深森の帝國§総目次 §物語ノ傍流 〉妖怪探偵・猫天狗が走る!~ご近所様の殺人事件

妖怪探偵・猫天狗が走る!~ご近所様の殺人事件

目暮啓司(めぐれ・けいじ)は天才プロフェッショナルな空き巣だ。 今日のターゲットに定めたのは、閑静な住宅街。いつものように人通りが少なくなる時間帯、目暮啓司はサラリーマンに変装し、住宅街に乗り込んだ。 ふとしたことで、ある会話をこっそりと見聞きする目暮啓司。その後ろでは、奇怪な灰色ネコが金色の目をピッカピカと光らせていた! 次々起こる想定外の出来事の末に、何故か目暮啓司はカレーをご馳走になったが…その時、近所の家から叫び声がした。 「人殺しだ!」殺人事件発生か?!

  1. 電信柱の後ろから…金色の目ピッカピカ
  2. 犬と猫と空き巣…奇妙な道連れ、世は情け
  3. 空腹は最高のスパイス
  4. その時、叫び声が…「ひ、人殺しだ!」
  5. お控えなすって…いよいよ、ご対面!
  6. 事件の全容を解明せよ
  7. 妖怪探偵の偉大なターン!
  8. これにて事件解決でござるニャン

(2018/01/26~2018/01/28公開、26,811文字)

1.電信柱の後ろから…金色の目ピッカピカ

――さて、どうしたものかニャ。

爽やかな初秋の或る日の――とうに晩い昼下がり。

野良猫に混ざって、その閑静な住宅街を通過しているところだった『六尾ムツオの猫天狗』は、大いに困惑し、思案していた。

お忍びのため、目下、猫天狗は身をやつしている。

本来の尻尾の数は六本だし、本当の身体サイズも人類並みに大きいのだが――今現在の姿は、 その辺のネコと全く変わらない。一本の尻尾に、腕ひとかかえ程度の可愛らしい体格。

ただし、神々しくきらめくピッカピカの金色の目と、銀に近い灰色をした不思議な色合いのモフモフ毛皮は、そのままだ。 ゆえに、トチ狂った猫マニアに狙われやすい――と言うのが、玉にキズである。

この間など、ネコを捕獲するための巨大な虫取り網、いや、『ネコ取り網』を構えた猫マニアに延々と追いかけられ、 散々な思いをしたばかりなのだ。今でも、あの猫マニアの目が放っていた『¥』妄執ビームを思い出すと、全身の毛が逆立ってしまう。

猫天狗は、フツウのネコらしからぬ深い溜息をついた。この思慮深い溜息は、神にも匹敵するであろう、高い格式ランクの発露でもある。

実際、この灰色ネコ――『六尾ムツオの猫天狗』は、近いうち、七七七年に及ぶ長き修行を完遂し、 『七本の尾を持つ偉大なる神猫にして猫神・七尾ニャニャオ』になる見込みなのだ。

そうすると、その神威の前に、猫も犬も人類も関係なく、お偉方の面々すらも全員ひれ伏す。 神託でもって希望すれば、ひとつの立派な神社(持ち家)を持つ事も出来る。神々の中には多数の分社(別荘)を誇るものも居る。

だがしかし、ネコは、元来つつましい性質だ。日当たりの良い屋根と縁側、それに美味なネコ飯と愉快な散歩コース、 おまけに時々引っかくものがあれば、基本的には大満足なのである。

ふと、猫天狗の超感覚のヒゲ・センサーが、シッカリとした気配を捉えた。ヒゲがピクピクと、ダイナミックに震える。

ちゃんとした会話ができる程の、高精細なテレパシー霊感を持つ、うってつけの人類が存在する――

――これは、イケるかも知れないニャ……!

心の内で、あっと言う間に思案を固めた猫天狗は、『神速』の技を発揮した。

ほんの一瞬――その後。

その住宅街の家々の塀の上では、時ならぬ『謎の突風』を受けた庭木の葉群が、いつまでも踊っていたのであった。

*****

――俺は空き巣だ。それも、天才プロフェッショナルな空き巣だ。

これまで、警察に捕まった事は一度も無いというのが自慢だ。フフン!

今日の狙いは、空き家が目立つ、或る地区の住宅街だ。こういう所に、意外に金目のものを溜め込んでるジジババが居るもんなんだ。 『タンス預金』とかいって、何処かの隠し棚に札束を押し込んでたりしてな。

そして、孤独死したジジババの残した空き家を重機なんかで解体した時に、思わぬ大金が『ポポポーン』と出て来たりする訳だ――

目暮啓司(めぐれ・けいじ)は髪をチャッチャと七三に分けた。白髪が出始めている事に内心ショックを受ける。 とりあえず、手早くグレーの背広を着込む。これで、マジメ百点なサラリーマンの完成だ。

目暮啓司(めぐれ・けいじ)は、気を引き締め、目星を付けた閑静な住宅街へと乗り込んで行った。

あと数分で、午後四時になるところ。この住宅街で、最も人通りが少なくなる時間帯だ。

サラリーマン姿の目暮啓司(めぐれ・けいじ)は早速、今日のターゲットと定めた通りを、颯爽とうろつき始めた。 程よくボロくなった家がゾロゾロとあって、ナニゲに埋蔵金が転がってそうな気配もある。

前もって下見しておいたから、住民の動きは、ひととおり把握している。住宅街の真ん中辺りに住んでいる婆さんが、 小型犬を連れてヨタヨタと散歩に出かけるのを見届けたら、ミッション『空き巣』開始だ。

――おっと。婆さんに近づいて来る中年男がいる。

感激する程に貧相なヤツだ。ヨレヨレの、怪しいまでにボロい水色の、トレーナーの上下。 パジャマ代わりのトレーナーを、そのままズルズルと着用しているに違いない。 全身くたびれた格好で、無精ひげを生やしていて、おまけに、パチンコの袋を持っている。

――何となく顔が似ているが……婆さんとこの中年男、親子だろうか。ちっと電信柱の後ろに隠れて、様子を見てみるとしよう。

その時。

目暮啓司(めぐれ・けいじ)の後ろに続いている住宅街の塀の上を、一匹の灰色ネコがやって来たのであった。

その灰色ネコは、電信柱の陰に潜んだサラリーマン姿の目暮啓司(めぐれ・けいじ)を、頭のてっぺんから足の爪先まで眺めた。 そして、金色の目をピッカピカと光らせ、まさに化け猫さながらの妖気漂う――イヤ、 神猫にして猫神さながらの、神気漂う――『会心の笑み』を浮かべた。

明らかに、普通のネコでは無い。そのネコは、余りにもブンブンと素早く尾を振り回しているので、六本の尾を持っているように見える――

まさか、そんな奇怪なネコに目を付けられているとは知らぬ、サラリーマンに変装中の空き巣、目暮啓司(めぐれ・けいじ)である。

その目暮啓司(めぐれ・けいじ)の目の前で、小さな犬を連れて今から散歩に出掛けようとしている婆さんと、 ヨレヨレの水色トレーナー中年男の、日常の会話が続いていた。

「ママ、カレェ、煮といてよ。そんで、先に食べてて。帰り遅くなるから」
「ほぁ」

目暮啓司(めぐれ・けいじ)は、電信柱の陰で、思わず顔をしかめた。

――婆さん、何とも気が抜けた返事だな。大丈夫か。

婆さんにリードをつながれている小型犬が、水色トレーナー中年男に向かって、キャンキャン吠えたてている。 見てみると、立派な眉毛の目立つ、フッサフサのテリア種だ。

犬の方は間違いなく、あの水色トレーナー中年男に好意を持っていないのだ。

2.犬と猫と空き巣…奇妙な道連れ、世は情け

――うむ。あの犬、賢い犬だな。

目暮啓司(めぐれ・けいじ)は電信柱の陰で、犬の行動に同感しつつ、感心していた。 あの『ジジ眉毛』、眉毛に立派な白毛が混じっているだけあって、ちっとは知恵も回っているのは、確からしい。

――俺だって、あのくたびれた中年男、『身体だけ大きくなった子供ガキ』と言うべき、甘ったれたヤツだと思うよ。

目暮啓司(めぐれ・けいじ)は、内心でブツブツとボヤいた。

――就職・超氷河期に巻き込まれたロスジェネ世代に当たってるようだから、それは同情するが。 何だろね、母親に対して、あの態度は。おまけに舌っ足らずな口調で、『ママ、カレェ』だとよ。イイ年して、赤ちゃんプレイ漫才やってんじゃねえよ、ケッ!

目暮啓司(めぐれ・けいじ)が眺めているうちに、ヨレヨレの水色トレーナーの上下をまとった無精ひげの中年男は、 パチンコの袋をブラブラさせて幹線道路の方へと歩み去った。

幹線道路の脇に、スーパーマーケットやコンビニの類と並んで、無意味にハデハデなパチンコ店が複数ある。 水色トレーナーの中年男は、そこへ行くのだろう――しかも、勝利チートな台を探して、ハシゴするのであろう――と予想できる。

住所の丁目が変わる曲がり角で、くだんの水色トレーナー中年男は、同類と思しき、もう一人の貧相な中年男と一緒になっている。

もう一人の中年男の方は、『デロンとしたハワイアン』と言うべき出で立ちだ。

色あせ過ぎて元の色柄の判別も付かない、グリーン系のハワイアンシャツ。 その上に引っ掛けているのは、量販店で売られていると思しきワンコイン値段レベルの、グレーの安物ジップパーカー。 下はジーパンなのだが、今風の若者ファッションを気取っているのか、ボロボロのジーパンだ。 しかも、センスに問題があるのか無いのか、そのボロ・ジーパンは無意味なまでに加工が入り過ぎていて、 もはや、『そろそろ、廃物回収に回さんかい!』というレベルである。

――ああいう手合いは良く見るから、これは確信に近い。あのくたびれた中年男ども、 ハローワークを回って就活どころか、パチンコ三昧してくる予定なんだろう。

目暮啓司(めぐれ・けいじ)は、目立つような音を一切立てずに、器用に『フンッ』と鼻を鳴らした。

先程から後ろに控えている灰色ネコが、ピッカピカの金色の目を細めて感心しているのだが、目暮啓司(めぐれ・けいじ)は相変わらず気づかない。

――まぁ、人生裏街道を爆走中の、「俺の方がマシ」だなんて言うつもりは無いがよ。

目暮啓司(めぐれ・けいじ)は電信柱の傍を離れて、目星をつけたターゲットを目指した。

瞬間。

灰色ネコの金色の目が、神々しいまでに『ピカーッ』と光った!

「キャン! キャン!」

――しまった! 油断していて、犬に感づかれた!

目暮啓司(めぐれ・けいじ)は足元に不意打ちを食らって、たたらを踏んだ。 奇妙な灰色ネコが尻尾を振り回してニヤニヤしているのが、視界の端に入ったが――今は、それどころでは無い。

――おい、こら、このスーツは商売道具なんだ。 尖った犬歯で穴を開けるんじゃない、このクソの、フッサフサのテリアの、ジジ眉毛の犬が!

ようやくの事で、婆さんが飼い犬の妙な行動に気付いて、リードを引きつつ、犬をなだめ始めた。

「おや、ズボンの裾を噛んじゃいけないよ、トップスター」
「トップスター?」

それどころでは無いのだが、目暮啓司(めぐれ・けいじ)は一瞬、呆然と感心の混ざった心持ちになったのであった。

――このジジ眉毛のテリア種、愉快にも『トップスター』って名前なのか! 何気に時代を感じるね!

「ぐるうぅ~、がるうぅ~」

――困った。この犬、なかなか離してくれない。

ちなみに、この小型テリア種が、いきなり目暮啓司(めぐれ・けいじ)を狙って飛び掛かったのには、れっきとした理由があるのだが……

目暮啓司(めぐれ・けいじ)は困惑顔で婆さんを眺めるのみだ。

――このボロい住宅街でのミッション、すなわち『空き巣』は中止するしかない。婆さん、俺の人相と着衣をシッカリ覚えた筈だからな。

婆さんも困惑顔をしている。何処にでも居るような、割と崩れた身体ラインの、中肉中背の中高年のオバサン……というか、フツウの婆さんという風である。

「ゴメンナサイね、この子、いつもは大人しいんだけど……今日は一体、どうしたんでしょうね」

たかが小型犬に、見事に足止めされる形となった目暮啓司(めぐれ・けいじ)は、内心、悪態をつき続けた。

――どうもこうも無いよ。俺の稼ぎをパァにしやがって。

先刻、視界に入った灰色ネコは、今は電信柱の前に全身を現して、目暮啓司(めぐれ・けいじ)に向かって盛大なニヤニヤ笑いをしている。 まるで『不思議の国のアリス』に出て来る、あのチェシャ猫だ。

そのキレイな三日月形になったピッカピカの金色の目は、何故か、目暮啓司(めぐれ・けいじ)の心を奇妙にざわつかせた。

目暮啓司(めぐれ・けいじ)とジジ眉毛のテリア種が、数回、グルグルしているうちに――

――ぐぅ。

「さっきの大きいの……その、お腹の音?」
「はぁ……」

マジメ百点のサラリーマンを装っている目暮啓司(めぐれ・けいじ)は、婆さんの指摘に、大人しくうなづいて見せる他に無い。

――失念していたが、イライラ、カッカしていると、お腹が空くんだっけか。 食費を切り詰めるために一日二食な生活だから、肝心なところでアラが出ちまった。チクショウ。

ジジ眉毛のテリア種は、まだしつこく唸って、ズボンの裾に噛み付いている。

――そろそろ、蹴とばしてやろうか。

そんな犯罪じみた事を目暮啓司(めぐれ・けいじ)が考えていると、小型犬は何故か、急に態度をコロッと変えた。 ワフワフ言いながら足にじゃれついて来る。

実は、これにも、『金色の目ピッカピカの灰色ネコに示唆されたため』という、 れっきとしたオカルトな理由があるのだが……それは、今の目暮啓司(めぐれ・けいじ)にとっては、あずかり知らぬ事である。

――つくづく犬ってのは分からん。

目暮啓司(めぐれ・けいじ)が心の内で毒づいている間、婆さんは戸惑いの余り、ポカンとしているままだったが……やがて、パッと閃いたような顔になった。

流石に目暮啓司(めぐれ・けいじ)も、『何なんだ』とばかりに、ギョッとする。

「そこの川の堤防のところを一回り、このトップスターと散歩して来て下さるかしら? 戻ってくる頃には、 カレーが出来てるから……お詫びに食べて行って下さいな」
「はぁ……」

らしくも無い事だが、目暮啓司(めぐれ・けいじ)は素で口を引きつらせて、ただ呆然とうなづくのみだった。

実際、目暮啓司(めぐれ・けいじ)の手元には『おサツ』と呼べる金が無い。『タダで食べさせてくれる』となれば、今夜の食費が浮く。

――もしかしたら腹具合によっちゃ、翌朝の食費も、だ。

そんな打算を巡らせているうちに、目暮啓司(めぐれ・けいじ)の口元は、知らず、ゆるみ出していた。正直言って、大変ありがたい事なのである。

次の機会に、この住宅街で改めて、念入りに空き巣をやる時は、『この婆さんの家は見逃しておいてやろう』と思う程度には。

3.空腹は最高のスパイス

そんな訳で――

目暮啓司(めぐれ・けいじ)は、婆さんから犬のリードを預かり、近所の川の堤防――犬の散歩コースを辿っていた。

犬は、先ほどの敵意も好意も忘れたかのように、堤防に生える雑草に鼻を突っ込んだり、 灌木と一緒に生えている背の高いヤブの各所各所でマーキングをしたりと、ワンコ社会の営みに余念がない状態だ。

目暮啓司(めぐれ・けいじ)は、ふと背後に気配を感じて振り返った。

後を付いて来る奇妙な灰色ネコが居る。そのピッカピカの金色の目は、目暮啓司(めぐれ・けいじ)をシッカリと注視している様子だ。

奇妙な灰色ネコは、普通のネコらしからぬ、高度な知性を感じさせる振る舞いや表情をする。 晩い昼下がりの陽光に照らされて、毛皮が不思議な色合いを見せていた。見ようによっては、神々しい銀色にきらめいているようにも見える。

ネコに詳しくない目暮啓司(めぐれ・けいじ)でも、『コイツを捕まえてペットショップに持って行けば、相応に儲かるだろう』という事くらいは見て取れたのであった。

――だが、コイツ、タダのネコじゃねぇ。何故なのかは分からんが、人間の手には余るような気がする。

灰色ネコのピッカピカの金色の目が意味深にきらめくたびに、目暮啓司(めぐれ・けいじ)の首筋のあたりの毛が、妙にジワジワと震えるのだ。

目暮啓司(めぐれ・けいじ)の直感――ヤマ勘は、大きく外れた事は無い。 実際、学生時代の頃は、これで定期テストや受験を切り抜けて来たし、空き巣をやる時も、このヤマ勘が素晴らしく役立っているのだ。 運よく、一種の天賦の才能を授かったと言っても良い。

目暮啓司(めぐれ・けいじ)はブルブルと頭を振って、ジワジワと来る奇妙な予感を振り払った。

――やっぱり、犬や猫と言うのは、分からん。

「そろそろ、いい頃だろ。おい、ジジ眉毛、婆さんの家に戻るで」

サラリーマン衣装と同じく商売道具のひとつである、真面目な顔をした腕時計は、一時間が経過した事を、律儀に目暮啓司(めぐれ・けいじ)に知らせている。

手元のリードをヒョイヒョイと引くと、『トップスター』などというご大層な名前をもらっている、 ジジ眉毛のテリア種は、モノを分かっているかのように、大人しく身を返して付いて来た。

――聞き分けが良いのは、散歩をした後にエサ・タイムになるからに違いない。

目暮啓司(めぐれ・けいじ)は、常識的な結論を下した。久し振りに、子供の頃、田舎で飼っていた『可愛くねぇ犬』の事を思い出したのもある。

――犬ってのは、自分のハラ具合の事となると、途端に聞き分けもお行儀も良くなるんだよな。

目暮啓司(めぐれ・けいじ)の脳内に、田舎の家の情景がパッとよみがえった。

就職を機に、学生時代の思い出をまるごと置いて出て来た田舎。今は亡き両親。

家の裏山にあった、由緒不明のボロッちい神社。覚えている限りでは、もはやボロボロの祠しか残っておらず、 タヌキやキツネが怪しげな儀式をして遊びまわる廃墟と化していた。今じゃもう、祠すらも朽ち果ててしまっているに違いない。

――あのクソ犬と来たら、『お手』『お座り』の芸なんか出来ねえよ――なーんて顔をしておいてよ。

お楽しみのエサ・タイムとなるとバーッとやって来て、芸人、イヤ、『芸犬』並みの『お手』『お座り』の芸を披露して、 余分にエサにありつくという、超・フザケた犬だったんだ。

「いかんいかん。昔の事を思い出して、ちっと感傷的になっちまった」

目暮啓司(めぐれ・けいじ)は気合を入れると、改めてジジ眉毛のテリア種を引っ張った。

住宅街に入る。夕食時間の早い家では、もう夕食のおかずが出来ている頃だ。

目暮啓司(めぐれ・けいじ)は、再びチラリと後ろを確認した。

あの金色の目ピッカピカの灰色ネコが、相変わらず後を付いて来る。まるで『送り狼』、いや、『送り猫』だ。 秋の日暮れはあっという間である。陽射しがいっそう浅くなって来た事もあって、その灰色ネコは、いっそう化け猫の気配を発散しているところだ。

目暮啓司(めぐれ・けいじ)は一瞬は怪しみながらも、『そんな筈はねぇ』と、直感から来る結論を打ち消した。

勿論、目暮啓司(めぐれ・けいじ)は後になって、この決断を悔やむ事になるのだが……

目暮啓司(めぐれ・けいじ)とジジ眉毛のテリア種と灰色ネコは、あの婆さんの家に近づいて行った。

今しがた、通り過ぎた家からは――魚の煮物の匂いがして来る。

――みそ煮……じゃ無いな。ありゃ、しょうゆ煮だ。しょうゆの入ったシンプルな煮汁の匂い。

目暮啓司(めぐれ・けいじ)は、ブツブツと小声に出して、独り言をつぶやいた。

「家庭の味ってヤツだね。フン」

目暮啓司(めぐれ・けいじ)の後を付いて行く犬と猫、すなわちジジ眉毛のテリア種と金目の灰色ネコが、 一斉に目暮啓司(めぐれ・けいじ)を注目する――と言う不思議な反応を見せた。

しかし、目暮啓司(めぐれ・けいじ)の方は自身の考えに沈んでいて、その奇妙な現象に気付かなかったのであった。

婆さんの家に近づくと、定番のカレーの匂いが漂って来ているのが分かる。灰色ネコは、いつの間にか姿をくらましていた。

目暮啓司(めぐれ・けいじ)がドアベルを鳴らすと、婆さんがニコニコ顔で出て来る。ジジ眉毛のテリア種が、早くもクンクンと鼻を鳴らして、エサをオネダリし始めた。

「トップスターを散歩に連れてってくれて、ありがとうございますね。カレーが出来てますよ。一杯、食べてってね」

――遠慮なく。

目暮啓司(めぐれ・けいじ)は居間のテーブルに着くなり、湯気を立てているカレーをがっついた。

――実に旨うめぇ。五臓六腑に染みわたる。

元々、学生時代の目暮啓司(めぐれ・けいじ)は、カレー好き男子の一人だったのだ。

勤め先をクビになり、生活資金が底をついて、やむなく空き巣稼業を始めてからは、まともなカレーを食べていなかった。 だからこそ、久しぶりに腹いっぱい食べられる『まともなカレー』の旨さが、実に感動的なのであった。

――何か、こう、じんわり来るんだよなぁ。普通に、ニンジン、玉ねぎ、ジャガイモを切って、豚肉の切れ端の数々を放り込んで、 スーパーなんかで売ってるカレーと一緒に、ナベに放り込んだだけのレシピなのにな。

婆さんが、カレーのお代わりをよそいつつ、目暮啓司(めぐれ・けいじ)に声を掛ける。

「そう言えば、お名前は?」
「目暮啓司(めぐれ・けいじ)っす」

一瞬の間を置いて――目暮啓司(めぐれ・けいじ)の目が、テンになった。

――はッ! しまった! カレーに釣られたせいか、本名を言ってしまった! しかもフルネームで! ゲホ、ゲホッ!

「大丈夫ですか? 喉に何か詰まって……」
「いや、その、お気遣いなく」

婆さんは目をパチパチさせていたが、何とか納得した様子だ。そして、ちょっと吹き出した様子である。

「お宅は、うちと一文字違いというか、一本違いなんですねぇ。縁でしょうかね。うちは『日暮(ひぐれ)』だから」

目暮啓司(めぐれ・けいじ)は無言でヒョコヒョコと曖昧に相槌を打った。無言だったのは、再びカレーをがっついていたからだ。

――まぁ、こちとら、先刻ご承知ではあるさ。数日前に下見した時に、ちょっとだけ『おや』と思った表札だったからな。

婆さんは次に、思い出し笑いをしたらしい。脇を向いているが、何やら「フフフ」という忍び笑いが聞こえて来るのである。

『まさか、何か、企んでいるんだろうか?』とギョッとする目暮啓司(めぐれ・けいじ)であった。

「ゴメンナサイね、外国の警察の……ナントカ警部とか、ナントカ警視……というのを思い出していましたから」

――知らねぇヤツだが、そういうのが居るんだな。こちとら、警察じゃ無くて空き巣なんだが……

中身は空き巣の目暮啓司(めぐれ・けいじ)、 とりあえず、この『マジメ百点のサラリーマン』の変装が、ナニゲに効いたらしいと、ホッとするのであった。

4.その時、叫び声が…「ひ、人殺しだ!」

目暮啓司(めぐれ・けいじ)はカレーをがっつきながらも、空き巣としての習慣で、クルリと居間を見回した。

居間の一角に――上等そうなスーツで決めた、年輩の男の写真が掛かっている。

――おや? 遺影っぽい感じだな? この家の主人だろうか?

日暮(ひぐれ)の婆さんが、すぐに目暮啓司(めぐれ・けいじ)の視線の意味に気付いた。

「あ、あれね、うちの夫なの。死んでから、もう十年……十年以上になるかしら。定年退職する直前だったから、しばらくは大変だったのよね」
「そうっすか」

目暮啓司(めぐれ・けいじ)は口の中でカレーをムグムグとやって、ゴックンと飲み込んだ。

空き巣として学習した知識が告げている。典型的な、旧世代のサラリーマン一家。妻の方は、間違いなく専業主婦。 この家は、旦那の稼ぎで、もっていたようなものだったのだろう。

「この現代、ずーっと不景気が続いているから、大変だったんじゃ無いっすか」
「それが、うーん……そうでも無かったの」

首を傾げた目暮啓司(めぐれ・けいじ)に、日暮(ひぐれ)の婆さんは、控えめな笑みをして見せて来た。

「かなりの額の生命保険が掛かってたから。年金みたいな感じで定期的に入って来てたから、生計の方は何とかね。 私が死んだ場合でも、その辺の用意は抜かりは無かったりするから、何とかやってたんじゃ無いかしら。 息子の方は、仕事とか色々何か上手く行かなくて、今は『プータロー』状態になっちゃったけど……まぁ、何とか養えているから」

目暮啓司(めぐれ・けいじ)は無言で相槌を打った。相当に至れり尽くせりの生命保険だったらしい。高度経済成長期やバブル時代の恩恵ではあるのだろう。

実のところ目暮啓司(めぐれ・けいじ)としては、内心、『あの息子の方は、重度のパチンコ中毒のようだし、身の錆が出た形で、 上手く行かなくなったんじゃ無いのか』という直感があるが、それは言わないでおく。

――そろそろ、潮時だろう。

ホワイトな定時帰宅組の、ビジネスマンとビジネスウーマンが到着する頃だ。 下手に長居して余計な目撃者を増やすのは、目暮啓司(めぐれ・けいじ)にとっては都合が悪い。

――それに、あの……『だらしねぇ』とは言え、一応、婆さんの息子ってのも、そのうち帰宅する筈だし。

「ご馳走様っす。旨かったっす」

如何にも『マジメ百点のサラリーマン』らしく、律儀に一礼する。婆さんはニコニコ顔だ。 とりあえず、今日のところは、上手く切り抜けた――しかも、食費ゼロで――と言える。

だが。

そこで、目暮啓司(めぐれ・けいじ)の幸運が尽きたと言うべきなのであった。

「ひ、ひ、人殺しだ! 火事だ! 叔母さんが死んでるーッ!」

夕闇に沈み始めた住宅街の中――近所の家のひとつから、パニックに陥った男と思しき、ただならぬ叫び声が湧き上がって来た。 声が裏返っている。

それに応じて、近所の家々から、暇を持て余していそうなジジババたちが、ドヨドヨと湧いて出て来た。

ご丁寧に、『火の用心』回りをやっている地元のジジババ消防団も、騒ぎを聞きつけて集まって来ている。

勤め先から帰宅したばかりの三々五々といった人々も、いきなりの騒動に仰天して、足を止め始めた。

――火事に殺人だと?! 冗談じゃ無い!

目暮啓司(めぐれ・けいじ)は硬直した。日暮(ひぐれ)の婆さんも目を見開いている。

ジジ眉毛のテリア種が、ただならぬ空気を感じ取ったのか『ギャンギャン』と吠え始め、住宅街の騒ぎにいっそうの彩りを添えた。

――焦げ臭い空気が流れている。確かに、何処かでボヤが出ている。どの家が、この騒動の発火点なんだ?!

目暮啓司(めぐれ・けいじ)が、近所の人々に紛れて、道路に出てみると――

「三軒先の……鈴木さんが……」

目暮啓司(めぐれ・けいじ)の後ろにくっついて道路に出て来ていた日暮(ひぐれ)の婆さんが、早速、回答を提供して来た。

――三軒先。確かに、そこに人だかりが出来ている。ボヤらしき煙も漂っている。

「警察を呼んでくれ! 救急車だ、救急車!」
「消防ー!」

近所の野次馬と化したジジババたちが、その家の前で盛んに騒ぎながら、手元のケータイやスマホを振り回している。 揃って、『老人優待プラン』サービスのものだろう。

ジジ眉毛のテリア種は、婆さんの足元で相変わらず『ギャンギャン』と吠えている。 そんな犬の隣で、いつの間にか再び姿を現した金色の目ピッカピカの灰色ネコが、毛を逆立てていた。 『間に合わなかった』とでも言うかのような表情をして、金色の目をキッと吊り上げているのである。

間もなくして、その家から噴き出していた焦げ臭い空気が、だんだん薄まって来た。 先ほどの『火の用心』消防団が、その家に素早く飛び込んで、消火などの対応をしたに違いない――

目暮啓司(めぐれ・けいじ)が、ジジ眉毛のテリア種を引っ張りつつ通過していた、あのルートの脇の、家。

――何てこったい。あの、魚のしょうゆ煮を作ってた家じゃ無いか!

「叔母さんが……叔母さんが……」

その『鈴木』という表札の付いた民家のドアの前で、情けなく鼻水を垂らしている貧相な中年男。

デロンとした緊張感の無い服装の、明らかに無職の中年男だ。色あせたグリーン系と思しき、シワだらけのハワイアンシャツ。 グレーの安物ジップパーカー。ファッショナブルなボロと言うには余りにも貧相すぎる、ボロすぎるジーパン。

――何となく、人相と着衣に見覚えがあるが……

行き掛かった手前とは言え、結論を見ずに帰れる訳が無い。目暮啓司(めぐれ・けいじ)は野次馬の隙間を縫って、 そのデロンとしたハワイアンな中年男の後ろに見える光景に、目を凝らした。

何処にでもあるような単純な造りの、狭っ苦しい間取りの、中古のボロ家だ。玄関のドアが全開になっていて、その奥に台所が見える。

中年男が、呆然としたように玄関の段差の下にしゃがみ込んでいるので、なおさら台所が丸見えだ。 先程までボヤを出していた台所は、ススで真っ黒になっている状態だ。焦げ臭さの名残が漂っている。

目暮啓司(めぐれ・けいじ)は、息を呑んだ。

――ありゃ、死体じゃ無いのか?!

先程の消火作業で、水浸しになったと思しき、台所の床。

年配のちょっと太った女が、そこに、ゴロリと不格好に横たわっている。

目玉をひん剥いているが、明らかに死んでいる。間違いなく死体だ。苦しんで死んだと見える――台所の電灯に照らされた、あのどす黒い顔色は……

――毒、じゃ無いだろうな……

首筋に沿って、チリチリとした感覚が上がって来る。目暮啓司(めぐれ・けいじ)は、嫌な予感を覚えていた。 こういう予感は、余計な事に、たいてい当たっていたりするのだ。

程なくして。

不意に、『空き巣』としての本能が、目暮啓司(めぐれ・けいじ)の首筋にゾワッとする感覚を与えて来た。

――警察がやって来た!

早いところ、ずらかるべきだ。目暮啓司(めぐれ・けいじ)は、周囲の野次馬騒ぎを良い事に、ジワジワと逃走を図った。

「ぐるうぅ~、がるうぅ~」

――何だ? 妙に足を引っ張られているような……

目暮啓司(めぐれ・けいじ)が、足元に目をやると――

「いい加減、離しやがれ!」

なんと、犬と猫が協力し合って、目暮啓司(めぐれ・けいじ)の逃走を邪魔しているのだ。 吹けば飛ぶような小型犬と小型猫のくせに、よりによって、こんなところで、ビックリするような底力を発揮している。

ジジ眉毛のテリア種が、しつこくズボンの裾をガジガジとやっている。金色の目をした灰色ネコが鋭い爪でもって、ズボンの裾を地面に縫い付けている。

――やめろ! 商売道具のズボンが脱げる! 破れる!

目暮啓司(めぐれ・けいじ)は焦りまくった。

婆さんに美味なカレーをご馳走してもらった手前、婆さんの目の前で、この犬と猫を荒っぽく放り投げる訳にもいかない。

すぐに、通りの向こう側から、パトカーのサイレン音が近づいて来た――

5.お控えなすって…いよいよ、ご対面!

――ヤキが回ったもんだ。

――この俺が。

――天才プロフェッショナルな空き巣を自負する、この俺様が!

「いい加減、(ドン)、自供しろ! あんたの余罪の数々、(ドン)、すでに挙がってるんだ、(ドドン)、 この、(ドン)、ケチな空き巣めが! 残留物たる髪の毛、(ドン)、フケ、(ドン)、指紋、(ドン)、汗DNA、(ドン)、 いずれも一致する被害件数が、(ドドン)、20件以上あるんだ(ドドドン)!」
「まぁ、落ち着け。そろそろ、あらいざらい白状する気になったんじゃ無いかね? 空き巣くん」

学生ボンボンの印象が抜け切ってない若い刑事が、目の前の机を拳で叩きまくり、いきり立っている。 そして、それを、妙にセレブ風のベテラン中年刑事が抑えている格好だ。

そう、ここは最寄りの警察署の聴取室だ。

目暮啓司(めぐれ・けいじ)の手持ちのカバンは奪われ、調べられた。

当然、ピッキング用、ハッキング用といった、フツウのサラリーマンではありえない、『空き巣専用』道具の数々が出て来た。

――あの住宅街では見かけない『不審者』という事もあって、俺様は、すぐその場でお縄になったと、こういう訳だ。

おまけに。

――恥の上塗り、いや、冤罪の上塗りと言うべきだな。

目暮啓司(めぐれ・けいじ)に、あの『鈴木』家で起きた殺人事件の容疑が掛かって来たのだ。

――はぁ。全くもって、冗談じゃねぇ。

目暮啓司(めぐれ・けいじ)は、苛立ちが止まらない。 二人の刑事の手前、『ふてくされた振り』をして無言と無反応を貫いているが、その『ふてくされた振り』は、半分は本物だ。

――今日、この日、この時、この瞬間に至るまで、一度も見た事も聞いた事も無かった、存在すらも知らなかったババに対して、 いきなり火事と殺人をやらかしたなんて、そんなアホな事があるかよ。

――第一、この俺様は、あの『鈴木』とかいう家には、そもそも上がってねぇってのに。

あの家の玄関で腰を抜かしていた、あの貧相な中年男――今回の被害者の甥だそうだ――は、 刑事の手によってパトカーに押し込められた目暮啓司(めぐれ・けいじ)に向かって、 ものすごい勢いで、『あんたが犯人だ! この人殺しの空き巣野郎めが!』なんて、わめき散らして来やがったのだ。

だが。

目暮啓司(めぐれ・けいじ)のカバンの中には、血痕が付着した道具類は、一切なく。毒物の取引記録や、怪しげな付着粉末、などと言った痕跡すらなく。

警察の側にしても、決め手を欠いたまま、目暮啓司(めぐれ・けいじ)を拘束している状態――と言う訳だ。

やがて一刻。

目暮啓司(めぐれ・けいじ)が『ふてくれた振り』をして黙秘を続けていると、程なくして、別の刑事が、聴取室のドアを開けて入って来た。

順番に耳打ちされたベテラン刑事と新人刑事が、奇妙な表情で目暮啓司(めぐれ・けいじ)を振り返りながら、三人目の刑事の後に続いて、聴取室を出て行く。

聴取室のドアがバタンと閉まった。

だが、ドアの前には、相変わらず見張り担当の刑事が頑張っている気配がある。 脱走を図って、余計に容疑を濃密にして警察を喜ばせるつもりは、目暮啓司(めぐれ・けいじ)には髪一筋ほども無い。

――やっと、ゆっくり出来そうだな。

目暮啓司(めぐれ・けいじ)は『ふぅ』と息をつき、今まで七三に分けていた髪型をグシャグシャとやって崩した。

不思議なもので、ヘアスタイルが変わると、あっと言う間に『マジメ百点のサラリーマン』から、『胡散臭い無職の流れ者』といった印象に早変わりである。

――疾風怒濤というべき変化だったから、『空き巣』としての本能で、思考を止めていたんだ。 考えるのは、このバカな騒動を脱してからでも充分だし、『下手な考え、休むに似たり』と言うからな。

目暮啓司(めぐれ・けいじ)は、この奇妙な殺人事件を、改めて思い起こした。

まず検討するのは――あの哀れな被害者の『鈴木』とか言うババと、その住宅だ。

あの、毒殺されたと思しき鈴木ババは、いつ死んだのか。

目暮啓司(めぐれ・けいじ)が、あのジジ眉毛のテリア種を引っ張って住宅街に戻って来た時は、まだ生きていたのだろうか。

そして、あのババは、煮魚料理を作っていた――それは確実だ。あの、しょうゆ煮の独特のシンプルな匂い。

目暮啓司(めぐれ・けいじ)は、思案している内容を口に出して、ブツブツと呟いた。

「カップ麺やレンジ炒飯くらいしか、料理の事は知らねぇが。湯を注いだり、レンジでチンしたりする訳じゃ無いから、 煮物料理の時間は、一時間ほどと判断して良いんだろうな。日暮(ひぐれ)の婆さんも、同じ煮物料理のカレーを完成させるのに、 一時間ほど必要だったみたいだからな。その一時間の間に、あの鈴木ババは……」

その瞬間。

「やっぱり、見込んだ通りだニャ。死亡時刻を正確に絞り込んでのけたニャネ、ニイさん」

ネコの鳴き声によく似た、全く記憶に無い声音だ。目暮啓司(めぐれ・けいじ)は思わず、パイプ椅子から腰を浮かせていた。

目の前に――密室たる聴取室の真ん中に――いつの間にか、あの金色の目ピッカピカの灰色ネコが出現している。いつから、そこに居たのか。

「……何だ、てめぇは?!」

一瞬の絶句の後、目暮啓司(めぐれ・けいじ)は身体を強張らせて、上ずった声を出していた。

――ありえねぇ! ネコが喋った?!

灰色ネコは、先刻まで若い刑事が座っていた、机の向こう側にあるパイプ椅子の真上の――空中に浮かんでいる。 しかも身体サイズが明らかに違う。人類サイズ並みのデカさだ。

おまけに――その背中には、カラスのような黒い羽が生えている。尻尾は六本だ。

「ミーの言葉が分かるのニャネ。大した霊感の持ち主ニャネ、ニイさん」

灰色ネコの金色の目が、満足そうにピッカピカと光った。

「金色の目のピッカピカ、いとも凛凛しき三角耳ぞ。風切る黒き烏羽(からすばね)、末(すえ)になびくは、 奇(くす)しき六尾(ムツオ)――という、『六尾(ムツオ)の猫天狗』の事ニャー、ミーの事だニャ」
「聞いた事ねぇよッ!」

大型の奇怪な灰色ネコは、まさに『不思議の国のアリス』に出て来るチェシャ猫さながらに、金色の目ピッカピカのニヤニヤ笑いをを浮かべている。

「これから名が売れるから、知っといてくれニャ。それはともかくニイさん、ミーとのテレパシー応答、ほぼ完全成立ニャネ。 ちょっとした感覚シンクロ調整を施しただけで、これ程ストレートに相通じるとは、実に優秀な巫女体質の人材ニャ。 ご先祖様に、優秀な巫女が居たからという事実もあるだろうがニャ、ミーは、とっても気に入ったニャン」

目暮啓司(めぐれ・けいじ)は、目の前で進行する信じがたい出来事の連続に、口をパクパクさせているのみだ。

「テレパシー応答……感覚シンクロ調整? 巫女体質? 俺の先祖が巫女?」

猫天狗のニヤニヤ笑いが、いっそう深くなった。

黒い羽が羽ばたきを止めると、猫天狗の身体は、パイプ椅子の上にフワリと落ち着いた。 パイプ椅子の上に『ネコ座り』した猫天狗の後ろには、後光さながらに、六本の尾がピンと広がっている。

「ニイさんの生家の、あの裏山の祠は、元々、ニイさんの先祖の巫女が神託を受け取って成立した神社だった所ニャネ。 先祖が備えていた巫女体質は、ニイさんの中で再び発現してるのだニャ。 ニイさんは神託を受け取る事が出来る程の、高精細なテレパシー霊感を持つ、うってつけの人材ニャ。 だからニイさんは、『六尾ムツオの猫天狗』という高い格式ランクの存在たるミーとも、ほぼ正確に意を通じる事が出来るのだニャ」

――知りたくねぇ! 分かりたくねぇ! 信じたくねぇ!

頭では全力で拒否しているものの、目暮啓司(めぐれ・けいじ)の身体には、『猫天狗』と名乗った奇妙な灰色ネコの言葉が、スルスルと入って来ていた。 猫天狗の言語体系をセットでダウンロードしつつ、猫天狗の言葉を受け入れているので、いちいち、瞬間的に翻訳が出来ているかのようなのだ。

人類の言語体系では、なかなかピッタリ来るような言い方が見つからないが――全身が、『巨大な耳を持つ通訳者』になったかのようなのである。

目暮啓司(めぐれ・けいじ)は、古代日本の或る種の伝説の王たちが、「ミミ」という系統の名前を何故に名乗っていたのか、 その理由を、身体全身で理解せざるを得なかった。

――そう言えば、聖徳太子の異名は『豊聡耳命/とよとみみ-の-みこと』と言ったんだっけか。

「まぁ、お座りニャン、ニイさん」
「てめぇの兄じゃねぇ」
「目暮啓司(めぐれ・けいじ)くん」
「フルネームで呼ぶなッ!」
「ニャー、ケイ君」

目暮啓司(めぐれ・けいじ)は、もはや反発するだけの気力を失い、パイプ椅子の上にグッタリと座り込むのみだ。

驚愕が限度を超えると、人間は観念の余り、大人しくなるものなのである。

たとえ事実を受け入れられなくても、だ。

6.事件の全容を解明せよ

パイプ椅子の上にお座り中の猫天狗は、自慢のヒゲを素早くお手入れすると、再び口を開いた。

「話を戻そうじゃニャいか、ケイ君。元々、あの住宅街に、強い殺意を持った人物が出現した事は、ミーは既に察知していたのだニャ。 だがニャ、たいていの人類は、ミーの警告など脳みそに入らない。違うかニャ?」
「違わない」

目暮啓司(めぐれ・けいじ)はゲッソリとしながらも、猫天狗を眺めた。

最初に、『フツウのネコじゃ無い』と感じたのは正解だった。首筋のジワジワと来る本能的な感覚は、間違いじゃ無かった。 ドンピシャだった所で、嬉しくも何とも無いが。

――そもそも、ネコが喋るだなんて思うものか。しかも六本の尾に黒い羽、いよいよ天然記念物レベルの珍物だ。 人類サイズ並みのデカさだと流石に扱いにくいだろうが、何とか普通のネコサイズに押し込めたまま、 ペットショップに上手く売りつければ、どれくらいのカネに……

猫天狗が金色の目をキラッとさせた。

「今、ミーを捕まえて、ペットショップに高く売りつける事を考えてたニャネ?」

まさに図星。

目暮啓司(めぐれ・けいじ)は、『何で分かるんだ』と、ギョッとするのみだ。

「感覚シンクロ調整をやっておいてあるからニャ、全部テレパシーで筒抜けだニャ。まぁプライバシーってモノがあるしニャ、 ミーは基本的に、ケイ君の脳みそを盗聴する事は無いニャ。ただし、さっきのように、不穏な思考ビームが出てる時は例外ニャネ。 ケイ君が『ジジ眉毛』と呼んだあのテリア種が、ケイ君を捕まえたのは、ミーの依頼に応じての事ニャン」

目暮啓司(めぐれ・けいじ)は、あの『ジジ眉毛のテリア種』が、犬にしては不自然な行動を取っていた事を思い出した。

日暮(ひぐれ)の婆さんが言っていたように、普段は大人しい犬に違いない。 そして、そういう気質の犬が、いきなり獰猛になって見知らぬ人物に飛び掛かるという事は、犬自身が身の危険を本気で悟らない限り、 有り得ない事なのだ。まして、危険を感じた所で、逃走よりも闘争を選ぶという事自体が、有り得ない事である。

猫天狗は、愉快そうにピクピクとヒゲを揺らした。

「生きてる人類と話すのは数百年ぶりニャ。人類は、死んでからでないと、大抵は直通の精神感応はしないからニャ」
「最近、死んだ人と話したことは、ある訳だな」
「勿論ニャ。この前の冬、日本海側から来た緊急の召喚に応じて、死人の――というよりも、その霊体の――依り代を務めた事があるニャ。 彼は実に興味深い人だったニャ。今頃は、彼は黄泉国(よみのくに)で楽しくやっている筈だニャ」
「誰なんだ、そいつは?」
「古代進(こだい・すすむ)博士だニャ」

目暮啓司(めぐれ・けいじ)は、アングリと口を開けた。

「有名人じゃねぇか! 日本古代史を志す学生なら、一度はあの人の講義を聞きたいと思うもんだ! 確か、 『夜島』の研究をしてる時に、心臓ショックか何かで急死した……ってニュースが、全国版の新聞に載ってたような……」
「彼の武勇伝は後で話すニャ。今は、あの住宅街で起きた毒殺事件を解き明かす事が先ニャ」
「てめぇ、あの鈴木ババは、毒殺されたと見てる訳だな?」
「ニャー」

猫天狗は、金色の目をキラッときらめかせて、シッカリとうなづいた。

完全に会話が成り立っているせいか、いつの間にか目暮啓司(めぐれ・けいじ)は、『話し相手は人類では無い』という事実を失念し始めていた。 勿論、神霊レベルの存在との驚くべき言語的感応をやってのけている――という事実など、すっかり意識していない。

「ミーも、事件の全容を見ていた訳じゃ無いニャ。ケイ君と同じくらいの事実しか承知してないのニャ。 だがニャ、これだけはハッキリしてるニャ。この事件、早急に解決しないと、第二の犠牲者が出るニャ」
「何で分かる」
「強い殺意を持つ思念ビームの存在を相変わらず感じるのだニャ。 夜明けまでに完全犯罪が二つも重なると、千引ノ大岩の頭痛の種が増えてしまうニャ。地獄だって、最近はアップアップだしニャ」

目暮啓司(めぐれ・けいじ)は、戸惑いを感じながらも思案を再開した。ふと、窓の方に目を巡らすと――日は既に暮れていた。各所で街灯が灯っている。

――明らかな殺意をもって、毒を盛ったのだ。今夜の夕食のおかずを利用した……毒殺。

その事実を検討していると、目暮啓司(めぐれ・けいじ)の背中がゾワゾワして来るのであった。

――俺が日暮(ひぐれ)の婆さんのカレーを堪能している間に、あの鈴木のババは、どうやってか、台所から、天に召されちまったんだろう。 煮魚料理を作っている間に。味見してチェックしている間に。

あのボヤ。あの焦げ臭い空気は、コンロの火が掛かり続けていた煮魚料理が、遂に焦げてしまったからだ――と考えられる。

「全く、近所一帯が大火事にならなくて幸いだったな。火事ってのは寝覚めがわりぃしよ」
「ニャー」

猫天狗は、目暮啓司(めぐれ・けいじ)の思考を、テレパシーであらかた読み取っている様子である。

「鈴木ババの、あのハワイアンな甥っ子の帰宅タイミングが、非常に良かったという事もあるんだろうな」

思案を口に出して呟いていた目暮啓司(めぐれ・けいじ)は、不意に眉根を寄せ、息を止めた。

――帰宅タイミングが、非常に良かった……

――非常に良かった……?

目暮啓司(めぐれ・けいじ)の脳みそをつつきまくる、違和感がある。

猫天狗のピッカピカの金色の目が、クワッと見開かれた。ヒゲがピピンと波打った。

「イイ所を突いたかも知れないニャ。ミーは、ちょっと偵察して来るニャ」

そう言い残すと、猫天狗は、煙の如くドロンと消え失せた。目暮啓司(めぐれ・けいじ)は、目の前で起きた怪異現象に、ポカンとするのみだった。

――猫天狗は、時間を操作する術すべすら、心得ているのだろうか。

目暮啓司(めぐれ・けいじ)がそう思わざるを得ない程、次に続くタイミングで、あの二人の刑事が聴取室に戻って来た。 坊ちゃんの印象がまだ抜けていない新人刑事と、セレブ風のベテラン中年刑事である。

新人刑事は戸惑いの表情を浮かべながら、聴取室の隅にある助手用のパイプ椅子に腰を下ろした。 ベテラン中年刑事が目暮啓司(めぐれ・けいじ)の向かい側の席に着くなり、口火を切った。

「目暮啓司(めぐれ・けいじ)くん。日暮(ひぐれ)夫人に本名を名乗っていたんだな。 我が地区の住民リストを照会したら、すぐに見つかった。現在住所は、そこの二つの幹線道路を挟んだ先の、中古アパート。 それで堂々と空き巣をやろうというのが、驚きだよ」

現代のパソコンの処理能力は、偉大なのである。

ベテラン中年刑事は、長年の勘で、目暮啓司(めぐれ・けいじ)がポカンとしている状況である事に気付いたらしい。 もっとも、目暮啓司(めぐれ・けいじ)がポカンとしていたのは、猫天狗が巻き起こして行った怪異現象のせいなのだが。

ベテラン中年刑事は、真の原因について少し誤解した状態のまま、言葉を続けた。

「まぁ、そう驚くで無い、目暮(めぐれ)君。さっき、日暮(ひぐれ)夫人が、わざわざ息子と一緒に警察署にやって来て、 『あの人は何も盗んで行かなかったし、悪い人じゃ無い』と言って来たんだよ。息子の方は180度、正反対の意見だったがな」

目暮啓司(めぐれ・けいじ)は、ようやく『猫天狗ショック』から立ち直って来た。頭をハッキリさせるため、髪をガシガシとやる。 いっそう髪型が乱れたが、目暮啓司(めぐれ・けいじ)は、ベテラン中年刑事の言葉を考慮するくらいの余裕が出て来たのであった。

――そうだった。日暮(ひぐれ)の婆さんには、『だらしねぇ』息子が居るんだった。昼間っから、パチンコ三昧しているような。

目暮啓司(めぐれ・けいじ)が詳細を思い出している間にも、ベテラン中年刑事の話が続いていた。

いわく。

日暮(ひぐれ)の婆さんにとっては、目暮啓司(めぐれ・けいじ)は、まさしく腹を空かせた中高生男子さながらだった。 大盛りのカレーをとっても幸せそうに食べていたし、あんなイイ顔で食べる人に悪人は居ないだろう。 空き巣をやろうとしているのは、空きっ腹に耐えかねての事じゃ無いのか――というのが、日暮(ひぐれ)の婆さんの見立て、と言う訳だ。

「まぁ実際、目暮(めぐれ)君は、数年前の連続放火事件に関して、疑いを掛けられて、勤め先を解雇されている。 もっとも目暮めぐれ君が居なくなった後、真犯人が現行犯で捕まったから、その疑いは晴れてる訳だが」
「真犯人?」
「目暮(めぐれ)君の元・勤め先の上役の、不良息子がな。精神鑑定の結果、親離れと混同した末の傍迷惑な独走に、 遅れた反抗期ストレスが重なっていたという診断が下っている」

――全く下らねぇ冤罪だ。俺の諸々のタイミングが悪かったせいもあるんだろうが。

目暮啓司(めぐれ・けいじ)は、『フン』と鼻を鳴らした。

「だから会社や警察ってのは、信用ならねぇってんだ」
「それは反省する。だが、目暮(めぐれ)君が空き巣を20件以上も繰り返していたのは、事実だ」
「幸いに、そっち方面で才能を授かってたんでね。あの『ジジ眉毛のテリア種』が、余計なことしなきゃ……」
「日暮(ひぐれ)夫人の飼い犬には、後で感謝状を贈らなければな」
「勝手にしやがれ」

後ろで、新人刑事が、何やら吹き出した様子である。

それが幸いにも、目暮啓司(めぐれ・けいじ)の思考に、スパークを呼び起こしたのであった。

「そうだ! あの鈴木ババ、毒殺だったんだろう?!」
「調査中だ。だが、何で毒殺されたと分かる?」

ベテラン中年刑事の促しに応えて、目暮啓司(めぐれ・けいじ)は、鈴木家で目撃していた内容を、まくしたてた。

「俺は野次馬のジジババどもの後ろから、あの現場の台所を見てたんだ。争いの痕跡は無かった。 知り合い同士であっても、殺される勢いで襲われたりすりゃあ、本気で抵抗するもんだろ。 目の前にナベがあって、それで抵抗しなかった、と言うのは不自然すぎる」

目暮啓司(めぐれ・けいじ)は息継ぎもせずに、言葉を続けた。

「それに、あのボヤは、煮魚料理を作ってる間に発生した筈だ。って事は、あの鈴木ババは、煮魚料理を作ってる間に、 自分でも知らないうちに――ボヤが出る前のタイミングで――急に死んだって事だ」

7.妖怪探偵の偉大なターン!

一瞬の息継ぎの後――目暮啓司(めぐれ・けいじ)は結論を口にした。

「最も可能性のある死亡原因は、毒だ」

ベテラン中年刑事は、一瞬ピクリを眉を動かしたものの、目暮啓司(めぐれ・けいじ)の話を制する様子は無い。 だいたい、その読みで当たっているのだろう――とも思える反応だ。

目暮啓司(めぐれ・けいじ)の弾丸スピーチが一段落すると、ベテラン中年刑事は器用にタイミングを捉えて聞き返した。

「だが、目暮啓司(めぐれ・けいじ)君、鈴木夫人が毒を盛られて死んだとして、 誰が、どうやって? あの家の出入りは、死亡時刻と思われる時間帯には、いっさい無かったがね」
「そういう言い方をするって事は、即効性の毒だったんだな」

ベテラン中年刑事は曖昧なポーカーフェイスを続けていたが、目暮啓司(めぐれ・けいじ)の意見を否定はしなかった。

「まぁ、そうとも言えるな。で、その毒は、一体どうやって盛られたと言うんだ?」
「煮魚料理に入ってたんだろうが、そんなの、鑑識の方で調べる事だろ。毒が煮魚料理の中に入ってたという確証が無ければ、次に行けねぇよ」

ベテラン中年刑事は「それも、もっともだ」とうなづいた後、新人刑事に目配せした。

新人刑事は指示を了解した様子で、聴取室の隅にある受話器を手に取る。 そのまま、新人刑事は片方の手で口を覆い隠して、電話先の人物と、何かを小声で話し始めたのであった。

ベテラン中年刑事は、目暮啓司(めぐれ・けいじ)に向かって、更に言葉を重ねた。その目には、面白そうな光が宿っている。

「被害者――鈴木夫人は、煮魚料理を作っていたのか?」
「どうせ、日暮(ひぐれ)の婆さんから聞いてるんだろ。あの『ジジ眉毛』の犬の散歩から戻って来た時、あの家から、しょうゆ煮の匂いがしたんだよ」
「食い意地の張った目暮(めぐれ)君ならではの、素晴らしい鼻センサーと言うべきなんだろうな」
「どうも」

新人刑事が電話を終えて、ベテラン中年刑事に何やら耳打ちした。すると、ベテラン中年刑事は意味深にうなづいたのであった。

「目暮めぐれ君のいう通り、現場から押収した煮魚料理の中に、毒が入っていた。ボヤの原因となったナベでもある。 たった今、鑑識の結果が出たところだ。詳しい解析結果は、まだ出ていないが。で、目暮(めぐれ)君は、どういう考えを持っている?」

目暮啓司(めぐれ・けいじ)は答えなかった。頭の中で、恐ろしい可能性が浮かび上がって来ていたのだ。

「ちょっと待てよ。鈴木の男と日暮(ひぐれ)の男、つるんでるんじゃ無いか?」
「どういう事かね? まぁ隣人同士、当然、顔馴染みではあるだろう。 鈴木夫人と日暮(ひぐれ)夫人の方は、隣人付き合いが長いだけあって、頻繁に食事を共にする仲だったそうだが」

目暮啓司(めぐれ・けいじ)の脳内で、記憶フィルムが順番に巻き戻されていた。

鈴木ババの甥っ子――あのデロンとしたハワイアンな甥っ子。色あせたグリーン系と思しき、シワだらけのハワイアンシャツ。 グレーの安物ジップパーカー。ファッショナブルなボロと言うには余りにも貧相すぎる、ボロすぎるジーパン。

日暮(ひぐれ)の婆さんの息子――鈴木ババの甥っ子と同年代の、無精ひげを生やした貧相な中年男。 ヨレヨレの、怪しいまでにボロい水色の、トレーナーの上下。パチンコの袋。

目暮啓司(めぐれ・けいじ)の記憶フィルムは、電信柱の陰に潜んでいたタイミングまで巻き戻った。

――鈴木ババの甥っ子と、日暮(ひぐれ)の婆さんの息子は、確かに仲良く二人で、『だらしねぇ』似た者同士で、つるんでいた。 連れ立って、パチンコ三昧する程の付き合いではあるのだろう。

目暮啓司(めぐれ・けいじ)の記憶フィルムは、次に、音声記録を叩き出した。

――『ママ、カレェ、煮といてよ。そんで、先に食べてて。帰り遅くなるから』

二人で、裏でつるんでいた――舌足らずな発音。わざわざ料理名を指定しての、煮物料理の依頼。 本気でブルっていた、鈴木ババの甥っ子。カレー。近所付き合い。カレェ?!

「カレーだ……! ヤバイ! 日暮(ひぐれ)の婆さんが――やい、猫天狗、何処に居るんだ?!」

目暮啓司(めぐれ・けいじ)は、両手の平で机をバンと叩いて、勢いよく立ち上がった。

机を挟んで向かい側に居たベテラン中年刑事は――その後ろに控えていた新人刑事も――目暮啓司(めぐれ・けいじ)の急変に、本気で驚愕するのみであった。

*****

ご近所で起きた殺人事件の衝撃、いまだ収まりやらぬ、その当日の深夜。

いかにも初秋らしい少し涼しい風がサワサワと吹き抜け、木の葉がざわめく夜だ。 住宅街の各所に立っている昭和年代物の街灯からは、黄ばんだ光が出ている。薄暗くチカチカと瞬いている光では、物の形がボンヤリと分かる程度でしかない。

日暮(ひぐれ)家の玄関から、物音を立てずに出て来た人影がある。 ヨレヨレの、色あせた水色と思しきトレーナーの上下――日暮(ひぐれ)家の、もはや中年世代と言って良い、年のいった息子である。

道路の真ん中では、既に日暮(ひぐれ)家の中年息子を待ち受けている人物がいた。鈴木家の被害者の甥っ子、こちらも既に中年世代に差し掛かった男である。

鈴木家の甥っ子の方は、流石に、夕方の騒動で汚れたので着替えたのであろう、今着ているのはグリーン系のハワイアンシャツでは無い。 日暮(ひぐれ)家の息子の服装を真似したかのような、トレーナーの上下だ。 ただし、目の痛くなるような蛍光黄色の安物である。蛍光黄色なだけあって、薄暗い街灯の光の中でも、その存在をクッキリと主張している。

両者ともに、着衣はトレーナー。よくよく、似た者同士なのであった。

蛍光黄色トレーナー中年男が、水色トレーナー中年男に向かって、顎をしゃくる。

水色トレーナー中年男は、やや怯んだように佇んでいたが、何らかの覚悟に至ったのか、決然とした様子で歩み寄って行った。

奇妙な二人の中年男は、無言のまま連れ立って、近所の公園へと入って行った。

人っ子一人居ない、見捨てられたような小さな公園だ。申し訳程度の低木の植え込みと、砂場しか無い。

そして、更に――なおいっそう奇妙な事に――その二人の中年男の後ろを、物音立てずに付いて行く、ピッカピカの金色の『何か』があった。

公園の植え込みの前で、二人の中年男の口論が始まった。

「日暮(ひぐれ)のバカ! 何で、オレの叔母さんが先に死ぬんだよ、 順番が約束と逆じゃねぇか! なんで今夜のおかずが違ってんだよ?! それに、あの人殺しの空き巣野郎、何なんだよ!」
「俺も知らねぇよ! あの人殺しの空き巣野郎が、何か余計な事をママに吹き込んでたに違いないよ!」
「しらばっくれるんじゃねぇ! オレが、どんなに苦労して、日暮(ひぐれ)のために、 あのカレイに、念入りに、濃密に毒を仕込んで来たか、分かってんのかよ! 第一、礼金はどうしたよ、礼金は!」

当然の如く、数回のやり取りで口論は決裂した。

「バ、バレたら、オレはやってけねぇよ! 鈴木、オレのために、いっぺん死んでくれ!」

水色トレーナーの日暮(ひぐれ)家の息子が、死に物狂いの力で、蛍光黄色トレーナーの鈴木家の甥っ子にしがみついた。 そのまま、喉元を両手で押さえ、締め上げる。

二人の中年男の、どちらからともつかぬ、獣めいた呻き声が続いた。両者の目から涙が流れ、鼻の穴から鼻水が垂れる。

その時。

まさに『怪異現象』と言うしか無いものが現れた。

突然、目も眩くらむ程のまばゆい金色のヘッドライトのようなものが光り、人類の手によるものでは有り得ぬ、膨大な光量を二人の中年男に注いだのである。

余りにも想定外の怪異現象だ。互いに命を奪い合おうとしている事も忘れ、二人の中年男はポカンとして、光源を注目する。

金色の光源の中に、人類よりもはるかに巨大な、金色の目ピッカピカのネコの影が浮かび上がった。

そのネコの影は、二本足でヌーッと立ち上がった。その背丈は、人類の2倍から3倍もありそうだ。

まるで竜か蛇であるかのように、その偉大な胴体が、ニョローンと長く伸びる。 巨大ネコの姿をした神々しい『何か』は、鋭い爪の付いた猫の両手をニューッと伸ばして来て、耳まで裂けるかのような、恐ろしいニヤニヤ笑いを向けて来た。

「化け猫ォ」

呆然自失ながらも揃って回れ右した二人の中年男たちは、見事に足をもつれさせ、二人揃って地べたに転倒した。

「そこまでだ! 二人とも、大人しく観念して逮捕されろ!」

その若々しい張りのある声の主は、あの新人刑事だ。

続いて、あのセレブ風のベテラン中年刑事をはじめとする捜査メンバーたちが、ドヤドヤと公園に踏み込んで来たのであった。

8.これにて事件解決でござるニャン

二人の中年男は、何が何やら――のうちに、手錠を嵌められていた。

最後に公園に入って来たのは、二人の中年男が揃って『人殺しの空き巣野郎』と呼ばわった、 目暮啓司(めぐれ・けいじ)と――それに、日暮(ひぐれ)の婆さん、すなわち水色トレーナー中年男の母親である。

二人の中年男は、限界ギリギリまで目を見開いて、オドオドし始めた。両者ともに、額に大量の冷や汗をかき始めている。

先ほどまでの会話は、苛立ちの余りウッカリしていたせいで、全く声量を抑えていなかった。 タイミングを窺っていた警察の捜査メンバーたちは勿論、『人殺しの空き巣野郎』も、すべてを耳にしていた。 日暮(ひぐれ)の婆さん――水色トレーナー中年男の母親も、余すところなく聞き取っていたのだった。

やがて、理不尽にも『人殺しの空き巣野郎』と呼ばれた男、目暮啓司(めぐれ・けいじ)が、ゆっくりと口を開いた。

「毒を盛られていた煮魚料理、カレイだったんだな。『カレェ』なんて変な発音だったから、 俺も『カレー』だと思い込んでたよ。カレーと……カレイ……」

次に、目暮啓司(めぐれ・けいじ)は、ヒョイと日暮(ひぐれ)の婆さんの方を振り返った。

「日暮(ひぐれ)の婆さん、年取って、ちっと耳に不便が出てたんじゃ無いすか?」
「軽度から中等度の難聴だって、お医者様に言われてますよ。老人性難聴だから、正確な聞き取りにちょっと難があるから、注意して、と」

日暮(ひぐれ)の婆さんは、真っ青な顔色ではあったが、目暮啓司(めぐれ・けいじ)の問い掛けにシッカリと応じているのであった。

「おかしいと思ったのは、カレーを煮込み始めた後だった。 豚肉を冷蔵庫から出そうとしたら、カレイの切り身が、冷蔵庫の真ん中にあるんだもの。 それで、本当は、魚の方の『カレイを煮ておいて』という事だったと分かって」

水色トレーナー中年男――日暮(ひぐれ)の婆さんの息子が、思わず顔を上げて来た。全力でポカンとしている。

「でも、もう目暮めぐれさんには『カレー作ってあげる』って言ってしまった後だったし」

目暮啓司(めぐれ・けいじ)は、今頃になって、改めて背筋がゾワゾワして来るのを覚えた。 もう少しで、日暮(ひぐれ)の婆さんが――目暮啓司(めぐれ・けいじ)自身も――毒に当たって死ぬところだったのだ。

――まさしく、一文字違いというか、一本違いの差だった。

日暮(ひぐれ)の婆さんの言葉は続いた。

「生魚の切り身ってすぐにダメになるし、それじゃ、鈴木さんの奥さんなら魚好きだから、今から行けばタイミング良いな、 と思って、持って行って――まさか、あれに……毒が盛られているとは……思わなかった」

日暮(ひぐれ)の婆さんの最後の言葉は、震えていた。流石に、自分が息子に毒殺される所だったとは信じたくないのであろう――という事が窺える。

新人刑事が、目暮啓司(めぐれ・けいじ)と日暮(ひぐれ)の婆さんを交互に見やり、次に横目で、今宵、まさに母親を毒殺しようとしていた息子をチラリと見やった。

「――鑑識から、あのカレイに含まれていたのは、トリカブト毒だったという結果報告が出てます。 20分で死に至る即効性の毒ですけど、トリカブト自体は、日本中の野山の何処にでも、チラホラと生えてますからね……特に、今は花の時期ですし。 ネット上の植物図鑑なんかで調べて、入手して来るのは難しくなかった筈です」

ベテラン中年刑事が厳しい目をして、蛍光黄色トレーナー中年男と水色トレーナー中年男を見据えた。

「日暮(ひぐれ)夫人には、今は亡き日暮(ひぐれ)氏が掛けていた生命保険がある。かなり昔から積み立てていたものだそうだから、 今じゃ数百万円ぐらいにはなってる筈だ。動機は、その金だろう。くだんの『礼金』とやらの財源もな。 パチンコ三昧で、負けが込んで、借金が増えてたんじゃ無いのか。それに、二人して、闇金からも借りてたんじゃ無いのかね」

まさに図星を突かれた形。水色トレーナー中年男は、ブルブルと口元を震わせて脇を向いた。蛍光黄色トレーナー中年男も、ご同様だ。

かくして――

未明の闇の中、二人の中年男は、警察署に連行されて行ったのであった。

*****

「死んでも、明日になれば生き返るから、どうって事ない――と思って、あのような犯行に及んだ、だとさ。ケッ」
「人類の認識システムの欠陥が見せるロジック風景ニャネ」

翌朝。

警察署の横にある共用駐車場にて――

猫天狗は黒い翼を引っ込め、一本の尾を持つ普通のネコの姿という状態で、目暮啓司(めぐれ・けいじ)と、神託を通じた会話をしていた。

共用駐車場を仕切る縁石の端に腰かけた目暮啓司(めぐれ・けいじ)の手には、今しがた読み終えたばかりの朝刊がある。

「いわゆるゲーム脳の末路ってヤツか」
「それにギャンブル依存症が加わっているニャ。アレも脳内麻薬が関わるから、難しい問題ニャ。 人類は、自分で自分の脳みそを変えていく力があるけど、その方向が歪んでしまったのニャネ。 歪み切ってしまった脳みそを、本来のバランスの取れた内容に戻すには、本当に長い修練時間が必要だニャ」

目暮啓司(めぐれ・けいじ)は、お行儀よくお座りしている猫天狗を、ジロリと眺めた。

「昨夜、てめぇ催眠術か何か使ったんじゃ無いのか? 警察がいきなり行動を起こしたから、心臓が止まるかと思ったんだが。 それに、あの二人が、急に棒立ちになった後、もつれあって倒れた理由も分からん。二人とも、『恐ろしい化け猫を見た』としか言ってないらしい」

猫天狗は、灰色のネコ顔のヒゲをピピンと伸ばして、それこそ『得意満面』そのものの表情である。

「神通力と言ってくれニャ。リアルVR-MMO、つまり集団レベルの仮想現実を操るのは神通力の基本だニャ」

そんな事を、目暮啓司(めぐれ・けいじ)と猫天狗が話し合っていると――

この事件で新しく顔なじみとなったセレブ風なベテラン中年刑事が、警察署横の共用駐車場に姿を現して来たのであった。

ベテラン中年刑事は、一人と一匹に近づいて来た。

それに応えて、目暮啓司(めぐれ・けいじ)は、ズボンをパッパと払って立ち上がる。昨日の『マジメ百点サラリーマン風』の扮装とは違って、 カジュアルスーツと言った出で立ちなので、縁石に腰かけるのも、それほど気にならない。

猫天狗は目暮啓司(めぐれ・けいじ)の足元に、お行儀よく座った。目暮啓司(めぐれ・けいじ)の飼い猫の振りをしているのだ。

「やぁ、おはよう。律儀に約束を守って、雲隠れも高飛びもせずに警察署に戻って来るとは、大したものだ。 目暮啓司(めぐれ・けいじ)くん、それは飼い猫かね?」
「違うんだけどなぁ」

猫天狗の存在――これ程、説明しにくいモノは無い。目暮啓司(めぐれ・けいじ)自身だって、今でも半信半疑なのだから。

それに目暮啓司(めぐれ・けいじ)が、わざわざ過去の空き巣の余罪を問われるリスクを冒して戻って来たのは、 ひとえに、日暮(ひぐれ)の婆さんに対するカレーの恩のためなのだ。

ベテラン中年刑事は、封筒を目暮啓司(めぐれ・けいじ)の手にポンと置いた。

「これは?」
「紹介状だ。この私がわざわざ書く気になったんだ、有難く感謝したまえ。引退した先輩が、探偵事務所をやっていてね。 目暮啓司(めぐれ・けいじ)くんには、探偵の素質がありそうだ。試してみるのも悪くは無かろう」

目暮啓司(めぐれ・けいじ)は、口を『への字』にして、セレブ風なベテラン中年刑事をチラリと見やった。 昨夜、既に名前を教えてもらっているが、未だに名前を呼ぶ気にはならない。

――この野郎、どうもシャクにさわる言い方だ。

心の内で、失礼千万な事を目暮啓司(めぐれ・けいじ)が毒づいていると、ベテラン中年刑事が意味深な笑みを浮かべた。

「目暮啓司(めぐれ・けいじ)くんとは、これからも縁がありそうな気がするな。まぁ、これからもよろしく」
「二度と警察と縁があって、たまるか」
「素晴らしい心がけだ」
「ニャー」

猫天狗が、普通のネコの鳴き声で唱和して来た。

――この裏切りネコめ。

目暮啓司(めぐれ・けいじ)が渋い顔をしていると、ベテラン中年刑事が、「そうそう」と、思い出したように付け加えて来た。

「日暮(ひぐれ)夫人が、目暮啓司(めぐれ・けいじ)くんには世話になった、よろしく――と言って来ていたよ。 こんな結果になって、こちらも驚いたし、実に残念だが、日暮(ひぐれ)夫人は、目暮啓司(めぐれ・けいじ)くんのお蔭で命拾いしたようなものだったからな。 目暮啓司(めぐれ・けいじ)くんの飢えた顔を見て、頭にパッと浮かんだ料理が『カレー』だったそうだ」

それは、褒めてるのか、けなしてるのか。――それとも、妙な意味で呆れているのか。

目暮啓司(めぐれ・けいじ)は、微妙な心持ちになった。猫天狗は、金色の目ピッカピカの、かの物語のチェシャ猫さながらの笑みを浮かべている。

ともあれ、このようにして――某・住宅街で起きた奇妙な毒殺事件は、解決を迎えたのであった。

後日。

目暮啓司(めぐれ・けいじ)が、過去の空き巣の余罪を問われ、タップリ罰金を払わされる羽目になったのは、言うまでもない。

その罰金の金額を立て替えたのは、誰あろう、あのセレブ風の中年ベテラン刑事と親しくしている『引退した先輩刑事』だ。

そんな訳で、目暮啓司(めぐれ・けいじ)は現在、探偵事務所の所員として、薄給で探偵ビジネスをやっているところである。 その足元には、あの金色の目ピッカピカの灰色ネコが、ニヤニヤ笑いをしながら付き添っているのであった。

「何で俺に付きまとうんだ、この化け猫め!」
「前にも言ったように、ケイ君は珍しい人材ニャ。ミーが神猫にして猫神・七尾(ニャニャオ)に進化したアカツキには、 ケイ君がミーの栄えある一番目の覡(げき)だニャ」

目暮啓司(めぐれ・けいじ)が奇妙な人生を歩む事になるのは、既に決定事項なのであった。

―《終》―

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深森の帝國