深森の帝國§総目次 §物語ノ時空 〉星巴の時空3=東王ノ乱・西王ノ乱ノ章

星巴の時空3. ―― 東王ノ乱・西王ノ乱ノ章

以下のような構成で、オリエントの東西に注目してみます:

――他、最下段に参考書籍・参考サイトを付記

序 ―― ギリシャ諸都市時代〜ローマ時代における科学の行方

古代ギリシャ科学の歴史をざっと見ると、おおむね3つの発展段階に分けられます。

  1. イオニア期――前6世紀〜前5世紀――[ギリシャ植民都市の科学]
    タレス、アナクシマンドロス、パルメニデス、ピュタゴラス、デモクリトス
  2. アテナイ期――前4世紀に頂点――[アテナイ科学]
    アナクサゴラス、ソクラテス、プラトン、アリストテレス
  3. アレクサンドリア期――前3世紀〜後2世紀――[ヘレニズム科学]
    ユークリッド、アルキメデス、アポロニオス、プトレマイオス

「ポスト・アレクサンドリア期」の物語。それは、 この当時の世界で、学問の頂点に立ったヘレニズム科学を、 どのような運命が見舞ったのか――を物語ることであります。

そういう訳で、アレクサンドリア期に頂点を迎えたヘレニズム科学の、その後の物語を見ていきます。

――紀元前30年、プトレマイオス朝エジプトが滅んだ時、 その都アレクサンドリアはローマ支配下に入りました。 ローマ時代においてもアレクサンドリアは先端科学の地として栄え、 コンスタンティヌス帝(在位年306-337)の時代まで、その学芸文化の繁栄は続いていました。

395年、帝政ローマが東西に分裂しました。その際に、言語もまた東西で分裂します。 東ローマ帝国の公用語はギリシャ語であり、西ローマ帝国の公用語はラテン語です。

そして、種々のヘレニズム科学を含む高度な基礎学問は、 コンスタンティノープルを中心とするビザンティン文明圏(ギリシャ語圏)に集中する事になりました。

ビザンティン側とローマ側とで学問の格差が出来た理由については、 ローマ末期の政治的混乱など色々考えられますが、 ローマ人の民族的特質に拠るところも大きかったのでは無いか――と考えられているそうです。

ローマ人は元来、極めて実用的な人々で、 土木技術や軍事技術などの応用学問の面に素晴らしい才能を発揮しましたが、 実用に関わる事の無い抽象的な基礎科学に関しては、 敬遠して関わらない事を誇りとしていた――と言われています。

例えば、典型的なローマ人であったキケロ(紀元前106年1月3日〜紀元前43年12月7日)は、 次のような言葉を残しています(補足:キケロは、共和政ローマ時代の人です)――

キケロの『トゥスクルムの別荘での対話』(http://www.geocities.co.jp/hgonzaemon/Tusculum.html)より

[第一章 ローマのギリシャに対する優越]――
…私の考えでは、わたしたちローマ人の方がギリシャ人よりも優れています。 ローマ人の発明の方がギリシャ人の発明よりすぐれているし、 研究するためにギリシャから取り入れたものも、全てわれわれが改善しているからです。
例えば、道徳や生活習慣の確立、家族の維持や財産の管理などは、 絶対にわれわれの方がうまく、しかも立派にやっています。 また国家も、われわれの祖先の方が、はるかに優れた制度と法律によって統治してきました。 軍事に関しては言うまでもありません。 われわれローマ人は、戦場において勇気と規律正しさを大いに発揮して、数々の勝利を収めています。
[第二章 ギリシャにおける教養と文芸]――
ギリシャ人の間では幾何学がもっとも高い評価を受けています。 そのために、数学者は誰よりも高い名声を獲得しています。 それに対して、ローマ人は(幸いなことに)、この学問を、 ものを計ったり計算したりする用途に限定してしまったのです。

今日、「ローマ世界」として知られているプレ-中世の西欧世界には、純粋科学は入りませんでした。 現在確認されている限りでは、ユークリッドの著作のラテン語訳は極めてわずかなものであり、 アルキメデス、プトレマイオスに至っては、流入の痕跡すら見いだされていないそうです。

さて、アレクサンドリアの学芸の都としての没落は、5世紀前半にアレクサンドリア図書館が炎上し、 多くの学者が亡命したときからであると言われています。 (415年、狂信的なキリスト教徒による異教徒排斥の暴動が発生、 および図書館への放火があり、ヒュパティア虐殺事件が発生)

エフェソス公会議(431年)を通じた権力闘争の中で、 アタナシウス派の流れを汲むローマ・カトリックが、実権を握ってゆきます。 その過程で、ネストリオス派、アレクサンドリア学派を含む「異端」は追放されました。

諸々の「異端」はそれぞれトップレベルの学者も抱えており、 キリスト教の権力闘争が生み出した異端追放運動は、更に多くのヘレニズム学術の流出を招きました。 そして、ヘレニズム学術の多くは、ビザンティン帝国を経てペルシャ世界に流れ、 更にアラビア世界およびシナ世界に流れ込む事となったのです。

ギリシャ文明及びヘレニズム科学の、中東地域への普及の過程、 及びアラビア文明圏における発展の過程は、 大きく見て、3つの時代に分けることが出来ます。

ポスト・ローマ。または、ポスト・ペルシャ。それは、東の王と西の王の乱世でもあります――


イスラーム世界の確立以前 ―― セレウコス朝シリアからササン朝ペルシャまで

イスラーム文明圏――アラビア語圏――の学術の目覚ましい成長を説明するには、 アレクサンドロス大王の東征まで遡らなければなりません。 ――[参照:星巴の時空1.諸國創世ノ章

オリエントでは、紀元前323年のアレクサンドロス大王の死を挟んで、 かつてのアケメネス朝ペルシャのあった場所に、セレウコス朝シリアが建国されました。 学芸の頂点の都・アレクサンドリアを擁したプトレマイオス朝エジプトとは隣国同士であり、 ヘレニズム・バブルの中、活発な交易が行なわれていました。

後にセレウコス朝シリアは、領土が広大すぎたため分裂してゆくことになります。

これらの変化と前後して、ヒンドゥークシュの南では、 チャンドラ・グプタ率いるインドのマウリヤ朝が勢力を増していました。 前305年、カブールとカンダハルが、セレウコス朝シリアからマウリヤ朝に割譲されています。

領土割譲の事実は、 1967年にカンダハル旧市近郊で発見されたマウリヤ朝アショーカ王(在位:前268-233)の法勅碑文に示されているという事です。 この碑文は、ギリシャ語とアラム語(アケメネス朝ペルシャの公用語)で書かれていたそうです。

アフガニスタンでは、マウリヤ朝の最大版図を築いたアショーカ王の代に、 盛んな仏教布教が行なわれていた事がよく知られています。 (参考:マウリヤ朝はマガダ王国における前317頃-前180頃の王朝。 インド大陸において、最初の統一帝国を築いた王朝でもあります)

マウリヤ朝に一掃されていたギリシャ系勢力は、前255年、 バクトリア王国、すなわち「グレコ・バクトリア」を打ち立てます。 その領土は、インダス川の西、ほぼアフガニスタン(ヒンドゥークシュの北)にありました。

続いて前248年、カスピ海の東南にイラン系アルサケス朝パルティア王国が建国されました。 パルティア王国の主力は西へ向かい、やがて、小アジアの領土確保(おそらく貿易利権)を巡って、 ローマ帝国と争う事になります。

ついでながら、「インド含む中央アジア地域の歴史」という観点で見ると、 この時代を含む500年間は、壮絶なまでの分裂闘争の時代でありました。 民族分布図も勢力図もひっきりなしに入れ替わっており、この時代を明確に記す事は不可能です。

バクトリア王国は、その後、遊牧騎馬民族を含む異民族の流入が激しくなり、壊滅しました。 前130年には、この場所に大月氏(中央アジアのサカ=チュルク系?)の王国が新しく出来ることになります。 オリエント地域におけるヘレニズム諸王国はここで断絶し、歴史から消えますが、 これらの地域におけるヘレニズム文化の交流が途絶えたわけではありません。

新たにアフガニスタンの支配者となった中央アジア系の遊牧王朝・クシャン朝(大月氏・1世紀頃-375)は、 諸々の宗教に対し、寛容政策を採っていました。 クシャン帝国の領土の拡大と共に、 ゾロアスター教、仏教、ヒンドゥー教、ヘレニズムの神々など、 雑多な信仰が取り込まれていった事が知られています (ちなみにマニは、3世紀前半頃にインド付近を訪れ、帰国後マニ教を創始したと言われている)。

諸宗教入り乱れた古代アフガニスタンの中で、特に優勢であったのが、 クシャン朝全盛期を築いたカニシュカ王(在位:130-155頃)の庇護を大いに受けていた仏教であります。 クシャン朝は、仏教王国でありました。

小アジアの雄として残っていたセレウコス朝シリアは、 前63年にローマ属領となりますが、東方からのパルティア王国の拡大が続いており、 ローマ支配下になっても、属領シリアの領土は圧迫され続けていました。 前53年に小アジアで起きたカルラエの戦いで、パルティア軍がローマ軍を破った事が知られています。

パルティア王国は後226年に滅び、その領土は、ササン朝ペルシャ(226-651)が継承しました。 前7世紀から続くゾロアスター教を国教とした王国です。 ササン朝ペルシャは、マニ教を弾圧しており、276年〜277年にはマニ教の教祖を処刑しています。 同じ頃、ローマ帝国領内ではゲルマン系の流入がちらほらと見られ、 いよいよ「3世紀の危機」に入ろうとしているところでした。

そして同じ3世紀半ば頃、アフガニスタンの支配者クシャン帝国(大月氏)も、次第に国力低下が起こっており、 ササン朝ペルシャの覇王シャープール1世の攻撃を受け、 ササン朝ペルシャを宗主国とする小国に転落していました。更にシャープール2世の攻撃によりクシャン王家は瓦解し、 ペルシャ属州バクトリア(バルフ)のササン王家が代わって、アフガニスタンを支配する事になります。

5世紀のアフガニスタンは、北方からエフタル(イラン系かトルコ系)の侵入を受けて更に動乱します。 この時、大クシャンの後継・小クシャンもササン朝ペルシャも敗北し、 エフタルを宗主とする国際関係が展開しました。 実際にエフタルは、ササン朝ペルシャの王位継承に強い影響力を及ぼしていた事が知られています。

6世紀後半に、ササン朝ペルシャにホスロー1世が登場し、突厥と結んでエフタルを制圧します。 ――ちなみに、7世紀前半(630年頃)、唐の求法僧・玄奘三蔵が、サマルカンドからアムダリア河を渡り、 アフガニスタンを東西に横切り、インドを南北に横切るという大きな旅をした事は有名です。 アフガニスタン諸都市で仏教が栄えていた様は、『大唐西域記』によく記されています。

以上のようなイラン・ペルシャ系その他の群雄割拠があったわけですが、 このエジプト・シリア・ペルシャ・アフガニスタン一帯における文化の爛熟は、 非常に高度なものでありました。 その中で、ヘレニズム科学を受け入れてゆく素地が、 遠く離れたローマ東方の辺境にも出来上がっていったのであります。

ここで、言語環境の推移について確認します。

ローマ世界においてはラテン語が公用語でした。 都市アレクサンドリアでは、コイネーと呼ばれる汎用ギリシャ語がありましたが、 西アジアとの関係が深く、コプト語・シリア語・ヘブライ語も広がっていました。 ちなみに、コプト語は、ミトラ秘儀や錬金術など、魔術の共通言語としても有名です。

シリア語の前身はアラム語であり、 アラム語はフェニキアの時代から商人用のリンガ・フランカでした。特にアラム文字は東方に伝えられ、 インド、チベット、モンゴル、満州などの諸文字の元になったことが知られています。

》補足――[カルラエの戦い(前53年)]

西欧世界が初めて遊牧国家と対峙した戦いであり、パルティアン・ショットの記録で有名です。

「パルティアの光り輝く旗」という形で絹≠ェ初めて目撃され、 シルクロードがローマまで延びるきっかけともなりました。

この戦いを起こしたのは、ローマ三頭政治の一角を占めていたクラッススであります。 迎え撃つパルティア側は、オロデス2世という王が代表でしたが、 実際にパルティア軍を指導したのは司令官のスレナスだったという話です。

戦いの結果、クラッススは戦死。 クラッスス配下のガイウス・カッシウス・ロンギヌスはシリア属州から連れてきた兵士でローマ軍を増強し、 その後、パルティア軍を破りました。 この勝利でマルクス・トゥッリウス・キケロから賞賛されたと言われています。

ガイウス・カッシウス・ロンギヌスは、紀元前44年のカエサル暗殺の首謀者の1人となった事で知られています。 (キリスト磔刑の際に、キリストが死んだ事を確認するために脇腹を突き刺したと言われる 「ロンギヌスの槍」のロンギヌスとは別です。 実際、キリストが磔にされたのは紀元後30年の話で、時代が違います)


原始キリスト教の分裂 ―― ネストリオス派の破門

東ローマ文化は、基本的には、ギリシャ古典の流れを汲んでいました。 しかし、313年、コンスタンティヌス帝のミラノ勅令によるキリスト教公認に伴い、ローマの学問・文化は、 次第にキリスト教会のコントロール下に置かれるようになってゆきます。

380年、バチカンに初代サン・ピエトロ寺院(バシリカ式=プレ-ロマネスク様式)が建立され、 392年、キリスト教はローマ帝国の国教になります。

ローマ帝国は、396年に東西分割されました。 東の領土に含まれるのは、ギリシャ、バルカン半島、小アジア、シリア、エジプト。 西の領土にはローマ、ガリア、ブリタニア、ヒスパニア。 しかし西側は、ゲルマン勢力が急速な拡大と定着を続けており、 もはや西ローマ帝国としての体を成していませんでした。

このような情勢の下、 古典文明の主力がビザンティン(コンスタンティノープル)に移った事は重要です。 初期の東ローマ帝国においては、アンティオキア、ベイルート、ガザ、エデッサといった各都市が、 それぞれ学芸文化の中心地を担っていました (後に十字軍の侵略・略奪を受けて、各種文献ともども、灰燼に帰す事になる)。

アウグスティヌス(354-430)による『神の国』(413-417著)などの教父神学が興隆した時代であり、 アリストテレスの論理学とプラトンのイデア論は、 キリスト教の教義の解釈・拡張・擁護のために援用されるようになりましたが、 この作業に伴ってグノーシス派との教義論争が深まり、教会分裂が激しくなりました。

実を言えば、この教会分裂が、ローマ帝国の弱体化及び東西分割を招いたという説もあります。 聖徳太子が「和をもって尊しと成す」で始まる『憲法十七条』を制定したのが604年なのですが、 このタイミングを見ると、聖徳太子は、キリスト教会分裂とローマ帝国分裂について、 何らかの事情を推察していた可能性が考えられます。

ここで注目する教会分裂は、431年に生じた教会分裂です。

シリアのアンティオキアを本拠地としていたネストリオス派は、431年のエフェソス公会議で異端宣告され、破門されました。 ちなみにネストリオスは、コンスタンティノープル総主教だった人物で、 シリア人キリスト教徒からの支持が高く、必然としてシリア人は、この公会議の決定を拒絶したのであります。 彼らは、教義として「両性論(キリストは、神性と人性を同時に持つという論)」を提唱していました。

見かけ上神学的問題に発するこのキリスト教の分裂の背景には、 文化の衝突が潜んでいた、という分析もなされています。 つまり、シリア語、コプト語、アルメニア語などの勃興に支えられた地域文化が、 支配的・侵略的文化たるグローバル化ギリシャ文化に対して、 異議申し立てを始めたのだ――という事です。

》原始キリスト教の四分五裂 ―― 中世ヨーロッパ異端の種子

帝政ローマに栄えた原始キリスト教会の五本山は以下のとおり:

元々、ネストリオス派はアンティオキア教会閥に属した一派です。 このアンティオキア派閥は、マリアを神の母とする教義に異を唱えていたという事です。 この派閥に対抗していたのがアレクサンドリア教会閥で、代表者はキリルという人でした。 彼がネストリオス派の追放を企てたという事です。 (ちなみにキリルは、女流科学者ヒュパティアの殺害を計画し、実行した人でもあります)

アレクサンドリア教会閥が推し進めていたマリア信仰(マリアを神の母とする教義)は、 別の説によれば、エジプト秘儀の一種であったイシス崇拝が、下敷きになっているという事です。 キリル率いるアレクサンドリア教会閥が、イシス=マリアの神性を掲げて布教をしていたのは、 その意味で自然な流れであったと申せましょう。

アレクサンドリア教会閥は、ネストリオス派の「両性論(キリストに神性と人性を認める)」に比べて、 キリストの人性を大きく削り落とした教義を持っていました。 これを極端化すると、 「単性論(非カルケドン派=キリストに神性のみを認める)」になります。

「単性論」は、451年のカルケドン公会議で異端宣告され、排斥されました。 そのため、単性論派を非カルケドン派とも言います。 単性論派もまた、東方に活路を見出し、高度学術書のシリア語訳を多く生み出し、 シリア・ヘレニズムの立役者として活躍しました。 現在も、コプト正教会やシリア正教会は単性論を継承しています。

なお、2世紀から4世紀は、キリスト教外典が盛んに記された時代でした。 今日数えられている合計74のキリスト教外典のうち、42のグノーシス主義外典があると言われています。 「ナグ・ハマディ文書」がコプト語で記されていたという事実は、 エジプトが原始キリスト教の中心地であった事を示唆しています。 カルケドン公会議で異端判定を受けたコプト教会は、グノーシス主義との関わりが深い教会でした。

また、エジプトは錬金術・黒魔術・ヘルメス思想などのオカルトの発祥地でもあります。 当時、コプト語は、ヘブライ語やラテン語とならんで、黒魔術をたしなむ者の公用語のひとつだったそうです。 エジプトで発達したグノーシス主義・神秘主義は、 ヨーロッパにおける二元論異端(この世を神と悪魔の対立の場と考える)に引き継がれ、 パウロ派、ボゴミール派、カタリ派などの中世ヨーロッパの異端として、後世に大いなる影響を及ぼす事になります。

――ここで仮説に過ぎませんが、原始キリスト教の四分五裂がもたらした影響について、さらに一考を添えます。

このキリスト教会の正統・異端論争を通じて、 ローマ・カトリックがカルト化・変質したのではないかという可能性があります。 著しい「正統権威」の集中は、必然としてその教団を特権集団となし、カルト化せずにはおきません。 更に、ローマ・カトリックは以後、ゲルマン人と交渉を持ち、脱税特権を保ちつつ、 世俗権力の一角として、西欧の政治に積極的に干渉するようになります (カール大帝の戴冠を通じて、コンスタンティノープル圏から独立)。

さらに、ゲルマン人の統一帝国形成と相続問題による内紛、 ヴァイキングが海岸を荒らしまわり、かつスラブやルス(古ロシア)、ハザール他の中央アジア勢力、 アラブ=イスラーム勢力の間に緊張が走っていた8世紀から9世紀という時代は、 偶像崇拝解釈の混乱によって聖像(イコン)破壊運動が生じ、 布教方法の問題で東西ローマ教会が揺れ動いた時代でもありました (西欧はまだ文字無き地域であったため、「偶像を使った説明」による布教方法が採用されていました)。

その後のコンスタンティノープル側つまり正教会は、ブルガリアやスラブ、 新興国キエフ公国との外交に悩みつつ、 ローマ・カトリックとは異なる布教活動を行なう事になったのであります。


ゲルマン=ヨーロッパ世界を作った聖書 ―― ゴート族の遺産

頃は4世紀、ローマ帝国とゴート族が、ドナウ川を挟んで対立していました。 そして4世紀後半には、民族大移動の波に揉まれる事になります。

ゴート族は、ゲルマン諸族でも有力な一派でした。 しかし21世紀現在は、ゴート族は既に絶えており、ゴート語も死語となっています。 まとまった形での唯一のゴート文献がゴート語によって書かれた聖書であり、 スウェーデン・ウプサラ大学図書館が所蔵しているゴート語聖書は、 この意味で極めて重要な資料であると言う事です。

ラテン語で "Codex argenteus" ――コーデックス・アルゲンテウス、銀文字聖書と呼ばれ、 歴史専門家の間では、略号 "CA" で通用しているそうです。

「銀文字聖書」は、王を証しする朱染めの羊皮紙に、銀泥のゴート文字で記された聖書です。 6世紀初頭、イタリアのラヴェンナで作られたのだそうです。純銀製の表紙で装丁された、絢爛豪華な書物です。 この聖書の製作を命じたのは東ゴート王国のテオドリクス大王でした (彼は当時、西ローマ帝国を制圧し、イタリア王を名乗っていました――もっとも、 西ローマ帝国は既に崩壊し、有名無実の状態でしたが)。

ここで、ケルト=ゲルマンとキリスト教との出会いがもたらした物語について、少し述べておきます。

テオドリクス大王は、『アーサー王伝説』で語られるアーサー王と、 同時代の人物として設定されています。 この頃のブリタニアも、混乱のさなかにありました。 その過程で、ケルト民族の他界物語・奇跡の器の物語と、 キリスト教のメシア伝説・グノーシス神秘思想が、絶妙な化学反応を起こしたようです。 当時のキリスト教はミトラ教と分離しておらず、マニ教やグノーシスとの決別さえも進んでいない段階でした。 その後にブリタニアに到来したゲルマンの一派、アングロ=サクソン族による群雄割拠があり、 ケルト伝承の凝縮と変容が生じたと考えられます。 これらの変化が、後の中世の『聖杯伝説』に直結していったと申せましょう。

――さて、「銀文字聖書(旧約・新約)」の元となった最初のゴート文字の聖書は、 4世紀後半ごろ、ウルフィラという名の1人のゴート人司教によって訳出されたものでした。 当時、「文字」というものは、ゴート族以外のゲルマン諸族は持っていなかったのです。

中世、ゲルマン諸王国の時代――6世紀以降のゲルマン諸族は、 数百年の時をかけてローマ・カトリックのキリスト教を受容し、ヨーロッパ世界を形成していくのでありますが、 信仰に関する基本的な言葉の多くが、 この4世紀のゴート語訳聖書から決定的な影響を受けていたという事が、明らかになりつつあるそうです。

さて実際のゴート文字とは如何なるものかというと、 ルーン文字の形象を基礎に、ローマ文字やギリシャ文字を端々に導入したものらしい、という事です。 ルーン文字は元々はイタリア北部・エトルリア文字が起源であるという説が有力であるようです。 エトルリア人は、アルプスを越えてやってきたキンブリー族などのゲルマン諸族に24の呪文・道標記号を伝授した。 これらをゲルマン諸族が使ったのがルーン文字である、という事です。 北欧にも伝わり、近世まで道標として利用されていたそうです。

――豆知識:古代ルーン文字の「ルーン rune」は、「秘密」を意味する言葉から派生した語だという事です。 近代ドイツ語の「ささやき raunen」という言葉に残っているそうです。――

当時の書物は全て大文字で書かれ、単語ごとの分かち書き等はありませんでした。 初期のギリシャ語聖書も、その後のラテン語訳聖書も、大文字のみで書かれたという事です。 ヘブル文字は、子音表記のみです。

(極めて古いギリシャ語では、文章は折り返し様式だったそうです。 左から右に書いていって、余白が詰まれば、今度はそこを起点にして右から左に書く。 折り返しの際に、文字も鏡像反転した例があるそうです。 アジア系文字でも同様なケースがあり、下から上に向かって読むアクロバットな石碑も知られています)

小文字が登場するようになるのは9世紀、カール大帝の時代。 更に章・節などが付記されるようになったのは、 16世紀以降、ルターやカルヴァンの宗教改革の時代になってからだそうです。

このゴート語聖書を著したウルフィラという人物については分かっていない事が多いという事ですが、 ゴート族の父とギリシャ人の母を持ち、 ゴート語とギリシャ語に通じたバイリンガルであった事は確かなようです。

332年、コンスタンティヌス大帝は、幾度も事を構えたゴート族と協定を結んだ事が知られていますが、 その際のゴート側の外交使節団の通訳として登場し、 次第に面倒な外交交渉のメイン担当を任されるようになったのが、弱冠21才のウルフィラだったそうです (非常に根性のある方だったのですね)

彼はその後、ローマ側の総主教に語学その他の才能を見出され、ローマ帝国でもトップレベルにあった学問の府、 シリア領・アンティオキア教会併設のアカデミアで本格的に聖書を学び、 ラテン語、ヘブル語、アラム語を習得したという事です。 当時の聖書は音読、しかも詠唱するものでしたが、ウルフィラの詠唱は上手だったそうです。

ちなみに、ウルフィラはアリウス派キリスト教に属していました。 アリウス派は三位一体説を否定しており、 325年のニケーア公会議で異端とされていましたが、それは中央の政治闘争に関連しての事で、 辺境ではアリウス派が支持されていました。 当時のローマ皇帝がアリウス派支持者で、治安維持のため公会議に介入したという騒動もあり、 アリウス派異端に対しては黙認状態だったようです。

さて、司教の叙階を得たウルフィラは、ダキア領の伝道に努め、徒手空拳で数々の宗教弾圧を乗り越え、 ドナウ川の南岸、現在のブルガリア国内にあるミノル=ゴート村という場所にキリスト教徒のゴート人と共に入植し、 聖書翻訳を開始したと伝えられています。時に西暦348年頃、ウルフィラ37才であったそうです。

ゴート語聖書への翻訳の際の借入語は、例えば「天使」=「アンギルス」、 「悪魔」=「ディアバウルス」などです。 いずれもゲルマン語には無かった言葉で、ギリシャ語の音を借用したものだそうです。 後世は各々「エンジェル」、「デヴィル」、と変わっています。

ウルフィラが最も苦心したのが「神」という言葉を母国語に翻訳する作業だったと言われています。 ギリシャ語の「ホ-テオス」に当たるゴート語は無かったわけです。 日本語での「デウス」が根付かなかったように、 このままでは「テオス」がゴート人ひいてはゲルマン人に根付かない、 という事は明らかであったろうと思われます。

最終的に、ゴート語の「神」は、「"Guþ"グス」という言葉で表される事になりました。

――はじめにグス、天地を造りたまえり。――

これが "God(英語)"、"Gott(ドイツ語)"、"Gut(北欧語)"の語源となったと言われています。 その影響の大きさは、察するに余りあります。

この「グス」という語は古代ゴート語の「相談者/対話者」という意味を受け継いでおり、 個人個人の精神内部での言葉の格闘を要求するものであったようです。 そのため、「グス」を受け継いだ英語圏、 ドイツ語圏の人々は、他人との対話を基軸とした民族性を培っていったという事です。

ギリシャ語の「テオス」がそのままラテン語の「デウス」となったラテン語圏では、 「神」は、そのまま天空に光り輝くものとして捉える民族性を育てていったのだと申せましょうか (例:フランスでは "Dieu" と言う)。

ごく大雑把にラテン精神、ゲルマン精神、言い換えればカトリックとプロテスタントの違いは、 受け継いだ言葉の違いによるものが大きいのかも知れない――というのも、納得できるものであります。

ゴート語の聖書が西欧の「心」を作った。その巨大な遺産に、圧倒されるものであります。

》ゴート語の「愛」

キリスト教神学では、「愛」は「アガペー」と「エロス」で区別し、対比させて考えるという事です。

ウルフィラは、この「愛」を、ゴート語で "frijaþwa(フリヤスワ・愛)"、"frijon(フリヨン・愛する)" と翻訳しているという事です。 この "fr-(フル)" 系統の単語は、そのままインド=ヨーロッパ祖語を復元できるほどの古い言葉で、 当時から既に、大変古風な匂いのする単語であったろうと言われています。

今では、 "fr-(フル)" 系統の単語で "free(英語)"、"frei(ドイツ語)" という言葉が使われていますが、 どちらも、古代ゲルマン語時代では「愛する」と「自由な」の両方の意味を担っていた言葉だそうです。 現代ドイツ語にも、 "freien(求婚する)" という言葉に意味の名残があるそうです。

ついでながら、ゴート語で「自由な/愛する相手」を "frijonds(フリヨンズ)" と言います。

これが現代の「友人」を意味する "friend(英語)"、"Freund(ドイツ語)" の語源だそうです。

》原初のキリスト教会 ―― エクレシアの語源

◆以下の文章は――『銀文字聖書の謎』小塩 節・著――より引用◆

初期のキリスト教は、離散ユダヤ人や各地の貧しい下層民や奴隷達の間に広まっていったが、 それが次第に社会の上層へボトム・アップ的に伝えられていった。 ユダヤ教の礼拝堂を借用もしたが、 ユダヤ独立戦争(1,2世紀)に参加しない平和主義のキリスト者たちはユダヤ教本流から排斥されるようになり、 一般民家やローマなどでは、激しい迫害を避けるべく地下墓所(カタコンベ)に集って祈っていた。

こうして「集った者」というギリシア語のエクレシア ekklēsia が、「キリスト教の教会」の意味で用いられるようになる。 教会とは、高い塔がそびえる建物や教団組織のことではなく、イエスの名によって人びとが集う集会という意味なのである。 ウルフィラも「教会」の訳語には、ほぼギリシア語の音のままエクレシオと記している。 これが現代のフランス語ではエグリーズ(教会)となっている。 やがて「集り」は組織や礼拝堂建築の意味にもなった。

「教会」を表す英語のチャーチ、ドイツ語のキルヒェはギリシア語のキュリアコン(主に属する)から来たもので、 ラテン語のミサに必ず用いられるキリエ(キュリエ) kyrie =「主よ」と同根である。 「教会」は、宗教集団の組織及び建物の両方に用いられる。

・・・(中略)・・・

また、大聖堂とは大きい建物である必要はなく、司教がいる司教座教会のことで、 イタリア語やドイツ語でドゥオモ、ドームといい、仏英語ではカテドラーレ、キャスィードラルという。


ササン朝ペルシャとネストリオス派 ―― アジア系キリスト教の素地

ネストリオス派がオリエントを超えてアジアへ流れていった年代は、 ウルフィラの聖書ゴート語翻訳の年代とは、それほど離れていません。 長くても半世紀くらいというところです。 当時キリスト教は、教義の論争を通じて、それほどに急激に変貌を遂げていたわけです。

同じ頃のインドでは、『ウパニシャッド』哲学が完成し、『ヨーガ・スートラ』がまとめられ、 数々の仏教異端や密教が次々に成立しつつありました。 例えばクマラジーヴァが生まれたのが344年だそうです (…歴史の神様のような存在が意思を発動していたのかどうか…、しみじみと考えさせられるところです)

431年のエフェソス公会議での排斥の結果、 ビザンティンを追われたネストリオス派は、まずエジプトに逃れるのですが、 ここでは布教のための足がかりを築くことが出来ず、西アジアに移ることを余儀なくされました。 ネストリオス派は、シリア語を話すオリエントの人々の間で普及してゆく事となったのです。

ネストリオス派が本拠にしたのは、北メソポタミアのエデッサと言う町です。 当時の東ローマ帝国とササン朝ペルシャとの国境に近いところです。 373年に既にキリスト教の学校が建築されていたという事ですが、 ここにネストリオス派が定着しました。 彼らは当初のギリシャ語を捨てて、シリア語で布教を始めます。

しかし475年に東ローマ皇帝のゼノンが、エデッサでの異端布教まかりならぬ、 という事でエデッサの学校を閉鎖し、ネストリオス派の迫害を始めました。 そこで当時の学頭であったバルサウマという人は、 ネストリオス派のキリスト教徒を引き連れて国境を越え、ササン朝ペルシャの領内に入りました。

そこでバルサウマは、ペルシャの総主教であったバボワイに歓迎され、 時のペルシャ王ペーローズに謁見する事がかないます。 バルサウマはペルシャ王ペーローズ(在位年:459-484)に、次のように説明しました:

「正教会は東ローマ帝国と固く結びついているが、我々ネストリオス派は この東ローマ帝国からひどい仕打ちを受け迫害されたので、今ではまったく 絶縁しており、むしろ東ローマ帝国に対して敵対的であるのだ」―― 出典:『十二世紀ルネサンス―西欧世界へのアラビア文明の影響―』(岩波書店1993)

ササン朝ペルシャは東ローマ帝国と争っていた事もあり、バルサウマは王の信頼を得て、 ペルシャに居住する事を許されました。 彼らはまずニシビスに学校を開き、ここをネストリオス派の本拠としました。 その後、次第にエフタル人やソグド人が活躍していたユーラシア交易路を通じて、 ネストリオス派はアジア全域に拡大し、 ついには唐代シナまで辿り着く事となります。シナ語では、「景教」と呼ばれました。

余談ですが、マルコ・ポーロが『東方見聞録』で書き残した「アジアの至る所にあるキリスト教会」とは、 ネストリオス派のものです。今でも西安に「大秦景教流行中国碑」という石碑が残っており、 かつて長安に留学した空海は、この碑を見ているはずです(ゾロアスター教やマニ教も流行していました)。

つまり、ローマ帝国以東のユーラシアの国々では――場合によっては、日本も含めて―― キリスト教と言えば、この「ネストリオス派キリスト教(=景教)」であったのです。

》ササン朝ペルシャとアルメニア教会

ササン朝ペルシャは、ローマ帝国への対抗上、様々なキリスト教異端派を受け入れましたが、 逆にアルメニアに対しては、国教であったゾロアスター教を強制しました。 ローマ帝国との最前線でもあった辺境を、 政治的にも宗教的にもペルシャ側へ固く組み入れるための政策であったと言われています。

この同化政策は、逆にアルメニア人の民族意識に火を付ける事になりました。 アルメニア文字が発明され、 またアルメニア教会では正統キリスト教に対抗して独自の教義を採り、 アルメニア人の民族性の確立に努めていたという事です。

ヤズダギルド2世(在位年:439-457)の治下アルメニアにおいて、 ゾロアスター教の強制に反発しての反乱が起こりましたが、結局は鎮圧され、 聖職者は投獄処刑され、教会は破壊されたという事です。

》ササン朝ペルシャと異民族(エフタル、突厥)

ササン朝ペルシャ帝国は、西方にローマ帝国、東方にクシャン帝国、 次いで遊牧騎馬民族エフタル(白匈奴)という強敵を持っていました。 (※7世紀半にマホメットが登場した後、 ササン朝ペルシャは南方にイスラームと言う強敵をも抱える事になったのです。 652年、ペルシャはアラブに征服されました)

インド西北部・バクトリア地域の強国であったクシャン朝(大月氏=クシャン帝国/ガンダーラ美術で有名)は、 ササン朝ペルシャの攻撃を受けて西方の領土を大幅に失い、5世紀末に滅びました。

その後、北方の異民族エフタルが勢力を拡大し、ペルシャ国内への侵入が激しくなります。 エフタルは425年、オクソス川を渡ってペルシャ帝国内に侵入し、撃退されていますが、 その後、ササン朝ペルシャを圧倒しました。 エフタルの妨害は、ササン朝ペルシャにおける王位継承や対ローマ作戦の遂行に影響を来たすまでになります。

エフタルは、558年頃に突厥とササン朝ペルシャとに挟撃されて滅ぼされるまで、 中央アジアの雄として繁栄しました。ヒンドゥークシュ山系一帯、 及びインド・南ロシア・シナ・ペルシャを結ぶ貿易上の要地に沿って、 遊牧文化と都市文化を融合した強大な国家を築いた事が知られています。 エフタルの民族系統は不明ですが、現在はイラン系とする説が有力です。

――事実上、エフタルの滅亡が、突厥、もとい、トルコ民族の、西方大移動の引き金となりました。 このトルコ人(チュルク系)を中心とした遊牧民族の第2次民族大移動は、遠くヨーロッパにまで及びます。

この大移動によって突厥は、ユーラシア最強の「遊牧騎馬民族」として、歴史の表舞台に登場しました。 突厥はユーラシア大陸を横断するほどの広大な「突厥帝国」を形成し、 その後に東西分裂しますが、その際に西端にハザール王国が登場したと推測されています。

なお、トルコ人の一派といわれるアヴァール人は、従来、突厥よりも上位にありましたが、 西暦535年から生じた気象悪化で勢力衰退し、突厥に追われる運命となりました。 アヴァール人は中央ユーラシアから東ヨーロッパへと移動し、 東ローマ帝国やフランク王国と戦いながらパンノニア平原に落ち着いた事が知られています。 アヴァール人が中央アジアから東ヨーロッパに入った頃、 突厥は、東ヨーロッパのそれを「偽アヴァール」、 中央アジアに残ったそれを「真アヴァール」と呼んで区別していたという事です。


6世紀〜7世紀の気候悪化を超えて ―― 古代が終わり、中世が始まる

6世紀から7世紀は、深刻な気象異変が続き、ビザンティンを巡る国際情勢にも激変が起きた時代でした。

オリエント勢力がササン朝ペルシャからイスラームへ変貌し、 新興勢力であったイスラーム商人に、またたく間に地中海―小アジア・ルートを握られてしまったため、 ビザンティン側は、黒海-カスピ海ルート、及びカフカス・ルートの確保が重要になった…と考えられます。

地政学的には、当時のビザンティンにとって、 きっちりと確保すべき海は黒海(及びボスポラス・ダーダネルス海峡)であり、 確保すべき拠点はクリミア半島であったようです (地政学について詳しく知らないので、理解を間違っているかも知れません)―― クリミアの紛争状態は、昔から断続的に続いていたと言われています。

当時のビザンティンの前に立て込んできた国際情勢は、以下のようにまとめられます (勿論、他にも様々な情勢があっただろうと推測されます)。

ちなみに「ルス」の語源として、 「赤ら顔の人々」という意味でビザンツの人たちが「ロス」と呼んだ事から来た、 という説があるそうです。

図版:西暦500年〜1000年までのヴァイキングの活動――中世暗黒時代の交易圏の発達に関して
ヴァイキングの活動
出典:ウィキペディア「ヴァイキング」

次に、この西暦500年〜1000年にわたる激変の時代を彩った交易が、 その後の世界史の流れに大きな影響をもたらしたと考えられるので、 疑念も含めて、簡潔にまとめてみます。

――中世交易の主力商品は、「スラブ人奴隷ないしは白人奴隷」だったそうです。

ヴァイキングは、川沿いに遡上しての奴隷狩りが、とても上手だった。 アラブ商人との奴隷貿易があり、ヴァイキングの本拠地の1つだったバルト海付近から、 大量のアラビア銀貨が見つかっているそうです。

当時の各宗教の法律に、次のような項目があるそうです。

同じ頃、スラブ人が大挙して民族移動し、ビザンティン領土の略奪を行ないつつ、 バルカン半島に続々と流入しています。 これが現代にまで続く、バルカン問題の始原です。 6世紀から7世紀をピークとする気候悪化もありますが、 何故このタイミングでスラブ人が急に移動してきたのか、 様々な要因を想像せずにいられません。

――様々想像される中の、ひとつの大きな要因が、「奴隷貿易」です。

特にヴォルガ流域やキエフ、南ロシアは、 アラブ商人とヴァイキング商人が出会うところであり、 白人奴隷の供給地であり、奴隷貿易の中継地かつ市場だったそうです。 ヴォルガ川は、北欧のバルト海と中央アジアのカスピ海とを結んだ大河であり、 黒海へのルートも開けていました。 ホラズム、ニシャプールなどの諸都市は、 アラブ商人の奴隷市場として繁栄した都市だそうです。

当時のキエフ〜南ロシア、その中心部にハザール(たぶん白系ユダヤの起源問題)の謎がある…

問題は、ヴァイキング等が活躍した中世の奴隷貿易が、どの地域で、 どの程度の規模で行なわれていたのか?――です。 アラブ方面では、奴隷貿易の結果、8世紀頃に白人傭兵(マムルーク)が急増して、 マムルークによる王朝すらあった訳です。 更にオスマン=トルコでは、「イェニチェリ」と呼ばれる白人傭兵も多かったのです。 トルコ白人の増加は、アメリカ黒人の増加と、理由は同じだと思われます。

キエフ=ルスやハザール王国(7-10世紀頃)は、 中世の奴隷貿易が盛んだった頃、どういう役割を果たしていたのでしょうか? カフカス交易ルートの独占で栄えた王国だった以上、 この貿易利権に無関係だったとは――とても思えないものであります。

…同じ頃に奴隷貿易に手を染めていたヴァイキング商人は、何処へ消えたのでしょうか?

同じくヴェネツィア商人――フェニキア人の末裔とも噂される富裕なユダヤ商人もまた、 奴隷貿易に手を染めたという記録があり――いわば「国際豪商」、今で言う国際金融グループの先駆に違いないけれど、 ハザール王国を中継した奴隷貿易で儲けた筈の、 ヴァイキング商、ヴェネツィア商、そしてユダヤ商の富は、いったい何処へ流れ、蓄積されていたのか――

中世の内戦は多く、繰り返し流行したペストもあって非常に人口が減少した筈ですが、 その頃に中東で急増したマムルークやイェニチェリといった白人傭兵――、 そして、当時の荘園制度を支えた「農奴」という労働力は、 そもそも、何処から湧いて来た――供給されたものだったのでしょうか?

…この辺りは、いわゆる「陰謀論史観」も含めて情報が錯綜しており、 不可解な事が多く、どうにもまとまらない部分です。 しかし、中世から近代へと変貌してゆく欧州社会に、暗く長い陰影を投げかけ続けてきた要素であり、 21世紀現代の民族紛争にも深く関わってくる要素である――と考えられるものであります。


参考年表

0270年|プロティノス死、新プラトン主義の時代
0276年|マニ教の創始者マニを処刑(ササン朝ペルシャ)マニ教の流行グノーシス主義の流行
0313年|ミラノ勅令――キリスト教の公認
0325年|★ニケーア宗教会議(三位一体説。アリウス派キリスト教を異端として追放、アリウス派はゲルマン系に広まる)
0330年|コンスタンティノポリス建設/コンスタンティノープル遷都
0332年|ローマ軍、ドナウ河の中・下流域にてゴート族・ヴァンダル族と戦う
0352年|ゲルマン第2波、アリウス派教父ウルフィラがゴート語への聖書翻訳を始める(348年頃から)
0375年|フン族、ヴォルガ河を越えてゴート族を蹂躙/ゲルマン民族大移動(西ゴート族の侵入)
0380年|初代サン・ピエトロ寺院(バシリカ式。プレ-ロマネスク様式)、バチカンに建立
0392年|キリスト教、ローマ国教となる、教父神学の時代
0395年|★ローマ帝国、東西に分裂
0410年|西ゴート王アラリック、ローマ市を劫掠(当時のローマ市は西ローマ帝国の領土)
0429年|ヴァンダル、西ローマ帝国の政争に乗じてカルタゴの故地に建国(434独立-534滅亡)
0431年|★エフェソス宗教会議、ネストリウス派を異端として追放
0449年|アングロ=サクソン、ブリタニアに渡来、七王国時代始まる(449-829終)
0451年|★カルケドン公会議(単性論を排斥)、カタラウヌムの戦でフン族敗退/ゲルマン諸族の勢力拡大
0476年|★西ローマ帝国滅亡、オドアケルの王国(476-493滅亡)
0486年|フランク王国建国、クローヴィス王即位(486即位-511没)、メロヴィング朝(481-751)
0493年|東ゴート王テオドリックがオドアケルを謀殺、イタリア・東ゴート王国(493-553滅亡)、『銀文字聖書』(6世紀頃製作)
0496年|★フランク王クローヴィス、カトリックに改宗(アリウス派)
0511年|クローヴィス没、フランク王国は四分割(相続ルールにより)
0527年|ユスティアヌス、東ローマ帝国(ビザンティン帝国)皇帝に即位(527即位-565没)
0531年|★ササン朝ペルシャ王ホスロー1世即位(531即位-579没)、東ローマ-ササン朝ペルシャ間の抗争激化
0535年|★インドネシア・クラカタウ島火山の大噴火、大量の火山灰が地球を覆い異常気象が続く
0560年|クロタール1世、フランク王に即位(-563没)、四分割のフランク王国を統合(相続ルールにより)
0563年|フランク王国、再び四分割(相続ルールにより)/これ以降、宮宰や地方豪族の力が目だって増大
0568年|ランゴバルド王国、北イタリアに建国(568-755滅亡)
0610年|★マホメット、アッラーの教えを説く(622年ヒジュラ、630年アラビア半島支配)
0632年|★正統カリフ時代(632-661滅亡)
0661年|★ウマイヤ朝成立(661-750滅亡、756年コルドバに後ウマイヤ朝を開く)
0687年|フランク王国宮宰の中ピピン、実権を握る
0697年|★イスラム教徒、北アフリカ沿岸・カルタゴを占領(当時はウマイヤ朝)
0711年|★西ゴート王国滅亡、ウマイヤ朝支配下に(-750滅亡)
0714年|カール=マルテル、フランク宮宰に(714宮宰-741没)
0720年|★ウマイヤ朝、ピレネー山脈を越えてガリアに大挙侵入
0726年|東ローマ皇帝レオ3世、聖像禁止令発布(ローマ-コンスタンティノープル間の外交断絶)
0732年|★トゥール・ポワティエ間の戦(この後、封建制度の成立が進む)/吟遊詩人の活動盛ん
0750年|★ウマイヤ朝が滅び、アッバース朝成立アッバース革命=i751年、タラス河畔の戦)
0751年|カール=マルテルの息子ピピン、フランク国王に(即位751-768没)カロリング朝を創設
0754年|★アッバース2代カリフ、アル・マンスール即位(754即位-775没)
0756年|ピピン、ランゴバルド王国領地をローマ教皇に寄進(ピピンの寄進=教皇領)/★後ウマイヤ朝(756-1031)
0762年|★バグダード建設開始(アル・マンスールによる)
0768年|ピピンの息子カール、フランク国王に即位(768フランク国王-800西ローマ皇帝-814没)
0774年|フランク国王カール、ランゴバルド王国を滅ぼし、イタリア王を兼任
0786年|★アッバース5代カリフ、ハールーン・アッラシード即位(786即位-809没)、イスラム初の病院etcを建設
0800年|カール(シャルルマーニュ)大帝戴冠、西ローマ帝国復興、カロリング=ルネサンス、スコラ哲学の時代
0813年|★アッバース7代カリフ、アル・マームーン即位(813即位-833没)、「知恵の館(バイト・アル・ヒクマ)」活発化
0829年|ウェセックス朝のエグベルト王、イングランドを統一して七王国時代が終わる
0843年|ヴェルダン条約でフランク王国を西・中・東の三国に解体/イングランドへのデーン人の侵入激化
0870年|メルセン条約で中フランク王国が消滅
0875年|イタリアのカロリング朝断絶
0909年|★ファーティマ朝成立(909-1171)、969年に都をカイロとする
0910年|クリュニー修道院、フランス中東部に設立(修道院運動)
0911年|東フランクのカロリング朝断絶(ドイツ方面)/ノルマンディー公国成立(フランス方面)
0932年|★ブワイフ朝成立(932-1062)、946年バグダード入城
0962年|オットー1世戴冠、神聖ローマ帝国成立
0987年|カペー朝成立
0988年|★バグダードの書籍商イブン・アンナディーム、『フィフリスト(目録の書)』を完成
0989年|ウラディミル1世(キエフ大公980即位-1015没)、東ローマ帝国皇帝の妹と結婚、ギリシャ正教に改宗
1000年|ハンガリー王国成立

参考資料

◆書籍

――他、数種

§総目次§
物語ノ岸辺物語ノ本流物語ノ時空物語ノ拾遺