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玉藻鎮石――泉の底のエリキシル

玉藻鎮石

玉藻鎮石。
出雲人祭、真種之甘美鏡。
押羽振、甘美御神、底宝御宝主。
山河之水泳御魂。
静挂甘美御神、底宝御宝主也。

――『日本書紀』第五巻、崇神紀、六十年條/『出雲国風土記』

玉藻鎮石(たまもしづし)。
出雲人(いづもびと)の祭る、真種(またね)の甘美鏡(うましかがみ)。
押し羽振る、甘美御神(うましみかみ)、底宝(そこたから)御宝主(みたからぬし)。
山河(やまかは)の水泳(みくく)る御魂(みたま)。
静挂(しづか)かる甘美御神(うましみかみ)、底宝(そこたから)御宝主(みたからぬし)。

読み解き

玉藻に沈める石。
出雲人の祭る、まことの物身(ものざね)うるはしき鏡よ。
雄々しき翼なる愛(は)しき神よ、水の底なる宝、御宝の主よ。
山河(やまかは)の水そそぐ御魂(みたま)よ。
深くも沈める愛(は)しき神よ、水の底なる宝、御宝の主よ。

解説 ―― 出雲神宝ノ讃歌

この歌は「祟神紀」に記された文章に由来しますが、古代歌謡としては扱われていません。 しかし、言霊の呪力には、第一級の呪歌に匹敵するものがあり、 「これは歌謡である」という意見が多いのも、事実です。

この詞章にからむ伝説は、次のようなものです:

――出雲派の出雲振根(イヅモ・フルネ)が、その弟、大和朝廷派の飯入根(イイ・イリネ)を討ち取った後、 大和の祟神がこれを問題にして出雲振根に天誅を加え、滅ぼした。 この後、出雲臣は畏れて、以来出雲の神を祀らなかった。 しかる後、丹波びと氷香戸辺(ヒカトベ)なる者の子供が、上のような詞章を歌った。 これを驚き怪しんだ氷香戸辺が、ひつぎのみこ活目尊(イクメのミコト)に訴えていわく、 「私の子供に神が憑いて、この詞章を言わせたのではないか」――。

この争いの中心には「出雲神宝」の存在がありました。 そして後日、祟神はその神宝を掌握する事を望んだ、と言われています。 (ちなみに、飯入根は出雲神宝を大和朝廷に渡そうとしていた、と伝えられています)

以上謎めいた始末記ではありますが、つづめて言えば上の詞章は、出雲神宝を讃える歌ではなかったか――という事です。

試論.1 ―― 泉の底のエリキシル

この詞章にからむのは、「出雲」、「大和」、「丹波」です。

ここで改めて記紀神話を検討すると、大和国作りの伝説を物語る中で、三輪・大物主と出雲・大己貴が二重写しとなり、 ついには出雲・大国主というひとつの神格に吸収されてゆくという、巧妙な物語手法を見る事が出来ます。 旧三輪族は、出雲の名の下に隠されてしまったのでありますが、奇妙な事に、 彼ら自身、その隠蔽に協力したらしい節が見えるものであります。

したがって、この出雲・大和王朝の背後に、「三諸の岡」を聖地とした三輪王朝の影を見なければなりません。 「玉藻鎮石」を歌ったのは氷香戸辺の子供ですが、この親子を出した丹波の地は、 神話人物相関図からも、そのかみの三輪王朝に縁(ゆかり)の深い地であった事が伺えます。

実際の三輪王朝がどんな王朝であったのかは、不完全なる断片を組み合わせて想像するしかありませんが、 いくつかの古代遺跡は、三輪周辺が弥生時代以来の鉄工業の地であったことを示唆しています。 そして、出雲王朝の栄えた出雲の地もまた、良質な鉄の産地であり、古くから鉄工業が発達していました。

以上のような三輪/出雲の産鉄の種族の二重写しの上に、「押し羽振る――」という詞章があります。

「羽」に関係の深い物身(モノザネ)として、刀身が挙げられます。 そして、三輪・大物主と出雲・大己貴は、どちらも 蛇身の神としての側面を持っており、その化身もまた刀身。

先立つ物語の中に登場するヤマタノオロチの身から出でた剣の名は、 「天叢雲剣(アメのムラクモのツルギ・後の草薙剣)」であり、 そのオロチを斬ったスサノオの剣の名は、「天羽羽斬(アメのハバキリ)」でありました。 そしてさらに遠く、イザナギが火の迦具土を斬った剣は「天尾羽張(アメのオバハリ)」であります。

刀剣の生産が可能ならば、鏡・鐸(または鈴)の生産も、 また細かな細工を必要とする勾玉の生産も可能でありましょう。 そしてその工程には、必然的に、石と水が関わってきます。

かくして、このささやかな詞章の中に、玉(勾玉)・石・鏡・鐸(または鈴)・剣・水が関わる、 いとも古き神々の物語と、その物語の変容とを見るのであります。 更に「水泳(みくく)る」という言葉に見えるのは、 生と死とを分かつ川のほとりに立ち現れる、謎の禊神・菊理媛の影……

出雲(イヅモ)びとは、かつては泉(イヅミ)びとであった可能性を否定するものではありません。 そして、丹波は水の祭祀に関して、長い歴史を誇る泉の聖地でもあります。

ここに流れ込んだ物語は変幻自在の多面体であり、解釈もまた、それだけの数が存在すると申せましょう。

かつて、西洋の錬金術がエリキシルと名づけた「賢者の石」――玉藻にまかれつつ、 泉の底に沈める「底宝」もまた、物/事の化身を可能とするエリキシルであったのです。

試論.2 ―― 知性は真理の中の調和を求める

直感そのものの詩的幻想ではありますが、「玉藻鎮石」は、 古代日本人が描いた「理想」――悠遠なるものの影――を象徴するものでもあったように思えるのです。

理想という事を語るのはとても難しいですが、 それでも思考し、構想し、表現する方法が無い訳ではありません。 理想を求め、真理を語るのに必要なのは、いっさいの制約を受けることの無い知性だけです。

人類史上、一番最初に「知性に自主性を与える」という事、 つまり、人間の思考に、雄々しくも自由な翼が付けられたのは、ギリシャにおいてでした。

これは、最初に「理想」や「真善美」の存在にはっきりと気付いたのもギリシャである――という事を暗示しています。 古代世界において、ギリシャのみが、万人の批判に耐えうる思考を、 ――つまり万人に通ずる思考形式を備えた数学を、創造したのです。

思うに――“知性”とは、“理性判断”そのものではありません…

理性判断は、「我信ずる」「我為す」という強烈なモチベーション――感情を根底とします。 「知性」はどちらかというと、真善美や理想に触れうる何か、先端である、と 言えるのではないでしょうか…

知性――それは、真理の大海を航海するための、アストロラーベのようなものかも知れません。

理由は分かりませんが、夏王朝以来、かの黄河文明の系統においては、 知性の自主性はあり得ませんでした。 同様に、おそらくは、インドでも日本でも、 知性の翼は、世のファッション…宗教理念や社会理念など…の中に深く沈められており、 大きく羽ばたくという事は無かったようです。

知性の自主性とは何か――という事については、様々な言い方があるものの、 強烈な反照としてのイメージは、おそらくは出来るのでは無いでしょうか。

中国発の成語に、「曲学阿世」という言葉があります。

曲学阿世というのは、学問的真理を曲げてまで、世の流行におもねる事をいいます。 当世の権力や宗教的権威の政治的正しさを証明するために、或いは、 新たな世のファッションを作り出すために、学問が使われる、という事です。

この傾向は、古今を通じて世界共通であって――特に「学問が政治に奉仕する」=もろに「曲学阿世」という事が、 中国知識人の間では特に顕著でした。

これは何も、彼ら中国知識人たちの学問的倫理が云々…という事では無いと思われます。

学問とは、知性が自由に羽ばたくような場では無く、 油断すればすぐに乱れてしまう不安定な社会を安定させるための技術、 ないしは職能のひとつだ――という考えが、底にあるからだろうと思われるのです。

…「曲学阿世」の学問的潮流は、常に、当世の思想イデオロギーと化す危うさを孕んでいます…

実際問題としては、古代中世と、近現代とでは、 学問をどう位置づけるかという思考の潮流が大きく異なっているので、 近現代の常識で古代中世を批判するのは正当なやり方とは言えないと思われます。 近代科学の成立においてさえ、「神の死」という紆余曲折がありました。

しかし、そうした社会においてもなお、科学や数学、哲学といったもの――理想を求め、 真理を究めん、という分野においては、 「本質(エッセンス)」や「理想」の存在に気付く深い感性を大切にするかどうか――という姿勢、 ないしは精神の伝統が、重要な役割を果たした筈です。

理想や真善美――「悠遠なるもの」はたしかに実在するのだという実感と、 真理に対する純粋な探究心を持ち続けられるかどうか――

歴史上、科学が興隆した国と、興隆しなかった国があった…という現象があります。

これは「理想追求」タイプの学問と、「曲学阿世」タイプの学問と、 どちらが重要視されてきたか、という事に大きく起因していたのでは ないでしょうか。

(日本は明治になってから、急に科学が興隆しています。 何かしら理由があって、自力では知性の自主性を成しえなかったものの、 刺激があれば一気に花開くだけのセンスが充満していたため、 学習スピードが尋常ならざるものであった…と言う事は出来るようです)

マックス・ウェーバーという人が、近代学問の特徴とは、 学問的知識が、政治や倫理あるいは宗教的な価値から自由なことである、 という言論を唱えています。

このマックス・ウェーバー説を考慮してみると、 今でもなお、特定の国の学問環境、そして或る種の学問… 特に人文・社会・歴史の分野に関しては、 未だ知性の自主性の獲得の途上にある…といえそうです。

結論としては、次のように言えるのではないでしょうか。

人類の知性は、「理想」とも呼ばれる“悠遠なるもの”のエリキシル――限りなく透明な、まばゆい影――を、 いっさいの真理の調和が成し遂げられたところに求めるものなのです…


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