深森の帝國§総目次 §物語ノ時空 〉星巴の時空4=諸国暁闇ノ章

星巴の時空4. ―― 諸国暁闇ノ章

次のような構成で、ヨーロッパ・アラブの中世を物語るものです。

――以上

スラブ諸国の黎明――東ヨーロッパ世界の成立

ゲルマン諸族が移動した後のエルベ川以東の地やバルカン半島には、スラブ民族が広がりました。

スラブ人社会の成立は古く、ゲルマン人の社会成立とほぼ同時期に進行したと言われていますが、 遊牧騎馬民族の侵入が繰り返され、情勢が長く安定しなかった事もあり、 その歴史ははっきりしていないそうです。

現代のポーランド及びロシア地域に相当するヨーロッパ部分一帯は、森林に覆われた広大な平原であり、 境界を定める事の難しい地勢となっていました。この大平原の領有を巡って、古来、 様々な民族が入り乱れてきました。この地域の民族勢力図が、現代に近い状態で安定したのは、 13世紀になってからの事です。

紀元前からのスラブ人の移動先は東方、すなわちロシア地域がメインだったと言われています。 そして、紀元後5世紀から6世紀にかけてスラブ人は方向を変え、西方と南方に大移動を始めました。 ゲルマン勢力が西欧に定着し、東欧からすっぽり抜け落ちたというのが大きい理由の一つですが、 もう一つの理由は、東方(ロシア方面)に強大な騎馬民族勢力が出現し、 東方への移動が阻まれたという歴史的事実にあります。

まずフン族=匈奴勢力が東方に立ちふさがり、フン族が内紛で解体すると、 その場所に東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が再び勢力を伸ばしてきました。 一方、はるか東方では気候変動と群雄割拠とが進み、突厥・ハザールなど、遊牧騎馬系の巨大勢力が登場してきました。 その突厥に追われて西進してきたのがアヴァール人であり、 スラブ人はアヴァール人の侵入にも悩まされる事になったのです(後にはヴァイキングにも追われる事になる)。

続く7世紀、ハザール族とブルガール族(=フン族の残党勢力)とに圧迫され、スラブ人はバルカン半島を南下し、 エーゲ海方面へ押し出されてきます。 殆ど毎年のようにスラブ人の集団がドナウ川を渡り、 都市テッサロニケ(マケドニア王国の中心都市)に続々と入り込んでいた事が 知られています。

やがて彼らは、アドリア海沿岸に沿って北上し、 モラヴィア、クロアチア、スロヴェニア、セルビアへも移動しました。 10世紀には、バルカン半島で最も人数の多い民族になっていたという事です。 彼らは遂にバルカン半島全体に広がり、ここに、「バルカン半島におけるスラブ問題」が根を下ろしたのです。

突厥帝国とアヴァール汗国が勢力を誇ってスラブ人を西方・南方へと追い出していたのが6世紀末です。 7世紀後半にスラブ人による第1次ブルガリア帝国(681-1018)が出来ましたが、 この頃にはスラブ人とブルガール族は既に同化していたと考えられています。 ブルガリア帝国は東欧の雄として、長い間ビザンツ帝国を悩ませました。

ブルガリア帝国で有名なのは、ビザンツの正教会によるキリスト教布教と、キリル文字の普及です。 後世のスラブ文化に、決定的な影響を与えたと言われています。

一方、8世紀頃のキエフでは、スラブ人が部族社会を構成して住んでいたと言われていますが、 実態はよく分かっていません。 8世紀キエフのスラブ人社会を蹂躙したのがヴァイキング(=ノルマン人)でした。 ノルマン人は多くのスラブ人を捕獲し、奴隷交易の商品として南方(アラブ方面)に売り払ってゆきます。

いずれにせよ、彼らノルマン人がロシアの地に持ち込んだのは、先進的な航海術、飽くなき戦闘力、交易術など、 様々な分野に及ぶものでありました。ロシアに巨大なヴァイキング交易権が構築されたという事象を無視する事は出来ません。

当時のロシアは、ビザンツ帝国からの呼称で「ルス」ないし「ロース」と呼ばれた最果ての辺境でした。

ロシア建国神話は、このヴァイキングのうち、ヴァリャーグと呼ばれた一族の王、リューリクから始まります。 ヴァリャーグは極めて強大な一族で、何度も黒海方面に遠征し、 846年にバグダード襲撃、860年にコンスタンティノープル襲撃など、大きな事件を起こしてきました。 最終的にはハザール汗国と関係を持ちながら、キエフに定着したと考えられています。

リューリクの代、ノヴゴロドに、複数のヴァイキング部族による連合国家「ルス」が建国されました (後に、スラブ民族に同化したとされています)。 リューリクの時代から50年ほど後には、コンスタンティノープルを襲撃し、 有利な条件で通商条約を結んだ事が知られています。 日本学術文献では「キエフ大公国」としていますが、当時の正式呼称は「ルーシ(亦はルス)」で、 ビザンツ帝国は「ルーシ」という呼称を使っていたという事です。

歴史的に見ると、10世紀のルーシ(キエフ大公国)は富強の大国でした。 ビザンツ帝国との通商で豊かになったのに加え、ビザンツ文化が大量に流入したからです。

10世紀当時のヨーロッパは、東西教会分裂の兆候が明らかになっていました(1054年東西教会分裂/ギリシャ正教会成立)。 キエフ大公国は基本的にはヴァイキングの神々を信奉する多神教の国で、 この豊かな大国が、東方の正教会と西方のカトリックと、どちらに改宗するかが注目されていました。

ちなみに、ドイツ(当時は神聖ローマ帝国)のカトリック教会は盛んに東方布教を行なっており、 バルト海沿岸やボヘミアまで勢力を拡大していました。 スラブ系の王国ポーランドは、 この頃、既にカトリックを国教とする国になっていたという事です (966年:西欧キリスト教界により「ポーランド公国」承認)。


》キエフ公国とハザール汗国を取り巻く国際情勢

ロシア北部のキエフ大公国と同じく多神教であったロシア南部カフカスのハザール汗国は、ユダヤ教に改宗しています。 真偽は不明ですが、その後ハザールは、キエフ大公国にユダヤ教への改宗を勧めた、という話があります。

しかし結局、キエフ大公国はビザンツ帝国のキリスト教を選択しました。 アラブ勢力からの圧迫とビザンツ帝国からの圧迫があり、 更にビザンツ帝国と結んだキエフ大公国の登場によって、 ハザールは滅亡まで追い詰められていったと申せましょうか。

ハザール汗国を取り巻いているところの真の事情は分かりませんが、 いずれにせよ激しい怨念と共に滅んでいった事は間違い無く、 その後の欧州史やロシア史に、共に暗い影を生じているものであるように思います。


ゲルマン諸王国の群雄割拠――中世ヨーロッパの技術革命

ヨーロッパは500年前後を中心として、ゲルマンの諸王国に分割されました。

北西地域では――つまり現在のフランスやドイツでは――フランク族とブルグンド族が建国。

その南東に当るイタリアでは、ロンバルド族と東ゴート族、南西方面(スペイン)では西ゴート族が建国。 アングル族及びサクソン族は、ケルトの地ブリテン島を侵略し始めていました。

ついでに言えば、ヴァンダル族はスペイン、ついで北アフリカに渡来し、 各々王国を打ち立てた事が知られています。 しかしその寿命は短く、「国」未満の軍事統治体でしかなかったであろうと言われています。

一方、東ローマ帝国は、オリエント風の君主政治体制を整備しつつありました。 4世紀頃からビザンツ中心となったこの帝国は、皇帝を神とする宮廷政治を展開し、 人民は古代版の行政官に奉仕するのでは無く、皇帝に直接奉仕するのだ――という中世的な思考を普及させていました。 そして法律によって定められる階級制度を発生し、皇族、貴族、名士、長老、 騎士といった中世的な階級社会を構築したのであります (6世紀頃『ローマ法大全』完成)。

そうした時代的変化に伴い、網の目のように構築された官僚機構が、 強力な政治介入パワーを以って階級社会を侵食するようになりました(官僚の特権など)。 人民は租税を免除してもらうために、 或る程度の自治権を認められていた大土地支配者の下に保護を求めるようになります。 これが荘園領主――封建領主の発生を促しました。 こうして都市と地方の政治パワーが逆転しました。 この後、帝国は軍管区に代表される軍事的統制を強めましたが、 何度も経済的分裂の危機に見舞われることになります。

総じて4世紀から5世紀は、欧州における巨大な東西変容の世紀でありました。 第1にキリスト教が東西で異なる発展をした事、第2に蛮族侵攻の衝撃が東西で異なる様相を来たした事が挙げられます。 これらの東西のねじれは、現代に至ってもなお、宗教・民族の東西問題として、ヨーロッパを揺さぶっています。 特に修道院制度の発達があった事は、後世の欧州社会に大きな影響をもたらしました(テンプル騎士団の発生など)。

更に辺境へのキリスト教の拡大もありました――グレゴリウス開明者によるアルメニア布教、 フルメンチウスによるアビシニア布教、ウルフィラによるゴート社会への布教、 ネストリオス派によるペルシャへの流入などです。

さて、西ヨーロッパにおいて、 ローマ帝政と並行する時代のゲルマン諸族は、狩猟生活から脱したばかりであり、 原始的な農法しか持ち合わせていなかったと言われています。 ローマ帝国の滅亡後も、彼らは都市に住みたがらず、多くのローマ都市が荒廃したのであります。

しかしながら、ゲルマン諸族が知性と活力に欠けていたわけではありません。 彼らの置かれていた状況からして、彼らの関心は、都市設備の維持よりも、 まず基本的な物質生活面での要求にあった筈です。

中世初期のヨーロッパは、深い森に覆われており、狼や熊が出没するような環境の下にありました。 そうした中で、細々と森を切り開いて建てられた教会が点在しており…、 という光景であったろうと想像されます。 かろうじてローマ時代の知的遺産が保存されたのは、北西の最果て、アイルランドでありました。 そのため、アイルランドは「学者の島」とも呼ばれたのであります。

――彼らゲルマン諸族が諸王国を打ち立てるにあたり、ヨーロッパに持ち込んだものは、毛皮、 ズボン、フェルト、スキー、樽や桶の製造、クロワゾネ七宝、 オート麦やライ麦、ホップ、鷹狩などが知られています。

(…驚くべき事に、従来のローマ・ファッションには、「ズボン」というものは無かったのです!…^^;)

ゲルマン諸王国の時代――中世前期――のヨーロッパの生産基本は、農業でした。 ゆえに、中世ヨーロッパにおける革命的な変化は、 早くから注意と努力が払われていた農業分野からスタートしたのであります。

9世紀ないし10世紀、 それまで主流であったローマ時代由来の二圃式農業(冬雨型の気候のもとで小麦の冬作と休閑を繰り返す農法)が、 次第に三圃式農業(北ヨーロッパの気候風土・夏雨型に適する農法)へ切り替わりました。 簡単に言えば冬穀・夏穀・休耕地(放牧地)のローテーションを組んだものであります。

以上のような農業スタイルの切り替えと並行して、 古典的な「くびき」から近代的な「はみ」への移行が起こり、 農業用役蓄の牽引エネルギー効率が急に高まりました。

牽引エネルギーの効率化は連繋用馬具の発明にも繋がり、 四頭立て馬車・六頭立て馬車と言った大規模な輸送形式をも可能としました。 また、蹄鉄の発明は馬の足を保護することにより、荒れた地面における輸送コストを下げ、 ヨーロッパ交易路のいっそうの拡大に寄与したのであります。

中世前期における各種の技術向上は、このような無名の職人たちの発明によっているのであります。

工業用動力としては、水車が登場しました。ローマ時代は奴隷が安価に使えたため、 動力としての水車の活用は乏しいレベルに終わっていたのでありましたが、 ゲルマン諸国においては穀類を挽いたり、大工の鋸や鍛冶のふいごを動かすのに積極的に用いられ、 車輪動力の技術が伸びてゆきます。

12世紀になると、ノルマンディ地方において、風車の使用が始まりました。 このようにして産業における機械化は急速に進みます。 こうした変化は、後の建築技術の進展にも、大きく関わりました。

建築では、高度な石造建築の技術が急速に普及しました。

とりわけ石造建築は、 後のカール大帝によるゲルマン統一王朝を生み出した世紀――ゲルマン諸王国による群雄割拠時代――を経て、 ロマネスク様式やゴシック様式につながる技術を深めてゆきました。 これらの建築と資材の流通を担ったのが、各地の職人・商人グループであったろう(中世ギルドの前身)と言われています。

当時、教会の傍に建てられた集会所で、教会建築に関わった職人たちが グループ結成のための友愛の儀式を行なった事が知られています。 これが中世のギルドの始原であったと言われています (別の説によれば、ギルドはローマ時代に由来すると言われています。 主に宗教団体・友愛団体としての形で存続し、交易・商業・手工業に手を染めるようになっても、 宗教的結社としての特徴が残されていたという事になっています)。

最も勢力を誇ったギルドこそが、中世のフリーメーソンのように、 大規模建築に関わったギルドであろうと言われています(近代オカルト結社の思弁的フリーメーソンとは別)。 築城、大聖堂、橋梁といった大規模建築は、石材、モルタル、鉛、材木、鉄といった 大量の物資を必要とし、広範囲の流通経路と人脈とを開きました。

なお、フリーメーソンの起源は、大聖堂建築を任された石工が、 その技術秘匿と技術伝承のために立ち上げた同業者組合だという説もあります。 エジプトのピラミッド建築に関わった石工に起源するという噂もありますが――いずれにせよ、 長い間崩れる事無く建ち続ける石造建築を実現するためには、 相当に高度な技術が要るであろう事は、容易に推測されます。

フリーメーソンを含めて、ある種のギルドは最先端技術者を抱えた集団でもあり、未知の問題に対応するために、 錬金術などの様々なハイテク分野と深く関わっていました。 「大学」が登場する前のヨーロッパ中世の科学技術は、このような場で体系化されていったと推測されます。

そして11世紀から12世紀にかけ、 モン・サン・ミシェルやノートル・ダムなどの巨大な教会建築に見られるような、 建築技術のブレークスルーがありました。著しく伸びた車輪動力の技術を利用して、 中世後期には建築用クレーンや荷揚げ用クレーンも設置されるようになったのであります。

ちなみに12世紀ルネサンスによってアラビア学術が流入した時、大翻訳運動が起こり、 イタリアを中心に大学が増加した事が指摘されています。 この頃は卑金属から黄金を作る変成技術や占星術的な関心が大多数であり、 更にその中心には、錬金術による「哲学者の石(エリクシール)」の探求がありました (この神秘主義的傾向は、『聖杯探求物語』などの騎士道文学に影響を与えています)。

更に、ルネサンスの立役者となった封建領主の中に、名君と呼ばれるべき領主がいた事は興味深い事です。 例:神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ2世(在位1215-1250)。 それまでの神学研究がメインだった修道院的な大学とは全く異なる大学をナポリに建立しました(=ナポリ大学)。 この新しい大学では、政治を研究して「有能な官僚集団」を輩出する事と、種々学術を研究して「有能な技術者集団」を輩出する事を 目的としていたと推察されているそうです。官僚とテクノクラートの力を使って支配領域を活性化するという点で、 現在の政治スタイルにも通じる部分があります。

後世、13-14世紀に火薬が伝わってくると、大砲の開発が始まりました(当時の大砲は青銅製ですが、真鍮製という説もあり)。 また大砲の登場によって、築城術も造船術も、大いに変容を遂げる事になります。

中世は、ゲルマン諸族の国王・諸侯とヴァイキング、更にはアラブ勢力による群雄割拠の時代でありましたが、 職人・商人ギルドの登場、交易ネットワークと技術革命の時代であった――とも言えるのです。


》ゲルマン諸族と製鉄の伝統

もともと、ゲルマン系は製鉄に優れていたことが言われています (ケルト系も製鉄民族でありました。インド=ヨーロッパ語族は、一般に製鉄の技術と神話を持つ民です。 ケルト・ゲルマンの血を受け継ぐ諸国で、 金属を扱う技術――鉱山運営や冶金術、錬金術が進んだのも、故なき事では無いと申せましょう)。

例えば、戦場において戦斧の扱いに優れていたフランク族の神話では、 雷神トールが鎚を持って登場します。 『ニーベルンゲンの歌』や『ジークフリート』の伝説が暗示するように、 彼らの社会では、王に次いで尊重されていたのは鍛冶師だったのです。

なお、フランク族が戦斧を捨てて長剣を手に取り始めたのは、西暦700年頃からであろうと推測されています (『ローランの歌』の伝承は、少し割り引いて考える必要があるかも知れません)。


》メロヴィング美術とカロリング美術

◆メロヴィング美術(5世紀末-8世紀中葉)◆

フランク王国メロヴィング朝の美術が、後の西ヨーロッパの美術を方向付けた。 古代末期のローマ美術の伝統とゲルマン美術の抽象的感覚、さらに東方の影響が混在する。 この時期、人物表現様式を併せ持つアイルランド系美術が浸透してきて、 若干の人物像もモチーフになっていたが、立体感を欠き、写実には程遠い姿であった。

工芸では、光や色彩に対する特別な執着と民族特有の抽象文様装飾趣向から、 金や宝石による印象的な配色の豪華な装身具や武具、荘厳な宗教的器物などを残した。 特に東方起源の仕切り象嵌の技術が発展する。工芸の最盛期は7世紀で、パリに多数の工房が作られた。 現存する絵画は写本挿絵が主で、象嵌細工を思わせる図像が多い。コプト美術の影響も見られる。

伝統的にゲルマン人は抽象的な芸術感覚を持ち、装飾は主に幾何学的な文様を用いた。 石造建築の構造はローマの影響を受けているが、 外壁はしばしば石組みや浮彫による文様で装飾された。

◆カロリング美術(8世紀末-9世紀末)/カロリング・ルネサンス◆

カロリング期に地中海地方の写実的な古典古代美術が急速に流入し、 カール大帝戴冠の800年頃よりカロリング・ルネサンスと呼ばれる古典古代文芸の復興運動が起こった。 しかし、ゲルマン伝統の抽象主義と地中海伝統の写実主義とが完全に融合したわけではなく、 地域・流派により様々な表現様式を派生した事に、カロリング美術の特徴がある。

華やかな宮廷文化――というには程遠いレベルではあったが、その影響はアーヘンからバイエルン、 ノイストリア、ウェストファリア、イタリア中部にまで及び、後の西方ヨーロッパの美術の基盤となった。

ちなみに、10世紀初-11世紀初に興隆したオットー朝美術は、 カロリング美術の復活の努力から始まったと言われている。 後に続く絢爛たるロマネスク様式・ゴシック様式は、 オットー朝美術の遺産から多くのものを受け継いで発展したのである。


》ヨーロッパ諸語の発達

インド=ヨーロッパ語族には、ケルト語、ギリシャ語、ラテン語、スラブ諸語、ゲルマン諸語が含まれる。 これに含まれないのは、バスク語、フィンランド語、マジャール語である。

ローマ征服後、各地で属領方言が編み出される。ロマンス諸語方言はもちろん、 フランク族のゲルマン語とローマのラテン語からは、フランス語の祖語が生み出される。 教会世界ではラテン語の使用が長く続いたが、8世紀ごろになると、現地語による布教に置き換わっていく (※813年、トゥール公会議において、「説教する言葉はラテン語・フランク語を問わず、 聴衆が普段話す言葉を使うべきである」という指令が下されている)。

11世紀頃、フランス祖語は北方方言とプロヴァンス方言に分かれる。 イングランドにおける英語の確立は、1100年から1250年の間に起こった。 イタリアではラテン語からの変改はさほどなく、東ローマ帝国領内ではギリシャ語が依然として使われ続けている。 ロシアその他のスラヴ世界では、ラテン語の影響は少なく、古期教会スラブ語が公用語であった。 古典アイルランド語を話すアイルランド修道士に至っては、正統ラテン語を知る者は無かった。

こうした日常語と学問用語(筆記用語)との分離の激しさからして、 西暦1000年に至るまで識字率が極めて低かった事は驚くに当らない (現代英語でも、文語と口語との完全一致は得られていない)。 さらに、封建時代のヨーロッパでは、国際的な貴族階級とローカルの農民階級との言語的距離が極めて大きかった。 これもまた、中世ヨーロッパにおける文化の階級化・識字率の低迷における重要なファクターとなっている。

フランス語は成立が早く、8世紀には既に存在したとされている。 フランス語で書かれた初期の作品が、『ローランの歌』である。 その後、フランス北部方言は学術用語としても普及し、 絶対主義時代のヨーロッパにおいて国際語としての地位を獲得する。 これに対して、プロヴァンス語は中世フランスの吟遊詩人(トゥルバドゥール)の言葉となった (ちなみに、プロヴァンス語による学術専門書も存在する)。

イングランドにおける口語英語の成立は、 『ベーオウルフ』(古英語=アングロ・サクソン語)にさかのぼるとされており、 13世紀までにはかなり近代英語に近いものが出来上がったと言われている。しかし一方で、 筆記用語としての英語は、フランス語に比べると未熟なレベルに留まったままであった。

当時のイングランドは、ノルマン・コンクェストの影響下にありながら、 宮廷の口語としてフランス語が用いられ、文語としてラテン語が用いられるという言語ねじれの状況にあった。 文語英語が現れ始めるのは14世紀半ばで、文学作品としてはチョーサーの『薔薇物語』、『カンタベリー物語』が有名である。


シリア・ヘレニズム――ジュンディー=シャープール学派の成立:5世紀-7世紀

当時のキリスト教神学は、ギリシャ哲学を使っていました。従って、各地にキリスト教を布教する場合、 必然として、ギリシャ哲学も一緒に紹介する事が必要になってきました。

431年のエフェソス公会議で異端宣告を受け、追放されていたネストリオス派は、 東ローマ帝国に迫害されていた事もあり、ギリシャ語を積極的に捨てて、土着のシリア語で布教を行なっていました。 彼らは、シリア語に訳された聖書、神学書、哲学書を用いて布教していました。 (北方ではアルメニア語・グルジア語への翻訳運動がさかんに行なわれていた事が指摘されています)

キリスト教徒は、ギリシア語話者であれシリア語或いはコプト語話者であれ、しばしばバイリンガルでした。 ギリシア語が当時(すなわち古代)のコイネー、つまり教養人の共通語として認められていたからです。 西欧中世でラテン語が、また中世のイスラム世界でアラビア語がそうであったのと同様です。 シリア語は商人の言語でした。
――[ アラブ世界におけるキリスト教徒の文化的役割](Oriens Christianus 雑録)

その結果としてネストリオス派は、シリア語訳されたアリストテレス哲学や新プラトン主義を 西アジアに普及するという事になったのです。 そして哲学と科学は分離しておらず、数珠繋ぎに、シリア語に訳された ギリシャ科学――天文学、医学、数学、錬金術――もまた、シリア語圏に注ぎ込まれる事になります。

シリア化された各種の科学・学術は、ササン朝ペルシャの冬の離宮のあった都市、 ジュンディー=シャープール(スサ近郊)に集中し、洗練されてゆきます。

元々ジュンディー=シャープールとは、ササン朝ペルシャ初期の王シャープール1世が、 260年エデッサの戦いでローマ皇帝ウァレリアヌスの軍と戦い、これを徹底的に撃破し、 皇帝を含めたローマ捕虜を収容したところです。 「シャープールのキャンプ」という意味ですが、このときローマ技術が相当に流入したと言われています。

このような経緯から始まったジュンディー=シャープールの町でしたが、早くからネストリオス派の学者を招聘して、 シリア語訳を通じて、ギリシャ=ヘレニズム文化が盛んに学ばれていたのであります。

特にこのギリシャ=ヘレニズム文化の愛好者でもあったホスロー1世(在位年:531-579)が即位すると、 この町にアレクサンドリアのムーセイオンを模した立派な研究所が作られました。 付属病院や天文台も設置され、医学、天文学、数学などの研究が奨励されました。

(ホスロー1世は、首都クテシフォンにも学問の都を作りました。 ジュンディー=シャープールがローマ風建築だったのに対して、 クテシフォンは純粋なオリエント・イラン建築だったと伝えられています。 ちなみに、クテシフォンの宮廷を彩ったペルシャ人貴族たちは、夏の避暑用に膨大な量の氷を保存していたそうです)

ジュンディー=シャープールでの教育は、エデッサやニシビス同様に、 当時のリンガ・フランカ(共通文化語)であったシリア語で行なわれました。 カリキュラムの必要に伴い、当時最先端の学術のシリア訳が、大量に作られる事になったのです。

525年に東ローマ帝国ユスティヌス1世(在位年:518-527)がアテナイの学校を閉鎖した際にも、 ギリシャ本土の学界から追われた第一線の学者たち――シンプリキオス、ダマスキオス、プリスキアノス――も、 ジュンディー=シャープールに受け入られています。

更にインドの学者も多く招聘されています。 このようにして、ジュンディー=シャープールにおいてシリア・ヘレニズムの頂点が築かれたのであります。 シリア・ヘレニズムとは、ギリシャ、インド、ペルシャ各地から到来した最高の伝統文化の、 統合の試みに他なりませんでした。

アレクサンドリアが衰退した後の時代においては、 シリア・パレスチナ・ペルシャが、世界随一の学芸文化の先進地帯でありました。 シリア・ヘレニズムを通じてジュンディー=シャープールに花開いた一大総合文化こそ、 後のアラビア科学の成立と発展の基礎となったものなのです (※この時期に花開いた中央アジアの総合文化が、飛鳥文化、白鳳文化、天平文化などの基盤となり、 日本にも深い影響を及ぼしたとされています。日本文化の源流は中央アジアだという説もあるほどです)。

実際、アッバース朝の科学文化の大きな支柱となったものの中に、ジュンディー=シャープールの学派がありました。 アラビアの高い文化は、ジュンディー=シャープールに結集したペルシャ文化を、 アッバース朝の時代になってバグダードに移転する事によって、初めて可能になったのです。

図版:シリア・ヘレニズム〜アラビア・ルネサンス(5世紀より12世紀にいたる学術移転)
シリア・ヘレニズム〜アラビア・ルネサンス
出典:『十二世紀ルネサンス―西欧世界へのアラビア文明の影響―』(岩波書店1993)伊東俊太郎・著


》ササン朝ペルシャの宗教模様

――単性論派キリスト教も追加。単性論派キリスト教の人々は修道院活動をする割合の方が多かったようです。


ペルシャ・ヘレニズムとアラビア・ルネサンス――イスラーム黄金時代:7世紀-9世紀

ジュンディー=シャープール学派を育てたオリエントの強国、ササン朝ペルシャは、 642年ニハーヴァンドの戦いで、新興勢力の正統カリフ=イスラーム軍と衝突し、敗退します。

ササン朝ペルシャは、相次ぐローマ帝国との対立や王位継承に伴う内紛ですっかり弱体化しており、 このニハーヴァンドの戦いで、事実上滅亡しました (最後のペルシャ王ヤズデギルド3世はエフタルやチュルクからの支援を受けようとしましたが、暗殺されました。 彼の息子のペーローズ2世は、唐へ亡命したという事です)。

当時のイスラームは「大征服の時代」のさなかにあり、アラビア半島を中心に急速に領土を拡大。 第2代カリフ、ウマル・ブン・アルハッターブ(634即位-644没)は中東の広範な地域を征服していきました。

イスラーム=アラビア語圏の著しい特徴は、その急激な拡大速度にあります。

イスラームという新興宗教がもたらした情熱は、 『コーラン』によって特徴付けられたアラビア世界をアラビア半島部に留めるものでは到底なく、 たちまちのうちに多くの世界を巻き込んでいったのであります。 その極大期のイスラーム世界は、東はシナに達し、西は地中海沿岸、南はアフリカ、北はハザールに達するものでありました。

図版:アラブの大征服(7世紀半ば〜8世紀半ば)
アラブの大征服
出典:『世界の歴史(4)ビザンツ帝国とイスラーム文明』(創元社2003)J.M.ロバーツ著

アラブの大征服に伴うイスラームの急激な拡大は、必然、 イスラーム圏に壮大な思想潮流を巻き起こさずにはおきませんでした。 それはまず、マホメット死後の『コーラン』の法的解釈の分裂を引き起こし、次いで、 思弁神学の分派(スーフィズム等)を生み出してゆく事となります。

またビザンツ帝国と接触した折、輝かしいビザンツ文化も吸収したのであります (初期のモスクは、征服した土地の東方キリスト教の聖堂を借用したものです。それを祖にして、モスク建築が生まれました)。

やがてイスラームはウマイヤ朝(661-750)の時代を迎えます。そして、重要な事件が起こります。 ヒジュラ暦61年(西暦680年)のアーシューラーの日に、シーア派の第3代イマームとされるフサインが、 カルバラーのムスリムと共にウマイヤ朝軍に虐殺された、いわゆる「カルバラーの悲劇」が発生したのです。

これによって、スンナ派がイスラーム世界における覇権を確立する事になりましたが、 シーア派との深き対立の始まりでもありました。 ちなみに、スンナ派イスラームのウマイヤ朝そのものは、次第に世俗化してゆきました。

ウマイヤ朝は、「征服王国」という性格上、強烈なアラブ至上主義の王国であり、 イスラームに改宗したペルシャ人含む外国人(マワーリー等)は疎んじられる傾向にありました。 アラブの伝統的な文法や韻律、コーランに伴う法律といった「固有の学」は研究されたものの、 いわゆる「外来の学」である哲学や科学には殆ど関心が払われなかったと言われています。

さて、シーア派の主力は、ペルシャ東方のホラーサーン地方にありました (ちなみに、ウマイヤ朝の首都はシリアのダマスカスです。故に、当時のスンナ派の主力は シリア・パレスチナ方面に集結していたと考えてよいだろう、と思われます)。

イスラーム世界における反体制諸勢力を含めてウマイヤ朝の支配に不満を抱く人々は数多く、 750年、ホラーサーン地方のシーア派の反乱に始まる「アッバース革命」が発生します。

◆補遺――「アッバース革命」とペルシャ人

ゾロアスター教に対する抵抗運動が盛んだったペルシャ帝国では、 3世紀半ばのマニ教運動、5世紀末のマズダク教運動などが知られている。 かつてのペルシャはカースト的身分制度を採っていたため、下層民の反発は著しいものであり、 ニハーヴァンドの戦では、マズダク教に属していた下層民の殆どが内応していたそうである。

カリフ時代には、ペルシャ農民に対する二重搾取が行なわれており、激しい反発を引き起こしたと言われる。 7世紀半ばには、既にペルシャ農民による一揆があり、8世紀末に反乱が激化した。 この反乱が「アッバース革命」につながったと云う。

こうしたペルシャ独立運動に伴う動乱の時代を通じて、ペルシャ語とアラビア語は交錯した。 ペルシャの高い文化力とも相まって、アラビア-ペルシャ融合文化は、未曾有の絢爛さを現出する事となる。 その時代(ペルシャ文芸復興期)を彩る代表的な文学作品が、 『ルバイヤート(11世紀)』や『千一夜物語(9世紀-15世紀)』である事は、 特記されるべきものである。(終)

――「アッバース革命」と同時に、イスラームの中心を担うカリフの都も、 バグダード、コルドバ、カイロの三都市に分かたれたのだ、といっても過言では無いようです。 このアッバース朝(750-1258)の成立を以って、イスラーム世界に大きな転回点が形成されました。

転回点とはどういう事かといいますと、 「アラブ人による征服王朝」から「普遍的世界帝国(イスラーム帝国)」への拡張が起こったという事です。 その中で、イスラーム世界のペルシャ化が急速に進行しました。 (751年、タラス河畔の戦で唐の軍隊を撃退し、中央アジアへのイスラーム拡大も同時に進行しました。 ちなみにこの時に、シナ人捕虜を通じて、製紙技術が西方に流入したのは、有名なエピソードです)

初期アッバース王朝の歴代宰相を輩出したバルマク家は、ホラーサーン地方の都市メルヴの出身ですが、 都市メルヴの古名は「アレクサンドリア・マルギアーナ」、即ちヘレニズム諸都市の1つでありました。 アッバース朝の有力な豪族であったバルマク家のギリシャ文化愛好は、 やがてアッバース朝の中枢にペルシャ・ヘレニズム運動を巻き起こすまでになったのであります。

762年からバグダードに新都マディーナ・アッ=サラーム「平安の都」が造営され始めると、 イスラームの学問の中心となりつつあったバスラやクーファから著名な学者が集結しました。 シリア・ヘレニズムの頂点を形成していたジュンディー=シャープール学派もまた、多く移り住みました。

特記すべきは、765年、 ジュンディー=シャープール・アカデミーの学頭であったネストリオス派ペルシャ人 ジルジース・イブン・ブフティーシューのバグダード来訪であると 言われています。彼は当代カリフ、アル=マンスールの侍医として様々な医学書を紹介しました。 その後もその医学的伝統を買われてバグダードに招聘されたブフティーシュー家の子孫は、 代々カリフの侍医として、アッバース朝の科学文化形成期に大きな役割を果たします。

ペルシャ・ヘレニズム運動における文明移転に際して特に重要な役割を果たした、翻訳の巨人として有名な学者が、 フナイン・イブン・イスハーク(808頃-873頃)とサービト・イブン=クッラ(826-901)です。

フナインは多言語に通じたネストリオス派キリスト教徒の学者で、母語はシリア語でした。 サービトは、シリア北部の町ハッラーン生まれのサービア教徒(独特な星辰崇拝を持つグノーシス派)で、 同じく多言語に通じた学者でした。彼らの仕事は、優れた次世代翻訳家を多く生み出します。

ペルシャ・ヘレニズム――その驚異的なまでの翻訳活動を通じて、 砂漠を横断する通商の民が使う単純な言葉に過ぎなかった貧弱なアラビア語は、急速に語彙を豊かにし、 あらゆる学芸文化を包含しうる程の近代的なアラビア語に成長していったのです。

以上のようなペルシャ・ヘレニズムの興隆を経て、アッバース朝第5代カリフ、ハールーン・アッ=ラシードの下で、 遂にアラビア・ルネサンスが開花したと言われています。アラビア‐ペルシャ融合文化の確立でもありました。

11世紀頃、アラビアの学術は頂点に達します。それは、高度成長を遂げたアラビア語の語彙力を以って、 メソポタミア、エジプト、ペルシャ、インド、シナ各地から流れてきた文明を融合させ、 発展させる事に成功した「イスラーム文明圏」の黄金時代に他なりませんでした。

11世紀はまた、ルバイヤート(四行詩)の作者オマル・ハイヤームの時代であり、 アラビア天文学者のバッターニー、光学の父イブン・アル=ハイサム、 『医学典範』や『治癒の書』をものした大哲学者イブン=シーナーの時代でもありました。 イスラームの神秘主義者(スーフィー)ガザーリーもまた、この時代の人です。

イスラーム科学や哲学の発展は、ペルシャ文芸復興期(9世紀-15世紀)と進行したという側面を持っています。 ここでなされた業績は、後にコルドバを通じてヨーロッパに流入し、11世紀-12世紀のスコラ学に始まる革新、 および15世紀-16世紀の西欧ルネサンスの原動力となったのでありました。

◆学術と言語の関係について、とても素晴らしい議論がなされていたので、抜粋◆

これら著者たちは多言語を使えたので、(貧弱なレベルに留まっている言語の)問題をよく理解していました。 実際、或る言語の豊かさと近代性とは、その言語が多数の同義語を有するという点に存するのではなく、 それが世界の文化のあらゆる概念、あらゆる現実を表現することができる、という点に存するのです。
・・・(中略)・・・
シリア語・アラビア語を使った中世の我らが著者たちはこの問題(言語の進化)をよく認識していました。 刷新を欠くがために(緩慢にしかし着実に)死滅していく、そのような死語にならないためには、 言語は新たな技術に適応してつねに自らを豊かにしていかなければならないのです。
――[ アラブ世界におけるキリスト教徒の文化的役割](Oriens Christianus 雑録)

》アルフ・ライラ・ワ・ライラ(千一夜物語)

もともとはインド説話(印欧祖語/サンスクリット系)の影響を強く受けたものらしいと言われています。

ササン朝ペルシャ時代にパフラヴィー語で語られた『千物語(ハザール・アフナーサ)』があり、 これは一つの物語枠の中に多数の説話を織り込めた構成となっていたという事です。

『ハザール・アフナーサ』は、 8世紀後半にバグダードでアラビア語に翻訳されて『アルフ・フラーファート』と名を変え、 アラビア語の物語として大いに改変を受けました。 そうして現れてきたのが、『アルフ・ライラ・ワ・ライラ』の原形でありますが、 ペルシャ語(パフラヴィー)の伝統が強く入っているそうです。

初めはバグダード中心の物語が多く流れ込みましたが、1258年にモンゴル襲撃を受けてバグダードが陥落した後は、 エジプト・カイロで更に多くの説話を飲み込んで成長しました。現在のような物語となったのは、15世紀頃の事と言われています。

一つの物語枠があり、その中に多数の説話群を取り込んで成長してきたという来歴や、 読みきり短編と長編シリーズの混在するシナリオ構成は、そのまま、 イスラーム世界が成長していった構造を暗示しているように思われます。


》ペルシャ文芸とルバイヤート(四行詩)について

ペルシャ地方は、『コーラン』(アラビア語)に接するまでは、総じて口承物語の世界でありました。 メソポタミア・エジプト・ギリシャ時代から古代ペルシャ帝国にいたる時代の物語は、 ほとんどが散逸してしまったと見るのが妥当であると申せましょう。

しかし文芸文化という点から見れば、古代から偉大な詩人を数多く輩出し続けた先進地帯であります。 イスラーム期に流行したルバイヤート(四行詩)という詩スタイルは、ペルシャ文芸の産物でした。 古代の偉大な拝火教指導者であるゾロアスターも、1人のペルシャ詩人であったと伝えられています。

ルバイヤートは「四行詩」を意味するペルシャ語ルバーイイの複数形であります。

ペルシャ人はアラビア人に征服されて後、その文芸復興期(9世紀-15世紀)に、アラビア詩学、 特にコーラン読誦などで整備された韻律学や音律論を自国語(パフラヴィー)に導入して、 ペルシャ詩の復興と発展を行ないました。

今日までにペルシャ人が用いた詩形については、音律については約30通り、音韻(頭韻・脚韻)については 約6通りが区別されているそうです。そのうち純然たるアラビア詩に拠るのは音律については5通り、音韻については4通り、 残りはアラビア・ペルシャ混成であると言われています。

ルバーイイは、音律・音韻ともに、純然たるペルシャ形式の一であります。 民衆歌謡に起源を持っており、今日でもこのルバーイイを「タラーネ(歌)」と呼び習わしている人がいるという事です。


》オマル・ハイヤーム(1040頃-1123)

オマル・ハイヤームは、ペルシャのホラーサーン州・都城ネイシャプールの近くで生まれ、 本名をオマル・イブン・イブラーヒム・ネイシャープリイと言ったそうです。 彼の生きた11世紀-12世紀のペルシャは非常な乱世にあり、多く波乱に富む生涯を送ったらしいと言われています。

ハイヤームとは「天幕作り」の意味であり、 彼の父親イブラーヒムの職業が天幕作りであったことにちなむものだと言われています。 彼はペルシャ文芸復興期の中期(11世紀-12世紀)を生きた科学者であり、詩人でありました。

晩年はセルジューク帝国(1037-1194)のスルタン・サンジャルの愛顧を受けて平穏な生活を楽しむことが出来たようです。 彼から親しく教えを受けた弟子アブ・ル・ハサン・ビーハキイ著『ターリヘ・ビーハク(ビーハクの歴史)』によれば、 ハイヤームは頑固で、意地悪で、癇癪持ちの人柄であったと言います。

彼の業績は特に数学方面で知られており、『代数学問題の解法研究』、 『ユークリッドの「エレメント」の難点に関する論文』などが挙げられます(現在、原本紛失)。 特に、三次方程式の解法の理論的体系化(幾何学的概念で解法を記した事)は、特筆されるべきものです。

天文学者としては、 グレゴリウス暦を超える正確さを成し遂げたジャラリイ暦の制定の仕事が挙げられますが、 不規則に巡ってくる閏年の算定が複雑であったため、 実用化には至らなかったという経緯があったそうです。


》イスラーム哲学における東西の巨人

イスラーム哲学は、とりわけアリストテレスの影響を受けて発達しました。

――東はブハラ生まれのイラン人哲学者イブン・シーナー(アヴィセンナ、980-1038)。

彼は学問の体系を思弁学と実践学の二系統に分かち、思弁ジャンルに自然学・数学形而上学・論理学の四つ、 実践ジャンルに個人倫理、家庭倫理、公民倫理、政治学の四つを入れていました。

イブン・シーナーは、特に形而上学の根本問題である「存在性」および「存在者の概念」と、 「実有/偶有」、「現勢/潜勢」の如き存在の真相についてのあらゆる概念の規定に興味を持ち、 特に必然的存在者たる神から物質的世界に至る階梯的体系に関する、壮大な一つの哲学的体系を編み出しました。

晩年は、神秘的直知による存在の真相把握――神秘主義哲学――に向かったと言われているのですが、 その著作は散逸し、全貌は謎に包まれています。主著は『医学典範』。哲学的思惟は『治癒の書』にまとめられています。

――西はコルドバ生まれのイブン・ルシュド(アヴェロエス、1126−1198)。

彼は、かつてガザーリー派の元で衰退していたアリストテレス哲学の復権を図り、数々の注釈書を残しました。 しかし新プラトン主義の影響も深く受けており、世界の生成について、絶対一者からの流出説を採っていたという事です。

即ち、神の第一知性から順次流出が繰り返され、それは最後に質料的知性となり人間に現れる。 この質料的知性は、知的努力と成長に応じて能動理性の地位まで到達が可能である (能動理性の発達した人間として、哲学者や預言者を想定)。 肉体が滅びると、発達の極に達したこの知性は、能動理性と合体し、永遠の存在となりうる、 というのが、彼の主張するところでありました。

特に、哲学者が純粋観念として把握する真理を、 預言者は象徴的表象で把握する――というイブン・ルシュドの主張は、 西欧中世思想における「二重真理説」の根拠となっています。 彼は生涯を通じて哲学と宗教の調和に腐心し、人間の主体的な知的活動の価値を肯定しようとしたのですが、 彼の後継者はイスラーム世界には現れず、15世紀の西欧ルネサンス思想に寄与することとなったのでした。


中世時事の参考年表(6世紀-11世紀)

0511年|クローヴィス没、フランク王国は四分割(相続ルールにより)
0527年|ユスティアヌス、東ローマ帝国(ビザンティン帝国)皇帝に即位(527即位-565没)
0531年|★ササン朝ペルシャ王ホスロー1世即位(531即位-579没)、東ローマ-ササン朝ペルシャ間の抗争激化
0535年|★インドネシア・クラカタウ島火山の大噴火、大量の火山灰が地球を覆い異常気象が続く
0560年|クロタール1世、フランク王に即位(-563没)、四分割のフランク王国を統合(相続ルールにより)
0563年|フランク王国、再び四分割(相続ルールにより)/これ以降、宮宰や地方豪族の力が目だって増大
0568年|ランゴバルド王国、北イタリアに建国(568-755滅亡)
0610年|★マホメット、アッラーの教えを説く(622年ヒジュラ、630年アラビア半島支配)
0632年|★正統カリフ時代(632-661滅亡)
0661年|★ウマイヤ朝成立(661-750滅亡、756年コルドバに後ウマイヤ朝を開く)
0687年|フランク王国宮宰の中ピピン、実権を握る
0697年|★イスラム教徒、北アフリカ沿岸・カルタゴを占領(当時はウマイヤ朝)
0711年|★西ゴート王国滅亡、ウマイヤ朝支配下に(-750滅亡)
0714年|カール=マルテル、フランク宮宰に(714宮宰-741没)
0720年|★ウマイヤ朝、ピレネー山脈を越えてガリアに大挙侵入
0726年|東ローマ皇帝レオ3世、聖像禁止令発布(ローマ-コンスタンティノープル間の外交断絶)
0732年|★トゥール・ポワティエ間の戦(この後、封建制度の成立が進む)/吟遊詩人の活動盛ん
0750年|★ウマイヤ朝が滅び、アッバース朝成立アッバース革命=i751年、タラス河畔の戦)
0751年|カール=マルテルの息子ピピン、フランク国王に(即位751-768没)カロリング朝を創設
0754年|★アッバース2代カリフ、アル・マンスール即位(754即位-775没)
0756年|ピピン、ランゴバルド王国領地をローマ教皇に寄進(ピピンの寄進=教皇領)/★後ウマイヤ朝(756-1031)
0762年|★バグダード建設開始(アル・マンスールによる)
0768年|ピピンの息子カール、フランク国王に即位(768フランク国王-800西ローマ皇帝-814没)
0774年|フランク国王カール、ランゴバルド王国を滅ぼし、イタリア王を兼任
0786年|★アッバース5代カリフ、ハールーン・アッラシード即位(786即位-809没)、イスラム初の病院etcを建設
0800年|カール(シャルルマーニュ)大帝戴冠、西ローマ帝国復興、カロリング=ルネサンス、スコラ哲学の時代
0813年|★アッバース7代カリフ、アル・マームーン即位(813即位-833没)、「知恵の館(バイト・アル・ヒクマ)」活発化
0829年|ウェセックス朝のエグベルト王、イングランドを統一して七王国時代が終わる
0843年|ヴェルダン条約でフランク王国を西・中・東の三国に解体/イングランドへのデーン人の侵入激化
0870年|メルセン条約で中フランク王国が消滅
0875年|イタリアのカロリング朝断絶
0909年|★ファーティマ朝成立(909-1171)、969年に都をカイロとする
0910年|クリュニー修道院、フランス中東部に設立(修道院運動)
0911年|東フランクのカロリング朝断絶(ドイツ方面)/ノルマンディー公国成立(フランス方面)
0932年|★ブワイフ朝成立(932-1062)、946年バグダード入城
0962年|オットー1世戴冠、神聖ローマ帝国成立
0987年|カペー朝成立
0988年|★バグダードの書籍商イブン・アンナディーム、『フィフリスト(目録の書)』を完成
0989年|ウラディミル1世(キエフ大公980即位-1015没)、東ローマ帝国皇帝の妹と結婚、ギリシャ正教に改宗
1000年|ハンガリー王国成立
1005年|★ファーティマ朝カリフ、ハーキム、カイロに知恵の館(ダール・アルヒクマ)建設
1016年|デーンの王クヌート、イングランド支配
1031年|★イベリア(コルドバ)の後ウマイヤ朝滅亡/1035年-アラゴン王国、レコンキスタ運動
1038年|★セルジューク朝成立(1038-1194)
1042年|イングランドでアングロ=サクソン王朝復活
1049年|教皇レオ9世(1049-1054)、グレゴリウス改革(教皇は皇帝・国王を破門可能。後のカノッサの屈辱の根拠)
1054年|東西教会分裂(ギリシャ正教会成立)


参考資料

◆書籍

◆サイト

参考資料として、当ページの内容と直接の関係はありませんが、 イスラーム神秘主義(スーフィー)を紹介しているサイトを追加しました。 『神秘と詩の思想家メヴラーナ ― トルコ・イスラームの心と愛』の訳者(西田今日子氏)による翻訳です:

――他、数種

§総目次§
物語ノ岸辺物語ノ本流物語ノ時空物語ノ拾遺