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星巴の時空・番外 ―― 中世ルネサンス関連の添付資料

「諸国暁闇の章」の添付資料の部分が大きくなってしまったため、別途ページを作り、記録しました――2011.8.27記

――以上

マニ教の研究

マニは、ササン朝のシャープール1世の弟ペーローズを改宗させたのち、 ペーローズの推薦によってクテシフォンの王宮に招かれ、 2度目の招きのおりに自らの思想を書物にまとめたと伝えられている。

それが中期ペルシャ(パフラヴィー)語で書かれた 『シャーブフラガーン(Šābuhragān)』と呼ばれる物で、 これがマニによる自著で最古の物と言われている。 創造と終末に関する部分の断片のみが残されているそうである。

他、10世紀後期アッバース朝首都バグダードの書籍商イブン・アンナディームが挙げるマニの著作:

  1. 『生ける福音書(Ewangelyōn Zīndag)』(書名:中期ペルシャ語;中世ペルシャ語版とソグド語版の一部が現存)
  2. 『生者の宝(Niyān ī Zīndagān)』(書名:中期ペルシャ語;今日全く現存しない)
  3. 『プラグマテイア(Pragmateia)』(「小冊子」の意味。中期ペルシャ語の書名は伝わっていない)
  4. 『秘蹟の書(Rāzān)』(これも全く伝存しない)
  5. 『巨人たちの書(Kawān)』(中期ペルシャ語版とソグド語版の断片が残っている)
  6. 『書簡集(Dibān)』(マニの書簡集で、中期ペルシャ語版とソグド語版の断片が残っている)
  7. 『賛美歌と祈祷集』(断片が残っている)

他にもマニ自身が挿絵で世界のあらましを描いた書物『アルダハング(Ardhang)』があったが、 散逸してしまったという(ただし、パルティア語による注釈の断片はある)。 教祖マニの死後、弟子達によって編纂されたマニの説教集、 『ケファライア(Kephalaia)』がコプト語版で見つかっている。

イスラーム世界では絵画を禁止していたため、マニを絵師として呼ぶのは蔑称の意味があったと言う。 偉大なる絵師というのも、ムスリムから見れば、大邪教者であったらしい。

Manichaean Scpipts ――マニ文字、マニ教文字と言われている。

マニ自身が作り出したとされ、文字自体はパルミュラ文字の草書体によく似た特徴を持っている。 当時パルミュラ文字は他のアラム文字系のうちメソポタミア-シリア間で最も流布した文字の一つであった。 マニ教文字は、パルティア文字やパフラヴィー文字にくらべて格段に正確な子音字表記をされたものであり、 現在、パルティア語・中期ペルシャ語の研究で、極めて重要な位置を占めていると言う。

書籍商イブン・アンナディームの『フィフリスト』によると、 マニの父パティーク(パーテグ)はハシカーニーヤ家の出身で、 パルティアの王族アルシャク家の出だったと伝えられている。 また母の名はマイス、またはウターキームともマルヤムともいわれ、 同じくアルシャク王家につらなるカムサラガーン家の出身だったと言う。 すなわちマニは当時ササン朝でも有数の名族の出身であった。

マニはシャープールの跡を継いだワフラーム1世(あるいは2世)によって投獄され 26日後の277年2月14日に獄死したと言われており、これが後のベーマ祭の起源になった。 トルファン出土のパルティア語の文書に依れば、牢内でも弟子とかなり自由に面会していたという事である。 なお、このマニの獄死を計ったのが、ゾロアスター教の大祭祀長キルデールであった (マニとの宗教論争に負けた事による嫉妬?)。

後世のマニ教徒の人々は、種々の文献を残した事で知られている。 中央アジアからイランに広がっていたゾロアスター教徒やマニ教徒が、 今日に至るまで宗教文献や俗文献を記録し続けたと言う(俗文献はごく少数に留まっているらしい)。

教祖マニ自身がバビロニアへ上京する以前の布教に成功した事、 特に直弟子のマール・アンモーによる布教が成功した事で、 マニ教はソグド人の間で広まった。 トランス・オクシアナ及びシルクロードをまたいだソグド人たちのエリアで、 ソグド語やパルティア語、中世ペルシャ語によるマニ教文献が編纂されている。 イスラム時代以降の中世ペルシャ語による種々の文献が、相当数残っているという事である。

この後、イスラム勢力によるササン朝が征服があり、ソグド地方もまた8世紀に征服されたのであるが、 人々の信仰は保証されていたので、マニ教もその文献も、引き続き中央アジアで存続したと言う。 ちなみにアッバース朝初期までは、バビロニアにはマニ教徒のコミュニティーが多数存在した。

また、同じ8世紀にウイグル王国がマニ教を国教化した。東方・大唐帝国の仏教などの勢力、 および西方・イスラーム勢力との兼ね合いの中で行なわれた決断であったが、この結果、 マニ教は東アジアにおける確固たる地位を占めたのである。 それ以降、ソグド語などの中期イラン語のみならず、 ウイグル語や漢語でも、マニ教文献が編まれたという事である。

参考資料: マニ教に関するノート(1)マニ教に関するノート(2)マニ教に関するノート(3)

ゲルマン政治体制の崩壊――西欧型封建制度の誕生

中世史を彩るのは、地形の制約の緩さと民族大移動に由来するが故の、 国境を越えた封建関係、即ち国際封建関係であると言う議論がある。

――中世史年表を細かく見ていくと、 グレゴリウス改革(1049-1054:教皇レオ9世)を境に、大きな政治的転換が次々に起こった事が分かる。 現代ヨーロッパの核とも言うべき中世の原点が、ここにあるのでは無いか。 ちょうど西暦のミレニアムを横断した時期であり、1054年には東西教会の分裂を起こしている。

「叙任権の世俗権力からの奪還」と「聖職者の綱紀粛正」がメインとなったグレゴリウス改革(1049年)が、 西欧の政治形態に与えた影響は大きいと言われている(※ちなみに、「カノッサの屈辱(1077年)」事件は、 このローマ教皇グレゴリウス7世と神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世の間で起きた叙任権闘争に関する対立の一局面である)。

ゲルマン的な従士制度が崩壊し、西欧型の政治原理――封建制度が成立してゆく時代であった。 それと共に、騎士団の性格も変わってゆくのである。

ちなみに騎士団の性格が徹底的に変わったのは、十字軍の頃(11世紀-13世紀)という議論がある。

十字軍の創設は、良く知られているように、「エルサレムの奪還と巡礼者の保護」が表向きの目的であった。

しかし、実際の十字軍も騎士団も、その実態は山賊そのものであり、 領土侵略と略奪に明け暮れたものだったようである。 当時のローマ=カトリック教会もまた、騎士団と同様に、 宗教的特権つまり合法的な脱税によって、巨大な資産を築いていた。

その中で登場してくるのが、いわゆる陰謀論で用いられる「フリーメーソン」の元祖である、 武装派修道会・テンプル騎士団である。彼らは各地の十字軍が略奪した財宝を管理するため、 今で言う金融資産管理人ないし銀行家のような役割を果たしたと言う (過去、テンプル騎士団の黒幕がシオン修道会だったと言われているが、今はそれは間違いである事が定説となっている。 オカルト陰謀方面で有名なシオン修道会は、近代フランスのオカルト結社ブームの産物である)。

テンプル騎士団は、フランス貴族が創設した騎士団でありながらヨーロッパ全域に及ぶ国家的特権と経済的勢力を誇ったため、 フランス王フィリップ4世に「抵抗勢力」として目を付けられ、潰される事になった。 いわゆる「13日の金曜日(1307年)」事件である。なお、当時のフランス王は小さな領土しか持っておらず、 地方領主の方が有力であった。王家(※当時はカペー家)は領土拡張に躍起になっており、 戦費調達のため教皇・騎士団勢力に課税しようとし、派手に対立していたという事情がある。

実際には、ゲルマン的従士制度の不安定化は、その前の時代(メロヴィング王朝-カロリング王朝の頃)から始まっていた。 国王と臣下の間におけるゲルマン的従士制度の契約の効力を決定的に不安定にし、封建制度の発達を促したのが、 グレゴリウス改革であると言われている。

グレゴリウス改革は、宗教的権威において国王を破門することによって、 臣下による下克上が可能になるという危うさをはらんでいた。 これを防ぎ、国王の権力を保証するために、国王の神秘的権威の国家神話が 盛んに作られ、流布されたのだと言う(国王が手を触れると難病が治った――等のシナリオ)。

特にイギリス-フランスの間では、度重なる紛糾の中で、国際的な封建関係の整備が進んだ。 中央集権化がこのエリアで早くから進んだのは、こうした理由があったためである。 封建制度の中で進行した国王の地位の上昇は、時代を下って、 中央集権を実現する絶対君主の登場を可能とする因子ともなるのである。

13世紀-14世紀以降、イギリスやフランスは一国規模で中央集権化に成功してゆくのであるが、 ドイツに代表される封建関係は、神聖ローマ帝国とローマ教会との間で権力構造があまりにも錯綜したため、 ついに中央集権化に失敗したとされている。

スコラ哲学――神学と哲学を分かつもの――二重真理説

二重真理説は、後期スコラ学に現れた真理観である。

真理は多数あっても究極的には一つの真理によって成立するというのがギリシャ哲学の真理観であったが、これに対し、 キリスト教とイスラム教は、「啓示(信仰)の真理」と「理性の真理」を区別する傾向があった。

即ち真理とは、一方では「事物が神(観念)の知性に合致」、他方では「人間の知性が事物に合致」という風であって、 その限りでは「啓示的真理」と「理性的真理」は別々のものである――として矛盾しなかったのであるが、 やがて人間理性の自然性と自存性が自覚されるに及んで次第に矛盾が意識されるようになり、 これが神学から哲学が分かれていく要因となった。

二重真理説は、この過渡期の産物である。

アラビアの哲学者イブン・ルシュドがこの説を提唱しており、 後期スコラ学ではドゥンス・スコトゥス、オッカム等がこの説を採用していた。 その際、理性の能動性と受動性、「必然的な命題」と「偶然的な命題」について議論が深まったことは、 西洋哲学上、重要な成果であったと言われている。

ポスト-ルネサンスを彩る技術――印刷術の実用化

ヨーロッパでは、14世紀に木版による図版の印刷が始まる。 文字イラスト入りの木版本は、1430年ごろから作られており、ほぼ全てが、聖書から採られた内容である。 その数年後、活版印刷に関する実験が始められた。

写本販売が発達し、また木版本が流通するようになったという事は、図書に対する重要が増大した事の現れである。 また、インクをつけて印字するための材料として、紙が安価供給されるようになった。冶金術も進歩し、 活字母型や鋳造に適合する合金を提供できるようになる。

一方、画家たちによる実験研究によって、油性インクが発明される。ねじプレスはよく知られており、転写技術もあった。 1440年から1550年の間にこうした要素が一連の工程としてまとめられ、印刷術が実用化したのである。 この発明の起源については未だ論争の決着がついていないが、おおむねマインツのヨハン・グーテンベルクと その補佐、ヨハン・フスト及びペーター・シェーファーによって活版印刷が発明されたといってよい。

印刷術の拡大は急速であり、1459年にはバンベルクとシュトラスブルクに伝達し、1460年代には ケルン、マリエンタール、南方へはバーゼル、アウグスブルク、イタリアに伝わる。 マインツの技術者によって、活版印刷術が次々ローマに持ち込まれ、その後、ヴェネツィアが ヨーロッパ印刷術の中心地となった。

1470年代には、フランス、スペイン、オーストリア、イングランドへ伝わっている。 こうした活版印刷の最初の需要は大学都市ではなく、交易都市や教会法廷の方にあった。 学問書籍の印刷需要は一回り遅れていた。

初期の活字は主にドイツ由来のゴシック体であったが、次第にローマン体が主流となった。 この活字をデザインしたのは、ヴェネツィアの熟練印刷職人であったフランス人、ニコラ・ジャンソンである。

出典:『歴史の中の科学コミュニケーション』(勁草書房2002)B.C.ヴィッカリー著、村主朋英・訳

》地方語による印刷

マインツ大司教は、1486年に、以下のような命令を出している。

印刷という神の術によって、知識の獲得のための利器が与えられたにも関わらず、 ある者はこれを利用し、そして人類が人類を侮辱したいがために発明がなされたのだと すり替えてしまっている。

というのも、宗教に関する書物がラテン語からドイツ語へと翻訳され、 人々の間で出回っているからである。 偉大な著者たちがギリシア語やラテン語で書き表してきたことを、我々ドイツ人の 言葉で表明することができると言えようか。間違いなく、それはできない。

この術は最初、このマインツの街で、まさに神の助けを借りて発見されたのであり、 我々は敬意を表しながらこれを管理すべきである。 そこで、我々は、ギリシア語、ラテン語、その他あらゆる言語で書かれた、 いかなる主題に関する図書も、許可無くドイツ語へと翻訳したり 翻訳したものを配布したりすることを厳しく禁ずる。

そうした翻訳は、印刷する前、そして販売する前に再び、ここに名前を挙げた 4人の博士によって許可を得なければならない。 守らなかったものには、破門、図書の没収、および100金フローリンの罰金を罰として課す。

このような形での地方語の使用を差し止めようとする動きは、間もなく払拭される。

ドイツでは、メーゲンブルクのコンラートによる『自然に関する書』がアウグスブルクで1475年に印刷され、 マルコ・ポーロ旅行記のドイツ語訳が1477年にニュルンベルクで刊行されている。 大司教がこの布告を出す前年には、シェーファーがドイツ語の本草書をマインツで印刷している。 そして、15世紀末までの印刷物、つまりインキュナブラのほぼ4分の1が地方語のものであった。

出典:『歴史の中の科学コミュニケーション』(勁草書房2002)B.C.ヴィッカリー著、村主朋英・訳

学術の進展(1) 12世紀ルネサンスの遺産=ギリシャ学術書のラテン語訳

◆ギリシャ学術書のラテン語訳――出典:『十二世紀ルネサンス―西欧世界へのアラビア文明の影響―』◆
著者著作原著の言語翻訳者翻訳時期場所
ヒポクラテス『箴言』その他アラビア語クレモナのゲラルド12c後半トレド
ヒポクラテス『箴言』その他ギリシャ語ピサのブルグンディオ12c後半北イタリア
プラトン『メノン』ギリシャ語アリスティップス1156シチリア
プラトン『パイドン』ギリシャ語アリスティップス1156シチリア
アリストテレス『分析論前書』ギリシャ語ヴェネツィアのジャコモ1128頃北イタリア
アリストテレス『分析論後書』ギリシャ語ヴェネツィアのジャコモ1128頃北イタリア
アリストテレス『分析論後書』アラビア語不詳12c後半トレド
アリストテレス『分析論後書』アラビア語クレモナのゲラルド1159トレド
アリストテレス『トピカ』ギリシャ語ヴェネツィアのジャコモ1128頃北イタリア
アリストテレス『詭弁論駁』ギリシャ語ヴェネツィアのジャコモ1128頃北イタリア
アリストテレス『自然学』ギリシャ語不詳12c北イタリア
アリストテレス『霊魂論』ギリシャ語不詳12c北イタリア
アリストテレス『生成消滅論』ギリシャ語不詳12c北イタリア
アリストテレス『生成消滅論』アラビア語クレモナのゲラルド12cトレド
アリストテレス『天体論』アラビア語クレモナのゲラルド12cトレド
アリストテレス『気象学』(第4巻)ギリシャ語アリスティップス1156頃シチリア
アリストテレス『気象学』(第1-3巻)アラビア語クレモナのゲラルド12c後半トレド
アリストテレス『形而上学』(第1-4巻)ギリシャ語不詳12c末北イタリア
偽アリストテレス『原因論』ギリシャ語セビリアのフアン12c前半トレド
偽アリストテレス『原因論』ギリシャ語クレモナのゲラルド12c後半トレド
ユークリッド『原論』アラビア語
(アル=ハジャージ版より)
バースのアデラード12c初頭
ユークリッド『原論』アラビア語カリンティアのヘルマン12c前半スペイン
ユークリッド『原論』アラビア語
(フナイン版より)
クレモナのゲラルド12c後半トレド
ユークリッド『原論』ギリシャ語サレルノのエルマンノ1160頃シチリア
ユークリッド『与件』ギリシャ語サレルノのエルマンノ1160頃シチリア
ユークリッド『与件』アラビア語クレモナのゲラルド12c後半トレド
ユークリッド『光学』ギリシャ語サレルノのエルマンノ1160頃シチリア
ユークリッド『反射光学』ギリシャ語サレルノのエルマンノ1160頃シチリア
偽ユークリッド『重さと軽さについて』アラビア語不詳12c
アポロニオス『円錐曲線論』アラビア語クレモナのゲラルド12c後半トレド
アルキメデス『円の測定』アラビア語ティヴォリのプラトーネ12c前半トレド
アルキメデス『円の測定』アラビア語クレモナのゲラルド12c後半トレド
ヘロン『気体学』ギリシャ語不詳12c中葉シチリア
プトレマイオス『アルマゲスト』ギリシャ語サレルノのエルマンノ1160頃シチリア
プトレマイオス『アルマゲスト』アラビア語クレモナのゲラルド1175トレド
プトレマイオス『アルマゲスト』アラビア語不詳12c末
プトレマイオス『ケントロキウム』アラビア語サンタッラのユグ1136トレド
プトレマイオス『ケントロキウム』アラビア語セビリアのフアン12c前半トレド
プトレマイオス『テトラビブロス』アラビア語ティヴォリのプラトーネ1138トレド
プトレマイオス『球面平画法』アラビア語カリンティアのヘルマン1143トゥルーズ
プトレマイオス『光学』アラビア語パレルモのエウゲニウス1150シチリア
ガレノス『テグニ』その他アラビア語クレモナのゲラルド12c後半トレド
ガレノス『テグニ』その他ギリシャ語ピサのブルグンディオ1185頃北イタリア
プロクロス『自然学原論』ギリシャ語サレルノのエルマンノ1160頃シチリア

学術の進展(2) 12世紀ルネサンスの遺産=アラビア学術書のラテン語訳

◆アラビア学術書のラテン語訳――出典:『十二世紀ルネサンス―西欧世界へのアラビア文明の影響―』◆
著者著作翻訳者翻訳時期場所
アル=フワーリズミー『コーラン』カリンティアのヘルマン1143頃
アル=フワーリズミー『コーラン』チェスターのロバート1143頃
アル=フワーリズミー『アルゴリズム』バースのアデラード12c前半
アル=フワーリズミー『天文表』バースのアデラード12c前半
アル=フワーリズミー『天文表』カリンティアのヘルマン1140頃
アル=フワーリズミー『代数学』チェスターのロバート1145セゴビア
アル=フワーリズミー『代数学』クレモナのゲラルド12c後半トレド
アル=キンディー『知性論』セビリアのフアン12c前半トレド
アル=キンディー『五本質論』クレモナのゲラルド12c後半トレド
アル=キンディー『光学』クレモナのゲラルド12c後半トレド
アル=キンディー『夢と幻覚』クレモナのゲラルド12c後半トレド
アル=キンディー『医薬合成階梯』クレモナのゲラルド12c後半トレド
アル=ファルガーニー『天の運動について』セビリアのフアン12c前後トレド
アル=ファルガーニー『天の運動について』クレモナのゲラルド12c後半トレド
サービット・イブン・クッラ『カラストゥーンの書』クレモナのゲラルド12c後半トレド
サービット・イブン・クッラ『太陽年について』クレモナのゲラルド12c後半トレド
アッ=ラーズィー『アル=マンスールの書』クレモナのゲラルド12c後半トレド
アッ=ラーズィー『小医学入門』クレモナのゲラルド12c後半トレド
アル=バッターニー『星の数と運動について』ティヴォリのプラトーネ12c前半トレド
アル=バッターニー『星の数と運動について』チェスターのロバート
アル=ファラービー『諸学綜覧』グンディサルボ12c前半トレド
アル=ファラービー『諸学綜覧』クレモナのゲラルド12c後半トレド
アル=ファラービー『三段論法』クレモナのゲラルド12c後半トレド
ハリー・アッバース『王の書』アンティオキアのステファンス1127頃
アルハーゼン『薄明について』クレモナのゲラルド12c後半トレド
アルハーゼン『光学』不詳12c末
アヴィセンナ『治癒の書』(哲学的自然学的部分)グンディサルボ,セビリアのフアン12c前半トレド
アヴィセンナ『治癒の書』(化学的地質学的部分)サレシェルのアルフレッド12c末スペイン
アヴィセンナ『医学典範』クレモナのゲラルド12c後半トレド
アィヴケブロン『生命の泉』グンディサルボ,セビリアのフアン1150トレド
アル=ガッザーリー『哲学者たちの意図』グンディサルボ,セビリアのフアン12c前半トレド

§総目次§
物語ノ岸辺物語ノ本流物語ノ時空物語ノ拾遺