深森の帝國§総目次 §物語ノ岸辺 〉断章5

断章 5.妖花アラウネ物語論――阿片戦争の世紀・後篇

偶然と言うべきか、この時代に『妖花アラウネ Alraune』 (1927年ドイツ、監督ヘンリック・ガレーン)という無声映画が公開されている。

1920年から1930年にかけての10年間は、シカゴ・マフィアのアル・カポネが活躍した事でも有名である。 「政治とカネ」で言及される闇商人のネットワークが発達したのも、 この時代の特徴であったと言えるのではないだろうか。 そして、そのネットワークが、現代社会の昼≠ニ夜≠作っている。

善悪の彼岸――はるかに遠い彼方から到来するもの――それが我々の〈物語〉に影を落とす。

古代の社会も、今の我々が生きている「現代社会」も、 こうした魑魅魍魎のうごめく〈闇の相〉の上に成り立っている。それは永遠の事実なのだ。 古い時代から新しい時代へ舵を切る時、 〈闇の相〉への深い認識力と対応力が問われるのは言うまでも無い。 その見極めに関わる智慧こそが叡智≠ニ呼ばれるものである。

将来を決める行動の選択もまた、〈闇の相〉を如何に認識し、如何に踏み越えてゆくかで変わってくる。 「現在」の選択が常に、過去を克服し、よりよい未来を拓くものである事を願って止まない。

軍閥割拠から日中戦争へ…底なしの〈黒いお金〉の泥沼

《軍閥割拠(1916-1928)》

1921年、中国共産党の結成、第一回中国共産党全国大会。 モスクワは共産党を強力な武装ソビエト組織に仕立て上げるため、最初は国民党と接触し、 孫文を操ろうとしたらしい。孫文は各地軍閥を征伐するための北伐を決心したが、 北伐反対派の陳烔明と対立(陳烔明は孫文の追い出しに成功したものの、 1923年頃までには広東から追い出された)

1922年、中華民国にて「孫文・ヨッフェ共同宣言」。 この時より中華民国は国民党・中国共産党ともにソビエト革命を完遂するように、ソ連より指導される。 1923年に孫文は、更なるソ連の指示を仰ぐため、蒋介石グループをソ連に派遣。 1924年には、モスクワから50万ルーブル(全額200万ルーブルのうちの一部)が援助され、 ウラジオストク-広東ルートでソ連の武器弾薬が運搬された。

1924年、華北の軍閥の勢力図が変わる。奉天派 vs 直隷派の戦争で、 「クリスチャン将軍」馮玉祥が奉天派に寝返ったため、直隷派リーダー呉佩孚が敗北。 曹錕大統領は馮玉祥の指図を受けて、呉佩孚を左遷。 その結果、北京政府の威信は張作霖・馮玉祥・段祺瑞の3人が独占したが、張作霖が最強であった。 馮玉祥は張作霖をつぶすべくソ連から武器弾薬援助を受けたが動きが鈍く、張作霖に生き延びるスキを与えた。

図版:1910年代末の軍閥勢力図

『中国革命とソ連 抗日戦までの舞台裏【1917-37年】』より

《国民党と共産党との対立》

1925年、孫文の死後、汪兆銘(国民政府議長)と胡漢民(国民政府外交部長)の対立が深まる。

汪兆銘はコミンテルン工作員ボロディンと共産党から支持を受けていた。 共産党と上手く付き合っていた国民党のベテラン廖仲トが謎の死を遂げると、 汪兆銘は、廖仲ト殺害犯として胡漢民を糾弾し追放する。

汪兆銘とボロディンはこの結果、国民政府の主導権を握り、 威信を高め続けている国民党の蒋介石将軍を その地位から引きずり落とすべく、策謀を開始する事になった。

(コミンテルンは、共産党が国民党を食い荒らすように仕向けて、 国民政府を「モスクワ&コミンテルン」の支配下に置こうとしていた…という報告がある。 ソ連視察から帰国していた蒋介石は、この動きに気づいていたと推測されている。 が、なにぶん他人の心理であるから、推測にとどまる)

1926年、ソ連からの軍需物資が定期的に確保され、蒋介石は北伐をスタート。 周囲には常にソ連から派遣された将軍が付き添う。 蒋介石による北伐そのものは上手くいったが、 「より赤く染まった共産党グループ」が資本家含む民衆の略奪を始め、 国民党政府(中華民国)の評判を落とし始めたため、国民党・蒋介石グループとの関係が険悪になる。

日本軍部・工作機関も活動していたが、その主目的は軍事費調達のための阿片ビジネスの拡大と、 満州支配の確定と、「まるっと大陸ソビエト化」の妨害だった。 一方、ソ連の工作機関は中国共産党の一層のソビエト化を指導。蒋介石へも「ソビエト革命を指導」していた。

1927.3.21に、ソビエト顧問A・A・フメリョフ計画に従って上海で統一労働組合同盟が第3回ゼネストを宣言した。 50万人〜80万人の労働者部隊が応じて、かねてから準備されていたソ連の武器弾薬を使って上海を奪取したのであった。 租界はパニックになり、列強は秩序回復のために上海占領を検討し始めたが、 3.27に蒋介石が外国人記者インタビューで「我々に内部分裂は存在しない(=勿論ウソ)、 群集が租界内に侵入することはない」と宣言し、パニックを抑えた。

上海占領後、国民党と共産党の権益抗争(財貨の分捕り合戦)が激化したと言う記録がある。 ロシアではスターリンとトロツキーが抗争を繰り広げ、 華南ではM・M・ボロディンを通じたコミンテルンの工作が過激化していた。

ボロディンは国民党政府をコントロール下に置くために、 汪兆銘を使って蒋介石を権力の座から引き摺り下ろそうとしていた。 当時の国民政府で対立していたのは国民党・蒋介石と共産党・汪兆銘だったと言われているが、 幾つかの有力派閥の闘争も絡んでいたらしく、その実態は謎である。

上海の財閥や青幇は共産化を嫌っており、蒋介石を援助していた。 4.3に上海に汪兆銘が現れたとき、汪兆銘が対立陣営の和解を成し遂げると思われていたらしい (実際に「和解宣言」行動があったため、後々まで誤解が広がる羽目になった)。 しかし汪兆銘の努力は実らず、4月に入ってから共産党員の逮捕が相次ぎ、 4.12クーデタに発展したのである。

4.12クーデタでは、コミンテルンによって追い詰められた蒋介石と、 コミンテルンによる干渉を嫌っていた青幇が結託し、 クーデタ内の凄惨な戦闘によって、共産党勢力を排除した事が知られている。 その後、蒋介石は宋美齢と華やかな結婚式を挙げたのであった。

◆参考:CCP視点の4.12クーデタ―― [北伐開始から上海占領まで] シナにつける薬-2007.9.27

《世界大恐慌1929〜》

日本の産業構造は、西洋列強の産業構造に比べると、はるかに未熟だった。 当時は軽工業から重工業へ、巨大土木産業へと移り変わる時代であり、 アメリカは巨大ダムなどの土木事業で切り抜けたが、日本の産業構造はそこまで成熟しておらず、 社会の経済格差が広がるばかりで、長引く不況から自力で抜け出すことが出来なかった。 農村の娘の身売りが急増したのも、この頃の話である。

※例えば、八幡製鉄所の第一号高炉に初めて火が入ったのが1901年であるが、 西洋の高炉はすでに200年の歴史があった。 軍事技術に深く関わる製鉄技術だけでも、これだけの差があったのであり、 30年かそこらで西洋の産業構造に追いつけた筈が無いのである。 八幡製鉄所は、特別な国家プロジェクトとして扱われていた。

一方、大陸では、上海を中心に〈阿片経済〉が安定した成長を続けていたため、 日本を含むいっそうの海外商人をひきつける市場となっていた。

当時の東京を囲む首都圏では、1923年の関東大震災によって壊滅的なダメージを受けており、 恐慌対策どころでは無かった。 これをきっかけにいわゆる「大陸浪人」が一攫千金を夢見て、次々に海を渡ったのである。 中には、後に青幇に雇われるヘロイン技師も含まれていた。 今であれば、人材流出現象と言えるであろう。

日本軍部は、反共作戦も加わって際限なく膨張する軍事費の調達のために、 大陸で成長し続ける〈阿片経済〉に、ますます深く関与することになった。 その舞台となったのが、例えば満州であった。

里見甫(さとみ・はじめ)=阿片王の異名をとる国際闇商人。青幇や紅幇と連携し、 上海でのアヘン密売を取り仕切る里見機関を設立。関東軍が満州で生産した阿片を市場に卸し、 その利益を関東軍の戦費 (=関東軍の経営費の25%が阿片経済からの利益=)に充て、 一部は汪兆銘政権に回した(反共作戦の工作費として)。 ただし、里見自身は「コチコチの頭」になっていた日本軍部を見放しており、 日本には関心が無く、お金儲けにしか興味が無かったらしい。

日中戦争前夜…妖花に身を捧げた人々の暗闘

《1931満州事変―1932上海事変》

実際の歴史的経過については、数々の資料があるので省略する。

張作霖の死後、満州の〈阿片経済〉は日本・朝鮮の阿片業者の手に渡った。 この件で張学良は日本を怨敵と見なし、 1929年の禁煙令で日本・朝鮮の阿片ルートを潰して回っていた(粛清も行なった)。 張学良は阿片王国と化していた熱河省・湯玉麟政権からの阿片流入を黙認するばかりでなく、 自ら阿片ビジネスに積極的に関わって莫大な利益を挙げ、兵器工場を運営し、軍閥を維持した。

満州鉄道の爆発事件などは、 張作霖グループの阿片業者ルート vs 日本&朝鮮グループの阿片業者ルートにおける 阿片ビジネスの市場争いが表面化した事件に過ぎなかった、という説もある。 日本関東軍もその実、「大陸の軍閥」と化していたわけである。

後に日本・関東軍は「満州国」を建国して張学良を排除したが、 日本主導の傀儡政権下の阿片専売制を確立し安定させるために、 張学良の時代に発達していた熱河からの闇阿片ルートを整理する必要に迫られたという。

※熱河省は当時、奉天省の西隣にあった省である。 北京に近いため、熱河省への介入は即座に「中国本土への侵入行動」と見なされた。 外交上、極めて神経質な扱いが要求されたと想像される。

図版:1917-1937年ごろの各省の地図
1917-1937年ごろの各省の地図
『中国革命とソ連 抗日戦までの舞台裏【1917-37年】』より

《1931-1936剿共作戦―西安事変1936》

蒋介石による、反共を兼ねた北伐。作戦費用は上海の阿片取引から得られた軍事費。 中国共産党は全滅寸前だったが、 張学良による西安事変(1936蒋介石監禁)を通じて国共合作へと移る。

1935年にソ連から満州国への東清鉄道の売却交渉があった。この最悪のタイミングが、 南京政府の姿勢をぐらつかせることになった。更に新疆省に空港が置かれ、 ソ連からの貿易物資が急速に流れ込み、中国共産党に対しての工作が前にも増して活発化した。

モンゴル人民共和国-ソ連間に、軍事協力含む相互援助議定書締結。 当時の日本・関東軍は満州を支配しており、熱河省を越えて華北へ兵力を進めてモンゴルと衝突していたため、 より奇怪な状況になった。日本・関東軍の外交に比べるとソ連の外交の方が洗脳的かつ味わいがあり、 一枚上手だったという事になるかと思われる。

◆資料および解説=西安事変(1936蒋介石監禁)にいたる伏線の解説

◆資料および解説=剿共作戦に伴う共産党「長征」について。ソ連派リーダーが失脚し、 「いわゆる毛沢東が指揮権を掌握したと言われている」が、 その実態はかなり奇々怪々なものだったと言われる (共産党の再建を指導したのは周恩来だったらしい)

長征を続けていた共産党は、各地の村で略奪を行ない、その中に含まれていた阿片を、 食料や武器弾薬と交換できる最も価値の高い共通通貨(活動資金)として利用。 革命本拠地では近くにケシ畑を作り、阿片を製造して近隣の市場でさばき、活動資金を得ていた (6億4000万米ドル相当と報告されている)

抗日戦線の成立後は、南京政府からの資金(=これも阿片による利益=)が期待できたため、 体面の都合上、ケシ畑の栽培はストップしたと言われている。

見渡す限りの妖花の海をゆく…日中戦争から太平洋戦争へ

《1937盧溝橋事件・第二次上海事変・抗日戦線―日中戦争(1937-1945)》

日中戦争が激化し、蒋介石は南京から重慶へ逃れた(重慶政府)。

蒋介石に対し、米英仏ソなどは、仏領インドシナやビルマ、 雲南、新疆から重慶に通じる「援蒋ルート」によって、莫大な軍事経済援助を行っていた。 この援助が続けられる限り、「いわゆる日中戦争」が長期化し、解決されないことは明白だった。

この「援蒋ルート」をめぐる攻防戦(例えばインパール作戦が有名)を通じて、 日本 vs 重慶政府・アメリカ・イギリスという構図に広がっていった。 ソ連もまた、日ソ中立条約が締結されるまで、独自に新疆方面などから蒋介石に支援物資を送った。 欧州での対ドイツ戦に専念するために、日本軍を蒋介石問題に張り付けておきたかったのだと言われている。

この後、「援蒋ルート」を守るため、ABCD包囲が行なわれた。 太平洋戦争(1941.12.8-1945.9.2)スタート。

一方、日中戦争中に、南京国民政府=汪兆銘政権(1940-1945)が成立。 日本軍とは軍事協力せず、もっぱら共産ゲリラ討伐に動いていたと言われている。

日本軍占領下の上海では堂々と阿片事業が行なわれ、満州・東北産の阿片が大量に運び込まれた。 上海の至るところに阿片市場ができ、 当時の上海市長はあらゆる関係を利用して阿片事業から上前をはねるだけでなく、 戒烟の名目で阿片を売りまくった (「戒烟局」という看板を掲げた施設で、阿片が吸えるようになっていた。 阿片吸引者を登録制にし、特許証を交付して特許料を徴収するスタイル)

第二次世界大戦後の経済における阿片戦争の行方

《1945年―ポツダム宣言―日本敗退》

日本では、内地への引揚げや戦後処理が始まった。

引揚げ者の中には阿片・モルヒネ・コカインの密売業者・吸引者が多く含まれており、 手荷物の中に隠されて持ち込まれた麻薬の量、軍隊の中に戦略物資として残っていた麻薬在庫の量は、 共に膨大だった。内地での中毒者が増えていたが、その理由は、 飛行機の搭乗員や軍需工場の深夜作業に覚醒剤(ヒロポン)を使わせて作業させたケースが多かったからだと言われている。

【数的データ】・・・陸海軍が戦略物資として保管していた麻薬: (※敗戦後、半年経った時点でのデータであり、半年の間に闇に流れた分は不明だという)

この結果、日本では終戦後6年のうちに、ヒロポン、セドリン、パーテンなどの乱売・乱用を招き、 一時は150万人もの人々が乱用者となったという記録がある。 都市部では、禁断症状を起こして混乱した人々が配給所に押しかけるといったような光景が見られたという。

終戦後まもなくの日本社会では、闇市が開かれるなどカオス状態にあった。 GHQ占領支配のもと、数々の謀殺や未解決事件が頻発した事で知られている。

また、日本国内に残った朝鮮人による海外からの密輸阿片の供給と、 暴力団の資金源の需要とが結びつき、新たな麻薬中毒者が水面下で急増した。 これには売春の増加が関わっていたと言われる。 折りしも第一次インドシナ戦争でフランスが敗退して、 ベトナム戦争(=第二次インドシナ戦争=)にアメリカが介入していた頃であり、 アメリカ基地周辺で公然と売春が行なわれ、 外貨稼ぎのひとつとなっていた頃の事であった。

《1945年以降の大陸》

日本敗退後の上海では、残された阿片を南京政府の特務が接収し、 勝手に転売して暴利をむさぼっていた。まだ租界が残っていたので、 租界内部の阿片がなかなか根絶されなかった上に、 黒社会における密造・運搬などの手口が巧妙になった事もあって、 取締りが困難だったと言われている。

南京国民政府は、それまでの軍事費の累積によって膨大な財政赤字を抱えていた。 アメリカなどの援助金は、蒋介石・宋子文・孔祥煕・陳果夫(陳立夫)の 四大家族の私腹を肥やす事に使われたと言われており、人民の反発が高まった。

国民党 vs 共産党の内戦スタート。1949年、中華人民共和国の成立。ついで朝鮮戦争(1950-1953)。

雲南省・ビルマに逃れた国民党勢力は、「大陸反攻」を決意して山中に立てこもる。 1950年に成立した台湾国民政府からの援助物資もまた、「援蒋ルート」を通って運ばれた。 この「援蒋ルート」が貫通する山岳地帯は、 「ゴールデン・トライアングル」と呼ばれる一大阿片生産地となっており、 〈阿片経済〉によって国民党残党の勢力を支えた。

同時期に中国共産党は阿片根絶のキャンペーンを展開。 当時の報告によれば、各省平均で4人に1人が阿片中毒者であり、 大都市になると住民の半分以上が阿片喫煙者であったという。

朝鮮戦争(1950-1953)を通じてアメリカ資本主義への憎悪が高まり、「反革命罪」が明文化された。 さらに戦時体制を維持するため「三反五反(1951-1953)」運動が奨励され、 「反革命分子」のレッテルを張られた者は次々に処刑されたと言われている。

この「三反五反」運動に使われた労力があまりに多かったため、 例えば天津市では卸売業の取引が半減、銀行の融資が停止したという報告がある。

こうした流通遮断は全国に広がり、「京杭大運河」を筆頭とする水運流通もストップした。 結果的に表面上は、シナ本土より〈阿片経済〉を消滅させる事になった (※阿片=日常の消耗品であったため、流通遮断による影響を大きく受けた。 台湾国民政府が維持した「援蒋ルート」を除く)

その後、毛沢東・周恩来は、急激に不足した国家財源をまかなうため、 再び〈阿片経済〉を復活させたと言う話がある。 この期に到っても阿片はお金になったのである。まさしく、困った時の阿片頼みであった。

熱帯に属しながら標高が高く、冷涼な貴州省・雲南省がケシ栽培にうってつけであり、 山岳地帯が主要な生産地となったと言われている。 一般に平地の富裕な「漢人」ではなく、山岳地帯の貧しい少数民族がケシ栽培を担当した。 必然として、政府の意思に関わらず、地方の富裕な漢人が少数民族を搾取する構図が多かった。

特に雲南省は「民族の十字路」という立脚条件の元にあった土地であり、1960年代以降、 東南アジア方面に急速に〈阿片経済〉が普及する役割を果たした。 これは東南アジアへのマオイズムの輸出と同時に行なわれ、戦争と共に莫大な利益を生み出した。

また、戦後経済において〈阿片経済〉は、各国のマフィア組織やCIA組織、 新興宗教(カルト)組織、ゲリラ・テロ組織の資金源として活用され、 いっそう繁栄しているのが現実であると言われている。先進国における薬物乱用の風潮と、 貧困国における密造・密輸ビジネスとがペアになっているため、根絶が困難となっている。

1960-1970年代のビルマにおけるマオイズムとCIAの麻薬戦争(資料引用)

>> ラオスは1954年に旧宗主国フランスが撤退してから1975年に共産化するまで、 「ラオス国軍は、アメリカ国軍を除いて、世界で唯一、全予算をアメリカ合衆国に頼っている軍隊だ」と 揶揄されたほどアメリカとの結びつきが強かった。当時は、そのラオス国軍の総司令官自身がヘロインの 精製所や密輸ルートをコントロールしていたと言われ、同国のドラッグ・ビジネスの最盛期でもあった。 そのお先棒を担いでいたのがCIAだ。

アメリカの著名な政治学者A・マッコイなどの研究によって、 CIAは当時、タイ・ビルマ国境付近の少数民族にケシ栽培を奨励し、 彼らからアヘンを安値で買い入れてはヘロインに変え(※)、 それを軍資金にして同じ少数民族の男たちを反共産ゲリラの兵士として死地に赴かせ、莫大な数の犠牲者と 難民を出したことが明らかになっている。 <<

(※引用者・注)CIAが関わったヘロイン・ビジネスは、中南米も巻き込んだと言われている。 これをきっかけに、中南米における麻薬汚染が進んだ。 現在も、中南米はCIAを通じた麻薬ビジネスが盛んな地域であり、北米への密輸ルートが大きな問題になっている。

【引用文献】=『ビルマ・アヘン王国潜入記』(草思社1998)高野秀行・著/22p

>> かつてビルマ共産党はビルマ南部を活動の拠点にしていた。 それがはるばるワ州の山奥まで引っ越してきたのは中国のおかげだ。 中国がビルマ共産党を支援することを決めたのは1967年、文化大革命が猛威をふるっていた時期である。 すでに中ソの蜜月時代は終わりを告げ、中国はソ連と親交を深めるビルマを敵視し、 中国式社会主義、つまりマオイズムを輸出するため、 ラングーン政府に反抗をつづけるビルマ共産党に目をつけた。

当時、人民解放軍情報部のトップだった康生(1898-1975)の肝いりで、すでに1950年代の初めから 中国に亡命し、マオイズムに染まりきっていたビルマ共産党の幹部を、当時ビルマ中部で活動していた 共産党軍本体ともども、ビルマ政府の権威が届いていないワ州周辺を含む中ビ国境地帯に送り込んだ。 地元の土侯や国民党の残党らはこれに抵抗したが、中国の圧倒的な物量戦の前にはなす術が無く、 2、3年で駆逐された。中国は、武器や弾薬、食糧などの物資だけでなく、革命の理想に燃える 紅衛兵の若者を何千という単位で投入した。…現在もワ軍/党に中国人幹部が驚くほど多く、 ともすれば中国人に牛耳られているように見えるのはそのためである。

…1970年、ビルマ政府はソ連寄りの外交を方向転換し、中国と親しい関係を結ぶようになった。 以後、中国は公式にはビルマ共産党の直接支援を取りやめるが、そこは国際政治の妙で、 戦略物資は流入し続けたと言われる。 また、資金繰りに苦しくなったビルマ共産党は、支配下のワ州、コーカン州、ムンヤン地区で、 侵入直後に禁止したはずのケシ栽培(※)を復活させ、アヘン・ビジネスで荒稼ぎを始めた。

(※引用者・注)実際には、共産党侵入直後の方がケシ栽培が増えたという証言がある。 それまでは国民党の残党がうろついていただけだったが、1968年にビルマ共産党が侵入してきた後、 中国との往来が盛んになった。同時に「毛沢東語録」などを暗記させられたことから、 それまでは中国語が聞かれなかった僻地にも、急速に中国語(雲南方言)が浸透することになったという。

近隣のインドシナは常にどこかが戦争状態にあり、金さえあれば武器の調達は容易だったはずだ。 <<

【引用文献】=『ビルマ・アヘン王国潜入記』(草思社1998)高野秀行/65-66p

ベトナム戦争(1965-1975)におけるマオイズムとCIAの麻薬戦争(資料引用)

ベトナム戦争=第二次インドシナ戦争=1965.2.7の北爆-1975.4.30のサイゴン陥落までとする事が多い

ベトナム戦争において、北ベトナムを応援する中国共産党は、米軍の慰安所に大量のヘロインを流した。 これは一大阿片生産地となった「ゴールデン・トライアングル」と「援蒋ルート」を利用したものだった。 また、このルートに食い込んで膨張した新手の阿片業者が、現在にまで続く問題になっていると推測される。

現在分かっている事は、このベトナム戦争下で展開した阿片ビジネス(ヘロインの横流し)に対して、 周恩来が黙認、あるいは指導・援助していた事である。その結果、ベトナム帰りの兵士による阿片中毒が、 アメリカ国内に蔓延したのだった。

>> マッコイによれば、50年代初期、CIAがビルマ側に逃げ込んだ国民党軍の支援に乗り出し、 ここで栽培された阿片がラバの背でタイのチェンマイに運ばれ、 CIA提供のヘリや飛行機でバンコクに送られるのを黙認したのがことのはじまりだった。

第一次インドシナ戦争でフランス情報部がラオスの少数民族に栽培を強制し、 サイゴンの警察軍に販売権を与え、反ベトミン勢力育成の資金にした経緯は、 日中戦争中、日本軍が内蒙古で栽培させた阿片で占領地行政の経費を賄ったのに似ている。

が、フランス情報部とちがって、CIAはタイやラオスで、 そして米国がゴ・ジン・ジェム政権をつくり介入したときも、 その秘密活動資金を得るために麻薬取引に手を出したりはしていないという。

CIAが演じた役割は、副大統領のグエン・カオ・キがかれの空軍輸送機でラオスから サイゴンに運び込み、それが、かれの権力の源泉になり、分け前をめぐって政権内に暗闘がたえず、 さらに69年末、香港から送り込まれた職人の手で、「黄金の三角地帯」でヘロイン製造がはじまり、 これがベトナムの米軍兵士に売られ、70年代のはじめ、在ベトナムGIの15〜20%、 2万5000〜3万7000人がヘロイン常用者になったという軍医の報告を知りながら、 CIAも南ベトナムの米大使館も、何の手も打とうとしなかったことだという。

かれらは阻止すれば政府の崩壊につながることを知っていたからだ。 ベトナムから手を引く事、これ以外に米国に流れ込むヘロインを防ぐ手立てはないというのが結論だった。 <<

【引用文献】=『オールド上海 阿片事情』山田豪一・著/270-271p

◆カンボジア内戦でも、ポルポト政権は排除できたが、地雷&麻薬禍の排除に苦労している。

将来の〈黒いお金〉の動向に関する考察のために:近現代史における阿片問題

「黄金の三角地帯(ゴールデン・トライアングル)」
東南アジアのタイ、ミャンマー、ラオスのメコン川に接する山岳地帯を有する三国にわたる大三角地帯。 ベトナム戦争〜ビルマ=ミャンマー政情不安の頃(1950-1990年代)は、世界最大の麻薬・覚醒剤密造地帯であった。 現在では経済成長や取締強化により、タイやラオスでの生産は減少傾向にある。
「黄金の三日月地帯(ゴールデン・クレセント)」
中央アジア、アフガニスタンのニームルーズ州、パキスタンのバローチスターン州、 イランの国境が交錯する地帯で、アフガニスタン東部のジャララバードから 南部のカンダハルを経て南西部のザランジ南方へと続く三日月形の国境地帯。 世界最大の麻薬・覚醒剤密造地帯。
ブログ:ビルマのシナ化と地政学的影響 /シナにつける薬-2007.10.7
ビルマ東北部とシナ雲南は国境というものがまことに曖昧なのである。地勢のせいもあるだろう。 (中略)東北部では、果敢人と回教徒が国境一体を支配し続けていた。1990年代になると大量の移民が雲南から流入したという。 その数がどれほどに上るのかは定かではない。(中略) このビルマへのシナ人流入が将来この地域に何をもたらすのかは読者の想像に任せよう。(中略) 中共政権はインド洋への出口をねらってビルマ軍事政権を強力に支持し続けているのは衆知の事実だからである。 このまま事態が推移すればビルマ(ミャンマー)はシナの属国と化すであろう。この地に中共が海軍基地をもつようにでもなれば、 中東からマラッカ海峡へ通ずるわがシーレーンはその海域に遊弋するシナの軍艦やUボートの管制を受けることになる。 他人事ではないと知るべきであろう。

――以上

参考書籍&参考サイト

阿片etc薬物・ドラッグ依存症とその弊害への対応―まさかの時のための情報としてリンク

合法ドラッグ/バッドトリップ対処アドバイス= (旧マジックマッシュルーム対処)
=引用=健康分野は現実世界では需要も多く裾野が広いですが、 ネットでは逆に「正統派の健康業者を捜し求める」ひとは少ないと思います。 意外なことです。
公に出来ない「健康」がネットでは成功しています。ドラッグが筆頭です。
たとえば「鬱(ウツ)」関係でもネットサーフィンしていればドラッグ系に入りこんでしまうほどで、 ネットをしなければ知らなかった人でもはまり込んでしまうことも多いです。
最大の問題点は販売側サイトに危険性のウンチクが足りない為に 自殺(&騒動)や殺人などの事件が増えている現状があります。
ネットが広がる前でも年間1万人以上が自殺していたのに、2002年では3万人!!! (厚生労働省の人口動態調査資料より) というわけでドラッグの規制が強くなっています。 (一時期有名になったマジックマッシュルームが筆頭で2002年6月に規制されました) ------[インターネット研究会 J]より

――他、数種


§総目次§
物語ノ岸辺物語ノ本流物語ノ時空物語ノ拾遺