深森の帝國§総目次 §物語ノ岸辺 〉断章6

断章 6.眼差しの物語論――カメラ・オブスキュラ

カメラ・オブスキュラ。

カメラを覗き込む時間は、不安定な夢の時間にも似ているかも知れない。

暗い押入れの戸に空いた小さな節穴を通して、 此処ではない何処かに広がる世界を覗き込んで心躍らせている子供たち、その幼な心と、 何も変わるところが無い。それは、ある意味では、闇に沈んだ無垢な眼差しであり、 人の世を演出する無数の言語に疲れた眼差しであり…

その眼差しが見るのは、漆黒の闇の中を放浪する夢、現在の中を同時進行する無数の過去と未来のかけら、 無限の光彩と遠近法に彩られた混沌たる化学実験室、今まさに現実を創造しようとする幻の時空の裂け目。

己の内なる意識と、外部の光景とは、まさに「眼差し」によって結び付けられる筈である。

…眼差し…

それは、人がこの現世(うつしよ)に生まれ出でて初めて表現する自己意識であり、 また、老いて消えてゆこうとする瞬間にも表現される、最期の自己意識である。

ゲーテは言えり、「もっと光を――」

現実の底の底――意識の中を黙々と繁茂してゆく世界樹の、木下闇の中を充満する、意識の流れ…

――清算されえぬ過去、危ういまでに不条理な現在(いま)、夢と可能性との間を微塵に散らばる遠近法の系列、 無数に裁断された時空の中で乱舞を続ける未生のコラージュの群れ―― その重層する漆黒の意識の流れの中で、なおも狂おしく回転し続ける眼球が、カメラ・オブスキュラ。

未来など何処にも存在しないと知りつつ、それでも、未来なるオブジェを求めて、 忙しく回転し続けるレンズ―― 押入れの戸に空いた小さな節穴を覗き込んで、胸躍らせる子供のように。

――そのかみ、大陸には「望」という呪術があったことが知られている。

「望」とは、境界につま先だって遠くを眼差す人。 かつて、「目」の呪術的な力を以って異種族を服従させる行為として行なわれていた呪術は―― カメラの世界においては、未だ見ぬ「一枚の写真」を得るための呪術として、 ひっそりと受け継がれ、続いているのでは無いだろうか…

そして、「目」の呪術が色濃くたゆたっていた時代、 「扇の骨の間から見る」という行為があったことも知られている。 扇は神事に関わる道具で、悪霊・邪気を祓う神聖な力があると見られており、 これで顔を覆うことによって、 目の前に展開する異類異形の〈気〉から身を守ることが出来ると考えられていたのであった…

そしてその「眼差し」の呪術的機能は、能面にも受け継がれているのだ。

能面は、能を演ずる者の肉体を一旦、現世の流れから遮断し、役者の意識を、 《無限》の闇の中に浮遊させる役割を果たしている。 ――それは、人知れず浮遊する「人ならぬ者」の眼差し――闇に沈む無垢な瞳――を作る行為であり、 雑音の多い人の世から、遠く隔離された《異界》ないし《無限》の眼差しを現出させるものなのだ。

カメラ・オブスキュラのシステムを収める様々な筐体、異形の杖の如き三脚、 フード付きマントよろしく頭から被る黒布――それは、能役者の肉体に似ている――そして、レンズ。

…レンズは、フラジャイル。その眼差し≠アそが、フラジャイルなるもの…

写真家は、よく、「思ったとおりの写真になった/ならなかった」と言う。

己の内なる〈コトバ〉と、外なる〈カタチ〉とを結ぶ不安な「眼差し」…カメラ・オブスキュラ。

己が周縁を覗き込むのか、それとも、周縁が己を覗き込むのか…危ういばかりの、内外意識の緩衝地帯。

「眼差し」の中で、光彩の軌跡を辿って、究極まで圧縮された内外意識の遭遇が生み出す、世界公理の火花。

〈偶然〉と〈必然〉の出会いの結果としての、目眩めくようなフォトジェニック=\―

それは、闇の中に生み落とされたひとつの遠近法の詩、または、時空を切り裂いたシャッターのエピソード。

フィルム写真は因数分解の詩歌に似ており、デジタル写真はフーリエ変換の詩歌に似ている、でも、その カメラ・オブスキュラとしての、時光≠結ぶ〈コトバ〉の呪術的本質は、ひとつも変わらないのかも知れない。

世界を乱舞する〈生〉と〈死〉が、ひとつの火花として結ばれ、焼き付けられるとき、 それはカラーを持っていながら、モノクロームの深みに達することがある。

―― モノクロームとは、本質的に、冬の眼差しであり、死者の眼差しであり――

写真:小惑星探査機「はやぶさ」ラストショット

撮影:JAXA

死の境地から生を眺めるとき、 カメラ・オブスキュラという〈フラジャイルのコトバ〉は、無限に圧縮されたカラーの意識の中で、 光≠ニ闇≠フ本質を語り始めるように思われるのである。

それは生ける者が見る死者の夢――それとも、死せる者が生者をよそおって語る夢。

ときとして、カメラ・オブスキュラは、無限遠に分かたれた意識の断層を飛び越えることがある…

カメラ・オブスキュラ。

それは、闇の中に待ち続ける眼球と、闇の中へ差し込む光の一条とが繰り出す、 ひとときの「眼差しの物語」…時光の幕間劇≠ノ他ならないのだ。

(ひとつの詩的な考察である)

写真:小惑星探査機「はやぶさ」大気圏突入の瞬間

撮影:朝日新聞

【補遺】――時光≠フ言語イメージは、 アムゼルくんの世界2008.10.21-[枯葉ミックス]より頂きました:

かそけき 光に名残を惜しみ
はかなき その仕事をおえて
地に今はこの身をよこたえ
天を吹きゆく風を眺め上げるも
はるけき 声もとどかず
そぞろなる 道をはしりぬける者たちの
足音だけが虚空にひびく
時光よ 時光 せめてわれに一瞥を与えよ
われもまた この世界に一度は
大いなる光を浴びて
大きくこの身をひろげ
小さな声だったにせよ
せめてもの唄をうたってはみたのだ
われらはもう行かむと欲す
君よ そのこころあるなら
一片の憐憫をわれに与えたまえ
それこそが君自身への挽歌となろう
同じく過ぎ行くものとして
われとわが身を振りかえるのだ
そして思え
何ものかは知らずとも
この世界をつかさどる者のもとへと
帰りゆく日のことを

(コメント)――この詩歌作品もまた、一種の「フォトジェニック」であるように思われました。 手に一台のカメラを携え、当て処も無く漂う者らの感覚が良く出ていて、ハッとさせられ、 心に残った作品の一つであります。

写真:オーストラリア・ウーメラ砂漠に横たわる小惑星探査機「はやぶさ」のカプセル

撮影:JAXA


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