み合わせを操り、グイグイと引き上げ始める――相応に重量のある、何かを。

崖下からジュードが姿を現した。

声を押さえながらも、にわか捜索隊の面々がワッと取り巻く。

そして遂に、失神したままのリデルの身体が上がって来た。衣服の端は相応に破れていたが、幾つかの目立つスリ傷を除けば、怪我をしている様子は無い。ジュードの短丈マントが当座の担架となっていて、引き上げるためのロープに結索されてあった。

「お疲れさんだったな、ジュード。何故、担架を?」

「失神してたから……途中の突起で、かすったらしくて。服の背中の方が、大きく破けてたもんで」

ローガンのねぎらいに軽く応じたジュードであったが。それでも、救助活動の疲れが一気に出て……大きな息をついて、少しの間へたりこんでいたのだった。

いつしか夕陽が傾き、辺りは黄金の暮色の中に沈みつつあった。

(5)そして不思議に近づきゆく心

「珍種ハーブを見つけて、採集しようとしたら足元が崩れて、崖の下に落ちた、というのか?」

女騎士ジョゼフィンと、毒見役の中年騎士から訳を聞いて――金髪青年ローガンは、呆れかえっていた。

中年騎士が顔をしかめて、ぼそぼそと呟く。

「済まんな。元は私が原因だ。例の毒物の色に染める過程は、女騎士ジョゼフィンも手伝っていた作業だが、一部が再現できなくてな。リデル嬢が崖の近くで原料を発見し、必要な処理を教えてくれた。ついでに珍種とやらも発見して、あとはご存じの通りだ」

「研究者気質ってとこで共通してるな」

さらに呆れるローガンに、女騎士ジョゼフィンが生真面目に頷く。

「だから天然のトラブルメーカーであります、ローガン殿。あの珍種、命を懸ける価値がある」

「崖の上から墜落し、失神して、なお必死で握り締めるだけの価値が?」

「御意」

聞き取りが一段落したところで、それまで沈黙していたジュードが、新しい質問を投げた。

「女騎士ジョゼフィンの言う『一族』とは? リデル嬢に関係が?」

「それは明かせない。王国の法に反してはおらぬが、沈黙の誓いを立てているゆえ」

壮年の女騎士は、堅く口を閉ざした。

夜の帳が降りる。

リデルのコテージの窓辺で――少し不思議な位置取りで――ランプの光がほのめいた。

ランプ芯を切ったり各種ハーブを整理したり、日常作業に必要ということで、ジュードが弾いていた最初の短剣のみ、リデルの手に戻されている。

ジュードは、そのランプの光を、長い間見つめていた……

…………

……夜が更けても眠れないまま、ジュードはボンヤリと、野営地を照らす篝火のひとつに目をやった。

近くの切り株の面に、眠気覚まし用のチェスセットがある。夜目の利く馬たちが、林間の囲いの中でグルグル散歩を楽しんでいる。蹄鉄が地面を踏みしめる、リズミカルなささやき。

気もそぞろに、白のビショップ駒を拾う。トップは水瓶に似た造形。クイーン駒に似た流麗なラインで、水瓶を頭に乗せた乙女を連想させる。

そのまま手の平の上で、コロコロ、コロコロと転がす。

心に思うのは、断崖絶壁に張り付く緑の蔓の中、あっけらかんと失神していたあの娘の事だ。

着衣の背中部分が派手に破れていた。岩壁の突起に引っ掛けたのだ。かすり傷で済んだのは、市井の頑丈な胴着のお蔭。

普通に、肩に担ごうとしたのだが。剥き出しになった背中が目に入って……

――火傷痕というのは、これか。

引き攣れて醜く変色した皮膚。ゾッとする程の面積に広がっていた。よく命があったものだ。

『夫人と令嬢と共に、ブランドン侯爵は、アクシズ領を訪問していた。余談ながら、アクシズの丘の天文台の火事騒ぎがあった』

『ブランドン侯爵令嬢が火事に遭ったという話は無かったような気がするんだ』

……何かが引っ掛かる。

『御母堂に似て、お小さい頃はよく熱を出されて、ハラハラさせられておりましたが』

母親ブランドン侯爵夫人は病弱な女性だったのだろう。今のリデル嬢は……?

――女ビショップ・リデル。あの緑の目の奥に、どんな斜め上の謎(リドル)を隠しているんだ?

ジュードは、いつしか、白ビショップ駒を固く握りしめていた。

「……、おーい、声届いてる? サー・ジュード」

ジュードは飛び上がった。飛び上がりざまに、振り返る。

豊かな黒髪に鮮やかな緑の目をした娘が、例のコテージの窓から手を振って、ジュードを呼んでいた。

「レディ・リデル?」

「普通のリデルで構わないわよ、命の恩人だもの、サー・ジュードは」

「言ってませんでしたっけ? オレ『サー』じゃ無いですよ」

「でも称号持ちでしょ。国王と女王が……玉座の間? キラキラしているところ……」

リデルは窓越しにジッとジュードを見つめ、首を傾げて……緑の目が、不意に、文字通りテンになる。

「あれが『過去』じゃ無いなら……あんなにハッキリ確定してる風なのに『未来』なの?」

「何の話ですか?」

「何でも無いわ。それはそうと、明日の朝、騎士ルーファスとグレアムに伝言お願いできる? 蝋燭を持ってたと思うの。蝋が……蜜蝋が必要だから貰いたいって」

「お安い御用。量が足りなければ、こちらからも提供できますが、何に使うんです? 放火とか?」

途端に、緑の目が輝きを失った。視線が泳ぎ、窓枠に掛かっていた細い手が震え出す。

血の気を失って震える手から、伝わってくるのは……恐怖。

「放火は……無いわ。絶対に」

「悪かった、済まん」

ジュードは、震えるリデルの手を握った。

背中の火傷痕が関係しているのは明らかだ。リーダー・ヴィンセントの話を考えると、火事に遭ったのは6歳ごろ。

――どれほど恐ろしかっただろう。

気が付くと……ジュードは、リデルの手の甲に口づけをしていたのだった。

お互いに何をしているのか分からず、呆然とするままに再び面(おもて)を上げて、窓越しに見つめ合う。

リデルの頬は上気していた。宵をわたる微風にさえ、露を帯びて震える花のような、壊れやすくて繊細な――

真夏の木々の万緑よりもなお鮮やかな緑の目が、至高の宝石のようにきらめいている。

いつもは器用なジュードの、もうひとつの手の指の間から、白ビショップ駒が転がり落ちて……無粋な音を立てた。

――カラン。

いつになくジュードは、焦るままに白い駒を拾い……侯爵令嬢に一礼することも失念したまま、その場を立ち去ったのだった。

*****

その日の朝。

リデルのコテージの前で、大鍋が火にかけられ、グツグツと煮えたぎっていた。

沸騰した大鍋の中で、大振りな耐熱容器に分けて収めておいた、数セットの蝋燭が溶けてゆく。

湯煎されて純度を増した蝋を、リデルの助手を務める女騎士ジョゼフィンが、雑多な大鉢の数々に移していた。

リデルは、大鉢の中の蝋が冷えて固まらないうちに、例の珍種ハーブを砕いて加工した粉末や種々のオイルを練り込んでいった。大鉢は作業台を次々に埋め、中身を熟成し始める。

野次馬と化した伝令の少年たちが、興味津々で呟いている。

「なんだか、魔女が大鍋の中で怪しい何かを合成してるみたいだなぁ」

「オレ、知ってる。あの軟膏を体に塗れば、ホウキに乗って空を飛べるようになるんだ」

「アカデミーでコテンパンに論破されてっぞ、そのアホな狂信者の論文」

やがて、遠巻きにして見物していた野盗騎士団の面々の、並びが分かれた。

修道女のような、旧式ヴェールのシニア女性。だが、堂々とした所作や、ヴェールの端から見える着衣は、修道女の其れでは無い。明らかに高位の貴婦人だ。

脇にアガタ夫人が控えていて、その謎の貴婦人に、ヒソヒソ話しかけている。

「……さようでございます。昨日、確認に参りましたところ、ブランドン侯爵さまが、おっしゃって……」

一段落ついたリデルと女騎士ジョゼフィンは、当惑するばかりだ。疲れて大汗をかいていて、淑女の礼をするどころでは無い。

微妙な沈黙と緊張。

しかし、その謎の貴婦人は鷹揚な笑みを見せた後、アガタ夫人と共に身を返して、元の方向へ立ち去って行った。

*****

……その日の天候は、1日、どんよりとした雲に覆われていた。

野盗騎士団では、リーダー・ヴィンセント不在がつづいている。

夕方も近くなると、海から来る風が強まり、次第に荒れ模様になっていった……

*****

天候が崩れ出した、その日の夕方。

リーダー・ヴィンセントの留守を預かる側近たちは、倉庫の中で、困惑しきりだ。

「ホールデン子爵、身代金を全額、用意できたのか? この短期間に」

意外そうなローガン青年と、疑問顔のジュード青年。

倉庫の中心に会計担当が居て、せっせと記録しているところだ。

「不正蓄財と思しき金の延べ棒、教会&アカデミーで開発研究している筈の高価な永年インク、天然石の絵具、何故か銘が削られた宝飾品の数々……過去の未解決事件の盗品記録や横流し記録を調べれば追跡できるかも知れない」

「教会&アカデミーからの盗品もあるとは。例の『ツルッパゲ野郎』と結託しているのかね」

興味津々で顔を出していた毒見役の中年騎士が、穏やかならぬ笑みを浮かべた。

注意深く検算を済ませた会計担当が、ローガンとジュードを振り返る。

「全額、用意されたのは確かだ。令嬢をホールデン子爵へ返さなければならないだろう。ホールデン子爵の要求どおり、単独で。従者3人分の身代金は無いから」

「あのお姫様は、何も言わずに承知するだろうな。自分ひとりで済むなら、と」

ローガンがボソッと呟き、ジュードは顔をしかめて、あらぬ方を向いた。

*****

ローガンとジュードの予想どおり、リデルは、あっさりと話を承諾した。翌日の出立準備のため例のコテージに引きこもったままだ。

別の拠点のコテージに引き続き拘束中の従者3人と、拘束した側の野盗騎士団の面々は、お互いに気心が知れて来るにつれ、困惑しながらも良好な関係となっていた。相変わらず腰紐つきだが、監視はゆるくなっていて、ほぼ『客人』扱いである。

リデルの警護を務めていた騎士ルーファスは、ローガンとジュードの剣の腕前に感心して、お互いに技量を磨き合う仲だ。

騎士ルーファス、ローガン、ジュードの間で軽く一戦交えて休憩に入ると、程よいタイミングで女騎士ジョゼフィンが声を掛けた。ズッシリとした麻袋を抱えている。毒見役の中年騎士も同じ麻袋を運んでいた。腰紐を握る監視役ではあるが。

「リデル嬢の差し入れだ。先ほど熟成に成功したのでな」

訳を知る騎士ルーファスと老御者グレアムが、2人とも息を呑み、麻袋の中をのぞき込む。固く蓋をしてある大鉢が10個以上。

「あの『黒魔術封じ』か! よくこれだけ作れたな」

「例の珍種、古文書の戯言(タワゴト)と思っていたがな。ここ数日のうちに大きな黒魔術の展開があるそうだ。剣と盾に、シッカリ塗り込んでおくのだ。質と量があるから、甲冑にも。他の道具にも塗っておくと良い、錆止めのための蝋引きと思って」

疑問顔のローガンとジュードへ、毒見役の中年騎士が解説を始めた。

「王都大聖堂の宝物庫からの配給でしか手に入らない、伝説の『黒魔術封じ』なんだ。効果は、教会&アカデミー共同開発の後発品どころじゃ無い。『聖別の盾』を作り出すアレ、リヴェンデル女子修道院のシスターたちが伝承しているそうだ。リデル嬢はシスター・G・エルダーの優秀な生徒だとか」

「ちょっと待てよ」

ローガンが不意に、琥珀色の双眼を光らせた。

「騎士ルーファス殿、最初の時『聖別の盾』をあらかじめ用意してたな? 長剣も、あの戦斧や光煙を多く受けておいて、ダメージは軽かった……異常粉砕してなかった。ずっと前から黒魔術に気付いて、用意してたのか? 黒魔術への対応、慣れてるのか」

「いや、『予知』があって準備してたんだ。『一族』の――」

「ルーファス殿!」

女騎士ジョゼフィンの声が尖った。騎士ルーファスはハッとした顔になり、口を閉じた。

ジュードの中で、恐るべき予感が固まった。『過去』と……『未来』。

「その『一族』というのは、『透視』や『予知』の……あの異能の、伝説の一族か? リデル嬢が?」

「戯言(タワゴト)だ。直系は既に断絶した。かの狂信者の手によって。狂信者が死んだ後も、その高弟たちが『魔女の一族』と名付けて血眼になって探し回っているが、この世の何処にも直系の血筋は存在しない」

その時、扉が開いた。

ハッとして振り向く一同。

そこには――あの謎のヴェール姿の、威風堂々とした高位の貴婦人が佇んでいた。

「時が来たら、私から説明しましょう。その『黒魔術封じ』、大いに活用なさい。ご苦労でしたね、リヴェンデル聖騎士ジョゼフィン・フレイザー殿、王都法騎士ルーファス・グレンヴィル殿」

(6)饗宴の大広間~幕が切って落とされた

翌日は、朝から暴風が荒れ狂った。

海から押し寄せて来る壮大な黒雲の群れは、この辺り一帯に、唖然となる程の雨量をもたらすだろう。

天候の変化を熟知する地元の領民たちは、早朝から、嵐への対策に追われていた。

城下町の大通りを、ホールデン子爵の花嫁の婚礼馬車が行く。その豪華絢爛な馬車は、あわただしく行き交う領民すべての注目をひいていた。

警護するのは、華麗な薔薇色甲冑に身を包んだホールデン子爵と、同じく薔薇色甲冑に身を固めた親衛隊だ。

最初、野盗騎士団の拠点の近くまで実際に出迎えに来た勇敢な騎士たちは、装備も揃っていない下っ端のほうだった。城下町まで来ると、下っ端は不要とばかりに追い払われ、メンバーがごっそり入れ替わった。

――このようなやり方で、ホールデン子爵は、宮廷向けの『高潔な人物』という評判や華やかな経歴を捏造して来たのだ。

やがて、花嫁の馬車が城館に到着した。

城館の扉の前で、花嫁が下車する。上半身は分厚いヴェールで隠されていた。

「ブランドン侯爵令嬢。我がアバラ家にお越しいただき、恐悦至極」

ホールデン子爵は、華麗な甲冑に身を固めてなお、ふくよかな体型が透けて見えるシニア男だ。

その脇には、婚礼の儀を担当する禿頭の老司祭が居た。贅沢な薔薇色の法衣をまとっている。

ふくよかなホールデン子爵の体格と、禿頭の老司祭の枯れ枝のような体格は、並べて見ると、見事な極端である。

ホールデン子爵は、うら若き花嫁のヴェールをめくって、歓迎の口づけをしようとしたが……断念した。

折からの暴風でヴェールがめくれ上がらないように、花嫁の手が、端をきつく握り締めていたのだった。

ヴェールの中で、リデルは、禿頭の老司祭に怪異な印象を抱いた。

その禿頭は、光輪が異様にテカっていた。黒魔術の力を帯びた、不気味な光煙のような光沢だ……

*****

日没の空を分厚い雷雲が覆い尽くし、暴風雨が始まった。

だが、華麗なゴシック風の城館の大広間は、幾つもの贅沢な照明器具に火がともされていて明るい。

いよいよ城主ホールデン子爵の婚礼の儀が近づき、贅沢な料理の周りに大勢の賓客が集い饗宴たけなわである。

「今宵はめでたい日でございますな、ホールデン子爵! うら若き花嫁に乾杯!」

贅沢な衣装をまとう賓客の数名が、置き物のひとつに目を留めて大声で喋り出した。

「これは見事な古代機械、大型の天文時計ですな。各軌道を色分けするのに、惜しみなく宝玉を削り出して造形したと。古代金属と黄金と宝玉……国宝のものを除けば、古代の神秘の一族ゆかりのアクシズ天文台しか所蔵していなかったと聞いておりますよ」

「そう、かの天文台にあったものは、昔の火事の前までは現役で動いていて、暦作成に関わっていたとか」

身分の高い招待客のひとりが、酔いでフラフラになりながら、軽い調子で突っ込む。

「いやはや、ホールデン子爵ご自身が手を下して、アクシズ天文台に放火し中の人を皆殺し、天文時計から何から目に付く貴重な宝物や文物をすべて奪い取った、などという噂がございますが」

ホールデン子爵は呵呵大笑で応えた。

「ハハハ……! 何をおっしゃるかと思えば、クロフォード伯爵どの。その噂を立てたのは、下賤なヤツらの単なる嫉妬ですな!」

「そうそう、ホールデン子爵は、天文台が火事になった時、消火に尽力されていた側であられるのだから」

ホールデン子爵は、自慢話に余念が無い。

「あれは、すべて燃えてしまったから生存者は居ない。高潔なこと王国第一という私が、手を下したというようなフザけた内容など、根も葉もない噂に過ぎない。ハハハ……!」

ホールデン子爵の隣に着座していた花嫁は、ヴェールの下で硬い沈黙を続けていた。金糸銀糸が贅沢に使われた婚礼衣装をまといながら、その手は固く握り締められ、血の気を失って細かく震えていた……

…………

……壮年の上流貴族クロフォード伯爵は、たいていの上流貴族がそうであるように、貴婦人を同伴して饗宴に出席していた。

主だった賓客(男)の同伴女性は、贅を凝らした最新流行の華麗なドレス姿。対して、クロフォード伯爵の同伴女性は、上半身をヴェールで覆う旧式ドレス姿。重厚な雰囲気ながら、乗馬も想定した動きやすい衣装。

その不思議なヴェール姿の貴婦人は、花嫁が饗宴の料理にいっさい口を付けていない様子を見て取り、クロフォード伯爵と、ひそかに頷きあう。

後ろに控えているクロフォード伯爵の忠実な従者が、手品師さながらに、クロフォード伯爵と同伴女性に出されていた葡萄酒グラスを、持ち込みのものに差し替えていた……

…………

……高価な葡萄酒を次々にあおり、程よく酔いが回ったホールデン子爵は、怪異に脂ぎった額をテカらせつつ、「ニヒヒ」と笑いながら、にじり寄った。

「レディ・リデル。リデルで良いでしょうな、これから我々は一糸まとわぬ裸の付き合いになるのだから、ニッヒヒヒ、やはり、うら若い生娘の肌は、匂いも手触りも素晴らしい……」

手を握られ、薄気味悪いやり方で撫でられ、リデルの全身に鳥肌が立った。

舞踏会などで出る痴漢の如く蠢く手は、忌まわしい妖魔を連想させる感触だ。

もうひとつ、リデルの『直感』が、大声でハッキリと、『怪異』と叫ぶ対象が存在する。

城館のあちこちに――この饗宴の大広間の各所にも――贅沢な置き物よろしく陳列されている甲冑アート・コレクションだ。

通常の、実用的な甲冑では無い。神話伝説オカルトの類にハマった造形芸術家が、様々なオカルト幻想的なパーツを付け加えて組み立てた、甲冑モドキの怪物のようなオブジェである。

いずれの甲冑モドキにも、ギョッとするような大きな大斧槍(ハルバード)が添えられている。装飾の偶然なのか、それとも『怪異』ならではの意図があるのか。

リデルの記憶を何度もつつく『直感』があるが、目下、ホールデン子爵の手の、怪異な感触への気持ち悪さが先に立って、それどころでは無い。

ホールデン子爵が、ついに、半ば恐怖に固まったリデルのヴェールを剥ぎ取った。

饗宴に集う大勢の賓客たちの好奇の視線が、花嫁の素顔に集中する。

次の瞬間、上座に近い位置に傲然と着座していた禿頭の司祭が、顔色を変えて立ち上がった。

「その緑の目……!」

枯れ枝のような老人のキンキン声が、大広間いっぱいに反響する。

「ホールデン子爵、『魔女の一族』の黒魔術に惑わされては、なりませんぞ!」

禿頭の司祭は、薔薇色の法衣の袖をひるがえして、花嫁を指差した。禿頭でテカっている光輪が、いっそう黒魔術のような怪異の色を帯びて、脂ぎったように光っている。

「この女は魔女だ。魔女裁判にかけよ。徹底的に火あぶりにして清めるのだ。その緑の目、忌まわしき妖魔契約の、黒魔術の証なり!」

窓の外で、激しい雷光が閃く。

城館全体を揺るがすような、大いなる雷鳴が、とどろいた。

*****

城館から隔離された位置にある、古く陰気なゴシック尖塔。通称『魔女封じ』。

ホールデン子爵と饗宴の酔客たち数名、そして禿頭の老司祭の手によって、リデルは塔の小部屋へ幽閉されてしまった。

饗宴の酔客のひとりクロフォード伯爵は、先ほどホールデン子爵に軽口をたたいたお詫びもあってか、熱心に、リデル幽閉作業を手伝っていた。

小部屋『魔女封じ』扉のロックが済む。

その鍵を渡されて手に持っていたクロフォード伯爵は、急に深酔いが回った様子で、勢いよく扉の脇の大窓を全開する。

暴風雨が吹き込んで来て、全員で仰天だ。雨水が顔面を覆い、各々の腕で顔面をかばう羽目になる。

「クロフォード伯爵どの、何を?」

「酔い覚ましですよ、ファ、ファ、ファ……ハックション! ああ、しまった」

「しまった、とは?」

「踊ってたら、鍵を失(な)くしてしまったみたいだ。この下、おっそろしい断崖絶壁だねえ。地面まで落ちてしまったな」

「何という事を! この世にひとつしか無い鍵を!」

ホールデン子爵は尖塔の螺旋階段を駆け下りて、城館へと走って戻って行った。家来へ命令する怒鳴り声が聞こえて来る。

禿頭の老司祭は、逆に喜色満面だ。落ちくぼんだ眼の奥には、極彩色の狂気が浮かんでいた。

「素晴らしいィィ! クロフォード伯爵に祝福を。あとは火を付けて、徹底的に燃やすのみ! 忠実な薔薇色聖騎士たちよ、油を、薪を、ありったけ持って来りゃれ!」

踊り狂いながら、禿頭の司祭は、尖塔の螺旋階段を駆け下りて行った。

そして、クロフォード伯爵その他の酔客も立ち去り、扉の前には誰も居なくなった。

*****

「落ち込んでいる時間は、終わりよ」

数刻ほども経過したと思われる頃、リデルは勢いよく椅子から立ち上がった。

瞬間、再び激しい雷光が炸裂し、口を引きつらせて硬直する。畏怖すべき大自然の猛威。

リデルは窓辺に近寄った。窓枠は木製だが、モノが良く、驚くばかり頑丈だ。

外側から封印してある鉄格子に当たって、窓は、それ以上大きく開いてくれない。暴風雨の圧力が、外から窓を閉じようとしている。リデルは踏ん張ったが、息が乱れた拍子に手の力が抜け、窓はビックリするような音を立てて閉じた。

完全に閉まり切る前の、その一瞬。

不思議な金属音が、長く残響した。

よく見ると、両開きの窓が、金属製のカギ爪を挟み込んでいる。

リデルが窓を開いていた間に、偶然に風雨の加速を受けて、内側へ飛び込んで来たのだ。窓辺を形作る段差に、カギ爪がシッカリ掛かった形になっている。

カギ爪のもう一方の端は、窓の外に飛び出している。端には孔があり、ロープが堅牢な結索を作っていた。そのロープは、端が長く長く延びていて……この尖塔の、はるか下まで垂れている。

――金属楔の一種? 忍者の道具?

目の前に出現した存在の意味が分からず、リデルはポカンとするばかりだった。

*****

ゴシック尖塔を構成する『狂気の石壁』。次の取っ掛かりが見つからず、難儀していたジュードとローガンは……いきなりの手応えに仰天した。

窓の鉄格子に金具が掛かってくれれば……と、この暴風雨の中、ほとんど邪道な、成功率の低い賭けに打って出たところだったのだ。

「成功したらしい」

「……何だと?」

再び突風が吹き、2人は滑落しそうになる。新たに掛かったロープは、命綱と同じくらいの確かな強靭さで、見事2人の体重を支えた。

「信じられんな」

ローガンは首を振り振り、複雑な組み合わせになっていた数多の連携ロープを一部回収した。別棟へつづくロープを残しておく。

この後は、単純な登攀となった。

一気に鉄格子窓まで到達する。

窓辺に置かれていたランプの光の中、リデルが緑の目を大きく見開き、口に手を当てていた。

(7)逃走する者、追撃する者~黒魔術の怪物たち

ホールデン子爵は、城館の中庭に家来を集め。雷鳴と暴風雨が殴りつけてくる中、大声で号令をかけた。

ゴシック尖塔『魔女封じ』扉の鍵を探し出すのだ。

――うら若い生娘の肉体で、あらん限りの『特殊性癖』を楽しむために、何としてでも。

次の雷光が、闇夜を照らした瞬間。

城館の中庭の向こう側――城門が、つづく雷鳴と調子を合わせたかのように、大きく開いた。

「何だ!」

ホールデン子爵が目を剥く。薔薇色甲冑で固めた家来のひとりが大声を上げた。

「何をしておられる、裏切ってるのか、クロフォード伯爵!」

勝手に城門を開いたのはクロフォード伯爵だ。壮年の上流貴族はいつの間にか、王国騎士の甲冑姿をしていた。

「裏切っているのではなく、表返っているのだ。済まんな」

人を食った言い方ながら、クロフォード伯爵の眼差しは冷静沈着である。

入城して来たのは、あの野盗騎士団だ。

ホールデン子爵が仰天のあまり飛び上がり、ひときわ威風堂々とした馬上の騎士を指さして、叫ぶ。

「ききき貴様は……野盗ヴィンセント!」

「余の顔を見忘れたか、ホールデン子爵!」

再び雷光が閃き、辺りは真昼よりも明るくなった。

野盗らのマントの下に、王国騎士の甲冑。装着している盾は、王国の第一騎士団の紋章盾!

「国王ヴィンセント陛下!」

「皆の者、禁術・黒魔術の盗賊団の首領、ホールデン子爵を捕縛せよ!」

「誤解だ! デッチ上ゲだ!」

「奇岩街道に出現した黒魔術、大斧槍(ハルバード)の狂戦士が証言した! いさぎよく縛に付け!」

第一騎士団が、ホールデン子爵と、彼を取り巻く薔薇色甲冑の集団へ向かって、殺到する。

中庭は、混戦と捕縛の場となった。

捕縛が進行中の中庭の端で、クロフォード伯爵と、毒見役の中年騎士が情報交換を始めた。

「貴殿の言う『ツルッパゲ野郎』が居た、饗宴の場に。昔の『赤党』『白党』を統一した証としての、薔薇色の法衣で」

「何ですって?」

「リデル嬢の天然のトラブルメーカー気質、ヤツを白日のもとに……いや、雷光のもとに釣り上げた訳だ。あやつ、リデル嬢を『魔女の一族』として、魔女裁判にかけると宣言していたよ」

安全な回廊で待機していた、あの謎のヴェール姿の貴婦人が出て来た。ヴェールを上げて素顔を見せている。野盗騎士団の野営地に現れた、威風堂々としたシニア貴婦人だ。貴婦人は、第一騎士団の別動隊の面々に、テキパキと声を掛けた。

「急がなければ。かの狂信者の第一の高弟、リデル嬢の『血筋』を瞬時に判別しました。枯れ枝のような姿になったとは言え――アカデミー学園闘争の際に、魔術的逃走の禁術を使った影響でしょう――なお王国随一の黒魔術の使い手です」

「枯れ枝? あやつ、確か、ハンプティ・ダンプティ並の肥満体だった筈」

「どれだけ捜索網を広げても発見できなかった訳だよ、毒見役どの」

*****

古いゴシック尖塔『魔女封じ』の窓を封印している鉄格子は、教会の『赤党』『白党』党争の頃に、新たに取り付けられた構造物だ。鉄格子には、永久に暴走するタイプの黒魔術が仕掛けられていた。

「ホントに幸運だったな。『赤党』『白党』全盛期の頃の邪悪な鉄格子じゃ無くて、それより古い時代の堅牢すぎる窓枠のほうに、金具が引っ掛かって」

金髪青年ローガンが、いまだに怪異な火花と光煙を発する短剣を眺めて、呆れていた。

鉄格子を切断しようと、短剣を触れた瞬間に、黒魔術ゆえの怪異が起きたのだ。防護を施していなかったら、あっと言う間に錆びたようにボロボロになって、異常粉砕していただろう。

「この鉄格子、外から鍵が掛かってるし、この鍵穴に普通の金属が突っ込めないとなると……」

ジュードは、雨水で垂れて来た茶髪を再度かき上げ、鉄格子を隅々までチェックし直す。

不意に、リデルの『直感』が急に閃いた――『鍵』?

扉の近くに、何かがある。リデルは振り返り、すぐに気付いた。

上質な絹のハンカチでくるまれた、明らかに黒魔術仕様の『鍵』が落ちている。

「黒魔術の鍵があるわ。気を付けて。このハンカチの刺繍、何処かの紋章ね」

「この紋章、クロフォード伯爵のだ。クロフォード伯爵領にも港へ通じる運河があって、ホールデン子爵と取引していて……王都から離れたところに豊かな領地を持っていて、面従腹背の噂も。リーダー・ヴィンセントいわく、ただでさえ人を食ったような言動をする人だとか」

「だけど、黒魔術の鍵に、ハンカチ越しで、直接には触ってないわね……?」

「決まりだな。クロフォード伯爵は、こっちの味方だ。特別な内偵かも。試してみよう、ジュード」

ローガンはハンカチ越しに慎重に鍵を持ち、鉄格子の鍵穴に突っ込んだ。

カチリという、確かな手ごたえ。

「開いた!」

その時、扉の隙間から、焦げ臭い黒煙が噴出し始めた。明らかに火事の気配。

一斉に注目する3人。

真相はすぐに判明した。扉の外で、禿頭の老司祭のキンキン声が響いている。耳を澄ますと、尖塔の螺旋階段を行き来する集団の足音も。

「正義の火炙りじゃ、火刑じゃ! 薪を突っ込め、そっちの油も注げ、全部だ! おぉ、爆薬も持って来たのだな、察しの良いそなたに、あらん限りの祝福を。われらが真にして聖なる神の名において、この尖塔ごと、かの忌まわしき緑の目の『魔女』を、粉々に粉砕して、地獄の底まで燃やし落とすのだ!」

「あのバカ、爆薬に火を付けるぞ!」

鉄格子は、跳ね上げ戸と同じ形式で大きく開いた。ローガンが鉄格子を上げたまま押さえ、ジュードがリデルへ向かって手を差し伸べる。

全開となった両開き窓から、リデルは身を躍らせた。ジュードが受け止める。

3人はロープの端に取り付き、飛び降りた。

凄まじい衝撃が扉を吹き飛ばし、まばゆい爆炎と共に襲って来る。

昔の名工による『狂気の石壁』――窓枠は耐えた。金具ごと。

長く垂れたロープは次の瞬間、3人分の体重を抱えてピンと張った。ブランコの要領で大きく揺れ始める。

ゴシック建築にお馴染みのフライング・バットレスが林立する間へと、意外なほどに、ゆっくりと――揺れてゆく。

この状況のせいか、過敏になったせいか、リデルの『直感』は、緊急的に全開となっていた。

――爆発が収まった『魔女封じ』の小部屋へ、あの禿頭の老司祭が飛び込み、真相を悟って烈火のごとく怒り狂っているのが『見える』。薔薇色の法衣の袖をひるがえし、手に刃物を持って、ロープを――

「ロープが切れる!」

リデルは叫んだ。

3人の前に、別の組み合わせのロープが迫って来た。フライング・バットレスの各支点に打ち込んであった金属楔と連携しているものだ。

「行け!」

ローガンの指示が飛ぶ。

ジュードはリデルを抱えたまま、ローガンと息を合わせて、一斉同時に今までのロープを放り、目の前に迫って来た別のロープへと、渡っていった。

フライング・バットレス沿いに斜めに張られたロープを、3人は少しの間だけ滑り、別棟の屋根へと到達した。

今までのロープは、尋常に、はるか下の地面へと落下して行った。無人の状態で。

禿頭の老司祭が地団太を踏み、妖魔のような奇声を上げた。薔薇色の法衣姿が、尖塔の螺旋階段を駆け下りてゆく。

古いゴシック尖塔は、端々から黒魔術ならではの怪異な色をした炎の舌を出しつつ、燃え落ちた。

*****

城館の各所で、出会い頭の剣戟がつづいていた。

進撃するのは国王ヴィンセント率いる第一騎士団。

防戦するのは、ホールデン子爵に与する――狂信者の高弟である禿頭の老司祭に忠実な――薔薇色聖騎士団。押され気味だ。

「あのホールデン子爵のクソが。至高の栄誉栄達の術(すべ)を、授けてやったものを」

禿頭の老司祭は、忌まわしい呪文を叫んだ。余りにも忌まわしく、人類の言語では、とうてい説明できない呪文を。

異形の陳列物『甲冑アート・コレクション』が、一斉に動き出した。大斧槍(ハルバード)を構えて。

兜から異形の翼や角が飛び出しているもの。胴体部の背中から妖精の羽を生やしているもの。神話獣との合体モノ。三ツ頭の兜を持ち6本の腕が生えているもの。

いずれの甲冑モドキも、全身、邪悪な記号を組み合わせた暗色の刺青(タトゥー)だらけ――いや、異形の紋様だらけだ。街道を荒らした、大斧槍(ハルバード)の狂戦士のように。

甲冑モドキの振るう大斧槍(ハルバード)が、異臭の光煙を噴出しつつ、襲い掛かる。

新参騎士のひとりが手持ちの盾を掲げた。

大斧槍(ハルバード)を受け止めた通常の盾が、瞬時に錆びたようになって異常粉砕する。

「く、黒魔術の怪物め!」

「お任せを」

女騎士ジョゼフィンが長剣を振るった。伝説の『黒魔術封じ』をまとう刃だ。

黒魔術の大斧槍(ハルバード)を受け止めた女騎士の長剣は、怪異の火花を散らしたものの、異常粉砕せず……2回目の太刀筋が、甲冑モドキの兜部分を破壊する。

異形の爆裂音と怪異の蒸気。

砕けた兜部分から、ドロリとした何かが、こぼれ落ちた。人類の脳ミソに似た何かが。

甲冑モドキは、動力源を失ったかのように動かなくなった。バラバラの防具パーツに分解してゆき、石床へ崩れ落ちる。中身は空っぽだ。

女騎士ジョゼフィンにつづく、訳知りの野盗騎士団そのじつ第一騎士団の面々が、目を剥く。

「……脳ミソを食らう妖魔契約の、アレか!」

「妖魔契約をしていたとか言う大斧槍(ハルバード)の巨漢、50回かそれくらい、頭をすげ替えたとか?」

「各個撃破しろ! 甲冑モドキの数は多くても、敵は、差し引き50人ないし60人の戦力だ!」

*****

ふくよかなシニア男ホールデン子爵は、老司祭から秘密裡に入手した『魔術的逃走』を使い、厳重な包囲を突破して、逃走に成功していた。

次々に捕縛されてゆく家来の全員を見捨てて。

禁術の代償は大きかった。

「チクショウ、走りにくくて、しょうがない!」

凄まじいばかりの、身体の違和感。

この世で何よりも愛する、秘密の宝物庫へつづく贅沢な回廊『鏡の間』へと走り込む。

ホールデン子爵は、不意に、回廊にならぶ装飾鏡に映った自らの影姿に、不審を覚えた。

反対側の窓の外で、再び青白い雷光が閃き、真昼のように明るくなる。影姿が、いっそう明瞭に映し出された。

ホールデン子爵の絶叫が響きわたった。

(8)クイーン・サイド・キャスリング

リデル、ジュード、ローガンの3人は、開いていた窓から城館の一角と入り込んでいた。最初に馬をつないだ城壁沿いの樹林帯まで、もう一息。

3人が、しばしの休息を挟んだ後、回廊を走り始めると……

再び青白い雷光が閃くや、恐ろしい絶叫が回廊じゅうに反響したのだった。

「あれは何?」

絶叫の音源へ接近すると、回廊が豪華絢爛なものに変わった。贅沢な装飾鏡が連続している。時折り閃く雷光を受けて、そこは御伽噺の宮殿のように、幻想的にキラキラ光る空間となっていた。

行く手に、三ツ頭と6本腕を持つ甲冑モドキが立ちはだかった。天井に届くほどの巨体。

「気を付けろ、ジュード! 中に人が居ないのに動いてるぞ」

「あの大斧槍(ハルバード)……黒魔術か!」

甲冑モドキは、右3本、左3本ずつの各々の手先に、ひとつずつ大斧槍(ハルバード)を構えている。

ローガンとジュードの手持ちの武器は、小回りの利く短剣のみだ。だが、即座にリデルを背中に回して、戦闘態勢を取る。

甲冑モドキは、6本の大斧槍(ハルバード)を振り回して突進して来た。

互いの太刀筋が連続して激突し、怪異な火花が飛んだ。異臭の光煙が噴き上がる。

到達域(リーチ)の短い短剣は、大斧槍(ハルバード)との接近戦において圧倒的に不利だ。しかも、中の人が居ない――致命傷の基準が違う――という異常性が、戦況判断を狂わせる。

不意に、リデルは正解に気付いた。記憶がよみがえる。

――この甲冑を動かしているモノは、最初に街道で襲って来た、あの大斧槍(ハルバード)の巨漢の、複製(コピー)だ!

「妖魔契約! すげ替えてた頭の脳ミソを使ってるんだわ!」

再び大斧槍(ハルバード)が大回転し、ジュードは身を沈めて回避した。大斧槍(ハルバード)の刃が回廊の壁に食い込み、貫通するかのような深い断裂を作る。

ローガンが、腰に巻いていたロープを解いた。先端には、あらかじめ結索済みの金具がついている。

「行くぞ、ジュード!」

無言の了解。

ジュードが甲冑モドキに急接近した。懐まで飛び込みそうな勢い。

挑発に誘われた甲冑モドキは、より大きく身をねじって前進した。踏み込みが浅い。

ローガンが金具付きのロープを床スレスレに放った。

屈曲部にできた防具パーツの隙間に、金具の爪が掛かる。『黒魔術封じ』を塗り込めてあった金具は、派手な火花を放った。

甲冑モドキは関節部にダメージを負ったかのように、滑らかに動かなくなる。

再び大斧槍(ハルバード)が舞い、刃先をかわしてジュードは飛びすさる。距離を取りがてら、ジュードも、金具付きのロープを甲冑モドキの腕の1本に絡みつかせた。

次の一瞬、それぞれのロープに力が掛かる。2種類のアサッテな方向に引っ張られた巨体は、身をねじり、ドウと横ざまに倒れた。

ローガンとジュードは、同時に殺到した。甲冑モドキの三ツ頭を狙う。

派手なアートとして作られていただけの薄い兜は、あっさりと刃を通した。怪異な火花が散る。

刃が通った孔から、人類の脳ミソに似たドロリとしたモノが溢れた。なおも異臭の光煙を噴出しつつ、ブクブクと泡立つ。

いつしか、野盗騎士団あらため第一騎士団の先発隊が、集結して来ていた。

「……お見事……!」

次の一瞬。

リデルは後ろから身柄を拘束された。

首筋に、冷たい刃。

「終わらん、私は此処では、まだ終わらんぞ!」

「ホールデン子爵……!」

リデルを人質として拘束したのは、ホールデン子爵だ。

彼(か)の姿を見た者すべてが、息を呑む。

ホールデン子爵の姿は、変わり果てていた。

左半身のみが枯れ枝のような姿だ。ふくよかなシニア男の右半身と――枯れ枝の左半身。その、あまりにも異様な落差が同時併存する姿。

もはや死に物狂いのホールデン子爵は、自らの異常な『特殊性癖』を爆発させていた。

「魔女裁判にかけられた生娘の血を浴びれば、元通りの姿になれる! 鏡よ鏡、そうとも、いつものように肝臓(キモ)を食えば、私はいつまでも若々しく居られるのだ!」

「現実は何処かの御伽噺じゃないわよ!」

「だまれ! おとなしく我が血と肉になるが良い。その緑の目、先ほど思い出したのさ! こんな姿になってから気付くとは思わなかったがな。アクシズの天文台で――あの炎の中から、私を睨みつけていた、宝石よりも見事な緑の目の、ガキが居た、とな!」

次の瞬間、先発隊の面々の並びが、不意に分かれた。

左右に別れた人波の間から、ヴェール姿の、威風堂々としたシニア貴婦人が姿を現した。ヴェールは大きく上げられていて、素顔が分かる。

見えるのは、素顔だけでは無かった。頭頂部まで見える。その頭頂部は、見間違いようの無い――王室伝統の宝冠を戴いていた。

ホールデン子爵が、絶望にうめく。

「じ、女王陛下……!」

それは一瞬の隙だった。ホールデン子爵の、更に背後に立った人影が、小さな短剣で、肥満体の側の脇腹を軽く刺した。

「ななな……!」

ホールデン子爵は、瞬時に「チクリ」と鈍い痛みを感じた。次に、身体全身がグッタリして来るのを覚えた。

長剣が石床に落ち、「ガシャーン」と音を立てる。

拘束が消え、リデルは唖然として振り返った。

そこに居たのは、リーダー・ヴィンセントそのじつ国王であった。しがない(?)野盗騎士団の首領を演じていた王国最高位のシニア男は、ユーモアたっぷりに、ウィンクを寄越して来た。

「狩猟の定番の痺れ薬、定番というだけあって常に頼りになるな。作戦名『クイーン・サイド・キャスリング』、これにて完成だ」

そして、先発隊の面々が、ぐんにゃりとしたホールデン子爵を取り囲み、確実に縛り上げたのだった。

*****

城館の黒魔術の戦いは収束した。

別動隊が、手際よく禿頭の老司祭を拘束していた。

老司祭は黒魔術を使い続けた影響で、禿頭のテカりだけだった怪異な光輪が全身に広がっていた。

怪異にテカる枯れ枝のような体格。法衣を透かして、全身ボーッと光りつづけている有り様は、さながら薔薇色の亡霊である。

老司祭ともども縛られて、『鏡の間』と自称する回廊の隅に転がされたホールデン子爵が、身体全身、痺れていながらも、なおも口だけは元気よく動かしていた。

「此処に居て良いのは、貴族と、称号持ちの騎士だけじゃ! 下賤な庶民が騒いで良いところでは無いわ、『鏡の間』は! そこの地味な野盗あがりヘボ野郎など、まさに庶民だろう! 追い出せ、そうとも、不敬罪で処刑しろ!」

ホールデン子爵が名指ししたのは、ジュードだ。

別に本当のことなので屁でも無いが、ジュードは気が引けるような思いを感じた。第一騎士団として威儀を正した仲間たちと居ると、伝令の少年たちと同じような身軽な年齢立場では無い分だけ――最も信頼する相棒のローガンでさえ、その出自は貴族階級だ。

「おお、そうだった。出発前にやっておこうと思っていたのだが、忘れてたんだ」

いまや王室伝統の宝冠に荘厳された堂々たる姿となった国王ヴィンセント陛下が、ポンと額を打つ。

その隣で、偉大なる女王陛下が首を振り振り、溜息をついて、ブチブチと言い始めた。

「最も大事な部分が抜けるのは貴方の欠点ですよ、ヴィンセント。だから国内の未解決事件が増えて、混乱がなかなか収まらないんです。今回のことだって……」

「それ以降は、ホールデン子爵へのお小言にとっといてくれ。お前のお小言は、大主教猊下の説教などより、長くて正確で細かすぎるからな。私へのお小言を始めたら、私の威厳が減る」

(9)チェックメイトの後の日に

国王ヴィンセント陛下は、真面目な顔で咳払いした。第一騎士団の面々に目線で合図する。

まさか、と言わんばかりに口をアングリしたホールデン子爵の前で。

第一騎士団の面々は、玉座の間にズラリと並ぶかのように、左右に分かれて正式な隊列を作った。一斉に抜刀し、正面に長剣を捧げ持つ。

国王と女王の脇に、この場で最も高位の宮廷重鎮――宰相代理――として、クロフォード伯爵が控える。

ローガンが、戸惑うジュードを先導し、国王と女王の前まで導いた。先輩騎士として。ローガンとジュードは並んで、国王と女王の前にひざまづいた。

リデルは、女騎士ジョゼフィンに付き添われて陪席する形だ。『直感』で見えていたものが目の前の現実となって、絶句するばかり。

国王ヴィンセント陛下が、よく通る声で宣言した。

「いささか遅延してしまったが、このたび勇者ジュードの目覚ましい働きとその功績を称え、騎士(ナイト)の叙爵の儀を執りおこなう。では、剣を」

おすまし顔の女王陛下が、あらかじめ用意していた長剣を、国王ヴィンセント陛下へ手渡した。

ヴィンセントは、まだ当惑した顔でひざまづいているジュードに向かって、かつての野盗騎士団の首領の顔をして、コッソリと楽しそうにウィンクを送る。

国王ヴィンセント陛下は、惚れ惚れするような堂々とした所作でもって、ジュードの左右の肩に、順番に長剣の平を当てた。

最後に、第一騎士団の印付きの鞘に入った長剣が、ジュードに手渡される。

第一騎士団の面々は、新しい騎士の誕生を祝福して、正面に捧げ持った長剣を、更に高く掲げた。そして、一斉に納刀した。

クロフォード伯爵が近づき、ローガンとジュードを立たせた。

「サー・ジュードに、祝福を送るよ。サー・ローガンの最高の相棒と聞いている。これからも励んでくれたまえ」

全身ボーッと光っている禿頭の老司祭と、左右半身ずつ体格が違っている禿頭のホールデン子爵は、ののしり続けていた。

「神が間違っている!」

「わ、私の時は、第一騎士団どころか」

偉大なる女王陛下が鋭く振り返り、説教を始める。

「そなたたちの『神』が間違っているのは、そなたたちの『髪』が間違っているからだと何故に分からないのです、この分からず屋」

禿頭の老司祭と、ホールデン子爵は、唖然とした顔だ。

「そなたたちの不正の証拠を押さえても、証言をする事になっていた証言者が何故か都合よく全員事故死したり不審死したり、不自然な出来事が続きましたからね。常にそなたたちの『髪』の過(あやま)ちは見え見えでしたし、今さら毛根がすべて死滅したところで、自業自得のハゲというものですよ。運よく残った毛根もすべて、ツルリとハゲあがるまで、キリキリ締めて、お尻ペンペンして差し上げますから、観念して覚悟なさい」

禿頭の老司祭とホールデン子爵は、極限まで青ざめ、震えあがった。

後ろでは、いつものくだけた雰囲気になった第一騎士団の面々が、コソコソと言いかわしている。

「死よりも恐ろしいモノを見た、って顔してたよな、あいつら」

「黒魔術を使う時に、妖魔の恐ろしい姿を何度も見てる筈だぞ」

「いったい何を見たんだろうな?」

*****

女王陛下がリデルを手招きした。

「アクシズ天文台の、今は亡き台長夫妻が娘リデル・ゴールドベリ。偉大なる予言者ゴールドベリ一族の血筋を受け継ぐ子孫。そなたの事は、ブランドン侯爵とシスター・ゴールドベリ・エルダーから詳細を聞き及んでいます。このたびは大変な苦労をかけました。実の両親を殺害したホールデン子爵には、含むところ多々でしょう。ですが、彼の扱いは諸機関に任せておきなさい。王国と司法のもと厳格に裁きます」

リデルは頷き、静かに一礼した。

事情を知る女騎士ジョゼフィンと法騎士ルーファスは落ち着いていたが、ローガンとジュード、それに第一騎士団の面々は、仰天してリデルを眺めるのみだ。

ホールデン子爵が叫んだ。

「ウソだ! そんな、田舎の天文台の、目の前の財宝の価値も分からんようなニブイ下っ端役人が、伝説の予言者の血筋……! 百発百中の『透視』の、あの未来予知が手に入るところだったのか! あらゆる財宝を、王国全土を、この手に入れる事も可能な……!」

国王ヴィンセントが思案顔で顎をコリコリとやった。

「余の祖父が全国統一できたのも、ゴールドベリ一族の協力のお蔭が大きいな、実際。シスター・G・エルダーによれば、リデル嬢はかなり確実な先祖返りで、直系の伝説的な『透視』には及ばないものの、今まで『直感』が外れたことは無かったそうだ」

「ブランドン侯爵はバカなのか? アホなのか? 天下が手に入るところを」

「病弱な実の娘レディ・リデルが、訪問先アクシズ領の気候変化に耐えられなかったそうでな、侯爵夫妻ともども到底そんな気にならなかったとか。偶然ながら例の天文台の火事に遭遇し、救出した瀕死の少女は、はかなくなった令嬢と名前が同じだった。面差しも所作も似ていたそうだ、生き返って来たのだと確信するくらいに」

そして――しばしの間、様々な沈黙が横たわったのだった。

*****

一段落ついた数日後。

嵐は過ぎ去っていた。明るい青空の中、白い雲がぽっかりぽっかり流れている。

その日、ブランドン侯爵邸で改めて縁談がまとめられた。ブランドン侯爵家の養女リデル嬢と、第一騎士団の新人騎士サー・ジュードとの縁談である。

「……正直、やっと安心できたような気がするよ。私たちの――娘をよろしく、サー・ジュード」

そう言ってブランドン侯爵は、ジュードと固く握手を交わした。

*****

近いうちに、ホールデン子爵や『ツルッパゲ野郎』こと禿頭の老司祭を含む一味の調査や裁判もろもろで、忙しくなる。

休暇の1日。

ジュードとリデルは一頭の馬に相乗りし、現在は安全な景勝地ともなった奇岩街道を観光していた。

道路整備がどんどん進んでいて、人の足でも歩きやすくなって来ている。主要道路のほうでは、様々な物資を積んだ荷車が多く行き交っていた。

やがて雑談が一段落する。

「シスター・G・エルダーに会って聞いてきた話があるんだ。まだリデルは知らない内容だと思うけど、聞きたい?」

「恩師のシスターの? それなら是非」

ジュードは頷き、思案顔で話し出した。

「本来、リデルは、リヴェンデル女子修道院のほうで引き取って、生涯独身の修道女とする筈だったそうなんだ。剣の腕前があれば、ジョゼフィン殿のように――こっちは結婚は自由だ――女騎士。その件で、ブランドン侯爵夫妻とシスター・G・エルダーとの間で、かなり激論になった。明らかに私情を挟んでいるものの、ブランドン侯爵令嬢として養育するというブランドン侯爵夫妻の強い希望に、損得勘定なしの本物の覚悟を見たという事で、シスターは妥協した」

「……知らなかったわ。シスター、何もおっしゃらなかったから。ブランドン侯爵……いえ、父と母も」

「故・狂信者とその高弟や、ホールデン子爵のような危険人物は多いんだろうな。第一騎士団に所属して、ローガンからも色々な裏話を教わってるけど」

リデルはキュッと眉根を寄せる。

「色々って?」

「王室の裏の口伝、その1。かの『一族』は、国家転覆レベルのドジを踏む、天然のトラブルメーカーと知れ……オレは納得した」

「なによそれ、ひどいわ!」

不意に、濃い緑の樹林を、イタズラな風が吹きぬけた。

いちめんの葉鳴り。一斉に木漏れ日が揺れる。

……帽子を押さえようとして、うっかり落馬しかけたリデルを、ジュードが持ち前の反射神経で支える。

やがて、ジュードが吹き出した。

リデルはむくれながらも、赤面してうつむくのみだ。

ジュードの吹き出し笑いは、低いささやきに変わった。

「いつか、リデルが別のホールデン子爵に拉致されて、『魔女封じ』の塔に閉じ込められたら、また塔を登って、さらいに行くよ。どうやらオレは、リデルを、あらゆる災難から守るために生まれて来たらしい」

真っ赤になったリデルを、ジュードはいっそう強く抱き込んだ。

「好きだよ、リデル」

「あ、あの……私も――」

察しの良い馬は、既に足を止めて静かにしていた。

木漏れ日の移り変わる中で、馬上の2人の影が重なる。

また――緑濃い風が吹きわたった。真夏の木々の、万緑の色をした風だった。

*****

『君が緑の目を見ざりせば』―《完》―

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深森の帝國