深森の帝國§総目次 §物語ノ傍流 〉花の影を慕いて.小説版

花の影を慕いて

――《目次》――

序章「雪闇のプロローグ」
第一章「ミステリー・クロス」
第二章「忘れえぬ面影」
第三章「庭園ラプソディ」
第四章「レディ・アメジスト」
第五章「仮面舞踏会」
第六章「追憶ラビリンス」
第七章「時の娘」
終章「夕映のエピローグ」

序章「雪闇のプロローグ」

目の前には、見渡す限りの、ゆるやかな丘陵地帯。

神話時代にまでさかのぼる長い歴史を誇る強大な王国、その首都からみると、ほどほどの田舎となる土地。

いにしえの騎士の時代を駆け抜けた由緒正しい先祖を持ち、代々相応の富と勢力を維持し続けてきた上流貴族――クロフォード伯爵が統治する領地の中に、その丘陵地帯はあった。

*****

その年の冬。

この丘陵地帯に、近年珍しいほどの強烈な寒気が到来した。

厳冬の荒海を渡り、内陸部に向かって急に標高を増す丘陵地帯の地形に沿って、高く吹き上げられた、大量の湿気を含む冷涼な空気。その中で、更に凍て付くような冷たい風が吹き荒れ始めたのだ。それは、まれなる大雪を予兆させるものだった。

真昼の薄闇に包まれた丘陵地帯は、次第に真っ白な世界に染め上げられてゆく。

……クロフォード伯爵領のほとんどを占めるこの丘陵地帯には、この王国のたいていの上流貴族の領地がそうであるように、幾つかの地元の教会を中心とする村落が散在していた。

クロフォード伯爵家の分家筋や、地方豪族といった地元紳士たちが所有する私有地や荘園もまた、それなりに点在している。

その中で、特に強い勢力を持つ広大な荘園があった。

この荘園の名前は、この辺りの社交の中心となっている華やかな白亜の豪邸の名前にちなんで、「ローズ・パーク」と言う。クロフォード伯爵家における筆頭の血縁、それも直系の後継者たる貴公子を、代々の荘園主と仰ぐ土地だった。

――このローズ・パーク荘園に属する、村落のひとつ。

その片隅に、小さな牧場程度の広さの私有地に囲まれ、二階建てになっている小ぶりな一軒家が、ポツンとあった。

田舎の、程々の土地持ちの紳士クラスの民家は、たいていこのような物だ。いずれはクロフォード領主に納める税金となる放牧用の数頭の馬や、その他の豚や鶏などを飼育するための、ささやかな小屋の群れや倉庫といった施設が備え付けられていた。

*****

――この物語の発端となった『異変』は、此処で発生したのである。

*****

雪がしきりに降りしきる……

……村落の片隅にある小ぶりな一軒家の、素朴な実用性を兼ね備えた居間の中。

雪が張り付き始めた窓の前のソファに、毛布を掛けられてぐったりと横たわる金髪の若い娘が居た。

そして同じ居間の中にもう一人。暖炉の傍らには、ぽっちゃりとした小柄な体格の中年の家政婦が居た。足をせわしなく動かし、バタバタと駆け回る。

家政婦は外出の準備をしながらも、ソファから起き上がろうとしている娘に声を掛けていた。

「熱が出てます、お休みになっていて下さい! お隣さんに、お医者さまが来られる頃で良かったです……すぐに呼んで来ますからね!」

妖精のような繊細な顔立ちの若い娘は、きちんと結い上げた簡素なアップスタイルの金髪の頭をわずかに持ち上げた。繊細な顔立ちで実年齢よりはやや若く見えるものの、成人済みの女性だ。

娘は、田舎ならではの素朴な手縫いの、これまた素朴な濃色の毛織ワンピースをまとっていた。しかし、そのワンピースは、少し前の首都圏で流行が始まった当世風の切り替えスタイルを持つ、絶妙にふわりとした雰囲気のエンパイア・ライン型である。

娘は、過労から来る発熱と一時的な貧血の中にあった。眩暈をこらえながらも、言うべき事を言おうとしたのだが。

家政婦は、早くも玄関に向かって走り出してしまっていた。

「雪は凄いけど、まだ吹雪じゃ無いし、馬車も使えますから……!」

居間のドア越しの家政婦の最後の声、それに続いて、玄関の扉が閉まる音。

やがて、砂利で舗装された簡素な田舎道を、雪ごと踏みしだきながら遠ざかってゆく、馬車の車輪の音。

ぽっちゃりとした小柄な家政婦は、馬車を走らせることはできるものの、馬車の操縦の腕前は、お世辞にも上手いとは言いがたい。ささやかな私有地を囲う柵の間を通る時の、いつものバキバキと言う盛大な音も、ボンヤリとながら聞こえてくる。

居間に残された娘は、中古のソファの上でしなやかな身体を強張らせ、ただ青ざめて、呆然とするばかり。

その柔らかな胸元で、ペンダントトップにしているシンプルなリングが揺れ、きらりと光る。

――ダメよ……お医者さまは……!

決死の思いで娘はソファから身を起こした。

お腹を大事そうに抱えつつ、ふらつきながらも、二階にある自室に向かって階段を駆けのぼる。

部屋に入るや、パッチワークのカバーが掛かった中古のベッドの下から、大きな旅行鞄を引っ張り出す。イザと言う時に備えて、かねてからこっそりと荷造りを整えていたものだ。

そして娘は、自分の机の奥深くに、誰にも見つからないようにしまい込んでいた物を取り出した。

バラの花の形をした、アメジスト細工の繊細な意匠のブローチ。

娘は、その繊細なアクセサリーが、ちょっとした事で壊れたり無くなったりしないように、注意深く専用の小箱に固定し、手元に保管した。

その後、手早く防寒具を身にまとうと、死にもの狂いならではの力で重い荷物を持ち上げ、雪の降りしきる道へと飛び出して行ったのだった……

冬枯れの丘を襲い続ける白い嵐は、一段と激しさを増した。田舎道の浅い雪の上に点々と残されていた娘の足跡は、みるみるうちに新たな雪の下に覆われ、深く隠されていった。

*****

――娘が我が家を飛び出してから、相当の時間が過ぎた頃。

ようやく家政婦が、医者を連れて一軒家に戻って来た。

隣家の娘も来ていた。体調を崩したと言う同い年の金髪の娘を心配して、家政婦や医者が乗り込んでいた馬車に相乗りして、駆け付けて来ていたのだ。

家政婦が息せき切って居間に続くドアを開き、中年ベテランの医者が先頭を切って飛び込んだ。

――居間には、誰も居ない。

医者は手に黒い帽子をつかんだまま、呆気に取られた。

「熱を出したって言う患者さんは、何処ですか……!?」

続いて居間に飛び込んできた家政婦も、一緒に駆け付けていた隣家の若い娘も、その不吉な意味に気づいてギョッとする。

居間に鎮座している、数人掛けの中古のソファ。

そこにあるのは、もぬけの殻となった毛布だけ。

「……居ない……!」

隣家の娘は勝手知ったる居間をサッと見回し、早速、ソファの横のローテーブルに残されていた書置きに気が付いた。明らかに取り乱した状態で書かれたと思しき走り書きのメモではあるが、その筆跡は確かに、最愛の親友たる金髪の娘のものだ。

書置きの内容は、ただ一言――

『旅に出ます、済みません』

――その読み上げを耳にした家政婦は、まだかすかに娘の気配の残る毛布を虚しく抱きしめながら、「そんな馬鹿な」と、口をパクパクさせるばかりだ。

医者は、居間の窓越しに、外の状況を確認した。

隣家を出た時に比べると、雪が驚く程に深く積もっている。この雪の深さに馬車の車輪を取られたりしなければ、もっと早く到着できていたかも知れないのだ。

そして近付く夕闇の中、なおも降りしきる雪。それは、もはや吹雪と言っていい激しさだ。

医者が、途方に暮れながらも、呟く。

「この雪では……足跡は、あらかた消えてしまっていますね……」

「そんな……蒸発した……!」

いずれ戻って来るであろう、この家の主人である紳士、すなわち金髪の娘の父親に、何と言って伝えれば良いのか。父一人と娘一人、そして家政婦が同居するのみの、静かな一軒家なのだ。

家政婦と、隣家の若い娘は、ショックの余り揃ってヘナヘナと居間の床に座り込んでしまった。

居間の暖炉は、静かな炎であったがまだ燃えており、床は、ぬくぬくと温かいままだった。

*****

事の起こりは、ささやかな村の中の失踪事件ないし蒸発事件であり、こう言う次第なのであった。

25年前の大雪の日に、一人の娘が蒸発した。アイリス・ライトと言う名の娘であった。

その後。

その月も変わらぬうちに、死亡報告書が届いていた。

『アイリス・ライト、事故死。至急、本人確認されたし』

*****

――そして、物語の舞台は、『今』に移るのである。

第一章「ミステリー・クロス」

■ローズ・パーク邸…新年の事件■

――あの雪闇の蒸発事件から25年後――

クロフォード伯爵領内に広がる丘陵地帯の一角を占め、かつては「ローズ・パーク荘園」と呼ばれた広大な地区がある。

その地区の小高い丘の上には、この地区を中心とした地元社交の場となっている白亜の豪邸が建っていた。

「ローズ・パーク邸」と呼ばれる、そのいかにも貴族好みの、新古典様式とエキゾチック様式が入り交ざった華やかな館は、新年社交シーズンの中盤を迎えており、いつもの年のように、事態は順調に推移していた。

穏やかな雪が舞う中、地元社会で新年を祝う社交の夕べ。地元の名士たちが集まり、華やかなさざめきが続くローズ・パーク邸。

そんな豪華絢爛な、ローズ・パーク邸の地所の中。

広大な庭園と直結するささやかな小道の中ほどに、平屋タイプの小さなコテージがある。

とりわけ木立の多い片隅を選んで、その薄暗がりにひっそりとうずくまるように建っている。元は倉庫か、作業小屋だった物を何とかリフォームして、一般民家に近づけてみたと言う風の簡素なコテージだ。

扉や窓をはじめ、煙突や暖炉などの基本的な設備は意外にシッカリしており、素朴ながらも実用的な家。しかし、スペースが小さく部屋数も少ないので、隠者の一人住まいか、ギリギリ二人住まいといった風である。

夕方と言うには遅く、かといって夜更けと言うほどでもない、微妙な時間帯。

くるぶしの上あたりまで積もった雪の中、そのコテージ前を通る小道の上で、一人乗りの小さな馬車が止まった。

そして、奇妙に小柄に見える、上下にひしゃげた人影が出て来た。防寒着の裾をバサバサとなびかせ、馬車の座席からノソノソ、ドスンと降りて来る。

成人男性にしては低すぎる……背丈の低さをごまかすためか、その人物が頭に乗せているシルクハットは、いびつなまでに高いデザインだ。

浅く積む雪に、短い足を取られながらも、コテージにじわじわと接近する訪問客。

コテージのドアが乱暴に叩かれた。

「早く開けんとブチ破るぞ!」

ほどなくして、ドアが細めに開かれる。

中から顔を出して来たのは、ほとんど白髪の年配の家政婦だ。突然の訪問客の顔を見て、一気に渋面になる。

家政婦は、訪問客の強引な要求に応じて、渋々と言った様子で、応接間に通す。

しかし、家政婦はその後も、不安そうな表情でランプの灯りを守りながら、小柄でぽっちゃりとした身体をひねり、応接間を仕切るドアの方を何度も見やっていた。

*****

それから数分経過した後の、コテージの中。

名ばかりの応接間で、コテージの主人と訪問客との言い争いが始まった。

「また来たのか、クソ野郎ッ……!」

怒髪天そのものの激怒を見せて怒鳴る主人。既に年老い、頭は禿げていながらも意気軒昂な男である。白いものがだいぶ混ざった濃い茶色のあごひげは意外にきちんと手入れされている。やや骨ばった頑固そうな人相や体格からして、人嫌いの隠者のような雰囲気ではあるが、それなりの地位の地元紳士であるという事が見て取れるものであった。

「金だ! 25年前の件、慰謝料がまだまだ足りねえ!」

「貴様にやる金など無い!」

「ある! ジジイの持ってる庭園オーナー権だよ!」

両者ともに、互いに顔を突き合わせた瞬間から激しい敵意をむき出しにしており、今にも取っ組み合いをせんばかりの様相だ。

「やらん!」

「何だとォ、このジジイ!」

応接間のドアの外では、家政婦がオロオロしながらも、言い争いの様子を窺っていた。

「あんたは老人、息子は居ない! 唯一の子供は既に死んだ!」

「くどいッ! 相続については既に遺言状を作成してあるんだ! さあ……さっさと帰れ! 帰れッ!!」

「この俺を無視するか! 絶対にそうはいかねえぞ!」

訪問客は遂に激高して、コテージの老主人につかみかかった。老主人が再び怒鳴った。

「何をする!」

そのまま二人はもつれ合った様子である。続く衝撃音と、ただならぬ叫び声。

ドアの外からなおも様子を窺っていた家政婦は、ひたすら真っ青になって震え上がるのみだ。

――そして、物音ひとつせぬ、不気味なほどの静寂が落ちた。わずかな物音さえも、雪の中に吸い込まれていったかのようだ。

一分か――二分か。

その凍り付くような空白の後、一息おいて家政婦は意を決し、バタンというドアの開閉音を殊更に立てて、応接間に飛び込んだ。

しかし、家政婦が見たのは、実に最悪の事態であったのだ。

――応接間の真ん中に、ばったりと仰向けに倒れてしまった、コテージの老主人。

「あ……ああ……旦那様!」

家政婦は動転して叫ぶばかりであった。

■クロフォード伯爵邸…春の事件■

あのローズ・パークの地所の片隅で起きた、老人の突然死事件から、三ヶ月ほど後。

既に四月である。

クロフォード伯爵その人が住まう豪壮な伯爵邸でも、『復活祭』に伴う春季の地元社交シーズンを終えたばかりであった。

白い雲が漂う穏やかな午前中の頃。

春の陽気に誘われて一斉に伸び出した庭木の緑の新芽は、瞬く間に若い葉を開き、クロフォード伯爵邸の周囲に緑の城壁と回廊を築きつつある。周りに広がる広大な庭園もまた、数日のうちに、色濃い木蔭を完成させるだろう。

クロフォード伯爵邸は、ローズ・パーク邸とはだいぶ趣が異なる建築物である。中央部にひときわ高くそびえる屋根を持つ部分は、カッチリとした直線的な石積みの壁に細長く高い窓が並んでいる。多くの騎士が活躍した、いにしえの時代を思わせる古風な建築様式だ。

その中央部を中心に、各地方の比較的大きいタイプのカントリーハウス建築と同様に、両翼の建物が中央のラインに対して直角に伸びていた。全体としては、『H』の構造となるように組み合わされている。

この土地一帯の領主であるクロフォード伯爵の住まいであると共に、部分的ながら地元の役所と社交場とを兼ねているという事もあり、部屋数は、この地方の大抵の建物に比べていっそう多い。

クロフォード伯爵邸の広々とした前庭で、クロフォード伯爵と治安判事が並び立って歩きながら会話をしていた。二人とも、40代から50代と言った年頃の、落ち着いた雰囲気の紳士である。

「再捜査の結果を、かいつまんで申しますと……」

話題を変え、先に口を開いたのは、治安判事だ。ガッチリとした風貌の大男は、強い癖をもつ赤っぽい髪をシルクハットの中にグイグイと押し込みながらも、普段は陽気そうな灰緑の目に、難しい表情を浮かべていた。

治安判事に半歩遅れてゆったりと歩を進めるクロフォード伯爵が、わずかに顔を上げた。シルクハットの下に、淡い茶色の髪と涼しい目元が見える。顔立ちは、随分と整っている方だ。伯爵は治安判事と同じ年頃ではあるが、しかし見てみると、ずっと線の細い体格である。貴族のたしなみとして平均的な程度には身体を鍛えてあるのだが、スラリとした印象が際立っている。

「アントン・ライト氏の死亡は……どう見ても、事故では無く殺人ですな」

「殺人……」

クロフォード伯爵は眉根を寄せ、顔を曇らせた。

アントン・ライト氏――アントン氏とは、あのローズ・パークの地所のコテージで、突然の不審な死亡を遂げた老人の事だ。

「冬の社交シーズンの真っ最中と言う事で、ローズ・パークのオーナー協会の体面もあって、早急に事故死として処理せざるを得ませんでしたが……」

治安判事は、それだけの事をボヤくと、やれやれと言った様子で肩をすくめた。クロフォード伯爵も暫し沈黙し、そして嘆息するのみだ。

「何という事だ! アントン氏は以前、ローズ・パーク邸の庭園修繕に関わった功労者だったんだ……オーナー協会設立、当初からの人だよ」

「まさしく。彼は素晴らしい庭園管理の技術をお持ちでした。あの意思の強い、偏屈とすら言える頑固一徹の性格が、誰かの恨みを買ったのではないかと……」

三ヶ月前に起きた領内の未解決事件――すなわち、アントン氏不審死事件の報告を続けていた治安判事は、庭木に急に行く手を阻まれ、「おっと」と言いつつ、手に持っていたステッキで枝葉をどけた。

「前に来た時より、枝が荒れ放題になっていると見えますが……リチャード殿、此処の庭師は?」

「アントン氏が今まで管理してくれたのだが……彼が不幸にも亡くなって以来、完全放置なんだ」

クロフォード伯爵はシルクハットの縁に手をやって、困ったという風に、曖昧に首を傾けるのみだ。

伯爵と治安判事の行く手には、既に軽装馬車が用意されていた。穏やかな天候という事もあり、馬車の天蓋は畳まれている。その周りでは、御者や従者が馬車の整備作業を続けていた。

伯爵はその前で立ち止まると、改めて判事を振り返った。

「ローズ・パークのオーナー協会に声をかけて、適当な庭師をご紹介頂こうと思っている……」

「ああ……それで、これから馬車で協会をお訪ねに……」

「そういう事だ。プライス殿も一緒に来るか? アントン氏の件について詳しく聞きたいのだが」

「では……、ご一緒いたしましょう」

判事は了解し、馬車に乗り込む伯爵の後に続いた。

クロフォード伯爵は、不意に判事に向かって青い目をきらめかせ、イタズラっぽくウインクして見せた。

「例の面倒極まりない金と女のゴタゴタが、何とか収束に向かった……これでやっと庭園の問題に取り組めると言うものだ」

無言で目をパチクリさせる判事。馬車に乗り込むと、急にピンと来た顔になって、バッと振り返る。

「弁護士なしで、あのトラブルのカタを付けたと言うのですか! 確か、カーター氏は、最近はひどく多忙で――あのトラブルには、タッチしていない筈……」

伯爵は得意そうな顔でうなづき、次いで座席の背にもたれつつ腕を組むと、更に説明を続けた。

「実はそうなんだ。キアランが対処して……」

その間にも出発の掛け声をかけ、馬車馬に合図をした御者であったが――

馬はいきなりいななき、暴れ始めた。

御者がギョッとする間も無く、馬車馬は揃って暴走した!

急激な加速に驚いて声を上げる伯爵と判事。

「おい、どうしたんだ……どうどうッ!」

御者も必死で馬を落ち着かせようとしたものの、馬はもはや制御不能の暴走状態だ。

凄まじい騒音を撒き散らしながら、メチャクチャに爆走する暴走馬車。

新しく駆けつけて来た他の従者たちも、暴走馬車をどうやって止めたらよいのか分からないままに、唖然として見送るばかりだ。

馬車は暴走を続け……館の敷地内の庭木に激突した。

その凄まじい衝撃で、伯爵も判事も、そして御者も、各々の座席から放り出された。

馬車は無残に破壊されて転がった。壊れた車輪の一部が茂みに突っ込んでいく。

御者の咄嗟の機転で、手綱を切られていた馬車馬は、てんでバラバラに駆け去っていった。呆然としていた馬丁たちが、慌てて後を追う。

プライス判事は素早く身を起こした。近くでぐったりと横たわっている伯爵に気付き、駆け付ける。

「大丈夫か、リチャード殿……」

伯爵は激痛に顔を歪めて、脚に手をやっている。判事は、その脚の状態に気付き、青くなった。

「――脚の骨が折れてるぞ!」

遥か前方に放り出されていた御者が、ようやく起き上がって来た。幸いに御者は、プライス判事と同様、軽傷だったのだ。帽子を何処かに落としたまま、御者は慌てながら駆け寄って来た。

「済みません、伯爵様! 何で馬が暴走したんだか……」

*****

昼下がりをよほど過ぎた頃。

「父上! 大怪我をしたとか……」

黒髪の青年が動転した様子で、クロフォード伯爵の寝室に飛び込んで来た。

伯爵は、寝室のベッドの上で老医師に治療を受けている真っ最中だ。

「ああ、幸い大怪我で済んだよ……、うわ、痛い!」

一旦いなして見せたものの、伯爵は、次の瞬間には骨を大胆に処置され、悲鳴を上げていた。

後頭部を残して禿げ上がった頭と立派な白ヒゲを持つ老医師は、伯爵の悲鳴をものともせずに、極めて手際よく、かつパワフルに処置を済ませていく。

処置が一段落すると、老医師は薄い水色の目をギョロリと剥き、吼えた。

「脚で済んで幸いだったと申すべきです! 首の骨を折っていたかも知れんのですからな!」

やがて必要な処置が全て終わり、伯爵の寝室を退出するべく扉の前まで来ると、老医師は、黒髪の青年に当分の間の注意を与えた。

「少なくとも十日間は安静にするように。では、明日また往診いたします……お大事に」

「有難うございました、ドクター・ワイルド」

黒髪の青年は、丁重に一礼した。

「人払いをしてくれ、キアラン」

クロフォード伯爵に声をかけられた黒髪の青年――キアランは、一緒に駆け付けていた金髪の青年やメイドを、一旦部屋から遠ざけた。扉はピッタリと閉じられた。

部屋に残っているのは、クロフォード伯爵とキアラン、そしてプライス判事の三人のみだ。

伯爵は真剣な表情でキアランを見やった。

「キアラン……この馬車事故は、誰かに仕掛けられたものだ」

「えッ?」

「残念な事にな」

同じく伯爵のベッド脇に――キアランの反対側の方に『ぬーっ』と立っていたプライス判事が、溜息をつきながらも説明を補足した。そして、その上着のポケットの中から、小ぶりのバラの枝を取り出して見せた。

「バラの枝が、馬の装備の陰に仕込まれていた……このトゲ故に、馬が暴走した」

――暗殺未遂。

キアランは息を呑んだ。

表情こそさほど動かなかったものの、意志の強そうな黒い瞳には、剣呑な光が宿る。

プライス判事はバラの枝を懐に納め、再び言葉を続けた。

「あの馬車は、普段は君が使っている……キアラン君。偶然にも今日の君は、エドワード君と乗馬に出ていた……別の馬でな」

「元々は……私を狙ったものだと?」

キアランの眉根が、きつく寄せられた。

「――まさか、彼が? いや……彼は、確か館への出入りを禁じた筈だから……」

「いずれにせよ、もう少し事情が明らかになるまで、この事実は皆には伏せておくべきだ。治安判事の腕にかけて、必ず犯人を捕まえて監獄送りにしてやる!」

*****

執事が伯爵の寝室にやってきて、ドアを叩き始めた。

「もし……失礼いたしますが」

執事は次いで寝室に入って来ると、クロフォード伯爵に一礼する。

「ディナーのお時間でございます。食事は如何なさいますか?」

「悪いが、余り食欲が無い……茶だけにしてくれ」

ベッドの中のクロフォード伯爵は、疲れた様子で頭に手をやっていた。そして、ぐったりとしたように枕の中に沈み込んだのだった。

執事は、滑らかに一礼して部屋を退出していった。

その後にプライス判事とキアランが続く。

キアランは、ふと顔を曇らせて、クロフォード伯爵をそっと振り返った……

やがて、寝室の扉が静かに閉じられた。

■クロフォード伯爵邸…ディナー席の面々■

クロフォード伯爵邸の豪華な食堂で、当主不在のディナーが始まった。

今夜のディナーの席に連なったのは、六人だ。

伯爵家の唯一の嗣子であるキアランが、父・クロフォード伯爵に代わって、当主代理を務めている。キアランの隣には金髪の青年――キアランの親友エドワードが居た。その隣にプライス判事。

そして向かい側の椅子には、中年夫婦と若い娘の三人が座っていた。その三人は、いずれも見事な金髪と貴族的な雰囲気の持ち主だ。

「何て恐ろしい事故でしょう! 一日も早いお怪我の回復を祈っております」

手の込んだカールと髪型をした見事な金髪、澄んだ青い目をした、上流貴族の令嬢と言った風の美少女が、意外に大きな胸の前で心配そうに手を揉み、美しい声を震わせた。

「父をご心配頂き有難うございます、ダレット嬢」

キアランは、いつもの堅苦しい態度で、丁重に一礼するのみだ。

金髪青年エドワードは、昼の出来事についてプライス判事と一言二言かわした後、キアランを振り返った。

「大丈夫か? アシュコートの社交界に顔を出そうとはしていたが……訪問はキャンセルした方が良いかな? 手頃な穴場といった物ではあるけど、そんなに重要でも無いし……」

「いや……予定通り付き合うよ、エドワード。この件には、一生の面目が掛かっているのだから」

キアランの返答はあっさりとした物であったが、プライス判事はその内容の意味に即座に気づき、面白そうな顔をした。

「……ほう! エドワード君は、近々アシュコートを訪問するのか?」

「トランプ勝負で、私の花嫁探しに付き合うという約束を勝ち取ったんですよ! この絶好の機会を有効利用しない手は無いという事です」

エドワードは芝居がかった気障な手ぶりでワイングラスを揺らし、軽薄な笑みを浮かべた。

「まあ……、マジメな話、本家からしつこく縁談を持ち込まれ、こちらもツイ啖呵を切ってしまった手前、北から南まで社交界巡りをする羽目になっていた……と言うのが真実です」

確かに、エドワードは結婚適齢期の青年ではある。しかし、結婚対象としては、その市場価値は極めて怪しい物だった。『頭の軽すぎるチャラ男』という印象がある。

気障ったらしく金髪を伸ばし、気障なファッションに身を包む、いかにも遊び人といった雰囲気。さながら歩くファッション雑誌だ。最先端の流行ファッションを着こなしているつもりが、間の抜けた着崩しパターンになっており、微妙に趣がズレてしまっている。

プライス判事は、そんなエドワードの様子を改めてマジマジと眺めると、おかしそうに吹き出した。

「百人の淑女にプロポーズを断られた男!? その様子が目に浮かぶようだよ……! プレイボーイの浮名は、ますます高まっている……という訳だ!」

「浮名は余計ですよ、プライスさん! 私の理想は、極めて真面目なものです」

ことさらに大真面目な顔をして切り返すエドワードであったが、その軽薄そうな印象は、かねてからの社交界での若干よろしくない評判とも相まって、どう見ても金欠の放蕩紳士と警戒されるべき代物であった。出身こそピカイチではあったが、噂によれば、放蕩が過ぎて実家から勘当され、金を持つ友人のツテを辿って、フラフラと各地をさまよっているという。

「実際、その真剣な動機と行動実績は、高く買えるかと…」

クソ真面目な顔をしたキアランによる、あまり効果のないフォローが入った。傍目にはやはり、どう見ても『贔屓の引き倒し』と見えるものであった。

金髪碧眼の美少女・ダレット嬢は、生真面目そうに顔をしかめて見せた。

「浮名を流すから金髪は頭が悪いと思われてしまうの、実害があります!」

「あの社交界の評判では誰も信じないでしょ!」

隣に居た金髪の中年婦人も、口元で贅沢なハンカチをヒラヒラさせながらコメントして来た。

「第一、悪徳業者に騙されたとか……あら何でしたっけ、エドワードには結構な額の負債があると言う噂!」

「どうって事無いですよ、ダレット夫人。あの屋敷、何処かにお宝が埋まってると言うのは本当に違いない。壁を外して地面を掘り返したら、埋蔵金がきっと出て来るって」

「あら……業者が、そういう風にのたまったの?」

「そうなんです」

エドワードの笑みは、いかにも頭が空っぽと言うべき代物だ。

ダレット夫人の口元には、憐みを込めた苦笑が出来ている。真っ赤な口紅の周りには、年相応の小じわがある。若い頃はさぞや美しかっただろうと思われる金髪の婦人であったが、年齢による容色の衰えは、色濃いものであった。

ディナー席で、キアランの真向かい側に座る形となっている大柄な体格の中年紳士が、ダレット氏だ。

クロフォード伯爵家の直系親族でもあるダレット準男爵は、金髪に青い目、貴族的な容貌をした派手な顔立ちだ。若い頃は華やかな美青年だったのだ。しかし今は、贅沢と美食に目のない中年世代の男性の常、顔面は若干脂ぎっており、腹部が不健康に突き出しているという、『ちょいメタボ体型』だ。

ダレット氏は、非友好的な目つきでエドワードを眺めていた。『こんなチャラ男が名門クロフォード伯爵家の跡継ぎの親友なのか』とでも言いたそうな雰囲気が、ありありとにじみ出ている。今のところダレット氏は、口を出さず、エドワードに胡散臭そうな目を向けながら黙々と食事を続けていた。

ダレット嬢は、エドワードの言葉に心底呆れたといった様子で、大袈裟に頬に手を当て、嘆息して見せる。

「あたくしは幸運ね! キアラン様という婚約者がいらして!」

「……キアラン君の婚約者? 初耳で、しかも意外です」

プライス判事が不思議そうな顔をしたところへ、ダレット氏が重々しく口を挟んで来た。

「いや、いや! 当然の流れと言える物だ……ほら、キアラン君はクロフォード伯爵家の直系では無いのだから、血族のバックアップが絶対的に必要なんだ」

器用にフォローはしているものの、ダレット氏の口調には明らかに、絶対的優位者に特有の傲慢なものが混ざっていた。

ダレット氏とキアランとの間に、一瞬、緊張が走る。

「アシュコートの舞踏会は、目下の評判ですのよ! 勿論、あたくしも一緒に連れてって下さるでしょ?」

「未来の義父母も忘れないでね!」

微妙な緊張感に満ちた空気を全く読んでいなかったかのように、ダレット嬢はウキウキした様子で、可愛らしくおねだりを始めた。そしてダレット夫人も、当然の権利のように便乗して来たのだった。

キアランは無表情のまま、目を伏せて一礼した。

「仰せのままに。大型馬車を、もう一台用意させましょう……」

ダレット一家とキアランとの奇妙な関係――これが、婚約を控えた関係なのか?

プライス判事もエドワードも沈黙し、キアランの様子を見守るばかりであった。

*****

深夜。

キアランの私室にはエドワードが来ていた。

ディナーの時の、野暮スレスレの気障ったらしいファッションを解き、今はシンプルなシャツ&ベストという格好だ。親友同士の気安さで、クラヴァットまでゆるめている。

エドワードはドカッとソファに腰を下ろすと、呆れたような心配そうな眼差しで、別の椅子に座っている黒髪の親友を眺めた。

ローテーブルの上に置かれたささやかなランプだけでは、表情は細かいところまでは読み取れない。

しかし、エドワードは、キアランがどういう気持ちでいるのかについては、既にあらかた予想がついていた。

「あのアラシア嬢が、君の婚約者とは知らなかったよ! 本当に彼女と――アラシア・ダレットと結婚するつもりか?」

キアランは、ムッツリとした無表情のまま沈黙していたが、やがて口を開いた。

「私は、公的には婚約の存在すら認識していない。復活祭シーズンが終わった直後、レオポルド・ダレットが妻子を館に引き連れて来て、長期滞在を始めた。そして、婚約話を仄めかして来た。あのトラブルの後、公平を期すために別途対処したのが、どうも妙な意味で理解されたらしい」

「あのトラブル? 賭博借金に女性が絡んだ、あの問題?」

エドワードは一瞬、不思議そうな顔をしたが、すぐに「ああ……そういう訳だったのか!」と思い当たり、納得した様子である。次いでエドワードは、なおいっそう呆れた様子でキアランを見やった。

「その努力の結果が――バリバリの政略結婚?」

否とも言わず沈黙を続けるキアラン。

エドワードは腕を組み、ブツブツと呟き始めた。

その様子は、ディナーの時の軽薄そうな様子とは、全く別物だ。シンプルなシャツ&ベストの下の、良く鍛えられた体格が――見事に均整の取れたラインが露わになっている。ランプの光を反射する琥珀色の目は、角度によっては金色の目だ。そこには、鋭い刃物にも似た理知の光が浮かんでいた。

「確かに、彼女は金髪の美人で血統は良い……条件としては悪く無いが……、ダレット一家の贅沢ぶりが示す経済観念の欠如――結婚後は、面倒が増えそうだな?」

それは、疑問とも確認とも付かぬ口調。

キアランは、ムッツリとした様子で応じた。

「だが、血統主義の親族たちを納得させるには、割と願っても無い話かも知れない」

暫くの間、沈黙が流れる。

ダレット氏が指摘したように、クロフォード伯爵家の跡継ぎとしてのキアランの立場は、過去の因縁もあって、それほど確かな物ではない。嗣子でありながら直系では無い――その複雑怪奇な事情を、エドワードは良く理解していた。

エドワードは無表情な親友の中にある動揺ぶりを察しながらも、軽薄そうに苦笑して手を広げるばかりだった。

「気苦労の多い問題ばかりだな、我が友よ! アシュコート訪問は、正しい決断に行動だ……君には絶対、息抜きが必要だよ!」

無表情のままだったものの、キアランは奇妙な眼差しで、エドワードをじっと見つめていた……

■クロフォード伯爵邸…老庭師の遺言書■

その日はアシュコート伯爵領への出発を控え、クロフォード伯爵邸は早朝から慌しい状態である。

前庭ロータリーに大型馬車が回され、その荷台に、次々に大きな荷物が載せられて行った。

御者と三人のスタッフが議論を始めている。

「こんなに積んだら重量オーバーだ! 馬車が峠を登れないぞ!」

「でも、ダレット夫人とダレット嬢の荷物だよ!」

「たかが近場の外遊だろ。首都社交じゃ無い。積荷のひとつやふたつ、何とかならんのか」

「ダレット一家は、あれで妙なところに鋭いからな〜」

暫し全員でゲッソリとなった後、御者がふと思いついた様子で、車庫の方に視線を投げた。

「トッド氏が、クレイグ牧師さんとマティ坊ちゃん用に置いてった馬車、借りれるかな。新技術が使われてて、車体が軽いうえに大量の荷物が運べる」

「クレイグ牧師さんなら、事情を話せば二つ返事で了解してくださる筈だ」

若いスタッフの一人が頭をかきつつ、口を挟む。

「問題はマティ坊ちゃんですよ。馬車に何かしてますよね、あの子」

「十中八九、仕掛けてるな。とんでもなく奇想天外な何かを」

「復活祭の時、派手に吹っ飛ばしてんですよねー、家ひとつ分、まるっと」

「ありゃ傑作だったな。金と女の面倒なゴタゴタの解決にもつながったし。マティ坊ちゃんだろ、領内の平和の一番の功労者って」

御者とスタッフ三人、揃って楽しく苦笑している内に、前庭ロータリーに別の馬車が入って来た。

馬車のドアが開き、50代半ばという風の中年紳士が下車して来る。中肉中背、ブラウンの髪と目――と言う平凡な、常識人の印象のある人物だ。

玄関に出ていた執事が、手慣れた風で紳士を招き入れた。

「この三ヶ月くらい見かけなかったけど、カーター氏ですよね」

「急に忙しくなって、首都出張もしてて……呼びつけられて、急いで戻って来られたのかな」

「あの、金と女の面倒なゴタゴタの件?」

「その件は、あの超・堅物の若様が、キッチリ、最後までカタを付けられた筈だよ」

*****

クロフォード伯爵邸の玄関広間で、カーター氏は、早速キアランと挨拶を交わした。

「館にお招き頂き、有難うございます……リドゲート卿」

キアランとカーター氏は、正面階段を登り始めた。

堂々たる正面階段の上には、細長く高い窓から差し込む柔らかな午前中の光が、長く荘厳に伸びている。

「お忙しいところ、お呼び立てして誠に済みません」

「いえ、当方も調査がやっと一段落しまして……まさか今回の案件に、これほど多方面の調査が必要だとは思いもしませんでしたから」

「カーター氏ほどの弁護士が、三ヶ月もかかるのですから、さぞ錯綜した案件だったのでしょうね」

カーター氏は苦笑交じりの溜息で応えた。

「ええ。首都への出張中、事情に通じている判事と偶然かち合って、少し情報交換ができたのですが。彼は目下、新たに発生した殺人事件の捜査中で連絡が付きにくい状態です。さらにお時間を頂く事になりそうです」

ちょうど階段の踊り場で、キアランは訝しげに振り返った。

「……殺人事件?」

「復活祭の日、ロックウェル公爵領の国道で身元不明の変死体が出たとか。このロックウェル事件は、アシュコート伯爵領などの隣接領地の社交界では既にゴシップ、いえ、噂だそうですから、じき此処にも伝わるでしょう」

「最近は……不穏な事件が多いですね」

「……何かございましたか?」

「父が、暴走馬車の事故で大怪我を。幸い命に別状は無いのですが。『事件』と思われる不審な点があるそうです」

カーター氏は首を傾げる格好になった。治安判事が情報を伏せていたという事もあり、今まで領地の外に居たカーター氏には、いずれも初耳の内容だったのだ。

「――父は、あの馬車事故以来ずっと塞ぎ込んでいて……私が五日間ばかりアシュコート訪問で留守にしている間、父の傍に居て頂きたいのです」

カーター氏は、やがて、感心したような微笑みを浮かべた。

「つくづく、立派な後継者ぶりですね……リドゲート卿」

「いえ……及ばぬ点は多々あります」

やがて伯爵の居る部屋のドアの前に来ると、後をカーター氏に任せて、キアランはその場を離れて行った。隣地アシュコート伯爵領への出発時間が迫っていたのである。

*****

クロフォード伯爵は、あのワイルドな老医師から「ベッドを降りて良い」と言う確証を得た後、椅子の上に落ち着き、座りながらでも可能な文書確認などの業務を少しずつ始めていた。

伯爵の骨折中の片脚には添え木が成され、分厚い包帯が巻かれている。普段の服装を身に着けられないため、今はまだガウン姿である。

骨折状態の都合で、執務室の座席に座る事についてはドクターストップが掛かっていた。そのため目下の仕事場は、負担のかかりにくい椅子と円卓という組み合わせだ。

午前中の光が注ぐ大きな窓の前で、クロフォード伯爵は手前の円卓に広げた報告書その他の文書に目を通していた。そして――ひょっこりと現れたという風の訪問客に気付き、目を見張った。

「……カーター氏! ……久しぶりだが、今日はまた何故……」

カーター氏は訳知り顔で、穏やかに微笑んで見せた。

「実を申しますと、リドゲート卿に招かれたのでございます」

「困ったヤツだ……私はまだまだ、耄碌しておらんぞ!」

伯爵は暫くの間、照れ隠しをごまかすためか報告書をバサバサと引っ繰り返していたが、すぐに円卓の近くに並ぶ椅子の一つを指し示した。

「ともあれ、来てくれて嬉しいよ。その辺にでも掛けてくれ」

「この大変な時に、ご無沙汰しておりまして、申し訳ございませんでした」

カーター氏は、ここ数ヶ月の不精を丁重に詫びると、ゆっくりとした所作でカバンを降ろし、丁度良い位置の椅子に静かに腰かけた。

「最近の噂をお聞きしましたよ……実に優秀ですな、リドゲート卿は。金銭問題と女性問題は、長期化するトラブルの代表格です。その身内の面倒事を解決なさった手腕は、実に見事と申せます」

「グレンヴィル由来の素質が良いんだな……私には、あのような断固とした対応はできなかった」

クロフォード伯爵は、我が後継者たるキアランに対するカーター氏の称賛の言葉を受けて、如何にも満足そうな顔でうなづいた。

「厳しい通達と対応で、親族が割れたが。札付きの犯罪者を出すよりは、ずっとマシな筈だ」

「親族が割れた? 何故あの解決で、ダレット家以外の他の親族が因縁を付けるのですか?」

「ダレット家が、あのゴタゴタの件に、尾ひれの数々を付けて回っている。しかも、血統問題に絡めてな。頭の痛い問題だよ」

クロフォード伯爵は、涼しげな目元に苦い表情を浮かべた。しかめ面をしている伯爵の眉間には、年季の入ったシワができている。

「馬車事故で死にかけて以来の我が目下の頭痛の種は、いきなり増えた巨大な尾ひれ、すなわちキアランとアラシアの婚約話だ。キアランの女性問題は、あのトラブル男と正反対の意味で、困る代物だと思う」

「リドゲート卿は、アラシア・ダレット嬢を問題なく扱っておられるようですが?」

「だから問題なんだ! あのキアランが、女性に甘い言葉をささやくところを想像できるか? アシュコート伯爵領を、それも舞踏会を訪問すると言うに――本人には、全く、その気は無しだ! 地位に、財産に、年齢……女性の関心を引く条件は、充分だ、と言うのにだ!」

伯爵の愚痴はだんだん大きくなり、しまいには苛立つ余り、大声になっていた。

カーター氏は、暫し困ったように沈黙し――やがて、「つまり、こういう事ですか」と口を開いた。

「ダレット嬢は一部の親族を納得させるが、それ以外の点では全く評価できない――とは言え、あの超・堅物の若様が、他の女性を選ぶ事を考えている……とは、とても思えない……」

伯爵は、もうだいぶ白いものの混ざった淡い茶色の髪に手を突っ込み、そして深い溜息と共に、ガックリと肩を落とした。

「これでも私は若かりし頃はプレイボーイだったんでな。アラシアの素質は、本人よりも、よほど詳しく説明できる」

カーター氏としては、苦笑する他に無い。

「聞きようによっては贅沢な悩みでございますね。世間には後継者としての力量に欠ける御子息も多いと聞きます。女性の誘惑のやり方も教えておけばよろしかったのでは」

常に威厳に満ちた領主として振る舞っているクロフォード伯爵が、心を許して愚痴をこぼしたり悩みを洩らしたりできる――個人的な友人としての――話し相手は、非常に限られている。カーター氏は、その数少ない中の一人である事を良く心得ており、プロの弁護士としての守秘義務も合わせ、伯爵の愚痴に対して、ユーモアと誠意をもって対応していた。

「男から申すのもアレですが、リドゲート卿は、顔立ちもよろしい方ですし」

エドワードのような華やかな容貌と言う訳では無いが、キアランも同じ程度には整った顔立ちなのだ。黒髪黒眼のせいなのか、キアランには、クロフォード伯爵のような涼やかな印象は全く無い。意志の強い漆黒の眼差しは、時に、歴戦の大人も気圧される程の気迫を浮かべる事がある。妙に着やせする性質なのか、さほど目立たないが、鍛えられた体格は明らかに軍人向きだ。父親である伯爵とは全く違う、鋭く剛直な印象があるのだ。

「ダレット家は、正式な爵位継承権持ちの居る直系親族だ。その存在意義は重い。グレンヴィル氏の恩義に応えた事に、後悔は無いが……」

クロフォード伯爵の言葉が途切れた。微妙な沈黙が続いたが、事情を良く知るカーター氏は、穏やかな様子で謹聴の姿勢を続けている。

やがてクロフォード伯爵は、やっと顔を上げて、背もたれに寄りかかった。

「バカな話に付き合わせてしまったな。身内の愚痴をこぼす気は全く無かったんだが。今じゃ、小言の多かった兄の気持ちが良く分かると言うものだよ」

「いえ、相変わらずお元気そうで安心いたしました。実は私、これから急遽、出張する必要があるのです」

「ほう?」

「出張の前に、ご説明、及びご挨拶を……と考えていたので、今回のお招きは渡りに船でした」

クロフォード伯爵は適度な興味を持って、確認の質問を投げた。

「長い出張になるのか?」

カーター氏は椅子の下に置いていたカバンから書類を取り出すと、再び言葉を続けた。

「交渉相手次第ですが、話がスムーズに行けば四日ほどかと思われます。偶然にも、それほど遠くなく……アシュコート伯爵領の辺境です。クロフォード伯爵家にも関わる内容なので、詳しく説明いたします」

「ふむ」

「私は、三ヶ月前に死亡した地元紳士……アントン・ライト氏の遺言書を預かっておりましたのです」

伯爵は思わず身を起こしていた。新年の頃、ローズ・パーク邸の地所にあるコテージの中で、突然の謎の不審死を遂げた、あの老庭師の事だ。

「アントン氏の遺言書だと? それは初耳だ」

「その内容は、ごく簡単なものです。アントン・ライト氏が所有するローズ・パーク邸の一区画の庭園オーナー権を、アイリス及び、アイリスの子孫に譲る」

――以前から承知している内容と、今まさに知ったばかりの内容が、完全に矛盾している。

伯爵はカーター氏をまじまじと見つめ、疑わしそうに口を開いた。

「……アイリス・ライト……? アントン氏の一人娘は死亡したと聞いているが。急に一人旅に出て、旅先で事故に遭ったとか……」

「手違いで、別人の死体と取り違えられていたそうです。結婚指輪をしていない良家の娘が、妊娠していたとは誰も思わなかった……という事でしょう」

「……妊娠していた!?」

「死亡報告書作成の時点、妊娠二カ月だったそうです」

カーター氏は、手元の数点の資料を並べて慎重に確認していた。注意深い弁護士にしては珍しい事ではあったが、伯爵の顔色の変化に気付きが及ばないまま、説明を続けたのである。

「通称『ライト夫人』、五年前まで生存。風邪をこじらせて死亡。子供の方は、現在アシュコート伯爵領内で生活。役所文書の記載が矛盾しており……首都の記録も錯綜していて追跡調査が困難な状態ですが、子供が生存しているのは確かです」

カーター氏は更に資料をめくり、説明を続けた。

「ローズ・パークのオーナー協会からは、早く空白の一区画の相続オーナーを明らかにして欲しいと言って来ていますし、彼女がタイター氏含む親戚筋のビリントン家よりも、誠実かつ善良な管理人になるならば、クロフォード伯爵家にとっても良い話です」

「彼女……? 娘なのか?」

カーター氏が手に入れた資料や記録ノートの内容は、まだ周辺の事実確認が済んでいないため、全体にわたって矛盾する記述が錯綜しているという状態だ。頭の痛くなるようなバラバラな資料の群れだ。

「書類上は女性ですね。各種記録の混乱を見ると『男の娘』疑惑もありますが。アントン氏が遺言書を作成したのは、かなり前です。当該遺言書の『子孫』記述は、条件付きで女子をも代々指定相続人にする事が可能となる、重要な文言です。アントン氏は遺言書作成の時点で、娘と孫娘の生存を認識していた模様……この謎はさておき、生存する指定相続人、すなわち、アントン氏の孫娘が死亡または相続放棄の場合、くだんの一区画は、クロフォード伯爵家に返還されます」

――とりあえず、一定以上の確証が得られた要点をまとめる事は、できた。カーター氏はホッと息をつきながらも、資料を片付け始める。

「私は今回の出張で当該相続人に会い、本人特定のうえ、今回の案件に関する本人の意思を確認します。以上で、説明を終わります」

「アントン氏の孫娘……アイリスの娘について、他には何か……?」

その時、初めて、カーター氏は、クロフォード伯爵の様子が不自然な事に気が付いたのだった。

――わずかとは言え顔色を変え、不自然に口ごもっている。

弁護士としての観察力は、伯爵がそのわずかな変化の裏で、全身を耳にしている事を告げていた。

――この案件に関して、クロフォード伯爵は、不思議なくらい強い関心を寄せているらしい。

カーター氏は首を傾げながらも書類を再確認し、分かる限りの補足を付け加えたのだった。

「今年25歳になります……そう言えば、タイター・ビリントン氏には、良からぬ噂が数々ございますね。相続争いになると、成人済みとは言え、身の危険が予想されます。領主として、お力添えを頂けますか?」

「勿論だ!」

■アシュコート伯爵領…舞踏会・第一夜(前)■

復活祭をよほど過ぎた春の宵。

ほのかに花の香りのある、暖かな夜風が吹き渡った。

アシュコート伯爵領の辺境に近い地所の一つ、社交会場となった白亜の豪邸では、既に各地から多くの紳士淑女が集まっており、社交ダンスもたけなわである。

外に広がる庭園とつながる箇所には、ツタをはじめとする観葉植物が入り込むように配置されており、山野趣味と思しき趣向が凝らされている。適度に春の野辺の気配の入り交ざった会場は、冷やかしの混ざった冒険心も喜ばせるものになっていた。

社交ダンス会場となっている大広間は、華やかな装飾を凝らした色とりどりのエンパイア・ラインのドレスを身にまとった淑女と、金糸銀糸を施した極彩色からシンプルな暗色系まで、様々なタイプの正装をまとった紳士でいっぱいだ。社交界に出席できるギリギリの未成年から、足腰が怪しくなり始めてなお元気な老年世代までと、年齢層も広い。

会場の一角では、出席者の中に混ざったキアランとエドワードが、会場の批評を始めていた。

「会場は結構、良い趣味をしているな」

「近隣の評判になるだけあって、良いスタッフを抱えてるらしいな。後でヒューゴに聞いてみよう……彼は、此処の関係者だから」

エドワードはサッと会場を見回したが、まだヒューゴの姿は見えない。ヒューゴは忙しくしていると見える。

キアランは、ふと先日のカーター氏との会話を思い出し、水を向けた。

「そう言えば、ロックウェル事件の噂はもう聞いてるか?」

「ちょっと巡っただけで大量の怪談を聞かされたよ。魔女のナベの中で合成された幽霊仮面、バラバラ死体を食ったお祭り用の卵の模型、ズタズタになったネズミの死体のビックリ箱、これらが手足を生やし、夜な夜な徘徊して人を襲う」

「……かなり『名状(めいじょう)しがたきモノ』が付着しているような気がする」

「不気味な流血事件のゴシップには付き物だな。それにしても、これだけゴシップの嵐になっているのに、ロックウェル公爵は何してるんだか。愛人の数にも驚かされるが」

「もう40人目の愛人に取り換えているとか?」

「最近、50人目の愛人に取り換えたそうだ。正確な数はつかんでないが」

キアランは少しの間、絶句したのだった。

「……色々とすごいな」

いつしか、ダンス音楽の曲目が変わっていた。数曲の間にわたって欠けていたハープ音が、再び加わって来ている。

「先刻までハープ奏者が欠けていたが、今頃入ったのか」

エドワードは冷やかし気味に楽団の方を振り返り……そして、不意に息を呑む。

「どうした、エドワード?」

「美人だ……」

キアランは不審を込めて目を細めると、何がエドワードの注意を引いたのかと、ダンス曲の演奏を続ける楽団メンバーを眺め始めた。

楽団メンバーの中の不自然なポイントは、すぐに見つかった。

言わずと知れた、ハープ奏者……ミステリアスな女性だ。

地味な印象の紺色のドレスは楽団メンバーに紛れ込んで目立たなくなっているが、それでも、楽団の制服とは明らかに異なる。シンプルなアップスタイルの髪型ながら、見事な金髪の輝きは隠しようもない。

そして、息を呑むような美貌だ。目の色は、宝石のような深い緑。

奏でられているのは、膝の上に乗せて奏でるタイプの、古式ゆかしき小型ハープだ。かつて吟遊詩人が使っていた楽器という事もあり、持ち運びは容易い。小型ハープは今でも、辺境の会場を渡り歩いて営業する移動楽団の中では現役だ。しかし、現代のオーケストラに使われるような大型ハープと違って、弦が短い分、充分な音量を保ちつつ連続して演奏するには、細かな調律が必要になるのだ。

単なる飛び入りの愛好者の手に負えるような楽器では無い。小型ハープは総じて手の掛かる、プロ仕様の楽器である。しかし、女ハープ奏者の腕前は、プロの楽団メンバーとして通じるレベルだ。

彼女は何処から湧いて来たのか、何故に楽団に混ざっているのか――全てが謎めいている。

そのまま注意深く観察していると、女ハープ奏者には、他にも不審な点が出て来た。演奏曲目が一区切り付くたびに、焦ったように控え室の方を何度も振り返るのである。

「彼女の謎は控え室だな」

「……回廊から調べるか?」

エドワードの琥珀色の目は、強い好奇心でキラキラしている。謎の女ハープ奏者を捕まえる気満々なのだ。

親友の悪い病気が出たかと呆れながらも、調子を合わせるキアランであった。

*****

ほぼ、同じ頃。

同じ会場の裏口では、別の出来事が進行していた。

たった今到着した、と言う風の馬車から、バタバタと二人ばかり降りて来た。すると、裏口で小柄な女性の人影が、待ちかねていたとばかりにピョンピョンと飛び跳ねた。

「急いで控え室に来て!」

会場の裏口で三人連れとなった奇妙な一団は、灯りが絞られて薄暗くなった使用人用の廊下を疾走し、会場スタッフ用の控え室の一つに駆け込んだ。

「お医者様は、そちらの方に……会場の楽団のハープ奏者が階段から落ちて、ギックリ腰です!」

小柄な女性が指し示した長椅子の上には、ギックリ腰で動けなくなっている楽団メンバー、それもハープ奏者が、殺人的な腰の痛みにうめき声を上げつつ、横たわっていた。医者はベテランらしくすぐに事態を理解し、患者の診療に取り掛かる。

楽団の補欠メンバーの方は、更に会場に向かう回廊の方へと誘導される形になった。

「もう四曲分経過してる……走って!」

「ええッ……! 招待客も出てくる回廊じゃ!」

「お酒が回ってボンヤリした人たちだから、大丈夫です!」

シンプルな茶色のドレスをまとった小柄な誘導スタッフ嬢は、エンパイア・ラインのドレスの裾が高く舞い上がるほどに勢い良く走っていた。回廊にボンヤリとたむろしていた酔客たちを突き飛ばさんばかりだ。

程なくして彼女は、その突進する勢いで、本当に男客の一人を突き飛ばした。突き飛ばされたのは大柄な男だったのだが、勢いよく回転し、後ろにあった回廊の壁に叩き付けられる羽目になった。

「鼻血がぁ!」

「済みませんッ! 後で、お医者様の所にご案内いたしますッ……!」

そのタイミングで回廊に出て来たキアランとエドワードは、衝突せんばかりに走って来た非常識すぎる二人の男女を、慌てて避ける羽目になる。

「回避の協力、感謝です!」

キアランとエドワードがポカンとして見送る先で、全力疾走していた二人の男女は、あの控え室に飛び込んで行った。

非常識すぎる男女が台風よろしく通り過ぎた回廊の中は、ちょっとしたパニックになっていた。

「鼻血が! 鼻血が!」

「鼻血だと? 栄光の鼻血に万歳の乾杯!」

「プロージット、ワハハ!」

「酒に鼻血の栄光あれ!」

突き飛ばされかけていた酔客たちが、事態を分かっているのか分かっていないのか、鼻血を止めようと顔面を手で押さえている大柄な男の哀れな悲鳴に合わせて、新たな祝杯を挙げている。

「何なんだ? この騒ぎは」

エドワードも唖然とするばかりだ。

キアランは、非常識すぎる二人が飛び込んだ先を見て、首を傾げた。

「楽団の裏の控え室?」

「もしかして……」

エドワードとキアランは、互いに顔を見合わせた。

――控え室の中。

金髪の女ハープ奏者と、今しがた駆けつけて来た楽団の補欠メンバーとのチェンジが進行していた。楽団に欠員が出ていたという事実を全く感じさせない程の早業だ。

チェンジが済むと、ひょうきんな雰囲気のある黒髪の青年が、会場を仕切っている垂れ幕にヨロヨロとしがみ付き、安堵の溜息を洩らした。

「心臓が止まるかと思ったよ! 僕は!」

「何とか急場切り抜けたじゃ無いの、ヒューゴさん! 敵はまだまだ来るでしょ! 初戦で怯んでどうするの!」

頼りなさそうな青年ヒューゴに威勢よく発破をかけているのは、金髪の女ハープ奏者だ。茶色のドレスをまとう誘導スタッフ嬢の方も、早くも息を整えて状況報告をしている。

「新たな追加は、ギックリ腰の治療費だけで済んでるし」

本物の方のハープ奏者は、ギックリ腰で退場していたのだという情報を得て、唖然とするエドワードとキアランであった。此処でヒューゴに会ったのも、何かの縁だろう。

「大体の事情は飲み込めたよ。予期せぬ出来事だったらしいな? ヒューゴ・レスター」

エドワードが声を掛けると、ヒューゴはすぐに気付いて、サッと振り返った。

「ああ……先輩! わざわざ出席頂いたのに、お恥ずかしい限りです!」

偶然ながら、エドワードとキアランとヒューゴは、同じ寄宿学校の先輩・後輩の関係だ。

二人の女性は、旧交を温めている男性陣を不思議そうに眺めている。

ヒューゴは、垂れ幕を挟んで対面しているお互いが、互いに初対面だったと言う事に気付き、間に立って紹介を始めた。

「紹介するよ……二人は、僕の寄宿学校の先輩なんだ。エドワード・シンクレア卿、こちらがリドゲート卿」

エドワードとキアランが丁重に一礼すると、女性たち二人の方も、優雅に一礼を返した。

「お初にお目にかかります、紳士方」

ヒューゴは、金髪と茶髪の二人の女性を指し示すと、人物詳細の説明を始めた。

「こちらは僕の地元の友人、アシュコート伯爵の……」

しかし……そこに、急に縮れ毛の使者が、息せき切って飛び出して来た。

「ヒューゴ様! 伯爵様が、すぐに来いとお呼びで……」

この場合の伯爵とはアシュコート伯爵であり、その命令は、此処アシュコート領では絶対なのであった。そして『すぐに来い』とは、文字通り緊急で駆け付けて来いという意味なのであった。

縮れ毛の使者は、そのガッチリした比較的大柄な体格を生かして、慌てるヒューゴを捕まえ、引きずって行く……

「ああ……! アンジェラ、ルシール! このタイミングで、ホントに済まん! 今回は珍しくゲストなのに、トラブル発生で、スタッフ扱いで……」

その他にも何か訳の分からないことを言いつのりながらも、涙目で引きずられて行くヒューゴなのであった。

「いつもの事ですから気になりませんよ、ヒューゴさん」

「やれやれ、学生時代からそそっかしい後輩だったが……」

「今夜は致し方ありませんね。持ち回りで、今夜は彼が会場責任者ですから……」

ひとしきり苦笑していた金髪女性は、仕切り直しとばかりに営業スマイルを浮かべて、エドワードとキアランに向き直った。

「改めて自己紹介させて頂きます。私がアンジェラで、隣がルシールです」

「先程は、大変お騒がせを致しました」

小柄な茶髪の女性ルシールは、再び一礼した。その胸元で、紫色のバラの形をしたブローチが、キラリと光った。頭を下げ、そして再び頭を上げた拍子に、目を覆い隠すほどに深く下ろしていた濃い茶色の前髪が揺れ、一瞬、その面差しを明らかにする。

――大きな茶色の目。アンジェラのような絶世の美女というほどの容貌では無いが、繊細な花のような面差し。

理由はさほど知れぬものの、キアランは不意に気を惹かれる物を覚え、目を見張った。

「鼻血! 鼻血!」

またしても、折悪しくと言うべきか。先ほど突き飛ばされていた男客が乱入して来た。

「あ、済みません! 失念しておりました」

ルシールは、うっかりしていたとばかりに、すぐに大男の鼻血の処置をすると、エドワードとキアランに失礼を詫びながら、控え室に誘導して行く。

「あなたは騒ぎ過ぎよ、ナイジェル! 別件に夢中でボンヤリしたでしょうが」

金髪の女客が、黒髪の男客を叱り付けている。控え室のドアの前に着いた後も、鼻血で失神せんばかりの哀れな男客を差し置いて、女性同士のやりとりが続いた。

「さっきはごめんね、イザベラ」

「ナイジェルは血を見ただけでパニックみたい。先刻は、別件で気まずい状況だったから……気にしないで」

金髪のイザベラ嬢は、牛のような大男を巧みに控え室に押し込み始める。

人騒がせな騒動を一通り眺め、エドワードは、その収拾の手際の良さに感心していた。

「臨機応変ですね」

「会場スタッフの十八番ですから、慣れております。お酒が入れば、もっと大騒ぎになりますしね……、そろそろ、会場に戻られますか?」

――面白い状況になって来た。

エドワードは、ひそかに鋭い笑みを浮かべた。

学生時代の後輩ヒューゴが言い残した言葉は、彼女たちは、むしろ会場スタッフとしての経験の方が長いのだろうと言う事を暗示している。

実際、アンジェラとルシールがまとうドレスは、標準的なエンパイア・ライン型だが、装飾がほとんど無い。必要とあらば裏方の会場スタッフとして振る舞っても不自然では無い……という程に、地味なデザインなのだ。

キアランは、ルシールが消えていった控え室のドアに目をやった。

小柄な体格のせいか、ルシールには、17歳か18歳ではないかと言う印象がある。

胸元できらめいていた紫色のブローチ。ヴィンテージ物という事は明らかだ。何やら訳があるらしい……そのような妙に謎めいた気配を、キアランは感じていたのだった。

■アシュコート伯爵領…舞踏会・第一夜(中)■

会場に戻ったところで、エドワードの一瞬の目配せがあった。キアランは訳知り顔になり、会場の端に寄る。

エドワードは、早くも遊び人の本領を発揮し始めたという風だ。

「ダンスの申し込みを受けてくれますか? レディ・アンジェラ」

「私の事は、単に『アンジェラ』でお願い致します。私はレディの称号は持っておりませんの、エドワード卿」

アンジェラは営業スマイルを浮かべながらも、申し込みに応じて優雅に手を差し伸べた。

その手を取ったエドワードは、すぐにその違和感に気付く。

爪を短く切り揃えた、実用的な手。一般的な令嬢のように爪をお洒落に伸ばしておらず、華やかなマニキュアも施していない。手入れは行き届いていて、気持ちの良い清潔さや健康的な色艶はあるが、古い傷跡が目立ち、相応に使い込まれている証が見える。

――どういう素性の令嬢だろう?

ギックリ腰で倒れたハープ奏者のピンチヒッターを務めたことと言い、回廊での非常識すぎる騒動に対して平然と解説を加え、ヒューゴに代わって会場の面目を保ったことと言い、単なる田舎娘にしては人あしらいに長けていて、名門の女学校などで型通りの教育を受けた娘にしては勇気と行動力がある。

アンジェラは底意の見えない、小癪なまでの営業スマイルを続けている。

エドワードは久し振りに、手ごたえのある謎を感じていた。

ペアを組んだエドワードとアンジェラは、会場のダンスの輪の中に、滑らかな動きで加わっていく。アンジェラは、後ろにも目があるかのようなしなやかな身のこなしで、不規則にすれ違ってゆく他のペアとの衝突を次々にかわしていた。

会場スタッフ――特にダンス・アテンダントとして、ステップの覚束ない男性客の相手を務める時には、非常に役立つ能力だ。アンジェラは、そういう意味では、ダンスの名手であった。

アンジェラの手の形や骨格の有り様は、明らかに貴族の血筋を示している。エドワードは、これでも観察眼には自信がある方だ。ヒューゴの人物紹介は途中で途切れてしまったものの、アシュコート伯爵との何らかの関係を匂わせる内容だった……

「あなたは、アシュコート伯爵の係累では無いのですか?」

「伯爵様の領民の一人でございます」

涼しい顔で、隙のない回答を寄越すアンジェラ。

「おや? しかしあなたは、ヒューゴとは対等の仲でしょう?」

「ヒューゴさんのご好意で、対等で親しくさせて頂いております」

「では、私はあなたを氏名で何と呼べば良いのですか?」

アンジェラは、不意に宝石のような緑の目を輝かせ、整った口元にイタズラっぽい笑みを浮かべた。

「では、スミス嬢と。フルネームは、アンジェラ・スミスです」

「やはり、アンジェラと呼ぶ方が良いですね」

「それはそうでございましょう」

何と言う事のない自己紹介に見えて、それは、互いの底意と素性を探り合うと言うゲームになっていた。

「私の事も、単にエドワードと呼んで下さい」

「それは難しいですね、エドワード卿」

ダンスの複雑なステップが入り、二人の間に、ひとときの沈黙が横たわる。

アンジェラは、不意に何らかの確信を得たと言う風で、背の高い金髪紳士をスッと見上げた。その印象深い緑の目から、営業スマイルはいつの間にか消えている。

「私はあなたと初めてお会い致しましたが、金欠の放蕩紳士と言う噂には深刻な疑いがございます」

――何かを見透かしているような、不思議な透明感のある緑の目だ。

深みを増した輝きに、エドワードは思わず息を呑む。

「あなたは恐らく、爵位をお持ちの門閥の直系で……財産持ちです」

「三男ですが……何故、財産持ちだと? 今のところ爵位も資産も継ぐ可能性は無いし、本家からもらえる財産は、ささやかな年金ぐらいですが」

この王国の貴族制度において、法律上、嗣子(長子)以外は財産を継ぐ権利が無い。嗣子以外の者は、結婚すると同時に独立して分家を創設するが、荘園の経営能力が無かったり自活能力が無かったりすると、本家からのわずかな年金のみで生計を立てるしか無く、困窮しやすい。妻に迎える女性の経済観念や手腕も重要なポイントになるし、平凡な紳士の一人として地域に沈んでいくのが大多数だ。

結婚前から金欠になってしまうような放蕩ボンボンの場合は、土地財産持ちの未亡人を狙うなりしてヒモになるのも、ある程度の面目や勢力を保つための一つの方法だ。このやり方は、また別の才能が必要になるから、余り一般的では無いが。

「会場スタッフとしての勘です。異例の客人が事情を含めて出席する事もございますし、察した上での対応が必要になりますから」

アンジェラがそう言っている間にも、ダンスが終了する。

最後の一礼をし、アンジェラはそのまま、会場スタッフとしての別の仕事に取り掛かると言った様子だ。

エドワードは、自身でも良く分からない直感のままに、アンジェラに声を掛ける。

「二回目のダンスを申し込んでも?」

アンジェラは少しの間エドワードを眺めていたが、やがてピンと来たような様子で、その手を取った。

二回目のダンスの輪が回り出した。

アンジェラはダンスのリードを取ると、エドワードを会場一杯に連れ回す。要所要所で、アンジェラは目配せをし、方々の独身令嬢の姿をエドワードの目に入れていったのだ!

「右の二番目はカータレット嬢、当会場お勧めの令嬢でもあり、あなたなら数多の求婚者を置いて充分に上位候補を狙えますでしょう。南三番の壁の花はエリー嬢、内気な方ですが、良く話してみれば彼女の頭の良さが分かってきますし、欠点は無いかと」

次々に独身の令嬢の紹介と解説を続けるアンジェラ。エドワードは唖然とした。

――各地の社交界を渡って行く独身貴族の遊び人を装っていたのに、この舞踏会に来たそもそもの目的を、完全に読まれている!

ほどなくして、アンジェラは、とある一角に目をやり……急に青ざめ、首をそむけた。

あまりにも不審。エドワードは、その一角をそっと窺う。

会場の一角に集まっていた女客の中の一人が、エドワードの視線を読み、贅沢な羽毛扇を傾けて蠱惑的な眼差しを返して来た。

「――白い羽飾りと水色のドレス? あの黒髪の彼女が何か?」

「か、彼女は、お勧めでは無く……夫婦仲に問題ありの有閑マダム……とか……」

取って付けたような内容になっている。その内容にしても、おそらくは『もっと別の何か』をごまかすための虚偽。意地悪く眺めれば、今のアンジェラは隙だらけだ。

エドワードは不意に気付く所があり、眉を跳ね上げた。

いっそうの不審を覚えながらも、再び問題の黒髪の女客を素早く観察する。

年齢不詳の妖艶な熟女。豊満な胸は、襟ぐりの深すぎるドレスの胸元で、惚れ惚れする程の見事な胸の谷間を形作っている。青白い肌はゾッとするような妖しさ、滑らかさだ。肌の青白さに黒髪が映え、かえってこの世の物ならぬ妖艶さを醸し出している。口紅の色は血のように鮮やかな真紅。

一般的には水色のドレスは清楚な印象を与える物だが、この謎の女の着こなしは危ういまでにきわどい。有閑マダムと言うよりは、誰かの愛人としか思えない。そう言う、ひそやかに熱い不道徳の情熱と愉悦の雰囲気を湛えている……

「……アンジェラのお父上は、此処におられますか?」

「い、いえ……父は社交嫌いで、滅多にお城からは……」

「母上は?」

アンジェラは青ざめたまま、無言で首を振っている。

謎の黒髪の女の視野から外れた瞬間。

アンジェラは辺りをキョロキョロし始めた。

「先ほどの有閑マダムは……」

「……済みません、令嬢の紹介を続けましょう!」

アンジェラは先刻までの失態をごまかすかのように、早口になった。

「西の四番でダンス中の令嬢、シーア嬢もお勧めです。門閥貴族の縁戚の令嬢です。西の七番、ララ嬢も良家の令嬢。女学校で経営学を修めた才媛です」

そうしているうちに、二回目のダンス曲が終わったのだった。

エドワードが疑問を投げようとしたところへ。

黒髪を持つ大柄な男客を伴ったルシールが、タイミングをはかって近付いて来た。

「アンジェラ! この方が、お話があるそうで……」

大柄な男客は意外に素早い動きで、エドワードとアンジェラの間に割って入って来る。エドワードは一旦引き下がる形になった。

黒髪の大柄な男客は、割り込んできた勢いのままに注文をする。

「縁組候補の見立てのアレで!」

「かしこまりました。お任せ下さい」

三回目のダンスが始まった。

エドワードはキアランの横に並ぶと、深い溜息をつく。

「アンジェラに、してやられたかも知れない」

「どういう訳だ?」

「二回目のダンスで、会場の独身の令嬢を軒並み……それも、効率的に紹介されたよ」

珍しく打ちのめされたと言う風で、エドワードは四本の指を立てて見せた。

キアランは、ゆっくりとエドワードの手を見つめる。

「……マジか?」

傍に居たルシールは、背の高い二人の青年の会話に気付き、にこやかな営業スマイルを見せた。

「良かったじゃありませんか、エドワード卿! アンジェラの見立ては百発百中です。理想の奥方候補が、会場においででしたでしょう……!」

しかし、エドワードはムッとした様子で腕を組んだ。

「いや! まだ全員紹介して頂いてない」

「おかしいですね、あのアンジェラが選択を抜かす筈、無いんですけど」

「確かに完璧な仕事だったが。私は、アンジェラ・スミス嬢をご紹介頂きたかったね」

目を丸くしてパッと振り返るルシール。背丈の差が大きく、そのまま見上げる形になる。

エドワードの口元は笑みの形をしていたが、その琥珀色の目は、笑っていなかった。

「アンジェラ……ですか!?」

「アンジェラは片親らしいが、確実に上流貴族の令嬢だ。それなら、何故レディの称号を持っていない? 彼女の父親にも謎めいた問題があると見える。それに、あの白い羽飾りの水色の女性は誰なのか? アンジェラは明らかに彼女を良く知っていて、避けていた」

焦りのままに、ルシールは、目をアチコチ泳がせる。

「え、あの……その、彼女が話そうとしないなら、私も余り話せないですが……」

……ルシールは驚きで一杯になっていた。

(ダンスをしている間のわずかなやり取りの中で、それだけの情報を読み取ったのか。エドワード卿、一見、軽薄そうなチャラ男だけど、あのアンジェラと真っ向からやり合えるほどの頭脳を持っている……!)

エドワードとキアランの不審そうな眼差しが突き刺さって来ている。ルシールは、小柄な身体を、ますます小さくした。

「その、これだけは言えますね……アンジェラは、目下の問題にあなた方を巻き込みたく無いんです」

「問題?」

「一応……アシュコート社交界の最近のゴシップなら、ご存知ですね。あの、復活祭の、お祭りの卵のハリボテの中から……バラバラ死体が出たと言う事件……」

言いにくそうにしながらも、ルシールは言葉を継いだ。

――血なまぐさいロックウェル事件。会場のゴシップの中にもあった話題だ。

「ロックウェルのバラバラ死体!?」

「あの猟奇事件は本当の話だと?」

ルシールはおずおずとしながらも、注意深く二人の紳士を窺い始める。

「……アンジェラは、ロックウェル事件の関係者なのか……?」

「あの、エドワード卿。もし公的に知りたいなら、伯爵様か治安判事に聞いて下さい」

ルシールはそれだけ告げると、口を閉じて、それ以上は頑として話そうとしなかった。

――が、その沈黙は長くは続かなかった。

凄まじい形相をしたイザベラが金髪を振り乱し、会場に飛び込んで来たのだ。競馬の優勝馬のフィニッシュもかくやと思う程の猛スピードで。

「ルシール! ナイジェルとアンジェラが一緒だけど!」

「イザベラ……?」

イザベラは狙い過たず、ナイジェルとアンジェラのペアをビシッと指差す。

「まずいわよ! ナイジェルは手頃な金髪の若手を狙って……セ、セクハラするのよ!」

――確かにそこでは、ナイジェルがダンスの合間にアンジェラのお尻を撫でまわし、セクハラしている真っ最中だ!

ルシールとイザベラは善後策に詰まり、無意識のうちに手を取り合いながらも固まっていた。

ナイジェルは牛のようなガチムチとした大男だ。女性三人で一斉に飛び掛かったとして、上手く取り押さえられるだろうか?

そして信じられない事に、エドワードが非友好的な足取りで、決然とナイジェルの方に接近して行く!

「あの金髪紳士、決闘を申し込むつもりなの……?」

「まずいッ……!」

一方、親友の気性を知っているキアランは、ムッツリと落ち着いたままだ。

ダンスのターンが入った。アンジェラはその運動を利用して、ナイジェルを振り回す。

「必殺、手の平返しッ!!」

ダンスの回転運動に乗った大柄な男の身体が、アンジェラの巧みな手腕による急加速を付けられ、超高速で近くの柱に叩き付けられていった。

芸術的なまでに均整の取れた豪速球ストレートは、素晴らしい精度で正面衝突する。

アヤシクも「やる気」に満ち満ちていた大柄な男が、無慈悲なまでに堅苦しい柱との間で、熱烈な顔面激突キッスをした証の、何とも言えない派手な音が響いた。

全てが終わった後。

再び鼻血を流し、「フガフガ!」と訳の分からぬ事を言って、いっそう熱烈に柱にしがみつくナイジェルの残骸が、そこにあったのだった。

「あら、鼻血がまた出てますわ……先程の止血が不十分だったのですね?」

アンジェラは白々しく健康を尋ねた。柱にしがみついて目を回している哀れなナイジェルの残骸に構わず、クルリと振り返る。

アンジェラの視線の先には、会場の時計があった。時針は、丁度、時限を指している。アンジェラは、殊更にかしこまった顔をして、エドワードとキアランの方に向き直った。

「誠に申し訳ありませんが、お先に失礼を」

エドワードは目をパチクリさせた。

「時限? 早過ぎると思いますが」

「明日の朝、いささか用事がございますので」

アンジェラとルシールは一礼すると、イザベラと会釈を交わしつつ、素早く会場を退出して行った。

*****

イザベラは早速、下心をタップリと満載した不吉な笑みを浮かべた。会場スタッフ仲間の男の手も借りて、ナイジェルの残骸を柱から引き剥がす。

「まあ大変! 血が! 急いでお医者様に診て頂かなければ……!」

ナイジェルは血を見るとパニックになる性質だ。震えあがったまま動けない。

目撃中の男客たちも、青ざめている状態だ。

「イザベラ嬢……あの男に、いったい何をするつもりだ?」

「あの『戦女神(ワルキューレ)イザベラ』だ、きっと、我々には想像もつかないような恐ろしい事をするに違いない」

エドワードは苦笑しながらも、愉快そうに目を細めている。

「住所を聞かずじまいだったな……」

キアランは、親友のその様子を、奇妙な眼差しで見つめたのだった。

■アシュコート伯爵領…舞踏会・第一夜(後)■

会場を、物陰から窺う人影がある。

その人影は、そっと会場を離れると、帰宅準備のため控え室に戻って行くアンジェラとルシールの後を付いて行った。

スタッフ用の出入口と直結する控え室にて。

小柄なルシールが、高い場所に吊るされた外套を苦労して外そうとしていると、そこに先程の人影の手が伸びて来て、外套を事も無げに外し、ルシールに手渡した。

「え? あ、有難うございます……」

戸惑いながらも振り返るルシール。

そこに居るのは、完璧な金髪碧眼の、背の高い立派な体格の紳士だ。

くっきりとした貴族的な目鼻立ちが、周囲から際立つような華を添えている。『騎士道物語』に出て来そうな、絶世の美貌を持つ高潔な騎士を想像するとしたら、まさに、こんな感じだろう。

このような目立つタイプのイケメンは、そうそう忘れられるものでは無い。

――以前に、会った事があったかしら?

ルシールは暫し首を傾げた後、不意に目をパチクリさせた。

「前シーズンもいらした方ですね。お名前は、存じ上げませんでしたが」

金髪碧眼の背の高い美青年は、小柄なルシールに合わせて、紳士らしく腰をかがめて来た。

「時に……先程の黒髪の紳士と、お知り合い?」

「リドゲート卿の事ですね? 今夜が初めてですが」

「黒髪の彼、実に無愛想で冷淡だったでしょう? 気を悪くしていないと良いのですが」

金髪碧眼の完璧な紳士は、苦笑を浮かべている。ルシールの脳みそはクルクルと回り出した。

――この金髪碧眼の美青年もまた、リドゲート卿の友人らしい。

成る程、リドゲート卿のムッツリぶりは、当然、多くの人々を戸惑わせている筈だ。エドワード卿はチャラチャラし過ぎていて、お世辞にもフォローになっているとは言いがたいし、このピカイチの友人が、その面倒を始末して回っているというパターンなのだ。

ルシールは納得顔でうなづいた。外套の紐を結びながら暫く考え、失礼にならないように、慎重に同意する。

「口数は多くない方のようですね」

「彼には、くれぐれもご用心を。実に冷酷な男ですから、女性に対して……身の程知らずの野心もあってね、彼の縁結びは止めておいた方が良いでしょう」

「そうなんですか……? えっと……確かに、あまり反応しない方でもいらっしゃるようですね」

ルシールは思案顔になり、絵に描いたような金髪碧眼の美青年を見上げた。

――この金髪碧眼の紳士、頭が良いんだわ。

彼は、前シーズンにも来ていただけあって、会場スタッフとしてのアンジェラとルシールの『もう一つの仕事』――良縁を探している独身の男女を対象とする、『縁組ビジネス』の存在に気付いていたようだ。

――そんな人の目から見ても、あのムッツリ黒髪のリドゲート卿は、改善の余地も無い程、性格の悪い人物だという事かしら。アンジェラの危機の時も、素っ気無い程に無反応だったし……

リドゲート卿が、他人に対して冷淡であるというのは確からしい。考えが読めないくらいの、不吉な印象も感じられる無表情。考えれば考えるほど、要警戒人物のように思えて来る。

ルシールは、次第次第に眉根を寄せ、表情を曇らせた。

ふと顔を上げると、金髪碧眼の完璧な紳士が、こちらを注意深く窺っていた。ルシールは気を取り直し、丁重に言葉を継いだ。

「ともあれ、先ほどは御親切に、有難うございます。失礼ながら、お名前をおうかがいしても?」

「これは失敬。私はレナード・ダレットです……今夜はもうお帰りだとか。明日は是非、かのサービスの件で、お話をしたいものですね」

「当・舞踏会の『縁組サービス』ご利用、うけたまわりました。ご料金はイザベラ代表とご相談のほど……」

ルシールは軽くうなづき、レナードと名乗った男から差し出された手に応え、握手を交わした。

半分ほど屋外に身を乗り出して、送迎馬車が回って来るのを待っていたアンジェラは、背後で進行していた出来事に既に気付いていた。『レナード・ダレット』と名乗った金髪碧眼の紳士をチラリと眺め、感心したような顔つきになる。

順番に会釈を交わし、レナードは会場に戻って行った。レナードの姿が見えなくなるまで見送る。

やがて、アンジェラとルシールは送迎馬車へと歩を進めた。

「金髪レナードは独身貴族よね? モテモテなんだけど、釣り合う奥方候補ならいるんだよね」

「もう仲介先の淑女を検討していたの? 仕事熱心ねえ」

*****

アンジェラとルシールを乗せた馬車は、帰路を走り出した。

馬車内で揺れるランプの下、二人は、今季シーズンの会場も盛況で良かった、という感想を言い合った。その後、アンジェラは急に先程の出来事を思い出し、飛びぬけて美しい顔をしかめて見せた。

「それにしても、客人扱いだと会場の印象も変わるわね! ナイジェル何某の正体が、金髪狙いのセクハラ紳士とは予想外だったわよ……注意しないと!」

「そう言えば、エドワード卿と何かあったの? あの金髪紳士は、アンジェラのために決闘しかねない勢いだったけど」

ルシールは首を傾げながらも、ボーイ・ミーツ・ガールに続くロマンスの気配に興味津々だ。

ルシールの最愛の親友アンジェラは、頭がとても良い。頭も勘も良すぎるために、却って大抵の男どもの(例えばナイジェルのような男の)反応に幻滅してしまうというのが難点だ。

ルシールはルシールなりに、親友の恋愛運の無さ(?)を心配していたのだった。

アンジェラは、お行儀悪く鼻を鳴らしている。

「ホントに決闘でナイジェル何某を転がしてもらえば良かったかしら? 二回ダンスしただけなんだけど、武器の腕前は、ヒューゴさんより明らかに上だと分かるんだよね」

「エドワード卿って、顔だけだと思っていたから驚いたわ。アンジェラの背景を探り出せるなんて、すごい頭脳じゃ無い。金欠と放蕩の噂は、ともかく……ヒューゴさんの先輩だと言うし、淑女百人斬りってプレイボーイの噂、実話だと思うけど」

アンジェラは自信たっぷりの笑みを見せた。

「本人に放蕩の気配は皆無! 四人の淑女も粒ぞろいの候補、幸先が良くて結構な事だわ」

「それにしては……エドワード卿は、会場の淑女には興味が無いみたい」

「ふーん、そんな感じだった? お連れの黒髪の紳士にしか興味が無いなら、私の勘も鈍ったものだけど。男同士の恋人縁組は不案内なの。前シーズンのパニック、まだ夢に出るし」

アンジェラは悩まし気に目を伏せた。前シーズンの縁組に関するショックが、まだ響いているところなのだ。今さらながらに当時の衝撃を生々しく思い出し、アンジェラは疲れたような溜息をつく。

ルシールはコロコロと笑い、フォローに回った。

「結局ベストカップルだったから、大丈夫! 彼らは共同事業でもパートナーを組んで、上手くやってるとか……」

そこでルシールは、ふと思い出した事があり、話題を変えた。

「エドワード卿はアンジェラに興味持ちそうだから、釘刺しといた。ロックウェル事件のゴシップの紹介で」

「それで良いわ。間違って彼らがバラバラ死体になったら、大変な損失だもんね」

アンジェラは元気を取り戻し、ウキウキとした様子で指を動かし始めた。想像上のそろばんをはじいてゆく。

「それにしても……あの掘り出し物が、真面目な顔をして二回目のダンスを申し込んで来た時は、さすがにお仕事とは言え、ちょっとトキめいた! 琥珀色の目で、光が入ると金色で……彼はとびきりの美形だし、自分の魅力を充分に心得ている様子だから、特に社交スタイルの助言も必要なさそう。ますます夢の勝利の予感よ」

アンジェラは、改めて顔を引き締めた。

「あの人たちの縁組は、高く売れる! カータレット嬢もエリー嬢も完璧で、かつ理想の候補……この縁組を派手に成功させて、此処の社交場を、王国第一の『恋人の名所』にするのだ!」

「そして、首都の社交界に勝利する!」

グッとコブシを握り締め、威勢よく振り上げる二人。

「エドワード卿とリドゲート卿、それにレナード、まとめて史上最高額で売り飛ばせ! えいえいおー!」

*****

馬車が、宵闇の中の教会へと近づいて行った。

帰路を急ぐ都合上、足早に通り過ぎるところだが……馬車は教会の門前に停車した。

アンジェラとルシールが馬車を降り、ささやかな教会堂に向かう。

初老の御者が、馬車を駐車場に入れながら声を掛けた。

「お嬢さまがた、お気をつけて下さいよ」

「時間は、そんなに掛からないから。すぐ戻るわ」

「承知いたしました」

教会堂は、必要最小限ながら適度に照明が配置されている。

――夜の礼拝を捧げていた老牧師が、豊かな白ヒゲを揺らしながら穏やかに振り返って来た。

「おや、これは。ゴールドベリ邸のお嬢さんたちですな」

アンジェラとルシールは、それぞれ「お世話になっております」と一礼し、老牧師の導きに従って夜の礼拝を捧げたのだった。

しばし目を閉じ、そして面(おもて)を上げて……真正面の高い位置に掲げられたバラ窓を見つめる。

全知全能の神を称える聖句とされる文字列が、バラ窓の縁でキラキラと輝いていた。いにしえの、騎士が活躍した時代の頃から、その場所に刻まれ続けて来たと伝えられる伝統のフレーズ……《花の影》。

――劫初 終極 界(カイ)を湛(たた)えて立つものよ――

やがて、アンジェラが静かな声でささやいた。

「ルシール。近いうちに……この数日の間に、ルシールの運命を大きく左右するような何かが起きるような気がするの」

「それ、透視なの、アンジェラ? ゴールドベリの……」

「分からない。単なる直感かも……でも、外れてはいないと思う」

アンジェラの宝石のような緑の目は、神秘的な深みを帯びている。

ルシールは気もそぞろに、胸元を飾るアメジストのバラのブローチに手をやった……

*****

――程なくして馬車は、教会堂を辞した二人を乗せて、帰路についた。

かくして、夜は更けていったのだった。

■ゴールドベリ邸…緑の森の魔女■

アシュコート伯爵領の辺境に位置する荘園の、更にその端に、こんもりとした緑の森が広がっている。

森の入り口の村の中、朝も早い時間帯から、小道を行ったり来たりしている一人乗り軽装馬車があった。

馬車に乗っているのは、弁護士カーター氏だ。カーター氏は困惑した様子で、地図を広げて何度も確認している。

「確か、この辺りの筈だが……道に迷ったのだろうか……」

暫くグルグルしているうちに、カーター氏は、森の小道の脇に木こりの作業場を見い出した。カーター氏は、数人の木こりが作業をしているのを確認し、木こりたちに、ゴールドベリ邸への道を尋ねたのであった。

「道をお尋ねしたいのですが」

「おお? ああ? 何処へ行きなさる?」

「ゴールドベリ邸へ」

「おお、ああ、『魔女の隠れ家』ね」

木こりは斧を下ろすと、汗をぬぐって何度も首を振り、訳知り顔でボヤいた。

「初めての人は迷うんだよねぇ。この辺になると、緑の迷路だから」

出荷する材木を荷車で運んでいた別の木こりと、斧を手入れしていたもう一人の木こりが、口々に喋り出した。

「そう! 何せ、そこの女主人が魔女様でさ」

「元・貴族の令嬢のヒーラー様だよ! 男やもめの伯爵様から求婚されてるお方だよ!」

最初の木こりは、ブツブツとボヤいている。

「参ったなあ、今はちょっと忙しいんだ……」

口の良く回る二人の木こりの方は、そのボヤキにも、合いの手を入れ始めた。

「いやいや、運良く、もうじき魔女の手下が通る頃だ」

「またまた、お前は!」

そうしている間にも、小道の向こうから、一頭立ての簡素な荷馬車が現れて来た。近所の教会の早朝バザーで出されたと思しき幾つかの風呂敷包みの他、朝市の定番商品である新鮮な野菜や果物を入れたカゴが積まれているのが見える。

「ホーラ、来た!」

「時間は正確だぁ〜」

「おお、ああ」

木こりたちはてんでに荷馬車を指差し、カーター氏の注意を引いた。次いで、口こそ喧しいが親切な木こりたちは、カーター氏を伴って小道の真ん中に出て行き、荷馬車を呼び止めた。

「おお、ああ、教会帰りだろ……二人とも」

「こちらの紳士が、レディ・オリヴィアをお訪ねでな」

荷馬車は止まり、麦わら帽子を被った二つの頭が振り向いた。

「レディ・オリヴィアをお訪ねですか?」

御者席の上から聞こえて来たのは、妙齢の女性の声。

カーター氏は驚き、麦わら帽子を被った二人の男装の乗り手を、改めて見直した。

金髪緑眼の目の覚めるような美女。もう一人は色合いが地味ではあるものの、妖精のような繊細な面差しをした小柄な女性。姉妹のようにも見える。

カーター氏が呆然と眺めていると、金髪緑眼の美女がパッと気付いた顔になり、口を開いた。

「確か今日は、お客様がいらっしゃるかもと聞いておりました。ご案内いたします。ゴールドベリ邸は、わき道を二つ外れた泉のほとりです」

「私が来るのを知っていたと?」

「朝からレディは、お客様をお待ちでした」

金髪の美女は満面の笑みで答えた。カーター氏は驚き覚めやらぬ顔のままである。

後ろで、このやりとりに聞き耳を立てていた木こりたちは、早速、楽しげに論争を始めていた。

「それ見ろ! あそこの家の女主人は絶対、魔女なんだぜ」

「バカだね! ヒーラーなら、不思議な力もあるじゃろ!」

カーター氏は二人の妙齢の女性を改めて見比べて、思案顔になった。

「もしかして、あなたがルシール・ライトでしょうか?」

最初に問われた金髪の美女――アンジェラは「いえ」と首を振り、濃い茶色の髪をした隣の女性の方を指し示した。

「私はアンジェラ・スミスです……ルシールは、こちらです」

「そうでしたか……これは失礼を。アイリス嬢は金髪でしたので、ツイ間違いを……」

カーター氏は胸に手を当てて、丁重に一礼した。

……ルシールは多くの驚きと疑問を込めて、50代半ばかと思われるブラウンの髪と目をした中肉中背の紳士――カーター氏を見つめた。

この見知らぬ紳士が口にしたのは、今は既に亡き母親の名前なのだ。

「母をご存知で……?」

「いえ……、報告書にあった、人物特徴の記録だけですが……」

この時、カーター氏は、交渉の経験も数多有るベテラン弁護士にしては珍しい事であったが、驚きの余り、それ以上の器用な言い回しが思い付かない状態だった。

わずかなやり取りではあったが、経験豊かなカーター氏の目と耳は、驚くべき事実を捉えていたのだ。

アンジェラとルシールの荷物の中には、数冊程度ではあるが、近所の教会の図書館から貸し出されたと思しき、相応の古典や学術書が含まれていた――そこには既に、お手製の物らしき可愛らしい数枚の栞が挟まれていた。

そしてアンジェラとルシールは、いささか古風ではあるものの、今すぐに宮廷に出してもおかしくない程の正統派の貴婦人の所作と発音を、自然に使いこなしていたのである。

*****

『魔女の隠れ家』とも噂されているゴールドベリ邸。

実際に到着して眺めてみると、閑雅な雰囲気のある二階建ての民家だ。

ひとつ前の時代に廃れたと思しき、古風な別荘タイプの建築物ではあったが、若い娘が二人同居しているからなのか、今風の華やかな雰囲気が色づいている。

やがて、ゴールドベリ邸の応接間で、女主人と訪問客カーター氏との会見が始まった。

応接間にある大きな窓には、緑濃い葉影が揺れている。その前に置かれた主人用ソファに、女主人は、杖を携えつつ座っていた。

彩度を抑えた淡緑色のシンプルなドレスに均整の取れた細身の体格を包み、黒いショールをまとっている。背筋をスッと伸ばした、端正にして堂々とした着座姿には、女王もうらやむ程の風格があった。

静かな気品を湛えた女主人は、訪問客を一目見るなり、『魔女』という噂のタネにもなっている、不思議な勘の良さを発揮した。

「ジャスパー判事と、最近しきりに連絡を取っていた方ですね」

冴え冴えとした張りのある上品な声は、魔女とも噂されるところの女主人が、明らかに上流貴族の出である事を暗示している。アンジェラとルシールに、高い教養を伴う正統派のレディ教育を施したのが、この不思議な貴婦人である事は、目にも明らかだった。

「私が、オリヴィア・ゴールドベリです。脚を悪くしているので、座ったままで失礼いたしますわね」

ゴールドベリ邸の女主人――既に齢60を越えると言うレディ・オリヴィアは、確かに相応に年老いてはいたものの、その面差しは、若かりし時の目の覚めるような美貌がまざまざとうかがえるものであった。アンジェラとの血縁なのであろう、白髪混ざりの金髪の輝き、そして宝石のような緑の目――

カーター氏は心からの敬意を込め、丁重に一礼した。

「こちらこそ不意の訪問で、大変お騒がせ致します。クロフォード伯爵領で弁護士をしております、カーターと申します」

「ルシール・ライトに関する案件ですね」

冴え冴えとした声で返って来た、それは、質問では無く確認であった。

「お察しの如く」

「本日は、ようこそおいで下さいました、カーター氏。どうぞ、そちらにお掛けになって」

カーター氏は再び一礼すると、女主人の勧めに従って椅子に座り、用件の内容について説明を始めたのであった。

*****

説明が一段落し、オリヴィアは深い溜息をついた。

「成る程……、ついにこの日が……という感慨がございますわ。役所の取り違えに気付いて修正報告を出したのは私ですが、役所の怠慢で20年以上、放置されていた……と言う訳ですね」

カーター氏は律儀にうなづいた。

「何故、取り違えが起きたのか、良く分からんのです。心当たりがあれば、お聞かせ頂けますか?」

「取り違えられたのは、アンジェラの母親とルシールの母親です。そして、アンジェラの出生記載が、同じく役所の処理ミスにより、月をまたいで遅延していました……お分かりですか?」

「正直、あまりピンと来ないのですが」

「妊娠出産に関わる数字に強くないと、分かりにくい領域ですね。簡単に言えば、その時、一方は既に出産していて、一方はまだ妊娠中だったという事実を含めて理解する必要があるのです。誤記されてしまった数字が及ぼした、数々の影響も含めて……後ほど、詳しく説明しましょう」

二人は、いったんお茶を一服し、区切りを入れた。オリヴィアの説明が再開する。

「二人の子は六ヶ月しか違いません。母親は二人とも、見事な金髪を持っていました。偶然とは言え、起きるべくして起きた事態だと言えますわね」

オリヴィアは、いっそう思案深げな顔になっている。

「あれは雪の中の馬車事故でした。偶然、同じ乗合馬車に、アンジェラの両親とルシールの母親が、他の乗客たちと共に乗り合わせていました」

「25年前の二月、連日の大雪の頃ですね」

「ええ。その乗合馬車の行き先は、峠から連なる山岳地帯の狩猟場のひとつでした。貴族たちや豪族たちの狩猟場があちこちにあるのは、ご存じですね」

カーター氏は訳知り顔で相槌を返した。

「確かに。あの山岳地帯には、クロフォード伯爵家が所有する狩猟場もございます。全国に名高い狩猟の名所。冬季の狩猟シーズンには雪道仕様の馬車が走る……」

「山岳地帯の各所の狩猟場を結ぶ道は狭く、崖がすぐ傍まで迫っているカーブが多いのも、ご存知ですわね。事故現場は、そういう場所のひとつでした。その乗合馬車は、予期せぬ強い風雪に翻弄され、スリップを起こし、岩だらけの崖の下へ……」

オリヴィアの声がわずかに震えた。説明が途切れる。

見ると、オリヴィアは苦悩の表情になり、顔を伏せていたのだった。

カーター氏は、無言で次の言葉を待ち受けた。

「……アンジェラの母親は即死し、父親は大怪我を。乗客の半分が死亡した事故でしたが、ルシールの母親は軽傷で済みました。肋骨が数本折れただけだったので、お腹のルシールにも影響は無かったのです」

一息ついたオリヴィアは、ふと何かに気付いたように目をしばたたき、カーター氏を見直した。

「そう言えば……そちらで妊娠二カ月と認識しているのは、修正する前の、古い方の記録によりますね?」

「……まさに、お察しのとおりでございます」

「ルシールの母親は事故当時、既に妊娠六カ月でした。ストレスや疲労で、お腹のルシールの発育も遅れていたため、お腹が目立たなかった。妊娠二カ月と誤診したのは経験の浅い医者ですが、これも、アンジェラ出生記録の遅延ミスが原因ですから、致し方ない所ですね」

オリヴィアは、ルシールの母親との関係についても説明した。

「アンジェラの母セーラ・スミスは、私の付き添いを務めていたので、セーラ急死に伴い、ライト夫人を後任に雇っていたのです。アンジェラの父親の事情が問題になって、アンジェラを育てる保母も必要でしたし」

「成る程……」

カーター氏はひとつ相槌をした後、不意に疑問顔になる。

「しかし、それでは何故にアイリス嬢……ライト夫人は、自分で連絡をして来なかったのか……?」

オリヴィアは小首を傾げて暫し考えていたが、やがて女性の観点からの答えを示した。

「ライト夫人は口が堅い人でした。推察ですが、妊娠したのが理由でしょう。冬の嵐の中を一人旅ですよ……余程の訳があった筈です」

それはそうだ――カーター氏はハッとしていた。

アイリス・ライトは、いきなり蒸発するという形で一人旅に出たのだ。まして、妊娠六ヶ月という身重の身体で。良家の娘とは思えぬ程の、不自然な行動だ。

だが、妊娠していたのなら、夫か恋人に相当する相手が居た筈だ。カーター氏は真剣な面持ちになった。

「アイリス・ライトのご夫君は?」

「それは、私も知りません。アイリス・ライトは此処に来た時、既に『ライト夫人』でした。正式な結婚証書が実在するのは確かですが、何処の教会に提出したものやら……カーター氏なら探せるかも知れませんね?」

「え、はあ……鋭意、努力を尽くす所存ですが……牧師の守秘義務も考慮するとなると……これは一体、どこから手を付ければ……」

カーター氏は律儀に応じながらも、グッタリとした気分になって来るのを抑えられなかった。オリヴィアは、カーター氏の心中を察しながらも、致し方なさそうに苦笑するばかりだ。

*****

やがて一通りの整理と確認が済む。

オリヴィアは住み込みで雇っている家政婦に、アンジェラとルシールを応接間に呼んで来るよう指示した。二人は庭園整備の作業の途中だったが、その手を止め、すぐにやって来た。

二人が空いているソファに座ると、カーター氏はアントン氏の遺言書をルシールに手渡した。

「三ヶ月前、ライト嬢の祖父に当たるアントン氏が死亡しました。その遺言書をお読み下さい」

「祖父……? 遺言書でございますか?」

ルシールは戸惑いながらも、遺言書を開いた。

『我が所有する、ローズ・パーク邸の一区画の庭園オーナー権、其を我が子孫アイリス・ライト、及び、アイリス・ライトの子孫が着実に相続するを、我望むものなり。かつ、此処に厳密に指定せし相続人の全てが既に死亡せし時、相続人による相続放棄の真正なる意思の確定せし時、ただちに其のオーナー権を、謹んでクロフォード伯爵家に全返還するものなり』

ルシールは無言のまま、遺言書の全文に二度、三度、目を走らせた。やがて、呆然と呟く。

「……居たんですか? 祖父が……?」

「三ヶ月前に、突然死されるまでは」

「突然、いったい、どういう……」

カーター氏は、ルシールの反応に首を傾げ始めた。

折よく、アンジェラが訳知り顔で口を挟む。

「カーター氏、ルシールは動転すると真っ白になる性質ですので。一応、私にも、かいつまんでご説明いただけますでしょうか?」

「承知いたしました」

■アシュコート伯爵領…舞踏会・第二夜■

カーター氏の説明が終わり、アンジェラは要点を手際よくまとめた。

「……つまり、こういう事でございますね。三ヶ月前に急にお亡くなりになったアントン・ライト氏は、我々も知るところの、クロフォード伯爵領の社交の名所『ローズ・パーク邸』オーナー協会に属する、オーナーの一人でいらした。ローズ・パーク邸の一区画の庭園オーナー権を所有し、運営管理されていた……すなわち土地持ちの名士でいらした」

カーター氏は、アンジェラの理解の早さに驚きながらも、「御意」と首肯して見せる。

アンジェラは早速ルシールを振り返った。

「……という事で、要点は頭に入ったかしら、ルシール?」

ギクシャクと頷くルシール。アンジェラは横からしげしげと遺言書の内容を眺め、感心の面持ちになった。

「すごい話。舞踏会の会場としても引き合いあるお屋敷だし、地代収入だけでも、派手に贅沢しなければ、一生、余裕で暮らせる」

カーター氏は静かに微笑んだ。

「老アントン氏は、子孫の行く末を気にかけておられたのでしょう」

オリヴィアは、お茶を優雅に一服しながらも、ルシールを注意深く見守っていた。

「私が以前からアシュコート伯爵に求婚されている事は知ってるわね。将来の事を考えるとね……アンジェラ、ルシール……お前たち二人とも、そろそろ良い人を見つけて結婚するか、土地を得て独立する頃合だと思うの。目下の問題が山積みだけど、私が何故に今回の舞踏会への出席を許可したのか、分かるでしょう?」

思わず息を呑むアンジェラとルシール。カーター氏もポカンとしていたが、やがて感心しきりの顔になった。

「重ね重ね感服いたします、レディ・オリヴィア」

「変なところで感服しないで下さるかしら? 私は変人で魔女のオールド・ミスで通っているんです」

オリヴィアは、ユーモアを込めて眉の端を上げて見せたのだった。

ルシールは再び遺言書に見入った。やがて、困惑したままの顔を上げて、カーター氏をおずおずと見つめる。

「あの……カーターさん、余りにも急なお話で……今夜一晩だけ、考える時間を頂けますか? 明日には多分、考えをまとめてお返事できると思うのですが……」

「大変な動揺は理解できます、ライト嬢。では明日、改めてお訪ね致しましょう」

*****

舞踏会の夕べが迫っていた。

しかし、予定されている出発の刻限が近付いても、ルシールは物思いに沈んだ状態のままだった。

緑の森の中、静かな春の夕闇に包まれたゴールドベリ邸。

ルシールは、アンジェラとの相部屋にある机の前に座り込んでいた。

いつしか、入浴を済ませたアンジェラが、鏡台の前でブラッシングしていた。アンジェラは、いつものようにルシールに声を掛ける。

「舞踏会に出席できる気分じゃ無いでしょう? 私で良ければ、話し相手になれるけど……」

ボンヤリとアンジェラを振り返るルシール。

「アンジェラ? まだドレスを着てないの? 舞踏会は?」

「ルシールを最優先!」

アンジェラはルシールの隣に腰を下ろした。

徐々に深くなる宵闇。

「この前、血だらけのナイフが届いた時の借りもあるし……今、ルシールがどう言う状態なのかは、実の姉妹よりも良く分かってる」

ルシールは無言でうつむき、ランプに照らされた机の面を見つめた。

そこには母親の唯一の形見があった。バラの花の形をしたアメジスト細工のブローチだ。

流麗なラインに沿って、細かなアメジストの粒が埋め込まれている。ランプの揺らめきを反射して、紫色の光が繊細に表情を変えていた。

――まるで、亡きアイリス・ライトの、アメジスト色をした目のように。

アンジェラが思案顔で語り出した。

「ライト夫人、秘密がいっぱいあったのね。ルシールのおじい様……アントン氏の事、寝耳に水だったわよ」

「嘘……ついてた訳じゃ無いよね……」

ルシールの心は、まだグルグルと混乱している。

「今、幾つか思い出しているけど、ライト夫人が言ってた事は、全部、カーター氏が説明した内容と一致してる。ライト夫人は『庭園管理を教えてくれた師匠が居た』って言ってたけど、その師匠って、アントン氏の事ね。ローズ・パーク邸の庭園って『観光に行きたい庭園の名所リスト』でも常連だし、指名されて、クロフォード伯爵邸の庭園も管理してた……って、それだけ、凄腕の庭師だったって事じゃない」

ルシールは、ボンヤリとうなづくばかりだ。

「……薔薇の花咲く白亜の館……」

「ライト夫人が、よくお話してくれたよね。遥か遠き国の、館と庭園の物語。新聞や雑誌で紹介されている『ローズ・パーク邸』の特徴、ライト夫人が話してた『薔薇の花咲く白亜の館』の特徴そのまんま。新古典様式とエキゾチック様式を組み合わせた白亜の豪邸。隣接してるクロフォード伯爵領に、ホントに実在したなんて。近場だから、逆に気付かなかったわ」

沈黙が横たわった。ランプの炎が揺れ続けている。

「ルシール。向こうに行ったら、謎のお父様の事も出て来ると思う。ルシールのお母様は、何となく、未亡人って事になってたけど。その『何となく』っていうの、どうしても引っ掛かる……大丈夫?」

「……何処の誰なのかも、分からない人だもの」

ルシールは眉根を寄せて、口を引き結んだ。

アメジストのブローチを手に取り、専用の小箱に慎重に納める。

「私が20歳になったら、事情を話してくれる約束だった……きっと、母なりに慎重に考えて、今までのお話の中にも、少しずつヒントを残していたに違いない」

アンジェラも同意見だ。

「何故、そんなに慎重にしなければならなかったのか? ローズ・パークへ実際に行って見れば、その理由が、いくらかでも見えて来るのかもね……見知らぬ過去の謎、見知らぬ時の真実が」

ルシールはブローチの小箱を胸に抱き、決然とうなづいた。

「今さら、父に会いたいとは思わないし、誰なのか知りたいとも思わない。でも、母の過去に何があったのか、それだけは知りたい」

ランプの灯る窓の外では、夕方から夜へと、暗さを増す空が広がっていた。

*****

ダンス会場となっている館では、続々と客人が到着し、今宵も大盛況といった様子である。

しかし、バルコニーで目的の人物を待ち構えているエドワードは、浮かぬ顔であった。

「アンジェラがまだ現れない……客リストはチェックしたんだけどな」

エドワードの後ろにはバルコニーに接する大窓があり、キアランが手持ち無沙汰で寄り掛かっている。

「ナイジェルの件で来なくなったとか?」

キアランはそう突っ込んではみたものの、自身でもその言葉を信じている訳では無かった。ルシールも来ないのはどういう訳なのか、詳細を知らないだけに適当な説明が思い浮かばない。

昨夜のアンジェラとルシールが身にまとっていたようなシンプルなドレスは、会場の各所で見受けられた。特に独身男女グループがたむろしているポイントで、相当数がヒラヒラと動いている。

接客前線を担当する会場スタッフが縦横に動いて、『縁組ビジネス』という小遣い稼ぎにいそしんでいるのだ。

しかし、この夜、活躍しているスタッフ嬢たちは、いずれも別人だ。

「縁組ビジネスか……」

ぼそっと呟くキアランであった。

*****

やがて、アシュコート伯爵が会場回りに出て来た。

アシュコート伯爵は、ヒューゴと一通り歓談を済ませると、バルコニーの方に見覚えのある二人の青年を見かけ――意外そうな様子で声をかけた。

「これは珍しい! リドゲートも出ているとは!」

エドワードとキアランもアシュコート伯爵に気付き、一礼する。

アシュコート伯爵は年齢の割に若々しく、かくしゃくたる老人だ。白髪混ざりの銅色の髪に、鷹を思わせる鋭い灰色の目。背筋はシャンと伸びており、今なお現役の将軍のような風格がある。

「我が領内の春の舞踏会にようこそ。辺境なのだが、気に入ってくれたかね」

「思いがけない穴場で、驚きです」

「オーナー協会に属する地元紳士たちに、この屋敷と地所の所有権を委譲し、運営管理を任せておられるとか……当クロフォード領内のローズ・パーク邸も、同じ運営スタイルです」

エドワード、キアランの順で寄せられたコメントに、アシュコート伯爵は気さくにうなづいて見せた。

「複数の屋敷を同時に管理するのは、やはり時間とコストの問題があるからね」

アシュコート伯爵は不意に面白そうな顔をして、エドワードをしげしげと眺め出した。

「エドワード君のあの軽薄な噂は、やはり一計を案じての事だな? 何故いつまでも貴公子二人して、ダンスに参加しないのかね? 魅力的な若いレディたちが熱い眼差しを送っているぞ」

「実は気になる令嬢と昨夜会ったのですが、今宵は彼女がまだ現れないのです」

「ほう? 一体、何処の誰なのかね?」

アシュコート伯爵は興味津々だ。

――確か、アンジェラは、アシュコート伯爵の知り合いか何かだったか。

エドワードは怪訝そうな眼差しで伯爵を見返した。

「何やら色々と謎めいた令嬢で。しかるべき筋の出身にも関わらず、レディの称号は持っていないとか」

「探求気質に火が付いたと言う訳だな」

「社交界で噂にならないのが不思議な程の令嬢ですね。アンジェラ・スミス嬢の事は、ご存知ですか」

アシュコート伯爵は、ハッとした顔でエドワードを注目する。

「成る程……いや、成る程」

次にアシュコート伯爵は、妙な訳知り顔で呟き始めた。ひとしきり感心した後、アシュコート伯爵は、怪訝そうな二人に対し鷹揚に腕を広げて見せたのだった。

「社交界で知られていないのも、当然だな。アンジェラ、ルシール……彼女たちは、魔女様の名付け子だ」

「……魔女!?」

エドワードは思わず目を丸くした。

アシュコート伯爵は気さくで陽気な人物だが、このような事で下手な冗談を言う程、野暮な人物では無い。

「森のコテージに住まうレディが、いささか変わった力を持っていてね。あの若い二人、生まれた時から魔女様と一緒に居る影響が出ているのか、妙に直感があって、良縁の仲介について実績がある」

アシュコート伯爵は、口でこそ『魔女』とは言っているが、その魔女をレディ扱いしているのは明らかだ。伯爵は再び、興味深そうにエドワードを眺めた。

「エドワード君も、既に適切な淑女を軒並み紹介された筈だが……如何かね」

思わず昨夜の出来事を思い出し、言葉に詰まるエドワードである。アシュコート伯爵の説明が続いた。

「社交界デビューを前に、彼女たちは或る問題を抱えた。それ以来、お金を切実に必要としている状態だ。通常は割増手当付きアルバイトとしての参加なんだ。だが、今回は魔女様の気が珍しく変わって、二人をゲスト扱い出来た……と言う状況でね」

暫し思案していた伯爵は、やがて怪訝そうな顔で、エドワードを眺めた。

「しかし、エドワード君は、彼女が紹介した妻候補に関心は無いのか?」

「私は、アンジェラ本人の謎に相当興味があります……ロックウェルの猟奇事件との関係も含めて」

エドワードは、琥珀色の目に真剣な表情を浮かべて、アシュコート伯爵を見返していた。そこには、軽薄な放蕩紳士という雰囲気は既に無い。さながら、事件の存在を嗅ぎ付けた探偵と言う風である。

「かの事件について、公的な事情をご存知だそうですね」

キアランもアシュコート伯爵をじっと見ている。

アシュコート伯爵は顔色を変えて沈黙していたが、やがて厳しい眼差しで若い二人を見つめた。

「警告しておくが、下手に近付くと――今度は君たちが、何処かで冷たくなっているかも知れんのだぞ?」

「挑戦ですか? 望むところです。シンクレア家は、武門の家柄です」

エドワードは、不敵な笑みを見せた。一見ゆったりと立っているように見えて、そこには一切、隙が無い。見る人が見れば、軍人に匹敵する高度な戦闘技術を会得していると分かる所作だ。

少しの間、互いの力量を探り合う視線が交錯する。

一瞬、緊張の火花が散ったが――何かを悟ったのであろう、アシュコート伯爵は不意に灰色の目を伏せ、意味深に息をついた。

「私はどうやら、君たちを見くびっていたようだ……」

次に灰色の目を開いた時、アシュコート伯爵は既に、一つの決断を下していた。カツンとステッキを付く。

「――よろしい! これも何かの縁……明日にでも君たちを、レディ・オリヴィアに引き合わせよう。君たちの都での経歴が、役に立つかも知れん」

エドワードとキアランは、目を見張り、姿勢を正す。

「アンジェラは目下、実の父親に脅迫を受けている。つい最近、彼女はズタズタになったネズミの死体と、血付きのナイフを送り付けられた。ユージーン・クレイボーンが、その父親だ! 自分の領内で凄惨な事件が発生しても解決に動かず、ここ20年の間に愛人を50人以上取り替えるような――アンジェラの事を実の娘と認めない男なのだがな……」

エドワードとキアランは、予想外の衝撃を受けて、息を詰まらせるのみだ。

アシュコート伯爵は悩ましい様子で溜息をついていたが、すぐに気を取り直し、言葉を継ぐ。

「問題のコテージへの道順は少し分かりにくくなっていてな。最初は誰でも迷う所だから、ホイホイと道を外れる事が出来る乗馬は勧められん。昼の表敬訪問の刻に合わせて馬車を手配する。落ち合い場所は承知しているな。では明日、また会おう」

アシュコート伯爵は、年齢を感じさせない所作で身を返し、歩き去って行った。

エドワードとキアランは、アシュコート伯爵を見送りながらも、いまだ衝撃が抜けない状態だ。

豪邸の二階のバルコニーからは、なおも集まって来るダンス客たちの賑やかなさざめきが眺められたが、二人の注意は、すっかり別のところにあった。

「ユージーン・クレイボーン……今は隠者も同然だけど――ロックウェル公爵じゃないか」

珍しく呆然と呟くエドワードである。キアランは慎重に記憶を検討し始めた。

「昔、大怪我して、それ以来ずっとロックウェル城に隠遁していると聞いた事がある。彼が死んだら、お家断絶だと言う話だが……子供が――というか、公爵令嬢がいたとは全く知らなかったな」

「謎のスミス嬢、その正体は、ロックウェル公爵令嬢レディ・アンジェラ・クレイボーン……と言う訳か! おそらくスミス姓は母方の名だろうが、考えてみれば確かに……クレイボーン姓は、名乗りたくないだろうな」

キアランは同意してうなづき、ぼそっと私見を付け加えた。

「あんな父親を持ったアンジェラが、父親不信から男性不信に発展しなかったのは、むしろ奇跡かも知れない」

エドワードは無言で顔をしかめ、頭をシャカシャカとやるのみだった。

■ゴールドベリ邸…ミステリー・クロス■

昼どきの森の中の小道は、春の木洩れ陽に照らされて明るくなっていた。木陰の中の木こりの作業場から、斧の音が聞こえて来る。

やがて、ゴールドベリ邸へと続く道に、アシュコート伯爵のお忍びの馬車が現れたのだった。

馬車に乗っているのは、アシュコート伯爵とエドワード、そしてキアランである。

アシュコート伯爵は、再び馬車の窓を下げて前後を確認し始めた。

「まだ木こりの作業場の辺りか」

「失礼を承知で申し上げるのですが、先ほどから、同じところをグルグル回っているのでは?」

エドワードが怪訝そうに口を挟む。アシュコート伯爵は気分を害した様子もなく、飄々と応えた。

「失礼でも何でもない。この辺は実際に難所だからな。泉の湧く位置が妙な風に分布しとるんだ。昔の人が、底なし沼にハマらないように道を通した結果、こうなった」

キアランはしげしげと辺りを眺め、感心しきりだ。これほど奥深い森は、100年や200年の歴史どころの物では無い。

「迷路のような道と言い、本当に魔女が住んでいそうな森ですね」

「住んでるのは正真正銘、古代からの伝統を引き継ぐ本物の魔女さ。『ゴールドベリの巫女』は、中世の狂信者の時代『ゴールドベリの魔女』と呼ばれた」

「本物ですか? 自称『ゴールドベリ』の偽物ではなく?」

「会えば分かる」

アシュコート伯爵は意味深に、ニヤリとする。

次の一瞬。

馬車が、ガクンと方向を変えて急停車した。三人は咄嗟にバランスを取り、事なきを得る。

早速アシュコート伯爵が、馬車の連絡窓を通して御者に声をかけた。

「どうした?」

「申し訳ありません、伯爵様。さっき、黒ネコが横切って。ペシャンコにするところでした」

「黒ネコ?」

「光りながら飛んでましたよ。魔女の使い魔とか、ば、化け猫ですかね?」

御者の声は、最後は震え声になっている。アシュコート伯爵が「フン」と鼻を鳴らした。

「飛んで光る化け猫だと? バカを言うな。真実、妖魔ネコマタなら、我が名剣のサビにしてくれる。すぐに馬車を出せ」

ためらうような間があったが、馬車は再び走り出したのだった。

*****

ほどなくして、注意深く整備された大樹が林立し始めた。

御者のホッとしたような声が、到着を告げる。

「ああ、やっとゴールドベリ邸の庭園に入りましたよ」

「確かに、『魔女の隠れ家』に到着したな」

エドワードが不思議そうに口を挟んだ。

「此処が? まだ森の中のようですが」

「魔女様のところに居た女庭師が、これまた大した腕前でな。女庭師は数年前に死んだが、その娘が技術を引き継いでいる」

キアランもピンと来るところがあった。

「女庭師の娘……ルシールですか?」

「うむ。彼女も、いささか訳アリだ。魔女様の周りには、何故か様々な『訳アリ』が集まってくるらしい」

そうしているうちにも、御者は手際よく、大樹の間の駐車場に馬車を停めた。次に御者は、「わぁ!」と悲鳴を上げた。

「ああ! あの木の上に、木の上に!」

「今度は何だ?」

アシュコート伯爵が馬車窓から顔を突き出す。エドワードとキアランも御者が指差すあたりに目を走らせた。

堂々たる大樹の高い枝の上に、不審な人影が見える!

「ど、泥棒かーッ!?」

御者が大声を上げた。

高い枝の上に居た不審な人影は、あからさまにギョッとし、手足を滑らせる。

そのまま根元へ真っ逆さまに落ちて行った。途中の枝が、派手なバキバキと言う音を立てる。

アシュコート伯爵に続いて、エドワードとキアランも慌てて馬車を降りる。

落下場所と思しき低木の間に分け入る。ハーブの群落の中に、二人が折り重なって転がっていた。

後ろで結わえただけの長い髪が、それぞれ金色と茶色の扇のように広がっている。そこに折り重なって転がっていたのは、男物の作業着を着ていたアンジェラとルシールであった。

「アンジェラに、ルシールか!? そんな格好で一体、何を……!?」

いち早く声を掛けたアシュコート伯爵は、ルシールが持っていたホウキに目を留めた。いにしえの狂信者の時代の如き、魔女の迷信と誤解を招きかねぬ光景だ。

「ネコにホウキ? 何たる事だ! 高い木の上に登って、ホウキで空を飛ぼうとしていたのかね」

御者が、アンジェラの腕の中に納まっている黒ネコに気付き、ギョッとする。

「その黒ネコ、さっきのボーッと光ってた、ネコマタじゃ無いですよね!?」

エドワードとキアランは驚きの余り、絶句したまま一言も発せない。

アンジェラとルシールは、何事も無かったかのように、それぞれ立ち上がった。足元に広がっているのは、作りかけの菜園だ。掘り起こされた土や柔らかな草葉が、絶妙なクッションになっていたのだ。

「この迷いネコが、木から降りられなくなっていたので……レディ・オリヴィアが、お客様があるかもと言われていましたが、人間だったとは意外でしたわ」

ノホホンと黒ネコを撫で回すアンジェラの言葉に、目をパチクリさせるばかりのエドワードであった。

「人間じゃないお客様って……」

「ネコとかリスとか……幽霊も時々来るんです」

アンジェラは腕の中の黒ネコを地面に降ろすと、魔女の評判に直結するような怪しげな印象を与えているとは全く知らぬげに、涼しい顔で解説し続けていた。

そこへ、別の馬車の姿が現れた。四人乗りの一般的な馬車だ。ギョッとする面々。

「馬車が、もう一台?」

その馬車もまた、ゴールドベリ邸の門の前で停車した。ゴールドベリ邸が所有している送迎用の馬車だ。舞踏会の初日は、アンジェラとルシールもこの馬車で送迎されていた。

そして今、馬車から降りて来たのは、カーター氏だ。キアランは思わず声をかける。

「カーター氏!?」

「リドゲート卿?」

カーター氏も、状況を見て取り、目を丸くするばかりだ。

全員でしばらく混乱し、シーンとなる。

アンジェラが引きつった笑みをしながらも、玄関の方向を指し示した。

「どうぞ、こちらに……」

その時、馬車の音に気づいて、訪問客を迎えに玄関に出て来た家政婦が口をあんぐりし、次いで慌て出した。

「ああ……そんな、アシュコート伯爵様の前で……お二人とも! 早くお着替えになって下さい!」

アンジェラとルシールは、薄汚れた作業着という格好だ。二人は家政婦と、アタフタした様子で相談を始めている。

「驚かされるお嬢さんだと言う事だけは……確かだね」

エドワードの、その絶句交じりのコメントに、キアランは同意するのみだ。

キアランは、カーター氏を振り返った。カーター氏も戸惑っている様子だ。

「カーター氏は、何故、此処に……?」

「館の庭園を管理して下さっていた、アントン氏の事は、ご存知ですね?」

「ああ……確か、三ヶ月前に死亡した、ローズ・パーク邸のオーナーの一人……」

カーター氏は、ルシールに素早く目をやった。

「あの茶色の髪と目の娘さんが、ライト嬢で……アントン・ライト氏の孫娘でございます」

――ルシール・ライト――

キアランは、カーター氏の視線の先に釘付けになった。

*****

一刻の後。

応接間に通された訪問客は、早速、ゴールドベリ邸の女主人レディ・オリヴィアと対面していた。

オリヴィアは、いつものように杖を突き、主人用のソファに堂々とした姿で座している。

「そちらの若い方を、ご紹介頂けます? 私は初めてお会い致しますわ……閣下」

社交辞令が済み、訪問客たちは、おのおの座に着いた。

そのタイミングで、黒い簡素なドレス姿のアンジェラとルシールが、おすまし顔をして茶器を運びながら滑らかに入って来た。二人とも、シンプルなアップスタイルの髪型だ。個人的に知っている者で無ければ、『使用人』として見逃すところだ。

オリヴィアが、おもむろに口を開く。

「……カーター氏、ロックウェル事件で新たな知らせが来ているので、失礼ながら少し時間を頂きます」

承諾するカーター氏。オリヴィアは急便として受け取った文書を、中央の円卓の上に示した。

「新しい報告書の要約によれば、バラバラ死体の頭部が発見されたそうですね」

「一昨日の夜、急報が入ったので、ヒューゴ君に要約依頼したんだ。彼は捜査報告書を読むのが速いのでね」

補足説明をしたのは、アシュコート伯爵だ。

カーター氏は弁護士としての興味を持って、ロックウェル事件の内容に耳を傾けていた。

一方、エドワードとキアランは、一昨日の夜と聞いて、ヒューゴが無理やり引きずられていった一件に思い当たっていた――あの時か!

オリヴィアは釈然としない顔つきだ。

「ヒューゴさんは、慌てていたのかしら?」

「どういう事かな?」

「要領を得ない内容なのです。『ギックリ顔』とは、どういう意味ですか?」

「……!?」

アシュコート伯爵の目が点になった。慌てて文書を確認し始める。

「ヒューゴ君は有能なのに」

アンジェラとルシールは、内心困惑しながらも慎ましく沈黙を守っていた。原因に心当たりがあるのだ。楽団のハープ奏者がギックリ腰になったというトラブルが響いたせいに違いない。

アシュコート伯爵は、やれやれと言った風に説明を補足した。

「つまり、その頭部は、その顔がかなり陥没し変形しているんだ……メッタ打ち状態でな」

「それで分かりました……顔面復元が必要だという意味ですね」

オリヴィアは取り乱す事も無く、すぐに要点を理解した様子だ。オリヴィアは、宝石のような緑色の目を伏せて暫し沈黙すると、やがて手近なペーパーに走り書きをし――そのメモをアンジェラに手渡した。

「ジャスパー判事が必要とする人材をご紹介できますよ。その氏名の絵描きが、この先の運河に出没します。医学の道から転向した画学生で、変形した顔面の復元が正確です」

オリヴィアには、謎の透視能力があったのだ。事件の真相や全容が分かると言うような神の如きレベルでは無いものの、解明に必要なヒントを持っている人物や出来事を、鋭く察知するのである。

伯爵は、アンジェラから手渡されたメモを確認した。くだんの画学生の名が書かれてある。

「そう言えば、橋の上では、似顔絵稼業の絵描きの卵がたむろしているな……うむ! ――今日の内にも、ジャスパー判事に連絡しておこう」

エドワードは会話に耳を傾け、お茶を一服しながらも、オリヴィアを慎重に観察していた。見れば見る程、アンジェラの血縁だと分かる。

アシュコート伯爵とオリヴィアの話が一段落したところで、エドワードは口を開いた。

「運河の人々の中の一人……レディ・オリヴィアのご存じない人物でしょう?」

「ええ、私はこの通り、外出の難しい身体ですしね」

「話に聞く『ゴールドベリの勘』ですか」

アシュコート伯爵は、オリヴィアと視線を交わした後、鷹揚にうなづいた。

「この類の透視が外れた事は無かったな」

「ロックウェル事件の続報を、此処で聞けるとは予想外でしたね。ロックウェル公爵とアンジェラ嬢の関係は理解できますが。アンジェラ嬢は、あの猟奇事件にも巻き込まれているのですか?」

オリヴィアは、不思議な緑の目でエドワードを眺め始める。

「閣下が連れて来た紳士は、意外に頭が良いようですね……」

茶カップを手にして、感心したように呟くオリヴィア。

「アンジェラが、そのバラバラ死体の発見者でもあるのです。復活祭の機会にロックウェル公爵と対面する予定が、吹き飛びました」

オリヴィアの口元に、謎めいた微笑が浮かんだ。

「エドワード卿は、ロックウェル事件に首を突っ込むつもりで居るのですね」

「ご迷惑で無ければ」

「さすがに閣下が見込んだ方ね……歓迎するわ」

そのオリヴィアの急変は、アンジェラとルシールにとっては驚天動地であった。

信じがたさの余り、「オリヴィア様!」と叫ぶアンジェラ。そのまま、「ああ……もう……信じられない!」と頭を抱えてしまう。

オリヴィアはイタズラっぽい笑みを浮かべたまま、平然としている。そして、傍らに控えるルシールを指し示し、『次の話題に移っても良い』というサインを送った。

「さて……カーター氏、早速、仕事の話をお願いしますね」

第二章「忘れえぬ面影」

■ゴールドベリ邸…老庭師の孫娘■

「……という事で、此処までは昨日、説明いたしました」

緑の森に囲まれたゴールドベリ邸。

閑雅な応接間の中、弁護士カーター氏の説明が続いている。

「そして、ローズ・パーク邸の一区画の庭園オーナー権をライト嬢が相続する事に関し、ライト家の本家に当たるビリントン家が不服を申し立てております。ご存知の通り、女性が資産を相続する事は困難であり、遺言書の内容は尊重されるものの、アントン氏の甥であるタイター・ビリントン氏の、本家直系の当主ゆえの法的立場は非常に強いのです」

カーター氏は資料を慎重に確認し、言葉を継いだ。

「目下、アイリス・ライトの死亡報告書の内容修正を急がせておりますが、裁判に持ち込まれた場合、残念ながら、分家筋に過ぎぬライト家の地位、父親不明という事実は、不利に働くでしょう」

オリヴィアは静かに耳を傾け、ゆっくりとうなづいた。

「大いに予想可能な事態ですね」

「御意。アントン氏が所有していた、ローズ・パーク村の家屋、およびローズ・パーク庭園の庭師用コテージは、二件とも既にタイター氏が占有し、売却して金に換えています。故に、クロフォード伯爵領におけるライト嬢の滞在先は宿屋になるところですが、ライト嬢の今の財務状況、及び身辺安全を考慮し、手続きに必要な間、クロフォード伯爵邸での滞在が許可されます」

オリヴィアの傍でアンジェラと共に控えていたルシールは、息を呑んだ。

「クロフォード伯爵様のお屋敷……!?」

「それは破格な待遇ですね!」

アンジェラも、緑の目を丸くしている。

「ローズ・パークのオーナー問題は、クロフォード伯爵家の重大な関心ごとでございますので。アイリス及びその子孫無き場合、及び子孫による相続放棄の場合。そのオーナー権はクロフォード伯爵家に返還されるので、クロフォード伯爵家も、この件に関しては当事者なのです」

カーター氏は説明を締めくくり、ルシールの理解状況を確認した。

オリヴィアは、ルシールの当座の保護者としての立場だ。早速、気がかりな点を確認する。

「クロフォード伯爵は、この案件に関して協力的という事?」

「勿論でございます。館への受け入れ話でも、快諾を頂いておりまして……」

カーター氏はオリヴィアの質問に応じた後、慌てたようにキアランを振り返った。

「リドゲート卿がご不在の間に、当主と取り決められた話でございますが……」

「別に私は構いません。この話は初耳でしたが、父の決定に従いますから」

ルシールは不安な面持ちで、カーター氏とキアランのやり取りの様子を、そっと窺っていた。

(この黒髪の紳士が、クロフォード伯爵家の当主の跡継ぎとは、すごい偶然だわ)

やがてオリヴィアが、ルシールの方を振り返る。

「後はルシールの意思ね。一晩考えて、結論は出て?」

「クロフォード伯爵領を訪問して、ローズ・パークのオーナー権を相続したいと思います!」

ルシールは大きくうなづいた。既に決心はついていたのだった。

次の一瞬。

わずかな沈黙の中、キアランとルシールの視線が交差した。

キアランは、少し眉根を寄せてルシールを注目している。突き刺さるような鋭利な眼差し。

思わずギョッとするルシールであった。

*****

訪問客たちが、ゴールドベリ邸を退去する頃合になった。

送迎馬車が回されている間、ルシールは不安な思いで『リドゲート卿』という人物を観察する。

キアランは、黒髪黒眼の背の高い男性だ。妙に着やせする性質らしく、一見して平均的な体格に見えるのだが、その着衣の縫製を目測してみると、中身は軍人並みの体格らしいと予想できる。

ただでさえ小柄なルシールにとっては、キアランは、非常に威圧的なものを感じさせる、近づきがたい存在だ。

キアランの、総じて鍛えられた鋼を思わせる低い声や立ち居振る舞いは、断固とした性格を暗示している。常に無表情で気難しそうな人だし、目つきはキツイし、下手にドジ踏んだらマズイ事になりそうだ。

彼の父親であるクロフォード伯爵も、おそらくは……

ルシールは、いっそう不安な思いが大きくなっていくのを抑えられなかった。

(アシュコート伯爵様のような、気さくな方なら良かったのに)

馬車の近くで、キアランとカーター氏が、打ち合わせを始めている。

ルシールは、二人の様子を、注意深くチラチラと窺った。

すると、突然キアランが身を返し、こちらを振り向いて来た。突き刺さるような視線だ。

(ジロジロ見ているのが、バレた!?)

ルシールは一瞬、抜き身の刃を突き付けられたかと錯覚し、無意識のうちに、二歩ほど後ろに飛びすさっていた。

ルシールの、見ようによっては不敬罪スレスレの反応を知ってか知らずか、キアランは、あっさりとした様子で声を掛けて来る。

「明日の朝一番で馬車を手配します。個人的に必要なものを荷造りしておいて下さい」

「お……、お手数おかけ致します」

ルシールはドッと冷や汗をかきながらも一礼した。まだ心臓がバクバク言っている。

キアランは奇妙な眼差しでルシールを見やると、何やら思案しつつ、ステッキを上げ下げして「この位か」などと呟いている。

ルシールの背丈を確認している様子だ。

訳が分からず、ルシールはポカンとするばかりである。

そうしているうちにも、送迎馬車の準備が済んだ。

キアランは、「それでは、また明日」と言って身を返すと、他の人たちと共に馬車に乗り込む。

ポカンとしたまま、ルシールは、ゴールドベリ邸の入り口にアンジェラと並んで、送迎馬車を見送ったのだった。

「ローズ・パークのオーナーの一人になると、有難くもクロフォード伯爵家の人々と、お近付きになると言う話……なんか不安になって来た」

「高い身分の人々の例にもれず、気難しい性質だろうけど、常識的な範囲なんじゃない」

「なんか突き刺さるような不吉な視線だし、無表情だし、何を考えているのか分からないし……カーター氏なら、怖くないんだけど」

「……根は悪い人じゃ無いと思うよ?」

「クロフォード伯爵様も、輪をかけてあんな感じに違いないし、大丈夫かしら……」

アンジェラは、アサッテの方を向いてプルプルし始めた。見るからに、吹き出し笑いを抑えている風だ。ルシールは頭を抱えるのみだ。

「笑い事じゃないでしょ……」

*****

ゴールドベリ邸の訪問客は、無事に町に到着した。

各々必要な手配を済ませている内に、早くもその日は暮れて行く。

ルシールは不安がっていたのであるが、クロフォードの面々にとっては、ルシールの印象は、実際は悪いものでは無かったのである。

キアランとカーター氏は滞在中の町内ホテルの前で送迎馬車から降り、エドワードと別れた後も、ポツポツと会話を続けていた。

「驚きですね。ライト嬢に関して、公的記録がそこまで錯綜していたとは」

「御意。依然、父親不明ですし、母親の不可解な行動がございます。社会的立場において多少の難点はございますが……」

「特に問題は無いように見えます」

カーター氏は珍しく、含み笑いで応えている。

「レディ・オリヴィアの教育の賜物でございますね。ですが、そのように娘を育て上げたのはアイリス・ライト夫人です。総じて素晴らしい母親だったのでしょう。それにしても、舞踏会の方で、リドゲート卿が若いライト嬢と既にお会いだとは思いませんでした」

キアランは少し顔をしかめ、思案している風だ。

「まさか彼女が、今回の案件の当事者とは……確かな後見人は居るのですか? 彼女は20歳未満では?」

「彼女は小柄ですし、印象から言っても17歳か18歳にしか見えないですね。ライト嬢は今年25歳です。つまり、若様とは二つ違いで……遺言書の内容を一人で遂行できる資格をお持ちです。彼女は、見かけの割にしっかりしたお嬢さんですよ」

暫し、絶句の間が入る。

「……そうですか」

キアランはそう言ったきり、後は沈黙していた。

*****

一方、ゴールドベリ邸の中。

夜が更けると共に、ルシールの旅の準備も整いつつあった。

オリヴィアはルシールを呼ぶと、テーブルの上に畳まれたショールを示した。

「ルシール、誕生日にはちょっと早いけど、これは私からの贈り物よ。クロフォード伯爵とご挨拶する時は、身に着けると良いでしょう。これだけでも格があるから、だいぶ違うわ」

「有難うございます……」

「ローズ・パーク舞踏会でも大丈夫ね!」

アンジェラが満面の笑みで祝福した。ルシールは感激に顔を赤らめ、一礼しつつショールを手に取る。柔らかな光沢のあるライラック色。繊細な小花紋様も織り込まれている一級品だ。

オリヴィアは微笑み、お茶を一服した。

「ルシールには、その色が一番似合うわ」

やがてオリヴィアは、普段は余り話さなかった事を話題にした。アンジェラとルシールは耳を傾け始めた。

「滞在先となるクロフォード伯爵邸では、きっと、ライト夫人についても色々と質問されるでしょうね。私に分かる限りで、お話しておきましょう」

*****

――25年前の冬。

辺り一帯は、連日、常ならぬ大雪に見舞われていた。

雪が弱まり、或いは止んだ隙をついて、雪道仕様の馬車が行き交うという交通状況である。

全ての発端となった、雪闇の中の馬車事故。それもまた、慣れぬ大雪の中で馬車を走らせたのが原因だ。その混乱の中で、ルシールの母親は、アンジェラの母親と取り違えられた。

その誤解が解けぬままに、ルシールの母親アイリスが、急遽ゴールドベリ邸に運び込まれて来た。

人違いだという事はすぐに分かったが、オリヴィアは、安静が必要な怪我人を――しかも妊婦を――再び雪の中に放り出す事はしなかった。アイリス本人にしても、朦朧とした状態ながらも人違いだと言う事を訴えはしたのである。しかし、凄惨な事故に遭遇したショックで混乱していると思われていたのだ。

妊娠二カ月と言う診断カルテが一緒に運ばれてきていたが、オリヴィアの透視能力を併用した見立てでは、妊娠六カ月。明らかに誤診である。

原因は肋骨の骨折だ。事故の衝撃で砕けた微小な欠片が、肺に突き刺さって傷を作っていた。場所関係の都合で、つわりに似た不快感と吐き気が続くという紛らわしい症状を呈していた。

数日後、アイリスは半身を起こせるようになって来た。

――その日アイリスは、ひどく落ち込んだ様子で、お腹をさすっていた。

『……胎動が無いんです。事故の前はあったのに』

『お腹の子は何とも無いわ。ジッとしてるだけで……女の子ね』

アイリスはアメジストの目をパッと見開き、オリヴィアをすがるように見つめた。

『……見えますの!? 生きている……? あの、同じ頃の、友人と比べると随分小さいから、あの……』

『……同じ時期に妊娠した友人が居るの?』

アイリスは、急に慎重な顔になり、口を閉じた。オリヴィアを窺う紫色の眼差しには、不安と警戒心が浮かんでいる。

『個人差はあるけど。この子の場合は、成長が遅れているのよ。大きくなっていいのかと悩んでるみたいね。ストレスと過労……事故に遭う前から、あなた、随分と無理をしていたでしょう』

アイリスは恥ずかしそうにうつむき、目を伏せた。

『お腹が目立たないので、今まで誰にも知られずに済んでいたのですが……ドクターを呼ばれそうになって……』

……オリヴィアは、鋭く息を呑んだ……

*****

オリヴィアの説明が終わった。

アンジェラとルシールは、圧倒されたように沈黙している。

やがて、アンジェラが真剣に眉根を寄せ、首を傾げた。

「聞く限りでは、それでは、『予期せぬ妊娠』とか『望まぬ妊娠』という状況ですよね? 誰にも知られずに産んで育てようとしていたのなら……」

「ライト夫人は、それ以上の詳しい事情は明らかにしなかったけれど。『正式な結婚をした夫との間にできた子供である』という事だけは、ハッキリとしていたわ」

オリヴィアは少しの間、目を伏せた。透視だ。

「……正式な結婚証書が何処かに存在するという事は、確かに感じられる。実際に何があったのかは分からないけれど。あのアメジストのブローチの贈り主が、真実、ルシールの父親よ」

オリヴィアは息をつき、肩をすくめて見せる。

「蛇足かも知れないけど、その時、ライト夫人は、傷が癒え次第、首都に行こうとしていたわ。社交シーズンを外れた時期の首都で、有望なアルバイト先が見つかる筈が無いのだけど」

「四ヶ月後には出産……という状況で、ですか? 数ヶ月で、お腹はビックリする程大きくなるのに」

アンジェラがポカンとしながらも口を挟む。ルシールは無言で、キュッと眉根を寄せていた。

オリヴィアは静かに微笑んだ。

「無茶をする子だったわね。ルシールも、そんなところが似てるから心配よ。明日は、気を付けてお行きなさいね」

ルシールは、頬を染めてうなづくのみだった。

*****

……オリヴィアは、『かの雪闇に封印された謎は、明らかにされるだろう』という事を確信していた。

――劫初 終極 界(カイ)を湛えて立つものよ――

オリヴィアは心の中で、祈るように呟く。遠い先人の残した辞世の句――《花の影》を。

25年後の現在、状況は明らかに変わっていた。クロフォード伯爵領の事情が、アイリスが出奔した時の事情に追いついて来たという事を、オリヴィアは的確に感じ取っていた……

*****

深夜。

ルシールは自室のベッドの中で、小箱を開いた。

バラの形をしたブローチが、昔と変わらぬアメジストの輝きを返して来る。裏を返すと、金属フレーム部分に刻印がされているのが分かる。

『愛しいアイリスへ、結婚の記念に、L、F&F』

ルシールは、長いことブローチを見つめていた。

「……お母様。お母様が愛していた人は、誰だったの?」

■ゴールドベリ邸…謎へ続く道■

早朝、ゴールドベリ邸の入り口の小道に、四頭立ての長距離用馬車が手配された。

後方に、身辺警護を担当する従者のための席を備えており、見るからに上流貴族の御用達の馬車だ。わずかに緑色を帯びて艶めく黒い車体には、クロフォード伯爵家の紋章が刻まれている。

御者は二人交代制であり、二人のスタッフの間で、御者と従者の役割を交換するようになっている。

御者と従者は、ルシールの荷物を馬車に積み込み始めた。その近くで、キアランとカーター氏、エドワードがヒソヒソ話をしている。

アンジェラとルシールは暫しの別れを惜しんだ。春とは言え早朝の冷え込みはきつく、二人とも外套をまとっている。アンジェラは、小柄な親友の身体をギュッと抱き締めた。

「向こうに着いたらお手紙を書いてね、ルシール! タイター何某の有象無象なんか、粉みじんにしてやっつけちゃえ!」

アンジェラには、『タイター氏との相続争いは大変になるだろう』と言う予感があったのだ。

*****

キアランとカーター氏、そしてルシールを乗せたクロフォードの馬車は、前方の御者席に一人の御者、後方の従者席に一人の従者を備えて、順調に出発した。

アンジェラはエドワードと並び、馬車の影が見えなくなるまで見送る。

「ルシールは動転すると真っ白になる性質だから、色々心配……」

「大丈夫ですよ。キアラン=リドゲートは、有能な男です」

エドワードは余裕の笑みをして見せたが、アンジェラは憂い顔で、森の中の朝の小道をそわそわと歩き回るばかりだ。

「寂しいですか?」

「ええ……、ルシールと私は、生まれた時以来、ずっと一緒にいましたから。クロフォードでは、ルシールは事件に巻き込まれそうな気がするけれど、大丈夫かしら?」

「それは、あなたの不思議な勘ですか? ゴールドベリの……」

「オリヴィア様ほどでは無いけど、ハズレはありません。ただ、自分の事は見えなかったりするので。父の領地では、色々と緊張しますね」

アンジェラは暫し沈黙していたが、急に何かを聞き付けたかのようにキッとした顔になり、エドワードをサッと振り返った。

「あなた、何か文書を持っているのでは?」

「分かりますか」

エドワードは、何か楽しい事を企んでいるようなイタズラっぽい笑みを浮かべていた。そうしていると、大人なんだか子供なんだか――と言う風だ。

「一体全体……何をもったいぶって……見せて下さい!」

予期せず、からかわれる形となったアンジェラは、エドワードに猛然と飛びかかり、その乗馬服のポケットを次々に探り始めた。

この金髪紳士、背丈はあるし、チャラチャラしたファッションのくせに、その下の体格は予想以上に逞しい。何処にどうやって隠したのか、探り出すにはコツが要る。

果たして怪しげな書状が出て来た。

「此処の治安判事ジャスパー氏から、あなた宛の書状を預かっただけです」

エドワードの弁明に、アンジェラは仰天した。

アシュコート伯爵領の次席の治安判事ジャスパー氏は、その腕を買われて、首都の最近の疑獄事件を扱った経験もあると言う名判事だ。目下ジャスパー判事は、ロックウェル事件の捜査に関わっている。信頼できない人間には、絶対に自分の署名が入った書状を託さない筈だ。

「ジャスパー判事と、もうお知り合いなんですか!?」

「驚きの再会でしたよ。都で多少の知遇を得てはおりましたが」

エドワードは、都会的な洗練された面差しに気の置けない笑みを浮かべている。アンジェラは、キッと眉を逆立てた。

「……何か、企んでいらっしゃる? エドワード卿……」

アンジェラの表情の変化を見て、さすがにそろそろヤバイ、と判断したエドワードである。

「昨夜は、舞踏会の最終の夜でした。例の有閑マダムと、ダンスをしたんですよ」

「……!」

アンジェラは鋭く息を呑み……呆然と立ち尽くした。

「彼女の名前は、マダム・リリス。あなたの父上・ロックウェル公爵の59番目の愛人。本人いわく、真のロックウェル公爵夫人」

「……お勧めじゃ無いって言ったのに……どうして?」

「物心ついた時分には――あなたの父上は既に、ひっきりなしに愛人を取り替えていたと言う状況だったのですね」

アンジェラはエドワードを睨む。

「私の質問に答えて無いわ」

エドワードは馬を牽きつつ、アンジェラの方を再び振り返り……暫し沈黙した。

朝の光がアンジェラの金髪をキラキラと輝かせ、陶磁器のように滑らかな白い顔は、苛立ちで上気している。だが何よりも印象的なのは、神秘的な透明感に満ちた深い緑の目だ。

エドワードの口の端に、意味深な笑みが浮かんだ。

「――理由? それは実に単純ですよ。私は、アンジェラ嬢をもっと詳しく知りたいだけですから」

如何にも放蕩紳士と言った風の返答だ。アンジェラは怒髪天である。

「バラバラ死体になっても知らないから! バカ!」

エドワードは素早く馬に乗り、陽気に声をかけた。

「では、また明日会いましょう」

「もう会う事は無いわよッ!」

アンジェラの方は、苛立ちの余り叫びながら、ピョンピョン飛び跳ねるばかりであった。

*****

エドワードは朝の乗馬を続けながら、昨夜の時点で新たに判明した内容を整理した。

分かった事は随分あった――いずれも、アンジェラが自分の口から話そうとしない内容であろうと予期できるものだ。

昨夜のダンスの後。

マダム・リリスは、自分の秘密の快楽の園に、美しく若いツバメたちを集めた。頭が相当に空っぽな色とりどりの美青年たちに囲まれて、強い酒をしこたま楽しみ始めたのだ。

やたらとアルコールに強い、恐るべき体質の女。

エドワードは数種類の薬剤をこっそりと用意しつつ、更にリリスの酔いが相当に深くなった頃を慎重に見計らって、素知らぬ顔でツバメたちの中に混ざった。

贅沢を凝らした大きなベッドの周りでは、不健全な酒池肉林が展開している。

マダム・リリスは、逆ハーレムとアルコールとアヘンを同時にたしなむ女帝だった。

次々に強い酒を飲み、ほどよく出来上がったマダム・リリスは、数々の自慢話をし始めた。アルコールとアヘンに酔い、頭が回らなくなった美青年たちが、内容に関わらず口々に賞賛を浴びせている。

エドワードの盛った自白剤も相まって、皆で管をまき始める。エドワードは慎重にマダム・リリスの傍に寄り、睦言をささやく格好で、誘導尋問を仕込み始めた。

『バラバラ死体の人、誰?』

『あはん……あの、色気も皆無なビスクドール、何回も裁判、うざいわねぇ、そろそろ、どっかで、バラバラ死体にしとこうかしらぁ、ねぇ?』

『……裁判?』

『墓場から復活した、何処かのゾンビの娘、血統違いで、余計恨みも重なるってよぅ?』

『血統違いって?』

『ユージーン、この間、ネズミの血統をプレゼントしてたわよぅ、いぃ気味〜』

『それ、ズタズタになったネズミの死体の事か?』

『ユージーンったら、紋章付きの小箱に綺麗に詰めて、緑のシルクのリボンを丁寧に付けてたわよ、オホホ、オホホ〜……』

いつしか、マダム・リリスは熟睡に落ちていた。

エドワードが、自分に関する社交界での軽薄な噂を放置し、更に面白がって助長していたのは、趣味を兼ねた全く別の目的があっての事だが、思わぬところで――妙な形ではあるが――役立ったのだった。

*****

その後、エドワードはマダム・リリスから聞き出した事を整理して、ヒューゴの仲介のもと、アシュコート伯爵領の治安判事を務めるジャスパー氏に照会したのである。

ジャスパー判事は、ネズミの死体を送り付けたのはロックウェル公爵本人であったという証言を得てガックリすると共に、重要証言を引き出して来ると言うエドワードの手腕に感心していた。

『懸案事項だった「ネズミの死体の箱詰め事件」の真相は判明したが、このような形になるとは。アシュコート伯爵がおっしゃるには、25年前までのロックウェル公爵、普通に人当たりの良い人物だったそうだ。新婚だったから、各地の社交界にも、公爵夫人と共によく顔を出しておられたと』

エドワードは、記憶にある貴族名簿をおさらいし、素早くうなづく。

『ロックウェル公爵夫人は、今は亡くなられたとか』

『ロックウェル公爵夫人セーラ・スミス・クレイボーン。25年前の馬車事故で即死だったそうだ。夫妻揃っての、お忍びの外出だったゆえ、ご遺体の損壊状況とも相まって本人確認が困難だったとか』

ジャスパー判事の説明が続く。

『レディ・アンジェラ、いや、アンジェラ嬢は当時、生まれたばかりだった。今、アンジェラ嬢は、亡き母堂の名誉のために親子認知の裁判を起こしている。アンジェラ嬢の出生証明書には役所の遅延ミスによる誤記があって、修正された文書への、ロックウェル公爵直筆の署名を取ろうとしている。愛人の数は増える一方だし、59番目の愛人マダム・リリスに至っては、我こそ真のロックウェル公爵夫人、セーラ・スミスは過去の愛人のひとりに過ぎなかった、と吹聴している有様でな』

途中からジャスパー判事は憤然とした顔になり、首を振った。

ヒューゴが口を挟んで来る。

『先輩、ロックウェル公爵は、その馬車事故で容貌をひどく損ない、大怪我をしたために全身の体格も歪んでしまってるそうなんです。それで、仮面で顔を覆い、マントで全身を覆い隠して、城に引きこもって生活しているそうです。あのバラバラ死体の事件でも、マダム・リリスから情報提供してもらう他に手段が無いんですけど。彼女、やたらと用心深くて、ギャングの用心棒を付けてるし、頭の空っぽなツバメしか傍に近付けないし、大量のアヘンで煙幕を張ってるし。何人か忍びを送ってはいたんですけど、薬物中毒の死体になって帰って来るという状況で……』

エドワードは、あごに手を当てて思案ポーズになった。

『……奇妙な点がありますね、ジャスパー判事。ロックウェル公爵は59回、愛人を取り換えた事になりますが、子供は、アンジェラ嬢のみ……』

『理由は分からない。アンジェラ嬢は、そこに望みをかけていると言っていた。私としては、父親としての良心を信じたいところだが。私にも娘が居るからな』

エドワードは無言で耳を傾けていた。ふと、胸ポケット内の書状に気付き、取り出す。

『失念してた、ヒューゴ。マダム・リリスから招待状をもらったんだが……』

ヒューゴは文書を改めるなり、ポカンとした顔になる。

『早速、夜の私的パーティの招待状をもらうなんて、よっぽど頭の軽いイケメンに見えるんですね、先輩!』

ジャスパー判事は、目をパチクリさせるのみだった。

■クロフォード伯爵邸…忘れえぬ面影〔一〕■

アシュコートの緑の森を出た一台の長距離馬車は、最寄りの町の交差点で方角を変えた。

後部座席にちょこんと座っているルシールは、馬車の中の調度に感心し、興味津々で見入っていた。

備え付けられている調度は、いずれも一流品だ。座席には深い緑色のビロードが張られていて、スプリングも利いている。長く座っていても、お尻はそれほど痛くならない。

「この馬車、とても速いんですね。アシュコート伯爵領の、あと二つの町と村を通過したら、峠の道に入りますわ」

カーター氏が穏やかに同意する。

「順調に行けば、日が暮れる前に、クロフォード伯爵邸に到着できるでしょう」

「……随分と快速なんですね」

「新しい技術がありますから。マティ様の試み……いえ、トッド夫妻の提供でして」

「マティ様……トッド夫妻?」

「……後ほど、クロフォード伯爵邸でお会いできるでしょう」

カーター氏は苦笑しながらも、楽しそうな様子だ。ルシールは不思議に思いながらも、『マティ様』という名を記憶に刻んだのだった。

カーター氏が、やっと思い出したという風に、隣にムッツリとした様子で座っているキアランに声を掛ける。

「そう言えば、ダレット一家には、お声掛けは?」

「彼らは今アシュコート伯爵領の社交界を満喫しているところですし、その楽しみを邪魔するのも無粋な事かと」

キアランは相変わらずムッツリとした顔のまま、ピクリとも表情を変えなかった。

ボンネット風の外出用の帽子をきっちりと留めていたルシールは、深いつばの下から、黒髪の紳士をこっそりと窺う。

(常にムッツリとしていて、実に気難しそうな人だわ)

ルシールは知らず知らずのうちに、ピシリと緊張していたのだった。

*****

やがて馬車は、行く手に広がる山岳地帯に向かって、だんだん勾配のきつくなる坂道を登り始めた。アシュコート伯爵領とクロフォード伯爵領の境となっている峠を目指しているのだ。

峠に通じる坂道の中ほどに差し掛かった頃、馬車の連絡窓から御者の声が流れて来た。

「正午の頃には、峠の頂上に到着しますよ」

「午後は、まとまった雨が来そうですね」

カーター氏の呟きに、ルシールは同意してうなづいた。

今日は、朝から雲が多かった。今や半曇りといった曖昧な天気だ。春の天気は変わりやすく、雨も多くなる。山岳地帯に近付くにつれ多くなってくる雲は、この辺り一帯にまとまった雨が到来する事を予兆していた。

前部座席のキアランとカーター氏は、書類をやり取りして何かを確認している。ルシールは、その様子をじっと見つめた。

……頭に浮かぶのは、舞踏会場となった館を引き上げる時にかち合った、完璧な金髪碧眼の美青年だ。

レナード・ダレットと名乗った人物は、『リドゲート卿』の人となりについて、実に穏やかならぬ表現でもって、評していたのだ。

――『彼には、くれぐれもご用心を。実に冷酷な男ですから、女性に対して……身の程知らずの野心もあってね、彼の縁結びは止めておいた方が良いでしょう』

……ルシールは、心の中で首をかしげるばかりだ。

(リドゲート卿とカーター氏との間には信頼関係がある。仕事ぶりも確かなようだ。この黒髪の紳士の性格は、それほど悪くは無いらしい。余裕で美形の範疇に属する顔立ちなのに、この取っつきにくさで、大いに損しているのかも知れない……)

ルシールの視線に気付いたかのように、キアランが不意に目を向けて来た。撫で斬りにするかのような、漆黒の刃さながらの鋭利な眼差しだ。

――ギョッ!?

ルシールは、びくりと肩を震わせた。一気に青ざめ、口元が引きつる。

「あなたは、旅行慣れしていないようですが……遠出した事は余り無い?」

キアランの態度はあっさりとしたものだったが、目つきが鋭い分、声音にも脅しの気配がにじみ出ているような気がする。ルシールは、どう受け答えしたら良いのかと、一瞬パニック状態になった。

(漆黒の刃物の如き怖い目で睨んでたよね、このお人……!?)

ルシールの背中に冷たい物が流れた。しどろもどろになりながらも、声を押し出す。

「……え、あ、その……昔からずっとレディ・オリヴィアの付き人でしたし……レディ・オリヴィアは脚がお悪くて、余り外出されていなかったので……」

「旅行した事は一回も無いという事ですか?」

「う、運河を下って……、海を見た事は、ございます」

(――その旅行は、母が亡くなる直前の小旅行だったのだ)

ルシールはうつむき、膝の上に置いた手を見つめ始めた。

「五年前の冬になりますが……運河を下った先の港に文書を届ける用事があって、そのついでに。母と、海辺を歩きまして。その時の海風があまり良くなかったみたいで、その後、母は急に体調を崩しました」

カーター氏が、オヤ、と言った様子で居ずまいを正す。

「五年前ですか? 確か、ライト夫人は、風邪をこじらせたとか」

ルシールは静かにうなづいた。受け答えする先がカーター氏に代わった事で、ルシールの強張りが解けて来る。

「昔の馬車事故で受けた傷が原因で、肺が弱っていたようです。肺炎が急に進行して……回復が間に合いませんでした」

「そう言う訳でございましたか。辛いことを思い出させてしまいましたね」

「いえ、お気遣いなく……」

暫し沈黙が横たわった。紙の音が続く。カーター氏が、カバンから文書を取り出していたのだった。

「先日、ライト嬢は、ゴールドベリ邸の庭園に居ましたが……あの庭園は、ライト嬢が管理を?」

ルシールは気を取り直し、面(おもて)を上げて微笑んだ。

「今は私とアンジェラとで管理しています。庭園の管理方法は母に教わりまして……ローズ・パーク邸の庭園は未知ですが、管理は上手くやれると思うんです」

「成る程……」

カーター氏は資料に目を通した後、ルシールに微笑みを返した。

「アントン氏の庭園管理の技術は、娘へ、孫娘へと引き継がれていた訳ですね。ローズ・パーク邸の庭園オーナーとして望ましい条件ですし、クロフォード伯爵にも良い報告ができそうです」

キアランは、先程と変わらぬ無表情でルシールを注目している。

その鋭い視線に気づき、ルシールの笑みは、引きつったのだった……

*****

正午を回る頃、馬車は山岳地帯の中央部にある峠を越えた。

此処からクロフォード伯爵領である。

山岳地帯を完全に抜ける前に、ランチや御者交代、その他のための休憩が一回入った。その後、馬車は下り坂をノンストップで走り続けた。しかし、いかに頑健な馬車馬も、いつかは足が鈍るものである。クロフォード伯爵領の緑の丘陵地帯が広がり始めると、目に見えて馬車のスピードが徐々に落ちて来た。

昼下がりも後半を過ぎる頃、雨がぱらつき始めた。馬車はまだ道の途上にあった。

急速に暗さを増す空と、雨雲の群れ。

カーター氏が空模様を確認し、キアランを振り返った。

「雲行きが妙に怪しいですな、リドゲート卿」

「本格的な雨になるとまずい……駅で馬を替えて急がせましょう」

宿駅を兼ねる最寄りの集落で、御者と従者の手によって馬車馬がスムーズに交換された。馬車は、再び速度を上げてクロフォード伯爵領を走り続けた。

ルシールは、馬車の窓の外に広がる見慣れぬ光景を、しげしげと眺めた。

アシュコート伯爵領とはまた異なる、オーク林が点在する丘陵地帯だ。

(ちょっと不安だったけれど、案外、良い場所かも知れない)

地所は良く管理されており、クロフォード領主の優れた支配を、そこかしこに見出せる。

馬車の窓に、雨粒が斜めに張り付き始めた。強くなっていく雨脚と競い合うかのように、馬車は小高い丘に続く道に入り、緩やかな坂道を駆け登って行く。

窓の外を眺めていたルシールは、やがて丘の上に豪邸が見えて来た事に気付いた。

立派な正門がそびえ、その両脇には高い柵が続いている。

視界に見える前庭は本格的な自然公園となっており、絶妙に配置された樹木が、緑の城壁を作っていた。伝統様式とモダンがバランス良く入り交ざった豪壮な館には、大きな窓が幾つも並んでいる。

――あれが、クロフォード伯爵邸。

ルシールは、その規模に呆然となった。

*****

本降りの雨の中、馬車はクロフォード伯爵邸の正門をくぐった。高い樹木が並ぶ前庭ロータリーを回り、館の正面玄関の扉の前に横付けされる。

立派な扉の前には、執事を含む数人のスタッフが、既に迎えに出て来ていた。

ルシールの背丈を考慮して踏み台が二段置かれ、カーター氏の手を借りて、ルシールはやっと馬車から降りて来られたのだった。

――そんな様子を、物陰から窺う少年と子犬の姿がある。

少年は、馬車から現れた見慣れぬ客人を、興味津々で見つめていた。

「アラシアじゃ無い。誰だ!?」

「クゥン?」

「静かに、パピィ。あとで調べないとな! おっと、じいじなら、何か聞いてるかな!?」

少年は子犬パピィを抱っこしつつ、物陰からピューッと走り去って行った。

*****

ルシールは、クロフォード伯爵邸の堂々たる玄関広間に圧倒されていた。

大理石の床。高い天井を支える、壮麗な列柱。

照明が灯り始めた壁に見えるのは、年代物のタペストリーや、先祖の騎士の時代に由来するのであろう古い紋章を刻んだ盾や、年季の入った大きな紋章旗だ。

目の先には、これまた堂々たる正面階段がある。

正面階段は最上階までの吹き抜けとなっており、周囲の重厚な石造りの壁には、騎士の時代を思わせる、細長く高い窓が並んでいた。細長く高い窓の間には、これまた、騎士の時代に由来すると思しきアンティークの甲冑を始めとする、先祖伝来の品々が飾られている。

(――何だか、すごいところに来てしまったわ……)

やがて、見るからに家政婦長と思しき堂々としたシニア世代の女性が、年若いメイドを従えてやって来た。家政婦長は、館の女主人と言われても不自然ではない程の威厳を備えている。

「予定より早いお着きでしたね。雨脚が速くて――嵐になる前で、ようございました」

「お世話になります。ルシール・ライトと申します」

「事情はお聞きしております、ライト嬢。私は家政婦長を務めておりますベル夫人と申します。こちらへどうぞ」

割り当てられた部屋の中、ルシールは暫し一人で戸惑っていた。

荷物は既に運び込まれている。ルシールはそっと大窓に近付いて、外の光景を眺め始めた。ベル夫人が言った通り、急いで正解だったようだ。

バルコニーに接する大窓には相応の雨避けが付いていて、雨に濡れては居なかったが、別の小窓には大きな雨粒が叩き付けられていた。

ルシールは窓の面に触れ、その冷たさに一瞬ブルッと震えた。

荷物を再度かき回し、オリヴィアから贈られたショールを取り出す。ライラック色のショールは一級品だけあって、保温性も完璧だ。

ルシールはショールを羽織り、ホッと息をついた。

*****

一刻の後、最上階にある当主との応接間。

執事がおもむろに扉を開け、一礼する。

「閣下。ルシール・ライト嬢がお見えになりました」

「……入りたまえ」

執事は扉を更に広げ、ルシールを部屋の中へと促した。必要最小限の照明のみで、薄暗い。

ルシールは、ショールの端をギュッとつかみ、緊張の面持ちだ。

見れば、暖炉の傍の上等なソファに座した人影がある。

ルシールは一歩近づき、淑女の礼を取った。

「お初にお目にかかります、クロフォード伯爵様。館へのお招きにあずかり、心より感謝いたします」

沈黙の間が空いた……不自然に長く。微妙な緊張感が漂う。

(何か、変なところがあったかしら!?)

ルシールは固まったまま、だんだん冷や汗が出て来た。

「……失礼した。面(おもて)を上げたまえ」

返礼の声だ。さすがに当主と言うべきか、その声は、落ち着いた音量の割によく通る性質のものだ。

「あなたは25歳だと聞いていたが、そんなに小柄だとは思わなかったんだ」

「はあ。確かに、平均よりは背は低いですが……」

ルシールは慎重に身を起こす。

「今夜は冷える。もっと暖炉に寄りなさい」

「有難うございます」

ルシールは暖炉に近付くなり、目を見張った。

ソファに座っている人物は、平均的な男性に比べてやや線の細い体格の持ち主だ。淡い茶色の髪に深い青い目という組み合わせも、柔和な印象を強めている。脚を悪くしているのか、大判のひざ掛けが掛かっていた。

(リドゲート卿とは、全く似てないわ……!)

ルシールの驚きに気付いているのかいないのか。クロフォード伯爵は、ルシールをしげしげと眺めながらも、近くのソファを示して来た。

「そこに掛けたまえ」

ルシールは淑女らしく上品に腰かけたが、それでも小柄な体格だ。大きすぎるソファに、ちょこんと腰かけている、という印象がある。

「実に驚きだ……あなたは、アイリスにそっくりだね」

暖炉の炎に照らされたルシールの面差しを、伯爵は感慨深そうに眺めていた。

「私の母が、そんなに有名人だったとは存じておりませんでしたわ」

「ああ……いや、アントン氏がローズ・パークのオーナーの一人だっただろう。オーナー協会の付き合いでね。勿論、私はあなたの母親を知っている。テンプルトン辺りでは、多くの紳士に人気があったと聞いているよ」

「テンプルトン?」

「カーター氏から聞かなかったか? ローズ・パークはテンプルトンに位置するんだ」

「そうだったのですか……ちょっと遠いのですか?」

ルシールはまだ緊張しており、生真面目な顔をしている。伯爵はイタズラっぽく微笑んだ。

「馬車で大体、二時間だね」

そんなに距離があるのかと、口アングリのルシールであった。上流貴族の領地、とんでもない広さだ。

「ああ、そうだ、馬車と言えば……母親は馬車事故に遭ったとか……」

ルシールはうなづいた。

「私が生まれる前の話になります。二月の大雪の日、崖道でのスリップ事故だったと聞いております」

「ふーむ……、何だか良く分からない部分がある……あなたの父親は、その時は何処に居たんだろう?」

「その辺りは聞いた事はございませんでしたので。『何処かの紳士』と言う事の他は、全く存じません。でも、母が父と正式な結婚をしていたのは確かでございますわ」

クロフォード伯爵は、思案顔で耳を傾けている格好だ。伯爵と言えども、知人の運命は気になる物なのだと、ルシールは納得していた。

(母が、あんなに早く逝ってしまうとは)

ルシールは、そっと目を伏せた。

「このような相続の話を頂くとは思いませんでしたので……亡くなる前に聞いておくべきでした」

「急な事で色々と大変だっただろう」

伯爵は穏やかに相槌を返し、心遣いの笑みを見せた。

「あなたの訪問は、常に歓迎するよ……我が家と思って、是非くつろいでくれたまえ」

「ご親切に……有難うございます、伯爵様」

ルシールは一礼した。

こうして、最初の挨拶は終了したのであった。

*****

深夜。

クロフォード伯爵は、ローズ・パーク案件に関するカーター氏の報告書に目を通していた。

ふと目を上げて、暖炉の傍、ルシールが座っていたソファに眺め入る。

「まさか、あれ程、アイリスに生き写しとは……」

クロフォード伯爵は我知らず、深い溜息をついていた。

窓の外では嵐が収まり、雨が次第に小降りになっていった……

■クロフォード伯爵邸…大広間にて■

早朝の陽光が、カーテンの隙間から差し込んで来る。

「嵐一過……!」

ルシールは目をパッと開いた。白い寝間着にライラック色のショールをまとい、大窓を開く。

一瞬、バルコニーに動く人影。ポカンとするルシール。

「うわーッ!」

お互いの存在をしかと認識し、バルコニーに忍び込んでいた方は驚きの余り叫び出した。明るい栗色の頭をした、小さな人影。まだ子供だ。

「だ、誰?」

「ご……ッ、ごめんよ! まさか、この部屋だったなんて! すぐ出てくから、誰も呼ばないで!」

如何にもイタズラ小僧と言う感じの少年は、すっかり慌てていた。八歳から九歳の辺り。明るい栗色の髪に、明るい茶色の目。弾むように躍動する動きは、敏捷な小動物を思わせる。

その腕には、何か子犬らしき物……

もっと良く見ようと、ルシールは視野を塞いでいた前髪を上げた。

少年は何故かポカンとした顔をして……ルシールを熱心に眺め出す。

――少年の腕の中に居たのは、果たして子犬だ。

亜麻色の柔らかな毛皮をしていて、モフモフの毛玉のようだ。忍者の如き身軽な動きで知られる犬種の血を引いているらしく、四つ足は細いながらも、シッカリとした筋肉がついている。

「あら、可愛い」

ルシールは思わず呟き、そっと手を伸ばした。子犬はポンと前足を出して来た。なかなか賢そうな子犬だ。

「まだ子犬でしょ?」

「う、うん……昨夜は雨嵐だったんで、此処に移動してたんだ」

話している内に、少年は落ち着いて来た様子だ。訝しそうな顔で、バルコニーに接する大窓越しに、部屋の中を窺い始める。

「この部屋、空き室の筈だけど」

「昨夜から此処に泊めて頂いてるの」

「……って事は、昨日、馬車から降りて来た人? 空を飛んで来たんじゃ無くて……」

「私はお化けじゃ無いわ。あなた、一体、誰?」

「マティってんだ。じいじと一緒に来てる」

マティは再び、ルシールの面差しを熱心に眺める。

一方、ルシールは、釈然としない面持ちで、バルコニーの周りを確認し始めた。

「何処からどうやって来たの? 二階の筈……なんだけど」

(マティの方こそが、空を飛んで来たのでは無いかしら……!?)

少年は、ルシールの疑念に気付いた様子で、バルコニーの近辺に並ぶ屋根の群れを指差す。

「下に屋根が見えるだろ、車庫とか……こっち側に大きな木でさ」

車庫の屋根の間から生えている大木の幹を、視線でたどってみる。大きな枝が、都合よくバルコニーまで延びていた。

ツル植物に偽装したロープが大枝に巻きついていた。そのロープ細工は、ルシールの部屋のバルコニーまで到達している。まさしく侵入経路だ。

「何て知恵の回る子なの……大人には思い付かないルートね!」

ルシールは唖然とするばかりだ。

マティは、すっかり困惑した顔で子犬を抱き締めている。

「どうしよう、バレたらすげえ困る。雨風よける秘密の場所なんて、他に無いんだよ」

その真剣な表情に、思わず「ぷっ」と吹き出すルシールである。

「……此処で良いわよ」

「ホント!?」

「誰にも絶対見つからないようにしてね。嵐の最中は別にしても、お掃除の人とか来るでしょ?」

「それは大丈夫だよ! 此処にパピィを連れて来るのは、昨日のような時だけだから!」

マティは満面の笑みだ。子犬もご機嫌で、亜麻色の尻尾をモフモフと振っている。

「パピィって言うの? よろしくね」

「ワンッ♪」

少年は急いでいる様子で、次の瞬間には、子犬を抱えたまま身軽にバルコニーをよじ登っていた。大枝に続くロープに取り付き、空中をスルスルと渡って行く。

「ほんじゃ、急いで抜け出すからね!」

「落ちないようにね!」

うっかり怪我しないかと、ハラハラしてしまう。

マティは器用に大枝に飛び移り、ルシールの方を振り返って来た。

「オイラ、さっきはビックリしたよ! 紫色の目なんて初めて見たから。じゃあ、またね、レディ・アメジスト!」

「え?」

マティは素晴らしい身のこなしで、大樹をスルスルと降りて行った。そして子犬を何処へ連れて行くのか、馬小屋と車庫の間の細道を駆け抜け、庭園の緑陰の中に消えて行く。

ルシールは、その小さな姿が見えなくなるまで見送った。

朝っぱらから駆け回っているところはスタッフの子供と同じだが、スタッフの子供にしては着ている物が上等だ。

(変わった子ね。お祖父さんと一緒に来ていると言っていた……クロフォード伯爵家の親族のご子息ってところかしら?)

*****

ルシールは、普段の黒い簡素なドレスに着替え、部屋の中で朝食を摂った。朝食は、メイドによって部屋へ配達されて来たものだ。

ルシールは時々、バルコニーにそっと目を向け、「ぷっ」と吹き出し笑いをしていた。

昨日、クロフォード伯爵領へ向かう馬車の中で、弁護士カーター氏が楽しそうな様子で『マティ様』に言及していた。実物の『マティ様』と会ってみて、ルシールは今さらながらに、納得したのだった。

こうして明るくなってから、割り当てられた部屋を見てみると、やはり相応のスペースを持った立派な客室だ。

衝立で、寝室部分と居間部分を仮に仕切ってある。クロフォード伯爵邸に一時的に宿泊する地方役人の類を想定しているのであろう、書き物などの事務仕事に向きそうな部屋である。

やがて、朝食を運んで来ていたメイドが、片付けのため、再び入って来た。

「朝食はお済みですか? 大広間で、リドゲート卿やカーター氏がお待ちでございます」

(……すっかり、失念してたわ!)

ルシールは手早く身の回りを確認すると、大広間に急いだ。

*****

濃い色の髪をピッチリと撫で付けたシニア世代の執事が、丁重な所作で大広間の扉を開く。

「ルシール・ライト嬢、おいででございます」

「ああ、ご苦労」

中から応えて来た声音に、ルシールは目をパチクリさせた。

(リドゲート卿の声……よね?)

あの刃物のような視線の持ち主にしては、意外に穏やかな印象。

ルシールは首を傾げながらも、大広間に入った。そして、クラッとした。

伯爵家の本邸たる豪邸の大広間だけあって、壮麗な空間だ。

淡い模様の大理石でできた滑らかな床。そこに敷かれている豪華な絨毯。舞踏会場としても充分なスペースが広がっており、広い天井を各所で支えるための壮麗な柱が規則的に設置されている。

大広間は館の広大な中庭に接している。中庭との連絡口を兼ねている大窓が、重厚なビロードのカーテンに縁どられつつ並んでいた。

大窓はおおむね南向きだが、庭木が絶妙な配置で並んでおり、しなやかに伸びた枝葉が夏場の直射日光を上手に遮る形になっている。真夏でも、爽快な状態に違いない。

大広間に付き物の柱時計や陳列棚、各種のチェスト、キャビネなどと言った家具は、いずれも一級品だ。ソファ&ローテーブルのセットと、椅子&円卓のセットが各所に配置されている。

――中央のソファセットに、キアランとカーター氏、そしてもう一人の見知らぬ中年の大男の三人が居た。ソファが囲んでいるローテーブルの傍らには、茶器セットを備えた移動テーブルがある。

ルシールが大広間の扉の前で戸惑っていると、既にソファから立ち上がっていたカーター氏が、穏やかに微笑みながら歩み寄って来た。カーター氏は、ルシールをエスコートするための手を差し出しつつ、朝の挨拶を口にした。

「お早うございます、ライト嬢。昨日の長旅では、思いのほか疲れていたようですね」

「ご心配おかけいたしました……」

ルシールは面目無さそうに顔を赤らめながら一礼した。

(まさか、マティと子犬パピィの事で、うっかり失念していたとは言えないわ)

カーター氏のエスコートを受け入れ、ソファまで連れて来られるルシールである。

キアランと見知らぬ大男も、紳士らしく、既に立ち上がっていた。既に日中の気温は高く、二人はシャツ&ベストという気楽な服装だ。ただし、クラヴァットはきちんと締められている。

「こちらとは初対面ですね。プライス判事です」

キアランは、揉み上げの目立つ中年の大男を、ルシールに紹介した。

プライス判事は、短く刈り上げられた癖の強い赤っぽい髪と、陽気そうな灰緑の目をしていた。ルシールの何処がツボにハマったのか、プライス判事は満面の笑みを浮かべている。

「今回の案件の係争相手、タイター・ビリントン氏はトラブルの多い人物だと言う話がありますから。問題発生の時は、プライス判事に相談すると良い」

キアランの助言に、ルシールは素直にうなづいた。

「お世話になります。プライス様」

「初めまして、ライト嬢。噂以上に可愛らしい方ですな」

プライス判事は、その大きな体格とガッチリとした風貌に相応しい、太く轟くような声で応えて来た。大振りな所作で一礼すると、ルシールの小さな手を取り、敬意を込めて口付けをする。

「噂……って、どんな内容ですの?」

ルシールは目をパチクリさせ、雲を突くような大男そのもののプライス判事を、おずおずと見上げた。

(まさか、治安判事だけに、今朝のマティの事がバレたとか……!?)

しかし、プライス判事は、ユーモアたっぷりのウインクと共に、予想外の返答をして来たのだった。

「なに! 如何にお嬢さんが可愛らしいかと言う事を、キアラン君がそれは熱心に説明しまして」

ルシールは目をパチクリさせた。

(あの無表情で、威圧的で、気難しそうなリドゲート卿が?)

幾ら何でも、想像がつかない。それに、下手にキアランの方を振り返って、その突き刺すような視線にギョッとしないでいられるような自信は、全く、無い。

ルシールは戸惑いながらも、曖昧な笑みを浮かべるのみだった。

*****

四人で改めて着席したところで、キアランが声をかけて来る。

「父は目下、脚の件で医師から安静状態を指示されているので、この案件では、私が父の代理を務めます」

ルシールはギクシャクしつつ、「はあ」と返すばかりだ。

「昨夜は寝付かれなかったですか? 部屋が合わないようなら、今日にも差し替えますが」

「い……いえ! お蔭様で! お部屋はとても気に入りました!」

ルシールは冷や汗をかきながらも応答した。挙動不審に見えないことを祈るばかりだ。

(あの部屋じゃ無いとまずい……可愛いマティとワンちゃんが追い出されてしまう!)

カーター氏は文書を改めると、ルシールの方を振り返り、説明を始めた。

「弁護士事務所からの連絡で……やはりタイター氏は、こちらに出向きたくないと言っています」

「私の親戚の?」

「ええ。勿論、相続に関する談判が必要で……ライト嬢の身辺安全を考え、タイター氏に此処に出向するように要請していたのですが」

カーター氏は、タイター氏の名で送付された書状をルシールに示した。ルシールは、その書状を受け取ると、疑念の面持ちで文面を確認し始めた。

「そんなに危険な人物なんですか?」

キアランの隣に座っていたプライス判事が、困惑混ざりの苦笑いを浮かべながらも、解説を加えた。

「リスク回避(ヘッジ)です。タイター氏には、ギャング繋がりの噂がありまして。ライト嬢は、難しい親戚をお持ちですな」

問題の書状には、如何にもギャングらしい乱暴かつ粗暴な筆跡と、下品な言葉遣いの文章が並んでいる。『知性と教養』というものの存在を一かけらも感じられない、その凶悪的なまでの下品さを極めた文面と来たら、『読むに堪えられる文字が書ける』という事実の方が、いっそ驚きだ。

「……この尊大なる、ワシ、幽霊女と話し合う、趣味は、無い……?」

常識的な人々の前ではとても口に出すことができない、下品な言葉遣いが並ぶ実際の文面を、ルシールは苦労しながらも解読しようとしていた。

「ライト嬢は、最近まで『生死不明』でしたから……」

カーター氏は苦笑している。

ごねるタイター氏を、何としても直談判に引きずり出すしか無い。ルシールは、いっそう眉根を寄せ、真剣な表情になった。

「私から一筆書いた方が、効果ありそうですね」

*****

ルシールは、筆記作業しやすい円卓の方に移動すると、文書作成を始めた。

流麗な文字でタイター氏に一筆したためているルシールを、プライス判事が感心したように眺める。

「色々と驚きだ……彼女は、レディと言っても通るぞ」

「雇い主が貴婦人で、レディとしての教育はその人が授けたそうです」

カーター氏の受け売りではあったが、キアランは、そのように端的に説明したのであった。

*****

その頃、大広間に続く廊下を軽やかに駆けて来る者があった。

大広間の扉が勢い良く開かれる。

マティが明るい茶色の目をキラキラさせながら飛び込んで来た。

「おや、坊主のお出ましか」

「ねえ、キアラン! 東の端の部屋に新しく来た人が居る筈だよね!? 探しても居ないんだけど――」

マティは、大広間に目当ての人物が居る事に気付き、目を見張った。

「居た……! レディ・アメジスト!」

「レディ・アメジスト?」

キアランがオウム返しに呟く。プライス判事が陽気そうに声をかけた。

「とっくに知り合いとは、マティもやるね!」

「身柄確保!」

マティは、ルシールに向かって一直線に駆け寄って行く。

「おい、こら、マティ!」

プライス判事が、サッとマティをつかみ上げた。大男に高々とつかみ上げられて、脚の回転を止めるマティである。

「今、お手紙を書き終えたところですから……」

「おや、子供はお好きですか? ライト嬢」

カーター氏が口を挟んで来た。

「ええ。あの朝の時は、近所の教会で主婦を中心とする早朝バザーが開かれていて、その間、子守のボランティアを」

「成る程、それであの時間ですか」

――と、カーター氏は納得したのだった。

プライス判事に吊るされる形となったマティは、それでもルシールを熱心に見ながら、訳の分からぬ事を言っている。

「目の色が茶色!?」

「マティは、この館の子供……?」

キアランが相変わらずムッツリとした様子ながらも、人物紹介を始めた。

「彼はマティ・トッド、今年九歳になります。クロフォード伯爵家の親族トッド家の末子で、両親トッド夫妻の海外出張に伴い、当家で預かっています。目下の後見は、彼の祖父です。いずれ、マティが紹介するでしょう」

次に、キアランは、ほぼ同じ位置に顔が来ているマティを振り返り、視線を合わせた。

「――で、マティは、もう彼女の名を突き止めたか?」

「残念ながら『ライト嬢』ってとこまで」

ルシールには全く分からない――おそらくは男同士の間だけで通じるのであろう――謎の理由とタイミングで、キアランはプライス判事と目配せをし、マティを床に降ろした。

「では、私の勝ちだな。彼女はルシール・ライト嬢だ。復活祭の時の如きイタズラを控えて、本物の紳士らしく振る舞いたまえ」

「アイアイサー」

キアランの謎の勝利宣言と口頭注意を受けて、マティはコミカルな仕草ながら本格的な挙手注目の敬礼をしている。

「全く恐るべきイタズラだったからな! ありゃ」

プライス判事が大笑いしながら突っ込んでいる。

(マティは、リドゲート卿の事を全く怖がっていないのね)

親族だけあって、気が合っているらしい。ルシールは不思議に思いながらも、その微笑ましいやり取りを見つめるばかりだった。

■クロフォード伯爵邸…忘れえぬ面影〔二〕■

正午より少し前の刻。

大広間での相談が済み、カーター氏とプライス判事は館を退去し、町に戻って行った。

玄関広間で見送りが終わった後も、マティは明るい茶色の目をいっそうキラキラさせながら、ルシールの周りをクルクルと巡っている。

「ルシール、館内の探検、まだでしょ?」

ルシールは戸惑い気味にうなづく。そこへ、キアランが振り返って来た。

「私も父の代理で決裁する書類が溜まっています。マティは頭が良い……あなたを退屈させないでしょう」

(リドゲート卿は、マティの頭の良さを随分と買っているようだわ)

ルシールが不思議に思っている内にも、マティは、上機嫌で正面階段を数段も駆けのぼり、スタンバイである。

「それから、この敷地を出る時は執事に言って下さい。護衛が付きます」

マティが正面階段の手すりの上から身を乗り出しながら、口を挟んだ。

「狙われてんの!?」

「ライト嬢は、タイター氏と係争中なのだ。彼の事は、マティも知ってるだろう?」

「ギャング=タイター! テンプルトンじゃ、知らないヤツはねえよ!」

ルシールは呆気に取られる他にない。

(私の親戚は、みんな変な意味で有名人だったりするのかしら?)

ルシールが呆気に取られている内に、キアランはルシールに一礼し、執務室へと消えて行った。

マティは驚き覚めやらぬといった風で、正面階段の手すりに変な風に乗り上げる。

「じゃーあれ、本物の果たし状!? すげーよ! 『尊大なるタイター様』なんて、変な書き出しだと思ったけど」

「どうやら私は、エラい親戚に喧嘩を売ろうとしてるみたいね……マズい内容の返し状を作成してしまったのかしら?」

ルシールは頭を抱えた。

マティは、階段の手すりから降りてルシールに更に接近すると、改めてルシールを熱心に観察し始めた。

「……やっぱり、茶色の目?」

マティはルシールの顔に手をかけ、明るい方に傾ける。

「これを、こうじゃ……あーッ、分かった!」

いきなりの大声だ。思わずギョッとするルシール。

「何か、すごーく勿体無いような……、オイラだけの秘密にしたいよーな……」

テンポ良く、クルクルと変わるマティの様子に、ルシールは目を白黒するばかりだ。

マティは、絵本に出て来る名探偵さながらの決めポーズで、半身を返す。何か楽しい事を企んでいるような、意味ありげな目付きでルシールの方を見ながら、これまた意味ありげな口調で喋り始めた。

「昨日、馬車で来た時も、その黒服だったよね。白い服は着ないの? 寝巻きだけ!?」

「白い服は無いけど。それが何か意味ある?」

「大有りさ!!」

マティはルシールの目を指差した。

ルシールの目は、正面階段に降り注ぐ光が入ってアメジスト色に変わっている。

「光が入ると目が紫色になるんだよ! 白い服なら光の量が多くなるから」

「……今まで私、目の色は茶色だと思ってた……」

「何で、カーテンみたいに前髪下げているんだか。陰になるから、茶色の目に見えるんだよ」

マティは不思議そうにしながらも、目を半ば覆い隠す形で深く下ろされているルシールのセンターパート型の前髪をつかみ、カーテンを開くかのように両脇に押しやった。

更に色合いを変え、宝石のような鮮やかさになったアメジスト色の目と共に、妖精のような繊細な顔立ちも露わになる。

思わず、目を細めるルシール。

「ああ……、まともに光を見ると、まぶしいから……」

「そうなの?」

ルシールは光に目を慣らすため、パチパチとまばたきした。明るい光に慣れるための時間が、平均的な人より少し長くなっているのだ。

マティは、ルシールが少しずつ平気な様子になって来たのを確認して、ホッとした顔つきになった。そして正面階段の上、キアランが立ち去って行った方向に向かうと、得意満面でガッツポーズをしたのだった。

「フッ……キアラン、オイラの勝ちだぜ!」

「一体、何を勝負してるんだか」

――と、思わず突っ込むルシールなのであった。

ルシールは気を取り直し、正面階段の周りに広がっている古風な装飾や、いにしえの騎士の時代にまでさかのぼる年代物の品々を感心して眺めた後、頭上に広がる吹き抜けの高さに見入った。

「この館は素敵ね……伯爵様は、長くいらっしゃるの?」

「都のお仕事以外は、こっちだって……まず画廊を案内するよ! 北側だから、前髪上げてても平気だよ」

*****

画廊は、最上階のフロアにある。

メインの廊下と同じくらい長く伸びた画廊には幾つかのドアがあり、マティはそのうちの一つを開けて入って行った。ルシールも後に続く。

画廊には多数の絵画が掛けられていて、さながらちょっとした美術館と言った趣だ。いにしえの騎士の時代に由来すると思しきアンティークの品々も、置物よろしく一緒に陳列されている。

特に、ズラリと並ぶ肖像画は、それだけで存在感タップリだ。

(大きめの肖像画が、代々の当主の肖像画みたい。二代前がフレデリック・セルダン、一代前がベネディクト・ダグラス……この30年の間に、急に、氏名が変わってる……?)

やがて、ルシールは、肖像画のひとつに目を留めた。

比較的に小さなサイズの肖像画ではあるが、そこに描かれた一組の夫婦の面差しには、ハッとさせられる。

(この軍服をまとった黒髪の紳士は、リドゲート卿に良く似ている……)

額縁に付けられたプレートには、『ロイド&ホリー・グレンヴィル』と刻まれていた。この画廊に並べて掛けられているという事は、このグレンヴィル夫妻は、クロフォード伯爵家の親族か、先祖だという事だ。

(リドゲート卿は、この人たちの血が強く出たんだわ)

ロイド・グレンヴィル氏は灰色っぽい青い目をしていたが、その黒髪と強い眼差しは、キアランの父親と言っても不自然では無い。あと数年もしたら、キアランも大体こんな感じになるだろう。

グレンヴィル夫人ホリーは、黒い目と思慮深そうな雰囲気を持った知的な美人で、不思議に惹きつけられる神秘的な笑みを湛えていた。

――目はけぶるように細められ、口元は控えめなアルカイック・スマイル。ミステリアスな魅力がある。

しげしげと肖像画を見ていると、先に行っていたマティが、一枚の肖像画の前でルシールを呼んだ。

「ルシール、こっち来て。今の伯爵は、この人だよ……リチャード・ダグラス」

ルシールはマティの隣に並んだ。

その肖像画は、画廊中央の重厚なマントルピースの上に掛かっていた。現在の当主の肖像画が掲げられる定位置。

クロフォード伯爵家の当主ならではの、比較的大きなサイズの肖像画だ。そこに描かれた紳士は20代半ばから後半と思われる若さであったが、深い青さをたたえた涼やかな目元には、見覚えがある。穏やかな笑みは、昨夜見たものと同じ柔らかさを含んでいた。

「20年以上前に爵位を継いだ時に描かれたんだって。今も、老けた他は変わってないね」

「昨夜、お目にかかったわ。昔から素敵な方だったのね」

「もしかして、こういうのが好みなの?」

「まあ……何となく……」

まさに図星だ。マティは妙なところで、やたらと鋭い。

照れ隠しもあって、辺りをキョロキョロと見回す。すると、壁際に並ぶ椅子の一つに、古そうな小型ハープが置かれているのが目に入った。

(これも、先祖伝来の品というか、置物の一つかしら?)

……驚くことに、弦は新しく張られたばかりの物だ。

試しに爪弾いてみると、整備された音程ではあるが調律が甘く、微妙に狂っている。しかしながら、年季が入ったお蔭か、ハープ本体の共鳴は素晴らしい物になっていた。年季の入ったバイオリンが優れた音色を出すのと同じだ。

ルシールは疑問顔でマティを振り返った。

「弦が緩んでるけど、現役のハープよね……」

「ハープが弾けるの!? すげーや! 何か弾いて!」

*****

画廊の隅で、ハープ音楽が流れている。

「プロ並みの腕前……」

マティは、すっかり感心している様子だ。ルシールはニッコリと微笑んで見せた。

「アシュコートのオリヴィア様が師匠だったの。私が母から教わったのは庭園の魔法……祖父が庭園のプロだったと聞いてるけど」

マティは、すぐに知人に思い当たった。

「アントンの事だよね? 年末年始に此処に親族で集まった時、見た事があるんだ。此処の館の庭園を管理していて……ものすげえ偏屈なガミガミじーさんって感じだった」

ルシールは目をパチクリさせた。

「あッ……でも、庭園の管理は、とても上手いって聞いたよ。あのガミガミ・アントン……確か茶色の目で――だけど、もしかしたら、ルシールみたいに紫色に変わる目をしてたかも知んない」

自信無さげに追加するマティである。

「若い頃は割とイケてる顔立ちだったのかなあ? アントン、ルシールと同じ色の髪してたんだよ」

「まあ」

マティとルシールが夢中で談笑しているところに、杖を突いた老人が現れた。老人はルシールを見るなり……驚愕の表情で立ち尽くした。

人の気配に気づき、マティとルシールは一斉に振り返る。マティが目を見開いた。

「あッ……じいじ!」

杖を突いた老人は、クロフォード伯爵より一回り二回り程度は年寄りと言った風だ。暗色系のスーツをきっちりと着こなしており、寄る年波にやつれた印象はあるものの、その雰囲気には年季の入った端正さがある。

老人は、ルシールの顔に釘付けになったまま、すっかり青ざめている。不自然なまでの挙動不審だ。老人は、まるで幽霊でも見ているかのように震えているのだ。

マティがビックリして、祖父の異変を見つめた。

「私の目が、どうかしただろうか……あなたは……アイリス・ライト嬢その人に見えるのだが」

「アイリス・ライトは、私の母ですが……?」

小首を傾げながらも、おずおずと慎重に応えるルシールである。

「ああ……思わず失礼をして……余りにも驚いたので。アイリスさんに、生き写しだ……」

「伯爵様にも同じような事を言われましたわ。母は金髪で、私は茶髪ですが……そんなに似ているんですか?」

「どういう事だよ、じいじ! オイラの知らぬ間に」

マティが老人に飛び付く。老人は困ったようにマティを見下ろした。

「慌てるな、マティよ……椅子を持って来てくれんか」

老人は杖を突いているとは言え、長く立っているのは辛そうな様子である。

マティが早速、椅子を引きずって来た。

ルシールが気遣って差し出した手にすがり、老人はゆっくりと椅子に腰を下ろす。最初の衝撃が過ぎ去った後は何らかの納得がいったらしく、老人はルシールをしげしげと眺め始めた。

「あなたがハープがお出来になるとは驚きです。これは、私の亡き妻の物なのです」

「それは済みませんでした」

「いやいや……そのハープは、いつでも弾いて良いですよ。私は腰が痛くて、ずっと放置していたもので」

ルシールもマティも改めて各々腰を下ろす。老人は一息つくと、自己紹介を始めた。髪はすっかり白くなっていたが、マティと良く似た明るい茶色の目をしている。

「マティの母方の祖父、クレイグです。現在は腰の痛みで引退しましたが、昔、ダグラスの地所の牧師を務めました」

牧師――雰囲気や物腰の端正さに年季が入っているのも、当然だ。ルシールは納得し、引っ掛かった部分を疑問にして、口を開いた。

「ダグラスって、今の伯爵様の氏名と同じ……?」

「うん、昔、先々代だかの伯爵が急に亡くなった時、一番目の跡継ぎの子爵が失格しててさ。ダグラス家の伯父さんたちが伯爵に繰り上がったんだよ。その跡継ぎに次ぐ爵位継承権を持つ、クロフォード直系親族でもあったんでさ」

マティが目をキラキラさせながら、クロフォード伯爵家の事情をかいつまんで解説して来る。

ルシールは目をパチクリさせて、クレイグ牧師とマティを見比べた。

「伯父さんって……クレイグ牧師様は、伯爵様のご親戚なんですか?」

「ええ。クレイグ家はダグラス家の傍系です。偶然ながら、私はリチャードの……クロフォード伯爵の叔父なんです。クロフォード方とは血が繋がっていないので、爵位継承権は無いですが」

ルシールは感心して、目を丸くした。確かに血縁ならではの気配がある。伯爵と似通う部分が端々に見られる。

クレイグ牧師はおもむろにマントルピースの方に首を傾け、その上の壁に掛かっている若き日の伯爵の肖像画を、感慨深げに見やった。

「今の伯爵は、両親を早くに亡くしていて。彼には兄も居たが……私がまとめて後見をしとりました。あの頃は……まさか、宗家直系の子爵が失脚するとは――ダグラス家が宗家に繰り上がるとは――夢にも思わなかった」

ルシールは、クレイグ牧師の昔語りに興味を持って、慎ましく耳を傾けていた。

(叔父に当たるお方が、このようにおっしゃるのだから、伯爵様ご本人も、いっそう戸惑われたに違いないわ)

マティ自身は、自分が生まれる前の話だからか、ギクシャクとした部分を全く感じていない様子だ。

「ダグラス家の伯父さんたちは、二人兄弟なんだ。兄の方が先に伯爵になって、それが先代。先代も急に死んでしまったんでさ……」

ルシールは、今聞いた話を何とかまとめようと、頭の中を整理し始めた。

(伯爵様には、お兄様が居た。お兄様は、今は亡くなられている)

ルシールの脳裏に閃くものがあった。先ほど見た、グレンヴィル夫妻の肖像画。

(あの人だわ。リドゲート卿の顔立ちが、父親に当たる筈のクロフォード伯爵と雰囲気が異なっているという理由が、これで綺麗に説明がつく! ……彼のフルネームは、ロイド・グレンヴィル・ダグラス、というのかも知れない)

「あ、あの、肖像画の……」

「リチャードから、あなたの話を聞きましたが」

不意にクレイグ牧師が口を開き、ルシールは思わず口を閉じた。

老いた顔には懐かしそうな表情が浮かんでいる。ルシールの面差しの中に、かつての忘れえぬ面影をハッキリと見ているに違いない。

「リチャードが……伯爵が驚いたのも、無理は無い。アイリスさんに良く似ています。しかも、同じ紫色の目をしている」

「前髪でふさいでないから、光が入って……」

ルシールは戸惑って、目をパチクリさせつつ、頬に手をやった。他人に、目の色が紫色だと言われても、実感が無い。

マティがむくれ始めた。

「なんだよ、目の色の秘密はオイラが第一発見者なのにさ!」

「ハハハ、彼女の母親は見事な金髪のお嬢さんでな……それは美しいアメジストの目をしとった」

クレイグ牧師は愉快そうに笑い声を立てている。

ルシールは両頬に手を当てたまま、ポカンとして、クレイグ牧師を眺めるばかりだった。

「良くご存知なんですね……母とは、何処でお会いになったのですか?」

「テンプルトンですよ」

ハッとするルシールに、クレイグ牧師は説明を続けた。

「そこは、昔の『前の子爵』の地所だったのです。失脚前の『子爵』は、クロフォード伯爵家の筆頭の跡継ぎだったと言う事もあって……特にローズ・パークは、ダグラス家も含めて、地元の多くの良家が訪問する場所でした。今でも、クロフォード伯爵領内の地元社交界の名所ですよ」

薔薇の花咲く白亜の館。ルシールはドキドキし始めた。

「ローズ・パークは、昔は、クロフォード伯爵家が直接、というよりは、後継者・子爵が管理する地所だったという事ですね……子爵の失脚に伴って、ローズ・パークのオーナーも、今のオーナー協会に変わった、という事ですか?」

「だいたい、それで間違いないです。実際の経緯は、もう少し込み入っているのですがね」

■クロフォード伯爵邸…老庭師の倉庫■

画廊からハープ音楽が流れて来る。

執事が伯爵の部屋へお茶を運ぶ途中で気付き、画廊の様子を見に立ち寄った。画廊の中ほどで、ルシールがハープを演奏している。

さっそくクレイグ牧師が軽く目礼をした。

「おや、執事さん」

執事は状況を見て取り、目礼を返しながらも当惑の面持ちである。

「ワイルド先生の、リチャードへの往診が済みましたか」

「ええ……、閣下はクレイグ牧師様をお待ちでございます」

ルシールは速やかに演奏を切り上げ、ハープを片付けた。マティが、ちゃっかりとルシールの手を握り締める。

「今度は、庭園を見てみたくない?」

「え、まあ」

ルシールは戸惑っている格好だ。クレイグ牧師が微笑みつつ、声をかける。

「ライト嬢、楽しんでいってください。あなたのおじい様は、実に素晴らしい庭師でした」

「有難うございます」

マティとルシールが手に手をつなぎ、姉と弟のように連れ立って画廊を退出する。

「マティ様は、ライト嬢を気に入られたようですね」

執事が興味深そうに呟く。クレイグ牧師は、ホッとしたように微笑んでいた。

そして、執事とクレイグ牧師も、画廊を後にする――

マティは、ふと振り返り、祖父の足の運びが少しばかり軽くなっている事に気付いた。

――足の調子が、変わっている……?

*****

いつの間にか正午を過ぎて、穏やかな春の昼下がりの刻。

館の前庭から続く庭園の入り口で、春の陽射しを楽しみつつ散策する、マティとルシールの姿があった。

ルシールは、ボンネット風の帽子をキッチリと留めて、まぶしい陽差しから目をガードしている。

傍では、子犬のパピィが、キツネのようにモフモフとした亜麻色の尻尾を振り回しながら、楽しげに走り回っていた。

マティは、『パピィの家』という秘密の場所に、ルシールを案内していた。

客人用の散策コースから外れた場所で、周りの木立に巧みに溶け込むようにして、常緑性の樹木が、一年中変わらぬ生け垣を作っている。

人の背丈より高い緑の生け垣の中に囲われて、ささやかな空き地と思しき空間が見受けられた。何やら平屋建ての小屋の屋根らしき物がのぞいている。

マティが、目印の大木の根元をクルリと回り、盛んに手招きした。

大木は生け垣の角から立ち上がり、偉大なる主よろしく広々と枝葉を広げている。さながら生け垣に囲まれた空き地の屋根と言った風だ。大木の横に、ポッカリと入口が開いている。

ルシールは感心しつつ、マティの後に続いて、秘密基地めいた入口をくぐった。

常緑性の樹木が作る生け垣に囲われて、小屋が建っていた。

見るからに倉庫という感じの小屋だ。いずれにしても小屋の筈なのだが――その有り様は、ルシールを絶句させる物だった。

「――これが、犬小屋?」

ルシールは、破壊し尽くされた小屋の前で足を止めた。

「何だか、えらく破壊されているけど……庭園管理のための道具の倉庫よね……おまけに雨漏りするじゃ無いの」

倉庫のドアと思しき部分は、すっかり粉砕されていた。

辛うじてドア枠に相当すると思われる骨組みが残っており、散々に破れた板がへばりついていると言った風だ。マティが一応は片づけたのか、元ドアだったと思しきボロボロの板切れの山が、小屋の脇に出来ている。

他の壁も、屋根の部分も、ドア部分ほどでは無かったが相当に痛めつけられたと見え、大きくひしゃげた板が剥がれたり飛び出したりしていた。

大きく歪んだ隙間を通して、明らかに庭園道具と見える数々が、雨ざらしになっているのが見える。

マティがルシールを振り返り、解説を始めた。

「今は庭師が居ないんだ……誰にもバレずに犬を飼えるって訳」

「庭師が居ない?」

「三ヶ月前にアントンが死んだ後、まだ決まってない」

これ程に破壊された小屋では、成る程、間に合わせの犬小屋以外には、適当な利用法が無いようだ。

ルシールは困惑するままに、キュッと眉根を寄せ、小屋を見つめる。

毛布を持ち込めば、子犬に必要な保温は確保できるが、屋根も壁もこれ程に破壊されていては、雨風を防げない。現に、日中の気温が高くなったため乾き始めてはいるものの、床には水溜りの名残が、シッカリとあるのだ。マティが館の客室のバルコニーにパピィを連れ込むのも、当然なのである。

――小屋の中の物が目当てならば、鍵を壊すだけで済んだだろうに――倉庫全体を破壊するとは――犯人は、きっと野蛮人に違いない。

子犬パピィが倉庫の中に入って行く。マティも『勝手知ったる』という風で続く。

ルシールは、パピィとマティの後を付いて、恐る恐る倉庫に入って行った。

いつ何が起きるか分からない程に破壊されている状態という事もあり、倉庫の奥へ乗り込むというような、スリル満載の探検は出来ない。比較的動きやすい簡素なデザインとは言え、ドレス姿では、どうしても慎重にならざるを得なかった。

屋根の穴から洩れる昼下がりの陽射しの中、ひとかたならぬ関心をもってキョロキョロと見回してみる。

外見こそ破壊されて無残な物ではあるが、倉庫の中は意外に片付いている。三ヶ月も人が入らなかったと言うだけあって、歪みや傷みは目立つものの――中の物はゴチャゴチャと落ちておらず、足元は、さほど危険な状態では無かった。

――奇妙に馴染み深い空間。

ルシールはその理由を考え……すぐに、スコップや熊手といった各種の庭園道具の並び順が、自分の知っているパターンと全く同じだと言う事に気付いた。

(母も、こういう収納パターンだったわ)

まるで、此処に母が居るような気もして来る。隅に並んだ収納箱の中に、どういう種類の道具があるのかも、何となく分かるのだ。ルシールは、懐かしさすら覚えていた。

涙が溢れそうになり、うつむく。

「泣いてるの、ルシール?」

「ううん、大丈夫」

気を取り直して再び見回してみると――

隅に近い床の中ほどに、剪定用の小型ハサミが放り出されていた。その小型ハサミだけ本来の収納場所から大きく離れているのが、不自然に目に付く。

ルシールは小型ハサミを拾い上げると、慎重に観察し始めた。

「この倉庫が襲われたのは、最近一ヶ月か二ヶ月の間って感じ」

「分かるの? 復活祭の頃には、こうなってた」

「理由はサッパリ分からないけど、此処を襲った犯人は、剪定用のハサミを必要としてたみたい」

マティは明るい茶色の目をパチクリさせ、ルシールが持っている小型ハサミをマジマジと見つめた。ルシールはマティに、小型ハサミの刃の部分を示した。

「プロの庭師なら、使った道具をそのままにしないわ……錆びちゃうもの。此処に、樹液のシミが見えるでしょ」

じっと見てみると、屋根の穴から洩れる光の中、錆つき始めたシミが明らかに見て取れる。マティは感心しながら小型ハサミの刃を見つめた。

ルシールは手持ちの布でハサミの刃を磨きつつ、シッカリした作りの倉庫を見回した。

「この倉庫は……もしかして、アントン氏が管理してた……?」

「そうだよ、彼が居た頃は近付けなくて……怒るとすごく怖かったんだぜ、あのジーサン」

此処は、アントン氏ゆかりの場所だったのだ。館の庭師も務めていたというアントン氏が、死亡した日の前日まで出入りしていた倉庫に違いない。

(顔も知らぬ祖父の手が触れた物なのだ)

ルシールは、とりあえず磨き終わったハサミを、心当たりのある所定のボックスに収納した。

改めて、視界に入る限りの倉庫の各所を観察してみる。古い道具もあるけれど、丹念な手入れで――雨ざらしが続いたにしては状態が良い。

(眺めているうちに、祖父の人柄が見えて来るような気がする)

もう少し倉庫の隅々を見てみたいのだが、ドレス姿では、これ以上無理は出来ないのは明らかだ。明日にでも作業着に着替えて、庭園の方も本格的に回ってみよう……と、決心するルシールであった。

*****

倉庫を出て、マティとルシールは庭園の散策を再開した。

「この庭園、樹林がすごい。緑の城壁と回廊って感じ」

「だろ? パピィと色々、探検してんだ」

「あの庭園道具が、造り上げたのね。10年以上もの時をかけて」

「聞いた話だけど、昔の抗争で、あちこち荒れてたんだってさ。二度か三度くらい、いっぱい人を入れて、大掛かりな改修工事やったんだって」

やがて樹林の間から、前庭ロータリーが見えて来た。

お仕着せのスタッフたちが、ロータリーの舗装状態の点検を続けている。

不意にルシールは、ロータリーに面する樹木の一部の、不自然な様子に気付いた。

(この辺りの一角に集中して、枝葉が痛んでいる?)

何かが荒々しく横切ったかのような痕跡だ。ルシールは眉根をひそめ、辺りを調べ始めた。

パピィが急に飛び出し、近くでピョンピョン飛び跳ねる。

近付いてみると、壊れた車輪の一部が、オブジェか何かのように転がっていたのだった。

(――馬車か何かが、ぶつかった? 事故……?)

ルシールは首を傾げた。

マティの方は、と言えば。

ピューッと走り去った子犬パピィを追いかけ回す事に、夢中だった。

*****

ディナーの時間だ。

ルシールは、アップスタイルの髪型にリボンを整え、時間通りに食堂に赴く。

執事の手引きで食堂に入ると、ディナー用に服をきちんと整えたマティが、ルシールを待ち構えていたのであった。

マティは、ルシールを見るなり意外そうな顔つきに変化した。思わず戸惑うルシールである。

「私の格好、何か変? 茶色のサテンのリボンを着けてるから、礼儀は充分かなってる筈で……」

「地味だから」

「……?」

「つまり、ダレット一家と比べると地味だって意味」

「ダレット一家?」

「会えば分かるよ」

マティは、ゲッソリとした様子だ。

一方、ディナーテーブルの主人席には既にキアランが居て、当主代理として、ルシールが席に着くのを待っていた。

ディナーが始まるが早いか、マティは陽気にお喋りを始めた。パピィと追いかけっこした時の興奮が続いている様子で、マティの舌は良く回った。

「最初に、ルシールを画廊に連れて行ったんだ。で、その時、小型ハープがあったんで、ルシール、ハープ出来るんだ、すげぇよ。んで、じいじ、来てさ。じいじ、ルシールを見て、ビックリしてたんだ。オイラもビックリしたよ。次に、庭園の入り口の方を探検したんだよ。明日はバラ園とか、東の方に行く予定だよ」

相変わらずキアランは無表情なままであったが、マティのお喋りをしっかり聞いている事は明らかだ。

マティの怒濤のお喋りが落ち着いたところで、ルシールとキアランは、控えめながら言葉を交わした。

「広いお庭で、大変ビックリしまして……」

「それは光栄です」

ルシールは改めて、失礼の無いようにそっと見回した。

上流貴族の豪邸だけあって、豪華さを兼ね備えた広い食堂だ。親しみを醸し出すためか天井は比較的に低く、そこに明るいシャンデリアが下がっている。

重厚なビロードのカーテンを備えた大窓からは、ますます緑濃くなる木の葉や草が、夕べの風にサヤサヤと揺れているのが見えた。窓の無い方の壁には冬季の暖房用の暖炉が設置されており、暖炉の周りを彩る重厚なマントルピースの上には、趣のある種々の置物や絵画が掛かっている。

床は滑らかな大理石。その面が、天井のシャンデリアの灯りや、長いディナーテーブルの上にセットされた燭台の灯りを、キラキラと反射していた。

今夜のディナーの面々は、キアラン、ルシール、マティの三人だけだ。

ルシールは首を傾げた。

「……伯爵様とクレイグ牧師様は、お食事は……?」

「父とクレイグ殿は、上の居間で食事です。二人とも階段の昇降が難しいので」

キアランの説明は、納得できるものだった。

「足腰に来ると、大変ですね……お大事になさって下さいませ」

「二人に伝えておきましょう、ライト嬢」

キアランとルシールの、互いの遠慮がちな会話が一段落する。

マティがルシールの袖を引き、再び、好奇心タップリの少年らしい、際限の無いお喋りを開始した。ルシールは笑みを浮かべながら、マティのお喋りに応える。

キアランは沈黙したまま、話の種が尽きぬ様子のマティとルシールを観察していた。

――ライト嬢は、不思議な目をしている。

蝋燭の光のせいなのか、と心の中で首を傾げるキアランである。ふとした折に、ルシールの目は、幻の花のようにも見える優美な色合いを見せるのだ。

■アシュコート伯爵領…交差点〔一〕(前)■

アシュコート伯爵領の辺境。

ゴールドベリ邸から一番近い町、レイバントン。

朝の仕事始めの時間帯、馬車が多く行き交うメインストリートの交差点に、更にもう一台の馬車が入って来た。角を回り、目的のロータリー部分に馬車を止めると、御者は馬車の中に向かって声を掛けた。

「ヒューゴ様の弁護士事務所に到着しましたよ、アンジェラ様」

馬車の扉が開き、春らしい爽やかな色合いのお出掛け服に身を包んだアンジェラが、元気良く降り立つ。大きなつばの白い帽子に緑のリボンを着け、小粋な角度で被っていた。さながらお忍びの貴族令嬢だ……実際に、本物の公爵令嬢だったりする。

「どうも有難う、スコットさん……それじゃ、またいつもの時刻に」

「ハイ、お迎えに上がりますよ」

ゴールドベリ邸の住み込みの御者スコット氏は、了解したという風にシルクハットに手を掛けた。そして手際よく馬車を回して、来た方向に速やかに帰って行った。

アンジェラは、前日に受け取ったジャスパー判事からの書状を確認し、ヒューゴの弁護士事務所に向かって歩き出した。ジャスパー判事の書状には、親子認知のための法廷の召喚状が添付されていたのだ。

本日十時に開廷――ロックウェル公爵は、今度こそ現れるかしら?

アンジェラは半信半疑ながらも、テキパキと歩を進めた。

やがて、小さな弁護士事務所の表の窓に到着する。アンジェラの弁護士を務めるヒューゴの事務所だ。

ヒューゴはまだ若く元手も頼りないのだが、以前の住人が良いタイミングで引っ越した事と、その際の特別な好意で、このような一等地に近い場所に事務所を構えられたのだ。

「ヒューゴさん! いらっしゃる?」

「アンジェラ! どうぞ入って!」

ストリートに面した表の窓を通して確認を交わした後、アンジェラは礼儀正しく、「失礼します」と言いながら扉を開ける。

事務所に入るなり……アンジェラは目を丸くした。

ヒューゴと一緒に居るのは、あの軽薄そうな金髪紳士、エドワードだ!

「――ええッ!?」

「こんにちは、お姫様……そのお出掛け服は、とても良く似合うね。お父上のためだろうけど」

エドワードはアンジェラを熱心に眺めていた。

薄いクリーム色をしたエンパイア・ラインのワンピースに、緑色の上着というファッションは、アンジェラの宝石のような緑の目を、良く引き立てている。

「な……、何で、此処に、エドワード卿が……!」

「ごめんよ、アンジェラ」

ヒューゴは困ったような笑みを浮かべるばかりだ。

「先輩に相談に乗ってもらっていたんでさ……目下、暗礁に乗り上げているしさ……」

アンジェラは、開いた口が塞がらない。やがて、キッと顔を引き締め、エドワードを睨む。

「あなた……、絶対、バラバラ死体になってるわよ」

「まあ、せいぜい用心しますよ」

エドワードは、アンジェラの威嚇を全く気にしていない様子だ。

公爵令嬢たるアンジェラに対する敬意を込めて、その手を取る。エドワードは、驚くばかり洗練された所作で、アンジェラの手の甲に挨拶の口付けをしたのだった。

*****

ヒューゴが、机の上の書類の山から一つの書状を取り出し、アンジェラに手渡した。

「ジャスパー判事から先程、連絡が届いたばかりで……ロックウェル公爵も代理人も出席無し、また『無効』だよ」

アンジェラは一枚の書状に見入り――気が抜けたように、近くの椅子に座り込んだ。

やがて、エドワードがボソッと呟く。

「貴族の『拒否権』か……」

ヒューゴがうなづき、エドワードに耳打ちを始めた。

「ロックウェル公爵、色々おかしいですよね。アンジェラは男子じゃないから爵位継承権ナシで『拒否権』発動の意味は無いですし、レディ・オリヴィアは正式な医療資格をお持ちで、医学的な意味での記録は確実なんですよ。それに、正式な親子認知が成立した後で、正式に廃嫡手続きする方法があって。アンジェラはレディ称号を希望してないし縁切り上等なんで、スムーズに片付く筈なんです」

不意に気付くところがあり、エドワードは首を傾げる。

「25年前、ロックウェル公爵は、修正された文書への署名はしなかったのか?」

「できなかったんですよ。馬車事故による重傷で、ずっと意識不明でしたから。意識が戻った後は……」

「成る程な」

エドワードは別の資料に目を通しながらも、アンジェラを気遣うように声を掛ける。

「ロックウェル公爵の拒否権発動は、これで五回目になる。法廷資金の確保は大変だろうね」

「今のところは、まだ大丈夫なの……母の貯金が残ってるから」

「しかし、それもいつまでも続くと言う訳では無いが」

アンジェラは決然と頭を上げて宣言した。

「あなたの縁組は高く売れるから、それで不足分を埋める予定よ」

「やれやれ」

エドワードは、いつものアンジェラに戻った様子なのを見て、ホッとした様子で肩をすくめた。

次いでエドワードは、おもむろに、ヒューゴの机の上から更に数種類の資料を取り上げる。

――過去の裁判資料だ。

「証拠調べにしても、しかるべき書類は決定的な諸要素に欠けている……か」

「あなた……裁判記録、理解できるの!?」

アンジェラは目を丸くする。

ヒューゴは机の上にうずたかく積まれている別の資料に向かっていたところで、パッとアンジェラの方を振り返り、得意そうな顔をした。

「先輩の法律の成績は、寄宿学校トップクラスさ」

「一体全体……どういう事なのかしら?」

アンジェラの反応を見て、ヒューゴは、キョトンとした顔になる。

「言って無かった? ハクルート公爵の三男で財産分与は無い立場だから、先輩は弁護士で身を立てようとしてたって……」

「ハクルート公爵……!?」

アンジェラの中で、記憶の火花が散った。

以前に町に出て来た時、公園の新聞の紙面でも見かけた名前――

「お父上が、本当に都で大臣を務めていらっしゃる……!?」

エドワードが不思議そうな顔になった。

「もしかして、何処のシンクレア家なのか、全く知らなかった?」

「個別の構成なんて知る機会無いわよ! ゴールドベリ邸では貴族名簿の類なんか持ってないんだから!」

「驚きだね、お姫様の勘は本物の力だ……」

エドワードは感心したようにアンジェラを眺め始めた。ヒューゴがタイミング良く解説を挟む。

「アンジェラは、魔女のゴールドベリ一族の血が先祖返りで強く出てるんだそうです。金髪に緑の目が、ゴールドベリの一族の特徴で。 アンジェラの母親、旧姓セーラ・スミスはレディ・オリヴィアの姪でしたが、目の色はレスター系に近い茶褐色でした。 アンジェラは、我が家系では実に神秘的な変わり者です」

エドワードは興味深そうに片眉を上げた。

「アンジェラは、レスターと血が繋がっている?」

「アンジェラも、レスターの一族の係累になるから……僕の曽祖父の弟が作ったのが、レスター分家のスミス家で」

エドワードは頭の中で素早く家系図を組み立てた。

「ヒューゴとアンジェラは、祖父が従兄弟同士……か」

アンジェラは目の覚めるような金髪緑眼の美女、ヒューゴは黒髪黒眼のひょうきんな感じのする青年だ。二人は全然似ていないのだが、それでも、血縁関係にあるのは事実なのだ。

ヒューゴは美しい従姉妹を指し示して、ニッコリと笑った。

「ほとんど知られてない事実です」

アンジェラは疑いの眼差しでエドワードを睨み続けていた。

「あなたは見かけを裏切ってる御曹司ね……弁護士では無さそうで、銀行家ってのも何か違ってるし――ジャスパー判事のお仲間っぽいけど、私の知らない職があるのかしら?」

「お姫様の勘には、恐れ入る」

エドワードは感心しきりだった。

アンジェラは都の最新情報や適切な言い方を知らないだけで、ヒントも無しに、その仕事内容を正確に言い当てている。

「先輩の都での経歴に関係があるんだよ」

ヒューゴはアンジェラに説明しながらも、手際良く外出の準備を整えている。説明を言い終えた時には、ヒューゴは既に、シルクハットを頭に乗せていた。

「ともかく、例のバラバラ死体の人相書が上がって来た件で、僕、捜査本部の方を訪問しますんで。済みませんが、アンジェラをお願いします、先輩」

「任せてくれたまえ」

エドワードはうなづき、安請け合いした。

――瞬く間に、ヒューゴは外出してしまった。

暫し呆然とするアンジェラである。

やがて。

弁護士事務所の中に取り残されたエドワードとアンジェラの間で、意味深な視線がかち合った。

エドワードは何やら思案しながら、アンジェラを眺める。アンジェラは警戒の表情になり、一歩、後ずさった。

「先刻も思ったけど、あなたは、そのお出掛け服がホントに良く似合ってる……」

エドワードはサッと自分のシルクハットを手に取ると、気取ってアンジェラに一礼した。

「せっかくの装いを無駄にしたくない。公園でお茶でも如何でしょう」

開いた口が塞がらぬといった風のアンジェラは、呆然としたまま、エドワードに手を引かれて外出する羽目になったのだった。

「カータレット嬢、エリー嬢、シーア嬢、それに、ララ嬢……私の努力は……お勧めは……!」

■アシュコート伯爵領…交差点〔一〕(後)■

レイバントンの町の大きな交差点を成す公園は、可も無く不可も無しと言った風の標準的な庭園だ。しかし、春の季節ならではの風光が、そこに魅力的な趣を添えている。

エドワードは公園に入った後も、アンジェラのエスコートを続けていた。

困惑しきりのまま、アンジェラはエドワードを窺うのみだ。

この金髪紳士、毎度の歩くファッション雑誌さながらの服装なのだが、チャラ男らしい着崩しや気取った身振りが無いためか、それとも、こちらが本性なのか――お忍び中の快活な貴公子と言った風だ。見事に通行人に紛れており、それ程目立たない。

「前シーズンは、なかなか面白い事があったとか……あなたの武勇伝を聞かせて下さい」

エドワードは魅力的な笑みを見せた。アンジェラも年頃の若い女性と言うだけあって、エドワードの快活で魅力的な笑みにクラッとするのは、必然だった。

公園でティータイムを楽しむ多くの紳士淑女に混ざって、二人も手頃なカフェテラスに席を取る。最初はぎごちなく、しかし、やがてお互いに気が合い始め、談笑がスムーズに進む。

アンジェラにとっては、前シーズンのメインの出来事と言えば、男同士の恋人縁組だ。

「前シーズンの出来事といえば、男同士の恋人縁組。あれはなかなか大仕事だったかも。J&J商会の二人の事は知ってらっしゃる?」

「男同士の恋人縁組!? ……J&J商会の二人は女性に人気あるのに、独身で妙だと思っていたが」

「教会は男同士の結婚は認めないけど、そういう縁の形は、あるものですわね」

アンジェラは感慨深く溜息をついた。エドワードの笑みが深まる。

「あなたの哲学は自由奔放ですね」

「現実を認めているだけです、エドワード卿」

アンジェラはお茶を一服して喉を潤すと、再び話し始めた。

「常識が確定した社会だからこそ、型破りの価値が増しますもの。完全な自由は、非常識な存在を暴走させます。『型破り』と『非常識』……似て非なるものですわね」

「似て非なるものだと思ってるんですか、アンジェラ?」

「そうね。『型破り』と『非常識』の縁組は、たいてい失敗する。『型破り』は自由を求め、『非常識』は暴走する。その部分が、縁組において、決定的な破局の要素になるから、かしら……」

アンジェラは思案に集中していた。宝石のような緑の目が、いっそうキラキラしている。エドワードは我知らず、引き込まれていたのだった。

「……『型破り』と『常識人』の縁組は、こちらもビックリするくらい相性が良いのがあるんだけど。『非常識』は感受性が鋭いだけに、自分の内面も発言も制御できてないから、注意深く縁を組まないと周りも大迷惑するし、いつかは大爆発して、損害賠償レベルの問題になる……」

「縁組の仕事は面白そうですね」

「縁組というのは、宇宙の謎と同じくらい奥深いものだわ」

そこで、アンジェラは急にビジネス向けの顔つきになった。

「……そう! 縁組と言えばエドワード卿! あなたは四人の淑女と赤い糸の謎を探求して――」

アンジェラが何を話そうとしているのか――エドワードは、その内容を素早く悟った。先手を打って、意味深な顔つきで人差し指を立てて見せる。

「何ですか?」

一瞬、謎の仕草に気を呑まれ、アンジェラの目が点になる。

エドワードは物慣れた笑みを浮かべた。

「あなたは今、周りの紳士たちの目下の注目の的なんです」

確かに、通り過ぎて行く紳士の半数以上が、アンジェラの類まれな美しさを二度見しているのであった。思ってもみなかった指摘をされ、アンジェラはポカンとするのみだった。

――何が何だか分からないけど、都仕込みの社交術や巧みな話術とやらに翻弄されていたのかしら?

その気になればエドワードは、アンジェラよりも人あしらいが巧みであるらしい。

アンジェラはモヤモヤとし始めた。

気が付けば、レイバントンの町を二人で散策しており――それは、デートと言っても差し支えないものであった。アンジェラは、『こんな筈では無かった』と焦るばかりだった。

やがて昼下がりから夕方という時間帯になって来る。

エドワードはアンジェラに、再び満面の笑みを向けた。

「今日も時限ありますか?」

「一応、夕食に間に合うように、ゴールドベリ邸から御者のスコット氏が迎えに来る事になっていて……」

「幸運の続きを期待しましたが、時限ではそうも行かないですね。ロータリーまで送りますよ」

エドワードは楽しそうにウインクして来る。

素敵な紳士だから縁組も早く固まると思ったのに、これは難敵だわ……と思い悩むアンジェラであった。

大通りの交差点の広場まで続く、壁沿いの路地を歩いて行く。

路地の出口が交差点の広場で、送迎ロータリーを兼ねているのだ。ひっきりなしに送迎馬車が乗り入れている様子で、行き交う車輪の音が途切れず聞こえて来る。

――路地の出口を塞いでいる、何やら見覚えのある人影。

その正体に目ざとく気付いたエドワードは、アンジェラの行く手を腕で塞いだ。そのまま、巧みに身をさばき、アンジェラの顔が死角に入るように腕の位置を変える。

壁を背にして、エドワードの腕の中に閉じ込められる形になり、アンジェラは一瞬、目をパチクリさせた。急な行動の意図が読めない。

「彼女には見られたく無いでしょう、アンジェラ? リリスですよ……しかも、一夜の愛人連れです」

前方の人影に視線をやり、鋭く息を呑むアンジェラ。

――贅沢で、きわどいドレス。妖艶な立ち姿。確かに、マダム・リリスだ!

「送迎馬車を待ってるらしいな……行ったり来たり……」

そうささやくエドワードの声は、常ならぬ気迫に満ちていた。

マダム・リリスとその連れの一挙手一投足に注意を払い始めた琥珀色の目には、刃のような光がある。先刻までのチャラチャラした遊び人は――いや、それどころか、快活な貴公子さえも――何処へ行ったのかと思うほどだ。

「お父上の愛人とは、一人残らず顔見知りになるんですか? 彼女と会うとバラバラ死体になる――と、昨日も言ってましたね」

アンジェラは動転し、高速で首を振った。

「実際はここ最近の愛人しか知らないの、生後六ヶ月の時以来、父とは会ってないし……」

エドワードの予想どおり、アンジェラはリリスと遭遇した事ですっかりパニック状態になっており、口が軽くなっていた。手提げ袋をきつく握り締めた手が、細かく震えている。その震えは、瞬く間に全身に広がっていった。

「リリスの事、そんなに恐れてるんですか?」

「こッ、怖くないわよッ……ただ、一つ前の裁判で、父代理の弁護士が来なくなって。その時に、彼女が現れて弁論して……」

蒼白になったアンジェラは、無意識のうちに、ペラペラと事情を説明している。

「気になって、復活祭の機会にロックウェルを訪ねてみたら……、バラバラ死体を、見付けた、から……」

アンジェラの威勢が、急に弱くなっていく。エドワードには、アンジェラの考えがありありと分かった。

「成る程……リリスが弁護士をバラバラにしたのかも……とは、有り得る事ですね」

「私はそんな……」

「いや、あなたの疑いは自然です」

――マダム・リリスと、その連れの洒落男の視線を、痛いほど感じる。彼らは、あからさまにニヤニヤ笑いを深めているところだ。

傍目から見れば、金髪紳士が若い娘を路地の壁に押し付けて口説いているという状況だ。その手の色事に目の無い彼らにとっては、余りにも面白そうな光景に違いない。

「あの金髪紳士、舞踏会に居た若いツバメ? 女遊びの噂は本当だねえ!」

「今度のパーティが待ち切れない訳よ」

「それにしても、女の子の方は誰だ? ほとんど見えないが」

洒落男の方は、一層にやけた顔をヒョコヒョコ動かし、死角の中にあるアンジェラの様子を窺おうとしている。

……エドワードは真剣な顔でボソッと呟く。

「しかし、しつこいな……」

エドワードは不意に、呆然としたままのアンジェラに顔を寄せた……

時を同じくして、送迎ロータリーの真ん中で、にわかに騒動が持ち上がった。

「キアランのクソが……! よくも、私をたばかって!」

ロータリー中に響き渡るような大声で叫びまくっているのは、かの貴族風の中年メタボ紳士、華麗なファッションに身を包んだダレット氏だ。その脇には、同じように華麗なファッションに身を包んだダレット夫人とダレット嬢も居た。

「あの身の程知らずが! 下賤な無礼者が!」

「失礼にも、あたくし達を置いて、クロフォード伯爵領に帰還したというのね!」

ダレット一家全員の口から、怒りの言葉がとめどもなく噴き上がる。

いつの間にか、キアランは既にクロフォード伯爵領に帰還しており、ダレット一家は揃って、アシュコート伯爵領に放置された形になっていたのだった。

ダレット氏は激昂の余り顔を真っ赤にしながらも、先行馬車を操っている御者を乱暴に引きずり下ろし始めた。

「おい、こら、どけどけ! 早く馬車を出せ、一刻を争うのだ」

割り込まれた御者は、ダレット氏の剣幕に仰天するばかりだ。馬車馬もビックリしているのか、落ち着かなげに脚を踏み鳴らしている。

「おお、でもダレット様、順番が……」

「順番なんか、どうでも良い! この私の命令が聞けんのか!」

ダレット氏の大声が送迎ロータリー中に響き渡り、近くの人々は一斉に騒動の中心に目を向けた。マダム・リリスとその連れの洒落男も、新たなる騒動の発生に注意を引かれる。

「ダレット氏の横車に注目した!」

エドワードは、リリスと洒落男の注意がそれた一瞬を見逃さなかった。「この隙に!」とばかりに、アンジェラを抱えて駆け去っていく。

一瞬の後、リリスが再び後ろに目をやると、二人の姿は既に消えていたのだった。

*****

――ダレット一家の乱入で当分揉めるであろう送迎ロータリーは、今はまずい。

エドワードは、アンジェラを自分の馬で送る事を決心した。

得体の知れないマダム・リリスへの恐怖が先に立っているせいか、アンジェラは蒼白な顔色だ。

町内ホテル付属の厩舎の傍らで、エドワードとアンジェラは、一頭の馬の上に相乗りになる。

そのまま、二人はゴールドベリ邸への道を急いだ。アンジェラは、まだショックが続いている様子だが、大人しくしている。

アンジェラの状況理解が早い事に、エドワードは改めて感心していた。

――あの突然の対応にも、本気で怒っている訳では無いらしい。

身体の震えが残っているうちは、姿勢が安定しない。エドワードは落馬に対する用心のため、アンジェラの身体をシッカリと抱え込んだ。

偶然とは言え、まさに役得だ。スラリとした体格ではあるが、大人の女性ならではの柔らかさが感じられる。エドワードは、ひそかに笑みを浮かべた。

――マダム・リリスとの距離に比例して震えが収まって来るという部分は、何とも正確と言うか素直と言うか。

エドワードは、アンジェラをゴールドベリ邸の前で降ろした。高貴なる公爵令嬢に対する、丁重な扱いそのもので。

気を張ってしかめ面をしているアンジェラの手を取り、敬意の口づけを送ると、エドワードは生真面目な態度を崩さぬまま、完璧な所作で一礼した。再び馬上の人となり、速やかに去っていく。

アンジェラはゴールドベリ邸の前にたたずみ、夕間暮れの中の騎馬姿を見送っていた。アンジェラのしかめ面は、いつしか、困惑顔になっていた。

実際は、アンジェラは、怒っていると言うよりは――驚きの余り呆然としていたのだった。

■アシュコート伯爵領…交差点〔二〕(前)■

翌日のゴールドベリ邸。正午に近い時間帯。

アンジェラが書斎で郵便物や文書の整理をしていると、ゴールドベリ邸の住み込みの家政婦スコット夫人がやって来た。

「お客様が、おいででして……」

スコット夫人は、意味深な笑みを浮かべている。

――もしかしてエドワード卿!?

アンジェラはギョッとした。いそいそとした様子でスコット夫人が立ち去って行った後、アンジェラは文字通り、ヘナヘナと床に手をついた。

――いい年してて、動転するなんて赤っ恥だわ! 昨日の今日で、一体どんな顔をして会うべきか……!

実際、アンジェラは、昨夜は余り眠れなかったのだ。70%がエドワードのせいで、30%がリリスのせいだ。

これまでにも、真剣に好意を抱いた男性と腕を組んだり手を繋いだり――友情のキスもしたり――した事は、一応ある。

ただし、それはアンジェラが動転していない状態での話だ。

エドワードは紳士的だった。それは間違いない。まさに『縁組サービス』の目玉商品だ。競売で売り飛ばす方式にすれば、こちらも大儲け出来るのは確実だ。

だが、動転した状態を突かれたせいなのか――今後、エドワードに接近されると落ち着かなくなるであろうという確信がある。

昨日の『キスの演技』にしても、口の端に触れていたから半分は演技では無い。『場合が場合だから本物のキスでもOK』と言う思いが一瞬よぎっていたと言う事実は、エドワードには、絶対に内緒だ。

アンジェラは気合を入れ直し、シャキッと背筋を伸ばし、殊更におすまし顔を作って戦闘態勢を整えた。

しかし、今日の訪問客は……アシュコート伯爵一人のみであった。

アシュコート伯爵は、オリヴィアへの求婚も兼ねて、ロックウェル事件の経過報告にやって来ていたのだった。

このご時勢だから、身辺警備を兼ねた従者を一人連れて来ているのだが、伯爵がオリヴィアと会見している間は、従者は別の部屋で、御者スコット氏と、共通の趣味でもある魚釣り談義に興じているのである。ちなみに御者スコット氏は、家政婦スコット夫人と夫婦である。

いつものように応接間にお茶を運びつつ、ホッとしたような、残念なような……と複雑な気分のアンジェラであった。持ち前の気の強さもあって反発しきりではあるが、エドワードに翻弄されているのは確かだ。

アシュコート伯爵は、いつものように応接間のソファに座ると、一枚の紙を取り出しながら、オリヴィアにロックウェル事件の説明を続けた。

「昨日、バラバラ死体の人相書が完成したんだ。この人相書について奇妙な点があったので、見て欲しいのだが」

人相書を眺めた後、オリヴィアも「実に奇妙ね」と同意する。

オリヴィアは暫し考えていたが、いつものように傍に控えていたアンジェラを呼んで、人相書を手渡した。

「法廷に出ていた、ロックウェル公の代理の弁護士かしら?」

アンジェラは人相書を手に取り、慎重に観察した。

線描に水彩という簡潔な人相書ではあったが、肖像画と同じくらいの精度で、人物の特徴が描き出されている。想像以上に貴族的な面差しの男だ。

人相書に描かれた男は、褐色の髪をしていた。40代から50代の年頃であろうか。

――この人が、ロックウェル事件のバラバラ死体の、主。元の顔が分からない程に破壊されていたと言う――

「復活祭を境に行方不明になった、父の代理の弁護士では無いですね……」

「では、バラバラ死体の主は、弁護士では無いわね。謎の、第三の男」

「彼は一体、誰……?」

オリヴィアは真剣な面持ちになり、アンジェラを見やった。

「アンジェラは当時は生後六ヶ月だったから、覚えていないのも当然ね。ロックウェル公ユージーンに似ているのよ」

「父に……!?」

絶句するアンジェラ。

アシュコート伯爵は眉根を寄せて灰色の目を伏せ、白髪混ざりの銅色の髪に手を突っ込んで、かき回していた。伯爵も、相当に困惑している様子だ。

「弁護士は生死不明、バラバラ死体はロックウェル公に良く似た男。捜査本部も大混乱なんだ」

オリヴィアは緑色の目をわずかに細めた。その目の輝きが、深みを帯びる。

「……死体をバラバラにしたのは、本人を正確に特定するための身体全身の特徴を、ごまかすため。顔面が、つぶされていたと言うのも……」

そう言って、オリヴィアは暫し目を伏せて思案した……透視能力の発動だ。やがて、オリヴィアは一つ、うなづいた。

「アンジェラ。書斎に、25年前のライト夫人のカルテと一緒に来ていた、ユージーンのカルテがあるから、持って来て。あれには馬車事故で出来た傷痕の全ての記録があるから、何かに役立つ筈。ヒューゴさんに提供しておきましょう」

「承知いたしました」

アシュコート伯爵は青い顔をして、そのやり取りを眺めていたが、やがて、気を取り直した様子で、茶カップを手に取った。

慎ましく応接間を退出し始めたアンジェラの耳に、アシュコート伯爵の説明が届いて来る――

「今、エドワード君が、ヒューゴ君と共にリリスに接近しているところだ」

エドワードの名が急に出て来た――アンジェラは思わず耳をそばだてた。

応接間を退出した後も、アンジェラは慎重に身を潜め、扉の隙間から洩れ聞こえて来る会話に耳を澄ます。

「リリスの私的なパーティの招待状を、うまく入手したそうでね。彼らなら、リリスから新しい情報を引き出せるかも知れん」

アンジェラは、プルプル震え始めた。怒りにコブシを握りしめ、勢いよくその場を離れる。

「……エドワード君は、以前、大臣や側近たちを巻き込んだ首都の疑獄事件でも、ジャスパー判事と組んで……」

アシュコート伯爵の声が続いていたが、その内容は急に不明瞭になっていった。

応接間からシッカリ離れた廊下に到着すると、アンジェラは地団太を踏み、コブシを振り回した。空気を相手にボクシングを始める。

「リリスのパーティ、『いかがわしい噂』がごまんと流れてる代物じゃないの! アヘンが出るとか、ナイジェルの如き変態が出るとか……仮にも名門公爵家の三男が、そんな場所に出入りするなんて! 縁組ビジネスの商品価値が暴落するじゃ無い! ヒューゴさんなら、場数を踏んでるから良いけど……! あの放蕩ドラのバカッ!」

エドワードの、余りにも軽率な行動に、腹が立って来るアンジェラであった。

****

翌日は絶好の散策日和に恵まれた。気持ちの良い昼下がりである。

あのメインストリートの交差点の名所、レイバントンの公園の一角には、今しも縁組作戦に取り掛かろうとするイザベラとアンジェラが居た。

「えええ!? そうなの、アンジェラ!?」

「もう、ホントに信じられない!」

「我らが『縁組サービス』特別プロジェクト、カータレット嬢とエドワード卿の縁組は見込み薄だわね……?!」

「朝、ちょっと弁護士事務所に寄って来たけど。ジャガー氏の話では、リリスの噂の饗宴に出て、みだらで異常な一夜を過ごして朝帰りだとか」

アンジェラはぷりぷりしながらも、男物のシルクハットを頭に乗せた。肩肘を張り、詰め物をした男物の上着が崩れていないかどうか、チェックする。

アンジェラの準備が済むと、イザベラは訳知り顔でアンジェラの腕を取った。あちこちで『縁組ビジネス』スタッフ嬢が合図をし合っている。

「この件は、今は忘れましょう。さあ、今日の縁組作戦、開始よ! アンジェラの勘でも、間違いないわよね、あの二人!」

「もちろん! あの黒ネコには、良く言って聞かせたわ!」

イザベラが『縁組サービス』の仲間たちと注意深く手筈を整えた通り、公園の一角では、可愛らしいララ嬢と好青年クリプトン氏が、黒ネコを追っている内に、如何にも偶然と言った様子で出会っていた。

なかなか良い雰囲気だわ……とうなづきつつ、イザベラとアンジェラ、その他の『縁組サービス』スタッフ嬢の面々は、その様子を物陰から注意深く窺う。

しかし――かなり時が経ったのであるが、ララ嬢もクリプトン氏も無言で連れ立って公園を散策しているばかりで、なかなか事態が進展しない。明らかに、お互いに照れまくっていているのだ。

「クリプトン氏……! このヘタレ、昨夜あれほど仕込んだってのに。そろそろ当て馬をけしかけるわよ……!」

イザベラは短気な性質だ。当て馬の男役のアンジェラの腕を取って物陰を引きずり回しながら、クリプトン氏に向けた不満を呟いていた。

しかし、照れまくりだった恋人たちは、無事婚約と相成ったのだった。

*****

クリプトン氏とララ嬢が良い雰囲気になって立ち去った後。

「縁組成立!」

「大成功よ! 大勝利よ!」

「礼金ゲット! イェイ!」

『縁組サービス』スタッフ嬢たちは、勝利のダンスを踊ったのだった。

黒ネコが「ニャー」と鳴きつつ、調子を合わせている。

*****

レイバントンの町のメインストリートで互いの健闘を称えつつ、イザベラとアンジェラは分かれた。

アンジェラはヒューゴの弁護士事務所に向かった。

――あの金髪の不良紳士、ヒューゴさんの弁護士事務所で、よろしくない行為をいたしている筈よ!

アンジェラの勘は、外れた事は無い。

自信満々で歩き続けるアンジェラは、やがて、小さな黒ネコが後を付いて来るのに気付いた。

「今日は縁組作戦、頑張ったわね、この間の木登り黒ネコ君。後でエサあげるわ」

アンジェラが手招きすると、黒ネコはピョコンと飛び跳ねて駆け付け、並走して来た。

やがて、ヒューゴの弁護士事務所の窓の前に到着する。

アンジェラは表の窓から中を窺った。早速、ソファの上で寝入っているエドワードを発見する。

「アシュコート伯爵がおっしゃった通り、ヒューゴさんがエドワード卿を誘惑して、アブナイ道に引き込んでたわね!」

アンジェラは、殊更に足を踏み鳴らしてヒューゴの弁護士事務所に押し入った。黒ネコも後を付いて来る。

ヒューゴの定位置は分かっていた。文書資料の山が乗っている机の所だ。

アンジェラは、毛布を被ったまま机に突っ伏して寝ぼけているヒューゴを叩き起こした。

――予想通りだ!

不健全な目的が窺える趣味の悪い夜会服は、上着を脱ぎ捨てただけで、まだ着替えられていない。アヘン特有の、胸の悪くなるような邪悪な匂いが漂っている。それに、アルコール臭にタバコ臭も――媚薬っぽい、アヤシイ香水の香りも、混ざっている!

「ヒューゴさん! 私の商品の価値、暴落させたわね!」

「変な事はしてない筈だわよ、魔女紳士サマ……ごめん、昨夜は一睡もしてなくて……クソ眠くて」

「呆れた! それじゃ、こんな時間になっても眠い筈ね」

「……何だったかなあ、先輩のお父上に手紙を書いて……此処に来てもらって……」

詳しい説明がすっぽ抜けたため、その弁解は、アンジェラの誤解を一層深める羽目になった。アンジェラの勘は外れた事は無いが、オリヴィアの透視能力ほどには、正確なビジョンを示す物では無いのだ。

「ハクルート公爵にまで迷惑が掛かる程の失態って事!? 情けない!」

ふとヒューゴの机に目をやったアンジェラは、その手紙が一応最後まで書かれ、発送待ちの状態である事に気付いた。面倒な発送準備をしているところで、ヒューゴの体力が尽きていたようだ。

「私が一筆、書いてあげるわよ」

「うんうん……宛先はもう書いたけど、まだ封してないから……」

「その寝ぼけ眼じゃ、封蝋にも失敗するじゃ無い。封蝋したら、発送すれば良いのね」

「そうそう」

ヒューゴは意識混濁に陥りながらも受け答えしていた。しかし、そこで最後の根性が切れたのか、ヒューゴは瞬く間に深い眠りに落ちて行ったのであった。

黒ネコが「ニャー」と鳴いた。

アンジェラは、控え室でくつろいでいた御者ジャガー氏を呼び、手紙の発送依頼を済ませた。経験の長いジャガー氏は、アンジェラの男装姿にも、全く驚いていない。

ヒューゴはまだ若く資金不足もあったので、ヒューゴの生家・レスター家の御者の一人ジャガー氏が、個人的好意で、御者を兼ねて弁護士助手も務めているのだ。ジャガー氏はレスター家では古参のスタッフであり、ヒューゴの事を小さい頃から可愛がっていた人である。

一連の作業が済んだ後、暫くの間、弁護士事務所は静まり返っていた。

「寝覚めには濃いコーヒーだわね」

アンジェラはそっと呟くと、次いで、散らかり放題で埃っぽい事務所を批判的に見回した。

「片付けに……お掃除もしなくちゃ」

コーヒーが出来上がってくる間、アンジェラは手際良く掃除を進めた。

ゴールドベリ邸の家政婦スコット夫人が、アンジェラが何処へ行っても困らないようにと家事全般を教授していたので、アンジェラは、家事全般は平均程度には上手くやれるのだ。これはルシールも同じである。

■アシュコート伯爵領…交差点〔二〕(後)■

ヒューゴの弁護士事務所の中には、昼寝用にもなる簡素なソファがある。エドワードは、強い緊張を伴う異常な夜を過ごして、すっかり疲労した身を、そこに横たえていた。

先程からヒューゴの御者のジャガー氏か、それともネコか――悪意や邪気を感じない存在が掃除をしながら動き回っているらしく、窓が開かれ、春の昼下がりの暖かな微風が、気持ちよく入って来ている。

エドワードの眠りは次第に浅くなり、夢の中で、昨夜の出来事を回想し始めていた。

マダム・リリスの饗宴は、噂通り――いや、噂以上に、いかがわしい代物であった。

アヘン窟と化した幾つもの部屋。

高濃度のアルコール、様々な違法ドラッグ、密輸タバコ。

人相を隠す仮面を装着し、羽目を外した人々の、乱痴気騒ぎ。

部屋の方々に垂れ下がる分厚いベールの中で、堕落した大人の不健全な楽しみが、これでもかとばかりに繰り広げられていた。体質的に弱い人々は早くも身を持ち崩し、死人のような状態になりながらも、なおも快楽の園に手を伸ばし続けていた。

エドワードは、自白効果の高いドラッグを仕込んだワイングラスを持ってリリスに近付いた。

共に乾杯するふりをして、手品よろしく巧みにグラスを差し替える。アルコールに強い体質のリリスは、そのグラスを二杯も飲み干した。

過剰に陽気になったリリスは、エドワードの促しに応えて、ロックウェル卿についてペラペラと喋り出した。

『ロックウェル城では、もっと贅沢なお遊戯になるわよ! オッホホホホ〜!』

リリスは将来の派手な計画を思い描きながら、得意満面になっていた。次々に強いお酒を飲み干すリリス。凝ったデザインを施された特注のソファに寝そべり、リリスは不健全なまでに陽気なお喋りを続けた。

『あいつったら、子供が出来ない身体なのよね。オホホ。あの馬車事故に遭ってる割には、綺麗な身体なのにさ。肝心の部分がね……』

リリスは、ロックウェル公爵の愛人の立場としては、当然と言えば当然ではあるが、きわどい内容を口にした。健忘症を伴うドラッグ性の深酔いに陥ったリリスは、他の肉体的特徴についても、露骨なまでにきわどい内容を喋り続けた……

信頼する御者ジャガー氏の操縦する馬車に乗り、エドワードとヒューゴは、ようやく息をつく。

『……お姫さまの勘に、改めて恐れ入る。アンジェラは実態を知らない筈だが、間違いなく、危険を正しく直感しているな』

『ゴールドベリの不思議な能力ですね』

『あそこまで脅えていなかったら、こっちも、そう警戒しなかった』

不健全な時間に弁護士事務所に戻る羽目になったエドワードとヒューゴであったが、リリスから新しく搾り出した情報には、それだけの価値があった。

疲労困憊で事務所のソファに倒れ込みながらも、要点を速記しておく。

『恐ろしい。ロックウェル公爵、愛人との子供を作らなかったんじゃなくて、馬車事故の後、子供を作れない身体になってたんですね』

『アンジェラは、ガッカリするだろうな』

エドワードは、もうひとつの資料を手に取り、目を通し始めた。

『先輩、よく体力もってますね。それ、何です?』

『ロックウェル公爵のカルテ。レディ・オリヴィア提供』

『カルテ?』

『リリスの証言に出た傷痕の大部分が、カルテに記録された傷痕と違う』

ヒューゴはポカンとした顔になった。極度の疲労で、あまり脳みそが回らない。

『つまり、どういう事です?』

『このカルテが間違っているのか。噂のロックウェル公爵が別人なのか……』

『別人……!?』

息を呑むヒューゴ。

エドワードには、深刻な疑いが生まれ始めていた。

今、ロックウェル公爵と名乗っている人物。アンジェラに、ネズミの無残な死体を送り付けた人物。

――彼は果たして、本物のロックウェル公爵なのだろうか?

疑いは増したものの、直接にロックウェル公爵本人を知らないエドワードには、それ以上の確認手段が無い。

『父とロックウェル公爵、寄宿学校で同輩だったと聞いた事がある。多忙な人だから難しいだろうが……本人確認、依頼してみるか』

*****

やがて、コーヒーが出来上がってきた。

アンジェラはコーヒーを淹れながら、弁護士事務所の窓越しに、表通りの様子を眺めた。アンジェラに付いて来た黒ネコも窓辺に居座り、面白そうに尻尾をユラユラしている。

表通りの向かい側には洒落たカフェテラスがあり、そこでは、ちょっとした騒動が持ち上がりつつあった。

カフェの客の中には、あの黒髪の大男、ナイジェルが居る。

ナイジェルは、新聞の広告欄に目を通し、意外につぶらな黒い目をカッと見開いた。

「これはいかん! ローズ・パークで舞踏会だと……!」

ナイジェルは急用を思い出したように、慌てて立ち上がる。その勢いでナイジェルはカフェを飛び出そうとしたが、以前からナイジェルの金欠ぶりを警戒していたカフェのスタッフが、電光石火で気付いた。大柄なスタッフがナイジェルをガッチリと羽交い絞めにする。

「お客様! お代を!」

「急ぐんだ! 離せ!」

「こちらも商売なんだ、払わなければ訴えますぜ!」

「今までのツケ、綺麗にしやがれ! 賢者の箴言でも、飛び立つ鳥、跡を濁さずと言う……」

ナイジェルは、無銭飲食の常習犯といった風だ。ガチムチとした大柄な体格に相応しく、ナイジェルの大声は、表通り全体に響く音量だ。

「金欠らしきセクハラ紳士は、元気だわねえ」

アンジェラは表通りの向かい側で進行中の騒動を観察し、呆れるばかりだ。面白そうな騒動を聞き付けたのか、物見高い野次馬たちがだんだん集まって来ている。

ナイジェルの金欠ぶりは、今季シーズンの三晩連続の舞踏会の間に、あっと言う間に方々に知れ渡っていた。『縁組サービス』代表イザベラ嬢もまた、ナイジェルに料金支払いを要求している一人である。

「セクハラに、縁組詐欺もやらかしてるのよね。法廷の召喚状が作成される前に逃げ出すなんて、何て勘の良いヤツ!」

イザベラ嬢いわく、ナイジェルは、セクハラ行為だけでは無く、縁組詐欺もやらかしているという。たった数日の間に、悪い意味で感動させられるほどのハッチャケぶりだ。縁組ビジネスを手がける全てのグループが、それぞれ代表を立てて、その犯罪を裁判所に訴えているところだ。

アンジェラが弁護士事務所の窓でブツブツ呟いている間にも、人だかりが出来始めた。

カフェの前の路上で、ナイジェルの周りを、カフェのスタッフがズラリと取り囲む。何処からどうやって集めて来たのか、いずれも筋骨隆々の大柄なスタッフだ。

路上プロレス試合が始まろうとしていた。まさに一触即発だ。野次馬がどよめき、にわかに表通りは賑やかになった。

ほどなくして、開いた窓から聞こえて来るその賑やかさに気付き、エドワードが目を覚ます。

近くのテーブルには、ヒューゴとエドワードがその時間に起きる事を予期していたかのように、飲み頃のコーヒーが置かれている。エドワードはコーヒーを手に取り、当惑の面持ちで、アンジェラを見やった。

「コーヒーを淹れたのはアンジェラ? 何で男装を?」

「縁組の仕事に関する扮装よ。当て馬らしい、誘惑の美青年に見えるでしょ!」

掃除用のハタキをステッキよろしく構え、気取ったポーズで颯爽と答えるアンジェラである。目をパチクリさせるエドワードに、アンジェラは顔をしかめて見せ、更にたたみかけた。

「縁組ビジネスでの、エドワード卿の商品価値、目下、暴落の危機なのよ! みだらな行動、慎んで頂けるかしら!」

「私が商品? 参ったな」

エドワードは頭に手を当てて、ガックリするのみだった。

縁組ビジネスの商品として売り飛ばされるという状況は、正直言って、余り楽しい気分ではない。表通りで今まさに盛り上がり始めた路上プロレス騒ぎを見物している方が、幾分かマシな気もする。

エドワードはアンジェラをじっと見つめた。

生真面目な表情を向けられ、アンジェラは途端に落ち着かなくなる。アンジェラはクルリと背を向けて、ハタキを収納するための物置の棚に向かった。

「結婚相手が決まったなら、男だろうと女だろうと当て馬の役をお務めするわ。割増になるけれど、前日、ロータリーでリリスの目から隠してくれたから、サービスって事で」

何処かで見たような小さな黒ネコが、アンジェラの足元をクルクルと歩き回り、「ニャー」と鳴いている。

「異常な夜を楽しんでたらしいわね。もうお昼過ぎだわ、不良紳士様。お父上へのお手紙に、私から一筆入れたわ。感謝するのよ!」

「――さっきの手紙? 一筆入れた?」

今まさに起きたと言った風のヒューゴが思わず反応し、毛布の中から訝しそうにアンジェラを眺めた。

「勿論よ! 下手に近付いたら死体になると言う忠告も、ちょっと入れたし」

「ああッ……まさか! ハクルート公爵への書状ッ……!」

ヒューゴは一気に顔色を変えた。毛布をはねのけ、机の上を探し回る。ある筈の書状が無い事に初めて気づき、動転するばかりだ。

一瞬、呆気にとられた後、エドワードは笑い転げた。バカ笑いである。ソファの中に倒れ込み、全身をひねって大爆笑だ。

「アッハハハ! ……それは、父への脅迫状と受け取られるかも知れんな」

――首都で大臣を務めているハクルート公爵が、そんな怪文書を受け取る羽目になる訳だ。ロックウェル公爵令嬢からの脅迫状。

エドワードの爆笑は止まらない。

ヒューゴは途方に暮れて、オロオロするばかりだ。

「笑い事じゃ無いでしょ、先輩! 週末にはもう、ロックウェル城で仮面舞踏会で!」

鋭くヒューゴを振り向くアンジェラ。

「仮面舞踏会? ロックウェル城で?」

アンジェラは目を光らせ、ヒューゴの机に駆け寄った。直感の赴くままに、机の上の書類の山から、ひとつの文書を抜き出す。

「招待状ね!」

「ああッ! 待って!」

ハッとしたヒューゴが手を振り回したが、もはや後の祭りであった。

アンジェラは招待状に素早く目を通し、顔を引き締める。

「マダム・リリスの、気まぐれの遊戯!」

アンジェラはコブシを堅く握った。アンジェラの決心が固まった事を見て取ったヒューゴは、青くなるばかりだ。

「ゴールドベリの血は事件を呼ぶ! 復活祭の時はバラバラ死体! 今度も何が出るか不明だってば!」

「ロックウェル城……仮面だろうが仮装だろうが、私も行くわ!」

「危険だよ、アンジェラ! 第一、それには贅沢なドレスとかが必要で」

しかし、アンジェラは既にヒューゴの警告を聞いていなかった。クルリと身をひるがえし、大股で玄関へと走り出す。ワンピース姿では無いだけに、小気味よいまでに素晴らしいスピードだ。

「母のドレスなら問題は無い筈! 古着屋に売る予定だったけど新品の状態だし、ローズ色の絹でレースとフリル一杯だから」

物騒な計画を口にしながら、アンジェラは弁護士事務所のドアを開いて飛び出して行った。あの不思議な黒ネコも、一緒に飛び出して行った。

ヒューゴは必死の形相でエドワードに飛びかかり、その襟元をつかんでガクガクと揺さぶった。

傍目から見れば、互いに恋愛感情を抱いている男二人が、ソファの上でくんずほぐれつしていると言う、アブナイ光景にも見える。

「先輩ったら、黙ってないで、何とか止めて下さいよ!」

「ローズ色のドレスか……」

エドワードの方は、感心したようにアンジェラを見送るばかりだった……

第三章「庭園ラプソディ」

■クロフォード伯爵邸…庭園ラプソディ(前)■

朝から春らしい上天気だ。

クロフォード伯爵邸を城壁のように取り囲む緑の木々が、陽射しを受けてキラキラと光っている。

朝食後、ルシールとマティとクレイグ牧師は、画廊にある円卓を囲んで、早めのお茶タイムを過ごしていた。

昨夜から気にかかっていたのだろう、クレイグ牧師は早速、ルシールに質問をする。

「ライト嬢……ルシール嬢は、『前の子爵』の騒動や、その後のクロフォード伯爵領の出来事、アイリスさんから何も聞いていませんでしたか?」

「母は、昔の事は、あまり話しませんでしたので」

クレイグ牧師は納得した様子で、溜息をついた。

「分かるような気がします。あの頃は、色々ありましたから……」

マティ少年は不思議そうな顔をしながらも、察しよく沈黙を続けている。

「クロフォード伯爵領では、30年ほど前、ローズ・パーク地主でもある『前の子爵』の失脚がありました。彼は、クロフォード伯爵家における宗家直系の後継者と目されていながら、第一位の爵位継承権を失った……此処までは、ご存じですね」

ルシールは小首を傾げながらも、相槌をうつ。

「当時、クロフォード伯爵家、つまり伯爵宗家たるセルダン家には、他には後継者となるべき男子がありませんでした。爵位継承権は、宗家直系の血脈を継ぐ別の家系に移行していきましたが、それと共に、領内では深刻なギャング抗争が発生したのです」

ルシールは驚きに目を見張った。

「ローズ・パークは巨額の負債を抱えており、そこにギャングマネーも絡んでいました。ギャング抗争はローズ・パークの地所とテンプルトンの町全体に広がり、爵位継承者が相次いで死亡しました。その結果、末席に過ぎなかったダグラス家に、爵位が回って来たという訳です」

マティが早速、口を挟んでくる。

「いわゆる『驚天動地』だよねッ。ギャング=タイターも……」

「こら、マティ」

マティは、クレイグ牧師の本気を悟り、両手で口をパッと抑えたのだった。

*****

お茶タイムを終えて、画廊を退去する。

ルシールは、クロフォード伯爵邸の地階を巡る回廊を歩いていた。

少し先に、庭園へ通じるコーナーがある。

作業着姿のルシールは、腰まで届く濃い茶色の髪を簡単なポニーテールにまとめ、麦わら帽子を抱えているという格好だ。

ほどなくして、文書を運んでいた執事と遭遇する。

「ライト嬢も外出ですか? どちらまで?」

「庭園の東側です。昨日、マティと約束していたので……」

次にルシールは、執事の質問の奇妙さに気付いた。

「私も……って事は、今日は誰か外出してます?」

「ええ。今朝、リドゲート卿が領地見回りに乗馬で外出されましたので。治安判事が半分を受け持ちされるので、大体お昼過ぎに戻られる筈です」

「承知いたしました」

ルシールは微笑んで一礼した。

(道理で、朝早くから、リドゲート卿をお見かけしなかったわ。いつも無表情で冷淡な感じだから、何を考えているか分からないけれど……)

既に表に出ていたマティは、上機嫌で庭園の入り口をクルクル走り回っている。その後を付いて庭園に入りながらも、ルシールは、クロフォード伯爵邸の方をチラリと振り返った。

(クロフォード伯爵様は脚を悪くしている。オリヴィア様のように、外出も難しい筈。リドゲート卿が、当主の跡継ぎとして、代理を務めている訳で……きっと、彼は責任感の強い人に違いない)

キアランがまだ独身である事は、館の様子からして明らかだ。

(アシュコート舞踏会ではバタバタしていて時間が無かったけど、次の機会に、良縁を紹介してあげられるかしら?)

*****

ルシールとマティが庭園の散策に出て、少し後。

弁護士カーター氏の乗った馬車が、慌てたような速度でクロフォード伯爵邸の正門をくぐり、前庭ロータリーに入って来た。カーター氏は、メイドの一人からルシールが画廊に居た事を聞き出すと、足早に画廊へと駆け込んだ。

引き続き、画廊でお茶をしている最中だった執事とクレイグ牧師が、カーター氏の常ならぬ慌てぶりに目を見張った。

「カーター氏?」

「一体どうされたのです?」

「お騒がせして済みません。ライト嬢の一筆に、タイター氏からの反応がありました。ライト嬢は、何処に?」

クレイグ牧師が目をしばたたきながらも、窓に目をやった。その窓からは、クロフォード伯爵邸の庭園が一望できるのだ。

「私の孫のマティと、庭園の東側辺りをデート中の筈です。少ししたら、戻って来るかな?」

「それでは、ライト嬢が戻った時に……」

執事が不思議そうにしながらも、タイミング良く口を挟む。

「まあ、お席にどうぞ。それにしても、カーター氏を走らせるとは、一体、如何なる内容で?」

カーター氏は、ふうっと息をついて着座した。明らかに困惑している様子だ。

「プライス判事との協議の結果、内容が問題になったため、この書状はライト嬢を保護する館内においては、公開扱いとなっております」

カーター氏は手持ちのカバンから書状を取り出した。

あまり質の良くない封筒と便せんだ。文面を開いてみると、ギョッとするくらい乱暴な筆跡が目立つ。

執事とクレイグ牧師が、興味津々で身を乗り出す。

『貴様は金目当てでアイリスの子孫を騙る詐欺師じゃ! 最も偉大なる尊大なるワシ、タイター様に逆らう輩には、今日の命も無い物と思えや、コラ! 本当に幽霊じゃ無いと言うなら、明日の朝一番にクロス・タウンのレンガ倉庫裏にツラを出せや! ぶち殺すぞ、コラ!』

残りの文面は、全て罵詈雑言スラングの嵐だ。

執事がポカンとした顔になる。

「……ギャングの脅迫状?」

テンプルトン街区に詳しいクレイグ牧師が、早速ピンと来て、指摘する。

「カーター氏、この『レンガ倉庫の裏』というのは、領内でも評判の、治安の悪い裏街道のところですね?」

「御意。過去、ギャング抗争の場になった実績がございます。そのうえ、この『今日の命も無い物と思え』という一節が……」

「プライス判事には?」

「ええ、本日付で緊急応援を。必要とあらば、身辺警護用のスタッフを、こちらにも派遣いただく事になっております。タイター氏はテンプルトンの金欠ギャングで、場末の賭場を経営しており……詐欺や恐喝も、お手の物とか」

執事が困惑顔になり、首を傾げた。

執事の見るアントン氏は、確かに気難しい老人であったが、それでも土地持ちの名士ならではの品格を持つ紳士だった。アントン氏の孫娘ルシールも、上品な淑女だ。遠い血縁とは言え、ギャングの親戚が居るとは実に驚きである。

「何処で道を踏み外したのでありましょう?」

「事業の拡大に失敗したとか」

カーター氏が滑らかに回答する。既にタイター氏の経歴は調査済みだ。

「元々ビリントン家はライト家より格上で、昔はテンプルトンの良家の一つとして、平均以上に裕福だったそうですが……」

「確か、トッド家もテンプルトンですから、タイター氏とは結構やり合ってますね……」

執事の指摘にクレイグ牧師はうなづき、再び窓の外を見やったのだった。

*****

マティとルシールが、緑の生け垣に囲われた庭園道具の倉庫の前を通ると、その生け垣の片隅から亜麻色の毛玉――パピィが飛び出して、二人を歓迎して来た。

パピィは、マティとルシールにモフモフされて上機嫌になった。その後、最初は二人の周りを駆け巡っていたが、やがて別の関心事を見つけたのか、いつの間にか姿を消した。

マティは庭園を巡る散策路を歩きつつ、ルシールの質問に次々に答え始めた。

「ダレット一家? クロフォード直系親族なんだって。ダレット当主が、先々代の伯爵の腹違いの弟でさ。王族に近い血統が入っているとか」

「王族親戚って事ね」

マティの頭の良さは、留まるところを知らないのであった。子供という事もあって理解状況は怪しいものの、受け売りに関する記憶は素晴らしく正確だ。

「血統主義の親族と、そうで無い親族が、そのダレット当主とキアランのどちらがクロフォード伯爵の正当な跡継ぎかってところで、今も揉めてるんだ」

「王族親戚ともなると、それは確かに揉めそうね」

喋り続けている間にも、バラ園に到着する。

頑丈さと繊細さを兼ね備えた瀟洒な柵に囲まれているこのバラ園も、アントン氏の手になる物だけあって、花の季節になれば見事な眺めになるだろう事が窺える。

マティは、バラ園の柵の上に身軽によじ登ると、器用なアクロバットを始めた。

「じいじが、前にも話してくれたけど……何だか良く分からない話だったな。昔のゴタゴタで……爵位継承権を持つ直系の類の親族は、ダグラス家以外は破滅していて……後はトッド家とか、傍系の親族だから、地位に大きな差があり過ぎだとか」

「貴族社会では、宗家と分家とで、身分が大きく違うものね」

ルシールは相槌を打ちながら、マティの話に耳を傾けていた。

貴族社会は、得てして血統を重視するところだ。今でこそ嗣子相続については、『養子縁組も含まれる』とはしているが、血統の伝承は今なお重視されている。

マティのような傍系の男子が爵位を継ぐ事は不可能では無いが、『宗家直系の親族ないし分家に相当する血族との婚姻』が、絶対条件としてあるのだ。

暫しの間、マティはバラ園の柵の上で熱心にアクロバットをしていたが、やがて、むくれた様子になった。

「オイラは、ダレットの鬼婆の事は嫌いなんだ」

「……ダレット夫人の事? 何だか話が見えないけど、とりあえず夫婦なの?」

「鬼婆ってのは、ダレット家の19歳の娘の事さ。金髪美女に化けてるけど、オイラは騙されねーぞ」

何処かファンタジーが混ざっているような返答だ。ルシールは小首を傾げた。

(19歳の、うら若い令嬢が鬼婆とは、これまた奇妙なコメントだわ)

バラ園の柵から身軽に飛び降りた後も、マティのお喋りは続く。

「鬼婆アラシア、13日の金曜日、キアランと魔のコンニャクしたと言ってるけど」

「コンニャク? どういう事?」

「つまり、こういう事さ……」

マティはバラ園で赤いバラを手折ると、コミカルに身をくねらせ、バラをドラマチックに振り回して見せた。

「キアランはアテクシと結婚するわ、オホホ!」

その高笑いも、物真似らしきコミカルな身振りだ。納得しつつルシールは苦笑した。

「つまり、婚約って事ね」

既に婚約者が居る――アシュコートの舞踏会で、金髪紳士エドワード卿よりも余裕があるように見受けられた訳だ。

ルシールは納得すると共に、何故か、ちょっと気が抜けたような気持ちになったのだった。

気を取り直し、マティが手折った赤いバラに目を留める。

「早咲きのバラね、ちょっと貸して……手を切るから、トゲはちゃんと落とさないと」

ルシールは手荷物を入れた袋から小型ハサミを取り出すと、器用にバラのトゲを切り落としていく。

この小型ハサミは、アントン氏の倉庫から拝借した物だ。錆が出ていたハサミとは別である。少し念を入れて手入れしただけで、本来の物らしい見事な切れ味がよみがえっていた。

ルシールは微笑みながら、マティにトゲ無しのバラを差し出した。

「クロフォード伯爵家にとっては、最高の縁組でしょ。分かれた一族が、また一つになるって感じだし、しかも王族親戚だし」

「そりゃ状況は、そんな感じだけど……」

マティはバラを受け取りながらも、不満タラタラの表情だ。

「大好きなお兄ちゃんを取られちゃうから、ヤダ、ってところ?」

「そんなじゃないよ」

マティは、ぷうっとむくれかえった。思わずルシールは吹き出し笑いをしてしまう。

ルシールはクスクス笑いながらも、周りに広がるバラ園を観察し始めた。緑の葉群の間で、ルシールの麦わら帽子の頭がヒョコヒョコと動く。

ほどなくして、ルシールは違和感に気付き、首を傾げた。

――人工的に踏み荒らされたような箇所が目立つ。

三ヶ月の間、放置されただけで、此処まで痛むだろうか。荒天や雑草のせいだけでは無い、不自然な荒れようだ。

「……このバラ園、かなり痛んでる感じね」

「邪悪な宇宙人が陰謀していて、侵入してんだよ」

「……?」

「こっちだよ」

マティは疑問顔のルシールを手招きし、庭園の奥の方へと進み出した。

■クロフォード伯爵邸…庭園ラプソディ(後)■

バラ園を過ぎ、雑草や枝葉が伸び放題になった散策路を歩いて行く。

低木で仮に仕切られた境界線を幾つか通り過ぎると、やがて敷地の境界を示す柵が見えて来た。

さすがに一番外側の柵という事もあって、背丈を超える高さだ。だが、牧草地の囲いと同じように、木製の板をまばらに連ねた簡素なスタイルである。

そして。

樹木に見え隠れしながらも、いきなり柵の破れ目が現れた。

明らかに人手によるもので、ポッカリと破壊されている。鈍器か何かで、力任せにメチャクチャに破ったのか、破られた板はひしゃげながら散らばっている。庭園道具の倉庫入口の、無残な破壊ぶりを思わせる空間だ。

破られた範囲は、意外に幅広かった。

目測だが、破壊によって広がった隙間は、二メートルほどだろうか。大量の戦利品をせしめた泥棒でさえも、膨れ上がった袋を抱えたまま、敷地の外を通る小道にサッと逃げ出せる状態だ。

柵に沿って平行に走っている、その明らかに裏道と思しき岩がちな小道は、人通りの多い――と言うよりは、馬通りの多い道らしい。土になっているわずかな部分には、蹄鉄を付けた馬の、妙に新しい足跡が残っている。

小道の下は結構な崖になっていて、むき出しになった岩がゴロゴロとしており、小川が岩を噛みながら流れていた。多種多様の低木や草で出来た藪が、堤防さながらに岩をガッチリと抱えつつ生えている。

問題の小道は、馬が余裕で通れるほどの幅があるが、下に崖があり小川が流れているからして、乗馬コースとしてはスリリングすぎる。この小道を馬で通る人物は、よほど乗馬技術に自信があるに違いない。

「……ビックリした」

「だろ? 馬に乗ったままでもラクラク通れるぜ。タイターのギャング団が出入りしても、驚かないぞ」

マティの指摘は、もっともだ。ルシールは呆然としつつ、同意した。

「かなり……まずい状況じゃ無い? 執事か誰かに話すべきじゃ……」

「大人が、オイラのお話に耳を傾けると思うかい?」

マティは、すっかり諦め顔と言った様子で、腕を広げて見せる。

ルシールは、改めてイタズラ小僧の顔をマジマジと眺め――そして、色々な面で、大いに納得したのだった。ルシールは苦笑するしかない。

「私から話してみるべきか……早く戻らないと」

不意に。

ガサッという葉擦れの音が響いた。

「後ろに……!?」

穏やかならぬ気配を感じ、サッと振り返るマティとルシール。

マティとルシールの後ろの茂みで、人馬一体の影が動いた。先刻から、樹木の裏に潜んでいたのだ。

目の前の柵の破れ目を通って、明らかな敵意を向けて来る騎馬姿の侵入者!

「見ーたーなーッ!」

人馬一体の侵入者は恐ろしい声で呼ばわると、馬に激しく拍車をかけた。

マティとルシールを踏みつぶさんばかりに、馬は猛烈な速度で駆け寄って来る。人物の手に握られた棒状の物は、おそらくステッキだろう。不吉な予感を思わせる動きで回転している。

見るからに、マティとルシールを棒でメッタ打ちにしようという気配が満々だ。

「イヤーッ!!」

マティとルシールは、回れ右して、全速力で逃げ出す。

――馬と人間との競争では、どう見ても人間の方が不利だ。

一瞬のうちにその事を悟ったマティは、手に持っていたトゲ無しのバラを、侵入者の顔めがけて放った。

赤いバラの花を付けた小枝は華麗な上昇軌道を描き、侵入者の顔にヒットした。そして、実にうまい具合に、その視野を塞いだ。

視界を塞ぐようにへばりつくバラを取ろうとして、混乱の余り手綱を外した侵入者は、暴走する馬の鞍から見事に転がり落ちて行った。

いよいよ速度を上げて暴走する馬。

少し先を走るマティの背中。

――ドガッ!!

身体全身に衝撃が走り、ルシールは、足をもつれさせた。

目の前からマティの背中が消えた。緑の樹林があらぬ方向に流れ、青い空と白い雲が回転する。足元の感覚が無い。

時間がゆっくりと流れているようだ。

やがてルシールは、脳天に「ゴン」という音を聞いたような気がして――

――それが、ルシールの覚えている限りの記憶だった。

*****

なおも暴走を続ける侵入者の馬は、猛々しい蹄の音を立てながら庭園の東側から飛び出し、館の前庭エリアに姿を現した。

その時。

ちょうど、キアランと判事が領地見回りから戻って来ていた。二人とも、まだ騎馬姿だ。

出迎えのために前庭エリアに集まって来ていたスタッフや馬丁たちが、東側から大音量と共に乱入して来た暴走馬に気付き、驚愕そのものの表情に変わった。

「な……何だ、暴走馬!?」

「止めろ! リドゲート卿がお戻りだぞ!」

複数の人間に追い回されている事に気付いた暴走馬は、急に方向を変えた。

キアランとプライス判事を目指して、衝突せんばかりに走って行く。

だが、キアランとプライス判事は、熟練の乗り手だった。見事な手綱さばきで馬の態勢を変え、暴走して来る馬を、一瞬の差でかわす。

暴走馬は、空いたスペースを通って駆け去って行った。

「何故、馬が……!」

興奮した自分の馬を落ち着けながらも、驚き覚めやらぬプライス判事である。

暴走馬は前庭エリアのあれやこれやといった障害物に行き当たって、ようやくスピードを緩めた。そこへ、おっかなびっくりといった様子で、馬丁たちが取り付き始めたのだった。

*****

画廊の窓からは、前庭エリアが一望できる。

窓から外を眺めていたカーター氏は、一連のトラブルの発生に気付き、庭園の東側から暴走馬が現れたと言う事実に不吉なものを悟った。

「あの方向は、ライト嬢とマティ様が居るところでは」

「タイター氏の脅迫状が先刻、届いたばかりでしょう……!?」

カーター氏は慌てて庭園に飛び出した。執事も後に続いた。

庭園の東側を巡る、樹林で出来た緑の回廊のような散策路を辿って行く。

マティとルシールの姿が見えて来た。

ルシールは、散策路に沿って並ぶ植え込みの茂みの中に頭から突っ込んだ格好で、グッタリとしていた。マティがルシールを植え込みの隙間から取り出そうと、悪戦苦闘している。

「馬に蹴られて突っ込んだ!」

カーター氏は早速、植え込みの中からルシールの身体を取り出すと、芝生の上に横たえた。

ルシールは頭から派手に出血していた。繊細な顔は血だらけになっている。この植え込みに突っ込む前に、脇に並ぶ、どれかの大樹の幹に頭を打ち付けたに違いない。

マティはショックの余り、腰が抜けたようにしゃがみ込む。

「頭から血が出てるし、揺すっても起きないし……死んでたら、どうしよう」

「落ち着きなさい」

カーター氏はマティをなだめながら、ルシールの身体の各所を触り、脈や節々を確かめた。

「何処も折れていないようだ。頭を打って気を失っただけらしい」

「でも、血が出てるよ!」

キアランと判事が駆け付けて来た。いきなりの出現に、執事も驚いて振り返る。

「一体、何の騒ぎだ!?」

「これは、リドゲート卿!」

芝生の上に横たわる物に目をやったキアランは、ルシールの血だらけの顔に気付いてギョッとし、驚きの声を上げた。

「ライト嬢……!?」

執事が手早く報告する。

「さっきの暴走馬に蹴られたようです。幸いドクター・ワイルドが往診に来る頃合なので、部屋に運びます」

カーター氏が追加報告を付け加えた。

「後で、タイター氏の脅迫状についても話を致したく」

「脅迫状!?」

プライス判事も開いた口が塞がらない。

気を失ったままのルシールは、執事とカーター氏の手によって、速やかに館内へと搬送されていった。

マティはキアランに飛び付くと、少し離れた場所で目を回し続けている侵入者を指差した。

「あの人だよ! あの人が……!」

大きな樹木の根元で半分失神しながらグッタリと横たわる侵入者の顔には、マーキングさながらの赤いバラの花が、ちょこんと乗っている。落馬の際に、身体のあちこちをしたたかに打ち付けて、目を回したようだ。

「あのガキ、変な物投げて……!」

侵入者は、苛立たしげにバラの花を振り払った。

ようやく落馬のショックが収まり、感覚が戻って来たようである。密集した枝葉や柔らかな芝生がクッションになったのであろう、幸い、何処の骨も折れていない様子だ。

傷痕の有無を気にするかのように顔面をつるりと撫で、やっとこさ起き上がろうとした侵入者は、不意に息を呑んで硬直した。

キアランが死神の影さながらに立ちはだかり、ステッキを喉元に突き付けている!

「久し振りだな?」

キアランは低い声で語り掛けた。無表情ながら、その眼差しは明らかに険しい物だ。

侵入者は、限りなく殺気に似た物を感じ、取り乱した。喉元に突き付けられているのはステッキの筈なのに、まるで抜き身の刃を突き付けられているようだ。

侵入者は、それなりに戦闘技術の心得はあった……振り払って起き上がれば良いのだが、出来ない。キアランの構えは必要最小限の物でありながら、反撃を許すような隙が、全く無い。

「ちょっと待て! 幾ら何でも殺しは……馬のせいだ! いきなり暴走して!」

侵入者は必死で弁解を始めたが、キアランは不吉なまでに表情を変えない。

「館への出入りを一切認めないと申し渡した筈だ。私に慈悲の心があるうちに、速やかに立ち去るが良い!」

キアランの漆黒の眼差しは、鋭利な刃のように突き刺さって来る。

侵入者は、すっかり顔面蒼白だ。

キアランが喉元からステッキを外したが早いか、侵入者は物凄い勢いで起き上がり、そして庭園の奥へ向かって、一直線に走り去って行った。

正門の方向とは、全く別の方向に。

「正門は反対側の筈だが……!?」

意外な逃走先に驚くプライス判事。そこでマティが、ボソッと指摘した。

「裏の柵が壊されているんだ」

ポカンとする館の面々であったが、本当に柵が壊れている事を確認し、大騒ぎになったのであった。

■クロフォード伯爵邸…前哨戦(前)■

カーテンを閉め切り、適度に薄暗くなった部屋の中で、ルシールはゆっくりと意識を取り戻した。

傍には灯りがあるようだ――シルエットが動いて、話し掛けて来る。

「頭はハッキリしているかな、お嬢さん?」

ルシールは目を瞬いた。

「……お医者さま?」

よく見ると、禿げ上がった頭ではあるが、後頭部には、フサフサとした白髪が残っている。口元に立派な白いヒゲ。鋭いギョロ目は薄い水色をしており、片眼鏡が掛かっていた。

ヒーラーでもあるオリヴィアとは多少は異なっているが、清潔な石鹸の匂いと、多種類のハーブや消毒薬の匂いとが長年かけて混ざり合った、ベテラン医者の独特の匂いがある。

老医師は、おもむろに燭台を手に取って見せた。

「ウォッホン。さて……この灯りは幾つに見えるかね?」

急に灯りに照らされ、ルシールは思わず驚きの声を上げて、眩しそうに手をかざした。

「まだ星が見えて……五つかしら」

「ふむ。目まいが続いとるか。紫色の目のお嬢さん、派手に蹴られた割には、大したこと無くて幸いだったな」

もう一度見直してみると、燭台の灯りは三つだった。目まいのせいで、ブレて見えていたという訳だ。

ドクターは片眼鏡を外し始めた。その隣には、マティが面目無さそうな様子で座っている。

「坊主、カーテンを開いてきたまえ」

「うんッ」

マティがカーテンに飛びつき、サッと開いた。昼日中の光が差し込み、部屋の中が一気に明るくなる。老医師はカルテにペンを走らせつつ、テキパキと説明を始めた。

「お嬢さんは馬に蹴られて空を飛び、近くの木の幹に頭をぶつけ、ちょいと出血した訳じゃ。頭部の傷痕はシッカリ縫っておいたが、今日と明日は、念のため包帯を巻いておきなさい。目まいが落ち着いた後、嘔吐感も無ければ、とりあえず動いても大丈夫だ」

「……包帯……?」

ルシールは思わず頭に手をやった。分厚い巻き巻きの包帯に、ちょっと絶句する。

老医師はルシールの疑問を見て取り、ユーモアたっぷりに片目をつぶって見せたのだった。

「大袈裟に巻いただけよ。コブだけで済んで幸いなところだがな、転ばぬ先の杖じゃ」

*****

老医師がルシールの部屋を退出すると、マティがその後を追いかけた。

「ドクター・ワイルド!」

「何だね、坊主?」

面白そうな顔で振り返るドクター・ワイルドである。

「ねぇ、何で、ルシールは、よく光をまぶしがるの?」

「実に素晴らしい観察力だな! ……目の色素が薄いからだな。紫色の目の場合、アルビノの次に色素が薄い。本来の目の色は青系統の筈だが、色素が薄くて目の奥の血が透けて見える。赤と青を混ぜると何色かな、坊主よ?」

「……あ!」

さすがに合点がいった、と言う風のマティである。マティは、絵本に出て来る探偵を真似して、あごに手を当てた。マティの頭は素晴らしい速度で回転中だ。

「……という事は、ルシール・ママが紫色の目だから……、皆目不明のパパの方は、青い目……?」

「ふむ。遺伝からして、その可能性は非常に高いね」

ドクター・ワイルドは、ニヤリと笑って同意した。

*****

その後、ドクターは、いつものように最上階フロアにあるクロフォード伯爵の居室に往診に赴き、伯爵の片脚の骨折状態をチェックしたのだった。

往診が一段落すると、ドクターは用意された茶を飲みながらくつろぎ始めた。

クロフォード伯爵が心配そうな顔をしながら、ドクター・ワイルドに質問を投げる。

「彼女の怪我は? 血だらけだったと聞いたが」

「頭部は軽傷の割に出血する場所ですからな。閣下の客人のお嬢さんは運が良い。亡きアントン氏の方々の庭木も手ごろなクッションになりましてな、骨折やヒビもありませんでした。湿布と安静で、じきに治ります」

「そうなのか?」

「ライト嬢は庭仕事で身体を鍛えているだけあって、回復が早いですな。今ごろはピンピンしとる筈です」

その説明を聞き、クロフォード伯爵は大きな溜息をついた。

「良かった……」

クロフォード伯爵は松葉杖を突きながら、落ち着かない様子で歩き回っている。

添え木は既に、大袈裟に固定するタイプの物から目立たないタイプの物に交換されており、下衣の種類を選べば、上手くスーツ姿の中に押し込んで隠せるようになっていた。

――ローズ・パーク案件に関連して一客人を迎えるという話があって以来、クロフォード伯爵の気の張りは見違えるようだ。この調子なら、骨折の治癒にも良い影響が期待できそうだ。

ドクター・ワイルドは、ニヤリと笑みを浮かべた。

「数日前まで落ち込んでいたガウン姿の人物と同一人物とは、ちょっと思えませんな……フッフッフッ」

「言わんでくれ……」

茶を飲みながらも、主治医として伯爵の身体の調子を注意深く観察していたドクター・ワイルドは、ふと気付くところがあり、伯爵をしげしげと眺め始めた。

「骨格。そうか、骨相か……つかぬ事をお聞きしますが、あのお嬢さんは、閣下の親戚ですか?」

伯爵は一抹の寂しさをにじませた微笑みを浮かべながらも、ゆっくりと首を振り、その指摘を否定した。

「残念ながら、血の繋がりは無いよ。彼女の祖父のアントン氏には、随分お世話になったからね」

「さようですか」

ドクターは首を傾げたものの、ひとまずは納得する事にしたのだった。茶カップを置くと、次に眉根を寄せ、白ヒゲを撫で始める。

「それにしても、不法侵入の主の正体は、こちらも驚きました」

「私も驚いたが、同時にそれ程驚いていない。彼は父親に似て、不意打ちの訪問が妙にうまい男だ」

伯爵も苦い顔をしてうなづいている。伯爵は、憤懣やるかたないと言った様子で松葉杖を突き、再びギクシャクと歩き回った。

「あれからすっかり失念していたが、敷地の中ぐらいは見回るんだったよ。まさか、裏の柵が破れていたとは」

ドクター・ワイルドは、ギョロ目をぎらつかせて先手を打った。

「骨の回復は順調ですが、階段昇降となると許可はできませんぞ! 段差では、特に想定外の衝撃が来ますからな!」

*****

ルシールの状態が落ち着いた頃合いを見て、カーター氏がルシールのお見舞いに訪れて来た。

ルシールは大事を取って、まだベッドの中に居る状態だ。半身を起こし、カーター氏に一礼を返す。

「ドクター・ワイルドによれば、大事ないとのことでしたが……」

「大丈夫です。目まいも収まりましたし」

「大変な時に申し訳ございませんが、タイター氏から新たな書状が届いております」

ほとんど『ギャングの脅迫状』というべき内容だ。ルシールは一読するなり、目を白黒するのみだった。

「こ……これは……」

「要点はお判りになりますでしょうか?」

「一応……明日の朝一番で、『レンガ倉庫の裏』という場所に行かなければならないようですね」

「いかがなさいます? こんな状況ですし、別の日時に変えるよう先方に要求する事は可能ですが……」

ルシールは、キッと眉を逆立てた。

「いえ、大丈夫です。コテンパンしてやります!」

「さようでございますか。では、今日は安静と休養にお努め下さい。明日の朝一番で、馬車を手配しておきます」

「お手間お掛けいたします」

「いえ、こちらこそ」

カーター氏は苦笑しつつ、丁重な一礼をし、部屋を退出して行った。

*****

夕方も押し迫って来た頃。

クロフォード伯爵邸の堂々たる正面玄関の扉が開き、三人の人影が現れた。

「レオポルド・ダレット殿が、奥方様とお嬢様を連れて、お戻りに……!」

従者の大声が響いた。

執事とスタッフたちは、予期せぬ人々の予期せぬタイミングでの帰還に驚き、慌てて玄関広間に飛び出した。しかし、如何に熟練のスタッフと言えども、わずか数秒で、ダレット一家好みの美しい整列ができる訳では無い。

元より不機嫌の度を増していたダレット夫人が、キンキン声を張り上げた。

「なってないわね! そこのハミ出てるの、引っ込みなさい! クビよ!」

ダレット夫人は、メイドを乱暴に突き倒した。哀れなメイドは頭から床に打ち付けられ、白目をむいて朦朧としている。だが、他のスタッフたちは下手に動けず、直立不動を維持する他に無い。

「くっくく……」

楽しそうな忍び笑いを漏らしたのは、アラシア・ダレット嬢だ。

「留守の間に、これ程にも、たるんどるとはな! あの無能の石頭は執務室か!」

金糸銀糸を施された華麗な上着をなびかせて、威風堂々と足を踏み鳴らしながら執務室に近付いて行く、中年メタボの金髪紳士――準男爵レオポルド・ダレットは、途中で執事に制止された。

「お控え下さい、リドゲート卿は執務中ですので」

「私はワザワザ、アシュコートから飛ばしたんだ! 執事の分際で……そこをどけい!」

レオポルドは腕を振り回して執事を跳ね飛ばした。執務室のドアノブに手をかけるが、苛立ちの余り手間取り、遂には足でもって蹴り開けるという有様だ。

「キアラン君! 私の目を盗んで、妙齢の娘を館に連れ込んでいるそうじゃ無いか! 私の娘以外の、しかも女を!」

クロフォード伯爵宗家の跡継ぎに対して、敬称も無しである。

執務机の端に立ったまま書類に目を通していたキアランは、相変わらずムッツリとした様子で口を開いた。

「その報告は全く正確ではありませんね、レオポルド殿。彼女は弁護士カーター氏が扱う一案件の当事者で、クロフォード伯爵ご自身が招いた客人でもあります」

「ごまかすな! 感心もできんね! 君自身の評判もあるだろう!」

「……評判?」

書類をめくるキアランの手が止まった。

「その女は、レディでも何でも無いとか! 門番のコテージでも充分じゃ無いかね! 下賤な商売女を館に招き入れるとはな……紳士が聞いて呆れるわ!」

「あなたがお持ちのゴシップ網には、常に感心させられますよ」

キアランは冷たく切り返した。

「他に用は?」

キアランの眼差しには、漆黒の刃のような鋭さと威圧感がある。

身を切り裂く刃さながらの鋭い眼差しにさらされ、レオポルドは一瞬ギョッとして顔色を変えた。しかし、レオポルドは、急に傲然とした態度で身を返すと、これまた乱暴に執務室を退出して行ったのだった。

あとに残されたキアランは、手元の書類を、ギリギリと握り締めるのみだ。

やおら、その書類を書類棚に乱暴に突っ込む。ゴンと音が返って来る。

程なくして、違和感が押し寄せて来た。眉根を寄せ、首を傾げる。不意に閃き、キアランは息を呑んだ。

レオポルドは言っていた――『門番のコテージでも充分じゃ無いかね』と。

「……門番のコテージでも充分……? 部屋割り? もうライト嬢の部屋を突き止めた……!?」

キアランは血相を変え、執務室の扉の方をバッと振り向いた。

*****

ルシールはズキズキと痛む頭を抱えながら、部屋の鏡台の前に座り込んでいた。

鏡の中から、地味な自分が見つめ返してくる。

一見してストレートの髪型にも見える程の、ごく緩やかなウェーブになっている濃い茶色の髪。陰を含んだ濃い茶色の目。長く伸ばした前髪は、センターパートの髪型となって顔を半ば覆い隠しており、目の上にシッカリとした陰を落としていた。

低木に頭から突っ込んだお蔭で、顔には無数の引っかき傷が出来ていた。頭には包帯が分厚く巻かれており、まるで布製のヘルメットのようである。

「コブだけで済んで幸いだったとか、ホントよね。明日、朝一番でタイター氏と対決してやるのだから……」

あわただしく廊下を走る駆け足の音が近付いてくる。

勢い良くドアが開き、マティが慌てた様子で、猛然とルシールの部屋に飛び込んで来た。

「アラシア警報だ! ベッドの下に隠して!」

「……!?」

ルシールが唖然としている間にも、マティは素早くドアを閉じ、部屋のベッドの下に高速ダイビングである。

廊下に再び足音が響いて来た。今度は明らかに女性の足音だ。ハイヒールを履いた足に特徴的な、速いリズムを刻んでいる。

「アラシア……って、婚約者……!?」

噂のダレット嬢が、何故やって来るのか。ルシールは、訳が分からない。

ベッドの下に潜り込んだマティの方は――と言うと、何をゴソゴソ、モタモタとしているのか、身体の半分がまだ残っている状態だ。マティの雰囲気に呑まれ、ルシールも焦り出した。

「頭隠して尻隠さずじゃ無いの……早く!」

バターン!

部屋のドアが乱暴に開かれた。

「あんたが噂のアバズレね!」

その敵意に満ちたキツイ声音に、ルシールは心臓が飛び上がらんばかりになった。

ベッドの前に立ち、まだ潜り込みが完了していないマティの姿を隠す。

アラシア・ダレット嬢は、ブランド物の華麗なドレスをまとった、うら若き乙女だった。

華やかにうねる、理想的なウェーブを持つ金髪。透き通るような、それでいて鮮やかな青い目。まさに19歳と言う、輝かんばかりのお年頃だ。絵から抜け出て来たかのような、完璧な金髪碧眼の、キラキラとしたお姫様である。しかし、美しい青い目は、すっかり三角になっていた。

「……とりあえず、こんにちわ!」

「――心配して、損したわッ」

アラシアの方は、いっそう目付きを険しくしていた。ルシールの傷だらけの顔と、みすぼらしいとも言える作業着姿をジロリと眺め回すと、上から目線で、軽蔑に満ちた笑みを浮かべる。

「チビでクソの茶ネズミ女!」

完璧な金髪碧眼の美少女の、そのなまめかしい紅色の唇から飛び出したのは、唖然とするほど低俗な悪口雑言だ。余りの落差に呆然とするルシール。

アラシアは指を突き付けるが早いか、金切り声を上げた。その先には、ルシールの包帯頭がある。

「成る程ね! 仮病を使って、同情を誘おうって事ね! 下賤な商売女が使う、卑劣な手口!」

■クロフォード伯爵邸…前哨戦(後)■

ダレット嬢は、金髪碧眼のうら若き美少女という類まれな容姿をしていながら、耳を疑う程に、聞くに堪えないレベルの罵詈雑言を並べ立てている。

「クソの茶ネズミ女が、何かしようったって、正真正銘の貴族たるダレット家の前では、あんたのようなアバズレ、クソの代わりにもならないからねッ!」

ルシールは、聞き覚えのある名前に唖然とした。

「アシュコートの方で、レナード・ダレットとおっしゃる紳士と、お会いしましたが……ご親戚ですか?」

果たして、アラシアは目覚ましく反応した。

「それは、あたくしの兄だわッ! 成る程ね! あんたは茶ネズミのくせして、二股かけてた浮気女だったって事なのね!」

――それは、完全なる早とちりにして悪意に満ちた誤解だわ!

ルシールは訂正しようとした。しかし、アラシアは、もはや如何なる訂正をも受け入れない様子だ。

「あんたの破廉恥な二股ぶり! キアラン様に全部バラしてやるわよ!」

アラシアは高価なマニキュアを塗った長い爪を振り立てて、猛然とルシールにつかみかかった。

「まずは、そのウソ包帯を正してやる!」

ルシールは狙い過たず、襲い掛かって来るアラシアの両手首を、シッカリとつかむ。

小柄で華奢な体格にも関わらず、意外にハードな庭園仕事で鍛えていたルシールの身体は、驚くべき抵抗力を発揮した。重量のある庭園道具を上手く扱うためには、基本的な筋力は勿論、身体の重心もシッカリと安定している必要があったのだ。

「ぬううううう!」

「きいいいいい!」

ルシールとアラシアの取っ組み合いは、拮抗状態だ。

ファッショナブルな高いハイヒールを履いていた事は、アラシアにとって思わぬ不利となった。

さほど鍛えていない身体に高いハイヒールだ。

エスコート無しの状態では、自力で重心を安定させる事が出来ず、シッカリと床を踏みしめる事も出来ない。レース装飾の多すぎるドレスに動きを阻まれ、思うようにルシールを蹴り倒せない。

ルシールは本能的直感で、アラシアの踏み込みや蹴りを次々にかわしていた。

このままでは、先にバランスを崩して無様に尻餅をつく事になるのは、アラシアだ。

アラシアは作戦を切り替えた。

手首の動きを封じられながらも、ルシールを押し倒そうと、上から体重をかけてグイグイと押しまくる。アラシアはルシールより背が高く、栄養の行き届いた華麗な体格だ。

その重量を感じ、ルシールは慌て始めた。

「ちょっとストップ、ストップ!」

その時だった。

ベッドの下から、信じられない代物が現れたのは。

……クネクネと動く、不吉に長い形……

ルシールとアラシアは取っ組み合いをしながらも、今しも飛び掛かろうとする大きな蛇に気付いた。

「ギャアアァァアアアアァァァアァァアアァァア!」

クロフォード伯爵邸じゅうを震わせんばかりの、キンキンとした凄まじい叫び声が響き渡る。

大蛇は不気味に身体をくねらせ、アラシアはパニックに陥り――こけなかったのは、まさに奇跡だ――行く手を塞ぐ家具を倒しながら、ルシールの部屋を飛び出して行った。

余りと言えば余りの急転直下。

突然、キアランがノックも無しに、ルシールの部屋のドアを開けて入って来た。

ルシールの部屋で、ただならぬ叫び声と衝撃音が続いただけに、駆け付けたキアランも、いつもの冷静さが吹き飛んでいた様子だ。

「何とも無いか!?」

ルシールは呆然としたままだ。ベッドの下から伸び上がって、長い身体をくねらせる大蛇。

キアランは無言でその様を眺めていた。やがてキアランは、くねり続ける大蛇の身体をつかみ、ルシールのベッドの下から、その全体を引っ張り出した。

鱗と見えたのは、蛇皮に見立てた布の、派手な模様のせいだ。大蛇の尻尾の端に当たる筈の部分は途中から切れており、布の中から、蛇の身体を動かすための取っ手が飛び出している。

「良く出来てる蛇のオモチャだ……これは、ライト嬢が……?」

マティが、ルシールのベッドの下から、ひょっこりと顔を出した。得意そうに目をきらめかせている。

「オイラのスペシャル最新作さ」

「マティ……!」

ルシールも、驚きの余り喘ぐばかりだ。マティはベッドの下から這い出ながらも、説明を続けた。

「アラシアは蛇が死ぬほど大嫌いってヤツだから、仕込んどこうと先回りしたんだ。それにしても、アシュコート社交界のお楽しみは今も続いてるのに、随分と早いお帰りだよね?」

そしてマティは目をキラキラさせながら、トドメのコメントで、この場を仕上げたのだった。

「宇宙人の落とし物にして伝説のオーパーツ、『物真似エコーの不思議な箱』があれば! あのすげえセリフの数々、全部モノにできたのに!」

*****

アラシアが倒していった椅子が、部屋の真ん中に横たわっている。

まずは椅子を立て直そうと近付いたルシールは、直前でキアランに止められた。驚き戸惑うルシールの前で、キアランは椅子を起こし――そして、ルシールを振り返って来た。

「ダレット嬢と大立ち回りしましたか」

あれでも、ダレット嬢は身分の高い令嬢だ。ルシールは口ごもった。

しかし、後ろからマティが、遠慮なく口を挟んで来る。

「言っとくけどさ、アラシアの性格はみんな知ってるぜ」

マティは大蛇のオモチャを片付けるべく操作していた。大蛇が身体をくねらせ、トグロを作っている様子は、アラシアを仰天させただけあって、本物を思わせる程のリアルさに満ちている。

「ルシールは、レナードと会った事があるの?」

マティはルシールを不思議そうに眺めながら、質問して来た。あんな状況でもマティは、ルシールとアラシアの会話をシッカリと理解していたらしい。

「え……、アシュコートの舞踏会で……」

「じゃあ、もうレナードとはダンスした?」

「裏方とか時限でバタバタしてて……ご挨拶しただけ」

キアランは相変わらずのムッツリとした無表情のまま、ルシールとマティが話している様子を、じっと眺めている。

ルシールは頭を振って気を取り直すと、アラシアが倒して行った屑籠などの小物を立て直し、乱雑に散らかったアレコレを拾い始めた。

一応は、『レナード・ダレット』の事を思い出そうとしたのだが――ルシールは、戸惑ったままだった。アラシアの方が遥かに強烈だった事や、アシュコート舞踏会の後で様々な出来事が集中して起きていた事もあって、立派な体格や完璧な外見の他には、余り思い出せないのだ。

「何だかよく覚えてないわ。前シーズンもいらしたけど、その時は、別件で混乱があったから……」

「あのレナードと会ったのに、余り覚えてないの? あいつ、金髪の青い目の美形で、女たらしだよ!」

ルシールがレナードを余り思い出せないと言う事実に、マティは目を丸くしていた。ダレット一家は、貴族的と言うか何と言うか、黙って立っていても、豪奢で強烈な印象を与える人々なのだ。

「認めたくないが、ダレット一家は金髪で青い目の美形の一族でさ! ダレットのレオポルドも、今でこそ、あんな中年メタボ・オヤジだけど。若い頃は、金髪碧眼の絶世の美青年で、社交界の評判だったんだってさ」

むくれながらも、マティは端的なコメントを披露していた。

マティは生き生きと明るい茶色の目をしているのだが、平凡なブラウン系統の容姿を、ダレットの面々にバカにされた事があったのだ。ルシールの容姿に対する罵詈雑言と比べると、さすがに、もう少し穏やかな言葉遣いではあったのだが。

「レオポルド殿とお会いした事は無いけれど、ダレット家の兄妹を見ると、評判の内容は信じられるわ」

ルシールは、マティの説明に納得しきりだった。

片や、『騎士道物語』に出て来そうな高潔な英雄タイプの、立派な体格の美青年。片や、絵から抜け出て来たような完璧なお姫様タイプの、輝くような美少女だ。

ルシールは何度も感心しながら、床に散らばった様々な小物を、部屋の端の戸棚に片付けていった。

*****

戸棚を整理しているルシールの背後で、マティはこっそりと円卓の上によじ登ると、キアランと内緒話を始めた。お行儀悪い振る舞いだが、こうしないと、ちっちゃなマティの背丈では、キアランの耳まで届かないのだ。

「ねえキアラン、ルシールとレオポルドが顔を合わすのは、今は絶対マズイよ……じいじの話だと、レオポルドって、都でも地元でもプレイボーイで、不倫でハーレムの前科あり」

キアランは生真面目にうなづき、マティの内緒話は核心に入っていった。

「面食いで、美形で、怪しい年齢で、しかも青い目だ」

「青い目だと、まずいのか?」

マティの表情は、真剣そのものだ。キアランは目をパチクリさせた。

「ワイルド先生の見立てによると、ルシール・パパは青い目なんだよ。レオポルド、青い目。今夜のディナー、どうするよ」

マティの指摘は、キアランをギョッとさせる物だった。

――ルシール・ライト嬢は、レオポルド殿の私生児なのか?

レオポルド・ダレットは、誰もが認める鮮やかな青い目をしている……!

キアランの中で、疑惑は、瞬く間に膨れ上がった。馬鹿げた内容だが、レオポルド・ダレットの華々しい過去を検討すると、充分に有り得る――信じられるレベルの話だ。

カーター氏の報告書を通じて、ルシールの母親アイリスが、おそらくは『望まぬ妊娠』であったろう秘密を抱えたまま、いきなりクロフォード伯爵領を出奔した事実は承知していた。そして『望まぬ妊娠』と言えば、それは大抵、私生児という事情を含んでいる――

キアランは、混乱し始めた頭を押さえた。

マティの指摘は、もっともだ。今、ダレット一家とルシールが食堂で顔を合わせる事は、確実に『予期せぬ爆発』を招く筈だ。

「今夜は部屋に食事を運ばせます。明日に備えて休んで下さい」

……ルシールはビックリして振り返り、キアランを注目した。予想外の指示だったのだ。

(リドゲート卿の顔色は、悪くなってるみたいだわ。頭痛かしら?)

キアランは一層きつく眉根を寄せており、眉間に出来たシワを揉んでいる。

ルシールは、幾つもの疑問符を脳内に浮かべて小首を傾げたものの、礼儀正しく姿勢を正し、キアランの指示に、恐る恐るながらも――素直にうなづいて見せたのであった。

キアランは溜息をつき、眉間のシワを解くと、ルシールの部屋を退出するべく、ドアを開けた。そして不意に動きを止め、ムッツリとした顔のまま、ルシールの方を振り返った。

「ライト嬢……、ルシールと呼んでも構いませんか?」

一瞬、ルシールは息を呑んで、キアランを見つめた。不思議な事だが、不可解さと驚きの余り、キアランに対して感じていた、いつもの怖さは忘れていた。

「ハイ」

ルシールはコクリとうなづいた。暫しの間、キアランとルシールの視線が交差した。

「……では、私の事もキアランと――良い夜を……ルシール」

キアランはそれだけ言うと、再び身を返し、静かにドアを閉めて立ち去って行った。

(あの奇妙な間には、何か意味があったかしら?)

キアランの表情は相変わらずムッツリとした物だった。漆黒の眼差しには、相変わらず突き刺さって来るような鋭さがあった。しかし、微妙に別の雰囲気が感じられたのだ――戸惑いや迷いと言った、微妙な揺れが。

夕暮れの薄明りの中、ルシールはボンヤリとして立ち尽くすのみだった。

マティの方は、何かを感じ取ったようだ。マティは意味深な目付きでルシールを見やり、これまた意味深な言葉を口にした。

「……ねえ、ルシール。ルシールはキアランの事、どう思ってる?」

「どう……って……素敵な紳士だと思うけど」

「ふーん」

マティはオモチャの大蛇に埋もれながらも、明るい茶色の目を輝かせ、ますます意味深な顔をしていた。

ルシールは訳が分からず、首を傾げるばかりだった。

■テンプルトン町…裏街道バトル■

朝まだき、薄明の中でルシールは気合を入れた。

部屋の鏡台の前に仁王立ち、ボンネット風の帽子をきっちりと留める。

今日は朝一番で、遂にタイター氏と対決だ。

(レンガ倉庫の裏だろうが、場末の酒場だろうが、きっと彼を粉みじんにやっつけてやるわ!)

ルシールは、手提げ袋の中身を慎重にチェックし、イザと言う時の秘密兵器が完全に装備されている事をシッカリと確認した。タイター氏の脅迫状には、しかと目を通した。

『貴様は金目当てでアイリスの子孫を騙る詐欺師じゃ! 最も偉大なる尊大なるワシ、タイター様に逆らう輩には、今日の命も無い物と思えや、コラ! 本当に幽霊じゃ無いと言うなら、明日の朝一番にクロス・タウンのレンガ倉庫裏にツラを出せや! ぶち殺すぞ、コラ!』

(このような罰当たりな脅迫状を寄越して来た上、本当に脅迫状の通りに、破れた柵を越えて馬の上から不意打ちを仕掛けて来た。このような暴走野郎には、この手で、キッチリと罰を当ててやらなければ!)

盛大に意気込み、部屋を飛び出す。朝食の事は、完全に忘れていた。

ルシールが車庫に到着すると、車庫の前に御者や馬丁が集まっており、馬車が既に用意されていた。

馬車の傍で待機していたキアランは、早速ルシールに気付いて振り返った。相変わらずのムッツリとした無表情のまま、ルシールをジロジロと観察し始める。

「ちょっと雰囲気が変わりましたね」

「髪を首の位置でまとめましたの……年増に見えて、貫禄が出ます」

馬車の陰で、御者と馬丁たちが、コソコソと苦笑いを交わしていた。

「……完全に失敗していますよね」

「完全同意」

「あの若さんが、ワザワザ言及される訳だ」

二頭立てのクロフォードの馬車は、早朝の薄明の中を、急ぎ足で出発する。

早くから起きていたクロフォード伯爵は、正門側の窓に立ち寄り、その馬車が見えなくなるまで見送っていた。

*****

馬車はクロフォード伯爵邸の最寄の町で一旦停車し、町の弁護士事務所の前でカーター氏を拾った。そして、馬車はクロス・タウンに向かって、再び急ぎ足で走り出した。

馬車に乗り込んだカーター氏は、早速ルシールに、クロス・タウンという町の説明を始めた。

「タイター氏の脅迫状、いえ、書状にありますクロス・タウンというのは、テンプルトン入口の町です。国道と運河が通っており、荷物の積み替えを中心とした倉庫事業や中継事業が盛んです。メインストリートと交わるようにして、くだんのレンガ倉庫の通りがあり、折々のマーケットでにぎわいます。……ギャング団も当然、マネーに釣られて寄って来るんですな」

馬車はクロス・タウンのメインストリートに入って行き、朝早くから倉庫通りを行き交う多くの荷馬車をかわしつつ、目的の裏街道に分岐する辻の前で止まった。

キアランとカーター氏とルシールは、馬車から降りると、裏街道を目指して歩き出した。カーター氏はルシールを先導し、後に続くキアランは、辺りを警戒している。

「裏に回ると、治安も悪くなります。この角を曲がれば、談判の場所ですね……」

カーター氏はそのように説明しながら、レンガ倉庫に挟まれた狭い通路を進んでいった。

やがて、レンガ倉庫の裏口が並ぶ開けた場所に出る。如何にも裏街道のギャングたちのホームベースという雰囲気だ。

そこでは、タイター氏が手下の男たちと共に、ルシールが来るのを待ち構えていたのだった。

(もしかして、あの人たちが、そうなの……!?)

タイター氏とその手下たちの、想像以上の姿を一目見るなり、ルシールは唖然とした。

何とタイター氏は、ルシールと、それほど変わらない背丈だ!

タイター氏は、何とも言えないチグハグな印象を持つ人物だ。太眉と意外につぶらな目、高く突き出した鼻と分厚い唇が飾るオムスビ顔。その周囲に、金髪は幻想的なまでに麗しく、天使のウェーブとなって広がり輝いている。

不健康な食生活のせいか見事なまでの中年太りの超メタボ体型。その体重はルシールの何倍もありそうだ。まさに極悪タイプのハンプティ・ダンプティだ。ギャング生活の長さは人相の悪さに直結していた。

タイター氏が、自分の背丈に大いなるコンプレックスを持っているのは確実であった。体格の良いガチムチとした手下たちを従えながらも、自分の背丈を周囲より高く見せるために、いびつなまでに高いデザインのシルクハットを被り、持ち運び可能な簡素なローテーブルの上に乗っているのだ。

ちなみに、ローテーブルの上に乗ってなお、タイター氏の目線は、周りの大柄な四人の手下たちより、少し下の位置になっている状態だ。

その有り様は、如何にも、トロル巨人たちに囲まれたドワーフ小人の王という風なのであった。

四人の手下たちは、いずれもギャングだ。手下その一は、ニワトリのトサカのような髪型だ。ツンツンと突き立った真っ赤な赤毛が、その男を、よりニワトリそっくりに見せている。手下その二は、丸刈りにした狼男のようだ。眉毛の薄い物騒な目つきが、如何にも殺人犯のような印象である。手下その三とその四は、鼻をうごめかせたり歯を剥いたりしている様子が、ガラの悪い闘犬そっくりだ。

仰天する余り言葉の出ないルシール。

ポーカーフェイスながら唖然とした様子のカーター氏。

後ろに控えていたキアランは、「金髪の小男か……」と呟きつつ、不穏な眼差しでタイター氏を注目した。

ようやくルシールは気を取り直したが、半分絶句したまま口をパクパクさせるばかりであった。

「親戚とは思えない」

「類まれなる背丈は、さすがに親戚かと。正確には、四代前に分かれた兄弟です。アントン氏の従兄弟の、そのまた従兄弟の息子で……」

苦笑を浮かべながらも、律儀に説明するカーター氏であった。

一方、タイター氏はサッと短い腕を振り上げ、先手必勝とばかりに暴力行為に出ようとしていた。

「者ども! こやつらをのしちまえ!」

「合点、承知のスケ!」

タイター氏の命令に応じて、戦闘態勢で飛び出す四人の手下たち。そのプロレスラーのような大柄な身体は、それだけで迫力がある。

しかし、キアランの反応は素晴らしく速かった。

「動くな! タイター!」

鋼のムチのようにしなったキアランの警告と共に、火薬の爆裂音が轟く。

キアランが隠し持っていた銃を構え、電光石火の速さでタイター氏のシルクハットを撃ち抜いた。

シルクハットのほぼ中央部に、穴が出来た。フサッとした金髪が震えると共にシルクハットが弾け、タイター氏が目を剥いた。

タイター氏の麗しい金髪の正体は、シルクハットに取り付けられた特注のカツラだった。シルクハットは金髪をなびかせたまま、スポッと抜けて後方に舞い上がり、タイター氏の禿げ頭が剥き出しになる。

手下たちが慌てて、路上に転げ落ちんばかりのタイター氏を受け止める。しかし、タイター氏の圧倒的な体重は、ガチムチとした四人の手下たちが総がかりで抱えても、多少よろけてしまう程のレベルだった。

キアランは銃を構えながら、容赦の無い命令口調でギャングたちに告げた。

「クロフォード領では流血沙汰は許さない。この周りは既にプライス判事が包囲している……逮捕投獄されたく無ければ、可及的速やかに、その方の手勢を退きたまえ!」

タイター氏は禿げ頭のてっぺんまで青ざめた。

「まさかッ、リドゲート卿で……!?」

ルシールもまた、開いた口が塞がらぬ、といった状態で、隣に立つ背の高い黒髪の紳士――キアランを見つめるばかりだ。キアランの鋭利な眼差しには、底冷えすら感じられて来るような殺気がある。

正直言って、タイター氏よりもキアランの方が、よほど脅威だ。視線がルシールの方向を向いていなくて、運が良かったと言うべきだ。視線で人が殺せるとしたら、ルシールは瞬殺で地面に転がっていただろう。

「鉛の次に、鋼鉄の味も試してみるか?」

キアランはギャングたちに向かってステッキを刀剣のように構え、不吉な口調でたたみかける。少しでも武術の心得がある者が見れば、そこには一切の隙が無い事が分かる筈だ。タイター氏と四人の手下――というケチなギャング団など、あっという間に全員片づけてしまえるだろう。

その威圧的な雰囲気に気を呑まれたのか、タイター氏は更に青ざめて、太く短い腕を振り回し始めた。タイター氏の圧倒的な体重を抱えていた四人のガチムチとした手下たちが、タイター氏の腕の動きに合わせて、ガクガクとよろけている。

「ちょっとストップだ、ストップ!」

体勢を立て直そうとアワアワしているギャングたちの後ろから、弁護士と見える若い男が、困惑した様子で姿を現した。赤毛でヒョロヒョロとした印象だが、真面目そうな男である。食うや食わずで困っていたところを、タイター氏に金で釣り上げられたのであろうという事情が、ありありと見て取れた。

「申し遅れました……私がタイター氏の弁護士を務めます、トマス・ランドです……、タイター様、彼は確かにリドゲート卿ご本人であります」

「そんな筈がぁ!」

「あるんです。ローズ・パークは伯爵さま案件だし、お出ましになって当然なんですよ」

手下の一人が、金髪のカツラが取り付けられたシルクハットを、なおも呆然として抱えている。

タイター氏は盛大に鼻を鳴らすと、手下の手から乱暴にシルクハットを取り返した。禿げ頭に再びシルクハットを乗せ、金髪のカツラを天使よろしくフサッとさせる。

確かに周囲を見回してみれば、プライス判事の手勢と思しき多数の制服姿の人影が、あちこちでじりじりと動いているのが分かる。クロフォードの治安判事が既に包囲している以上、迂闊に暴力的手段は取れない。

タイター氏はカーター氏をカッと睨み付け、がなり立てた。

「食えない弁護士だな!」

「この位で無くては、伯爵家の顧問など到底、務まりません」

タイター氏の暴言に対して、カーター氏はポーカーフェイスで一礼した。この程度の暴言など『負け犬の遠吠え』に過ぎず、カーター氏にとっては称賛以外の何物でもない。

タイター氏は、手下たちが立て直したローテーブルの上に再び立ち上がった。タバコのヤニで黄色に染まった歯を剥き、尊大そのものの態度で超メタボ体型の短身を反らし、今更ながらに無駄な威嚇を始める。

「幽霊女と話し合う気は無いと言っただろうが! ブチ殺すぞ! コラ!」

しかし、カーター氏は冷静にルシールをいざない、やる気満々のルシールをタイター氏と同じローテーブルの上に乗せて、人物紹介をしたのであった。

「こちらが、アントン・ライト氏の孫娘ルシール嬢。当該遺産の正当な相続権を主張する者です」

タイター氏はルシールに向き直り、太く短い指をビシッと突き付けた。

「断固! 認めん! ワシはアントンの本家に連なる甥だ! ライト家は分家、しかも格下ッ!」

「アントン氏の遺言書を認めないとおっしゃるの!?」

「生意気な! 女が権利を主張するなど、無礼千万ッ!」

「そっくり同じ言葉をお返しするわ! 庭園管理の技術、お持ちでは無いくせに!」

「何を! ブチ殺すぞ、コラ!」

ローテーブルの周りから程々の距離をもって後退し、白熱する二人の論争を眺めていたギャングたちは、ガラの悪い顔に唖然とした表情を浮かべた。

「明らかに親戚やな」

「つぶらな目と背丈が一緒」

「横幅は倍以上、違うけどな」

「先祖から続く兄弟ゲンカかよ」

カーター氏とトマス氏、それにキアランは、始終無言だが三者三様に相槌をしていた。

タイター氏は改めてパイプ・タバコを構えると、ルシールに詰め寄った。

「貴様はアイリスの幽霊だ! いや、私生児だ!」

「……!?」

「ローズ・パークは上流階級の場だ! クソ私生児などお断りってんだ! この浮気女の不義の幽霊が、いや、ガキが、何処の監獄から脱走したかも分からん、インチキ腐れ外道など連れて来やがって!」

弁護士トマス氏がギョッとした顔になり、ピョンピョン飛び跳ねる。

「その暴言は問題ですよ、タイター様。何故なら……」

勢いの止まらぬタイター氏は、その勢いのままに興奮して、いびつなまでに高いデザインのシルクハットを振り回した。フサッとした金髪のカツラをなびかせる『世にも奇妙なシルクハット』は、トマス氏の口を封じるのに充分な代物であった。

「真実を言って何が悪いッ! アイリスは私の婚約者だった! 裏切りやがって、プレイボーイ貴族と浮気しやがって! 不誠実な浮気女、幽霊めが!」

ルシールの奥底で、ブチッと切れる物があった。

次の一瞬、ルシールの手がタイター氏のパイプ・タバコを取り上げ――そして、そのパイプ・タバコが、タイター氏の禿げ頭の上に伏せられた。

パイプ・タバコの中から、火が着いたままの灰が、ポトリと落ちる。タイター氏の禿げ頭が、ジュッと音を立てた。

「母の侮辱は絶対に許しませんッ!」

「ぎゃああああ!? あぢいいいいい!」

いきなり禿げ頭を火傷し、タイター氏は悲鳴を上げ始めた。

「あなたが何を抜かそうと、この私ルシールは! アイリスの娘として、祖父から譲られた権利を正々堂々と行使するのみッ!」

怒りの収まらぬルシールは、パイプ・タバコを投げ捨てると、手提げ袋の中に手を突っ込んだ。ギョッとするタイター氏である。

ルシールは何やら、『ハタキもどき』を取り出すと、猛然とタイター氏をはたき始めた。二人とも同じような背丈だった事もあり、『ハタキもどき』は、タイター氏の禿げ頭を直撃した。

この『ハタキもどき』こそが、ルシールの秘密兵器だ。怪しげな粉末が、タイター氏の周りで飛び散った。

「あなた、昨日お馬に乗って、私とマティを蹴ったでしょ! 馬に絶対に乗れなくなるように、魔女の呪いをばプレゼントして差し上げるッ!」

「魔女だと!? ちょっと待て!」

ルシールはローテーブルの上から飛び降りた。タイター氏は再び、無様に転げ落ちた。

「おととい来なさい! あなたのお馬が、また蹴りに来ても無駄ですからね!」

ルシールは、いっちょまえに見事な捨てゼリフを披露すると、足を踏み鳴らして裏街道を飛び出して行ったのであった。

尻餅をついていたタイター氏は、その体重の問題もあって、すぐには起き上がる事が出来なかった。ひっくり返された亀よろしく手足をばたつかせ、早足で遠ざかって行く小柄な姿を指差して喚くばかりだ。

「あの幽霊女、いやガキを、魔女犯罪で逮捕しろ!」

カーター氏は呆れたような溜息をつくと、トマス氏が先ほど言い損ねた内容を、冷静に告げた。

「その前に、『監獄から脱走云々』なる発言を、不敬罪で告発します。リドゲート卿の立会いを失念しておられたのですな」

タイター氏はグインと反動をつけて転び起き、低い背丈の身体を精一杯伸ばしてカーター氏を威嚇し始めた。そこへ、後ろに控えていたトマス氏がオロオロした様子で、カーター氏の指摘の正しさを強調したのであった。

「カーター氏の言われる通りです、タイター様。裁判に持ち込む前に、先程のリドゲート卿に対する不敬発言について示談にしないと……」

タイター氏は歯軋りした。下手を打ったのだ。激怒の余り真っ白になって、重要なポイントを忘れてしまっていた。

「ぐぬぬ……アイリスの幽霊……ギリギリ……」

「幽霊? 何言ってんですか」

トマス氏は困惑しきりだ。

かねてから周囲を包囲していたプライス判事の部下たちが、初対面の終了を察知し、ワラワラと姿を現して来た。多勢に無勢を悟り、早くも恐れ入るギャングたちである。

キアランはルシールの立ち去った方向へと足を向けながらも、カーター氏に注文を飛ばす。

「ライト嬢を保護します。談判手続きも彼女に代わり、お願いします」

「承知いたしました」

カーター氏は帽子に手をかけ、了解のサインを返した。

■テンプルトン町…交錯するもの■

時は既に、午前の半ばを過ぎていた。

ルシールは無我夢中で、クロス・タウンのメインストリートを駆け抜けて行く。

裏街道でタイター氏が口にした内容は、ルシールを動転させるのに充分なものだった。

――祖父の事は知らないけれど、祖父が遺言書を作ってまで相続を限定していた訳は、タイター氏と直接話し合った今では、完全に理解できる。

タイター氏はきっと、庭園の管理どころか、庭園を切り刻んで売り飛ばしてしまうだろう。祖父が管理していたと言うクロフォード伯爵邸の庭園道具の倉庫を見ても、祖父アントン氏が、庭園に深い愛情を注いでいたのは確かなのだ。

(言わせておけば、不誠実な浮気女に私生児ですって? あんな不良紳士、父親で無くて却って幸いだわ!)

父親不明と言う、社会的にも法的にも不利な条件は確かにあり、自信を持って言い返せないのは、何とも悔しく、歯がゆい思いだ。結婚証書は必ず実在する……しかるべき書類の場所が不明なだけで、両親が正式な結婚をしていたという証拠は、何処かに存在する筈なのだ。

(あんな奴に、庭園オーナー権を渡してなるものか。あんな奴に、あんな奴に……!)

動転の続いていたルシールは、標識を取り付けたポールが全速力で目の前に迫って来た事にも気付かなかった。

ゴッ、という鈍い音が響き渡る。

「目から星が……」

ルシールは目を回し、気が遠くなった。

驚いた様子の若い男の声が、後ろから追い付いて来る。

「大丈夫か、お嬢さん! 呼んでも気付かず、全速力でぶつかって行ったから」

ルシールはフラフラとしながらも、標識ポールに取りすがった。

痛む頭に手をやる。

ぶつかった拍子にボンネット風の帽子がずれ、包帯が見えるようになってしまっていた。

昨日、ドクター・ワイルドが念のためと言って、大袈裟な包帯を巻いてくれて、本当に運が良かった。勢い良く打ち付けたのだから、きっと新しいコブが出来ている。

「大丈夫です、馬に蹴られて打った所を、また打っただけで……」

「そう言えば、包帯してるね……お大事に」

男の苦笑している気配が伝わって来る。

何処か聞き覚えのある声だ。

ようやく痛みが落ち着き、ルシールは帽子を整えながらも顔を上げる。

ルシールの顔をのぞき込んで来た男は、驚きに目を見張っていた。

「アシュコートで……確か……そうだ! スタッフ嬢」

「あら? 奇遇ですね」

ルシールも、やっと顔を思い出した。

アシュコート舞踏会で見かけた金髪碧眼の紳士だ。レナード・ダレットと名乗った、絶世の美貌の騎士さながらの、完璧な美青年。こんなところで出逢うとは、まさしく奇遇だ。

*****

間を置かずして、標識ポールに続くメインストリートに、キアランが現れた。

ルシールは気付かなかったのだが、裏街道に分岐する辻の前で、クロフォードの馬車がまだ待機していたのだ。御者がルシールの走り去った方向を目撃していたのである。勿論、御者は唖然としていた――御者の話を聞き、『ルシールは、その方向に居るだろう』と予想するのは、キアランにとっては容易な事だった。

果たしてルシールは、標識ポールの立つ交差点に居た。

――レナード・ダレットと共に。

レナードはルシールをエスコートしようとしているのか、たった今、ルシールに腕を差し出したところだ。

驚いて足を止めるキアラン。

人の気配に気付いてレナードはサッと振り返り、キアランを見て、ギョッとした表情を浮かべた。

続いて、ルシールも振り返り――そして、キアランを認めた。

標識の立つ交差点の上で、三者三様の視線が交錯する。

キアランは、その黒い眼差しに険しい光を浮かべてレナードを見つめる。

レナードも非友好的な眼差しを返し、気色ばんで身を反らした。しかし、思うところがあったのか、レナードは不意に身を返すと、挨拶も無しに別の通りへと足早に立ち去って行く。

(この二人は知り合いなのに、挨拶しないの?)

ルシールは、目の前で起きた奇妙な出来事にポカンとし、訳の分からぬ思いで立ち尽くすばかりだ。

警戒しているのか、キアランは険しい眼差しをしたまま、レナードが立ち去って行った先を眺めている。レナードの姿が見えなくなると、ようやくキアランは警戒を緩めたようだ。身を返し、ルシールに一歩近づく。

「ルシール?」

「あ……ああ、リドゲート卿」

「昨日、私の事はキアランで良いと言った筈ですが」

キアランは、いつものようにムッツリとした様子で切り返した。ルシールはドキッとしつつ口ごもり――どう反応したら良いのか分からないまま、顔を赤らめてうつむいてしまった。

何を納得したのかしなかったのか、相変わらずムッツリとしたまま、キアランはルシールを見つめる。

「まあ、良いでしょう……今の気分は?」

キアランは、不意にルシールに問いかけて来た。彼なりに心配していた様子なのである。

ルシールは困惑し、目を泳がせながらも沈黙を続け……その時、健康な身体が、腹の虫を通じて空腹を主張して来たのだった。

――ぐう。きゅう。

キアランは口を押さえて礼儀正しく横を向いていたが、どう見ても、吹き出し笑いを抑えている様子だ。

ルシールは居たたまれなくなって目を伏せ、しどろもどろに弁解し始めた。

「朝、食べるのを忘れていて……」

「それでは空腹の筈だ。ランチの頃合ですし、食事にしましょう」

キアランは身を返し、ルシールに後を付いて来るよう促した。ルシールは素直にうなづき、キアランの後を付いて行く。

道々、ルシールは、先程の交差点での出来事を思い返さずには居られなかった。

金髪碧眼の紳士レナード・ダレット。彼は、ダレット家の御曹司――準男爵レオポルド・ダレットの息子であり、アラシア・ダレット嬢の兄なのだ。

……じわりと湧き上がって来る不安と疑念。

(リドゲート卿とレナード様は、仲が悪いみたい)

先を行くキアランの背中を、そっと見つめる。

(マティは確か、アラシア嬢とリドゲート卿は結婚すると言っていた。という事は、レナード様はリドゲート卿の義兄になる予定。婚約者の家族と仲が悪いのは、さすがに問題だわ……)

*****

クロス・タウンのメインストリートには中堅レストランが幾つかあり、キアランとルシールは、その一つに入店した。

比較的ガードの固そうな店構えであったが、店スタッフは『リドゲート卿』の顔を知っている様子で、丁重に会釈して来る。

店内のテーブルは半分が埋まっていて、テンプルトン町の商人たちが軽食をつまみつつ、商談と接待の真っ最中だ。あちこちから活気のあるざわめきが聞こえて来る。

案内された席につくと、やがてお茶と軽食が出されて来た。キアランはルシールが食事を始めるのを確認し、おもむろに口を開いた。

「談判の件はカーター氏に引き継いでいただきました。今は、カーター氏とタイター氏の弁護士トマス氏が、法的解釈を含め、話を詰めている筈です。ルシールの欠席は先方の了解済みなので、気にせずに」

ルシールは赤面し、うつむいた。顔を上げられる気分では無い。

「タイター氏とお話をきっちり付けておく予定だったのに……私ったら、何だか火を振り回していたような……」

ルシールは、売り言葉に買い言葉で対決の場を飛び出した事を思い出し、さすがに軽率だったと恥じ入らざるを得なかった。

(――何だか、記憶がぼやけている所もあるような気がするわ)

ちょっと不安になったルシールは、恐る恐るキアランを見やった。

キアランはルシールの視線を受け止めながらも、落ち着いた無表情のままだ。

「私……何か変な事とか、言いませんでしたか?」

「ルシールが激怒するのを見たのは初めてでしたが。ギャングの噂もある『あのタイター氏』と、実に対等に渡り合っていたと思いますよ」

「血は争えないと言う事かも知れませんね……先祖は兄弟だったとか。三代前? 四代……?」

「四代前」

キアランは正確に指摘し、ゆっくりとお茶を一服する。

恥じ入って、再びうつむくルシールであった。

「素晴らしい記憶力をお持ちなんですね……」

「ローズ・パークのオーナー候補の一人ですから、確かに関心はありますね」

キアランはチラとルシールを見やった後、茶カップを持ったまま、窓の外を思案顔で眺めていた。

(何を考えているのかは、分からないけれど……)

ルシールは、失礼にならない程度に……悟られない程度に、キアランを眺めた。

少し、ドキドキする。

こうして見ると、キアランの容姿は整っている。

金髪碧眼の紳士レナードのような、生まれ付いてのパッとした美貌や華やかさはあまり無いが、黒髪黒眼という色彩が相まって、鍛え上げた鋼を思わせるような凛とした印象がある。

実際、アシュコート舞踏会で、親友だというエドワード卿と並び立っていても、見劣りはしていなかったのだ。

それだけ、彼は努力して、教養や立ち居振る舞い、その他の様々な内容を身に着けたのだろう。ギャングとの立ち合いでも、平然と相手を圧倒できるくらいに。

(クロフォード伯爵様は、素晴らしい跡継ぎをお持ちになった。アラシア・ダレット嬢の、素敵な御夫君になるのは間違いない)

胸の底に走った「チクリ」とするものは……きっと、気のせい。

ルシールは、微妙にチクチクとする何かと共に、スープを飲み下したのだった。

(……絶品の野菜スープだわ。後で此処のコックさんと、お話は出来るかしら?)

そんな事を考えながら、ルシールは食事を終え、そっとカトラリーを置いた。恐る恐る、キアランの様子を窺う。

キアランは窓ガラスを透かして、メインストリートの光景を眺め続けている。だが、何を眺めているのかは……よく分からない。

――何だか、剣呑な気配がする……?

動きが無くなったのに気付いたのか、キアランは、いつものムッツリとした無表情に戻り、ルシールを振り返った。

「失礼。食事は終わりましたか」

「はぁ……」

ルシールは急に、落ち着かない気持ちになった。次に言う事が思いつかないまま、あちこち視線をさ迷わせる。

「え、えっと、あの、銃の腕前には、大変、驚きました……」

「……光栄です。先々代の時分から近辺では銃撃戦など抗争が続いていて、一通り対処できるようにと、父が私に最高の師匠を付けてくれました」

「あ、クレイグ牧師様に、過去のギャング抗争についてお話をうかがいましたが……、そんな昔から、私の親戚も一緒になって、ご迷惑して……」

ルシールは居たたまれなくなり、困惑しきりで、うつむいてしまう。膝の上で、モジモジと両手を揉むばかりだ。

……不意に、キアランは再び窓の外を見やった。

レストランの窓の外には、クロス・タウンのメインストリートが広がっている。

ストリートの向かい側のブランド店の前に、レナードが居た。見知らぬ女性をエスコートしながらも、キアランの事を気にしている様子で、時折、通りを挟んで、友好的とは言いがたい視線を投げて来る。

「此処まで来ると、もうテンプルトンに入っている状態か……」

ルシールは、キアランの呟きにハッとして、顔を上げた。

「この辺って、テンプルトンなんですか!?」

「そうですが……」

「ローズ・パークって、テンプルトンの何処かですよね!?」

このチャンスを逃す訳にはいかない。ルシールはテーブルの上に身を乗り出し、無我夢中で、キアランの手をギュッと握る。

キアランが「え?」と言わんばかりに目を見開いた。

無言の一瞬……二人で固まる。

ルシールはハッと赤面してキアランの手を離し、後は椅子の中で小さくなるのみだ。

キアランがあらぬ方を眺め、微妙な沈黙が流れた後。

「……午後の予定は、決まりましたね」

*****

クロフォードの馬車は、メインの用件が済んでいた事もあって、送迎ロータリーに付属している共同駐車場の中で待機していた。馬用の水場もあり、馬車馬がのんびりと水を飲んでいる。

馬車に付いていた御者は、メインストリートから出て来たキアランとルシールの姿を見て、早速、共同駐車場から馬車を出して来た。

「これからローズ・パーク邸へ。カーター氏が館に戻る時の馬車の手配は大丈夫か?」

「ハイ! 町を往復する乗合馬車が結構ありますから」

万事心得ている若い御者は気楽な様子で答え、馬車同士の連絡など、必要な手続きを手際よく済ませたのだった。

■ローズ・パーク邸…オーナー協会の人々(前)■

ルシールとキアランを乗せた馬車は、クロス・タウンを出ると、テンプルトン郊外の丘を目指して走った。

この丘に建つローズ・パーク邸へ続く道は、平均的なスピードの馬車で一時間ほどの距離だ。春の柔らかな陽射しの中、田舎道を縁取るオーク林が、緑濃い木蔭を作っている。

キアランが静かな声で解説を続けている。

「昔は、この辺りは既にローズ・パークの地所の一部だったそうです」

ルシールは絶句し、再び広大な地所を眺めた。

昔のゴタゴタでクロフォード伯爵家の跡継ぎの子爵が失脚し、ローズ・パークの地主がオーナー協会に変わった今では、地代収入のほとんどは、領主であるクロフォード伯爵の物だ。しかし、ローズ・パーク邸のオーナー協会に対して分割委譲された分の土地は、オーナー協会に属する地元紳士たちの所有であり――彼らに安定した収入を約束している。

次第に庭園エリアに近付いている。牧場の囲いのような簡素な柵を抜けると、周りの光景は一気に自然公園めいて来た。乗馬コースもある。

やがて御者が、馬車の連絡窓を通して声をかけて来た。

「ローズ・パーク庭園に入りました。いつも思うんですけど、老アントン氏の庭園、スゴイですね」

緑の葉がまぶしい樹林の回廊を抜けると、凝った造形細工の華麗な柵と正門が現れた。かつてのローズ・パークの地主だった子爵の趣味は、なかなかに貴族的な物だったのだ。

広い前庭の中のロータリーを回って行く。高い庭木の間に、遂に、貴族的な豪華さを備えた白亜の館が見えて来た。まるで王宮のようだ。

馬車が玄関の前に停車する。

キアランが先に下車し、ルシールを抱きおろした。一瞬キアランと目が合い、ドキリとする。

思慮深さを湛えた深い眼差し。

ルシールは、そそくさと一礼し、熱くなったような気もする頬を押し隠した。

そのまま、弾む胸を抑えて、ローズ・パーク邸の外観を熱心に眺め始める。

此処が、母アイリスが繰り返し物語った『思い出の場所』なのだと思うと、尚更、胸に来るものがある。

――薔薇の花咲く白亜の館――

20年以上のタイムラグによる変化は確かに大きいが、かつて母が手掛けたのであろう前庭の一部分には、母が語った通りの順番で、幾種類かの薔薇の庭木が並んでいた。

前庭の別の一角には、警備人が詰めるコテージがある。中に居た大男が、訪問客たるキアランとルシールに気付いて、出て来た。

そして、今まさに通りかかった、という風の中年の三人の紳士淑女が、不思議そうに注目して来ていた。

「予約あったか? 誰か来たぞ」

「邸宅見学の方かしら?」

「でも、リドゲート卿がご一緒よ?」

ルシールが会釈すると……中年男女の三人は、ハッキリと顔色を変えたのだった。

「アイリス嬢!? 背丈が縮んでいるような……!?」

「髪の毛を染めた!?」

「……アイリスさん、生きてた……!?」

ルシールは目をパチクリさせつつ、おずおずと帽子を取った。

「私は、アイリスの娘のルシールです」

三人の中年の男女は、驚愕しきりで口をパクパクさせている。

「あれ? お知り合いですか?」

警備責任者の大男が、三人の中年男女の反応に驚いている様子で、声をかけて来た。

中年の男性がグループを代表して一歩近付き、深い驚きを浮かべながらも、ルシールをマジマジと眺める。茶褐色のフサフサとした髪と口ヒゲを生やした、誠実そうな印象の中年紳士だ。

中年紳士が、まだ仰天している顔でキアランの方を振り向く。

「驚いた……! この娘さんが新しい庭師で、オーナーで?」

「残念ながら、ビリントン家と依然、係争中です。家主側の立場としても、早々に決着したいものですが」

相変わらずムッツリとした様子で受け答えするキアランである。

ルシールは、キアランの言葉の意味を少し考え、そして内心、コブシを握らざるを得なかった。

(結局、タイター問題って、こういう事なのよね。家主の目の前で、店子が所有権を取り合っているという……考えれば考える程、喜劇としか思えないわッ!)

*****

ルシールは、挨拶もかねて、ローズ・パーク邸の華麗な玄関広間に案内された。

クロフォード伯爵邸の堂々たる玄関広間とは違って、いにしえの騎士の時代に由来するような荘重な陳列物は無い。

しかし、あちこちに置かれた趣味の良い花瓶に季節の花々が活けられており、ルシールにとっては親しみやすい雰囲気だ。天井を支える華やかな列柱には複雑で繊細な彫刻。見ているだけで気分が浮き立って来る。

間もなくして、オーナー協会の面々が玄関広間に集合して来た。全員で七人だ。

「今日は、邸宅見学という事ですね……」

白髪交じりの灰色の頭とヒゲをした、謹厳実直そうな雰囲気の中年紳士、グリーヴ氏が一礼し、オーナー協会の面々を紹介していく。

一回り若い中年の夫妻は、オーナー協会代表のカーティス夫妻。初代オーナー夫妻は既に天に召されており、彼らは二代目のオーナーであった。カーティス氏は一見して、良家の御曹司がそのままオジサンになったと言う風の、地味で大人しい中肉中背の中年紳士だ。対照的に、カーティス夫人は若々しいファッションをまとう活発そうな性格の中年女性で、好奇心いっぱいに目をきらめかせてルシールを注目していた。

前庭の警備コテージから出て来た、巨人並みの体格をした若い紳士は、これもまた二代目のオーナーで、警備担当のケンプ氏。まだ独身だ。

ルシールを見てビックリした三人のうち、男女二人は、ローズ・パーク庭園の初代オーナー、ウォード夫妻。アントン氏とは別の一区画の庭園エリアのオーナーである。平凡な中年夫婦といった雰囲気だ。ウォード氏は長年の庭園作業のせいか、フサフサした茶褐色の髪にも関わらず老けて見えるが、ウォード夫人とはそれ程変わらぬ年齢だ。ウォード夫人は、金茶色の髪と鳶色の目をした物静かな中年女性で、しっとりとした印象がある。

そして、ルシールを見てビックリした三人のうち残りの一人、淡い茶色の巻き毛も相まってふわわんとした印象のある中年女性は、グリーヴ夫人であった。その夫のグリーヴ氏は初代オーナーであり、ローズ・パーク邸の破産管財人も務めていた。

オーナー全員の紹介を終えると、グリーヴ氏は、改めて自己紹介をした。

「この私グリーヴ、当館の主人が『前のリドゲート子爵』であった頃においては、執事を務めておりました」

聞き慣れた名前に、ルシールは目をパチクリさせた。

「リドゲート子爵……リドゲート卿?」

グリーヴ氏はルシールの混乱をすぐに理解した様子で、言葉を継いだ。

「キアラン=リドゲート卿の事では無くて……昔、深刻な経緯があって失脚した『前の子爵』の件は、お聞きでしょうか? もう30年ほども前の話ですが」

ルシールは、すぐに、クレイグ牧師とマティが話していた内容に思い当たった。

(ローズ・パークの昔の地主だった人で、先々代クロフォード伯爵の跡継ぎだったけど、失脚してしまった……その子爵が、グリーヴ氏が言うところの、『前のリドゲート子爵』だわ)

グリーヴ氏はルシールを案内しつつ、ローズ・パークの歴史を簡単に説明した。

「昔は、代々クロフォード伯爵家の跡継ぎたる子爵がローズ・パークを所有し、管理されていたのですが。30年ほど前、ライト嬢もご存知の通り、『前の子爵』の負債が膨大なものとなり、館・地所もろともに切り売りの危機に直面したのです」

ルシールは耳を傾け、相槌をうった。

後ろに付いて来ているケンプ氏が補足説明を加えて来る。

「その負債、ギャング・マネーも大いに含んでいたので、借金が雪だるま式に膨れ上がっていたという訳です。方々の借金取りやギャングたちが、当館の門前に押しかける騒ぎになりまして。今も結構、ギャング=タイターとか、いや、その、トラブルが続いてますね」

グリーヴ氏が実直そうな様子で、ケンプ氏の言及にうなづいてみせる。グリーヴ夫人が頬に手を当ててながらも、おそらくは何回も繰り返して来たのだろう、滑らかに続いた。

「ローズ・パークが、膨大な借金と共に放り出された形になったものだから、借金返済と管理費用の節約を兼ねて、テンプルトン出身の中小地主が共同管理するための、ローズ・パークのオーナー協会が創設されたという訳なの」

「ダグラス家、つまり現在のクロフォード伯爵宗家にはバックアップを様々頂いておりまして、かれこれ30年――ローズ・パーク邸には借金取りやギャングが押し掛けて10年以上も混乱しておりましたが、その後は運営が順調で……幸い、社交界の名所の評判も頂くようになり、借金の返済も、大方は済みました」

ルシールは呆然と、グリーヴ夫妻の説明に聞き入るばかりだ。

(――そんな騒動があったなんて。跡継ぎ子爵が失脚して、ダグラス家がクロフォード伯爵宗家に繰り上がって……その頃って、一番大変な時だった筈だわ……)

ルシールは、回廊に並ぶ窓を眺め始めた。

見事な造りの窓枠。それを透かして、広大な庭園が見える。

「ローズ・パークは、館と庭園と、両方ともバラバラにならないで済んだ訳ですね……」

「クロフォード伯爵様のご尽力のお蔭であります」

そこで、ルシールは或る事に気付いた。

――『テンプルトン出身の中小地主が共同管理するための』……

グリーヴ氏をパッと振り返るルシール。

「テンプルトン出身の……、という事は、アントン氏は、テンプルトンの地元紳士……?」

「さよう……私も含めて、初代オーナーは全員がテンプルトン出身です」

グリーヴ氏は律儀に応じていた。ふとグリーヴ氏はルシールを見やり、懐かしそうな表情になる。

「見れば見る程……アイリス嬢に似ていますな」

「そうなんですか?」

ルシールは戸惑い、曖昧な笑みを浮かべた。

(何故か、母を知っている人は、皆が皆、そう言うみたいだわ)

*****

館の回廊の案内が終わり、最後にグリーヴ氏は画廊に続くドアを開けた。

「画廊です。オーナーたちの記念の肖像画を掛けております。サイズ制限で、小さな額のみですがね」

画廊は、ガランとした雰囲気だ。かつての絵画や家具が借金返済に充てられていたという事で、ほとんど残っていない。

しかし、豪華な壁紙が全面に張られており、壁紙だけでも一財産になるだろうと、ルシールは感心した。

画廊の真ん中に鎮座する、豪華な暖炉の上の空間に注目する。

そこには――何も無かった。

脇に、オーナー協会の面々を描いた小さな肖像画が、こじんまりと並んで掛けられているだけだ。

「前の子爵の肖像画は……無いですね?」

「借金返済のため、競売に出したので」

「競売?」

ルシールは首を傾げた。肖像画は、それ程大したお金にはならない筈である。

グリーヴ氏は微妙な咳払いをした。

「額縁が相当の値打ち物で……」

そのシニカルな様子に、ルシールは目をパチクリさせた。

前の子爵は、相当に困った人物だったと思われる。膨大な借金をこさえた上に、領地を勝手に切り売りしようとした事で謀反の罪を適用され、その結果として、爵位継承権を喪失して失脚した――と言う人物。親族関係を考えると、キアランの遠縁の伯父に当たる。

(貴族名簿とか見てないから、知らないけど。どんな人だったのかしら?)

ルシールは、顔も知らぬ先代子爵に、少しばかり興味を覚えたのだった。

*****

オーナー協会の面々は、並ならぬ関心を持って、ルシールの立ち居振る舞いを眺めていた。

「可愛らしい娘さんだね……あの偏屈老人アントン氏のお孫さんとは、とても思えん」

カーティス氏が感心した様子で呟く。ウォード夫妻は、二人して慎ましく沈黙していたが、何やら別の方向で驚いているのは明らかだ。

グリーヴ夫人が、まだ驚き覚めやらぬと言った様子で続く。

「彼女はホントに、アイリスさんに生き写しですわ!」

年若い二代目オーナーであるケンプ氏は、不思議そうな顔をしている。

「そうなのですか? 私めも二代目だから、アントン氏の娘さんの事は全く知らんのですが。確か蒸発したんですよね? 冬の真っ只中に行方不明……タイター氏を激怒させて……」

「そりゃ大騒ぎでしたわよ! レオポルド殿の結婚騒ぎの方が、大変だったけど」

グリーヴ夫人は顔に手を当てて、大きな溜息をついた。

……キアランは興味を持って、その会話にしっかりと耳を傾けていた。

オーナー協会の初代オーナーたちは全員、最初からローズ・パークに関わっていただけあって、アイリス・ライトの事を良く知っている様子だ。

ルシールの母親アイリスの蒸発は、25年前だ。オーナー協会の創設から五年後に起きた出来事でもある。当時は、子爵の失脚劇を含む政変により、クロフォード領内の混乱が激化し、最悪の様相を見せていた。グリーヴ氏がいみじくも説明したように、借金取りやギャングの抗争が続いていたのだ……

ルシールは、オーナー協会の面々に注目されている事には気づいていなかった。

暖炉の脇に近付き、ルシールは、オーナー協会のメンバーのうち一人の肖像画――即ち『アントン・ライト氏』と銘打たれた肖像画を、しげしげと眺め始める。

肖像画家は、アントン氏の性格を良く描き出していた。如何にも頑固そうな目元に口元。確かに気難しそうな老人だ。

実の祖父アントン氏は、ルシールと同じ濃い茶色の髪だ。目の色も平凡な茶色。しかし、何処と無く眩しそうに細められている。

(マティが言った通り、光が差すと紫色に変わる目だったかも知れないわ……)

やがてボンヤリとした記憶が浮かび上がって来る。ルシールは奇妙な感覚を覚えた。

初対面と言う感じがしない。

「私、この人、会った事がある……?」

■ローズ・パーク邸…オーナー協会の人々(後)■

ルシールのすぐ後ろに居たキアランが、ルシールの呟きに気付いた。

「アントン氏を知っている……という事ですか?」

「確信ある訳では……多分、五歳か六歳の頃で……、一度だけで。あの教会で、何かの催しがあった時に……?」

ルシールは曖昧に答えながらも、何が引っ掛かったのかと首をひねり始めた。

――幼い頃、母アイリスと外出した日……

その日は、最寄の教会で、園芸に関する何らかの催しが開かれていたと言う記憶がある。アイリスは滅多に町に出ない人だったのだが、かねてからいつもお出掛けをねだっていた幼いルシールを連れて、その日、珍しく賑わう教会を訪れていた。

しかし、ルシールの記憶は断片的であり、アントン氏らしき老人と出逢った時の状況も、ボンヤリとしたものだった。

「何だか途切れてる……もう少し考えれていれば、思い出せると思うけど……」

「頭の怪我が治れば、大丈夫かも知れない」

「それは、そうかも知れません……?」

キアランは、いつものようにムッツリとした表情で、包帯を巻かれたルシールの頭を眺めていた。

ひとまずはキアランの指摘にうなづくルシール。だが、次の一瞬、ハタと気付き、暗に『頭が悪い』と言われたような……と、モヤモヤとした気持ちになったのだった。

*****

ローズ・パーク邸の大広間で、お茶タイムが始まる。

クロフォード伯爵邸の大広間と同じように、此処も談話室として客人に開放されている場所だ。庭園に面する瀟洒な大窓が、レースカーテンに縁どられつつ並んでいる。

淡いローズ色を帯びた大理石の床が華やかな雰囲気を醸し出していた。真ん中あたりには結構な段差があり、これはこれで興味深い構造だ。やはり舞踏会場としては充分なスペースがあり、華麗な彫刻を施された列柱が並ぶ。高い天井には、華麗なデザインのシャンデリアが下がっていた。

絢爛豪華な大広間の中にあるのは、その華やかなスペースに相応しい豪華な家具――と言う訳では無かったが、地元から提供されて来たらしい、素朴な味わいの円卓と椅子が並んでいた。

アントン氏に関するルシールの曖昧な記憶の話を聞き、謹厳実直なグリーヴ氏は怪訝そうな顔になった。

「五歳か六歳の頃? アシュコートで?」

「多分、20年前……」

ルシールは、再び曖昧にうなづくしか無い。

傍で聞いていた警備担当ケンプ氏が、驚愕の面持ちでルシールを見直した。

「今、25歳か26歳って事ですか?」

「今年25歳です」

その時、今まで慎ましく沈黙を守っていた庭園担当ウォード氏が、呆然とした様子で呟いた。茶カップを持つ手が震えている。

「アイリス嬢が失踪したのも、25年前だ……」

「まさか……『予期せぬ妊娠』が理由で?」

ウォード夫人も、何とも言えない奇妙な眼差しで、ルシールに注目している。

グリーヴ氏は暫く思案していたが、やがて何かに納得したかのような顔になった。

「そう言えば、アントン氏は、アシュコートに行ってますね。20年ほど前に。この館の運営が軌道に乗り始めて、借金返済も見えて来たのが、その頃で……」

「……!?」

ルシールは息を呑んだ。

「余裕も少し出て来たから、娘の墓参りに行ってくると……」

「私の母は……その時は生きてましたわ!」

ルシールは驚きの余り、思わず声を上げていた。

再び奇妙な反応をしたのは、ウォード夫妻であった。ウォード夫人は、半信半疑と言った様子である。ウォード氏は頭に手をやり、目をアチコチ泳がせていた。

「アントン氏は、アイリスが生きていた事を知っていた……?」

「そうだ……! アシュコートから戻って来た後、確かアントン氏は妙な事を言っていて……自分が死んだ場合、誰がオーナー権を相続するか、とか……」

カーティス夫人が、頬に手を当てて首を傾げ始める。

「アントン氏は、何故アイリスお嬢さんを連れて戻って来なかったのかしら? タイター氏関連で、命の危険があったとか……?」

「それくらいしか思いつかないね、タイター氏はギャングだ……ローズ・パークの借金取りの一人でもあったし」

カーティス氏は、カーティス夫人の私見に同意している。

ケンプ氏もハッとした様子で続く。

「タイター氏は、アントン氏のところによく押しかけて、『婚約者に裏切られた、慰謝料を払え』と激しくやり合っていましたよ。近ごろは『オーナー権を譲れ』に変わってますね。ローズ・パークが借金まみれの時はオーナー権には見向きもしなかったのに」

一方、グリーヴ夫人とウォード夫人は、不安そうに顔を見合わせて、別の事を呟いていた。

「タイター氏は、アイリスさんの恋人を殺す、とか言ってたわよね」

「青い目の……?」

キアランは、一瞬、目の端に緊張を走らせた……

その間にもカーティス氏はルシールに向かって困ったように肩をすくめて見せ、タイター問題について更に言及していた。

「タイター氏の甥ナイジェル・ビリントン氏ね、彼もオーナー権を主張していて、管理人割り当ての個室を占領してるんだわなあ。庭園を管理してくれなきゃ意味が無いんだけどね、アシュコートの舞踏会の視察で、今は留守なんだ」

(――ナイジェル? アシュコート――?)

聞き覚えのある名前だ。ルシールは思わずギョッとして、身体を強張らせた。

(あの、セクハラ上等の、似非紳士! ああ……どうか、あの人じゃありませんように!)

*****

ようやく衝撃が収まって来たルシールは、ふと窓の外に広がる庭園に目をやった。木々の葉が微風に揺れ、気持ち良さそうに、昼下がりの光を乱反射している。

「――庭園の見学は、できますか?」

「可能だけど……庭園と言っても、結構広いから。三時間か、四時間ね」

カーティス夫人は首を傾げて思案しながらも、端的に答える。ルシールは「そんなに!」と驚いて、頬を上気させるばかりだった。

「テンプルトンに宿を取らないと、時間的に厳しい」

キアランが冷静に指摘した。

ルシールは怪訝な思いで振り返る。

その目の前で、『そろそろ見学は終わりだ』と言う様子で、キアランはシルクハットを手に取っていたのだった。

「今、ライト嬢は、クロフォードの方で保護しているので。今日のところは、これで引き返す事にしましょう。父に報告する事も色々とありますし」

「まあ! それはそうですわね」

「ああ、タイター問題ね」

カーティス夫妻は、すぐさま納得の顔になった。

やがて、カーティス夫妻は、オーナー協会の代表夫妻として、正面玄関の前でキアランとルシールを見送った。カーティス夫人は気取りの無い笑みを浮かべながら、ローズ・パーク舞踏会の招待状をキアランに手渡す。

「今朝、いささか広報しましたが、明日の夕刻から気楽な舞踏会を開催しますから。リドゲート卿もライト嬢も、是非おいで下さいね」

*****

クロフォードの馬車は順調に帰路に着き、並木道を駆け抜けて行った。

キアランは相当に長い間、ルシールをジロジロと眺めていた。無言の眼差しに、毎度の如くルシールが居たたまれなくなって来たところで、キアランは、やっと問いを発した。

「本当に父親の事は、一切不明なのですか?」

「そういう訳では……父が母に贈った、形見のブローチがありますし」

「形見?」

ルシールは手提げ袋からアメジストのブローチを取り出すと、キアランに手渡した。

手の平ほどの、標準的なサイズ――キアランはブローチを一瞥し、すぐに納得顔になる。

「舞踏会で見かけました。このブローチは、訳ありと思っていましたが……」

キアランは、しげしげとブローチを眺めつつ、呟いていた。

バラの線描を切り出したような繊細なデザインで、無数のアメジストの粒が、その金属のラインの上に精密に埋め込まれていた。裏を返すと――金属ラインの上に、刻印された文字が並んでいる。

『愛しいアイリスへ、結婚の記念に、L、F&F』

キアランの低い声が響く。

「F&Fというのは、何処かの宝飾ブランドのロゴでしょうか。クロフォード領内では聞かない名前ですね。アメジストそのものも、さほど高価という訳でも無い。細工は見事ですし、紳士に相当する地位と財力はあったのでしょう。正式な結婚をしていたと言う証拠になるかも知れませんが……」

ルシールは不安と共に、うつむいた。

キアランは再度、ブローチをじっくりと観察している。

「謎のL氏……確かに、タイター氏の頭文字では有り得ない」

「もしかして、疑ってらしたんですか!?」

「身長が平均未満と言う共通点が……」

むくれ返って、プイと横を向くルシール。

「失礼。お返しします」

ルシールはプリプリしながらも、素直に小箱を受け取る。

キアランは足を組み直して座席に落ち着き、長い思案に入った。

馬車の中の会話が無くなり、静かな時間が流れ始めた……

*****

沈黙に落ちたキアランは、心の中で、疑惑を広げていた。

――父の態度も奇妙なのだ。

キアランは、クロフォード伯爵のルシールへの特別待遇に、少なからぬ違和感を覚えていた。

ローズ・パーク邸のオーナー協会に属していた地元紳士の孫娘とは言え、ルシールは、平均的な領民の一人でしか無い。ルシールに関する案件は、弁護士に一切の処理を任せておいても、全く問題の無い些細なレベルの物なのである。

『門番のコテージでも充分じゃ無いか』と言うレオポルドの暴言に与するつもりは全く無いが、必要な宿代くらいは伯爵家の予算から出す事は出来るし、ローズ・パーク邸にも、充分な設備の整った客室は、あるのだ。

――父が直々に関与すると言う事を聞いて、カーター氏も意外に思った、と言っていた……

ただでさえクロフォード領主として多忙な父が、直々に関与する程の、目的と理由。

キアランの脳裏に、ひとつの記憶が浮上する。

――ルシールが馬に蹴られて、怪我をした直後のこと。

キアランがクロフォード伯爵の私室に駆け付けた時、クロフォード伯爵は、朝のお茶を一服しつつ、書類に目を通しているところだった。

『父上、急に失礼します。先ほど、ドクター・ワイルドが往診に来たのですが、ライト嬢が大怪我をして、先に診ていただいていますので……』

『……!?』

クロフォード伯爵は、茶カップを取り落としていた。茶がこぼれる。キアランは呆気に取られながらも、素早く書類を救出する羽目になった。

『……父上?』

『ルシールに、いや、彼女に何があったんだ!?』

クロフォード伯爵は松葉杖なしで立とうとして、痛みに顔をしかめた。

その後、キアランは、クロフォード伯爵が無理をしないよう押し留めるのに、かなり頑張って説得しなければならなかった……

――父は何故、ルシールの事で、それ程に動転したのだろうか?

キアランは改めて、ルシールについて、レオポルドの私生児――と言う、胸の悪くなるような可能性を考えざるを得なかった。

ダレット夫人カミラも、問題のあり過ぎる性格だ。

――ルシールの母親が行方をくらます程の理由には、なる。

婚約者アイリスに逃げられたと言うタイター氏の恨み言の内容や、アイリスを直接に知っていたローズ・パークの初代オーナーたちの洩らした内容を総合してみると、それらが導き出す可能性は、明らかに一つのベクトルを持っていた。

プレイボーイ貴族。25年前、アイリスが失踪したのと同じタイミングで、レオポルドの結婚式があった。アイリスの恋人は、青い目をしていた。

全てのベクトルが集中し指し示すところの人物像は、まさにレオポルド・ダレット以外に有り得ない――

マティの推理が正鵠を射ていて、ルシール・ライトという存在が、本当にレオポルド・ダレットの、華々しい過去の結果であるなら。

*****

キアランの表情は、次第に厳しいものになっていった。

沈黙を続けるキアランの様子をそっと窺っていたルシールは、さすがにハラハラして来ていた。

――何を考えているのか分からないけれど、何か気に障った事があったのかしら。話しかけちゃいけないような険しい雰囲気だわ……

■クロフォード伯爵邸…襲来インタールード■

クロフォード伯爵邸の大広間は、大騒動の舞台となりつつあった。

「あのクソの茶ネズミ女……! 叩きのめして、八つ裂きにして、釜茹でにして、食ってやるわ!」

金髪碧眼の美少女・19歳は、何とも惨たらしい殺害方法を大声で触れ回りながら、手当たり次第に物を投げ付け、あらゆる物を破壊して行く。

壊れやすい家具や装飾品、カーテンなどの布地の類の物は、アラシアが通り過ぎた場所では、全て原形を留めていないと言う状態だ。

メイドたちは、破壊された家具の陰で震えあがっていた。周辺で、ガラスや陶器の破片がひっきりなしに飛び散る。

「キアラン様は何処なのよッ! 見つけたら、絶対タダじゃおかないッ!」

特に勇敢なスタッフたちが、破壊神と化したアラシアの行動を何とか制止しようと、空しい努力を続けていた。

執事は、目の前に飛んで来たガラスの破片をかわしながら、何とかアラシアに声を届けようとしている。

「ですから、ダレット嬢、リドゲート卿は出張中でござい……」

しかし、そこへ新たな破片が勢い良く飛んで来た。執事は再び悲鳴を上げながら、素早く身をかわした。

逃げ遅れていたクレイグ牧師は、アラシアが放り投げていた『戸棚の引き出し』を避けきれず、元々悪くしていた腰を再び打ってしまうという有り様だ。腰の痛みが再発し、クレイグ牧師は震えながら、近くのソファにグッタリと倒れ伏した。

「大丈夫!? じいじ!」

「う、う〜ん……腰を打った……」

クレイグ牧師は辛そうに呻いた。マティも、すっかり慌てている。

幸い、アラシアは、クレイグ牧師とは反対側の場所に移動しつつあった。クレイグ牧師とマティは、揃って青ざめながらも、アラシアの凄まじい暴れぶりを呆然と眺めるしかない。

「若者の本能で、リドゲートがルシール嬢を連れ出した事を察知しとるな」

「オイラも、とばっちりで殺されそう」

マティは恐れ入ったようにアラシアの方を見ていたが、すぐにピンと来た顔になり、飛び上がった。

「こりゃ、ヤバいぞ!」

少年マティは、ピューッと大広間を飛び出した。

正門前の庭園に駆け込み、高い庭木の枝に上ると、マティは望遠鏡を構えて、クロフォード伯爵邸へと続くなだらかな坂道を見張り始めた。

マティの予想によれば、ルシールの乗った馬車が、やがて見えて来る筈なのだ。

「――来たッ!」

果たして、間も無くしてクロフォードの馬車が現れたのだった。

マティは急いで木から降りると、無謀にも馬車の前に飛び出した。

「ストップ、ストップ!」

「うわわぁッ!?」

御者は、馬車の前にいきなり飛び出して来た子供の姿に驚き、急ブレーキをかけた。マティをよけるように方向転換し、馬車馬は、土埃を撒き散らしながら止まる。

馬車の中で、ルシールが後部座席から放り出された。

前部座席に居たキアランが、すんでのところで、ルシールを抱き止める。

馬車が止まるが早いか、マティは急停止の衝撃で開いた馬車のドアに飛び付き、よじ登る。すると、すぐにキアランが、そこから顔を出した。

「何だ!? いきなり飛び出すなんて」

「ルシールも乗ってるだろ!? アラシア警報、最大級さッ!」

ルシールは急停止の際に、前方の座席の背に勢い良く顔面を打ち付けていた。キアランが抱き止めていなかったら、鼻の骨が折れていたであろう。ヒリヒリする顔面を押さえつつ、ルシールは驚きと疑問の声を上げた。

「もにゃもにゃ……、アラシア、お嬢さんが……、何か……!?」

「今、すっげえ、ヒステリー! 冗談じゃねえよ! ルシール、絶対、殺されるぞ!」

若い御者が慌てたように降りて来て、やっとマティの無事を確認した。『アラシア警報・最大級』という警告に、御者はすっかり青ざめてしまっている。

「ダレット嬢ですと。こりゃまた……どうしましょう、リドゲート卿」

キアランはルシールを速やかに元の座席に戻すと、思案顔でブツブツと呟き始めた。

「昨日の書状の中に、カニング氏による今夜の舞踏会の招待状があった……カニング家はトッド家の隣人だし、堅苦しくない集まりだから、良い機会だと思っていたが……」

最後に謎のコメントを追加してキアランは眉根をきつく寄せ、シルクハットを被り直した。ルシールは、キアランの言葉の前後の意味が取れず、同じようにずれた帽子を直しながらも戸惑うばかりである。

キアランは馬車から降りると、早速マティに声を掛けた。

「マティ、隠れんぼは得意か?」

「身を隠すポイントは、お手の物さ」

キアランは素早くうなづくと、馬車の中からルシールを軽々と抱き下ろした。

朦朧としていたルシールは、地上でマティに手を握られ、「え?」という顔だ。

「その辺に隠れて。ダレット嬢を今夜の舞踏会に連れ出すから、その後で二人で館に入ると良い」

キアランはそう言い残すが早いか、再び馬車に乗り込み、「出せ」と御者に指示したのだった。

*****

マティの手引きで、ルシールは正面玄関が見える低木の中に身を隠した。

キアランが乗った馬車は、正面玄関の前のロータリーを回り、扉の前に横付けされる。馬車の帰還に気付いて、館のスタッフたちが次々に集まって来た。

ルシールは感心しきりで、その様子を眺めた。

「あっさりしてる……」

「あっさり? あれが?」

マティは目をパチクリさせていた。

*****

小一時間は経過したかと思われる頃。

正面玄関の扉の奥から、舞踏会用の贅沢なドレスに身を包んだアラシアと、そのアラシアをエスコートするキアランが姿を現した。そしてその後ろから、同じく贅沢な舞踏会用の姿のダレット夫妻も姿を現して来たのだった。

「ダレット一家を、一体どうやって急かしたんだろ? 一時間以内で引きずり出すなんてさ!」

マティが驚いたようにささやく。

一方、ルシールは、輝かんばかりの金髪の美少女に感心していた。キアランも容姿は悪くないのだ。二人で並ぶと、まるで一枚の絵のようだ……漆黒の貴公子と黄金の姫君。

「ダレット嬢とリドゲート卿は、こうして見ると美麗なペアね。アシュコートの舞踏会でも、なかなか見かけない代物!」

彼らの乗り込んだ馬車は、金の縁の付いた豪華な大型馬車だ。中の内装も、豪華な物だと知れる。玄関の前には館のスタッフがズラリと整列し、うやうやしく首を垂れていた。

ルシールとマティは、低木の中に慎重に身を隠しながらも、正門へと駆けて行く馬車を興味津々で見送る。

「多情多感と冷静沈着って、相性は結構良い方だし、この縁組は割と上手く行くんじゃ無いかしら」

「キアランは超が付く堅物で、なお冷静だけど、全然あっさりしてねーよ」

マティは、ブツブツと反論していた。

やがて馬車が充分に離れて行ったと見て、マティはルシールを茂みから連れ出す。

館のスタッフ揃っての大仰な見送りは終わっていた。正面玄関の扉を閉めようとしていた執事は、マティとルシールが近付いて来たのを認め、ホッとしたような顔になる。

「ご無事で、ようございました」

「ご無事?」

ルシールは執事の苦笑交じりの言葉に首を傾げたが、割り当てられた部屋に入ると、驚きの余り棒立ちになったのだった。

「こッ……この目を疑う破壊はッ……」

部屋に据え付けられていた鏡台は、鏡が粉々に割られていた。それだけでなく、すべての引き出しも引き抜かれ、中身は部屋の中に乱雑に散らばっていた。しかも、無事な物は一つとして無かったのであった。

戸棚の扉も、どうやって破壊したのか見事にひしゃげており、もはや戸棚としての用を足していない。部屋を仕切る衝立も、原形を留めていない。火を付けられたのか、ススだらけだ。

幸い、部屋の窓は、アラシアが破壊に取り掛かろうとする前に制止が入ったらしい。乱暴に開かれたのか窓枠の装飾が削れており、カーテンもボロボロに引き裂かれてはいたが、奇跡的に、ガラスだけは割れていない。

部屋には既に片付けのためにメイドが入っていて、青い顔をしながらも破片の掃除を続けていた。ルシールに気付いたベル夫人が振り返り、困惑の表情を浮かべながらも、丁重に一礼する。

「部屋管理の不行き届きで、大変申し訳ございません。お止めしようと、努力はしたのでございますが……お手数ではございますが、お持ち物を確認して頂けますか?」

ベル夫人に促され、ルシールは部屋の中の物を確認し始めた。

ルシールは戸棚をのぞき、その破壊の有り様に、改めて絶句する。

手持ちの中では一番良い服だった筈の、舞踏会用の茶色のサテンドレス一式が、ズタズタに破られた上に火を付けられて、無残な燃え殻と化していた。明日の夕方のローズ・パーク舞踏会に招待されているという状況なのだが、もはやサテンドレスが役に立たないと言うのは、目にも明らかだ。

一方、庭園作業の時に着る男物の服は、不思議な事に無事だ。みすぼらしく見える代物であるお蔭で、破壊を免れたようなのだ。旅行用カバンも、傷だらけで古びた外見のお蔭であろう、二つ三つばかりは蹴られた跡が見られるものの、意外に大した破壊を受けていない。

余りにも計算高く明らかな悪意を感じ、ルシールは鳥肌が立つのを抑えられなかった。アラシアは、対象を冷静に選んで破壊していたのだ。

ルシールは思案した。

今着ている黒服は、幸いな事にサテンに次ぐ格式を持つモスリン製品だから、首周りや袖周りなどを縫い直せば、非常に地味ではあるが、舞踏会用のドレスとして使える。これで行くしかない。

アラシアの破壊パターンからして、アメジストのブローチを持ち出していたのは実に幸運だった。

ルシールは戸棚の下側の確認に移り、無事な物をカバンの中に詰めて行った。

一つの引き出しを開け……ある筈の物が無い事に気付き、ルシールはギョッとする。

「……ショール!? ライラックのショールが!?」

その時、先程からルシールの作業を見守っていたマティが、手持ちの袋の中から薄紫色の布を取り出した。

「ルシール、これでしょ」

それはまさしく、ライラックのショールだ。ルシールは驚愕の余り、息を詰まらせた。

「マティ……! どうやって?」

「毎度の先回り!」

「ああ、マティ!」

まさにマティは救世主だ。ルシールは感激して、マティをギュッと抱き締めた。

「レディ・オリヴィアが下さった大切なショールなの! 本当に有難う、お礼に何でもするわッ!」

素敵なお姉さんに抱き着かれた形になり、思わず真っ赤になるマティなのであった。そしてマティは照れながらも、何かを思い付いたようで、意味深な目付きになる。

「じゃあさ……部屋に来て、ハープを弾いてくれるかな?」

「それは勿論……、あら? 画廊じゃ無くて?」

「とばっちりで、じいじがまた腰を打ってさ」

話が一段落したところで、ベル夫人が声を掛けた。

「実は、食堂も相当の被害がございます。クレイグ牧師様の部屋に、ライト嬢の食事も運びましょう」

承知してうなづくルシール。ベル夫人は更に確認を重ねた。

「夜は、別の部屋で休まれますか?」

「あ……、この部屋で大丈夫です」

「では、お食事をされている間に、お部屋を整えておきますので」

ベル夫人は一礼すると、ルシールの荷物を預かり、ルシールとマティを部屋の外に出した。

*****

クレイグ牧師の部屋は、伯爵の部屋と同じ最上階にある。

クレイグ牧師、マティ、ルシールの三人の食事が済み、ルシールは画廊から持ち出したハープを奏でていた。

曲が一段落したところで、クレイグ牧師はルシールを気遣った。マティは一日の疲れが出たのか、既に祖父の膝の上で寝入っている。

「マティのおねだりで大変だったでしょう」

「いえ……」

「あなたのハープを聞かせて頂いた後、腰の調子が、ちょっと良くなっていたんだ……マティは、しっかり見ていたんだな」

クレイグ牧師は溜息をつき、愛情深い手で、熟睡しているマティの頭を撫でた。当惑しているルシールを見て、クレイグ牧師は穏やかに言葉を続ける。

「私も牧師です……ハープの師匠と言うレディ・オリヴィアが、ヒーラーと言う事は、すぐ分かりました」

成る程、牧師であれば、その辺りの知識は豊富な筈だ。ルシールは納得した。

「オリヴィア様は、魔女と言われる程の腕前ですわ。アンジェラも、その魔女の血と能力を受け継ぎましたが、私は無関係で……」

「全く無関係だとは、とても言えませんな。私の腰に効果があったのですから……通常の感覚では分からないような、ごく微細な調律があるに違いない」

――確かにオリヴィア様は、ハープの調律については、とても細かくて厳しかったわ。

ルシールは、ハープの修行に明け暮れた長い日々を思い返していた。

■クロフォード伯爵邸…老庭師の私信■

夕食後の時間帯、館の最上階にあるクロフォード伯爵の応接間。

既にクロス・タウン出張から戻っていたカーター氏が、伯爵に報告を行なっていた。

「……以上が、タイター氏との談判の顛末でございます。ほか、アラシア・ダレット準男爵令嬢の破壊行動の件ですが、こちらは閣下も既にお聞き及びのとおり、集中的に被害が出たのは食堂、大広間、二階の廊下の一部、ライト嬢に割り当てられた部屋となります」

概要を聞き終えた伯爵は、再び眉の間にシワを刻んだのだった。

「未成年のやらかした事だから、罪には問えないのだろうな?」

「さようでございます。ライト嬢は父親不明ゆえ、婚外子とされます。ライト嬢が受けた被害は、一般の領民よりも一段階ほど軽微な扱いとなりますので、ほぼ『偶発事故』同様になるかと存じます」

「アラシアは、妙に、その辺の知恵は回る訳だ」

「御意」

クロフォード伯爵の眉間のシワが、いっそう深くなる。

「ダレット夫妻は、躾がなっとらん。我々を困らせると言う目論見があって、あの破壊を放置したのだろうが……」

伯爵がそう言っている間にも、執事が夜のお茶を運んで来た。

微かながら、音楽が流れて来る。ドアが閉まるまでのわずかな間、伯爵は不思議そうに耳を傾けた。

「クレイグ殿の部屋から音楽が……?」

執事は茶を用意しながらも、訳知り顔でうなづいた。伯爵の意向を忖度し、わずかに扉の隙間を残しておく。

「マティ様の癖で、ドアが完全に閉じていなかったのですね。ライト嬢がハープを演奏しておられるのです」

「ハープ?」

「緑の森の魔女に仕込まれたとか」

そう答えた執事は、洒落っ気のある笑みを見せていた。

*****

執事はクレイグ牧師の部屋を訪れ、クレイグ牧師の了解を得て、ルシールを伯爵の応接間に案内した。

黒服は、ベル夫人とメイドたちの協力により、既に洗濯され、アイロンで急速乾燥を施されていた。今はルシールの手によって、縫い直しのための印を各所に付けられた状態である。目下ルシールが着ているのは、庭園作業用の男物の服だ。

服装上の礼儀を失している事は確かである。ルシールはその点を心配してはいたのだが、クロフォード伯爵は軽く微笑みながら、面白がっているだけだった。

「これはまた素敵な格好だ、ライト嬢」

「手持ちの服の都合で……大変失礼いたします」

「ハハハ。そこに掛けてくれたまえ」

ルシールは一礼し、執事によって引かれた椅子に静かに座った。

伯爵はまだ面白がっており、感慨深そうにルシールを眺めている。

「アイリスも、庭園作業の時はそんな格好でね。ローズ・パークで初めて会った時は、驚いたものだよ」

「伯爵様は昔、良く訪問されていたんですか?」

「爵位を継ぐ前の話だよ。爵位を継いで妻と結婚した後は忙しくて、何年も行っていなくてね……気が付いたら、アイリスは既に居なかった」

昔の事を思い出したのか、伯爵は寂しそうな微笑みを浮かべている。

「誰かと結婚していたそうだが……、一度会って話を聞くべきだったかも知れんな」

「気に掛けて頂きまして、ありがとうございます」

ルシールは恐縮しながら、お茶を一服した。

(ローズ・パークの関連の事とは言え、恐れ多い事だわ……)

カーター氏が書類を整えつつ、声を掛けて来る。

「今まで閣下と相談していたのですが。所有物の破壊の件で、ダレット嬢を訴えになりますでしょうか?」

「いえ。今は、ローズ・パークの件に集中したいので……」

「訴えるつもりは無いという事ですか?」

カーター氏は意外そうな顔になった。

「アシュコート伯爵領の方で、アンジェラが公爵を訴えているんです。そちらの問題の方が、ずっと大変なので。ローズ・パーク相続をできるだけ早く確定しておいて、少しの間、アンジェラの傍に居たいのです」

クロフォード伯爵が、驚いたように目を見張る。

「勇敢にも公爵を訴えている?」

「親子認知の裁判です。彼女はロックウェル公爵令嬢なのですが、ロックウェル公爵の方は完全に頭がおかしく……、いえ、少しばかり頭をおかしくされているらしくて……」

ルシールは困惑顔になり、口ごもった。実際、ルシールの見るところでは、問題の公爵は少しどころでは無く、完全に頭が狂っている人物だ。

「ああ……あのロックウェル公爵の案件の事ですね」

「親子認知か……」

クロフォード伯爵は不意に沈黙し、何とも言えない表情を浮かべた。おもむろに腕を組み、何やら思案している様子だ。意外に深刻そうな表情だ。

ルシールは思わず、声をかけていた。

「あの……足が痛みます?」

「いや、何でもない。あぁ、そう言えば、ローズ・パークを訪問したとか……?」

伯爵は苦笑しながらも、滑らかに言葉を続ける。

地位に伴う業務の必要上、身に着けた、ちょっとした社交術であり会話術。

……政界の話術や駆け引きを余り良く知らないルシールは、駆け引きに乗せられたとは気付かないままに、注意をそらされていた……

ベテラン弁護士のカーター氏は、訳知り顔で、穏やかにその様子を眺めていた。

「ええ、お蔭様で……あ、そこで気になる事が……思い出した事がありまして」

「気になる事?」

「あの、私の祖父、アントン氏は、20年ほど前に一度、アシュコート伯爵領に来ていたそうで。どうも私、祖父と会った事があるような気がして……小さい頃だったので、よく覚えていないのですが……」

カーター氏は不意に気付く所があり、目をパチクリさせた。

「それなら、綺麗に説明が付きます」

「おや? カーター氏には、心当たりがあると言うのか?」

伯爵の問いに、カーター氏は滑らかにうなづいた。

「御意。実はアントン氏の遺言書を預かった時、私信もあったのです。子孫が居る事を説明する内容になっていまして……まさかと思っていたので、アシュコートの役所の記録に、本当に該当する記録が見付かった時は驚きました」

カーター氏は、いつも持ち歩いているカバンの中から、古い書状を取り出して見せた。

アントン氏の私信は、以下のような書き出しで始まっていた。

『前略、弁護士カーター殿。以前に受け取った、アイリス・ライトの死亡報告書は誤りであると報告しつかまつり候。ここに、事と次第を記すものに御座候』

内容は次のような物であった。

やはり、アントン氏は20年前、ローズ・パーク邸の運営が軌道に乗り余裕ができた頃、アシュコートを訪問していた。レイバントンの片隅の教会にあると聞く娘の墓を訪ねるための旅だった。

しかし、アントン氏がそこで見たのは、生存中の娘と……五歳になる孫だったのだ。

アントン氏は、その時の状況を書き記していた。

*****

20年前、初夏の頃。その教会では、地方巡回の園芸市場が開かれていた。

アントン氏は、墓地で『アイリス・ライト』の名を探していた。該当の墓が見つからず、首を傾げつつ、グルグル歩き回る。

そこで、親からはぐれたと見える小さな子供が、いつの間にかアントン氏の後を付いて来ていたのだ。つばの広い麦わら帽子を頭に乗せていたため、最初は、脚を生やした麦わら帽子が付いて来ていると思ったくらいである。

アントン氏が足を止めると、麦わら帽子も止まる。

麦わら帽子がおずおずと顔を上げると、大きな紫色の目がきらめいた。

アントン氏は一瞬、息を呑む。不安と戸惑いをいっぱいに湛えた子供の面差しは、幼い頃のアイリスに良く似ていた……

『お前は何だ? ママはどうしたんだ?』

『人が一杯で、迷子になっちゃったの』

『はぐれたのか……何で後を付いて来るんだ?』

『あの、その、「ライト」……』

子供はアントン氏のブーツを見つめていた。そこには、『ライト』という名前が刺繍されている。

『お前、文字が読めるのか……』

『ママも「ライト」って言うの。ウチも「ライト」なの。「ルシール・ライト」って言うの』

『ふーむ……』

そんなやり取りをしているうちに、地味な身なりの金髪の女性が現れた。

彼女はアントン氏の顔を認めるなり、絶句した。そして、口に手を当てて嗚咽をこらえながらも、ポロポロと涙をこぼした。

――不思議な子供の母親は、まさしくアイリスだった。

アイリスは、左の薬指に結婚指輪をしていた。当時のアイリスは既に、『ライト夫人』だったのである。

『結婚したのか? これは……お前の子か?』

『ええ……今は、あの、その……』

……アントン氏とアイリスは、長い話をした。

あの冬の大雪の日にいきなり蒸発したのは何故なのか、馬車事故では何があったのか、そして何故、孫が居るのか。

全ての事情を了解したアントン氏は、長く考えた末に、遂に納得せざるを得なかったのだ。

*****

アントン氏の私信は、以下のように締めくくられていた。

『……身の安全など熟考のうえ、娘の婚姻相手の件については一切を秘密とするものに御座候。しかし、孫の将来は、やはり気になるものと存じ候。孫がローズ・パーク邸の庭園を相続する事、娘アイリスの希望にも相成り候。遺言書が確かに遂行されるよう、願うものに御座候。早々』

カーター氏の読み上げが終わった。

ルシールは呆然とするあまり、絶句していた。

クロフォード伯爵が、難しい顔をして考え込み始める。

「アントン氏は、アイリスの夫が誰なのかを知っていて、敢えて秘密にしたのか」

伯爵の呟きに、カーター氏はうなづいて見せた。

「御意。タイター氏のギャングとしての振る舞いを見る限り、アントン氏の判断は、妥当なものと存じます。アイリス・ライトの婚姻相手については、レディ・オリヴィアにも確認いたしましたが、彼女もご存知ではありませんでした」

カーター氏は思案しつつ、言葉を重ねていく。

「アントン氏から遺言書の相談を受けたのは、ちょうどリドゲート卿が寄宿学校に上がる頃です。ダレット夫妻が館に押し掛けて、レナード様も同じ寄宿学校に入れるべきだと騒いでいた頃でした」

伯爵は、あからさまに溜息をついて、頭を抱えていた。

「ああ……あの頃か。今でも、思い出すと頭痛がしてくる」

ゲッソリとした様子の伯爵を見て、ルシールは目を丸くするのみだ。

「別件も持ち上がって、騒動への対処に手一杯でしたので……アントン氏の文書の奇妙な箇所にまでは気付きませんでした」

カーター氏は改めて、老庭師の私信に署名された日付を確かめた。遺言書の作成と同じタイミングで、私信が書かれている。

「アントン氏は、この件について……三年か四年の間、ずっと考えていたようですね」

■クロフォード伯爵邸…思惑の彼方■

夜は更けて行き、やがて深夜に近い時間帯になる。

カニング家の舞踏会から戻って来たキアランたちの一行が、クロフォード伯爵邸の正面玄関の扉の前に到着した。

「お帰りなさいませ、リドゲート卿」

ベル夫人を伴って玄関広間まで迎えに出ていた執事は、いつものように滑らかに一礼した。早くも、ベル夫人の後ろには若いメイドたちが整列している。

執事は、一行の人数が増えた事に気付き、怪訝そうな表情を浮かべた。

「……レオポルド殿、その方は……?」

見ると、レオポルドの隣に、一人の若い紳士が控えている。赤毛の優男と言った雰囲気だ。特に飛び抜けた容貌と言う訳では無いものの、美青年と言って良いほどには、整った顔立ちだ。

レオポルドは、いつものように傲然とした命令口調で、居並ぶメイドたちに向かって怒鳴った。

「お前たち! もう一人分の部屋を作れ! 地元の紳士のライナスだ……傍系の親族だが、トッド家などより地位は上だぞ! 早くしろ、コラ!」

若いメイドたちは、レオポルドの怒鳴り声に思わず首をすくめた。

「一体、どういう事なのでございましょう?」

若いメイドたちは、互いの顔を見合わせながら、こそこそとベル夫人の後ろに隠れた。ベル夫人は、レオポルドの怒鳴り声にも顔色一つ変えず、冷静なままであったのだ。

「レオポルド殿の気まぐれが、また始まったとか……」

執事もまた困惑しつつ、声を潜めて、若いメイドたちに解説するのみだ。

ベル夫人は、レオポルドを無視してキアランに一礼すると、早速、若いメイドたちを指揮して部屋の準備を言い付けた。

かねてから手順を叩き込まれていた若いメイドたちは、心得た顔をして、一斉に散らばってゆく。

レオポルドは不機嫌いっぱいに鼻を鳴らした。

実際のところ、ベル夫人に関しては、このような失礼な態度を取られても、家事能力に徹底的に欠けているレオポルドには、どうしようも無い。

ベル夫人は、クロフォード伯爵邸の中では最も有能な家政婦だ。クロフォード伯爵邸が、由緒正しい名門に相応しい、威厳と格式に満ちた荘重な雰囲気を維持しているのは、ベル夫人の家事能力による部分が極めて大きい。

レオポルドは、傍で贅沢な羽毛扇をいじっている娘に耳打ちを始めた。

「良いか、アラシア……キアランが当て馬で来るなら、こちらも当て馬だ。お前の部屋の隣がライナスの部屋だ。キアランの関心を引き付けて、あおっておけ」

「任せといて、パパ。キアラン様、あたくしの事は、よく聞くんだから!」

アラシアはキアランを横目で眺めながら、勝ち誇った笑みを浮かべて安請け合いした。

キアランとライナスは、執事を挟んで、明日の朝食のスタイルについて打ち合わせをしている。その辺りの事に手を掛けるのが面倒なアラシアにとっては、つまらない話し合いの一つだ。

アラシアが欠伸を噛み殺しながら、羽毛扇やドレスのレースフリル部分をボンヤリといじっている間、ベル夫人は奥に姿を消していた。しかし、それ程の間を置かずして、ベル夫人がテキパキとした様子で再び現れ、キアランとライナスに一礼して来た。

「ライナス様。お部屋の準備が整いましたので、いつでもどうぞ」

「お手間をおかけいたします」

ライナスは、キアランとベル夫人に一礼し、ダレット家の面々の元に戻った。

アラシアは殊更に気取った所作で、ライナスの腕に手を回す。

キアランがアラシアにエスコートの手を差し出したが、アラシアは「フフン」という笑いと共に、キアランの手を無視した。絶対的優位を確信した、勝利の笑みだ。

「エスコートはライナスにして頂きますのよ。もしかしたら……明日の舞踏会のエスコートも、ライナスにして頂くかもね?」

アラシアはニヤニヤ笑いだ。ライナスの腕に一層ピッタリとくっ付く。

キアランは驚いたように目を見開き、アラシアを眺めた。アラシアに合わせて、ライナスも申し訳なさそうな笑みを浮かべている。

キアランは素早くうなづくと、丁重に一礼した。

「どうぞ、ダレット嬢のお気に召すままに」

キアランはそのまま身を返し、執事を伴って自分の部屋に向かって行った。

得意満面で、レオポルドを振り返るアラシアである。

「さっき見た? 明らかに反応してたわよ!」

「良し良し……これからも、さっきのように、あの馬鹿な石頭に言い聞かせてやるんだ……ウフフ……」

意地悪く忍び笑いをするレオポルドであった。

レオポルドは、今も、そしてこれからも、キアランを自分の都合で振り回すつもりでいた。

そのようにして、絶大な富と権力とを兼ね備えているクロフォード伯爵邸を、おのれの自由にしている。キアランをコントロール出来ている限り、ダレット家の将来は約束されたも同然だった。

*****

キアランは自室に戻った後も、険しいくらいのしかめ面を続けていた。

無造作に上着を脱ぎ、椅子の背に投げる。

随行して来た執事は、訳知り顔で丁重に上着を取り、クローゼットに仕舞い始めた。

「……館内の被害は、片付いたか?」

「お蔭様で」

不意にキアランは、微かに音楽らしき物が流れている事に気付いた。

「……音楽?」

「ああ、ハイ、応接間の方で……」

*****

ほどなくして、キアランと執事は、クロフォード伯爵の応接間に入室した。

扉を視野に収める位置に着座していたカーター氏が早速、気付く。キアランとカーター氏は、目線で会釈を交わした。

ルシールは、クロフォード伯爵のリクエストに応えて、小型ハープを演奏している真っ最中だ。定番の幾つかのバラードを、即興でハープ音楽向けにアレンジした物である。演奏に集中しているせいで、ルシールは、キアランが入って来た事には気付かなかったのだった。

やがて、曲が一区切りつく。

そのタイミングで、キアランは控えめに扉を叩いて見せた。

ルシールが驚きながらも振り返り、会釈する。

「父上、遅くなりました」

「おう、戻ったか」

クロフォード伯爵は、上機嫌で応えている。

「それでは、私どもはこれで……」

カーター氏とルシールは、伯爵とキアランに一礼して、部屋を退出する。

「いつもの部屋を用意してありますので、ごゆっくり……」

挨拶を交わした後、各々部屋に戻って行く二人を、キアランは暫くの間、無言で見送っていた。

キアランの後ろでは、クロフォード伯爵が感心したように執事に語りかけている。

「彼女のハープの腕前は、実に大した物だ……驚きだよ」

「存じ上げておりました」

執事はテキパキと茶器を片付け、やがて応接間を退出して行った。

伯爵は真面目な顔つきになり、キアランの方を振り返ると、今日の確認の質問を口にした。

「タイター氏との直談判で一戦交えた後、ローズ・パークを訪問したそうだな」

「ええ。今日はもう遅いので、報告は後ほど……」

*****

その日の諸々の処理が済み、キアランは自室に戻った。

既にベッドに入っている筈の刻限ではあったが、様々な物思いにとらわれて、なかなか気が休まらない。書類整理をしながらも、キアランの手は、いつしか止まっていた。

急停止した馬車の中、座席から放り出されてしまったルシールの、華奢な身体を受け止めた時。

正直なところ、一瞬、心臓が高鳴ったと言っても良い。

ドクター・ワイルドが調合した、強烈にツンとする消毒薬の匂いの中に、清潔な石鹸の匂いと――露を置いた花のような、微かな香りがしたのだ。

香水にしては淡すぎるし、ポプリ系の香りという訳でも無いようだ。あんな状況で無ければ、あの意外に柔らかな身体を更に抱きしめて、その微かな香りを、もう少し確かめようとしていたかも知れない。

今夜の舞踏会でエスコートしていたアラシアとは、全く違う匂いだった。社交ダンスのペアを務める時、互いの身体の距離が接近するから分かるのだが、アラシアの匂いは、高価な香水と化粧品と紫煙の成分が混ざった、濃厚な物だ。上流階級の、それも特定方面のレディとの付き合いが多いから、必然ではあるが。

……アントン・ライト氏の孫娘ルシール。

祖父アントン氏の色を受け継いだのであろう濃い茶色の髪。そして妖精のような繊細な顔立ちや、表情豊かな大きな目は、母親アイリスから受け継いだ物に違いない。

アイリスの顔は知らないけれど、ルシールとよく似た面差しであったと言う母親だ。あのアメジスト細工のブローチが良く似合うと思われるような、繊細な印象の淑女だったのだろう。

遺伝のイタズラなのか、偶然にも、父親の特徴は身体の奥に沈み込んだのだと思われる。

25年前にアイリスが失踪した時、何があったのか……それは、25年経った今でさえ謎のままだ。

ルシールは本当にレオポルドの私生児なのか。

あのアメジストのブローチに刻まれた、謎の頭文字Lの主――青い目の紳士は、本当にレオポルド・ダレットなのか?

タイター氏との関係は致し方無いとしても――あのダレット家の血が流れていると言うのか?

――『真実を言って何が悪いッ! アイリスは私の婚約者だった! 裏切りやがって、プレイボーイ貴族と浮気しやがって!』

――『確か蒸発したんですよね、冬の真っ只中に行方不明……タイター氏を激怒させて』

――『そりゃ大騒ぎでしたわよ! レオポルド殿の結婚騒ぎの方が、大変だったけど』

――『アイリス嬢が失踪したのも、25年前だ』

――『予期せぬ妊娠』

――『タイター氏は、アイリスさんの恋人を殺す、とか言ってたわよね』

――『青い目の……?』

グルグルと回り続ける、疑惑と不審。

キアランは表情を険しくしかめ、手に持っていた書類をグシャリと握りつぶした。

第四章「レディ・アメジスト」

■クロフォード伯爵邸…舞踏会の前(前)■

大窓から、夜明けの光が差し込んでいる。

ルシールは夜なべして、せっせと黒服を舞踏会仕様に縫い直していた。

朝食の時間も終わろうと言う頃、やっと縫い直しが終了する。首周りと袖周り、そして裾周りがパーツごとに縫い直されている。黒服ではあるが、ヒラヒラ部分とフリル部分が増えただけ、何とかごまかせるであろうという風だ。

遊びに来ていたマティは、ルシールの手仕事を感心して眺めていた。

「これで、何とか舞踏会仕様になった感じね。こんな事もあろうかと、パーツ型にしておいて良かったわ」

「器用だね、ルシール。それで、ホレ」

マティは、無地の白い手袋をルシールに見せた。

「それ、どうしたの?」

「アラシアのから失敬して来たヤツさ。サイズ、大丈夫だろ?」

「……ダレット嬢は怒らないのかしら?」

「あいつは気付かんぜ、新しいレースのド派手な手袋がマイブームでさ」

ルシールはマティに押される形で、おずおずと手袋に手を入れた。少しだぶつくが、問題はない。

得意満面のマティは、さっそく大蛇のオモチャを操作し始めた。

「何を隠そう、この大発明の蛇の皮だって、以前アラシアが気に入らんって放り出した布で出来てるんだ。それをこうしてな……、マティ様ったら、慈悲深いじゃんか」

「……そうなの?」

ルシールは大蛇のオモチャを眺めながら、圧倒されていた。

いつの間にか、何やら改善が施されたらしく、前より動作パターンが増えている。実に本物の蛇そっくりの動きだ。

*****

朝食後のお茶の時間。

ルシールとマティもお茶に呼ばれて、館の大広間を訪問する。

手持ちの服の都合が付かず、ルシールは庭園作業用の格好のままだ。

ルシールとマティが大広間に入ると、先にお茶していた紳士たちが立ち上がり、迎えた。

「お早うございます、ライト嬢」

早速、カーター氏がルシールに声を掛ける。昨夜は、カーター氏も、クロフォード伯爵邸で割り振られた部屋に宿泊していたのだ。

「昨夜は、どうもお世話になりました」

カーター氏に挨拶を返したルシールは、次に、見慣れない紳士がお茶をしている事に気付いた。

背丈はキアランと同じくらいだが、赤毛の優男といった、親しみやすい雰囲気だ。赤毛の紳士の方も、不思議そうにルシールを眺めて来ている。

カーター氏が二人の間に入り、人物紹介を始める。

「地元の紳士で、傍系親族の一人、ライナス氏です。ダレット家の親しい友人と言う事です」

次いでそこに近付いて来たキアランが、紹介の続きを受け持った。

「ライナス氏、こちらはルシール・ライト嬢。カーター氏が担当する案件に関して、当分の間、この館に滞在する予定です」

ライナスとルシールは、改めて丁重に一礼し合った。

その隣で、マティが、ライナスを見るなりパッと思い当たった顔になる。

「思い出した! カニング氏の隣の隣の隣の詩人の息子!」

「ハハ。久し振りだね、マティ君」

ライナスは、ルシールの庭園作業用の男服を眺め、首を傾げた。

「何故に、そんな奇妙な格好を?」

「いささか訳がありまして……」

「ワイルド先生が往診に来るしねッ」

改めて各々ソファに座り、ティータイムの再開となる。

ルシールがマティにお茶を入れ始めた。

宮廷で見るような貴婦人の所作だ。ライナスは感嘆の眼差しになり、興味深そうに眺め始めたのだった。

「ライト嬢は、何処かで行儀作法を学んでいたのですか?」

「アシュコート伯爵領で、レディの付き添いをしておりますので」

「先程は、レディ称号をお持ちの何処かの令嬢かと思いましたよ」

「恐れ入ります、ライナス氏」

カーター氏が足元に置いていたカバンを取り、書状を取り出す。

「私は事務所に戻りますが……アントン氏の私信の写しを取りましたので、原本を差し上げます」

「まあ、有難うございます。カーターさん」

ルシールは感激しながらも、慎ましく書状を受け取った。祖父アントン氏の自筆の文書だ。

傍で見聞きしていたマティは目を丸くした。早速、カーター氏に質問を投げる。

「私信って、何?」

「アントン氏は20年ほど前に、既に孫娘と会っていたと言う内容ですよ」

「どういう事?」

「20年前、アントン氏は、アシュコート伯爵領を訪れ、亡くなったとされる娘さんの墓を探しておられましたが、そこで見い出したのは、生存中の娘さんと孫娘さんだった……という内容になります」

マティは毎度の目から鼻に抜ける賢さで概要を理解し、更に素晴らしく端的に、要点を言ってのけた。

「……と言う事は、ルシール・パパは結局、不明なんだ」

「残念ながら」

マティの頭脳に感心しつつ、カーター氏は律儀にうなづくのみであった。

*****

カーター氏が、マティの頭を撫でて、館を退去した後。

お茶が一巡したところで、ふと怪訝に思ったルシールは、失礼の無いように辺りを見回した。

「……ダレット一家は、おいででは無いんですか?」

「ダレット家は全員、朝寝坊。他人を死ぬほど待たせてから、偉そうに登場するんだぜ」

ルシールは絶句した。

ライナスは複雑な苦笑を浮かべ、キアランも無表情ながら頭に手をやっている。

ルシールは、そんな彼らの様子を見て、首を傾げたのだった。

(ダレット一家って、いったい……)

*****

そして正午も近付いて来た頃。

執事が入室して来て、慇懃な態度で大広間の扉を開けた。

「レオポルド殿、レディ・ダレット、ダレット嬢のお出ましです」

ダレット一家のお出ましだ。大広間の扉を通り、贅沢な身なりの親子三人が傲然と現れる。

キアランとライナスが、さっそく立ち上がって迎える。

身分の高い人々への表敬のため、ルシールも立ち上がった。マティは不真面目な様子で立ち上がり、片方の爪先で、もう片方の足元を退屈そうにコリコリとやっている。

ダレット一家は揃って、ルシールとマティの表敬を完全に無視した。ライナスやキアランに上から目線を返しただけで、サッサと上座のソファに座を占めてしまったのだ。

まだ子供に過ぎないマティはともかく、ルシールを『その場に居ない者』として扱っている事は、目にも明らかだ。着座のタイミングが読めず、ルシールは愕然として立ち尽くす。

マティが万事心得た様子で、ルシールの袖をチョイチョイと引いて来た。ルシールが不思議そうにマティを見やると、マティはソファにピョンと座り、隣席をポンポンし始める。

ルシールは、おずおずとマティの隣に座る形になった。

……ダレット一家は、意図的に、ルシールを立たせたまま放置していたのだ。ルシールが怪我人であるにも関わらず。

金髪碧眼のダレット一家の面々から発散される威圧が、重い。

ライナスは手慣れている様子で、素早く阿諛追従の笑みを張り付けている。

アラシアとライナスは、早くも、キアランに見せつけるかのようにベタベタし始めた。若者ならではの陽気なふざけ合いだ。

キアランの無表情はピクリとも動かず、ルシールは、困惑が止まらない。

若者同士のふざけ合いは、すぐに、度を越えたイチャイチャぶりに発展した。ライナスがアラシアの手の甲にキスすれば、アラシアは純情そうに頬を染めて見せる。

「もう、お上手ねえ、フフフ」

「おお、この世に類無く輝く髪の女神、レディ・アラシア!」

「何か他におっしゃることは無いの?」

ライナスは歯が浮くような熱烈な賛辞を並べ立てていた。詩人の息子だけあって、言葉遣いは達者なものだ。賛辞がきらびやかになればなる程、アラシアは上機嫌な様子になる。

「今宵のローズ・パーク舞踏会で、高貴な令嬢をエスコート致す以上の光栄は考えられず……」

唖然とするルシールの隣で、マティが、ソファからパッと身を起こした。

「ライナスがアラシアをエスコートするの?」

「フン、何を分かりきった事を!」

ダレット夫人が小バカにするように答えたが、マティも慣れているのか、それには取り合わない。

「それじゃ、ルシールはキアランがエスコートできるね」

アラシアは、マティの指摘にギョッとし、顔色を変えていた。

「今、何と言ったの!?」

アラシアのキンキン声に戸惑うばかりのルシールの横で、マティは、ノホホンとした様子で茶を一服している。何と言うか、大物だ。

「ルシールも、ローズ・パーク舞踏会に行く事になってる」

「それは不可能よ! 第一、乞食も同然の……ドレス一着も持ってない筈よ!」

「誰かが燃やして、炭にしたからね」

マティは白々しい目付きで、チラとアラシアを見やった。

アラシアは急に、マティの話術に乗せられていた事に気付いた。もう少しで、昨日の癇癪交じりの破壊行動の意図を、自分で白状するところだったのだ。アラシアは、いっそう恐ろしい形相をして、マティを睨み付けた。

「身の程知らずの、クソの茶ネズミに、悪魔のガキが……!」

次にキアランに目をやった瞬間、アラシアは、コロッと態度を変えた。急に目に涙を浮かべる。

「あ、あたくしは何もしなかったわよ……!」

悲劇のヒロインさながらだ。美しい声を震わせ、透き通るような青い目に涙を浮かべている。完璧な金髪碧眼の美少女だけに、それは、世の男性たちが思わず哀れに思って構いたくなるような、あえかな雰囲気に満ちていた。

アラシアは、目に涙を一杯溜めながらもマティとルシールをビシッと指差し、とっておきの美しく震える声で、非難と告発を重ねた。

「そっちの魔女とマティの方が怪しいでしょ! 前の復活祭の時の大犯罪は知ってるわよ!!」

アラシアの叫び声は大広間の外まで響くほどの大きさだ。

しかし、ライナスは我関せずといった様子で大人しくしており、控えの間でスタンバイしている筈のスタッフたちが動く気配も、全く無い。

マティが以前に、『アラシアの性格は、みんな知ってる』と解説した通り、皆が皆、アラシアの過激な発言傾向や癇癪気質を良く心得ていたのだった。どのようなタイミングで緊急出動し、緊急避難すべきかという事も。

レオポルドが、キアランの方をジロリと睨む。

キアランは無表情のまま、レオポルドの視線を見返す。

――剣呑な気配。

ルシールは青ざめ、目を泳がせた。

キアランとダレット一家の面々の間に、ピリピリとした空気が張り詰めている。大広間の中は、異様な雰囲気だ。

とりわけ、キアランとレオポルドとの間の緊張感が、重い。腹の底まで染み入って来るような重圧感だ。

(これが、婚約中の二人の会話かしら? それとも、本物の気難しい貴族って、こういう物?)

ルシールは隣に座っているマティに、そっと目をやった。

マティはフンッと鼻を鳴らし、お茶を飲んでいる。しかし、マティは飲んでいるふりをしているだけだった。

「親子で揃って、何で、ああいう認識なんだよ……ダレット家全員の頭を割って、中身を調べたいもんだ」

カップで半ば顔を隠しつつ、マティは辛辣な口調でささやいていたのだった。やはり大物だ。

ルシールは目をパチクリさせたまま、そろりと、ダレット夫人の方を窺う。

■クロフォード伯爵邸…舞踏会の前(後)■

ダレット夫人は、汚い物でも見るかのようにルシールをジロジロと眺め回していた。ダレット夫人は如何にも迷惑そうな様子で、贅沢なハンカチを口元でヒラヒラさせる。

――どうせ下賤な女、このサインの意味は理解できないでしょう。

しかし、貴婦人のサインを熟知していたルシールは、その意味を既に読み取っていた。

『さっさと出て行け』

庭園作業着という格好であっても、貴婦人の振舞いをするのにやぶさかでは無い。だが、ルシールには、ドクター・ワイルドの往診を受けるという約束があるのだ。人との約束は、面子を保つためだけの各種マナーよりも、優先されるべき事項である。ルシールは素早く考えた末、マティにならって無反応を通したのだった。

「この程度のサインも理解できないなんて、教育がなってないわね!」

ルシールの無反応を見たダレット夫人は、苛立たし気に手持ちの扇を開閉した。扇がパシンと鳴る。ダレット夫人の口元には、見下げるような笑みが浮かんでいた。

「教えてあげるわ、さっきの『貴婦人のサイン』の意味は、『出て行って良い』という意味よ! この程度のサインも分からないなんて、なんて無知なのかしら!」

ルシールがポカンとしている間にも、ダレット夫人の侮辱発言は続いた。

「ローズ・パーク舞踏会で赤っ恥をかくのになるのはお前なのだから、身の程を知って、おとなしく引っ込んでなさいな! 末席の使用人から始めて、社交界のルールを勉強して来なさい! ま、この年齢でコレだけ愚かなのだから、クロフォード伯爵邸の見習いメイドにすらなれないでしょうけどね……!」

ルシールは再びマティの、ノホホンぶりを窺った。困惑しながらも、顔を半分伏せる。

「その格好! ボロボロの顔を下げてシャアシャアと出て来れるなんて、さすが卑しい階級だわねえ……鏡を見て反省しなさいよ! それに、あなた、年は幾つかしら? 後見人も居ないとはね、さすが、父親不明のふしだら女だわね……格式ある社交界では、年齢制限があるって事も、知らなかったのかしらね!?」

ルシールは戸惑いながらも、礼儀正しく答えた。

「――今年、25歳になります」

ダレット夫人は一瞬、ギクッとした顔になり、「まさか、レディの発音……」などと口ごもった。扇を持つ手が不安定に揺れ始める。

「……ウソ!?」

「25歳……!? マティ君と、それほど年の離れてない姉弟みたいなものかと……!?」

驚きの声を上げたのは、アラシアとライナスだ。

庭園作業着をまとい、ほとんどスッピン状態のルシールは、どう見ても、社交界に出るにはギリギリの、若過ぎる年頃にしか見えないのだ。顔の引っかき傷が残っている状態という事もあり、マティと並ぶと、お互いにそれほど年の離れていないイタズラ姉弟と言った風である。

マティが愕然とした様子で、ルシールの顔を何度も見直している。次に手を伸ばして、ルシールの両頬を、「ふにふに」とつねり始めた。

「ウソ……絶対、15歳は越えて無いと思った……」

自分は一体何歳に見られているのかと、ルシールは苦笑いするしか無い。

次の瞬間、大広間の扉が開いた。開いたのは執事だ。

ひょっこりと現れたのは、ドクター・ワイルドだった。

「失礼するよ、患者さんがこちらだと聞いたんだ」

アラシアは、急にライナスを放って身を返すと、猛烈な勢いでドクターに身体の不調を訴え始めた。

「先生! あたくし、ものすごく気分悪いんですの! 震えが止まらなくって、食欲も全く無くって、頭がガンガンして……、動悸も乱れたままで、夜も眠れませんの! あたくし、今にも死ぬんですわ! 全部、あの呪われた顔面の、地獄から現れたような恐ろしい傷だらけの、卑しい魔女のせいで――」

マティが目を丸くした。

「すげえ! あの長大なセリフを、息継ぎなしで!」

一方的にアラシアの不健康の責任をなすり付けられたルシールも、絶句するばかりだ。

アラシアの気性を隅々まで熟知しているドクターは、慌てず騒がず、処方箋を書き出した。

「舞踏会が、一番の特効薬ですな」

冗談そのものの処方箋をアラシアに手渡し、ドクター・ワイルドは薄い水色の目をギョロリとさせる。

「ダレット嬢、『頭痛が痛い』なら、そこのソファに横になりなさい。あとで、この世で最も効果のある注射を、チクッとして進ぜよう。象をも一発で昇天させるほどの、確かな注射ですぞ」

ドクター・ワイルドには、本当にそうしかねない雰囲気がある。

アラシアは気圧された様子で、別のソファに着座し始めた。

アラシア問題を手際よく片付けたドクターは、早くも大広間の窓際の席に陣取り、ルシールを招いた。マティが好奇心タップリな様子で後を付いて行く。

窓際の席で、ルシールの怪我の診察が手際よく進んでいった。

ドクター・ワイルドはクロフォード伯爵の主治医であり、その社会的地位は非常に高い。名医としての評判も高く、過去にはダレット一家もお世話になっている程だ。傲岸不遜なダレット一家も沈黙し、往診の様子を見物しているばかりだった。

ドクターはルシールの脈をとり、ニヤリとした顔で、ルシールにウィンクを寄越す。ドクターは手慣れた動きで、ルシールの頭の包帯を解いていった。

「アントン氏に似て石頭だね。ふっふっふ。……ふむ?」

ドクター・ワイルドは不意に怪訝そうな顔になり、ルシールの頭頂部を眺め始めた。キョトンとした様子でヒゲを撫で、首を傾げる。

「包帯は外しても良いが……何で、新しい打撲が出来とるんだ?」

「……あ、昨日、標識ポールに頭をぶつけて……」

ルシールは顔を赤らめて、頭に手をやった。ドクターは面白そうにニヤリとする。

「ほほぉ! そりゃ、また痛かった筈だ。ホレボレするような見事なコブじゃからな。前方注意はしときなさい、お嬢さんや」

次にドクターはルシールの歩行の姿勢をチェックし、姿勢の崩れに目ざとく気付いた。

「変に力が入って姿勢が崩れとる。この辺の痛みは残っておる訳じゃな」

ドクターはテキパキとルシールのカルテを作成した。記録作業が一区切りつくと、ドクターは、今後の身体の扱いについて、ルシールに注意を与えた。

「今夜は舞踏会だそうだが、急に腰をねじらんように。馬に蹴られた際の脇腹に食らった衝撃は、結構深部に到達しとるからな」

「分かりました」

……アラシアは、自分を中心に世界が回って居ないと満足しないと言う性質だ。従って、ルシールの方が注目を集めているというこの状況は、アラシアにとっては、とりわけ『あってはならない事』である。

アラシアは、その美しい青い目に険しい光を浮かべ、明らかにドクターやマティ、キアランの関心の的となっているルシールを、視線で殺さんばかりに睨み続けていた……

マティが小さな身体を精一杯テーブルに乗り出しながら、質問を投げる。

「ねぇヒゲ先生、ルシールは25歳だと言うけどさ、そう見えないよ」

「イッヒヒ……お肌が綺麗じゃからな。節度のある生活のお蔭じゃろう」

マティに調子を合わせて、愉快そうにうんちくを返すドクターである。ドクターは『往診終了』と言う風に、ルシールにうなづいて見せると、サッと診療カバンを手に取った。

「さて、次は閣下とクレイグ殿の往診だな……失礼」

再び執事が扉を開き、ドクターは勝手知ったる大広間を退出して行ったのだった。

*****

――何はともあれ、ダレット夫人の沈黙のサインに応じられるようになった。

ルシールは、アラシアの刺々しい眼差しに戸惑いながらも、キアランに一声かける。

「あの、リドゲート卿、縫い物がまだありますので、これで……」

大広間の面々に素早く一礼し、速やかに大広間を退出するルシールである。マティも、『ダレット一家の近くには一秒たりとも居たくない』と言った風に、ルシールにくっついて出て行った。

大広間には、キアランとダレット一家とライナスが残る形となっていたが、キアランとレオポルドとの間の緊張は、一瞬たりとも和らぐ事は無かった。

「ローズ・パークまで距離があるので、昨日より早めに出発の予定です。いつものように、大型馬車を用意させておきます」

キアランは、ダレット一家に必要事項だけ告げると、静かに大広間を退出した。

大広間の扉が閉まるが早いか、レオポルドは盛大に鼻を鳴らした。

「フン! さすがに、あの忌々しい男の血筋という訳だ」

「あの下賤な女もローズ・パークの招待客とはね! さぞ卑劣な手練手管を使ったんでしょうよ!」

ダレット夫人は、辛辣な口調でルシールを貶めていた。

アラシアは、目障りなルシールが消えてせいせいした、と言わんばかりに上機嫌でソファに座り直した。何時間も掛けてセットした豪華な髪型をいじくり回す。

「25歳ですって、あの茶ネズミ……言うなればチビのオールド・ミスって……笑っちゃうわ!」

しかし、ダレット夫人は何を思ったか、不意に厳しい顔をしてアラシアに向き直った。

「アラシア! すぐにエステを呼び寄せるから……今後、夜更かしとタバコは、厳禁よ!」

ライナスの存在は、哀れにも、すっかり忘れられていたのであった。

*****

ローズ・パーク舞踏会への出発時間が迫っていた。

だが、ルシールは、まだ部屋の中に居た。

新しく据え付けられた鏡台の前で、飾り気の無い格好を何とかしようと思いあぐねているところだ。

「どうも決まらないし、どうしたら良いのかしら……」

ルシールにくっついて部屋まで入って来ていたマティが、やがて身を乗り出すと、アドバイスを始める。

「そのブローチ、髪飾りにすると良い感じだよ」

「ブローチ?」

マティはルシールからリボンを受け取ると、早速、リボンをルシールの頭に巻き付け始めた。

「工作なら得意だから……」

シンプルなアップスタイルにまとめられたルシールの髪型に、リボンがヘアバンドのように巻かれ、側頭部でシッカリした結び目を作った。そこに、髪飾りに見立てたアメジストのブローチが取り付けられる。繊細で軽いデザインなので、ずり落ちないのだ。

「どんなもんだい!?」

意外に、それなりに舞踏会仕様にまとまっている。

マティの多彩な才能に、ルシールは感心するばかりだ。

「マティって、スタイリスト、成功するかも」

「そう? オイラは大発明家になる予定だけどねッ」

*****

いささかの手荷物を準備し、ルシールは外套をまとって玄関広間で待機した。

ほどなくして、シンプルな正装に身を包んだキアランが現れる。キアランは手袋をしながら、声を掛けて来た。

「時間は正確なんですね」

「……?」

目をパチクリさせるルシールに、キアランはエスコートのための腕を差し出す。

「……私、ですか?」

一方、執事はいつの間にか玄関に控えており、訳知り顔で玄関扉を開いていた。

*****

遅い昼下がりの頃、クロフォード伯爵邸の正面玄関の前。

そこには既に、ローズ・パーク行きの馬車が用意されている。二頭立ての軽快そうな黒塗りの馬車と、四頭立ての金縁の豪華な大型馬車だ。いずれの車体にも、クロフォード伯爵家の堂々たる紋章が刻まれている。

キアランはルシールを、二頭立ての馬車の前までエスコートして行った。昨日と同じ若い御者が既に御者席に待機しており、万事心得た様子で会釈して来る。キアランがそれに応え、うなづいて見せた。

「ダレット一家とライナス氏は、何処にいらっしゃるんですか?」

「ダレット一家は身支度が長くていつも遅刻する。ライナス氏に任せてあるし、放って置いて大丈夫です」

ルシールはこの場に居ない人々の事を気にしていたが、キアランはダレット一家に対して、あっさりと言うよりも、むしろ素っ気無い様子だ。

キアランはルシールを馬車の中にヒョイと上げると、四頭立ての大型馬車を担当する御者と従者に、『よろしく頼む』と言う風に会釈した。

四頭立ての金縁の大型馬車を担当するのは、壮年の見目の良い御者と従者である。いずれも、気難しいダレット一家に上手に対応でき、頼りになるベテランたちだ。

揃いの仕立ての制服は華やかな物であったが、肝心の御者と従者は、キアランに会釈を返しながらも、まるで罰ゲームか羞恥プレイの順番に当たったかのように、ゲッソリとした様子であった……

■ローズ・パーク邸…めぐりこぞりて■

ローズ・パークへ急ぐ馬車の中。

ルシールは、いよいよ濃厚な疑いを持ち始めた。

(マティは『婚約してる』と言ってたけど)

キアランの方を、そっと窺う。いつもの無表情だ。

(ダレット嬢とリドゲート卿の間にある、ピリピリとした空気、どう見ても、明らかに婚約関係という雰囲気では無いわよね……ダレット夫妻の方は、気難しい貴族も多いと聞くから、ああいう人たちなのだと理解するしか無いけれど)

ルシールは思案に沈みながらも、ボンヤリと馬車窓の外に目をやった。

昼下がりから夕方に移っていたが、夏至が近付いている事もあり、まだ明るい。長い薄暮の道が続いている。

(最大のミステリーは、『婚約者たるアラシア・ダレット嬢』と、『友人とは言えライナス氏』との、『度を越えたイチャイチャぶり』を見せ付けられて、リドゲート卿が、それでも、なお冷静だという事だわ)

知らず知らずのうちに、ルシールはキュッと眉根を寄せる。少女っぽい繊細な顔立ちの中で、大きな目が、表情をクルクル変えていた。その目は光を受けて、紫を帯びた色合いに千変万化していたのだった。

急に、キアランが身を乗り出して来る。

「何を考えていたんですか、ルシール?」

「いえ……!」

不意打ちだ。ルシールは飛び上がった。

やがて、後方から騒がしい音が近づいて来る。やけに重量感のある車輪の音だ。

思わず窓越しに後方を眺め、ルシールは唖然とした。ただならぬ土埃が、もうもうと立っている。

前部座席に座っていたキアランも同じように後方を確認し、険しく眉根を寄せていた。

「ダレットの馬車か。外泊の荷物も積んでいるから、倍以上の重量の筈だ。あれでは、一時間もしないうちに馬が疲労でつぶれてしまう」

「ありゃ正真正銘のストーカーですね。追突しますよ。あっちの御者に速度制限の合図を送っておきます」

さすがに御者も困惑した様子で、連絡窓を通してボヤいて来たのであった。

*****

日没の刻だ。

馬車の中は急に暗くなっていく。キアランは天井のランプを取ると、ルシールに差し出した。

「そろそろ車内灯を点けます。揺れるので持っていてくれますか」

キアランが手元で起こした火が、ルシールの持つ車内灯に移される。

再びルシールの方を見たキアランは……目を見張っていた。

「――目の色が……?」

「え?」

ルシールは目をパチクリするのみだ。次に手元の車内灯を眺める。ふと気づくところがあり、ルシールは、おずおずとキアランの方を見やった。

「もしかして、目が紫色になってます?」

「アメジストのような……」

キアランは呆然とうなづいていたが、すぐにマティと同じ結論に辿りついた様子だ。

「角度で変化するのか……光の反射?」

「何だかそうみたいですね、マティの説明によれば……母と同じ目をしている……とは言われましたが」

ルシールは曖昧に首を傾げながらも、キアランに車内灯を返した。

車内灯の光が天井に落ち着き、ルシールの目は、再び長い前髪の陰になる。ルシールを見つめ、何かに納得したように、キアランは呟いていた。

「陰になると、いつもの茶色……成る程」

次の瞬間、ルシールの顔は、力強い大きな両手で挟まれた。何が起こったのか分からず、息を呑むルシール。

何を思ったかキアランは、ルシールの顔をランプに向けさせたのだ。ルシールの前髪が脇に流れ、妖精のような繊細な面差しが露わになった。

「こうすると、ライラック色になるんですか」

キアランは少しずつルシールの顔を傾けて、その目の色の変化を観察し始めた。ルシールは驚きの余り、目も口もパカッと開きっぱなしだ。

(近い! 顔が近すぎるわ!)

ルシールの目は、光の当たり具合で、薄い紫色から濃い紫色に変化する。ある特定の角度になると、その目の紫色は、宝石のような鮮やかさになった。

「ふーん……大体アメジストの色合いですね」

キアランは感心したように呟いた。

いつもは冷淡な雰囲気のある黒い目は、興味津々といった風にきらめいている。そうしていると、少年のようだ。さすがマティの親戚と言うべきか、未知に対する好奇心は、年は違えど似通っているらしい。

ルシールはキッと眉を吊り上げ、パッと座席の奥に飛びすさった。キアランの手が外れる。

「人の顔で遊ばないで下さいッ!」

「失礼……」

キアランは名残惜しそうに座席に座り直すと、再びルシールに見入って来た。

「この紫色を、良く世間から隠しおおせたものですね」

「てっきり既に気付いてると思ってました。人の事をジロジロ見てらっしゃるし……」

息を弾ませ、ドキドキする胸を抑えながらも、ルシールは切り返したのだった。まだ頬が熱い。

「それは、エドワードが追いかけているお嬢さんの親友だからですよ。『その人物を見るには、その友人を見よ』と言いますから」

「アンジェラ!?」

「エドワードはアンジェラに惚れています」

ルシールは唖然とするばかりだ。余りにも信じがたい(しかし信じられる気もする)話だ。やがて、文字通り頭を抱え出すルシールである。

「済みません、ちょっと頭が追いつかなくて」

「アンジェラのような女性を放っとく紳士が居るとは思えませんが。怪しげな縁結びしているくせに、自身については想定外だったと言う訳ですか?」

キアランはキアランで、理由は分からないが、呆れ返っている様子だ。ルシールは思わず反論する。

「結婚を前提とする縁結びで、怪しいものではありませんわ。それに大抵の紳士は、アンジェラ周辺の事情を理解した途端に、決まって退散してしまいますし」

キアランは少し目をしばたたいた後、納得顔になった。

「あの時、ロックウェル事件のゴシップを持ち出したのも、エドワードを退散させると言う目論見があった訳か……」

図星だ。思わず言葉に詰まる。

キアランはなおも、しげしげとルシールを眺めている。眼差しは相変わらず鋭い物ではあったが、感嘆している部分が大きいのか、余り威圧感を感じない。かえって、こんな表情もするのかと言う意外さがある。

「しかし、実に迂闊でした。あなたの事を、もっと調べる必要がある」

「私は犯罪してません、お尋ね者と言われても困りますわ」

ルシールは恨みがましい気持ちで、キアランを睨んだ。

キアランは少しの間、しげしげとルシールを見つめていたが、やがて、口元に、不意に微かな笑みを浮かべたのだった。

「その意味で言ったのではありませんが」

――目はけぶるように細められ、口元は控えめなアルカイック・スマイル。ミステリアスな――

ルシールはドキッとして目を見張る。

笑みは一瞬だった。次の瞬間には、キアランは、いつものようにムッツリとした無表情で、馬車の窓の外を眺め始めていたのだった。

――先程の笑みは、何処かで見たような……

ルシールは、その確信の強さに戸惑った。しかし、暫く考えているうちに、パッと閃く物があった。

館の画廊に掲げられていた、あの一組の夫妻の肖像画……『ロイド&ホリー・グレンヴィル』。

キアランの横顔を、そっと眺める。

(リドゲート卿の笑みは、グレンヴィル夫人ホリーの笑みに、良く似ているんだわ)

*****

馬車はローズ・パーク邸の正門の前に到着した。前庭ロータリーを回ってキアランとルシールを降ろすと、他の招待客の馬車と共に駐車場へと引っ込んでいく。

キアランはルシールをエスコートしながら、ローズ・パーク邸の玄関広間に入って行った。すでに来ていた招待客たちが、チラチラと注目して来ている。

やがて、地元の名士と思しき、気の良さそうなシニア紳士がヒョコヒョコと近付いて来た。シニア紳士はシルクハットを取り、キアランに何度もお辞儀する。

「これは、リドゲート卿。昨夜は我がカニング家の舞踏会へお越しいただきまして……今夜のお連れは、どなた様で?」

「彼女は亡きアントン・ライト氏の孫娘、ルシール・ライト嬢です」

「おお。ライト嬢。お初にお目にかかります。アントン氏には、いろいろとお世話に」

ルシールは上品に微笑み、淑女の礼を返した。

「祖父がお世話になりました。今後ともよろしくお願いいたします」

上流社交界で見かけるような綺麗な淑女の礼だ。カニング氏も、ほかの周りの紳士淑女たちも、ちょっと目を見張っていたのだった。

周囲の視線のざわめきが大きくなり、当惑してしまう。ルシールは上気しつつ、半分うつむいた。

キアランがカニング氏に一礼し、身を返す。そつのないエスコートだ。ルシールは気を取り直し、会場へと歩を進めた。

(ローズ・パークのオーナー協会員になった時のためにも、慣れておかないと……)

*****

大扉の前で、ローズ・パークのオーナーの一人ケンプ氏が、多くの招待客たちに順番に歓迎の言葉を掛けていた。ケンプ氏は早速、キアランとルシールに気付き、一礼して来た。

「ローズ・パーク舞踏会へようこそ。リドゲート卿、ライト嬢」

続いて「オッ」という顔になるや、満面の笑みを浮かべるケンプ氏である。

「そのライラック色のショール、似合ってますね」

「ありがとうございます」

ふと、隣の気温が下がったような気がする。

思わずキアランの方を眺めた。キアランの無表情は変わったようには見えないが、何処となく不機嫌そうな気配が漂っている。ルシールは警戒しつつ、首を傾げるのみだ。

人の流れに乗って、キアランとルシールが会場となっているローズ・パーク邸の大広間に入ると、早速、カーティス夫妻が挨拶に出て来た。

毎度ながら、平凡な印象のカーティス氏に比べて、派手な印象のカーティス夫人の方が目立つカップルだ。

カーティス夫人は中年世代の女性なのだが、ハキハキとした陽気な話しぶりと快活な立ち居振る舞いは、彼女を実際の年齢よりも若々しく見せていた。ややもすれば若作りに見えそうな大柄模様のある赤系統のドレスも、かえって似つかわしい。

「ようこそローズ・パーク舞踏会へ! オーナー協会の会員も全員揃っておりますの」

「舞踏会の招待を有難うございます、カーティス夫妻」

「本来はグリーヴ氏も、こちらにいらっしゃる予定でしたが、会場支配人の件で。代わって不在をお詫びします」

キアランはいつものように、丁重に一礼した。

ほどなくして庭園担当のオーナー、ウォード夫妻が出て来て、順番に会釈して来る。

「グリーヴ夫人は、少し遅れて来るとか」

「あぁ、会場支配人の件だったわね。あ、それから……」

*****

ダレット一家は、上座の方の贅沢な造りの扉から、堂々と遅れて会場に入って来た。アラシアをエスコートしているライナスは特別枠だ。

レオポルドは早速、オーナー協会の人々とキアランとが社交辞令を交わしている様子を、不機嫌そうに睨み付ける。

「まずはオーナー協会か? キアランの奴、どこまでも堅物だな……フン!」

レオポルドが他にも何かブツブツとのたまっていると、廊下の方からレナードが現れた。先に会場に到着していたのだ。

「父上! 伯爵邸への私の出入禁止の問題、どうなりましたか」

「まだだ……新しい問題が発生した。あの当て馬の女を何とかしてからで無いと、次に進めん」

華やかな舞踏会場の中、バラ模様が織り出された瀟洒な垂れ幕の陰で、完璧な美貌を寄せ合いながらも、穏やかならぬヒソヒソ話をする金髪碧眼の父子である。

ダレット父子の視線の先には、オーナー協会の面々と談笑するキアランとルシールが居た。

ルシールの包帯は既に取れており、化粧も工夫したのか、顔の傷跡も目立たない。マティの奮闘の甲斐もあって、シンプルな黒いドレスに合わせて頭にセットされた濃色のリボンには、アメジストのバラの形の装飾が綺麗に映えている。

キアランの方も、ルシールに合わせたかのようにシンプルなタイプの正装をしている。ルシールをエスコートしていても、ちぐはぐな印象が無い。

「馬に蹴られても死ななかったとは、さすが魔女ですね」

レナードはフンと鼻を鳴らし、けだるそうに呟いた。

ダレット家の父と子がヒソヒソ話をしていると、垂れ幕の向こう側から、若い金髪の令嬢が近付いて来た。

「まぁ、こちらでしたのね、レナード様」

「おや……そちらは、オーナー協会のお出迎えかな?」

レオポルドは威儀をただし、重々しく威厳タップリの声を掛けた。見知らぬ金髪碧眼の令嬢は、優雅な淑女の礼を返す。エキゾチックな所作だ。

惚れ惚れする程のあでやかな美貌に、天使のような清らかな微笑み。均整の取れたスラリとした背丈。外国風のドレスのラインが、キュッと絞られた細い腰を強調している。理想的なふくらみを持つ柔らかそうな胸。そして、その悩殺的なまでに魅惑的なナイスバディに対して、まとっている宝飾やドレスは、薄いクリーム系を基調とした、意外に上品で慎ましいデザインだ。その所作も、あくまでも清楚である。

レナードが得意そうに令嬢の方に身体を傾け、物慣れた様子で人物紹介をした。

「最高に素晴らしい令嬢ですよ、此処のオーナー代表の姪御、シャイナ嬢は」

「カーティス夫妻の、自慢の姪か。アシュコートでは、息子が世話を掛けたようだな」

「ご存知でいらしたとは、身に余る光栄でございますわ」

「シャイナ嬢は海外育ちだけど、意外にも、ここテンプルトン出身なんだよね」

「叔父と叔母に招かれて参りましたの。こちらの約束事など、まだ覚束ないところがございまして。ダレット家の皆様がたにおかれましては、ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします」

シャイナは雅やかそのものの微笑みを浮かべ、会場の一角を独占している若者たちの一団を見やり、ソツの無いお世辞を述べた。

「レナード様のご自慢の妹様は、今夜のお相手も素晴らしくていらっしゃいますね」

アラシアは、赤毛の優男・ライナスのエスコートを受けながらも、その輝くばかりの華麗な美貌で、会場の若い紳士たちの注目を一身に集めている。

レオポルドは素早くキアランを窺った。

キアランはルシールをエスコート中だ。オーナー協会の面々と共に、主だった名士たちの間を挨拶回りしていて、アラシアの方を、まったく注目していない。

レオポルドの目尻が、忌々し気にピクピク震え始めた。

「む。エッヘン!」

*****

会場の一角。

カーティス夫人は、ようやく陽気なお喋りを止め、今夜のダンスの順番について説明を始めた。

「オーナー協会の親交のために、最初は代表とペアを組み……、あッ、今夜はリドゲート卿がいらしたんだわ」

脇に立つカーティス氏も、ウッカリしたと言う様子で、会場を見回しながら口を挟んだ。

「シャイナは何処だい? 一緒に来た筈だが……」

「困ったわねえ、あの子ったら……リドゲート卿のお相手を務める筈だったのに。あら、グリーヴ夫人。シャイナを見かけなかったかしら?」

通りかかった所を呼び止められて、グリーヴ夫人は首を傾げながら歩み寄って来た。

「姪御さんなら、ダレット一家が先程いらしたから、接待に出て行った筈ですよ。毎度ながら贅沢な装いの御一家……いえ、今回はストリート・ショッピングとかで、この辺りに外泊のお話もあるみたい」

「まあ! まあ! そうだったわッ、レナード様に気に入られて」

カーティス夫人は頬に手を当てて、キョロキョロし始めた。

次の瞬間、ぱあぁッと閃いたような顔つきになる。カーティス夫人は、いきなりルシールの肩に、ポンと手を置いた。

「ちょうどぴったり! 正式なオーナーじゃ無いけど新人だし、あなたも一曲目の程度なら、お茶の子さいさいでしょ!」

ルシールはポカンとした。

(私が、リドゲート卿のペアを務めるの!? よりにもよって、先発の一曲目で!?)

■ローズ・パーク邸…ファイト円舞曲(前)■

庭園担当のウォード夫妻が、苦笑いを含んだ訳知り顔で、コソコソと呟きを交わしている。

「そういえば、デイジー。カーティス夫妻の姪御さんの他には、適当な娘さんが居なかったんだよなあ」

「そうなのよね。条件その一、オーナー協会員に含まれる。その二、手が空いてる。ウチのソフィア、さっき、三人のギャングが招待客のふりして紛れ込んでいたのを見付けて、全員、投げ飛ばしたのよ。残党も見つけなくちゃいけなくて、そっちで忙しいから……」

物騒な呟きにケンプ氏が反応している。

「ギャングですと? ウォード夫人」

「西の脇入り口の方だったわ」

「こりゃいかん」

「大丈夫よ。捕り物は、プライス判事の部下……コナーさんに引き渡し済みだから」

一方、カーティス夫人は、カーティス氏とグリーヴ夫人を急かしている。

「ちょっと悪いけど、シャイナを探して。あの子を何処で見かけたのか教えて、グリーヴ夫人!」

カーティス夫妻とグリーヴ夫人の三人は、あっという間に去って行ってしまった。

取り残された、キアランとルシール。ウォード夫妻とケンプ氏。

ルシールは、途方に暮れて固まるばかりだ。

キアランはルシールをジッと見た後、その手を取った。

「先日の打ち身が響かないように、やってみましょう」

「大丈夫じゃ無いです! あの……実は私は、アンジェラよりダンスが下手なんです!」

ルシールは困惑の余り、真っ赤になっていた。これでも、ルシールにとっては、恥を忍んでの一大告白だ。

だが、その場に残ってそれを小耳に挟んでいたケンプ氏やウォード夫妻は、めいめい疑問符を頭の上に浮かべて、キョトンとしていたのだった。

*****

会場支配人として楽団の近くに居たグリーヴ氏が、会場のタイミングを読んで指示を下す。

ダンス音楽が流れ始めた。

誘いかけるようなテンポのイントロが、一曲目のダンスのスタートを知らせている。ダンス会場となっている大広間の中央部には、地元の各区を代表して親交を深めるための、先発を務めるペアが並び始めていた。

「もう遅いですよ、一曲目が始まる」

キアランはルシールの手を離さず、そのままダンスの輪の中に入って行ったのだった。

(こうなっては、なるようになれ、だわ!)

ルシールは緊張感いっぱいの生真面目な顔つきで、しかし最初の一礼だけは正統派の貴婦人そのものの優雅な所作でこなした。見物人の誰かが、ほう、と感心したような呟きをしている。

ダンスの最初のステップが始まり、ルシールの心臓が早鐘を打ち出した。

背丈のあるキアランに丁重に手を取られ、ルシールはいきなり、自分が本物の貴族の令嬢になったかのような錯覚を感じた。

キアランのリードは巧みで、『どっちの足が先だっけ』と言うような迷いは意外に感じない。華やかな音楽に乗って、ルシールの薄紫色のショールが花びらのようにひるがえった。

(さすが貴族、なのかしら。リドゲート卿って、エドワード卿と同じくらいダンスが上手……)

一曲目のダンスを務める先発のペアの中では、ひときわ目立っているようだ。同じくらい目立っているのは、やはり美貌やダンスの技巧という意味では、アラシア&ライナスのペアや、レナード&シャイナのペアだ。

(とにかく、あがり過ぎて、失敗だけはしないようにしないと)

ルシールは緊張で頬を薄紅に染めながらも、キアランのリードに素直に応えて行く。

「可愛いですね」

――はい!?

ルシールは思わず目をパチクリさせ、声の主と思しき人物を見上げた。

しかし、キアランは進行方向に注意を向けており、相変わらずのムッツリとした無表情だ。とても、そんな『妙なセリフ』を喋ったとは思えない。それに、状況的に有り得ない。

(……空耳だったのかしら?)

会場となっている大広間には、奇妙な事に段差があった。会場を半分に分割するかのように、相当の段差が設けられている。ダンスの輪は、そこで段差の上のグループと段差の下のグループに分かれていた。

「途中、段差があるから気を付けて下さい」

キアランにハッキリと注意を促され、ルシールは、垂れ幕の間にいきなり現れた段差を、疑問と共に眺めた。昨日の訪問の時は、段差に接近する機会は無かったので、こういう物だとは思わなかった。

三つの段を持つ階段になっているが、段数に対して幅が狭く落差が大きい。段差の縁ごとに舞台装飾のような華やかな彫刻が施されている。頑張って足を大きく動かせば移動は可能という感じだが、実用的では無く、実際に階段として使われる事を目的にした設備では無いと推測できる。

「ひとつの会場に、何故、段差が?」

「昔の習慣で、上流階級とそれ以外とを段差で分けていたそうです。今はダンスの際のスリル成分として、世間の評判に寄与しているようです」

キアランはルシールを巧みにリードしつつ、解説を加えた。

どうやら、かつてローズ・パークの地主であったと言う『前の子爵』は、貴族的な趣味だったと言うだけで無く、身分差にもうるさい人物であったようだ。

「成る程……、噂には聞いていたけれど……」

妙に納得するルシールである。ルシールは段差に熱心に注目する余り、後ろから接近する別のペアに気付かなかった。

急接近してきた男女ペアは、赤毛の優男ライナスと、金髪の美少女アラシア・ダレット嬢だ。

アラシアは不自然なまでの勢いをつけた変則ターンを披露した。

――ドシンッ!

背後から急に衝突され、足がもつれる。

目の前に段差が迫って来た。

キアランは既に、アラシアの不穏な動きに気付いていた。慌てもせず、器用にルシールの腰に手を回す。

ルシールは思わず息を呑む。

宙に浮いたルシールの体重を易々と支えて来るのは、男性ならではの力強い腕だ。

偶然のように衝突して来たアラシアは、そ知らぬふりだ。ライナスと共に技巧溢れる華麗なターンを披露しながら、素早く離れて行く。

キアランは目を白黒しているルシールを抱えながら、反対方向へと、アドリブのターンを踏んでいった。

事情を知らないギャラリーたちが微笑まし気に眺め、陽気に感想を言い交す。

「あら、意外に良い雰囲気ねぇ」

「息は合ってるみたいね」

横目で、その様子を食い入るように睨みつけていたアラシアは、苛立ちをさらにヒートアップさせていた。淑女らしからぬ舌打ちが漏れる。

「頭から無様に落ちて、顔面ペシャンコになれば良かったのに」

ライナスは恐怖の面持ちで絶句するのみだった。

*****

お互いに充分に距離を取ったところで――

「大丈夫ですか?」

「はあ……」

キアランが問い掛けて来たが、ルシールはギクシャクとしたまま、顔を上げられなかった。

段差に向かって転倒しかけた時は、確かにギョッとした。背中の冷や汗は、まだ引いていない。だが、理由は分からないが、キアランのフォローが入っている今の状況の方が、遥かに気持ちが落ち着かない。

ルシールは、だんだん涙目になっていった。

(今、自分は絶対、変な顔してる。ステップだって、間違ってる自信ある!)

*****

傍目から見れば、キアラン&ルシールのペアは息の合ったターンを披露しつつ、スムーズに体勢を取り直し、意外に良い雰囲気でダンスをしているという状況だ。

ダレット夫妻は、ダンスの輪を取り巻く華やかな列柱と垂れ幕の陰から、キアラン&ルシールのペアを、憎々しげに睨み付けていた。口々に、尽きせぬ悪口雑言を繰り出している。このダレット夫妻、他人の悪口となると妙に気が合うのだった。

「キアランは何を呆けているんだ……ライナス見逃しとは、鈍いヤツだ! あんな下賤な女に見とれているとは、良識を疑うわッ!」

「ダンスも絶望的に下手な女! 場末の何処かで踏み潰されても当然なのよね!」

それは単なる悪口雑言の延長だった。

しかし、悪意を込めて注目していると、別の意味で細かな部分に気付くものだ。レオポルドは知らず知らずのうちに、正鵠を射たコメントを口に出していたのだった。

*****

先発グループによる一曲目のダンスが、区切りを迎えた。

キアランはルシールの手を取ったままだ。ルシールの困惑が深まる。

(このままだと、次の曲も続けて踊る事になるのでは?)

会場の別の位置では、洗練された一礼を交わすレナード&シャイナのペアに、カーティス夫妻が声を掛けていた。カーティス夫妻はレナードに失礼を詫びながら、シャイナを連れ出す。

そしてカーティス夫妻は、早速、キアランの傍にシャイナを連れて来たのだった。カーティス夫妻は、にこやかな様子でキアランに一礼し、意気揚々と自慢の姪を紹介し始める。

「先程は大変、失礼いたしまして、リドゲート卿! こちらが、私どもの姪のシャイナですの」

「シャイナは海外育ちなのですが、出身はテンプルトンで。よろしくお見知りおきのほど」

シャイナ嬢はあでやかな笑みを浮かべて一礼した。輝かんばかりの金髪碧眼の美女。薄いクリーム系のドレスも相まって、天使のように見える。

キアランの手がゆるんだ。

――急に、訳の分からない敗北感が押し寄せて来る。

ルシールは一礼し、涙目を押し隠しつつ、そそくさとダンスの輪を離れて行った。ダンスでの度重なる失敗が堪えられず――そして他の、もっと良く分からない理由で――身を取り繕う余裕すら無い。

跳ね狂い回った心臓は、なかなか落ち着いてくれない。背後から衝突して来たペアに気付かず、よりによってキアランに対して赤面モノの失敗をやらかしてしまい、居たたまれない気分だ。

素早く端に引っ込み、大柄なケンプ氏の後ろに隠れた形になって、ルシールは、やっとホッと息をつく。

そっと、心当たりの方を窺うと。

満面の笑みを浮かべたカーティス夫妻の立ち合いのもと、キアランとシャイナは、定型の社交辞令を交わしていた。完璧な所作で一礼した後、二曲目のダンスのためのペアを組み始めている。

ケンプ氏が、会場の中央に位置を取り始めたキアラン&シャイナのペアを、感心したように眺めた。

「カーティス夫妻の自慢の姪御さんだ……ダンスが非常に上手な淑女ですよ」

「とりあえず良かったです、私はダンスが下手なので……」

そんなところへ、不意に、見知らぬ声が降って来た。

「あらまあ、でも先刻のダンスは素敵だったわよ」

神経質になっていたルシールは、思わずビクッとして振り返る。

赤紫色のドレスを可愛らしく着こなした、大柄な令嬢が微笑んでいた。気遣いが感じられるあたたかな笑みだ。

「あ、……あの……?」

「うふ。私、ソフィア・ウォードと申しますの」

「ウォード嬢……と言う事は……」

ルシールは目をパチクリさせた。

ソフィア嬢は、ウォード夫人と同じ綺麗な鳶色の目をしている。その笑みが、茶目っ気のあるものに変わった。

「ローズ・パークの庭園オーナー、ウォード夫妻の長女です。ライト嬢のこと、両親から聞いて、楽しみにしてましたの。偶然ながら同い年、同じ独身だとか。もしかしたら同じ六月生まれかしら? 是非、仲良くしてくださいませね」

ソフィアはユーモアを込めたウインクをした。絶世の美女と言う訳では無いが、ふわりと微笑むと花が咲いたようで、実に可愛らしい。

ルシールはホッとして笑みを返した。

「こちらこそ。偶然ながら私も六月生まれです。あの、ルシールで構いません」

「まぁ、なんてステキな偶然! 私の方も、ソフィアで構いませんわ」

ケンプ氏が頭をかきながら振り返って来る。

「何で、私を差し置いて、女性同士で素早く打ち解け合えるんですかね」

「あら、ケンプ氏。百合という事もありましてよ?」

「……え!?」

急に真顔になったソフィアである。ケンプ氏は急に慌て出した。

(――これは、もしかして)

ルシールの中で、ピンと来る物があった。

「ケンプ氏は、ソフィア嬢をダンスにお誘いにならないと、いけませんわ。的中率満点の、話題の占い記事によれば、この後とんでもない騒動が降りかかる事に……」

「うーむ。それは大変だ。では、ソフィア」

「ファイトですわね」

ソフィアはニッコリ微笑んで、ケンプ氏の手を取った。ルシールに手を振って、ダンスの輪に参加する二人である。

入れ替わりに、喜色満面のカーティス夫妻が、ルシールの傍までやって来た。

■ローズ・パーク邸…ファイト円舞曲(中)■

二曲目のダンスが始まった。

会場に並んだ次発のペア群の中で一番目を引くのは、レナードが退いた今では、キアラン&シャイナのペアだ。

ひときわ大柄な体格で目立っているケンプ氏&ソフィアのペアを除けば、その次に目立つのが、アラシア&ライナスのペアである。

カーティス夫人は上機嫌な様子で、胸の前で手を組み合わせている。

「オーナー代表としての面目が施せて、ホント、ホッとしたわ!」

「そうだね、お前。ライト嬢も、一曲目、お疲れ様。お蔭で助かったよ」

「い、いえ……お目汚しで無ければ幸いです」

ルシールは礼儀正しい笑みで取り繕った。

――ヒリヒリとするような、敵意の視線を感じないわけではない。

アラシアが、時折ルシールの方に目をやり、殊更に蔑むようなニヤニヤ笑いを浮かべている。

……妙なところでニブイのか、カーティス氏はアラシアの視線に気づかない様子で、早速、オーナー仲間・ケンプ氏のペアに注目し始めた。

「おッ、ケンプ氏とソフィア嬢だね。張り合い半分っていうビミョウな二人なんだが、今夜は良い雰囲気だね」

「婚約していないのが不思議なくらいだと思うんですけど」

「あらあら、まあまあ、アシュコート社交界は隠れた縁組の名所って聞くくらいだし、そこから来たライト嬢の目なら、確実かしら!?」

――ケンプ氏とソフィアは、とても良い雰囲気だ。今年の内にも、結婚前提の関係になるだろう。

ルシールは、そっとキアランの姿を探した。すぐに見つかった。

キアラン&シャイナのダンスは、会場の注目の的だった。カーティス夫妻の姪シャイナに目をやった大広間の招待客の全員が、感嘆の溜息をついている。

アラシアも、先程までのルシールに対する軽蔑の笑いを引っ込め、大人しく沈黙している。

シャイナは最高に洗練された金髪碧眼の美女であり、そのあでやかな美しさは、幾ら褒めても褒めたりない。ダンスの腕前もハイレベルだ。ルシールは、ただ感嘆するのみだ。

「シャイナさん、綺麗ですね」

自慢の姪の美しさを褒められたカーティス夫人は、大喜びでお礼を言いながら陽気に笑っている。

「まあ、ありがとう! あの美貌で、まだ独身だから、さすがに私も心配なのよ……オホホッ。もしかして、もしかしたら、リドゲート卿に見初められるって事も……ああ、ドキドキしちゃうわ」

「昨夜のカニング氏の舞踏会での話、聞いたばかりだろ、お前。リドゲート卿は、ゆくゆくは、ダレット嬢と婚約するとか。実際、リドゲート卿は飛び入りで参加されて、しかもダレット嬢をエスコートしておられたとか」

「確定した話じゃ無いでしょ。クロフォード伯爵が、まだ何も言っておられないし。夢は見ても良いじゃないの」

ルシールは、見事なステップを踏んで行くキアラン&シャイナのペアを暫し眺めた後、そっと目をそらした。この後、キアランは婚約者たるアラシアの手を丁重に取り、ペアを組む筈だ。

チクチクする物を感じる。

ルシールは困惑のままに……押し寄せて来る困惑から身を守るようにショールを巻き寄せ、溜息をついた。

輝くようなペアから、そっと目をそらし……夜闇に沈む窓をボンヤリと眺める。

窓ガラスから見つめ返して来るのは、地味な茶髪茶眼、黒ドレス姿をした、行き遅れの年齢に差し掛かっている二十代半ばの女性だ。心が沈んでいるせいか、薄紫色のショールが、幽霊か何かのように浮いているような気がする。

(私も、金髪だったら……? そして、父親不明の問題も、キチンと解決できていたら……)

*****

あれは、いつの頃だったか。

――昼下がりのゴールドベリ邸。立派な木々が並ぶ庭園。幼い頃のルシールは、庭園作業をする母の後を、いつも付いて行ったものだ。

『あのね、ママ、何でルシールだけ金髪じゃ無いの? アンジェラは金髪で、ママも金髪で、レディ・オリーヴも金髪なのに』

母親は、困ったというような顔になった。紫色の目には、寂しさとも悲しさともつかぬ色が、浮かんでいたのだった。

*****

……ルシールは、窓ガラスの中の地味な姿に向かって、溜息混ざりの苦笑を洩らした。

(コンプレックスは、もう卒業したと思っていたんだけど)

リドゲート卿とペアを組んで、舞い上がってしまったせいだ。

ルシールは改めてキッと顔を引き締め、ショールの端を握り締めた。

父親なんて今まで不要だったし、これからも不要だ。

(あのタイター氏をキッチリ粉みじんにして、アントン氏……いえ、祖父と母の思いを引き継いで……ローズ・パークの庭園オーナー権を相続するのよ!)

ほどなくして、カーティス夫妻が別の話題を振って来たので、ルシールは気を取り直し、談笑を続けたのだった。

「あらあら、ライト嬢、あちらをご覧になって。南三番のペアの方々、テンプルトンの実業家で……」

「失礼しました、ボンヤリしていて。南三番の方、ですよね」

「そうそう……」

*****

二曲目のダンスは続き、キアランとシャイナは洗練されたステップで会場を回って行った。

シャイナは洗練されつくした仕草で、背の高い黒髪の紳士を見上げた。

「ダンスがお上手ですわ、リドゲート卿……先程のステップは、ペアに合わせての物でしたのね?」

勿論、ルシールのダンスはお世辞にも上手い代物では無く、初歩的なステップになっていたのである。しかし、ルシールの元々の運動神経は良い方だから、練習次第では、改善の余地はある。キアランは、シャイナの称賛を礼儀正しく無視した。

「……失礼。余り良く聞いていなかったので」

「ひどい方ですわね!」

天使の如き苦笑を浮かべ、優雅に不満を言って見せるシャイナである。周囲の男性たちが見とれ、ステップを崩したのはオマケの結果だ。

キアランは、ふと思い当たる方向を見やり、段差に注意しているうちにシャイナにリードを取られ、ルシールが居た場所からかなり引き離されていた事に気付いた。

――この令嬢、それと悟らせず、リードを取った――

キアランは無表情のまま、シャイナを観察した。

確かに絶世の美女と言って良い、最高ランクの令嬢だ。妖艶さと清楚さを同時に併せ持つ美女は、滅多に居ない。『あでやかな美しさ』とはまさにこの事と言うべきか、大輪のユリを持つ天使が降り立ったかのような雰囲気がある。

ふとした拍子に仄見えるシャイナの百戦錬磨ぶりは、かえってキアランを警戒させる要素になっていた。

同じような、やたらと頭の良い絶世の美女――と言えば、アンジェラが思い浮かぶ。

だが、あのエドワードを強烈に魅了した、アンジェラの爽快なまでの気持ちの良さというか、気風の良さのような物は、雅やかな韜晦の笑みを浮かべ続けているシャイナからは、余り感じられない。

――ルシールは小柄だから、すぐに姿が見えなくなってしまう。

警戒すべきダレット一家が会場に来ているのだ。会場を仕切る垂れ幕の陰に、レナードの姿が見えた。ルシールがどんな状況なのかと気になって来る。

ダンス曲が一区切り付くと、キアランはシャイナに丁重に一礼した。

「二回目を申し込んで下さいませんの?」

「ええ、申し訳ありませんが、失礼します」

キアランは意味ありげに垂れ幕の方を見やった。キアランに合わせて垂れ幕の方を見やったシャイナを残し、キアランは、その場を速やかに立ち去って行った。

キアランが立ち去るが早いか、シャイナの傍にレナードが現れた。

「美も分からぬ野暮な男……先刻、忠告したとおりでしょう。実に失礼なヤツですね」

レナードは、その完璧な美貌に苦笑を浮かべ、シャイナの手を優しく取った。そして、シャイナにチラチラと色っぽい流し目をくれながら、白い手袋に包まれたシャイナの手の甲に何回もキスし、愛でた――まるで、いにしえの騎士が膝をついて、貴婦人の愛を乞うかのように。

シャイナは頬を染めて慎ましく身をよじり、長い睫毛に縁取られた美しい青い目を、何度もパチパチさせた。清らかで楚々とした風情だ。

シャイナは青い目をうるませ、きらめかせながらも、恥じらいを込めて紅潮した頬に手をやり、淑やかにうつむいた。

「お、お化粧を直して参りますので……」

「楽しみにしてるよ、シャイナ」

このようにして、何やら恋愛へと発展しそうな雰囲気を漂わせつつ、レナードとシャイナの二人は一旦、別々になったのだった。

*****

大広間を出ると、灯りを絞られた回廊が続く。

シャイナの後を付いて来る人影があった。

人気の無い回廊の一角に入り、背の高いどっしりとした衝立の前で立ち止まる。すると、シャイナの後から、伊達な風貌の紳士が現れた。レナードのような豪奢なまでの華やかさは無いが、平均以上に整っている顔立ちの男だ。

「シャイナ! 君はこの私の妻の筈だぞ! 何であの、チャラチャラ男、レナードと!」

美しいウェーブを持つ黒っぽい髪の伊達紳士は、穏やかならぬ嫉妬心を見せて、コブシを振り回し始めた。シャイナは困ったように紅潮した頬に手を当てながら、おずおずと説明を始めた。

「此処クロフォード伯爵領の社交界での、ダレット一家の地位と特権の大きさ、ランドール様もご存知でしょう? ダレット一家は高貴なる王族親戚の方々で、王族親戚からのバックアップも受けていらっしゃるし。社交界には色々あるのよ、私にはどうしようも無いの……次は、連続でレナード様のお相手をする約束だから」

伊達紳士ランドール氏は無言ながらも、まだ納得していない様子で渋面を保っていた。『女たらし』とも評価されるレナードの色男ぶりは、警戒するのに充分な要素が、タップリとある。

シャイナは、天使の如き清楚かつ可憐な憂い顔を浮かべ、白鳥のように細く優雅な首を傾けた。そして、しどけない様子で、伊達紳士にシッカリと抱き付いた。

陶磁器のように滑らかで清らかな白い肌から、慎ましいドレスのラインに微かに見える麗しい胸の谷間から、媚薬にも似た、妖しくもなまめかしい香りが立つ。

「信じて……私にはあなただけなの、秘密の旦那様……ラストダンスの時が証拠だから」

絶世の美女に、こうも情感タップリに抱き付かれては、さすがに伊達紳士も嫉妬を収めざるを得ない。ランドール氏は陶然とした顔で、絶世の美女を抱きしめた。

「おお、シャイナ。密会は危険だと分かっているが、禁じられた恋ほど燃えるものだ……」

……実は、シャイナと伊達紳士の密会は、スリリングかつロマンチックな密会のようで、密会では無かった。本当に偶然なのだが、この衝立を挟んで、先客が居たのである。

衝立の裏側に隠れていたウォード夫妻は、秘密の夫婦の様子を、ハラハラしながら窺っていた。

――カーティス夫妻に協力してシャイナを探していたのだが、まさかこんな場に遭遇するとは。

秘密の夫婦は、衝立の前で情感タップリに抱き合い、大人の男女ならではの『きわどい戯れ』の真っ最中だ。色っぽい喘ぎ声が聞こえて来る。

「カーティス夫妻の姪御さんって……」

「えらい場に居合わせてしまったもんだ」

「シャイナさんは最近、大富豪ランドール氏と秘密結婚してたのね。カーティス夫人は、あれで結構、リドゲート卿とシャイナさんの縁組を本気で考えてるところあったから……駆け落ちよね」

「最近の若い者は、つくづく大胆だ」

ウォード氏は困惑しきっていた。ウォード夫人も呆れたと言った様子で、慎ましく染まった頬に、手を当てている。

やがて、人目を忍ぶ密会の時間が終わったのか、手に手を取って回廊を去って行く秘密の夫婦である。『きわどい戯れ』の余韻がまだ残っているらしく、二人は慎ましくお互いの身体を離しながらも、色っぽく熱い眼差しを交わしていた。

ウォード夫妻は、背の高い衝立の陰に隠れながらその様子を眺めつつ、どうしたものかと思いあぐねていた。

あれで、なかなか人の好いカーティス夫妻は、シャイナを独身だと信じているのだ。今まさに目と耳にした事実をカーティス夫妻に告げるのはさすがに気が引けたし、いずれシャイナが、身辺状態が落ち着いた時に明かす筈だ。

それに、明らかにシャイナをランドール氏とレナードが競い合っている状態で、ひそやかながら、三角関係に発展しているのは確実なのだ。

「こりゃまた痴話喧嘩になるから、黙っとこう」

「復活祭の頃にも、確かレナード様は、痴話喧嘩に借金にスキャンダルとか」

「シャイナさんは頭が切れるから、一大事には、多分、ならんと思うが」

ウォード夫妻は困惑しながらも、常識的な結論に落ち着いた。とりあえず当分は、沈黙を守るのだ。

■ローズ・パーク邸…ファイト円舞曲(後)■

ナイジェルが、会場の入口に現れた。

此処に来る前に何やら路上プロレスでもして来たのか、顔面の数か所に青あざがあったり、口元に切れた傷痕が見えたりするが、それ以外は至って元気そうである。

ナイジェルはキアランと同じ黒髪黒眼だが、似たような背丈でも、その大柄でガチムチとした体格は、どちらかと言うと闘牛を思わせる。牛のような大男だ。

のっそりとカーティス夫妻に近付き、大振りな所作で挨拶をしながらも、ルシールから視線を外さない。その鼻息が荒くなった。

「もしかして、彼女が問題の庭園オーナー権を相続すると言う……?」

「なんと、そうなのですわ!」

カーティス夫人が陽気に大きくうなづく。

ナイジェルはニイと口を吊り上げ、実にたくさんの歯をゾロリと見せた。

ルシールは困惑しきりだ。少しずつ、じりじりと退く。

ナイジェルは気取ってフサッと黒髪を揺らし、意外につぶらな黒い目をランランと輝かせながら、手を差し出した。その顔に浮かんでいるのは、まるで獲物を見つけて牙をむいたかのような、物騒なニヤニヤ笑いだ。

「ウッフフ……実に嬉しい対面です、実に悪くない。我々は不幸な争いを避けて、話し合う必要がありますな。良い機会です、是非是非、私とダンスをば」

言い終えるが早いか、ナイジェルはルシールの手首をガシッとつかみ、ズルズルと引きずり始める。

「ダンスが下手なので、失礼ながら……」

「さぁさぁ、パーッと踊りましょう!」

*****

三曲目のダンスも中盤だ。連続してダンスの輪に参加していたケンプ氏&ソフィアのペアが、不思議そうにキアランの方を振り向く。

「これは、リドゲート卿。どうかされましたか?」

キアランは驚きに固まったまま、ナイジェル&ルシールのペアを見守っていたのだ。

ナイジェルとルシールは、絶望的なまでにダンスが下手なペアだった。両者ともに、お世辞にも人並みとすら言えないステップやターンを披露している。一回やるたびに必ず隣のペアたちとぶつかり、ちょっとした騒動の中心となっていた。

……ナイジェルとルシールの傍迷惑なダンスは続く……

「どうですか、我々は実にお似合いのカップルでしょう! ウカウカしてると、我が叔父貴タイターが次のオーナーになっちまうしね、今月末までに我々が結婚し、正々堂々のオーナーになるって事で! そうすりゃ、来月から始まる都の社交シーズンでも、夫婦でパーッとお披露目できますしね!」

ナイジェルは自己陶酔しているのか、うっとりとした顔で、将来の計画をベラベラと喋り続けた。

「叔父貴がオーナーになったら、これはマズイでしょう、ええ。恥ずかしい事ですが叔父貴は金欠でしてね。ローズ・パークを手に入れ次第、高値で売るつもりに決まってんですよ!」

ナイジェルは、ボスである叔父が金欠なら、自分もまた金欠なのだと言う事実を、体よく無視しているか、忘れているに違いない。ナイジェルはルシールの首に腕を巻き付けると、路上プロレスさながらに小柄な身体をぶん回しつつ――ナイジェルにとっては、これがダンスのターンに相当するらしい――グルリと回ったのだった。

ルシールは、首に縄をかけられ、暴走馬――いや、この場合は暴走牛か――の後ろに繋がれて、荒野を引きずり回されているような気がした。

ルシールは確信していた。町角の新聞雑誌の占いコーナーの頁には、『今夜は絶体絶命』と書いてあったに違いない、という事を。

周囲のペアの脚とお尻を次々に蹴飛ばしながらも、得意満面のナイジェルは、ベラベラと喋り続けた。

「叔父貴は、あなたの母親が好きだった分、可愛さ余って憎さ百倍と言うヤツでね、色々、暴言を吐いてるんですが! 私は、そんな無礼な事は無いですよ、ええ。こうして、仲良くダンスもしてますしね。ラストダンスの終わりには、我々の奇跡の婚約を記念して、熱烈なキス展開も、ウフフ!」

*****

会場の迷惑トラブルの一報を受けて、会場支配人を務めるグリーヴ夫妻が会場に入って来た。

「あれは、プロレスしてるんじゃ無いのか」

「大丈夫なの、あの二人!?」

グリーヴ夫人は、すぐに状況を理解しながらも、驚きに目を見張った。

ナイジェルが、自分の主張を言い聞かせるために脅迫をしているのか、プロレス技よろしくルシールの首に腕を巻き付けて、乱暴に振り回しているのだ。ある意味、ダンスをしていると言うよりも、プロレスをしていると言うべきである。それも、極めて不公平なプロレス試合だ。

「ナイジェル氏が、ごり押しを……」

「あぁ、どうしましょう」

カーティス夫妻も戸惑ったまま、『どうした物か』と手を出しかねている。

グリーヴ夫人は、ふわわんとした見かけによらず、有能な会場支配人であった。騒動の中心に接近しつつも、手早く指示を飛ばす。

「何か事故が起こる前に、ナイジェルを捕まえるのよ! 無駄にでかい人だし、男たち二人がかりで!」

その時、出遅れながらも会場に姿を見せたウォード夫妻が、的確な助言を加えた。

「ケンプのペアが接近中ですから、呼び止めて……」

現場の状況は急変した。

ケンプ氏&ソフィアのペアが段差の前でターンし、各々の大柄な身体を一斉にナイジェル&ルシールのペアに衝突させる。実際は、ナイジェルの方が不器用なターンで思いっ切りぶつかって来たのだが。

お互いに驚きの声を上げるペア。

ケンプ氏&ソフィアのペアは群を抜いて大柄な体格であり、ナイジェル程度の衝撃ではビクともしなかったが、足元が安定していなかったナイジェル&ルシールのペアは、ひとたまりも無かった。ぶつかった衝撃を、作用・反作用もろともに全部受け取りながら、見事に段差の下に向かって吹っ飛んで行く。

「段差が!」

目撃者の誰かが、息を呑んだ。

ナイジェルの手につかまれたまま引きずられたルシールが、宙を飛んで段差の下へと落ちて行った。

――瞬間、グイッと引かれるような動きが加わる。

ルシールの落下は空中で止まった。

呆然とするルシールの顔をのぞき込んで来たのは、キアランだ。ルシールの背中に、あの力強い腕が回っている。

「ぶお!」

ナイジェルの、潰れたような雄叫びが上がる。その片方の脚が嫌な音を立てて折れた。

ケンプ氏&ソフィアのペアに吹っ飛ばされた勢いのまま、ナイジェルは段差の下に、したたかに叩き付けられていたのだった。

「折れてる! 折れてる!」

パニックしまくるナイジェルの、哀れな悲鳴が響く。

慌てて駆け寄って来たオーナー協会の面々も、この有り様に呆然とするばかりだ。

骨折した脚の痛みで、うつぶせに倒れ伏したまま起き上がれないナイジェル。

その大柄な体格の強みで、ヒーローよろしく一気に段差を飛び降りて来ていたケンプ氏も、口をポカンと開けてナイジェルを見下ろすのみ。

「前方不注意……」

「どころか、全方位不注意よ!」

図ってかどうかは不明だが、オーナー協会の面々と共に段差を迂回して駆け寄って来ていたグリーヴ夫人は、ケンプ氏のボケに、会心のツッコミをする形になっていた。

「ケンプさんッ! とりあえず、控え室に運んで!」

「ハイッ」

ケンプ氏はグリーヴ夫人の指示を了解し、一気にナイジェルを抱え上げた。ナイジェルも相当に大柄な体格であるのだが、ケンプ氏の巨体にとっては、さほど負担では無い様子だ。

いきなり男に抱えられる形になったナイジェルは、これでも男ならではの羞恥心はあるのか、赤面してジタバタし始めた。しかし、すぐに骨折の激痛に負け、いたいけな乙女よろしく、ケンプ氏の逞しい腕の中でグッタリとなってしまったのであった。

キアランは、その様子に暫く感心した後、ルシールをそっと床に降ろした。

「立てますか、ルシール?」

「何か、腰をねじったみたいで……」

ルシールはガクガクと震えながら、手近な柱につかまる。

キアランは目を見張り、ドクター・ワイルドが注意していた場所を触った。

「この辺り?」

果たして大当たりだ!

ルシールは激痛に飛び上がると、そのまま柱の下にズルズルと崩れた。キアランはギョッとしつつも、ルシールを抱き起こす。

*****

遠巻きにして見守っている人々の間に、レナード&シャイナのペアが居た。レナードはキアランの方を振り返りながら嘲笑している。

「何やら、不手際やらかしているようですねえ……私なら、あんなヘマはしない……」

事情を知らないレナードの目には、キアランが不躾にルシールを突き崩したように見えたのだった。

*****

キアランは素早くルシールを抱き上げると、オーナー協会の面々を振り返って声を掛けた。

「グリーヴ夫妻! ライト嬢も腰を故障したようです。ひとまず館に連れて帰ります」

「当方の不注意で大変申し訳ありません、リドゲート卿……ウォードさん! 馬車を呼んで!」

「どうぞ、控えの方に」

ウォード氏は、キアランとルシールを、控え室側の出口へと案内した。

その後、クロフォードの馬車を、正面玄関の前の立派なロータリーでは無く、控え室の出口と直結する脇の小道に誘導する。

ルシールは、いきなりキアランに抱きかかえられて、何が何やらだ。

「私、歩けますわ、リドゲート卿」

「立てないのに歩けるとは、筋が通りませんね」

これもまた、ある意味、会心のボケとツッコミだ。

キアランに真顔で切り返され、ルシールは顔を赤らめて口ごもるばかりだった。

*****

クロフォードの馬車の若い御者は事態を見て取り、訳知り顔で目をキラキラさせていた。

キアランとルシールが馬車内に落ち着いた瞬間、馬車を急発進させる。まさに急行馬車さながらのスピードで、ローズ・パーク邸の正門を飛び出して行ったのだった。

*****

じりじりしながら、ずっとキアランを見張っていたレオポルドは、今や怒髪天だ。

キアランが、あの下級貴族ですらない下賤な商売女を連れて――しかも、信じがたい事に、大事そうに抱きかかえて――あっと言う間に会場を退出したのだ!

「キアランのヤツ、遂に狂ったな! 此処でガツンと、ぶちかましておかねば!」

レオポルドは駆け出した。つられてダレット夫人も駆け出す。

ダレット夫人はレオポルドの後を付いて行きながらも、女性ならではの不満をぶちまけた。これでもかとばかりに贅沢な宝飾細工を施したアクセサリーが、豪奢なレースとフリルをふんだんに使ったドレスが、今は重くて動きづらい荷物と化していた。

「アラシアを放っとくの? テンプルトン中央の高級ショッピングとか、社交サロンとか……私だって忙しいのに、どうするってのよッ!」

「口座の引き出し限度額の問題もあるだろうが! すぐに馬車で捕まえて、ヤツを引きずり下ろす!」

レオポルドもまた、ジャラジャラとした宝石の音の鳴りやまない重い衣装を、苛立たし気に引きずるのみだ。ダレット夫人に負けじと叫び返しながらも、ローズ・パーク邸の前庭ロータリーに飛び出す。

「すぐに馬車を出せ、すぐに! キアランを捕まえて一発ガツンとやる!」

ダレット一家の馬車を担当する御者と従者は、いきなりの事にアワアワと浮足立った。

「ええ? はあ?」

「早くやれ!」

「扉をちゃんと閉めてからで無いと」

ドタドタと馬車に飛び乗ったため、ダレット夫人のドレスの端が、まだ扉から飛び出している状態だ。

「閉めなさい! このグズが!」

御者と従者とで、扉から垂れ下がっている数々の宝飾アクセサリーを馬車に押し込み始める。ダレット夫妻は何もせず、ぎゃあぎゃあと喚くばかりだ。

「急げ、コラ!」

「宝石に傷がつくじゃ無いの、アッ、ドレスがシワになったら、骨が折れるまでムチで叩いてやるからね、この役立たず!」

■クロフォード伯爵邸…舞踏会の後の馬車と口論■

スピードを上げた馬車の中は、かなり揺れている状態だ。

キアランはその揺れを意に介さない様子で、ルシールを座席に横たえ、外套を被せる。

「ドクター・ワイルドが急にねじるなと言った場所を、ねじっていますね。ナイジェル氏の体重が掛かったんですから、今は大事を取って横になって下さい」

起き上がろうとしてもキアランが止めるため、ルシールは、面目無い気持ちで横たわるばかりだ。

やがてキアランは、一層ムッツリとした顔になった。

「周りが見えないほど熱中して、ナイジェル氏と一体、何を話していたんです?」

「はあ……、実は、ナイジェル氏にプロポーズされました」

キアランは真剣な面持ちになり、ルシールの顔半分を隠していた前髪をめくった。

「承諾した?」

ルシールはキアランの鋭い眼差しに恐れを成し、口ごもる。

「その前に転倒してしまって……お返事も何も」

「実に驚きの展開ですね」

キアランは片手で面を覆い、フーッと溜息をつく。

暫しの間、沈黙が流れた。ルシールは生真面目に眉根を寄せ、思案し始める。

「この問題が長引いたら裁判になる……タイター氏の事を考えると、ナイジェル氏の話は、割と良案なのかも……」

「父親不明の問題ですか。確かに、裁判に持ち込まれると、不利に働く要素になりますね……ナイジェル氏の求婚を受けるのですか?」

「余りにも急な話なので……でも、少し考えてみようかと思って……」

「タイター問題と父親不明の問題を気にしないと言う求婚者が居るなら、その求婚は真剣に考えると言う訳ですね?」

「はあ……」

高速で走り続ける馬車が、再び、ガクンと揺れた。

ルシールは目を回し、手をアワアワと動かして、つかまる所を探す。キアランがすぐに手を差し出し、ルシールは、それにつかまったのだった。

キアランの身体能力は、やはり鍛え方が違う。揺れる馬車の中で、まったく動じていない。その手は驚くほど固く、がっしりとしていて、銃と剣を扱う事に長けた男性のものだと分かる。

――会場で先発のダンスを踊っていた時は、『失敗しないように』という思いでいっぱいで、気が回らなかったけど。

次第次第に、ルシールの内に、さざ波だつものがある。

ルシールの背中と膝裏には、キアランの腕に抱き上げられた時の感触が残っている。よく分からない感情と共に、袖口の縫製を眺め……腕の長さを眺め、肩幅の広さを辿る。

ハッと気付いた時には、至近距離で見つめ合っていた。キアランの黒い眼差しは不動の静穏さを湛えていて、ホッとするものを感じる。

ルシールは急に混乱し始めた。パッと顔を伏せてしまう。

……この怖そうな人に、ホッとするって、おかしいわ!

やがて、低い声が降って来る。

「……父親が誰なのか、知りたいと言う気持ちはありますか?」

「え、それは……何とも言えないです」

「強いて言えば知りたくはない、と?」

「いえ、知りたいとか、そういう事よりも……元々、余り話題にする事では無かったので。アンジェラのお父上が、その……問題あり過ぎるお方と言うのもあって……」

キアランは無言で眉根を寄せている。察しの良い人だ。

「母は父について、ものすごく秘密主義だったけれども……口が堅かっただけで、それは嘘つきとは性質が違うんです。私が20歳になったら、事情を話してくれる約束でした」

「五年前に死亡と言う事は……」

「あの時、私はまだ20歳の誕生日を迎えてもいなかったし。母があんなに急に状態悪化するとは、夢にも思わなくて……」

「それはお気の毒でした」

ルシールは、込み上げるものを押し隠すように目を伏せた。

――母が亡くなった、あの冬の夜の事は、よく覚えている。

ゴールドベリ邸の窓の外に見えたのは、降りしきる雪。

『あの人の目の色は、わだつみの青。あの日、夕暮れの緑の丘の上で……』

そこで、母は力尽きた。無念にも。

(命が尽きるその最期の日まで、愛した人を忘れられなかったのだ。お母様の人生は、それほどまでに尽くした愛は、いったい、何だったのだろう……)

ルシールは、にじみ出て来た涙を瞬きしてごまかしているうちに、かねてから心に引っ掛かっていた事を、不意に思い出した。

「そう言えば、祖父の事も何も知らないですわ。アントン氏は、どんな人だったんですか……?」

「彼は出不精で……テンプルトンやローズ・パークの社交界にも全く出ない人でした。年末年始の挨拶以外、会った事は無く……」

律儀に説明し始めたキアランは、そこで、不意に目をパチクリさせた。

「あ……いや、話した事は一応ある……」

キアランは、昔の記憶を思い出すままに、言葉にまとめていった。ルシールは目を見開き、熱心に耳を傾け始めた。

「寄宿学校に上がる前の夏の頃です。私は10歳だったかな……アントン氏は、その年の春に、館の庭師になっていた……」

*****

――それは、17年前の夏の、ある日の昼下がりの事だ。

まだ少年だった頃のキアランが、バラ園に近い場所にある草むらに足を踏み入れると、老人の怒鳴り声が、庭園の奥から響いて来た。

『花壇に入っちゃいかん!』

続いて、麦わら帽子を頭に乗せた老アントン氏が現れた。

キアランはビックリして振り返りながらも、アントン氏を睨む。

『柵が無いのに分かる訳が無い』

『うぐ……、バカモン! 柵はこれから作るところだ! 此処はバラ園になるんじゃ!』

ガミガミの偏屈ジジイと言う印象である。

アントン氏は一旦、茂みの中にガサガサと引っ込んだ。だが、すぐに茂みの中からガサガサと現れた。柵を作る道具を持ち出している。

『ホッ! ホッ!』

というのは、仮設の柵を打ち込んで固定する時の掛け声だ。

キアランは唖然としてアントン氏を眺めるばかりだった。

偏屈ジジイではあるが、何処かトボケたような、愛すべき箇所のある老庭師だ。キアランにとっては、ダレット夫妻よりは、ずっと好感の持てる大人。

スカスカの柵ながら一応の仕切りが出来、アントン氏は、やっとキアランを振り返り、ジロリと眺め回した。

『何処かで見たと思ったが、リドゲート様か……庭の端まで来て、訳の分からん事やっとるから……』

キアランは乗馬用の鞭を振るって、庭木をメッタ打ちしていたのだ。子供だったと言う事もあり、キアランはムシャクシャした気分を抑え切れなかったのである。キアランは、不意に恥ずかしさを感じて素早くそっぽを向き、口ごもった。

『母が病気で……』

『……母親? クロフォード伯爵夫人……?』

アントン氏は奇妙な眼差しでキアランを見つめた。そして次には、やはり奇妙な表情をしたまま、頭に被っていた麦わら帽子に手をやり、黙り込んでしまったのだった。

その年の夏、クロフォード伯爵夫人は重い病を患っていた。余命数ヶ月であろうと言う状態であった。

*****

じっと耳を傾けていたルシールは、目を見張ってキアランを見上げた。

「リドゲート卿のご母堂も、病死されていたのですか?」

「私が寄宿学校に行く直前の頃に亡くなりました。領内の各種混乱の対応で、色々と苦労したと言う事もあったと思います」

キアランは暫しの間、目を伏せていた。

「アントン氏はその後、古くて荒れていたバラ園の一角に私を連れて行き、小型ハサミを持たせて、めぼしいバラの花を集めさせました」

「……?」

「アントン氏は、小さなバスケットに、私が集めたバラの花を詰め込んでいきました。ブツブツと呟きながら……ほとんどは聞き取れませんでしたが、『フラワー・アレンジは娘の方が上手なんだが』と言うようなことを」

はたと気付き、息を呑むルシール。

「母の事……!?」

「彼女が実は生きていた事を考えると、実に意味深な言葉であった訳ですね」

キアランも、『我ながら抜かった』という様子で頭に手をやっていた。やがて、フーッと息をつく。

「……アントン氏は、『御曹司どのからって事で奥方様に持って行ってくれ』と言って、花を詰め込んだバスケットを渡して来ていました。『この辺はもう整地するんで、最後のバラの処理に困っていたからな』と付け加えて」

「……祖父がそんな事を……」

「その時、館の正面玄関に、あわただしく馬車が横付けされて騒がしくなり……ダレット夫人と、治安判事になったばかりのプライス氏が、いつもより大声で口論していたせいですね。プライス判事はダレット夫人を問答無用で退去させようとしていて、ダレット夫人がそれに抗議する形で……アントン氏は……」

キアランは、不意に沈黙に落ちた。

――アントン氏は、何があったか気付いたのだろうか?

浮上して来る、謎と疑惑……

*****

……当時、ダレット夫人はまだ30代前半と若く、金髪碧眼の絶世の美女というべき容姿を維持していた。

あからさまに――豊かな胸元や腰の形を強調する方向で――着飾っていた。

病床にあるクロフォード伯爵夫人を一顧だにせず、ダレット夫人は真っ直ぐに執務室に向かった。クロフォード伯爵の腕の中へ飛び込もうとしていた。蠱惑的な香水の匂いを振りまきながら……

『新しいクロフォード伯爵夫人が必要なのでしょう? わたくし以上の適任が居るかしら? 閣下が望むなら、わたくし、いつでもレオポルド殿と離婚してまいりましてよ……』

*****

……キアランは沈黙したままだ。

訳の分からないルシールは、そんなキアランを見つめるのみだ。

「リドゲート卿?」

「あ……いえ、何でもありません」

キアランはルシールから視線をそらし、思案顔で馬車窓の向こうを眺め始める。

「……その後は、アントン氏と直接に話す事は、もうほとんど無くなっていたと思います。その年の秋に寄宿学校に入学しましたし、地元に帰るのは学業の休暇の間だけでしたから。卒業した後も、父に従って都と地元とをシーズンごとに往復していて……アントン氏と顔を合わせるのは、さっきも言ったとおり、年末年始の挨拶の時くらいでした」

キアランは息をつき、ルシールの方に視線を戻して来た。

「多少なりとも、話せる内容があって良かった」

ルシールは目をパチクリさせて、キアランを見上げる。

横たわってランプの光を『あの角度』で受けているため、ルシールの目の色は、宝石のようなアメジスト色だ。

キアランは、ルシールの目の色を、ひたと見つめていた。

「私の事を余り怖がっていないらしいですし、その紫色の目をじっくりと鑑賞できましたから」

ルシールはドキリとして目を見張り、息を詰まらせた。

(最初の頃、自分が怖がっていた事は、しっかりバレていたんだわ!)

ルシールは居たたまれない気持ちでいっぱいだ。真っ赤になって外套の下に潜り込んでしまう。

何故なのかは自分でも分からないけれど、他にも何か、知らないうちにバレた事があるんじゃ無いか――別にヤマシイ事は無い筈なのだが――と思うと、オタオタしてしまうというか、落ち着かなくなる。

「私の目の色は、茶色ですが……」

再び、馬車が大きくガクンと揺れた。

ルシールは再び座席から落ちそうになって、アワアワする。そこへキアランの手が伸びて来て、ルシールを座席の上に安定させたのだった。

馬車の連絡窓を通して、若い御者の元気な声が入って来る。

「道路が荒れてます。少し揺れますんで、つかまっててくださーい」

外套の下に潜り込んでしまったルシールには、キアランが、その時どんな顔をしていたのかは、結局、分からないままだった。

*****

馬車がクロフォード伯爵邸の正面玄関の扉の前に到着した。

夜はとうに更けていたが、ローズ・パーク舞踏会からの帰還にしては、早すぎる時間だ。

慌しく帰って来た馬車に驚いて玄関に出て来た執事とベル夫人は、キアランがルシールを抱き上げたまま玄関に入って来たのを見て、『これは一体どうした事か』と、もう一回驚く羽目になったのであった。

それでも、有能極まりない執事とベル夫人は、キアランから短い説明を受けただけで、大体の事情を察したようである。

「湿布を用意いたしますので、食器室に」

早速ベル夫人は、玄関広間の隣の部屋――食器室へといざなったのだった。

食器室もまた、クロフォード伯爵邸の他の部屋と同じように、相当のスペースを誇っている。ルシールは感心してポカンとするのみだ。

ずらりと並んだ厳重な鍵付きの食器棚には、銀食器から陶磁器まで、様々な種類の食器が整理され収納されている。奥には、暖炉を改造したと思しき小型のキッチンがあり、ヤカンが幾つか鎮座していた。

ルシールは、キッチンの前にあるカウンターテーブルの椅子に座らされた。テーブルの上には、装飾の無い簡素なティーセットが並んでいる。スタッフたちは此処でお茶休憩をしているようだ。見ようによっては、カフェのカウンター席とも言えそうな構造と雰囲気を持っている。

やがて、ダレット夫妻を乗せた四頭立ての金縁の大型馬車が、重量感のある車輪音を轟かせながら、館の正面玄関の扉の前に荒々しく停車した。

「ダレット方の馬車が……!」

「予想通り」

前庭ロータリーに面した食器室の窓から外を窺い、執事は驚いていたが、ベル夫人は冷静にうなづいていた。

「予想通り?」

訳が分からないまま呆然としているルシールの目の前で、ベル夫人はキアランと執事を素早く玄関広間に出し、食器室のドアをサッと閉めた。文字通り、あっと言う間の早業だ。

次の瞬間、正面玄関の扉が、バターンと音を立てた。

食器室の中まで響いて来る大音響。ルシールは飛び上がった。

「キアラン君! 一体どういう事なんだね!」

「何の事です? レオポルド殿」

「ごまかすな! 娘アラシアに対して、よくも非道な仕打ちを!」

レオポルドの大声は、食器室のドアを通して、中に居るベル夫人とルシールの所へもガンガンと響いている。キアランの、良く通る声も同様だ。

ベル夫人は冷静に湿布を用意していたが、初めてこの事態に遭遇する羽目になったルシールは、レオポルドの凄まじい剣幕に、ただひたすら真っ青になるばかりだ。

レオポルドの怒鳴り声が続く。

「大体、貴様はなっとらん! 親族中の評判は地の底に落とす! 我々夫妻からは一つ残らず奪う! 何と言う面汚し! 貴様は所詮、法律上の嗣子に過ぎんのだぞ! ……この、成り上がり者めが!」

キアランの無言が続く。

「これ程に強欲、かつ、傲慢で冷酷な男が、爵位を継ぐとは……混乱は必至だ! 先日と来たら、レナードを脅迫したと言うでは無いか!」

不意にキアランの声が入った。

「正当に立ち退きを要請しただけです。レナードは、それ程の不始末をしたので」

「レナードに限って、不始末などある筈無いでしょう!」

「よくも、下賤の成り上がりのくせに、貴族の血筋のレナードを呼び捨てにしたな! あの馬鹿げた禁止事項など無意味だ!」

ダレット夫妻は聞く耳持たずで、ギャアギャア喚き始めた。言葉が重なって、何を言っているかも分からない状態だ。

「口を閉じたまえ、ダレット夫妻!」

キアランの声が鞭のようにしなった。次いで、水を打ったような静けさ。

「私の方からは、復活祭の時の決定を見直す可能性は、一片たりとも無い。ダレット家の財務状況も逐一監視していましたが、また借金が増えていますね。銀行口座の利用上限を再度引き下げるように通達を出しましたから、承知しておいて下さい」

「そんなバカな!」

「ふざけやがって! ふざけ……!」

ダレット夫妻は、怒りの余り物も言えない状態になっている。ピリピリとする静寂が続いた。

「……、チクショウ、確かめてやる! あの下賤な商売女を、何処に隠してるのかもな!」

二組の乱暴な足音が、ドタドタと玄関広間から離れて行った。

やがて、執事とキアランの足音と思しきものが、コツコツと続き、消える。

*****

一刻の後。

静かになった玄関広間で、隣り合う食器室のドアが、ゆっくりと開いた。

ベル夫人が、すっかり青ざめてしまったルシールを伴って出て来る。

「ドアが完全に閉じていなくて、不愉快な事をお聞かせしてしまいまして……いつもの事でございますが」

ベル夫人は冷静だ。すぐに、執事が音も立てずに滑らかにやって来た。

「ダレット夫妻のあら捜しが一段落しまして。今、安全に部屋に入れる状態ですから。鍵はロックしておいてください」

執事とベル夫人に促され、ルシールは、急ぎ足でルシールの部屋に向かった。

ルシールはベッドに横になった後も、疑問で一杯のまま、なかなか寝付かれなかった。

――先刻の口論は、一体どういう事なんだろう。

クロフォード伯爵宗家の堂々たる跡継ぎである筈のリドゲート卿が、『法律上の嗣子に過ぎない』と罵られたのもビックリだ。血統を除いては、評価できる部分が全く無いと言う意味なのだろうか?

そして、それ以上に、アラシア・ダレット嬢の婚約者、すなわち将来の義理の息子となるリドゲート卿に対しての、ダレット夫妻の余りにも強圧的な振る舞いが、どうにも納得が行かない――

■クロフォード伯爵邸…邂逅する謎(前)■

翌日、朝食が終わって、大広間でお茶の時間である。

「昨夜の舞踏会で、倒れたって!?」

お行儀悪くも、円卓の上に落ち着いたマティは、昨夜のルシールの転倒を聞いて驚愕しきりだ。

「それは大袈裟よ……腰ひねっただけだし」

お茶を一服し、のんびりと苦笑する。

ダレット夫妻がまだ大広間に登場しておらず、リラックスできる。

「今は何とも無いから……」

「ウォッホン!」

思わずギョッとして振り返るルシールとマティ。

ドクター・ワイルドが、いつの間にか大広間に登場していた。いつもの往診だ。ドクター・ワイルドは腰に手を当てて仁王立ちになり、ギョロ目を剥いて来たのだった。

「それは、ワシが診察してから決める事だよ。全く、どいつもこいつも素人診断しやがる」

ルシールはさすがに首をすくめる格好になった。マティもビックリしてポカンとしている。

同じく大広間の中ほどに居るキアランの方は、いつものようにムッツリとした様子だ。ライナスの傍らでお茶を一服していたが、ドクターに気付いて立ち上がり、軽く会釈をする。

ドクターもキアランに、いつものように会釈を返した。そして大広間の中ほどまで来ると、ドクターは、すこぶる具合の悪そうなライナスに気付いた。

ライナスは、出されたお茶に手を付けようともせず、顔色を悪くしたまま、ソファにグッタリと座り込んでいる。目は充血しており、目の下には色濃いクマが出来ていた。

「寝不足の兆候が全身に出ていますぞ、ライナス氏」

「ローズ・パークに置き去りにされたってんで、明け方の馬車で午前様。でも、アラシアは外泊してたから、慌て過ぎだねッ」

「ほうほう」

ドクター・ワイルドはひとしきり、訳知り顔で立派な白ヒゲを撫でた。衝立で仕切られた次の間を示し、ルシールを促す。

「着衣の裾を上げるから、隣の間で……」

マティも一緒に付いて行くのを見て、ライナスは何やらブツブツと呟き始めた。

「ガキの特権ってか……」

その時、執事が大広間の扉をノックして現れた。

「リドゲート卿。陳情の方がいらしております」

「あぁ、分かった」

*****

キアランの客人は、ダレット荘園の教区を担当する年配の牧師だった。

牧師は、キアランが応接室の椅子に落ち着くなり、涙目で訴え始めた。

「わたくし、ダレット荘園の地所で牧師をしておる者です。小作人を代表して陳情に参りました。ダレット荘園では、無茶な増税で小作人の脱走が増えていて……小作人を代表し、ダレット家の特権をクロフォード伯爵に没収いただきたいと訴えるものです」

キアランは差し出された書状を受け取り、無言で牧師に椅子を指し示した。年配の牧師は、やっと椅子にヨロヨロと落ち着く。

「訴状は受理しておきます。いずれ、抜本的対応を取りますので……」

「何とぞよろしくお願いいたします」

年配の牧師は、白髪頭を深々と下げた。

*****

大広間にて――

ドクター・ワイルドの診察が終了した。

「その辺を歩き回る程度なら、全く大丈夫だ。安静を強制したリドゲート卿に感謝するんだね。それにしても、何で、こう狙ったかのように、腰をねじる羽目になったのかね」

ルシールは顔を赤らめてうつむくばかりだ。

次いでドクターは、首を振り振り、カバンの中を整理し始めた。

「伯爵の方は骨折の直後、その足で愚かにも部屋を移動してくれたから、治りが遅れとる。男ゆえの自負も、時には問題だな」

ドクターの言葉に驚き、ルシールは目をパチクリさせた。今の今まで、クロフォード伯爵が骨折していたとは知らなかったのだ。

「伯爵様は何故、骨折を?」

傍に居たマティが早速、訳知り顔で口を出す。

「復活祭の直後、馬車事故でさ! 馬がいきなり暴走したとかで。同乗していたプライス判事は、数個の擦り剥きで済んだけど」

「暴走事故?」

「あの事故は絶対、闇の陰謀なんだ! 超・邪悪な宇宙人の一味が――」

「――その妄想の力を、もっと違う方向に振り向けたまえ」

マティは想像力があり過ぎる。ドクターは、ガックリしたように禿げ上がった頭に手を当てたのであった。

*****

やがて、ドクター・ワイルドは、伯爵とクレイグ牧師の往診に赴いた。ルシールとマティは正面階段を登って行くドクターを見送ると、お茶の続きをするため、大広間へと引き返し始めた。

その時、玄関広間に、いきなりダレット夫妻が現れた。

ギョッとして隅っこに引っ込むルシールとマティ。

ダレット夫妻が大声でスタッフたちを呼び集めたため、玄関広間は、にわかに騒然となっていた。

「お前たち、遅い! 何をグズグズしとるんだ、サッサと動かんか!」

「テンプルトンの集会に遅れたら大変なのよ、ムチ打ち百回は覚悟しなさい! 早く馬車を出して!」

「こら、執事よ! 急いで馬車を回したまえ!」

レオポルドは、少しでも自分が命令できる部分があれば、そこを見逃さず命令している。

ルシールはポカンとするのみだ。

「王様みたいね」

「王様気取りさ。伯父さんの目が届かないところでは、あんな感じだよ」

レオポルドは、隅っこでコソコソしていたルシールとマティに、目ざとく気付いた。こういう部分では、やたらと勘が良いらしい。レオポルドは足をバンバンと踏み鳴らす。

「こら! ガキも女も頭(ず)が高い! このライナスを見習うんだ!」

その隣では既にメイドや召使が整列している。赤毛の優男・ライナスも来ていて、いつの間に調子を立て直したのか、恭しくレオポルドに頭を下げていた。

「こと偉大なる貴族たる閣下が、貴き奥方様をお見送りになる……この場に同席いたす栄誉は、実に貴重と申し上げまする」

ライナスが口にした歯が浮くような社交辞令に、マティとルシールは唖然とするばかりだ。レオポルドの方は、称賛の言葉が続けば続く程、上機嫌な様子でふんぞり返っている。

ダレット夫人が乗り込んだ馬車を見送るため、お仕着せのスタッフたちが前庭で美しく整列している。マティとルシールは、その端に参列する形になった。

マティは、レオポルドの方からは見えにくい場所、すなわち背の高い大人たちの後ろに陣取りながらも、小バカにしたように鼻をかき始めた。

「元・貴族なのに、筋が通らねーよ」

「元・貴族って?」

「ダレット家は準男爵なんだよ。アラシアの方も、本当はレディの称号は付かないんだぜ。キアランの婚約者って事で、伯爵令嬢扱いだけどさ」

マティはいつもの受け売りだ。

贅沢に装ったダレット夫人を乗せた金縁の大型馬車は、前庭ロータリーを荘重なペースで回って出て行く。

その様子を眺めつつ、マティは、ブツブツと呟き続けていた。

「キアランにチクってやる……どうせ、賭博の集会なんだ」

ある意味バカバカしいほど大仰な、馬車の見送りが終わった。

レオポルドは、勢揃いしたスタッフその他を放って、万事心得た執事に正面玄関の扉を開けさせる。そして、傲然とした態度を崩さぬまま、自分だけサッサと館内に入って行ってしまった。

あれだけゴマをすったにも関わらず、スタッフたちと共に無残に取り残されたライナスではあったが、常にこういう扱いだ。本人は諦めたように溜息をついている。

……ライナスは、下心を込めた意味深な眼差しで、ルシールの方を見やった。

ルシールよりもマティが先に、その視線の意味に気付く。

「邪魔してやるもんね」

マティはライナスに向かって舌を出して見せると、唖然とするライナスを差し置いて、ルシールの腕にピッタリと取り付く。ライナスに目を向けかけていたルシールは、マティを注目する形になった。

「庭園の散歩に行こうよ、ルシール」

ルシールは不思議そうにしながらも、快くうなづいた。マティは、ちゃっかりとルシールを横取りしたのである。

――あのクソガキ、マセやがって。トッド家の何とやらと言うが……単なる悪ガキだろ!!

マティに『鬼たちの居ぬ間のルシールとのデート』を横取りされると言う形になったライナスは、ただ震えるのみだった……

*****

館の最上階フロア、クロフォード伯爵の応接間。

ドクター・ワイルドはいつものように、松葉杖を突いて部屋を歩き回る伯爵を注意深く観察していた。ドクターはカルテに診察結果を記録しながらも、徐々に疑問顔になって行く。

「昨日から骨折の治癒が早まっておるようです。最近、何か変わった事がありましたか?」

「いや、特には……」

ドクターに問われ、伯爵は不思議そうな顔をしながらも、首を振る。

しかし、一緒に居たクレイグ牧師は思い当たる事があった様子で、茶カップを口から離した。

「もしかして……ルシール嬢のハープ演奏ではありませんか?」

「ハープ?」

ドクターは片眼鏡を外しながら、クレイグ牧師を振り返った。クレイグ牧師は笑みを浮かべている。

「あのルシール嬢は、ハープについては、レディ・オリヴィアの弟子だそうですよ」

「オリヴィア・ゴールドベリ!? アシュコートの緑の森の魔女……!」

「ご存知で?」

「ゴールドベリ一族は、知る人ぞ知るヒーラーの一族でして……古代、我が国の開祖の王室で、侍医を務めたと言う歴史もあるんです。一族は特別な耳を持っていて、治癒の力を持つハープの技術を伝承している……ゴールドベリを知らない医者は、モグリですぞ!」

ドクター・ワイルドは訝しそうに眉根を寄せた。

「ライト嬢は一族じゃ無い……生まれる前から魔女の傍に居たとかでは、まさか無いでしょうな」

「確か、そう言っていましたね。馬車事故で母親が怪我していた頃、レディ・オリヴィアが、ハープを使って治療に当たっていたとか……」

「いやはや、実に驚きですな……訓練された耳を持っておった訳じゃ」

感歎の溜息をついた後、ドクター・ワイルドは確信を持った顔で、クロフォード伯爵を振り返る。

「骨折部分は余り痛まない筈じゃが、如何です?」

「実際、痛みは格段に減っているんだが……と言うよりは、ムズムズするな」

伯爵は、驚きを込めた眼差しで、骨折した片脚を見下ろした。伯爵の言葉に、ドクターは納得したようにうなづいている。

「骨折部の接着の進行が早まっているからですよ。階段昇降の件、明日の診察で決めましょう」

*****

庭園の茂みの中、マティとルシールは、子犬のパピィをモフモフしていた。

マティは、いつの間にか失敬して来た朝食の肉の残りを、パピィの前で見せびらかす。すると、パピィはエサに食い付こうと跳ね回り、忍者よろしく見事な宙返りを披露したのだった。

不意に、正門を通る馬車の音が響いて来た。馬車の音は、次第に近づいて来る。

ルシールは驚いて、音のする方向を振り向いた。

「……馬車の音が?」

風が強く、木々のざわめきが大きいため、マティは馬車の音を拾えずポカンとしていた。このルシールの音の弁別能力は、ハープ演奏で鍛えられたものだ。

マティは早速、茂みの中から前庭ロータリーを窺い、本当に馬車が走って来るのを確認した。ダレット夫人が乗って行った金縁の大型馬車に良く似ている馬車だ。御者は別人だが。

「ホントだ! 馬車だ!」

「ダレット夫人が帰って来てる!? 出発したばかりでは……!?」

「そんな筈は……隠れて!」

マティは慌てながらも、ルシールを茂みの中に引き込んだ。

馬車の中から現れたのは、きらびやかなドレスに身を包んだ金髪の美少女だ。

「アラシアだ! あ、そうか! 徹夜組の取り巻きの誰かから、一番良い馬車せしめたんだな」

馬車の傍には早速、レオポルドとライナスが近付いて来ていた。アラシアは、けだるそうな様子で帽子を外した。

「キアランは何処かしら」

「あの堅物は仕事の虫さ」

レオポルドは館の方を見やり、口を歪めて答えている。

「退屈な人ね! あたくし今眠いから、先に寝室の方に行くわ」

「こよなく美しきレディ・アラシア! 是非エスコートの栄誉をば私に……」

アラシアは、恭しく頭を下げているライナスに向かって、手に持っていた帽子を乱雑に放った。

レオポルドとアラシアは、従者よろしくライナスを従えた。館のスタッフたちが美しく整列して出迎える中、館内に傲然と入って行く。

「ホント、世が世なら、クロフォード伯爵とクロフォード伯爵令嬢よね……」

ルシールは苦笑して肩をすくめ、マティを見やった。

「彼女、夜更かししてたのね。若い頃は良く夜更かしするものなのよ」

「ルシールも夜更かしした事あるの?」

「勿論ハープよ、アンジェラとの二重奏とかね」

マティとルシールは、先日の方向とは違う方向に向かって、庭園の小道を歩き出した。

■クロフォード伯爵邸…邂逅する謎(中)■

一陣の風が再び吹き渡り、特徴のある花の香りを運んで来る。

風の方向に向かって庭園の小道を折れたルシールは、行く手にライラックの木を見付けた。

「早咲きのライラック……」

ルシールは感心して、手元に届く範囲の枝を調べた。本番の季節にはまだ早いが、ここ数日の上天気に誘われたのか、幾つかの枝が薄紫色の花を付けていた。

ルシールは早速、数本の枝をゲットした。ニッコリ微笑んで、今日の成果をマティに披露する。

「五弁の花が咲いてる……何か良い事あるかもよ」

「どういう事?」

「五弁の花のライラックを見つけると、ハッピーになるって言い伝えがあるの……聞いた事は無い?」

「初耳だよ」

ゲットした枝は、いずれも鑑賞に堪える程度の花を付けていた。

――伯爵様のお見舞いに差し上げてみようかしら……

あれこれと思案していたルシールは、風が更に強くなってきた事に気付き、空を見上げた。

雲が速く流れ、天空の一角で壮大な固まりを作っている。雲の切れ間から昼下がりのまばゆい陽光が差し込み、薄明光線を形作っていた。雲の切れ間の生成消滅に従って、刻々と位置を変える幾本もの光の筋。えも言われぬ程の、圧倒的で、荘厳な眺めだ。

「雲の模様が変な感じ?」

「こりゃまたでかい嵐だよ、しかも雷がセットで……」

マティは、空を見上げると、即座に恐るべき天気を予報したのであった。

「ディナー前に、またパピィをバルコニーに連れて来て良いかい?」

「勿論よ」

マティは早速、飛ぶように駆け去って行ったパピィを呼びながら、後を付いて駆け出して行く。

「パピィ! 戻っておいでよ、パピィ!」

しかし、当のパピィは、既にあの庭園道具の倉庫の奥に入り込んでしまい、なかなか出て来ない状態だったのである。

「問題発生?」

「パピィが倉庫の奥に入り込んで出て来ないんだ。何かお気に入りが転がってるらしくてガチャガチャと……前にも、なかなか出て来ない事が結構あったんだ」

ルシールはマティの傍に近付き、無残に破壊されている入口の方から、慎重に倉庫の奥を窺った。倉庫の奥の方は色々と立て込んでいて、薄暗い感じだ。

「一体どうやってパピィを出したら良いのかしら」

「車庫からランプを拝借ッ!」

マティはクルリと身を返して駆け出すと、最寄りの車庫からランプを取り出して来た。

やがて倉庫の奥がランプに照らされる。ルシールの手によって、パピィは、じゃれている物から引き離された。ルシールはパピィの遊び道具を眺めると、目を見張った。

「これは、大枝を切る大型の……」

背丈の半分以上もありそうなサイズの、パワフルなハサミだ。本来の場所に取り付けられておらず、乱暴に放り出されている。

「この倉庫を壊した人が、ついでに扉の方から投げ込んだみたいね……」

「扉の方から投げ込んだって?」

「私の祖父なら、こんな場所には置かないわよ。大型ハサミの定位置は、多分、あちらの壁」

その壁も破壊の余波を受けて歪んでいたが、内部構造は意外に頑張っていたのか、大型の道具が順番に取り付けられてある。大型ハサミの定位置と思しき場所だけ、まばらに空白になっていた。

不意に、マティは閃いた。

――この大型ハサミは、もしかして――

マティは、奇妙にゆっくりとした口調で、ルシールに疑問を投げた。

「ねえ、ルシール……この大型ハサミ、裏の柵も破壊できると思う?」

「やって出来ない事は無いと思うわ、普通の木製の柵だし」

マティの問いの意図が分からないルシールは、モヤモヤした物を感じながらも首を傾げた。

「何か、考えてる?」

「うん……前から引っ掛かってた事があってさ……」

それきり、マティは沈黙した。

マティの様子が急変した事に、ルシールは更に首を傾げた。そのまま、パピィを外に連れ出し、間に合わせの紐でパピィの身体を結ぶ。

「いい子ね、パピィ。いきなり居なくならないように、此処で待ってて」

「わふん」

無邪気そのもののパピィは、上機嫌で亜麻色の尻尾をモフモフと振っている。

その間にもマティは大型ハサミを詳細に調べ続け――そして、すぐに驚いたような声を上げた。

「ハサミのネジに、何かが光って……」

マティはネジ穴の間に挟まっていた光り物を外すと、ランプの光で観察し始める。

ネジよりも幾分大きいサイズで、何やらキラキラと光っているのだ。

「パピィは光り物が好きで……」

マティは早速、戻って来たルシールに発見物を見せた。ルシールは仰天した。

「宝石細工のカフスボタン!?」

「カフスボタン? ……あの、袖口にくっつけるヤツ?」

マティには、大人のファッションの知識は余り無いのだ。ルシールは、驚き覚めやらぬまま、カフスボタンを見つめた。

「見事なカットのダイヤモンドね……とても綺麗! ボタンとしては、片割れしか無いみたいだけど……」

「ルシールの目の色の方が、断然綺麗だよ」

マティは、キョトンとするルシールにランプを向ける。

「ほら、レディ・アメジスト!」

「……それどころじゃ無いわよ、マティ! 判事に届けないと……こんなに高価な落とし物、きっと誰かが困ってるわ」

ルシールは頬を染めながら倉庫を飛び出した。

――ドキドキが止まらない。

暗い倉庫の中のランプの光。フラッシュバックさながらに、昨夜の馬車の中、ランプの下でキアランと急接近した出来事を思い出させる。マティと気が合うのも納得だと思えるくらい、キアランの態度は『妙』だった……

――『妙』と言うのも何か変だわ。いや、特に変とか、異常とか言う訳じゃ無いけど!

マティは、ルシールの迷走したような反応に首を傾げながらも、大人しく倉庫を出た。いつもなら、ませた物言いでルシールに突っ込むところだが、物凄い勢いで、カフスの事が気になり始めていたのである。

ランプを元の場所に戻すと、マティは、改めて陽光の下で、カフスボタンを眺めた。

問題のカフスボタンは、まばゆいばかりにキラキラと光っている。ダイヤモンドやら何やらの価値は良く分からないが、高度な宝飾細工が施されている事は一目で分かる。確かにパピィが夢中になるほどの見事な光り物だ。

ルシールと連れ立って館へと戻っている間も、マティの頭は、この場違いなまでに豪華なカフスボタンの謎について、猛烈に推理を進めていた。

……散策路の途中で、打ち捨てられ忘れられた、事故馬車の車輪のオブジェを横切る……

ルシールが、ふと気づき、壊れた車輪のオブジェに視線を投げる。

「もしかして、あれ、馬車事故が起きた時の物かしら?」

マティの目が、キラーンと光った。

――勿論だ! 馬車は暴走させられたんだ! アントンの倉庫を破壊し、東側の裏の柵を破壊して、大型ハサミを投げ込んだ犯人によって……ね!

*****

館へ戻る途中の二人は、厩舎の脇の道に入った。

マティは厩舎に新しくつながれた馬を見るなり、ピョンピョン飛び跳ねながら指差した。

「判事の噂をすれば、判事の影が来た! ――あれ、判事の馬なんだ」

「まあ、納得の大きさ」

立派な体格の大きな馬だ。あの大男を乗せるのに相応しい頑健さが感じられる。ルシールは、その馬をしげしげと眺め、感心するのみだった。

マティとルシールは、正面玄関の扉を通った。ちょうど玄関広間を通りかかった執事が二人を見て、少し驚きながらも軽く会釈して来る。

「お帰りなさいませ、マティ様、ライト嬢」

「判事は何処?」

「皆さんとご一緒に大広間においでで」

マティは早速、大広間の扉に駆け寄り、勢い良く扉を開いた。

「プライス判事ーッ!」

「おうッ、坊主か」

マティが元気良く大広間に駆け込む。プライス判事は、大広間の中央から外れた辺りで茶を一服していたところで、大広間の扉の傍で手を振るマティの姿を認めると、愉快そうな笑みを浮かべたのであった。

大広間では、レオポルドとライナスとアラシアが、上座の別々のソファに並んで座っていた。

プライス判事とキアランは彼らから少し距離を置いて立っており、めいめい円卓や椅子の背に手を掛けて楽にしながら何やら相談していた。ライラックの枝を抱えて現れたルシールに気付くと、二人とも揃って「おや」と言ったように姿勢を正した。

マティに続いて入って来たルシールが、大広間の面々に敬意を表して、綺麗な会釈をした。その正統派の貴婦人さながらの所作は、庭園作業着の姿だという事を忘れさせる程の優雅さで、レオポルドも一瞬、会釈を返しそうになった程だった。

アラシアは、一気に不機嫌になった。キアランは、一瞬たりともルシールから目を離していない。

「プライス判事、あのね、あのね……」

プライス判事の大きな身体の周りをクルリと回ったマティは、早速アラシアに、「何の用?」とギロリと睨まれてしまった。

「アラシアは一段と、ご機嫌斜めじゃんか」

プライス判事の大きな身体の陰にサッと避難しながらも、口だけは、いっちょまえにボヤいて見せるマティである。プライス判事もマティに合わせて背をかがめ、ヒソヒソと返す。

「気にすんな、マティ坊主よ。こっちも、一時間以上も舞踏会の話を聞かされて、うんざりしていたんだから」

アラシアの攻撃的な視線が、ルシールに移る。

マティとプライス判事の後ろにはなったものの、アラシアの不機嫌な視線にさらされて、ひたすら青ざめるばかりだ。

プライス判事はルシールを見て、不意にピンと来たような顔になり、身を起こした。

「おッ、そうだ。ライト嬢、今日、カーター氏から新しい伝言が……」

「こっちの話が最優先だよ! こんなもん見つけてさ」

「あ、あの、マティの話を先に」

判事は再び大きな身体をかがめ、マティの手に乗った代物を注目する。

そして、プライス判事は、驚きに目を丸くしたのだった。

「こ……こりゃ、また贅沢なカフスだな! 誰のだ!?」

判事の手には、まばゆいばかりのダイヤモンドが埋め込まれたカフスボタンがある。小粒なれど、その輝きと言い色合いと言い、間違いなく一級品だ。キアランも思わずカフスボタンを注目した。

判事はカフスボタンをひっくり返し、そこに持ち主の頭文字らしき刻印が打たれている事に気付いた。

「何か、独特な感じの『L』の刻印が……」

判事の言葉に、キアランは目を見張っていた。

「……謎のL氏……?」

■クロフォード伯爵邸…邂逅する謎(後)■

「こりゃ息子のだな」

順番にカフスボタンを渡されたレオポルドは、贅沢なカフスボタンを一目見るなり断定した。この辺り、見る目はある。育ちが違うというだけの事はあるのだ。

「この頭文字『L』は、レナードのためのデザインで……この『R・S』の刻印が、『ロイヤル・ストーン』ブランドの証拠だ」

「レナード様の物でしたか! 道理で、上品で高級な品で……」

早速、見え透いたゴマすりを始めるライナスである。

「お黙り、ライナス!」

アラシアの、不機嫌そのものの大声が、キンキンと響き渡った。

「何で兄の物をマティが持っているのか、是非、聞きたいわね! 盗んだんでしょ、このコソ泥が! その茶ネズミも、共犯だわね!」

アラシアは高価なマニキュアを施した指を、マティとルシールに向かって突き付けた。アラシアの急変に慣れているマティは片眉を上げただけだったが、ルシールは再び青ざめて固まった。

アラシアの非難の叫びは続いた。

「それはママが兄にあげた物よ! 最近、宝石泥棒に盗まれたとかで大騒動だったわ! 兄の銀行口座には上限が掛かってて、満足に宝石も買えなくて困ってるし!」

そしてアラシアは、また急にコロリと態度を変えて立ち上がり、予期せぬ運命に苦しむいたいけなヒロインと言った風で、キアランに優雅に取りすがった。

「ねえ、でもキアラン様なら利用上限の解除、お手の物でしょ……あたくしに免じて、哀れな兄の状態を楽にして下さる?」

キアランは表情を変えずに、カカシよろしくムッツリと突っ立っているだけだ。

マティもプライス判事も、そしてライナスも慣れているのか、我関せずと言った様子で『アラシア劇場』を見物しているだけだ。

ルシールの方は、アラシアの余りにもドラマチックな激変に、開いた口が塞がらない状態だ。アラシアの気質に慣れるのには、大変な工夫が要りそうである。

アラシアはクルリと身を返し、何やら考えていたレオポルドの手から、キラキラ光るカフスボタンをサッと取り上げた。

「ねえパパ! あたくしが、このカフスもらうわ! イヤリングとかに加工すれば、ぐっと良くなる筈よ!」

一瞬、ポカンとするレオポルドである。レオポルドと言えども、世間一般の父親と同様に、我が娘たるアラシアには甘いようだ。

ライナスは早速、詩的な言葉を駆使して、新たなゴマすりを始めた。

「おお、レディ・アラシア、並ぶものなき美の上に、更に輝きを増しておられる」

「新年の社交で話題だったのよ、このダイヤ!」

アラシアは、新たな称賛の言葉に、上機嫌になった様子だ。

もはや、マティは鼻をかきながら見物している。ルシールは呆気に取られるままだった。

「加工するとしたら、『ロイヤル・ストーン』系列がやはり良いな……テンプルトン商店街のな」

レオポルドは、人に聞こえるような大声で呟いた――文字通り、人に聞かせるための呟きである。

「おーい、執事! カタログは何処だ!」

レオポルドは、傍若無人な態度で、傲然と立ち上がった。扉の裏に控えていた執事が、如何にもベテランと言った風でサッと現れ、レオポルドの『お尋ね』に滑らかに答えた。

「ファッション雑誌の最新号は、いつも通りダレット嬢の部屋に配達してございます」

アラシアは、マティとルシールを完全無視しながら、優雅な歩みで大広間を退出して行った。ライナスにエスコートしてもらっていたアラシアは、扉を通過するタイミングでルシールの方を振り返り、見せ付けるような笑みを浮かべたのであった。

ルシールの傍に居たマティは、アラシアの嘲笑的な笑みに気付いていた。いっそう鼻をかきながらも、マティはむくれた様子で呟いた。

「アテクシに免じてじゃ無くて、ルシールに免じて、じゃ無いかな」

ルシールはマティの言葉の意味が分からず、ポカンとしてマティを見つめるばかりだった。

*****

――『面倒』が自分から立ち去ってくれた。

プライス判事は、あからさまにホッとした様子で伸びをしている。そして早速、マティとルシールを振り返ったプライス判事は、如何にも治安判事と言った口調で問いを投げた。

「あのカフスは、一体どうやって見つけたんだ?」

――まさか、子犬(パピィ)をこっそりと飼ってる……とは口が裂けても言えないわ!

一瞬ドキリとした後、顔を赤らめて、不自然に口ごもるルシールである。

マティの方は、男の子らしく胸を張っていた。

「車庫近くで発見したんだ!」

「ふむ! これは重大な発見だ!」

ルシールの不自然な反応に、気付いたのか気付かなかったのか――マティに合わせて、殊更に生真面目な顔つきをして判事はうなづいた。そして判事は真顔になると、次々に湧き上がって来た疑いを口に出し始めた。

「レオポルド殿はレナードの物だと言うがな……そのレナード、『復活祭』当日の日付の通達で、この館への出入り禁止を食らってるぞ。その出入り禁止の通達は、まさにキアラン君が作成した文書だ――だったよな?」

キアランは同意の印に、軽くうなづいた。判事の疑問は続いた。

「レナードは新年社交の後は、この館には来ていないぞ。テンプルトンのゴタゴタでな――それなのに、ここ三ヶ月の間、近づきもしなかったこの館の敷地に、最近失せたカフスがあったと……?」

プライス判事の眉間には、深いシワが刻まれていく。

ルシールから残りのお茶を淹れてもらっていたマティは、判事の疑問に、早速の回答を与えた。

「レナードは、この間入って来たじゃんか……最近まで門番にもバレずに侵入可能だったって事だよ」

その指摘に、判事はハッと息を呑んだ。

マティは茶カップに口をつけながら、意味深な顔つきで指摘を続ける。

「重大なのは、あいつが何を仕込んでたかって事なんだ」

「何を仕込んだって?」

判事が聞き返す。マティの頭脳が働き始めた事に気付いたキアランは、沈黙したまま先を促した。

「庭園の裏の柵は壊されてたんだよ。アントンが生きてりゃ、絶対に気が付いた筈さ。アントンは新年の社交シーズンど真ん中、不審の死を遂げている――だから、レナードは極秘に破壊工作を進める事ができた。誰にも見られずに侵入できるように」

そこでマティは口を閉じ、少しの間、眉根を寄せて考えていた。そして不機嫌そうに、ブツブツと言葉を続けたのであった。

「口座の制限食らってて、よっぽどヤマシイお金が欲しかったんじゃねーの。ベル夫人が言ってた……オイラのお小遣いの消滅含む使途不明金、柵を塞いだ後は出てないんだってさ」

そこまで言うと、マティは、ググッとコブシを握り締めた。

「オイラのお小遣いにまで手をつけていたと分かったアカツキには……レナード・ダレット! 想像もつかないような倍返しをしてやるぜ!」

マティの本気の決心を悟り、ギョッとして思わず後ずさるルシールである。

あのダレット家の御曹司レナードが、復活祭を境に館への出入り禁止を食らっていたと言うのも驚きだし、窃盗や不法侵入、及び施設破壊といった多彩な疑惑にも驚きだ。だが、事情を知らぬ部外者が、口を出すべき問題では無い。ルシールは困惑しながらも、礼儀正しく口をつぐむのみだ。

判事は、「あの落ちてたと言うカフス以外、証拠は無いが……」と驚き呆れている。

近ごろ行方不明になっていたと言うレナードのカフスボタンが、何故か館の敷地の中に落ちていた。館の庭園の裏の柵が、『復活祭』の時点で、既にひそかに壊されていた。レナードは、柵が塞がれる前までは、館の中にコソコソと侵入可能であった。

――これらの事実から、マティは、これだけの推理を組み立てたのだ。

「すごい頭脳だな」とキアランも感心している様子であった。

*****

その後、暫しの間、マティ、ルシール、キアラン、プライス判事の間で、軽く談笑が続いた。

一区切りついたところで、メイドの手によって手頃な花瓶が大広間に届けられ、ルシールは、その花瓶にライラックの花を活け始めた。

プライス判事は興味深そうにしげしげと眺めた後、ルシールに声を掛ける。

「フラワー・アレンジ?」

「母に教わりました」

納得顔の判事は、次に、かねてからの用件を思い出した。

「おッ、そうだ、ライト嬢。カーター氏からの伝言があってな。前々から修正報告書の発送が遅れていたが、定期便と一緒に発送されたから、明後日にも到着するだろうと……」

ルシールは、すぐにピンと来た。母親アイリスの死亡報告書そのものに関する文書ミスや、そこにあった診断ミスの修正である。

「まあ、そうですか……医学データのミスも、やっと修正ですね」

ルシールは感慨深げに呟いた。何しろ20年以上も放置されていた食い違いだったのである。

「医学データ?」

プライス判事が不思議そうにオウム返しにして来た。ルシールは微笑みながら、事情説明を加える。

「母の妊娠時期が、診断ミスのお蔭で四ヶ月ずれて記録されていたんです。アンジェラのデータと取り違えが起きたのも、そのミスの影響で……とは言え、公爵令嬢と取り違えられるのも、何だか光栄ですわ」

判事は大いに納得したようだった。

「そりゃ、本人の確認では大混乱だったに違いないな! あのカーターすら、三ヶ月も手こずったとか言ってたし……」

その話は、キアランにも覚えがあった。

アシュコートでも、馬車移動の折にカーター氏が、『レディ・オリヴィア談』として少々説明していたのだが、今まで失念していたのである。ルシールの母親は当時、本当は妊娠六カ月だったのに、診断ミスのお蔭で妊娠二カ月と記録されてしまっていたのだ。

マティは暫し考え、「ルシールは、お腹にいた時から実際より若く見えたって事?」と突っ込み、判事の笑いを誘っていた。

*****

やがて、ライラックのフラワー・アレンジが完成した。ルシールはライラックを伯爵のお見舞いに持って行くため、一旦、大広間を退出した。

「ディナーの時に、またね」と声を掛けるマティである。

マティは、ルシールが大広間を退出した後も、忙しく推理を続けていた。まだ引っ掛かっている謎があるのだ。マティは、クルリとプライス判事を振り返った。

「プライス判事、あのさ、リチャード伯父さんが骨折した、あの馬車事故だけどさ。馬が暴走したの、偶然?」

プライス判事は不意打ちを食らい、唖然とした顔になった。ぐっと言葉に詰まる。キアランも感嘆の眼差しだ。

マティは二人の反応に、確かな手ごたえを感じ、目をキラーンとさせたのだった。

……マティは更に、ずっと引っ掛かっていた記憶を呼び出した……

メチャクチャに破壊されていた、アントンの庭園道具の倉庫。

ルシールが示した、不自然に放り出された小型ハサミ。

あの小型ハサミの刃先には、ハサミが得体の知れぬ誰かに使われていた事を示す樹液のシミがついていて、しかも日にちが経って錆びかかっていた。

――レナードに魔法が使えたとは、思えないけど。

レナードが、大型ハサミだけで無く、あの小型ハサミも使ったのなら。彼は、一体、何の枝を切ったのだろう……

■クロフォード伯爵邸…レディ・アメジスト(前)■

夕方と言うには、少しばかり早い時刻。

強い風に乗って雲が次々に流れ、太陽は雲間の中で更に傾き、薄明光線が赤らみを増した。分厚い雲が作る散乱反射の中で、辺りは急速に夕方を思わせる光を湛え始めている。

館の最上階にある応接間の中で、クロフォード伯爵はルシールの来訪を歓迎していた。

「お見舞いとはまた嬉しいよ、ライト嬢」

「最近、馬車事故で骨折されていたとお聞きして……オリヴィア様みたいに、元から脚がお悪いのだと思っていたので、驚きましたわ」

同席していたクレイグ牧師が、訳知り顔で苦笑する。

「私の孫が喋ったんですな。時々、言い付けを忘れるんですよ、あのイタズラっ子は……」

伯爵も苦笑して肩をすくめる。

ルシールは一礼すると、傍のテーブルにライラックの花瓶を置いた。

「そう言えば昔、ライト嬢の母親も馬車事故で骨折したとか……」

「母の場合はアバラでしたわ。その時に折れた骨が肺を傷つけたので、長く吐き気が続いて大変だったそうです」

クレイグ牧師は、ゆっくりと伯爵の隣の椅子に座ると、ルシールに語り掛けた。

「事故があったの、二月でしょう? 風邪ひかなくて幸いでしたな。その当時、彼女は妊娠二カ月だったと聞きましたよ」

「あ……、それは違いますね。その時は母は、正確には妊娠六カ月でした」

「……え?」

「母のお腹は、妊娠六カ月にしては非常に小さなお腹だったそうです。その上に、お医者様がまだ新人で、肺の怪我から来る吐き気をつわりと間違えてしまって……つわりの時期、即ち妊娠二カ月……と診断したそうなんです」

ルシールは、ニッコリしながら話を続けた。

「先ほど、プライス判事からお知らせを受け取りました。もうじき、私の出生記録の修正報告書が到着する見込みだそうで……」

「ちょっと待って下さい」

クレイグ牧師が慌てたように、ルシールの話を遮った。

「あなたは……何月に生まれたんですか?」

「六月生まれです」

記憶を整理するため、ルシールは、窓の方を眺めつつ考え始めた。

ルシールの視線を外れたところで――伯爵とクレイグ牧師は、揃って絶句している。

「母は、前年九月に結婚していたようですが、詳しくは存じません。結婚指輪はありましたし、父がアメジストのブローチも贈っていたのは確かですけど……」

ルシールの説明を聞いている伯爵とクレイグ牧師は、奇妙に沈黙したまま、固まっていた。やがて、伯爵が口を開く。

「アメジストのブローチ?」

そう言う伯爵の表情は、大窓から差し込んでくる夕陽の陰になって、不明瞭だ。

ルシールは、伯爵の顔色の変化には気付かなかった。いつものように微笑み、手提げ袋の中からアメジストのブローチを取り出すと、伯爵に見せる。

バラの線描を切り出したかのような繊細な意匠。そこに、緻密に埋め込まれたアメジストの粒。20年以上前の品だけあって相応に古い物ではあったが、適切な管理が続いていた事もあって物の状態は良く、かつての輝きは、そのままだ。

伯爵はブローチを手に取ると、慎重に表と裏を返しながら観察し始めた。

「これは……」

「そのブローチの贈り主が、つまり私の父なんです」

ルシールは、どうやら伯爵が呆然としてブローチに見入っているらしいという事に、ボンヤリとながら気付いた。

「……どうか、されましたか?」

しかし、それに対する回答は、宙ぶらりんになったのだった。その時、執事がノックをして応接間に入って来た。

「失礼致します、閣下。署名文書をお持ちしました」

クロフォード伯爵は午後の業務の途中だったのだ。ルシールは、そろそろ頃合と判断して手提げ袋とブローチを手に取ると、一礼して速やかに応接間を退出して行った。

*****

お見舞いは、思ったより早く済んだ形になった。

ディナーのために服装を整えた後も、ディナーまでには少しばかり時間がある。

舞踏会仕様にしていた黒服を縫い直せる程の余裕は無く、ルシールは比較的に綺麗な方の作業用シャツに着替え、サテンのリボンをいつものように着けただけだ。

レオポルドとアラシアは、ルシールの存在を快く思っていない。ルシールは彼らとの遭遇を避けるため壮麗な大広間には入らず、書斎の方に立ち寄った。

「蔵書がいっぱい。相続確定の裁判の資料は……」

なかなか有意義な時間を過ごせそうだ。ルシールは、目下の懸案事項となっている相続争いに関する解説のある本を選ぶと、窓の外に広がる空に目をやった。

風は強まり、雲は分厚くなっていた。空は鮮やかなまでの夕焼けに染まりながらも、大嵐の兆しをそこかしこに散りばめている。今夜は荒れるに違いない。

館の東側に位置する書斎の中は、薄暗くなっている。

ルシールは書斎の大窓を開け、比較的に明るい南側の敷地に出た。

行く手には、ちょっとした素敵なあずまやが見える。

庭園の設計と整備の流儀には、祖父アントン氏の手が感じられた。周りの庭木が強い陽射しや風を上手に防ぐようになっていて、読書にピッタリの場所を提供しているのだ。

*****

ひととおり本に目を通し、ルシールは、フーッと溜息をつくのみだ。

(やはり、直系親族と傍系親族の相続順位の差は大きいわね)

弁護士カーター氏も言っていたように、直系男子の法的な身分は、とても強い。

ライト家の直系男子と目される子孫が居ない今、法的にはその資格を持たぬルシールが相続権を主張できるのは、祖父アントン氏の自筆になる遺言書の法的効力によるものが大きい。

タイター氏はビリントン家の直系男子であり、ライト家にとっては本家の当主にあたる。昨夜ルシールに冗談のような求婚をして来たナイジェルも、タイター氏の甥であり、法律的には、ルシールよりも相続順位が高いのだ。

(……私が、男に生まれていれば……)

不意に、手前の芝生に人影が差した。気配を感じ、思わず顔を上げる。

「ルシール?」

そこに佇んでいたのは、背の高い黒髪の紳士だ。執務室の仕事あがりなのか、何となく砕けた雰囲気だ。ドキッとしてしまう。

「……キアラン様?」

キアランが目を見張り、見返して来る。

――ハッ!

「済みません、リドゲート卿……ダレット嬢のが思わず移っていたみたいで……」

「成る程」

キアランは軽くうなづいて来た。特に気分を悪くしている様子はなく、フラリと近づいて来る。

「それなら、ダレット嬢に多少は、感謝は出来るかも知れません」

鋭さを感じさせる黒い眼差しが、ふと柔らかさを湛えたようだ。

(こんな風なら、そう遠くないうちに、アラシアとの縁組も順調に進むかも知れない)

ルシールは心の中のチクリとする感触を抑え、にこやかな笑みを浮かべた。

「まあ、それなら良かったですわ……可愛い婚約者と、一歩前進ですね」

「……婚約者?」

「マティから聞きました。ダレット準男爵令嬢……世が世なら、クロフォード伯爵令嬢でもある御方だとか」

キアランは溜息をついて、ガックリとあずまやの柵にもたれた。大広間でのアラシアの様子からしても、まだ暫くは、ギクシャクが続くという感じだろうかという風だ。

……キアランは、やがて口を開いた。

「父のお見舞いを有難うございます。ルシールは、父と気が合うようですね」

「伯爵様はお優しい方ですね」

「……その本は、書斎から?」

キアランは首を傾け、ルシールが読書中の本に目をやり……目をパチクリさせていた。

(一般的な女性が好みそうなタイトルじゃないわね、『判決事例の解説』なんて)

ルシールは、持っていた本の間から、栞代わりにしていたアントン氏の私信を引き抜いた。そして、キアランに本を手渡す。

「あの、ちょっと書斎からお借りしてました。タイター氏の隙を突けないかと思いまして」

キアランは本を受け取り、ルシールの横に並んだ。相続問題の解説があるページを開いて、ザッと目を通す。

「父親不明問題を突破する方法は、余り無いですね」

「……そうですよね。ビリントン家はライト家の本家に当たりますから、余計難しいとか……」

ルシールは暫し、うつむいて黙り込んだ。

「相続問題が紛糾するとは思わなくて……クロフォード方には、大変ご迷惑おかけしてしまいましたわ」

一陣の風が吹き、ルシールの前髪を吹き上げた。お見舞い用のライラックの花からの移り香が残っていたらしく、微かに甘い香りが散る。

乱れた前髪を直していると、キアランの低い声が降って来た。

「……突破口は、全く無い訳ではない」

キアランはおもむろに本を閉じながら、言葉を続ける。

「私と結婚すれば、強力な社会的立場が保証されますから……この方法は如何ですか、ルシール?」

「検討に値するかと……」

ルシールはボンヤリと思案したまま、首を傾げていた。

そして次の一瞬、ルシールはキアランの提案の『重大な意味』に気付いた。ギョッとする余り、口を開けたまま、パッと振り向く。

「今……あの、何とおっしゃいました!?」

「少し前の事例で、夫の社会的地位が不備を補うとした決着があります。私とルシールが結婚すれば良い」

ルシールは、開いた口が塞がらない。驚きの余り二倍くらいの大きさになった目を白黒させるのみだ。

「け……? 結婚……!?」

「ローズ・パーク相続の問題も、ほぼ解決すると思います。検討に値するかと」

「え、あの、何か、冗談をおっしゃっているとしか思えません……ダレット嬢が、婚約者の」

「公式には、その婚約話は認知もしていません」

「キアラン様は、いえ、リドゲート卿は、衝動的に何かを決定するような、お方には見えないですし……この、お話自体が、全く不自然な上に間違っているとしか……あの、冷静に落ち着いて……」

「私は至って冷静ですよ」

律儀かつ冷静に、ムッツリとした口調で答えるキアランである。

――『落ち着いて』と言いながらも、実際に落ち着いていないのは、ルシールの方だ。

キアランは、ルシールをひたと見つめた。逆光の中で黒い眼差しがきらめく。鋭利な刃を思わせる強い視線に射貫かれ、ルシールは息が詰まる思いだ。

「ダレットの皆サマと関係が上手くいってないから、こんな話になって来たとしか……」

「何故ダレット一家が、そこで出て来るんですか?」

「婚約者に対する態度としては、ダレット嬢への態度は、あっさり……と言うよりも、明らかに冷淡過ぎるんですわ、ですから、あの」

身体の向きを変え、ルシールの真正面を取ったキアランは、しかしルシールの話を真面目に聞いていなかった。

「浅い角度で光が入って……紫色ですね」

夕陽が差したルシールの目は、宝石のようなアメジスト色だ。

動転のままに後退し、あずまやの段差で足元を崩したルシールの身体を、キアランの腕が捉え……息詰まるほど強く抱きしめた。

そして――

*****

同じ頃。

クロフォード伯爵は、文書の確認と署名を済ませた後、思案に暮れながら、松葉杖を突いて部屋を歩き回っていた。そして、南側に面する窓際に立ち寄り、庭園のあずまやの方を、ふと見下ろした。

そこには、良く見知っている二つの人影。

「あれは……」

クロフォード伯爵は、夕陽に照らされた庭園のあずまやの下で、二人が何をしているかを目撃し、驚きの余り息を呑んだ。

やがて。

「今のは一体、何だったんだ……」

窓際には、呆然と立ち尽くす伯爵の姿があった……

*****

ほぼ同時に、大広間では、アラシアが怒りを激しく爆発させていた。

たまたま今夜の気分に合うファッションを、メイドが透視魔法さながらに的中させたため、準備が早く済んで、いつもより早い時間から大広間でくつろいでいたのだ。

これ程にも想定外の光景を、窓越しに目撃する事になるとは、全く思わずに。

アラシアは、乱暴に足を踏み鳴らして大広間の扉へと走り、なおかつ、過激なまでの大声で喚き散らした。その騒音は、壮麗な大広間全体に反響した。大窓が開いていたら、後ろに広がる中庭へも響き渡っていただろう。

「よくもよくも、あの茶ネズミの泥棒ネコが……! 生き皮剥いで、むごたらしく釘に吊るしてくれるわよ!」

「ネズミ捕りがご入用ですか?」

耳を抑えながら確認して来たのは、扉の傍に控えていたベル夫人だ。この状況ではどう見ても、ツッコミとしか思えない代物である。

「あのクソ女、キアラン様とキスしたの! パパったら! さっき、そこでクソ女が――」

アラシアは既に大広間を飛び出し、ダレット一家が独占する西棟へと走り去っていた。アラシアの怒りの叫び声が、広い廊下全体に、キンキンと響き渡っている。

ベル夫人は首を傾げ、耳をガードしていた手を外すと、南側の大窓にそっと近付いた。

重なった庭木の向こう側に、あずまやが見える。あずまやの前で、キアランがアントン氏の私信を拾い上げていた。ルシールの姿は、既に無い。

*****

――アントン氏の私信を落としても気付かない程に、ルシールを動転させてしまった。

キアランは私信を上着のポケットに収め、同じく落ちていた書斎の本を拾う。その本からは、ライラックの微かな残り香が立ち上っていた。

そしてキアランは、おもむろに、書斎の方向に向かって歩き出した。

*****

ベル夫人は何やら思案しつつ、窓越しに、キアランの姿が見えなくなるまで見送っていた。

■クロフォード伯爵邸…レディ・アメジスト(後)■

夕陽がいっそう傾き、風は強く吹き荒れ始めた。

マティは子犬のパピィを背負い、いつもの大樹をスルスルと登って行った。枝に巻き付けたロープ細工に取り付くと、パピィがシッカリと背中にしがみついている事を確認し、ルシールの部屋のバルコニーに向かってロープを伝い始める。

「風が強いぜ! パピィ、静かにしてるんだぞ」

パピィは驚く程に賢い子犬で、ハラハラ&ドキドキの状況ながらも、指示通り大人しくしていた。

マティはバルコニーに無事に到着した。パピィをそっと降ろすと、いつものように毛布で寝床を作ってやる。次いでマティは、部屋の中の気配に気付いた。窓には予想通り、鍵が掛かっていない。

マティは手早く作業を済ませると、窓を開けてルシールの部屋に入った。

――ルシールはグッタリとした様子で、ベッドに倒れ伏している。

「寝てる? ルシール」

起きているのは確かなのに、返事が来ない。マティは首を傾げながらも、ルシールを観察し始めた。

風邪でもひいて熱が出たのか、ルシールの耳は不自然に赤い。それに、物凄い勢いでそこら中を駆け回っていたのか、きちんと結ってある筈の髪は、ほつれてしまっている。低い位置の枝葉にも引っ掛かっていたらしく、髪の毛の間に小さな葉っぱやその欠片が少し張り付いていた。

マティは暫し戸惑った後、ベッドに近付くと、改めて声を掛けた。

「何か顔色悪いけど、大丈夫?」

「うーん……頭痛が……」

ルシールは顔を伏せたまま、モゴモゴと頭痛を訴えている。

「風邪? ドクター・ワイルドを呼んだ方が良いよね?」

「大丈夫よ、風邪じゃ無いし……えーと、……低気圧が余計、響いてて……」

弁解しているかのような、しどろもどろとしたハッキリしない口調だ。マティは、頭の上に幾つもの疑問符を浮かべ始めた。

「低気圧?」

マティは窓の方を振り向き――そして、雨が急に降り出した事に気付いた。

夕陽の赤らみは既に消えており、時たま不吉な光を閃かせている黒雲が、空全体を覆っていた。墨を流したような黒さの中を、銀の矢のような雨が走っている。雨脚は、みるみるうちに強くなっていった。

まさしく間一髪で、パピィをバルコニーに連れ込めたのだ。マティは嵐に備えて、窓にシッカリと鍵を掛けて固定すると、改めて具合の悪そうなルシールを観察した。

「今夜のディナーは欠席って言っとくよ……これから寝るの?」

「多分……」

直前に何があったのか全く知らなかったマティは、暫く釈然としない顔をしていたが、ひとまずは物わかり良く納得して見せたのだった。

「分かったよ、お休み……また明日ね」

マティは、部屋のドアをそっと開いて、人目が無い事を確認すると、素早く部屋を出て行った。

*****

いつも通りの時間に、ディナーが始まった。

館の外では、雷雨を伴う春の嵐が始まっていた。時折、ビックリするような大きな雷が閃く。

「ライト嬢はどうしたんだ?」

「ライト嬢は欠席だそうです」

「さっきまで元気そうに見えたが……?」

給仕を続ける執事から、ルシールの欠席を知らされたプライス判事は、怪訝そうに首を傾げた。

「低気圧だとか」

「ああ、何か聞いた事あるような。嵐が接近すると、急に調子が悪くなるとか……」

プライス判事は納得したような表情になった。

そこへ、激怒の収まらぬアラシアが、キンキン声を上げて割り込んだ。

「あの女の正体は、吸血鬼なのよ!」

ライナスは勿論、隣の席に座っていた父親レオポルドでさえも、一瞬ビクッとして顔をしかめる程の、キンキン声である。アラシアは更に声を張り上げ、ルシールへの更なる侮辱を続けようとした。

次の瞬間、ギョッとするような凄まじい轟音と共に、雷が館の近くに落ちる。

食堂全体が震動し、アラシアのキンキン声がかき消えた。ライナスやレオポルドがホッとしたのかどうかは、此処では触れないでおく。

「おおッ! 凄い雷だな、マティよ!」

プライス判事は、隣に座るマティにウインクして見せた。

「こりゃ、結構ヤバイかも」

マティは、明るい茶色の目をいっそう見開いていた。余りにも凄まじい嵐であり、内心、ルシールの部屋のバルコニーに連れ込んだパピィは大丈夫なのかと、不安になっていたのだった。

*****

ディナーも中盤に差し掛かった頃、館に来客があった。弁護士カーター氏だ。

急な仕事が入った事もあって夕食を取り損ねていたカーター氏は、執事の案内で、そのまま食堂に向かった。プライス判事が早速、カーター氏の出現に気付いて、驚きの声を上げる。

「おや……? カーター氏!?」

「ディナーの時分に、大変申し訳ございません」

カーター氏はディナー席の面々に、丁重に詫びた。

キアランはホストとして立ち上がり、カーター氏に空いている席を示した。プライス判事、マティと並び、ルシールが座る事になっていた席である。

「一席空いておりますから、お構い無く。ライト嬢が欠席ですので、ちょうど良いです」

「ライト嬢が? 私は彼女に、急用があったのですが……」

カーター氏は執事の手引きで所定の席に向かいながらも、驚きの声を上げた。

「内密の案件で?」

キアランの問いに、カーター氏は困ったような笑みを浮かべる。

「いえ。先日、舞踏会でナイジェル氏が骨折した件で。タイター氏が甥に代わって、ライト嬢を訴えているんです」

プライス判事は驚いたまま、ポカンとしていた。マティが早くも気を取り直し、素晴らしく要点を整理した。

「またギャング=タイターなの!?」

「さようで。直談判の上、示談にする必要があり……取り急ぎ、明日の約束を取り付けたところで……」

内心ホトホト苦り切っていたのであろうが、ベテラン弁護士カーター氏は、いつもの穏やかなポーカーフェイスに苦笑を浮かべただけである。

「ほほう! では、ライト嬢は再び町に直談判に出る必要があると……」

「しかも、明日……!」

マティのタイミングの良い補足もあって、ようやく事情を呑み込んだプライス判事は、改めて顔を引き締めた。

タイター氏は札付きの要注意人物であり、変な事をやらかさないように、前回のように前もって包囲しておく必要がある。

カーター氏は、プライス判事の無言の了解に、うなづいて見せた。

「さようでございます、プライス様。この前と同様に、こちらの馬車をお願い致したく……」

……アラシアは奇妙に沈黙したまま、カーター氏の説明の内容を窺っていた……

*****

ディナーが終わった頃を見計らって、執事がキアランを呼びにやって来た。

「リドゲート卿……閣下がお呼びでございますが」

「父が?」

キアランは一瞬、呆気に取られたが、すぐに気を取り直して了解し、クロフォード伯爵の部屋に向かった。

廊下の途中でキアランは、ベル夫人と行き逢った。ベル夫人は、いつものように滑らかに道を開けて一礼して来る。

キアランは、不意にアントン氏の私信の事を思い出し、懐から取り出した。落とし物をルシールに渡すよう依頼すると、ベル夫人は、いつものように丁重な態度で、指示を受けたのであった。

キアランはクロフォード伯爵の私室に入った。ソファに座っている伯爵の前には、既にキアランのための席が出来ている。

「父上。私をお呼びだとか」

「ああ、まあ……ハッキリさせておきたくてな」

伯爵は曖昧な顔をしながらも、キアランにソファに座るよう促した。

「単刀直入に聞くが、キアランは、あの子をどう思ってるんだ?」

「どういう事です?」

前置き無しの急な質問だ。キアランは訳が分からず、ソファの背に手を掛けたまま、立ち尽くした。

伯爵は、南側の窓を指差した。その一瞬、黒雲の各所で遠雷が弾け、鋭い光が閃く。

「そこの窓から見えたんでな……あの子とは、一体どういう話をしたんだ?」

気を取り直してソファに腰を下ろしたキアランは、窓の方を見やり――その窓からは、まさしく南側の庭園のあずまやが丸見えであった事に気付き――珍しくも、言葉に詰まってしまったのだった。

暫し戸惑って顔を赤らめながらも、キアランは口を開く。

「ルシール・ライト嬢に求婚しました」

伯爵も何故か、キアラン以上に戸惑っている様子だ。途方に暮れたような溜息をつきながら、頭に手をやっている。

「……まあ、そりゃそうだろうな。こんな事を確認するのは馬鹿げてるし、信じられんが……どのように求婚したと?」

キアランは、あずまやで行なったルシールへの求婚の経緯について、いつものように、『クソ真面目に』説明したのだった。

「彼女のローズ・パーク相続案件が長引いているのは、父親不明という要素が大きいためです。裁判で有利を取れる条件となると限られていて、既に相応の紳士と結婚しており男子の子孫を持つ事が確実な状態である事が必須になります。それで、私が申し出ました。……ローズ・パーク相続における利点は、案外素直に理解していたようですが、ダレット家との関係を誤解した節があるので、その辺りは改めて説明する予定です」

伯爵は顔を伏せて、沈黙したままである。そこに更に手をやっているため、表情は全く分からない。

「私としては、彼女の気持ちが定まらない限り、諦めるつもりはございません。彼女がレオポルド殿の私生児だったとしても、一向に構わないのです。むしろ、それならそれで……一部の親族たちを、納得させる事も可能でしょう」

そこで一旦、キアランの言葉が途切れた。

――ルシールの実の父親がレオポルドである可能性は、ほぼ90%以上の確率で確かなのだ。

私生児ではあるが、ルシールは、元の血筋から言えば次代クロフォード伯爵夫人の候補たるアラシアと同じ立ち位置になる。偶然とはいえ、嗣子相続に関する難しい法的基準を、キッチリと満たしているのだ。血縁関係の公認には手こずるだろうが、ルシールを伯爵夫人に迎えるという未来が、もしも、可能ならば――

……クロフォード伯爵は、奇妙な程に無言であった。

キアランは自分の行動の意味を悟り、歯を食いしばって、うつむくしか無かった。よりにもよって、伯爵の正式な客人に求婚した。本当に手は出さなかったにしても、それに近い行動ではある。伯爵が怒り狂ったとしても当然なのだ。

「客人に対して、一線を踏み越えている事実は承知しております」

キアランが硬い声で呟いた後、気詰まりな程に長い沈黙が、更に続き――そして、伯爵がようやく口を開いた。

「――実に、私が思ってる以上にバカなヤツだな」

糾弾を思わせる内容とは裏腹に、伯爵の口調は、意外な程に穏やかな物だった。

驚いて顔を上げるキアラン。

頭を抱え込みながらも、伯爵は心底、呆れたと言ったような様子で言葉を続けた。

「そこまで徹底して堅物だったとは……お前は、女の子を分かっとらん!」

キアランは暫し、伯爵の言葉の意味を考え……目をパチクリさせた。

「反対では無いと言う事ですか?」

「お前の事務的な求婚のやり方に、呆れただけだ!」

「承諾、有難うございます……父上」

伯爵が全く怒っていない――と言う事実にキアランは戸惑いながらも、堅苦しく一礼したのだった。

ほぼ同時に、執事が伯爵の部屋の前にやって来て、「失礼いたします!」と部屋の扉をノックし始めた。

「カーター氏が別件で来られているのですが……お会いになられますか?」

ディナーが始まる前のタイミングで、伯爵はカーター氏を急用で呼び付けていたのであったが、弁護士呼び出しの連絡を担当していた執事は、今頃になって、その事を思い出したと言う訳なのだった。

「即刻、連れて来たまえ! クレイグ殿も一緒にだ!」

伯爵は即座に答えた。

既に控えの間で弁護士カーター氏とクレイグ牧師が待機しており、執事の呼び出しに応えて、二人はすぐに扉の前に姿を現した。扉の前で彼らと入れ替わりながらも、キアランは怪訝な思いで、二人を眺めるばかりだ。

クレイグ牧師は一体何があったのか、夕方以降、奇妙な表情をしたままだ。

しかし、伯爵の部屋に入ったカーター氏は、いつものように丁重に一礼している。

「夜分、失礼致します……閣下、緊急の件だそうで」

執事がおもむろに部屋の扉を閉じている間、伯爵とカーター氏の会話が、キアランの方へも洩れ出していた。

「カーター氏の報告書には、重大な抜けがあるようだ」

「……はい?」

「ルシール・ライトの出生データに関わる、四ヶ月のズレだ!」

「あ、あの件ですね。修正報告書が到着してから報告する予定だったのです。ローズ・パーク相続に関する限り、その要素は、さして重要では無く」

「これ以上、重要な件があるか!」

館の外では、更なる激しい雷雨が始まっていたが、クロフォード伯爵は、雷鳴をしのぐ程の大声で遮ったのであった。

第五章「仮面舞踏会」

■レスター邸…春宵の庭

宵の刻。

気温は下がっていたが、春の季節という事もあり、それ程きつくない。

アシュコート伯爵領、辺境に近いレイバントンの町――

この町の郊外に、目を疑うような豪邸が建つ。レイバントンの町を代表するトップクラスの名家の一つ、レスター家が住まう邸宅である。

ややカッチリとした、モダンな新古典風の館だ。大規模なカントリーハウスと同様、壮麗な正面玄関を持ち、上から見ると、だいたいHの形をしている。

レスター邸は暗いアースブラウン系の外壁を持つため、宵闇が広がる時間帯になると、建物の外観は分かりにくくなる。しかし、窓を持つ部屋のほとんどに照明が灯っており、その窓の数の多さが、レイバントンの町の華やかな夜景の一部となっていた。

レスター邸の広々とした敷地の一角に、一族の墓地がある。庭木に囲まれた静かな空間だ。

風がしきりに吹くせいか雲が多く、空に見える星々の数は少なかった。墓地を囲む庭木の葉群が、終わりのないお喋りのようなざわめきを続けている。そのざわめきの中から、夜目にも際立つ白いショールをまとい、幽霊さながらに一人さまよう令嬢が現れた。

レスター邸の墓地を一人さまよう令嬢は、やがて、一つの墓の前で足を止める。その墓石には、このように書かれてあった。

――シルヴィア・G・スミス夫人、此処に眠る――

一陣の風が吹き、墓の前に立った令嬢の白いショールが風になびく。

他の庭園スペースと同様、墓地の各所には石畳で舗装された小道の各所に夜間照明用のランプがあり、煌々と小道を照らし出している。令嬢の見事な金髪が、ランプの光を反射してキラリと光った。

やがて、令嬢の他に、もう一人の人影が墓地に現れた。

「やはり此処だったのか……アンジェラ」

アンジェラは、先刻から既に親しい知人の接近を察知していた。この夜中に驚きもせずに、声のした方を振り向く。

「久し振りね、オズワルドさん」

オズワルドと呼ばれた背の高い黒髪の青年が、アンジェラの隣に並び立つ。二人は知り合い同士の気安さで軽い会釈をし、再会の喜びを述べ合った。

「再会するたびに美しくなっていくね、アンジェラは」

「フフ、口がお上手ね」

オズワルドは、公爵令嬢たるアンジェラに敬意を表し、上流社交界仕込みの洗練された所作で、アンジェラの手の甲に口づけをする。

アンジェラは礼儀正しく笑みを見せて応えながらも、オズワルドを心配し、懸念を口にした。

「レスター本家が催す音楽会だから、お歴々のご招待に加えて一族が全員集まってるでしょ。スミス家の大奥様に気付かれたら、大目玉じゃありませんか? 仮にもスミス家の御曹司さまだし」

オズワルドは綺麗にウインクして返す。

「抜け出して来たんだ……お祖母様は気付かないさ」

レスター邸の灯りを背にして、旧交を温めるべく親しく語り合う二人は、気付いていなかった。

――墓地を取り巻く樹木の茂みの中に、もう一人の人間が居て、彼らの会話に聞き耳を立てていると言う事を。

オズワルドは不意に怪訝そうな顔をして、アンジェラを見やった。

「つかぬ事聞くけど、ヒューゴ・レスターと付き合ってるのかい?」

最近、アンジェラがヒューゴと良く会っているという噂は、オズワルドの耳にも入っている。良く会っていると言う話であるにも関わらず、ヒューゴのひょうきんな雰囲気のある容姿が、アンジェラの美しい容姿と釣り合わないせいか、色っぽい噂は全く無かったのだが。

アンジェラは穏やかに微笑んで見せた。オズワルドを安心させるように。

オズワルドは、妙に気を回し過ぎるところがあるのだ。実際、オズワルドは数年前に父親を失い、若くしてスミス家の現当主になったばかりだ。気の張る事も多いに違いない。

「ヒューゴさんは弁護士よ。目下の裁判のパートナーで、それ以上でも以下でも無いわ」

「弁護士なら、他にもいるじゃ無いか」

「それはそうなんだけど。予算の問題で。トラブルの際の身辺安全込みで、彼は格安で引き受けてくれたの」

「あ、そうか。あんな流血のゴシップも出るくらいだ……ヒューゴは、どうやってか、寄宿学校では戦闘技術の上手な先輩に恵まれたらしいね。軍隊からスカウトされたらしいという噂を聞いたよ」

また一陣の風が吹き、アンジェラの柔らかな金髪がふわりと波打った。薄いクリーム色のエンパイア・ラインのドレスが、白いショールと共にひるがえる。

オズワルドはアンジェラの美貌に見惚れながらも、その陶磁器のような滑らかな顔に浮かんだ憂いの表情に気付き、心配そうに眺める。

「でも本当に、予算だけの理由? お祖母様が、また何か言ったんじゃ無いだろうね?」

アンジェラは目を伏せて、かぶりを振った。

オズワルドは、なかなかシッカリした性格で顔立ちも立派な紳士だが、偉大なる祖母でもある『スミス家の大奥様』には、ハッキリした意思表示はできない性質だ。それに、この件は、『スミス家の大奥様』が直接に干渉して来ている物では無い。

アンジェラは、『スミス家の大奥様』に対するモヤモヤ感――或いは、複雑な感情――を振り払うかのようにキリッと顔を上げ、ニッコリ微笑んで見せた。

「それは、さすがに特定秘密だわね……知ったところで、どうにかなる訳でも無いでしょうし」

「そう言う事じゃ無いんだけどね」

生真面目なオズワルドは、アンジェラがオズワルドの立場に配慮して、故意に質問をはぐらかしていた事には気付いていなかった。余計な事に気付いたり急所を突いて来たりするような鋭さが無く、その良家の御曹司ならではの穏やかな性格は、アンジェラにとっては、ホッと出来る物である。

10代の頃は、その優しさにときめいた。そのときめきは、いつしか淡い思慕となり、初めての恋心になっていった。『スミス家の大奥様』の介入が無ければ、今頃は、結婚前提の付き合いだったかも知れない……

……最近は、少し物足りないような感じもしているのだけど。

再び一陣の風が通り過ぎた。夜ならではの冷たさと、春ならではの仄かな暖かさ。ひとしきり庭園の木々や足元の草葉がざわめき、快い沈黙が流れる。

アンジェラは、身体が冷えないようにシッカリとショールを巻き付けて、そっとオズワルドの様子を窺った。

オズワルドは、やはり生真面目な様子で、宵闇に揺れる葉影を眺めながら思案し続けている。

――オズワルドさんは、何か気に掛かっている事があるらしいわね。

アンジェラはそう推測しながらも、慎ましく沈黙を守っていた。

身辺で本当に困った事があれば、いつものように、きちんと言葉にまとめて相談して来る筈だ。これまでにも、そうしてアンジェラは、オズワルドの身辺のトラブルの相談に応じて、ゴールドベリの賜物である『直感』から来る助言を贈って来ていた。

アンジェラは暫しの間、虚空を流れる物に耳を傾けた。

予想通り、『直感』に引っ掛かって来る物がある。余り良く無い兆候を示す物が。

アンジェラは、オズワルドをサッと振り返った。

「大奥様が、あなたを呼び始めてるわ」

「えッ? もう?」

「ご機嫌が、どんどんお悪くなってるの……私の勘が外れた事が無いと言うの、ご存知でしょ」

「あ、ああ……後で、大事な話があるから……アンジェラ」

オズワルドは溜息をつきながらもうなづき、庭木の向こう側に見えるレスター邸に向かって身を返した。名残惜しそうに手を振り、足を速めて去っていく。

アンジェラも手を振り、レスター邸の方へと去って行くオズワルドを見送る。

*****

オズワルドの姿が見えなくなった頃合で、アンジェラの背後に広がる庭園の木立の中から、エドワードが不意に姿を現した。

「ふーん……なかなか興味深い逢瀬だな」

「……!?」

物思いにふけり始めていたところで、虚を衝かれた形だ。

急に訳も無く苛立ちが湧き上がって来る。アンジェラは、キッと眉根を寄せてエドワードを振り返った。

「あなたってホント油断ならない人ね、エドワード卿! あなたの職業って、もしかしてスパイとかじゃ無いの!?」

エドワードは、イタズラっぽさも感じられる不敵な笑みを浮かべていた。明らかに、不意を取られて苛立っているアンジェラの姿を、意地悪く楽しんでいる様子だ。

「私が此処にいるのは、レスター本家の当主の直々のご招待ゆえだよ」

「そう言えば、ハクルート公爵家の御曹司であらせられたわね……」

――この、見せ掛けを見事に裏切っている、歩くファッション雑誌チャラ男ヤロウ。

アンジェラは我知らず、コブシをプルプル震わせていた。陶磁器のような白い顔は、苛立ちで上気している。ネコであれば、シャーッと威嚇している格好だ。

エドワードは、何故かアンジェラを動揺させたり苛立たせたりするポイントを、シッカリ突いて来るのだ。冷静にならなければ。アンジェラは、あさっての方を向いて息を整え、ブツブツと呟き始めた。

「……私の勘、本当に鈍ったのかしら。まだ花嫁が未定だなんて。紹介した令嬢たちなら、このシーズンの間に話がトントン拍子でまとまるだろうに、いよいよ謎だわ……! まさか、『男同士の恋人縁組』が真の希望とか……!?」

アンジェラは、縁組に対するエドワードの意思を、本気で疑い出した。何しろ、金髪の美青年と言う類まれなルックスなのに、まだ花嫁が未定なのだ。

エドワードは一歩アンジェラに歩み寄ると、不意に笑みを引っ込め、口を開いた。

「先程、大広間でレスターの一族の面々が会した時、『スミス家の大奥方』がアンジェラ嬢を無視したと言う一場面を拝見してしまってね」

そう語りかけるエドワードの声は、低い。

アンジェラはギクリとしてエドワードを振り返った。エドワードは笑っていなかった。物問いたげな眼差しだ。そこには、憐みの気配も仄見える。

――此処に来る前の、あの親戚一同の挨拶の場を見られていたのか。

アンジェラは、傷口に塩を塗り込まれたような気がした。すぐにあらぬ方を向いて、うつむいてしまう。

アンジェラは知らず、歯を食いしばっていた。白いショールを握りしめた手も、心なしか震える。

エドワードはアンジェラが立ち寄った墓石を観察し、そこに、いわくありげな女性の名前を見出した。

「シルヴィア・G・スミス夫人……?」

「……私の祖母です。スミス家の先妻で。母を出産した後の状態が良く無くて、早死にしたとか……」

シルヴィア――と口の中で繰り返したエドワードは、不意に、その名がオリヴィアと似ている事に気が付いた。

――シルヴィア。オリヴィア。

エドワードは若干の驚きを込めてアンジェラを見やった。

「ヒューゴが以前、説明していた……レディ・オリヴィアの双子の妹どのか? レスター分家のスミス家に嫁いだとか言う話の……」

「察しの良い方ですわね」

アンジェラは、殊更に深い溜息をついた。話題が変わった事で、多少ながら気分が落ち着いて来る。その手が、ボンヤリとショールの端をいじり始めた。

「今のスミス家の大奥様は、後妻で……直接の血縁は無いけど、祖母に当たる方です。オズワルドは、今の大奥様の孫だから……遠縁の従兄弟と言う感じかしら? 話に聞くところでは、祖父のスミス氏に似ているそうです」

「スミス家の御曹司・オズワルド殿は、アンジェラに相当、好意を持っているな……逢瀬も、これが初めてと言う訳じゃ無い」

「10代の頃は、彼との結婚を夢見てたわ……禁じられた恋って盛り上がるし……」

アンジェラは身に巻き付けた白いショールを直しながら、静かに呟いた。

さすがに、10代の頃の恋を思い出すと、面映ゆくなってしまう。夢見る乙女の常で、『騎士道物語』に出て来る禁じられた恋人たちのロマンスを、ひそかに重ねた事もあったのだ。照れ隠しであらぬ方を向いたアンジェラの頬は、いつしか仄かに赤く染まっていた。

「それで今は?」

エドワードの声は奇妙に平板だ。

不意に気配が変わった事に気付き、アンジェラは再びエドワードを振り向いた。

エドワードは、ハッとするような真剣な眼差しでアンジェラを見返している。

もう既に辺りは暗くなっていて、微かなランプの他には大した光源は無い筈なのに、エドワードの琥珀色の目は、むしろ刃の光を湛えたような金色に見え――アンジェラは、その射貫くような強い視線に、気を呑まれたように見入るばかりだった。

――この人は、奥深くに激情を秘めている人なのだろうか。

「オズワルドの最後の言葉を聞かなかった?」

エドワードは不思議そうに瞬きして、アンジェラを眺めた。

首を傾げた事で何処かの光の入る角度が変わったのか、それとも感情の波が去ったのか。既にエドワードの目は、いつもの琥珀色に戻っている。

「……え?」

「オズワルドは近日中に、あなたに求婚するらしい」

「……それは無いわよ! ロックウェル裁判が片付くまでは、絶対考えられない話……」

アンジェラは、更に言いつのろうとした。

その瞬間、突然、或る予感が閃く。

視覚と言うよりは聴覚方面の、デジャブのような――しかし確信めいた感覚。アンジェラは眉根を寄せ、辺りを見回した。心当たりのある方角を見定め、精神集中する。

いきなり賢者のような顔つきで沈黙したアンジェラの様子は、エドワードを驚かせた。

「……何だか、冷静だね……」

「勘だけど、オズワルドさんには将来の花嫁がいるわ。大奥様のご親戚の紹介の令嬢。相性ピッタリ……! さっき、オズワルドさんが真剣に考え込んでたのは、コレね!」

アンジェラは顔を引き締め、身を返した。レスター邸へ向かって駆け出す。

「縁組の作戦スタート?」

「当たり前じゃ無い、すぐ動かないと儲からないわ! イザベラと作戦会議だから、失礼ッ!」

「成功を祈るよ」

大事なオズワルドの幸せのためとあらば(ついでに、金のためとあらば)――とばかりに、アンジェラは、素晴らしい速さで駆け去って行く。

また一陣の風が吹いた。庭木の葉群がさざめく。

エドワードは額に乱れかかった金髪をかき上げ、鋭い笑みを浮かべた。

「実に喜ばしいね……両方の意味で」

■レスター邸…接触と小競り合い■

レスター邸の広々とした談話室に、縁組ビジネスに関わる女性グループの三人が集まっていた。

「クリプトン氏とララ嬢の婚約成立、礼金がご到着ッ!」

金髪の《戦女神(ワルキューレ)》という異名をとる、地元の縁組サービス代表イザベラは、礼金を入れた袋を持ち上げ、得意そうな笑みを満面に浮かべた。イザベラとアンジェラを含む三人の令嬢は、礼金を山分けにし、各々の取り分を取る。

「我らがチームは、成功率が良いわッ!」

「山分けって、気分最高!」

分配作業が済み、一人が別件で早々に抜けた。

アンジェラは手際よくお茶を準備し、イザベラは衝立の位置を調整する。イザベラとアンジェラは、お茶を一服しつつ、身辺の最新状況について語り合った。

「今回の収入も、裁判資金に化けるのね?」

「そうなの」

「ロックウェル裁判、まだ決着つかないんだ」

「向こうも結構しぶとくてね」

アンジェラは溜息をつく。アンジェラは、ロックウェル公爵を相手に、親子認知の裁判を起こしているのだ。もっとも、先方がなかなか法廷に出て来ないため、ほとんど宙ぶらりんの状態だ。

イザベラは親友の苦境に同情していた。

「ロックウェル公爵って、完璧に頭のおかしい異常人物じゃ無いの! 縁切りしたって、誰も何も言わないわよ! 今、父が首都の高等法院と連絡取ってるから、そのうちロックウェルに司法処分が掛かってくると思うけど……」

金髪のイザベラ嬢は、実は、ジャスパー判事の娘なのである。

「ジャスパー判事にはホント感謝してるわ。縁切りするには、縁を認めて頂く必要がある、なんて変な法律があるせいで、此処までこじれてる訳だし」

「クレイボーンの名を受け継ぐ気持ちは全く無いって事ね」

「完全に無いわ」

アンジェラはうなづいた。アンジェラの決心は堅く、イザベラは「マズイ」とも何とも言わない。この辺りはツーカーの関係だけあって、言葉に出さなくても、意図が伝わる部分があるのだった。

――広い談話室を仕切る衝立を挟んで、彼女たちの会話に耳を傾けている中年の金髪紳士が居る。一般招待客のような顔をして茶を一服しているが、見るからに身分の高い、堂々とした雰囲気の紳士だ。

イザベラとアンジェラは、まさか自分たちのようなお喋りスズメの会話に、注意深く耳を傾けている存在があるとは、夢にも思っていなかった。

アンジェラの近況の話は続いた。

「……ルシールが近々、ローズ・パークのオーナーの一人って事になるし、そうなったら、彼女と一緒に新しい事業を始めようかと思ってるの」

「そしたら、私にも声を掛けてね、アンジェラ。新しいビジネスのアイデアがあるのよ」

将来の計画の話題だけあって、アンジェラの気分は浮き立って来た。

「楽しみ。そうそう、スミス家のオズワルドの縁組作戦の件だけど、『スミス家の大奥方』が絡むから、私の名前を出すのはマズいのよ」

「話を詰めて、スミス家の大奥方に礼金を出させるのは、私からやってみるわ。任せて頂戴」

毎度、手早くアンジェラの作戦を了解するイザベラである。

ロックオン対象の令嬢は、既にアシュコート舞踏会で『縁組サービス』の顧客として引き込んであるし、後はスミス家の大奥方の了解を取って、ロマンチックな恋愛劇を仕掛けるだけだ。

縁組作戦のシナリオが固まったところで、二人は成功を祈って、お茶をお酒に見立てて一服したのであった。

イザベラはお茶を一服すると、アンジェラを見て疑問顔になった。

「大丈夫? アンジェラ、オズワルドに恋してたんじゃ無かったっけ?」

「そうねえ……案外、平気みたい」

「それで今は?」

「……(ゴフッ)」

アンジェラは動転の余り、お茶を吹き出した。

「あら!?」

「ご、ごめん、イザベラ。ビックリしてむせただけだから」

「もう、一体どうしたのよ。まぁ、オズワルドは典型的なオットリ御曹司ちゃんで、アンジェラとは釣り合わないとは思ってたから、こうなって安心したけど」

「……どういうイミよ」

イザベラは意味深な含み笑いをし、ウインクを返した。テキパキとお茶を片付け始める。

「言葉通りのイミよ、フフン。じゃ、一刻の後に、会場の例の場所で」

「了解」

お茶が片付くと、二人は今夜の会場で再び落ち合うタイミングを確認し、各々、別行動に移ったのだった。

*****

イザベラと別れた後も、アンジェラの心臓は落ち着かないままだ。

エドワードが不意に見せた、激情のような何か。金色をした鋭い眼差しは、それ程にアンジェラの心に食い込んでいた。オズワルドに寄せ続けていた思慕の念が、断ち切られる程に。

――射貫くような金色の目。あれが、エドワードの奥にある、もう一つの面なのだろう。

最初はテキパキとした足取りだったが、次第にゆっくりになる。無人の曲がり角に到達し、アンジェラは、窓の外を見ながら溜息をついた。

頬が熱い。

「それで今は? って……あんなタイミングで、同じ首都方面のイントネーション……」

慣れぬ方面で、あれこれと思案を巡らせているうちに、アンジェラはすっかり注意散漫になっていた。

いつの間にか、人気のない廊下に躍り出て来た、一人の伊達男と向き合っている。

「おや! これはまた見事な金髪美少女だねえ!」

伊達男は笑い、アンジェラのほっそりとした白い手首をつかんだ。伊達男は、既に相当量のお酒をきこしめしていた。その口からは、濃厚なアルコール臭がしている。

「酔っ払い、お断り!」

アンジェラはピシリと言って抵抗した。

だが、過分に入ったアルコールのせいもあるのか、伊達男は何やら、不穏な下心を膨張させていたのだった。伊達男は不気味なニヤニヤ笑いを浮かべたまま、アンジェラの手首をいっそう強くつかみ、何処かへ連れ去ろうとし始める。

レスター邸は広く、重要会議室など、機密性に配慮した小部屋も各所に存在するのだ。その小部屋は、時には別の意味を持った小部屋に変身する。壮麗ではあるが人気の無い廊下を引きずられて行くアンジェラは、本気で身の危険を覚えた。

せめてもと、ヒールの付いた靴で伊達男の足をゲシゲシと蹴ってみるが、絶妙に過剰になったアルコールが、人間の感覚を如何に鈍くするかという事実に、逆に驚かされてしまう。

アンジェラは、伊達男の手を何とかして外そうと必死になっているうちに、伊達男が見知った人相をしている事に気付いた。全く知らない人物では無いが、それはそれで、また別の疑惑が浮かんで来てしまう。

「何か見覚えがあると思えば、あの時の……マダム・リリスに何か薬盛られてるんじゃ無い」

何としてでも、この男を倒さなければ。アンジェラは一層、力を込めて、伊達男のふくらはぎにヒールを食い込ませた。

さすがに男も痛みに気付き、ムッとした顔になった。

「甘く見てりゃ、この子猫は……」

「だから放しなさいよ!」

伊達男は一気に狂暴な人相になった。片手をコブシにして振り上げ、アンジェラに殴りかかろうとする。

瞬間。ガシッというような衝撃と共に、伊達男のコブシが止まった。

「オッホン!」

「……!?」

伊達男が、ギョッとした様子で振り返る。

この場には不自然な程の、威厳のある中年の金髪紳士が、そこに居た。伊達男の手首をつかみ、その動きを封じている。

足音一つ立てずに現れたのは明らかだ。その手の気配など、全く無かった。アンジェラは目を白黒するばかりだ。

呆然とするアンジェラの目の前で、伊達男の身体が回転した。

あっという間に、伊達男は中年の金髪紳士に手首を逆さにひねられ、拘束されていたのだった。

「アシュコートの判事の仕事量は、並大抵では無いと言う訳だな」

「いきなり何だ! いて、いてて……! この腕力ジジイ……!」

明らかに上流貴族と思しき身なりの中年の金髪紳士は、若い頃に相当鍛えたのであろう、年齢にも関わらずしゃんとした姿勢と体格をしており、訓練された身のこなしの様は、軍人のようにも見える。

想像以上の物凄い力で拘束された伊達男の方は、完全に酔いが醒めたらしい。本当に腕をへし折られる危険を直感したのか、すっかり顔色が変わっている。

伊達男の力がゆるみ、アンジェラの手首が自由になる。

アンジェラは、この隙にと、スタコラサッサと逃げ出した。

*****

哀れな伊達男の喚き声が、人気の無い廊下に響き渡る。

そこへ、ヒューゴとエドワードと縮れ毛の従者の三人が、ちょうど通りかかった。三人は揃ってビックリした様子で、中年の金髪紳士が伊達男を取り押さえている光景を眺めた。

「ハクルート公爵様!」

仰天するばかりのヒューゴ。エドワードも、訳が分からないと言った様子で唖然としている。

「父上? 何かトラブルでもありましたか?」

「この男がな」

エドワードの父親・ハクルート公爵は、涼しい顔で応じた。

次の瞬間、いきなり解放され、伊達男は目を回して転倒せんばかりになった。縮れ毛の従者が早速、その身体を支えつつ拘束する。伊達男の人相を確認したヒューゴは、再び仰天した。

「マダム・リリスの、最近の愛人……!」

半分失神した伊達男を、縮れ毛の従者が手際よく控え室に引きずって行った。その様子を眺めながら、ハクルート公爵は、近辺で聞き込んだ噂を披露した。

「しかし、ここ最近、捨てられたと言う噂を聞いているぞ。その恨み故か、アンジェラ嬢にちょっかいを……」

相変わらずの地獄耳だ。その情報に、エドワードもヒューゴも唖然とするばかりであった。

ハクルート公爵は改めて息子エドワードを見やり、その『頭の軽すぎるチャラ男』にしか見えない扮装をしげしげと眺め、困惑の表情を浮かべた。

「マダム・リリスの新しい愛人は、金髪……つまり、お前だと言う噂があるが」

「あのマダムが流言飛語の女王だと言う事を、すっかり失念していた……」

いつの間にか父親は、息子の最新のゴシップも仕入れていたのである。

エドワードは、バツが悪くなって顔をしかめ、父親譲りの金髪をかき回すのみだ。ヒューゴも冷や汗をかいている。

「こッ、これには、色々と複雑な訳がありまして……」

チャラチャラした遊び人風のエドワードと比べると、父親ハクルート公爵は、年季の入った威厳が明らかに感じられる佇まいだ。一般招待客のような顔をして潜り込んで来てはいるのだが、さすがに大国の大臣を務めている者ならではの風格がにじみ出ている。

ハクルート公爵は、アンジェラの走り去った方向をチラリと見やった。

「どの娘が、あの脅迫状を書いた彼女かは、すぐ分かったよ」

公爵は胸ポケットから封書を取り出し、ヒューゴに手渡した。

早速ヒューゴが文面を開く。エドワードも興味津々で身を乗り出した。

『この件から手を引け。さもなければ、今度は貴殿が、誰も知らない冷たい場所で、バラバラ死体となって転がっているであろう』

ヒューゴは冷や汗ダラダラである。

「これが、『忠告も、ちょっと入れた』だって……!?」

「珍しい物を見たような気がする」

ハクルート公爵は、フッと息をつき、くつろいだ顔になった。

「ロックウェル公爵令嬢、アンジェラ・スミス・クレイボーンか。ユージーンの面影が、確かに存在する。……それ以上に、レディ・シルヴィアに良く似ている……」

エドワードが意外そうな顔になる。

「シルヴィア? アンジェラの祖母の事をご存知でしたか?」

「エスター侯爵令嬢レディ・シルヴィア。少年の頃にな、首都の社交界で拝見した事がある」

勿論、そう説明したハクルート公爵にしても、当時はまだ少年と言って良い年齢であり、一回りほども年上だった令嬢には、さほど関心が無かった。しかしそれでも、エスター侯爵令嬢の息を呑むような美しさは、記憶にハッキリと残っていたのである。

■レスター邸…音楽会の夜■

ハクルート公爵は、勝手知ったる館と言った様子で、中庭を取り巻く回廊を歩き出した。

エドワードとヒューゴも後に続く。

館から洩れる光が、ボンヤリと回廊全体を照らしていた。中庭には淡い色の花々が咲き乱れ、艶のある花弁がボンヤリとした光を照り返しているため、この辺り一帯は、意外に明るく見える。

やがて三人は、誰からと言う事も無く、回廊の一角でゆっくりと足を止めた。

中庭に宵闇の風が吹き、ボンヤリとした薄明りの中で、花々の甘い香りが流れる。レスター家の自慢の中庭だ。今夜は音楽会がメインのため、こちらは注目の的では無かったが。

ヒューゴは暫し首を傾げた後、釈然としないと言った風で口を開いた。

「エスター侯爵は、ゴールドベリ一族では無い筈です」

「貴族名簿によれば、デンプシー家ですね? 確か」

「私が言うのは、アルヴィン・G・フレイザーだ。話題になるような人では無かったし、息子の居なかった貴族の常で、死後は別の家系に爵位が移行したからな」

そう説明するハクルート公爵の脳裏には、いつしか、かつてのエスター侯爵とその令嬢、レディ・シルヴィアの姿がよみがえっていた。

故エスター侯爵は灰褐色の髪と褐色の目をしていて、物静かで印象の薄い人物だったが、素晴らしいまでの博識の持ち主だった。息子には恵まれなかったが、ありとあらゆる知識を惜しみなく我が娘に与えたと言う。

「故エスター侯爵のミドルネームは、G……表向きの名乗りこそ無かったが、彼はゴールドベリ一族の子孫の一人だったのだ」

エドワードとヒューゴは、驚きで沈黙したまま、耳を傾けている。

「過去の歴史を思えば、かの徹底した秘密主義は正しい選択かも知れんな。いにしえの騎士の時代に連なる狂信者の時代、魔女弾圧が猖獗を極めた頃、ゴールドベリ一族は、神話時代にまでさかのぼる叡智と伝統と神秘的な能力の故に、魔女と同一視されていた。激しい弾圧の結果、一族の直系と言う意味での血筋は、火刑台の上で直系の最後の魔女が燃え尽きた時に完全に断絶したのだ」

ハクルート公爵の説明が、暫し途切れた。

エドワードが目を見張りつつ、呟く。

「……そこまでは、寡聞にして存じませんでした」

「政府高官でも限られたメンバーにしか伝えられない事だからな。ゴールドベリの名は、血縁の中でも限られた人しか名乗れない。その分、世間では、自称『ゴールドベリ』の偽者が絶えない訳だが……今でも、巫女の託宣で一族の宗主を選ぶそうだ」

ハクルート公爵は思案顔で、中庭の花々に視線を泳がせた。

「レディ・シルヴィア・G・フレイザーには、双子の姉がいた。当時、姉の方は生死不明の扱いだった」

そこで、ヒューゴがハッとした様子で口を挟む。

「レディ・オリヴィアは、脚を悪くしていらっしゃって、若い頃から社交界に出ていなかったそうですが」

「うむ。アシュコート伯爵に聞いた時は驚いたよ。ゴールドベリの巫女として、こちらに隠棲していたとは……」

*****

三人は、レスター家のメインの催しである音楽会の会場に入った。

工夫と贅を凝らした華やかな会場には、既に社交界のお歴々が到着している。プログラムが始まる前の空き時間を有効利用して、あちこちで人物紹介や挨拶が交わされていた。

ハクルート公爵は、『その筋』の見知った顔を順番に確認して、意味深な笑みを浮かべた。

会場の一角では、アシュコート伯爵と彼を取り巻く数人の知人が、レディ・オリヴィアと丁重に挨拶を交わしている。

年老いてなお美しいレディ・オリヴィアの姿に、改めて感心する。

平均的に言っても、足腰を悪くする人が多くなる年代だ。レディ・オリヴィアも脚を悪くしているのだが、この年齢になれば身体的には目立たない事もあり、このように特別な機会には、招かれれば社交界に出るようになったらしい。ゴールドベリ一族に連なる人物をその気にさせるには余程工夫が必要だろうが、宮廷社交界に招く事も出来るかも知れない。

ハクルート公爵は、今回レディ・オリヴィアを初めて見るという事もあり、注意深く観察した。既に白髪がほとんどで、顔にも年相応のシワが刻まれているのだが――これ程に美しく年を取る人を、他には知らない。

「もう60代の筈だが、あの謎めいた美貌……魔女の噂も納得だな。ゴールドベリ一族の宗主との、秘密の通信もある筈……」

「ゴールドベリの宗主? グウィン氏は、100歳を超えているとの噂もありますが……まだ生きていたんですか?」

ハクルート公爵はうなづきながらも、この時ばかりは珍しくボヤいた。

「彼の地位や影響力からすれば、このロックウェルの問題は些細な代物に過ぎん。表立って動かないのは理由があるのだろうが、私には訳が分からん」

*****

舞台に楽団メンバーが揃い、演奏プログラムが始まった。観客席は、ほぼ埋まっている。

エドワードやヒューゴと共に観客席に着き、音楽に耳を傾けながらも、ハクルート公爵は懸念を口にした。

「アンジェラ嬢は、スミス家とは上手くいってないらしいな」

「そこまで、お聞き及びでしたか」

ハクルート公爵の地獄耳に、感心しきりのヒューゴである。ヒューゴは暫し思案して内容をまとめると、アンジェラの事情についてハクルート公爵に説明を始めた。

「シルヴィア・スミス夫人が早死にした後、スミス氏は残された娘のセーラの養育の事もあって、後妻を迎えたんです。その後妻が、今の大奥方、ハリエット・スミス夫人であります」

「予想がつくな……良く聞くところの確執と言う訳だ」

――セーラ・スミス嬢と、新しい奥方ハリエット・スミス夫人は、何故か気が合わなかったのだ。

ハクルート公爵は会場の上座の方に目をやり、納得の表情を見せた。

――かの『スミス家の大奥方』が、孫息子オズワルドと共に座を占めている。

こうして観察してみると、ハリエット・スミス夫人は、過剰なまでのプライドの高さが仄見える、面倒そうな老女だ。レスター分家の名家スミス家を維持すると言うのは、大仕事らしい。往年の際立つ美貌が端々に窺えるのだが、威厳を保つためなのであろう刺々しい表情が、実年齢以上に老けた印象を与えている。

老ハリエットは、同じ会場に居るオリヴィアを気にしている様子で、チラチラと視線をやっていた。スミス家はレスター家の第二位の席次にあり、取り巻きとして、レスター家の下位親族メンバーを相当数、揃えている。しかし、オリヴィアを取り巻く重鎮メンバー程の人脈は無い事が窺えるのだ。

ハクルート公爵は腕組みをし、息子エドワードの方へ視線を泳がせ……少しの間、回想を繰り広げていた。

*****

……音楽会が始まる前。親族のみが集まる、レスター邸の第二の広間。

ハクルート公爵は、地獄耳の忍者としての秘密の特技を生かし、その場にひそかに潜入していた。息子エドワードが妻に望んだ、令嬢の人となりを見極めるためだ。

老スミス夫人は、レスター家の第二位の席次を持つ高位の親族として、並み居るレスター親族の挨拶を受け入れているところであった。

しかし、アンジェラの姿を見るなり、老スミス夫人は化粧がひび割れる程に顔を引きつらせ、手に持っていた扇で、貴婦人のサインを送った。『即、この場から立ち去れ』と。

アンジェラは、ヒューゴやヒューゴ父のレスター当主などといった、親族として最小限必要な――最上位のレスター家の面々とのみ挨拶を交わし、その後、速やかに姿を消していた。

その間、老スミス夫人は徹頭徹尾アンジェラを無視した。アンジェラに近付こうとする第二位以下の下位親族を険しく睨み付けて、牽制すらしていた。明らかに、スミス家の先妻の孫娘でもある筈のアンジェラを、『その場に居ない物』として扱っていたのだった。

そこには、他人の目にも明らかに見て取れるほどの、冷え冷えとした空気が流れていた。

――エドワードは、あの奇妙な関係を察知して、すぐにアンジェラ嬢を追った。思った以上に、ユージーンの娘に本気と言う訳だ……

*****

回想から戻ったハクルート公爵は、再びヒューゴを見やった。

「貴族名簿やら何やらで下調べしておいたが。シルヴィアの夫・スミス氏は、確か、再婚した後、間も無く死んでいなかったかね?」

「その通りです。二代目も早死にして……今はオズワルドが目下の独身当主で、花嫁募集中です」

エドワードは無言で、ハクルート公爵とヒューゴの会話に注意深く耳を傾けていた。

ヒューゴの説明は続いた。さすがにレスター家の身内だけあって、その内容は詳しい物である。

「セーラは10代半ば頃スミス家を出て、レディ・オリヴィアの付き人として生計を立てていたそうです」

セーラがスミス家を出た理由については、陰で色々とささやかれてはいるものの、正確なところは明らかでは無い。セーラは、実母シルヴィアに似たのか大人しい性質で、正面切って抗弁するというような事は無かった。

どう見ても、後妻たるハリエット・スミス夫人が、先妻の娘たるセーラを、何らかの言い掛かりをつけて追い出した形に近い。しかし、それを公的に指摘すると、ズルズルと身内の恥をさらしかねず、レスター家の者でさえ遠慮する状態なのだ。

「その後、セーラがロックウェル公爵の奥方に迎えられて……」

ヒューゴは、そこで一瞬の間だけ言いにくそうに口ごもったが、すぐに先を続けた。

「スミス家の大奥方にしてみれば……まあ、実の娘を差し置いて、追い出していた筈の先妻の娘が公爵夫人に出世してしまった訳ですから、余計、複雑らしくて……」

ハクルート公爵は思案深げな顔で、ゆっくりとうなづいた。

「――流転の令嬢だな。二代に渡る因縁が、アンジェラ嬢の上にたたっとる訳だ。その上に、ロックウェル公爵の問題がある……か」

そして、ハクルート公爵は様々に思う事があったのか、長い沈黙に落ちた。

音楽会のプログラムは、いつの間にか後半へと移り、今夜の注目の華やかなオーケストラ曲が始まりつつあった。

エドワードは、数々のハッキリとしない疑問を抱えながらも、父親を見つめるのみだった。

*****

レスター家開催の音楽会が終了し、社交界の定番でもある夜会が続いている。

ハクルート公爵とその息子エドワードは、レスター邸の庭園のひっそりとした一角を散策していた。ハクルート公爵は元々お忍びで来ている身であり、夜会をすっぽかす事など簡単な事だ。

やがてハクルート公爵が、おもむろに口を開き、エドワードに語り掛ける。

「お前も、妙な存在に惹かれる性質らしいな……あの奔放な弟に預けたのが、やはり問題だったのかね」

父親に先立って庭園の小道を歩いていたエドワードは、意味深な笑みを浮かべた。小道の途中に、ランプが灯された瀟洒なあずまやがあり、深夜にも関わらず、ボンヤリと明るい。

「でも、そのお蔭で、想像以上に色々な事を学びましたよ。叔父が居なかったら、キアランとも会っていなかったでしょう」

「リドゲートか……彼の腕前も大した物だな」

「銃と剣の名人と名高い叔父が、私たちの師匠でしたからね」

そして自然に、沈黙が流れた。ハクルート公爵は、真剣な眼差しでエドワードを見やる。

エドワードは次に来る父親の言葉を予期しているのであろう、真剣な表情で、虚空の彼方を見つめていた。あずまやから洩れる光に、若者の心もち長い金髪がきらめく。

長い沈黙が過ぎた後――ハクルート公爵は腕組みしたまま、確認するように問い掛けた。

「あの手紙の追伸に書いた事は、本気なんだな?」

「ロックウェル事件にケリが付いたら、彼女に求婚します」

エドワードは、真剣なまなざしで会場の方角を眺めていた。現在、会場では、イザベラやアンジェラが縁組作戦を実行中の筈だ。

ハクルート公爵は、クイと片眉を上げた。

「――よりにもよって、私に脅迫状を書いた娘に?」

「私もまさか、多忙を極める父上が、本当に此処に来られるとは思いませんでしたよ」

今度は、ハクルート公爵が腕組みを解き、あらぬ方を眺める番であった。

「弟のヤツ、脱税の内偵の技術ばかりか、減らず口まで仕込んでいたらしいな……」

父親は、幾分か皮肉っぽい口調ではあったものの、不興を感じている様子は無かったのであった。

■レスター邸…ゴールドベリの巫女(前)■

音楽会が終了した会場の中では、夜会がたけなわである。

脚が不自由なオリヴィアは車椅子に座っており、夜会が半分ほど過ぎた辺りで退出する事になった。光栄にもアシュコート伯爵に車椅子を押してもらいながら、割り当てられた控え室に向かう。

二人は会場を退出しながらも、注意深くハリエット・スミス夫人の様子を窺った。

アシュコート伯爵が困ったような様子で呟く。

「スミス家の老ハリエットは、今年もシルヴィアの孫どころか、あなたすらも避けているようだな……」

「予想できた事ですわね」

「オリヴィアが町に出て来るのは、年に一度の、この催しの時だけと言うのに」

アシュコート伯爵は、なおも納得しかねている様子だ。しかし、伯爵と言えども、他人の感情にまで干渉する訳には行かない。こういう部分では沈黙を守らざるを得なかった。

*****

控え室に入ったアシュコート伯爵とオリヴィアは、一つの円卓を囲んだ。

円卓の上には既に明かりが灯っており、多数の手紙が入れられた小さなバスケットがある。いつも通り、アンジェラが整理しておいた物だ。

「また近辺の相談事が集中かな?」

アシュコート伯爵は、バスケットの中の手紙の数に呆れた様子だ。

『謎を解き明かす森の魔女』と言うような神秘的な評判がひそかに広まっており、オリヴィアの元には、何かとトラブルに関する相談事が持ち込まれて来ていた。ましてオリヴィアが町に出て来る機会は滅多に無いため、この時期の定例の滞在先となっているレスター邸方面に、オリヴィア宛の相談事が集中する事になるのだ。

オリヴィアは楽し気に微笑みながら、幾つかの手紙を手に取った。

「ギルバート様のご令息がたの相談もありますわね……夫婦喧嘩のようです」

アシュコート伯爵は白髪混ざりの銅色の髪をかき回し、「あいつら……」と、呆れたように呻くのみだった。

*****

長くオリヴィアに仕えている家政婦スコット夫人が、タイミング良くお茶を運んで来た。スコット夫人が退出した後、伯爵とオリヴィアは、おもむろに会話を始める。

「あなたが今でもアシュコート領に居るのは光栄だが、レディ・オリヴィア……アンジェラにとっては、必ずしも良い環境だとは言えないのが……」

伯爵はそこまで言うと、続きに詰まって口ごもった。

アシュコート伯爵領の辺境に近いレイバントンの町は、ロックウェル公爵の領地と隣接している。目下、アンジェラとロックウェル公爵は、親子認知の件で揉めており、この町で裁判を起こしている。これに関連して、脅迫だけで無く、『ロックウェルのバラバラ死体』で知られる凄惨な殺人事件や謎の行方不明事件が発生した。穏やかな経緯を辿っていないのは、目にも明らかである。

オリヴィアは静かな笑みを浮かべた。

「アンジェラも私も承知の上ですから、お気になさらず。あの子が成人した時、長く話し合って決めた事でもありますから」

オリヴィアは、ふと窓の外に目をやった。

春の夜の風の音。意味深にざわめく葉群の影。

宝石のような緑の目には、憂いの色が浮かび始めている。やがてオリヴィアは溜息をつき、目を伏せた。

「アンジェラが生まれた時も、このように風の声がさやいでいたものですわ……」

オリヴィアの脳裏には、アンジェラが生まれた時の思い出がよみがえって来ていた。

――かつて遠縁の従姉が私を見出したように、アンジェラが生まれた瞬間、私にも分かった。ゴールドベリの娘だと。

しかし、ゴールドベリを名乗るという事は、いにしえの弾圧の歴史を思えば、相当の覚悟が要る。巫女としての確かな能力が無く、単に『直感』があるという状態だけでは、名乗りに対する充分な理由にはならない。

――アンジェラは、どうして生まれて来たのだろう。

今では、先祖返りの出現例は随分と少なくなっている。だが、直系が絶えてなお、今でもゴールドベリの先祖返りが出現すると言う事実は、その『知』の伝統と能力には、まだ存在意義があると言う事を証しているのか……

オリヴィアは目を伏せ、静かに言葉を続けた。

「あの子の運命は、私の勝手のせいと言えるかも知れませんね」

「どう言う事かな?」

「シルヴィアが此処のスミス氏と出逢ったのは、私が此処に来たから。そして、私がアシュコートに来たのは……ギルバート様が、いらしたからですわ」

オリヴィアは、微かに頬を染めた。聞きようによっては『愛の告白』だ。

アシュコート伯爵は、驚きと動転の余り、お茶を吹き出した。

「お茶が……ギルバート様」

冷静に布巾を差し出すオリヴィアである。

アシュコート伯爵は、年甲斐もなく顔を赤らめたまま、まだ信じられないと言った様子で固まっていた。

「エスター侯爵の邸宅で、ギルバート様を迎えていたのは私だったのです」

オリヴィアは、アシュコート伯爵と初めて会った時の事を説明した。もう40年以上も昔の事である。

「双子と言うだけあって、シルヴィアとは見分けが付かなかったでしょうね。若い頃は私の脚も、ごまかせる程度には大丈夫でしたし」

「混乱して……何が何だか……」

アシュコート伯爵は、まだ呆然と茶カップを手にしたまま、固まっていた。

オリヴィアはイタズラっぽく微笑み、説明を続けた。

「あの頃、妹のシルヴィアは、連日の脅迫状を受け取っていて、心底参っていた状態だったのです。私にはストーカーの類と分かっていましたから、私がシルヴィアの替え玉となり、ストーカーの正体を暴いて撃退するという作戦でしたの。そこに、六人目の容疑者としていらしていたのが、ギルバート様だったという訳ですわ」

アシュコート伯爵は視線を泳がせた。

「あの頃は……エスター侯爵邸の周囲で、悪趣味な脅迫状や落書きが……いや、あれは黒魔術だったな、意中の女性の心を得る為の、オマジナイとか何とか……」

アシュコート伯爵は何とか気を取り直し、ギクシャクとしつつ――危なっかしい手つきながらも、茶カップを受け皿に戻す。

「歪んだオカルト趣味の、稚拙な小細工でしたわね」

「オリヴィアも相当だったではないか」

呆れたような溜息をつくアシュコート伯爵であった。

「その不自由な脚で、銃と剣の心得のあるストーカー男と、一戦まじえようとしたのだからな。現実は、おとぎ話の『戦乙女(ワルキューレ)』と同じようにはいかない物だというのに」

オリヴィアはちょっと目を見張り、その後、少女のようにコロコロ笑う。

「ギルバート様が代わって、鉄拳で話し合いをして下さいましたわね。印象深い出来事でしたわ。父は……とても優しい人で、そういう荒事とは無縁でしたから。その分、私が気を張っていたところがあって……」

オリヴィアはお茶を一服し、感慨深げに呟いた。

「……気が付いたら、あなたを愛しておりましたわ」

アシュコート伯爵は赤面してうつむいた。照れ隠しに、銅色の髪をしきりにかき回している。

「生死不明の双子の件は聞いていたが、本当に双子とは……確かに、印象は、最初の舞踏会の時とは面白いくらい違うなと思ってはいたが……」

納得する事が次々に思い出されて来る。

――エスター侯爵邸での令嬢は、首都圏の舞踏会で初めて会った時の大人しそうな印象を、大きく裏切っていた。何か楽しそうな事を思いつくと、緑色の目がキラキラと輝き出す。イタズラっぽい微笑み。そして何よりも、鋭いユーモア感覚を感じさせる、痛快なまでの受け答え。

「何処で再び、入れ替わったのか……あ、あの後か? あのストーカー事件が解決した後、馬車で一人、外出した事が……」

「フフ、正解ですわ」

オリヴィアは肩をすくめ、イタズラっぽい笑みを見せた。

アシュコート伯爵は、疲れたように大きな溜息を返すのみだ。

「道理で。あの日を境に、最初の印象どおりの、おとなしい令嬢に戻ったな、とは思っていたんだ……」

――あの火のような気性に惹かれていた。

あの昔のやり取りの後、自然にエスター侯爵家とは縁遠くなった。そして色々と不思議な出来事があって、思いがけずアシュコート伯爵の地位が回って来たのだ。

伯爵は、複雑な思いでオリヴィアを見やるしか無かった。

周辺の事情が落ち着いたら、いずれは求婚しよう――と思うくらいには心惹かれていながら、最後の日、その手を取りそこねてしまった令嬢を。

「あの時、私は……あなたの手を取るべきだったか……?」

オリヴィアは少し寂しそうな笑みを浮かべ、うつむいた。

「そうは参りませんでしたわね。私には……近いうち、伯爵になるギルバート様も、奥方の姿も……見えておりましたから……」

――恐るべき透視能力だ。

アシュコート伯爵は、今更ながらに驚きを込めて、オリヴィアを見直した。

「グレースの姿が……か? 子供たちの姿も?」

その確認に、オリヴィアはシッカリとうなづいたのであった。

オリヴィアにとっては初恋であった。しかし同時に、決して成就しない恋である事も、オリヴィアには、最初から分かっていた……

「年を取る程に悪くなる、私の脚の事もございました。ギルバート様のご両親は、私を認めなかったでしょうね。私にしても、当時の貴族社会が求めるような、良き妻としての能力が無かった。私には、生まれながらにして、ゴールドベリ一族の未来を占う巫女としての義務がございました」

人生とは選択の連続だ。生まれついた立場によっては、限られた選択肢、限られた道しか示されない場合も多い。その迷いと苦しみの中で、オリヴィアは一つの道を選択せざるを得なかったし、実際に断固として一つの道を極めたのである。

沈黙が横たわった。窓の外では、春の夜の風がさやぎ続けている。

「……ゴールドベリの巫女、それも、最も強い先祖返り……か。いにしえのゴールドベリ直系の巫女ともなると、どれ程の物が見えていたのだろうな」

「直系の最後の巫女は、いわゆる『神』の相も見えていたそうですわ。それが、狂信者の怒りをかった理由にもなったのですけれども」

オリヴィアは、長く秘めて来た思いを噛み締めつつも、穏やかに微笑んで言葉を続けた。

「私は、レディ・グレースには、なれない。でも、ギルバート様の余生の旅路を……今は既に遠くなった青春の思い出と共に――古い友人として、また戦友として、お供させて頂くだけで光栄です」

アシュコート伯爵は灰色の目を細め、ゆっくりと微笑んだ。若かりし頃のように。

「私にとっては、オリヴィアはいつでも謎と神秘に満ちた火の乙女だったよ」

「相変わらず口がお上手ですわね」

オリヴィアも感謝とユーモアを込めて、小気味よく切り返したのであった。

■レスター邸…ゴールドベリの巫女(後)■

アシュコート伯爵は気を取り直すと、真面目な顔になり、目下の懸念を話題にした。

「しかし、奇妙だ……その透視能力をもってしても、ロックウェル事件が依然として謎ばかり、という状況とは。勿論オリヴィアの能力無しには、此処まで追及する事も、また出来なかったが」

「占いの類の言葉になってしまいますが。『深淵の迷宮』が広がっていて、透視しようにも難しい状態ですから……」

オリヴィアも頬に手を当てて、思案顔になる。

オリヴィアの透視能力は、現在のゴールドベリの巫女の中ではトップクラスだ。しかし、その能力をもってしても、ロックウェル事件には、『深淵の迷宮』が広がっているのだ。

卓越した透視能力を持つオリヴィアには、一期一会の軌道を描いて行く運命の星図が見えていた。ゴールドベリ一族の中でも、そこまで透視できるような能力の持ち主は、滅多に居ない。直系の者が死に絶えてしまった現在では、尚更だ。

一期一会の星図――運命の軌道を描く、星辰の階梯。

一つの大きな軌道が終わる時に、『巨星墜つ』という言い方がされて来たのは、決して妄想の産物では無い。

光明星の軌道と暗黒星の軌道とが複雑にもつれ、絡み合い、『クロノスの時』と共に無限の連関を――運命を織り成して行く、虚空の円舞曲。

「……今の時点では、まだ見えない物が多すぎますわ。雪闇の中に、多くが封印されている。謎が、記憶が、愛が、凍て付いた迷宮と化している……」

アシュコート伯爵は困惑顔だ。

「オリヴィアの、その類の話は、いつも壮大で難しいな。真相は、『深淵の迷宮』の中に封印されているという事か」

「あるいは、運命の仮面の下に。直系の最後の巫女は、『界(カイ)』という言葉で、それを言っていたのですわ。当時の言語では、それが精一杯だったのでしょうね」

*****

――『界(カイ)』。虚空の無限に広がる星々の円舞曲の中に、突如として現れる、時の裂け目。歪曲、深淵の迷宮、異界、高次の欠陥、暗い傷。

そこでは、透視能力をもってしても、一切が歪んで見える。謎も、記憶も、愛も。

ブラックホールの如き『深淵の迷宮』に吸い込まれて行った事物がどうなっていったのかは、その事物自身にしか分からない。いや、事物自身にも、もしかしたら分からないのかも知れない――

第三者たる観測者は、『その瞬間』をもって、高く跳躍し昇華してしまった因縁の名残を、或いは、凍て付いてしまったかの如き暗いイメージを、ただ眺めるのみだ。

――『界(カイ)』よ。運命の軌道を奪い、そして、また与えるものよ――

*****

オリヴィアは思案に暮れながらも、今の時点で言及できる事のみを、口にした。

「仮面の下は別の顔。かの迷宮と化した城に住まう仮面の公爵は、仮面舞踏会の名手ですわね。私たちの知るロックウェル公ユージーンその人であるか否かは分かりませんが、決して赤の他人ではありません。浅からぬ因縁があるようですわ。奇妙な事に、ルシールの父親が不明と言う一件も絡んで来ている……私に見えるのは、そこまでです」

アシュコート伯爵は、あごに手を当てて思案し始めた。

「彼の仮面は近いうちに……いつか必ず、剥ぎ取らねばならんな」

オリヴィアは、そんな伯爵を、愛情深い眼差しでそっと見やったのであった。

――不思議な事だが、こう言う愛し方は、ライト夫人に教わったのだ。

オリヴィアは、あの25年前の冬の馬車事故の後、不思議な縁あって、長く付き人を務めてくれた若い女性を思い出していた。

*****

通称『ライト夫人』――アイリス・ライト。

状況からして、恋人ないし夫に捨てられたとしか思えない不幸な娘ではあったが、アイリスは不思議な事に、恨み言は一切口にしていなかった。納得した上での、永遠の別離を覚悟していたようにも見えたのだ。

――若き日のオリヴィアが、何もかも了解した上で、アシュコート伯爵との恋を諦めたのと同じように。

25年前の冬。

あれは、アイリスがゴールドベリ邸に運び込まれてから数日後の頃だ。

窓の外では、穏やかな雪が断続的に降り続いていた。降雪が止んだ時は、ほのかに陽射しも差して来ている。

この数日間、吹雪となって辺り一帯を襲っていた猛烈な寒気が去ったのであろう、平年並みを思わせる穏やかな降り方だ。実際、この冬の、最強にして最後の寒気だったのだ。春の気配は、すぐそこまで来ていた。

アイリスは寝たり起きたりという状況ではあったが、容体は、ほぼ落ち着いていて……その時、アイリスは、ベッドに半身を起こしていた。

金髪にアメジスト色の目をした、若い妊婦。

アイリスは生真面目な顔で、オリヴィアを眺めた。

オリヴィアは、赤ちゃんのアンジェラを抱っこしてあやしているところだ。アンジェラは、ウトウト状態で、静かにしていた。

『貴方ほどの御方が、どうして、この辺境にお住まいでいらっしゃるのですか?』

『どうしてかしら……あら、フフフ、色々あったけど……』

オリヴィアの腕の中で、赤ちゃんがムニャムニャと身じろぎした。バランスを取る為、抱っこし直す。

『……そもそもは、初恋の人を、近くで、ひっそりと見ていたかったから、だったわ』

『あの……結婚はされなかったんですか?』

アイリスは紫色の目を見張っていた。

『ええ。貴族の妻としての務めを果たせない……子供を産めない身体だったから、というのもあるわね』

長い沈黙。

アイリスは物思わしげな顔で、ゆっくりと窓の外を眺め始めた。

窓の外に見える木立の間をアイリスの視線がたゆたう。ゴールドベリ邸を取り巻く森の木立の中に、愛する人の姿を探すかのように……

『――私にも、そう言う愛し方ができますでしょうか?』

オリヴィアは思慮深く小首を傾げ、沈黙を返した。回答の無い問いだ。

『いつか、お互いに年老いた時に、再びあの人に出逢って……遠い青春の時代の、まばゆい思い出を共有する良き友として愛する事が?』

厳粛な静寂の時間が横たわった……

やがて。

アイリスは口を固く引き結び、窓の外を眺める事を止めた。

そしてアイリスは、首に掛けていたネックレスから結婚指輪を外した。

よく見るとその指輪には、『九月』を暗示する、ささやかなシンボルが刻まれている。結婚した月が、九月だったに違いない。

アイリスは、それを指にはめた――

――かつては結婚のために、これからは流転のために。

長く故郷に帰らない事を決心していたのだ。我が娘ルシールが成人し、事情を理解できるようになるまで。

アイリスは、仮面のようにピクリとも動かない、恐ろしい程に静かな顔をした。本当に運命を怨み、時に逆らう事を決心した人間は、その一瞬、そう言う顔をするのだ。

オリヴィアは、恐るべき『深淵』の底が抜けた音を……ハッキリと聞いた、と確信した。

意識もしない深層の底の底、人知を超えた言い知れぬ『何か』が荒れ狂い、過去へ、現在へ、未来へと、時空(クロノス)の深淵を引き裂き、我と我が身にも傷を負いつつ、禍々しい『迷宮(ラビリンス)』と化して行く音を――

――結婚指輪をはめている時、アイリスの手は、微かに震えていた。

その時、その手を震わせていたのは、尽きせぬ瞋恚の炎であった筈だ……

子供まで成した相手を――エロスを交わした人生の『意義』を越えて行く事は、とても難しい。

アイリスの心が創造した『深淵の迷宮』の奥にあるもの、その恐るべき暗さ激しさ。

あれは、嫉妬し欲望する神であったか。それとも、破壊し裏切る神であったか。

ルシールの父親が今でも不明だという事実は、なおも時を荒(すさ)び、裂き続ける『暗い傷』の存在を証している。20年以上と言う時を超え、『深淵の迷宮』を現出させていたアイリス本人の死をも超えて――群れなす光明星と暗黒星とを呑み込み、凶星と化し続ける『暗い傷』だ。

『カイロスの時』――『カイロンの星』――『界(カイ)』。

オリヴィアは、あの時、『癒しの星』――流転の凶星・カイロン――となりうる『暗い傷』を抱いた『ライト夫人』になら、『花の影』にまで至る超越的な流転の軌道を、描けるかも知れないと思ったのだった……

*****

……夜の風がいっそう強くなったようだ。窓の外でざわめく木の葉影。

卓上では静かなランプの炎が燃えている。

オリヴィアは思案顔で茶を一服した。

「あれは、そういう事だったのね。仮面の下は別の顔……かつては結婚のために、これからは流転のために……」

「何の事だね?」

アシュコート伯爵が注意深く問うた。時々、オリヴィアは不意に透視状態に入り、余人には見聞きできない神秘的な領域と感応して……言葉をもたらして来る。

控えめながら注意深く長い付き合いがあって、『ゴールドベリの巫女』の不思議な特徴については、おおかた理解できるようになっては来たものの……やはり、アシュコート伯爵のような常人には、いつでも驚かされるものだ。

「現在、このような『深淵の迷宮』が存在する理由……混沌とした状況となっている大きな要因は、今は亡きライト夫人なのです」

「数年前に死亡した、女庭師?」

……想像を絶するほど遠く、深いところを見ている、宝石のような緑の目。

「アイリス・ライト自身が意図した事ではありませんけど、彼女の星の軌道が構築した『迷宮(ラビリンス)』……その奥にある、かの恐るべき暗さ激しさ……運命としか言いようが無いですわ」

アシュコート伯爵は腕組みをしつつ、思慮深く応答する。

「そう言えば、ライト夫人は……『未亡人』という扱いだったが。良い再婚話が来ても、遂に首を縦に振る事は無かった。ローズ・パーク相続問題が持ち上がった今、それが逆に、ルシール嬢を窮地に追い込んでしまっている筈だ……」

オリヴィアは憂い顔になった。

「忍ぶ恋こそ、まことなり……そのとおり、真実の愛とは、言い知れぬものですわね」

緑の目は、あの神秘の色を湛えている……

「エロス、フィリオス、アガペー。教会による解釈では、『性愛、友愛、神の愛』となっていますけれども。いにしえのゴールドベリ一族の直系の中では、『劫初の愛、終極の愛、超越の愛』という解釈だったそうですから」

「その解釈は初耳だ。論文に残っていれば、牧師の誰かが発見して、教会の講話で引用したと思うが……」

「魔女弾圧の時代に、地下にもぐった内容ですから」

苦笑するオリヴィアである。アシュコート伯爵は首を振り振り、ハーッと溜息をついた。

「公的な歴史からは、失われていたという訳か……」

オリヴィアは再び、窓の外に広がる春宵のさやぎに見入った。

「真実の愛。不滅の愛。アマランタイン。それは時の彼方の永遠へと超越しつつ、光明と暗黒の軌道を、流転と変容を遂げてゆくもの。劫初から終極へと至る流転。傷を負うて漂泊する神。愛の変容の軌跡。多次元の界(カイ)と荒らぶる、かの迷宮なす凶星の群れは、超越的な流転の軌道を描く。かの相は、まさしく不滅の《花の影》、アマランタイン。迷宮なす凶星、それは『癒(いや)しの星』に変容しうる流転の星。命を障(さや)るものと命を癒(いや)すものは、基本的に同一。如何なる星々も、光明星としての側面と暗黒星としての側面を持つ……」

アシュコート伯爵は圧倒されて、ひるんでいる顔だ。

「それは、ゴールドベリ一族の叡智か……言い伝えかね?」

「地下にもぐっていた古文書の一部ですわ。……傷を負うて漂泊する神、すなわち『迷宮(ラビリンス)』を抱いて流転する凶星は、特別である。かの暗さ激しさ、かの深淵の牢獄の星、底知れぬ領域『界(カイ)』、必然として、はるかに遠い超越的・根源的な場から、癒(いや)しと救済の力を引き出して来るものゆえに……」

オリヴィアは、そこで、深い溜息をついた。言葉の奔流が止まる。

「ごめんなさいね。いろいろ口走ってしまいましたわ」

「いや、実に興味深い内容だったよ」

そういうアシュコート伯爵の脳みそは、まだ混乱している状態ではあったが……

「結局、分かっているのは、これだけですわね。ライト夫人は、死ぬのが早過ぎましたわ」

「そうだな。私も、そう思う」

*****

夜は更けて行き、アシュコート伯爵が控え室を退出する頃合になった。

アシュコート伯爵とオリヴィアは、いつものように挨拶を交わす。

「ハクルート公爵が、ロックウェル公爵を刺激する手筈になっている……また明日、訪ねるよ」

部屋を仕切るカーテンを通して、アンジェラは、そのアシュコート伯爵の言葉に耳をそばだてていた。

――決行の時は近いわ……!

その夜、オリヴィアは、部屋を片付けるアンジェラを見やり、荷物の数が多過ぎる事に不審を抱いたのであった。

■アシュコート伯爵領…風雲の緑の丘(前)■

午前のうちから空には強い風が吹き、壮大な雲の群れが流れ、どよめいていた。

昼下がりも半ばを過ぎると、蒼さと黒さを増した雲の切れ間からは、白金色の薄明光線が差し込んだ。

夕暮れには早い時刻だが、既に夕方を思わせる光景だ。過剰な湿気を含んだ、強い風。分厚い雲に覆われ、薄暗くなりつつも、異様な赤らみを増した空。天候急変の前兆である。

レイバントンの町の端にあるレスター家の私有地には、ひっそりとした小屋があり、そこでは、ロックウェル城の仮面舞踏会に向かうための大型馬車が準備されていた。

乗客はハクルート公爵とエドワードとヒューゴの三人だ。馬車を担当する御者と従者は、ヒューゴの私的な弁護士助手を務めても居る中年の御者ジャガー氏と、その息子・縮れ毛の従者である。

「警戒すべきは、ロックウェル城の仮面舞踏会の筈……今から何をそんなに警戒しとるんだ?」

ハクルート公爵は、出発直前になってもウロウロと不安そうに見回るヒューゴに、呆れたように声を掛けた。

ヒューゴは柵の上によじ登り、辺りをキョロキョロ見回しながらも、ハクルート公爵の疑問に答えた。

「アンジェラは、やると言ったらやる人なんです。御祖母シルヴィア様も御母堂セーラも、そろって物静かで大人しい淑女だったそうなんですが、アンジェラの性格はレディ・オリヴィアの方を受け継いだようで……」

ヒューゴは馬車の床下にも入って念入りにチェックした後、ようやく安心したようである。

「大丈夫みたいです。アンジェラの影も形も、一応、皆無……」

「ゴールドベリの勘を逃れるのは、大変らしいな……」

エドワードも苦笑するのみだ。

かくして馬車は、ロックウェル城に向かって走り出した。

*****

アシュコート伯爵領とロックウェル公爵領との境界は岩がちな土地になっていて、緑の丘と荒地が交互に広がっている。荒地はそのまま、緑の量を増やしながら山岳地帯へとつながっていた。

岩の多い場所には強い根を持つ藪が生えており、強い風に吹かれて騒々しくざわめいている。雲はなおも劇的に様相を変え、雷雨を伴う激しい春の嵐の到来を告げていた。

馬車の中に落ち着くと、ヒューゴは早速、ハクルート公爵に声を掛けた。

「ロックウェル公爵の本人確認に、ご協力頂きまして……」

ハクルート公爵は鷹揚に微笑んだ。

「礼は要らんよ。ユージーンと会うのは、随分久し振りになる。大事故の後、人が変わってしまったと言う噂も気になっているんだ……こちらにしても、王室を巻き込んだ疑獄事件で、ゴールドベリ一族の協力を頂いたしな」

エドワードはすぐに、「あの疑獄事件ですね」と思い当たっていた。

「あの時に老グウィン氏を初めて拝見しましたが、年齢が分かりませんでした。噂のとおり、本当に100歳を超えておられるんですか?」

「ヒーラーでもあるからな。だが、あの特殊な毒を盛られて死にかけた証人を、どうやって喋れる状態にしたのかは、今でも分からん」

公爵は、自分でも不思議に思う部分があるのか、曖昧な顔をした。

「重い錯乱作用のある毒だったとか」

「ああ……エドワードもあの疑獄事件の内偵メンバーだったから、治療プロセスを耳にする機会があったんだな。考えたくない死に方をする毒という話だったが、あの証人の死に顔は穏やかなものだった。老グウィン氏の癒しの術のお蔭で、あまり苦しみを感じずに逝けたらしい」

ハクルート公爵は、分厚い雲ですっかり暗くなった窓の外を見やった。雷が遠くで響く。

「嵐が接近しているな」

「御者・従者のマントは新品だから、大丈夫の筈です」

御者ジャガー氏も、その息子・縮れ毛の従者も、意外にベテランなのだ。

その時。

馬車の窓の外で黒い妙な影が動いた。

注目する三人。

何と小さな黒ネコが、高速移動中の馬車の窓に張り付き、死に物狂いと言った様子でニャアニャアと鳴きながら、その存在をアピールしているのだ。

何処かで見たような黒ネコだ。

余りにも非現実的な、黒ネコの登場だ。

この天候の中で起きた、それは、まさにゴシックホラーである。

「どうやって張り付いた……」

ヒューゴは絶句した。

「止めろ! 何か変だぞ」

エドワードが早速、御者ジャガー氏に声を掛ける。

「な、何です?」

ジャガー氏は直ちに馬車を止め、何事かとチェックを始めた。そして、馬車の後ろまで回って、信じがたい状況を目撃して、恐ろしい悲鳴を上げたのであった。

「どわーッ!」

ジャガー氏の悲鳴を聞いて、馬車の中の三人もビックリして外に飛び出した。

馬車の後ろに設定されている従者席に、縮れ毛の従者と一緒に、もう一人の人物が乗っていたのである。

男にしては背丈が若干低い。マントの下に何を隠しているのか、やはり男にしては、ただならぬボリューム感だ。そう――まるで本格的なドレスを着ているようなラインなのである。すっぽりかぶったフードの中からは、宝石のような緑の目がのぞいていた。

縮れ毛の従者は、馬車の外に飛び出すが早いか、ひたすら面目無いといった様子で、ブンブンと頭を下げた。土下座せんばかりの勢いだ。

「大変、申し訳ありません! 騒ぐなと脅迫されて……!」

「やっぱりやった……!」

ヒューゴは一気に青ざめた。果たして、その不審者はアンジェラだ。

黒ネコは何かご褒美を期待しているのか、早速「ニャアニャア」と鳴きながら、アンジェラのマントによじ登っている。しかし、「後でお仕置きするからね!」とアンジェラに叱られてしまったのであった。

開いた口が塞がらぬと言った面々を見回し、アンジェラは大袈裟に溜息をついて見せる。

「従者・尾行・作戦、上手く行くとは思ったんだけど、この程度のドッキリで大声とは……」

すぐさま、涙目で抗議したのは中年の御者ジャガー氏だ。

「そんな訳無いでしょ、お嬢さん! 馬車の従者席に女性を放置したままで走るなんて、御者の名折れ……この私ジャガーも、プロの名にかけて、『安全運転』だけは守るんですから!」

ヒューゴは、もはやワナワナと震えていた。

「あれだけ隠密行動したのに、何でバレた……」

「ジャガー氏を尾行したのよ。……ああ、でもジャガー氏を怒らないで。半分は私の勘だから」

エドワードとハクルート公爵は、『これがゴールドベリの勘と言うヤツか』と感心するのみだ。

ヒューゴは苦労しつつも、ようやく気を取り直し、見覚えのある黒ネコを『ピッ』と指差した。アンジェラの腕の中に入り込んだ黒ネコも、意味ありげに『ピッ』と尻尾を立てて応えて来た。小さな黒ネコは、アンジェラに随分と懐いている。

「この黒ネコを飼い始めた?」

「何故か後を付いて来たの。私もまさか、馬車の窓に張り付くとは思わなかったわよ」

アンジェラはそう言うと、困惑の溜息をついたのであった。

強い風に吹かれ、丈の高い草がざわめく。再び雷が鳴ると、急に大粒の雨が降り出した。まさに間一髪だ。一行は慌てて馬車に乗り込んだ。

馬車の座席に、各々改めて落ち着いたところで、一行の中で一番身分の高い人物、すなわちハクルート公爵に対し、ヒューゴとアンジェラは揃って神妙に頭を下げた。

「私の親戚が大変お騒がせ致しまして」

「昨夜はご親切にも助けて頂きまして」

「ニャー」

黒ネコは、ちゃっかりとアンジェラの膝の上に収まり、ハクルート公爵を見上げていた。どうやら黒ネコは、野生ならではの勘で、この人間たちの集団の中でハクルート公爵が一番地位の高いオスだと判断したらしい。

「ユージーンの度胸も受け継いだらしいな」

ハクルート公爵が呆れたように腕組みをする横で、エドワードは吹き出し笑いをしていた。

確かにヒューゴとアンジェラは全く似ていないのだが、何故か頭を下げる格好は、親戚と言うだけの事はあるのか、妙に似通っている。

ハクルート公爵は、まだ信じられないと言った様子で、アンジェラを慎重に観察し始めた。

「馬車の従者席に張り付いたまま、ロックウェル城を訪れる作戦だったと言うのかね?」

「その通りでございますわ、ハクルート公爵様」

平坦な道に入り、馬車は更にスピードを上げていた。馬車窓には大きな雨粒が斜めに流れている。

行く手にひときわ高い丘が見えて来る。大きな雷光が閃き、緑の丘の上に一瞬、壮麗な城の姿が浮かび上がった。

「こんな形になるとは思いませんでしたが、ロックウェル公爵の口から真実を聞きだせるのは、まさに今回しか無いと言う直感がございました」

「父親の記憶は無いそうだが、ロックウェル公を見付けられるとでも言うのかね?」

疑わしそうなハクルート公爵に、アンジェラは神秘的な緑の目をキラリとさせて見せた。何故か黒ネコも、揃って目をキラリとさせている。

「ネズミの死体と一緒に入っていた血付きのナイフが教えてくれますわ。間違い無く、本人の手が触れた物ですから……」

「……ネズミの死体!?」

ハクルート公爵は絶句した。美しくて若い令嬢の口から、このような凄惨な内容が飛び出すとは、まさに不意打ちだ。

ヒューゴが慌てた様子で口を挟む。

「え、えっと、バラバラ死体の事件があって間もなく、ロックウェル公爵家の紋章付きの贈答用の小箱に、バラバラになったネズミの死体と、血付きのナイフが詰められていて、それがアンジェラの元に届けられていたという一件がありまして……」

「何という事だ……」

*****

雷雨が本格的になって来た頃、一行はロックウェル城に到着した。

岩山に囲まれた緑の丘の上に建つ壮麗な城は、近づいてみると、一層、巨大に見える。フロント部の城壁に並ぶ塔の上には、ロックウェル公爵家の伝統ある紋章旗が掲げられていた。

いにしえの騎士の時代に全盛期を迎えた、ゴシック風の建築物だ。高い塔と、それを取り巻く重厚な城壁。カッチリとした直線的な石積みで構成された城館には、細長く高い窓が幾つも並んでいる。

ロックウェル城の各所には、慎重に増改築を繰り返してきた歴史が仄見える。いにしえの面影を主要な部分にシッカリと残しながらも、各部屋の暖房や水回りなどの設備は、エネルギー効率の良い現代型の物に置き換えられているのだ。

ロックウェル城の広い前庭ロータリーや壮麗な玄関広間は、既に仮面舞踏会に出席して来た他の招待客で一杯だ。しかし、ロックウェル城のスタッフは、このような混雑をさばくのに慣れているらしく、招待客は次々に割り当てられた控え室へと誘導されていた。

*****

客ごとに割り当てられた控え室で準備している間、ハクルート公爵は油断無くアンジェラに目を配っていた。

アンジェラは贅沢なシルクのドレスを身に着けている。古い品ではあるが、それ程着られる機会が無かったのであろう、新品同様の状態だ。華やかなローズ色とレトロ風のデザインは、仮面舞踏会の会場に充分に相応しい物だった。

「あのドレスには見覚えがある……母親の物か」

「そう言う話ですが」

エドワードの答えに、ハクルート公爵は深刻な面持ちでうなづき、再びアンジェラを慎重に見やった。

アンジェラとヒューゴは、会場に出る前の最後の準備に取り掛かっていた。華麗な装飾が施された、ベネチアンマスク風の仮面が並んでいる箱をのぞき込んでいる。

ハクルート公爵は、あらかじめ自分用に選んでいた仮面の状態をチェックしながらも、アンジェラに聞こえないように声を低めて、エドワードに指示と忠告を入れた。

「私の警護は構わんから、ヒューゴと共にアンジェラ嬢に張り付いていろ。あれは、爆発する直前のマリアと全く同じなんだ。刺し違える覚悟すらあるかも知れん……事情を考えれば無理も無いが」

エドワードは思わず、先頭に立った父親を見直したのであった。

■アシュコート伯爵領…風雲の緑の丘(後)■

嵐はますます強まった。礼拝堂のバラ窓にも大きな雨粒が叩き付けられている。

此処は、レスター邸に付属する小さな私設礼拝堂だ。本館とは、渡り廊下でつながっている。古風な造りで、現代の改良版の絢爛たる礼拝堂に比べると、遥かに素朴な印象である。

オリヴィアは備え付けの椅子に座り、昨夜に確認した数々の相談案件について、思案を巡らせていた。この素朴な私設礼拝堂は、あまり人の来ない場所という事もあり、落ち着いて考え事をするのにうってつけだ。

王国の重鎮が関わる最高機密の相談については、指定された暗号文字で文書を書き付けてゆく。作業に一区切りつき、封書にしたためた所で、ホッと息をついた。

オリヴィアはゆっくりと、真正面のバラ窓を見上げる。

バラ窓の縁には、聖句とされる文字が刻まれていた。

――劫初、終極、界(カイ)を湛えて立つものよ――

「……運命の偶然、なのかしら……」

オリヴィアは、誰に言うともなく呟きを洩らした。

「火刑台の上で、ゴールドベリ一族の直系の最後の巫女が詠じた辞世の句。狂信者が全知全能の神を称える聖句としたゆえに、いまや全国の教会や礼拝堂で、バラ窓にお馴染みの聖句として刻まれている……」

車椅子の担当および付き添いとして随行して来ているスコット夫人が、不思議そうに首を傾げた。ゴールドベリ邸で、長く住み込みの家政婦として勤めている年配の女性だ。

「オリヴィア様、何か、おっしゃいましたか?」

「いえ、何でもないわ」

軽く微笑んで返す。

……オリヴィアはふと、辺りを見回した。『直感』をつついて来るものがある。

チラリとスコット夫人を窺う。

スコット夫人は、不安げな顔で、しきりに近くの窓を眺めているところだ。窓の外では春の嵐が荒れ狂っている。大きな雨粒が窓を叩く音……

オリヴィアは不意に眉根を寄せ、スコット夫人に向けて半身を返した。

「アンジェラが見えないわね」

「……!」

スコット夫人は息を呑んで、ビクッとしていた。急に、オリヴィアの脳裏に閃くものがある。

「アンジェラが何処へ行ったか、知ってるでしょう?」

「はあ……あの……オリヴィア様」

スコット夫人は、明らかに顔色を変えた。みるみるうちに青ざめていく。その原因を確信したオリヴィアは、ハッと息を呑み、緑の目を見開いた。

「知ってるのね」

スコット夫人は、くず折れるように膝を突き、声を震わせた。

「申し訳ありません、オリヴィア様。アンジェラお嬢様に、固く口止めされておりました……じ……実は……!」

バラ窓の外で、ひときわ大きな雷光が閃く。

一瞬の、光明と闇黒の相克。

礼拝堂の床の上に、花の影が映し出されていた……

*****

レスター邸の執務室。

アシュコート伯爵とレスター家当主は、執務室に集まった数人の役人たちと共に、各種の報告書を確認していた。

突如、あわただしく扉が開かれた。

執務室の中の全員が、驚いて振り向く。

「誰だ!?」

「まだ『予定』より早い……?」

レスター家当主が口をアングリと開けた。

「これはッ……レディ・オリヴィア!」

役人たちがどよめく。

「えッ!?」

「あの、伝説のゴールドベリの貴婦人……!?」

オリヴィアは杖を突きながら、決死の形相で立っていた。不自由な脚で此処まで歩いて来たのは明らかで、息を切らしている。オリヴィアは脚の痛みによろめき、扉に取りすがった。

「脚に無理をお掛けになっては!」

すっかり動転した様子のスコット夫人が、オリヴィアの後から駆け寄って来て、ひたすら声を上げている。

アシュコート伯爵が驚きのままに立ち上がり、震えているオリヴィアを支えた。

「オリヴィア! 一体どうした……!?」

窓の外で、再び雷光が走り、雷鳴がとどろく。オリヴィアの蒼白な顔が歪む。

「一番速い馬車を貸して下さい!」

オリヴィアは、今まさに押し迫ろうとする不吉な運命を感じ取っていた。

「――私は……アンジェラを死なす訳にはいかない……!」

*****

春の夜の嵐は、数多の雷を伴って辺り一帯を襲っていた。雨は既に土砂降りである。

オリヴィアを乗せた快速馬車は、嵐を突いて、可能な限りのスピードでロックウェル城に向かっていた。『予定』より随分と早くなったが、役人たちが乗り込んだ馬車の集団も後に続いている。

アシュコート伯爵とオリヴィアが同乗している馬車の中には、重い沈黙が落ちていた。

辺境をつなぐ道路は瞬く間に悪路と化し、馬車の揺れが大きくなる。

大きくガクンと揺れると、脚の不自由なオリヴィアは姿勢を保てず、座席の中でよろけた。アシュコート伯爵がとっさに腕を回し、オリヴィアの身体を支える。

オリヴィアはボンヤリと、馬車窓の外を眺め始めた。

「……何故か、最初の、ゴールドベリ邸に来た頃のセーラを思い出しますわ。あの子は、孤独で、自ら命を絶つことを考えるまでになっていて……」

「それは初耳だが、今は納得できる」

「……え?」

アシュコート伯爵を振り返り、その顔に見入るオリヴィア。

――こぼれ落ちそうなほどに目を見開いた、ポカンとした表情は、うら若き令嬢だった頃のものと同じだ。

アシュコート伯爵は戸惑い、目をしばたたく。

「その、レスター氏が口を割り、いや、事情を語ってくれてな」

「……その場面が見えるような気がしますわ」

「と、透視してくれなくても良い」

ひときわ大きな雷光と雷鳴。

馬車が大きく揺れ、車内ランプが消えて暗転する。

オリヴィアは思わず目を閉じ、首をすくめた。身体が緊張で震える。

「大丈夫だ、オリヴィア」

「雷が怖い訳ではありませんわ。あの……25年前の馬車事故……雪闇の始まりのビジョンが、このような感じで……」

「25年前の馬車事故を透視していたと?」

オリヴィアは、震えながらも大きく息をついた。震える手で顔を覆う。

「あの馬車事故は、私の不注意のせい……五分だけ、馬車が遅れていれば……或いは、早めに出ていれば……? そのたった五分で変化した路面状況が、私には見えたのに……私は家を出られず、何もできなかった!」

「……予想もせぬ条件が絡み合っただけだぞ、オリヴィア」

アシュコート伯爵が強い口調で遮る。オリヴィアを過去の懊悩から引き出さなければならない。

馬車は、ロックウェル城への道を走り続けていた。土砂降りの雨が、馬車の窓を叩き付けている――25年前の吹雪を思わせる激しさだ。

「……それに、あの困った老ハリエットが拗ねて、あんな辺境の小屋に一人引きこもった上に高熱を出さなければ、オリヴィアが調合した薬をセーラが持っていく必要も無かった。あの吹雪をおして、狩猟場まで往診に来るような医者は居ないだろう」

アシュコート伯爵の言葉は続いた。

「薬は老ハリエットの娘が届ける形になり、老ハリエットは、あの事故に関してオリヴィアが一切動かなかった事を非難したが。まだ生後二ヶ月だったアンジェラをゴールドベリ邸に残して、馬車事故が起きた現場に駆けつける……という事は、オリヴィアには出来なかった筈だと私は思っている」

再び激しい雷光が、辺りを引き裂く。アシュコート伯爵は構わず、話し続けた。

「今がどうあれ、25年前、ロックウェル公ユージーンは、出産後間もない新妻のセーラを心配し、付き添っていた。お忍びまでしてな」

長い沈黙が横たわる。

オリヴィアは、いつしか、妹シルヴィアの娘セーラ・スミスがゴールドベリ邸を訪問した日の事を思い返していた。

*****

――あれは、既に黄昏の頃であったか。

仄暗い中でも見事にきらめくセーラの金髪は、シルヴィア譲りの物であり――同時にゴールドベリの血筋を伝える証でもあった。

セーラは素直で気立ての良い娘ではあったが、シルヴィアに似て引っ込み思案なところがあり、一通りの学問はともかく、身のこなしは洗練されていなかった。

事情を聞けば、ハリエット・スミス夫人の勧めにより、紹介先の親族の邸宅で修養する事になったと言う。貴族の間でも、長子以外の子供たちが、修養と言う名目で親族に預けられる事は良くある事だ。

だが、セーラの場合は、既に社交界デビューを間近に控える年齢であり、今更、修養と言うのもおかしい。しかも、付き添いも無しで一人で旅立たせると言うのも、余りにも不自然な状況である。

スミス家の後妻と聞くところのハリエット・スミス夫人が、セーラに充分な教育をしていなかったのは目にも明らかだった。この状態で紹介先に向かわせる事は論外であった。紹介先の邸宅にしても、確かな話がある訳では無かった。

そこに見え隠れするスミス夫人の思惑に、オリヴィアは苦い思いを感じざるを得なかった。

オリヴィアは、曖昧模糊とした紹介先に代わって、セーラをゴールドベリ邸のスタッフとして受け入れた。

そして、何処の社交界に出ても相応に振舞えるように、亡きシルヴィアに代わって、セーラに全てのレディ教育を施したのであった。オリヴィアは侯爵令嬢であり、上流社交界に必要なレディ教育を心得ていた。

ゴールドベリ邸から少し行ったところに、ロックウェル公爵領がある。セーラは、地元の社交界の催しに出席した時、ロックウェル公爵になったばかりの若い紳士に見初められたのだ。

シルヴィアの娘は、幸いに良縁に恵まれた。後は行く末の幸せを見守るだけだ――と、オリヴィアはホッとしていたのだ。

25年前の冬のさなかに、運命が急転するまでは。

――劫初 終極 界(カイ)を湛えて立つものよ――

『カイロスの時』の衝撃は、常に、突然だ。

その異変が、過去から来たのか、未来から来たのか――『カイロスの時』そのものの起点は、「それが生み出された、その時」になってみないと分からない。過去・現在・未来に渡る、『高次の欠陥』の発生だ。

その時――その場――その一瞬。

星辰の連関の中に、ヒビ割れが音も無く走り、『深淵の迷宮』となり――そこにあった運命の軌道は、いきなり歪み、牢獄の如き迷宮の底へと呑み込まれて行く。

奈落の底を思わせるような、不安に満ちた雪闇のビジョン。それを、オリヴィアは今でも、まざまざと思い出す事ができた。

……激しい雪風が、その一瞬、崖の上から吹き降ろす。路面状況は、割合に良い方ではあったのだが――雪と風とに翻弄されてスリップを起こし、崖の下に広がる闇に向かって転げ落ちて行く、乗合馬車……

どのような運命が、雪闇の中に交差しつつも封印されてしまったのかは、ただ想像する他には無い。

――『界(カイ)』に接近した事象は、意味が、情報が、歪む。透視が届かないのは、そのせいだ。

二ヶ月と言う数字も、思わぬ逆転をした。元はと言えば、アンジェラの出生に関する役所の書類の不備が主な原因だが、その二ヶ月と言う数字だけが転がって行き、アイリスとルシールに降り掛かった。

文書記録の食い違いが放置されてしまったのは、元の書類の不備のせいだけでは無いだろうと、オリヴィアは分かっていた。不可思議なまでの、偶然と必然の重なり。

当時のアイリスは、セーラに良く似ていたのだ。顔見知りの人でさえ、見間違える程に。見事な金髪は勿論の事、物静かな雰囲気も――

本人が後で気が付き、別人だと説明しても、あの大事故の後では、頭を打って混乱していると思われても致し方の無い物だったのだ。

*****

やがて、行く手の丘の上で雷光が閃き、巨大な城の影が浮かび上がる。岩がちな地形に沿って道路は向きを変え、馬車窓から城の影が見えるようになった。

ボンヤリと顔を上げ、次第に近づいて来る城の影に見入るオリヴィア。

――ゴールドベリの血脈。卓越する能力と引き換えに、先天的には、女性としての身体に致命的な欠陥を起こしやすい。

先祖返りとして恐るべき血を強く受けながらも、平均的な能力に留まる『普通の子』として生まれて来たアンジェラには、子供を産む可能性が保全されている。後天的な巫女の一部や、潜在的な血族たちが、そうであるように。

オリヴィアは、もの思わし気に眉を寄せた。

「アンジェラは……彼らが遺してくれた、私の夢のような物です。若い頃の私に出来なかった事が、あの子には出来る……今は、貴族社会の間でも条件付きながら、養子縁組も認められていて……孫に我が夢を託すと言う点では、ハリエット・スミス夫人は、もう一人の私ですわね」

アシュコート伯爵がフンと鼻を鳴らし、即座に切り返す。

「それは違う、と断言してやる」

程なくして馬車の群れは、ロックウェル城の城門へと通じる分岐に到達していった……

■ロックウェル城…仮面舞踏会(前)■

ロックウェル城の大広間では、仮面舞踏会がたけなわであった。

ゴシック風の高い組み天井。重厚な彫刻が施された列柱が並ぶ、荘厳とすら言える会場。灯りは最小限まで絞られ、ゴシックホラーの舞台さながらの、豪華ながらも重々しい雰囲気が充満している。

仮面舞踏会の招待客は、全員、ベネチアンマスクに似た華麗な仮面を付けていた。仮面には、色とりどりのビーズやスパンコール、金銀その他にきらめくエナメルといった装飾が施されている。それらが、ボンヤリと薄暗い会場の中で、キラキラとさざめいているのだ。

華麗な仮面は、全て、『狼男』、『人魚』、『夢魔』、『ゾンビ』、『ドラゴン』、『ユニコーン』、『フェニックス』などと言った、神話伝説や怪談では定番のモチーフが施されている物だ。

時折、ゴシック風の細く高い窓の外で、雷光が閃く。妖しげにうごめく人外の仮面の群れ。

招待客は皆、禁じられた幻想の中でしか味わえないような、非日常的な気分を満喫していた。

マダム・リリスが取り仕切るパーティーでは、アルコールと一緒に、アヘンや禁制ドラッグの類が堂々と供給されているのが、常態と化している。

凝った装飾が施された会場の一角に、魑魅魍魎の仮面をかぶったギャング売人の集団がたむろしていた。アヘンや禁制ドラッグ類を、アルコールのフリをして供給している。

更に、舞踏会場にセットされている魑魅魍魎の印付きの衝立の後ろに、数々の秘密の小部屋に通じるドアが隠されている。そこでは、下心を持った招待客たちがアヘン類を楽しみ、大人の不健全な快楽に興じていた。傍によって耳をすませば、色っぽい喘ぎ声も漏れ聞こえて来る。

退廃的な歓楽の極みを実現したような会場の中。

仮面姿のハクルート公爵とヒューゴは、ロックウェル公爵の姿を求めて慎重に巡り歩いていた。その後を、仮面姿のエドワードとアンジェラのペアが付いて行く。

「皆、仮面だから、誰が誰だか良く分からない……」

ハクルート公爵は金色をした仮面を巡らし、ロックウェル公爵と思しき人物を探し続けていた。

上流社交界には有り得ない程の怪しげな演出に、さすがに呆れ気味になって来ている。此処まで怪しげな雰囲気になると、出席者も皆、正体不明の魑魅魍魎に見えて来ると言うレベルだ。

「しかも挨拶も省略だ……此処まで無礼講のスタイルを取るとは思っていなかったぞ」

「シャンデリアの数が少なくて薄暗いのは、接近に好都合ですね」

そう応じるヒューゴは、『ゴブリン』の仮面を付けていた。柱とシャンデリアの数を確認しながら、本物のゴブリンさながらに、盛んにキョロキョロしている。これで不自然に思われないのは、仮面サマサマと言える。

やがて、急にヒューゴは足を止めた。『ゴブリン』の仮面が、会場の中央部分をキョロリと向く。

会場の中央部に、ゴシックホラー幻想から抜け出て来たかのような、豪華な祭壇がセットされていた。古代の邪神崇拝のための祭壇を模したと思われる、奇怪で冒涜的な造り物だ。

その傍に、『邪神の神官』の扮装をした男がいる。その男にしなだれかかっている『邪神の聖女』が、マダム・リリスであった。きわどいドレスをまとっている。

ヒューゴは慎重な身振りで、ハクルート公爵にリリスの位置を示した。

「中央に居る『邪神の聖女』の仮面が、マダム・リリス……彼女がこの会場を仕切っていまして」

マダム・リリスは、邪神を召喚する儀式の真似事をやっているらしく、愛人の一人らしき『邪神の神官』の扮装の男と、何やらアヤシイ遊びの真っ最中である。

ハクルート公爵は了解し、うなづいて見せると、辺りに目をやり始めた。

「ユージーンも、この近くか……」

一方、アンジェラをエスコートする形になったエドワードは、背後に執拗な視線を感じ、そっと後ろを確認していた。

そこに居るのは、会場スタッフを務めているのであろう、仮面を付けていない執事姿の人物だ。明らかに城内勤務の執事と見える、地味な印象の老人。その老執事は、凍り付いたようにアンジェラを見つめ続けていた。

――今のアンジェラは、ローズ色のドレスに合わせて『胡蝶』の仮面を付けているから、直接の知人以外には、正体は分からない筈だが。

エドワードは老執事を警戒しつつも、アンジェラに害を加えようとする気配が無い事に、疑問を抱き始めた。

アンジェラは、或る方向に視線を定めると、ピタリとそこから動かなくなった。

「アンジェラ?」

エドワードは不審に思い、アンジェラの視線の先に目をやり――そして、鋭く息を呑んだ。

――中世の兜のような、面妖な仮面を被った、男。

エドワードの身振りに気付き、ハクルート公爵とヒューゴも、その方向に視線を向ける。

――奇妙に歪んだマント姿。面妖な仮面は、本物の兜のように、すっぽりと頭全体を覆っている。

「彼が……そうか!」

ハクルート公爵は仮面の奥で目を見開き、瞬時のうちに了解した。

アンジェラは決然とした足取りで、その兜の仮面の男に接近しようとした。しかし、直前にエスコート役がエドワードからヒューゴに変わり、ヒューゴは器用にアンジェラの動きを封じていた。

「邪魔しないで、ヒューゴさん」

「ダメですよ! ハクルート公爵が、あの人の本人確認をなさるのが先です」

エドワードはハクルート公爵の護衛に立ち、ハクルート公爵は、目標となった兜の男に素早く近づいた。

脇で奇妙に動き回る人影に気付き、面妖な兜の仮面の男が振り向いた。

兜仮面の男の目に最初に入ったのは、鮮やかなローズ色――アンジェラのドレスだった。

「そのドレス、何処かで見たような……」

兜仮面の男はギギギ、と身体の方向を変えた。

そこへ、アンジェラの姿を覆い隠すように、『金の王』の仮面を付けたハクルート公爵が立つ。

「お前は……!」

面妖な兜の仮面をした男は呻いた。

ハクルート公爵は、兜の仮面の男をしかと見据えた。かつての学友であり、親友である筈の、変わり果てた姿の男を。

「久し振りだな、ユージーン? 私の声に覚えがある筈だが……?」

「セバスチャン・シンクレア……」

「ほう、記憶はあるんだな。昔の声からは多少、変化したようだが……」

ハクルート公爵は感心しながらも、仮面の中でわずかに目を細めた。

――余りにも変わり果てている。まるで――

「あの事故のせいだよ」

兜の仮面の男は、探るような視線を遮るかのように、ふいと首をそむけた。

ハクルート公爵は親し気に苦笑した後、会場を見回した。懐かしい旧友に、昔のように語り掛ける。

「寄宿学校の時の事を思い出す……冗談で、このような仮面舞踏会を企画した事があった」

兜の仮面の男は、無言である。ハクルート公爵は、全く警戒していない様子で、ゆらりと隣に立った。

「まあ、寄宿学校だったからな。クジに負けた半分は女装するという事で、大騒ぎになった。君も確か、クジに負けた側だったか……」

面妖な兜の仮面の男は、あらぬ方を向きながら「ああ」と、溜息混じりに答えた――

一瞬の、沈黙。

ハクルート公爵は、仮面の下で鋭く息を呑んだ。

「君は誰だ……!? ユージーンは、クジに勝った側だったんだ!」

「何だと!?」

兜の仮面の男は、ギョッとしたように振り返った。

ハクルート公爵は、特殊な駆け引きを仕掛けていたのだ。

アヤシイ遊びの真っ最中だったにも関わらず、その会話術に早くも気付いた『邪神の聖女』マダム・リリスが、目を険しく光らせて、サッと振り返った。さすがに、前線を務めるだけの事はある――やたらと勘の鋭い女だ。

「あんた! そいつ、引っ掛けだよ!」

ロックウェル公爵を装っていたと見える正体不明の男は、いきなり腰の剣を抜いた。

「この野郎ッ!」

力強い踏み込みと共に、剣が不吉なうなりを上げる。余りにも俊敏な動きだ。

刃先が触れ、ハクルート公爵の頭部が、仮面ごと斬り飛ばされる――

しかし、その後に続くと思われた、衝撃音が、無い。ハラリと落ちたのは、真っ二つになった『金の王』の仮面だけだ。

「キサマ……!?」

兜仮面の男の口から、驚愕の呻きが洩れる。

ハクルート公爵は、紙一重の差で刃先をかわしていたのだ。武門の家柄たるシンクレア家の当主ならではの、恐るべき熟練した身のこなしである。

「基礎訓練が、なっとらん……寄宿学校にすら行ってないな!?」

既にハクルート公爵は、この面妖な兜仮面の男は、ロックウェル公爵ユージーンとは別人だと確信していた。

「黙れッ!」

これでも腕前には自信を持っていたのであろう、必殺の一撃をかわされた兜仮面の男は、怒り心頭だ。

怒れる男は、急に足をもう一歩踏み出し、ローズ色のドレスをまとった『胡蝶』に顔を向けた。

いきなり面妖な兜の仮面と真向かいになり、その殺気を感じて、棒立ちになるアンジェラ。

「……そうだ、そのドレスだ……セーラは事故で死んだ筈だぞ! ――この、化け物め!」

兜仮面の男は呻き、叫ぶが早いか、再び剣を構えて、今度はアンジェラに斬りかかる。

目にも留まらぬ速い動きだ。その怒れる狂人ならではの非常識な動きとスピードは、ハクルート公爵でさえも一瞬、対応が遅れる程だ。

――この男が別人ならば、彼は何故セーラを知っているのか――

驚きと恐怖の余り、棒立ちになったままのアンジェラは、明らかに逃げ遅れていた。

凶刃が、アンジェラの頭を真っ二つに割ろうとする。

次の瞬間、鋭い金属音が響き渡った。

重量のある剣が、人の背より高い放物線を描いて舞い上がった。そして会場の中央部、奇怪な造り物の祭壇の固い床との間で、大音響を立てる。

『邪神の聖女』リリスと『邪神の神官』の男の目の前で、重い剣がバウンドし、再び固い床との間で音響を立てた。

リリスは唖然として目を剥いた。相方の男が腰を抜かし、情けない悲鳴を上げた。

兜仮面の男は、しびれる手首を押さえて後ずさりながら呻く。その手には、既に剣は無かった。

■ロックウェル城…仮面舞踏会(後)■

いつの間にか、兜仮面の男とアンジェラの間には、エドワードが割って入っている。

エドワードは背中にアンジェラをかばい、正面に兜仮面の男を捉えつつ、素早くステッキを構え直していた。

実はそのステッキは、剣と同じ鋼で出来ていたのだ。目にも留まらぬ一瞬、エドワードはアンジェラの前に出て、ステッキで斬撃を受け止めていた。そしてステッキをひねり、兜仮面の男の剣を弾き返していたのである。

――恐るべき体術に、剣術。

その下の表情は知れぬものの、全てを理解した兜仮面の男の声には、押し隠せぬ畏怖の念が含まれていた。

「貴様、『蝙蝠』……! リリスの新しいペットじゃ無かったのか……!」

エドワードは、黒い『蝙蝠』の仮面を付けているところである。

アンジェラもまた、兜仮面の男と同様に――或いは、それ以上に――エドワードが見せた動きに圧倒されて、呆然と立ち尽くすのみだ。

推察するに――エドワードには、武門の血筋の者として受け継いだ、生来の身体能力の高さがあるのだろう。それでも、エドワードの、鬼神の如き激烈な戦闘能力が、にわかには信じがたい。

目にも留まらぬ速さで続けざまに起きた荒事に、『邪神の聖女』の仮面を付けた女、リリスの方は、明らかに度肝を抜かれていた。震えながら後ずさるリリスに、兜仮面の男は鋭く顔を向ける。

「……無能は、この城には要らん……!」

怒れる男のマントが高くひるがえる。

一瞬のうちに、その手から新たに放たれていた短剣は、見事リリスの肋骨の間を貫き、心臓に命中した。周囲のダンス客たちが、驚きの余り口々に悲鳴を上げて散らばった。

「……あんた……よくも……!」

リリスは身を震わせ、口から血をあふれさせた。身を二つに折り、次第に崩れ落ちながらも、激しい怒りと憎しみを込めて、兜仮面の男を睨み付ける。

「……逃げ出してた、あの弁護士を……あたしが、この手で始末してやったと言うってのに……!」

血と共に口から吐き出された、驚くべき暴露――証言。

ハクルート公爵も「何だと!?」と息を呑むばかりであった。

床の上に崩れたリリスは、一瞬、断末魔の痙攣を起こすと、そのまま絶命した。

面妖な兜の仮面の男は、もはや狂気の只中にあった。次の短剣を取り出すなり、「死ねぇ!」と叫びながら、『ゴブリン』の仮面に向けて投げ付ける。

ヒューゴは悲鳴を上げながらも、驚くべき身のこなしで短剣をかわした。短剣はヒューゴの頭があった場所を正確に飛び、後ろの衝立に深々と突き刺さった。

兜仮面の男は返す手で、再び短剣を放った。標的は、エドワードと言うよりは――むしろ、後方で呆然としたままのアンジェラだ。

しかし、その時には既に充分に距離を取っていたエドワードは、再び目にも留まらぬ神技を披露した。放たれた短剣は、その刃先がアンジェラに届く前に、エドワードのステッキで叩き落とされていた。

「野郎ども! こいつらをやっちまえ!」

業を煮やした兜仮面の男は、もはや上品な貴族言葉では無かった。

会場の端々から、明らかにギャングの類と見えるガラの悪い男たちが、手に各種の刃物を構えながら湧き出した。ご丁寧に、『魔人』、『邪神のしもべ』、『吸血鬼』など、冗談で選んだとは思えない程の、ピッタリの魑魅魍魎の仮面を付けている。

「化け物が出たー!」

「あうぅえぇ」

「天国天国! 地獄地獄!」

「もっと、アヘン……!」

現実と妄想の区別がつかなくなった一部の招待客たちが、パニックに陥りながら逃げ回った。アヘン類による幻覚症状も進んでいたに違いない。

女性の一部は、ドレスの裾が乱れるのも構わず、手近な柱やカーテンに登り出した。相当数の男性は口からよだれを垂らしながら、壁に頭突きをしたり、衝立に歯で噛みついたりした。

「ロックウェル城の宝石が欲しけりゃ、さっさとやれぇ!」

兜仮面の男の叫びに応じて、各種の魑魅魍魎の仮面を付けたギャングたちは、一斉に、ヒューゴ、エドワード、ハクルート公爵、アンジェラに向かって殺到する。

「イザ百発百中、乱れ撃ちッ!」

ヒューゴは隠し持っていた銃を両手に構えると、シャンデリア目掛けて百発百中の射撃を施した。弾が尽きると、いつの間に用意していたのか、小石を放つスリングショットがフル稼働である。

数少ないシャンデリアは次々に灯りを落とし、会場は瞬く間に闇に包まれた。外で閃く雷光だけが、唯一の光源である。

「一体、何がどうなっているんだ!」

「真っ暗よ! ドアは……!?」

幻想どころでは無い、本物のゴシックホラーの世界に放り込まれた形となってしまった会場の招待客たちは、いっそう恐怖に陥って、泣き喚きながら逃げ惑った。転んだところを上から踏まれた人も多いのであろう、あちこちで「グエッ」と言うような、哀れな蛙のような悲鳴が上がり出した。

兜仮面の男と魑魅魍魎のギャングたちも、いきなりの闇と混沌の中で、攻撃するべき目標を見失っている。

「アンジェラ! この隙に、ロックウェル公爵の手がかりを探せ!」

エドワードは、戸惑うアンジェラをドアの方向へ押しやった。アンジェラは会場を飛び出して行った。

*****

細長く高い窓が並ぶ壁が、何処までも続いているようだ。

仮面舞踏会の会場を飛び出したアンジェラは、しきりに閃く雷光を頼りに、窓が並ぶ長い回廊を走って行った。ローズ色のドレスの裾がひるがえる。いつからか、黒ネコもアンジェラの先になり後になりして、傍を走っている。

春の夜の嵐は、季節の移り変わりの兆しだ。豪雨と雷光は激しさを増していた。自らの直感の導く先を目指して、走り続ける――アンジェラの行く手で、不自然に歪んだ格好の人影が動く。

再び雷光が閃き、アンジェラはギョッとして急停止した。

「……まさか……!」

雷光に浮かび上がったのは、40代から50代と見える中年の男だ。不自然に染めたような茶色の髪。上着は脱ぎ捨てたのか、シャツ&ベストと言うラフな姿である。手には何かしら、剣らしき物を持っている――

そして、やつれた面差しは、狂おしいまでの殺意に満ちて歪んでいた。

「……ユージーンの娘――殺す……!」

アンジェラは回れ右して、逆方向に走り出した。恐ろしさの余り、声も出ない。雷光が織り成す光と闇の中を、終わりの無い悪夢のように、狂える男が剣を振り回しながら追いかけて来る。

ロックウェル城のスタッフたちは――ギャングの類も含めて――仮面舞踏会の会場の方に集中しているのであろう、会場からすっかり遠くなったこの暗い回廊には、誰も居ない。ゴシック風の回廊は幾たびも折れ曲がり、階段やトンネルとなり、空中庭園と思しき場を幾つも貫いて続いて行く。

数世紀に渡って増改築を繰り返して来たロックウェル城は、複雑に入り組んだゴシック風の巨大建築物となっていた。内部構造に詳しくないアンジェラにとっては、まさに古代神話に出て来た、『地下迷宮(ダンジョン)』そのものだ。

――かの迷宮の奥底に棲む、恐るべき怪物の名前は、何だっただろうか。

闇のベールを剥いだ瞬間、『吾に恥見せつ』と怒り狂い追って来た邪神の名は――

自分は、迷宮の怪物と――邪神と、出逢ってしまったのかも知れない。

――迷宮は怪物の棲み処とされているが、元々は神の家だとも言う――

考えてみれば、復活祭を境に行方不明になった弁護士も、復活祭の巨大卵のハリボテから出て来たバラバラ死体の謎の男も、ロックウェル城と言う名の『迷宮(ラビリンス)』の、その奥底に棲む怪物と、出逢ってしまったからでは無かったか。

『嘘から出たまこと』と言うのか。『邪神の聖女』の仮面をしたリリスと『邪神の神官』の仮面をした男が、冗談で遊んでいた邪神召喚の儀式は、本当に、本物の邪神を召喚していたのか――

アンジェラは無我夢中で走り続け、いつしかゴシック風の尖塔の群れが立ち並ぶ城壁の上へと迷い込んでいた。

男が剣を振り回したのか、硬い刃先が、何処かの壁に当たる音がする。男の姿は見えないが、不吉な音は、意外に近いところから聞こえて来た。

アンジェラは今頃になって、自分の選択の意味を悟り、悔やんだ。窓から外が見えるコースを選んで走っていたのだ。ロックウェル城の内部構造を知り尽くす謎の男にとっては、逃走先が容易に予想できる、理想的な獲物であっただろう。

アーチ窓を開き、城壁の上に飛び降りる。せめてもと、端の塔を目指して、豪雨が叩き付ける石畳を走って行く。石畳は分岐し、バルコニーとなり、細い空中回廊となり――いつの間にか、塔の上に登るための、外付けの階段となっていった。

雨で外れたのであろうか、仮面は既に何処かに落としてしまっていた。雨を吸ったドレスは岩のように重くなって行き、階段を飛ぶように駆け上がって行くアンジェラの健脚にも、遂に限界の時が来た。

――どうやら、塔の上に出たらしい。

そこは、黄金比に近い比率を持つ長方形のスペースだった。ザッと見て、小部屋ほどの広さしか無い。

通常は人が登る事を想定していない場所だったらしい。長方形のスペースのほとんどは、ゴシック風の尖塔の屋根部分に占められていた。黒々とした屋根の頂点は、人の背よりずっと高い部分にある。

屋根の頂点には、グッショリと濡れて重く垂れ下がる巨大な旗を取り付けた、いかにも頑丈そうな鋼鉄のポールが固定されていた。

アンジェラは、屋根の端を慎重に伝って行った。一メートル弱ほどの幅が、屋根の周りを回廊のように縁取っている。

しかも、落下防止の柵や壁など全く無い。小さなレンガほどのサイズしかない縁石が、スペースの縁にまばらに設置されているだけだ。

アンジェラは息を切らして震えながら、スペースの端でしゃがみ込んだ。

夜の雨に濡れた身体は、もはや極限まで冷え切ってしまったのか、思うように動かない。端にある塔だ、地上に降りるための階段か梯子がある筈だが、そもそも嵐の中の塔を、このドレス姿で無事に降りられるのか――?

尖塔に激しく降り注ぐ雨水は、屋根を伝い、一メートル弱の幅に溜まるが早いか、縁石の隙間を通って、遥か下へと、滝のように流れ落ちている。下に広がる闇は深い。そこがどうなっているのかは分からないが、塔から落下した水が固い地面に叩き付けられている音が、微かながら区別できる。

――この下には、固い石畳が広がっているに違いない。この豪雨では、突風にあおられて足を滑らせれば、運の尽きだろう。

塔の上でなお雷は鳴り響き、雨は激しく叩き付けて来る。しかし、そんな中にあってなお、アンジェラの耳は、迫り来る死神の足音をシッカリと捉えていた。

――死神の足音が、塔の上に到着した。

アンジェラはギクリとして震えながらも、確信を持って後ろを振り返った。

男は大きく肩で息をしながらも、アンジェラの退路を塞ぐように立ちはだかっていた。そして、ギクシャクと迫って来る。剣の重さのせいだけでは無い、奇妙に歪んだ歩き方だ。

「……チョロチョロと逃げ回りやがって……そこへ直れ! あの馬車事故の古傷のせいで、私は節々がおかしい」

男は再び剣を構えた。雷光が閃き、刃がギラリと光る。

「ユージーンの娘! お前の身体も、ユージーンと同じように……バラバラ死体にしてくれる……!」

再び雷が光り、塔の上を光と闇で切り刻む。続いて、塔全体が不気味に震動する。

アンジェラは何とか立ち上がると、もはやこれまでと覚悟しながらも、奇妙に歪んだ動きをしながら接近して来る、見知らぬ男を見据えた。

「あなたは……、一体、誰……!?」

■ロックウェル城…塔と落雷■

少し時間をさかのぼる。

ヒューゴの銃撃音が続けざまに響いた事に気付き、ジャスパー判事とその手勢が、正面玄関を破ってロックウェル城内に雪崩れ込んだ。

ヒューゴの銃は、ひそかに後を付いて来ていたジャスパー判事らに対する合図となっていたのだ。

しかし、彼らはいきなり、真っ暗な会場に踏み込む羽目になっていた。

「何で城の中が真っ暗なんだ!?」

暗闇に落ちた会場の中では、雷光を頼りに、なおも激しい果たし合いが続いていた。様々な武器の音と、人が倒れる音とが、続け様に響いて来る。

「灯りを持て! ならず者どもを連行しろ!」

ジャスパー判事の指示に応え、続く手勢によって次々に松明やランプが持ち込まれた。

会場の中は白昼のような明るさになった。仮面を付けた大勢の招待客が、まぶしさの余り、本物の魑魅魍魎も同然に、口々に呻き声を上げる。

ヒューゴが最初に、偽のロックウェル公爵、いや、その抜け殻に気付いた。

兜の仮面とマントだけが、そこに残されており――中身は、既に無い。

「あの偽のロックウェル公爵が消え失せた……!」

「何だと!?」

ハクルート公爵も、謎の男が見せた魔法さながらの離れ業に、唖然とするばかりだ。

エドワードは兜の仮面を手に取り、アンジェラが出て行った扉を鋭く振り返った。

「仮面の下は……誰だ!?」

*****

ロックウェル城の広い前庭は、叩き付けるような雨にも関わらず、多くの馬車と人々とで騒然としていた。

既に到着していたジャスパー判事の手勢は勿論、『予定』を早めて駆けつけて来たアシュコート伯爵の馬車や、一緒に付いて来た多数の馬車が停車している。

後続の馬車には、かねてからハクルート公爵と示し合わせていた『その筋』の政府役人たちが乗り込んでいた。レスター家当主の協力で音楽会の招待客リストに名前が加えられ、それを口実に集結して来ていた者たちだ。

一足遅れてやって来た馬車の数の方が遥かに多い。その中には、首都からやって来た大型馬車や、罪人を拘束し連行するための移動型牢屋も多く含まれていた。

アシュコート伯爵は、当座の捜査本部の最高責任者として大勢の捕り手を従え、手際良く強制捜査のチームを組み、ロックウェル城に踏み入った。

ロックウェル城の中から次々に湧いて来たのは、押収された大量の非合法アヘン及びドラッグ類と、身柄拘束された大勢の非合法アヘン業者――リリスと結託し、巨大薬物犯罪にいそしんでいたギャングたちだ。

「てめぇら、何なんだ! こんなことする権利あんのか!」

「残念ながら、あるんだ」

「我々は政府から派遣された特派員だ。非合法アヘンや脱税を取り締まるためにな!」

「何だとぉ」

特派員に拘束され、魑魅魍魎の仮面を剥がされ、脱税の詳細を白状させられるために連行されて行く、ギャングの行列。

ロックウェル城の前庭に並んだ移動型牢屋は、瞬く間に犯罪者で溢れ返った。そこには仮面舞踏会の招待客も混ざっていて、一緒になって口々に騒いでいた。

アシュコート伯爵は早速、臨時に立ち上げられた本部で、先陣を務めているジャスパー判事とその手勢から次々に上がって来る報告を切り回す。目下の最優先課題は、行方不明になったアンジェラの発見と保護である。

*****

オリヴィアは安全のため、アシュコート伯爵の馬車の中で待機したままだ。馬車の周りでは、アシュコート伯爵の従者や随行員が警備に立っている。

馬車窓から見える光景は、ただひたすら『異様』の一言だ。

特派員たちと、拘束されたギャングたちが、ゾロゾロと通って行く。ギャングたちは、まだ魑魅魍魎の仮面をかぶっているのが多い。

一部の容疑者たちがまだしつこく抵抗しており、小規模ながら乱闘があちこちで発生していた。さながら雷雨の中の百鬼夜行の光景だ。

オリヴィアは、アンジェラの姿がなかなか見付からない事に、急速に不安をつのらせていた。

オリヴィアは遂に、馬車の扉を開き、身を乗り出した。警備を担当する従者が、ギョッとして振り向く。

「だ、ダメです、レディ・オリヴィア。アシュコート伯爵に特に指示されてまして」

「それどころじゃ無いのよ」

オリヴィアは更に半身を乗り出し、警備の従者が、あわてて身体を支えた。

地面に降り立ったオリヴィアは、眉根を寄せて辺りを見回す。

――そして、不意に『直感』の指し示す位置を鋭く振り返った。

フロント部の城壁。ロックウェル公爵家の紋章旗を立てるための、ごく細い尖塔。

再び大きな雷光が閃いた。尖塔の頂上の鋭い屋根を挟んで対峙する、二つの人影がくっきりと浮かび上がる。

オリヴィアの叫びが嵐を突いて、トランペットのように響いた。

「――アンジェラが、塔のところに!」

アシュコート伯爵と手勢たちは驚きつつも、塔の方向へ視線を向けた。

再び雷光と雷鳴。

尖塔の上、くっきり浮かぶ二つの人影。

手が空いた者たちがロックウェル城の前庭に集結し、行く手に松明を向ける。

幸い、地上に大した障害物は無い!

「とにかく急げ! 身柄を確保しろ」

手勢の男たちは、尖塔の下へと殺到した。早くも尖塔を囲むフロント部の城壁に到達し、外付けになっている石積みの階段を駆け上がって行く。

雷雨は弱まる気配を見せない。雷の轟音と共に塔が震え、年数を経て脆くなっている石積みが崩れ落ちて来た。

「気を付けろ! 古い塔だから石積みが……!」

*****

――塔の上では、アンジェラと謎の男が対峙している。

誰なのかとアンジェラに問われた謎の男は、傷痕だらけのやつれた顔を歪ませて嘲った。笑っているのか、泣いているのか――いずれともつかぬ、悲痛な嘲笑だ。

「私が……誰か……だと?」

謎の男は剣を持ち上げてアンジェラを威嚇しつつ、呻くように叫んだ。

「冥土の土産に教えてやろう! ユージーンの娘! 私はかつて、お前の父親の従者であった、ラルフだ!」

謎の男は、自分の言葉に更に激昂した。まさに狂える男だ。

「畜生! 従者だぞ! ふざけた血統主義! 私がユージーンより先に生まれたってのに、嫡子じゃ無いと……!」

動けずに居るアンジェラに向かって、ラルフと名乗った男は、高く剣を振りかぶった。

「私がロックウェルの正義と正統の当主! 我が手によって天誅だ、ユージーンの娘……!」

再び雷光が閃き、天を指す凶刃が、ギラリと光る。

次の一瞬、アンジェラに付きまとっていた黒ネコが、ラルフに向かって身を躍らせた。

黒ネコの身体から、見知らぬ男の幻影が現れ――

幻影はラルフの動きを止めようとするかのように立ちはだかった。ラルフは幽霊と認識したのかしなかったのか、いきなり意味不明な叫び声を上げ、勢い余って、アンジェラの方に向かって体勢を崩した。

アンジェラは本能的に後ろへ飛びのいた――塔から墜落する方向に。

塔の上に、ひときわ大きな雷が落ちたのは、ほぼ同時だった。

雷はラルフが振りかぶった剣先に落ち、ラルフの身体を貫いた。アンジェラの脚を突き刺してなお、その下の石積みの中に侵入して激しく弾けた。爆裂音と共に石積みは砕け、四方八方へと吹き飛んで行った。

砕けて飛び散った石積みと共に、アンジェラとラルフは、塔の上から墜落した……

城壁の周りには数多のランプや松明が集結しており、その光が、全ての光景をボンヤリと照らし出していた。

――塔の直下に広がる城壁の上には、石畳で舗装された踊り場のような広いスペースがある。既に城壁の階段を登って踊り場に到着していた先陣グループの面々が、驚き慌てながらも駆け寄り、落ちて来る身体を受け止めようとした。

飛びのいた分だけ、横方向への加速が付いていたアンジェラの身体は、より緩やかな落下軌道を描いた。

踊り場を駆け寄って来る先陣グループの先頭に、エドワードが躍り出た。

その勢いのまま、落下してくるアンジェラに向かって手を差し伸べる。

エドワードが突進して行った方向と、アンジェラの落下軌道が交差した。

正面衝突という程では無い、そのやや傾いた交差軸に沿って、衝突の衝撃が散らされる。エドワードの腕はシッカリとアンジェラの身体を捉えた。そして、衝突の衝撃が散って行く一つの方向へと、二人の身体は放り投げられていった。

エドワードはアンジェラを抱えたまま身体をひねり、この体勢からすると、かなり上々な受け身を取った――エドワードの身体が下になって石畳に激突したが、その角度がごく浅くなったため、衝撃のほとんどは、石畳を横滑りする勢いへと変わったのである。

石畳の表面は、意外に滑らかだった。折り重なったエドワードとアンジェラの身体は、まるで氷の上を滑って行くかのように、相当の距離を滑って行く。

踊り場からの落下防止となっている低い城壁の直前で、二人の身体は止まった。

先陣グループの一部が、エドワードとアンジェラの周りに集まった。

「おい、大丈夫か!」

「あんな所から、よく――」

ヒューゴが前に出て、松明で辺りを照らした。

石畳との激しい摩擦でエドワードの上着はいたく破れていたが、雨水が溜まっていた分、ダメージが抑えられていた。エドワード自身は大した事は無い。

「せ、先輩?」

エドワードは何事も無かったかのように身を起こし、ユーモラスに片目をつぶって返した。

「よくよく、不死身ですね! あ、アンジェラは?」

「あぁ……アンジェラ、立てるか?」

アンジェラの方も、幸いに無傷に近い。ショックで半分フラフラしていたが、次第に目の焦点が合って来る。

エドワードが先に身を起こし、アンジェラを立たせた。

アンジェラは一旦、直立はしたが……すぐにグラリと傾いだ。とっさにエドワードが脇を支える。

片脚に力が入らないのか――エドワードはアンジェラの異変に気付き、息を呑んだ。

「どうした?」

――片脚を貫く、火のような熱さ。

アンジェラは、ボンヤリと足元を見下ろした。

ローズ色のドレスには、雷が貫いた証の黒焦げが出来ている。エドワードに身を支えてもらい、裾をたくし上げてみると――

――タイツも裂けたように焼け切れていて、膝下は素足だ。

片脚全体に――薄赤い、異様な模様が広がっている。

「……火傷みたい」

アンジェラは呆然と呟いた。エドワードがギョッとして、アンジェラの素足に目をやる。

その片脚を覆うように刻まれているのは、放電図形と見える樹状フラクタルのようなパターンだった。雷が灼いていった痕だ。人知を超えた偉大な『何か』による、恐ろしくも美しい刻印だ――それ以外に、言いようが無い。

エドワードもヒューゴも、集まって来た他の人々も、畏怖の念に打たれて絶句するのみだった。

*****

ラルフの身体は、塔の壁に近い場所をほぼ垂直に墜落したため、人々の手が間に合わなかった。ラルフは踊り場の石畳の上に叩き付けられていた。ショックで意識朦朧の状態である。

先陣グループの残りは、既にラルフの周囲を取り囲んでいた。

「先刻、ラルフだと言った……!」

「ラルフだ! 本当だ! あの事故の後、行方不明で……覚えてますよ、昔の彼を……!」

*****

ようやく第二陣の人々が、松明で辺りを照らしながら踊り場の上に上がって来た。ジャスパー判事やハクルート公爵も駆け付けている。

やがてオリヴィアが脚を引きずりつつ、アシュコート伯爵に介助されながらラルフの傍に立った。

ラルフは、あれ程の雷撃を受け、塔から墜落しながらも意識は確かにあり、ブツブツと何事かを呟いてすらいる。

■ロックウェル城…運命の棺の夜と朝■

ラルフは一体、どういう状態なのか。きちんと治療すれば、事情聴取ができる状態にまで回復するのか。今この場で、瞬時に正確な診断を下せるのは、オリヴィアだけだ。

ジャスパー判事が、戸惑いながらも声を掛けた。

「レディ・オリヴィア?」

オリヴィアはその声に応え、蒼白になりながらも、正確な診断を下した。

「手の施しようが全く無い状態よ。雷撃のショックが、心臓まで到達してしまっているの。一見、状態が良いように見えるけど、夜明けを見る事はきっとできないわ」

ハクルート公爵がラルフの胸倉をつかみ、激しく揺さぶった。

「ラルフ! 何故こんな事をした!? ユージーンの忠実な従者であった、お前が!」

旧知の存在を傍に感じたせいか、ラルフの目の焦点がわずかに合った。

ラルフは、搾り出すような声で喋り始めた。

「先代の野郎は……私を絶対に嫡子と認めなかった……あの女には、複数の恋人が居たのだし……父親は別人だろうと!」

ラルフは、身を震わせながらも喋り続ける。

「あの馬車事故の後、ユージーンは一生目覚めぬだろうと医者が宣告した……あの日は、確か……ゴールドベリの魔女が生後六ヶ月の女の子を……ユージーンとセーラの娘、ロックウェル公爵令嬢だ、と、言って、連れて来た、日で……」

ラルフの声はゼイゼイとした調子に変わっていた。

「魔女だろうが、赤子だろうが、得体の知れない輩が、よくも! 我がロックウェル公爵家を、奪う事は、許さん……」

ラルフの目の焦点は、既に合っていない。

「その時……我、確信せり! 我が天啓にして天恵を、正義と正統の証を……!」

ラルフの手が震えながらも、わずかに上がった。まさにその当時、そうやって手を天に向かって突き上げたのだろうと想像できるものだった。意識混濁していながらも話の筋が通っているのが、逆に、恐るべき怨念を証明している。

誰を怨(うら)めば良い――誰を憎めば良い――

行き場を失った因縁――知らぬ間に積み重なっていた深い怨念は、その瞬間、正気と狂気の境界に、ヒビと歪みを入れたのだ。余りにもはかなく脆い人間の思考回路は、奥底から噴出して来た『深淵』という名の怪物ならではの、恐るべき炎のようなエネルギーに焼き尽くされ、決定的に組み替えられてしまったのであろう。

「ユージーンを地下に閉じ込め、何も知らぬ村の婆(ばば)に世話をさせ……ふん! 仮面があれば、変装など……幾らでもできる!」

ラルフの声は次第に途切れ途切れになっていったが、ついに驚くべき内容が明かされたのであった。

「あの復活祭の日に……! ヤツが25年ぶりに目を覚まさなければ……このままだったよ!」

オリヴィアが蒼白な顔色になりながらも、呟いた。

「植物状態になっていても……起きている時と変わらぬ意識が、ある事がある……」

ヒューゴがその意味を悟り、顔を歪ませる。

エドワードに抱きかかえられつつ、ラルフの言葉を傍で聞いていたアンジェラも、ハッと息を呑んだ。

まさか、25年もの間――?

「……どうも、そうらしいな……」

ラルフは意識混濁していながらも、なおも執念で受け答えしている。

「25年の空白があったにしては……ヤツは、状況を完全に理解していやがったよ……クソ! 夜な夜な地下まで降りて、自慢話をするんじゃ無かった!」

ラルフは思い出していた。

悲痛な眼差しをして振り返った、ユージーンの傷だらけの顔を。

馬車事故で恐ろしい傷痕が残ったものの、誰もが本物のロックウェル公爵と認めるであろう面差しを。

「ユージーンのヤツ、目覚めたが早いか、あの裁判弁護士を見つけて……相談を始めやがってな! ……即その場で、あの化け物をメッタ打ちにしてやった……!」

ラルフは苦しげな息の下から、なお尽きぬ怨念の言葉を紡ぎ出していた。

「我が憎しみの過去……ユージーンの娘も味わうが良い……!」

――暫しの沈黙。

ジャスパー判事とハクルート公爵が、怪訝そうにラルフの顔を覗き込んだ。

「ラルフ……?」

「――死んだわ」

眉根を寄せ、緑の目を伏せるオリヴィア。

アシュコート伯爵も呆然とした様子で、ラルフの最期を見守るのみだ。

「ロックウェル公爵のふりをしているのに、認知と縁切りの場に出なかったのは……」

結局、事実を――真実を歪めようとする介入は、無かったのだ。最後の最後まで残った『良心』と思しきものの、欠片のゆえだろうか。この場合、オリヴィアが提供できる医学的な記録に基づいて、国家と司法の下に『認知』が行なわれ、アンジェラは自動的にロックウェル公爵令嬢として認められる事になる。

――仮面の下は別の顔――

オリヴィアは、『直感』が象徴した言葉を思い返していた。

「アンジェラの……レディの称号は、そのままなのね。憎しみゆえか、愛ゆえか……己にも、分かっていなかったかも知れないわ……」

アシュコート伯爵は、無念そうに首を振った。

「バカなヤツだ……!」

――春の夜の嵐。なおも降りつのる雨――

「あの黒ネコ……」

オリヴィアは、雷撃で崩れた石積みの破片の上に鎮座する黒ネコに目をやった。

黒ネコは、人間たちに一斉に注目されても、全く反応しない。瞬きすらしない。限界まで見開かれた目は、異様なまでに妖しく光っていたが、深い放心状態にあるのは明らかだった。

いつから、そこに居たのか。

並み居る人々は、異様な雰囲気を感じて、ただ無言だ。

いつもは冷静なオリヴィアの声は、驚嘆に満ちて震えていた。

「幽霊が憑依しているの……まさか、ユージーンの幽霊とは……」

雷撃の直前、黒ネコに憑依していた幽霊が、ラルフの前に立ちはだかったのだ。

「あれが無ければ、ラルフが全てを話す程に……動転したかどうか……」

まだ憑依が抜けていないのであろう、ヒューゴがネコを抱きかかえても、ネコは放心したまま大人しくしていた。

*****

一刻の後。

ジャスパー判事がロックウェル城の捜索を始めようと、手勢を引き連れて入り口の一つに接近する。

思い詰めてやつれた様子の老執事が、ジャスパー判事を迎えた。

「ロックウェル城の執事か?」

ジャスパー判事の確認に老執事はうなづき、目を伏せて身を震わせた。

「……私が早く呼び止めて、話を致すべきでした……!」

仮面舞踏会の会場でアンジェラに気付き、驚きの余り固まっていた、あの執事だ。

――アンジェラが着ている鮮やかなローズ色のドレスは、間違い無く見覚えのある品だった。生後六ヶ月の公爵令嬢アンジェラがロックウェル城を出た時、まだ正気だった頃のラルフが、公爵夫人セーラのドレスを整理してゴールドベリ邸に送っていた――

「セーラ様のドレス……彼女と同じ金髪――レディ・アンジェラ以外にありえないと分かったのに!」

ロックウェル城の執事は、口を押さえて呻くのみであった。

*****

ジャスパー判事とその手勢は、執事の案内でロックウェル城の奥の間に踏み込んで行った。

地下の冷暗所――冷蔵室として使われていたのであろう石造りの広い密室には、古い血の流れた跡が残っていた。

冷たい石の床のあちこちに、『赤黒い何か』がベッタリと付いたままの、大型の刃物が――大型の獣を解体する時などに使うような巨大な刃物が、転がっている。見るからにゾッとするような光景だ。

ジャスパー判事の部下の一人が、松明を掲げた。

中央辺りに、搬送用の帆布で覆われた、如何にも怪しげな箱がある。近いうちに何処かへ運び出す予定だったらしい。

残りの部下たちが数人がかりで帆布を取り払い、棺桶の如く密封されている箱の蓋をこじ開けた。

恐るべき箱の蓋が開くなり――人間の死体が発する、特有の強烈な臭気が噴き上がった。箱の中は、流れた血でドス黒く染まっている。

かつては人間だった物の、おぞましい断片の群れ。その中に、比較的破壊を免れた、ジャック・オー・ランタンに似た物がゴロリと転がっている。目・鼻・耳・口などと思しき若干の凸凹と――毛髪と思しきボサボサ。

箱の中身を目にした何人もの部下が、一気に青ざめた。

「あの弁護士の死体だ……!」

「四肢の切断……第二のバラバラ死体を作る予定だったらしいな」

ジャスパー判事もこみ上げる吐き気をこらえつつ、無残に破壊された、かつて弁護士だった物の残骸を確認したのであった。

――かくして、近い将来、希代のリアル・ゴシックホラーとして全国の社交界の話題をさらうであろう『ロックウェルの怪奇事件』を彩る事になる、血まみれのエピソードが、また一つ加わったのである。

*****

ジャスパー判事が夜を徹して、ロックウェル城の執事から、事件の全容についての聴取を続けている。

エドワードはその様子を眺めながらも、執事を責める事は難しい、と思うのであった。

25年間、ひと時たりとも刃物を手放す事の無い狂人の発生。人あしらいに長け、殺人や工作活動にも慣れていたマダム・リリスの登場。そして、本物のロックウェル公爵の復活と言う『予期せぬ出来事』を通じて、発生するべくして発生した、バラバラ死体。

これ程の恐怖を目の前にしたら、判断もおかしくなって当然だ――

*****

嵐一過の夜明け方。

ハクルート公爵とエドワードの親子は、ロックウェル事件の捜査を続けるジャスパー判事やヒューゴたち、強制捜査チームの面々と別れ、城を引き上げる事になった。

アシュコート伯爵とオリヴィアは、ラルフと対峙した際の雷撃で脚を負傷したアンジェラを連れて、一足先にアシュコート伯爵領に――現在の滞在先でもあるレスター邸に戻っている。

エドワードは、朝もやに霞むロックウェル城を振り仰いだ。

東雲の中に浮かび上がる、ゴシック風の壮麗な城。

こうして見ると、昨夜、あれほどの騒動があったとは思えない。

「これだけの猟奇的な事情が重なってみると、アンジェラとの結婚について、母上の了解を得るのは難しくなりそうですね」

エドワードの数歩先を歩いていたハクルート公爵は、シルクハットを直しながらボソッと返した。

「マリアは既に了解済みだよ」

「どういう事です?」

「実はお前は、アンジェラ嬢とは赤子の時に、既に婚約済みではあるんだよ」

エドワードは目を見張った。思いも寄らぬ言葉に絶句するのみだ。

ハクルート公爵は、仕掛けがバレた時のイタズラ小僧のような顔をして、息子を振り返った。

「若気の至りか……親のロマンチックな計画と言うヤツだ」

ハクルート公爵は、ボソボソと告白を続けた。

「ユージーンとは寄宿学校以来の親友で、なおかつ公爵同士だった。それだけで、如何なる経緯があったかは予想つくだろう? まさか令嬢が生きていたとは思わなかったよ。ゴールドベリの先祖返りと言うのも意外だった。まあ、基本的には、そう言う事だ……」

■レスター邸…来し方行く末■

レイバントンの町――雨上がりの朝である。

郊外にあるレスター邸の一室に、脚の火傷の処置を済ませたアンジェラが居た。部屋の大窓からは、柔らかな朝の光が差し込んで来る。滑らかな床の上を、窓枠の影が斜めに横切っていた。

アンジェラはベッドの上で身を起こし、一枚の通知に見入っていた。

その通知の宛先には、このように記されていたのであった。

――『アンジェラ・ゴールドベリ』。

『ゴールドベリ一族の名簿にアンジェラ・スミス嬢を記入。ゴールドベリ一族としての名乗りを認める。当代宗主グウィン・ゴールドベリ』

アンジェラのベッドの脇では、オリヴィアが車椅子に腰を下ろしている。

「スミス家ともクレイボーン家とも、既に縁が切れていると言う事になるわね。こうして良いのかどうか、私もかなり迷ったけれども……」

「私、大丈夫です。この子が居ますから」

アンジェラは微笑み、ベッドの上で丸くなっている黒ネコを見やった。黒ネコは自分の話題になった事を察知し、ワクワクした気分になったのか、ピンと尻尾を伸ばしている。

「あの黒ネコ?」

オリヴィアは、しげしげと小さな黒ネコを眺めた。

「確か最初の日、隠れ家の庭先に迷い込んで来てたわね。飛んで光る妖魔ネコマタだと思われたとか。ユージーンの幽霊が憑依していたのだから、そういう妙な現象も納得ね」

「彼の名前はクレイです」

アンジェラは黒ネコを紹介した。オリヴィアは微笑み、黒ネコを撫で始めた。

「クレイボーンのクレイだと、このネコが自分で名前を言ったのね」

黒ネコは目を閉じて、気持ち良さそうに喉を鳴らし始めた。

「奇妙なネコが出て来たものね。あの人の幽霊は、今はもう此処には居ないけれども。幽霊に憑依されていた間の、奇妙な記憶を持っている……」

いささか妙な形ではあるけれども、この小さな黒ネコは、最後のロックウェル公爵となった、ユージーン・クレイボーンの記憶の一部を共有しているのである。

オリヴィアは黒ネコを抱き上げると、イタズラっぽい目付きでアンジェラを見やった。

「馬車に張り付いてアピールしている間、尻尾が縮み上がる程、怖かったそうよ。ユージーンの幽霊が、どんな風に脅迫したのか興味深いわね」

……思わず言葉に詰まるアンジェラなのであった……

*****

正午の刻に近づいた頃、スコット夫人の手引きで、アシュコート伯爵がお見舞いに来た。

アシュコート伯爵とオリヴィアは、簡潔ながら心のこもった社交辞令を交わした。

「取り込み中に済まんが……」

「お気遣い痛み入ります。事件の処理でご多忙なところ、お見舞い頂きまして……」

ロックウェル事件の処理は、それまでの調査や交渉実績のあったアシュコート伯爵が、亡きロックウェル公爵に代わって権限を持つと言う事になっていたのである。

アシュコート伯爵は、部屋にあった椅子を自分で引いて来て、おもむろに腰を下ろすと、一つの古びた封書を取り出して見せた。

「ジャスパー判事からの速達が届いたんでな。ロックウェル城のその後の捜索で、ロックウェル公直筆の、オリヴィア宛の私信が出たのだ」

「私信?」

オリヴィアは目を見張った。オリヴィアにしても、予想外の事であったのだ。

黒ネコの方は、何かを予期したかのようだ。アンジェラの膝の上に戻ると、尻尾を揺らし始める。

アシュコート伯爵は怪訝そうな顔をしながらも、封書の説明をした。

「日付は、あの馬車事故の直前になっている。事故の後、ラルフが忠実な従者として城に持ち込んだが、ラルフが狂った後は、そのまま忘れられた状態だったらしい……」

不意に――オリヴィアの脳裏に、或るビジョンが閃いた。

……長く凍て付いていた『深淵の迷宮』が、今まさに解け始めた。雪闇の中に封印されていた、かの運命の軌道が、謎が、記憶が、愛が、浮かび上がって来る……

「見えますわ……あの馬車で出かける前夜……馬車の待ち合わせの間に書かれた物ね。私が25年前に受け取る筈だった私信……」

オリヴィアは深い確信と共にうなづき、25年前に受け取る筈であった古い私信を手に取った。

アンジェラは、オリヴィアが私信を開封する様子を、呆然として眺めていた。

25年もの間、未開封だったのだ――その封書にある『レディ・オリヴィア宛』と言う文字は、初めて見る、父親の直筆の文字だ。丁寧でシッカリした筆跡には、その人柄がまざまざと窺えるものであった。

オリヴィアは静かな声で、私信を読み上げた。

――『前略、レディ・オリヴィア』

――『乗合馬車の宿場駅で、訳あって一人の娘を保護し、なおかつ道連れとしています。戻った時に彼女をゴールドベリ邸に連れて来て良いかどうか、お返事を頂きたく思います。彼女は一人旅の途中にて路銀を盗まれてしまい、人知れず真冬の川に出て身を沈めようとし、妻がその直前で止めたのです。娘の名はアイリス・ライト。予期せぬ妊娠にて妊娠六カ月との事。詳細は、そちらに戻りました時に説明いたしますが、やむにやまれぬ事情で家出した娘と申せます』

アシュコート伯爵は愕然とした顔になった。

「ライト夫人? 訳ありの未亡人だと思ってはいたが、未婚の母だと……?」

――妊娠六カ月の妊婦。出奔し、自殺を図ろうとした若い娘――

オリヴィアは思案しつつ、呟いた。

「動転の余り、全ての事情を話すような心理状態にあったということね」

*****

ロックウェル公爵の私信は、アイリス・ライトとの会話を、つまびらかに記録していた。

――25年前の二月。連日の大雪の頃。

この数日間、山岳地帯の冬季の狩猟場をつなぐ山道は道路封鎖が続いていた。道路整備のための多数のメンバーが招集され、道路整備の作業が進められていた。

大雪が終わりに近づき、雪かきや道路整備の作業も減ってゆく。狩猟場を巡る道の、一部バリケード解除の知らせが、周辺の宿場駅に伝えられて行った。

アイリス・ライトと名乗る若い娘が、同じ年頃の若いクレイボーン夫婦と共に、馬車駅の宿の一室に落ち着いたのは、その頃だ。

――宿の一室の中。

アイリスは、ずぶぬれで凍えていた。

セーラが手持ちの一着を提供し、濡れた服を着替えさせる。濡れた服は暖炉の傍に吊るされたが、一晩で乾くようなものでは無かった。

一息ついた所で、セーラが椅子に座るよう促す。疲れ切っていたアイリスは、意外に素直に――ボンヤリと、腰かけたのだった。髪は、まだ湿り気が取れておらず、流したままだ。

程なくして、ユージーンが入室する。

『明日には、乗合馬車が出るそうだ。予約を取っておいたよ』

『有難う、あなた』

ユージーンは、見知らぬ金髪の娘に丁重に会釈し、お茶の席についた。

セーラは既に熱い茶を淹れていて、人数分のカモミール茶が出来上がっている。身体の芯まで凍え切っていたのであろう、アイリスは茶カップに手を寄せて、その熱をいっしんに受け取っている。

『ラルフさんは?』

『隣で荷物をまとめてるよ』

『そう。あとでラルフさんにも、お茶を運びましょう』

円卓を照らす蝋燭の光の中、セーラは改めて、しげしげとアイリスを眺め、感心していた。

『綺麗な娘さんね』

良く見ると色合いは多少異なるものの、セーラと同じ金髪。目の色はアメジスト。妖精のような面差しに大きな目をしているので、大人の女性と言った年齢の割には、少女のように見える。

お茶を一服したアイリスは、やがて、不意に奇妙な表情を浮かべた。慌てた様子で、お腹に手をやる。セーラは怪訝そうな顔をして、様子を窺った。

アイリスはお腹を押さえながら、セーラに取りすがった。

『あの……赤ちゃん、生まれると思います!?』

『……え?』

『な、なんだって……!? さっきは川に身を沈めていて……!』

――まさか、この娘は妊娠しているのか!?

ユージーンは驚きの余り、思わず立ち上がっていた。妻であるセーラが、ほんの二ヶ月前に妊娠出産を済ませたばかりという事もあり、その手の話題には敏感になっていたのだった。

一足早く落ち着いたセーラは、アイリスをなだめ始めた。

『落ち着いて。あなたは、妊娠してるのね。大丈夫だから、座って。ユージーンも』

セーラはアイリスを再び椅子に座らせると、カモミール茶を白湯に変え始めた。

『ちょっと濃く入れてたから、お腹がきつくなっただけよ。カモミールは、そう言う成分あるから……』

アイリスは、相変わらずお腹に手をやっていたが、先程とはまた変わった奇妙な表情をし始めた。違和感の正体を突き止めようと、お腹を何度もさすっている。

『……これ、胎動……?』

『何カ月になるの?』

『六カ月……』

『それなら、胎動だわ』

セーラは満面の笑みを浮かべて保証した。セーラはアイリスのお腹に触れて、大きさを確かめる。

――想像以上にお腹が小さくて目立たないものの、確かに妊娠している。

『随分、小さな赤ちゃんなのね』

セーラは感心したように呟いた後、私見をひとくさり披露した。

『ええと、レディ・オリヴィアの受け売りだけど。カモミール茶には子宮収縮成分が含まれているそうなの。いきなりお腹が縮むような刺激を受けて、中に居る胎児が、ビックリすることがあって。妊娠初期はリスクはあるけど、六カ月なら安定期だから、少量なら問題は無いとも聞いてるわ』

アイリスは生真面目な顔で耳を傾けていた。

『もう自殺なんか考えたらダメよ』

そう言ってセーラは、安心させるようにアイリスの肩にそっと触れた。

アイリスは、母親になると言う初めての実感に戸惑っているらしく、無言で顔を赤らめている。

一刻の後。

アイリスの状態が落ち着いたと見て、セーラは問いを重ねる。

『どうして、こんな吹雪の日に一人で……お連れさんは何処に居るの?』

『連れって……?』

『ご夫君に決まってるでしょ? とっても長い話をする事になるわよ。赤ちゃんのパパは?』

アイリスは、すぐには質問の意図を理解できなかったようで、暫しポカンとしていた。

『あの人は……』

ボンヤリとアイリスは呟いたが、しかし、やがて、その顔は青ざめていった。

アイリスは、それまでこらえていた物がプツンと切れたかのように、身を震わせて、テーブルの上にワッと泣き伏した。

その後、アイリスのすすり泣きは、なかなか止まらなかった……

……アイリスの荷物は多くは無かったが、端々に奇妙な点が見受けられた。

左の薬指にある筈の結婚指輪は外され、地味なネックレスに通されており、一見しただけでは結婚指輪とは分からない状態だ。しかし一方で、丈夫な小箱の中に慎重に固定されていたアメジストのブローチには、確かに結婚していたと言う事を暗示する言葉が刻まれていた。

これらの矛盾する品を説明する事は、難しい。

そして、数こそ多くは無いが、恋文の束が手荷物の中に含まれていた。

文通相手は、ただ一人――アメジストのブローチの贈り主でもある謎の紳士、L氏だ。

*****

……オリヴィアによる書状の読み上げが続く。

『極度の精神不安定で説明が混乱しており、彼女が愛人の立場にあったか否かは慎重に確認しないと分からないのですが、彼女の子供についての救いは、ラルフのように父親が曖昧では無い事かも知れません。本人による説明、及び、本人所有物に含まれていた恋文などを確認して、我々が知り得た内容を、まずは先行情報として此処に記しておきます』

アシュコート伯爵が驚愕しきりで溜息をつく。

「恋文などあったのか……」

「事情を考えれば、思い出の品を旅に持ち出していた筈……馬車事故で、ほとんどの荷物は崖下に落ちてしまって、ペンダントトップにしていた結婚指輪や、あのブローチ以外は、持っていないと言う状態だったけれど……」

オリヴィアは深く納得していた。

ロックウェル公爵の私信は、最後のページを残すのみとなった。

――『オリヴィア様の判断次第、我がロックウェル公爵家による直筆の公文書として公開可能なページを同封いたしました。アイリス・ライトの息子ないし娘の父親は、偶然にも我が知人です。彼の人格を考慮しても、それ程、困った事態にはならぬと存じます』

アシュコート伯爵が身を乗り出した。

「公文書?」

「ご覧になります?」

「宣誓書だな。日付は……あの事故の前日か!」

文面に目を通すなり、息を呑むアシュコート伯爵。

『下に記す内容は、これ真実である事を名誉にかけて宣誓す。当代ロックウェル公爵ユージーン・クレイボーン、及び公爵夫人セーラ・クレイボーン。日付時点において妊娠六カ月たる妊婦、アイリス・ライトの息子ないし娘の父親は――』

厳粛な宣誓の文章に続き――ルシールの父親の名前が明記されている!

深い衝撃と沈黙。

アンジェラは両手で口元を覆った。

「そんな……こんな事が……!」

オリヴィアも珍しく、圧倒されている様子だ。

「これは取り急ぎ、弁護士カーター氏に届けるべき文書ね。親展の速達便……貴族の宣誓書だから、他にも整えておかなければならない事項があった筈……」

「貴族の名誉に関わる案件だ。その方面の諸項目は私がやろう」

「よろしいのですか?」

「望むところだ」

アシュコート伯爵はキビキビと立ち上がった。オリヴィアは動揺覚めやらぬアンジェラを振り返り、うなづいて見せる。

「今日は大仕事だけど、アンジェラは休んでいて頂戴。脚に無理をかけたら、後々が大変よ」

アシュコート伯爵とオリヴィアは、あわただしく出て行った。スコット夫人が、ポカンとした顔になりながらも見送る。

*****

興奮覚めやらぬ雰囲気のせいか黒ネコも落ち着かない。微妙な気配を察するや、弾丸のようにベッドを飛び出す。

「ダメよ、クレイ!」

アンジェラは、脚を負傷しているためベッドの上から動けず、声を掛けるしか無い。

しかし――黒ネコは、すぐに捕まった。

いつの間にか、エドワードがアンジェラの部屋に入って来ていた。黒ネコはエドワードに首筋をつかまれ、大人しく吊り下げられていた。

「忍者……?」

エドワードは黒ネコをアンジェラの手に戻しつつ、訳知り顔で呟く。

「先刻の話を、立ち聞きしてしまってね」

返す言葉が思いつかない。アンジェラは沈黙のうちに、黒ネコをモフモフし始めた。

――曰く言い難い不思議な気持ちだ。

「あの……塔から墜落していた時、ビジョンが見えたの。運命の軌道を描く、無数の星々の群れが……雪闇の迷宮が。オリヴィア様が透視していたのは……あの壮絶な密度と深度の連続で……色々、勉強して知っていなかったら、私、あれを処理できなくて、パニックを起こしていたかも知れない」

話がつながっていないのは承知しているが、言葉が止まらない。

エドワードは、そんなアンジェラの状態を察知しているのか、無言で耳を傾けていた。

「ロックウェル城を、魑魅魍魎が跋扈する迷宮と化したのは、今は亡きラルフさんの狂気だけど。……そのラルフさんを狂気に突き落とした、そもそもの邪神は……」

「マダム・リリスでは無い、別の女性だな」

「オリヴィア様は、分かってた。『仮面の下は別の顔』って……」

20年以上もの時を引き裂いてきた凶星の正体は――アイリス・ライトだ。アイリスという名の星辰が創造した『深淵の迷宮』の奥にあるもの、その恐るべき暗さ激しさ。

まさしく『時』を障(さや)る怪物であり邪神であった、かの底知れぬエネルギーの噴出は、一体、どれ程の多くの星々に傷を負わせ、運命の軌道を歪めたのだろう。

「亡きアイリス・ライト夫人もまた、仮面舞踏会の名手だったんだな」

「……雪闇の中の運命の軌道を、深淵の迷宮の底を、重い光明と暗黒の円舞曲を、見事に舞い切った……ライト夫人は……死ぬのが、早すぎたわ」

――『花の影』の完成に至るための残りの軌道は、何も知らぬルシールに引き継がれている。

『カイロスの時』――『カイロンの星』――『界(カイ)』。

ルシールが出逢うであろう、運命の両面性。荒(すさ)ぶ迷宮の中の、分岐と隘路(あいろ)。

かの目に見えぬ、未完成の荒ぶる軌道……海外から取り寄せられた典籍によれば、遠い異境の賢者は、それを『宿業(カルマ)』と言った。

……アンジェラの中で、歯がゆい思いがつのってゆく。

今すぐにでもルシールの傍に飛んで行って、話を――ついでに警告も――したいのだが、脚を怪我している状態では、それも叶わない。

古代の神話にも語られて来た、根源的な謎。このような内容を、一体、誰と語り得よう。オリヴィアやアシュコート伯爵となら、ともかく――例えばオズワルドのような人とは、このような深遠かつ超越的な話題を共有できないのは、明らかだ。

アンジェラは、無意識のうちに爪先を噛み始めていた。

エドワードがアンジェラの手をつかむ。

思わずエドワードを見上げ……アンジェラは急に息を詰まらせ、そそくさとうつむいてしまった。

――頬が熱い。

黒ネコが「ニャー」と鳴いた。

アンジェラは、おずおずとエドワードを眺め始めた。

「スコット夫人が、来客に気付かない筈が無いんだけど……まさか忍び込んだの?」

エドワードは、『その通り』とばかりに、イタズラっぽく微笑んだ。

そしてエドワードは、身を乗り出して笑みを浮かべつつも、アンジェラを落ち着かなくさせる、あの真剣な眼差しをした。

「オズワルドが来る前に、話を済ませておこう。体調は大丈夫かな? レディ・アンジェラ」

アンジェラはドキッとしながらも、光の具合で金色に見える目に釘付けになったのだった。

■クロフォード伯爵邸…連環と連鎖(前)■

春雷の夜――激しい雷雨のさなかである。

クロフォード伯爵邸の近くの丘の上に、ひときわ大きな雷が落ちた。強烈な閃光で、辺りは一瞬、真昼よりも明るくなった。

続く轟音で、部屋の窓がビリビリと震える。

ルシールは放心状態のまま部屋のベッドの上に横たわっていたが、驚きの余り飛び起き、窓の外で荒れまくる天候に注意を向けた。

「ああ……ビックリした!」

――アンジェラの叫び声が聞こえたような気がする……気のせいかしら――

ルシールは急に湧き上がった不安を抑えつつ、バルコニーの窓を開けた。窓が開くなり、激しい風と雨に翻弄される。すっかり解きほぐしていた髪が、ザアッとひるがえった。

「……すごい嵐! 吹雪みたい」

ルシールは窓を押さえ、バルコニーに居る筈の子犬の姿を探し求める。

子犬は、すぐに見つかった。上手い具合に雨風に当たりにくくなっている隅の方に毛布があり、そこから亜麻色のモフモフの毛玉が見える。

近寄って見ると、亜麻色のモフモフはルシールの気配を感じてフルフルと動き、すぐに二つの黒い目がルシールを見上げて来た。

果たして、勇敢な子犬のパピィは、嵐を警戒していた。お目目パッチリの状態だ。

ルシールはパピィの毛布を取り、パピィを部屋の中に招いた。

「パピィ、おいで……濡れちゃうわ」

外で嵐にさらされていた毛布は、既に相当の湿気を吸い込んで湿っていた。今のところ、毛布は使えない程ひどく濡れている訳では無いが、もし一晩中放置していたら、夜明けには大方グッショリとなっていたに違いないと予想できる。

部屋に引っ込み、窓をシッカリと閉じる。ルシールは毛布の濡れていない面を上にして、その上にパピィを導いた。

パピィは嬉しそうな顔をして、お気に入りの毛布の中に潜り込んだ。嵐で落ち着かない状態だったものの、明らかに空腹では無いと言う様子だ。

「食事は済んでる。ディナー前に、マティが厨房から失敬してたのね」

わずかな間とは言え、強風と豪雨の取り合わせで、ルシールの服も髪も濡れてしまっていた。ルシールは湿り気を取り、別の作業着に着替えを済ませると、時計の方をおもむろに見やった。ディナーは既に終わり、夜の談笑タイムも既に終わっている時間である。

――もうこんな時間だけど、お茶だけなら飲めるかしら?

「食器室で確か、お湯を沸かせる……」

ルシールは灯りを持って暗い館内をそっと歩き回り、食器室を目指した。

先日、ローズ・パーク舞踏会の帰りに、食器室で湿布をしてもらっていた。その記憶が正しければ、食器室は玄関広間の隣の方にある筈だ。

*****

ルシールが食器室のドアを開けると――食器室の中は明るかった。

ドアの開く音と、食器室に入って来る足音に気付いたのであろう、カッチリとした体格の、背の高い堂々とした雰囲気の女性の影が振り返って来た。

「――ライト嬢?」

食器室の中では、家政婦長ベル夫人が、一日の最後のチェックをしているところだったのだ。

誰かが、まだ居るとは思わなかった。ルシールはビックリして、顔を赤らめた。髪をまとめておらず流したままだったので、これはこれで、ちょっと失礼をしてしまった形である。

「あ、あの、失礼いたします、ベル夫人。お茶を頂きたいと思って」

「分かりました。砂糖を多めで頂きますね? そちらの椅子にお掛け下さい」

ベル夫人は落ち着き払った様子で、ルシールにキッチン前のカウンターテーブルを案内した。テーブルの上には数本の蝋燭が煌々と灯っており、相当に明るい状態だ。

ルシールはベル夫人の指示に従い、カウンターテーブルの上に燭台をそっと置いて着座した。

ベル夫人はキッチンに向かい、ヤカンでお湯を沸かし始める。

「マティ様から、お加減が良くないとお聞きしましたが」

「あ、今は、大丈夫になりましたので……」

「それは、ようございました」

時折、窓の外で、春雷の閃光と轟きが走る。絶え間ない豪雨の音。

ベル夫人は、ヤカンの様子を眺めつつ、穏やかに口を開いた。

「アントン庭師とは17年ほどの縁がございましたが、アイリスとおっしゃるお嬢様がいらした事は初耳でした」

――アントン氏は、自分の事を滅多に話さない性質であったらしい。

「祖父は、非常に無口な人だったみたいですね」

「頑固一徹の人嫌い、ガミガミの偏屈と言うご老人で。新年の挨拶の時以外は、頑として館に入ろうとなさいませんでした」

「よほど、変人だったんですね……」

ルシールは当惑の思いだ。

やがてベル夫人は、手持ちの中から古びた書状を出してルシールに示した。

「アントン氏の私信を拾った……と、リドゲート卿が……」

ルシールは目を丸くして息を呑んだ。

落としたとすれば、思い当たるのは、夕方、庭園のあずまやでの事だ。

――私ったら、落とした事にも気付かないほどに、ウッカリしていたんだわ!

驚きの余り頬を染め、ギクシャクしながら祖父の私信を受け取るルシールである。

ベル夫人は、弁解するかのように言葉を続けた。

「失礼ながら、中身を見せて頂きました。三ヶ月前に急に不審な死に方をされた方でいらっしゃいましたし、ここ最近は、館内でも、おかしな出来事が続きましたから……」

ルシールは、コクコクとうなづくばかりだ。

(そ、そうよね。お金が盗まれたとか、伯爵様がいきなり馬車事故に遭遇とか……いわくありげな文書があったら、家政婦としては、当然調べる筈だわ)

ベル夫人は静かに溜息をついた。

「……偏屈庭師の、意外な面を見せて頂きましたわ」

その間にもお湯が沸いた。ベル夫人は手慣れた所作で茶を淹れ、ルシールに勧める。そしてベル夫人も、カウンターテーブルの席に着き、二人はカウンターテーブルを挟んで、無言でお茶を一服したのであった。

窓の外では、まだ嵐が続いていた。雷のピークは過ぎ去っていたが、叩き付けるような雨は今なお続いている。時折、大きな雷光が閃き、轟音が館を震わせた。

ルシールは手元に視線を落とし、モジモジしながらも、先日以来、気に掛かっている疑問を口にした。

「妙な事を聞きますが……レオポルド殿は、リドゲート卿を怒鳴っていらっしゃるとか……強圧的と言うか……」

「いつもの事でございます。子爵の特権が忘れられないと言う訳ですね」

「マティは……彼は準男爵だと言っていたような……?」

「レオポルド殿は、かつて『リドゲート子爵』だったのです」

ルシールは絶句し、顔をパッと上げた。ローズ・パークの『前の子爵』だ!

「……じゃ、ローズ・パークや領地を切り売りしようとして……爵位継承権を失った跡継ぎ……って、彼……!?」

「ええ、その通りです。レオポルド殿の異母兄にあたられる先々代の伯爵が、レオポルド殿に最後通牒をお突き付けになりました。でも、ああいうお方ですから、収まらなくて。親族中から資金をかき集め、それで準男爵の地位を買われたのです」

ルシールは唖然とする余り、暫くの間、二の句が継げない状態であった。

「そ、そう言えば、以前、マティが……いえ、ダレット一家は、クロフォード伯爵家の筆頭の、直系親族だそうですね……しかも、ダレット当主が、先々代のクロフォード伯爵の腹違いの弟さまで、王族に近い血統とか……」

静かに、けれどもシッカリとうなづくベル夫人である。

「ダレット家の現在の負債は、膨大な額になります。ダレット夫人は、その負債を帳消しにする努力は、なさいますが……その手段には、多くの問題がございますね」

ベル夫人は、スタッフらしく遠回しに説明するのみだった。

ルシールの頭の中では、マティの喋りまくった内容が次々に閃いていた。

――ダレット夫人は賭博に行っていると、マティが言っていた!

一旦、レオポルド・ダレットが『かつてのリドゲート子爵』、『昔のローズ・パークの地主』だと分かると、それまで茫洋としたまま散らかっていた記憶が、あっと言う間に一本に繋がって行く。

「レオポルド・ダレット準男爵さまが、『かつてのリドゲート子爵』で、『昔のローズ・パークの地主』で……い、色々……大変ですね……」

「ダレット家が、リドゲート卿に強圧的な態度を取る理由は、もう一つございます」

ベル夫人は、ルシールの前提知識の貧弱さを見て取っていた。

これでは、館への滞在の初日から訳の分からない事ばかりだっただろう――ベル夫人は、暫し思案して内容をまとめると、淡々とした説明口調で語り始めた。過去の歴史を講義するクレイグ牧師のように。

「リドゲート卿は、クロフォード伯爵家の血を引く方ではございません」

「え?」

「――リドゲート卿のフルネームは、『キアラン・グレンヴィル・ダグラス』とおっしゃるのです」

「グレンヴィル……?」

ベル夫人は少しの間、意味深そうな顔でルシールを眺めていたが、再び口を開いた。

「以前に、画廊で……グレンヴィル夫妻の肖像画を、ご覧になりましたか?」

「……あ、あの黒髪の……伯爵様の亡き兄上様かと思っておりましたが……」

ベル夫人はかぶりを振って、否定した。

「グレンヴィル氏は、首都の出身の紳士で……、リドゲート卿の実の父親でございます」

「……!?」

これは、一体どういう事なのか――混乱の余り、いよいよ開いた口が塞がらぬと言う風のルシールであった。

ベル夫人の話は、クロフォード伯爵家の昔の歴史に移っていった。

「先々代伯爵は、フレデリック・セルダン様でございました。その異母弟が、レオポルド・セルダン、今のレオポルド・ダレット準男爵です」

「はあ……」

「まだ独身だったフレデリック様には嫡子が居らず、故に、目下、腹違いの弟レオポルド殿が、クロフォード伯爵家の跡継ぎ『リドゲート卿』でした。この辺りは、ご承知でしょうか?」

「え、ええ……ローズ・パーク訪問の時に、『前のリドゲート卿』について少しお聞きしました」

ベル夫人は浅くうなづき、わずかに身を乗り出した。

「それなら、30年ほど前の件も、ご存知ですね。レオポルド殿は膨大な負債を抱え、領地切り売り問題で爵位継承権を失って、失脚なさいました」

静かに相槌を打つルシールである。

「借金取りやギャングの抗争が、クロフォード伯爵家にも及んだ結果、『レオポルド殿の失脚の後の、次のリドゲート卿は誰か?』と言う政局騒動と重なって、クロフォード伯爵領内に一層の混乱をもたらしたのです」

……窓の外では、強い雨音が続いている……

「クロフォード伯爵家の二つの直系親族が、ギャング襲撃や暗殺などによって、爵位継承者をすべて失い、断絶しました。ギャング抗争の中で、前の治安判事も死亡しました」

いつしか、ルシールは息を止めて耳を傾けていた。遠い親戚タイター氏もまた、そのギャング抗争の激化に関わっていたのは確実だ。

「そのような混乱を収めたのが、ロイド・グレンヴィル氏だったのです」

*****

ロイド・グレンヴィル氏は、首都から派遣された臨時の裁判官だ。前の治安判事が死亡していたため、後任の治安判事が決まるまでの間の代理でもあった。

グレンヴィル氏は軍人の経歴を持つ弁護士であり、その軍人としての経験は、田舎者に過ぎない借金取りやギャングたちを恐れさせるに足るものだった。

グレンヴィル氏は早速、カーター氏を始めとする町の若手弁護士たちと問題解決のためのチームを組み、数多のトラブルを次々に示談や調停に持ち込んで行ったのである。

ちなみに、現在のカーター氏が、見かけによらずギャングと渡り合える凄腕の弁護士だと言うのは、この頃の経験があったためだ。

グレンヴィル氏は、順調に勤務実績を積めば高等法院の判事にもなれると言う実力があった。しかし不幸な事に、28年前の某日、テンプルトンの町の中で、クロフォード伯爵フレデリックをターゲットとする闇討ちと遭遇し、フレデリックを護衛しながらも殉死してしまった。

闇討ちを図った黒幕の正体は、半ば予想はつくものの不明だ。

しかし、放たれた暗殺者が、巨大な戦斧の使い手である事は判明している。

――巨大な戦斧の攻撃にさらされたグレンヴィル氏の遺体は、まさに惨殺死体というべき様相を呈していた。

一方、重傷を負いながらも生き延びた先々代伯爵フレデリックは、グレンヴィル氏に深く恩義を感じていた。

闇討ちの時の傷が元で、フレデリックの余命は、わずかであった。しかし、フレデリックは、弁護士カーター氏や後任の治安判事プライス氏、伯爵家の主治医ドクター・ワイルドを立会わせて、最後の力を振り絞って遺言書を遺したのだ……

*****

一服のお茶を挟み、ベル夫人の話は続いた。

「――その遺言書には、爵位継承者が生き残っている唯一の直系親族、すなわちダグラス家に爵位を移すと共に、爵位を継ぐ条件として、グレンヴィル未亡人ホリーを妻に迎えて保護するように――と記されてあったのです」

ルシールは唖然として、驚愕覚めやらぬままに、画廊で見たグレンヴィル夫人ホリーの知的な面差しを思い出していた。

ホリー・グレンヴィル夫人――クロフォード伯爵夫人――あの人が……!

窓の外で、再び春雷が轟いた。

■クロフォード伯爵邸…連環と連鎖(後)■

カウンターテーブル上で、一本の短いキャンドルが燃え尽きた。

ベル夫人はキャンドルを交換すると、再び口を開く。

「何処まで話したでしょうか……ああ、遺言書のところでしたね。遺言書により、フレデリック様の死後、セルダン家に代わり、ダグラス家がクロフォード伯爵宗家となりました」

「つまり、家系が移行した訳ですね」

ベル夫人は「ええ」とうなづき、両手を組み合わせてテーブルの上にそっと置いた。

「ダグラス家の長子、ベネディクト・ダグラス様は独身で、遺言書の内容にも納得しておられました。遺言書の内容は速やかに執行され、ベネディクト様はグレンヴィル未亡人ホリーを正式に妻に迎えて、新しいクロフォード伯爵になりました」

いつしか、春雷の音は遠くなっていた。窓に叩きつける雨の勢いも、それほど強くない。

「……ホリー様は、その時、既に身ごもっておられました」

ルシールは、こぼれ落ちそうなほど目を大きく見張った。

「その子が……リドゲート卿……」

「法的には、キアラン=リドゲート卿は、先代伯爵ベネディクト様の嫡子でございます。しかし、実父がグレンヴィル氏と言う事実は、親族の間では公然の秘密……皆が、ご承知でございますね」

ベル夫人は、憂い深く眉根を寄せる。

「ですが、先代が急に死亡されたのです。極めて疑わしい状況で。爵位をお継ぎになってから、まだ三年も経っていませんでした……」

当時の、絶望的なまでの混乱を思い出したのか、深い溜息をつくベル夫人である。額に手をやり、少しの間、こめかみを揉んでいた。

「レオポルド殿はホリー様を犯人とし、私どもは逆にレオポルド殿の仕業を疑い、領内の人々は再びのギャングの陰謀かと噂をしていましたが、証拠はありません。リドゲート卿は二歳にもならぬ子供でしか無く、ベネディクト様が嫡子と定めておられたものの、血統と言う裏付けは一切ございませんでした。他のクロフォード直系親族は前の政局騒動で断絶していて、一層の領内の混乱は必至でした」

ルシールは、館の中で今までに見聞きした事を、大急ぎで思い返した。

想像を遥かに超える凄まじい経緯ではあるが、ベル夫人の説明には一切の矛盾が無い。しかも、大いに納得できる物がある。

「確か……領内の混乱も大変な頃で……ローズ・パークの巨額の負債に発する、借金取りやギャングの抗争の問題すら収まっていなかった、のですよね?」

「さようでございます」

ベル夫人の説明は続いた。

「そういう訳で、ダグラス家・次子、リチャード様が爵位をお継ぎになり、更にホリー様とリドゲート卿も相続されたのでございます」

納得しつつも、目の覚めるような思いで、耳を傾けるルシールである。

マティやクレイグ牧師が語るダグラス家の出世の歴史、ローズ・パークにまつわる膨大な借金とテンプルトンのギャング抗争の事情、そして、クロフォード伯爵家のお家騒動……各々の因縁は、複雑に絡み合っていたのだ。

「急な状況変化で、閣下は長く多忙をお極めでいらっしゃいましたが……諸々の混乱も落ち着いて来て、私どもも非常に安心いたしました」

ベル夫人は感慨深げである。

「レオポルド殿が、身辺整理を含めてレディ・カミラと結婚し、クロフォード伯爵家の分家、ダレット家を創始と言う事になったのも……あれは翌年の二月頃でしたが、やはり大仕事でございました」

「25年前の二月……ですよね?」

「ええ。難しい問題の処理が続いておりまして、私どもにしても、目の回るような忙しさでございました」

ルシールは首を傾げた。

――ダレット夫妻の性格はアレだが、二人の結婚は、そんなにゴタゴタを伴うものだったのか?

ベル夫人はルシールの疑問顔に気付き、補足を付け加えて来た。

「ダレット夫人、独身の頃は『レディ・カミラ』とお呼び申し上げておりましたが。彼女は当時は、首都方面の社交界でも評判の、絶世の美女であられました。幼少時から先々代クロフォード伯爵フレデリック様の婚約者と目されていらっしゃいましたが、社交界デビューして間も無く、レオポルド殿と深い関係になっていたそうです」

目をパチクリさせるルシールである。

「え、えっと、いわゆる略奪愛、ですか?」

「寝取り、とも申しますね。レオポルド殿は、お若い頃は、それはもう目を見張るような絶世の美青年でいらっしゃいました。血統、財産、地位、容貌ともに申し分のない御方とされておられましたし、テンプルトンの淑女たちの憧れの存在でいらっしゃったとか」

「想像できるような気がします……」

ルシールは曖昧ながら、引きつった笑みを浮かべるしかない。

ベル夫人にしても困惑する話題なのであろう、眉根を寄せてお茶を一服したのだった。

「先々代伯爵フレデリック様は、『レオポルド=リドゲートの廃嫡』という厳しい決定で臨んでおられました。『レディ・カミラ』を挟んでの、異母兄弟ならではの深刻な確執も、おありになったのだろうという事です」

――痴情のもつれも、問題の激化の要因になりやすいのだ。

ルシールは驚きながらも、納得していた。

「それだけの因縁があったのならば、結婚話をまとめる段階からして……あ、ほんの少しですが、聞いておりますわ。伯爵様は、ずっとお忙しくされていたとか……」

――数日前の夜だったか。クロフォード伯爵は、話の流れの中で、『爵位を継いで妻と結婚した後は忙しくて……』と言うような事を確かに言っていた。

ルシールは、次に言うべき事が見つからず沈黙した後、おずおずとベル夫人を眺めた。

「でも……随分、込み入ったお話なのに……お詳しいんですね」

「私は、奥方様の侍女でした。ホリー様が独身の頃から、お傍で勤めていたので」

「……」

「ホリー様は大変に苦労されましたが、ベネディクト様もリチャード様も、お優しい方で幸いだったと存じます。リドゲート卿が寄宿学校にお上がりになる前、死亡されましたが……誠に穏やかな最期でございましたから」

ベル夫人はキャンドルの炎を眺め、深い物思いに浸っていた様子だったが、すぐにいつもの淡々とした態度に戻って、話を続けた。

「――ホリー様は、死亡される直前まで、ダレット一家を懸念しておられました」

ベル夫人の口調は、淡々としたものでありながらも、そこには確かに、苦い思いが感じられるものであった。

「レオポルド殿は、自分が失脚したと言う事実を認めてらっしゃいません。グレンヴィル氏への逆恨みもおありだったのでしょうが……まだ子供であられた頃のリドゲート卿にも、猛烈に八つ当たりなさっていましたので」

ルシールはうつむき、茶カップの中に残ったお茶を見つめた。

ローズ・パーク舞踏会から戻った時の事が思い出される。

キアランを怒鳴り付けるレオポルドの剣幕には驚かされたものであったが、あのような事が、子供の頃から続いていたのかと思うと、複雑な気持ちを禁じ得ない。キアランが常にムッツリとした表情を崩さないのも、納得できるものである。

(リドゲート卿とダレット一家との冷たい関係って……これは良縁どころじゃ無いわ)

二代続いた仇敵同士もいいところだ。アンジェラなら、『即却下!』と決める話だ。

ルシールは眉根をキュッと寄せ、今までの記憶をほじくり返した。

(マティは、正確には何と言ったかしら……ダレット家の方から婚約話を……?)

そこで、ルシールは、レナードとキアランとの関係にも、奇妙な点があった事を思い出した。

あの日――タイター氏と裏街道で対決した日。クロス・タウンの交差点で、レナードとキアランは偶然に遭遇した。それにも関わらず、レナードとキアランは互いに非友好的な視線を交わし合うだけで、挨拶すらしなかったのだ。

――そう言えば、復活祭の頃に、レナード様とリドゲート卿は喧嘩してた? 館の出入り禁止とか、まさか……

ルシールは様々な可能性に戸惑って、首を傾げた。

「親の恨みが子に報い……とは、言ってみても。レナード様が館の出入り禁止を食らったと言う話……、仕返しにしては、やり過ぎでは……?」

「それは別の話です」

ベル夫人は、ルシールの曖昧な質問の意図を正確に理解し、端的な説明をした。

「最近、地元社交界で、賭博借金や女性問題が絡んだ恐喝詐欺などのスキャンダルが、数ヶ月続いていたのです。その恐喝詐欺に関与した地元紳士グループのトップが彼でしたので、相応の処置がされた……と言う次第ですわ」

ルシールは唖然とするばかりだ。

「レナード様が、恐喝詐欺を……? 町角の新聞雑誌の『事件&ゴシップ面』や、『今季シーズンの放蕩紳士のスキャンダル特集』に出て来ても不思議ではない内容ですが……あ、王族親戚って事で、どこかの誰かが揉み消した……?」

「レナード様の寄宿学校での友人が、コツを伝授されたとか……なかなか巧みなやり口でございました」

次いでベル夫人は瞬きし、不思議そうな顔をした。

「もしかして、ライト嬢は……数日前、レナード様の馬に蹴られた一件を覚えておられない?」

ルシールは一瞬、問いの意味が分からず、目をパチクリさせた。

数日前。馬に蹴られた……

――数日前、確かに、館の庭園の裏の柵が破れていたのを見た。タイター氏のギャング団が出入りしていてもおかしくない程の、盛大な破れぶりだった。そこから、不審な騎馬姿の人物が侵入して来て、馬を暴走させて、マティとルシールを襲って来たのだ。

「数日前、馬に蹴られ……あ、えっと、マティと一緒に庭園を散策していた時……、タイター氏の馬賊では……?」

「裏の柵から侵入し、暴走して来たのはレナード様ですよ」

そこでベル夫人は、不意にアッと気付いた様子で、頬に手を当てた。

「後ろから蹴られたのでは、彼の顔は見えていない筈ですね。しかも、一瞬で失神したとか」

――えええええ!! あれって、タイター氏じゃ無かったのッ!?

ルシールは、頭を棒で殴られたような気がした。気が遠くなりそうだ。茶カップを両手で握り締める。愕然とするあまり、震えが止まらない。

(何たる事! あの日は確か、タイター氏の脅迫状が届いていたので、あの暴走馬の乗り主の正体は、てっきりタイター氏だと思っていて……! 彼が馬に乗れなくなるように、馬が嫌がるハーブを、まぶしてしまったとか……!)

タイター氏の暴言に対する怒り故の行動だったとは言え、盛大な早トチリに身のすくむ思いだ。タイター氏の余罪は数知れぬ物ではあるだろうが、暴走馬の件に関してだけは、無実だったのだ。

ルシールは、己のウッカリぶりに呆然とする余り、頭をクラクラさせながら、無意識のうちに、すっかり冷めてしまったお茶を一服するのみであった。

ベル夫人はルシールの様子をしげしげと眺めていた。そして、不意に声を掛けて来た。

「つかぬ事をお聞きしますが。リドゲート卿は、ライト嬢に求婚をなさったのでしょうか?」

「……(ゴフッ)」

不意打ちを食らったルシールは、口に含んでいたお茶を吹き出した。次に、むせ始めた。

ベル夫人は、ルシールの反応に言外の回答を察しつつも、冷静にお茶を片付け始める。

「驚かせてしまい、申し訳ございませんでした。気になる事を小耳に挟んでおりましたので……」

やがてルシールとベル夫人は、灯りを持って食器室を出ると、就寝の挨拶を交わしたのであった。

*****

部屋に戻ったルシールは、円卓の上に灯りを置いた後も、動揺覚めやらぬまま佇んでいた。

ルシールの帰還に気付いたパピィが、不思議そうに身を起こしてルシールを眺める。パピィは暫し首を傾げた後、尻尾を振ってルシールの脚にじゃれついた。

ルシールは、ボンヤリとしたままパピィに応え、床に座り込んだ。

モフッとした可愛らしい毛玉が膝の上に乗って来たが、ルシールの方は、心ここにあらずだ。物思いにふけりながらも、モフモフの尻尾を振り続けるパピィを撫で回す。

「……ねえ、パピィ、大変な内容を色々聞いたの。もう頭が、どうかしてるって言うか……」

亜麻色の柔らかなモフモフを、ギュッと抱き締める。

「クゥン?」

「知らなかったとは言え、私がリドゲート卿をひどく誤解して、おバカな事を言ってしまったのは確かよね。冷淡どころか、最大限の礼儀だったんだわ」

ひとしきりモフモフすると、ルシールは、パピィを毛布の中に包み込んだ。元々眠かった事もあって、大人しく寝入るパピィである。

ルシールは寝付かれない思いを抱えて、ボンヤリと座り込んだまま、窓の外を眺めていた。

嵐のピークは既に過ぎ去っていた。

闇の中に聞こえるのは、強く弱く降り続ける、不安定な春の夜の雨音だけだ。

――この問題は、一人の手には余ってしまう。

このような、深刻な因縁に対する正解なんて存在するのかしら。アンジェラに、相談してみようか――

ルシールは長い間、考え込んでいた。

*****

嵐の夜は過ぎて行き、ゆっくりと朝がやって来る。

雨は、もうほとんど上がっていた。

ルシールが淡い東雲の光を頼りに戸棚の中を片付けていると、軽やかにバルコニーに飛び降りて来る人影があった。

窓を開けて入って来たのは、果たしてマティである。

「……あれ? ルシール……まさか一晩中、起きてた……!?」

「早いわね、おはよう」

マティは首を傾げて目をパチクリさせ、ルシールの手にある数枚のリネンタオルを見つめた。

「リネンタオルって……これから地下のフロアで、入浴とか……?」

「夜なべで黒服を縫い直していたから、目覚ましにね。前より風が強かったから、パピィを中に入れてたわ」

ルシールは微笑みながら、床に広げた毛布の中で元気よくモフモフ&ワフワフしているパピィを示した。

マティは顔をパッと輝かせて、パピィを抱き上げる。

「サンキュー! さすがに昨夜はヤバイかもと思ってたんだ」

第六章「追憶ラビリンス」

■クロフォード伯爵邸…夜明けの不吉な高笑い■

朝まだき、薄明のもやの中をマティ少年は駆け抜ける。子犬のパピィを、いつもの犬小屋に戻すのである。

いつものコース。車庫と厩舎の間の細道の途中に、スタッフが詰めている棟がある。いつものように馬丁の熟睡ぶりを確認し、いよいよ、犬小屋代わりにしている、アントン氏の倉庫に続く隠れ小道に入る。

――目の先の、もやに霞む木立の間で、人影のような物が動いた。

マティはハッと息を呑み、傍の茂みの中にサッと隠れる。

「しーッ、パピィ」

腕の中にいるパピィに、静かにするように言い付ける。賢いパピィはすぐに静かになり、ヌイグルミのように動かなくなった。

マティはパピィを地面に降ろすと、慎重に匍匐前進した。人影の正体を見極めようと、茂みの中から目を凝らす。

アントン氏の倉庫の前をウロウロしている……長い金髪の女。

マティは、此処に居る筈の無い人物だと言う事に気付き、驚きと怪訝さの余り、目を見張った。

「アラシアじゃねえか……夜更かしが朝っぱらから一体、何を……」

さすが、アラシアと言うべきか。

こんな野外活動にさえ、ヒラヒラ&フリフリ&ハデハデのドレスをまとって出て来ている。アラシアにとっては、これが『最も活動的なドレス』なのかも知れないが。

そして一足ごとに、雨上がりの柔らかい泥に何かを突っ込んでいるような、異様な足音がする。その異様な足音は――高いハイヒールを履いているからだ。

見ているとアラシアは、アントン氏の倉庫の中から何かを持ち出したようだ。

「アントンの倉庫から何か持ち出したな。ルシールが中の道具を、できるだけ整理してたってのに……」

アラシアは、身体の重心が定まらないフラフラした歩き方をしている。

男性によるエスコートが無いため余裕も無いのであろう、優雅さも何もあったものでは無い。物陰を徘徊するゴブリンか何かのように背中を丸め、一歩ごとに地面を突き刺しているような異様な足音を立てている。

アラシアは、少し先にある一区画の仕切りとなっている、瀟洒なアーチをくぐって行った。

マティは、警戒心タップリに目を細めた。

「……向こうはバラ園だけど、本格的な花は無い筈だぞ」

バラの季節には、まだ早過ぎるのだ。早咲きのバラは幾つかはあったが、成長不良の小ぶりな代物に留まり、身分の高い人々の鑑賞に堪え得るとは思えない。

暫くの間、アラシアは緑の葉群の中に沈んでいたが、再び身を現した。早くも、目的の物を手に入れた様子だ。

アラシアは、またしても危なっかしいまでのフラフラとした足取りで――重心を低くして姿勢を安定させようとしているのであろう、背中を不格好に丸めつつ――バラ園の出入口となっているアーチを潜っている。

「戻って来る!」

マティは再び、茂みの奥深く身を隠した。マティが潜んだ茂みの前を、アラシアは足を踏み鳴らしながら横切って行った。

柔らかい地面を突き刺しているがゆえの異様な足音が、一歩ごとに遠ざかって行く。

――アラシアは一体、何をしているのか。何が目的なのか。

好奇心押さえがたく、マティは、こっそりとアラシアの後を尾行して行くのであった。

何故かパピィも、マティの仲間と言った顔つきをして、賢くも忍者のように物音を立てず、こっそりと付いて行く。

アラシアは角を曲がり、屋根のある一角に入り込む。マティは勿論、そこに何があるのか、承知していた。

「……厩舎……?」

マティはアラシアの死角を窺いながらも、茂みと茂みの間の空白を素早く移動した。パピィも、ピッタリくっついて来る。

身を隠すのに手頃な、大人の腰の高さまである大きな植え込みが、すぐ先にあった。

マティとパピィは、その植込みの中に改めて身を潜めると、その隙間から恐る恐る、アラシアの様子を窺うのであった。

――厩舎が真ん前だ。良く見える。

マティは早速、アラシアの手に何があるのか、素早く見て取った。

たった今、切り取ってきたばかりという風の――棘だらけの、バラの小枝。

――バラの枝と馬。余りにも、有り得ない取り合わせ。いよいよアヤシイ。

アラシアはテキパキと事を進めて行く。普段のものぐさなアラシアからは、余り想像できない姿だ。アラシアは、バラの枝を、馬車用の馬の装備の裏側に突っ込み始めた。

意味不明な行動だ。馬も怪訝そうな様子で、何度もアラシアの方に首を向けている。

「あれじゃ、馬車を引き始めたら馬が痛がるって……バカじゃんか」

マティはパピィにささやいた。パピィは賢い聞き役になっていた。

「馬が暴走しても……暴走、させる……!?」

マティは、いきなり気付くところがあり、ハッと息を呑んだ。

そうしている間にも、アラシアは一仕事を終えた様子である。

「……これで良いって、レナード兄様が言ってたわ……」

そしてアラシアは、輝くような金髪に縁取られた、その類まれな貴族的な美貌に、『邪神の聖女』もかくやと思えるほどの、恐ろしい笑みを浮かべた。鮮やかに美しい青い目が、攻撃的な光を帯びてギラギラと光る。

「……馬車から放り出されて! 首の骨を折って死ぬが良いわ! あの茶ネズミの、オールド・ミスの乞食女なんか……! ホホホホホ! オーッホホホホホ……!!」

アラシアは高ぶる感情のままに、鈴を転がすような美しい声で高笑いを始めた。

東雲の空の下、雨上がりの輝きを帯びて明るくなりつつある早朝の厩舎の一角に、美しすぎる高笑いが響き渡った。

植込みの中に身を引っ込めてシッカリと聞き耳を立てていたマティは、しかし、人食らいの鬼婆さながらのドス黒い悪意を察知して、硬直して青ざめるばかりだ。パピィも、野生の本能で何らかの危険を感じているのか、歯を剥き、胴震いし、毛を逆立てている。

ひとしきり高笑いをした後、アラシアは身を返す。『もう用済み』とばかりに、小型ハサミをその辺に放り捨てて、サッサと館の中に戻って行った。

*****

マティはまだ固まっていたが、やがて――やっとショックが過ぎて、頭脳が働き出した。

「パピィ……オイラ、大変だ!」

マティはパピィを物陰の中に隠すと、大慌てながらも、アラシアとは別のコースで館へと走り去って行った。

「パピィ、イイ子にしてろよ! 非常事態なんだ!」

「ワンッ☆」

パピィは賢くもその指示を了解した様子で、一声鳴いたのであった。

*****

マティは、館の厨房の方に開いている出入り口を通って、館内に入り込んだ。

既に野菜くずやその他の雑多なゴミが、出入り口の脇に小さな山を作っている。アラシアと絶対に行き逢わないというコースは、此処だけだ。急がば回れだ。

厨房で朝食の準備作業をしていたコックやメイドが、明るい栗色の髪をした少年の不意打ちの登場に、驚き慌てる。

「キャア!?」

「マティ坊ちゃま!?」

「うわ! ナプキンを押さえろ!」

マティの爆走コースに沿って、トレイの上に乗っていたナプキン類が、危なっかしく空を舞った。特急馬車なみの高速通過だ。

「マティ様……!?」

コックやメイドと一緒に居た執事が驚きながらも声を掛けたが、マティはあっと言う間に、別の廊下へと消えて行ってしまったのであった。

マティは早くも目的の部屋の前まで到達し、勢い良く扉を開いた。

「判事! プライス判事ッ! 大変なんだ、起きてよ!」

プライス判事の部屋の扉は、緊急事態に対応するため、夜間も開錠状態である。しかし、時間が時間という事もあって、その時、判事はグッスリと寝入っていたのであった。

マティは部屋の中に侵入すると、泥だらけの靴を脱いで放り出し、大声を上げながらプライス判事の布団の上で飛び跳ねた。

「事件だ! 起きろ!」

いきなりお腹の上に乗られたプライス判事は、一気に目が覚めたのであった。

「な……何だ……何なんだ!?」

プライス判事は、寝ぼけ眼でベッドの上に起き上がった。癖の強い赤っぽい髪には、盛大な寝癖がついている。もし髪の毛が短く刈り込まれていなかったら、悲惨な事になっていただろう。

窓から見える空を確認するなり、プライス判事は驚きの声を上げた。

「冗談だろ、まだ夜明け前だぞ!」

「早く、早く!」

「……待ってろ! 今から着替えるんだ」

マティの様子に思うところがあったプライス判事は、取り急ぎ、外出のための最小限の身だしなみを整える。マティは、滅多な事では大騒ぎしないという事を、プライス判事は良く心得ていた。

プライス判事と一緒に来ていた若い部下は、館の別室に泊まっていた。上司たるプライス判事の急な指示に驚きながらも飛び出し、馬丁が詰めているスタッフ棟に押し掛ける。

馬丁スタッフ棟のドアが、ドンドンと叩かれた。

「ふぁい? 朝っぱらから何事で?」

「プライス判事がお呼びだ!」

「へぇ……!?」

此処だけの話ではあるが、複数人の馬丁たちの中で最初に叩き起こされた馬丁にとっては、館の最寄りの端の部屋で寝ていたのが、運の尽きだったとも言えよう。

「ただ今、馬丁を此処に起こして参りました!」

「馬車用の馬の装備をチェック!」

「おぉ? あぁ? 装備、へい」

馬丁は寝ぼけ眼で呆然としていたが、判事にキビキビと注文された事で、ようやく頭が回り始めたらしい。帽子をシッカリ被りなおすと、首を振り振り、厩舎に続く小道に出て行った。

馬丁の後を付いて行ったプライス判事とその部下は、早速、馬丁と共に、泥の上に残された見慣れぬ足跡に仰天する羽目になったのだった。

「こりゃあ、何じゃ!?」

「何だ、この足跡は!?」

「厩舎の前でウロウロ、庭園の一区画でウロウロ、此処で回れ右してますね」

一部は芝生を横切ったりしているため途切れているが、昨夜の雷雨で泥だらけになった地面の上には、その奇怪な行動の痕跡がクッキリと残されていた。

そして見慣れぬ足跡は、いずれも同一人物によるものだ。男物の革靴やブーツでは有り得ない形である。プライス判事は怪しい足跡を注意深く睨み付け、当たりを付けた。

「女の靴だな。えらく高いヒールの……」

「――アラシアのハイヒール! 取って来る!」

マティは即座にピコーンと来た。マティは再び館内に駆け込んで行った。

プライス判事と部下は、マティの様子に一時はビックリしたが、すぐに馬丁を伴って厩舎の周りを調べ始めた。

怪しい足跡は、馬車用の馬が入れられている一つの仕切りの前で、何らかの作業をしていたらしいと言う事を暗示していた。

馬丁は不審そうに首を振り振り、早速、その仕切りに入っている馬を調べ始める。馬は違和感を訴えているような素振りだ。馬丁は馬の装備を降ろすと、裏側を慎重に探る。

馬丁は不意にギョッとした顔になり、装備の隙間に仕込まれていた異物を取り出した。震えながらも、その異物をしかと確認する。

「は……判事さま、そんな馬鹿な……バラの枝が……!」

「――リチャード殿の事故の時と同じだ!」

「ひえぇ……!?」

ショックの余り、馬丁は青ざめた。プライス判事は早速、部下と馬丁に指示を飛ばした。

「現場保存! 役所に飛んで応援を呼べ、捜査が済むまでは誰も近づけるな!」

「了解です、判事!」

*****

一刻の後、役所から十数人ばかり、緊急の応援の先発隊がやって来た。実際、早馬で行き来すれば、クロフォード伯爵邸と最寄の役所のある地元の町とは、往復に30分と掛からない距離なのだ。

同じ頃、アラシアのハイヒールを持ち出して来たマティも、現場に到着した。

マティは息を切らしながらも、早速、泥だらけになったハイヒールを判事に見せた。泥だらけにはなっていたが、スパンコールや刺繍がたっぷりと施されている事が見て取れる贅沢な品である。

「泥だらけで放り出してた……この靴を履いて歩いてたんだぞ、この泥の中を!」

「凄い才能だな」

感心する判事ではあったが、その感心は、どちらの才能に対してなのかは曖昧だった。

これ程に高いヒールで泥道を歩けると言うアラシアの才能もさる事ながら、アラシアが放り捨てた物を見つけ、拾って来ると言うマティの才能も、大した物なのである。

早速、部下たちが、現場の足跡の形とハイヒールの形とを比較する。部下たちはハイヒールを持って各所を走り回った。そして、早くも各所の現場から、報告が上がって来た。

「現場の足跡と完全一致!」

プライス判事はうなづき、近辺の手の空いている部下たちに手早く指令を下した。

「キアラン君を呼び出してくれ、非常事態だ!」

部下の一人が、館の方へ走って行った。

次に、マティを一睨みするプライス判事である。

マティは察するものがあり、一歩後ずさった。

――判事は、『重要参考人』たるマティを逃すようなヘマはしなかった。

「……マティ君、そろそろ白状してみないか?」

「何で、オイラが!?」

「とぼけんな!」

プライス判事は、あからさまにソワソワし始めたマティをガッチリと捕まえ、その小さな額に人差し指をグリグリした。マティは変な声を上げて身をよじっている。

「坊主がライト嬢を巻き込んで何かを隠してる事は、こちとら既に、昨日からお見通しだ! アラシアの行動は、いずれ解明してやるがな、坊主は何故に、朝っぱらから此処に居た!?」

マティは図星を突かれ、更に言い訳のできない状況を理解し、真っ赤になって口をパクパクさせるばかりであった。頭が回るとは言え、まだまだ素直な子供だ。

判事がイタズラ小僧をつつき回しているところへ、部下に呼ばれたキアランがやって来て、不思議そうな顔をした。

キアランも、寝入っているところを急に起こされたと言う状況なのだ。身だしなみは整えてはいたものの、シャツ&ベストという簡素な姿である。

マティは、モジモジと小さくなりつつも、横目で大人たちを、チラリ、チラリと見やった。

「怒んないって約束してくれるかな」

「この期に及んで、なお司法取引とは……全く大した坊主だな!」

「……(無言)」

プライス判事もキアランも、揃って呆れるのみだ。

とにもかくにも、怒られないと言う約束を取り付けたマティは、早速、物陰からパピィを出して見せたのであった。

パピィは、お目立ちしても良いタイミングだと言う事をちゃっかり理解しているらしく、楽しそうな顔つきで、可愛らしい尻尾をモフモフと振っている。

「ワフン♪」

館のルール破りの問題で叱るべきところではあるが、実際のところは、プライス判事もキアランも、驚きの余り呆然としているばかりなのであった。

周囲では、部下たちが吹き出し笑いをこらえ、身をプルプルと震わせていた。

■クロフォード伯爵邸…未必の故意(前)■

マティと大人たち一同は、アントン氏の倉庫の前に集まった。

「アントン氏の倉庫を、犬小屋に拝借しただと……アントン氏が生きていたら、怒髪天だったに違いないな」

プライス判事は、驚きが止まらないと言った風で首を振り振り、ボヤいた。

庭師アントン氏の倉庫は無残な状態で、見る影も無い廃屋と言った様相を呈していた。昨夜の雷雨でズブ濡れになり、更に荒廃の度を増している。さながら『ゾンビ小屋』だ。常緑樹の高い生け垣が目隠しになったため、この有り様に、誰も気付く事が出来なかったのだ。

「オイラが、じいじと一緒にこっちにお泊り開始した時から、ずっとこんな状態だったんだよ。で、パピィが、この辺で遊んでて……」

「という事は、復活祭の前の時点で、既に侵入があったという事か……」

プライス判事も、その部下たちも、そしてキアランも、唖然としつつ、かつて庭園道具用の倉庫だった物の残骸を眺めるのみである。

プライス判事は倉庫を一通り観察すると、改めて首を傾げた。

「屋根の半分が破壊されてるな。何で、チビの毛玉は全然濡れてなくて、元気なんだ……?」

パピィは、プライス判事の大きな腕の中に気持ち良く収まり、上機嫌でモフモフ&ワフワフしている。

マティはコミカルに腕を広げて見せた。

「ルシールの部屋のバルコニーに避難させていたからさ。車庫の上から、丁度良い具合にバルコニーまで大枝が張ってて……」

マティを除く大人たち一同は全員、驚愕の面持ちで、館の東側の棟を見上げた。

車庫の屋根が並び、その間から大きな木が立ち上がり、その偉大な幹から延びている大枝が、『丁度良い具合に』館の二階のバルコニーに隣接している様を。

今まさに、太陽が空高く上昇し始めたところであった。

朝焼けの色に染まった雲間から洩れ、庭園の樹木の間を通って来た浅い角度の陽射しが、館の東側の棟全体を照らし――東端に位置するルシールの部屋のバルコニーを、淡い金色に染め上げている。

成る程、朝の光の中で良く見れば、蔦かずらのような物に偽装したらしきロープが、ルシールの部屋のバルコニーに結わえられているのが見えるのであった。指摘されて見なければ、とてもそれとは分からない。

キアランは驚きの余り、我知らず呆然と呟いていた。

「バルコニーに登ったのか……」

プライス判事も、慌てたようにマティを振り返る。

「坊主は、レディの部屋に、夜な夜な侵入したのか!?」

マティは顔をしかめた。『人聞きの悪い事を言わないでくれ』と言う風に。

「ルシールも知ってるんだ……昨夜は、パピィを部屋の中に入れて暖めてくれたし」

「全く、何たる事だ! 全く」

プライス判事は、完璧なる想定外の状況に困惑する余り、喚きながら頭の毛をかきむしるのみだ。その後ろに控えていた判事の部下たちも、開いた口が塞がらぬと言った様子で立ち尽くすのみである。

部下の誰かが――それも、複数人が――ブツブツと不満を呟いていた。

「ガキの特権か……」

「うらやま……、けしからんガキだな!」

プライス判事は、不意にハッとして、アントン氏の倉庫をサッと振り返った。

「ちょっと待てよ……もしかして、坊主がレナードのカフスを見つけた場所――この、無残な倉庫の中か!」

マティは、実にアッサリとうなづいた。

「そーだよ。その奥の方に、大型ハサミが転がってる。裏側の柵をメッチャ破壊できるような、バカでかい代物が」

「大型ハサミ……」

プライス判事はオウム返しに呟きながらも、昨日マティが大広間で披露した推理の内容に、深く合点していた。

数日前、レナードが館の裏の柵から侵入し、馬を暴走させてルシールを襲った事は承知だ。その柵は、実に都合よく、馬でも通過できる程の幅に渡って、大きく破られていた。

レナードが何故、裏の柵が破れている事を知っていたのか……それは、マティの推理通り、レナード本人が、本当に柵を破壊していた犯人だったからと言う事になる!

アントン氏の倉庫を調べ始めた部下たちは、程無くして大型ハサミを発見した。

「ありました、判事どの! 太い枝を剪定するヤツで!」

マティの背丈程もありそうな大型ハサミである。大人の男で無ければ、到底、軽々と扱えないであろうと言う大きさ、重さであった。ルシールも、これ程の大型道具は、すぐには元の場所に戻すことが出来なかったのだ。

マティは、大型ハサミの中央部分のネジを指差した。

「レナードのカフスは、そこのネジにハマってた……思いっきり倉庫の奥に放り捨てた時、カフスが挟まって行ったんだろうね」

確かに大型ハサミに相応しく、ネジも大型の物が使われている。そのネジが作り出していた窪みは、成る程、あの贅沢なカフスが、ピッタリと入り込むであろうと言うサイズなのであった。

「今、考えてみりゃ、レナードがこの間、侵入して来たのは……カフスを何処で落としたのかを思い出したからかも知れないな。首都の社交シーズンも近いし、見栄えの良いカフスが必要になったんだろ」

マティは明るい茶色の目をきらめかせ、考え付くままに喋り続けた。

パピィの方は、大型ハサミに執着している様子だ。尻尾をモフモフ振りながら、判事の部下たちが証拠品押収のために固定している大型ハサミを、フンフンと嗅ぎ回っている。

押収作業の邪魔になるため、部下の一人がパピィをガッチリとホールドした。パピィはすこぶる不満そうな顔になり、クンクン鳴き始めた。この子犬、表情がやたらと豊かで反応が分かりやすいのである。

「このチビの毛玉、何でまた、こうも大型ハサミがお気に入りなんですかね?」

「まだ素敵な光り物がハマっているとでも思ってるんじゃ無いか?」

その部下たちのボヤきは、実は、正鵠を射たものだったのである。

やがて、マティの脳裏で、不意にピコーンと来るものがあった。

「ねえ、キアラン……リチャード伯父さんが乗ってて暴走した馬車は、キアランが普段使ってた方だろ」

「確かに」

「あの日は偶然、上天気で急に気が変わったでしょ? ……町のトランプ屋に、馬車で行ってたら?」

キアランは無言で、目を見張った。

――あの日は、偶然にも、キアランの親友のエドワードが滞在していたのだ。体力のある若者同士の気楽さ、誘うような上天気という事があって、急に乗馬による外出に切り替えていた――

マティは改めて、意味深な顔つきでキアランを見上げた。

レナードが裏側の柵から侵入して来た事実、そして大型ハサミにレナードのカフスが挟まっていた事実は動かしようが無く、状況証拠は揃いも揃って、レナードの仕業を暗示している。

「仕込んだのは勿論、レナードで決まりだ……本当のターゲットは、キアランだったのさ。キアランが死ねば、レナードが自動的にリドゲート卿だろ? それにプラスで、出入り禁止通達の逆恨みって言うか、カッとして……てか、復讐じゃんか」

「それはそうだな」

マティの指摘は、いちいち、もっともな内容だ。キアランは顔を引き締めた。

――レナードは、そのような行動に出ても不自然では無い程の、激しい気性の持ち主だ。アラシアの激しい性格の出方とは、かなり異なるものではあるが。

「恐ろしい頭脳だな、マティよ」

プライス判事も、感心しきりである。

いつしか彼らの背後では、ベル夫人が派遣した若いメイドたちによって、プライス判事たちへの朝食が配達されていた。

しかし、マティは脇目も振らず、推理に集中していた。マティの頭脳は高速回転しているのだ。

マティの集中力を承知していたキアランとプライス判事は、驚きつつも口を出さずに、見守るばかりである。

「アラシアは、『これで良いって、レナード兄様が言ってたわ』とか言ってたな。アラシアのターゲットになったのは……」

*****

――その頃、館の大広間には、呆然とした様子のルシールが居た。

「……タイター氏との直談判……」

ルシールとカーター氏は、朝食を済ませた後、大広間の円卓の一つを囲んでいた。そこで、ルシールは、カーター氏から、タイター氏との第二回目の直談判について説明を受けていたのだった。

ルシールは戸惑いながらも、着ている物をチラと見下ろし、確かめた。

黒い簡素なドレスは、昨夜のうちに洗濯と縫い直しが終わっており、ルシールは早速それを身に付けていたから、すぐにも対応できる状態ではある。

「さすがに今度は、場末とは言え、屋根付きで……今日のご予定は、大丈夫ですね?」

「え……ええ」

カーター氏のその確認に、ルシールは戸惑ったまま、うなづいた。カーター氏はカバンを用意しながら続けた。

「他にも重大なお話がございまして。これは道々、説明いたしましょう」

「とりあえず、急いで用意を致しますので」

ルシールは急ぎ足で大広間を退出して行った。

……その様子を窺いながら、アラシアはコッソリと忍び笑いをしていた。

同じ大広間の中、カーター氏とルシールから少し離れた上座の方では、レオポルドとアラシアとライナスが、特に上等なソファに腰を下ろして世間話をしているところだ。

そしてアラシアは、真面目に世間話に興じていなかった。アラシアは高価なマニキュアをした爪をいじりながらも、ずっとカーター氏とルシールの会話を窺っていたのであった。

アラシアは頃合を見て、急に立ち上がった。

「お父様! テンプルトンに行って来るわ!」

「……は?」

いきなりの宣言に、レオポルドは一瞬、ポカンとした顔になった。こういう時、レオポルドは、いつも思うのであった――『女と言うのは分からん』と。

アラシアは、怪訝そうにしている父親レオポルドやライナスの様子に目ざとく気付き、いっそう殊勝な態度で説明を付け加えた。

「お母様を迎えに行くの、当然でしょ! テンプルトンの集会からまだ戻ってないから、心配になって来て」

レオポルドの妻にしてアラシアの母親ダレット夫人は、昨日からずっと『テンプルトンの集会』なるところを訪問したままである。マティに言わせれば、それは賭博なのであるが。

ライナスは早速、詩的な言葉を最大限に活用し、アラシアの称賛を始めた。

「おお、レディ・アラシア……美しいのはお姿だけどころか、心の中まで実に類無き優しさに満ち溢れていますな! どうか、私めにエスコートの栄誉をお与え下さいますか」

「小間使いと行くのよ! 宝飾店でカフスのイヤリング加工も注文する予定だし、買い物もあるし……座席は広い方が良いんだから!」

アラシアはライナスをすっかり無視しており、珍しくも素晴らしいスピードで、外出の身だしなみを整えたのであった。

ライナスは立ち上がって戸惑うばかりだ。レオポルドの方はソファの中でふんぞり返ったまま、スタッフたちの招集を掛けていた。

「えっへん、おっほん……執事! 急いで馬車を回せ!」

執事は長年のベテランらしく、その気まぐれな指示に素早く応じている。

カーター氏は、急に騒ぎ始めたレオポルドやアラシアを、不思議そうに眺めた。

だが、ダレット一家の気まぐれは、いつもの事だ。急いで用意を整えて戻って来たルシールに、カーター氏は、済まなさそうに声を掛けた。

「ダレット嬢のお見送りを、先に済ませましょう」

「え? ハイ」

玄関広間では、レオポルドの命令でスタッフたちが集められており、アラシアのお見送りに取り掛かっていた。

アラシアは、館のスタッフたちに混ざって後ろに並んでいるカーター氏やルシールの姿を、こっそりと窺う。

ルシールの身に起きるであろう流血の出来事を予想し、上機嫌でほくそ笑むアラシアであった。

■クロフォード伯爵邸…未必の故意(後)■

レオポルドやアラシアが騒ぎ始めたタイミングと前後して、馬丁の一人が厩舎に駆け込んで来た。

「ダレット嬢からの馬車の注文ですよ! 至急、テンプルトンにお出掛けです」

「冗談だろ、こんな朝っぱらから?」

馬丁や従者たちが、厩舎と車庫の間をせわしく走り回った。

「特に金の縁が付いた馬車を、との事でして……四頭立てだから、この馬と、この馬を足して」

「ほらほら、急いで! ご機嫌を損ねると大変だ」

「ダレット仕様の馬、用意しました!」

部下と共に遅い朝食を取りながら、調書作成と確認に取り掛かっていたプライス判事は、いきなりの出来事に戸惑うのみだ。キアランとマティも、ポカンとしている。

マティは、馬の出入りで慌しくなった車庫を注目し始めた。その目が、だんだん据わって来る。

「……バラの枝を仕込まれた馬が、残されたね……」

「まさか……」

マティの呟きを聞きつけたプライス判事が、息を呑んだ。

金縁の大型馬車が、いつものように正面玄関の扉の前に速やかに横付けされた。準備に一区切り付いたところで、残りの従者や馬丁たちが、ふと気付いたと言った様子で、プライス判事を振り返る。

「あッ、今日は、ライト嬢も馬車ですね? カーター様と一緒に外出で、タイター氏と直談判とか」

「二頭立ての馬車に、残りの馬……」

不意に、一同は、恐るべき事に気付いた。

「バラ枝を仕込まれてた馬!?」

「暴走馬車……仕立て?」

「事故に遭う予定だったって事か!?」

全てを理解したマティは、ショックの余り、ぱくついていた朝食のパンを握り潰した。

「条件工作は仕上がったと言う訳だね……ひっでー、鬼畜!」

「何たる事だ!」

プライス判事も絶句だ。

――ほぼ、ルシールが標的で間違いないだろうが、カーター氏も御者も、巻き添えで死ぬところだった!

その悪質なまでの『未必の故意』に気付いたキアランは、すっかり顔色が変わっていた。その黒い目に、険しい光が閃く。

「プライス殿、後を頼みます……毛玉の方もよろしく」

何かを続けて言おうとしたプライス判事に、キアランはパピィを預けた。

「今日の外出は中止させる……行くぞ、マティ!」

「いえぃ!」

キアランとマティは、館へと駆け出した。

*****

マティは、あっと言う間に玄関広間に到達した。毎度ながら素晴らしいまでの俊足だ。

アラシアのお見送りが終わり、今まさに出掛けようとしていたカーター氏とルシールは、目の前にいきなり飛び出したマティに、仰天するのみだった。

マティは、すぐには立ち止まれず、カーター氏とルシールの周りをクルクル回っている。

「ルシール!」

「……あら、マティ! 今まで何処に? クレイグ牧師様が探してたわ!」

マティは食堂での朝食をすっぽかしており、祖父のクレイグ牧師を心配させていたのだった。

カーター氏とルシールの後ろに控えていた執事とベル夫人は、戸惑いの表情を浮かべていた。

「マティ様、これは、今日は山が空を飛ぶんでしょうか」

「今日の外出は中止だって!」

「はい?」

マティは息を切らしながらも急停止に成功した。

ルシールは、頭の上に疑問符を浮かべて、マティを見つめるばかりだ。

同時にキアランが玄関広間に到着し、カーター氏に駆け寄る。

「リドゲート卿?」

「カーター氏、急を要する事が。耳を」

キアランは早速、カーター氏に耳打ちをした。

カーター氏は穏やかなポーカーフェイスのままであったが、その顔からは、みるみるうちに血の気が引いていった。カーター氏は、いきなり身を返すと、キアランの誘導に従って、キアランと共に玄関広間から出て行ってしまったのだった。

後に残された面々は唖然とするばかりだ。

この時間に、キアランがシャツ&ベスト姿で外から現れたのも驚きだし、カーター氏がルシールを放置して、いきなり走り去ってしまった事も驚きである。

「ねッ! オイラの言った通りだろ」

「何だか良く分からないけど、本当に中止ね」

マティの指摘に、ルシールは呆気に取られたまま、うなづくばかりだった。

その後ろでは、ベル夫人と執事が、やはり同じように困惑の表情を浮かべていた。

「あのカーター様が、予定変更を告げずに……余程、動揺する事があったんでしょうか」

「常にポーカーフェイスなお方だけに、謎です」

ルシールは目を伏せて、暫し沈黙した。

――リドゲート卿が急に現れたから、ドキッとしたわ。

手に持った帽子で覆ったルシールの顔は、暫くの間、赤く染まっていた。

*****

表面上は、いつものように穏やかな時間が過ぎた。午前の半ばに近い頃合である。

クレイグ牧師は、孫マティの安全を確認した後、身辺警備担当として用意された従者と共に快速馬車に乗り込んでいた。かつて牧師として勤めていた懐かしい地所の教会を訪ねるためだ。

マティとルシールは、執事と共に、玄関でお見送りである。

「――急な遠出との事で驚きましたわ。どうかお気をつけて」

「まぁ、昔の担当教区ですし、日帰りですから……ルシール嬢も、身辺にはくれぐれも注意を」

「オイラ、ちゃーんと見張ってるから大丈夫だよ!」

「もちろんだ、だが、マティ、誰がお前を見張るんだね?」

付き添いの従者が「ぷぷぷ」と妙な音を立て、控えている執事は苦笑を浮かべた。

かくして、クレイグ牧師と付き添いの従者を乗せた馬車は、出発して行った。

馬車を見送りつつ、興味津々で呟くルシールである。

「トワイライト・グリーン・ヒル教会って、初めて聞いたわ」

「湖水が売りな観光地にあって、教会も観光仕様なんだけど。『辺鄙な田舎』ってヤツだし、観光に来るのは近所の人くらいだよ」

「そうなの?」

「じいじ、牧師を継いでるオジサンと一緒に、昔の書類を探して来るんだってさ。探し物ならオイラに任せろって言ったんだけど、じいじ、なんか今回は、すごーく秘密主義なんだよ」

「牧師の守秘義務とか何かじゃないの? その辺、厳しいって話は聞いた事があるわ」

マティは少しの間、むくれていたが、すぐに機嫌を直した。

「ルシール、今日も庭園、行く?」

「これから書斎に。アンジェラに手紙を書くから」

「ふーん?」

マティは目をキラキラさせながら、ルシールの後を付いて行ったのだった。

*****

レオポルドは、大広間で新聞を――主にゴシップ面を――読んでいたが、早くも退屈し始めていた。ちょうど執事が茶器セットを運んで来たところを、相変わらずの乱暴な口調で呼び止める。

「執事! あの娘は、ずっと隣の書斎の方に閉じこもっているが……」

「えらく長大なお手紙を書いておいででした」

「手紙?」

有能極まりない執事は慇懃に説明し、レオポルドは不審そうな顔をした。

タイミング良く小用に立つ振りをして席を外したライナスは、こっそりと書斎に続く扉に忍び寄る。

――あのダレット夫人もダレット嬢も不在の今、滅多に無いチャンスだ。

ライナスは下心タップリだった。赤毛を綺麗に整え、クラヴァットを気取って締め直すと、そっと音を立てずに書斎の扉を押し開ける。

次の瞬間。ライナスの目は、大きく見開かれた。

そこに存在していたのは。

――巨大なとぐろを巻き、人の背丈ほどの高さに鎌首をもたげ、クネクネと動き回る大蛇なのだった!

ライナスは驚きの余り、気が遠くなって行った。

その後。

扉の前で腰を抜かしたように横たわり、かつ失神しているライナスを執事が発見し、不思議そうな顔をしたのだった。

扉の中からは、マティが鼻をポリポリかきながら、顔を突き出している。

扉の奥、書斎の窓際の机の前では、手紙を書いている途中のルシールが、戸惑いながらもマティを振り返っていた。

「さっき、何か音してた?」

「単なるスケベ」

マティは、『してやったり』とでも言うような楽しそうな顔をしていた。イタズラ小僧ならではの笑みを満面に浮かべている。その手の中には、ライナスを見事に失神させた、あの驚くべきリアルな大蛇のオモチャがあった。

そして暫くの間、ルシールの周りは静かだった。

ルシールがアンジェラ宛の長い手紙を書いている間、マティはその椅子の近くで自慢の工作道具を広げ、何やら訳の分からない代物を工作していた。

海賊の宝箱のような小箱。大小何種類もの強力なバネ。詰め物をした革袋で出来た、大きな『謎の手』。プロレスラーのビンタ並みの威力が出そうな代物だ。そして数々の、極彩色の香辛料の粉の袋――

*****

ドクター・ワイルドが、いつものようにクロフォード伯爵の往診にやって来た。

「おや? 武装役人が、チラホラと……」

ドクターは早速、館の前庭に接する庭園の一角が人々の出入りでザワザワとしている事に気付き、『何か事件でもあったのか』と首を傾げながらも、鋭いギョロ目で観察し始めた。

ドクター・ワイルドは素晴らしい観察力をもって、騒ぎの発生地点に見当を付けた。判事の部下たちの視線を避けて、こっそりと厩舎に近づいて行く。

仕事が手に付かぬ様子の一人の馬丁が、こちらに背を向けてガックリとうなだれていた。

「やあ馬丁君、顔色が悪いな……何かあったか」

「ハイ、実はショックで」

「ショック?」

ことさらに穏やかな声音で、オウム返しにするドクター。ボンヤリしていた事もあって、会話の続きの誘惑に乗った馬丁は、無意識のうちにボヤキ始めたのであった。

「朝、起きてみたら、この馬の装備の裏側に、バラの枝が仕込まれていて……」

「……!? 破壊工作か? どういう事だ!?」

鋭い声音が飛んだ。ドクターの詰問に、馬丁はハッとして振り返る。ドクター・ワイルドの薄い水色のギョロ目は、恐ろしいまでにらんらんと光っていた。

「あッ……! 口止めされてたんです、済みませんッ!」

しかし、既に『事件ありき』と言う確かな感触を得ていたドクターは、馬丁の胸倉をつかむと、物凄い剣幕で怒鳴り始めた。医者だけあって、凄い迫力なのであった。

「洗いざらい喋りたまえ! それとも注射しようか?」

「あわわッ……注射、嫌いです」

哀れな馬丁は、ただひたすら真っ青になって恐れ入るばかりであった。

*****

館の最上階のフロアにあるクロフォード伯爵の執務室。

クロフォード伯爵の机の周りには既にキアラン、カーター氏、プライス判事が控えている。伯爵本人は、机の上にセットした幾つかの書類に署名サインをしていた。

そんなところへ、ドクター・ワイルドが、扉を蹴破りはしなかったものの、それに等しい剣呑な歩みで入室して来たのであった。

カーター氏が目を丸くした。

「ドクター・ワイルド! 今は取り込んでいて……往診は後で……」

ドクターは腰に手を当てて胸をそらし、「フン」と鼻を鳴らして見せた。地上階から最上階まで、階段をハイスピードで駆け上がって来ただろうに、廊下を歩いているうちに早くも息が整ったようである。驚くべき体力に、肺活量だ。

「馬丁君が口を割りましてな……閣下の馬車が暴走した理由が知れましたよ。全く、もう! 殺人未遂事件なんですぞ!」

ドクターも、勘は悪く無かったのである。クロフォード伯爵が骨折する羽目になった馬車事故の件では、マティと同じように、最初から不審なものを感じ取っていたのであった。

プライス判事は、情けない顔をして呆然とするのみである。

「口止めしたのに……」

「注射の恐怖を目の前にすれば、大抵の男は喋る」

「ワイルド先生の顔が、怖いからじゃ無いんですか……」

「穏やかで非力な老人を捕まえて、言ってくれるね。フフン!」

――実際は、ドクター・ワイルドは、穏やかでも非力でも無い、パワフルでワイルドな老人なのだが……

ドクター・ワイルドは、真剣な面持ちで伯爵を振り返った。

前回は事故を防ぎ切れず、犯人の手がかりも全く無い状態だったが――今回は未遂とは言え、犯人の正体が割れたのだ。

「閣下の事だから、司法処分の用意はされたと思うが……」

ドクター・ワイルドの確認に、伯爵はうなづいた。伯爵は、今まさに署名したばかりの文書を手に取り、改めて内容に目を通す。

「書類送致だ。都の高等法院の面々が必要と判断すれば、監獄送りになる」

クロフォード伯爵は、滅多に見ない程の厳しい表情をしていた。今回は、未遂とは言え、狙われたのはルシールである。伯爵自身が狙われていた訳では無かったのに、険しいとすら言える様相だ。

ドクター・ワイルドは目を見張り、伯爵を見つめた。

「……それは、随分と思い切りましたな」

「保釈金や賄賂と言う抜け道も一応あるから、甘い処置かも知れんが」

伯爵は厳しい表情を崩さぬまま、司法処分を実施する旨の署名文書をキアランに手渡した。キアランは受け取った書類をめくり、署名やメモなどの不備が無いかどうか、チェックし始める。

カーター氏はその様子を見守りつつ、口元を引き締めていた。カーター氏は、ルシールを標的とした今回の殺人未遂が、伯爵の逆鱗に触れた『真の理由』を、承知していたのだった。

■クロフォード伯爵邸…客ありて藪をつついて■

正午の頃。

玄関広間では、ルシールが手紙の発送を執事に依頼していた。傍にマティも居る。

結構な厚みのある封筒を受け取り、執事はちょっと苦笑した。

「長い手紙ですね。アシュコート伯爵領、レイバントンの町……確かにお預かり致しました」

玄関広間の窓からは、前庭ロータリーを見通す事が出来る。そこに、馬車が現れた。

マティが最初に気付き、パッと窓の外を振り向いた。続いて執事もルシールも馬車に気付いて、窓の外を見やる。

真昼の陽光が降り注ぐ中、正面玄関に向かって近付いて来る、一台の馬車。町内の乗合馬車では無い。地元の名士たちが使うような、ちょっと上等な仕立ての馬車である。

ルシールが目をパチクリさせているうちに、有能極まりない執事は、手際よくスタッフを手配していた。

「ローズ・パークのオーナー協会のどなたかが、訪問に来られたようですね」

*****

館を訪問して来たのは、ローズ・パークのオーナー協会の代表カーティス夫妻と、ローズ・パーク庭園オーナーのウォード夫妻であった。

執事の出迎えを受け、玄関広間に入って来た二組の中年の夫妻は、折り良く同じ玄関広間に居たルシールとマティに気付き、パッと顔を輝かせた。

「こんにちは、ライト嬢……館においでで良かったです」

最初にルシールに声を掛けたのは、ウォード夫妻だ。

フサフサした茶褐色の髪をした庭師ウォード氏は、余り喋らない性質だという事が窺えるが、その声は暖かい。黒っぽい目は、穏やかな笑みを浮かべていた。ウォード夫人も金茶色の髪を揺らして、慎ましく一礼して来る。ウォード夫妻は夫婦仲が良いらしく、お互いの訪問着の一部分で共通の彩りと趣向を揃えていた。控えめながら、それなりのペア・ルックである。

「まあまあ、腰の故障は大丈夫でしたの? お元気そうでホッとしましたわ!」

「お気遣い下さり、ありがとうございます」

カーティス夫人は、まさしくバラ色を思わせるような赤系統の、パッとした派手な柄とデザインの訪問着だ。だが、取り合わせのバランスが良く、不自然な着こなしでは無い。

次にカーティス夫人は、愉快そうな様子でマティに話し掛けた。

「まあ、トッド家のマティ坊ちゃま! あの復活祭の前夜の近所騒乱って、社交界じゃ大した語り草ですよ!」

「ありゃあ、傑作だったね。ハハハ!」

カーティス氏もニコニコと笑いながら、マティの明るい栗色の頭を撫でていた。カーティス氏は平凡そうな良家の紳士に見えるが、カーティス夫人に負けず劣らず意外に賑やかで陽気な事が好きで、マティを可愛がっている様子である。

(復活祭の頃に、何か物凄いイタズラをしたらしいけれど、マティって何をやったのかしら?)

内心、興味津々のルシールなのであった。

*****

執事は早速、ベル夫人やメイドたちに『来客あり』の旨を連絡していた。ベル夫人がテキパキとメイドたちを指揮し、お茶会の準備を進める。

執事は、大広間の上座のソファでふんぞり返っているレオポルドに、素早く近づいた。傍のソファにはライナスも座っている。

ライナスは、マティお手製の大蛇のオモチャによる失神から回復した後、相変わらずの勤勉ぶりを発揮して、レオポルド相手に熱心にゴマをすっていたのであった。

有能極まりない執事は、流れるような滑らかな一礼をして、レオポルドに丁重に声を掛けた。

「ローズ・パークのオーナー協会の代表たるカーティス夫妻と、庭園オーナーのウォード夫妻が、館に参りましてございます」

たまたま、クロフォード伯爵もキアランも上のフロアで忙しくしていて不在だったので、レオポルドが館の代表扱いになったのだ。クロフォード伯爵家の筆頭の血族と言う高い地位の故である。

「おお、舞踏会の返礼に来た訳だ……この大広間に通したまえ!」

ライナスのゴマすりにも退屈し始めていたレオポルドは、意外に気を悪くせず、大仰な仕草でソファから立ち上がった。重々しくうなづいて見せ、今更ながらの命令を振り撒く。

大広間の控えのスペースで、腕っぷしの強いスタッフたちが護衛さながらに立ち始めた。背後には、こっそりと防御用の盾も用意してある。

抑え役となるクロフォード伯爵もキアランも居ない今、レオポルドの癇癪を爆発させない事が――そして最悪、爆発したとしても、館の被害を最小限に抑える事が――ひそかな最優先課題となっているのだ。

やがて、カーティス夫妻やウォード夫妻が入室し、レオポルドに表敬の一礼をした。

レオポルドは、大広間の最高位の上座に居座り、傲然とうなづいて応える。

ルシールとマティが続いて大広間に入って来ると、レオポルドはルシールを指差し、威厳タップリに大声を張り上げた。

「ブラウン! 給仕しろ! そこの女だ! グズグズするな!」

大広間の空気が、瞬時にして凍った。

執事とベル夫人も、ルシールに対する無茶な注文に気付き、サッと顔色を変えている。給仕は、執事、従者、侍女といった熟練のスタッフに任せるべき、プロの仕事だ。そして、クロフォード伯爵の客人たるルシールに対し、明らかに無礼な扱いである。

――ルシールは、穏やかに一礼して退出した。

大広間ドアの陰で、ベル夫人がそっと耳打ちして来る。

「必要ならば声を掛けて下さい」

「大丈夫ですわ、オリヴィア様のところで慣れておりますから……」

程なくして、各々、ギクシャクと着座していた大広間に、茶器セットを揃えたルシールが、再び現れた。

レオポルドは、アラを探し出して突いてやろうという勢いで、ルシールを批判的に見張り始める。

カーティス夫妻とウォード夫妻は目をパチクリさせ、マティの目は据わっている。ライナスは我関せずで空気になっており、大広間は重苦しい緊張感に包まれていた。

――ルシールの立ち居振る舞いは、完璧だった。

現代の略式風のプロセスでさえ、正式なプロセスとなって進行している。侯爵令嬢たるレディ・オリヴィアに仕込まれただけあって、宮廷社交界でも通用するような、正統派の物だ。

お茶が全員に行き渡る。レオポルドは遂に、欠陥を見出せないままであった。

カーティス夫人は、あからさまにホッとした様子で、いつもの陽気な調子を取り戻し始める。

「リドゲート卿は、ご不在ですの?」

「今はワシが当主なのだ」

「当主の代理でございますか、一層の健康をお祈り致しておりますわ!」

レオポルドは途中まで鼻高々な様子であったのだが、カーティス夫人が陽気な調子のまま頓珍漢な受け答えをしたので、最後は目が点になっていた。

間違っているとも言えず、かと言って相応の返礼もしない訳には行かず、次の言葉に詰まるレオポルドなのであった。何故か、カーティス夫人の頓珍漢ぶりは、人の調子を狂わせるものなのである。

「カーティス夫人は、天然でボケかますオバサンなんだ」

マティは鼻をかきつつ、感心しきりであった。

――余りと言えば余りな瀬戸際社交だわ!

カーティス夫人の陽気なボケっぷりに、ルシールはハラハラさせられるのみであった。

いつもの調子を取り戻したカーティス夫人の舌は、油を塗ったばかりであるかのように滑らかに回り続けた。レオポルドを前にしても全く動じないという事実は、カーティス夫人の並外れた豪胆さを暗示している。ローズ・パークのオーナー協会の代表として、数々の社交や接待の前線を務めるだけの事はあるのだった。

「本来は、グリーヴ夫妻や私どもの姪・シャイナを伴うところでしたが、今、グリーヴ夫妻は新しい企画で多忙な上、シャイナはレナード様を接待中でして。ウォード夫妻が代理を申し出てくれまして。まぁ今回はビックリしましたわ、ホントに、年に数回の社交イベントにしかご参加されないのに、この急な時に有り難くも、もう、助かりましたわ」

ウォード氏は、何とかお喋りの合間を見つけ出し、「どうもです」と素早く一礼していた。

ルシールは茶器をそろえた移動テーブルの傍で慎ましく給仕を続けながら、カーティス夫人の際限の無いお喋りの中から、興味深い部分を心に留めていった。

ウォード夫妻は、庭園管理の仕事以外の用事では、クロフォード伯爵邸を頻繁に訪問しているという訳では無いようだ。年に数回の社交イベントの折に正式に訪問する程度で、今回のように、不定期の舞踏会の返礼に加わるのは、珍しい事であったらしい。

ウォード夫妻はローズ・パーク庭園のオーナーであり、まさにルシールの思い描く将来の姿でもあった。『夫を持てるならば、ウォード氏のような方が良いわ』などと思いながら、ルシールは物静かなウォード夫妻の様子を、チラチラと注目した。

裏方のオーナー故か、ウォード夫妻は、カーティス夫妻よりもずっと地味な格好だ。

ウォード夫人は、洒落た肩掛け型の薄手のケープを留めるのに、手の平ほどの大きさの上品なブローチを付けていた。意外に細かな宝飾細工が施されたブローチは、白いヒナギクを模している。

(母と同じような着こなしをされる方だわ)

見ているうちに、ルシールは不思議な気持ちになった。

――母親のアイリスも、アメジストのバラのブローチとお洒落なケープを組み合わせた着こなしを良くしていた。この年代で、若い頃に流行ったスタイルに違いない。

カーティス夫人の陽気なお喋りは続いた。

「……それにしても、レナード様はいつもながら、罪深い程の美形でいらっしゃいますわねえ! 先日の舞踏会では、若いレディの視線を一身に浴びていらして……」

カーティス夫人は、ゴマすりを織り合わせるのも巧みであった。レオポルドも上機嫌で、鷹揚に受け答えをしている。

「えっへん、倅(せがれ)はワシ譲りの美形なのでね」

「レオポルド殿も、今でもテンプルトンどころか、全国の社交界の花形の紳士でございますね!」

中央の上座にふんぞり返るレオポルドを挟んで、カーティス夫人と対面する位置のソファに座っていたライナスが、すかさず熱心な阿諛追従をした。

レオポルドは、妻帯者らしく殊勝に謙遜しながらも、昔のプレイボーイぶりを大いに見せびらかし、得意満面で鼻を鳴らした。

「もう20年、30年も前の話ではある。そう、この娘の母親とも……確か社交の都合上、ダンスをした事があるんだ。確かアイリスとか言ったか、珍しく金髪で、紫色の目の……」

上機嫌が続いているレオポルドは、横柄な様子でルシールを指差し、笑いながら付け加えた。

「見覚えのある顔つきだと思ったが、こっちは金髪じゃ無いから、この間まで忘れていたよ!」

――重要な言及だ。

ハッとするルシール。マティもハッとして目を丸くした。

そして、ハッとしたのは、ルシールやマティだけでは無かった。

ウォード夫人が、半ば伏せていた鳶色の目を開き、急にレオポルドをまっすぐに見つめた。

「レオポルド殿は、アイリスの事を、やはり記憶しておられたと言う事なのですね」

穏やかだが、歯切れの良さを思わせるハッキリとした声だ。

「……む?」

レオポルドは怪訝そうな面持ちになり、それまで、地味過ぎて『存在しない人物』そのものだったウォード夫人を眺め始めた。ウォード夫人は物静かで目立たなかった事もあって、レオポルドにとっては、その人相は曖昧模糊としたものだったのである。

年齢相応に白髪が入っているが、ところどころ金髪が混ざる金茶色の髪。綺麗な鳶色の目。先日のローズ・パーク舞踏会で、その大柄な体格で目立っていたウォード夫妻の長女ソフィアも、同じ色合いを受け継いでいる。

改めて注目すると、若い頃は、それなりに可愛らしい少女だったろうと思われる面差しである。現在は、古典的な奥ゆかしい中年の美人と言う風だ――年を経て、しっとりとした美しさが加わったらしい。

絶世の美女という訳では無いが、首都圏の社交界でも充分に魅力的な女性として通るだろう。険のある雰囲気が存在しない分、ダレット夫人レディ・カミラよりも好ましいという雰囲気さえある。

レオポルドは首を傾げた。

「……ウォード夫人、あなたを社交界で見かけた事が無いのだが――」

ウォード夫人は、静かにうなづいた。

「私は早い時期に夫と一緒になれたので、他の相手とダンスする必要性が余りありませんでした」

「そ……、そうなのか」

これが舞踏会でのダンスの申し出であれば、きっぱりと拒否された格好になっていただろう。ハッキリとした声でこのような内容を言われ、レオポルドは気を呑まれたように返すばかりであった。

ルシールは微かな驚きを感じながら、そっとウォード夫人を観察した。

――ウォード夫人は、余り喋らない性格の大人しいご婦人だと思っていたけれど。

ウォード夫人はお茶を一服すると、おもむろに、驚くべき事を話し出した。

「私は、アイリスとはテンプルトン社交界の同期でございましたの。オーナーの手続きなど、各種の事情が落ち着いてウォード家に移るまでは、ライト家の隣人でした」

一瞬、大広間は、水を打ったように静かになった。

カーティス夫人が頬に手を当てて、驚愕しきりという風で声を上げる。

「まあ驚きだわ、ウォード夫人! ライト家の隣人だったなんて!」

愕然としていながらも、カーティス夫人の舌だけは一層良く回った。

「アントン氏は無口で偏屈な方だったし……あのグリーヴ夫妻の方も、初めからローズ・パークにいらしたから、余り詳しい事情をご存じじゃ無いのよ!」

ウォード氏が、人前では喋り慣れていないと言う様子で、訥々と説明を始めた。

「デイジーとは随分、相談したんですよ。タイター氏が、ローズ・パークのオーナー権の相続の件で、ずっと騒いでいたから、大体の事情は承知しています。タイター氏との裁判になる前に、分かっている事は多い方が良いと結論しまして……」

ウォード氏は戸惑った顔で、チラリとルシールを見やった。次に、おずおずとレオポルドの方に視線を投げる。

「極めて微妙な……プライベートな問題ですから……、ライト嬢と、ごく内密で話をしたいのですが」

しかしレオポルドは即座に、にべも無い返答を寄越したのだった。

「ダメだ! ダメだ! 私がいる限り、秘密は一切合財、無しなのだ!」

ウォード氏は気圧されていた。しかし、ウォード夫人は既に、その答えを予期していた様子であった。

「分かりました、レオポルド殿……」

ウォード夫人は『覚悟を決めた』と言う風に再び目を伏せ、あの穏やかながらも決然とした声で呟いた。

ベル夫人は、茶菓子の補充のために大広間を退出しながらも、執事と目配せを交わした。ウォード夫妻が珍しく館を訪問して来たその目的を、察していたのである。

■クロフォード伯爵邸…追憶ラビリンス(前)■

大広間で、ウォード夫人が衝撃的な発言をしていた頃。

最上階のフロアにある伯爵の応接室では、クロフォード伯爵とカーター氏が、二人きりの密談を始めていた。

密談から外された形になった三人、キアランとプライス判事とドクター・ワイルドは、伯爵の執務室を既に退去していた。三人は階段を降りながら、会話を続けている。

時刻は正午に近い。

細長く高い窓から差し込む陽光も、ほぼ南中した太陽からの白くまばゆい光となっており、階段の上に、短く色濃い陰影を投げていた。

早朝からの大仕事を終えた形になったプライス判事は、コキコキと肩を鳴らし、コリをほぐしている。判事は、いささか呆れたと言った風に、口を開いた。

「内密で詳細を詰めるとは……カーター氏も秘密主義だな」

「伯爵と弁護士の密談が済むまで、大広間で茶など頂くとしようか」

ドクター・ワイルドが立派な白ヒゲをしごきつつ、プライス判事の呟きに応じている。

三人は、地上階に降りて行った。

プライス判事とドクター・ワイルドを先導していたキアランは、大広間の脇の扉の前で、執事とベル夫人が何やらヒソヒソ話をしている事に気付いた。

執事とベル夫人は、二人して忍び足で歩き回り、脇の扉を少し開けて、中の様子を窺っている様子だ。

キアランに続いて、プライス判事とドクター・ワイルドも大広間に面する廊下に出て来た。プライス判事とドクター・ワイルドも、執事とベル夫人の奇妙な様子に気付き、首を傾げる。

「来客があるのか?」

プライス判事は、空気を読んで出来るだけ声を潜めたのだが、大男だけあって、思い切り小声にしても、かなりの音量があった。

ギョッとしたように執事が振り返り、三人に向かって人差し指を口に当てて見せた。

「お静かに……カーティス夫妻とウォード夫妻です」

盗み聞きに集中していたのか、受け答えもおざなりで、いつもの執事らしくない。

ドクター・ワイルドは愉快そうにギョロ目をきらめかせた。立派な白ヒゲの下では、口角が思いっきり上がっている。

「コソコソと盗み聞きじゃな?」

「ええ、まあ、ちょっと……」

ドクター・ワイルドの冷やかしに、執事はバツが悪そうに口ごもった。

堂々と盗み聞きしていたベル夫人が、相変わらず冷静な様子で三人を振り返る。そして、たった今、盗み聞きした内容を、堂々と解説したのだった。

「ウォード夫人が、25年前のアイリス様の蒸発の事情について、ご存知のようです。結婚後も、町の抗争を避けて実家に居られたそうで……しかも、驚くべき事に、ライト家の隣です」

ドクター・ワイルドがギョロ目を光らせた。

「という事は証言者……」

「25年前の……」

プライス判事も呆然と呟く。

――25年前、ルシールの母親アイリスは謎の蒸発をしている。蒸発と言うだけあって、アイリスがライト家を出奔したところを、誰も目撃していなかった。その謎の蒸発が起きた時、ライト家の隣には、ウォード夫人が居た!

三人の様子を観察していたベル夫人は、やがて片眉を上げた。

「追加のお茶を、お持ち致しますわ」

ベル夫人はテキパキと立ち去るが早いか、メイドに次の指示を出していた。時々、ベル夫人は恐ろしいほど勘が良いのであった。

*****

程なくして、キアランとプライス判事とドクター・ワイルドが、執事の仲介で大広間に入って来る。大広間の面々は驚いた様子で一斉に振り返り、会話が止まった。

早速、ハイテンションそのものと言った様子のカーティス夫人が、陽気に挨拶の言葉を述べる。

「あらッ、まあ! みなさま、お久しぶりで御座います。本日は何故か、みなさまのお取り込み中に訪問しまして、まぁ、色々と」

天然ボケなのか鈍いのか、カーティス夫人は、レオポルドがあからさまに「チッ」と舌打ちをしているのにも気付かない様子である。

「館にようこそ、カーティス夫妻、ウォード夫妻」

キアランは生真面目に返礼した。この際、場の雰囲気を盛り上げるのが上手いカーティス夫人が居る事は、大いなる助けである。

ウォード夫妻は戸惑った様子で、新しく加わった三人を眺めていた。実際、キアランが入って来た事で場の席次が変わり、話を続けて良いのかどうか判断が付かなくなり、戸惑っていたのだった。

レオポルドは、なおも傲然とした態度のまま最高位の上座をホールドしており、その場から動かない。

――いつもの事だ。

キアランは涼しい顔のまま、ルシールの立ち位置に程近い下座の席に腰を下ろした。

ルシールは、キアランの予期せぬ行動に戸惑い、茶器を扱う手を止めていたが……レオポルドの目がこちらを向く前に、何とか取り繕う。

ルシールはそっと周りを窺った。

キアランとレオポルドの間の緊張は、やはり、ただならぬ重さだ。レオポルドは、ギラギラとした剣呑な眼差しで、キアランを睨みつけている。

場慣れしていないらしいウォード夫妻はソワソワしていたが、カーティス夫妻は、さすがに顔面に愛想笑いを張り付けるのは達者なものである。ライナスも同様だ。

プライス判事と共に着座したドクター・ワイルドは、鷹揚な笑みを満面に浮かべ、ウォード夫妻に促しの言葉を掛ける。

「お話の途中で失礼したようだ……構わず続けてくれたまえ」

ウォード夫妻は、キアランも気にしていないらしいと言う事を何とか理解した後、話を再開したのだった。

ウォード氏が訥々と語り出す。

「昔の戸籍を確認頂ければ分かりますが、デイジーは旧姓フレミングです。ライト家とフレミング家は、テンプルトン町の郊外の村の隣人同士でした。互いの家の往来は、徒歩で、だいたい20分から30分……」

ウォード夫人が後を引き継ぎ、説明を続けた。

「アイリスと私は同い年でした。テンプルトンやローズ・パークの社交界デビューは、30年前の事です」

ウォード夫人は、そこで、ルシールの方に気づかわし気な視線を投げた。

「タイター・ビリントン氏が、かつてアイリスの婚約者だった事は知っていますか?」

「直談判の時に、少し聞きました」

ルシールはうなづいた。ウォード夫人は了解し、深い溜息をつく。

「ライト家の本家であるビリントン家が、本人確認もせず決めた婚約です。亡きアントン氏が超・偏屈で知られる方だった事もあり、厄介者同士で結婚すれば、一挙に片が付く……と言う思惑があったようです」

アントン氏もタイター氏も、ビリントン一族の厄介者扱いだった――というのが実情なのだ。

ビリントンの名前に、レオポルドが早くも反応した。

「ビリントン家か? テンプルトンの名家の一つだな。前の当主、ウィリアムは知っているが。今はタイターが当主か……」

レオポルドは横柄な性格ではあるが、頭の回転は速い。特に社交界や時事の話題においては、それなりに博識で、その対応は鮮やかなものであった。

ウォード氏が遠慮深げに、コクコクとうなづく。

「え、ええ。昔のテンプルトン抗争で、そのウィリアム・ビリントン氏と彼の長子ニック氏が同時に死亡したので、タイター氏がニック氏の長子ナイジェル氏を後見しています」

「フフン。ビリントンも、最近は没落して見る影も無いな……ド・ラ・リッチ家と比べると、血統が劣るから当然か」

ルシールは、聞いた事の無い新しい名前に戸惑った。

「ド・ラ・リッチ家……?」

「ダレット夫人の旧姓さ……レディ・カミラ・ド・ラ・リッチ。何でも、リッチ公爵家の由緒正しき血縁とか」

そっと小声で呟いたルシールに、すかさずマティが耳打ちで説明した。全く頭の良い少年である。

ウォード氏の話は続いた。

「アイリス嬢とタイター氏の最初の対面が、ローズ・パーク舞踏会での事でして。当時の地主は、レオポルド殿でいらっしゃいました。私たちは全員、下のフロアにいましたから、レオポルド殿は、この件については初耳では無いかと推察申し上げますが……」

「当然だ!」

レオポルドは、いささか不満そうに怒鳴った。

自分の関知せぬ内容が続いている事は、レオポルドにとっては気に入らない事である。

しかし、自分の過去に関わって来ると思しき、他人のプライベートに関する興味は、非常に大きいものになっていたのだった。

*****

――30年前の春。

ローズ・パーク邸では、地元の名士たちを招待して盛大な舞踏会を開催していた。

段差の上に広がる上座で、最も輝いている淑女が、レディ・カミラであった。地元の名門中の名門の令嬢であり、ローズ・パークの第一の高貴なる美女として、地元社交界では常に注目を集めていた。まだ独身であり、当時の若きクロフォード伯爵フレデリックの婚約者とも目されていた。

いつものように名門の一つとして会場に招待されていたビリントン夫妻は、会場の段差の下のフロアを回りながら、おまけの招待客として来ている筈の、ビリントン分家たるライト家の人間を探していた。

アイリスにとっては――ローズ・パークの上流社交界にデビューするという記念すべき日であり、ビリントン夫妻と初めて対面する日でもある。

招待客のほとんどを承知している地元の顔役の仲介で、ビリントン夫妻とアイリス・ライトは対面した。

『お初にお目にかかります、ビリントン夫妻。アントン・ライトの娘、アイリスです』

――金髪とアメジスト色の目を持つ、うら若き娘。

レディ・カミラ程の絶世の美女という訳では無いものの、薄紫色のエンパイア・ラインのドレスをまとった、その楚々たる風情には、惹きつけられるような魅力がある。

清楚な美貌の持ち主だったと言う母親に似たのであろう、正直言って、あの凄まじいまでに偏屈なアントン氏の娘とは、とても思えない。

――いや、妖精のような繊細な顔立ちではあるが、意外に意志の強そうな目元や口元は、確かにアントン氏の血筋だという事実を伝えている。

間違い無く『ライト家のアイリス嬢』と知ったビリントン夫妻は、ただ仰天するばかりだ。

『君が、あの偏屈アントン氏の!? いや、これは……』

『ビックリだわ。あ、アントン氏の奥さんの方に似たのね……』

『今夜ほど嬉しい時があろうとは思えない!』

奇声を上げたのは、ビリントン夫妻の後を付いて来ていた、背丈の低い金髪の青年である。肥満体に特有の、奇妙に高く太い声。明らかな超メタボ体型をした金髪短身の青年は、そのまま、戸惑うアイリスの手を取った。

『あのアントンに、これ程に綺麗な娘がいたとは!』

このフサッとした金髪の持ち主、背丈の低い肥満体の青年が、ビリントン夫妻の次男、タイター・ビリントン氏だ。

タイター氏は、これ幸いとアイリスの手をねちこく撫でさすり、実にたくさんの歯を見せて、下心タップリに笑った。タイター氏の歯は、最近ハマり始めたと言う多種類のパイプ・タバコのヤニで黄色に染まり始めている。そして、スーツに染み付いた紫煙や、全身から立ち上るタール臭やニコチン臭は、既に他人の目に涙をにじませる程の、強烈な濃度の物となっていたのだった。

最初の挨拶が済むと、アイリスはタバコ臭にむせて、気分が悪くなっていた。

会場の端の窓際まで退散したところで、アイリスはグッタリと突っ伏した。

『困ったことになったわ、デイジー……』

『顔色が悪いわよ、アイリス。何があったの?』

『頭痛がして……本家の方が決めたという婚約者、タイター・ビリントン氏なの』

『あのギャング=タイター!? そんなバカな』

『困ったわ……』

*****

ウォード夫妻の昔語りが一段落し、大広間は、シーンとなった。

マティが大声を上げる。

「ひっでー話! 本人確認しなかったのかよ!」

「ええ、あの、アントン氏は非常に偏屈な方だったので、その娘も偏屈だろう、という思い込みがあったとか」

――それはそれで納得できる話だ。大広間の面々に、異論は無い。

ウォード夫人は致し方なさそうに首を振った。

「ビリントン夫妻は、その夜のうちに、婚約話を無かった事にしようと努力はして下さったそうです。でも、タイター氏は既にその気になっていて、首を縦に振りませんでした。逆に、我が物顔でアイリスを付け回し始めたのです」

プライス判事が困惑顔で頭をシャカシャカとやる。

「立派なストーカー案件として成立するレベルの話だが……当時の治安判事は……あぁ、そうか」

「アントン氏が激怒して、ビリントン家に怒鳴り込む騒ぎにもなりましたけどね。まあ、それはともかく……」

ウォード氏はナーバスになっている様子で、手をしきりに揉み合わせていた。

「……アントン氏は、ローズ・パーク邸の執事グリーヴ氏との親交がありました。その関係で、アントン氏は、ローズ・パークの庭園管理の仕事に、助手として、私だけでなくアイリスさんも毎回、伴って行くようになりました。タイター氏と一人で行き逢わないようにするための対策でしたが、アイリスさんは庭園管理の仕事が気に入っていたようで、それは熱心でした」

――確かに、母は、庭園の仕事を愛していた。

ルシールは納得しつつ、相槌を打ったのだった。

■クロフォード伯爵邸…追憶ラビリンス(中)■

ウォード氏は不安そうに両手を揉み合わせていたが、やがて、その手は、膝の上で固く組み合わされた。

「……私たちは、ローズ・パーク舞踏会には三回、出席しました。最後の舞踏会の夜、ローズ・パーク邸の破産宣告が出てたんですが、あの大騒ぎは凄かった……」

昔語りは、時折、不器用につっかえながらも続く。

「どのようにして聞き付けたのか、門前にギャングや借金取りが集結……、勿論、その中にタイター氏も居たんですが。貸した金返せとか、負債の額面とか、ローズ・パーク邸の豪勢ぶりは存じてましたが、あんなに借金があったとは……」

――ああ、あの30年前のローズ・パークを巡る混乱の事だ。

ルシールは気を引き締めた。

ウォード氏は困惑の表情を浮かべている。当時も同じように困惑の表情を浮かべて、自分の力ではどうにもならぬ事態を見守っていたに違いない。

「……おまけに、その舞踏会の後、ローズ・パークを巡る政局騒動がスタートして……テンプルトン全体、もうムチャクチャな状況になりました。ローズ・パークが破産宣告された後、すぐにオーナー協会が創設されたんですが……」

ドクター・ワイルドが訳知り顔でヒゲを撫で、口を挟んだ。

「最初の頃、ローズ・パークのオーナー協会の代表になれるのは、クロフォード直系親族に限られていたのじゃったな。それも、次のクロフォード伯爵と決められた後継者が務めるという決まりだった。それが政局騒動において、余計に火に油を注ぐ事態になっていた」

プライス判事も渋面をしながら続く。

「当時は、対症療法的な解決手段しか思いつかない状態だったな。ギャング抗争も激化していたし、得体の知れない無敵の暗殺者が送り込まれて、爵位継承権者が次々に死亡していた」

レオポルドが鼻息を荒くし、傲然と身を反らした。大広間じゅうに響くような大声で豪語する。

「自業自得だ! 貴族社会では、一瞬のスキが命取りなのだからな! 現に、二つの直系親族が断絶の憂き目にあった。全部、あのフレデリックの間違った政策のせいだ。フレデリックは、王族親戚でもある私を、第一の後継者として指定するべきだったのだ」

地元の状況に明るくないルシールは、目を見張るのみだ。

昨夜、ベル夫人から聞いた内容――クロフォード伯爵家にまつわる、お家騒動の顛末によれば。

お家騒動で二つの直系親族が潰れ、ダグラス家しか残らなかった……と言う。

それでも、それなりの警備を用意していたであろうクロフォード直系親族が、二つも続けて断絶すると言うのは、やはり普通では無い。余程の強力な暗殺者――例えば、巨大な戦斧を軽々と振り回すような使い手など――が、ギャングの中に紛れ込んでいたのに違いない。

プライス判事は、また別に感じる事があった様子で、渋面で首を振り振り、溜息をついている。

やがて、ドクター・ワイルドが白ヒゲを撫でつつ、口を出した。

「かくして、首都から、武装役人と武装裁判官が送り込まれた訳じゃな。ロイド・グレンヴィル氏じゃ。ふむ」

「ウォード氏、口を挟む事になって済まんな」

「いえ、助かりました、プライス判事。私、その辺りはあまり存じませんので」

プライス判事はちょっと目をパチクリさせた後、クセの強い赤毛の頭をガシガシとやった。

「あぁ、当時は、公的な事は、あまり洩らさない事になっていたんだった」

耳を傾ける大広間の面々である。

カーティス夫妻は空気を読むのも素晴らしく、舌の回り過ぎるカーティス夫人でさえ、聞き役に回っていた。

もっとも、他の土地からやって来た二代目オーナーたるカーティス夫妻は、テンプルトンの歴史については、当然ながら直接に見聞きしていない。昔、クロフォード伯爵家や町内のギャングを巻き込んだ大きな抗争があったという話は承知しているが、詳しい事情は知らないのだ。

プライス判事は腕組みをしつつ、思案深げに話し出した。

「ロイド氏は、オーナー協会の抜本的な改革をやってな。ローズ・パークのオーナー協会の代表を、クロフォード傍系親族ハワード氏に割り当てたんだ。政治的な面から言えば、ローズ・パークの権益がクロフォード伯爵家のお家騒動から切り離された事で、町内抗争の激化に関わる要素が大幅に整理された。ハワード氏も、見事、流血の抗争を生き延びていた」

――すなわち、ハワード氏が、記録に残されるところの、初代のローズ・パークのオーナー協会の代表と言う事になったのだ。

そして、唯一残ったクロフォード直系親族ダグラス家は、引き続き、オーナー協会の裏方でバックアップを継続したという訳だ。

ちなみにハワード氏は、現在のオーナー代表カーティス氏の従兄弟である。

「そう言えば、従兄弟ハワード殿は、とても要領が良いというか、頭の回る男でした。テンプルトン町長も全うしていて。理想的に抗争をさばけた、という訳では無かったみたいですが」

今は亡き従兄弟の人となりを説明しつつ、納得顔で、あごを撫でるカーティス氏であった。

「郊外の村にも影響があったのでしょ、ウォード夫人?」

「ええ、カーティス夫人。本当に災厄の時代でしたわ。おちおち町にも出て来れなくて」

激しい抗争が続く当時のテンプルトンは、町に慣れていない郊外の村人にとっては、危険地帯だったのだ。

「私はもう既に結婚していましたが、ウォード家はテンプルトン町の通りにあって危険だったのです。それで、実家フレミング家に避難しておりました。町には滅多に行かなくなっていたので、ロイド氏とは余り会った事は無いのですが……カーター氏の話によれば、優秀な調停者だったとか」

ウォード氏がタイミング良く後を引き取った。息の合う夫婦である。

「実際、抗争の数がグンと減ったので、そりゃ驚きでした。しかし、先々代の伯爵様と共に、いきなり闇討ちされて、ロイド氏も死亡したとか……」

ドクター・ワイルドが早速、いささかの食い違いに気付いた。手を振って注意を引く。

「いや、正確に言うと、先々代の伯爵様は、その襲撃後も一週間は生存しておった。28年前の話になるな……ワシが看取った」

「あの殉死事件か!」

プライス判事が、ハッとしたような顔になる。

「先々代伯爵フレデリック殿を闇討ちするために、暗殺のプロを……その場で暗殺に成功していれば、事態はもっとひどい事になっていた筈だ」

「オイラもママから聞いた事あるぜ! トッド家の本邸もテンプルトンにあるから、別邸に避難してたって」

ルシールは改めて、ベル夫人の昨夜の説明を、注意深く思い返していた。

(確か、その暗殺者は、巨大な戦斧の使い手らしいと言う話だったわ)

ルシールの思考は、少しの間、脇道にそれた。

――キアランは聞き知っているのだろうか。実の父親グレンヴィル氏の、無残な死に様を。そして、その理不尽極まる死を与えた、謎の暗殺者――巨大な戦斧の使い手を。そして、暗殺を指令した黒幕の正体を……

(いずれにしても、リドゲート卿ご本人が口にしない以上、想像の域を超えない物ではある、けれども……)

ルシールは、近くに座っているキアランを、そっと見つめたのだった……

ウォード氏は雑談の間に素早くお茶を一服し、昔語りを再開する。

「先代伯爵ベネディクト様の代には抗争も減り、まあ以前ほど頻繁と言う訳では無いけど、町にも出かけられるようになりまして」

ウォード氏は、あくまでもテンプルトンの町の、普通の住民であった――住民目線の言及が続いて行ったのであった。

フレデリックとレオポルドの間にあった、婚約者レディ・カミラの奪い合いを始めとする確執、レオポルド失脚に至る詳しい事情、ダグラス家への爵位の移行などと言った話題は――出て来なかった。

「……町は変わりました。テンプルトンの牧師さまも、抗争で死んでおられた。クレイグ牧師様でしたね、後任が決まるまでの代理の牧師さまが……」

ルシールは、ただ聞き入るばかりであった。

(そう言う訳で、クレイグ牧師様は母をご存知でいらした。納得だわ)

ウォード夫人は綺麗な鳶色の目で、改めてルシールをしげしげと眺め始めた。

「……本当にアイリスに生き写し……恋人と結婚するかどうかと言う話は聞いていたけど。まさか、あの頃のアイリスが妊娠していたなんて……」

屋内に居るという事もあって、ルシールの前髪はいつもより脇によけられており、その繊細な面差しが半ば露わになっていたのだった。

ルシールは顔を赤らめ、少し顔を伏せた。茶色なのか紫色なのかハッキリしなかった大きな目は、濃い茶色に沈んだ。

ウォード夫人は思案しつつ、慎重に言葉を重ねた。

「アイリスは大体、私と同じ頃に妊娠していた筈です。でも、アイリスが妊娠に気付いたのは、私よりずっと後だったのかも知れません」

結婚後もウォード夫人は、町の抗争を避けて実家フレミング家に居た。隣家であるライト家との頻繁な交流は、独身の頃と同じように続いていた。

「26年前、11月頃――妊娠二カ月で、つわりがひどかった頃でしょうか。アイリスがお見舞いに来ていて……彼女も、私と一緒に戻した事があって」

あの時、若い新妻であったウォード夫人は、こんなハプニングにまで気が合うのかと面白く思い、冗談でアイリスをからかった。

『もしかして、アイリスもオメデタだったりして――』

アイリスは……次の瞬間、顔色を変えていた。

「親友同士の他愛の無い冗談だったのですけど、アイリスは不意に黙り込んでしまいました。今、考えてみると……その後は、アイリスは随分と注意深くなっていたわ」

その11月の奇妙なハプニングの後は、その類の兆候は見ておらず、若い頃のウォード夫人も、そのまま忘れてしまっていたのだった……

ドクター・ワイルドが、おもむろにルシールに目をやった。

「ライト嬢は何月生まれ?」

「六月です」

「それなら、妊娠したのは九月頃で……時期は、ピッタリ合うな」

納得の表情を浮かべるドクターである。

ドクター・ワイルドとプライス判事が並んで座っているソファの後ろでは、マティが不思議そうな顔をしていた。

「九月? 何で?」

「大人になったら分かる」

いつもは直接的なプライス判事も、苦笑しつつ謎めかして返すのみだ。さすがに妊娠の仕組みとなると、医者では無い者にとっては、いささか説明しにくい内容ではある。

ウォード夫妻は、ビックリした様子でルシールを眺めていた。ウォード夫人が感心したように呟く。

「長女のソフィアも六月生まれだわ……夫の祖母に似て、超・のっぽさんになったけど……」

ドクター・ワイルドは、茶目っ気のある笑みを満面に浮かべた。

「あのグレート・ソフィアですか。ソフィア・ウォード嬢の逸話は良く聞いておりますぞ。先日の舞踏会でも、ナイジェル氏を退治するなど、素晴らしい大活躍じゃったとか」

慎ましい性格のウォード夫妻は、赤面して戸惑うばかりだ。

「は、まぁ……」

ウォード夫妻の長女ソフィアは、ルシールと同い年だが、その背丈は、並みの男性よりもずっと高い。故に、『グレート・ソフィア』である。いみじくも先日、カーティス氏がコメントしたように、ケンプ氏と並び立つと大男と大女と言うペアになり、素晴らしく釣り合いが取れる。

ウォード氏が申し訳なさそうにボソボソと呟いた。

「元はと言えば、ソフィアがケンプ氏と一緒にナイジェル氏を吹っ飛ばしていたのが、ナイジェル氏の脚の骨折の原因だったのに、何故かタイター氏が、ルシール嬢を訴えるという事になってしまって……大変、申し訳ない……」

プライス判事が目を丸くする。

「……ソフィア嬢が、ナイジェル氏を吹っ飛ばしたのか?」

「ダンスのターンの弾みで……」

ウォード夫妻は、そろって恐縮している。

「ナイジェル氏は、あれでも、基本的な戦闘術の覚えはある大男の筈だぞ」

「でも、プライス判事、段差の下に落ちてましたから、それで骨折しただけかと?」

「いやいや、カーティス氏、そういう意味で言ったんじゃ無いんだが……グレート・ソフィアなら、信じられる……」

プライス判事は口元を引きつらせ、苦笑いをした。

グレート・ソフィアの新たな伝説を耳にする羽目になったレオポルドとライナスは、その余りにも迫力満点の内容に、驚き青ざめるばかりであった。

ソフィア・ウォード嬢には、他にも色々と逸話があったのだ。剣の腕前は玄人はだしだとか、一人で盗賊を捕まえたとか、弟が軍人だが、その弟をいつも投げ飛ばすとか、と言ったような、勇ましい内容である。

■クロフォード伯爵邸…追憶ラビリンス(後)■

マティが、興味津々でウォード夫人を振り返る。

「話を戻してさ。ルシール・ママは、その後、お医者さんに行ったの? 急に具合、悪くなってたんでしょ」

「どうだったかしら。彼女は何も言わなかったから……」

ウォード氏が思案顔で呟く。

「ローズ・パークのオーナー手続きが本格化した頃で、アントン氏も私も、長く家を空ける事が多くなっていたんだ。その手の事柄までは気が回らなかったし」

26年前の秋――数年続いたテンプルトン抗争が激化し、最悪の様相を見せ始めた頃だ。

「ローズ・パーク邸の借金返済も始まっていて、私とアイリスは村から直接ローズ・パークに通って、グリーヴ夫妻と一緒にローズ・パークの資産の整理をしていました。私は妊娠が判明した事もあって、お医者様には軽度の館内作業しか許可を頂けなかったのです。アントン氏と夫の分の屋外の作業は、アイリスが一手に請け負っていました」

ドクター・ワイルドが、本気で呆れたように首を振った。

「無茶な事を! アントン氏の仕事内容は知っとるが……あの重労働では、身体に無理が来る筈じゃ。流産しなかったのが不思議なくらいじゃな」

それは、医学方面に関して専門的な知識と経験を持つ者に共通の見立てであった。事故当時のオリヴィアの見立て――『アイリスは事故に遭う前から、妊婦にしては無茶をしていた』という内容とも、一致している。

ウォード夫妻は戸惑った顔をして、ルシールの方を眺めた。ウォード氏が、すぐにドクターの指摘に応じる。

「タイター氏の不在でリラックスできた事が大きいかも知れない」

「――うむ?」

「10月から12月まで、都の社交シーズンになってますでしょう。今の伯爵さまが爵位を継いで、初の都入りをなさっていて。この辺の名家も揃って不在でした。タイター氏を含めて、ギャングや借金取りも伯爵さまを追って都に行ってて……目下、地元は静かだったんですよ」

――26年前。先代伯爵ベネディクトが急死した年だ!

大広間のあちこちで、ハッと息を呑む気配が広がった。

「ああ……そうだった! リチャード殿が爵位を継いだのが、その年だ!」

ウォード氏はプライス判事の指摘にうなづくと、説明を続けた。

「私たちローズ・パークのオーナー協会員も、登記の件で都に出張していました。都まで押しかけていたギャング団の邪魔がしきりに入っていて、年末まで帰れなくて、長く家を空ける羽目になっていたんです」

「アイリスは、私がお医者様に往診して頂いている時、たびたび家事のお手伝いに来ていて……お医者様と私の話を熱心に聞いていました。今になって考えてみれば、妊娠出産についての知識が欲しかったのかも知れません」

ウォード夫人の言及に相槌を打ちつつ、ウォード氏は頭に手を当てて、溜息をついていた。

「アントン氏は、あの無骨な性格……娘さんの妊娠には気付かなかったんじゃ無いかな。タイター問題が深刻だったし」

「メイプル夫人も絶対、気付いてなかったわ。次の年の二月になってアイリスが蒸発した時、本当に動転していたし……」

ウォード夫妻の話が途切れた。カーティス夫人が首を傾げながらも、不意に重大な疑問を口にする。

「そう言えば、メイプル夫人は何処なのかしら? アントン氏の死後、タイター氏に暇を出された後は……」

「情報通のグリーヴ夫人も、その後の消息は聞いて無いって。まあ、テンプルトンの近くに引っ込んでいるんだろうけどねえ」

タイミング良く、カーティス氏が合いの手を入れている。

――また知らない名前が出て来たわ。

ルシールは目をパチクリさせながら呟いた。

「メイプル夫人……?」

「ライト家の家政婦です。長く勤めていて……アイリスさんの母親代わりでもあったんですよ」

補足説明を入れたのはウォード氏だ。メイプル夫人とは、古い知り合い同士でもある。

一方、プライス判事は、憤然とした様子で、鼻息を荒くしていた。

「タイターめ、嘘ついたな……アントン死亡の前に、彼女は既に行方不明などと抜かしおって……」

「案外、ローズ・パークで起きてた殺人事件の目撃者ってヤツかも知れないね」

即座に突っ込むマティなのであった。

ウォード氏は、膝の上で固く組んだ両手を見つめ、いっそう真剣な面持ちになった。

「年末年始になって、やっと都での登記作業が完了して。他のオーナー協会員と共に、アントン氏と私も地元に戻りましたが、地元の新年社交シーズンが始まると、タイター氏も近所に舞い戻って来ました」

――新年社交シーズン。蒸発事件の一ヶ月前。

ルシールは息を詰めて耳を傾けていた。他の面々も同様だ。大広間の中は静まり返った。

「一月から二月が、一番キツい時期だったかも知れません。私もアイリスさんの恋人と間違われて、大立ち回りでした」

「新年の頃は、私のお腹はもうハッキリしてたし胎動もあったけど、アイリスのお腹は分からなかったわ。それに館外の整備作業も続けていたから」

「そう、彼女は明らかに過労状態だった。二月になると、レオポルド殿とレディ・カミラの結婚式の準備に大わらわで、地元の人たちと共に、色々な所に駆り出されたし……」

そこまで言って、ウォード氏は、憂い深そうに眉根を寄せた。

「急な発熱で倒れたんです。あの日に」

*****

25年前の二月の――大雪の日。

アントン氏とウォード氏は、その日は役所に出向していて、留守だった。

メイプル夫人は体調を崩したアイリスをソファに落ち着かせると、折り良く隣家・フレミング家に医者が往診に来る頃と気付き、急いで呼び出しに行ったのだ。

その医者は、妊婦であったウォード夫人のかかりつけ医であり、当然ながら、妊娠・出産に詳しい医者だった。

如何なる理由の故か、妊娠をひた隠しにしていたアイリスにとっては、その手の体調変化に詳しい医者を呼び出されるのは、非常にまずい事であった筈だ。にっちもさっちも行かぬ状況に至ったと言うこの運命の日、アイリスは遂に、決定的な行動に出る選択を迫られたのだ。

そして事態は、皮肉な事に、アイリスにとっては実に都合よく運んだようなのだ。

隣家フレミング家で、『アイリスが倒れた』という知らせを受け取った医者とウォード夫人は、メイプル夫人と共に、即座に馬車で出発した。しかし、急速に深くなる積雪に車輪を取られ、ライト家を目指す馬車は、ノロノロとしか進まなかった。

そして、何とも運が悪い事に、道の真ん中で複数の馬車が立ち往生し、道を塞いでいた……

何故にこんな事が起きたのかと言うと――村の人口の増加に伴って、交通量も増えていたのが原因だ。テンプルトンでの長引く町内抗争により、多くの人々が郊外の村に避難し、各々の避難先で生活をしていた。ウォード夫人もまた、その一人であった。村の人口は倍増していたのだ。

ウォード夫人とメイプル夫人、そして医者の三人が到着した時には、既にアイリスは蒸発していた。

空白の一時間、ないし二時間。

その間に大雪は吹雪となり、激しく降り続いて、アイリスの足跡を消してしまっていた。

アイリスは忽然と消えてしまった――深い雪闇の中に。

*****

大広間の中に、沈黙が広がった。

プライス判事が圧倒されたように呟く。

「たった一時間か二時間のうちに、蒸発した訳だな」

「すげー早業」

マティも感心しきりである。キアランは無言のまま、思案に沈んでいた。

ウォード氏は当時の驚愕と困惑を想起したのであろう、長い溜息をついている。

「タイター氏を警戒して、いつでも逃げられるよう、こっそりと準備していたとしか思えないのです。事実、タイター氏は激怒していました。何処で知ったのか、アイリスさんに恋人が居る……という情報を、つかんでいましたから」

ドクター・ワイルドは暫し思案し――顔をしかめた。

「そして、その二月のうちに、アイリス嬢の死亡報告書が届いた訳か。アシュコート伯爵領……首都直通の国道がある。オフシーズンの首都に行こうとしていたか……」

二月某日付で発送された死亡報告書の内容は、急報と言う事もあって、実に簡素なものであった。

『アイリス・ライト、事故死。至急、本人確認されたし』

ウォード氏は、未練の気持ちを込めてボソボソと呟いた。

「ギャング抗争が激化していて、本人確認のために出張できる状況じゃありませんでした。実際は、アイリスさんは生存していたとか。それも、五年前まで。本人確認が出来ていれば、今頃は……」

ルシールは、遂に何も語らずに逝ってしまった母親の、穏やかだが淋しそうだった微笑を思い出していた。そして、冬の海の深い青さに魅せられて立ち尽くした母親の姿を、死の間際の母親のうわごとを。

暫し逡巡していたルシールは、不意に湧き上がった期待を込めて、ウォード夫妻を改めて眺め――そして、問いを投げかけた。

「……もしかして、母の恋人の名は、頭文字Lではありませんか?」

ウォード夫妻はハッとした表情になった。ウォード夫人がギクシャクとうなづく。

「アイリスは、その人の事を『ローリン』と言っていました。タイター氏は、彼を探し出してぶち殺す……と公言していましたが、知らない名だし、誰の事なのかは分からなくて……」

「ローリン……」

ルシールは呆然としながらも、その名を呟いた――頭文字Lのローリン。

ウォード夫人は憂いの表情を見せて、うつむいた。

「私が聞いたのは、これだけですね……テンプルトンの近辺で出逢った、青い目の紳士」

ドクター・ワイルドが、得心した様子でヒゲを撫で始めた。

「青い目の父親か……」

「ビンゴだぜ、ヒゲ先生……!」

「ローリン? 家名か個人名か……この近辺では聞かない名だな」

プライス判事が首を傾げている。

キアランは警戒するように眉根を寄せ、口を固く引き結んでいた。

思案顔をしつつ、ウォード夫妻は語り続けた。

「タイター氏を避けるための、愛称や偽名だった可能性も高いです」

「これは私じゃ無くてタイター氏が言っていた事ですが。自分がこれほど拒否される理由は、そのローリン氏がよっぽど良い身分だからで、社交界でも評判の男だからだ、との事でした」

ウォード夫人は一つ間を置くと、いきなり、レオポルドに視線を向けた。

「タイター氏は、『ローリン氏』とは、即ちレオポルド殿だ――という事を、突き止めています」

一気に青ざめるレオポルド。

「なッ……なッ……!」

口を震わせて呻いたきり、レオポルドは絶句した。

阿諛追従に熱心なライナスも、フォローが何も思い浮かばないまま、硬直している。

ウォード夫人はハッキリした声で、容赦なくたたみ掛ける。

「こんな事を申すのも何ですが。レオポルド殿は当時、数人の……いえ、十数人の方と、浮名を流しておられましたね」

「そう! それに、ロマンス小説に出て来るようなハーレムや、駆け落ちの話もあったわ! 絶世の美男美女、禁じられた恋!」

このようなロマンスの噂に目が無いカーティス夫人が、早速、目覚ましい反応を見せた。カーティス夫人は、頭脳の回転とほぼ同じ速度で、舌を回転させた。

「レナード様と言う、二歳になられる隠し子が判明して、過ちを正すためながら、先々代の伯爵の婚約者であったレディ・カミラと、数年越しの熱愛結婚をされたとか!」

社交界の語り草となっている、名高いロマンス物語の内容を、そのまま口にするカーティス夫人である。

「かの『騎士道物語』の禁じられた恋人たちの伝説もかくや、過酷な運命を乗り越えて、ドラマチックなゴール・イン!」

しかし、得てして華やかなロマンスの噂には、黒いゴシップもまた、セットで付いて来る物である。

「それも、その二月に――あんまりにもモテ過ぎなので、関係した淑女は数知れずで……全員は記憶しておられないという話だったそうで……、とにかくッ、ハーレムの、身辺整理も兼ねて……」

――ゴシップ爆弾をかますにも、程がある――

大広間の人々は、皆、青ざめて硬直していた。異様な緊張が広がる。

激昂と動転の余り、ワナワナと震えるばかりで、何も言い返せないレオポルド。ライナスは、早くも逃走体勢である。

ドクター・ワイルドが、あからさまに顔をしかめる。

「他にも隠し子が居た……としても、ワシは驚かんね。あの頃も多数の養子縁組で、結構、大変だったしな」

「こちらも、幾つ修羅場を見た事か……」

豪胆なプライス判事も青ざめ、視線を泳がせている。

――ベル夫人が言及したように、レオポルドとレディ・カミラを結婚させる作業自体が、大仕事だったのだ。

カーティス夫人が目をキラーンと光らせた。即座にカーティス氏がギョッとした顔になり、手をワタワタ動かして牽制したが、既に遅く。

カーティス夫人は再び、ゴシップ爆弾をかました。

「養子縁組? グリーヴ夫人が言う事には、10人だか、それ以上……」

……若かりし頃のレオポルドの放蕩は、伝説のプレイボーイの名に見合う結果を生み出していたのであった……

レオポルドは、額に青筋を立てて、バッと立ち上がった。

反射的に飛びすさり、ソファの背に避難するライナス。

レオポルドは、疑惑の視線を振り払うかのように、コブシを振り回した。

「し、証拠は無い! 隠し子だの、不倫だの……わ、私のスキャンダルをでっち上げようったって、そうは行くものかッ! 頭文字Lなら、他にも居る! ライナスが、そうだッ!」

さすがにライナスも、この言及にショックを受けていた。

「ひどい! 私の父は何も……」

レオポルドはカッと目を見開いて、キアランを睨み付け、指を突き付けた。

「グレンヴィルだ! ロイド・グレンヴィルは、頭文字Lで青い目だ!」

レオポルドの大声と、それによる壁からの反響音が収まった後……

大広間の中は、水を打ったように静まり返る。

ルシールは愕然としていた。

――ベル夫人の説明によれば、今は亡きロイド・グレンヴィル氏は、キアラン=リドゲート卿の実父たる紳士では無かったか。

(恐れ多くも、リドゲート卿と兄妹になるの……!?)

だが、ドクター・ワイルドが、即座に突っ込んだ。

「それは絶対に有り得ませんな」

ピシリと強張るレオポルドを見据え、ドクターは、医学的な面からの指摘を容赦無く続ける。

「ワシは、グレンヴィル氏の死亡報告書も作成した。彼の死亡は28年前ですが、ライト嬢の出生は25年前になります。確実に信頼できる医学知識を持つ者が、保証する数字ですぞ。三年に及ぶズレが存在する状況では、親子関係は絶対に成り立たんのです」

ドクター・ワイルドは背もたれから身を起こし、ギョロ目をぎらつかせた。

ベテラン医者ならではの威圧にロックオンされたようなものだ。レオポルドは口をつぐんだ。

「アイリス嬢が倒れたのは、レオポルド殿とレディ・カミラの結婚式の準備の真っ最中だとか。レオポルド殿が即ちローリン氏だとすれば、倒れる程のストレスを受けるのも納得じゃな」

……ルシールは、怖い物を見るような思いで、レオポルドの方を恐る恐る振り返った。

レオポルドも、ワナワナと身体を震わせながらも、ルシールの視線を受ける。

状況証拠から見て、レオポルドとルシールとの間に父娘関係が成り立つ可能性は――とんでもなく高い。

タイター氏が言うプレイボーイ貴族。レオポルドは今は準男爵と言う事だが、30年前は子爵であり、れっきとした貴族だった。

(私の母が愛したのは、この人だったの?)

(こんな下賤な、冴えないミソッカスが、ワシの娘だと言うのか?)

大広間の面々の全員の視線が、渦中の二人を取り巻いていた。

片や、豪奢で華麗な金髪碧眼の――かつては絶世の美青年だった――男。

片や、繊細な印象が際立つ、濃い茶色の髪の、小柄な娘。

ルシールの方は、男に生まれていたとしても、せいぜいライナスと同様な――或いはライナスよりも細身の――文学青年らしい印象に留まるだろう。間違い無くレオポルドのような、押しの強い印象には、ならない筈だ。

論理的には納得するものの、感覚的かつ本能的な部分では、なお釈然とせぬものを感じざるを得ない。それ程に、印象の違う二人なのだ。

大広間の面々の全員の視線が、なおも納得しきれない空気をはらんでいた。

――本当に血縁関係があるのか、この二人……?

出口の分からない迷宮の中に、閉じ込められてしまったようだ。

大広間に、何とも言えない重苦しい雰囲気が立ち込める。

「迷宮入りというところか。じゃが、クロフォード伯爵家の血縁関係、それも直系親族と王族親戚に同時に関わる大問題じゃ」

ドクター・ワイルドが、物騒に目を細めている。

「過去の養子縁組の時と同様、爵位継承権の可否において早々に決着を付けておかなければならん。かつてクロフォード伯爵領を血の海に沈めた問題じゃぞ。必要とあらば、自白剤を注射する事も、やぶさかではない」

レオポルドは更に青ざめ、尻込みし始めた……

■クロフォード伯爵邸…刻印の文字が示すもの■

突如、大広間の扉が開いた。

執事が、いつもならぬ大声を上げる。

「ダレット夫人、及びダレット嬢、ただ今、お帰りでございます!」

文字通り、最も恐るべき人物たちの帰還であった。

更なる衝撃と緊張に青ざめて固まる面々である。

「まあ、良かった事! 皆さん、大広間にお揃いなのね!」

大広間に駆け込んで来たアラシアは、すこぶる上機嫌である。この際、アラシアの『妙に空気を読まない能力』に、感謝すべきなのかも知れなかった。

アラシアは早速、華麗な所作でクルリと回り、身に着けている真新しいドレスを、一同に見せびらかした。斬新なカッティングとレース装飾を施されたフレアスカート部分が、豊かな表情を見せながら、ふわりと波打った。

「ホラ見てッ! 町で発見したの! 有名デザイナーの新作よ!」

ライナスが早速、ギクシャクとしながらも、称賛の言葉を掛けようと立ち上がった。しかし、緊張の余り、その舌は、いつものように回らなかったのであった。

「おぉ。レディ・アラシア。まこと、女神のよう……」

「最新モデルのドレスも今日仕上がったの! あのローズ・テイラーズは仕事が速いわ! 残りのドレスは明日にも上がるって言ってるから、明日も行くわ!」

続いてダレット夫人が、いつものように傲然と入って来た。

カーティス夫妻やウォード夫妻が、青ざめてギクシャクとしながらも、表敬のために立ち上がり、一礼する。

慣習に従って、プライス判事やドクター・ワイルド、キアランも紳士らしく立ち上がったが、一方で、立ち上がったままだったレオポルドは、動揺を押し隠すためか、ソファに乱暴にドシンと腰を下ろした。

ダレット夫人は大広間の面々を睥睨すると、いっそう気取って、優雅な仕草で頬に手を当てて見せた。

「アラシアが、あのカフスを見つけたとは驚いたわよ! レナードには別の新しいの買ってやるわ、ロイヤルの方で第一級のダイヤが入ったそうだし」

そして各々、上座の方から順に着座していく。

席次が変わり、ドクター・ワイルドとプライス判事は、下座に移動し始めた。

ドクター・ワイルドは、噂のレナード・カフスの発見に至る経緯に、早くも疑惑の眼差しを向ける。

「カフスとは何の話だ?」

「昨日、アントン氏の小屋からレナードのカフスが出て来たんだよ。で、それ、プライス判事に見せたんだけどさ、アラシア、オイラとルシールを泥棒扱いしてさ、そんで、自分のものだって言って、取ってちゃったんだよ」

「ほぉほぉ」

マティは、上座に改めて集まった面々を振り返り、コッソリと呟いた。

「レオポルドのオッサン、さっきのショッキングなお話を喋らないね……」

「そりゃ当然だろ、マティ坊主よ」

プライス判事は、立ち上がって表敬を示した格好のまま、ダレット夫人からジリジリと後ずさり、下座でコソコソと新しい椅子を引いていた。マティの呟きに合わせて、プライス判事も同じくコッソリと呟き返す。

「レオポルド殿には、アヤシイ事情が多過ぎるしな……おじさんだって、ダレット夫人とダレット嬢が今、暴れたら困るぞ」

ルシールは早速、上座の面々に丁重に給仕している。

給仕係としてお茶を運び、そして再び下座に戻って行くルシールの姿を眺めていたアラシアは、あからさまに軽蔑の笑みを浮かべた。聞こえよがしな大声で、母親ダレット夫人に語り掛ける。

「所詮、下等階級よ。あれが身分相応なのよね!」

「身のこなしは覚えときなさい。あれが正統派の貴婦人の所作なの。本物のレディ教育を受けてるわ、あの女」

ダレット夫人は不機嫌そうに呟いた。

オリヴィアと同じように、レディ称号を持つ上流貴族の出身というだけの事はある。ダレット夫人は、ルシールが見せた一連の所作が、上流社交界に相応しいものである事に気付いていた。

正統派の貴婦人の所作に、発音。基礎からしてシッカリと体系的に仕上がっており、明らかに、背伸びや付け焼刃などに留まるような、偶然の物では無い。

「なによ、ママ。最近、変よ」

アラシアは、淑女そのものと言った様子で眉根を綺麗に寄せて見せると、ソファのクッションに優雅にもたれ、形よく小指を立てて茶を飲み始めた。

ダレット夫人は、そんなアラシアの所作を観察しつつ……小じわを覆い隠すための厚化粧がひび割れる程に、眉根をきつく寄せた。

――抜かった、のかも知れないわ。

アラシアは美しく生まれ付いている。英才教育の甲斐もあって、貴婦人としての身のこなしは、充分以上に洗練されている。

貴婦人としての教養やマナーは何処でも共通しているから、ルシールもアラシアも、基礎的な要素は同じだ。身分の高さや、貴族的な顔立ちや体格をシッカリ受け継いでいると言う利点がある分、アラシアの方に軍配が上がる筈なのだ。

しかし、ルシールの所作とアラシアの所作を並べて比較してみると、アラシアの方には決定的な要素が欠けているという事実が、ハッキリと目に見える。

ルシールは、にこやかな様子で、カーティス夫妻とウォード夫妻をもてなしている。

下座の筈の場が、柔らかで上品な空気を湛えていて、自然に人目を惹いていた。ルシールの立ち居振る舞いには、そういう影響力がある。今すぐに、クロフォード伯爵夫人も務められる程の……優雅さと、品格。

「……何処で教育が足りなかったのかしら。わたくしとしたことが」

誰の耳にも届かない呟きが、歪んだ唇から洩れた……

ウォード夫妻は下座の席に改めて落ち着くと、改めてルシールに声をかけた。

「聞きたい事があるんだけど……」

「なんでしょう?」

「んん?」

ルシールの傍でピョンピョン飛び跳ねていたマティが、ピタッと止まった。興味津々で、ルシールに張り付く格好だ。

上座の方で落ち着かない様子のレオポルドが、即座に目を吊り上げ、大声で喚いた。

「我々にも聞こえるように喋りたまえ!」

それは、レオポルドならではの警戒心の現れだ。

だが、そうと知らないアラシアは、一気に不機嫌な顔になったのだった。

ルシールの方が注目されているという、不愉快な状況だ。

アラシアは、きつい眼差しでルシールを睨み付けた。

――あの茶ネズミ、今すぐに居なくなれば良いのに!

ウォード夫妻とルシールは戸惑いながらも、恐る恐る、普通の声で会話を続けた。

「あなたは、何故アイリスの恋人の頭文字を知っているの?」

「……あ、それは、母のブローチに……」

「あ、ねぇ、ルシール」

急にマティが、ルシールの袖を引き、会話を遮った。キョトンとするルシールに、マティは素早く耳打ちする。

(今、アラシアが物凄い目で睨んでるんだ。今はブローチ出さない方が絶対に良いって。レナード・カフスを拾って来た時だって、物凄かったじゃん)

ルシールは戸惑って口ごもり――そして結局、説明を差し替えた。

「あの、今は、そのブローチは無いんですが……あの先日の舞踏会の時、髪飾りにしていた……」

「あ……あのアメジスト細工のバラの花ね」

幸いウォード夫人は、その髪飾りをシッカリと覚えており、瞬く間に話が通じたのだった。

アラシアはシッカリと聞き耳を立てており、早速、けたたましい声でルシールをバカにし始めた。

「あらまあ! アメジストだなんて! オモチャの石じゃ無い。ダイヤとか、ルビーじゃ無いとねえ……エメラルドも持ち合わせて無いのかしら! お可哀想にね、舞踏会じゃボロも同然の黒服だっだし、ホントにみっともなかったわね、オホホホッ!」

美しく上品な嘲笑を続けるアラシアに、ダレット夫妻は何も言わない。

後ろに控えているライナスは青ざめ、ジリジリと距離を取り始めていた。ドン引きしているのは明らかだ。

「フッ……予想通り、だから底の浅いヤツは……」

マティは鼻をかきつつ、小声でブツブツ呟いていた。やはり大物だ。

アラシアの挑発には乗れない――ルシールは深呼吸して気を取り直すと、ウォード夫妻に説明を続けた。

「そのブローチに、贈り主の刻印が刻まれていたので……それが『L』です。それに、『F&F』の刻印があります」

「F&F……?」

ウォード夫人は一瞬キョトンとしていたが、ウォード氏がピンと来た様子で、推察を口にした。

「……あッ、昔の『F&F』かな」

「もしかして」

ウォード夫人は、急にハッとした様子で、胸元のブローチに手をやった。ウォード夫人はケープを留めていた白いヒナギクのブローチを外すと、裏側をルシールに示して見せた。

「このブローチは、『F&F』の品なの……こう言うロゴ?」

「それですわ」

ルシールは驚きながらも、うなづいた。確かに、そこには、独特なスタイルの『F&F』と言う文字が刻まれている。

「古そうな文字だね。凝ったデザインなのに、こんな狭い場所に精密に刻むなんて、すげー腕前じゃん」

マティは身を乗り出し、ブローチ裏に刻印された『F&F』をしげしげと眺め始めた。工作が得意なだけあって、技術レベルに対するセンスには鋭い物がある。

ダレット夫人は、『F&F』と言うキーワードに、別の意味でピンと来た様子だ。横目で、ギロリとレオポルドを睨む。

「あなたって……昔は浮気相手に、下らないゴミの宝石とか買って与えてたわよね。頭文字Lの正体……なかなか興味深いじゃありませんの」

「……!」

その不穏な口調に気付いたレオポルドは、いっそう青ざめ、高速でブルブルと首を振っている。アラシアの母親であるからして、その癇癪のレベルも推し量れようと言う物だ。

ライナスは逃走態勢を取った。ジリジリと後ずさり、遂に、下座に控えているキアランの隣まで到達する。プライス判事とドクター・ワイルドは、同感と憐れみの眼差しを投げるのみだ。

アラシアの方は、ルシールへの嘲笑をなおも続けていた。

「ホホホ、聞いたこと無いお店だわねッ! ヤクザが出入りするような場末の下品な店なんでしょう。『F&F』なんて、最近の話題の『J&J商会』の真似じゃ無い。著作権侵害で、そのうち訴えられるわよ!」

場の雰囲気が悪くなり始めた事をいちはやく悟ったカーティス氏は、愛想笑いを張り付けたまま、青ざめていた。カーティス夫人は、空気を読んだのか読まなかったのか、のんびりとした様子だ。

「私も聞いたこと無いのよねえ」

「新しい人は知らなくて当然ですよ」

ウォード氏は苦笑しつつ、穏やかに応じた。

「その『F&F』と言うのは、『フィン&フィオナ』のロゴだったんです。今は合併して改名していて、『ロイヤル・ストーン』系列のテンプルトン支店です」

一瞬、大広間に、呆気にとられた空気が広がった。

「フィン&フィオナ?」

カーティス夫人は頬に手を当てて、素直に驚きの声を上げる。

「あの老舗商店街の、高級宝飾店が? まあ驚いた! それに『フィン&フィオナ』って、知る人ぞ知るブランドじゃない、我らがテンプルトンに存在していたなんて知らなかったわ。灯台下暗しとはこの事よ!」

「かつての『F&F』の時代の頃から、宝飾細工では高く評価されていましたね。新年の社交シーズンの頃でしたか、レナード様のカフスのダイヤモンド宝飾も『F&F』改め『ロイヤル・ストーン』ブランドの品だとか、大変な話題でしたね」

これは、ウォード氏なりの、ダレット一家に対するリップサービスである。

ドクター・ワイルドも古株だけあって、昔のテンプルトンの名店を思い出した様子である。

「腕の良い職人が揃っている老舗じゃったな。昔の抗争の影響で、倒産しかねない程、困っていたとか。ほとんどの宝飾品が分解されて、売り払われたと聞いとる。今では『フィン&フィオナ』ブランドの宝飾品は、ほぼ入手不可能というくらいの、幻のアンティークやヴィンテージとなっている筈じゃ」

マティが目をキラキラし始めた。

「へー、なんか、伝説の秘宝って感じだね」

――謎の『L氏』を突き止められる可能性が出て来た。

ルシールは、いつしか、震える胸元で、手を固く握りしめていた。

――『ロイヤル・ストーン』宝飾店の系列、テンプルトン支店。アメジストのブローチが特注の品ならば、『L氏』即ちローリン氏の記録が、店に残っている可能性がある。

不意に、視線に気づき、チラリと振り返る。キアランが思案顔で見つめて来ていた。急に落ち着かない気持ちになり、そそくさと顔を伏せる。

(母の過去に何があったのか、それだけは知りたい。父が誰なのかは、あまり知りたいとは思っていなかったけれど。でも、ローズ・パークをちゃんと相続して、本当に先に進むためには、知らなければいけないのかも知れない……)

■クロフォード伯爵邸…いわくありげな御招待■

アラシアは、ますます不機嫌になっていた。

ルシールは老舗ブランドの品を持っている。しかも、ブランド改名前の――今や、幻のヴィンテージとしての価値を高めたのであろう――特注の品。

アラシアは、凄まじい視線をルシールに向ける。

その殺気に満ちた視線は、マティとルシールの気を引いた。アラシアの方をコッソリと窺ったマティとルシールは、二人してギョッとし、顔色を変えたのだった。

ウォード夫妻が、気遣うようにルシールを見つめる。

「……あの、大丈夫? 微妙な内容だという事は分かってはいたけれど」

「いえ、話してくださって有難うございます。今後の事を含めて、いろいろ考えることが出て来ましたので……」

「今のところ、これ位だけど。聞きたい事があれば、いつでも」

ウォード夫妻とルシールの話が一段落した。

カーティス夫人が、ウキウキした様子でルシールに語り掛ける。

「そう言えば、ライト嬢! ちょっとしたお誘いの話があるんだわ! グリーヴ夫妻がローズ・パークの夕食会の計画を立てていて、ライト嬢も招待しようという話になったの。ウォード夫妻とも、またゆっくり話せるかと……」

次の瞬間。

ダレット夫人の扇の音が、ピシッと響いた。

大広間に緊張が走る。

ダレット夫人が、ゆっくりとカーティス夫人を振り返った。

カーティス夫人の笑みが引きつっていく。

「ローズ・パークも落ちぶれた物だわね。道端をうろつく庶民を、夕食会に招待する場所になるとはねえ」

「ま、まあ! オホホ、そんな事ございませんわ。オーナー協会の内輪の夕食会になりますから」

ダレット夫人は上から目線でカーティス夫人を睨み付け、なおかつ上品な嫌味を込めて、傲然とした笑みを浮かべた。

「ダレット家が本来のオーナーよ、お忘れかしら、カーティス夫人? オーナー協会の地位は所詮、召使いや使用人の地位を越える物では無いわ。真のオーナーの帰還の拒否は、不可能って分かってるわね……?」

凄まじい癇癪の爆発に直結する気配が、満載だ。

カーティス夫妻は揃って青ざめ、愛想笑いを張り付けながらも、弁解とお世辞を言い始めた。

「め、滅相も無く。常に常に承知、誠心誠意、高貴なる方々に、常に敬意を表しておりますって事で」

「ダ、ダレット一家の、高貴なる、おいでを頂くのは、常に身に余る光栄でございますわッ!」

哀れなライナスは、すっかり忘れられていた。だが、失敬に当たらないように、如何にして出来るだけ遠くまで遁走するかという事で、頭が一杯になっているのは確実であった。

下座に居た大の男たち、即ちドクター・ワイルドとプライス判事とキアランの三人は、揃ってライナスの危機に同情しながらも、『ドン引き』の状態である。

マティが突っ込み始める。

「そんなの、ありかよ」

「法的解釈では、実際にえらく揉めているんだ」

プライス判事は怖気付いたように、解説を返すのみであった。

「ダレット一家、王族親戚の筋から、カーター殿と同じくらい戦闘力のある弁護士を提供されていてな。しかも、その料金は、クロフォード伯爵家へのツケでな。昔、キアランとレナードが寄宿学校に上がる頃だったか、寄宿学校の学費調達の面も含めて、ダレット一家のローズ・パークのオーナー資格の問題が炎上した事があったんだ。あの頃は、カーター殿もさすがに、目の下にクマを……」

大広間の控えの間で、スタッフたちが緊急出動に備えて、次々に盾を構えている気配がする。

凄まじい緊張が張り詰める中、カーティス夫人の舌は滑らかに回り続けた。

「まぁ、オホホ、話が決まりましたら、満を持して、最高の招待状を、お送りさせて頂きますわ……ご一緒できる栄光の夜を楽しみにしておりますわッ」

「まあ、本当に感心な事ね、オホホ。何と言っても、ローズ・パークですからね! 相応の格式たる物だと、期待してよろしいわね?」

ダレット夫人は勝利を確信し、優雅に高笑いをしている。

気楽な夕食会の筈が、格式のある貴族スタイルの晩餐会に格上げとなって行く様を、ルシールは呆然として眺めるのみであった。

カーティス夫人は満面に阿諛追従の笑みを浮かべ、なおも熱心に喋り続けた。

「それは勿論でございますわ、姪のシャイナも出席の予定で」

「私の娘も、明日やっと20歳なのよ……少し早いけれど、シャイナ嬢と同じ大人の淑女として社交界活動しても良い頃合なのよね。こちらも色々と準備しなくてはいけなくて……」

意味深な様子でチラッと視線を寄越すダレット夫人。

カーティス夫人は即座にピンときた顔になり、ブンブンと首を縦に振り始めた。アラシアの方を振り返り、改めて満面の愛想笑いを張り付ける。

「まあ! 早速、ダレット嬢に、お喜びを申し上げなければ! 取って置きのお祝いを用意いたしますわね、お嬢様、レディ・アラシア!」

「まあ素敵! 何かしら、とても楽しみ!」

アラシアは、急に自分が注目されたと言う事もあいまって、可愛らしく喜びの声を上げた。その気になればアラシアは、可愛らしく振舞う事も出来る。

ドクター・ワイルドは、カーティス夫人の天賦の舌がダレット夫人の癇癪の爆発を――ひいては、ダレット一家全員の癇癪の連鎖爆発を――未然に防いだ事を悟り、ただ感心するのみだった。

「カーティス夫人の、あのボケをかます手腕は大した物じゃ。煮ても焼いても食えぬ、政治家の才能がある」

「オバハンには、オバハンか……」

プライス判事も、ホッとした様子で呟いていた。鼻の頭にまだ汗が浮いている。

嫌味モードになったダレット夫人に勝てる勇者(オトコ)は、この世の何処にも存在しないのだ。

大広間の控えの間でも、スタッフたちのホッとしたような雰囲気が広がっている。

「すげえ横車、ごり押し……」

ローズ・パークの夕食会への割り込みに加えて、賄賂の要求もあったらしいという事を曖昧ながらも理解したマティは、呆れながら鼻をかいている。

ウォード夫人は困ったような笑みを浮かべ、ルシールにそっと声を掛けた。

「あの、夕食会に来てくれますね? 話したい事が色々ありますから……」

「ダレット一家は、カーティス夫妻とシャイナ嬢に任せれば大丈夫」

「はあ……」

ルシールは曖昧にうなづいた。

確かに、カーティス夫妻とダレット夫人のやり取りを見ると、カーティス夫妻は、この気難しい一家に極めて上手に対応していると分かる。カーティス夫妻の姪・シャイナも、どうやってかは分からないが、レナードを始めとして、ダレット一家の好意を、上手く得ているらしい。

(それにしても、困った……)

会話の内容からすると、アラシアの成人祝いを兼ねた、限りなく公的な催しになるのは確実だ。

格式のある貴族スタイルの晩餐会。間違い無く、サテンドレスが必要だ。

しかし、数日前、アラシアの手によって、唯一のシルクであったサテンドレスが燃やされてしまっている。

(新しいディナードレス、どうにかして準備しないと……)

*****

大広間に新しい人物が現れた。弁護士カーター氏だ。

既に午後の半ばと言う時間帯となっていた。太陽は既に西の方に移っており、再び角度が浅くなり始めた陽光が、大広間に並ぶ大窓から、柔らかに差し込んでいる。

大広間の面々を確認したカーター氏は、いつもの穏やかなポーカーフェイスで丁重に一礼した。

「皆さん、おいでのところ、失礼いたします」

「おッ……カーター氏、やっと上の用件が終わったんだな」

「お蔭様で、プライス判事」

カーター氏は一礼した後、素早くキアランに近づいた。

「遅くなりました、リドゲート卿……」

そのまま、キアランとカーター氏は身を返し、密談を始めたのだった。

マティが意味深な様子に気付き、首を傾げる。

一言二言……そして、速やかに密談が終了した。

キアランは早速、ドクター・ワイルドに声を掛ける。

「ドクター・ワイルド、再確認ですが、父は階段昇降は、もう問題は無い状態なんですね?」

「うむ? ああ、勿論じゃ。多少の注意は必要じゃが……」

キアランとカーター氏は、目配せを交わした。

次に、キアランは上座へと歩み寄る。

ダレット夫妻、カーティス夫妻、ライナスが、談笑という名の自慢話と阿諛追従とゴマすりの応酬を繰り返しているところだ。

「申し訳ありませんが、カーティス夫人。この度、ダレット一家は、クロフォード伯爵が催す明日のディナーに出席して頂く予定になりました。ローズ・パークの夕食会の日取りは、当分、延期して頂きたいのですが」

カーティス夫人は早速、その言葉に飛びついた。

「まぁまぁ、当方、了解でございますわ、リドゲート卿!」

カーティス氏も、心なしかホッとした顔だ。カーティス夫妻にとっても、正直言って、『面倒事』を先延ばしに出来る有難い話である。

ダレット夫人はムッとした顔ながらも、了承の構えだ。

「無礼な……まぁ、伯爵邸のディナーなら……」

レオポルドが疑わしそうに顔をしかめる。

「改めてディナー招待とは、珍しい風の吹き回しだ」

「父が、階段昇降可能な程度まで回復しています。明日のディナーは、レナードにも出席して頂きます……出入り禁止は一旦、解除と言う事で」

再び緊張が走っていたが、キアランは、いつものようにムッツリとした無表情だ。

レオポルドは青い目を険しく細め、幾ばくかの疑念を顔に浮かべながらも、傲然とした様子で呟く。

「フン? やっと、リチャードも、異常な状況を正す気になった……と言う訳か」

キアランは、そのちょっとした挑発には応えなかった。

「ちょうどトッド夫妻も帰国する……トッド夫妻と、ライナス氏も招待します」

「有り難き幸せ。喜んで出席いたします」

ライナスは早速、滑らかな一礼をし、招待を受け入れた。

「父の回復祝いという事で。プライス判事とドクター・ワイルドも来て頂けますか」

「そりゃ、勿論じゃが……」

「回復祝いと言うが、何かあるんだな?」

同様に声を掛けられたドクター・ワイルドとプライス判事は、揃って招待を受け入れながらも、怪訝そうに首を傾げていた。

ダレット夫人が、ピクリと片眉を上げた。

レオポルドも、ゲストとなる面々をザッと確認し、ピンと来た顔になる。

このゲストたちで、『伯爵の回復祝い』という名目ならば、公式のディナー扱いになる筈だ。そこで交わされる話題は、相当に絞られて来る。

ダレット夫妻の脳裏には、限りなく『確実』と思われる可能性が浮上していた。

「アラシアとの婚約を公式に発表、という訳か」

「あら……」

カーティス夫妻は早速、ダレット一家に向けて、特製のお世辞と阿諛追従を積み上げ始めた。

「まぁまぁ、レディ・アラシアの成人にも合わせての事に違いないですわね、当主ご臨席の正式なディナー、何て羨ましい事でしょう!」

「さすが高貴なるダレット一家、テンプルトンの町でも、このディナー、大変な話題になりますでしょう」

ダレット夫人は、未来の予感に緩む頬を優雅に押さえつつ、カーティス夫人の賛辞に滑らかに応じて見せる。

「わたくしには何でも無いわね、クロフォード伯爵家の大奥方ともなれば……アラ、これは秘密ね、ウフフ」

ウォード夫妻は驚いたように目をパチクリさせていたが、すぐに穏やかに苦笑を交わした。

「どうやら、このたびは難しいようですわね……ライト嬢、また次の機会に」

「そろそろ我々も、カーティス夫妻にならってリップサービスをしなければ。ローズ・パークのオーナー協会メンバーとしての任務だね」

ウォード氏はイタズラっぽくウインクを送って来た。

苦笑してうなづくルシールである。

ルシールは茶器を整理すると、マティに微笑みかけた。

「伯爵様が回復ですって、良かったわね。パパとママが海外出張から戻るって話も。そう言えば、ご兄弟は?」

「姉・兄・兄だけど、一番上の姉御は女学校行ってて、二人の兄は寄宿学校さ。オイラは、まだ……家庭教師は、じいじなんだ」

公式ディナーの招待をほぼ終えたキアランは、最後に、マティとルシールの方を振り向いた。

「マティとルシールも招待されていますから」

「え?」

「ルシールもなんだ」

マティは早速、ルシールを見上げた。目がキラキラし始めている。

「伯爵の回復祝いと言う名目だと、公式の集まり……シルクのドレス、持ってたっけ?」

ルシールは一瞬、目をパチクリさせた。そして、愕然とした。

「明日の夕方までに、何とかしないといけないわね……」

ルシールの笑みは、引きつっていた。

■クロフォード伯爵邸…華麗なる狂奔(前)■

一通りの相談が済み、カーティス夫妻とウォード夫妻は、クロフォード伯爵邸を退去して行った。

続いて、カーター氏とドクター・ワイルドとプライス判事も、三人で何やら情報交換しつつ、クロフォードの町へと戻って行ったのであった。

今夜のディナーまで間もない時刻だ。

来客たちの見送りを済ませたマティとルシールは、大広間で待機する。

マティは、海賊の宝箱から『謎の手』がバネ仕掛けによって飛び上がって来ると言う、不思議な代物を工作していた。

「見て見て。スゴイだろ。このバネ、工場でも使われてる最新技術のヤツなんだ」

「海賊の宝箱から、バネ仕掛けの『謎の手』……? 何に使うの?」

「それは、後のお楽しみさッ」

「そ、そう?」

絵本に出て来るような海賊の宝箱から、バネ仕掛けで飛び出して来た『謎の手』は、ただひたすら、『奇妙奇天烈』の一言である。

ルシールは困惑の笑みを浮かべながら、首を傾げるのみだった。

(つくづく、マティの頭の中身は、謎だわ……)

アラシアが、ディナーのための身支度を済ませ、大広間に入って来た。毎度、豪華なドレスに身を包んでいる。

先に入室していたマティとルシールを見て、アラシアは、あからさまに舌打ちした。楽し気に談笑している様子を、ギラギラと睨みつける。

「伯爵様はお怪我をされて、判断も完全にお間違いになってるだけなのよねッ!」

聞こえよがしの大声だ。

ルシールは、その声に潜む刺々しさに気付き、アラシアの方を振り向いた。アラシアは、ルシールの注目を引いた事を確信して、華麗にプイと顔を背けて見せた。

「あんたは招待もされてない筈だわ、サッサと引っ込め! はしたない茶ネズミ女、今朝の馬車で死んでいれば良かったのよ!」

「今朝の、馬車?」

「うげッ」

アラシアは苛立ちを叩き付けるように、ルシールに向かって攻撃的な言葉を次々に浴びせた。

「父親も分からない女が、どの面さげてディナーに出席するっていうの、空気も穢れるってのに……! ホーラ、口紅、失敗したじゃ無い! もう! あんたのせいでよッ!」

アラシアは、『こちらが哀れな被害者だ』と言わんばかりに、手に持っていた手鏡を殊更に振り回して見せた。危なっかしいまでの勢いだ。

遂に、手鏡がブン投げられて宙を飛んで行く!

とっさの直感と反射神経で、手鏡をパシッと受け止めるルシール。

「すげー」

マティが感心して、マジマジと眺めている。

アラシアは絶句したが、次の瞬間には、癇癪を爆発させんばかりに顔を歪める。

ルシールは困惑しながらも、手鏡をテーブルに安置した。

(アンジェラとのハープの二重奏の方が、気づいて合わせるのが難しかったわ……でも、このままでは、ディナーの雰囲気も悪くなる)

ルシールは速やかに決断を下した。この場では、ルシールよりもアラシアの方が立場が上になる。

大広間の扉が開いた。

キアランが、ライナス氏と共に大広間に入室して来る。

丁重に一礼するルシール。

「申し訳ございませんが、今宵のディナーも欠席させて頂きたく……」

「欠席?」

すると、そこへ、透き通るような美声が響いた。

「どうしましょう! あたくしが居るのが、そんなにお嫌なのかしら!」

アラシアは被害者ぶった口調で、哀れっぽく訴えかけた。美しい青い目に涙を浮かべ、はかなげに身を震わせ、如何にも悲劇の美少女と言った風だ。

ルシールは、アラシアに対して、所定の仕草で首を傾けて見せた。『貴婦人の無言のサイン』の一種だ。

――『そのような事は全くございません』

キアランとライナスはサインを読み取り、理解の表情を見せた。

しかし、アラシアの方は、最初からルシールを『卑しい身分の穢れた女』と決めつけていたせいで、目が曇っていた。『貴婦人の無言のサイン』も、成人を迎える令嬢に対する敬意にも、気付かない。

アラシアは、いっそう悲劇的な表情になって、大粒の涙をこぼして見せた。『ルシール、お願いだから許して』と言わんばかりに、清らかな聖女さながらに、胸の前で震える手を組んでいる。

マティが白けた表情になった。ポリポリと鼻をかき始めている。

――そんなところへ。

いつものように、ダレット夫妻が、やや遅れて大広間に現れたのだった。

ダレット夫妻はルシールとアラシアを交互に見るなり、激怒を込めた目つきで、『アラシアを泣かせたルシール』を睨み付けた。

ダレット夫妻が口を不吉に歪ませつつ、ルシールに向かって、ずかずかと歩み寄っていく。

刺々しく、どす黒く、恐ろしいとすら言える、ピリピリとした空気が充満する。

ドアの傍に控えていた執事が、目を見張った。

ライナスは危険爆発物の真ん中に居る事を察知し、素早く脇に退いて無関心を通す。

マティが口を引きつらせた。いつもの気の利いた反撃コメントも思い付かない。

――ダレット夫妻が揃って、握りこぶしを振り上げた。

アラシアは、ハッと息を呑んで両手で淑やかに口を押さえ――しかし、その眼差しには、ほくそ笑みが閃いていた。

次の一瞬。

キアランが、ルシールとダレット夫妻との間に割って入る。

「では、速やかに退去を」

キアランは、キョトンとするルシールの手首を素早くつかみ、引きずり出した。

――大広間を追い出されるようにして退出する。文字通り廊下へ放り出すような格好だ。犯罪者か何かのように。

ダレット夫妻は勢いをそがれた形となり、口をポカンと開けた。

アラシアは、今や喜色満面だった。

「あの下賤な茶ネズミ女、ざまぁみろ、いい気味!」

後ろに避難していたマティとライナスは、アラシアの物騒な呟きをシッカリと耳に入れていた。二人で揃って、青ざめる。

執事が、大広間の扉を開けたままにしている。執事は、ダレット夫妻からの死角を読んでいたかのように、扉の前に控え続けていた。

キアランとルシールの姿は、執事と扉が作り出した死角の中に、ほぼ隠れた形になった。

執事が、ダレット夫妻に素早く一礼した後、扉をサッと閉める。

知らぬ間に死角を取られていたダレット夫妻は――死角の中で何が起きていたのかには、全く気付いていなかった。もし気付いていたら、大爆発だったであろう。

偶然にも少し場所がズレていたアラシアは、執事が扉を完全に閉じる直前、その隙間から見えた光景に目を見張った。

――キアランがルシールの手を取り、その手の甲に素早く口づけをした。

貴族社会においての、その行為の意味を良く知っていたアラシアは、手で覆い隠したままだった口を、悔しさに歪ませた。

アラシアは、儀礼上必要な場面以外では、男性から敬意のキスを贈られた事は無い。あのように、とっさの機転で、予期せぬ暴力から守られた事も、無い。

「何で、あんな下賤な茶ネズミ商売女が、敬意と忠誠を贈られて、レディ扱いなのよ……! あの石頭ったら、守護する相手まで間違っちゃって! テンプルトンで判明した、クソ女の秘密をバラしてやれば良いんだわ……!」

物陰で敵情視察に入っていたマティとライナスは、恐怖に震えながらも、こっそりと目配せを交わしたのだった……

*****

広く贅沢な食堂で、いつものようにディナーが始まった。

長方形の食卓の一方の席には、レオポルド、アラシア、ダレット夫人の三人が並び、もう他方の席には、キアラン、マティ、ライナスの三人が揃っている。

ルシールが居ない今、食堂の中では、アラシアが唯一の若い女性として――すなわち特等の者として、丁重にもてなされている。アラシアは、この上なく上機嫌であった。

一通りのニューストピック等の世間話が一段落した後、ディナーの面々の話題は、雑談に移った。

アラシアは早速、とっておきの美声で、会話の主導権を取る。

「テンプルトンじゃ大した噂だったわ! あの女、チビでデブでハゲのギャング=タイターと、ご親戚ですってよ! ギャングの親戚がクロフォード伯爵家に出入りするなんてね!」

レオポルドが身を乗り出し、話の流れに乗った。

「そうか。それなら、今夜のうちにでも国外追放しなければな。いや、国外追放じゃ生ぬるい。あの商売女、女衒か奴隷市場にでも売り払えば、金になるだけマシと言うものだ」

「何でも邪悪な魔女の手下だとかで、恐ろしい禁術の儀式とか、お手の物だそうよ。復活祭の頃にも、ズタズタになったネズミの死体を使って、何か凄まじい血みどろの儀式してたって噂だわ!」

アラシアは、アシュコートの社交界で流れていたゴシップを都合よく捻じ曲げ、次々に披露した。

「アシュコート社交界じゃロックウェル事件が連日のニュースだったけど、あのバラバラ死体の正体も、案外、ルシールの邪悪な儀式の犠牲者だった方かも知れなくてよ!」

ゴシップの入手先は、容易に予想できる物であった。ダレット夫人が出入りする『テンプルトンの集会』や『有閑マダムのサロン』である。退屈しのぎのためもあって、妄想によって凄まじい尾ひれを付けられた噂が飛び出して来るのが常だ。

「情報通はいいけど、『テンプルトンの集会』は、アラシアにはまだ早いものもあるんですからね」

ダレット夫人の忠告は、ほとんど無意味だ。もとよりダレット夫妻は、アラシアの長広舌を黙認している格好である。

上流貴族社会における伝統的な決まり事に従う限りでは、アラシアの告発行為は、正しい行動になるからだ。

「まぁ、お母様! 今は時代が違うわ! 私の友人など、もう色々と顔が広くって。少し前に、ロックウェル城の仮面舞踏会に招かれたって自慢してたわ。ほら、あのロックウェル公爵よ! あの神秘のゴールドベリ一族とも、ゆかりがあるとか。私も頑張らないと負けちゃうわ」

ダレット一家が主導権を取るディナーは、異様な雰囲気になって行った。スタッフたちが強張った顔のまま、ギクシャクと給仕している。

ダレット夫人は、非難を込めた眼差しをキアランに向けた。

「彼女の『正式な客人』としての立場は、あくまでも、クロフォード伯爵の『破格な好意』によって与えられた物でしか無いのよねえ。この犯罪のあれこれが、テンプルトンだけでなく、首都へも広まったら。伯爵、この事態をどうしてくれるのかしらねぇ」

キアランは無反応だ。

アラシアがウキウキとした様子で喋り続けている。

「他にもすごい話があるのよ、お母様。あの女の母親、とんでもない恥をさらして蒸発したって、たいしたゴシップだったわ。婚約者を裏切って、のうのうと不倫してたんですって。ま、金髪美人だったって話だったし、その辺の哀れな男を釣るのは、たやすい物だったんでしょうね」

ディナー席の面々は、ルシール本人ばかりか、その父母や祖父母、親戚に至るまで、根拠の無い噂と思い込みによって、その名誉が徹底的に捻じ曲げられ、鞭打たれ、切り裂かれ――、『アラシア劇場』において、完膚なきまでに踏みにじられ、虐殺されるのを聞かされる羽目になっていた。

ライナスは無言でもくもくと食事を続けている。マティも同様だ。

妄想を根拠とする名誉棄損は、とっておきの美声による毒液の如き誹謗中傷となって、延々と続いた。

「ルシールの祖父アントン、あの下賤なヤミ商売人・ビリントン家の、一番の恥さらしだったそうなのよ! アントンの奥さんも美人なだけの浮気女で、不埒にも、他の男と不倫して駆け落ちしてたんですって! アイリスも、妻子のある貴族と不倫して、その末に逃げ出して……ホント破廉恥な女ね。さすが、あの卑しい商売女の祖母と母親だわね!」

ダレット夫人は、レオポルドをギロリと睨む。

「そんな破廉恥な女と、仲良くはしていないでしょうね、あなた」

「とんでもない! 私は最初から分かってたんだ! あの商売女は唾棄すべき犯罪者の一族だとな!」

ダレット一家による誹謗中傷はエスカレートして行った。

「そうそう、或る確かな筋によれば、ルシールの父親の正体も、本当は貴族どころか、身分詐称の卑しい犯罪者なんですって! よりによって、監獄から脱走していた腐れ外道なんですってよ。血は争えぬって事ね。ルシールったら、ギャングたちと、破廉恥なハーレムやってるし。二股どころか百股かも知れなくてよ」

アラシアは品行方正な淑女そのものの顔をして、ナプキンで口をそっと押さえた。上流貴族そのものの優雅な仕草であるが、覆い隠されていたその口元に残忍な笑みが浮かんでいた事は、疑いようも無い。

「まともな紳士は、あんな下賤な商売女は相手にせぬものだ! 分かってるだろうな、キアランも!」

ダレット一家は、最後には高笑いをしたのだった。

ライナスは、ほぼ、愛想笑いを張り付けた人形となっていた。ギクシャクと口元にナプキンを当てつつ、ボソボソと呟く。

「同じ情報でも、これ程に意味合いが変わって来るものなのか……」

物議をかもす発言であったとは言え、ウォード夫人が推測し語った内容の方が、親友として見聞きした事実に立脚している分、思慮深く、公平であったように思えて来る。

ライナスは、自分以上に気分を害しているであろうと思われる隣のマティを、恐る恐る振り返った。

マティは、不思議な程に沈黙している。

「今日は静かだね、マティ君」

「たまにはね」

マティはスープの入ったカップを空にしていった。

コックが腕によりを掛けたスープとあって美味な筈なのだが、実際は不味そうだ。

「明日の、リチャード伯父さんご臨席のディナーに招待されて、得意満面じゃねーかよ」

「……うん、まぁ、将来の……うん、めでたく大事な話も出るだろうからね」

やがて、先に食事を済ませたキアランが、立ち上がる。

「ダレット嬢……ディナーが済んだら執務室に来て下さい。内密の話があります」

「内密の話……?」

食堂を立ち去って行くキアランを見つめながら、アラシアは目をパチクリさせた。次に、可愛らしく首をコテンと傾けた。

「あらッ、まあ……何か照れるわ」

マティとライナスは、ポカンとしながら見送るばかりだった。

「あの石頭も、まともにモノを考えるようになったという訳だ! これは求婚されるな! 明日のディナーで婚約成立の公表も、きっとあるだろう!」

レオポルドは、いよいよ得意満面だ。

「リッチ公爵家にも、都の王族親戚にも報告しなくてはね……都の社交シーズンでは、婚約のお披露目とかで色々忙しくなるわよ」

ダレット夫人も目を輝かせながら、将来の計画を立て始めているのだった。

■クロフォード伯爵邸…華麗なる狂奔(後)■

マティは食後のデザートを食しつつ、フンッと鼻を鳴らしていた。

特に招待客の筆頭としてダレット一家が招待された理由には、やはり何かあるだろうとは思える。伯爵の回復祝いともなれば、そのような『一見、めでたい話である』話題にもなるだろうと言うのは、確かに予想できるのだ。

が、最初から、キアランとアラシアの結婚話が気に入らなかったマティにとっては、実に『お気に召さない展開』である。

マティは、コッソリと持ち込んでいた包みを取り出すと、大いに下心のある不穏な笑みを浮かべた。

「フンッ、細工は上々……悪魔も裸足で逃げ出す最新の大発明……スペクタクル超大作だぜ」

穏やかならぬ呟きを聞き付けたライナスは、ギョッとした顔になった。

「なッ……何を作ったんだ……新手の蛇のオモチャ!?」

「今宵が明けてからの、お楽しみさ……」

マティは、おもむろにライナスの方を振り返ると、意味深な視線を投げて見せたのだった。

ライナスは、ただならぬ迫力を見せて立ち去るマティを、身体を震わせつつ見送るばかりであった。

――このクソガキ、ハードボイルドの才能ありだぜ……

*****

当座のダレット夫妻の公認の『密会の場』となった執務室。

執事が執務室の扉を開けると、アラシアが可憐な顔をして入室して来る。

未婚の淑女の名誉を守るという貴族社会のルールに従い、執事は、執務室のドアを薄く開けたまま待機した。

先に執務室に来ていたキアランは、アラシアの前に、いきなり書類を突き付けた。

「――これは、今朝の殺人未遂の企てに関する報告書です」

ハッとして、厚みのある書類を見やるアラシア。その特徴的な暗い色をした表紙には、見覚えがあった。

「な、何よ、これ。レナード兄さまの時の書類と同じ……犯罪捜査の記録用の表紙じゃないの」

「告発者は、主たる被害者ルシール・ライト嬢です。あなたが馬車に何を工作したか、記録してある」

キアランは、いつものようにムッツリとした口調で、簡潔に事実を述べた。

「正式な客人の命のみならず、顧問弁護士や御者の命をも巻き添えにしようとした『未必の故意』と解釈され、クロフォード伯爵家は、この事態を重く見る事になります。この意味は、理解できますね」

アラシアは一瞬『理解できない』と言う顔をした後、鼻で笑い飛ばした。

「冗談よ。ちょっとした、親しみを込めたユーモアってだけよ! あの女の犯罪に比べれば、ちょっとしたイタズラ、いえ、偶発事故に過ぎないじゃない!」

キアランの眼差しが一層冷たくなる。

アラシアは一瞬ひるみながらも、再び鼻で笑う。

「こんな物で、あたくしを脅せると思ってるの? おあいにく様ね! お父様とお母様は、バラされても信じないわよ……! そう、これ程に卑劣な濡れ衣なんかね! この大事な時に!」

キアランの眼差しは、硬質さを増している。

「話の筋が通っていません」

「……じゃ無くて、あれは、あたくしじゃ無い……あの、悪魔のガキに、クソ女が……そ、そう、ライナスに脅迫されたのよ! だから、仕方無く――」

「だから?」

「このあたくしに対する陰謀よ! あたくし、伯爵夫人になるのよ! だから……!」

アラシアは殊更に目をうるませ、被害者ぶって、他人に罪をなすり付けつつ、話を大きくしていった。

「この事件は、クロフォード伯爵家をゆるがす卑劣な陰謀よ!」

アラシアは、そのロジックの不自然さに気づいていない。

キアランは無表情で、アラシアを一瞥した。

「――お似合いですよ、その髪型は」

以前のように、泣き落としが通じない。アラシアは険しく目を細め、唇を噛んだ。

――髪型の変化には最初から気付いていて、敬意を表するどころか無視していたんだわ! あんな下賤な茶ネズミ女に惑わされて……! 此処まで来ると、退屈な石頭どころか、頭には砂しか詰まっていないに違いない! 全く無能で、使えない男だわ!

「大人としての責任を問うても良いと言う証だ。ダレット嬢は明日、20歳になる。未来の伯爵夫人ともなるレディならば、一人の貴婦人として、責任を負える能力もあるでしょう」

アラシアは目を吊り上げた。

「責任ですって? 『責任』だの何だのは、卑しい平民どもにこそ課せられる物であって、生まれながらの貴族であり貴婦人であるあたくしには、全く関係が無いわ!」

アラシアは腰に手を当てて、傲然と胸を反らした。ビシッと指を突き付ける。その『邪神の聖女』そのものの凶相への激変ぶりと来たら、先程までの、涙を一杯溜めていた『あえかな美少女』は何処へ消えたのかと思う程だ。

「キアランは、あの茶ネズミに、たぶらかされているんだわ! あのアバズレの嘘八百を信じるなんて、狂ってる……! あたくしが、キアランを正気に戻してやるわよッ!」

「正気に戻す?」

キアランは、再びアラシアに視線を向けた。アラシアは、勝ち誇った様子で事実を指摘して行く。

「知ってるのよ! 宮廷に連なる上流社会の親族たちは、伯爵家の宗家筋の直系の筋たるあたくしとの結婚じゃ無いと絶対、納得しない! キアランの立場は、あたくし次第だわ! あたくしを失えば、あんたは破滅よ! 伯爵の評判も、地獄に落ちる……! 分かってる筈よ!」

キアランの目元が、ピクリと緊張した。

まさに、それこそが、ダレット夫妻から婚約話を持ち出された時に、キアランが動揺した理由だ。

キアランは法的には跡継ぎたる資格を持つものの、血統的には認められないと言う致命的な弱点があるのだ。しかし、クロフォード伯爵家の公認の直系筋の令嬢、すなわちアラシア・ダレットと結婚して嫡子を成せば、その嫡子からさかのぼる事で、この問題は解消されるのである。

そして、クロフォード直系の血族全てが既に断絶してしまっている今、条件に当てはまる『公認済みの令嬢』は、アラシア・ダレット以外には居なかった。

キアランは、ダレット夫妻の気分を損ねる事は出来ても、アラシアの気分を損ねる事だけは、絶対に出来ない。

現に、恐るべき面倒事になっていた『金と女のゴタゴタ』に巻き込まれていた時でも、キアランは、ダレット夫妻の抗議を無視してレナードを処分する事は出来ても、アラシアを連座で処分する事は出来なかった!

アラシアは、勢いに乗っていた。自分には、絶対不可侵と言っても良い程の、絶対的価値があるのだ――両親をも上回る程の。

「あの、お下劣極まるアバズレ女の口車に乗ったばかりにね! 明日になればキアランは、泣いて土下座して、あたくしの許しの手を求めてるわ! そうしたとしても、タダじゃ許さないから、覚えててよ!」

アラシアはキアランに最後通牒を突き付けて見せると、乱暴に執務室のドアを開けて飛び出して行った。

控えていた執事が、ドアが壁にぶつかる直前で押さえ、静寂を保つ。

アラシアの捨て台詞が、なおも響いて来ていた。

「あたくしが居ない間に、あの悪魔よりも悪辣なクソ女が、いろんなデタラメを吹聴してたんだわ! よくも高貴な血統を辱めてくれたわね! 絶対に、許さない! 今に見てなさい! 明日には形勢逆転しているんだから……!」

*****

夜も更けた頃。

ライナスは、いきなり部屋に侵入して来たアラシアに、叩き起こされた。

「ライナス! 今すぐ全部、荷造りして出発よ!」

「こんな夜中に?」

余りにも突然だ。ライナスは、寝ぼけ眼でボンヤリするのみだ。

「夜中だからこそ、決定的に重要なの!」

「うう……キンキン響く……」

「何か言った!?」

「い、いや……」

アラシアのキンキン声は、声量の割に、脳みそに不快に響いて来る。寝ぼけた頭には、余計にキツイ声質だ。

アラシアは、反応の鈍いライナスに苛立ち、怒髪天の勢いでベッドに飛び乗った。ハイヒールを履いたままの足で、ライナスをベッドから蹴り落とす。

「うあ!」

「今すぐ、あたくしの荷物をまとめなさい! クローゼットのドレスは、全部よ!」

ライナスは、これまで何度もダレット一家の荷造りに動員されていただけあって、アラシアの私物はすっかり承知していた。

ライナスはアラシアの部屋のクローゼットに入り、大量のドレスと宝飾品を確認して、ゲッソリとした顔になった。これを全部、変なシワや傷が出来ないように、収納しなければならないのだ。

「リドゲート卿、ダレット嬢と結婚したら苦労するんだろうな。毎日、ベッドの中でも、あのキンキン声を聞かされる事になる訳で……」

ライナスはブルッと身体を震わせ、もくもくと作業を進めた。

アラシアは贅沢なソファでくつろぎつつ、キンキン声で叫び続けている。

「グズグズするんじゃ無いわよ、このクズ男が! 早くしないと今すぐパパに言い付けるわよ。大事な婚約前の高貴なレディを傷物にしたって!」

ライナスはブツブツ言いながらも、アラシアの命令に従わざるを得ない。

「あ、そこの有り金、全部もらうわよ! 目に付く限りの金銀宝石もね!」

「その有り金、私の金なんだけどなぁ」

幸い、ライナスは手先が非常に器用な性質だった。意外に短い時間で荷造りが完成した。そして勿論、大量の荷物を引きずる事になったのは、ライナスだ。

裏口を目指すアラシアの後に付いて行きながらも、ライナスは不安を口にせざるを得ない。

「夜中に裏口から黙って出るなんて、大騒ぎになるに違いないのに」

「それが目的に決まってるわよ、この脳タリン!」

アラシアは容赦無い。車庫の前まで来ると、アラシアは再びキンキン声で命令を下した。

「さあ! 早く馬車を出して走らせて!」

「人手も無しじゃ大変なんだよ、御者や馬丁を呼んで来なくちゃ……」

ライナスもさすがに、ゲッソリとしながらも、問題点を指摘した。

アラシアは目を更に吊り上げた。

「あたくしの事を聞けないなら、パパに言って、鞭打ち百回よ!」

哀れなライナスは、ただアラシアの言う通りにする他に無かったのだった。

*****

奇妙な二人を乗せたクロフォードの快速馬車は、伯爵邸の裏口からひっそりと出て行った。

快速馬車は、その名前に相応しいスピードで、夜の冷え込みが続くクロフォード伯爵領の丘陵地帯を走り続ける。

御者を務める事になったライナスは、暖かく快適な車内でくつろいでいる筈のアラシアに対して、不平不満を大いに積み重ねて行った。

「全く畜生だよ、あの報酬の話は一体、どうなっているってんだよ。何だってまた、こんな夜中に、急にコソコソ抜け出す事になったんだ……?」

そこでライナスは、賢明にも、昼間の大広間で明かされていたショッキングな情報を思い出したのであった。

「ウォード夫人の、あの爆弾発言は絶対に荒れる。悪魔も裸足で逃げ出す程の、かの『モンスター夫人(オバハン)』と『モンスター令嬢(アバズレ)』の耳に入ったら……地獄になる前に、早めに逃げた方が良い気がする……」

ライナスは、曖昧なままであった馬車の行き先を、アシュコートに切り替えた。

「馬車の行き先については、モンスター令嬢(アバズレ)、何も言ってなかったからな。アシュコート伯爵領なら急げば丸一日だし、頑張ればレイバントンの町にも着くし……まだアシュコート伯爵が滞在していらっしゃるから、地元社交のピークも続いてる筈」

アシュコート伯爵領における春の舞踏会シーズンは既に終わってはいたが、方々の地主たちの邸宅で、小さな舞踏会や音楽会、夕食会などが続いている状態だ。例えば、クロフォード伯爵領における地元の名士カニング家の小さな舞踏会や、ローズ・パークの舞踏会や夕食会のようなものである。

ライナスは、外套を慎重に巻き付けた。

「レイバントンの町に着いたら、何とか逃げ出すんだ。モンスター令嬢(アバズレ)も楽しむ事で頭が一杯になって、男一匹、不意に居なくなっても気にしない筈さ……」

更けてゆく夜の中、目的地を定めた快速馬車は、みるみるうちにスピードを上げたのだった。

■テンプルトン町…歳月と行跡と(前)■

朝焼けが終わると、青空が広がった。爽やかな朝である。

しかし、クロフォード伯爵邸の大広間の一角で、物陰をコソコソと動き回っていたマティは、これ以上無いという程の不満顔であった。

何を企んでいるのか、コソ泥さながらに、覆面代わりのスカーフを巻いている。

余りにも挙動不審な孫に対し、遂に祖父クレイグ牧師が、声を掛けた。

「何をいつまでむくれているんだ、マティ坊主よ」

「アラシアが来ないんだ、手ぐすねで待ち構えてるってのに」

マティは衝立と垂れ幕の中からヒョッコリと顔を出し、いっちょまえにボヤいた。

思わぬところから現れた、コソ泥に変身中のマティの姿に、執事もタジタジである。

クレイグ牧師は、思いっきり顔をしかめて見せた。

「またイタズラか? アラシア嬢の機嫌を損ねると大爆発だ……やめときなさい、あの『癇癪令嬢』の件は、リチャード伯父さんが最高責任者たるクロフォード伯爵として、キチンと対応される事になっとるんだぞ」

マティは大いなる不信の表情を浮かべたまま、むくれた。

大人の事情を余り知らないマティの目には、クロフォード伯爵の無為無策は、全く筋が通らない物であると見えるのだ。

ルシールに対するダレット一家の横暴――昨夜のディナーにおける多種多様な誹謗中傷に至っては、名誉の問題と化していた――に関してさえ、全く動いていないのだから。

クレイグ牧師は、困った孫をどうやって説得しようかと思いあぐねながら、ふと大広間を見回した。

少し離れた場所では、若いメイドたちが執事を取り囲み、何やらヒソヒソ話をしている。

「ええ、それが、もうビックリするような大仕掛けで」

「悪魔も裸足で逃げ出す程の、スペクタクル超大作」

「あの大蛇のオモチャの魔改造バージョンっていうか」

「取り巻きの細工も、見事に手が込んでて」

執事は冷や汗ダラダラ状態で、引きつった笑みを浮かべている。

「どうしましょうかね……」

「ホントです。お化け屋敷オツというか、なんというか」

クレイグ牧師は真剣な顔になり、とうとう立ち上がった。

「よっぽど、とんでもない代物なんだろう。イタズラの仕掛けは、全部回収するんだ。しようの無い子だね……全く」

「ちぇー」

盛大な不満顔をしながらも、マティは、片付け作業を始めたのだった。

マティが仕掛けを手繰り寄せると、物陰から『こんなに数があったのか』と目を疑う程の、彩り豊かな化け物のオモチャが次々に現れた。しかも、どれもこれも相当の傑作にして芸術品である。

幾つかの小物の行列の最後に、ラスボスを想定していたのであろう、ハイドラを模したに違いないギラギラした大物が現れて来た。

大人の背を超える高さだ。近ごろ熱中していた大蛇のオモチャの研究が、元になったのに違いない。

怪奇幻想的な多頭の一つ一つが、微妙な動きからして素晴らしいまでの不気味さで、真に迫っている。

クレイグ牧師は額に手を当て、ガックリと頭を垂れるのみだ。

「全く、私の孫は、いつも変な事に才能を無駄遣いしている……」

*****

ルシールは、部屋の中で、いつものように朝を迎えていた。

やがて、ベル夫人がやって来て、昨夜のディナーの席でのアラシアの発言内容について、説明をし始めた。ダレット一家が関わる予期せぬトラブルは常に警戒の的であり、アラシアの発言の数々は、ディナーの給仕を務めていたスタッフたちによって全て記憶され、執事とベル夫人の元に上がっていたのだった。

「昨夜のディナーで、そんなことが……」

「名誉の問題の紛糾は後々まで響きますし、ダレット一家は、この点に関しては何故か優秀ですから」

「カーター氏に相談してみようと思います……」

「是非、そうなさってくださいませ」

ベル夫人が退出した後。

ルシールは少しの間、グルグルと思いを巡らせていた。

緊急で対処しなければならない問題だ――ローズ・パーク相続問題や、ディナードレス問題と同じくらい、最優先で。

(何としてでも、母の形見のブローチの贈り主……ローリン氏を、見つけなければ。見つけて、きちんと話をしなければ……)

今日は、人生で最も忙しい日になるに違いない。

ルシールは改めて、気を引き締めたのだった。

*****

(外出する前に、クレイグ牧師様とマティに挨拶を済ませておこう)

かくして大広間を訪れたルシールは、早速、開いた口が塞がらない状態になった。衝立と垂れ幕の間を続々と渡って行くのは……何度も見直してみても、魑魅魍魎の群れだ。

「お、お化け屋敷?」

首を傾げ、胸をドキドキさせながらも、色とりどりの化け物の行列の後を付いて行くルシールであった。もしかして、もしかしたら……

化け物の群れが消えて行く大広間の一角。

そこには、渋々と言った様子でイタズラの仕掛けを片付けているマティが居て、その傍には、困惑顔のクレイグ牧師が居たのだった。

見るからに、祖父と孫の、微笑ましい朝のひと時。

ルシールが思わず吹き出し笑いをすると、ソファに腰を下ろしていたクレイグ牧師がルシールに気付いて振り返り、頭に手をやって、苦笑を返して来た。

「お早うございます、クレイグ牧師様」

「今日は外出ですか?」

「ええ、テンプルトンです」

クレイグ牧師が気付いた通り、ルシールは手提げ袋に帽子を揃えており、これから外出するという格好だ。

「母のブローチを扱っていたお店が判明したので……それに、手持ちのディナードレスがありませんので、古着屋で手頃な物を探しませんと……」

「それは結構、動き回る事になりますね。大丈夫ですか?」

クレイグ牧師は、かつて代理の牧師として務めた事のあるテンプルトンの街区を思い出した様子で、心配そうな微笑みを浮かべていた。

マティが早速、得意そうに目をきらめかせながら口を出して来る。

「テンプルトンの商店街なら、オイラ、案内できるよ! テンプルトン生まれのテンプルトン育ちさ!」

ルシールは自信タップリに自分を指差すマティをしげしげと眺め、クレイグ牧師に伺いを立てた。

「あの、それでは……マティをお借りしても良いですか?」

「勿論ですよ、お嬢さん」

「いえぃ!」

マティは、ピューッと姿を消した。そして、驚く程の素早さで、帽子や上着を取って舞い戻って来たのだった。

クレイグ牧師は子供用のスカーフを整えてやりながらも、言わずもがなの注意を与える。

「しっかり、お行儀良く、お供をして来るんだよ。退屈してイタズラを始めるのは、いかんぞ」

「信用してよ、じいじッ!」

クレイグ牧師は渋面になって頭を振り振り、杖の持ち手で『コツン』と、マティの頭をつついてやるのみだった。

「お前の信用は、東洋の鼻紙よりも、もっと薄いんだ」

クレイグ牧師は様々な可能性を心配する余り、クドクドとマティを説教したのであった。

「復活祭の時、イタズラして空き家を一軒吹き飛ばしただろう、マティ……プライス判事の温情ある判決に感謝しなさい。伯父さんも笑って許してくれたがな、本来は騒乱の罪に問われるんだぞ」

――空き家を吹き飛ばした?

その余りにも奇天烈な内容に、ルシールは思わずポカンとするのみだった。

*****

マティとルシールは連れ立って、車庫へと向かった。

クレイグ牧師が心配した通り、やはりマティは手荷物の中に、何やらアヤシゲな代物をこっそりと用意していた。

「そう言えば敵は、注文のドレスを取りに、また出るって言ってたな。テンプルトンなら、町角でチャーンス、なーんて事も♪」

「今日はご機嫌ね、マティ」

ルンルン調子のマティを見て、ルシールは訳が分からないながらも、感心していた。

先日の雷雨で、まだ地面には凸凹が多い。足元に注意しつつ歩む。

やがてルシールは、心当たりある一角に目をやり、いつもの亜麻色のモフモフの姿を見かけない事に疑問を覚え、首を傾げた。

「子犬のパピィは、何処へ行ったのかしら?」

「プライス判事が取調べ中なんだ」

ルシールは目をパチクリさせた。

「カフスボタンの片割れ、食ってたらしいんだって」

「……取調べ? パピィの事、バレたって事なの?」

マティとルシールは足元の地面の凸凹をよけながらの情報交換に集中していて、いつの間にか既に車庫の前に到着していたという事に気付かなかった。

「昨日、マティが白状しました。他にも、実に興味深い話を聞きましたよ」

キアランの声が不意に降って来た。

マティが「ワッ」と飛び上がる。ルシールは思いがけない遭遇に驚き、口ごもるのみだ。

車庫の前では、キアランが御者や馬丁と共に、馬の装備を見ているところであった。

「キアラン様……あ……その、リドゲート卿」

キアランは、いつものようにムッツリとした様子で腕組みしている。しかし、気分を損ねている様子は無い。

「キアランで結構ですよ……今日の行き先は、テンプルトン?」

何で分かるのかと首を傾げたルシールに、キアランは更に語り掛けた。

「昨日、ブローチがテンプルトンの店の品だと判明しました。ルシールなら自分の足で確かめる筈だ。謎の父親の事が聞けるかも……と言う可能性もあるし」

見直してみればキアランも、シルクハットやステッキを携えている。ルシールの外出を見越して準備していたのは、明らかだ。

やがてキアランは、折を見て馬丁に呼びかけた。

「馬の装備は、問題ないか?」

「はい! これから馬車を出します」

馬丁は威勢よく答え、若い御者と一緒に車庫の扉を開け始めた。ルシールは再び首を傾げた。

「気のせいかも知れないけど、普通は装備の裏側まで目を通す必要は……」

「昨日、朝っぱらから大騒ぎだったからさ」

「……何があったの? そう言えば、ダレット嬢が馬車に付いて何か……」

「実は、すげえ破壊工作……あッ」

何かを言いかけたマティは、しかし、直前で『しまった』とでも言うように、手でサッと口を塞いだ。

「プライス判事が良いと言うまで、喋れないんだ」

「そうなの?」

車庫の扉の前では――馬丁と御者が、早速、新たな異変に気付いた。開いた覚えの無い車庫の扉が開いている。不審を覚え、車庫の中を確かめた馬丁と御者は、ギョッとして大声を出した。

「リドゲート卿! 快速馬車が、一台消えています!」

「何だと?」

「まさか、馬……!」

残りの馬丁たちが慌てて、隣の厩舎に駆け込んだ。

「――やられた! 隣の仕切りの、健脚の四頭が消えてる……!」

「馬車泥棒!? 一体、誰が……!」

にわかに持ち上がった騒動に、マティとルシールもポカンとしていた。

「アラシアじゃねーの。テンプルトン行くって、確か昨日、言ってた……」

こんな事をやらかしそうな人物を、ピッタリと言い当てたマティである。

ルシールは釈然とせぬまま、後ろにそびえる壮麗な館の、上の方のフロアを眺めた。

「彼女が外出する時は、いつも大騒ぎでしょ……今日は、まだ部屋から出てないから……彼女の筈は無いわ」

「また夜更かしで寝坊してんのかな。朝食にすら出てないし」

マティも暫くの間、盛んに首をひねっていたが、結局はルシールの意見に同意した。

キアランは暫く眉根を寄せていた。やがて溜息をつき、首を振る。

「とりあえず馬車泥棒の件、判事に届けておいてくれ」

「へえ」

御者や馬丁たちは、キアランの指示にうなづき、青くなりながらも、速やかにテンプルトン行きの馬車を仕立てた。

「また泥棒が出るとも限らないし、リドゲート卿の馬を、車の後ろに」

「昨日に続いてコレだよ、全く……そろそろ交代制で寝ずの番を立てるべきじゃ無いか?」

「門番と相談しなくちゃな」

御者と馬丁は、口々に疑惑を言い合った。

思えばダレット一家が館に居座るようになってから、奇妙な出来事が続いている。ダレット一家は気難しいくせに、妙に勘が良い。彼らの気分を損ねないように警戒するのも、気苦労の多い作業なのだった。

■テンプルトン町…歳月と行跡と(後)■

キアランとマティとルシールを乗せたクロフォードの馬車は、尋常に館を出発し、快速で走り続けた。

馬車は、あっと言う間にクロフォードの町に到達した。メインストリートを走る他の馬車をかわしながらも、役所が並ぶ通りを経由して、クロス・タウンとテンプルトンに通じる国道へと入って行く。

先日の嵐が運んで来た大量の水分は、丘の上に広がる草原を一斉に活気づかせていた。馬車の窓の外には、青空の下、まばゆいばかりに輝く緑の丘陵地帯が広がっている。

「……『F&F』の事は知らなかったので、クレイグ殿に少し聞いておきました」

キアランは馬車の中で、向かい側に並んで座っているマティとルシールに向かって、おもむろに語り出した。

「知る人ぞ知る老舗ですね。トッド家も、古くからの顧客だとか。正確には、クレイグ殿の娘の現トッド夫人が」

「ママの首飾りの古いのが、『F&F』だ!」

マティは目をパチクリさせていた。

「一番古い首飾りは、じいじと伯父さん二人から誕生日にもらった物だって……『F&F』って、暗号かなと思ってたよ」

「伯父さん二人?」

「ママの従兄弟だよ……その後で先代伯爵と今の伯爵になってる」

――すっかり忘れてたわ。

ルシールは改めて、マティ・トッドがクロフォード伯爵家の親族――即ち、地元における名家中の名家の御曹司だと言う事実を、しっかりと胸に刻んだのだった。

マティが、その身分の割に普通の少年に見えるのは、おそらく、マティ自身の人徳(?)の故なのに違いない。

暫く戸惑っていたルシールは、やがてキアランの視線に気付き、ふと面(おもて)を上げた。

先刻から、キアランはずっとルシールの事を注目していた様子だ。

ルシールは不意に顔を赤らめ、顔を伏せて口ごもりながらも、呟いた。

「昨日……じゃ無くて、一昨日は……、色々誤解を申し上げて済みません」

「――誤解?」

キアランは瞬きした。

注意を向けていると、自然にそのような表情になるのであろう、黒く鋭利な刃物を思わせる強い眼差しは、最初の頃と変わらない。しかし、キアランの性質について、以前よりはずっと理解できるようになっていたルシールは、今は、余り恐怖は感じなかった。

それでも、モジモジと目を伏せ、ボソボソと呟くルシールである。

「ダレット家の事情とか……、グレンヴィル夫妻の事とか……」

キアランは無言で、ルシールをじっと見ていた……やがて、口を開く。

「後日、改めて説明する予定でしたが。誰かから聞いて、事情は了解した……と言う事ですか?」

「その……ベル夫人に、色々と……」

「――成る程」

そう呟くと、キアランは暫し沈黙した。思案顔で馬車窓の外に目をやる。

暫し沈黙が続いた。

キアランは再びルシールを見つめ……かすかに笑みを浮かべた。

「――あの申し出はまだ有効ですから、検討して頂ければ幸いです」

ルシールは思わず返事に詰まり、真っ赤になって在らぬ方に顔を背けてしまった。

*****

居たたまれないと言うよりは――喉の奥に大きな物がつかえたような気持ちの方が大きい。

昨夜のディナーの前、大広間で、アラシアにそそのかされたダレット夫妻と、一触即発の事態になった時。

そこに入ったキアランのガードと、その後に贈られた敬意の口づけの意味に、気付かなかった訳では無い。

だが、ときめきを感じる反面――『名誉の問題の紛糾』に直結するアラシアの発言内容を思い返すにつけ、『本当の答え』を聞いたら終わりだと言う、矛盾した恐れがある。

アラシアの発言内容に同意するつもりは無いが、今のルシールには、『レオポルドの私生児かも知れない』というゴシップ爆弾の他には、社会的な名誉や価値になるような物は、何も無いのだ。ダレット一家の影響力は、見える以上に大きい物の筈だ。まかり間違えば、キアランの方が、クロフォード伯爵家の後継者の座から弾かれてしまうのでは無いか。

キアランが、レオポルドのように女性を弄ぶような人物では無いという事は承知はしているものの、ルシールには、もう一歩踏み出せるような余裕は、全く残っていなかった。

頭の中がグルグルして、肝心な事について聞きたいけれど聞けない……

(ベル夫人の話を考えてみると、リドゲート卿はレオポルド殿に対して、一言では言い尽くせぬ複雑なモヤモヤを抱いている筈。確率的に、私がレオポルド殿の非公認の娘という事は有り得るけれど、それでも――?)

*****

マティは不思議そうな顔をして、しげしげとルシールを眺めていた。マティの目から見ると、ルシールの反応は迷走しているように見えるのだ。

そして、何も知らないマティは、ズバリと要点を聞いたのだった。

「申し出って、何の話?」

ルシールは真っ赤になったまま、口をつぐむのみ。

キアランは、背もたれに背を預け、くつろいだ格好になった。

「いつか聞こうと思っていたんだが。マティは、何処でルシールの目がアメジストだと分かったんだ?」

「ルシールが来た次の日に、パピィを取りに行っててさ」

得意そうに目をきらめかせるマティである。

「あの部屋のバルコニー?」

「あの日ってば、夜中ずっと嵐だったんだぜ。夕方の遅い頃に馬車がやって来て、ルシールが降りて来るのは見たけど、あの部屋だとは思わなかったんで、おッたまげたぜ。考えてみりゃ、ダレット家は西翼に居たんだから、納得だけどさ」

「確かに西翼はダレット家の占有だったが」

「あの部屋のバルコニーは東向きなんだ……朝の光が、浅い角度で入る」

「……成る程」

キアランは感心した。部屋割りにおける必然の結果だったとは言え、実に驚くべき偶然だ。

「後で、大広間で茶色の目を見た時は、ホント目を疑ったよ」

「それは分かる」

マティの感慨深げなコメントに、キアランも同意してうなづいたのだった。

*****

談笑しているうちに、馬車はいつの間にかテンプルトン中央のロータリーに到着していた。

「到着ですよ、最初は古着屋ですよね!」

若い御者の確認に、キアランは何を思ったか、別の場所を指定した。

「角の『ローズ・テイラーズ』へ回してくれ」

「了解です」

御者は了解し、馬車を速やかに角の方向へ向けた。

『ローズ・テイラーズ』はメインストリートの角にある。ダレット一家も毎回ショッピングに立ち寄る、高級仕立て屋の店である。立派な店構えを誇る店舗だ。

中に入ってみると、首都圏の最新流行を取り入れた、数々のファッショナブルなドレスを着たトルソーが並んでいる。シルクやベルベット、様々なプリントが施された高級モスリンといった高価な布地も、ズラリと陳列されていた。

客層は、地元の名士クラスの紳士淑女がほとんどだ。ド・ラ・リッチ家のように、クロフォード伯爵領に居を定めている大貴族の係累といった顧客も、チラホラと来ている模様だ。

ルシールは目を丸くした。腰も引けている。

「新品のドレスの予算は無いわ!」

「館に戻る時に説明しますが、あなたはアラシアを追及し告発する事になっているんですよ」

キアランは、ルシールの慎ましい抗議には、取り合わなかった。

ルシールは初来客であった。早くも女性従業員に囲まれ、採寸室へと連行され、身体のサイズが取られてゆく。

マティは顔見知りの従業員に注文し始めた。

「ディナードレスは超特急で……支払いは、こちらが持つから」

マティと顔見知りの男性従業員が布地を選びつつ、にこやかな営業スマイルで、マティに語り掛ける。

「珍しいですな、ダレット嬢の注文じゃ無いなんて。お急ぎなら、こちらのモデルは如何でしょう」

とにもかくにも注文が済み、『ローズ・テイラーズ』を出る三人連れである。

「ディナードレスは仕上がり次第、館に配達するってさ! アラシアの目をごまかせるよう、オイラの名前で」

マティは、ダレット一家の性格を良く心得ている従業員と打ち合わせた内容を、細かく解説した。

ルシールはルシールで、注文書の写しの内容に呆然としていた。いつの間にか、ディナードレス以外にも服の注文が増えている。

「お出掛け服の注文は、一体……夏物の服って……?」

「ローズ・パーク庭園の視察の時に如何ですか。上京する時にも使える筈ですが」

キアランは、ルシールには意図の良く分からない回答を、あっさりと寄越して来たのだった。

*****

三人は再び馬車に乗り込むと、中央街区の別の通りに入って行った。

次に馬車が入ったのは、老舗が集まる古い通りだ。やがて馬車は、中規模ほどの宝飾品店の前で停車する。

通りに面した鉄格子付きガラス窓を透かして、様々な宝飾細工を施された品々が陳列されているのが窺える。指輪や首飾りと言った定番商品は勿論、宝冠や表彰盾などと言った記念商品も揃っている。品揃えは豊富だ。

マティが早速、解説を加えた。

「この辺は、中期の大抗争の被害を受けた街区でさ……修復・改装の工事したって話だから、以前の面影とかは無さそうだけど」

馬車から降り立ったルシールは、様々な感慨を込めて看板を見上げた。

改装工事の後が窺える現代的な店構えに、『ロイヤル・ストーン』と書かれた看板が掛かっている。

老舗ならではの往年の面影は、基礎ブロック部分に、わずかに残るのみ。

かつては――間違い無く25年前の頃は、此処の看板には、『フィン&フィオナ』と言う店名が書かれていた筈である。

(改装する程の被害を受けたと言われているけれど、記録とか、残っているのかしら?)

来客の様子を眺めてみると、商人から貴族まで幅広い顧客層を持っている事が窺える。

キアラン、ルシール、マティの三人が中に入ると、従業員の一人が滑らかに出て来て一礼した。

「いらっしゃいませ……どのような品をお探しでしょうか?」

キアランが、物慣れた様子で声を掛けた。

「この店は以前、『フィン&フィオナ』と言った筈だが」

「先代の頃は、そうでした」

「その頃の品を持って来たので、見て頂きたい」

従業員は丁重に会釈した。

「――それでは、拝見いたします」

接客カウンターに陣取った従業員は、丁寧な手付きで、ルシールが持って来たアメジストのブローチを調べ始めた。

「これは良品でございますね。確かに刻印は、かつての当店の物でございます」

「誰がこの品を買ったのかは分かりますか? 青い目の紳士と言う事しか聞いていないのですが……」

ルシールの問い合わせに対応するため、従業員は一番古い記録を持ち出して一通り調べていた。だが、やがて、困惑した様子で頭を振って来た。

「残念ながら、先代が既に死亡していて詳細は分からず。顧客台帳も、合併前の物は職人ごとに分散していますから。辺りの街区を巻き込んだ抗争の影響で……」

「必要ならば、職人を個別に訪ねます」

従業員は、『それは大変な事になるだろう』と言わんばかりの表情で、首を振り振り、困惑していた。

「それは時間がかかりますでしょう、リドゲート卿。改名後は職人も都とかに異動してしまっておりまして。系列店ですし……」

ところが、そう言っている間にも、別のドアが開き、別の従業員が新たに現れた。年配の人物で、メンテナンスの為と思しき、宝飾品入りの幾つかの小箱を抱えている。

「少し相談が。この品、作風がかなりハッキリしていて……ご存知でしょうか」

「ヴィンテージ? ……これは、まさか……」

年配の従業員は、早速、三人の来客に話し掛けた。

「当店を代表するベテラン職人の、若い頃の一品に違いありません」

――25年の歳月は、駆け出しの職人をベテラン職人にする歳月でもあったのだ。

「ギネスの工房をお訪ねになってみて下さいませ。空振りでも、彼が該当する職人を知っている筈です」

「――やった!」

マティが呟いた。キアランとルシールも同じ思いである。

一歩、謎の『L氏』に近づいたのであった。

*****

ギネスの工房は、各種の工房が並ぶ町外れの中小のストリートにあると言う。そこには、よろず修理、印刷、染色などと言った、各方面の職人の町が広がっているのだ。

三人が乗った馬車は、次第にテンプルトンの町外れの街区に入って行った。

第七章「時の娘」

■テンプルトン町…薔薇の名前(前)■

ギネスの工房は、テンプルトンの町外れの中小ストリートの一角にある。

町の一番外側を巡る田舎道が、建物の向こう側を走っている。そこから先には、既に、クロフォード伯爵領の大部分を占める緑の丘陵地帯が広がっていた。

最寄りの停車場で馬車から降りた三人連れは、早速、ギネスの工房の扉に近づく。

すると、いきなり野太い声が工房の中から響いて来た。

「一見さん、お断りだ! 帰りやがれ!」

工房の主は、馬車の音、即ち来客に気付いていたのだった。

工房に更に接近した三人――マティとルシールとキアランは、工房から聞こえて来た声の主を、一斉に注目した。

声の主は、内部を仕切っているカウンターの向こう側に、背を向けて座っていた。そこには、宝飾細工のデザイン設計のためなのであろう、大きな製図台がデンと鎮座している。

工房のそこら中の壁には注文書や設計図と思しき様々な大きさの紙がピン止めされており、一見して雑然とした印象を与えている。しかし、工房の床は頻繁に掃除されているのか、なめたように綺麗だ。

いかにも頑丈そうな実用一辺倒の大きな戸棚が幾つか壁際に据え付けられており、一部の開いている引き出しの中に、様々な工具が見える。戸棚の一つは書棚として使われているようで、業務用ファイルや資料と思しき物がズラリと並んでいる。

部屋の奥の方を更に仕切るカーテンの裏には、貴重な宝飾品の類を保管するのであろう、本格的な金庫が見え隠れしていた。

――『ロイヤル・ストーン』宝飾店が誇る、トップレベルのベテラン職人・ギネス。

黒いボサボサ頭、後ろからも明らかに見て取れる盛大なヒゲ面、そして熊のような体格と雰囲気の持ち主だ。

「昔かたぎの職人さん……」

「ガミガミ・アントンみてえだ」

ルシールは絶句し、マティは感心した。キアランは無言のままであった。

このむくつけき大男の手が、あの美しく、繊細かつ緻密な宝飾細工を次々に生み出していたのである!

マティが早速、障害となっているカウンターに、身軽な動きでよじのぼった。

「レナード・カフスを作ったの、ギネスだろ? 新年社交でスッゲェ評判だったってさ! ダレットのオバハンを覚えてる?」

ギネスは図面を前に、何かしら悩んでいた様子である。ギネスは苛立たしそうに、シャツの袖をまくり上げた毛深い腕を振り回した。

「あァんだと? 人間のツラと名は忘れろ! この虚しき世間に覚えても無意味だ」

「それって哲学かい、おっさん」

カウンターの上に鎮座したマティは、明るい茶色の目をキラキラさせ、元気一杯に突っ込んだ。よほど気に障るツッコミだったらしい。遂にギネスが振り返り、目を引き剥いて怒鳴った。

「うるせえガキだな! 手が空いたら放り投げるぞ、首、洗ってろ!」

ウッカリ振り返った拍子に目に入った三人の姿――マティとルシールとキアラン――が、それなりに珍しい存在だったのか、ギネスはそのまま、訝しそうな顔になって見入って来た。

改めて正面から眺めてみると、ギネスは実にもっさりと毛深い、熊のようなヒゲ面の中年男である。ボサボサとした太くいかつい眉を寄せてはいたものの、しかし、その眼差しは、驚く程に柔らかく繊細だ。この男、強面の割に、内面に詩人を飼っているらしいと見える。

ひとまず『ギネスの注意を引く』という目的を達したマティは、生真面目な顔つきになり、大先輩の技術者に敬意を表して、速やかにカウンターから降りた。これでも、名家の御曹司としてのマナーは心得ているのである……ただし、子供バージョンである。

半身をねじって椅子の背に肩ひじを置き、ギネスはフンと鼻を鳴らした。更に野太く低い声でうなる。

「変な三人組だな、黒に茶に栗かい。五秒で説明しろ、私は忙しいんだ」

ルシールは、即座に反応した。

最初の二秒で手提げ袋から小箱を取り出す。次の一秒で小箱の蓋を開けながらギネスに迫る。同時に口を開く。

「このブローチを作ったのは、あなたでございますか?」

きっかり五秒で完了。いきなりの質問に、ギネスも一瞬、目が点になったのだった。

「ホントに五秒で説明したね……」

マティは感心しきりである。キアランも無言でルシールを眺めるのみだ。ルシールも、やる時はやるのであった。

ギネスはルシールの勢いに気を呑まれたまま、素直にアメジストのブローチを調べ始めた。繊細な宝飾細工を扱う手つきは、やはりプロと言うべきか、極めて慎重だ。

流麗なラインで切り取られた、バラの花の形。そのラインを彩るのは、繊細なアメジストの粒。

ギネスは相変わらず、ボサボサとした眉根を寄せて威嚇中の熊のような顔になっているものの、その眼差しには、次第に、戸惑いと驚愕の色が浮かび始めていた。

やがて、ギネスは顔を上げた。

「確かに私が注文で作ったブローチだ……26年前の二月受注、制作期間七ヶ月なり」

「すげー記憶力」

マティは、まじまじとギネスを眺めるばかりだ。ルシールはドキドキしながらも、質問を重ねた。

「誰が注文を?」

「私は納品済みの客のツラと名前を忘れちまうんだよ。頭の配線が、生まれつきイカれてる」

ギネスは顔をしかめ、仕方無さそうに自分の頭を指差して見せた。ギネスの脳みそには、記憶パターンがまだらであると言う、いささかの欠陥があったのである。

「顧客台帳がある筈です」

キアランが静かに指摘した。

ギネスは一瞬、キョトンとした顔でキアランを眺め……やがて納得の表情を見せた。

むくりと立ち上がると、まさしく熊であるかのように工房の中をのしのしと動き回り、熊が蜂の巣を探っているかのように、奥の書棚に手を突っ込み、引っ掻き回す。

「良く気付くな、黒エナメルは」

「ギネスの頭が、別仕様なだけだと思うけど」

即座に突っ込むマティなのであった。

やがてギネスは、一番古い台帳を取り出して来た。

「作品七番、九月納期。これだな、昔は納品時の確認に直筆のサインを頂いてたんだ。刻み文字の注文もあった。『愛しいアイリスへ、結婚の記念に、L』……」

事のついでのように付け加えられた説明の内容に、ルシールは一瞬、息を呑んだ。

少し震える手で台帳を受け取り、該当するサインを確かめる。マティもカウンターの上に身を乗り出し、一緒にのぞき込んで来た。

「R・ローリン……」

「家名の方のローリン! レオポルドじゃ無いんだ……!」

キアランも台帳をのぞき込み、納品書に書かれた受領サインに注目する。意外に流麗な筆跡だ。

――この筆跡は……?

キアランは目を見張り――そして、次の瞬間には、鋭く息を呑んでいた。

――まさか。

キアランは急に身を返すと、ギネスの工房を飛び出した。

「急用が出来た……確認する必要がある」

いきなりのキアランの行動に、ギネスは勿論、マティも呆気に取られていた。ギネスとマティが、慌てながらも次々に工房を飛び出し、二人で並んで、表の通りを確認する。

キアランは既に馬上の人となって、あっと言う間に遠ざかって行くところであった。

「急に何だ? 顔色、変わってたけど……」

ギネスは、呆気に取られた熊さながらに唸るのを忘れて、ポカンとして呟くのみである。

通りに出て来ていたクロフォードの馬車の若い御者が、戸惑ったように帽子に手を掛けつつ、ギネスの方とキアランの方に、交互に視線をやった。

「クロフォードの町に行って来るとか、何とか。一時間も経たずに、戻って来られるんじゃ無いかと思いますが」

暫く外を窺っていたマティは、やがて、工房の中に残っているルシールの方を、クルリと振り返った。

「どうする? ルシール……新聞に尋ね人の広告を出す?」

しかし、ルシールは、心ここにあらずだった。台帳に記されたサインを、ボンヤリと眺めているばかりだ。

「……何だか訳が分からない……正式に結婚した筈なのよ。母は何故、『アイリス・ローリン夫人』じゃ無かったの? 何故、『ライト』名のままだったの?」

口では疑問形を重ねてはいたが、次第に、ルシールの心の中に、黒いシミのようなものが――確信を伴う絶望感が、広がっていった。

*****

思い出されるのは、昨日の大広間で飛び出して来た、ウォード夫人の言及だ。

――レオポルドこそが実の父親だと言う、恐るべき可能性。

そして同時に、レオポルドが否認するように、アラシアが主張するように、『レオポルド以外の胡乱な誰か』という可能性も、恐ろしい事に――半分は、確実らしい。

プレイボーイ貴族が、身元を隠すための偽名を使って、平民クラスの若い娘を弄ぶ事は昔から良く聞く話だ。そして大抵の場合、男性側は、その騙し討ちも同然の手法と手際の良さを称賛されるが、女性側は、誰からも祝福される事の無い妊娠と言う結果と共に、全てを失ってしまう。

恋に恋している間は、まだ幸いだ。だが、憧れと現実は、違う。

恋愛が終わる、その時。

結婚が成立しているか否かは、博打である。

とりわけ貴族社会に接触するとなると、賭けに失敗した場合、男性側はエロスと言う名の憧れを終わらせるだけで済むが、女性側は、一生続く社会的立場の低下と、名誉失墜のリスクを負わねばならないのだ。

現在、クロフォード直系の第一の血族として名誉を得ているレオポルド。ダレット夫人となったレディ・カミラは、まさに勝者だ。敗者となり、『ふしだらな女』と言う評価に付いて回る諸々を恐れて、地元を逃げ出すしか無かったのであろうアイリス。

貴族社会と言う『現実』が決定する、その格差は――途方も無く、大きい。

――庭師として、植物が成長していく長い時間を考える事の多かった母が、男性の一時的な美貌や財布の中身に、目がくらむような女性だったとは、とても思えないけれども。

それでも、若い頃のレオポルドには。或いは『レオポルドでは無い胡乱な誰か』には。

――それ程の、何かがあったのだろうか。

一生の愛を捧げ、人生を投げ打っても良いと思う程の何かが。

実際、アシュコートでは再婚の話も無かった訳では無いが、アイリスは一生涯、独身を通していたのだ。

*****

マティはルシールの顔色の悪さを見て取っていたが、まだまだ子供という事もあって何も言う事が思いつかず、困ったような顔で、ルシールの周りをソワソワと歩き回っていた。

表に出ていたギネスは、工房の入り口から、マティとルシールの様子をそっと窺っていた。いかついボサボサ眉をしかめ、物騒なまでに不機嫌な熊のような顔になっている。

やがて、ギネスは控えめにフンと鼻を鳴らし、近づいて来たクロフォードの馬車の若い御者に、声を掛けた。

「聞いてみりゃ、深刻らしいな」

「相続問題に名誉の問題も紛糾しまして……父親を突き止めて、母親の名誉を証明しないといけないそうなんですよ」

御者は困惑した様子でうなづきながらも、分かる限りの事情を説明したのであった。

■テンプルトン町…薔薇の名前(後)■

折り良く、ギネスの工房にやって来る人があった。

ギネスの工房の隣にある店舗から、チョコチョコと出て来た人物だった。見てみると、ぽっちゃりとした小柄な老婦人である。頭は白髪で真っ白だ。老婦人は、地味ではあるが清潔な服装に身を包み、手には重そうなヤカンを持っていた。

「お茶持って来ましたよ、ギネスさん。あらま……お客さんですか?」

ギネスは、チョコチョコとやって来た小柄な老婦人を振り返ると、工房の中を指し示して見せた。

「私の駆け出しの頃の作品を持って訪ねて来たんだ。20年以上も前のヤツだが、状態良好でな……ムゲにする訳にもいかんし」

「まあまあ……、それじゃ、作者冥利に尽きますね」

ぽっちゃりとした小柄な老婦人は、にこやかに微笑んで理解を見せ、何度もうなづいていた。

ギネスは老婦人と若い御者を工房の中に招くと、マティとルシールにも声を掛ける。

「隣のばあさんのお茶は美味いぞ、ちょっと飲んでけ」

「まッ、可愛い坊ちゃま! お菓子もあるのよ」

ぽっちゃりとした小柄な老婦人は、サッと振り返ったマティを認め、楽しそうに笑い掛けた。そしてルシールを見て目をパチクリさせ、今度は感心し始めたのであった。

「まあ、綺麗な娘さんねえ」

「お手伝い致します」

ルシールは何とか気を取り直すと、薄く微笑んで一礼し、老婦人が持っている重そうなヤカンに手を伸ばした。

真昼に程近い、まばゆい陽射しが工房の中まで差し込んでいる……

老婦人は、ルシールを見直し、そして再び見直した。

ヤカンを受け渡した拍子に、ルシールの前髪が分かれている。

光が入ったルシールの目は……美しいアメジスト色。

「アイリス様……」

老婦人は呆然としたように呟き、気を失ってゆっくりと後方へ倒れて行った。

ギネスと御者がギョッとした顔になり、シュバッと飛んで行く。

「こんな所で失神するな、ばあさん!」

「何が何だか……このお婆ちゃん、一体、誰です?」

マティが老婦人の片手を捕まえ、若い御者が弾かれたように駆け寄って腕を差し伸べ、ギネスが両手を突き出して、すんでのところで老婦人を支えた。

ルシールは、熱いお湯で一杯のヤカンを持っていて動けなかった。従って、仰天しながらも手を出せずに居たのだった。

ギネスは工房の奥に駆け込むと、その辺の椅子を適当に引っ張って来た。

若い御者の手を借りて、グッタリとなった老婦人を座らせる。よっぽど驚き慌てたのか、どもりながらも、早口で説明している。

「隣の庭園道具店のメイばあさんだよ、臨時雇いの店番だ……元・家政婦だが、三ヶ月前に急に失業したとか……不景気だしな」

やがて、椅子の上で老婦人が目をパチパチさせた。

「おッ、気付いたか」

ギネスがホッとしたように、老婦人の顔をのぞき込む。

老婦人は頭を起こし、驚愕の面持ちでルシールを見ていた。

工房の奥に移動したため、ルシールの目は茶色に戻っていたが――それでも、ルシールの顔から目が離せない様子だ。

「あの……?」

「ああ……、そんなバカな……アイリス様……」

老婦人は、ルシールの声にすら驚愕した様子で、震える手で口を覆っている。

マティの頭脳は、既に素晴らしい速さで回転していた。マティは早速、身を乗り出し、推理を披露する。

「ルシール・ママ、知ってるんだね。じいじも、幽霊を見たような顔をしてたんだよ」

「お嬢さんは、一体……?」

老婦人はルシールの姿をなおも眺めながら、呆然と疑問を口にしていた。

「私はアイリス・ライトの娘です」

「おぉ……」

ぽっちゃりとした小柄な老婦人は、更なるショックを受けた様子で、再び失神したのだった。

ギネスと御者は、ポカンとするのみだ。

「ありゃ」

「こりゃ」

*****

やがて、再び老婦人が気が付いたところで、互いの事情の説明が交わされた。

ルシールは呆然として、ぽっちゃりとした小柄な老婦人を眺めるのみであった。

――元ライト家の家政婦だった、メイプル夫人――何と言う偶然……!

ギネスも御者も、マティやルシールと共にカウンターの周りでお茶を頂きつつ、驚愕の面持ちで老婦人を眺めていた。ギネスにしても、老婦人とは三ヶ月未満の付き合いでしか無く、それ程、詳しい事情を知っていた訳では無かったのだ。

「……それじゃあ、ばあさんが勤めてた家と言うのは、三ヶ月前に急に死亡したとか言う、ローズ・パークのオーナーの一人、アントン老の家だったのかい……」

ギネスの呟きに、老婦人メイプル夫人はうなづいた。

「アントン様もアイリス様も庭園道具店の常連で、よくお供したので、店主とは昔から顔見知りで……その縁で置いて頂いてたんです。店主は、トッド家の海外出張のお供で、復活祭の直後から不在なので、その間の留守も預かってて……」

ギネスは、まだら模様の記憶を整理するかのように、黒いボサボサ頭をガシガシと掻きむしった。

「愉快な噂のトッド家か? 都も回って来るとか……そろそろ、帰ってる頃だよな?」

「そう、主人のトッド夫妻はまだだけど、先行の荷物は到着済み……本当に変てこな記憶パターンがあるんですねえ」

クロフォードの馬車の若い御者が、タイミング良く合いの手を入れた。そして最後は、ギネスの不思議な脳みそに感心しているのであった。

メイプル夫人は再びルシールの方を振り返り、アイリスに良く似た面差しを長々と眺めた。

「アイリス様が、あの頃、妊娠してらしたなんて……そうと知ってみれば、色々と納得する事が……」

マティがカウンターに身を乗り出し、毎度のように的確な質問を投げた。

「謎の恋人のローリン氏について、聞いた事はある?」

「お名前だけは聞いていたけど、私は彼に会った事は無いのよ。夏の終わりの頃、九月だったかしら? 秘密結婚の話が出ていたけど……それだけで……」

メイプル夫人は戸惑ったように、頬に手を当てた。

しかし、それは重要な指摘であった。呆然とするルシールの横で、マティは目を見開きながらも、最も重要な要点を口にした。

「秘密結婚……! 二人で駆け落ちしたって事……!?」

「駆け落ちとは、ちょっと違うわね。『状況が落ち着くまで公表しない』と言うだけの事で。タイター氏の付きまといが、深刻だったし」

メイプル夫人は暫し小首を傾げていたが、やがて、ピンと来た様子で再び口を開いた。

「あの頃で唯一思い当たるのは、確か、二泊三日で……トワイライト・グリーン・ヒルに旅行してた事が……」

「ああ……そりゃ、ダグラス家の昔の地所じゃ無いですか」

御者が早くも指摘した。クロフォードの馬車の御者だけあって、クロフォード伯爵領内の地理には詳しい。

「あ……そうだ! じいじが昔、担当してたって言う教区のとこだ!」

マティが、ハッとしたように頭に手をやった。

メイプル夫人の方は、回想モードに入ったせいか、ノンビリした様子だ。

「そうなの? この辺りじゃ、観光地と言う認識だけど。同期の女友達との数ヶ月に一回くらいの、いつもの旅行だと言う話だったから、あのタイター氏もストーカーはしてなかったけど……」

そこでメイプル夫人は、ちょっと首を傾げた。

「考えてみれば、ご帰宅の時はお一人だったわ。もしかしたら、デイジー様……ウォード夫人も、口裏を合わせていたのかしら?」

ルシールは震えるような思いで、母親の最後の言葉を思い返していた。

――あの日、夕暮れの緑の丘の上で――『トワイライト・グリーン・ヒル』の上で。

――最後の謎のうわ言は、地名だったのだ……!

驚くべき新たな事実の浮上に、ルシールは、ただ呆然とするのみだった。

――まだ確証は持てないけれど、そこで結婚指輪を交わしたのでは無いか……!?

やがて、メイプル夫人は眉根を寄せ、頭の上に疑問符を浮かべ始めた。

「……でも、恋人と一緒に居たとは、とても思えないわ。アイリス様はご帰宅の時、何だか、すごく暗くて疲れた顔してらしたから……」

「すごく暗くて疲れた顔?」

ルシールは困惑しながらも、オウム返しに聞き返した。

ギネスは、客の人相を忘れているとは言え、自分が制作したブローチにまつわる人物の運命については、気になってしまう。ギネスはノッソリと口を挟んだ。

「続きの話を聞きたいのは、山々だが……新しい宝飾デザイン図面が完成していて、早く店に送らねえと……急ぎの仕事でな」

ギネスは製図台から図面を取り上げ、手際よくクルクルと巻いた。

「カフス石をイヤリングに作り直すってヤツなんだ」

「忙しいとか言ってたのは、そう言う訳でありますか」

御者も、納得した様子でうなづいている。ギネスの最初の大声は通りの端まで響いていた事もあって、御者は、それをシッカリと耳に入れていたのだ。

若い御者は、通りに出ようとするギネスを追いかけ、再び声を掛けた。

「馬車で行けば早いですよね! 今、出しますよ」

「おぉ。そりゃ助かる」

ギネスはその申し出に、有り難く乗る事にした。

*****

工房を含む中小ストリートから出る交差点の一角が幅広くなっており、そこが駐車場を兼ねている広場になっている。

「それじゃあ、メイばあさん、工房の留守番もよろしく頼むぜ」

「お安い御用でございますよ。往復20分も無いでしょ」

馬車に乗ったギネスと、通りで見送るメイプル夫人の間で、了解が交わされた。

そして、ルシールとメイプル夫人とマティの三人は、テンプルトン中央に向かって足早に駆けて行く馬車を見送った。

「――ダレットの鬼婆の注文だったんだ」

マティは、フンッと鼻を鳴らした。メイプル夫人はキョトンとしてマティ少年を振り返った。

「ダレットの鬼婆? 確かにダレット夫人は、ご大層な方らしいけど……」

「鬼婆ってのは、20歳になる娘の事さッ!」

ルシールは、曖昧な苦笑を浮かべるしか無い。

メイプル夫人も、最初の頃のルシールと同じように、『年齢からいってダレット夫人の事であろう』と思い付いていたようだ。マティは、毎度の意味深な様子でサッと振り返り、それを訂正したのだった。

■テンプルトン町…ギャング襲撃(前)■

馬の脚は早い。御者とギネスは既に『ロイヤル・ストーン』に到着していた。

従業員や職人が出入りする脇入口に直結するスペースには会議用カウンターがあり、そこで宝飾デザインの図面の受け渡しが行なわれていた。

ギネス担当の店員が、ふと思いついたという風に、ギネスに話しかける。

「そう言えば、さきほど、リドゲート卿とマティ坊ちゃまと、アメジストの淑女の三人連れ、ギネス殿の工房に来ましたか?」

「おぅ、来た。こいつが、一緒に来た御者だ」

「ケンカにならなくて良かったです。先代『フィン&フィオナ』の顧客さんが関わっているのは確かで、深い訳がありそうな淑女さんでしたし」

「深い訳がありすぎて、ビックリ・ポンだよ。続きの話があるんで、急いで戻るぜ」

「やはりギネス殿の渾身の一品でございましたか」

必要書類を受け取り、手早く用事を済ませた御者とギネスは、中央ロータリーの駐車場へと引き返して行った。

中央ロータリーの駐車場に設置された標識ポールの傍に、年配の小太りの男が居た。人待ち顔で、あちらこちらに目をやっている。

「おや? 隣の庭園道具店のオーナーだ!」

ギネスは早速、その男に気付いた。野太い大声で呼び掛けながら、のしのしと近寄る。

「奇遇だな、パーカー氏。何してるんだ?」

「あら、ギネス氏」

年配の男パーカーは、ギネスの顔を見てホッとしたような顔になった。お洒落なヒゲを持つ、やや小太りの小柄な老人だ。

「見ての通り、乗合馬車を待っているんですよ。今、トッド夫妻や他のオーナーと解散したところなんですけどね、出張帰りだから、この通り荷物が多くてねえ……」

成る程、見てみると、パーカーの周りにはトランクや運搬ボックスが相当数、積まれている。町内の乗合馬車に積み込むには、ちょっと苦しい量だ。

折り良くクロフォードの馬車を回して来た御者が、ギネスの背中越しに、パーカーに声を掛けた。

「それじゃ、こちらの馬車を使って下さいよ。帰り道は同じですし」

「おッ、世話になりますわ」

クロフォード伯爵邸の馬車だけあって、一般の乗合馬車より少し広いスペースを持っている。パーカーは帽子を取って、感謝の気持ちを表した。可愛らしい禿げ頭が現れた。

ギネスは荷物の積み込みを手伝いながらも、つい先ほどから心にあった疑問を投げた。

「パーカー氏は、アイリスって娘、知ってたのか?」

「そりゃ、勿論ですよ! 常連のお得意様でしたし」

「偏屈アントンに、娘が居たとは初耳だったぞ」

「昔の話ですからねぇ。急に蒸発して死亡したのは、25年も前の話になりますわ。ギネス氏が独立して隣に工房を構えたのは10年前でしたかねえ、後期ギャング大抗争の後の事で……」

パーカーは暫し指を折って思案し、シミジミとした顔になる。

「15年程も、すれ違いになってしまいましたねえ。アイリスってのは目の色がアイリス、つまり紫色の花と同じ色だからで。金髪に紫色の目の、綺麗なお嬢さんでしたよ」

パーカーの言葉を暫し考えていたギネスは、やがてピンと来た顔つきになった。

「……成る程……アメジストを注文したのは……そういう事だったんだな」

――紫色の、《花の影》。

アメジストによる宝飾は、アイリスの目の色に合わせて注文したに違いない――

*****

ギネスとパーカーと御者の三人を乗せたクロフォードの馬車は、早速ストリートを走り出した。

馬車の中は、ほとんどパーカーの荷物で占められ、座るところが無くなった。そのため、男三人は御者席に、若い御者を真ん中にして並んで座った。ぎゅう詰めに近い状態だ。重量が増えたため、馬車の速度も落ちている。

パーカーは暫し瞬きした後、不思議そうにギネスを眺め始めた。

「……しかし何で、そう言う話題になったんです?」

「今、私の工房にアイリスの娘が来ているんだ」

「はあ……!? アイリスさん、25年前に死亡しているんですよ!?」

「ところがどっこい、遺体の確認ミスだった。5年前まで健在だったそうだ」

訳知りな御者が、口を挟む。

「目下、娘さんの方で……ルシール嬢と云うんですけど、父親不明とか名誉の問題が紛糾してまして。それで、形見のブローチを手掛かりに、こちらに来られたという訳で」

「生き写しだとか言って、メイばあさん、二回、失神した」

「あらま。メイプル夫人が二回も失神するなんて、そんなに似てるんですか。これは是非、お会いしてみませんと」

やがて、パーカーは、ふと視線を泳がせた。

「ウォード夫妻は、もうルシール嬢と会っておられるのかな……」

*****

――クロフォード伯爵邸の最寄りの町、クロフォード・タウン。

タイター氏は、まさに、その敵地に出張っていた。

役人の目を避けて、裏通りや中小のストリートを経由しての事であるが――役所や事務所が並ぶクロフォードの町のメインストリートの一角に、タイター氏は、その太く短い足を踏み入れていたのだった。

偶然の成り行きとは言え、タイター氏は、ローズ・パーク案件に関して、クロフォード伯爵の弁護士と対立する羽目になっている。

タイター氏は、カーター氏の弁護士事務所の扉の鍵を破り始めた。

手こずりながらも、長いギャング経験ならではの素晴らしい腕前を披露し、見事、事務所の中へ押し入って行く。

「鍵をこじ開け、不法侵入だが構うもんか! フンッ!」

タイター氏は盛大に鼻を鳴らした。

「あのカーターの裏をかくには! まず情報だッ!」

実際は空き巣なのであった。タイター氏は有望な情報を求めて、ゴミ箱をあさり、書庫をあさった。

カーター氏の弁護士事務所は、良く整理整頓されている。

即座に、タイター氏は、いわくありげな封筒を発見した。

「定期便だな……なになに? ……修正報告書……在中……」

タイター氏は勝手に封筒を開封し、中身を改める。

役所の書類だけあって、文書タイトルは実に直接的なものであった。

『アイリス・ライト/25年前の馬車事故/死亡報告書の修正』

タイター氏は修正報告書を読み込み始めた。

やがて、そのつぶらな目が、カッと見開かれた。顔色が一気に変わる。

分厚い唇と、でっぷりとした両手が、激情のままに、ブルブル震え始めた。

遂に、タイター氏は怒髪天を突く有り様となった。

苛立ちの余り顔を真っ赤にして、修正報告書をメチャクチャに床に叩き付ける。紙束がバラバラになり、部屋中の床に、乱雑に撒き散らされた。

「本人確認の矛盾が解決されている! あの娘、一片の疑いも無くアイリスの子孫と立証されてる! クソ! アントンの遺言書に、『子孫』などという余計な一筆が無ければ……!」

まさしくアントン氏は、ルシールが女性である事を考慮して、その一筆を付け加えていたのであった。

法律上、普通は女性が相続人になる事は想定されておらず、『娘』という言葉は使えなかったのである。しかし、『子孫』であれば、女性も対象に含まれた。つまり、娘が将来、『子孫』たる男子を出産ないし係累の男子の養子を持つと言う確実な見込みがあれば、『子孫たる相続人の母親』という事で、時間をさかのぼって認められるのである。

ついでながら、キアランとアラシアの婚約案件の裏にも、類似の法的事情がある訳だ。

タイター氏の怒りは止まらない。怒りのままに事務所を荒らしつつ駆け回る。

「あの娘っ子、この間のローズ・パーク舞踏会で、地元の男どもに注目されてんだ! たとえば、カニング家のボンボンとかな、既に何人かはプロポーズを考え出したとか、いよいよとなったら、こっちは終わりじゃねぇか! チクショウ!」

タイター氏は、怒りのステップダンスを始めた。超メタボ体重で、事務所の床にヒビが入る。

「この調子で父親不明の問題も解決されちまうと、裁判を起こしても負けてしまうぞ! 秘密の父と確定するところのローリン=レオポルドのヤツ、王族親戚だ! 今も伯爵に次ぐ権力者! リドゲートの野郎だって、ダレットのアバズレと結婚すれば、爵位継承権を完備して、クロフォード伯爵!」

ルシールの手にローズ・パークが渡ってしまえば、レオポルドがルシールの血統上の父親として、再びローズ・パークの地主に返り咲くであろう事は、火を見るよりも明らかだ。

そうなれば、ローズ・パークは再び借金地獄に突き落とされ、その資産価値は、岩のように沈下するに違いない。

タイター氏は、怒りのステップダンスの最後の仕上げに、ダンと床を踏み付ける。

弁護士事務所の床の表面に、ひときわ大きなヒビが入り……めくれ上がった。

「顔だけのパシリ貴族に! 我が財産ローズ・パークを、奪われてなるものかよ! 有利のうちに! 決定的に決着を付けてくれる!」

タイター氏は逆上するままに、弁護士事務所の扉をぶち破らんばかりの勢いで、猛然と駆け出した。

*****

まさにその時、扉から中をのぞき込む赤毛の男の姿があった。

カーター氏を訪ねて来た若手弁護士トマス氏だ。カーター氏の弁護士事務所の扉が不用心に開いている事に気付き、不思議に思いながらも顔を突き出す。

「カーター氏? 居るんですか?」

弁護士事務所のドアが、勢いよく、ブチ破られた。

そして哀れなトマス氏は、猛然と飛び出して来たタイター氏の丸々とした身体と衝突した。

トマス氏の痩身は華麗なまでに弾き飛ばされ、反対側の廊下の壁に叩き付けられる。

叩き付けられた格好のまま、トマス氏の身体は、ズルズルと壁をズリ落ちた。

続いて、床に尻餅をついたトマス氏は、目を回しながらも、余りにも有り得ない――しかし、タイター氏の無法ぶりを考えると有り得る気もする――事態に、驚愕するのみであった。

「な……何で、タイターが出て来た……」

超メタボ体型が、建物の裏階段を、まるで転げ落ちるかのように駆け下りて行く。

トマス氏はその姿を確認し、何があるのかと首を傾げながら、手すりから身を乗り出した。

裏階段の先に広がる裏の広場で、早速、タイター氏が怒鳴りながら、太く短い腕を振り回している。

「野郎どもッ、整列ッ!」

裏の広場や、そこに直結する裏街道の方で待機していたらしきギャングの手下どもが、三々五々と言った感じで集まって来た。

激怒エネルギーのお蔭か、タイター氏は超・肥満体には有り得ない程の身軽さで高く飛び上がり、裏の広場を仕切る飾り台の上に、一ッ跳びで着地してのけた。こうすると、背丈の低すぎるタイター氏でも、手下の全員を上から目線で見下ろせるのだ。

タイター氏は、飾り台の上で傲然と短身を反らし、更なる大声で怒鳴った。

「標的ルシールは、確かクロス・タウン通っているんだな!」

「帰りの馬車は通ってないから、テンプルトンに居る筈ですぜ」

報告したのは、タイター氏の前で整列していた手下の一人だ。タイター氏の決断は早かった。

「よし! 標的をとっ捕まえる! このチャンスを逃すものか!」

裏階段の上の方で、その物騒な打ち合わせを耳にする羽目になったトマス氏は、ただ青ざめるばかりである。

タイター氏は早速、手下が引いて来た馬に乗る――

しかし、馬は、タイター氏の何らかの要素を察知するなり、タイター氏を振り落とした。

タイター氏は再び、乗馬にトライする。馬は再びタイター氏を振り落とした。そればかりか、他の馬も一緒になって、タイター氏を踏み潰そうとするか、タイター氏から逃げ回ろうとするかであった。

タイター氏の手下たちは、驚き戸惑うばかりである。

「魔女の呪いは本物らしいですぜ」

「何度試しても、馬がおかしらを振り落とすし……」

「乗馬不可になる呪いって……」

「ホントにあったんだな……」

初顔合わせとなった直談判の時に、ルシールが、馬が嫌がるハーブの粉を、タイター氏の頭にまぶしたのが原因だ。風呂で良く洗えば取れるのだが、真面目に風呂に入る習慣を持っていなかったギャングたちは、真剣に恐れ入るのみであった。

最後の手下の一人、巨大な戦斧を抱えた巨人のような大男は、無言のままだ。

馬の脚の下で無様に転げ回っていたタイター氏は、しかし、それでもめげなかった。飾り台の上に再度よじ登ると、尚更に傲然と短身を反らしたのだった。

「馬車を用意!」

早速、手下の手によって、タイター氏のための一人乗り軽装馬車が引かれて来た。

タイター氏は即座に軽装馬車に乗り込んだ。乗馬を済ませた手下たちと共に、ほとんど暴走と言って良い、交通違反そのもののスピードで、裏の広場を飛び出す。

「野郎ども、出撃ッ! 偉大なる尊大なる、このワシに続け!」

タイター氏の怒鳴り声が、建物の壁で反響しながら響いて来る。

■テンプルトン町…ギャング襲撃(後)■

裏階段の上で一部始終を目撃したトマス氏は、途方に暮れて、ただ身を震わすのみであった。

「あわわ……何という事を……!」

そこへ折り良くカーター氏が戻って来た。カーター氏はトマス氏を認め、怪訝そうな顔をする。

「トマス・ランド氏ではありませんか、タイター氏の弁護士の……」

「……!!」

トマス氏は鬼気迫る表情で振り返った。

カーター氏は不思議に思いながらも、丁重に挨拶する。

「お待たせして、大変、済みませんでした。アシュコートから届いた親展の特別速達便の受け取り署名で、留守にしていて……」

「大変です、カーター氏! さっきタイター氏が、ギャング連中を全員、引き連れて出撃……!」

カーター氏は目を見張った。急いで弁護士事務所に入る。

事務所の鍵は無残に破壊されていた。タイター氏によって中が荒らされた弁護士事務所の中は、凄まじい有り様だ。

超メタボ体重を支え切れなかった床が、ボコボコにひび割れ、歪んでいる。

部屋一杯に、新旧も内容も様々な文書が乱雑に散らばっていた。

破られたばかりの封筒と最新の文書のページを手に取り、息を呑むカーター氏。

「アイリス・ライトの修正報告書が……! 娘さんが危ない……!」

*****

カーター氏とトマス氏は、各々速やかに準備を整えると、通報のため役所に駆け込んだ。

クロフォードの町のメインストリートには、各種の事務所や役所が集結している。弁護士事務所と治安判事の役所及び裁判所も同じメインストリートにあり、ほとんど隣接していると言っても良い位置にあった。

二人の弁護士による通報を受けたプライス判事は、早速、厩舎が並ぶ役所付属の中庭に手勢を集め、指令を飛ばす。

「タイターの身柄、緊急確保だ!」

大勢の武装役人たちが一斉に駆け回り、中庭は、にわかに騒然となった。馬が用意され、捕り物のための道具が集められ、専用の快速馬車に載せられていく。

同じ中庭には、目下、『証拠品たるレナードのカフスの片方を食べた容疑』により、子犬のパピィも取調べのため身柄拘束されていた。とは言え、お腹の中のカフスが出て来るのを待つという事もあって、ほとんど放し飼いと言う状態である。

パピィに件(くだん)の容疑が掛かったのは、『パピィは光り物が好きである』、『パピィは大型ハサミに執着していた』という事実があったためだ。パピィは、過去に既にカフスの片割れを食べていて、それが気に入ったため、最近まで大型ハサミに残っていた『もう一方のカフス』にも、えらく執着したのだという推理が成り立ったのである。

パピィは、プライス判事とその部下の緊急出動に、賢くも気付いた。

お気に入りの毛布から、弾丸顔負けの勢いで飛び出したパピィは、素晴らしいスピードで駆け出した。

そして、忍者さながらの驚くべきジャンプ能力を発揮し、テンプルトンに向かって一斉に駆け出した武装騎馬隊の、最後の馬の上に飛び乗ったのであった。

*****

テンプルトンへと急ぐプライス判事が率いる武装騎馬隊と、クロフォードの町へと急ぐ騎馬姿のキアランとが行き逢ったのは、クロフォードの町の郊外の、丘の上の道であった。

キアランは、プライス判事が率いる武装騎馬隊の一団に気付き、馬を急停止させる。

武装騎馬隊には、捕り物の大道具を屋根に積んだ快速馬車も同行している。快速馬車の中に居るのは、カーター氏とトマス氏の二人であった(二人の弁護士は乗馬対応の服装では無いため、馬には乗れないのである)。

キアランは驚きながらも、確認の質問を投げた。

「プライス判事! カーター氏も……手勢を引き連れて一体、何処へ?」

「タイター氏が手下共を率いて、テンプルトンに走ったんです!」

「修正報告書を見て逆上したらしくて」

二人の弁護士と騎馬隊の幹部が、口々に事情を説明する。

カーター氏は窓を下げた馬車から身を乗り出し、キアランに更に声を掛けた。

「ルシール嬢を襲うようです。彼女は今、テンプルトンなんですか?」

「……しまった……!」

キアランは鋭く息を呑んだ。

――まさか、このわずかな時間に、タイターが行動を起こすとは。ルシールの護衛は、御者だけだ!

*****

プライス判事の一団はクロス・タウンに迫って行った。

既にクロス・タウンの運河や倉庫街が視界に入って来ている。クロス・タウンとテンプルトンは隣り合った町であり、クロス・タウン即ちテンプルトンと言っても良い距離にある。

そして次の瞬間――クロス・タウンから今まさに出て来たという風の、一頭立ての怪しげな小型馬車が、軽快なスピードでやって来るのが見えて来た。

早速、先頭の騎馬隊が不審な小型馬車の正体に気付き、声を上げる。

「前方注意! ナイジェルの馬車、接近中!」

「タイターの甥じゃ無いか……妨害か!?」

プライス判事も、灰緑の目を険しく細めた。

今は、全てが怪しい。全方位警戒だ。

先頭の騎馬隊は素早く臨戦態勢を取り、御者席のナイジェルに呼ばわった。

「止まれ! 検問だ!」

ナイジェルは騎馬隊の一団にプライス判事の姿を認めるなり、得意そうな様子で声を掛けた。

「おおーい! 良いところで会いましたな……プライス判事さまに、一報入れるところだったんですよ! 叔父貴の手下の連中が、ライト嬢の居場所を捜索しているところを見たもんでね……!」

次にナイジェルは、先頭の騎馬隊の制止に従って、素直に小型馬車のスピードを緩めた。そして騎馬隊の前で停車しながらも、ナイジェルは下心タップリの笑みを浮かべた。

御者席にはナイジェルだけ、馬車の中には誰も居ない――しかし、騎馬隊は警戒を緩めなかった。

ナイジェルは、武装役人の面々から放たれる警戒の眼差しに、気付かない様子である。骨折して包帯をぐるぐる巻きにされた片脚を得意そうに見せびらかしながらも、ナイジェルは言葉を続けた。

「私は骨折中にも関わらず、努力して通報した功労者! ローズ・パーク問題で、タイター叔父貴と私との裁判になってしまった場合に、相続権の優先順位に関して、判事さまの口添えを頂きたいんですよ……良いでしょ? へへッ」

プライス判事は厳しい表情を浮かべ、素っ気無く返した。

「貴殿も信用ならんのだぞ、ナイジェル氏」

そしてプライス判事は、サッと手を振り上げるが早いか、次の命令を下したのだった。

「コナー! そのまま、ナイジェルを馬車に拘束、かつ護送だ! 参考人を一歩も外に出すなよ!」

ナイジェルが驚き慌てる間も無く、コナーを代表とする部下たちの一団は、一斉に御者席のナイジェルに飛び掛かった。その身柄を、本人が乗って来た小型馬車の中に押し込める。

部下たちは捕り物用の大道具の中から鎖を選ぶと、ナイジェルを閉じ込めた馬車を手際よく封印していった。間に合わせの移動型牢屋だ。重く頑丈な鎖だけに、逃げる事も困難だ。

我が身に起きた事態をようやく理解したのか、ナイジェルは驚き慌てた様子で、牢屋のように馬車の窓を塞いだ鎖の列を揺さぶり始めた。

「どういう事です、プライス判事ッ!」

「参考人は! 当分、我々の監視下だ!」

「そんなバカな!」

哀れっぽく喚くナイジェルに構わず、再びテンプルトンに急行する騎馬隊であった。

*****

テンプルトンの中小ストリートに差し掛かる交差点。

ギネスとパーカー、御者――男三人が乗ったクロフォードの馬車が、中小ストリートに分岐する角に到達した。

まさにその時、不意に、斜め後ろの方から、騒音が近づいて来た。蹄鉄の音と車輪の音だ。

ギネスが振り返った。

暴走族と見える人馬一体の一味が、猛スピードで追突せんばかりに迫って来る。一味の中に、速度違反そのものの一人乗り軽装馬車が混ざっていた。

「ぶつかる!」

クロフォードの御者は、車両同士の衝突を避けるため、慌てて馬車のスピードを緩めた。

四人から五人程と思われる馬賊の一味は、何の合図も返礼も寄越さぬままクロフォードの馬車をジグザグに追い抜き、その後、更に公園を突っ切りつつ爆走すると言う、重大な交通違反行為をやらかした。

暴走馬車の車輪に引っ掛かった屋台は、商品もろともに、次々に台無しになって行く。

悲鳴を上げながら逃げ惑う客も、売り子たちも、次々に弾き飛ばされて行った。幸いに重傷者こそ出なかったが、公園にたむろしていた人々にとっては、まさしく災難である。

目撃者となった全ての人々が、開いた口が塞がらぬと言った様子で、盛大な土埃を巻き上げて駆け去って行く馬賊を眺めるのみだ。

暫し呆然と見物する男三人――パーカーと御者とギネス――である。やがて、若い御者が呆然としたまま口を開いた。

「ありゃ何です?」

「馬賊だな。場末の何処かで、ギャング同士の果たし合いでもあるんだろうよ」

ギネスは首を振り振り、嫌そうに説明しつつ予想した。

テンプルトンの住民にとっては、町を荒らしまわる暴力団(ギャング)は、全て忌避の対象である。

パーカーもギネスの予想に同意し、溜息をついた。

「全く嫌ですねえ、ギャングってのは。三ヶ月前に老アントン氏が急に死んだのも、ギャングによる殺人ですわな」

――聞き捨てならない言及である。

御者は目を丸くして、人の良い平凡な好々爺そのもののパーカーを振り返った。ギネスも息を呑んでいる。

「今、何と言った!?」

パーカーは、いつもと変わらぬ様子で、だがしかし、更に聞き捨てならぬ重大な内容を口にした。

「メイプル夫人が、そう言ったんです。判事に話さないといけないだろうって言ってみたんですが、アントン氏もアイリス嬢も居ないでしょ。意味無いってボヤいてて……」

ギネスは、すっかり顔色を変えていた。

「あの馬賊って、行き先……まさか、我々の街区……」

ギネスは、動転と混乱の余り、口がどもっていた。御者も慌て出した。

「確かに彼ら、向こうの角に消えましたよ……そんな馬鹿な……ギャング=タイター!? 大変だ!」

果たして、御者が直感した通り、馬賊のリーダーは、ギャングたるタイター・ビリントン氏であった。

■テンプルトン町…乾坤一擲の大勝負(前)■

ギャング=タイターの一味は、早くもギネスの工房に到達した。

タイター氏は工房の前の植え込みに身を隠しながらも、手下たちに命令を下す。

「野郎どもッ! ギネスの工房を厳重に包囲! 煙幕弾を撃て」

「キャッホーイ!」

……実のところ、タイター氏には人間としての欠点が数え切れない程あるが、決断の素早さと正確さには素晴らしいものがあった。この才能ゆえに、テンプルトンの大抗争を幾度と無く切り抜けて来たと言えるのだ。

甥ナイジェルを子供の頃から引き取って、流血の続く町内で後見して来たと言う過去を見ても、単なる乱暴者と言う訳では無い。他グループとの流血を伴う対立抗争に関して、手下の生存率に配慮しているのは間違いなく、その性格は、それなりに複雑である。

手下たちが、ギャングのボスとしては小物に過ぎないタイター氏に付き従っているのも、実に、この生存率の高さを評価している故であった……

植え込みから工房に向かって投げ込まれた煙幕弾は爆発し、猛烈な煙を辺りに撒き散らした。

カウンターの傍に居たマティ、ルシール、メイプル夫人の三人は、煙幕弾の衝撃波を受けて、揃って椅子から転げ落ち、煙に巻かれて咳き込む。

「突撃! まずは標的を確保!」

タイター氏のダミ声が、とどろき渡る。

総勢、五人の手下たちは、工房入口の扉を荒々しく殴り広げ、一斉に工房内部に侵入した。

しかし、真面目にマティとルシールとメイプル夫人を蹴り飛ばしたのは赤毛のトサカ男一人だけだ。他の三人は工房の中の物に目が眩み、戸棚や箱の中を物色し始めたのであった。

「ウッヒョーッ!」

「さすが宝石屋の工房だねえ!」

「金銀お宝が、あちこちにあるぜッ!」

最後の手下の一人が、大きな戦斧を勢いよく振り上げた。戦斧の刃が、不吉なうなりを立てる。

戦斧を高速でぶん回し、しかも刃先が触れないと言う驚くべき神技が展開した。四人の手下たちは、真面目にしていたのもいなかったのも合わせて、次々に吹っ飛ばされていく。

我が物顔で戦斧を振り回していたのは、片目の、筋骨隆々の物騒な巨人だ。

身体の頑丈さに自信タップリな筈の、ガチムチとした大柄な体格の四人の手下たちは、アッと言う間にノックアウトされる羽目となった。

「バカヤロウッ! まずは、偉大なる尊大なるワシが改めてからだ!」

無慈悲にノックアウトされた手下たちに向かって、タイター氏が怒鳴りながら太く短い腕を振り回す。

手下たちは、痛む頭を抱えながらも、渋々、整列である。

「新しい用心棒は、メチャクチャ乱暴じゃ」

「軍人をも殺すプロだとよ、『片目の巨人』。あの片目のヤバイ傷痕、軍人とやった時に付いたらしいぜ」

「無敵の巨人、どうしてタイターの手下になったんだろ」

「賭場の借金返済のためだなんて、ぜってぇ、嘘だろ」

片目の巨人は、体格のみならず人相も物騒だ。片方の目玉を失っているらしく、海賊のように黒い眼帯をしている。片目を失った時に傷付いたのか、その顔面を横切る、ゾッとするような大きな傷痕があった。

何故、こんな強大な戦斧使いが此処に居るのか。それが、古参の手下たちにとっては、大いなる謎であった。

タイター氏はカウンターの上に乗る事で、ようやく巨人よりわずかに、上から目線の状態になった。毎度ながら、いびつなまでに高い、特製の金髪カツラ付きシルクハットを頭に乗せている。

タイター氏は両手で金髪のカツラをフサッとさせ、カウンターの上で威儀を正すと、もったいぶってルシールに語り掛けた。

「さて、大事な話をしようじゃ無いか」

ルシールは、片目の巨人に黒いドレスの背中部分をつかまれ、タイター氏の前に引きずられて行った。

「放せったら、この野郎!」

早速マティが巨人の肩によじ上り、巨人の髪の毛を引っ張り始めた。

ゆうに二メートルを超える巨人にとっては、マティの攻撃は、風に吹かれた程の意味合いも無い。

巨人は軽く肩を揺すり、マティのベストをつかんで、高速でぶん回した。マティのベストは瞬時に破れ、ベストが形を失った。巨人の腕の勢いのままに、マティは工房の端まで転がされてゆく。

床に叩き付けられ、その勢いで端までクルクルと転がり、壁に衝突したショックで、一瞬、息が詰まる。飛び起きたマティは、もはや原形をとどめぬベストの布を見下ろして、青ざめるばかりであった。

「無くなってる!」

「子供にまで、何て事を!」

腰を抜かして動けない状態ながらも、メイプル夫人が抗議の悲鳴を上げた。

マティは畏怖を込めて、雲を突く如き巨人を見上げた。

……一体、何なんだ……この化け物は……!?

巨人は、ルシールのドレスの背を片手で捉え、軽々と吊り下げていた。ルシールはその手を外そうとジタバタしているが、無駄な抵抗である事は傍目にも明らかだ。

タイター氏は『大事な話し合い』の前に、ギネスの工房の封鎖と、工房内部のお宝の没収を命じた。

「隠蔽工作じゃ! カーテンを全部引け! お宝を全部袋に詰めろ! グズグズするな!」

*****

ギネスの工房の中で進行していた物事と平行して、工房が入っている小さな雑居ビルは、俄然騒がしくなっていった。煙幕弾による濃い煙が、辺り一帯に、もうもうと立ち込めている。

「爆発だ!」

「火事だ!」

雑居ビルに入っている他の店舗や工房の人々が口々に叫びながら、ビルから飛び出して来る。

ビルから飛び出してみると、ギネスの工房の隣にある庭園道具店も、店番の不在を良い事に、手当たり次第に荒らされていたのが判明した。ギャングの馬車や馬の置き場所として借用されているのだ。

「ギャングの襲撃だぞ! 避難しろッ!」

通りに出た誰かが大声で叫び、雑居ビルに続いて、周辺の民家やストリートでも、パニックが広がっていった。

その時、ちょうどギネスやパーカー、若い御者が工房前に到着した。

「私の工房が!」

「私の店が!」

ギネスもパーカーも、各々、開いた口が塞がらぬと言った様子である。

一足ずれて、プライス判事とその部下たちも、連なる丘を越えて工房前のストリートに到着した。

「クソッ! 一足遅かったか!」

「至急、速やかに状況確認ッ!」

歯ぎしりして呻くプライス判事の横で、部下代表のコナーは早速、部下に指示を飛ばしている。

パーカーがアワアワしながらも駆け付け、現状を訴えた。

「お役人様! 私の理解に間違い無ければ、今、中に居るのは、店番のメイプル夫人と、マティ坊ちゃまと、ライト嬢の筈で!」

「要するに、女子供だけしか居ないって事だ」

ギネスが続く。

プライス判事はギネスの工房の状況を見て取り、切歯扼腕の思いだ。

ギネスの工房の窓や扉は閉じられていた。隠蔽工作のためであろう、窓には分厚いカーテンが引かれている。カーテンの隙間からは濃い煙が漏れ出していた。

「最悪の状況ですぞ、判事さま! ですが、やる事をやらねば」

コナーは、キビキビと、部下たちに指示を飛ばす。

「皆の者、物音を立てずに速やかに包囲ッ! 逃げ足を絶つ! ギャングたちの馬を探し出して、没収しろッ!」

その指示に応え、部下たちが早速、隣の庭園道具店に押し込み、ギャングの馬車や馬を次々に押収した。

プライス判事の部下たちがひっきりなしに行き交う中、プライス判事の部下の最後の馬が、到着した。

そこには、子犬のパピィが相乗りしていた。

賢いパピィは、人間たちに気付かれるより前に素早く馬から飛び降りると、忍者さながらに、こっそりとギネスの工房の中に忍び込んで行くのであった。

*****

宝石強盗に一区切り付いたのであろう、ギネスの工房の中から、タイター氏の大声が響き渡り始めた。

「此処に新たに作成した誓約書が用意されてある! ルシール・ライト、テーブルの上の筆を取りたまえ! ローズ・パークの! 相続権を捨てると言う誓約書じゃ!」

壁を隔てているのに、まるで同じ部屋に居るかのような大音響だ。

プライス判事たちもギョッとして、通りの植え込みの陰に更に身を潜めた。やがて部下の一人が目をパチクリさせ、呆然としながらも口を開く。

「窓ガラスが割れているから、中の会話が筒抜けだ……」

「速記しろ、会話を全て記録だ!」

どうやら、カーテンで見えなくなった事もあって、ギャングたちは失念していたらしいのである。

入口の扉を乱暴に殴って開いた時の衝撃によって、安普請に見合うクオリティだった窓ガラスが、散々に割れていたと言う事実を。

*****

タイター氏は、カウンターテーブルの上で、なおも居丈高にふんぞり返っていた。

ルシールの方は、カウンターテーブルの天板に突っ伏している形だ。巨人の手によって上半身を押さえつけられており、身動きもままならない状態である。

タイター氏はルシールをビシッと指し示し、マティとメイプル夫人に向かって、更に怒鳴り続けた。

「やい、クソガキ! ジタバタするな! 偉大なる尊大なるタイター様が、指をパチンと鳴らせば! 片目の巨人が! ルシールの首を引っこ抜くぞ!」

片目の巨人がタイター氏の声に応えるかのように、改めてルシールのドレスの背中部分をむんずとつかんだ。

片や筋骨隆々の怪物の如き巨人であり、片や小柄で華奢な娘であり、ルシールは、一息でひねり潰されても不思議では無いと納得させられる光景だ。

マティとメイプル夫人が真っ青になり、口々に抗議する中――片目の巨人は、ルシールの左腕をチョンとつまむと、事も無げにドレスの袖を引き裂いて見せた。

「ギャハハァ! この片袖のようにッ!」

タイター氏は、その片袖を、硬直したマティとメイプル夫人の前で振り回したのだった。

*****

ストリートの植え込みの陰で、一斉突入のタイミングを窺いつつスタンバイしていたプライス判事、及び、その部下も、窓ガラスの割れ目から洩れて来る一連の会話の内容に青ざめていた。

「片目の巨人?」

「全国指名手配の連続殺人犯です……怪物ですよ!」

■テンプルトン町…乾坤一擲の大勝負(中)■

ルシールは、再び巨人の手によって、カウンターテーブルの前に拘束されている状態だ。

目の前には、タイター氏の手からぶら下がった、署名待ちの文書がある。

その文書タイトルは、『ローズ・パークの相続放棄に関する誓約書』。

ルシールは筆を取らず、署名拒否の態度を続けていた。

業を煮やしたタイター氏は、カウンターテーブルから降りると、文書と筆を手下の一人に預け、頑として言う事を聞かないルシールの頭を揺さぶり始める。

「何度も同じ事言わせるんじゃねえぞ、小娘! さすが偏屈アントンの孫だ、強情なヤツめ! 遅かれ早かれ、貴様は署名をするのだよ!」

なされるがままという状態のルシールである。

(こんな卑劣な奴らに絶対に負ける訳にはいかない……言うなりになって、ローズ・パークを諦めると言う誓約書になんか、署名してたまるか!)

ルシールは、タイター氏に頭をガクガクと揺さぶられ、目の回るような思いだ。

きちんと結ったアップスタイルの髪がもつれ、ほどけてゆく。一房の髪がほどけた拍子にタイター氏の手が滑り、ルシールの顔が勢いよくカウンターの天板に打ち付けられた。ルシールの口の中が切れて血がにじみ出し、鼻血が溢れた。

頭を打ち付けたショックで、ルシールがグッタリとした状態になると、タイター氏は一旦、手を止めた。

「チッ、気絶されると、法的に有効な本人署名が取れないからな」

タイター氏は観客たるマティとメイプル夫人の方に向かって身を返し、気障な仕草で腕を広げた。

「偉大なる尊大なるタイター様は、常に勝利するのだよ! ワシこそが、ローズ・パークの正当なオーナー! ワシこそが、かの極悪非道な借金魔王レオポルド一族の魔手からローズ・パークを守護する至高の大天使、正義の救世主なのだ! 金! 女! 権力! ハーハハハハッ!」

明らかに、勝利を確信した故の演説だ。

高笑いし続けるタイター氏に、遂にメイプル夫人が抗議した。

「タイター! お前は……! アントン様を殺しただけじゃ、飽き足らないと言う訳なの!」

――聞き捨てならぬ証言だ。

マティがサッとメイプル夫人の方を振り返った。ルシールもハッとして、メイプル夫人の言葉に耳をそばだてる。

「タイターがアントン様を突き飛ばして、殺したのよ! お金の無心から始まった口論の末に……」

メイプル夫人は、すっかり青ざめてワナワナと震えながらも、指先をタイター氏に向かって突き付けた。

「お医者様を呼んでいる間に、タイターは逃げたのよ! 靴跡から何から、全部消して……」

タイター氏は足を乱暴に踏み鳴らして、怒りのピョンピョン・ステップダンスだ。工房の床がガンガンと音を立てて歪み、派手なヒビが入ってゆく。

「あれは事故死で処理されてる! 実際に、打ち所が悪かっただけさ!」

実際のところ、タイター氏も本当にアントン氏を殺害するつもりは無かったのである。勢いで手が滑ってしまい、アントン氏に死ぬ程の衝撃を加えてしまっただけなのだ。

「しかし、まあ……タイミング良く死なれたもんで、ラッキーだぜ! 証拠の隠滅はするものだ! ギャハハハハ!」

タイター氏は、仕上げに『ダダン』と足を踏み鳴らして、ステップダンスを終了した。

その奇妙に歪んだオムスビ顔には、邪悪な笑みが浮かんでいたのだった。

*****

その内容は、割れた窓ガラスを通じて、プライス判事たちの方へも筒抜けであった。

「判事さま! これは重要な供述ですぞ!」

「分かっとる! 速記を続けろ」

*****

タイター氏は再びカウンターの上によじ登り、再び傲然と短身を反らした。

ルシールがポカンとしている間に、タイター氏はメイプル夫人を指差し、新たな命令を下す。

「このババアを、戸棚の中にでも閉じ込めろッ!」

「へい、親分!」

早速、赤毛のトサカ男が、メイプル夫人を戸棚の中に閉じ込め、カギを掛けた。

「窒息死するじゃねえか!」

「うっひょひょ、カギは此処じゃ、取ってみな〜、うっひょひょひょお!」

プロレスラー並みの大男と10歳にもならぬ子供とでは、体格差が余りにもあり過ぎる。マティは、赤毛のトサカ男の思うままに振り回されるのみだ。

ルシールも動こうとはしたのだが、目の前に巨人の戦斧の刃を突き付けられ、恐怖に身を強張らせる羽目になっていた。

ほぼ同時に、煙幕を突いて、パピィが工房の内部に入り込んで来た。パピィは、カギを追って走り回るマティの背中が接近した瞬間を逃さず、高く飛び上がり、マティの背中に飛び付いた。

馴染みのある『モフッ』とした感覚に、一瞬マティは息を呑み、急停止する。

――パピィじゃねえか! プライス判事が取調べ中の筈の!

マティの脳みそは、超高速で回転した。

――プライス判事たちが、近くに来ている! となれば、判事たちが突入できるチャンスを作らなければ!

パピィは賢くも再び物陰に身を隠し、マティはタイター氏に向き直った。

「やい、タイター!」

「何だ、クソガキ!」

マティは自分の手荷物を高く掲げると、いっちょまえに脅迫を始めた。

「オイラ、爆弾持ってんぞ! そいつが爆発すれば、全員がお陀仏だぜ!」

「ウソコケッ! ガキが、そんな代物持ってる筈が無い!」

タイター氏は顔色を変えながらも、怒鳴り返した。

しかし、タイター氏の手下――ガラの悪い闘犬によく似ている二人――が、揃って慌てたようにマティを指差し、口々に喚き始める。

「おかしらッ! コイツは只のガキじゃねえ!」

「トッド家の神童、マティですぜ! 花火を魔改造して、アジトのロッジを吹き飛ばした!」

「何いッ!」

カウンターテーブルの上で、タイター氏は一気に青ざめた。

マティが袋の中から謎の小箱を取り出すと、マティを取り押さえるべく後ろに回っていた二人の手下が――赤毛のトサカ男と丸刈り狼男が――、二人とも目を引き剥いて、飛び上がる。

「たッ、確かに袋の中から妙な箱が!」

「魔改造爆弾!」

しかし、そんな事で怯む片目の巨人では無かった。

片目の巨人は、戦斧を振り回した。

カウンターテーブルの半分が、大音響と共に粉砕される。

恐るべき重量を持つ戦斧が、パレード用のバトンでもあるかのように、超高速で大回転した。

高速回転する戦斧の、ただし刃では無い部分に打たれ、ガチムチとした大柄な手下二人が――トサカ男と丸刈り狼男が――もろともに、スペースの端まで吹き飛んだ。

吹っ飛ばされた手下たちの身体の下で、そこに置かれていた椅子が粉々になった。

想像を超える怪力ぶり、凄まじいお仕置きぶりだ――マティは、腰を抜かして座り込んだ。

ルシールにしても、言わずもがなである。

目の前で、一瞬にして頑丈なカウンターテーブルの半分が粉々になるのを目撃する――という経験など、一生に一度もある物では無い。

巨人の手による拘束は解けた状態だが、ルシールは恐怖に目を見開いたまま、マティの方を振り返る事しか出来なかった。

マティの後ろでは、お仕置きされて吹き飛ばされた手下の二人が、半ば失神して転がっている。

「その度胸は褒めてやる」

片目の巨人は、不気味な称賛を述べつつ、マティの前に立ちはだかった。

片手に、謎の小箱をつかんで見せる。マティは呆然としつつ、奪われてしまったチャンスを眺めるのみだ。

片目の巨人は、容赦の無い男ながらも、大の男に劣らぬ少年マティの機転ぶりに感心している様子だ。

「トッド家の神童が、復活祭の気晴らしに爆弾を作って、空き家を丸々吹っ飛ばした……実話らしいな」

ガラの悪い闘犬に似ている二人の手下が、顔を引きつらせながらも、口々に解説を加えた。

「あのカーティスのお喋りオバハンが宣伝しまくるから、界隈の伝説ですぜ」

「トッド家の神童は、目下、大破壊の罪で、お尋ね者って話だ」

マティはムッとしながらも素早く立ち直り、反論を始めた。

「そりゃ誤解だぜ! 『ツクモガミ』に出て来る打ち上げ花火を再現しただけじゃん! 第一、あの空きコテージはトッド家の持ち物で、解体前の空き家なら誰も居ないから……」

マティは不意にギョッとし、タイター氏の方に目を向けた。

「って……てめえ! 『アジトのロッジ』って! うちのコテージに、不法侵入していたのかよッ!」

「それがどうした!」

タイター氏は、激怒の余り、顔を真っ赤にしている。

異様に高いシルクハットを乱暴に外して見せると、果たして見事な禿げ頭が出現した。タイター氏の腕の動きに合わせて、シルクハットに取り付けられた金髪が、天使の如くフサッフサッとなびき輝く。

「ワシのこの禿げ頭、どうしてくれる! あの大爆発で死に掛けたぞ! 復活祭の祝福で、不死身の復活を遂げたがな……! 美しいフッサフサ・ウェーブを無残に燃やしやがったな! 我が自慢の髪を!」

マティは実に独創的なコメントを返した。

「自業自得だぜ、クラーケン・劣化コピー・イカタコ!」

「こ……このッ、超・生意気なクソガキ!」

タイター氏は、もはや、茹でダコさながらに、頭から湯気が出ている状態である。怒りの余りか、気の利いた返しも思い浮かばぬ様子で、使い古された悪口雑言を言い返すのみであった。

*****

ストリートの植え込みの陰では、プライス判事の部下たちが、工房の中で新たに展開したらしい物事に浮き足立っていた。

「あの凄まじい破裂音は何だ?」

「一応…、人質は無事らしいが」

「マティ坊ちゃまが元気に、ギャングの気分を逆撫でしてるからな」

「やっぱり大物だ、マティ坊ちゃま……」

プライス判事と共に待機していたキアランは、ますます眼差しを険しくしていた。傍に控えていたカーター氏も、唖然として状況の推移を見守るのみだ。

部下代表のコナーは、口の端を引きつらせて、プライス判事を見やった。

「余罪も成立しましたね。トッド家のコテージへの不法侵入」

「最近、タイターが禿げ頭だったのは、そう言う訳か……」

プライス判事は、この時にも関わらず痛み始めた頭を押さえている。

判事の部下たちの後ろでは、ギネスとパーカーが、アワアワしながらも対決の行方を見守っていた。

その更に後ろでは、馬車に拘束されているナイジェルが、「叔父貴……」と呟いている。馬車脇に控えていた弁護士トマス氏も、「タイター様……」と呟いていた。

ナイジェルとトマス氏は、二人とも、この場においても相変わらず積み重なるタイター氏の余罪ぶりに、さすがに呆れ返っていたのだった。

■テンプルトン町…乾坤一擲の大勝負(後)■

激怒の止まらぬタイター氏は、マティの『謎の小箱』をガッチリと抱え、マティを指差した。

「おいッ、片目の怪物!」

片目の巨人は、タイター氏の意図を正確に察知した。不気味な片目が、マティを捉える。

マティは、恐るべき危機を悟ってギョッとした顔になり、一歩、後ずさった。

「このクソガキの首をかっ切れッ! 悲鳴が長続きするように、ジワジワと!」

タイター氏は遂に、その暴力性を爆発させたのであった。片目の巨人は手際良くマティを捕まえると、悲鳴を上げて暴れるマティを、ルシールの隣に持って来た。

「うわああぁぁ! 何すんだよ!」

半分だけ辛うじて残っている、カウンターテーブルの天板の上。

もがき続けているマティの上半身が、巨人の手によって、うつ伏せに押さえ付けられた。カウンターテーブルにしがみついていたルシールは、信じられない思いで、目の前の光景を呆然と見守るばかりであった。

ルシールが呆然としている間にも。

片目の巨人は、うつ伏せになったマティの首に、ゆっくりと巨大な戦斧の刃を当てた。ゾッとするような巨大な刃が、マティの小さな首に触れ、その薄皮一枚を刻み、ジワジワと沈み込んでゆく。

ルシールは極限まで青ざめた。

無我夢中で、天板の上にふんぞり返っているタイター氏の足首に取りすがる。

「待って下さい、署名します!」

それこそが、まさにタイター氏の望む瞬間であった。

「では待ってやる、早く署名しろ!」

マティの首筋に沈み続けていた、巨大な戦斧の刃が止まる。

一人の手下が、タイター氏の合図に応じ、文書と羽ペンを持って来た。

ルシールの目の前に、文書が置かれた。続いて、既にインクが入っている羽ペンがセットされる。

相続放棄を宣言する誓約書だ。そこに記されていた文面は、極めて簡潔で直接的な物だった。

――『ローズ・パークの相続放棄に関する誓約書』

――『この私、アイリス・ライトが娘ルシールは、この誓約書により、ローズ・パーク庭園のオーナー権について、ライト家『子孫』の名をもって、この相続権を永久に放棄することを誓約いたします』

明らかにタイター氏の筆跡だ。大いに気取って記された物らしく、以前の脅迫状のような乱暴な文字では無い。

脅迫状の物と同様、クセの強いいびつな筆跡ではあるものの、タイター氏は、かつては確かに名家ビリントン家の御曹司だったのであり、現在はビリントン家の当主なのだという事実を、より感じさせる文字になっている。

――マティの命には、代えられない。

羽ペンを取ったルシールの手は、もはや震えていなかった。

ルシールは鼻と口元から流れる血をぬぐうと、息を詰めて、誓約書に向かう。

神聖とすら言える、ひとときの静寂が落ちた。

直接には見えていなくても、羽ペンが紙の上を滑る音をシッカリと捉えているのであろう。巨人の手によってうつ伏せに押さえ付けられているマティは、すっかり抵抗を止めており、不思議なまでに大人しい。

――『ルシール・ライト、本人署名』

署名を済ませた誓約書を、無言で差し出す。

タイター氏は気取っているのか、意外な程に丁重な手つきで、誓約書を受け取った。

「――良し! 解放しろ!」

タイター氏の命令に応じて、片目の巨人は戦斧を引き、手を放した。

そして――遂にマティは、死の淵から解放されたのであった。

タイター氏は、一度、二度、と署名入りの誓約書を確認し、得意満面で高笑いを始めた。

「ハハハッ! これで、ルシールは用済み……! 偉大なる尊大なるタイター様は、また勝利を収めた!」

そうしている間にも、マティは大急ぎでカウンターテーブルから降り、ルシールにしがみついた。マティとルシールは言葉を詰まらせたまま、お互いの無事を確かめるべく抱き合った。

一方、笑いの止まらぬタイター氏は、勝利に酔うままに、抱えていた『謎の小箱』を手前に持ち直した。

「おっと! その前に! こんなフザケた小箱が爆弾の筈が無い! ハハッ! 神童と言っても、ガキの傑作じゃ、こんな物よ!」

タイター氏が持っている、マティお手製の小箱。それは意外に簡素な小箱であり、絵本に出て来る海賊の宝箱を模したオモチャにも見える。

「裕福なトッド家、お宝の程も」

タイター氏は、その目に欲望と期待の色をみなぎらせて、『謎の小箱』のフタに手を掛けた。

箱のフタが開いた音にハッと息を呑み、信じられないと言う顔で振り返るマティ。

そして、マティの小箱は、遂に大爆発したのであった!

最初の洗礼は閃光弾である。

いきなり閃いた強烈なフラッシュと煙に取り巻かれ、タイター以下、ギャング全員が目が眩み、或いは叫び声を上げながら目を塞いだ。ルシールは、閃光弾の爆発の衝撃で、マティもろとも後ろに吹っ飛んだ。

次に来たのはビックリ箱の攻撃である。

小箱の持ち主の顔、即ち小箱をのぞき込んでいたタイター氏の顔を、バネ仕掛けの『謎の手』が捕らえた。プロレスラーの渾身の一撃に等しい程の強烈なバネの衝撃を食らい、一瞬、『謎の手』を顔面に張り付かせたまま宙に浮かぶタイター氏である。

小箱の攻撃は、なおも続いた。次に飛び出したのは、大量の煙幕弾だ。

バネ仕掛けによる連鎖爆発シリーズだ。永遠に弾け続けるかと思われる程の長々とした煙幕弾シリーズは、大量の煙を撒き散らした。狭い工房の中が瞬く間に煙で充満し、一気に暗くなる。

まさか此処まで長続きする連鎖爆発とは、全くの想定外だ。すっかり油断していたギャングたちは、有効な手段を取るチャンスを失ったまま、煙にむせ、咳き込んだ。

凶悪な小箱の攻撃は、更に続いた。

小箱の中には、なおも大量のバネ仕掛けが仕込まれていた。一つ一つのバネに丹念に取り付けられたパチンコの仕掛けが、謎の小玉を、散弾銃さながらに四方八方へと打ち出した。空中に散らばった謎の小玉は、ミニ打ち上げ花火よろしく次々に破裂し、赤や黄色やオレンジと言った極彩色の粉末を、止め処も無く撒き散らした。

極彩色の微粒子で出来た、超高速・連続打ち上げ花火のような光景は、その後も続いた。工房内部の空気が、赤、黄色、オレンジ、茶色、灰色、その他様々が入り交ざった、異様な色に染まっていく。

ギャングたちは、煙幕弾に由来する煙にむせた結果、新鮮な空気を吸おうとして、異様な色に染まった空気を大量に吸う羽目になっていた。

ギャングたちは揃って、苦痛の叫びを上げた。異様な色に染まっている空気を吸い込んだ瞬間、目、鼻、喉、あらゆる粘膜への強烈な刺激が始まったのだ。

「涙が! 鼻水が!」

「カラシの粉とトウガラシ……!」

「クシャミが止まらねえ」

ギャングたちは、涙声だか鼻声だか分からない悲惨な声で、口々に症状を訴える。そのうち、一人が賢くも叫んだ。

「カーテンを! ドアを開けろッ、外の空気を……!」

片目の巨人が目と鼻を巧みに覆いながら巨大な戦斧を振り回し、カウンターやドアを粉々に破壊して、脱出口を開いた。

*****

ほぼ全面的に破壊された工房の入り口から、ギャングたちが転げ出す。

そして、そこでは、プライス判事の手勢が厳重に包囲し、待ち構えていた。

「袋のネズミだ! 一網打尽にせよ!」

タイター氏の手下たちは、既に刺激性の涙と鼻水にまみれており、喉もヒリヒリして、満足に叫ぶ事すら出来ない。連続クシャミの方に忙しかった事もあって、大した抵抗も出来ず、次々に捕縛されて行った。

だが、ただ一人、片目の巨人は、マティの小箱の爆発に対する巧みな防衛の甲斐あって、症状は軽かった。巨大な戦斧を振り回し、武装役人を一歩も近付けない。

プライス判事の部下たちは恐れを成して、次第に遠巻きになった。

「大男に気を付けろ! あの斧はヤバイぞ!」

武装役人たちによる包囲を破りつつあった片目の巨人は、退路を断つべく第一線に出て来たキアランと、正面から対峙する形になった。

巨大な戦斧が横切った瞬間、刃の衝撃と風圧で、キアランのシルクハットが吹っ飛ぶ。

明るみに出たその人相を認めた片目の巨人は、凄まじい因縁を込めて、耳まで裂けるかと思われる不気味な笑みを浮かべた。

「グレンヴィル……!」

片目の巨人は、一撃必殺の意志を込めて、巨大な戦斧を振るった。

「死ね……!」

キアランは特製のステッキを斜めに持ち、鋭い身のこなしで巨大な刃を受け流す。

金属が衝突し、音をたてながら、こすれ合う。

一瞬のタイミングを逃さず、ステッキが方向を変えた。

ステッキは、一撃必殺の勢いで振り下ろされた巨大な刃の勢いを、そのまま斜めへと流しながら、その一瞬、刃の運動にねじれを与える。

運動のねじれの中で、巨大な質量に掛かる重力と回転運動に伴う遠心力とが合流した。

そして、戦斧がもぎ取られていった。

「……!?」

目をカッと見開く片目の巨人。余りにも有り得ぬ事態に、一瞬、呆然とする。

巨大な戦斧は今や、人の手の届かぬ空中を舞っていた。

キアランが片目の巨人の脇をすり抜けて行く。その瞬間、キアランのステッキが、目にも留まらぬスピードでうなりを上げた。

片目の巨人の動体視力は、確かにその一部分の動きを捉えていたのだが、片目の巨人――自身には、何が起こったのか分からないままだった。実際に片目の巨人が感じたのは、身体の数ヶ所を順番に襲った、説明のつかない痛みだけだ。

わずか、数瞬の後。

片目の巨人とキアランは、数歩ほど行き違った結果、お互いを背にして、位置を入れ替えていた。

呆然とする複数の目撃者の前で。

持ち主を失った巨大な戦斧が、ガランと音を立てて路上に倒れる。

片目の巨人は、まだ信じられないと言わんばかりの表情を浮かべたまま、その後を追うように、ゆっくりと倒れていく。続いて、巨体が地面に倒れ伏した証の、鈍く重い衝突音が響き渡った。

既に勝利を知っていたキアランは、実にあっさりと、残心の構えを取るのみである。

――数秒の沈黙。

目をパチクリさせるギネス。並んだパーカーも、何が起きたのか分からないと言った様子で口をポカンと開けていた。即席の移動牢屋の中のナイジェルは、ただ驚愕するのみだ。

「何なんだ? 何か一瞬で」

「え? え?」

「な、何が起きたんだ?」

「肩を斬ったと思うけど、他は分からんです」

若い御者も、余り役に立たない解説を口にするばかりだ。

プライス判事は、驚愕と安堵が入り交ざった表情で、口を引きつらせていた。

「……シンクレア家、直伝の剣術……!」

*****

なおも異様な色の空気が淀む工房の中は、ほぼ瓦礫の山と化していた。

爆発の拍子に吹っ飛んだルシールは、半分失神したまま瓦礫の中に埋まっている。

マティは瓦礫の中からルシールを掘り出しながらも、片目の巨人がいつの間にか倒されていた事に気付き、唖然とするのみであった。

■テンプルトン町…惑乱果つる処(前)■

――片目の戦斧使いが――あの巨体の怪物が――倒れた!

プライス判事の部下たちは、揃って愕然としたまま、固まっていた。

部下代表のコナーが、いち早く気を取り直し、口ごもりながらも指令を飛ばす。

「み、身柄……、確保しろ!」

「イエッサー!」

部下たちは、その聞き慣れた指令に、一斉に反応した。

数人がかりで、路上に倒れ伏した片目の戦斧使いの巨体に取り付く。数人が片目の巨体を仰向けにしている間、別の数人が、運搬のための板を運び出して来た。

此処まで来ると、普段からの訓練のお蔭もあり、作業スピードが一段と上がる。

片目の巨人は、我が身に起こっている事が分かっているのかいないのか、異様な程に大人しい。その異常性に、作業中の何人かが、遅ればせながら気が付いた。

片目の巨人を運搬用の板に縛り付け、全身をシッカリと拘束する。その過程で、異常性に気付いていた勇気ある部下の一人が、片目の巨人の身体に触れ、チェックし始めた。そこには明らかな兆候がある――驚きの余り、息を呑む。

「げッ、何ヶ所も骨を折ってる……」

「……え!?」

その指摘にビックリした別の部下たちが、愕然とするままに、一斉に片目の巨人の身体をまさぐった。

片目の巨人はうめき声を上げはしたものの、それ程、激しい抵抗はして来なかった。出来ない状態だったのだ。

巨体に伴うだけの体重。圧倒的な筋肉パワー。それらの凄まじい身体能力を支える、骨格。

その骨格の要所、ほぼ全てに渡って、はなはだしい粉砕骨折が起きていた。手の骨、肩の骨、それに大腿骨を始めとする両脚の各所、その他――片目の巨人は、ほぼ身動き不可能と言って良い程のダメージを受けていたのだ。

片目の巨人は、全身を貫く激痛に顔を歪ませながらも、大声で敵を呼ばわった。

「戻って来いッ! 俺と勝負しろ、グレンヴィル!」

しかし当のキアランの方は、既にそこには居なかった。マティとルシールの姿を求めて、破壊し尽くされた工房の中に飛び込んでおり、それどころでは無かったのだ。工房の主であるギネスも、キアランの後に続いていた。

工房の中は、極彩色の粉塵が立ち込めた異様な空気で、薄暗くなっている。

ギネスが早速、肌身離さず持ち歩いているマスターキーで、心当たりのある戸棚の鍵を開けた。

「大丈夫かよ、メイばあさん!」

メイプル夫人は幸いな事に、密封された戸棚の中に居たため、マティの小箱の爆発の影響は、ほとんど受けていなかった。キョトンとした様子で、いささかピントのズレた疑問を口にするばかりである。

「爆弾とか言っていたようだけど、トウガラシじゃ無いの? これ」

キアランは手際よく瓦礫の中からルシールを掘り出すと、あっと言う間に腕の中に抱き上げ、外へと運び出した。

「ふぁたし、あふけ、ふあ、……ヒャックション!」

クシャミ混じりの鼻声涙声だ。ルシールの言葉は意味を成していない。

様々な種類の粉塵が、身体全体にビッシリ張り付いている。口元には鼻血が飛び散っており、口の端からは、口を切った時の血がまだ流れていた。

いずれ青あざになるだろう打ち身も、顔の各所にある。刺激性の涙が止まらず、埃だらけになった頬に幾つもの涙の筋を付けているという散々な有り様である。

マティの方は、この混沌の発明者・張本人にしてイタズラの仕掛人という事もあり、中身の暴走に対する初動対応が出来ていた分、症状はずっと軽い状態だった。賢くも自分やルシールの手荷物を忘れておらず、ちゃっかりと持ち出して、キアランの後を付いて行く。

「ハックション……! こりゃすごい。早くしませんと。裏の仕切りも開けて換気しませんとね」

後から来たパーカーは、刺激の強いピリピリとした空気に咳き込みながらも、あちこちのドアや仕切りを次々に開けていった。ギネスとメイプル夫人も、工房の中を走り回りながら、換気の作業を進めていく。

換気が進んで次第に空気が澄んで行き、見通しが良くなって来た工房である。

タイター氏は、トウガラシやカラシの粉で、すっかり目や鼻が利かなくなっていた。クシャミ混じりの鼻声で叫びながら、床の上を転げ回っている。

「ギャアア! 何か怪物が居るぞお! 毛だらけの、爪のある……」

プライス判事や部下がタイター氏の傍にやって来て、『怪物』の姿に目を丸くした。

「パピィ君が、じゃれてるだけだろう」

プライス判事は首を振り振り、呆れながらも、モフモフしている毛玉を、タイター氏から引き剥がした。

赤や黄色や、その他の様々な粉塵がビッシリと張り付いており、凄まじい色合いの、正体不明の毛玉になっている。

「それにしても、パピィは何処から混ざって来たんだ?」

「ギャフンッ☆」

図らずも『ギャング団のボスを取り押さえる』という一番の大手柄を立てる形となったパピィは、得意そうな顔つきをしながら、勝鬨の一鳴きをした。

――ただし、鼻声で。

*****

マティとルシールは早速、近所から運ばれて来た新しい水で、目や鼻を洗い始めた。

キアランは傍に居て、新しいリネンタオルをその都度、二人に差し出している。

「ルシールから目を離している場合ではありませんでした……申し訳ありません」

「い、一応、ヒック、無事ですから」

ルシールは鼻声になりながらも、何度もうなづいて答えた。

「涙と鼻水で、きっとひどい顔してるわ、恥ずかしい」

「直撃してねーし、ディナーまでには治ってると思うよ」

そう応じるマティの方は、盛大に水タライに栗色の頭を突っ込んでは流すと言う、『いかにも男っぽい』方法で、刺激物を洗い流していた。

マティとルシールは、二人とも、密閉された工房の中で濃厚な空気に取り巻かれたため、服や肌には、赤や黄色の粉が大いに付着していた。顔や肌に張り付いた刺激物を洗い流すだけで精一杯である。

髪の毛や服の隙間に付着した分については、風呂や洗濯で無いと落ちないため、館に戻ってから対応するしか無い。と言う訳で、埃だらけの上に極彩色の粉末ペイントを施したと言う風の、何とも言えない異様な格好に見えるのであった。

*****

タイター氏は早くも、ナイジェルと共に、即席の移動型牢屋に拘束されていた。

「ふ、ふ、ふぅ……、ブアックション! フザケやがって! ヒックヴォン! 今頃、援軍が来ても遅いぞ!」

タイター氏は、付着した刺激物で顔を真っ赤にし、間断なくクシャミをしながらも、強がっている。

オムスビ顔の中央部には、マティの小箱から飛び出して来た『謎の手』の手形が、いっそう真っ赤な痕跡となって、バッチリと残っていた。

「俺を無視するな! グレンヴィル!」

タイター氏とナイジェルが拘束されている即席の移動型牢屋の傍で、そのように喚くのは、運搬のための板に拘束されている片目の巨人だ。全身を縛り付けられ、もはや脅威では無くなった片目の巨人は、すっかり無視されていた。

プライス判事は改めて、涙や鼻水、咳やクシャミの止まらないギャングたちを眺めた。

哀れなギャングたちは砂漠の中の行き倒れさながらに、新鮮な水を溜めたタライに頭を突っ込んでは、刺激物を洗い流している。

「それにしても、あの凄まじい催涙弾は、一体、何なんだ?」

「想像以上に大爆発したな……アラシアへの仕返しのためだったけどさ」

判事に問われたマティは、リネンタオルを頭からかぶりながらも、ケロリとした顔で解説したのだった。

「アラシアへの仕返しだと?」

「名付けて、カンシャク・バクハツ・ボックス!」

「変な物、発明するんだな」

マティの返答に呆れ返っているプライス判事の後ろでは、部下代表のコナーが口を引きつらせながら、バネ仕掛けだらけの『謎の小箱』を恐る恐る持ち上げていた。その周りを、いささか青ざめている他の部下たちが、遠巻きにして囲んでいる。

中身をすっかり吐き出し切ったマティの小箱は、今は何の影響も無かったのだが、その緻密かつ謎めいたバネ仕掛けは、余人には読み解けない程の複雑さだ。そして、とりわけ大きなバネの上で不気味に揺ら揺らしている『謎の手』は、『まだ何かあるのでは』と警戒を抱かせるに充分な代物であった。

*****

即席の移動型牢屋――鎖を掛けられた小型馬車の中では、タイター氏とナイジェルの言い争いが始まっていた。

「あの大声はマズイじゃ無いか! アントンやら何やら! 調書にシッカリ取られてたぞ!」

「貴様の場合は、アシュコートのセクハラ訴訟や、結婚詐欺訴訟を何とかするのが最優先だろう! 我が甥ながら、情けないッ!」

何とか甥の抗議を押し返したタイター氏は、皆に見えるように、一枚の文書を高々と掲げて見せた。

「やあやあ! 遠からん者は音にも聞け! 近くば寄って目にも見よ……新しい誓約書は、まさに此処だ! ルシール自筆サインだぞ!」

二人の弁護士、カーター氏とトマス氏は一瞬、驚いたように目を見張った。プロ意識溢れる二人は、すぐさま、タイター氏の提示する誓約書を受け取り、内容の確認を始める。

タイター氏は勝ち誇ったように、極彩色の粉末ペイントを施された太く短い腕を振り回した。

その後ろでは、勢いで飛び散ったカラシ&トウガラシの粉末を吸い込んだナイジェルが、盛んにクシャミをしている。

「しかと見るが良いぞ、弁護士どもよ! ルシールは既に! ローズ・パークの相続権を放棄してしまったのだッ!」

誓約書の内容を、しかと確認したカーター氏とトマス氏は、口々に驚きの声を上げた。

「何という事だ!」

「これは法的に有効で……」

若手弁護士トマス氏は、まだ信じられぬと言う面持ちで、依頼主タイター氏を振り返った。

「こんなに慌てて文書確定するとは思わなかったです……タイター様!」

「偉大なる尊大なるタイター様は、常に先回りするのだ!」

トマス氏は奇妙に口を引きつらせたまま、シルクハットの縁に手を掛けてカーター氏を振り返った。カーター氏も同様に、トマス氏に向かって、無言でシルクハットの縁に手を掛け、うなづいて見せる。

二人の弁護士は、改めて威儀を正すと、おもむろに、タイター氏とルシールに向き直った。

「いよいよ法的決着の時だ! 天も御照覧あれ、我が完璧なる勝利を……!」

既に勝利を確信しているタイター氏は、ハンカチで鼻を挟んだままポカンとしているナイジェルを脇に放り、いそいそと小型馬車の窓際に寄る。

ルシールは、破れた袖を見苦しくないようにリネンタオルで覆うと、小型馬車のやや脇の辺りに佇んだ。そこに、興味津々と言った様子のマティが、ピッタリくっ付いて来る。

(脅迫されて無理矢理にサインさせられた形だし、その辺りの合理的配慮には、期待しても良いのかしら?)

ルシールは、不安交じりの期待を抱きながら、二人の弁護士を注目した。

■テンプルトン町…惑乱果つる処(後)■

カーター氏が誓約書を読み上げる。

「アイリス・ライトが娘ルシールは、この誓約書により、ローズ・パーク庭園のオーナー権について、ライト家『子孫』の名をもって、この相続権を永久に放棄する……」

「確かに確認いたしました、タイター様、ルシール様」

読み上げが終了すると、トマス氏がうなづいて見せる。

カーター氏は暫し間を置き――遂に、法的決着を宣言した。

「指定相続人が、本人署名をもって、当該相続権を確かに放棄しました。故アントン氏の遺言書に従い、件のオーナー権は、ただちに、クロフォード伯爵家に全返還されることとなりました」

――タイター氏の名前も、ルシールの名前も、無い。そして、ナイジェルの名前も、無い。

耳を傾けていた面々は全員、暫しの間、その意味を考え――奇妙な沈黙が広がった。

そして、不意に、全員の口がパカッと開いたのだった。

「今、貴様、何と言いやがった!」

やっと意味が飲み込めたタイター氏は、大声で喚き始めた。

カーター氏は、タイター氏の反応を一顧だにせず、冷徹なまでに手続きを進めていく。

「治安判事どの、公証人として、この誓約書に裏書を願います」

プライス判事は目をパチクリさせながらも、カーター氏の依頼に応じて誓約書を受け取った。

「以上……これにて、クロフォード伯爵家による、オーナー権の没収は完了です」

――余りにも想定外の事態。

ルシールは勿論、勝利を確信していたタイター氏もナイジェルも、驚愕と混乱の余り、ただ口をパクパクさせるばかりだ。

遠巻きにして見物していたプライス判事の部下たちも、涙と鼻水とリネンタオルに埋もれていたタイター氏の手下たちも、皆が皆、揃ってポカンと口を開けたまま、絶句している。

マティが目を丸くし、近くに居たキアランを勢いよく見上げた。

「そうなの!?」

「そう言えば……」

キアランも、呆然と呟くのみだ。

その後ろでは、なおもグレンヴィルの名を呼び続けていた片目の巨人が、遂に錯乱したように、『うおおお』と、意味の無い叫び声を上げていた。もはや、署名に集中しているプライス判事に、たしなめられていると言う有り様だ。

「今、大事な話の途中なんだから静かにしてろよ、『片目の巨人』君」

タイター氏、ナイジェル、ルシールの三人は、頭の上に疑問符を浮かべたまま、なおもポカンとしていた。

カーター氏が、アントン氏の遺言書を改めて提示した。

「直談判の際に説明した筈です。故アントン氏の遺言書の内容は、ご承知でしょう」

『我が所有する、ローズ・パーク邸の一区画の庭園オーナー権、其を我が子孫アイリス・ライト、及び、アイリス・ライトの子孫が着実に相続するを、我望むものなり。かつ、此処に厳密に指定せし相続人の全てが既に死亡せし時、相続人による相続放棄の真正なる意思の確定せし時、ただちに其のオーナー権を、謹んでクロフォード伯爵家に全返還するものなり』

トマス氏が解説を付け加える。

「つまりですね、指定相続人たるライト嬢が本人署名をもって相続放棄を誓約した瞬間に、『相続人による相続放棄の真正なる意思が確定』したのです。そして、ただちにオーナー権の全返還、すなわちクロフォード伯爵家による完全な没収が実現した訳です」

――相続人による相続放棄の真正なる意思の確定せし時、ただちに其のオーナー権を、謹んでクロフォード伯爵家に全返還するものなり!

全てを理解した瞬間、タイター氏、ナイジェル、ルシールは、三人とも、天をも仰ぐ格好になった。口をアングリしたまま、身体全身をワナワナと震わせるのみだ。

まごうかた無く、タイター氏とナイジェルとルシールは、気質の共通する親戚同士であった。

タイター氏は激怒と喜悦の故に、ナイジェルは驚愕と焦燥の故に、ルシールは恐怖と懊悩の故に――三人揃って、動転の余り、真っ白になっていたのだ。

アントン氏の遺言書の、『最も重要なポイント』を、すっかり忘れていたのだ!

トマス氏は、『これ程おかしな事が、現実にあるのだろうか』と言わんばかりの表情を浮かべながら、シルクハットを直していた。

「新しいオーナー協会員は、伯爵さまが改めて選定されますが……あんなに余罪があるんじゃ、ビリントン家が選定される可能性は無いかも」

トマス氏は、そこで、再びシルクハットの縁に手を掛けた。

「あッ、そうだ。タイター様、此処で弁護の契約終了なんで、後で料金を請求しますんで、よろしくです」

だがしかし、不意に絶望の底に突き落とされた形となったタイター氏とナイジェルは、それどころでは無かった。

「そんなバカなッ! 叔父貴! 何と言うヘマをしたんだ! あれは俺の物になる筈で……!」

「ワシの物だぞ!」

タイター氏は、キアランの方を向いて怒鳴り出した。

「クロフォード伯爵家に、何の権利があって――」

キアランは無言で、タイター氏とナイジェルの二人を睨み付けた。漆黒の刃さながらの殺気が、不吉に閃く。身体の奥まで突き刺さるかの如き、鋭利な視線だ。

その不穏な眼差しに貫かれて、すぐさま口ごもる二人であった。

*****

プライス判事の部下たちは、その後も事件現場の後片付けを続けた。

ようやく『怖いリドゲート卿』の姿が遠ざかって行った事で安心したタイター氏とナイジェルは、プライス判事に向かって、口々に『負け犬の遠吠え』を述べ立てるのみ。

「権力者の横暴ッ!」

「社会革命! 造反有理! 強者打倒! 弱者救済!」

プライス判事は呆れた様子で二人を振り返り、『揺るぎようの無い現実』を指摘した。

「タイター氏が誓約書を書き、ライト嬢が署名したんだ。私の出る幕が、あったかね?」

そこへ、判事の部下代表のコナーが、パピィを見ていた部下と共にやって来た。

「判事さま! 子犬のパピィが、ただ今、カフスを排出しました!」

部下たちは、派手な粉末ペインティングを施されてモフモフの極彩色と化した毛玉と、その排泄物を包んだ手巾を示した。

タイター氏とナイジェルは、子犬のパピィの笑い顔と、その排泄物を目撃する羽目になった。

出来立てホヤホヤの排泄物の固まりの中から……見間違いようの無い、燦然とした輝きが現れる。

タイター氏とナイジェルは、ひたすら仰天だ。

「最高級のダイヤモンドじゃねぇか!」

「子犬のウンコから、何でダイヤモンドが出て来るんだよ!」

「話せば長くなる」

縷々、解説するプライス判事である。部下たちは、ニヤニヤと面白そうな笑みを浮かべていた。

「このチビの毛玉、復活祭の前には既にブツを発見しているんでな。お漏らししたのは、催涙弾のショックのせいに違いないな……」

*****

昼下がりの後半。辺りに、夕方の気配がたゆたう。

帰還の準備をしているクロフォードの馬車の脇では、虚ろな目をしたルシールが、まるで本物の幽霊のような顔色をして、植え込みの前に座り込んでいた。

マティが、馬車の後ろから首を伸ばして、その様子を心配そうに窺っている。

「ルシール、放心してる」

「ローズ・パーク相続の可能性が消えたんですよ、頭の整理も大変なのに違いない」

マティに応えて、若い御者が仕方無さそうに呟いた。

弁護士カーター氏が、各種の書類を改めつつ馬車に近付いて来た。早速マティが、カーター氏を呼び止める。

「ルシールの案件って、結局どうなってんの?」

「遺言書の内容は、これで全て終了……今回の案件も終わりました。案件に伴う、館への滞在も終了です」

カーター氏は暫し沈黙し、ルシールを眺めやった。

ルシールとギネスが、何やら会話を始めている。

――ルシール嬢は確かに絶望に打ちのめされたが、会話が出来る程度の冷静さは残っているらしい。

やがて、マティは馬車の御者席の隅に座り込み、戸惑ったように顔を伏せた。

「ルシールは、アシュコートに帰るのかな?」

「それは、彼女の自由ですが……ただ、彼女に関して、別の重大な案件が持ち上がりまして。この案件で、もう少しクロフォード伯爵領内に拘束させて頂く事になりましたので」

マティは再びパッと顔を上げて、目をきらめかせた。

「重大な案件?」

「目下、機密です。しかし、仕事とは言え……此処は悩むところですね」

カーター氏は思案顔でシルクハットを直し始めた。シルクハットを直した拍子に、胸ポケットの違和感に気付く。

「そうだ……あの親展の速達、まだ開封していなかった……」

――アシュコートから送付されて来た、特別な速達便。

カーター氏は手際よく、速達便を開封した。中の書類に素早く目を通す。

常に穏やかなポーカーフェイスを保っているカーター氏の顔には、押し隠せぬ驚愕の表情が浮かび始めた。

「これは……」

「何か古そうなお手紙っぽいね。アシュコート伯爵領、レイバントン発、特別速達便……?」

マティが興味津々な様子で首を伸ばし、文面をのぞき込んで来る。

――マティ少年は観察力が鋭い上に、勘が良すぎる。

カーター氏は、そそくさと書類を封筒に戻した。

「ああ、済みません、マティ様。目下、機密の案件に関わる内容なので……」

「ふーん、ケチ!」

マティはむくれ返って文句を言ったが、やはり、まだまだ子供だ。

カーター氏が心底ホッとした事に……程なくして、マティの興味関心は別の事に移って行った。

「マティ様の頭脳、とんでもないタイミングで秘密のベールを剥がしますからね……つい先だっても、どうやって、非公式かつ内密の打診というレベルの『リドゲート卿とダレット嬢の婚約』を察したんだか……しかも、閣下とクレイグ牧師様の言われるところによれば、いつの間にかルシール嬢にも伝わっていたとか……」

*****

クロフォードの馬車の準備が整った。

メイプル夫人はルシールと共に後部座席に落ち着くと、馬車窓から顔を出し、申し訳なさそうにパーカーに声をかけた。

「ルシール様が落ち着かれたら、またすぐに、お手伝いに戻りますから」

「こちらは大丈夫ですよ。アントン氏の事件の証言者としてのお勤めもあるんでしょ、しっかりお勤めして来てくださいね。私の店もギャングにやられていて、到底、人を泊められる状況じゃ無いですしね」

ギネスが、馬車内のマティに野太い声を浴びせる。

「よぉ、マティ坊主、お前もついにギャング抗争サバイバーだな。あの片目の怪物、ありゃ何なんだ、って破壊レベルだったしな。ギャング保険に入ってなきゃ、雑居ビルのオーナーも夜逃げしてたかも知れんな」

「ねぇねぇ、あとでヒマになったらさ、金属の溝の彫り方とか教えてくれるかい?」

「おぅよ」

マティとギネスは、「同志よ」と言わんばかりに、勇敢な男同士の握手を交わした。

カーター氏は、若い御者と共に、クロフォードの馬車の御者席に腰を下ろした。キアランは既に乗馬を済ませ、馬車の脇に控えている。

カーター氏は注意深く声を潜め、キアランに声を掛けた。

「館に戻ったら、ダレット家との対決ですから……リドゲート卿」

キアランは、いつものように、冷静沈着そのもののムッツリとした顔で、うなづいて見せたのだった。

*****

テンプルトンの町からクロフォード伯爵邸までの道のりは、馬車で一時間ほど。

既に昼下がりから夕方へと移り変わっている。周りの光景も、いつの間にか色合いを変えていた。

西の空に漂う雲は、次第に赤らみを帯びていく。一面の丘陵地帯も、緑色と金色とが入り交ざる、詩的幻想を思わせる輝きと色彩を見せ始めた。

しかし、ルシールはボンヤリとしたまま、車窓の外の光景には目を向けようとしなかった……

いつしか。

ルシールは馬車に揺られながら、ギネスとの会話の内容を思い返していた。

――馬車に乗る少し前。

ギネスは、アメジストのブローチをチェックしつつ、グッと眉根を寄せていた。

『少し壊れてんな』

『……え?』

『この部分の留めがなぁ』

怪訝そうに首を傾げるギネス。

『頑丈な部分だから壊れにくい筈なんだが……もしかしたら、身代わりになった、のかも知れねぇな』

ルシールは、ボンヤリと、その部分を眺めるのみだった。

『少し預かるが良いか? お詫びと言っちゃなんだが、優先で修理しておくぜ』

『有難うございます。よろしくお願いいたします……』

*****

……馬車がガタンと揺れ、そこで、ルシールの回想は打ち切られた。

そっと溜息をつく。

(頑張ってはみたけれど、アメジストのブローチしか残らなかった。まるで、25年前の母のように……)

■クロフォード伯爵邸…運命の大広間(前)■

陽射しが更に傾き、周りの光景は、いっそう夕方の色合いを見せ始めた。

クロフォード伯爵邸でも、夕方の訪れと共にやって来た訪問客を迎えている。

執事がおもむろに大広間の扉を開き、訪問客の到着を告げた。

「レオポルド殿、レディ・ダレット、ダレット準男爵家が嗣子レナード様、ご到着です」

アラシアを除くダレット家の三人が、毎度の傲然とした様子で、クロフォード伯爵邸の壮麗な大広間に入って来た。

三人とも、大いに贅沢を極めた、王侯貴族さながらの装いだ。貴族そのものの容貌、体格、輝くような金髪碧眼の持ち主という人々だけに、その装いは、実に素晴らしく似合っている。

「フフン。正常化まで、いま少しだな。リチャード殿」

レオポルドは得々とした笑みを満面に浮かべ、クロフォード伯爵に声を掛けた。敬意を表して会釈するというような素振りはいっさい見せず、それどころか、傲然と身を反らしたままだ。

クロフォード伯爵は、眉間のシワを一層深くして応えた。

大広間には既に、今夜のディナーの招待客であるクレイグ牧師、ドクター・ワイルド、トッド夫妻が控えていた。

トッド夫妻は、ダレット一家への表敬のため、ソファから立ち上がっている。

「フン、トッド夫妻か」

「お久し振りです、ダレット家の方々」

トッド氏はテンプルトンの町の活動的な資産家の一人だ。クロフォード伯爵宗家たるダグラス家の縁戚であるクレイグ牧師の娘を妻に迎えた事で、以前よりも一段階ほど上の名家としての扱いを受けている。

レオポルドが偉そうに身を反らし続けているのは、トッド氏の、その微妙な立場を承知しての態度でもある。

トッド夫人は硬い表情を崩さなかったが、夫であるトッド氏の方は、ダレット一家の傲然とした態度を気にしていない風で、穏やかなポーカーフェイスを保っていた。

適当に社交辞令が交わされた後。

ダレット夫人が辺りを見回し、怪訝そうに口を開いた。

「アラシアったら、まだ出て来てない……こんな大事な日に、おかしな事ね。少し様子を見て来るわ」

ダレット夫人は、いそいそと身を返して大広間を退出して行った。

*****

各々、着座したところで、レオポルドは上から目線でトッド氏を見やった。身分的に抵抗できないトッド氏を相手に、レオポルドによる『正論のショータイム』が始まる。

「まったく、トッド氏! 館も領地も財産も、本来はクロフォード伯爵宗家の直系子孫たるダレット家の所有なのだよ。正統も正義も無い今の世は、明らかに異常と言える!」

明らかに、クロフォード伯爵のみならず、その跡継ぎたるキアランに対する当てこすりも含んでいる。伯爵は頭を抱えて溜息をつくのみだ。

トッド氏は敏腕事業家らしく、滑らかに受け答えをする。

「テンプルトンの住民には、異なる見解を持つ者もいるようですが」

「フフフ、所詮、下等で無知な庶民の寝言ですね。白と黒の区別すらも付かない奴らだから、我々、高貴なる者として正義を守る我らは、常に苦労するのです」

レナードが斜に構えつつ、何やら悟り切った様子で口を挟む。

「白と黒の区別すらも付かない奴らだから、我々正義を守る者は、常に苦労するのです」

伯爵の眉間のシワは、ますます深くなった。

トッド夫人は、硬い表情で、マズそうに茶を一服している。クレイグ牧師がトッド夫人をそっと見やり、耳打ちをした。

「辛抱強いご夫君で良かったな、キティ……」

クレイグ牧師の長女にしてトッド夫人キティは、マティに良く似た表情豊かな面差しに、困惑の表情を浮かべていた。

「帰ってみたその足で館を訪問してみたら、マティが不在だと言う事の方が気を揉むわよ、お父様」

キティ・トッドは、コミカルに腕を広げて見せた。

「あの子、また何か、とんでもない事やらかしていないでしょうね?」

「朝っぱらから、この大広間にお化け屋敷のイタズラを仕掛けていたよ。でも事前にやめさせたから、大丈夫だ」

「それだけで済んだの? ちょっと信じられないような気もするけど」

ドクター・ワイルドが、ニヤリとした笑みを向けた。

「すごい心配ぶりじゃな、トッド夫人」

「心配になりますわ! あの子ったら、去年の夏、運河の海賊ごっこ遊びで、本物のギャングの密輸の証拠を見つけ出したんですから!」

トッド夫人は両手で頬を抑え、ハーッと息をつく。

「ギャング同士の銃撃戦になって、リドゲート卿を巻き込んで、ご迷惑して。クロス・タウン運河の大捕り物にも発展して。リドゲート卿が銃撃戦を制圧して下さってなかったら……本当に心臓が止まりましたわ」

「ふむ。リドゲート卿の銃と剣の戦闘術、あれ程の腕前とは思わなかったからな。シンクレア家の直伝じゃとか」

トッド夫人は眉根をひそめ、更なる困惑顔を披露した。持ち込んで来ていた『配達ボックス』を、疑惑の眼差しで見つめる。

「それに、この荷物は、『ローズ・テイラーズ』の店主が、『マティも一緒に来ていたのでビックリ』と言って渡して来たものなの」

その箱には、『ローズ・テイラーズ』ブランドの印が刷られていた。新作のドレスか何かであろうと予想できる。

しかしトッド夫人は、その箱に、しつこく疑いの眼差しを注いでいた。口元は、すっかり『への字』になっている。

「彼は信頼できる仕立て屋だけど、マティ経由だけに、何が入ってるのか、警戒の余り開封もできないんだわ」

キティ・トッド夫人は、マティの母親であり、マティが如何に奇想天外な行動をするかという事については、充分以上に――と言って良い程、承知しているのであった。

ドクター・ワイルドが面白そうに身を乗り出して、箱のラベルを確かめる。

「ディナードレスかね」

「受取人が、マティか……」

「つまり、マティ坊主が、女物のドレスを注文したのか……?」

伯爵とクレイグ牧師も、しげしげとラベルを眺め、妙な感心をし始めた。

「何か新しいイタズラ・プロジェクトを思い付いているらしいな」

「マティ坊主は一体、どんな『とんでもない事』を始めようとしているのか」

「しかも、女物のディナードレスをネタにして、じゃな」

「あの子ったら、女装趣味でも始めたのかしら!?」

トッド夫人は、ソワソワと落ち着かない様子だ。だんだん、顔が引きつって来ている。

――突如。

大広間の扉が、大音響を立てて開いた。

ダレット夫人が、ひどく動転した様子で大広間に駆け込んで来る。

「た……大変! あ……ああ……、アラシアが!」

「どうされました、ダレット夫人?」

ダレット一家の気まぐれに慣れているトッド氏も、心底ビックリした様子だ。

「アラシアが、ライナスと駆け落ちをしたの……!」

「何だと!?」

「アラシアが?」

レオポルドもレナードも、開いた口が塞がらない。

ダレット夫人は、ワナワナと震える手で、一通の手紙を掲げた。

「なかなか部屋から出て来なくて、変だと中をのぞいてみたら……お金も、宝石も、あらかた消えてしまっていて……こ……、この……、置手紙が!」

レナードが素早く手紙を取り、読み上げた。

『ライナスと、ちょっと遠方までお出掛け! 「こんな夜中に?」ってビックリするお顔が、とても見たかったわ! これは、あくまでも正義の行方不明よ! お金やら宝石を盗ったのは、あのクソ女って事にしといて頂戴! あの悪辣なクソ女の悪巧みが全部バレて、破滅する時は近いわ! この事件は、全国の社交界を席巻するでしょうね! 新聞記者やロマンス作家を呼んで来ても、全然構わなくてよ♪ キャハ☆』

レオポルドは「はぁ?」と言わんばかりの顔だ。

トッド氏も唖然とするばかり、その驚きの声は、無意識のツッコミとなっていた。

「意味不明な行方不明!」

「あのライナスに、オニババのネコババが可能だとは……!」

トッド夫人も息を呑んでいた。トッド夫妻は、二人そろって妙に息が合っている。

「何たる展開じゃ! アシュコート辺りで、嘘八百のゴシップを流して騒ぐつもりでいるのじゃろうが……」

アラシアの気まぐれな性格を充分に承知してはいたものの、それでも、驚愕しきりのドクターである。

手痛い損失に直結する事態を悟ったレオポルドは、動転するままにダレット夫人を怒鳴りつけた。

「この時間まで気付かないとは、お前は、それでも母親かーッ!」

「あんたが、ちゃんと娘を見ていないから、わたくしが苦労するんじゃ無いの! バカッ!」

次の瞬間。

執事が再び大広間の扉を開き、更なる人物の到着を告げた。

「リドゲート卿が出張より、お戻りでございます!」

続いて、テンプルトンから帰還した一行が姿を現した。

キアラン、マティ、ルシール、そして少し離れてカーター氏とメイプル夫人が、そっと入って来たのであった。

一行の姿を認めた大広間の面々は、驚きの余り、物も言えない状態になった。

マティとルシールは、ありとあらゆる種類のカラシ粉とトウガラシの粉にまみれ、物凄い色の粉末ペインティングを施された服装をしているように見える。一体何があったのか、目と鼻は相当に充血しており、髪の毛は極彩色のザンバラ髪となって逆立っている。

そしてトドメは、何やら壮大な喧嘩をしたとしか思えない程の、新しい傷やアザだらけの顔と全身、それに凄まじいばかりの衣服の破れである。

「な……な……何だ、そのボロボロの格好は……!?」

大広間の何人かが、一斉に同じ言葉を口にした。

ドクター・ワイルドが、素早くマティに駆け寄り、粉塵の正体を見極める。

「こりゃ何じゃ!? ……カラシ粉とトウガラシの粉?」

ドクターは、マティの頭や衣服に貼り付いた粉末を検分し、すぐにその凄まじい濃度を察知した。興味津々の余り、目を物騒にきらめかせる。

「人体実験のレベルを超えとるじゃ無いか! こりゃ話を聞かねば……」

トッド夫妻の口が揃ってパカッと開いたままになったのは、言うまでも無い。

マティは、充血したままの目で辺りをキョロキョロと見回し、驚愕の余り絶句したまま固まっているトッド夫妻の姿に、ようやく気付いた。

「あッ、ママ! パパも……!」

マティは、困惑顔で手を差し伸べた父親トッド氏に駆け寄って行った。

「タイターのギャング団と、すっげえ抗争やってたんだ! もう少しで死ぬかもと思ったよ!」

「ギャング抗争……!?」

伯爵は愕然としながらも、カーター氏に救いを求めるかのように、真偽を問う。

「冗談じゃ無いのか」

「いえ……その説明で、ほぼ正しいです」

カーター氏は律儀に一礼し、無慈悲なまでの事実を述べたのであった。

「後ほど、プライス判事より報告書が提出される筈です」

改めて呆然とする大広間の面々である。

次の瞬間、ダレット夫人が、いきなりルシールに指を突き付け、キンキン声を張り上げた。

「テンプルトン界隈のギャング=タイター! 確か、ルシールの仲間!」

ただでさえ刺激物で朦朧としていたルシールは、内容もろくに分からないまま、ダレット夫人のキンキン声に呆然としているばかりだ。

都合の良いスケープゴートを見い出したダレット夫人は、凄まじい剣幕で怒鳴り続けた。

「アラシアが急に駆け落ちしなきゃならなくなったの、下等で不潔なネズミ女めが脅しまくったせいだわッ!」

「おおッ、そうだ! 不明の父親だって、ギャングの誰かに決まってるんだッ!」

レオポルドも一緒になって、ルシールへの誹謗中傷に余念が無い状態だ。ルシールを貶めれば貶める程、アラシアの救済の可能性が上昇するのだから、当然と言えば当然の事ではある。

ドクター・ワイルドが瞬時に振り返り、口を差し挟んだ。

「ちょっと待て! 何でそう言う話になる!?」

「破壊工作付きで脅しまくったの、アラシアの方じゃねーかよ!」

カーター氏はダレット一家の気まぐれに少し驚いて見せただけだったが、トッド夫妻は話に付いて行けず唖然とするばかり、ダレット夫妻の伝説的な癇癪ぶりを実際に見せ付けられる羽目になったメイプル夫人は、ひたすら真っ青になって固まるばかりであった。

レナードでさえ、両親の目論見が理解できず、目を見張るのみだ。

「何と言う論理飛躍!」

ダレット夫人は、癇癪が暴走するままに、ルシールに襲い掛かった。

ルシールの髪をグイと引っ張り、よろけさせる。ルシールの肩を殴り、破れた片袖を隠していたリネンタオルを剥ぎ取った。

更に、ルシールの顔をズタズタに引き裂こうと、危険な程に鋭く長い爪をした手を振り上げた。

■クロフォード伯爵邸…運命の大広間(後)■

ダレット夫人とルシールの間に、キアランが割って入る。

「暴力禁止です、ダレット夫人」

キアランの護身術は巧みであった。目立つような動きをした訳では無いのに、ダレット夫人の両手はルシールの身体をそれ、反動で流れたルシールの髪の一房を触れるだけに留まった。

だが、ダレット夫人は驚くべき反応速度で、ルシールの髪をギュッと握り締めた。

ルシールの髪は腰まで届く程に長かったので、キアランに割り込まれても、それだけの長さが残っていたのだった。

ダレット夫人は、燃え上がる怒りに任せて、ルシールの髪をグイグイと引っ張り出した。ルシールは髪を引っ張られる痛みに、口をパクパクさせるばかりだ。

「ギャングの両親、親戚が凶悪犯!」

すっかり激高しているダレット夫人は、まさに悪鬼の如き形相をしていた。

レオポルドでさえ一瞬、恐怖を感じ、冷静になって飛びすさる程だ。

ダレット夫人は、ルシールの破れた片袖をどう解釈したのか、勝ち誇った様子で叫び続けた。

「この恥知らずが! 色仕掛けで他人の婚約者を奪うのも当然だわよねッ! アラシアが言ってたわ、レナードとも二股かけてるとか……何て、破廉恥な、女ッ!」

金切り声を続ける、その息継ぎの間に、ルシールの髪を握り締める手の力が緩む。

その隙を逃さず、キアランはダレット夫人の手を弾いた。

ルシールの髪が一気に解放される。

キアランはルシールを背中にかばい、ルシールは無意識のうちに、キアランの背中にしがみついた。

執事とベル夫人が大広間に緊急に駆け付けて来て、所定の手ぶりをした。物陰に控えていたスタッフたちが、癇癪対応の盾を構えて飛び出して来る。

ダレット夫人は、理性の限界を遥かに超えて怒り狂っていた。

――この下賤な女、許しがたい事に、キアランの背中にへばりついているでは無いか! そしてキアランも、この取るにも足らぬ存在を、まるで掌中の珠であるかのように、注意深くガードしている!

将来の義母(姑)、すなわち将来のクロフォード伯爵家の大奥方候補の、本能ならではの直感だ。ダレット夫人は、キアランとルシールの間には、既に、単なる知人関係を超えた何か――キアランとアラシアの間の他には、あってはならない何か――が存在すると察知していた。

「お前は、存在そのものが罪というもの、すぐに監獄送りよ! 鞭打ち百回や二百回じゃあ済まないから、覚悟なさいッ! 二目と見られぬ程に顔面をつぶして、八つ裂きにして、粉々の肉片(ミンチ)にしてやるからね! この、父無しの、不倫の破廉恥――」

ダレット夫人が、ルシールに向かって指を突き付け、なおも誹謗中傷を重ねようと口を開く。

その時、クロフォード伯爵の、威厳に満ちた大喝が響いた。

「やめんか!」

長年、当主を務めている者ならではの、よく通る声だ。大広間の面々が、ハッと息を呑む。

「ルシールは、私の娘だ!」

その一瞬、世界が動きを止めた。

今、伯爵は何と言ったのだ?

大広間に居合わせた全員が、棒立ちになった……

重苦しい沈黙の中、ルシールは、ボンヤリとクロフォード伯爵を注目する。

――父親は青い目。

クロフォード伯爵の目の色は、深い青だ。若かりし頃の肖像画にも描かれていた――海を思わせる青藍色――わだつみの青。

ルシールの脳裏に、母親と共に眺めた冬の海の深い青さが閃いた。

そのままルシールは意識を失い、ゆっくりと崩れ落ちた。

「ルシール!」

ギョッとして息を呑むキアラン。

ルシールが後ろに倒れて行くその先にはレナードが居て、その華奢な身体を受け止めようと手を伸べたところであったが――

キアランの方が、一足早くルシールを抱きかかえた。

そして、キアランは、幾つもの疑問と共に……クロフォード伯爵を見つめる。

血のつながりの無い自分を息子として受け入れ、20年以上もの間、保護し、育ててくれた男の姿を。

クロフォード伯爵は蒼白な顔色ではあったが、深刻な疑問を湛えたキアランの眼差しを真っ直ぐに受け止め……避けようとする様子は無かった。

ルシールは、すぐに意識を取り戻す様子は無く、その顔からは血の気が引いたままだ。

ドクター・ワイルドが早くも診療カバンを手に取り、指示を下した。

「部屋へ運べ、ワシが診る!」

その指示に従って、キアランはルシールを横抱きにしたまま、ドクターに続いて大広間を飛び出して行った。メイプル夫人も驚き慌てながらも、ドクターやキアランの後に付いて行く。

あっと言う間に大広間に取り残された面々は、呆然とするのみだ。

「一体、これは……」

トッド氏が呟いた。マティもボンヤリと大広間の扉を眺め、無意識のうちに呟いている。

「今日は、ルシールにとっては、散々な一日でもあったからさ……、ショック続きで……キャパ超えちゃったんだ……」

「的確な解説ですね」

カーター氏はマティの解説の的確さに感心していたが、ダレット夫人は別の意味で理解した様子だ。

「わたくしのせいじゃ無いわ! 勝手にひっくり返って……ホントに厚かましいッ!」

ダレット夫人が騒いだお蔭と言えるのか。

――大広間の面々は、ようやく茫然自失の状態から抜け出したのだった。盾持ちのスタッフたちが、目配せし合い、控えの間に戻って行く。

トッド夫人が改めて、驚愕しきりと言った様子で末息子マティを眺めた。

「マティ……とにかく、凄い格好」

「この『配達ボックス』なんだが、一応、女装する予定は無いよな?」

トッド氏も困惑の余り、『ローズ・テイラーズ』の配達ボックス――しかも、中身は女物のディナードレスだ――をマティに示し、頓珍漢な確認をした。

「それ、ルシールのドレスさッ!」

マティは、『勿論じゃ無いか!』と言わんばかりに、元気良くうなづいた。

「私が風呂に入れて来る……着替えも用意してあるし」

苦笑しながらも口を挟んだのは、クレイグ牧師だ。まだ困惑が止まらないトッド夫妻に向かって、なだめるように手を振り、マティを連れ出して行ったのだった。

*****

――何かが引っ掛かる。

マティは、祖父クレイグ牧師に風呂に入れられていた。

お湯を張ったタライの中で、頭のてっぺんまで石鹸の泡に浸かる。目下、大広間での出来事を、モヤモヤとした引っ掛かりと共に思い返している真っ最中だ。

そしてマティの脳裏で、一つの連関が出来上がった。スパークが弾けた。ようやくショッキングな事実に気付いたマティは、石鹸の泡を頭に乗せながら、タライの中から勢いよく半身を乗り出した。

「ちょっと待てよ、じいじ! 伯父さんは何て言ったんだ!? ルシールが、娘、だって!?」

クレイグ牧師はリネンタオルと着替えを用意しつつ、呆れた様子で応じた。

「お前にしちゃ、理解するのに随分と時間が掛かったな。道理で、妙に落ち着いてると思ったよ」

「あんな事、急に言われても普通、分かんねえよ! じいじは、前から知ってたのッ!?」

仰天が収まらぬまま、マティはタライ一杯の泡の中で手を振り回していた。タライの周りに、石鹸の泡が次々に飛び散る。

「ルシール・パパは頭文字Lなんだよ、ローリンと伯父さんが何でつながるんだ。伯父さんの名前は、頭文字だと、R・Dになって……」

「ローリン? アイリスさんは、彼の事をローリンと呼んでいたのか?」

「……? ……!?」

*****

ゆっくりと夕暮れが始まった。

大広間の各所には、キャンドルの灯りが配置されている。

大広間の面々は、椅子やソファに腰を下ろして、今日のテンプルトン騒動に関するカーター氏の説明に聞き入りつつ、改めて驚き呆れていた。それこそ、物事の始まりから終わりに至るまで、信じがたい出来事のオンパレードなのだ。

「以上が、タイター氏との揉め事の顛末(てんまつ)でございまして。余罪その他の詳細は、後ほどプライス殿が調査報告をします」

「その時、マティが死に掛けたのは、冗談では無かったって事ですか……」

トッド氏が呆然としたまま呟いていた。

カーター氏の説明には、疑うような要素は全く無く、レオポルドも何も言わない。レナードも無言のまま、思案に沈んでいる。

クロフォード伯爵は、『ローズ・パークのオーナー権の相続を放棄する』という旨の誓約書を眺めながら、感心しきりであった。

「この誓約書に署名したとは……あの母親にして、この娘ありか……」

先程からイライラがつのっていたダレット夫人は、憤懣やるかたないと言った様子で、遂に、ソファから立ち上がった。

ダレット夫人にとっては、今日のテンプルトン騒動など、過去に何度も起きたテンプルトン抗争の、退屈な延長であり、付け足しでしか無い。

「今は、こんな些細な事より、アラシアの駆け落ちの方を!」

トッド氏は、一応はレディであるダレット夫人に敬意を表して既に椅子から立ち上がっていたが、そのまま、ヒョイと肩をすくめた。

「トッド家の子が死に掛けた事は、些細な事件ではありませんよ」

トッド氏なりの、ささやかな抵抗である。

折よく、マティとクレイグ牧師が、大広間に戻って来た。

マティは早速、トッド氏に駆け寄った。トッド氏はマティを高く抱き上げ、生真面目に声をかける。

「タイター抗争の件、カーターさんからご説明を頂いたが、実に大変だったな。後でルシール嬢に、紳士らしく丁寧にお礼をするんだよ」

「さっきの、聞こえたよ。アラシア、駆け落ちしたの!?」

「昨夜、ライナスと一緒に快速馬車で抜け出したとか」

「何と言う驚き!」

仰天するマティに、トッド氏はユーモアたっぷりの笑みを見せた。

「驚く仕事は、我々が既に済ませてる」

ダレット夫人は、そんな父子のささやかな交流さえも癪に障った様子で、更なる金切り声で喚いた。

「トッド氏は、マティが末の子だからって、甘やかし過ぎよッ! 今この瞬間にも、わたくしのアラシアが、大変な目に遭っていると言うのに……、こんな無礼千万な悪ガキ、厳しくお仕置きしておかないと! 棘付きの鞭を使って!」

マティは『あかんべえ』と舌を出して見せる。

アラシアの駆け落ち話にはビックリしたものの、騒ぎを巻き起こして自分に注目を集めるのが何よりも大好きなアラシアの事、それ程、驚くような事態でも無い。『今まさに大変な目に遭っている人物が居る』としたら、それは、勝手に連れ出されたパートナーの男性、即ちライナスの筈だ。

ダレット夫人のムチャクチャな言い掛かりに対して、トッド氏は、あからさまな困惑の表情で応じた。

「アラシア嬢は、もう20歳……分別つく大人でいらっしゃるでしょう?」

トッド氏の脇に控えているトッド夫人は、ムッとした顔でダレット夫人を眺めている。

マティは確かに『とんでもない事をやらかす子供』なのだが、いにしえの狂信者の時代に使われていた、拷問用の棘付きの鞭を使ってお仕置きしないと分からないような、愚かな子供では、絶対に、無い。

現代では厳しく禁止されている拷問用の鞭を、児童の教育用に持ち出すあたり、『ダレット夫人の教育方針の方が絶対にオカシイ』と、トッド夫人は確信していた。第一、ダレット夫人にしてからが、レナードやアラシアの躾に、拷問用の鞭を使っていないでは無いか。悪い事をした時のレナードやアラシアが、きちんと叱られている場面など、目にした事も無い。

*****

大広間の中、少し離れた上座の方では、伯爵とカーター氏が、クレイグ牧師を交えて密談を始めている。目端の利くマティは、即座に、その奇妙な様子に気付いた。

――リチャード伯父さんが持っているのは、あの古い書状だ。

マティの頭には、幾つもの疑問符が浮かび上がって来た。

*****

時間を少しさかのぼる。

急遽、部屋に運び込まれていたルシールは、そのまま、地下階の浴室に移動させられた。

そして風呂桶の中で、石鹸の泡の中に埋もれたのだった。

「カラシ粉の影響がまだ強く残っとる……風呂の後で診察しよう」

ドクターは、ルシールの入浴をベル夫人とメイプル夫人に任せて、手際よく浴室の扉を閉めた。

扉の前に控えていたキアランの方を振り返り、顔をしかめて見せる。

「一体、テンプルトンで何があったんだ? それに、彼女が、あのメイプル夫人?」

「……何処から説明したものか……」

――とにかく、色々な事がいっぺんに起こり過ぎた。

そこへ、執事が慌てたようにやって来て、ディナーのために用意していた衣服を差し出した。

「とにかく、お着替え下さい、リドゲート卿」

*****

浴室の中では――

メイプル夫人が半ば失神したルシールを巧みに洗いつつ、不思議そうな顔でベル夫人を振り返った。

「あの方は、確か、ベネディクト様の弟様ですよね?」

「当代の伯爵様でもございますが」

メイプル夫人は、暫しの間、ボンヤリしていたが――ようやくベル夫人の言及の意味を理解した時、仰天の余り腰が抜けそうになったのだった。

■クロフォード伯爵邸…時の娘(前)■

大広間の中で、ダレット夫妻とトッド夫妻の議論が白熱していた。ダレット夫妻の方は、ほとんど、わめいている状態だ。

レナードは傍観に徹しながらも、その顔は、しらけている。

控えの間では、盾持ちのスタッフたちが、ハラハラしながら議論の様子を見守っていた。

「アラシアが、どうなっても良いってのッ!」

「トッド夫妻は、やはり金儲けにしか興味の無い、正義を知らぬ連中だったと言う訳だな!」

「そんな事は言ってません。発見までの費用は、多少なら、援助できますから……」

ダレット夫妻は、一瞬、静かになった。レオポルドが欲深を隠しもせず、目をランランと光らせる。

「ほお! どのくらい援助してくれるというのだ」

「私は事業家です。投資に見合う行動力と影響力を見せて頂けませんと。アシュコート伯爵領への交通費くらいは、ダレット家のお小遣いからポンと出せるでしょう?」

「非道な!」

レオポルドが一気にがなり立てた。

「そもそも、マネーの話は卑しいものだ! 無礼な! 援助すると言ったんだから、すぐに金を寄越せ! ダレット家の地位にふさわしい大金をな!」

「平民は、貴族の命令に従わねばならないのよ! すぐに金を出しなさい! マネー! マネー!」

レナードは、やかましい口論を繰り広げているダレット夫妻やトッド夫妻から少し離れて、一人考え事に沈んでいた。

――何だか変な事になって来た。今夜のディナーの、本当の目的は何だ?

そもそもの初めより、レナードの人生は単純だった。キアランによって不当に冷遇されている、正統な跡継ぎ。

血統や見栄え、社会的地位の条件において、非の打ちどころの無い両親。その特権的な生まれによって、レナードの前途は、常に約束されていた。

貴族の頭脳と体格は、元々、その辺の庶民などとは比べ物にならない程、有利に出来ている。名門の寄宿学校。特に何もしなくても自動的に付いて来る立派な成績。数多の宮廷セレブと関わる、選り抜きの人脈――全て、高貴な血統の力が成せる業だ。レナードは、口を開けて待っているだけで良いのだ。

しかるべき時が来れば、何もしなくても正義の力が自然に発動し、クロフォード伯爵の地位さえ、向こうから転がって来る。望めば、金も女も、自然に向こうからやって来た――それと同じ事だ。

ルシールさえも、失神すると共にレナードの方へ倒れて来たのだ。鉄が磁石に引かれるように。

レナードは、ただ、待っているだけで良かった……

不意にギクリとするような感触が来た。突き刺さるような、強烈な違和感。

キアランは、レナードより一瞬だけ速く踏み込み、倒れて行くルシールを捉えたのだ。まるで、目の前から、ルシールをかっさらって行くかのように。

――あの時、クロフォード伯爵は、『ルシールは私の娘だ』と言わなかったか?

伯爵、令嬢……?

レナードは説明のつかぬ『直感』のままに、マティに視線を向ける。

視線に気づき、マティがパッと振り返って来た。

一瞬、ルシールの面差しが重なった。意外に、姉と弟のような――

ギクリとし、焦るままに腕を組む。

レナードの身体は、内心の動揺のままに、そわそわと軸がブレていたのだった。

*****

大広間の扉が乱暴に開かれた。ハッとする大広間の面々。

入って来たのは――キアランとドクター・ワイルドだ。

クロフォード伯爵は二人の穏やかならざる様子に気付き、サッと緊張の色を浮かべる。

キアランは血相を変えたまま、つかつかと伯爵に近寄ると、のっぴきならぬ口調で詰め寄った。

「先刻の言葉は、一体どう言う事です? 父上」

「ワシにも、きっちり、ご説明頂きますぞ。いつだったか閣下は、あのお嬢さんとは血の繋がりは無いと言われた筈です」

ドクター・ワイルドも、すこぶる苛立っている。

「ああ……先に報告しときますぞ。ライト嬢は、急性ストレス障害を起こしたのじゃ。相当量の鎮静剤を投与して、後をベル夫人とメイプル夫人に任せてある」

ドクター・ワイルドは憤然として腰に手を当てながらも、鋭いギョロ目で伯爵を凝視した。

その後ろでは、即座に思案を止めたレナードが、目を見張っていた。トッド夫妻も――そしてダレット夫妻でさえも、口論を中止している。

キアランとドクターが、クロフォード伯爵を問い詰めている様を、全員が、固唾を呑んで注目していた。

「驚くべきところじゃが……同時に納得する。閣下の血筋なら、さもありなんと言うところじゃ。結局、ワシの医学的見立ては正しかった訳じゃ。ライト嬢の――ルシール嬢の、あの骨格の形は、ダグラス家の特徴を示しているのじゃからな」

ドクターの指摘は、確信に満ちている。

クロフォード伯爵はソファの中で頭を抱え、深い溜息をついた。

「タイミングを選んで、話す予定だったんだ……ああ、確かに私は、あの時は血縁では無いと言ったが。その時は私は、まだ正しい医学データを知らなかったんだ……」

近いうちに明かさなければならない事としていたが、伯爵は、ルシールに倒れる程のショックを与えるつもりは無かったのだ。もっと早く話をしていれば、ルシールが怪我だらけになる事も無かった筈である。

伯爵は後悔を滲ませ、頭を抱えながらも、説明を続けた。

「……娘だと分かったのは、彼女がお見舞いに来て、雑談の中で、六月生まれだと言う話をした時だ」

ドクター・ワイルドが目を見開きつつ、立ち尽くす。

「出生データの、四ヶ月のズレ? ……てっきり知っておられるものと……」

伯爵は苦り切った表情であった。

「何処かの弁護士が、ローズ・パーク案件を左右するような要素では無いと判断して、省いてくれたんでな」

ドクター・ワイルドの隣で、弁護士カーター氏は面目無さそうに佇んでいた。

キアランは疑問顔でカーター氏を振り返った。カーター氏は丁重に一礼し、弁解を述べた。

「修正報告書によって正式に訂正された後に、報告申し上げる予定でございましたので……」

キアランは再び伯爵を振り返った。

「ギネスの台帳に、『R・ローリン』とサインしたのは……父上ですか?」

「ああ、短い間だったが、ローリンは私の家名だったんだ。兄の後を継いでホリーと結婚した時、消滅した名だが」

カーター氏はおもむろに資料を取り出すと、伯爵の回答に補足説明を加えた。

「故ベネディクト・ダグラス様が爵位を継いで伯爵になり、ダグラス家が即ち伯爵宗家とされた後の事です。弟リチャード様の方は、結婚した場合、独立してクロフォード直系親族ローリン家の主となる筈だったのですが、ベネディクト様が急死された時と同時に、分家の創設の話も消滅していたのです」

大広間の面々は、すぐに重大な矛盾に気付いた。

――分家の家名が既にあったという事は、『既に結婚していた』と言う事以外に、有り得ない!

ドクターが、ギョロ目をいっそう見開く。

「先代伯爵の生存中の、三年足らずの間に……アイリス嬢と結婚していた……じゃと?」

伯爵は、少年のように顔を紅潮させて、うなづいた。

「兄の跡継ぎが法的に承認され、親族の間でも意見の相違が決着してからの後だ。私は、その時点でリドゲート名を喪失したが、何のしがらみも無く彼女に求婚できるようになったから……実際、重圧からの解放感で、天にも舞い上がる程の思いだったよ」

クレイグ牧師が口を開いた。

「式の担当が、私でした。正式な結婚であり、結婚証書も存在します。目下タイター問題があったし、伯爵家でも子爵問題の後処理でそれどころじゃ無く、秘密結婚、及び事後公開……という事で取り扱っていました」

「お……お父様!」

トッド夫人が目を丸くして絶句した。トッド氏もマティも、唖然とする。

「じいじ……それじゃ、26年前の九月の、ルシール・ママの、謎の旅行って……」

クレイグ牧師は、ゆっくりとうなづいて見せたのだった。

伯爵は腹をくくったのであろう、迷いの無い口調で説明を再開した。

「私は、彼女と正式に結婚していた。一日の間だけだが。翌日の朝、兄が……先代伯爵が急死したと言う一報が届いて、クレイグ牧師の立会いで、今度は離婚を行なった」

大広間の面々に、衝撃が走り……静寂が広がった。

伯爵の説明は続いた。その口調は決然としてはいたが、そこには確かに、押し隠せぬ無念が滲み出ている。

「領内の混乱はひどくなる一方、収まる気配すら無く……危険な立場になった未亡人と遺児が居た。グレンヴィル氏が殉死してまで調停に導いた全ての問題が、再び紛糾しかねない。決着すべき問題も、山ほど残っていた」

当時のショックを想起したのであろう、説明を続ける伯爵の顔からは、すっかり血の気が引いていた。

「親族の一つでしか無いローリン家――伯爵宗家としての地位と権力を持つダグラス家――、どちらを取らなければならなかったかは……余りにも、明白だった。アイリスは、すぐに離婚証書に署名し、私をダグラス家の者に戻してくれた。まさか、あの時……娘が、出来ていたとは……」

ドクター・ワイルドもまた、蒼白になっていた。額を押さえるその手は、細かく震えている。

「何たる事だ! 先々代の遺言も復活していた……こんなむごい選択は無いぞ!」

*****

先々代伯爵フレデリックは、確かに、遺言書を残していたのだ。

――『ダグラス家に爵位を移行すると共に、爵位を継ぐ条件として、グレンヴィル未亡人ホリーを正式に妻とし、保護せよ』

それは恩人たるグレンヴィル氏に対する、フレデリックなりの精一杯の善意の計らいであったのだが、その善意が、あろうことか裏目に出てしまっていたのだ。

*****

伯爵の説明が終わった事を確認すると、カーター氏は改めて、大広間の面々に語り掛けた。

「当時の社会情勢を考慮すれば、『アイリス・ローリン夫人』が何も明かさずに出奔した理由も、推測は可能です。テンプルトンの抗争で、クロフォード直系親族が続けざまに壊滅したのを、彼女は見聞きしていた。25年前の状況において、クロフォード伯爵宗家たるダグラス家の直系の息子ないし娘の出生は、必然として、領内に再び更なる抗争と混沌とを呼び起こしたでしょう。そして、アントン氏も、その辺りの事情を良く理解していた筈です」

大広間の面々に、納得と理解が広がった。

ダレット夫妻でさえも特に異論は思い付かず、沈黙を続けている。

カーター氏はそこで一息つくと、手元の書類を改めた。かねてからの打ち合わせ通りに、伯爵を意味ありげに振り向く。

「では……よろしいでしょうか、閣下」

伯爵はその問い掛けに、シッカリとうなづいて見せた。

カーター氏は威儀を正して大広間の面々に向き直ると、書類を前にして演説を始めた。

「アイリス・ライト、即ちローリン夫人は、閣下の正式な前妻と認められる者です。そして、その娘であるルシール嬢の父親は、当時のR・ローリン氏、即ち閣下であります。タイター氏による間断無き確認もあり、この事実について、疑念を挟む余地は全くございません」

ドクター・ワイルドが目をパチクリさせ、思案顔になった。

『タイター氏による間断無き確認』とは、まさにタイター問題の事であり、当時のアイリスが悩まされていたストーカー問題の、穏やかな言い換えでもある。

カーター氏は、伯爵の方を振り向き、遂に、重大な確認事項を口にしたのであった。

「この事実に従って、ルシール・ライト嬢を正式にルシール・ローリン嬢と認め、我が実の娘と公認されますか」

大広間の面々がハッと息を呑む中、クロフォード伯爵は、ハッキリと宣言した。

「――公認する!」

カーター氏は厳粛な態度で一礼した。

「公証人としてクレイグ牧師、親族代表としてダレット家当主レオポルド殿の立会いを頂き、ここに、クロフォード伯爵家の直系親族、ルシール・ローリン嬢の公認が確定いたしました」

大広間の面々に、驚愕が広がった。

――クロフォード伯爵家につながる、新しい血縁者が公認されたのだ!

「彼女って、私の姪!?」

「マティの従姉でもある……?」

最初に反応したのは、トッド夫妻だ。

続いて、ようやく理解の段階に至ったダレット夫人が、顔をひきつらせた。

「アラシアを差し置いて――」

一瞬の間を置いて、レオポルドもダレット夫人と同じ認識に至り、愕然として立ち尽くした。

――アラシアと同格か、それ以上の立ち位置になるクロフォード直系親族の――娘!

「み、認めん! 断じて、私は認めんぞ! これは全て茶番だッ! 第一、卑しい平民の結婚証書など……」

ようやくにして、レオポルドが猛然と抗議し始めたが、既にレオポルドの反応を見越していたカーター氏は、なおも冷静であった。慌てず騒がず、古い文書を取り出して見せる。

「ロックウェル公爵の直筆の公文書が、此処にございます……」

「――ロックウェル公爵!?」

レナードが叫んだ。続いてマティが驚きの声を上げた。

「――あッ! その古い手紙……!」

■首都…虚実流転(中)■

「裏口から、誰か来た!」

ヒューゴが即座に気付いて注意を促し、四人は物陰の暗がりに素早く身を潜めた。

果たして、大窓と同じ側にあった裏口の扉が無造作に開かれ、そこから、二人の怪しげな男が入り込んで来る。

怪しげな二人は互いに合図し、大きな窓の前で互いに向かい合う。一人は、小太りの身体を派手な衣服で包んでいるが、その頭の帽子は牧師のものだ。

(裏街道の牧師か……、確実にモグリだな)

エドワードが不審そうに目を細めつつ、ささやいた。

もう一人の怪しげな男は背が高く、立派な体格をしている。シルクハットの縁からは、不自然にフワリとした赤毛が流れていた。

(あの赤毛、女性を小脇に抱えてますよ。さらって来たんですか……え!? 彼女、ルシールじゃないですか!)

ヒューゴが無言で仰天する。キアランは眼差しを険しくした。

小太りの牧師は、もったいぶった様子で、懐から儀式用の書物を取り出した。人相の良くない顔をしかめ、口を歪ませる。やがて小太りのモグリの牧師は、不真面目な態度ながらも、結婚の儀式の言葉を述べ始めたのであった。

「この秘密結婚の礼金は、タンマリ用意しておけよ。招待客は居ないが、異議あらば唱えん……」

ルシールの口は赤毛の男の手によってシッカリ塞がれており、異議どころか何も言えない状態だ。

――断固、妨害する。

キアランは物陰から立ち上がると、手に持っていたステッキを構え、異議宣告を発した。

「異議あり!」

「何いッ!」

モグリ牧師と赤毛男が、同時に喚く。

「食らえ、ネコ爆弾!」

アンジェラが、『殺(や)る気』満々の黒ネコのクレイを、二人の曲者に差し向ける。

既に爪を立てていたクレイは、素晴らしい身のこなしで曲者に飛び掛かり、次々にその顔を引っかいて行った。黒ネコ・クレイは、人間の幽霊に憑依されていた間に、何がしかの戦略的知恵が付いていたらしい。交互に素早く飛び回るので、まるで分身の術を使って攻撃しているようなものだ。

「ぎゃああ!」

「痛い、やめろ!」

別の方角からの全くの想定外の急襲を受ける羽目になった二人の曲者は、黒ネコの爪を避けるのに必死だ。

ルシールが隙を突いて背の高い赤毛の男の腕を逃れ、キアランに飛びつく。キアランがその小柄な身体をシッカリ捉えた。

「あの人、銃をいっぱい持ってる!」

モグリ牧師と赤毛男が、銃を向けた。

「この野郎どもが!」

「神の名において殺す……! 正義の鉄槌、食らえや!」

モグリ牧師が構えたのは、多くの銃口を備えた新型銃だ。叫ぶが早いか、手当たり次第に銃乱射を始める。

弾幕を避けるため、五人になった一行は、一斉に物陰に身を潜める。

大音量の銃声。大量の硝煙が、もうもうと漂う。

赤毛の背の高い男の方は、手練れそのものの手つきで銃を構えていたが、次の瞬間、明らかな驚愕の表情を湛えて、口をポカンと開けていた。

――あにはからんや、硝煙の煙幕に阻まれて、狙いを付けられないとは!

弾幕の嵐が過ぎ去った後の集会所の壁は、穴だらけになっていた。

その的外れぶりを一通り眺め、呆れ返るエドワード。

「下らん腕前だ」

「何言ってるのよ! 銃乱射が、ご趣味の、極道牧師だなんて、存在自体が犯罪よ!」

初めて銃撃戦に遭遇したアンジェラは、すこぶる動転して喘いでいる。

ヒューゴも開いた口が塞がらない。だが経験者だけあって、すぐに気を取り直す。

「心配しなくても、証拠写真を撮れば逃げられません」

ヒューゴは宣言するが早いか、先程から手に持っていたカメラに手を掛けた。

カメラは、確かに作動した――

だが、作動し過ぎた。

強烈なフラッシュと共に爆発が生じた。その煙幕と衝撃波とが、大砲の如き威力をもって、極道牧師と背の高い赤毛男を襲う。

二人の曲者は、叫び声を上げつつ吹っ飛ばされ、床の上に勢い良く叩き付けられた。そして怪しげな煙幕の中、二人の曲者は、何やら静電気らしき青白い電光に取り巻かれ、意味不明な痙攣を始めた。

「……あれが、カメラ?」

「まさか」

「な、なんなの? あれ」

唖然とするエドワード、ヒューゴ、アンジェラである。

モグリの小太り牧師の方は完全に失神していた。

「クソッ!」

赤毛男は悪態をつくと、素早く身を起こして逃げ出した。裏口の方へ。

「あッ、逃げた!」

エドワードとヒューゴ、次いでアンジェラも、曲者が走り抜けた裏口に殺到した。

裏口の扉を駆け抜け、集会所に面する、もう一つの裏通りに出る。

すると、何やら馬の蹄鉄らしき大音響が、そこら中に轟いた。

目に入ったのは――物凄い勢いで、別の通りへと走り去って行く騎馬姿。

アンジェラは口をあんぐりした。

「馬が……!」

「手回しの良い奴だ」

エドワードも呆れる。ヒューゴは辺りを確認し、裏通りを仕切る掘割と柵の向こう側を見渡した。

掘割の中には、射撃場がある。間違って弾が上の方に飛んで行った場合に備えて、障壁さながらの窓の無い建物が連なっていた。勿論、ちゃんと角度も設計されており、集会所の側にも、間違って弾が飛んでも大丈夫なように、スペースの余裕が設けられている。

「射撃場の裏……! これじゃ、牧師が銃を撃っても、誰も来ませんよね」

ヒューゴの指摘に、エドワードもアンジェラも同意するばかりである。

アンジェラは、すぐに曲者の落とし物に気付いた。道路の上に残された『それ』を拾い上げる。

「髪の毛が落ちてる。あの赤毛、カツラを使った変装なんだわ」

「悪くない計画だ。奴は本気で婚姻の事実を成立させる予定だったんだな」

背の高い赤毛男の方は、念入りに変装までして、ルシールをさらっていたのだ。大した執念である。そして、不気味だ。

――三人は呆然としたままで、気付いていなかった。

裏通りの街路樹の中に、もう一人の人物が潜んでいた事を。あのマダム・リリスの愛人を務めていた伊達男、ランスロット・ナイトだ。

街路樹の中に身を隠していた伊達男ランスロット・ナイトは、曲者が走り去った方向を眺めつつ、『してやったり』という笑みを浮かべていた。

――フフフ。尾行はしてみる物だ。あの怪しい赤毛の覆面男の正体は、シッカリ見たぞ! こりゃ素晴らしいゴシップの種……!

*****

集会所の中の方では、恐怖と動転の収まらぬルシールが、まだキアランにしがみ付いていた(キアランがエドワードと共に裏口へ走り出せなかったのは、これが理由である)。

キアランがルシールを何とか落ち着かせた頃、エドワードとヒューゴとアンジェラが裏口から戻って来た。

エドワードは珍しく悔しそうな口調で、キアランに声を掛けた。

「馬で逃げられた。あの赤毛は変装だったし、手がかりは、このモグリ牧師だけだな」

一同は、モグリ牧師を注目した。

牧師らしからぬ派手な上着をまとった小太りの男は、大窓の傍らで、なおも無様に失神したままだ。傍らには、多数の銃口を備えた新型銃が放り出されていたが、その弾は、既に尽きている。

やがてエドワードが、疑わしそうな目付きで、ヒューゴを振り返った。

「証拠写真とか言ってたけど……撮れたのか?」

「それが……余り確信、無くて」

ヒューゴは口を引きつらせつつ、謎の大砲に化けたカメラを、恐る恐る、ひっくり返すのみである。

エドワードは再びモグリ牧師を観察し始めた。

「それにしても、煤(スス)まみれだな」

「カメラと言う説明でしたがね、まるで宇宙人のSF兵器です。マティ少年の発明だけに、謎ですね」

「マティの発明なら、納得できる」

「なんですか、その恐ろしい納得は!」

アンジェラが何処からか、雨水の溜まったバケツを持ち込み、牧師に水を掛けた。しかし、小太りのモグリ牧師は、なおも失神したままだ。

「バケツの水でも目を覚まさないわ……こういう類(たぐい)の極道牧師には、天罰テキメンってところね」

バケツの水で煤(スス)が流れ、牧師の人相があらわになった。中年を思わせる小太りの体型の割には、意外に若い男だ。甘やかされた子供のような印象はあるが、エドワードやキアランと同世代と言っても差し支えない。

「このモグリ牧師……!」

ヒューゴがハッと息を呑んだ。

「寄宿学校の先輩だ! 僕たち下級生からカツアゲしていた、不良グループの! 確かレナードも、そのグループメンバーで」

エドワードも改めて牧師の人相を眺め、かつて、性質の悪い事で有名な不良学生だった同輩だと気付いた。

「驚きの再会だな。殆どの科目で――特に武術で全て落第して、確か留年していた筈だが」

「卒業はしてます、親の七光か何かで。彼の父親が確か、銃器工場を所有する資産家で……準男爵の名誉を受けてるんで」

アンジェラはピンと来た様子だ。

「成る程……それで銃乱射の趣味って訳。学内で新型銃を見せびらかして、ボスを気取って歩くような学生だったんでしょ」

「大当たりです。学校では最大の不良グループを仕切ってました。工場主&準男爵どころか、裏街道のモグリ牧師とは、落ちぶれたって言うか……」

ヒューゴは首を振り振り、補足情報を付け加えた。最後は呆れ果てて物も言えない、といった様子だ。

不意に、ルシールは過去の記憶に思い当たった。ベル夫人が話していた内容の、一部分。

「レナード様に恐喝詐欺のコツを伝授していた、寄宿学校の友人って、まさか……」

「この人脈は、納得だわ……」

アンジェラは確信を持ってうなづき、モグリ牧師に非友好的な視線を投げた。

エドワードが思案顔で腕を組む。

「レナードはルシールと結婚すれば、身分回復する可能性がある。動機を考えるとレナードで決まりだが。こいつに白状させる事は、難しいだろうな」

キアランは不機嫌な様子で、ムッツリとうなづくのみだ。

ヒューゴも同意見だ。

「モグリとは言え、牧師で、秘密結婚じゃ沈黙の義務がありますしね。子孫の名誉に関わる問題じゃ無いと、情報公開は出来ないし」

アンジェラは、足に擦り寄ってきた黒ネコ・クレイを抱き上げ、自信タップリに呟いた。

「犯人を捜すのは難しくないかも。最近、ネコに顔を引っかかれた男を調べれば良いわ」

そこで、アンジェラはクルリとルシールを振り返る。ルシールは、キアランがエドワードやヒューゴと共に牧師を検分している間、邪魔しないように後方で控えているところだ。

「そろそろ落ち着いて来たかしら、ルシール?」

ルシールはドキッとしつつも、何とか……、と言った様子でうなづいたのだった。

*****

失神したままのモグリ牧師を集会所に放置し、一同は、再び公園前のメインストリートに戻って来た。

「とんだ午後の冒険だったな」

エドワードは首を振り振り、呆れたように感想を述べるのみだ。キアランは、まだ不機嫌が直らぬ様子で、ステッキを物騒に握り締めている。

「この件を冗談で済ますつもりは無い……今日中にも中央の筋に報告する」

アンジェラとルシールは、パラソルを公園前に落としたままだった事を思い出し、パラソルを回収するべく、公園に入った。

二人の淑女がパラソルを手にしたところで、カメラのシャッターが切られる音が響いた。

ビックリして振り返ったルシールは、近くの木の枝の上でカメラを構えていた少年の姿を認めたのであった。

「……まあ、マティ!」

マティは怪訝そうな顔でカメラを下ろし、早速、ルシールに話しかけて来た。

「何処に行ってたんだよ? 角の喫茶店に居なかったから、どうしたかと……」

しかし、そうは言いながらも、やはり子供であり、得意そうな様子でカメラを見せびらかし始めた。

「オイラの新発明のカメラ・オブスキュラ、すっげえイイだろ?」

「あッ、マティ君。このカメラに、もしかしたら、変な爆弾とか入れてない?」

ヒューゴが、場末の集会所で盛大に大爆発した『謎のカメラ』を示す。

マティは不思議そうな顔をしながら、問題のカメラを確認しはじめた。

「種も仕掛けも無いけど……、げ! あッ、やっちゃった。フラッシュ用の燃料が多過ぎた……」

初歩的なミスではあったのだが――

「それだけで、あんな威力が出るなんて」

「また変な物を発明したな」

「軍は、えらく興味を持つぞ」

ヒューゴ、キアラン、エドワードの順で、呆れ混じりの称賛が続いたのだった。

■首都…虚実流転(後)■

黒ネコのクレイは、一同の足の間を気ままに巡り歩いていた。そのうち、近くの茂みの中に、気になる気配を嗅ぎ付ける。

毛を逆立てて茂みに近づく黒ネコ・クレイ。

「どうしたの、クレイ?

「アンジェラ?」

アンジェラが、クレイの後をそっと付いて行く。次いでルシールがアンジェラの様子に気付き、アンジェラと同じように、足音を立てずに黒ネコの後を付いて行った。

アンジェラとルシールが移動を始めると、残りの面々も、その奇妙な様子に気付いたのだった。

黒ネコに先導されて、一同はこんもりとした茂みに身を潜めつつ、辺りを窺う……

*****

……聞き覚えのある男女の声が、前方の植え込みの間から聞こえて来る。

植え込みの間で、二つの人影が動く。金髪碧眼の美男美女、レナードとシャイナだ。

シャイナは清純な笑みを浮かべつつ、魅惑的なナイスバディの身体を、レナードの長身にすり寄せていた。シャイナの白く麗しい手が、レナードの頬を優しげにさする。

「世間では妙な噂を聞くのよね。噂では、謀反の罪で爵位継承権を喪失と言う話だけど? ダレット家のレナード様。そう言えば、そのお顔の傷、真新しいけど、変な事してネコにでもやられたのかしら? 不幸と失敗は、不思議な程に重なるのよね」

レナードは痛いところを突かれたのか、引きつった笑みを浮かべつつも無言である。

白百合の如き清らかな笑みを湛えたシャイナの、しかし、その悩殺的なまでのナイスバディをスリスリされて、陶然とならない男は居ないのだ。

シャイナは誘惑を続けるかのように、レナードの頬を撫で続けていた。

「この間の、妹アラシア様の駆け落ちと結婚も、巷のゴシップよね。宮廷の一大疑獄事件の大法廷の話、お聞きになりました? お父上にゆかりのある王族親戚の方々、大法廷で弾劾を受けている真っ最中だそうだけど?」

レナードの笑みが、ピクピクし始める。

「我がダレット家にとっては、些細な話だ」

シャイナの、純真無垢そのものの、しかし思わずキスしたくなるような誘惑に満ちた薄紅色の唇が、続く言葉を紡ぎ出す。

「フフフ……ローズ・パークのオーナー契約の法的解釈の歪曲、ライバルとなる直系親族を潰す陰謀の数々――ギャングと共に、かの王族親戚の権勢拡張の手先となって、ダレット一家がクロフォード伯爵家を乗っ取る計画……全て水の泡になったって事は無いかしら?」

レナードはヒクリとしながらも、役得とばかりにシャイナの腰を撫で始めた。

「証拠は無いんだ。ダレット家の無実は立証されている」

シャイナは、憂いを込めた美しい笑みを浮かべたまま、切り返した。

「ギャング抗争に紛れてリドゲート卿を暗殺するという作戦は、レナード様が立案したそうだけど、血の海に沈める前に、奇想天外すぎる大爆発が起きた訳よね」

レナードの、腰を撫でまわす手が止まった。ギョッとしながらもシャイナを見つめる。

「何故……」

「……私が秘密を知っているのかって事かしら?」

シャイナは、抜け落ちた疑問を補足して来た。そして、見惚れる程の雅やかな所作で頬に手を添え、その絶世の美貌を、意味ありげに傾けて見せた。

「フフフ。先日、かの王族親戚のトップを説得したのよね……この美貌でね。魚心あれば水心……と言うじゃ無いの」

「どうやって接近した!?」

「本当に観察力が貧困な方だわね……この美貌を見て、誰かに似ている……と思わない?」

シャイナは清らかな微笑みを浮かべているが、投げて寄越して来た視線は熱い。言い換えれば、清楚な微笑みを浮かべながらも、誘いかけるような妖艶な視線を向けて来たと言う状態だ。まさに全ての男が夢見る至高の女――この世の者ならぬ魅惑の聖女にして妖婦。

レナードは、崖っぷちに立ったかのような強烈なスリルと魅惑に囚われつつも、シャイナを見つめた。自分と似ている――双子のように色合いが共通している、金髪碧眼の美女を。そして次第に、レナードは青ざめて行った。

「まさか……」

今や、シャイナは、レナードと真向かいに立って語り掛けていた。

「先日、カーティス夫妻から、ルシール嬢がレオポルドの私生児では無いか、と言う疑惑を聞いた時、驚いたわ」

そして、シャイナは、遂に爆弾宣言をしたのだった。

「そう……この私こそが、レオポルドの私生児の一人なのだから……!」

凍り付いたような沈黙が広がる。

硬直したまま、動けないレナード。シャイナは再び、下心タップリに寄り添った。悩殺的なまでのナイスバディが、レナードの長身を、それとなくスリスリしている。上品で楚々とした身のこなしであるのに、端々から、むせかえるような濃厚な色気が立ち上っている。

シャイナは、清純そのものの笑みを浮かべながらも、不道徳の情熱を込めた熱い眼差しで、レナードをひたと見つめていた。美しい青い目が、妖しく潤んだ。天使の微笑に、妖魔の情熱だ。

シャイナは、まさしくファム・ファタルであった。清楚にして、妖艶。聖性と魔性を二つながら併せ持つ、完璧なまでの、禁断の――女。

運命の女。或いは、宿命の女。男を翻弄し、そして破滅させると言う、危険な魅力に満ち溢れた女。レナードは、本能の深い部分で、己の運命がシャイナの手に絡め取られてしまった事を直感し、我知らず震えていた。

「それに、もっと興味深い真実を教えてあげるわ、腹違いのお兄様。アラシア嬢は、本当はレオポルドの子供じゃ無いのよね。レディ・カミラが、ご夫君の留守の間に浮気した結果なの」

これまた、壮絶なまでの真相であり、爆弾発言だ。

茂みに身を潜めて聞き耳を立てていた一同も、驚愕の余り唖然とするばかりだ。

「年が少しばかり離れていて当然ね。テンプルトン抗争で記録が混乱するのを良い事に、火遊びを楽しんでらしたし」

「し……信じられるか!」

「私は、すぐに分かったわよ。兄妹にしては、顔立ちが異なっていらっしゃるし。色々考えると、ナイジェル氏は、実にアラシア嬢にピッタリのお相手だと感心したわ」

レナードは、もはや恐怖に打ち震えている。

「……それじゃ、だ、誰が、アラシアの実父だと……?」

「片目の巨人という二つ名をとる男。フルネーム、ウィリアム・フリン」

そこで、シャイナは、同族ゆえか同情ゆえか……慈悲深い、とすら言える笑みを見せた。

「若い頃は、彼も美青年だったとか。海賊のような危険な魅力があったそうよ」

――恐ろしすぎる真実だ。

若い頃は絶世の美女だったダレット夫人。片目の巨人も、今でこそ完全に幼児退行して、おまけにボケてしまっているが、最近までは容貌は悪くは無かったのだ。若い頃の彼は、きっと古代の英雄戦士そのものの美しい偉丈夫だった事だろう。

浮名の絶えない夫を持つ、美しすぎる貴婦人。

暗殺者として闇を生きるしか無い、暗い影を秘めた戦士。

シチュエーションからして、まさに『騎士道物語』に出て来る、禁じられた恋人たちだ。そんな二人が、人目を忍ぶ熱烈な純愛ロマンを繰り広げ、豪華な寝室で思いを遂げている有り様は、何故かスムーズに想像できた。

まさにアラシアのような、美しい子供が出来たであろうことも――

レナードは、顔に恐怖を張り付かせたまま、遁走した。

「予想外に早く消えて頂けたわね……あら、そろそろね」

シャイナは事も無げに懐中時計を手にしながら、何やらタイミングを推し量っている……

程なくして、あの大富豪ランドール氏が姿を現した。

「待ったかな、愛しい妻よ」

「ええ! 私にはあなただけなの、秘密の旦那様」

シャイナは絶世の美女ならではの、目もくらむような笑みを見せ、情感タップリにランドール氏に抱きついた。

この奇妙な密会を更に目撃する事になった、茂みの中に潜む面々は、ひたすら驚くばかりである。

「私が居ない間は寂しかっただろう、美しいシャイナ。経営会議が一杯、押して来たんだ。大勢の貴族から投資話が来るし」

「まあ、ダレット家からも投資話があったでしょう?」

「良く分かるね」

「気になる噂を聞き込んだのよ、愛しいあなた。今宵にも社交界で、アラシア様の実父の名前とか、関連のゴシップが炎上する見込みなの」

――そのゴシップ炎上は、勿論、シャイナの陰謀による物なのだが――

シャイナは美しい青い目を無邪気にパチパチさせ、心配そうにランドール氏を見上げた。

「大急ぎで投資を引き上げた方がよろしくてよ」

「片目の巨人と、レディ・カミラの火遊びの件だな。これは貴重な情報だ……賢い妻のお蔭で、我が資産は年内にも倍増の見込みだよ」

ランドール氏は、如何にも秘密を心得ていると言う様子で熱っぽくささやき返した。

そして、秘密の夫婦は、改めて情感タップリに抱き合う。そのまま、互いの身体をまさぐり合い始めた。

ルシールが慌てて、『子供には目の毒よ』とばかりに、マティの目を塞いだ。

――『きわどい大人の戯れ』特有の、妙な喘ぎ声と物音と息遣いが続く。

やがて、ランドール氏は名残惜し気に熱いラブシーンを終えて、感慨深げな様子で重要な言及をした。

「シャイナの亡き姉上殿は、レオポルドの私生児だった……ひとつ、無念を晴らせたね」

茂みの中で聞き耳を立てていたヒューゴは、その内容に驚き、レオポルドの不倫ハーレムの経歴を、改めて検討し直したのであった……

恐るべき事に、シャイナは、レナードの時とはまるで矛盾する内容に、素早く話を合わせて行った。実際、シャイナは、駆け引きにおいては百戦錬磨なのだ。いつだったか、ローズ・パーク舞踏会でパートナーを務めたキアランが、直感したように。

「ええ、本当に。あ……そう言えば、レナード様は、本当は私の方が私生児なのだと誤解しているかも知れないわね」

そして、シャイナは情感タップリにランドール氏の頬に口づけをした。

「本当は、あなたの方が、レオポルドの血筋なのだけど……」

ランドール氏は如何にも、と言った様子でうなづき、シャイナの頬に熱い口づけを返す。ランドール氏もまた、明らかに、シャイナのファム・ファタルとしての魔力に囚われている男なのだ。

再び、秘密の夫婦の、第二の『きわどい戯れ』が始まった。

ランドール氏がシャイナに熱心に語りかけている内容が、妙な喘ぎ声と入り交ざって流れて来る。

「そう、この程度で驚いてはならない……レオポルドの子供は、まだまだ出て来る。その全員が、ダレット準男爵家の嗣子の座を狙っている……マダム・リリスの愛人だった伊達男ランスロット・ナイトもレオポルドの息子、レナードを陥れるネタを見付けたとかで、ゴシップを作ってるよ……」

実際、ランドール氏の面差しは、マダム・リリスの愛人たる伊達男ランスロット・ナイトと、不思議な程に似通っている。お互いに父を同じくする異母兄弟なら、如何にも、成る程だ。

世間は狭いと言うべきか。

次々に明らかになって行くレオポルドの不倫ハーレムの結果は、実に驚くべき内容の連続だ。

茂みの中で耳を傾けている面々は、もはや恐怖に震えながら聞き入るばかりである。

一方シャイナは、この複雑怪奇な血縁関係に、少しも動じていない。悠然とした様子でランドール氏の言及に同意し、解説的なコメントすら口にしていたのだった。

「公認の嗣子なら、準男爵の地位は確実ですものね。血縁詐欺師の活動も、全国で始まってるわ。ダレット家に押し掛ける自称・後継者が何人まで増えるのか、今から恐ろしい程よね」

――10人は下らないのは確実だ。場合によっては、百人以上を数える可能性すらある。身元調査のための経費が、何処まで膨れ上がるのか、予想も出来ない――

密会の時間が残り少なくなったのか、秘密の夫婦は情感タップリに眼差しを交わし、密やかな言葉を交わし始めた。

「では、シャイナ、我が秘密の妻よ、今夜の舞踏会の逢瀬を楽しみに……」

「ええ、あなた……」

シャイナは秘密の妻らしく、貞淑かつ誠実そのものの態度で、密会の場を離れて行くランドール氏を、名残惜しそうに見送っている。

やがて。

ランドール氏が充分に遠くまで離れたと見るや、シャイナは再び、得体の知れぬ妖艶な笑みを浮かべた。

「記録の混乱に乗じて、姉上を捏造しといて良かったわ、フフフ」

シャイナは懐中時計を取り出し、何やら新たな陰謀の内容を呟き始めた。

「今夜が、アラシア・ゴシップの爆発に悩める哀れなレナードを、慰める頃合ね……マダム・リリスのヒモなる伊達男ランスロット、きっと使えるわ……」

シャイナは決然とした様子で、懐中時計を手提げ袋に仕舞った。固くコブシを握ると、これまで幾度と無く呟いて来たのであろう言葉を、改めて呟いたのだった。

「安心の老後生活に、貯蓄は欠かせないわ! レナードには、まだまだお金を吐かせられる! これがチャンスで無くて、何だと言うのかしら……!」

そしてシャイナは、絶世の美を備えた容貌を昂然と上げ、行く手に向けた。誇り高き戦士の如く、コブシを振り上げる。

「あの宝石の群れ……! ダレット家の全財産を分捕るのは、この私よ! 天国のお母様、シッカリ見ていてね! オーッホホホ……!」

あでやかな高笑いを響かせながら、植え込みの前から、足早に立ち去って行くシャイナであった。

■首都…花の影を慕いて■

誰も居なくなった植え込みの背後。

ずっと茂みの中に身を潜めていた一同は、やっと緊張から解放され、息を付いたのだった。

「盗聴して正解だったな。不穏な密談を聞かされたよ……」

さすがに半ば呆れた様子のエドワードである。

カーティス夫妻の自慢の姪御・シャイナの、『思いがけぬ正体』を目撃する形になったマティも、言い知れぬ恐怖のような物を感じたのか、顔を引きつらせるばかりだ。

「シッカリし過ぎてて、こえーよ」

「確かに百戦錬磨だな」

キアランが、ボソッと呟く。

ルシールは戸惑いながらも、アンジェラを振り返った。

「……そう言えば、誰だったかしら。レナード様にピッタリとか言っていた令嬢……」

「実は、シャイナ嬢だったんだけどね。根性叩き直し、再教育も上等……ランドール氏と秘密結婚してるのも驚きだけど、物凄い才能だわね。三角関係どころか、恐怖の多角関係もさばけるなんて」

アンジェラも首を振り振り、天をも仰ぐ格好だ。

ヒューゴは、茂みを出た後も、聞き知った内容をあれこれと整理していたが、やがて困惑の表情になった。

シャイナの秘密の夫・ランドール氏は、レオポルドの私生児。マダム・リリスの愛人たる伊達男ランスロットも、レオポルドの私生児。

どうやらシャイナは、レオポルドの私生児たちを、一気に振り回す予定のようだ。そのシャイナは、これまた、レオポルドの私生児かも知れない――シャイナには、これまたレオポルドの私生児と思しき姉が居たらしいが、話を聞くと、それも定かでは無い様子。

なおかつランドール氏、伊達男ランスロット、レナード、シャイナ、いずれも同じ父・レオポルドから生まれた兄弟姉妹ならば、この関係は、間違いなく近親相姦だ。恐るべきスキャンダラスな事態だ。

――しかし、カーティス夫妻の姪御たる良家の令嬢・シャイナが、それ程に凄まじい不道徳をやらかすという事など、有り得るのだろうか?

――それとも、レオポルドの私生児という因縁が本当にあるのか。ダレット家の後継者問題を混沌の渦に叩き落とし、レナードをも破滅させ、全財産を分捕る事で――おそらくは愛人の立場に落とされたに違いない、実の母親の復讐を遂げようとしているのだろうか?

シャイナは外国から来た令嬢という事もあり、カーティス夫妻との縁戚関係にしても、真剣に疑ってみると、相応に曖昧なのだ。シャイナが言及した通り、テンプルトン抗争の影響で当時の記録は混乱しており、得られる確証にも限りがある。

謎の絶世の美女、シャイナ。

まさしく、この世の者ならぬ女、ファム・ファタル――

ヒューゴは、忌まわしき可能性に打ち震えながらも、救いを求めるかのように虚しく呟いた。

「誰が真実を言ってるのか混乱して来た……二重、三重の近親相姦……じゃ無くて、彼ら全員が、血縁詐欺師って事……?」

「ヒューゴがそう言う位なんだから、ダレット家の将来の混乱が、今から明確に想像つくよ」

エドワードは苦笑しつつ、無難な感想で応じるのみだ。

「ウカウカしていると、レナード自身の血統上の正統性にすら、疑惑が生じる羽目になるだろうな」

黒ネコ・クレイが面白そうな笑い顔をして、タイミング良く合いの手を入れるかのように、「ニャー」と鳴いた。この黒ネコ、人間の幽霊に憑依されたという『世にも奇妙な経緯』のせいで、何らかの知恵が付いているらしい。

シャイナの陰謀により――今夜のうちにも、ダレット家にまつわる過去の因縁の数々が、凄まじいスキャンダルとして炎上する筈だ。

都のあちこちの社交場で、どのような黒いゴシップが飛び交うのか、想像するのも恐ろしい程だ。

貴族社会においては、曖昧な血縁関係は、それだけで致命的な隙(スキ)となる。

ダレット夫妻が、ダレット家の財産を自由にできる嗣子の座を狙う、隠し子、私生児、血縁詐欺師たちに取り巻かれる事になるのは明らかだ。その更に後ろには、追い払っていた筈の借金取りやギャングたちの大群が、しつこく控えているに違いない。

若い頃のレオポルドは、地位と権力と財産に恵まれた絶世の美青年で、浮名が絶える事は無かった。不倫を伴うハーレムをたしなんでいたと言う華々しい過去さえある。レオポルドの私生児の数は、確実に10人以上は居るのだ。

レナードは、早々に『ダレット準男爵家の嗣子』の座から引きずり降ろされ、血縁詐欺師たちの群れに混ざる羽目になるだろう。

近い将来、アラシアが先頭となって、レナードやダレット夫妻をゴシップ攻撃するであろう事も、容易に予想できた。アラシアは、ナイジェルと結婚した事で金欠状態になっているのだ。

アラシアにも、ダレット家の社会的地位や全財産を分捕るに相応しい、正当な権利とチャンスがあるのだ――という事を、あの欲深な、かつ機を見るに敏なギャング=タイターが、アラシアに吹き込まない筈が無い。

キアランが、いつものようなムッツリ顔で、シルクハットを直した。

「結局、彼らの真実は、藪の中……それもまた、結果の一つではあるだろうな」

エドワードが意外そうな表情を浮かべて、キアランを振り返る。

「冷静だな、キアラン」

「私の関与する問題じゃ無い」

「……あまり驚いていないように見えるぞ」

「一生分の驚きは、既に使い果たした」

キアランは、実にあっさりとした態度だ。

実際、キアランは、今さらダレット家にどんなスキャンダルが積み重なろうと、さほど驚きはしないという状況なのだ。

……やがて、エドワードは納得の顔を見せたのだった。

*****

夕陽の光が差すメインストリートをそぞろ歩いている内に、大きな広場に出る。

人通りの多い広場の真ん中に、首都が誇る大聖堂が、そびえ立っていた。

中世の面影が窺える、ゴシック風の大建築だ。数多の細い尖塔の群れに取り巻かれた本堂の上階層には、見事なバラ窓が見える。

マティが早速、新発明のカメラを構え、はしゃいでいた。マティの足元で、黒ネコ・クレイもニャアニャアと鳴いている。

ヒューゴがガイドをし、アンジェラとルシールは感心しつつ、歴史建築物を眺め始めた。

「本で知ってたけど、実際に見ると、また違うわね」

「そう言えば、アンジェラもルシールも、首都に来るのは初めてだよね」

「生きてる内に、実際に見られる日が来るとは思わなかったわ」

「バラ窓のステンドグラスは一見の価値ありなんだ。夕方の今のタイミングがベストかな。申し込めば見られるから、また時間が出来た時にでも」

「ええ、是非」

キアランは、ごく自然に、その方向を眺めた。

その黒く静かな眼差しの先には……バラ窓に見入るルシールが居る。

やがて、キアランは感慨深げに呟いた。

「……カーター氏が言っていた。『真実は時の娘』……と」

エドワードは暫し沈黙していたが、やがて親友ならではの、理解のある真摯な表情を浮かべた。

「時の娘、花の影……か」

エドワードは、深い奥底に閃いたものを、何とか言語化しようとして――目の前の大聖堂を見上げる。

バラ窓の周りを、定番の聖句が巡っていた。

――劫初 終極 界(カイ)を湛えて立つものよ――

「……《藪の中》も、《花の影》も、世界が見せる『真実』の二つの相だな。生と死のように、二つの相は、一つの世界を構成する……」

――世界とは、《有限》の器だ。だからこそ、劫初なる物と終極なる物が――例えば、生の相と死の相が――あるのだ。愛と憎しみ。善と悪。成功と破滅。確定性の真実と不確定性の真実――

――世界とは、まさしく、《無限》から贈与された、「二つにして一つのモノ」であるのだろう。

エドワードはキアランを振り返ると、イタズラっぽい笑みを浮かべた。

「……多分、我々は幸運だったんだ――我が友よ」

キアランは無言で、ゆっくりとバラ窓を見上げる。

壮麗なバラ窓は夕陽に染まり、金色に輝いていた……

*****

一同は各々解散し、次第に夕宵の色合いに染まってゆく帰路に、歩みを向けた。

キアランがおもむろにルシールに腕を差し出すと、ルシールはやはり、いつかのように物慣れぬ様子で戸惑った後、キアランの腕を取った。

キアランはルシールをエスコートして街角を歩きつつ、ふと思い出したと言った様子で語り始めた。

「ギネス氏から、あのブローチの修理が済んだ……と連絡がありました」

「……?」

ルシールはキアランを見上げ、首を傾げた。

「品も到着したので、タウンハウスの方に転送してあります。別の言葉が、上書きで刻印されています……形見のブローチに相応しい言葉だと思いました」

「別の言葉?」

*****

クロフォード伯爵家が所有するタウンハウスにて。

都の土地は限られているため、各所にある大きなタウンハウスを、幾つかの貴族たちが分割所有している形だ。それでも、上流貴族の持ち物と言うべきか、地元の館に次ぐレベルの豪華さである。

喫茶室となっている小間に無事に落ち着いたルシールは、やがて、宮廷の業務から戻って来たクロフォード伯爵のお見舞いを頂いた。

ルシールの無事を確認しながらも、伯爵は、驚愕と安堵の入り交ざった溜息をついている。

「キアランは、事件の報告に行ってるんだ。今日は大変だったな……無事で良かった」

「お蔭様で……ご心配お掛け致しました……」

ルシールは困惑顔で、手に持っていた小包を、そわそわと撫で回した。

椅子に落ち着いた伯爵は、ルシールが持っている小包を不思議そうに眺め始める。

こうして、クロフォード伯爵は、ギネスから送られて来た、修理済みのアメジスト細工のバラのブローチを手に取り、少し変化した部分を目にする事になったのだった。

キアランが言及した通り、バラの形をしたブローチの金属部分には、新しい言葉が刻印されている。

「……『花の影を慕いて』……か」

クロフォード伯爵は感慨深げに呟き、ルシールに微笑んで見せた。

「ギネス氏も、粋な事をやるな」

夕陽は更に傾き、数奇な運命に翻弄された親子に、柔らかな光を投げ続けていた。

終章「夕映のエピローグ」

これは過去の情景である。

全てを秘めた、あの雪闇から、過去へ過去へとさかのぼり……

――26年前、九月某日。

夕陽に照らされた緑の丘陵地帯。

あの日、夕暮れの緑の丘の――道の辻に立つ木の下。

かつては夫だった人との離婚手続きを済ませたアイリスは、正統な手続きにのっとって結婚指輪を外したのであったが、指輪を持って立ち尽くすばかりであった。

『本来ならば結婚指輪をお返しするところですが……もう少しだけ、持っていても良いですか?』

そのアイリスの呟きに応えたのは……仲立ちを務めた、第三の人物。

『お気持ちは分かります。かような内容を即日ご承知頂き、感謝するばかりでございます』

辻に止まっていた馬車は、二人の紳士を乗せると、暮れなずむ道を急ぎ足で駆け出して行った。

かつては夫だった人は、馬車の窓から、辻の木の下に佇むアイリスの姿を振り返った。

しかし、アイリスは固く背を向けているばかりで、彼には、先刻までは妻だった人の最後の表情は、遂に分からないままだった。

――これで最後だからと、馬車の窓から幾度も彼は振り返ったが、彼女は、もう二度と振り返らなかった。

緑の丘の上に落ちた夕陽の影が、地形に沿ってくっきりと分かれ、まるで永遠の別れを告げる底知れない裂け目のように、また黒い海のように見えた……

*****

――数年後の、ゴールドベリ邸の庭園の一角。

いつしか、物心つき始めたルシールが、やはり自然に、見ず知らずの父親について質問した時の事。

『パパって、いけない人だったの? アンジェラのパパの……ように』

アイリスは暫し考えた後、首を振った。

『ちゃんとした紳士だったわ。遠くに行ってしまったの……それだけなの』

そう言って、遥か彼方の空を眺めるアイリスの表情は、何処と無く寂しそうだ。

しかし、ハッキリとした憂いの影が差したのは一瞬だけの事だった。アイリスは顔を伏せて、思い切るかのように、フッと息をつく。アイリスはすぐにニッコリと微笑み、生真面目な顔をしたルシールを、振り返って来た。

アイリスは、幼いルシールを抱きしめながら、ささやいた。

『ルシールを産んだ事は、私の人生で最高の出来事だったのよ。ルシールも、大人になれば分かるわ……20歳になったら、お話してあげる』

ルシールは、少しの間キョトンとした後、母親の胸の中でご機嫌になった。

その当時、『運命』という物を思い知るには、ルシールは幼過ぎたのだった……

*****

――母親アイリスとの、謎めいた約束。

ルシールは、もう20年ほども前になろうか――と言う、そのささやかなエピソードを、万感の思いと共に回想していた。

窓枠にもたれて、ボンヤリと回想にふけっている間に、相当の時間が過ぎたらしい。

不意に、背中にショールが掛けられた事に気付き、ルシールはギョッとして息を呑んだ。

誰か居るのかと、慌てて振り返ると――

そこには、キアランが立っていた。

どうやら『事件の報告』云々と言う用件が済んで、タウンハウスに戻って来ていたらしいのである。

「い……いつ、お戻りに、なっていたんですか……」

ルシールは動転の余り口ごもっていた。キアランは呆れたような眼差しを返して来る。

「……驚かせるつもりはありませんでした。余りにも静かなので、眠っているのかと……」

キアランは暫くの間、ルシールを眺め回すと、いつものようにムッツリとした様子で付け加えた。

「日が落ちたら、あっと言う間に冷えますから」

確かに、此処の窓まで吹き渡って来る夕風は、昼間に比べると随分と涼しくなっている。初夏とは言え、昼夜の気温差は大きいのだ。

――薄手のワンピースのままだった。

ルシールは頬を染めつつ、ギクシャクと一礼し、ライラック色のショールを、シッカリとまとった。

キアランが、ルシールの隣に寄り添うように立つ。

開け放たれた窓から、暫しの間、暮れなずむ夕空と首都の街並みを眺める。夕陽に照らされた地上のストリートでは、賑やかさが続いていた。

やがてキアランが、口を開く。

「都のシーズンの後、地元に戻ったら……トワイライト・グリーン・ヒルに旅行すると言うのは、如何ですか?」

ルシールがその問い掛けの意味を考え始めていると、キアランは不意にルシールを振り返って来た。

「……二人で」

ルシールは、一瞬キョトンとして、キアランを振り返った。

キアランは何かに気付いたように、そのままルシールをしげしげと注目し始めた。ルシールは戸惑い、だんだん真っ赤になって行ったが、キアランは視線を外さない。

「浅い角度で光が入って……紫色ですね」

そして、キアランの手が自然に、ルシールの頬に触れて来たのであった。

*****

――畢竟 謎は花之影(アマランタイン)
雲間より洩る光の如く――

―《完》―
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深森の帝國