深森の帝國§総目次 §物語ノ岸辺 〉航海1

航海 1.物語と思考の航海〜出航篇

思考は言語によって構成される、という。

その論理に従えば、各国で長く語り継がれてきた物語にこそ、 各国の国語の生み出してきた思考が表現されてきたのだ――とは言えないだろうか。

「物語と思考」というテーマは、当サイトが最も情熱を傾けるところである。

歴史の流れの中で、いにしえの物語群がどのように読み替えられていったのか、そして、 その物語の読み替えを通じて、当時の人々は どのような思考を――歴史時空を――繰り出していったのか。

物語というのは、さながら思考の星雲(ネビュラ)のようなもので ある――であるから、この旅も、 思想の核(コア)のようなものにたどり着くことは無く、 星雲(ネビュラ)のような海を航海することになろうかと思う。

「物語と思考」は、 想念がつむぎだす朧(おぼろ)な軌道を、気ままに訪ねてゆくスタイルである。 アストロラーベは万全な物では無く、迷路の中で立ち往生したり、 フラフラとさ迷ったりしながらの航海であるが、 気長にお楽しみいただけたら幸いである。

いにしえの物語を追って

…中世の物語の前には、古代の物語がある。 物語の歴史は、そのまま言語と思考の歴史でもあると言えよう。 中世の物語を考察するには、畢竟、いにしえの物語とその言語を知らねばならない。

いにしえの物語群には、言語発生に関する謎が秘められている。 物語と、物語をつむぎだす言語とは、密接な関係にあるのだ。 …言語があって物語が生まれたのか。 それとも、物語をつむぎだす過程で、言語が創造され、確定されていったのか。 そういう謎である。

言語発生の謎はさておくとしても、 いにしえの物語と、その物語をつむぎだす特定の言語が、 世界のある地域における主導権を握ったとき、 その言語圏――あるいは、その祖語圏――が確立したのだということは、十分に言える事である。

世界史上、最も巨大な祖語圏として出現したのが、インド=ヨーロッパ祖語である。 インドのサンスクリット語が、その祖語の面影を最もよく伝えている。 文字に関しては、エジプトのヒエログリフから表意機能を抜いて再編された古代フェニキア文字を祖としている。 (ギリシャ文字が早期に成立した。梵字などインド系の文字が発達するのは、六世紀を過ぎてからである)

その次に勢力を持った祖語が、おそらくは、東アジア全域に影響を及ぼした古漢語である。 この古漢語が印欧語と異なるのは、表意に長けた漢字を生み出した事により、 周辺の民族の言葉に対して、深刻な文字ショックを波及したことにある。(※)

》深刻なる文字ショック――漢字がもたらしたもの

漢字が起こした文字ショックの波及について、多くを考えさせられたブログ記事と、 特に強い印象を受けた文章を、以下に引用させていただいた。

音声言語と表記文字における因縁の深刻さには、目を見張るものがある。

――ブログ『丸幸亭老人のシナにつける薬』より

  1. シナ人とシナ語は共同幻想である
    ……もしシナにおいて漢字という表意文字をもちいての書き言葉の統一がなく、 アルファベットのような表音文字が用いられていたなら、 シナは早々に現在の欧州各国のように各地に言語ごとに分断された諸国家が成立していたであろう。……
  2. シナとシナ語を成立させるもの
    表意文字としての漢字が、 方言というよりも異国語に近い上海語と北京語の差異を覆い隠しているのがおわかりになるであろう。
  3. シナとヨーロッパという二つの異なる理念
    考えてもみてほしい、ほぼヨーロッパに等しい面積と人口と言語の数をもつシナ亜大陸に、 たった一つの「国家」しかない異常さを。……
    フランスの言語状況は、まるで現今のシナ亜大陸における言語と国家をめぐる縮図そのものではないか? ……フランスにとっては、「国家が言語と一致する」という考えは「危険思想」なのである。
  4. シナはまず分裂せよ
    国家が言語と一致するという危険思想を、 ひたすら政治的に抑圧し維持されている国家あっての言語が普通語というシナ語ではないか。

【補遺】……フランス国内では数種の異国語が話されているそうで、 有名なバスク語もそのひとつという事である。

◆私感 ―― 独立は文字さすものぞ

現代の我々にとっては、文字は初めから存在するものである。初めに文字ありき。

しかし、改めて世界史を考えてみると、世界各地に発達した表記文字のほとんどは、 たかだか最近千年の間の生産物に過ぎない――「それ」が普及したのも、 十九世紀から二十世紀になってからの話である。

自己の言語を写すに適した文字(仮名文字)を確立せしめただけでなく、 識字率の高さとも相まって、国風文学を創出せしめる知的活動にまで及ぶ、 ということが早くから一般化していた日本のようなケースは、 やはり極めて稀なものであるらしい。

いっぽう、陸続きでありながら、中華圏に取り込まれることの無かった東南アジア諸国がある。 この東南アジア一帯における表記文字は、漢字系統とアラビア系統とインド系統が混ざり合った上に、 ヨーロッパ系統の文字も流入して、大混乱とも言える様相を呈しているのである。

東南アジア諸国が、漢字ショックを受けてなお東南アジア諸国であり続けていられたのは、 この表記文字の混乱によるものであるとすれば、これもまた歴史の偶然といえようか。 (東南アジアにおいては、むしろインドないしは、イスラムの影響が深いことを見なければならぬ。)

まさしく、独立は文字さすものぞ。――

自己の文字を創出せしめられたかどうか――という条件は、 ことに漢字ショックの及ぶ範囲にあったアジア諸国においては、重要な意味を持っていたと思われるのである。

◆現代の漢語に関して、その心理的影響

各地の言語と、その言語に適した文字が、各地の民族の心を形作る。

思考は言語によって構成される。 したがって、現在の言語と文字の関係のありようは、将来の心の変化を読み解くヒントともなる筈である。 (現在は、識字率もかなり上昇しているため、文字もまた、思考の道筋に無視できない影響を及ぼすと考えられる)

無知ゆえの偏見がある事を承知で、現代の華人を覆う物語を――思考ないしは心の未来を――述べてみる。

何よりも不安にかられるのは、現代中国が使用する漢字が、いにしえの漢字の精密な精神を受け継いでいない点にある。 ちらほらとではあるが、古い漢字が使われている文献を、現代の漢字で読めぬのだという噂が伝わっている。

伝統的な漢字をよく見ると、部首によって区分されているのが明らかに分かるはずである。 この部首こそが、漢語が陥りがちな上位概念の喪失を防ぐ、概念上の防壁であったと思われる。

例えば、「さんずい」という部首を挙げると、「海」「湖」「河」「清」など、 いずれも「水」に関連する漢字が続くのが分かるであろう。ここにおいては、「水」が上位概念に当る。

この「水」という上位概念を失った世界、 複雑な次元の関連性の中にある事象を認識できない世界、 彼我の境界さえ失って「我のみ尊し」という感情しか見えない世界というのは、 どのような物語として人々の心に映るのであろうか。 …彼らは、深みを失った世界の物語の中に生きているのでは無いだろうか。 その心は、如何なるものに変化してゆくのであろうか。

いずれにせよ、深みを失った心は、先人の思考を受け止める事も、思考の道筋を辿ってゆく事も出来なくなる筈である。 先人の御世から続く伝統を受け継ぐ能力が失われれば、その歴史時空は、底浅いものになるのでは無いだろうか?

いにしえの物語をつむいだ言語と思考

「日本なるもの」を考えるための、いにしえの物語群の比較においては、 印欧語・古漢語が良い比較対象となると思われる。 何故なら、これら二種の言語は互いに正反対の性格を持っており、 実に優秀な合わせ鏡としての機能を期待できるからである。

以上の想定を基に、各語圏の物語群を比較にかけてみた。 登場人物の振る舞い、ストーリーの進行の観察などを通じて、 各言語の特徴とその思考様式について大雑把に考察してみたのが、以下の表である。

比較対象としては、主に民族の神話物語――その創世や建国を物語る神話群――を選んでいる。 (そもそも、いにしえの物語群では、創建神話の比重が極めて高いのである。)

物語から浮かび上がってくる各言語の特徴の比較
比較項目 印欧語 古漢語 日本語
文の主語
時と場による変化 時からも場からも無関係 時と場を持ち込み 時と場の複合体
自と他による変化 有(格変化) 無(述語から包摂)
言語発達環境 中央アジアの大草原 東アジア大陸平原 地形変化激しい
社会生産の基本 狩猟,牧畜(畑作型),通商 農耕(畑作型),牧畜,通商 半農半漁(稲作型),採集
背景社会 ポリス,オアシス都市,植民都市 氏族社会,秘密結社 漂泊&集合,組合社会
表記文字 表音記号 表意記号 表音表意併記
個人観念 独立したバラバラな個人 以心伝心集団(血縁・血盟) 主客逆転(流動的)
言語得意分野 ロゴス,契約,分析,論理 情念,詩的,含蓄,同化 両論併記,異論吸収,包摂
真理,宗教 真理はロゴスによって
到達可能(哲学)
真理は易によって
到達可能(天との合一)
真理は行によって
到達可能(工夫と稽古)
考察その1
(判断基準)
外なる神、普遍を明確化
(正義か、悪か)
宗族・支族の区別が明確
(敵か、仲間か)
自生・作為の区別が明確
(自然か、不自然か)
考察その2
(境界物に対し)
序列・排除作用が強い 同化・同質化作用が強い 複合化・多岐並列化作用
考察その3
(異世界に対し)
結合手は相・反・合の三手 結合手は合の一手のみ
(離反独立を容認せず)
結合手が多種類にわたる

いにしえの物語が語る思考 ―― 印欧語・古漢語・日本語の違い

以下、比較項目ごとの考察を継いでみた。 この件に関しては専門家では無く、参考にした専門資料もそれほど多くは無い。

読後感をまとめたものを整備・再考したものであるから、 精密性の欠如は否めないのではあるが、 かなり多くの物語をこなしたと自負する一読者の私見として―― 参考にしていただければ幸いである。

》文の主語

物語を読み込むときに、まず気になるのがキャラクター(人物)である。

印欧語=有
一人称、二人称、三人称。(各々につき、主格・所有格などの変化を起こす)
神に対する古代の造型は生々しい。キャラ、造型、アトリビュート(添え物)等、総じてリアル。
古漢語=無
我(わたくし)。汝(あなた)。個々名称のごとき「名づけ」。
神イメージは、実在したと思われている人物・動物を素材として、「キメラ合体&模造」の傾向。
日本語=無
坐生れ(ウ・アレ)、亦は輪生れ(ワ・アレ)→ワレ。(場・方位で人を示す:ナレ、カレ、タレ)
神のキャラクター設定は明確だが、リアル造型の傾向が無い。各々の象徴(代・シロ)で代える。

主語比較から引き出せる奇妙なポイントとして、『神の造型』らしきものも上に記してみた。 実際、神話では「神キャラ」をゼロから組み立てているのである。 かなり興味深い比較となったと思われる。

》時と場による変化

物語の舞台設定において、どれだけ時と場に関する状況説明が入るかを観察した。

印欧語=時からも場からも無関係
物語の初めに、「克明に因果・時系列を彫り出す」かのごとく舞台条件・状況を逐一説明する。
話者と聞き手の舞台を一致させる作業を、最初にするのである。
古漢語=時と場を持ち込み
物語の初めはカオスである。心情吐露から入ることも多い。
話者と聞き手の舞台が最初から完全一致している、という強迫的なまでの前提が伺える。
日本語=時と場の複合体
物語の初めは、概ね枕詞による枠取りである。
イメージ連想(ビジョン)のあるキーワードを最初に持ってくる、というスタイルである。

以上、興味深い比較となったと思われる。

》自と他による変化

ここで、比較の対象にしたのは主に登場人物の科白部分である。 この科白部分の表現手法は、日本語による表現が特に発達しているらしい。

印欧語=有(格変化)
「主語」がいっさいを支配し、時間変化などの各変化(男性変化・女性変化など)を起こす。
ある程度の表現スタイルの揺れはあるが、むしろ定型のロゴス表現をつないでゆく気配が強い。
古漢語=無
「誰が」という部分を抜くと、一瞬、どんな状況で、誰の科白かが分からなくなる。
すなわち「誰何某」、「家」など、名づけえる領域世界を離れる事は無い。
日本語=無(述語から包摂)
時と場に応じて、男言葉、女言葉の表現、および尊敬語、謙譲語などを使い分ける。
表現の使い分けによっては、科白から各々の人物や性格、立場を特定する事さえも可能である。

細かい端々の表現の使い分けについては、圧倒的に日本語の独壇場である。 ただし、正確に意図するところを逐一伝達する場合には、むしろ印欧語が適する。 古漢語はその曖昧性を解決するために、「誰が何を言ったか」を特定するよう、制約するところがあるようだ。

各言語の基礎背景である社会構造とその思考様式が、透けて見えるような比較となったと思われる。

》言語発達環境 / 社会生産の基本 / 背景社会

単語と環境との間には深い関係がある事が言われており、例えば肉を主食とする民は、 部位ごとの肉の名前を付け分ける習慣がある。 魚の場合は「出世魚」のように、成長段階で各々名前が違ってくる。 (エスキモーでは雪の名前が百種類以上あると言われている。)

印欧語=中央アジアの大草原 / 狩猟・牧畜・通商 / 植民都市・ポリス
実際には、草原・森林・地中海と広く生活様式が異なっていたが、概ね部族移動スタイルである。
他部族との接触が多く、いつ如何なる時でも意図が変動しない客観的な言語体系が求められた。
自己定義を明確にしたうえでの普遍的なロゴス・上位概念を表現するための文法が発達。
古漢語=東アジア大陸平原(中原) / 畑作農耕・牧畜・通商 / 氏族・秘密結社
豊穣な中原(古代の黄土地帯)に、開墾と畑作農耕を代々繰り返してきた。部族移動は殆ど無い。
宗家を中心に、係累の家が増殖連結されてゆく。含蓄に富む以心伝心の言語体系が求められた。
また、個別に個々名称を与える。世界共通となるような普遍的ロゴス・上位概念は必要とされない。
日本語=地形変化激しい / 半農半漁・稲作・採集 / 漂泊〜組合社会
乾いた平地が殆ど無く、山地と海岸との交流が中心。「海と山のあいだ」。水はけの良い平地は貴重。
複雑な共同作業を要する稲作を採用、相談を容易にすべく折衝能力のある言語体系が求められた。
更に、日本語においては、集約・凝縮と組み合わせに長けた文法が発達する。テニヲハ。

以上、地理条件の制約、社会環境の状態、重要視された言語能力を考察したものである。

》表記文字

音声言語を表記文字に変えるときに要求されるのは、意図の伝達に堪えうるかどうかである。 多様な解釈を必要とするか、逐一決まりきった定義を必要とするかで、表記文字の性格が 異なってゆくものと思われる。

印欧語=表音記号
ヒエログリフという表意文字があったが、より正確な意図を伝えるには適さなかった。
文字種類をギリギリまで減らし、表意機能を削り、最も意図にぶれの出ない表音体系のみに変わってゆく。
ヒエログリフの衰退後は、フェニキア文字、ギリシャ文字などの表音記号体系の普及が見られた。
古漢語=表意記号
含蓄に富む表現を可能にするため、絵画的要素のある漢字体系を生み出した。
同じような係累をより詳細に区別するため、要素ごとに異なる字種を当ててゆく。
漢字の総数は五万字以上あると言われている。(どうやって数えたのだろうか?)
日本語=表音表意併記
発音を連ねただけでは総合的すぎて意図が伝わらず。(全かな文は読みにくくなる。)
かといって表意文字に変えると、輸入した表意文字(=漢字)の読みに引きずられて“素”を失う。
よって、当て読み(ルビを振る等)を採用、表音表意併記によって意図を精密に当てていった。

万葉仮名なるものを発明し、アクロバティックな読み書きを始めたのが日本語である。 漢字(表意文字)を「真名」、それ以外(音声文字)を「仮名」として使い分ける。 ここに、「真」/「仮」という奇妙な二重思考の発祥を見る事が出来る。
(※「建前」/「本音」などとも奇妙にクロスすると思われる)

》個人観念

この項目は、「歌語り」部分の唱和に注目して考察したものである。

印欧語=独立したバラバラな個人
合唱型。レパートリーを決めて交互に歌ったり、音声パートを決めてハーモニーを構築したりする。
唱和において個人の音程がはっきりしており、バラバラな個人が前提されているという事が伺える。
※したがって印欧語の社会は、「確立した個人」を基底として構成されている。
古漢語=以心伝心集団(血縁・血盟)
独唱型。主役(宗家・血統主)の独唱に連動して集団が動き、場面が動いてゆく。
血盟を誓ったもの同士などでは盛んに共鳴するが、一旦関係を外れると、急に減衰する。
※したがって古漢語の社会は、「同胞社会(幇)」の無限増幅・膨張を前提として構成されている。
日本語=主客逆転(流動的)
斉唱型。主役も集団もはっきりせず。問答歌、連歌、反歌など。同時合唱というよりは、交代唱。
一人が歌の上句を歌って、別の一人が下句を継ぐなど、主客未分・流動的である。
※したがって日本語の社会は、「かくあらしめるが故にある個人」を基底として構成されている。

上記比較で述べた音色や音楽的性質を考慮すると、 個人観念というものを「純粋音」にまで磨き上げてゆくのが印欧語タイプであり、 「ノイズ音」の豊穣な調和を目指すのが日本語タイプであろうと想像できる。 一方、「宗主の音」に合わせてゆくのが、古漢語タイプと言えるであろう。

もっとも、こうした考え方は、類型的・一面的な見方に過ぎないのであり、その点は重々注意されたい(’’;

》言語得意分野 / 真理,宗教

言語の特性から、真理に対する感覚や宗教観を考察したものである。

印欧語=ロゴス,契約,分析,論理 / 真理はロゴスによって到達可能(哲学)
弁論、弁証学が発達したのは、その作り出した言語の特性に多分に依存している。
ストア派は、神の摂理(ロゴス)に到達することで完全理性(アパテイア)に達すると説いている。
理性には真理の深い関与がある――理性とインスピレーションに富む宗教観であると思われる。
古漢語=情念,詩的,含蓄,同化 / 真理は易によって到達可能(天との合一)
少ない言葉で多くの意図を伝えるに適した言語である。(その分、読み落としも多くなる可能性がある)
易は天地万物の相互関与・組み合わせを、観察と経験によって総合的に系統立てたものである。
したがって真理は、相互関与・組み合わせ・総合化のステップを経ての読み出しから生まれる。
現実からの跳躍がない分、極めて強烈に安定し、同化力に富む宗教観を持っていると思われる。
日本語=両論併記,異論吸収,包摂 / 真理は行によって到達可能(工夫と稽古)
イメージ描写、オノマトペに富む性質があるため、漢字とアルファベットの同時受容を容易にしている。
並列性とイメージ描写が組み合わさって、未知要素の受容に非常に向いている言語となっている。
「体で覚える」という言葉があるように、技術・知識の身体伝承を重要視する。「修行」、「道」。
宗教観は、自然、わずかな道標を頼りに各々の真理を探索する――というものになる。

以上の考察は不十分なスケッチに過ぎない。真理を語ろうとすれば 結局は図像と言語による説明に頼らざるを 得ないのであるが、いくつかのヒントは切り出せたように思う。 (真理を語るのに「黙示(カバラ)」という手法もあるが、これは手に余るので省略。)

》考察――判断基準、境界物、異世界に対する反応から各言語の思考様式を探る

印欧語
外なる神、普遍を明確化(正義か、悪か)/序列・排除作用が強い/結合手は相・反・合の三手
世界の抽象化や、法則化を志向する世界観であると思われる。
古漢語
宗族・支族の区別が明確(敵か、仲間か)/同化・同質化作用が強い/結合手は合の一手のみ
華夷秩序の世界観を生むのが、この判断基準であると思われる。
日本語
自生・作為の区別が明確(自然か、不自然か)/複合化・多岐並列化作用/結合手が多種類にわたる
多分に「和」を基底とする判断基準である。「和」については今だ考察中である…(’’;

――以上の比較から考察できること

印欧語と古漢語については、「善/悪」、「内/外」という二元的思考が支配的である。

この事は、ユーラシア大陸を支配してきた宗教的思考が、何千年もの間、 「光と闇」という二元的思考の伝統を守り続けてきた事実からも、しかと伺えることである。

二元的思考こそが、苛酷にして広大なユーラシア大陸を生き延びるに適した思考であったのだろう。

ここでは私見になるが、東アジアの果てで華夷秩序の考え方が生まれてきたことは、 実に大きな「宗教革命」であったと思うものである。何故なら華夷秩序は、 二元的思考による世界観を、更に非対称化した世界観になるからである。 それは、漢字による文字ショックの波に乗って、限りなく絶対一元化された思考と言ってよい。

しっかりと構成された二元的思考は、必然的に、絶対一元的思考に移ってゆくと考えられる。 広大な領土や絶対一神教を保ち続けられるエネルギーは、二元的思考の強烈さや、安定感から来るのである。 この意味において、印欧語と古漢語は、振る舞いは大きく異なるものの、同じユーラシア大陸の種族である。

三位一体の物語もまた、相・反・合を通じた思考の一元化プロセス(統合化プロセス)を経て 生じてきたものである、と考えられるのではないだろうか。 (三位一体=「御父」「御子」「御霊」は、絶対一神が三つに分かれた各要素である、という考え方。 この三要素の統合されたものが、絶対一神なるものである――としている。)

では、日本語が繰り出す物語とその思考は、どのように語れるのであろうか。

ここでは、「三元的思考」である――という説を提唱するものである。 日本仏教の考え方では「一即多」「多即一」という捉え方もあるのであるが、 おのづから「多」という要素が混入するにおいて、 三元的思考、ないしは、多元的思考の影を見て取らずには居れないのである。

一、二、三は、また一、二、多でもある。三元的思考は、多元的思考に容易にシフトする。

三元から多元へ。その通路を開く鍵となるのが、自然/作為という判断基準であろう。 日本語の述語の基底には、この「自然/作為」判断の影が、色濃く映し出されている。 例えば「…する」の「スル」は、作為の「ス」と自然の「ル」が和したものであり、 外国語の動詞を頭につければ即席の日本語動詞となる。(例:オープンする)

先ほどの「三位一体」を比較に取れば、日本語の思考が繰り出す物語は、 「御父」「御子」「御霊」はとこしえに「三なる絶対神」である――という物語となろう。 すなわち、「要素における合(絶対一神化/統合化)」という事象はあり得ない、とする議論を採ることになる。

日本において「合」の代わりに導き出される思考、それが即ち「和」である。

だがしかし、この「和」とは何であるのか、未だ説明できるほどには至っていない。 もっとも身近にありながら、謎の思考なのである。 「和」の根源、ないしはその基底を突き止めることは、今なお課題のひとつであろう。

最後に、「和」を考えるヒントとして一首の和歌を引用する――

淡雪の中にたちたる三千大千世界(みちあふち)またその中にあわ雪ぞ降る

良寛の作である。三千大千世界は本来は「さんぜんだいせんせかい」と読むと 言われているが、良寛が独自に振ったルビが、「みちあふち」である。 これは「道の出会うところ」というほどの意味であるらしい。

いささか不十分な、かえって謎かけに近い試論となったが――今は、ここで筆を置くことにする。

長めの付記――印欧語系の文法を日本語に当てはめる事への私見

ここでは、主に述語に着目して観察した結果を述べる。

印欧語系の述語(自動詞/他動詞)は各々、主語の支配を強烈に受け、それに準じた振る舞いをするが、 日本語の場合は、述語(動詞・形容詞に相当する要素)こそが文章全体を支配する――という事実がある。

印欧語の文法体系を日本語に当てはめようと企てても、必ず何処かで破綻するのは、以上のせいである。 この行き詰まりを以って、「日本語は非論理的」と判断するのはお門違いというものではなかろうか(’’;

「花咲く」・「花美し」の場合は、「咲く」・「美し」の方が支配的であり、 「花」は重要ではあるが、宇宙的な流れと構成の中の、一要素に過ぎない。 この事象を検討するに、日本語はどちらかというと、森羅万象の命や業(ワザ)に焦点を当て、 かつ、これら森羅万象の普遍的構成に応えて言及する、という言葉であろう。

日本語を持ち上げすぎという感じも否めないのではあるが、日本語は日本語なりに、 世界に共通する客観的な普遍性を成し遂げた言語である、という可能性がある。

(勿論、万人に通ずる論理を備えていなければ、一言語たりとも成立しないのである。 普遍にしたがって言語が生まれてくるのではなく、各言語ごとに、 各言語が描き出してみせる普遍世界があるのだ、と想定した方が、 よりまともで健全な考え方だと思われる。我々が見るのは常に、広大無辺なる宇宙の中の一片でしか無い。)

印欧語は、自/他の立場を明確に切り分けた上での客観的普遍性を成し遂げている。 そして、日本語は、 自/他を明確に切り分けないという立場からの客観的普遍性を作り上げたのではないだろうか。

日本語には、「見ゆ」・「覚ゆ」などの、印欧語に最も訳しがたい言葉がある。 こういった言葉こそが、日本語の、日本語による普遍的表現の独壇場である。

「花見ゆ」という科白は、「I see flower(s).」では無い。

「我が花見ゆ」だけでは無く、「君も花見ゆ」という意味を同時に含んでおり、 しかも、「この場において、我と君だけで無く、他の人も花見ゆ」という広がりを含んでいる。 すなわち、印欧語がセットする普遍の中に定義するところの、「 I 」及び「 flower 」とは、 全く別の世界が、そこに織り上げられている事を示唆しているのである。

我にあらざる我――我も人も、そして花も、共に和するところにある我、すなわち汎世界的我――において、 「花見ゆ」なのである。 I と flower の別をはるかに超越した「汎世界」と呼ぶべきもの、 ――その構成の中において、「花見ゆ」と応えているのだ。 この深淵における普遍性を欠いては、日本語文法は記述できない筈である。

この主客未分の世界は、言い方を変えれば、汎神論的な世界である。遠藤周作がその著書『深い河』の中で、 登場人物(大津の手紙)に次のように語らせた言葉がある。

……日本人としてぼくは自然の大きな命を軽視することには耐えられません。 いくら明晰で論理的でも、このヨーロッパの基督教のなかには生命のなかに序列があります。 よく見ればなずな花咲く垣根かな、は、ここの人たちには遂に理解できないでしょう。 もちろん時にはなずなの花を咲かせる命と人間の命とを同一視する口ぶりをしますが、 決してその二つを同じとは思っていないのです。
「それではお前にとって神とは何なのだ」……
「神とはあなたたちのように人間の外にあって、仰ぎみるものではないと思います。 それは人間のなかにあって、しかも人間を包み、樹を包み、草花をも包む、あの大きな命です」

日本語の伝統を深めてゆくという事は、いとも深き汎世界に生きようとする事と、同義なのではないだろうか。


§総目次§
物語ノ岸辺物語ノ本流物語ノ時空物語ノ拾遺