深森の帝國§総目次 §物語ノ岸辺 〉断章4

断章 4.妖花アラウネ物語論――阿片戦争の世紀・前篇

黄金の呪い――〈黒いお金〉。人類史の中でいつ頃から活動し始めたのかは、分からない。

黄金で貨幣を造った最初の国は、現トルコに栄えたリディア王国(紀元前7世紀-紀元前547年)。 黄金を含む貨幣が本格的に製造されたのは、 紀元前3世紀から紀元前1世紀ごろ――その貨幣は金色に輝いていたので、 「エレクトロン貨」と呼ばれた。 カルタゴでは「エレクトラム貨」と呼ばれ、古代地中海交易における共通通貨であった。

『聖書』で有名な「ユダの裏切り」のエピソードで出てくる「金貨」。 その頃にうっすらと、人々は黄金の魔力を意識し始めたのかも知れない。 その禍々しいまでにどす黒い、〈黒いお金〉の呪いの力も。

「3世紀の危機」の後、ローマ帝国が発行した新貨幣が、「ソリドゥス金貨」。 「ソルジャー(ソリドゥス金貨のために戦う人)」の語源である――優秀な兵士を雇い、 強力な武器を購入するためのお金であった事を暗示する。 兵士の愛国心には個人差があるが、金銭に対する忠誠心の強さは一定していたのである。

金・銀・銅、貨幣の種類は違えど、〈黒いお金〉の目覚ましい拡大には、 必ず戦争と流血を伴ってきたという事が言える。 「黒き黄金」――それは、そのかみの時代よりドラゴンが守ってきた魔性の黄金。 人の世に無限の闘争と流血をもたらす「呪われし黄金の指輪」…

それは、〈闇の相〉と強く連結する性質を持っている筈である。 〈黒いお金〉はさらに〈黒いお金〉を呼ぶ。 人の中に潜む〈負〉の部分を際限なく増幅し、人の命を商品とし、 さらに流血の時代を現出するのである。

その〈黒いお金〉の呪いの影が、全人類を覆い始めたのが、19世紀末である。 現代は、阿片戦争の世紀であると言える。 闇を流れ続ける〈黒いお金〉は、阿片だ。「妖花」――ケシの花――の時代である。

上海・阿片経済の出現前夜 ―― 妖花上陸と阿片戦争

阿片戦争(1840-1842)は、「京杭大運河」を通じて蓄積された揚州経済圏の豊かな富をめぐって、 清と西洋列強との間で行なわれた利益ないし銀貨争奪戦――としての側面を持っていた。

――そして、続くアロー戦争(1857-1860)によって、 阿片取引をメインとする植民地暗黒時代の経済圏が、 阿片バブルに突入した上海を中心として誕生したのである。 この瞬間に、〈黒いお金〉――〈阿片経済〉が、その禍々しい姿を見せたのだと言えよう。

日本においては、1853年はペリーの黒船。1854年は安政の東海地震・南海地震。多事多難の時代であった。

》予兆1…インドの阿片

1521年:ポルトガル、インドに植民地を築いて東方貿易をスタート。 インドで阿片が薬や嗜好品として使われているのを発見し、 有力商品の一つとしてヨーロッパへ持ち帰っていた。 マカオへも寄航するようになると、明との取引商品の一つにした。 当時の明では、阿片は超富裕層の間での贅沢品だった。

1600年:イギリス東インド会社を設立、1602年:オランダ東インド会社を設立。 東インド会社は、かの怪しげな「フリーメーソン」の巣窟だったと言われる。 また、1624-1662年にオランダは台湾を征服していた。 この征服期間を通じて、オランダ植民地インドネシアで広まっていた阿片喫煙の習慣が、台湾へ伝播したらしい。

1664年:清朝成立―台湾には阿片・タバコが定着済み。 タバコは南米から来た。漁師を通じて福建省にも台湾スタイルの阿片の風習が定着。 やがて南部沿岸地方の人々が、阿片タバコに病み付きになってしまう。

紅茶文化が大流行し、イギリスは清から大量の茶・陶磁器・絹を買い付けていたが、 莫大な貿易赤字を抱えてしまった。 苦肉の策として、インドで高品質な阿片製品を開発して清に卸すことを思いつく。三角貿易の始まり。

1828年――ジェームズ・マセソン&ウィリアム・ジャーディン提携、 広東にあった中国最初の外国商社を買収、 「ジャーディン・マセソン商会(怡和洋行)」設立。阿片を専門に扱った。

清へ密輸された阿片は、1765年に200-300箱程度であったものが1821年には4000箱、 1837年には3万4000箱に膨れ上がる。阿片戦争前夜の1838-1839年は約4万箱にのぼった。 1箱あたりの阿片は60kg程度。清朝国家歳入の80%に相当する銀が国外に流出。

清朝政府の禁令にも関わらず、阿片=上流社会の贅沢品として受け取られていたため、 密輸利権を狙った業者跋扈が多くなる。清朝政府の取り締まりも、ひどいザルだった。

》予兆2…揚州経済圏

河北省の河間県から滄州―徳州―済寧―徐州―淮安―揚州―鎮江―常州、 長江河口部・上海に到るまでの「京杭大運河」流域は、 製塩業を生業とすることで名高い水郷地帯だった。

水郷地帯で生産された塩は、網の目のように広がる水路を伝って大運河に集まり、 揚州に運ばれ、そこで大規模な塩取引が行なわれる。 取引が済むと、塩は海上船で全国各地に運ばれていった。

王朝が変わるたびに大運河の整備拡張が進み、塩生産が向上し、港湾整備が進んだ。 揚州に荷揚げされる塩の量は増大し、元・明・清の三代にわたって、 国庫を支える経済圏として繁栄する。清朝の康煕帝―乾隆帝の頃には、 揚州での塩取引による税収は、国庫の25%を占めるようになった。

揚州経済圏――この経済圏は、まさに「京杭大運河」の心臓部であった。

※揚州経済圏の文化=点心料理、揚州料理、上海風呂、園林(庭園文化)etc.

》予兆3…阿片戦争(1840-1842)・アロー戦争(1857-1860)と上海サッスーン

1839年――林則徐、阿片厳禁の方針に基づいて欽差大臣(皇帝の特命大臣)に任命され、 広東へ派遣される。当時の広州・珠江沿いには外国人居留地があり、 洋館が立ち並ぶ地域は特に「十三行街」と呼ばれていた。

林則徐は、「型破りな堅物」であったと言われる。 外国の新聞や書物を通読し、異国理解に努めていたという点で、 従来の官僚の枠をはみ出す程の逸材であったと言えよう。 林則徐のブレーンであった魏源は、 林則徐が収集していたイギリスやアメリカ合衆国の情報を委託され、 それを元に『海国図志』を著した事で知られている。 『海国図志』は、西洋諸国の軍事や産業について詳述した大部の書。

阿片戦争(1840-1842)――実際の戦闘については省略。南京条約(江寧条約)締結。 外国商社はそれまでは広州にしか居留させてもらえなかったが、 条約によって香港の割譲、および広東・厦門・福州・寧波・上海の港利用が可能になった。

1841年、林則徐は阿片戦争(1840-1842)の責任を負って新疆方面へ左遷された。 1842年に出版された『海国図志』は、1854年に日本版が出版され、幕末武士の必読の書になった。

熊本藩の儒家・横井小楠(よこい・しょうなん)は『海国図志』をよく読み、 日本の将来の指針を論じた事で有名。 『海国図志』を熟読した主な指導者に、吉田松陰、佐久間象山、 村田氏寿、橋本左内、島津斉彬、松平慶永などが居る。 勝海舟、坂本竜馬など維新志士にも、多大なる影響を及ぼした。

1845年――上海の目抜き通り(現在の江西路と九江路の交差点)に 「サッスーン洋行(沙遜洋行)」の支店オープン。本拠は東インド会社下のボンベイ。 香港にも沙遜洋行の支店をオープンしていた。 1870年代はインド阿片貿易の70%を扱うという巨大商社に成長 (日本にもサッスーン邸宅があり、神戸異人館として残っている)。

◆参考:上海サッスーンについて―― [「アヘン戦争」の舞台裏] アヘン王サッスーンの暗躍

※1837年の上海には、「サッスーン洋行(沙遜洋行)」を含め、外国の商社が39社存在した。 阿片取引の合法化をうたった天津条約が発効した1857年頃には、約300社に急増。 1903年には600社以上の商社がひしめいた。

アロー戦争(1857-1860)――実質上、第二の阿片戦争。英仏関与。 1857年天津条約締結により、阿片輸入の合法化とキリスト教布教の公認。 1860年北京条約締結。天津の開港、イギリスに対し九龍半島の割譲、 苦力貿易(実際は奴隷貿易)の利用が可能になった。

◆参考:苦力貿易の実態―― [ピッグ・トレードという名のシナ人奴隷貿易] シナにつける薬-2007.9.30

1865年――「サッスーン洋行(沙遜洋行)」 「ジャーディン・マセソン商会(怡和洋行)」 「デント商会(宝順洋行)」は15人の代表発起人を決め、資本金500万ドルを投下して、 同年3月、香港に「香港上海銀行」を設立。 同年4月、上海で営業スタート。主要業務は、阿片貿易の儲けをイギリス本国に迅速に送金する事だった。

この瞬間に、〈阿片経済〉が誕生した。 阿片ビジネスと国際金融とが結びつき、更に帝国主義につきものの戦争と結びついたのである。 阿片は、際限なく人間の欲望をあおり、その血をすすり続ける〈黒いお金〉へと変貌し、 世界大戦を導く役割を担う事になったのである。

阿片経済の成長 ―― 妖花帝国主義に彩られた戦争と共に

1857年天津条約に定められた阿片取引の合法化により、 巨大な阿片市場を抱えた上海は、急速に阿片バブル時代を迎えた。〈阿片経済〉の拡大である。

上海の人口は激増した。 1842年20万人、1900年100万人、1930年300万人――90%以上が国内移住者。 阿片取引によるバブルが起きて建築ラッシュが進み、 職を求める失業者が大量に集中したためだと言われている。

人口が急速に密集した当時の上海にはトイレが無く、 「馬桶」という木製容器で用を足し、毎朝、糞尿処理業者が回って処理したという。 一緒に、人間や動物の死体も、リヤカーを引いた処理業者が処理していた。 資料によれば、どの租界でも朝8時までは糞尿処理が終わらなかったため、 死体も通りに転がっており、窓を開けられなかったと言う事である。

このような異様な都市・上海の糞尿処理業務を独占した会社の社長は、 「桂姐」という中年女性だった。彼女の別名は「糞尿大王」で、 糞尿処理業者の大元締めだったと言われている。 彼女の夫が青幇の大ボスの1人、「黄金栄」。 表向きの仕事はフランス租界の巡捕房(警察)に雇われた巡査であった。

《上海建築の推移》

大量の難民のために投機目的で作られた大量生産型の住宅群もあった。 店舗型住宅、里弄住宅(集合アパート)、天井住宅(江南の伝統形式)。 圧倒的に多かったのが西洋アパートを模した「里弄住宅」で、 この後「里弄住宅」は近代住宅のモデルとして各地に広まる。

いささか冗長になるが、以下、世界情勢をかいつまんでまとめてみる。

クリミア戦争(1854-1856)――ロシア帝国 vs オスマン=トルコ帝国の争いに、 トルコ利権を狙う西洋列強が入り乱れた凄惨な戦争である。 この戦争資金の大部分が、植民地を中心に展開した〈阿片経済〉による莫大な利益でまかなわれていた。 その後の世界大戦の資金も同じである。資金は、財閥が作り上げた金融ネットワークを通じて、世界中に移動していった。

アロー戦争(1857-1860)はクリミア戦争の後の調停中に起きており、 西洋列強は清国問題とクリミア問題、さらには太平天国(1851-1864) 問題に同時に当たらなければならなかったため、 日本への介入に隙間が出来たと考えられる。この間に日本では明治維新への動きが高まった。

アメリカは、西洋列強によるラテンアメリカ独立ブームを警戒して、 相互不干渉を旨とするモンロー主義(1823-1890)を採っていたが、 内部矛盾の拡大により南北戦争(1861-1865)が起きた。 当時、太平天国の乱が起きた清や明治維新に走り出した日本に干渉するだけの余裕が無かったのである。 ちなみに、戊辰戦争で使われた各種小火器は、アメリカ南北戦争の中古を輸入したものである (商人グラバーの活躍)。

アラスカは元ロシア領土(1784-1867)だったが、クリミア戦争後、アメリカ領土となった。 アラスカがイギリスに渡る事を恐れていたロシアから打診があり、 アメリカが領土買取(1867年調印、720万ドル)を行なったという。 その後のアラスカは第一次ゴールドラッシュに沸いて人口が増え、 石油採掘も始まった事が知られている。

◆参考:アラスカについての資料―― [アラスカの歴史

《余談》…1815年、ロシア商人(露米会社の社員)がハワイのカウアイ島に エリザベート要塞を建設していたが、 時のハワイ国王カメハメハ1世が直ちにロシア人を追い出したため、 ハワイはロシア領土にならなかったという一幕があった。 しかし、その後アメリカ入居者に乗っ取られ、1898年にハワイ王国は滅んだのであった (=孫文が1894年にハワイで「興中会」を立ち上げた時は、まだハワイ王国は存在していたのだった…)

帝政ロシアは、新疆地方の工作に熱心だった。 1856年に雲南省で回民(ムスリム)の蜂起が起こると、 ムスリム系の反乱は陝西省・甘粛省へも広がり、新疆へ伝播。 コーカンド・ハン国のウイグル人武将ヤークーブ・ベクがこの機に乗じて、 イギリスの支援を受けて天山南路を支配。この騒動で中央アジアが混乱すると、 かねてから3ハン国を手中に収めていた帝政ロシアは、急にイリ地方を軍事占領した。 1881年ペテルブルグ条約で、ロシアはイリを清に返還し、新疆をロシアに解放させた。

日本では、1867年に大政奉還があった。このときから明治維新がスタートし、 戊辰戦争(1868-1869)や西南戦争(1887)を通じて旧体制の整理が進み、 最終的に近代の立憲体制が確立したのが1889年(1885年=伊藤博文、初代総理大臣)。

一方、清国は西太后の独裁を迎えた(1861クーデタ-1889引退したが光緒帝の背後で権力を振るう)。 その後、 西太后派の李鴻章(北洋艦隊の頭で洋務運動の推進派)と光緒帝派の重臣らが宮廷内権力闘争を演じたが、 日清戦争(1894-1895)で中断。 1894年、孫文がハワイで秘密結社「興中会」を結成している。 孫文は1883年に香港で洗礼を受けたクリスチャン客家である (1915年、日本で浙江財閥-宋家三姉妹の次女・宋慶齡と結婚)。

日清戦争(1894-1895)は、朝鮮半島の内乱をきっかけに、清と日本とで軍事衝突したものである。 このとき日本は遼東半島の割譲を希望したが、満州権益を狙うロシアを中心に三国干渉が起き、断念させられた。 その代わり多額の賠償金を得て、これを戦費、軍事拡張費、八幡製鉄所建設費、台湾経営費などに活用した。 日本統治下の台湾では阿片専売制が敷かれ、日本にとって効率の良い国庫歳入源となった。

その一方で、1896年に「露清密約」が李鴻章とロシアの間で結ばれた。 日本の帝国主義的アクションに対して、協力して妨害するという内容で、 全ての港へのロシア軍の出入り自由化と、満州経由ウラジオストク行き「東清鉄道」の敷設権利が付いていた。 さらに2年後、ロシアは遼東半島の大連を25年間租借し、旅順を軍事基地とした。 この基地が義和団の乱(1900-1901)の際に役立つ事になるが、日本にとっては地政学的脅威だった。

1900-1930年における、清朝中国を中心とするアジア大陸情勢は、 1880年代から第一次世界大戦前の1912年までにかけて展開した「アフリカ分割」に続くものとなっていた。 アフリカ分割は、西洋列強がアフリカ大陸の利権を巡って争ったものである。

清朝末期・太平天国時代(1851-1864)の庶民社会 ―― 「幇」の発達

阿片戦争・アロー戦争後、重税がかかり、かつてないほど大量の遊民が発生し、 数多の「会党」が栄えた。その一部は移民(華僑・苦力)として国内外へ流れ、 一部ははみ出し者(行商人・人足・博徒など)として社会差別を受けながら不安定に存在した。

彼らは出身地ごとに「幇」を形成し、抵抗運動を繰り返した。上海にも多くの幇が栄えた事が知られている。

「幇」同士の闘争は、「械闘」で知られている。 「械闘」とは、同郷人を結集した私的闘争のことである。 水争いや土地争いなどの武闘が大きくなったもので、徹底化した場合は、 相手の村落を断絶させる事もあった。人々は、コロニーを要塞化(=円楼)し、 必要に応じて、鎌や鍬や包丁を持って戦った。闘争の終結には卓越した組織力と調停力が問われ、 ここに任侠派秘密結社としての「天地会」が発達する理由があったと考えられる。

清によって強制された大型移民が、この事態を招いた――と考えられる。 少数の家族単位での移動の場合はお互いに融合しやすいが、部族単位の大移動は、 殆どの場合、先住民との間に大きな緊張を生む。 また、出身地コロニーごとに分かれるために、部族ごとの習慣差も言語差も保存されやすく、 移民側には、ことさらに自らの伝統を墨守するという心理が生まれやすいという事が指摘されている。

清が追いやった被征服民が「客家」として発達したのは、こうした心理的事情が大きかったと思われる。 広東省等の一部地域では、清代には、 土着民と客家の双方で合計50万人を超える死傷者を出すといった械闘が生じた事が知られている。 こうした闘争の中で、自らの「漢人」としての正当性の主張が盛んに行なわれ、 いつしか「客家=正統な漢人」が定説として広まっていったのが、実情ではなかったか。

また、土着の民との緊張を強いられるコロニー生活の特殊性が、 後に強力な指導者を輩出する苗床となった事は容易に推測できる。 「天地会」の組織力と、「客家リーダー」の指導力とが、奇跡の合体を果たしたのが、 例えば孫文政権という現象だったのだろうと考えられる。

【天地会と分類械闘】/【客家】―― [清国の台湾領有と初期の経営]より

先住民と比較して、移住民の抵抗が圧倒的に多く、かつ規模も大きかった原因の一つに、 鄭氏政権崩壊後に顕在化した秘密結社である「天地会」の存在がある。 天地会は政治的には異民族である満州王朝の打倒と、漢民族の明王朝の再興をめざし、 経済的には孤立無援の移住民の互助を目的とする民間組織である。
天地会の名は、「天地を父母とし、盟員は兄弟」とするところに由来し、 入会は互いに血の杯を交わす「挿血為盟」「飲血為盟」の儀式によって認められる。 当時、移住民は単身の男子ばかりの状況にあり、義兄弟の契りを結ぶことで、 清国政府に対抗すると同時に無聊を慰め、家族的な団結を強めることができ、 異郷の地に生きる方途として、経済的にも社会的にも助け合ったのである。
清王朝に反感を抱き「血で固められた」集団だけに、いつどこで決起しても不思議ではなく、 いったん事あればたちまち燎原の火となり清国政府を脅かした。
天地会の初期の活動には、政治的な動機が強く見られたが次第に薄れ、相互扶助の性格が顕著となって行った。 移住民の増加とともに盟員も増え、やがて移住民の原籍地ごとの組織に枝分かれした。
朱一貴の役や林爽文の役において、短時間に台湾全域を席捲した背景には、 天地会の組織的な動員力があり、また、失敗の一因には、 ビン南系と客家系の反目があった。いわゆる「分類械闘」の問題は、ここに絡んでくる。

資料:械闘について [械闘: 中国・新興国・海外ニュース&コラム | KINBRICKS NOW(キンブリックス・ナウ)

》【天地会】(台湾、福建)

「天地会」とは対外呼称。みずからは「洪門」と名乗る。 異称に「三合会(珠江流域、広東)」「三点会」など。

広東や福建出身の沖仲士の秘密組織。蘇北地区の賊軍「捻軍」や「幅軍」、 江南の太平天国軍(1851-1864)に流れる者もあったが、殆どは地場産業である製塩に関わった。

康煕(1662-1722)初年、鄭成功の抗清闘争が失敗した後、 華南地方に起源するとされ、乾隆(1736-1795)末年、 台湾での林爽文の反乱(1786-87)から官憲の注目を浴びる。 〈反清復明〉、〈滅満興漢〉を宗旨に掲げた厳格な規律を持つ集団で、 19世紀を通じてその流れを汲む異名の諸組織が繰り返し各地で暴動を起こしている。

例えば、1855年に黄河が大氾濫して河の流れが大きく変わると、 大運河の交通が途絶して数十万人もの船乗りや沖仲士が失職し、 当時「太平天国」と結んでいた下部組織の「小刀会」が清朝政府に対し暴動を起こした。

太平天国の乱も拡大した1853年9月、「小刀会」が上海県城を占拠し、 付近の住民を上海租界に押しやったという事件があった。 上海租界は大量の難民で溢れ、外国当局は糞尿処理や死体処理、 治安維持などのため、「青幇」と結託したという。

太平天国の乱(1851-1864)は、キリスト教客家・洪秀全が起こした反乱(=革命?)。 清朝政府の弱体化をもくろんでいた西洋列強は、南京(天京)政府を樹立した太平天国と脈を通じていたが、 アロー戦争後、阿片売買合法化などの調停が有利に進むと、西洋列強は清朝政府に肩入れして、 太平天国を潰すほうに回った。

》【哥老会】(揚子江上中流、四川湖南など)

異名「哥弟会」。太平天国(1851-1864)滅亡後、湘軍解散に伴って湘軍人脈を呑み込みつつ、 長江流域一帯に勢力分布。もとは〈反清復明〉の伝統を持つ下層民の相互扶助的組織だったが、 列強侵略の時代、排外暴動の組織者として有名。 1891年の長江流域での一連の暴動はその最大のものだが、のち辛亥革命の際にも重要な役割を果たした。

朱徳、賀龍、ケ小平はみな洪幇(哥老会)に属した。 ケ小平の父親は四川における哥老会の大親分だったという話もある。

》【紅幇(洪幇)】(長江中流域内陸部、華南)

スローガンは「劫富済貧(富める者を劫掠して貧しい者を救済する)」。 阿片戦争(1840-1842)の後に上海が開港し、 阿片取引を独占したのが広東省の潮州出身の商人たち(元「三合会」のメンバー)で、 彼らが新たに秘密組織「紅幇」を作った。

上海の共同租界を地盤にして阿片販売を担当し、 国産(清)の阿片も含めて最盛期の1880年代には、年間2万2000箱(全体の20%)をさばいた。

「ジャーディン・マセソン商会(怡和洋行・イギリス)」 「サッスーン洋行(沙遜洋行・ユダヤ系)」「新サッスーン洋行(旧サッスーン洋行の弟分)」 「E・パパニー(アラブ系)」「哈合(清の業者?)」などと取引。

》【青幇(清幇)】(揚州、上海、租界)

清王朝初期に淮河流域で組織された大運河の荷役労働者の自衛的団体 「安清道友」がその源流とされる。船乗り、沖仲士、強盗、匪賊、博徒、 浮浪者などを1万人以上含み、闇塩を輸送する小船を700隻以上持っていたといわれる (当時の清王朝では、塩は専売制だった。政府の許可を受けていない塩を生産し取引すると罰せられた)。 このルートが阿片の密輸に活躍した。

阿片戦争後の社会変容に伴って発生した膨大なルンペン層を包含する組織として、 清王朝末期、上海などの開港場を中心に阿片の運搬その他の都市サービス業を担当し、 強大な勢力を確立した。もとは反政府集団だったが、 太平天国の乱(1851-1864)を通じた上海租界周辺の無政府化に乗じて外国租界当局と結託し、 租界における官憲的地位を築いた。

とりわけ蒋介石を援助して1927.4.12クーデタを行なってからは、 国民党支配のための非公然暴力機関(ギャング)として重要な役割を果たした。

妖花の魔都・上海/軍閥割拠/中ソ国境の混乱

〈黒いお金〉――阿片経済と共に膨張する上海。それはまさしく、魔都の名にふさわしいプロセスであった。

余談になるが、1900年代、シルクロードを含む西域の探検が盛んに行なわれていた。 「シルクロード」の名付け親リヒトホーフェン(ドイツ)は勿論、 楼蘭を探し続けたヘディン(スウェーデン)やスタイン(イギリス)の業績が良く知られているが、 彼らを含めて、当時の探検家は、殆どスパイであった。

当時の中央アジアから西アジアにわたる地域は、「グレート・ゲーム」の舞台でもあった。 北からは不凍港を求めて南下政策に邁進するロシア帝国、 南からは英領インドを支配するイギリス帝国が、 西域に主権を持つ清帝国の弱体化に乗じて主導権を握るべく、 激しい情報戦を繰り広げたのである。

純粋に学問上の探検を行なったのは日本発の探検隊だけであったろう。 測量地図の管理があまりにも「普通」であったため、 地図は殆ど盗まれてしまい、存在しないと言われている。

》1900年代〜1910年代の動き

義和団の乱(1900-1901)の後、急速に列強による大陸植民地の分割が進んだ。 列強・清国内の民間資本・各地の有力者によって大陸内に鉄道敷設が進む (敷設の目的には、鉱山採掘利権などが関わっていた)。

清の民間資本家と各地有力者は利権回収運動を起こして鉄道利権を回収していたが、 清朝の延命を図る北京政府がこれらの利権の国有化を進めると、 再び外国借款の代償として諸外国に譲渡されるのは必至であるとして資本家&民衆の反対運動が起こり、 これらの暴動が辛亥革命(1911)につながったと言われている。

>>ウィキペディア「東清鉄道」より――
ロシア帝国は1891年2月にシベリア鉄道建設を正式決定し、5月よりその建設に着工した。 1897年にウスリー線(ウラジオストク〜ハバロフスク)が開通、 続く1898年には中部シベリア線(オビ〜イルクーツク)、 1900年にはザバイカル線(ムィソーヴァヤ〜スレチェンスク)もそれぞれ開通し、 シベリア鉄道全線開通まで残るはアムール線(スレチェンスク〜ハバロフスク) およびバイカル湖周辺のみとなっていたが、そのどちらも地勢が大変険しく建設が困難な状況であった。
その頃のロシアは、日清戦争(1894-1895)直後の日本による遼東半島の領有を三国干渉によって阻止しており、 その見返りとして清国の李鴻章より満州北部の鉄道敷設権を得ることに成功していた(露清密約)。 そのためロシアは、建設困難なアムール川沿いの路線ではなく、 短絡線としてチタから満州北部を横断しウラジオストクに至る鉄道路線を構想し、 1897年、形式上は露清銀行によって「東清鉄道株式会社」(大清東省鉄路)が設立された。
さらに1898年3月、旅順大連租借条約が結ばれると、ハルピンから大連、 旅順に至る南満州支線の敷設権も獲得し、満州支配を進めた。 東清鉄道本線は満州里からグロデコヴォ間1510キロで、 シベリア鉄道と連結させるために西側は満州里とキタイスキ・ラズエズトーを結ぶザ・バイカル鉄道355キロ (完成1901年)、東側はグロデコヴォとニコリスク・ウスリスキーを結ぶウスリー鉄道97キロ (完成1903年)も建設された。南満州支線772キロも1903年1月に完成している。 最後の綏芬河・グロデコヴォ間10キロが完成し、シベリア鉄道と完全に連結したのは1903年7月、 日露戦争(1904-1905)勃発の半年前であった (シベリア鉄道はイギリスを恐れさせ、1902日英同盟のきっかけとなった鉄道だった)

こうした政変をよそに、上海は阿片バブルに沸いていた。 大陸各地から船員や港湾労働者、各種商人、難民、ヤクザが大量に流入し、 出身の郷土単位ごとの互助組織「幇」が形成されてゆく場となった。 最初は多くの「幇」があったらしいが、上海では(おそらく多くのヤクザ的抗争=械闘を通じて)、 最終的に「紅幇」「青幇」の二大秘密結社が、「上海黒社会」の支配者になった。

※【幇会三宝(幇の三資金源)】=烟(阿片)、賭(賭博)、娼(売春)。 幇は都市につきものの闇ビジネスを通じて膨張していったのである。 第二次世界大戦の直後のころは、上海住民の4人に1人が、黒社会に属する者だったらしい※

上海は極東最大の都市として発展し、 イギリス系金融機関の香港上海銀行を筆頭にアジア金融の中心となる。 上海は魔都或いは東洋のパリとも呼ばれ、ナイトクラブやショービジネスが繁栄した。 こうした上海の繁栄は、民族資本家(浙江財閥など)の台頭と労働者の困窮化をもたらし、 労働運動が盛んになっていた。

日露戦争(1904-1905)―― 実際の戦闘については省略。極東におけるロシアの南下政策が止まり、 日本は満州利権をロシアから奪う形となった。 これ以降、華北・華中・華南全土におけるロシア vs 日本の抗争が激化する。 ロシアの工作はモンゴル・新疆方面に集中した。

第一次世界大戦(1914-1918)―― 実際の戦闘については省略。第一次世界大戦の戦場となったヨーロッパで、 鎮痛剤として、阿片が急に広まる。阿片中毒の害に脅かされた事により、 阿片を禁止する国際条約の整備が進んだ。イギリスがこれを真面目に施行し始めたため、 イギリス租界における紅幇の勢力が衰退。大陸の〈阿片経済〉は地下経済となり、 第一次世界大戦バブルと絡んで、いっそう濃密に発展拡大する事となった。 ついでながら、同じ頃にアメリカで禁酒法(1920)が施行され、 有名なマフィアのボスであるアル・カポネが活躍した。

ロシア革命1917――シベリア出兵1919(日米連合)―― 実際の経過については省略。 このころ、ロシア革命の混乱から逃れてきたロシア難民が上海に流れ込み、 都市サービス・娯楽産業に従事した。 第一次世界大戦によるバブルで上海経済が膨張し、阿片消費量も増大。 日本の商社が多数、上海に進出した。

※1903年、戦前三井財閥が上海に「三井物産上海支店(三井洋行上海支店)」を開いた。 建築はイタリア・ルネサンス様式である。日露戦争の際、情報戦において活躍した。 なお、上海の支店長を務めた山本条太郎は、後に首相に就任した事で知られる。

》1910年代〜1920年代の動き

この時代の大陸情勢は、軍閥割拠(1916-1928)に代表されるであろう。

1911年の辛亥革命で孫文を初代大統領とする「中華民国」が成立していたが、 1912年から袁世凱(北洋軍閥)が大統領となった。 内ゲバの末に袁世凱が皇帝を自称して「中華帝国」としたが、1916年に袁世凱が死ぬと、 大陸は軍閥割拠状態になった。(※1928-1949=南京国民政府)

◆参考:中華民国についての議論―― [中華民国というペテン] シナにつける薬-2008.1.19

互いに争った軍閥は互いに莫大な資金を必要とし、急速に〈阿片経済〉に組み込まれていった。 このネットワークを提供したのは多数の国際的な闇商人であったらしい。 最も活躍したのが青幇(当時のボス=杜月笙)で、 彼らが暴利と言ってよいほどの最大の利益を上げた(確実なデータは無いが、そういう風に推測できる)

杜月笙は四川軍閥のルートを持っており、一大阿片産地となっていた四川省重慶市に 「三鑫公司」支店を開き、ヘロインの産地直送をスタートした。 四川省軍閥の「ヘロイン大王」こと陳坤元と「阿片大王」こと葉清和が、 現地の精製工場を経営したという。 当時のヘロイン取引量は、250万元/月(=3000万元/年)にも上ったと言われている。

1920年代には阿片禁止令が施行され、衰退した紅幇に代わって、 阿片取引は青幇&フランス租界の独壇場になった。 外国商社は密輸ビジネスにいそしみ、各地の軍閥の地元で闇阿片が公然と増産され、 また軍閥は、「領地」内の護送ビジネスからも利益を挙げた。 「京杭大運河」周辺の種々利益が大きかったのは言うまでも無い。 張作霖の軍閥が支配した満州では、東清鉄道ルートを使った〈満州阿片フリーマーケット〉が繁栄した。

青幇のボス杜月笙は、前ボス黄金栄に代わって権力を振るう。 フランス租界の治安悪化に付け込み、フランス当局を脅迫して、 最新式の武器供与を獲得していた。その際に、 租界における阿片の闇取引の公認と賭博場の営業許可も付いていた (フランス官僚も、青幇からの賄賂で篭絡されていたと言われる。 ちなみに青幇は糞尿処理やゴミ処理を独占しており、 労働者ストライキを扇動する事で租界のインフラを止め、フランス当局を脅迫していたという)

杜月笙は、阿片で稼いだ資産を元に「中匯銀行」を設立し、銀行家として上海の名士に連なった。 40数企業の役員も兼ねていたと言う記録がある。 杜月笙の設立した友誼団体「恒社」は、いわば近代化された青幇組織であり、 かつての儀礼がかった加入儀礼はビジネスライクな手続きとなり、厳格な世代間序列のルールも緩くなった。 この「恒社」には国民党関係者やブルジョアも加入するようになり、上海における青幇の威信と影響力は、 ますます拡大したのである。 この青幇の影響力が、後の蒋介石の1927.4.12クーデタに役立つ事になる。

1919.7.15=カラハン宣言――ソビエト連邦から出された、「東清鉄道」の譲渡を含む宣言である。 「東清鉄道」の行方についての疑念が大きくなり、中ソ関係がさらに複雑骨折する伏線となった、 曰くつきの宣言である。多国間でも対応が揉めた。

ここで、ソ連の工作の激しかったモンゴル情勢(1919-1920)について多少述べておく。

安徽派-北京政府はソビエト工作によって確立したモンゴルの自治を破壊しようとした。

1919年、軍隊と共にウルグ(後のウランバートル)に押しかけた徐世昌将軍は、 モンゴル自治政府バダムドルジ閣僚会議議長に対して、ボグド・ゲゲン(活仏)、 閣僚、閣僚代理が署名した「自治を放棄する請願書」を出すように要求。 その請願書を元に、中国大総統の名前でモンゴル自治を廃止する旨を宣言した。

この結果、モンゴル人民は北京政府に隷属する事になり、重税に苦しみ始めた。 このため、モンゴル民族解放運動の機運が高まり、 それに乗じてコサックのG・M・セミョーノフ、及びR・F・ウンゲルンが、 中央アジア帝国を樹立するべく征服活動を拡大した。 ちなみに、本気かどうかは不明だが、セミョーノフはチンギスハンの子孫を名乗っていた。

1921年、ウンゲルンはウルグを占領し、ボグド・ゲゲンを汗として即位させ、 北京政府を大混乱に陥れた。同じ頃、張作霖は殆ど絶対的な満州君主となっており、 北京からウンゲルン討伐軍を要求されていたが、その動きは鈍かった。 その結果、モンゴル周辺では、コミンテルンに指導されたモンゴル革命グループ(後にモンゴル・パルチザン) と北京政府(その実は軍閥)とセミョーノフ&ウンゲルン(コサックで反革命勢力)が分立する という奇怪な状況になる。

これについてコミンテルン・極東書記局は次のように記録した:

――「ウンゲルンによるモンゴル奪取は、コミンテルンとソビエト・ロシアが革命基地を失う脅威を作り出した。 …沿海州はセミョーノフ、モンゴルはウンゲルン男爵、満州は張作霖というように 黒い緩衝地帯が日本によって作られている。 …コミンテルンとソビエト・ロシアの戦闘任務は、この緩衝地帯、 少なくともモンゴルの鎖を壊すことである」


妖花アラウネ物語論――阿片戦争の世紀・後篇へ続く

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