深森の帝國§
総目次
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物語ノ傍流
〉猫天狗が光り舞う!~不惑の年のボーイ・ミーツ・ガール事件(海外版)
猫天狗が光り舞う!~不惑の年のボーイ・ミーツ・ガール事件(海外版)
リゼール・グラントも、もう不惑の40歳。「こんな素敵な中古物件があるのよ!」という熱いプッシュがきっかけで、大きなネコと一緒に住める念願のマイホームをゲットする。
いわくつきの物騒な訳あり物件、化け猫屋敷だと言うけれど、すでに過去の話のはず。だが、しかし。
銀行強盗に、怪人の出現に、化け猫に、近所トラブルも転がり込んで来て…リゼールに穏やかな明日は来るのか!妖怪探偵な猫天狗、海外でも八面六「尾」の大活躍をする!
- 不惑の女、家を買う~君の居る町角
- 化け猫屋敷のその訳は~猫天狗、夜に光り輝く
- 化け猫屋敷をとりまく化け猫騒動とその後
- 急展開~化け猫屋敷は右往左往
- 猫天狗が舞う~対決バトルと爆発と真相と
- 化け猫屋敷の後日談~そして、君の居る町角
(2021/04/29~2021/05/04公開、30,436文字)
1.不惑の女、家を買う~君の居る町角
「もう40歳、お母さんもイイ年じゃない。と言う訳で、思い切って、引っ越しするのよ!」
――と、フワフワ栗毛の可愛い娘が言った。
いや、正確には、リゼール本人のお腹から出て来た娘じゃないけど。
業務休憩の時間を使って、近くの公園で、約束どおり落ち合い。
休憩の一服に口を付けようとしていたリゼールは、そのままポカンと固まり……新婚ほやほやな娘エセルを、眺めるのみだった。
「おまえもそう思うわよね、ねえ、ヘキサゴン」
「にゃー」
エセルの足元で、灰色の巨大ネコが金色の目をピッカピカと光らせ、同意とばかりに鳴く。
灰色のネコ尾が素早く振れた。その残像、六尾。神々しい六角形(ヘキサゴン)が浮かんでいるようにも見え。
「エセルとロジャーのとこはペット禁止だし、フラットの方も、余裕で飼えるほどの広さじゃ無いしね……でも見つかるの? そんな、場所も価格も都合の良い物件」
「それが、見つかったんだな」
ババッと不動産屋のチラシを広げるエセル。
「善は急げ、よ!」
*****
「信じられない。ホントにあった訳ね」
会計スタッフ業務を午前中に切り上げ、エセルと共に目的の場所を訪れたリゼール。
目の前の中古物件を眺めて感心しきりだ。
田園レトロ風の素敵な家。緑豊かな広い庭が、セットでついている。
「どうぞどうぞ、じっくりご検討ください」
仲介業者が愛想よく手もみをしている。
「資産家のお宅だった所でございましてね。古い家ですが、キッチンなど水回りは最新式です。部屋も広いですし、基礎部分も、昔ながらのシッカリしたつくりでございますよ。
この庭も、もともと馬車が乗り入れるために、馬小屋もセットで広く取られたスペースでございました」
程よく木立に囲まれていて、巨大ネコが悠々と遊べるくらいの広さだ。家の中の方も、屋根裏部屋やサンルームなど、隠れ場所や探検場所に事欠かない。
「あのサンルーム、周りのバラとか整備したら、それを眺めたり本を読んだりしてお茶をするのに、ちょうど良さそうね」
エセルがフワフワ栗毛をふわっと広げて、満面の笑みで振り返って来た。
「ねッ、いいでしょ、お母さん。此処からだったら、職場の方も、フラットのとこよりもずっと近くて便利じゃない。車通勤もできるし。
私とロジャーの所とも、ほどほどに近いし。ヘキサゴンとも、前よりもしょっちゅう会える!」
「便利だけど。どうして、これほどの物件が、こんなにお買い得なの?」
リゼールは眉根を寄せて仲介業者を振り返った。
戸惑ったように目をパチクリさせる、仲介業者である。
黒縁メガネの会計士リゼール、40歳。黒づくめの、カッチリとしたスーツ。
新婚ほやほや25歳、ピンク色のロマンチックなファッションに身を包むエセルと比べると、はるかに貫禄があるのだ。
エセルと同じ栗毛だが、キッチリまとめ髪にしているので、きつい、気難しそうな印象もある。
「ゴホン……ええ、そうですね、奥様。ちゃんとお話しするのが筋ですから申し上げますが。ええ、この家には、つまり不幸な過去がございましたことを、お含み頂ければ」
「不幸な過去?」
「ま、前の方の、最初の住人の方は、ええと、そこで、その、無論……お聞き及びでしょうね」
「聞き及んでは……いないわね」
リゼールは首を傾げた。
「私も聞いてないわ。私とロジャーが住んでるのは、この町の反対側だし、お母さんも、鉄道を乗り継いだ先の町だし」
エセルがキョトンとした顔になっている。
「え、その、奥様。殺人事件があったのでございます。
新聞や雑誌が『化け猫屋敷、ブルジョア夫人、浴室の惨劇』と書き立てていた事件でして、つい三ヶ月前の事ですから、きっとお読みになったかと存じます」
「見出しで見た気もするけど、そちらの整理は専門では無かったから。それで、この家の浴室が、その殺人事件の現場だったということですか?」
仲介業者は浴室へと案内し始めた。ハンカチを出して、しきりに汗を拭いている。
「え、ええ。前の方、ブライトン夫人は若くして未亡人になった方でして。三ヶ月前の或る日、ブライトン夫人は浴槽の中で、大量出血の変死体として発見されたそうです。
その時、大きな化け猫がうろつき回り、お、おお、恐ろしい鳴き声を轟かせていたそうで」
「化け猫?」
「でで、ですが、いま現在、浴室はすっかり清掃と消毒が済んでおりまして、浴槽も含めて、何から何まで、すべて新品でございます。
化け猫退治と怨霊退散と悪魔祓いの儀式も、地元の教会より専門の御方をお呼びし、すべて済ませておりますので」
確かに、浴室は新品だ。水回りもすっかり交換されている。
リゼールとエセルは、顔を見合わせた。
――灰色の巨大ネコ「ヘキサゴン」が、新婚ほやほやの、エセルとロジャーの賃貸住宅に迷い込んで来たのも、だいたい三ヶ月前だ。
一目惚れはしたもののペット禁止の契約だったから、エセルとロジャーは困ってしまって、ペット可のフラットで一人暮らしのリゼールに、一時預かりを依頼して来ていたのだった。
「ねえ、エセル。化け猫の件、まさか……って事は……?」
エセルは笑い飛ばした。かえって、冒険好きな性質が前に出て来ていて、目がキラキラしているくらいだ。
「そんな筈ないわよ、お母さん! いくら大きくても、ただのネコが殺人事件、起こす? 町の反対側まで飛んで来る? 魔女と使い魔の中世ならいざ知らず、今は車と鉄道と電気が走る時代よ!」
*****
結局、リゼールとエセルは、その家を買う手続きに入った。
なんと言っても、リゼールは、バラの花に囲まれたサンルームが気に入ってしまったのだ。浴室の件は気になるものの、堅牢な基礎に、設備がすべて新品というのは、願っても無い。
「お母さん、これは私からのプレゼントとも思ってね! ロジャーに住宅ローンの事、お話しといてあげるから。それにロジャーは銀行員だから知識は確かよ」
エセルはそう言って、灰色の巨大ネコ「ヘキサゴン」を撫でまわした後、ロジャーと共に住む家へと帰って行った。
*****
リゼールの日常はあわただしくなった。
月末までにフラットを引き払い、引っ越しを済ませる。
あらかた家具の搬入が済んだところで、顔見知りとなった隣家のプラム夫人が話しかけて来た。かなり高齢で、総白髪のお婆ちゃんという風だ。陽気な気質で口が良く回る。
「リゼールさん、あのフワフワ髪の、お可愛らしい娘さんの方はどうしたの? ええと、エセルさんとか言ったかしら?」
「ええ、彼女はエセルと言います。さっき電話がありましたし、もう少ししたら到着するかと」
「ねえリゼールさん、前から不思議に思ってたんだけど、リゼールさんの旦那さんの方は?」
「いえ、私は独身ですので」
「……あら? 娘さんが居るのに? あら? あらら?」
プラム夫人が、何やら目を白黒し始めた。
その時、夢見るようなピンク色の車が、角をギュンと曲がって現れて来た。エセルのマイカーだ。
いつものエセルの運転らしくない、何やら焦っているような風だ。
「エセル?」
「お母さん! 今は何も言わないで、急いで、アレ入れて!」
「え? あぁ、プラム夫人、ちょっと失礼します」
エセルが車の後部座席に積んで運んで来たのは、さきほどの電話でも連絡して来たとおり、灰色の巨大ネコ「ヘキサゴン」が入っている大きなケージ。
リゼールの脳裏によぎったのは、ハンカチで汗を拭きまくっていた仲介業者だ。
灰色の巨大ネコ「ヘキサゴン」は確実に化け猫ではないが、殺人事件で出没したと言う大きな化け猫を思い出させるような姿形とサイズは、間違いなく誤解される。
気の良い隣人――プラム夫人を必要以上に仰天させる必要は無い。怯えさせる必要は、もっと無い。
リゼールは大きな風呂敷を取り出して来た。
エセルの車の後部座席のケージの中では、灰色の巨大ネコ「ヘキサゴン」が、訳知り顔な様子で金色の目をピッカピカと光らせている。
リゼールは素早くケージを風呂敷で覆い、エセルと一緒に、えっちらおっちらと運んだ。
プラム夫人の、興味津々、なおかつ不思議そうな視線が、ずっと追って来ているのを感じる。
(あのね、爆発物とかじゃないから大丈夫なの。あまり注目しないでね、プラム夫人!)
買ったばかりの家の中に、巨大ネコのケージを入れた所で、ようやく息をつく。
「それにしても、どうしたの、エセル? 何か慌ててない?」
「ま、まだ混乱してるの。どういう事なのか分からなくて……ね、ねぇ、しばらく、お母さんのワードローブ借りるからね!」
「ちょっと、エセル!」
そうしているうちにも、巨大灰色ネコのヘキサゴンは、自分でケージを開けて出て来ていた。いかにも窮屈だったと言う風に伸びをした後、片脚を上げて、灰色のネコ顔をカリカリとやり始める。
エセルは、整理が済んだばかりの衣装棚を開いて、早くも呆れ顔だ。
「まぁー、お母さん、よくも、こんな魔女みたいな黒いスーツばかりコレクションしたわね」
「会計士って、そんなものでしょ。エセルの服が必要以上にピンク・ピンクしてるだけじゃない。今どきの若者の趣味は、謎だわ」
「40歳、まだ女を捨てる年じゃ無いでしょ! ま、変装に役立つからいいけど」
「変装って?」
*****
その頃。
プラム夫人は、地元メインストリートにある公民館を訪れ、地元交流サークルの奥様がたとの井戸端会議に精を出していた。
「まぁまぁお聞きになってよ、奥様、信じられて? うちのお隣の『化け猫屋敷』に新しく越して来たリゼールさん、25歳の既婚の娘さん……エセルさんがいらっしゃるのに、ご自身は独身ですってよ!」
「いま40歳とか。って事は、15歳で娘さんを産んだって事よね? 学生の頃じゃないの! え、遊び過ぎて、予期せぬ妊娠とか?!」
「ミステリーだわ。オカルトだわ。会計士の勉強って大変な筈よ。そっち方面で遊んでいたような子には見えないし。いっつも黒いスーツ、ひっつめ髪、それにあんなぶっとい黒縁の瓶底メガネ」
「それよりプラム夫人、お聞きになって? 向こうのストリートの銀行に、強盗が入ったのよ! さっきまで警察が一杯来ていて、ごった返していて大変だったのよ、もう」
「大変! 銀行強盗ですって? 何時ごろ?」
「お昼ごろよ。あら大変、もう夕食の準備しなきゃいけないわ。うちの旦那、腹が減ると大騒ぎなんだから」
「うちも同じだわ。じゃそろそろ――あら?」
「何かあって、プラム夫人?」
プラム夫人はポカンとした顔で、窓の外を見つめていた。
「噂をすれば影だわ。あのスーパーの前に居るの、リゼールさんよ」
「リゼールさんですって? まぁ、ホントに黒いスーツにひっつめ髪に、黒縁メガネなのね」
「彼女が、あの『化け猫屋敷、ブルジョア夫人、浴室の惨劇』の家に越して来た人ね」
「あの大荷物、数日分の食料品とか何からしいけど」
「どういう事かしらね、あらあら、まぁまぁ、人とぶつかったわよ」
……
…………
………………
リゼールは、出合い頭に顔面を打ち付けた。
買い物を済ませてスーパーから出て来たばかりのリゼールは、荷物に気を取られていて、あらぬ方向から接近する人物に気付かなかったのだった。
一ダースばかりのリンゴが袋ごと地上に落ちた。てんでバラバラに、ゴロゴロと転がり出す。
「リンゴ!」
「おっと、これは済まん!」
その人物の身のこなしは、小気味の良いものだ。
瞬く間にすべてのリンゴが元の袋に収まる。
まだメガネの位置を直していたリゼールの前に、年季の入った大きな手が、いや、袋が差し出された。
「どうも」
目の前にあるのは、洗いざらしのジャケットと、ワイシャツとネクタイ。ジャケットのポケットからは、特徴のある黒い手帳が少し飛び出している。
(背の高い……私服の刑事)
注意深く見上げる。
同じ年頃の中年の男。コーヒー色の髪。
年相応に白髪が混ざっているが、雰囲気は若い。快活な性格が窺える。モデルのような、という類では無いけれど、十分に男前で、清潔感のある整った顔立ちだ。
「おっ」と言ったように目を見開いた後、破顔一笑して来る。
急に、リゼールの心臓が早鐘を打ち出した。
「初めましてで良いのかな。最近、近所で引っ越しがあったと聞いたけど、本人ですか?」
「そうですが」
「では、自己紹介させてください。オスカー・ベルトランです」
「リゼール・グラントです。済みませんが、急ぎますので」
リゼールはリンゴの袋を受け取るが早いか、他の荷物と共に、真っ黒なレンタカーのトランクに積み込み……急発進させた。
(不自然な態度じゃなかったかしら。なかったよね。急いでいるのは本当なんだから)
――『コーヒー色の髪をしてる刑事に気を付けて。お母さんも私と身体のサイズ同じだし、似てるんだから、怪しまれないようにしてね。背の高い色男って感じの人よ。
覆面を準備中だったみたい、銀行強盗っぽい人を見てしまって……私が見たの、その人なの。刑事が銀行強盗だなんて、まだ確信、持てないけど、でも、でも……』
怯えた顔になったエセルが思い出される。
(あの刑事、ベルトランとか言ってたっけ。この町に越してきたことを、もう知ってた。アヤシイ。不自然。もし、本当に、エセルの考えが正しかったら……限りなく、ヤバいわ!)
心臓が落ち着かない。
リゼールは車のスピードを上げた。法律違反にならないギリギリの数字だ。
この町の反対側を回って来るのだから、本当に急がないと!
2.化け猫屋敷のその訳は~猫天狗、夜に光り輝く
翌朝。
リゼールは寝不足だった。
プラム夫人が、何やら訳アリ顔をして、バラの茂みから顔を突き出して来る。
「おはよう、リゼールさん、昨日、スーパーでいっぱい買い物してたでしょ」
「見てらしたんですか、プラム夫人」
「なんで買い物の後、反対側の方へ車を運転してたの? 家がこっちなのに」
「あぁ、エセルの家が、そっちですので」
「あら? 娘さん、確か、結婚してるのよね? で、町の反対側に旦那さんと住んでるのよね? リゼールさん、そっちへ行ってたの?」
「そうですが」
プラム夫人は何やら、目を白黒させ始めた。
「朝帰り。娘さんがこっちの家にいる間に、リゼールさんが町の反対側のところへ……?! ヒモ?!」
「何の事ですか?」
「いえいえ、ねぇリゼールさん、お宅で起きた『化け猫屋敷、ブルジョア夫人、浴室の惨劇』の方、その後の進展はあって? なんか昨夜、化け猫の姿を見たような気がするのよね」
「どういう事です?」
プラム夫人は意味深そうな様子になり、妙に、エセルが居ると思しき、庭の一角をうかがっている。
その一角では、引っ越し作業員に変装したエセルが、結構な数になるガスボンベを、サンルームの脇に並べて整理している所だ。
別に不自然なものではない。金属溶接バーナーに使用するガスボンベだ。
エセルの夫ロジャーは真面目な銀行員だが、その一方で、金属工芸という変わった趣味に没頭しているオタクな若者だ。大学で金属工学を学んでいたエセルと意気投合し、早々と結婚の運びとなったのだ。
引っ越しの話を聞いたロジャーは、『それなら、貸し倉庫が空くまで、このガスボンベを一時的に預かっててくれないか。
何でか前の人の運び出しの作業が遅れてるみたいで、まだスペースが空かなくて、ガスボンベを運び込めない状況なんで』と依頼して来ていたのだった。
やがて。
プラム夫人は、『化け猫屋敷、ブルジョア夫人、浴室の惨劇』のあらましを話し出した。
「前の住人、ブライトン夫人が若くして未亡人になった事はご存じ?」
「確か、不動産の仲介業者さんが、そんな名前を言ってましたね」
「説明したのね。そう、そのブライトン夫人、亡き御夫君の遺産があって、かなり裕福だったのよね」
「ふむ」
「それでね、ブライトン夫人にはヒモが居たのよ。若くて金に困らない、新しい男と新しい恋を……ともなると、そうなるわね」
「個人の自由の範囲でしょうね」
「色男の方、名前は『ルカ・アルビオン』って言うんだけどね、彼、財布のひもをシッカリ管理しているブライトン夫人に嫌気がさして来て、もう少しお小遣いをくれと迫った訳ね。
ブライトン夫人、あまり銀行を信用してなくて、ほとんどタンス預金だったとか」
いつの間にか、エセルが作業の手を止めて、興味深げに耳を傾け始めている。
プラム夫人の話は続いた。
「三ヶ月前、夜のお勤めの際に金の無心の話がこじれて、色男の方は、ついに化け猫を召喚して、ブライトン夫人をギッタギタに殺害したのね」
「化け猫ですか」
「えぇ、えぇ、年取ってガタが来てる心臓が、ついに止まるかと思いましたよ。あんな恐ろしい化け猫の鳴き声、忘れようったって忘れられるもんじゃありませんよ。
私の夫もビックリして、『化け猫が出た』って通報したくらいよ」
プラム夫人はブルッと身体を震わせた。
「ルカ・アルビオンってヒモ男、ブライトン夫人を粉々の肉片(ミンチ)にして、ひとつ残らず、浴槽の排水から流して、死体消失しようとしてたそうなのよね。
警察が到着した時、色男はブライトン夫人を完全に粉々にできてなかったとか。化け猫が非協力的だったのか、警察の到着に気付いたのか……捕まる前に、ドロン!」
「みごと、大金を手にしてドロンしたという事ですか?」
「あら、リゼールさん、ねぇ家の中をよく探してみた? みんな言ってますよ、大金はこの化け猫屋敷の何処かに、まだあるって」
「警察は、お金を探さなかったんですか」
「随分と捜索はしてたけどねえ。ブライトン夫人が知恵の限りを尽くして保管した隠し金よ、見つからなかったみたいね」
「はあ」
「いいこと、犯人は、外見の特徴を警察に目撃されるまで、ギリギリ現場に居て、聞くも恐ろしい作業に……、
警察が来て、すごく慌てて逃げ出したに違いないから、大金を探し当てる時間は無かった筈なの。犯人は必ず、大金を手にするために戻って来る。
警察の方も、ずっと、この三ヶ月、犯人が戻って来るのではと踏んで、この化け猫屋敷を監視してたし。警察が大金を発見できていたら、そんな無駄な見張りはしないでしょ」
プラム夫人の推測は、『化け猫』の部分はともかく、筋が通っている。
意気揚々と総白髪をなびかせながら、プラム夫人が立ち去った後。
リゼールとエセルは、疑念を浮かべた顔を、見合わせたのだった。
*****
「そちらの方で、そんな事件があったとは。なんて恐ろしい事件だろう。エセル、大丈夫かい? そうそう、こちらの銀行強盗の件だけど、警察は、みごと犯人の一人を捕まえたよ。
犯人は二人組だったそうだから、もう一人も、きっと明らかにされる筈だ」
「最新情報、ありがとね、ロジャー。そう言えば、食料は足りてる?」
「ああ、大丈夫だよ。リゼールさんに、お礼言っといてね。愛してるよ、エセル」
「私もよ、ロジャー」
エセルは受話口でチュッとリップ音を立てた後、電話を切った。
「ロジャーとの話は済んだ、エセル?」
「うん」
「じゃ、夕食にしましょ。で、問題点を整理」
「了解」
「ヘキサゴン、おいでー。夕食だよ」
「にゃー」
金色の目ピッカピカの灰色の巨大ネコが、六本にも見える尻尾を振り振り、屋根裏部屋から降りて来た。
「この家の中、あらかた探検しちゃったみたいだね、ヘキサゴン」
「にゃー」
リゼールが頭を撫でると、灰色ネコは、ゴロゴロと喉を鳴らした。大きな身体にしてはビックリするくらい可愛らしい音だ。
「エセルは引っ越しの日、フラットへ行って、ヘキサゴンをケージに入れて、車で来たのよね」
「そう。そして、住宅ローンの書類を取りに行くために、例の銀行に寄った」
「駐車場の空きスペースに車止めて、ヘキサゴンの状態を確認するのに時間を取って。そうしているうちに、たまたま、銀行強盗の二人組が覆面を付けようとしている所を目撃して。
一人の方の人相は、こっちを向いてたので、シッカリと見た、と」
エセルは頷きながらも、ブルッと身体を震わせた。
「実際に見てた時は『何してるんだろう』としか思わなかった。覆面レスラーの特撮ヒーローとか居るでしょ、ああいう、子供向けフェスティバルとかのイベントだと思った」
「子供向けのイベントとかじゃ無くて、本当の銀行強盗の準備中だった訳ね」
「あ、あの襲撃が起きた時、私、住宅ローンの書類あれやこれやを持って、銀行を出る所だったのよ! あの覆面の二人、何か見た事のある覆面だなって思って、ビックリして。
警察にも、ちょっと報告したけど。『ヘキサゴンを届けた後で、詳しく目撃証言を』って事になって……」
灰色ネコのヘキサゴンを届けるため、リゼールの家へ向かって運転しているうちに、パニックしていた思考が落ち着いて、冷静になって。
エセルは見る間に苦悩の表情になり、フワフワ栗毛に指を突っ込んでウンウン言い始めた。
「襲撃が終わった後で、警察がいっぱい集まって来て。その中に、コーヒー色の髪の、あの強盗と同じ顔の男が居た、と思い出して、ギョッとしたのよ。
確かよ。名前は知らないけど。まさか刑事が……銀行強盗をやってるなんて。怖くなって、そのまま、こっちに引っ込んじゃった」
実際、エセルは、あの日以来プラム夫人にも目撃されないようにコソコソしているところだ。外に出る時は、リゼールの扮装だ。親しい人が見れば、二種類のリゼールが居ると思ってしまうだろう。
高齢なプラム夫妻の目は、今のところ、うまく騙しおおせているけれど……
「私、その刑事と鉢合わせしたかも知れない。いえ、鉢合わせしてる」
「何ですって、お母さん?!」
「自己紹介によれば、オスカー・ベルトラン。エセルの言った通りの背丈に人相で、私服姿だったけど、胸ポケットには確かに警察手帳があったわよ」
エセルは呆然と沈黙した後、ピンと来たような顔になった。
「目撃者の私とは、まったく縁もゆかりも無い、無関係の人だと思われたのね。お母さん、黒づくめの魔女の格好だったんでしょ。私の方は、ヒラヒラのピンク着てたから」
「急な事だったから、本名を名乗ってしまったわ。マズかったかしら」
「偽名だと、もっと怪しまれたわよ、ただでさえ魔女なんだから。んー、でもどうしようかな。警察、きっと私を疑って、探してる。
目撃証言するって約束すっぽかして、そのまま行方不明の形になっちゃったから……」
「匿名の手紙とかで、通報する? お宅の刑事さんの一人、コーヒー色の髪をした背の高いイケメン風の男、オスカー・ベルトランが銀行強盗犯の一味です、って」
「警察が信じると思う? お母さん」
言われて、リゼールは改めて、ベルトランの立ち居振る舞いを思い返したのだった。
「……難しそうね。パッと見た目には、そう、顔立ちも雰囲気も悪くない。
むしろ、あの年格好だけど、現職の刑事っていうのも納得するくらい動きにキレはあったし、年季の入った真面目そうな仕事人の手だったし。
エセルくらいの若い子にもモテそうっていうか。エセルが色男タイプって言ったのも、納得だったわよ。
あそこまで完璧に邪悪さを隠してのけるのも凄いわよね。不気味。ますます人間が信じられなくなる」
エセルが目をパチクリさせて、リゼールをしげしげと眺め始める。
いま現在のリゼールは、昼間のひっつめ髪をほどいて、長い栗毛をゆるく流す格好だ。気難しそうに寄せられた眉根の下、緑がかったヘーゼル・アイ。
「へー。ああいうの、お母さんの好みだったんだ。お母さん、なんて運の悪い……」
「脱線するな。嘆くな。ともあれ、警察は銀行強盗の一人を捕まえたそうだし、何とかなるでしょ」
ヘキサゴンが、何がツボにハマったのか、おかしそうに灰色のネコ尾を振り回し、「ニャニャニャ」と不思議な鳴き声を上げたのだった……
エセルは気を取り直し、いつものように、食後のささやかなコーヒーを淹れた。次いで、ミルクを溶かし入れた一杯を、思案顔でかき混ぜ始める。
「で、お母さん。もう一つの厄介な問題は、前の住人だったブライトン夫人を、化け猫と一緒にしてバラバラにしたとか言う、センセーショナル・ヒモ男だよね」
「まだ捕まってないらしいわね」
「プラム夫人、しょっちゅう、こっち見張ってるのよ。その辺の警官よりも、よほど優秀な警官だわよ彼女。いつかヒモ男が戻って来たら、通報できるようにしてるんだわ。
こっちにはやましい事は無いけど、私がエセルだってバレたら、ややこしくなっちゃう」
「私も、いつか事が露見した時に、警察にうまく説明できる自信が無いわね」
「そこは会計士の計算能力で何とか説得してよ、お母さん」
リゼールはコーヒーを一服し、思案を巡らせた。
「エセル、この家に大金が隠されていると信じているから、真犯人はひそかに戻って来るのよ。『隠し金が無い』ことを証明するか――或いは、先に隠し金を見つけて、警察に届けるか」
「警察が大捜索したって言うじゃない。今さら見つかるの?」
「見つけるのよ、エセル。私は休暇もぎ取って、町の図書館へ行って、過去の新聞雑誌の記事を調べてみる。真犯人『ルカ・アルビオン』についての情報が、もっと無いかどうか」
「やるしか無いわね。ヘキサゴン、猫の手をいっぱい貸してちょうだい」
「にゃー」
*****
深夜。
灰色の巨大ネコ「ヘキサゴン」は、闇の中でヒゲをピクピクさせた。
――その正体こそ、神猫にして猫神となる予定の、その名も高き『六尾(ムツオ)の猫天狗』である。
現在の、栄光ある神猫にして猫神(候補)の一時的な飼い主と認める、リゼールとエセルは、まだ各々のベッドの中で熟睡中だ。
突如。
裏口の方に、灰色のネコ顔を向ける。
灰色の巨大ネコの尻尾がピーンと緊張に立ち――なんと驚くべき事だろう――六本に分かれたのだった。
ただならぬ神威を宿した金色の目が、いっそうピッカピカと光り始める。
灰色ネコは、音も無くスルリと寝床を抜けると、屋根裏部屋の秘密のルートを神速でもってサーッと走り抜け、この家の周囲全体を眼下に収めることができる特別な位置に陣取った。
怪しげな気配が、裏口をうろついている……
蟻一匹の第一歩さえも見逃さぬ金色のネコ目が、カッと見開かれた。
……
…………
闇夜の空を、巨大なネコと思しき影が、サーッと横切っていく。
――金色の目のピッカピカ、いとも凛凛(りり)しき三角耳ぞ――
――風切る黒き烏羽(からすばね)、末(すえ)になびくは、奇(くす)しき六尾(ムツオ)――
「ギャギャオーーーン!!」
聞くだに恐ろしい、化け猫の鳴き声そのものの大音声が、とどろき渡った。
3.化け猫屋敷をとりまく化け猫騒動とその後
「あの恐ろしい音は?」
「な、なにごと?!」
リゼールとエセルは、ベッドから飛び上がった。
家の裏口の方から、「ギャー、ニャー」という猫の鳴き声がする。何かがぶつかったような物音も。
「裏口に何か居るみたいよ、お母さん」
「そこの灯り!」
エセルがスイッチに飛びつき、裏口ポーチがパッと明るくなった。
窓の脇に滑り込み、辺りに素早く目をやる。
照明範囲の端を「ダダダッ」と駆け去ってゆく、人影。
一瞬しか見えなかったが。
背丈が高い。
あの体格は男性のものに違いない。女性だとしたら、相当に大柄で、筋骨の発達した女性だろう。
「お母さん? お母さん!」
……エセルが肩をゆすぶっている。
リゼールは、やっと気を取り直した。知らず知らずのうちに手近なスコップを握り締めていて、身体全身がガチガチに強張っている。
「だ、大丈夫……あいつ、もう居なくなったのかしら」
「居なくなったみたい」
いつの間にか足元に巨大な灰色ネコ「ヘキサゴン」が来ていて、リゼールとエセルの足元に交互にスリスリしつつ、「フミュー、フミュー」と、落ち着いた雰囲気の鳴き声を上げている。
やがて、近所がザワザワし始めた。多くの人の声が聞こえて来る。
「あの怪異な音は何だ」
「化け猫が出たんじゃないか」
「ゾンビかも知れんぞ」
「化け猫! ゾンビ! 今こそ、悪魔祓いグッズを使って、悪魔退治よ!」
「怨霊退散! 通報!」
「警察さん、早く! 何かあったらしいわよ、こっちよ!」
「尻尾のたくさんある化け猫が、金色の目をピッカピカと光らせて、翼を生やして飛んでったぞ! ワシ確かに見たぞよ!」
プラム夫人のけたたましい叫び声も混ざって来ている。
エセルが口をひきつらせた。
「お母さん、プラム夫人がヘキサゴンを見つけたら、色々ややこしくなるわよ。私、ヘキサゴンと一緒に隠れてるわ。でも、何かあったらスコップでもって援護するから」
「これだけご近所さんが出てるから大丈夫でしょ、早く!」
エセルは予備のもう一本のスコップで武装した状態になり、灰色の巨大ネコ「ヘキサゴン」のお尻をグイグイ押しながら、物陰に身を沈めて行った。
同時にプラム夫妻が、警官と思しき制服姿と共に裏口ポーチに達し、扉を叩き出した。
「リゼールさん、居るんでしょ! 化け猫が出たのよ、怪我してない? 大丈夫かしら?」
「猟銃は無いけど、ワシら、スコップと悪魔祓いグッズで武装済みだぞい。警察は拳銃も持ってるしな」
間一髪。
プラム夫妻だ。恐ろしい化け猫騒動(?)があったと言うのに、ホントに気の良い、ありがたい隣人だ。
それでも用心のために、チェーンをかけたまま、そっと扉を開けてみる。
総白髪のプラム夫妻が口々に喋り出した。二人そろって、サイケデリックな色彩の……ペアルックのパジャマだ。
「まあ、リゼールさん! 無事で良かったわ。警察も来てるから、もう安心よ」
「ちゃんと、スコップ武装してるな。よしよし。このトワイライト・ゾーンの必需品じゃよ」
「リゼール・グラント?」
低く響く、聞き覚えのある声。
思わず声の主を注目し、リゼールは唖然となった。
プラム夫妻と一緒に並んでいる、制服姿の若い警察官と、私服姿の中年……
あのコーヒー色の髪をした、背の高い刑事だ。エセルが銀行強盗犯だと指摘した、目下の100%容疑者の……
何故、こんなに早く出動して来たのだ? 出動して来れたのだ?
背格好は……まだ確信は持てないけれど、あの『ダダダッ』と走り去った侵入者と、ほぼ同じくらいだ。
そう、同一人物といっていいくらい。今まで現場に居て、素知らぬ顔で若い警官と合流し、現場に戻って来たのではないか?
脳みそが動かない。再びの緊張で、スコップを持つ手がブルブルと震え始める。
「え、どなたでしたっけ? お名前は聞いてたけど思い出せなくて」
「ああ、そのままで良いですよ、リゼールさん。何があったか聞いても?」
「え……ええと、まず、何か、何とも言えない……すごい大きな音が聞こえて、起きて……」
「ふむ、大きな音がしたと。何処から?」
若い警察官が、手慣れた様子で警察手帳を取り出し、ペンを走らせ始めた。
プラム夫妻が口を突っ込んだ。新しく顔見知りとなった、数ブロック先のご近所から駆けつけて来た面々も、後ろの方で、にぎやかだ。
「この化け猫屋敷の屋根の上からじゃよ。間違いないぞよ」
「ええ、ええ、大きな大きな化け猫が、ピッカピカ光りながら、闇夜を飛んでったわ」
「それにゾンビも出て来たんだよ、お巡りさんよ」
「教会から、また専門の悪魔祓いを呼ばねば」
さすがに刑事も苦笑いをして「皆さん、お静かに」と、たしなめる有り様だ。
(天才的な役者になれるわね、この銀行強盗犯)
知らず、コーヒー色の髪の毛を眺め始める。ポーチの灯りに照らされた白髪の数を数えていると、刑事が再び振り返って来た。
(いま気づいたけど、青灰(ブルーグレー)の目ね)
「大きな音がしたというのは、この裏口の辺りだった訳ですか?」
「え、ああ、ネコの鳴き声とか、何かがぶつかったような音とかしていたので、そこの灯りを」
「何か見たものは?」
リゼールの警戒感が高まった。
嘘を言う訳にはいかない。
かといって、下手な事を言えば、姿を目撃されたと思われるかも知れない。
或る程度とは言え、背格好を目撃したという事が下手にバレてしまったら……エセルが現在進行形で感じているあろう恐怖が、良く分かる。
「一瞬だったので、あまりよく見たとは言えませんが……誰かが走っていくのを」
「人が走り去ったのを見た?」
「見たと言うか、聞いたと言うか……足音が、かなり大きかったから」
「そいつは、相当に慌てていたに違いないな」
刑事は、あごに手を当てて思案顔をし始めた。裏口ポーチの周りの地面に目をやり……ゆっくりと歩み始める。
(証拠隠滅を考えているのだろうか? こんな衆人環視の中で?)
「まぁまぁ、リゼールさん、その人影が、きっとゾンビに違いないわよ」
「悪魔祓いグッズを持つべきじゃよ。ひとつ、効果テキメンなヤツを、進ぜよう」
プラム夫妻がリゼールの手にポンと置いたのは、『これこそ悪魔の産物ではないか』と思えるほどにサイケデリックな色彩の粉末が入った、シャレコウベのデザインをしたガラス瓶だ。
「こ、これは?」
「悪魔祓いの最終チート兵器、かの聖オカルト教会の特製の、聖別された塩じゃよ」
「はあ……」
近くの茂みをつつきながら歩き回っていた中年の刑事が、やがて「おッ」と声を上げた。意外に洗練された所作で、コーヒー色の髪をした頭を向けて来る。
「何ですか?」
「ネコの鳴き声の方は、謎が解けたようですよ、リゼールさん」
プラム夫妻も、「えっ」とばかりに、パッと振り向く。
かき分けられた茂みの陰。
中年の刑事にうながされて、若い警官が懐中電灯の明かりを向ける。
五匹ばかりの、様々な雑種の野良猫がたむろしていた。
急に照らされてビックリしたのか、車座になっていた五匹の野良猫……子猫たちが、ニャアニャアとにぎやかに鳴き始める。
その中心には。
いましがた五匹の獰猛なハンターに仕留められたと思しき、大きなドブネズミの新鮮な死体が、ゴロリと転がっていたのだった。
「まぁまぁ、ビックリしたわ」
「という事は、ゾンビの正体は、この特大のドブネズミだったのかね?」
「そこまでは分かりませんが。とにかく調べられる限りは、調べますから。ところでリゼールさん、この辺の色々は、元々、こんな風でしたか?」
言われてリゼールは、チェーンを外して裏庭に踏み入った。
物置への搬入前で仮置き状態になっていた、大小のコンテナが乱雑に転がっている。サンルーム周りの草花の種類を増やそうと思って揃えていた、園芸用品の数々だ。
「いえ、こんな風に、滅茶苦茶には……」
「という事は、謎の侵入者は、此処で色々ぶつかったのかも知れないな。前の住人ブライトン夫人が居た頃は、この辺は何も無かったから、勝手が違った……」
かすかに、チッという舌打ちの音。
(さっきの侵入者は、この男だったのか? ブライトン夫人が居た頃と同じように歩き回ろうとして、色々ぶつかったという事か?)
何とはなしに、彼の足元を注目する。
コーヒー色の髪をした刑事のズボンには、泥や土が付着していた……
リゼールの中が、警戒でいっぱいになる。
この白髪混ざりのコーヒー色の髪をした中年の刑事、正体が銀行強盗なだけあって、怪しげな言動が多すぎる。
(もしかして、ブライトン夫人の大金がある事を知っていて、ひそかに押し入ろうとした……! 銀行強盗だもの、そのくらい欲深でも不思議は無い!)
リゼールの心臓が、がぜん早鐘を打ち出した。不審に思われない程度に、ジリジリと距離を取る。
刑事がコーヒー色の頭を巡らし、思案顔でリゼールを眺め始めた。
「元々この家は訳あり物件だったし、明日……いや、明後日ごろに時間を取って、詳しく調査し直すか……良いですか、リゼールさん。場合によっては屋内も調査することになるから、そのつもりで」
リゼールは思わず、ビシッとスコップを構える。
「ああ、妙な意味で言ったのではないですよ、リゼールさん。今日はもう遅いので、また明日。皆さんも戸締りをシッカリして、注意すること」
「もちろんじゃよ」
「悪魔祓いグッズも、ちゃんと動作させてね」
リゼールの背中に、冷たいものが流れ始める。
今まさに、このコーヒー色の髪をした刑事の名前を思い出した。
オスカー・ベルトラン。
(エセルに知らせて、明日には、目立たないホテルか何処かに、隠れていてもらわないと……!)
*****
翌日の昼下がり。
地元メインストリートにある公民館では、いつものようにお茶とお菓子を囲んだ井戸端会議が始まり、プラム夫人が見事なおしゃべりを披露し始めた。
「まぁまぁ、お聞きになって、奥様がた。新しい隣人のリゼールさん、ついに化け猫と対決したみたいなのよ!」
「恐ろしい悪魔の叫び声、そこらじゅうで聞かれたそうね、プラム夫人」
「人は見かけによらないわねー。ホントに。40歳で独身ってのも怪しいし、会計士とかいうのも、昼の仮の姿で、夜はスゴ腕の悪魔祓い師とか?」
「昨夜のリゼールさんは、意外に普通のパジャマだったわ。可愛らしいミントグリーンの、白いドット模様の。娘さんのエセルさんの見立てかしらね」
やがて奥様がたの一人が、ストリートに面する窓を振り返り……目を見張った。
「まぁ、噂をすれば影だわよ。リゼールさん、そこのスーパーの買い物に来てるわよ。相変わらず黒づくめの魔女スーツ」
「どういう事かしら? 今、彼女は何かを調べに図書館に来ている筈よ。先刻、見たばかりだもの。何かの資料をどっさり持って、仕切り付きの読書室の方へ入って行くとこだったわよ」
「は?」
「え?」
しばし気の抜けた沈黙が続き、もう一人の奥様が「そう言えば」と口を開いた。
「この間の銀行強盗の件だけど、犯人の一人、捕まったんですってよ」
「あ、知ってるわ。私の夫が署長の補佐をやってる事は知ってるでしょ、奥様。昨夜、タップリ酒を飲ませて、要点を聞き出したから。よろしくて奥様がた」
「聞く準備は出来たわ」
「あのね、こういう事なのよ。銀行強盗は二人いて、いずれも覆面姿。つまり誰も素顔を見てないの。襲撃されてる真っ最中の銀行から緊急通報が入って、警察が出動した。
銀行強盗は警察が到着する前に素早く襲撃を済ませて、覆面を外して逃走していた。
銀行のストリートとは別の通りの方で、駆け付ける途中だった警察が、『犯人と思しき人物を拘束した』ってだけ。そいつ、元々、隣町でも銀行強盗をやらかして指名手配になっていた犯人なのね」
プラム夫人を含め、聞き役になっている奥様がたは、総じて脳みその回転が速い。
「つまり、早々と拘束した一人の人相は、全国の警察に知れ渡ってた訳ね。で、現行犯逮捕とは言えない、と」
「そうなのよ、奥様。拳銃を持って抵抗したから、長期拘束が可能になっただけでね。でも、その男は大金の入ったカバンを持ってなかった。
何とかして二人目の正体を吐かせようとしてるけど、なかなか突く所が見つからないそうなの。目撃者が『コイツだ!』と指摘しない限りは、観念して口を割りそうにない」
「居るのかしら、目撃者」
「さあね? ともかく、銀行強盗の一味、協力者も含めると三人組だったらしくて」
「二人だけじゃ無かったのね。謎の三人目、協力者の男って訳?」
「男じゃ無くて女」
「女?」
「逃走に成功した二人目の男、大金の入ったカバンを持って、折よく止まった車に乗り込んだんですって。
その車を運転していたのが、若い女だったっていう目撃証言が出てるんですって。顔は余り見えなかったそうだけど」
「車を運転してた若い女」
「大金の入ったカバンって、結構な大きさ……」
「何か考えてる、プラム夫人?」
プラム夫人は急に顔色を変え、プルプルと身を震わせ始めていた。
「まさか、とは思うんだけどね……あの、フワフワ栗毛のエセルさん、私が見た最後の日だったっけ、
車に大きな荷物を積んで猛スピードでやって来て、コソコソと化け猫屋敷に運んでたのよ。リゼールさんも風呂敷を持ってきて、協力して、コソコソと」
「プラム夫人が見かけた最後の日って?」
「なんと、あの銀行強盗があった日なのよ。たぶん、事件発生時から何時間も無いわ」
「まさかだけど」
「なんてこと」
「その風呂敷の中身って、もしかして、もしかして……銀行強盗の金?」
「ヤバいわ!」
「警察に早く知らせないと……って、アレ!」
「まぁ、リゼールさんが買い物を済ませて、スーパーを出て行くわ!」
「車を急発進させたわ! あの化け猫屋敷の反対側の方へ! まぁ、猛スピードだわ!」
「吸血鬼が入ってる棺桶みたいな、黒い車」
「銀行強盗の金を持って、ドロンするつもりかしら!」
奥様がたは、ガタガタと椅子を鳴らして立ち上がり、一斉に駆け出したのだった。
4.急展開~化け猫屋敷は右往左往
わずかに、時間をさかのぼる。昼食休憩の終わり頃。
「あんまり情報は出て無いわね」
図書館の読書室の中、リゼールは、ふうっと息をついた。ついで、うーんと伸びをする。
――『化け猫屋敷、ブルジョア夫人、浴室の惨劇』。
おどろおどろしい見出しだが、書かれている内容は余り無い。お金と暇を持て余した未亡人と、ハンサムなヒモとの、痴話喧嘩。合わせて発生していた、化け猫の鳴き声。
プラム夫人が喋っていた内容の方が、はるかに詳しい。ファンタジーな化け猫の件は、ともかく。
「ホント、エセルが言ってた通り、その辺の警官よりも、よほど優秀な警官だわね、彼女」
幾つか分かった事はある。
ひとつ、『ルカ・アルビオン』は偽名だったらしい。現実の戸籍には見付からなかった。成る程、妙にキラキラネームだと思った。
ふたつ、金持ちの未亡人を魅惑し、彼女のヒモになるくらいだっただけあって、相当にハンサムだったらしい。背は高く、モデル体型。浪費癖あり。
みっつ、金にだらしない割には非常に用心深い性質だったらしく、写真は残っていない。したがって似顔絵しかないが、黒に近い濃茶の髪で若く見える外見。見た目は20代から30代。
似顔絵をじっくりと眺める。
「ベルトランと似てなくも無いわね。ベルトランの方が『いい男』って感じだけど、その正体は銀行強盗だからね、ホント、モッタイナイ」
銀行強盗の捜査に関して、警察が想像以上に無能だった場合、どうやって、ベルトランを逮捕拘束させ、テキメンに罰を当てるか。頭の痛い問題だ。
リゼールは首を振り振りした後、読書室を出て、図書館の資料を元の位置に戻し始めた。几帳面に。
……妙な視線を感じる。
リゼールは用心深く、不審に思われない程度に図書館の中を見回した。
――居る。
心臓が大きく跳ね上がった。口から飛び出すかと思うくらい。
窓際に並ぶ閲覧テーブルのうちの、ひとつ。
コーヒー色の髪。目下の危険人物、オスカー・ベルトランだ。こっちを見ている。
リゼールは思わず、本棚の陰に引っ込む。
「あのー、いいですか」
別の男性の声が降って来た。
振り返ってみると、意外にギョッとするほど近い位置に、一人の男が佇んでいる。
「な、なんですか? どなた?」
「ああ、私は刑事のルイス・トラレスです。あの、通称『化け猫屋敷』のお宅のグラントさんですよね、お聞きしたい事が」
若干トーンの高い声音からすると、エセルと同じ年頃、20代半ばかと思われる。
刑事と言う割には、意外に甘いマスクの男だ。パステル系の茶色の髪も相まって、優し気な印象。
高級ブランド雑誌の特集ページから抜け出て来たような、お金のかかったお洒落な装い。
エセルがよく話していた、ナントカ言う『乙女ゲーム』に出て来る攻略対象、大富豪プリンスのイケメン・ヒーローが、リアル三次元化したかのような……
リゼールの中の乙女な部分が、思わずときめく。
……注意してみると、髪の毛が痛んでいる事に気付く。
髪を脱色したのかも知れない。可哀想に、余り腕の良くない理髪店だったらしい。
40歳、ベテラン会計士としてのリゼールの頭脳が、瞬時に、お洒落な装いにかかった金額を弾き出した。
……年若い刑事の収入の限界だろう、雀の涙ほどの予算しか当てられなかったに違いない、髪の毛のクオリティが、ひときわ残念だ。
急に乙女な気分が冷めてゆき、現実が戻って来る。
このパステル系の男、若さゆえなのか、自身の容姿に絶対的な自信を持っているのか、距離感が近い。もう少しで「ぶしつけ」と言える近さにまで顔を近付けて、ジロジロと人相を眺めて来ている。
リゼールは注意深く、適度な距離を取った。
「確かに私がリゼール・グラントですが。何か?」
「エセル・ハーバーを探してます。ロジャー・ハーバーの奥さんの。えぇと、ずっと旦那さんのロジャーさんの家には、帰って来ていないんですよね。
ご近所の方より、彼女がお宅に、つまり通称『化け猫屋敷』の方に潜伏しているんでは無いかという話が来ていましてね。彼女に確かめたい事が色々あるものですから」
「エセルは、うちに来ていません」
「本当ですか?」
「ええ」
――居ないことにしないといけないんです。
それも、あなたの刑事仲間、オスカー・ベルトランの、裏の真っ黒な顔のせいでね!
「化け猫は居ますか? ――と言うか、化けて出て来ますか?」
「そもそも何で、化け猫が実在すると思うんですか? そんなもの、ただの迷信でしょう」
「……さすが、化け猫屋敷に住むだけの事はある。勇気がありますね、グラントさん」
パステル系の甘いマスクをした刑事ルイス・トラレスは、『乙女ゲーム』ヒーローさながらの、キラキラ・オーラに満ちた笑みを向けて来た。次に胸ポケットから名刺カードを取り出して来た。
「エセル・ハーバーがお宅に来たら、すぐに知らせてください。私の連絡先、こちらです」
「どうも」
……幸運なのかしら?
図書館を退館していくルイス・トラレス刑事の後ろ姿を、つくづくと眺めてしまう。
受け取った名刺には、個人の連絡先……私的な電話番号が印字されている。
ベルトランと警察のセット以外の、信頼できる連絡先を入手できたのは、大きな収穫かも知れない。
(希望が見えて来たかも)
とはいえ、警戒すべきベルトランの視線を感じる。すぐにでもエセルに連絡を入れたいが、この状態では難しい……
頂戴したばかりの名刺カードをボンヤリと眺めながら、つらつらと思案を巡らせていると。
突如。
魔女スーツ呼ばわりされている黒スーツのポケットの中で、リゼールの私用電話が震え出した。
――ギョッ?!
勤務時間帯に電話が入る事は想定していない。家族からの緊急連絡以外は。
リゼールはアワアワしながらも、図書館の中を飛び出し、通話可能エリアとされている外付けのアーケード廊下へと駆けこんだ。
「エセル? 急にどうしたの?」
『ヤバいわよ、超ヤバい! あの男が居たの! 銀行強盗犯イコール刑事の男!』
「はッ? あぁ! 居たけど、あのコーヒー色の髪の刑事が」
『でしょう、でしょう。あの男、絶対、お母さんを見て、何か嗅ぎつけたわ! あの家を襲撃して来るかも知れない! 私、
ちょっとロジャーのとこ行って来るから! 家にはヘキサゴンしか居ないのよ、ヘキサゴンを何処かへ逃がしといて。すぐ戻って来るから死なないで、頑張って生きててね!』
電話が切れた。
エセルの声といっしょに聞こえて来ていたバックグラウンド音は、車のエンジン音だ。しかも、かなり回転数が上がっている状態の。
――まずは、我らが灰色の巨大ネコ「ヘキサゴン」の、身の安全だ。
今はまだ警察に発見される訳にはいかないし、ましてプラム夫妻に発見されたら、もっと長い説明をする羽目になるだろう。
リゼールは駐車場へと駆けつけ、夢見るようなピンク色のマイカーを発進させた。エセルの変装の一環で、車も交換してあった物である。
*****
「ヘキサゴン、ヘキサゴン!」
リゼールは家の前でピンク色の車から降りるなり、相棒の名前を呼んだ。
灰色の巨大ネコ「ヘキサゴン」は、ネコにしては妙なところがある。
人間の言葉をすっかり理解しているようだし、鍵の存在を無視しているかのように、あちらこちらへと、自由にフラフラと現れる。
フラットで預かっていた頃も、すべての鍵は閉まっていた筈なのに、いつの間にかお気に入りの毛布の中にフワフワ&モフモフで居たりして、ビックリさせられたものだ。
果たしてヘキサゴンは、階段の陰から駆け寄って来た。往年の名作の童話シリーズ『哲学する猫』に出て来る、意味深な哲学フェイスをした猫そのものの、妙な訳知り顔で。
「すぐに何処か隠れなきゃいけないわよ、ヘキサゴン」
「うにゃー」
やっぱり人間の言葉を理解している。
リゼールはヘキサゴンを家の中に押し込むと、鍵をかけた。
「隠れる場所、何処がいいかしら」
「にゃにゃにゃ」
灰色の巨大ネコは、不意にリゼールの足元に長いネコ尾を巻き付け、『こっちへ来て』と言うかのように、片方の前足をクイクイとやった。
――何だか、東洋の有名なラッキー・グッズ『招き猫』みたいじゃない?
リゼールは焦っていた。
一瞬は首を傾げたものの、呆然と、灰色の巨大ネコの後を付いてゆく羽目になっている。
長いネコ尾が素早くフルフルしていて、まるで六本の尾があるように見える……
やがて。
リゼールと灰色の巨大ネコは、ピタリと立ち止まった。
目の前には、サンルームと隣り合っている屋外物置スペース。そのドアとなっている仕切り扉。
この屋外の物置スペース、暖炉の燃料となる薪や石炭を保管したり、缶詰の山を蓄積しておいたりするなどの、災害備蓄用スペースだったらしい。
先日、エセルが、ロジャーから預かったガスボンベを並べていた……
ヘキサゴンは、仕切り扉をジッと見つめている。
「仕切り扉がどうしたの?」
「にゃー」
リゼールは不思議に思いながらも、仕切り扉のロックを外し、手をかけた。
可動性180度。壁と90度の角度を作ったところで、サンルーム側と屋外物置スペース側を仕切る、ちょっとした目隠しの壁になる。半分くらいしか隠れないけど。
――スーッと動く。
全体が鋼鉄で出来ていて、この分厚さなのに、見かけによらず軽い……
灰色をした巨大ネコは、屋外物置に並ぶ物騒な可燃性ガスボンベの行列を無視し、ネコの手で仕切り扉を「テシテシ」叩き始める。
思わず息を呑む。
仕切り扉をコンコン叩く。ヘキサゴンが「テシテシ」やっていたように。
特徴的な反射音が返って来た。中が空洞になっているのだ。
黒縁メガネをかけ直し、何処かに有る筈の……裂け目のような……違和感のような、何かを探す。
――あった。
フラットや団地のような集団住宅ではお馴染みの、戸別の新聞やパンフレットを受け入れる『玄関ドア用ポスト』位置に、不自然な切れ込み。
知恵の輪のようなロック構造には、いささか手間取ったものの……いったん構造をつかめば、意外に簡単にロック解除できる。
カチリと、切れ込みの浮く音が響いた。
仕切り扉を覆っていたプレートが、内部空間に仕込まれていた蝶番の動きと共に、床へと引き下ろされる。
「……お金……!」
我知らず、リゼールは、あえいでいた。
キッチリ結索された札束。いずれも最高額の紙幣。しかも新札だ。
プレート面の上に、ピッチリと、分厚い仕切り扉と同じくらいの分厚さで固定されている!
浴槽の中でミンチにされて殺害されていたと聞く……今は亡きブライトン夫人の隠し金。
裕福な資産家であった故ブライトン氏と共に、こっそり扉を魔改造して仕込んだに違いない、ほぼ全財産。タンス預金。
仕切り扉の残りの空間には、素人目にも分かる程の高品質の宝石が、これでもかと詰め込まれていた。家宝レベルと思しき、アンティーク宝飾品も含まれている。
これだけで、いったい何億に……何十億に、あるいは何百億になるのか。
会計士としての経験が、確信を持って告げていた。一生、ぜいたくな暮らしをしていても、なお余裕で、目がくらむ程のお釣りが来る金額になる、と。
リゼールは恐怖に息を詰まらせながらも、パタリと、プレートを元の位置に戻した。カチリと言う仕込みロックの音が響いたところで、ようやくホッと息をつく。
次の一瞬。
『ピンポーン』
玄関のピンポンが音を立てた。誰かが来た!
ギョッとして飛び上がるリゼール。
――まさか、図書館に居た、コーヒー色の髪のオスカー・ベルトラン?! 気付いて、追って来た?!
しまった。家の前には、まだ、エセルのピンク色の車があった……!
素早く、玄関扉の陰に身を隠しながら、覗き窓を確かめる。
リゼールの足元では、ヘキサゴンが綺麗な三角をしたネコ耳を、ビシッと斜めに立てていた。背中が盛り上がり、灰色のネコ尾がブワッと膨れる。
今にも「シャーッ」と唸り始めそうだ。
5.猫天狗が舞う~対決バトルと爆発と真相と
その時、少し高いトーンをした男性の声が戸口スピーカーから流れて来た。
『あのー、あれ、留守ですか? 刑事のルイス・トラレスですが』
――ルイス・トラレス刑事! あのパステル系の、甘いマスクの方の刑事だ!
リゼールは、急に、安堵の余りヘナヘナと来るものを覚えた。目の端に、涙がにじんで来る。
大丈夫だ。もう大丈夫だ……!
少しよろけながらも、パッと玄関扉を開ける。
扉の向こうでは、昼下がりの陽光を背にしたルイス・トラレス刑事が驚いた風にのけぞり、目と口を丸く開けていた。
「え、どうしたんですか? 顔色が……大丈夫ですか」
「大丈夫です! 全然! あの、あれ、見つけたんです! この家に隠されていた大金を!」
「……お金? 何処に?!」
「こっち、刑事さん、早く!」
リゼールはサッと身を返し、サンルームと物置スペースの間に駆け込んだ。
ルイス・トラレス刑事も続く。
「こ、この仕切り扉の中に、お金が、宝石が、あって……」
ルイス・トラレス刑事は扉に張り付き、ドンドン叩いて中の空洞を確信した後、ガチャガチャとやり始めた。
――焦っているかのように。
程なくして、カチリと言う音と共にプレートが引き下ろされる。
「こんな所に、あったとは……」
押し隠しがたい喜悦と欲望の気配。
急に違和感を覚え、リゼールは男の背中を見つめる。
振り返って来たルイス・トラレス刑事は……法を遵守する警察官の顔をしていなかった。
その口元が、凶悪な笑みに歪む。
「死人に口なし。死ね」
取り出されたのは、二丁拳銃だ。警察官用の少し大振りなサイズと、明らかに女性用の、女性の手の中に収まるような小型の拳銃。
小型の拳銃が鋭い破裂音を立てて火を噴き、リゼールは本能で身をひねった。
背後の壁が「ビシッ」と音を立てる。
恐怖の一瞬……フラッシュのように閃くものが来た。
――『化け猫屋敷、ブルジョア夫人、浴室の惨劇』。
新聞や雑誌に掲載されていた曖昧な似顔絵。
犯人とされている男の人相と、凶悪犯としての素顔をさらした刑事の人相が……ピッタリ重なった。
背は高く、モデル体型。『乙女ゲーム』ヒーローを思わせる、甘いマスク。刑事だから、女性を喜ばせる程度には、筋骨はカッチリしている筈だ。
こうして見れば、平均以上に整った甘いマスクは、未亡人のヒモとしても似つかわしい。金にだらしない割には用心深く、写真は残っていなかったと言う……
――それに、そう、黒に近いほどの濃茶色の髪と記事に書きたてられていたが、その特徴を消すべく脱色したり染めたりすれば、こういうパステル系の茶色になるのではないか!
例のブライトン夫人が、急に殺害されてから三ヶ月ほど。
その間に、気分が変わったとか何とか言って、自分で無理やり脱色した……筈だ。
「ブライトン夫人を殺したのね?! 『ルカ・アルビオン』……!」
図星を、それも、ど真ん中を、どつかれたらしい。
ルイス・トラレス刑事の甘いマスクが、ビシリと割れ、毒々しいまでに歪んだ。
「下手に知恵の回る女ってのは」
ルイス・トラレス刑事がリゼールを蹴り倒そうと、モデル並みの長い脚を振り回す。
「変装して、ちょろちょろしやがって……」
死にもの狂いで、かわす。
刑事の脚がガスボンベに当たり、何本ものガスボンベが、ドドドッと横倒しになった。
容器同士の当たる音が、ガチャガチャンと続く。
ルイス・トラレスが痛みに呻いている間に、リゼールはクルリと扉を返して抜け出し、裏口ポーチへと走る。
「地獄へ落ちろ!」
今度は、警察官用の銃が重い破裂音と共に火を噴く。すぐ傍の壁で、砕片が散った。
何か無いかと辺りを探ったリゼールの手に、手ごろなガラス瓶が当たる。
咄嗟にそれをつかみ、素早く身を返す勢いで、無我夢中で投げつける。
「うお!」
ルイス・トラレスの額に命中したガラス瓶は、呆気なくパリンと割れて、極彩色の粉末を注いだ。
――プラム夫妻の提供の、悪魔祓いグッズ。シャレコウベのデザインをしたガラス瓶と、サイケデリックな色彩をした、お清めの塩だ。
塩が目に入ったのか、男は銃を握ったままの手の甲で目を抑え、苦痛の叫びをあげた。
裏口ポーチに置いてあったスコップを取り、がら空きになった男の胴を、思いっきり払う。
派手な音を立てて横倒しになる、ルイス・トラレス。
同時に、二丁拳銃が再び火を噴き、裏口ポーチの天井と床の両方に、各一個ずつの穴が空いた。
「このアマ……!」
しぶとく起き上がり、涙目でもがきながらも迫るルイス・トラレス。
その足元で巨大な灰色ネコ・ヘキサゴンが変幻自在に飛び回り、襲いかかり、かみつき、トラレスの動きを鈍くしている。
二丁拳銃の銃口をかわし続ける、スコップ武装のリゼール。
お互いに決定的な打撃を繰り出せず、タタラを踏んでいるうちに、位置が入れ替わる。
「逃がさんと言っただろう! ハハハ!」
本職の刑事の身のこなしは、さすがに、訓練された者ゆえの計算がある。
裏口ポーチからの逃走を妨害し、再び屋内にリゼールを追い込む形になったルイス・トラレスは、近い勝利を知っているかのように嘲笑した。
リゼールは遂に、仕切り扉の前で、窮地に陥る。
その足元で、灰色の巨大ネコ「ヘキサゴン」が、シャーッと唸った。
物置スペースへ通じる側が開かれた状態になっているが、屋外へ通じるルートとは言え、横倒しになった何本ものガスボンベが重なっていて、足の置き所も無い。
高いトーンの声ならではの、キイキイと耳に付く嘲笑……
「そこまでだ、トラレス!」
玄関の方向から、堂々とした低い声が鋭く飛んだ。
ギョッとした顔で振り返る、ルイス・トラレス。
「ベルトラン!」
鍵が開いたままだった玄関から、踏み入って来る人影。
オスカー・ベルトランが、その手に持つ拳銃は……まっすぐ、ルイス・トラレスを捉えている。
(どういう事? エセルが目撃したという銀行強盗犯のベルトラン刑事が、何で『ルカ・アルビオン』すなわちトラレス刑事に、拳銃を向けてるの?)
リゼールは混乱の余り、動けない。
ルイス・トラレスは、不意に、苦悶に顔をゆがめた。よろけるようにしか歩けない。
灰色の巨大ネコ「ヘキサゴン」が、ルイス・トラレスのふくらはぎに、ガップリ噛みついていたのだった。
「今しがた、先日の銀行強盗事件の目撃者の証言が取れた。もう一人の強盗犯、トラレスだな!」
「ウソをつけ! エセル・ハーバーは此処に居る! 俺の事を、警察に証言できた筈が無い!」
語るに落ちた。
ベルトランは更に一歩踏み込み、拳銃の引き金に力を込める。
「銀行強盗の容疑で逮捕する! 手を上げろ、トラレス!」
ルイス・トラレスの目に狂気が宿った。
ふくらはぎに嚙みついていた灰色ネコの頭を拳銃で殴り、ベルトランの方へと投げつける。
ベルトランは、キレのある身のこなしで衝突をかわし、更に踏み込んだ。だが、ルイス・トラレスの背後のガスボンベの群れを見るや、ギョッとしたように目を剥き、口元を引きつらせる。
ルイス・トラレスは、信じがたい程の素早い動きで――死にもの狂いならではの男の力で――仕切り扉のプレートを、結索・固定されていた札束ごと引き剥がした。
乱暴に引き剥がされた衝撃で、残りの隙間に詰まっていた数々の宝石も飛び出して来て……パラパラとこぼれる。
「馬鹿め、捕まえられるものなら捕まえてみればいいさ! この大金は、俺の物だ!」
ルイス・トラレスはキイキイと哄笑しながら、屋外物置へと身をひるがえした。ひるがえしながら、ベルトランへ向かって銃口を向ける。
一瞬の事だった。
ベルトランは、棒立ちになったまま動けなくなったリゼールを抱き込むと、裏口ポーチの方へ、できるだけ遠くへと、大きく身を投げる。
ルイス・トラレスの銃が、火を噴いた……
*****
耳をつんざく轟音と共に、オレンジ色の化け物のような、巨大な火の玉が燃え上がった。
高温の爆風が、周囲を襲う。
金色に輝く巨大なネコの影が、それも奇(くす)しき六本の尾を生やした影が、不思議な翼を生やして、オレンジの火の玉を、神速でもって取り巻いたようだ……
数ブロック一帯を揺るがす、地獄のような爆発と振動は、何度も繰り返し続いた。
オレンジ色の火の玉を乗せた火柱が、屋根よりも高く高く立ち上がる。
その激烈な劫火のてっぺんから、凄まじい黒煙が噴き上がってゆく。
*****
野次馬となった近所の人々が炎を指さし、口々にわめいていた。
「何なんだ? え? 何が起きたんだ?」
「爆発だ! 何でだ!」
その回答を与えたのは、今しがた、リゼール御用達の真っ黒なレンタカーで駆けつけていた、エセルとロジャーだ。
エセルとロジャー、二人とも、中世騎士のような金属製の手作りの甲冑で武装していて、臨戦態勢だ。その二人の後ろにも、お仲間と思しき、手作りの中世騎士コスプレさながらの数名が居る。
「あの男、あの銀行強盗犯、ガスボンベ倒してたわ! あのガスボンベ絶対に横にしちゃいけないのよ、
中身はアセチレンなんだから! 三重結合の不飽和炭化水素、下手に引火したら、すごい大爆発するんだから!」
「ガスボンベを横にすると、ガス栓が変な風にゆるんで、ガス漏れが起きる事があるんだよ! 現代文明の常識の筈なのに!」
公民館ストリートから新たに駆け付けていた、プラム夫人をはじめとする奥様がたが、仰天して騒ぎ出す。
「アセチレンだか何だか、何であんな、ヤバイ、モノを!」
「金属溶接のガスバーナーで普通に使われるヤツよ、まさかガスボンベを何本も横倒しにするようなバカが、この世に本当に存在したなんて全く想定してなかったわよ!」
「とにかく火事よ! 消防ー!」
エセルはパニックの余り、フワフワ栗毛を乱して悲鳴を上げていた。
「死なないで、お姉ちゃん!」
プラム夫人を含む奥様がたが、仰天した顔で振り向く。
「お姉ちゃん?」
*****
昼下がりの青天を衝き、焼き焦がすかのような、劫火と大爆発。
轟音を立て続ける、オレンジ色の巨大な火柱。そして、強烈な爆風によって高く高く吹き上げられていた、あれやこれやの瓦礫や砕片が、雨のように降り注ぐ。
ご近所の人々を守る防壁さながらに最前線に出て行く、中世騎士コスプレのグループ。
金属工芸サークルお手製の甲冑や刀剣が、瓦礫の雨を受けて、ガンガンと音を立て始めた……
6.化け猫屋敷の後日談~そして、君の居る町角
その後。
いつもの公民館の井戸端会議は、化け猫屋敷の大爆発と、新しい住人の事情で、もちきりだった。
「もう、ビックリしたわ」
「ホントにねえ。そんな紛らわしい呼び方しなくても」
「でも、分かるような気はするわぁ。シンミリしちゃう」
プラム夫人を含む、地元の奥様がたの面々は、一斉に溜息をついた。
「整理すると、こういう事ね。リゼールさんとエセルさん、ホントは母娘じゃなくて従姉妹なのね。
リゼールさん19歳、エセルさん4歳の時、それぞれのご両親が高速道路の多重事故で、いっぺんに死亡して。ええと、リゼールさんにとって、エセルさんは、叔母の産んだ、年の離れた従妹」
「リゼールさんは、まだ大学生だったけど、急に4歳の従妹を抱えて苦労したとか」
「エセルさんの方は、まだ母親恋しい頃だったもんで、母親に似てたリゼールさんの事を、ずっと『お母さん』と呼んでて、リゼールさんの方も受け入れてた。
小学校の授業参観でも、エセルの母親として参加したとか」
「周囲は誤解するわよねえ」
先日、奥様に一服盛られて、趣味で執筆していたミステリ小説『三人組の銀行強盗』ネタを白状させられていた署長補佐が、ブツブツとぼやいた。
「銀行強盗の目撃者の話が、此処まで変にこじれたのは、お前のせいなんだからな」
「それは、もうゴメンナサイしたでしょ、あなた。現実の銀行強盗事件の解決につながったんだから無罪放免、もとい功績じゃないの」
「現実は小説よりも奇なりって、ホントよね、奥様。まさか、ブライトン夫人を粉々の肉片(ミンチ)にしたヒモ男『ルカ・アルビオン』の正体が、
ルイス・トラレス刑事で、しかも、先日の銀行強盗犯の二人組の片割れでもあったなんて」
「賭博にハマっちゃったのが原因だそうだけど。歪んで狂って、膨れ上がった欲望は、限りなしね。なんてオソロシイ」
プラム夫人を含む奥様グループが、にぎやかに喋り出した。
「本物の刑事って立場でもって、警察の中でしか知らない秘密情報を知る事が出来たのよね、ルイス・トラレス。
前科者と一緒に銀行強盗を計画実行して、その目撃者がエセルさんって事も、すぐに知って、エセルさんを口封じしようと、行方を追ってた」
「銀行強盗犯を目撃したその日のうちに、片割れが刑事と気付いて危険を直感したエセルさん、目撃者として警察を訪れずに急遽『化け猫屋敷』へ直行、リゼールさんの格好をしたりして、身を隠してて」
「従姉妹だけあって、体型とか雰囲気とかソックリで、プラム夫人でさえも気付かなかったのよね」
「ルイス・トラレスも最後まで気づかなくて、ピンクの車で家に入ってたリゼールさんを、黒縁メガネ魔女スーツで変装したエセルさんだと、最後まで思い込んでた」
「しかも、リゼールさん黒縁メガネ外した顔、あの爆発から救助された時に初めて見たけど、ビックリしたわよね、ホントに」
「年齢不詳っていうか、30代前半、頑張れば20代後半でもギリギリ通るわね。亡きブライトン夫人も美人だったけど、リゼールさんの方が美人だわ」
奥様がたの一人が、タイミングよく口を挟む。
「で、リゼールさんを、ルイス・トラレスはエセルさんだと誤解したまま、二丁拳銃でもって殺害しようとしたのよね」
「一方は警察官用の拳銃で、もう一方は小型の女用の拳銃だったとか」
「武器を持ってない非力な女を殺すのに、なんで二丁も拳銃を使う必要があったのよ? それも、えらく種類が違うのを」
「エセルさん、もとい、リゼールさんが抵抗して拳銃を撃って来た、という事にすれば、刑事としての正当防衛で、撃ち殺せるじゃないの」
「まあぁ! 確実を期してたのね。なんて卑劣な」
「刑事でありながら、ブルジョアなブライトン夫人のヒモになって、頃合の良い時にブライトン夫人を殺害して大金ゲットしようとしてたくらいだもの。
大金が手に入らなかったから銀行強盗を計画した、っていうほどの金の亡者」
プラム夫人が、改めて溜息をついた。
「想定外だったのは、エセルさんが運び込んでいた、金属溶接バーナー用のガスボンベね。あんな凄い爆発だったのに、みんな助かって良かったわよねえ」
「ブライトン夫人の『金隠し扉』も、防火扉レベルの大仕事したわよね。凄いタイミングで爆風で扉が閉まって。
高温と爆風の直撃で扉がボロボロになって、その部分いたく壊れたけど、家の中のほとんどは大きな被害が無い状態だったし」
「あの家の仲介業者さん、その筋の手練手管でもって、信頼できるって評判のリフォーム業者を引っ張って来てたわよ。
今回の件で、ちょっと資産価値アップしてて、結構お得にリフォームできる見込みですって」
奥様がたは「良かったわねえ」と言い合い、早くも元の話題に戻った。
「ルイス・トラレス、死ななかったけど、背中の火傷とか、顔の傷、一生、残るだろうって。
毛根もやられて、髪が生えて来なくなった部分が出来て。おまけに一晩で、自慢の顔面も一気に老けて、残りの髪も白髪になって、100歳を超えた老人みたいになっちゃったそうよ」
「お若いナルシスト男には、ショックよねえ」
「大金の方も、大爆発で全部燃えてしまって、骨折り損のくたびれ儲け。宝石も灰になって。絶望と落胆のあまり、病院のベッドの上で延々白状してるそうよ。幼稚園の時の恥ずかしい黒歴史までも」
「天網恢恢(てんもうかいかい)疎(そ)にして漏(も)らさず、ってホントねぇ」
「あの悪魔祓いグッズの塩が効いたのかしら。それとも大きな猫サマの御利益?」
「きっと東洋の方で言う、神様のお使いの『招き猫』ね」
「今度、拝みに行きましょうよ」
その時、公民館の横を、今回の事件のヒーローとなったオスカー・ベルトランが横切った。
彼は、あの大爆発の中ではあったが(幸運の招き猫ヘキサゴンのお蔭なのか、家の構造的に、大爆発の直撃を受けない位置へ転がっていたお蔭なのか)、
リゼールの身をかばいながらも、奇跡的に軽傷で済んでいたのだった。
大爆発を切り抜けた明らかな証拠は、目に見える限りでは、手首を覆う包帯や、両方の足首に見える包帯のみ。その包帯も近いうちに取れる見込み。
署長補佐が早速気付いて、窓を開き、声を掛ける。
「おう、これから彼女のお見舞いか、ベルトラン」
「明日にも退院だとかで」
「なあ、今でも謎なんだが、何でリゼールさんは、エセルさんから銀行強盗犯の特徴をシッカリ聞いていて、その正体が、ベルトランだと思い込んでいたんだね?」
「それを、これから聞きに行くんですよ。個人的にも気になる」
「ベルトランは、人相は悪くない方の筈なんだけどなあ。納得できる説明が聞けると良いな」
「心が折れない程度に」
ベルトランが足早に歩き去ってゆくと、奥様がたが再び、にぎやかに喋り出した。
「いそいそと、いそいそと。あれは恋してる男だわね」
「きゃー、いやーん♪ リゼールさんが『リゼール・ベルトラン』さんになる日も遠くないかも!」
「リゼールさん、リンゴをこぼしてたでしょ。それ拾って、その時に接近して、ドッキリしたって。リゼールさん、ぶつかった拍子にメガネがずれて、素顔が出てたそうだし」
「森の妖精だと思った、ですってよ、奥様」
「いまどき一目惚れって珍しいんじゃない。仕事一筋男が、40歳にもなって」
「あの化け猫トワイライト・ゾーンの夜、リゼールさんがスコップを構えて威嚇してたのも、『子猫みたいで可愛いな』と思ってたんですって。
警戒心の強い子猫とか妖精とか、どうやって手なずけようかって感じ?」
「ベルトランさん、リゼールさんから一目で銀行強盗犯だと思われて、すっごい警戒されていたと知った時は、一晩中ショックで寝られなかったそうね」
「そう言えば、その夜、化け猫屋敷の裏口うろついてたのは、侵入を試みていたルイス・トラレスだったそうね。
前とは違って、たくさん物が置いてあって散々だったとか、恐ろしい化け猫の鳴き声と姿を見て、怖くなって逃げたとか」
「ミステリーが残ったわね。そんなに怖がるなんて、いったい何を見たんだか。ブライトン夫人が死んだ夜も、化け猫が出たと言う話はあったけど」
「金色の目ピッカピカで、六本の尾で、翼が生えてて、空を飛んでたんですってよ奥様」
奥様がたの話が盛り上がっている横で、呆れ顔の署長補佐が、ガックリと頭に手をやる。
「……あんたたち何処で仕入れて来るんだ、そんな情報を……」
*****
ミントグリーンに白いドット模様のパジャマ姿のリゼールが、病院のベッドの端に腰かけた格好で、ハーッと溜息をついていた。
「だって、『コーヒー色の髪』って言ってたじゃないの、エセル」
「だからって、そんな盛大な誤解をするなんて!」
「いちいち要点が抜けるから、みんな誤解する羽目になるのよ。『お母さん』呼びの件だって、そうだったじゃない」
病室の中では、今しがた淹れられたコーヒーの香りが漂っている。
エセルはブツブツ言いながら、コーヒーにミルクを入れ始めた。見る間に、エセルのコーヒーが、パステル系のソフトな茶色になる。
「コーヒー色って、普通、こういう茶色じゃない。スーパーで売ってるコーヒー味のキャンデーだって、この色だわよ!」
リゼールは、ブラックコーヒーに、ゆっくりと口と付けた。やれやれ……と言わんばかりに、眉間にしわが寄っている。
「エセルは、ミルクを入れて飲む派だったわね、確かに」
相席しているロジャーとベルトランは、納得の苦笑いをするのみだ。
「まあ、でもギリギリで間に合って良かったですよ。金属工芸サークル仲間と、エセルと、一緒に武装して駆けつけていた時、
ベルトラン刑事と行き逢って、エセルが見た銀行強盗犯の身体特徴とか、義姉さんにその犯人が接触して来てヤバいとか、事と次第を説明できましたから」
「中世騎士コスプレのグループが、車やバイクを猛スピードで運転していたら、普通は異世界から召喚されて来た不審人物として通報されるだろう」
「それも、そうですねえ」
――ロジャーとエセルと、金属工芸サークル仲間たちの『武装』は、さぞ見ものだったに違いない。
ロジャーの感覚は少しズレている。エセルと気が合うのも、この妙なズレが、ピッタリとハマっているからなのだ。
つくづく、このハーバー夫妻、愉快な変人カップルと言うべきか……
「ベルトラン刑事には、この町では随分とお世話になってて。僕、金属工芸用のガスバーナーをしょっちゅう出し入れするでしょ、
爆発物を運んでる危険人物だと名指しされて困っちゃった時、ベルトラン刑事が、ガスボンベ収納用の貸し倉庫、探して来てくれたんですよねー」
呆然と呟くリゼール。
「それで、例のガスボンベが何本も倒れていたのを見て、その意味を、すぐに理解したと……」
オスカー・ベルトランは、ブラックコーヒー色の髪に手を突っ込んで困惑顔をしている。
「あんなに肝を冷やすのは、一生に一度でたくさんだな。今でも軽傷で済んだと言うのが信じられないし、化け猫が何かした、と思う方が納得できそうな気がする」
「実際に何かしたのかも知れませんよ、我らが『ヘキサゴン』が。ああいうの、東洋の方では不死身の妖怪変化『ネコマタ』って言うんでしたっけ」
リゼールが入院している病室の窓からは、灰色の巨大ネコ「ヘキサゴン」が、いつだったかの、ドブネズミを仕留めていた五匹の子猫たちを連れて、歩き回っているのが見える。
病院の庭を散歩中の入院患者たち(近々退院予定の人々)を観察し、懐に余裕があって気も良さそうな対象を飼い主候補と見定めて、ちゃっかりと『里親お見合い』をやっているところだ。
程なくして、エセルの携帯電話が鳴り始める。
例によって夢見るようなピンク色。
「あら、友達からだわ。ちょっと待ってて、お姉ちゃん……ハーイ、いや、こっちは何とも無いわよ。うん、それは大丈夫。え、そうなの?! ロジャーにも声掛けとくわね」
テキパキと通話を済ませたエセルに、ロジャーが疑問顔を向ける。
「次の金属工芸サークルの全国作品発表会の件よ、ロジャー。さっき、幹部会の方で、今年の新しい発表テーマが『異世界モンスターの森』に決まったわ。早速、作戦会議よ!」
「そうか! ベルトラン刑事、僕らはサークルに行きますんで、義姉さんをお願いしますね」
ロジャー&エセル・ハーバー夫妻は、手に手を取って、嵐のように出発して行った。
「異世界モンスターの森だって?」
ベルトランが圧倒されたように呟いている。
「家のサンルーム、あの爆発で粉々になったんだけど、リフォーム対象外で。それで、ロジャーとエセル、新しいサンルームをデザインして設置し直してくれると言ってくれて。
『異世界ナントカの森のイメージで』とか言ってたけど、この事だった訳ね……」
「化け猫屋敷と呼ばれた家が、今度は『異世界モンスター屋敷』にグレードアップすると?」
「それは、大丈夫そうな気はする。ロジャーとエセルの見立てとか、デザインって、信頼できるから」
「……確かに、あの中世騎士コスプレ用の甲冑もデザインは良かったし、あの爆発に伴う瓦礫の雨にも耐え切った、という話があったか……」
「コーヒーのお代りは要ります? ベルトランさん」
「いや、大丈夫」
オスカー・ベルトランは椅子の位置を変えて、リゼールの傍に座り直した。
それはそれは素敵な笑顔で。
「美味いブラックコーヒーを出す喫茶店が近くにあるんだ。退院して、色々落ち着いたら、行って見ないか? 一緒に」
リゼールは目をパチクリさせた後、そわそわと窓の外を見やった。
頬が次第に、熱を持ち始める。
灰色の巨大ネコ「ヘキサゴン」は、木の枝の上で悠々とくつろいでいる。訳知り顔で、向こうに見えるストリートの服飾店を観察している様子だ。
――キレイ色のワンピース、買っておかなくちゃ。
―《終》―