深森の帝國§総目次 §物語ノ時空 〉審神者(サニワ)

審神者(サニワ)――境界の「知」を判ずるもの

【境界知】
「違和」を感じ、そこに何かを見出そうとする私たちの知のあり方を、境界の知、すなわち「境界知」と呼ぼう。 境界を発見することで、私たちは新たな行動に転じ、自分のあり方をデザインし直そうとして、次の状況を引き寄せる。 違和感の正体を見極めることで、私たち人間の持つ新しい「知」が見えてくるのではないか。

――『境界知のダイナミズム』瀬名 秀明、梅田 聡、橋本 敬・著(岩波書店)

論考1…霊と魂の始原学(アルケオロジー)

魂とは「自我の座」である。

魂は体の五感、外界、思念、意思、欲望、感情その他の影響をもろに受け、 「身体の悩み」とも様々なパターンでリンクする。あらゆる情報を処理し、評価し、意志決定し、 実際の行動に移すのも、魂の機能である。その結果に、希望、絶望、様々な感情で応じるのも魂の機能である。

神道系の言葉では「荒魂」「奇魂」「和魂」「幸魂」などと呼び表すやり方もあるが、 とどのつまり、魂の有り様は、「人間の心」や「個性」を成すものである。

仮説ではあるが――この「魂の有り様」は、実際は、我々にとっては「自我」という形でしか観測できない。 それは、「鏡に映った自分」を観測するような物である。 「鏡」に相当するのが「霊」、「鏡を以って観測した自分」に相当するのが「魂」であると定義できる。

人は、もし鏡というものが無ければ、自分の顔や背中を永遠に見る事はできない。 魂にも同じことが言える。だから人は、他者の眼を通して、自己を――或いは、己の魂の姿を――認識しようとする。

量子が波動なのか粒子なのかを、厳密に特定できないのと同じように、 鏡像として観測される「魂の有り様」もまた、波動なのか粒子なのかを調べるのは難しい。

鏡面に相当する「霊」は、量子場のように、場の理論で記述できる。 イメージしやすくするため「霊場」と言い表すことにする。 そして、この「霊場」は、宇宙に遍満する超微細エネルギーの傾斜状態である。量子状態に応じて敏感に形状を変え、千変万化する。

(謎の「ダークマター」や「ダークエネルギー」を、「超微細エネルギー」=「霊力」の候補として挙げてみたい)

バリオンが凝集し、原子となり分子となると、超微細エネルギー反応も高まり、化学反応レベルに上昇する。 これが、ある一線を越えて活動的になると、生命エネルギーにまで急激に跳躍する――こうして、単純な化学反応に、 「細胞」ないし「生命」の意味が付与されていくと考える事ができる。

この仮説を推し進めて行けば、「生命」とは、「強烈かつ特異的な、活動的な霊場」であるという結論を導く事が出来る。 「魂」とは、こうした膨大な数の「生命エネルギー(=強烈な、かつ特異的な霊場)」の場が統合され、 あらゆるエネルギーレベルの反応が一斉進行した果てに現れる物――

この宇宙では、「個々の自我(=人間の魂の有り様)」というのは、 極めて膨大な数の霊場を統合し、かつ翻弄するという、『極めて稀少性の高い劇的な場』であると言える。 しかも、それぞれ個性がある状態――統合パターンがそれぞれ違う状態――である。

いずれにせよ、『私は、他の何ものにも替えがたい"私"である』という事の本当の意味を問うには、 霊と魂の、究極の始原(アルケー)まで到達する必要がある。 現実というモノに対する高度な思索のハードルを、幾つも飛び越えて行かなければならないのだが――人類の知性は、 まだまだ発展途上という事なのであろう。

よく「自分探し」という事が言われるが、それは全て、己の眼で己の魂の姿を見極めようという、 無謀なまでの企てなのである。「主観」と「客観」の絶え間ない反射と干渉が、「自我」ないし「意識と存在」、 すなわち、その時空における刻々の魂の知覚と状況――「本質」という名の干渉縞――を形成するのだ。

道元が「身心脱落」を重視した理由は、此処にある。 主観も客観も、その時空における、極めて恣意的な選択による、独断と偏見をもたらすものだからだ。

魂の相を見極めることは、平易に見えて実に難しい。ひとつの人生をかけるに値する学びである。

こうして人間の魂は、生前のあらゆる事象を、個々の応答を通じて学習し記憶し反省し、 修行を積み重ねてゆき、「死後の生(=生まれ変わりの後の人生)」にまで前世の課題を持ち越してゆくのである。

魂にとっては、「普通」「中庸」という性質・立ち位置を極めるのは、もっとも難しい学びのひとつだ。 人間というのは、「個々の魂の特殊性」を出す方が、ずっと簡単なのだ。 極右・極左といった、著しく均衡を欠く盲目の思想、ないしシングルイシューが、 最も単純な政治思想・態度である事からも、明らかである。

修行を極め、成熟を極めた魂、汎世界の叡智を結ぶ強靭な心のみが、 賢人の目指した「普通」「中庸」の境地に到達し得るのである。

それは、世界をありのままに、深々と映し出す「明鏡止水」の心――審神者(サニワ)の心――でもある。

霊とは「神の座」である。

「大いなるもの」「神」「地球霊(ガイア)」、 世の中にその呼称は様々にあるが、その分け御霊が宿る――或いは憑依する――座である。

もっぱら依り代や御杖代が「神を降ろす」「神が憑依する」という場合は、この霊の憑依機能が関与するのである。 依り代の霊と、降ろされる霊との相性が良くなければ、依り代の魂(思考、意識)に混乱を引き起こし、 ひいては身体にダメージを与えることになる。霊界の扱いには極めて慎重さが求められるのである。 専門の師よりその筋の知恵を学び、修行を積まなければならない。

樹木には樹木の霊が宿り、石には石の霊が宿る。それぞれの神社には、それぞれの場に応じた神の霊が宿る。 同じように、地球には地球そのものの霊――ないし地球に存在する全ての霊の集合霊――が宿るであろう。 霊は相互に連関・波及しつつ世界の階層を構成し、宇宙の彼方にまでリンクしてゆく。

妖怪や精霊、超能力――サイキック――といった現象は、こうした霊の濃縮した「おぼろな場」が、 「この世の実物の機能」に劣らぬ高い機能(目立つ特異性)を示す場合に、この世の事象として感知される。 後ほど述べるが、我々の身体には、そういう次元の知覚能力が、元々あるのだ。

俗に言う霊能者や呪術師が使うのは、こうした「強い霊場」の力、すなわち「霊威」ないし「霊力」である。

霊と魂とは、「集合無意識」という方法でリンクする。 このリンク状態のパターンは不確定性に彩られている物だ。我々の意識するところでは、 これを一般に「精神状態/意識状態」と呼ぶのである。

動物や植物の世界では、基本的には霊の方が支配的立場に立つが(これを「本能」と言う)、 人間の世界では魂が霊を使役する場合が多い。これは「人間の魂(意志)」に与えられた特殊事情による。

人間の魂(意志)に霊を使役する力――欲望や執念、煩悩など――があるからこそ、 生前において、思いのままに霊的に間違った行為&筋の通らない行為をしうるのであるし、 死後も生前に納得せず成仏しなかった魂が「幽霊」、「未熟霊」などとして放浪する事もありうるのである。

ちなみに、地縛霊、幽霊、未熟霊といったような用法で使う「霊」は、 きちんと意味を整理すれば、個々の「魂」によって特徴づけられた――或いは、 成仏できない程に強い執念の力によって歪んだ――霊場である。 こうした幽霊や未成仏霊が通行人に憑依するという事は、そこには、やはり霊の憑依機能があるという事である。

更に、人間の思い(魂)が、対象となった「茫洋とした霊場」を濃縮・変容・進化させる場合がある。

崇められ続けた「石の霊」が「神の霊」に昇華したり、 「ただの犬」が呪術工作によって強力な「犬神(=大抵は祟り神だが)」となったりするパターンである。 御守袋に籠った「何か」が、実際に強力な守護の機能を示すという現象などは、その代表格と言えよう。

「形を持たないもの」もまた、神ないし、それに近い存在となることがある。 ただの「言葉」が、人間の魂の力(思い)が籠もった事によって強い霊威を与えられた場合、それを「言霊」と言うのである。

論考2…《身体》と言う名のアーキトレーヴArchitrave

違和感の正体を見極めるのは、実は難しい。

何故ならばそれは、非言語の領域に属するものだからだ。

違和感の根拠となっている知覚は、《身体》という名の、闇の領域に属する。 「身体知」「体験知(暗黙知)」に直結するものであり、マニュアル言語化を拒否するものなのだ。

違和感――それは、世界の《相転移》を精妙に知覚する「未だ知られざる器官(能力)」が 感じる感覚である。違和感を感じる《身体》と、異界の存在とは、密接に関係している。

異界――それは、この「現世」を発生する《無限》の場だ。あるものをあらしめる、限界の無さだ。

我々の身体には、そういう異次元の知覚能力を発達させる可能性が開かれているのだ。

違和感を感じる知覚がよく発達しており、かつよく制御しえた人を、我々の先人は、「審神者(サニワ)」と呼んだ。 ゆえに、この「未だ知られざる知覚」を、「サニワ感覚」と表現しても良いだろう。

「サニワ感覚」を通じて見極めた「違和感」を言語化する――という作業には、常に、 非言語領域のものを言語化するという困難が付いて回る。

古代の審神者(サニワ)が、あらゆる既知の神々の伝承や神学・哲学に通暁しなければならなかったのは、 こうした言語化の困難に直面せざるを得なかったためだ。 審神者(サニワ)は更に、人間そのものについての、深い総合知をも備えていなければならなかった。

違和感の正確な知覚と、その言語化。

それは、《無》から新たな概念や言葉を生み出すに等しい荒業だ。

「我々は、自分が体験した内外の《現実》を、正確に、ありのままに言語化できるのか?」

――思考は言語によって構成される。世界とは言語だ。

この厳粛な事実を基底とする――我々が知覚するところの――現世においては、 全ての《知/思考》は、言語化されなければ世に存在することはできない。 世に存在しえなかった《知/思考》は、人に伝わらない。文化として後世に残ることもできない。

身体知も暗黙知も、この条件下においては、同様なのだ。

違和感を生み出す身体知は、「未だ言語化されざる知」でもある。

《身体》とは、《無限》から授かった「有限の器」だ。 無限の地平線が――無限の他界が、有限の《身体》の中に折り畳まれている。 《無》から《有》を生み出す場としての《身体》の中では、《無》と《有》とが対立しあい、 あらゆる可能性を秘めた《運命》という名の、壮大な渦を巻いている。《運命の巣》は、《身体》の中にあるのだ。

《身体》とは、言語を生成する場だ。 そしてあらゆる時空を、あらゆる世界次元を生成する「界(カイ)」、すなわち「私」という名の場だ。

世界の《相転移》がベクトルを以て貫くところを、我々の《身体》は正面から捉えるべく、 ありとあらゆるベクトルに対して、直交するように横切っている。 まるで、垂直に立ち並ぶ列柱に対して、水平梁として横たわるアーキトレーヴのように。

だからこそ、霊界の――現実化しようとする――エネルギーが、クンダリニーにおいて語られるように、 垂直方向の螺旋のイメージを備えて上昇して来るのを感じるのであろう (至高天、或いは中心部から下降・流出して来るように感じる人も居る。見え方・感じ方は、人それぞれだ)。

だが、現実的な問題として、我々は、我々の基底たる《身体》から、余りにも遠いという事実がある。 実際、アーキトレーヴは、古典建築においても、水平梁の最下層の部分を指す用語である。

特に現代は、身体と心とが、互いにすれ違ったまま、漂流している時代である。 そのような時代を生きる人の身体は、ただ平板で薄っぺらい。

寄る辺も無く、命の終わりまで空しく時を重ねるだけの物体に成り果てている身体が、余りにも多いのだ。 違和感をただ感じているだけで、それを言語化できず、説明も出来なくなっているというのは、そのような理由によるのだろう。

現代の我々の言語概念は、全き《無/無限》との対決の果てに、 多くの《言語》と《意味》を切り出してきた古代人の、驚くべき知性の自主性に依存している。

このような我々が、古代人の高度な身体感覚―身体知を取り戻すことは、やはり容易なことでは無い。

しかし、 新たな時代の新たな知を確立するためには――たとえわずかではあっても――言論のための言論に依存しない、 生命本来の身体知を取り戻す必要があるだろう。 そして身体知を言語化するための「知性の自主性」を、我が身の内に確立することから始める必要があるだろう。

探索者は、明るく整備された道を歩む者では、決してありえない。 探索者は、報われないことが多いということを覚悟するべきだ。

「探求―理解―表現」という行為は、本来は、地図も無くして未知の魔境を探り出すに等しい、極めて難解なものなのだ。 理解に至るまでの道なき道は、どんなに迷っても、自力で探さなければならない。それが「知性の自主性」ということであろう。

理解の段階まで到達したところで、行きっぱなしで帰還して来ない人も居る。

表現とは、異次元からの回帰だ。違和感の言語化を含めて、芸術に到達するべき表現のプロセスは、全て、 「行きて帰りし物語」のスタイルを取る。

それは具体的な形で言ってみれば、例えば、 「回帰するたびに元の場所とは食い違い続ける不確定性のメビウスの輪」、 或いは「虚の時空と実の時空の間を揺れ動く波動――高次元の中の二重の螺旋運動である」とイメージすることができる。

古代の審神者(サニワ)が、苦心の末に、違和感の正体を「あだし神」と表現したように。

名も無き語り部や歌うたいが、霊感を基にして、数多の神話物語を紡ぎ出したように。

世界各地の神秘家が、瞑想の果てに「マンダラ」や「セフィロト」を幻視したように。

三重に偉大なる錬金術師が、「アルス・マグナ」を提唱したように――

大いなる「違和感」を含む身体知は、「既知の世界」と大いに食い違い続けるからこそ、 決定的な変容に至る霊界エネルギーのゲートとなって、「既知の世界」に反逆する可能性を秘めている。

身体が、人類の価値観において、 常に最底辺の領域――水平梁の最下層たるアーキトレーヴ――として、押し込められた存在であるからだ。 「世界」への反逆は、常に、最底辺の領域、ないし境界(マージナル)から発生する。

違和感の正体を見極めることは、「新たな世界の創造」という可能性をも秘めている筈なのだ。

研究――霊的世界観の哲学的根拠

【謝辞】――以下の記事は、別サイト 「霊的世界観の哲学的根拠 (アーカイブ版・やや重し)」 の全文複写物です(当サイト作成ではありません)。

科学万能主義とスピリチュアル・ブーム(「アセンション」や「幽界」、「霊感商売」など)が分かちがたく入り交ざり、 いよいよ混迷の度を増してゆく現代社会において、 審神者の基準はどのようにあるべきか?という問題に関連して、公平な回答と有効な示唆を行なっていると感じました。

なお、この記事が書かれたのは2002年5月6日のようです(元サイトに日付表記あり)。

》1.科学のパラダイム論を知り、科学万能主義を超えること

現在の日本人は、一般に、科学万能主義が強くあります。 つまり、科学的に証明されていることが真実であり、それ以外のものは不確かであるという価値観があります。

そこで、科学のパラダイム論というものを知る必要があります。 科学とは一つの見方を前提としており、永遠の真理ではないということです。 あたりまえのようですが、多くの人が知らないうちに科学主義に毒されており、 その毒抜きをしないと霊的世界観は「うそくさく」思えてしまいます。

つまり、科学を世界観と混同しているのが一般的風潮です。 しかし、科学は知識を得るための一つの方法論であって、世界観ではありません。 科学的世界観などというものはありません。世界観はつねに思想の問題です。

一般に科学的世界観と言われているものは、 「ある特定の科学理論に合致する現象のみを現実と見なす形而上学的立場」のことです。 このような混同を解除することから始めなければなりません。

ただもちろん、ある科学理論がそれと合致する世界観的立場と結びつきやすいということは、 歴史的に見てあります。近代世界は、それがニュートン物理学と機械論的世界観の結合でした。

そこでまず科学史・科学基礎論の勉強を予備的カリキュラムとしてすすめます。

推奨するのは、村上陽一郎氏の解説書です。 最もわかりやすいものは、講談社ブルーバックスに入っている『新しい科学論』です。 かなり前のものですが、古びていません。 それから村上氏の他の著作に進むとよいでしょう。

》2.量子物理学を知り、ニュートン的世界観がすでに超えられていることを知ること

1と関連しますが、多くの人が「科学的世界観」と思っているのは、 すでに乗りこえられているニュートン的世界観(機械論的世界観ともいいます)であり、 科学は別の世界観と結びつきつつあります。

科学と世界観は違うものであるという1の理解を踏まえつつ、 科学といってもいろいろな世界観と結びつきうることを知っておくことが有益です。 その中でも量子物理学は、宇宙とは本来時空を超えているという世界観を見出しつつあります。 もちろん物理学そのものは理解しがたいですが、一般向け啓蒙書でよいのです。

これにもいろいろ本はありますが、古典的なものとしてはフリッチョフ・カプラの『タオ自然学』(工作舎)です。

また、ちょっと手応えがありますが、カプラの『ターニングポイント』『非常の知』などは、 さらに諸分野における「有機的世界論」への変化を知ることができます。 マイケル・タルボット『ホログラフィック・ユニヴァース』もまとまっています。

》3.「現実」とは共同主観的に構成されるものであるという考え方を知ること

これは哲学的な問題です。

私たちが通常、何も思想の訓練を受けていない時は、 「素朴実在論」という世界にあり、それは現在においては機械論的世界観の影響を受けている、 という状態にあります。つまり、「客観的な現実」というものがあり、それは自然法則によって運行されている、 と現代人は信じています。

ですが、哲学的にはこのような考え方は否定されています。

それには、まずカントの認識批判というものの要点を知る必要があります。 つまり、世界として私たちに経験されるものは、客観的にあるものではなく私たちの主観の側で「構成」しているものなのです。 このことは現在の認知科学でも裏付けられています。

ではそういう世界の「構成」とはどのようにして生じているのでしょうか。 そこに、社会的に、多くの人に共有される「構造」として生じているという「構造主義」の考え方が生まれます。 これはカント的認識批判を「共同主観」として把握したもので、その思想的根拠は後期フッサールに見出されます。 (正確に言えば、後期フッサール、ハイデッガー、メルロ=ポンティにおける「世界の地平」という概念を ソシュールの言語学を借りて記号学的に把握できると考えるのが構造主義という立場です。 しかし「世界の地平」という考えは記号論のみに収束するものではありません。もっと可能性を秘めるものです)

これが70年代〜80年代に「コスモスとカオス」というテーマで思想界に流行したものです。 これはもはや古いです。古いですが、前提として知っておかねばなりません。 ほとんどの人は、カントのことも知らないで「現実か、非現実か」と議論しているので、 思想的にはまったく話にならないレベルなのです。逆にこのことを知っておくと、 仏教の唯識論も理解していく手がかりが得られるのです。

これはなかなかふつうの人にはむずかしいです。 しかし「現実とは、決して客観的なものではない」と知っておくことは、きわめて重要なことです。 しかし、私でもこれを理解するのに3年はかかりましたから、簡単ではないのです。 いちばんわかりやすいのは丸山圭三郎あたりかもしれません。しかし、たいしたことはないです。 入門としてわかりやすいというだけで。あと、山口昌男などもこのパラダイムの代表例です。

ですが、本当にこの3がわかっている人はそんなに多くないです。 仏教の唯識から入ってもいいのですが、こちらは共同主観性という発想がやや乏しいです。

ここはいちばんのハードルです。しかしそこで、「現実」というものに対する発想を転換することは、決定的に重要です。 それがないと、以下のステージは十分に理解できません。

「コスモスとカオス」パラダイムは、記号論的知性だと言えます。 私の現在の立場としては、この思想は単純すぎると思います。基本的にはカントの延長線上の思想です。 しかし、現在の思想界はこの考え方を暗黙の前提として進行している面がありますので、知識を持っておくことが必要です。

しかしこうした思想は、結局は現象世界の理解にとどまっており、現象を超えた世界次元についての問いを欠落させています。

カントには、実践理性・判断力批判などで、現象を超えた世界を考える視野があったのですが、 コスモス・カオスパラダイムは、純粋理性批判(現象世界の認識についての批判)のみを継承した思想的流れです。 たとえば、人間にある特定のコスモス(世界構成作用)が与えられているとすれば、 その作用の存在根拠を問うていくことが必要です。 つまりここで、ハイデッガーの言う「存在論的問い」に立ち戻らざるを得なくなるのです。

日本の思想界は、ついにそれを深めることができないで現在に至ります。 記号論に収束させずに「地平の思考」をつきつめていくことが、次のステージへの道を開くことになります。

なおここで、現実構成の原理を主観(共同主観)側にのみ求めず、 何らかの形で環境との相互作用を想定する考え方もあります。 ベイトソンやギブソン(アフォーダンス論)がその例です。

もっともそういう発想はメルロ=ポンティにはすでにあります。 これはある意味で環境が主観と独立した実在性をもつことを主張することになります。

たしかに、認識主観がなければ世界はカオスなのだというのは、ある意味できわめて人間中心的な発想です。

相互作用説は検討するに値します。 より厳密に言えば、ここで環境というものを潜在性の束と考え、 認識主観はそのうち一部を顕在化させるという方向で考えるべきです。

》4.私たちの「現実」は共同主観性を超えて存在しうる可能性を考えること

現在の哲学者、思想家の多くは3の段階までを理解していますが、 この4のステージにすすめるかどうかは、霊的世界観に知的に到達しうるかの分岐点になります。

つまり構造主義的、記号論的知性、ないしは「地平の思考」は、世界が共同主観的に構成されている、 「コンセンサス・リアリティ」であるという理解に達しましたが、 問題は、私たちは常に、永遠にその「コンセンサス・リアリティ」しか知ることができないのか、 その「外」には出られないのか、という問題がそこに発生します。

これはすでに後期ハイデッガーから提示されている思想的問題であり、 ポストモダン思想の要点はその問題にあると言っても過言ではありません。 しかし、よく思想史を顧みれば、ここで私たちは再び「プラトンの洞窟の比喩」の場所に立ち戻ったことがわかるのです。

しかしこの問題は、西洋哲学者は解くことができないでいます。 ハイデッガーは「存在」の「開かれ」とか「到来」について語り、 ポストモダンのドゥルーズなどは「力=強度」という言い方で把握しました。 中沢新一の思想は、この力=強度をある神秘的なエネルギーの実体であると理解した ところ(正確に言えば、自分の経験した神秘的力をそうしたポストモダン的概念で把握しようとしたということ)にあります。

しかし、こうした思想はいずれも西洋哲学の袋小路を突破できていません。 というのは、共同主観世界の「外」に立ち現れる経験を、「外」というネガティブな言葉でしか語ることができないからです。 これは、西洋哲学の歴史的限界なのですが、今その歴史については立ち入りません。

ここで、「私たちは、共同主観性の現実を超えた『体験の地平』に立つことがありうる」という立場へ、 転回する必要があるのです。これが、霊的世界観への転回の第一歩になります。

なぜなら、そうした「体験の地平」は、通常の世界構成とは異なる「世界の生成」が、 私という場において起こりうることを意味するからです。 これを神秘学的には「高次の知覚器官の発達」と言います。 つまり、「異なる次元を知覚する潜在能力を発達させる可能性」を私たちは有する、ということです。

このことは、西洋哲学の文脈では決して思考できないことなのです。 なぜならば、西洋哲学は「認識者の内的転回に応じて開かれる世界地平の存在」を理論的に認知できないという 伝統にしばられているからです。

わかりやすく言えば、「自分のあり方を変えないままで理解しようとする態度に終始しているから駄目なのだ」ということです。 そこで私たちは、ここで西洋哲学に決別する必要があります。

このステージの思考が(萌芽的に)見られるのは、ユングです。 その流れをくむ元型心理学(ヒルマンなど)にも、そうした発想が受け継がれているようです。 その最もラジカルな形が、アーノルド・ミンデルです。

この3〜4レベルについては、カスタネダのドン・ファンシリーズでも同じことが語られています。 そこでは、カスタネダが素朴な「現実」観から抜け出し、 現実とは実はもっと広大な地平を持つことを徐々に体験的に理解していく過程が、語られています。

そんなわけで、構造主義とかむずかしいことをやりたくない人は、 カスタネダを順番に読んでいくというのも、道としてはありますね。 カスタネダは次の5の段階まで行っています。

》5.神秘学の伝統を参照しつつ、私たちの経験可能性を考えること

ここでさらに次の思想的ステージに移行します。 すなわち、私たちの「現実」を、コンセンサス・リアリティにおける知覚世界という限定において見ることをやめます。

つまり、「現実」とは、より広い地平において生起しているものだということです。

重要なのは、それは「体験しうること」であるということです。 単なる観念ではなく、私たちにはそういう可能性が開かれていることを意味します。 つまり私たちには「見えざる器官」があるのだということです。 ということで、これは「微細身体論」としても展開されます。これはすでにミンデルが到達しているところです。

つまり私たちが経験するものは私たちの現実です。現実ではない経験というものはないのです。 ただ、その経験が他者との共有となりうるかという基準しかないのです。 そこで、「肉体感覚をもって確認しうる経験のみを現実と見なす」という基準は却下されます。

実は、シュタイナーなどはすでにこうした「見えざる器官」について語っていました。 それを発達させれば、「異なる世界構成」、つまり異次元の現実が知覚できるのです。 ミンデルはすでに、そうした隠された知覚能力の開発プログラムに着手しています。 しかし、考えてみれば、そうした試みは、仏教や、またヨーガなどの神秘学的伝統に存在していたものです。 シュタイナーもミンデルもそういう伝統を踏まえているのです。

このようなことを学問レベルから思想界に入れた人として、アンリ・コルバンという有名な学者があります。 現在の神秘学的な思想研究は、基本的にコルバンの敷いた路線によって行われています。

では、どのような世界が見えてくるというのでしょうか?それは、いろいろな世界です。 しかし最も重要なものは、「光」です。これは臨死体験において知られるものと同じです。 多くの神秘家も、「光」を体験してきました。この光とは、無条件の愛の世界ということです。 ただ、絶対的な愛のみが存在するリアリティというものがあるのです。 それをキリスト教では「アガペー」と呼んでいます。パウロなどは明らかにその次元を知っていたことが聖書からわかります。

その光の世界とは究極なのでしょうか。それはわかりません。 たぶんその「彼方」というものもあるのでしょうが、さしあたり今の人類がそれを問うことはできないでしょう。 まずはその光に到達することが先です。

一方、絶対的な愛ではないが、またコンセンサス・リアリティでもないという中間的な世界も存在します。 そのような中間的次元は、禅では「魔境」と呼ばれているものですが、 それを人間の知りうる経験世界として位置づけ、「意識の地図」を作っていく試みというものも考えられます。 そうした地図があってこそ、わき道と本道を区別しうるわけです。

このような「意識の地図」を作ろうという思想家が、 ケン・ウィルバー、スタニスラフ・グロフなどであると言うことができます。 問題は、彼らの提示している地図が正しいかどうかということですが、 それは観念的にではなく、あくまで「体験的地平による実証」として検証されねばならないことです。

人間は、単にあたられているコンセンサス・リアリティのなかで生き、死ぬというだけの存在ではなく、 それを超える次元の世界を知りうる存在であるという認識が、そこでもたらされます。 つまり、絶対的な愛へと開かれた存在なのです。 キリストや仏陀などは、そのような愛への開かれへの媒介者であると言うことができます。 また、このような視点からのみ、「私が、他の何ものにも替えがたい私であること」ということの本当の意味を、 知ることができます。

それは――私は、究極においては、神と一つであるという事実に由来するということです。 神とは「究極の私」です。そのように個別化した「私」の意識を「ペルソナ」の神秘と名づけることができます。 私は、なぜ私であるのか。それは、宇宙それ自体が巨大な叡智体であり、 その宇宙自体が「私とは私である」という宇宙意識において存在するからです。 その宇宙意識を分有しているのが、私たちの中核にある霊なのです。 私が「私」と言いうるのは、このような自分の中の霊的な部分によります。 シュタイナーはそれを「自我」と呼ぶのですが、心理学の用語とあまりに違うので誤解を招きます。

このような霊的世界観を、それだけ取り出してみれば、 「そんなもの、何の実証もない」とか、「現実ではない幻想に基づいている」などという批判と称するものが出てくるでしょう。 しかしそのような批判者は、「現実とは何か」という問いを通過していません。 つまり3のステージを理解することができず、いまだに「客観的現実というものがある」という 素朴実在論レベルから言っているにすぎないことが大半です。 これはあまりにレベルの低い発言であることがおわかりでしょう。 「現実とは何か」という思想的な問いを通過していない思想は、21世紀の思想としては通用しないことを知ってください。

》6.さらにその先の展開

5まで理解が到達した人は世界にもわずかしかいません。 しかしさらに先の展開を予測すると(予測というか自分でやるしかないのですが)次のようなものが考えられます。

まず、キューブラー=ロスも語っている、「死後の生」という体験領域についてです。 もしそれが、私たちに開かれている経験の地平であることを認めると、 思想的には「魂の存在」を確定するということを意味します。 すなわち、生と死を超えた私たちの存在そのものなのです。 そして、さまざまな現実を構成しているのは、究極的にはこの魂の作用であるという理解に到達できます。 ここで、仏教の唯識説との一致を見ることができます。

同時にそれは、(究極的な愛である霊的エネルギーの世界と区別された)心的エネルギーの世界であり、 そしてそこにはさまざまな「エネルギーパターン」が蓄積されていると考えることができます(これは唯識説と一致しています)。 つまり私たちのさまざまな経験次元における経験は、この心的エネルギーの場にフィードバックされ、 また新たな現実を生成する因子となります。 これが、カルマと転生と呼ばれる現象となります。このように、ほぼ唯識説に沿って現実の問題を考えることができます。 正確には、唯識説のエネルギー論的再把握です。

また、私たちの存在は根本的には霊的・心的・物理的エネルギーの場が統一されたものであると理解できます。 ここから、気功法などの「気」の働きなども理解でき、さらには遠隔治療その他の「エネルギー医療」の哲学的根拠を考えることができます。 「気など信じない」という人も多いですが、そもそも1のレベルもクリアできていない人が、 気を理解できる枠組を持てるはずはないので、気の哲学的理解に到達するにはきわめて高度な思索が必要なのです。 いずれにしろ、これはエネルギー医療を基礎づけ、西洋医学一辺倒からエネルギー医療を統合した「統合医療」へシフトする 社会的運動を後押しするものとなります。

これはつまり、人間とは「エネルギー体」としての存在でもあるということを意味しています。 だからこそ、エネルギー医療が有効なのです。気だけではなく、ブレナンなどが語っている七層のオーラというものも、 こうした人間がもつエネルギー体の層であると理解できます。 そのような次元の存在を前提とすれば、超心理学的現象も、また霊的な世界との接触も、理解することができます。

これは何を意味しているでしょうか。人間がエネルギー体としての存在を本質とするということは、 肉体の存在に依存するものではないということです。 すなわち、肉体の死は存在の終末ではなく、存在状態の変化にすぎません。

同時に、自然哲学も変革されます。 自然とは何でしょうか。自然とは人間に対立しているものではありません。 人間は人間にとっての現象世界を構成していきますが、それ以外にも無数に現象世界は存在します。 つまり宇宙には、人間以外にも「独自の現象世界を構成する者」があるということです。 すなわちここで、自然とは「目に見える自然」だけではない、もっと不可視の次元を包含した全体性として把握せざるを得ません。 ここに、スピリチュアル・エコロジーの思想的根拠をおきます。

また同時にそれは、人間以外の知性体、すなわち伝統思想において「天使」または「悪魔」などとと呼ばれるものの 存在可能性について考えさせます。 そのような無数の存在が宇宙にあり、それぞれが独自の現象世界を構成している――ただしその多くは、 物質的現象世界とは限らない――というヴィジョンに到達しますが、 これはライプニッツの世界観とも似たところがあります。 また、そこにおいてこそ、私たちは「死者とのコミュニオン」において生きているということを確認することができます。 死者とは、エネルギー体のみで存在している人間の状態です。 人間としてはそちらの状態で過ごす方がノーマルなのです。

しかしこれらすべてを統轄する最も基本的な原理――それはやはり、「アガペー」であり、 世界の基底には無条件の愛が存在するという絶対的原理です。 人類は、その愛の呼びかけを受けている存在であり、その愛にふさわしい者として地球を完成状態に導く責任を付託されています。 すなわち、人類と地球はともに「神化」へと呼ばれています。 地球において霊の共同体が創造されねばならないのです。このことは論理的根拠を持ちません。 ただ、その絶対的愛を体験した者にのみ、確証される啓示的真理にほかなりません。 この意味において、霊的哲学は究極的には「神学」となります。

そこまで到達した時に、「苦しみ」の究極的な意味が明らかとなるでしょう。 「生きるとは何か、死とは何か、なぜ罪のない人が苦しむのか」ということは、 この宇宙全体がどのように運行されているか、そこに視野を向けなければ、解くことができないのです。

なお、専門的になりますが、この霊的世界観は、基本的に「場所的論理」において記述することができます。 つまり、場所とは「現実が生起する場所」ということです。 たとえば宇宙根源である神は、すべての現実世界構成の生起する最も巨大な場であり、 かついかなる場所性をも超えた無であると言うことができます(正確には「言う」ことはできないのかもしれませんが)。 そして人間とは、究極的にはそこから生起しているローカルな場であり、 そこにさまざまな「結ばれ」としてパターンを蓄積していき、自らその網に絡め取られつつ、 なおもその中核にある「絶対的な愛への開け」を保ちつづける場所として存在するのです。

一方、これをエネルギー論的に記述するならば、 エネルギーは「霊的エネルギー」→「心的エネルギー」→「物理的エネルギー」と次元降下しつつ、下位世界を生成していきます。 しかし、人間はそのいずれの次元をも包含したエネルギー的次元複合体として存在します。 一方、神々や天使は霊的エネルギーのみで構成され、 死者などの存在は霊的エネルギーを中核に持ちつつ心的エネルギーを伴った状態で存在しています。 それが人間の基本的存在状態です。物質的にも存在するのは人間にとっては例外的状態です。 それは心的エネルギーの浄化のために自ら選んだ道ということです。 人間は物質的身体を通して物質世界との交わりを持ちますが、物質性は人間にとって本質的なものではありません。 人間は、根本においては、霊なのです。

宇宙それ自体は、統一された叡智体としての存在状態からの「内部分節」をおこないます。 ここに、対向するものが生み出され、悪の種子があります。しかしそれは宇宙計画の一部です。 この分節志向性のゆえに「交わり」の可能性が開かれるからです。 しかし同時に、分節された者は再び始源の統一に戻ろうとする「無限志向性」を持ちます。 この二つが宇宙における基本的なエネルギーの方向です。

これをグロフは「ハイロトロピック」と「ホロトロピック」という言葉で呼びます。 それは宇宙の性質であると同時に、人間の魂の内部にあります。 その意味で宇宙と魂は相同なのです。この考え方はグロフの独創というわけではなく、 すでにシェリングの自然哲学に内在している考え方です。 そのもとを辿ればヤコブ・ベーメになります。

人間が無限へと向かい、無条件の愛へ接近することは、 人間の魂の内部において宇宙的な力が作用しているということです。 この意味において、宇宙と人間は別個のものではなく、人間の中に大宇宙のプロセスが映じているのです。

これは、きわめて古典的な宇宙感覚への回帰です。 そして、人間が無限へ回帰する時、人間と世界を分有する地球物質界も無限へと帰還します。 このようにして地球の使命が完結する時、地球の存在サイクルは終了し、次の惑星進化過程へ移行します。 これらすべては神という宇宙叡智体の内部におけるローカルなプロセスとしてあります。 それらすべては、ただ神の栄光のために存在します。神の栄光とは、宇宙の存在目的そのものです。

肉体の死後も人間の本質は存続し、「私」の意識はなくなりません。 むしろ「私」の意識はより広く、深いレベルになっていきます。 それは究極的には「宇宙的な自我」と一致します。それが、この「私」の意識の究極的な根拠なのです。 しかし、肉体意識の次元における「私」の意識を超越しているという意味では「無我」という言い方もできます。 しかしこれは消滅ではなく、宇宙意識ということです。

限りある人間の智恵で宇宙存在の神秘を解き明かそうとすることは傲慢の罪にあたるかもしれません。 しかし人間は宇宙や神について考えつづけざるを得ないものです。それが人間の宿命です。 しかし考えること自体には限られた有効性しかありません。 それはある程度の進むべき方向を指し示せばそれで十分なのだと思います。


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