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西欧近代精神の底に――知性の勝利と霊性の敗北

出典:『ロシア精神の源』―よみがえる「聖なるロシア」―(中公新書1989)
高橋保行・著/ニューヨーク聖ウラジーミル神学大学院卒、日本ハリストス正教会司祭

ウィキペディアより――「ハリストス」とはキリストのこと。

キリストを示す「Χριστóς」は、 古典ギリシャ語の再建音では「クリストース」となるが、 中世初期以降のギリシャ語では「フリストース」と変化し、 現代ギリシャ語でも「フリストース」となっている。

「ハリストス」はこの「Χριστóς(フリストース)」、 教会スラヴ語「Христос(フリストース)」を音写し、片仮名表記したものである。 「イエス・キリスト」は「イイスス・ハリストス」と表記される。

最初に ―― 引用に際してのコメント

引用文の中では「内なる智恵」=「精神性」とされていますが、これを《霊性》とし、 「外なる智恵」を《知性》として適宜振り替えながら読むと、 下記の引用文の要旨が見通し良くなるようである、という風に思います。

筆者の文章が味わい深く、様々な事を考えさせられます。 妙なツッコミは入れずに、元の書籍よりそのまま引用させていただきます。 出典の書籍には、この他にも興味深い内容が書かれてあり、 当サイトの歴史考察エッセイのための資料としても、活用させていただいております。

研究1.《引用》「内なる智恵」と「外なる智恵」

・・・前略・・・

ビザンチン帝国がギリシア古典を古代から遺産として受け継いできたということは、 単に風化させずにきたというだけのことではない。

ギリシア古典の内容をよく理解すると共に、知性とは何かをよく弁えていたということでもある。 研ぎ澄まされた知性の底知れない力は、人にとって精神性を高める道具にならない限り、 まかり間違えば刃物のように、全力をもって人を破壊するものになりうるということである。

この知性が、肉体から生じる情念の道具になると、理屈に変化するということは、 だれでも知っている。 情念と知性の間に相身互いの仲が成立すると、 知性は情念の塊に「我」というもっともらしい名を与えて祝福し、これを満たす働きを開始する。

情念は一人の人を代表するものになりえないのに、 知性のお蔭でありもしない「我」という制度を着せられ、あたかもあるように装い始めるのである。 深層心理などというもっともらしい名称も、この「我」の別名であり、煎じ詰めれば、 知性に体よくまとめられた情念ともいうべきものである。

近代西欧の学問の中から生まれたばかりの心理学が、心の所在を頭の中にあるとするのも、 精神性が西欧学問に不在であるからではないか。 「我」を「知」と言い換えれば、我を制御するのが知性であるから、 当然その所在地は頭の中となるわけである。

人が「自分」という時、その自分はある精神性に根ざしているというべきで、 天気のように変わりやすい体の状態や情緒、単なる感情的な自我、 ないしは深層心理などという得体の知れないものや、これらを制御する知性であってはならない。

人の知性は思慮分別を養育し、高度な精神性を修得する過程になっても、 人生の基準となったり、人が「自分」という時のその自分の基盤になれるほど高尚ではない。 知性は、高級な技術であり、人間の精神性や文明を高める道具になるものの、 精神性に代わるものにはなりえないのである。

知性が肉体を元にした情念から生じる自由奔放な欲求を満たすために働く事は、いとも簡単である。 人の自己満足のために、知性がもっともらしい理屈を生み出し、 もっともらしい人生を形成してくれるというのは、だれもが知っている。

このように、知性が情念の使い走りをしている時に、自分の奴隷的な立場に気づいて革命を起こす。 知性を駆使して情念を制し、体や気持ちのあり方をすべて分析、定義づけ、 固定概念のなかに入れようという働きが起こる。 多くの人が、知的であることを精神的であると誤解するのはこのためである。

そうしたところから、人の自由とは、 知性を自由に駆使して生活の領域を統制することであるというような考えが出てくる。 知性は、出来もしない事を出来るように思わせる力さえ持っているから恐ろしい。 知性による明快な言葉化により現実が無視される恐ろしさは、だれもが味わっているはずである。

このような知性の働きを食い止める道は、ひとつしかない。

肉体を土台とする情念に節制を与え、祈りの言葉を用いて心を浄化し、 精神性を豊かにし、深い思慮分別の能力を養い、 知性が提供していた偽りの自分の代わりに真の自分を取り戻す事である。 このように、自己の中で知性と情念の下敷きになり死した自分を復活させるのが、 ビザンチンの精神性の目的なのである。

・・・後略・・・

》考察1.内なる智恵と外なる知恵――当サイトの私見

西欧精神が重要視してきた概念に、「自由」「平等」「友愛」があります。 これもまた、知性を重視した結果、生まれてきた概念であろうと考えられます。

問題は、この精神が、果たして人類社会を真の意味で「幸いなるもの」にしたであろうか――という事です。

西欧精神が著しく発達した「近代」は、同時にオカルト重視の秘密結社や、 シュタイナーなどの霊性学が恐ろしい勢いで分岐発達した時代でもありました。 そしてその絶頂のスタイルとして現れたのが、たとえばナチスを支えた魔術や霊性思想です。

一般に近代科学へ発展してゆく事になる知識革命は、17世紀から18世紀の間に進行した事が 知られています。その続きである19世紀から20世紀は、 欧州全体が異様なオカルトブームに包まれていた事が知られています。 「交霊会」や「超能力披露会(手品の一種?)」なども流行していたそうです。 「シャンバラ」なる理想郷伝説が流布されたのもこの時代であり、 仏教思想やチベット霊性などと深い交流を持ち、 霊能力研究なども盛んに進められていたそうです。

彼ら――心霊学会・オカルトブーム・神智学、 ないしは太古のゲルマン魔術やドルイドの復興運動に属して活動した多くの人々――は、 同時に、その時代を代表するジャーナリストであり、政治家であり、科学者であり、 言論人(或いは文化人)でありました。

彼らは「物質に対する精神の優越」を主張していましたが――、 果たしてそれが、真の意味で《霊性》なるものと向き合う姿勢であったかどうかは、甚だ不明としか言えません。 改めて見直してみると、「心霊帝国主義」と言えなくもありません。

「外なる智恵」すなわち「知性」が、西欧のあらゆる都市に充満した社会――そして、 知性のみに生きる人生が、壮大な逸脱と異常増殖を起こした社会。 それが、「近代西欧精神」ないしは「近代文明」という、異形の産物だったのではないでしょうか…

上の引用文に危惧されている様々な事象の実例は、 この近代西欧の有様に鮮やかに現出していると考察するものであります。 現在もまた、スピリチュアルブームという形で、「物質に対する精神の優越」が盛んに論じられています。 将来、こうした風潮が如何なるものになるのかは、これまた杳として知れない――と申せましょう。

研究2.《引用》ふたつの智恵の対立

ギリシア古典のアラビア語からの導入と論理学の高まりは、 12世紀から13世紀の間にキリスト教哲学を生み、ヨーロッパ各地で静かな知的革命を引き起こした。

教会の中には最初、知的革命をいぶかしく思い反対する者もいたが、 知性の力に魅了されたヨーロッパ社会は、大いにこれを歓迎した。 教会の中から始まった知的革命は、いったん教会の外に出た後、 ルネッサンスの勢いと相まって今度は逆に教会に舞い戻り、宗教改革を誘発した。

文化的に見ると、宗教改革は単にローマン・カトリック教会にプロテストするだけの動きではなく、 キリスト教の中における知的革命の徹底化なのである。 プロテスタンティズムは、教会の中の知的革命を促進し、 精神性よりも知性に比重を置いただけでなく、知性が精神性を凌駕することを許してしまったのである。

ところが、知的革命がヨーロッパ社会で徹底すると、 皮肉にも西のキリスト教が成立した時期に強調された知性による救いを、 社会が教会に代わって知的革命を完全に達成することにより果たしてしまった。

教会が推進していたものを社会が取り上げ、完全に仕上げてしまったところから、 教会は用がなくなり、世界の中にあるさまざまな宗教の中の一宗教に成り下がってしまったというのが、 ヨーロッパのキリスト教の現状である。

振り返ってみると、実にヨーロッパ中世以降の歴史は精神性を否定する知性の独占の歴史であり、 ヨーロッパは連続的知的革命の伝統を生み出したと言える。

現代の西欧社会だけでなく、教会においても精神性は疎外され、それに代わる、 倫理という一見精神的に見える論理性がはばをきかしている。 倫理はあくまでも精神的なことを知性の力を借りて論理的に考えるというもので、 精神性そのものではないことを忘れてはならない。ここでも、知性が精神性を虐げている。

精神性の疎外は精神性に対する無知を生じ、個人の中でのみ体験する神秘的なものとか、 知性に対抗する集団感性を精神性と取り違えたりする結末を生んでいる。 その逆に、簡単な理屈を説いて納得させたり、まったく逆に複雑な精神界の構造を説いたりという、 いずれも頭で納得する宗教は、知性に傾倒している社会にのみ生じるものである。 精神性を忘れている人間が生み出す精神性の代用品であるといってもよい。

宗教とは関わりたくないという知的現代人は、 知性が精神性を無視する時に知らず知らずのうちに生じる、 精神性欠如という弊害をなんとかしようというための応急処置が宗教であると思っているようだ。 そうした意味から知性派が宗教を敬遠し続けるのはもっともな話である。 だれが自分の病む体から出る排出物を再び受け入れようか。

聖なるビザンチンでは、ギリシア古典が正規の教育の基盤にあったから、 生活の中に知性のための場が設けられていた。 知的活動は活発であったが、けっして精神性の肩代わりができるなどというようには考えなかった。 ときに優れた知識人の中には、 ギリシア古典とキリスト教の神学を結びつけてタブーを破ろうという試みもあったが、 必ず聖職者や修道士たちがこれに応戦した。知的現代人が聞くと、すぐになるほどと思う。 聖職者が宗教感情を強く持ち、主観でのみ物を言うイメージが強いからだ。

これらの聖職者や修道士たちは、盲目的に精神性を主張したのではない。 かつては自分たちも、聖職者や修道士になる前は同じ高度なギリシア古典の教育を受けた知識人であったから、 ギリシア古典を巧みに神学に結びつけようという相手の手の内は分かっていたし、 知性の弱さや強さはよく心得ていたから、明快な答えを提示したのである。

紹介される機会が少ないから知っている人も限られているが、 ビザンチン帝国では4世紀から8世紀にかけて、皇帝が「全地公会議」という、 現代的にいうならば学術専門会議のようなものを開催していた。

内容は、一見すると、神学論争により正統と異端を明確にする、 教会に関することのみのように思われる。 ところが、一歩踏み込んで文化的な面からとらえて内容を検討すると、 正統と異端を論じつつも、ギリシア古典を主軸とした「外なる智恵」と、 キリスト教の精神性を基盤にした「内なる智恵」の微妙な噛み合いが どうあるべきかを明らかにしていることが分かるのである。

双方の論議から産出した教義的表現は、単に教会の信条としての意味を持っているだけでなく、 文化的な面からとらえてみると、ギリシア哲学とキリスト教の精神性の互いがどのような性質を持ち、 キリスト教文化の中でどのように関わっているかを明快にしていることが分かる。 知性と精神性のそれぞれの所在を明らかにし、バランスを保つ働きをしたのである。

ヨーロッパのキリスト教が生まれると共にギリシア古典と出会った時には、 ビザンチン帝国の中にすでにあったこのようなキリスト教とギリシア古典の千年にわたる付き合いを無視し、 そのまま融合してしまったのである。 魅惑的な相手というばかりで、一体どのような相手かも確かめないで結婚を急いだのと同じである。

ビザンチンの人たちは、自分たちが先代から受け継いだ遺産がどのような性質のものかをよく心得ていた。 そのために、ギリシア古典の甘味が精神を骨抜きにしないように、 付き合い方にはいつも細心の注意を払っていたし、 ビザンチン帝国にはその誘惑に負けないだけの精神性を持つ人がいくらでもいた。

ギリシア古典が紹介された時代の西欧社会には、 ギリシア古典の知性に太刀打ちできるほどの精神性を持つ人はいなかったし、 知性の力にはまったく初心であったから、圧倒的に論理学と知性の甘味に飲み込まれてしまった。 ――

〔同書別頁からの抜き出し補遺〕

…ローマ総主教区でも最初はラテン語習得を強制せず、 他の総主教区と同じように、伝道先の現地の人たちの言語を尊重していた。

ところが、同じローマ総主教区内のフランク王国が、 自分のところから派遣した伝道団にラテン語の使用を義務づけ、フランクの権威の象徴とした。 この例に倣いローマの総主教は、自分の権威を示すために、 9世紀以降、ローマの総主教区の中でラテン語の使用を義務づけた。

やがて、ローマ総主教区内の大聖堂や修道院にあった学問所で論理学が盛んになると、 ラテン語は、祈りの言葉から学問をする者の必修の言葉になり、 無学の者には逆に意味の分からない有難い言葉になってしまった。 こうして、西欧の人々にとりキリスト教の救いは、キリストの生き方を修得するよりも、 ラテン語を習得し、知性を磨いてキリストの教えを納得することに変わったのである。

これに拍車をかけるかのように、スペインのコルドバやトレドで、 ギリシア哲学のアラビア語からラテン語への翻訳活動が盛んになり、 その影響をもろに受けた西のキリスト教は、人の歩むべき道から、人生哲学に変容し始めたのである。 ローマ総主教区内の聖堂や修道院が、知的革命の発生の中心となり、 現代教育の起源となったのは、だれもが知るところである…

》考察2.ふたつの智恵の対立――当サイトの私見

「外なる智恵」/「内なる智恵」とは言葉遣いが異なりますが、 「都市的な性格」、「芸能人的なもの」で括られる「種族」というものがあります。 心理的カテゴリで割と精密に括る事ができるので、「種族」としか言いようが無いのであって、 別に人権的な意味での差別という訳ではありません。

このいわゆる「芸能人的種族」タイプの人間は、だいたい以下のような感じでしょうか。 新興カルトで教祖や幹部になる人物は、ほぼこれに当てはまると考えています:

劇場都市――都市は劇場的雰囲気に包まれている――従って、 都市社会は「芸能人的種族」が繁栄する環境にあります。 言ってみれば「芸能人的種族」とは、都市社会の高度発達と並行して自然に生み出されてくる、 登場人物の群れである――「外なる智恵(知性)」の申し子 ――である、と申せましょうか。

いわゆるスピリチュアルブーム、2012年アセンション説というような様式で、 マトリックス社会=グノーシス社会が喧伝されるのも、その裏返しと言えるかも知れません。

(参考:1999年に公開され、世界的流行となったアメリカ映画『マトリックス』は、 グノーシス主義に基づいているという分析があります。 人類は相変わらず、二千年前の劇場都市と同じ「認識」を繰り返している訳です…)

そして「外なる智恵」の申し子たる人々――「芸能人的種族」――は、流行に乗りやすく、 新興宗教やハーブ・アロマ医学、スピリチュアル、オカルト、占いなど、 得体の知れないものに過剰に熱中する(冷静に付き合えない)という性格があります。 覚醒剤も、実はその中の一種である――と申せましょう。

終末思想セミナーやヒーリング集会などというように、霊能力の披露を商売とする、 広義のスピリチュアル――芸能界&広告業界で、 巨額の覚醒剤市場が展開しているのは、昔から有名です。

「タレント」とは元々「才能」という意味があります。「才能を披露して金に換える」という点で、 「霊能力を披露して金に換える」行為と、何ら変わりはありません。 芸能界およびスピリチュアル業界の商売とは、 まさしく、「劇場の中で《タレント》を披露して金を稼ぐ商売である」のです。 必然、「芸能人的種族」の性格と相まって、麻薬・覚醒剤の市場を構成するわけです。

実際、2009年の夏にタレント薬物事件が注目されていたのは、記憶に新しいところです。 この事件は、芸能界でいかに巨額の麻薬・覚醒剤市場が稼動しているかをまざまざと見せ付けた、 と申せましょう。俗に「酒井・押尾事件」とも言われているようです。 この事件では、酒井タレントが新興宗教団体に逃亡中の身を寄せていた、 と言う事が大変な話題となっていたようです。 更に押尾タレントの場合は、 同室の女性が急性薬物中毒で死亡したのを放置して逃亡した、 という行為が話題でした。死人が出ましたが、何故か執行猶予付きで処理されました。

この出来事は、「外なる智恵」すなわち「知性」の輝ける申し子である 「都市権力」ないしは「法律権力」が、 これら麻薬・覚醒剤市場の維持と発展を手助けしている――という、暴力的なまでの事実を暗示しています。 すなわち、現代とはまさに、二千年前の古代から脈々と続く「劇場都市」の中に、 今だに生きている時代なのです。

芸能界ないしスピリチュアル業界における巨額の覚醒剤市場の存在――これは別に秘密でも何でも無く、 歴史資料を調べれば割に出てくるものです。 例えば昔からの宗教儀式で乳香を使うというのがありますが、 これはとても高価なものなので、資金力の無い市井の儀式では、 代わりに麻薬やハーブを使ったりするわけです。 歴史上、スピリチュアル儀式とヒーリング医療は、常に一体のものでした。

歴史上のケースとして、歴代の中華王朝末期の新興宗教ブームや、 古代ローマ諸都市の秘儀ブームで急速に麻薬や幻覚剤が広がり、 プラスの影響としては漢方薬や高度医術が広がった、という現象があります。

例えば――古代オルフェウス教は、奇妙な儀式で有名です。 ドルイドなどの魔術師の調合した幻覚キノコ薬や、高揚リズムの音楽を用いずして、 特定の行為に及ぶのは、さすがに難しいと思われます。こうして見ると実際は、 西洋人もインディアンも東洋人も、人間としての本質は変わらないと申せましょう。

20世紀後半のヒッピー・ブームの頃は、アマゾン・インディアンの幻覚キノコが流行りました。 流行のヒーリング・セミナーなどで会員に配布される「お買い特なお香」には、 合成化学物質ならまだしも、幻覚作用を起こす物質が水増しで仕込まれている…という可能性は、 十分にあります。

ドラッグ類は習慣性があり、 カリスマ・タレントによる催眠術と併用して「癒しの気分」で信者を確実に餌付けしていく事で、 新興宗教の商売としても、十分に儲けを見込める訳です…そして、 そういった新興宗教団体は法人として扱われており、法的に脱税特権があるので、 裏では笑いが止まらない、という訳です (全ての新興宗教団体が同類とは限りません。 適切なヒーリング医療を行なう団体もある筈ですが、 やはり実際の医学知識・経験に裏づけされているものが、さしあたりベターな選択だと思われます)。

都市において、このような「信者の餌付け(都市文明&文化の刷り込み)」の風習が極まった果てにあるのが、 例えばシナ亜大陸の都市文明であり、 大陸の諸都市を中心に普及している「食人文化」では無いか――という、不気味な仮説が成り立ちます。 劇場都市の極北の姿――そこでは無表情なままに人の労働を食い物にするのみならず、 人の肉をも食い物にして生きてゆく、不気味な「芸能人的種族」の群れがあります。

参考資料:[シナにつける薬]ブログより ――[シナの食人文化]シリーズ

劇場都市―― 知性と暴力―― 芸能人的種族―― 広義のスピリチュアル業界―― 麻薬・覚醒剤の市場。

あまりにも都市的なものの繁栄――「知性の勝利と霊性の敗北」という現象を、 ここに見たいと思います。

大室幹雄・著『劇場都市』で、「われわれの都市が常住荒野であるのは、 そこでの人々の死が下水の中の鼠の死と何ら変わるところがないからに相違ない」――とあるように、 普通の人々にとっての都市社会――ないしは、大都市文明――というのは、 麻薬・覚醒剤をヒーリング剤や滋養強壮剤としなければならない程に、 苛酷な環境なのかも知れません。

「内なる智恵」――《霊性》――とは、 生と死を超えた永遠の命の叡智に近いものである――もしくは、 《大宇宙の叡智》そのものである――というのが、当サイトの結論です。 それはやはり、「永遠の園」的なもので象徴されるような「何か」であり、 「都市的なもの」からは、最も遠いところにあるのです。

それは、いうなれば――当サイトの言葉で言えば――命の泉の、最も深淵の底にあるアルケオロジー、 「泉の底のエリキシル」であります。日本人が縄文時代の昔より伝承し、 守り続けてきた、《和》という名の物語から到来するものである――と推察するものです。

「外なる智恵」という名の物語の――いわば《プレシオスの鎖》の――呪縛は、余りにも強大です。 この《現実》と適切なバランスを守りつつ、 「内なる智恵」が暗示し続けている《永遠の園》を追い求めるのは、難しい事です。

しかし、それは、決して不可能な行為では無い、と信ずるものであります――

参考資料

――〔大室幹雄・著『劇場都市』――《文法からの逸脱》の章より〕

生と死とは相補的な関係にある。 というよりむしろ生は死に補われることによってのみ、 その独自の世界を作り出すといったほうが真実に近いであろう。 生か死か、どちらか一方しかない人間の居住地は荒野である。
われわれの社会の古い村がいまでも一種の親近の気分を与えるとすれば、 それはそういう村が家々の近くに先祖の墓地を包み込んでいるからである。 それにひきかえ、われわれの都市が常住荒野であるのは、 そこでの人々の死が下水の中の鼠の死と何ら変わるところがないからに相違ない。
とはいえ、生を愛しつつ、あまりに死に近づくのはあきらかに逸脱であって、 長安の天子たちのネクロポリス建設には少なからずこの逸脱の気味が認められる。
即位の翌年に自分の陵墓の建設を始めるのが逸脱の一、 火葬や風葬によらず土葬によったのに加えて、 たとえば金縷玉衣に包まれなどして個体を保持しようとしたのがその二、 地上の住宅の構造をほぼそのままの形で地下に移したのがその三である。 ・・・(中略)・・・
注目すべきは陵墓が単に一基の墓としてではなく都市として建設されることである。・・・
こうした経過に顕著に認められるのは新規な郊外都市の建設であって、 この種の工事につきものの利権にからむ汚職ももちろん欠けてはいなかった。・・・

《都市呪術の裏話》

…本来、〈老人〉とは年齢ではなく、 現実の時空渦の加速に、〈想像力〉が追いつかない人を云う。 別の言葉で言えば、目の前の〈物語〉にしがみついている故に、 思考言語のタイムラインが、過去の或る1点で硬直してしまった人を云う。

――「思索は即ち行動である」――〈彼ら=老人〉が物語れるのは、既知の〈物語〉の繰り言だけだ。 つまり行動の壁(=思考の範囲&限界)を超える事ができないのだ。

…戦争で1番最初に犠牲になる者は〈真実〉である。 人と人のつながりは、それだけで武器になり、呪術戦に臨むカルト系呪術師は、 それを何よりも恐れる。しかし、カルト系呪術師はそれを使って支配する事を、 何よりも望むものなのだ。

――以上、オカルトな人からの伝聞。


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