深森の帝國§総目次 §物語ノ時空 〉星巴の時空2=後・太秦帝國ノ章

星巴の時空2. ―― 後・太秦帝國ノ章

――以上

序文:当サイトにおける中世ヨーロッパへの視線

―― ヨーロッパ中世とは、どういう時代でしょうか。

現代にまで続く「ヨーロッパ」の歴史と伝統が発祥した時代、 それがヨーロッパ中世であったと言われています。 ヨーロッパ中世という時代は――それ以前の 古代ローマ帝国とは、まったく別の時代でありました。

ヨーロッパ中世の大きな飛躍が見られる例として分かりやすいのは、建築です。 中世中期の頃、それまでには見られなかった壮麗な教会建築、 例えばシャルトル、モン・サン・ミッシェル、ノートルダムなどが建立されるようになります。

中世中期のドイツでは、既にクレーンを使った巨大建築技術が進んでいました。 ドイツ・ポーランド地域の諸都市でクレーン建築などの諸工学が急速に進んだ背景には、 カール大帝(シャルルマーニュ)が大いに関わっていた形跡があります。

さらにロマネスク・ゴシックを経て、中世後期には、こうした建築技術が更に進歩し、 ベルサイユ宮殿などの大掛かりな造成も、現実のものとなっていました。

これらの進展の始原となった中世前期と言えば、ゲルマン諸王国の時代であります。

ですが、そもそも何も無い(当時のヨーロッパは大森林と岩山の世界が多い)ところに、 インド=ヨーロッパ語族の後発組、ゲルマン諸族が入ってきた筈が無いし、 即座にゲルマン諸王国が華やかに繁栄できた筈が無いのです。 ゲルマン諸族が入り込んだのは、その当時、既に十分に都市開発がなされ、 後の繁栄の基礎がしっかりと確立していた土地であった筈です。


ガロ=ローマ時代の覚書〜ローマ帝政末期のヨーロッパ

ローマ帝政期のヨーロッパに繁栄した、「ガロ=ローマ時代」。 ここにヨーロッパ中世前期におけるゲルマン諸王国の繁栄と封建制度の成立を生み出したものの存在を、 読み取りたいと思います。

考古学的には、「ガロ=ローマ時代」と言われているこの時代は、 カエサルのガリア征服後から、西暦500年位までの期間に当たります。 ケルト=ローマ融合文明の全盛期でもあり、 この時代に、ケルト(ガリア属州)とローマの文化的融合が進みました。

種子がまかれたのは2世紀、ローマ・アントニヌス朝がもたらしたパックス・ガリアの頃で、 その絶頂期は2世紀から3世紀。 それ以前のヨーロッパとは、 「アルプスの彼方(トランサルピナ)」と曖昧に呼ばれていた、謎の辺境でありました。

「アルプスの彼方」とは言っても、全くの未知の異境という訳ではなく、ある程度の情報は入っていたと思われます。

トランサルピナの東方を南北に突っ切る「琥珀の道(琥珀街道)」は、 エーゲ海文明の時代には既に開かれており、フェニキア人も地中海の側からアクセスしていました。 後のローマ帝国へも、「琥珀の道」を通じて、バルト海の琥珀(バルティックアンバー)が運ばれていました。 また、ローマ時代の交易路には、「塩の道」もありました。

ちなみに琥珀は、ギリシャでは「エレクトロン(輝くもの)」と呼ばれていました。 これがエレクトロニクスの語源です。こすると静電気を発して周りのものを引き付けますが、 これで患部をこすると悪いものも引き付けられるために病気が治るのだ、と信じられており、 そのため、ヨーロッパ中世末期まで、琥珀は万能薬だと考えられていたそうです。

当時のローマ地図では、南側(地中海沿岸)から順に「ナルボネンシス」、 「アクイタニア」、「ルグドゥネンシス」、「ベルギカ」となっています。 「ベルギカ」の東部地方が「ゲルマニア(大ゲルマニア)」――現代のドイツで、 西の海の彼方の島が「ブリタニア」、現代のイギリスです。 当時のスペイン・ポルトガルは、「ヒスパニア」と呼ばれていました。

図版:2世紀初頭のローマ帝国とゲルマニア
2世紀初頭のローマ帝国とゲルマニア
出典:ウィキペディア「ゲルマニア」

当然ながら、ローマ化の早かった「ナルボネンシス」州が、 一番地位の高いローマ属州だったそうです。 (厳密に言えば、ナルボネンシス州はガリアでは無いようです。 通常、ガリアというのは、それより北側の3属州をまとめて言うそうで、 これが「3つのガリア」です。「長髪のガリア」とも呼ばれていました。)

ブリタニア、ガリア、ゲルマニア――それにヒスパニア。 いずれもケルト文明が栄えた土地ですが、 カエサルの頃のローマ帝国においては、異民族の辺境と見なされていました。

ガロ=ローマ時代のガリアでは、ローマ化プロジェクトが推し進められるところとなりました。 ローマ道路が敷かれ、ローマ風都市が作られ、 ローマ支配の下で「パックス・ロマーナ」を享受しており、大いに繁栄する事になりました。 そこでは、ローマ帝国の誇る土木技術が、惜しみなく注ぎ込まれたのであります。

名のある大都市(ナルボンヌ、リヨン、ニーム、トゥルーズ、オータン、ランス)では、 人口2万人から3万人。 中規模の都市は約20あったと考えられており、推定人口5000人〜2万人。 小都市は不明ながら数が多かったようで、平均推定人口6000人未満。 公用語はラテン語。 内陸部の河川輸送ルートも既に開かれており、活発な交易がなされていました。

ガリア人の殆どは農民だったそうですが、その詳細は研究が進んでおらず、よく分かっていないそうです。 ただ、乾燥した地中海沿岸部で、エジプト及びスペインからの農作物や、 地中海貿易に頼っていたローマ人に比べると、 農耕に向く豊穣な土地に長く住んでいたガリア(ケルト)人は、必然として、 各種の農業技術に優れたであろうという事は、かなりの確度で言える筈です。 この時代に、犂(すき)、刈り取り機、土壌改良剤といった技術がローマに流入しています。

ローマ軍の食糧となった小麦は、ほぼガリア産の小麦だったと言われています。 ガリア(ケルト)人はブドウ園の経営の習熟も早く、 ガリア産ワイン(今で言えばフランス産ワイン)は、早々にローマ人の賞賛するところとなったようです。 しまいにはローマで消費するワインの80%がガリア産ワインという状態になり、 後のドミティアヌス帝はローマの葡萄栽培を保護するため、 ガリアの葡萄の木を半分抜かせる命令を出した程であったと言われています。 もっとも、西暦270年に、プロプス帝がガリアの葡萄栽培権をガリア人達に与え、 再びガリアでのワイン造りは活気を取り戻すのでありますが――

ちなみに、カール大帝(シャルルマーニュ)は、 「ワイン中興の祖」の異名も与えられているそうです。 ゲルマン諸王国・乱世の時期は、さすがに葡萄栽培も低調だったのでは無いかと思われます。

さてこのガロ=ローマの繁栄をものした属州ガリアですが、 地続きという条件のもと、次第にゲルマン民族の姿がちらほらと見られるようになります。 ゲルマニアは、ローマ帝国の版図には遂に含まれる事の無かったエリアで、 最初からゲルマン的要素の濃密なところでした。 ここからゲルマン民族が次第に流入してきたのです。

フランスとドイツの言語的な境界を定めた重要な戦いが、「トイトブルグの森の戦い(西暦9年)」だそうです。 以後のガリア語がロマンス語にシフトしていったのに対し、ゲルマン語は父祖からの言語を強く引き継いだと 言われています。

トイトブルグ(現・オスナブリュック近郊)の森は、 むしろかつての東西ドイツの国境付近といったほうが良く、ハノーヴァーの近くであるという事です。 (2009年には、オスナブリュックにて、勝戦二千年記念行事が開催されているそうです)

ゲルマン人の流入は、 パックス・ロマーナの絶頂の2世紀から急速に拡大しました。 狩猟生活から農耕生活への転換のため、人口爆発があり、 いっそう大量の土地を必要としたのが理由だと言われています。

何故ゲルマン人の流入が急に拡大したのかは分かりませんが、 2世紀の終わり――西暦180〜190年頃――は、 気象変動が激しく、世界的に動乱が広がった頃であると言われています。

例えば東アジアでは西暦184年に黄巾の乱が発生。日本でも倭国大乱が持ち上がっています。

一方、ローマ帝国では、西暦162年にパルティア王国が軍を起こし、アルメニア王国に侵攻。 当時のローマ皇帝は、その鎮圧のため軍を出しました。166年にはローマ凱旋となりましたが、 同時に兵士が持ち込んだ疫病(おそらくペスト)が流行。 西暦189年には、ローマ市内だけで1日あたり2000人の死者を出すという事態になり、 恐れた市民たちが地方疎開したため、疫病は全土に広がり、 ローマ全人口のうち、実に3分の1が失われた――と言われています。

165〜180年には、マケドニアから始まって、ローマ帝国のほぼ全土に「アントニヌスの疫病」が流行。 251〜266年には、1日に5000人が死ぬ、より悪質な「キプリアヌスの疫病」が流行。 しかしながら、これらの疫病は主に地中海沿岸で流行し、国境で隔てられた遥か北方のゲルマン系では、 殆どダメージは無かったようです。

ローマ帝国がゲルマン第1波(235年〜)への対応で不手際を重ねるようになり、 属州支配どころでは無くなったのが、3世紀。俗に「3世紀の危機」とも言われています。 この異民族流入という出来事を現代情勢の中でイメージするならば、 20世紀後半以降のアメリカにおけるヒスパニック系の流入が、もっとも近いものであるように思われます。

この3世紀、ローマ帝国は滅亡もかくや、という程の迷走と混乱を極めました――軍人皇帝と僭帝の時代です。 異民族侵入に対抗するための重税、蛮族の略奪による耕作地の放棄と荒廃、 そして入れ替わり立ち替わる数多の皇帝と、属州政治の機能不全。

3世紀の危機を通じてローマの奴隷制度が乱れ、税収も上下身分も確定しない社会が出現します。 そのため、この時代のローマ皇帝は、たびたび奴隷を耕作地に拘束するための勅令を出しています。 この部分は、重要だと考えられます。なぜなら、後の封建制度へ移行する可能性を秘める、 多数の因子のうちのひとつであったと考えられるからです。

さて、ガリア属州では、未来の姿を予兆させる、重要な出来事がありました。

3世紀の混乱の中、ササン朝ペルシャが時のローマ皇帝を捕虜としてしまい、 その息子が帝位についたものの、「ローマ皇帝、敵の手に落ちる!」というニュースは、 属州全体(ブリタニアの西端からゲルマニアの東端まで)をあっという間に駆け巡りました。

この衝撃が何をもたらしたかと言うと、いっそうの異民族の活動とローマ帝国の分裂です。

属州はローマ中央政府をあてに出来なくなったため、自らの領土と安定を守るため結託し、 あるいは地元の軍事的リーダーを皇帝として擁立し(=僭帝)、 最終的には「ガリア帝国(トランサルピナ系属州の派閥が中心)」、 「ローマ帝国(元老院の派閥)」、「パルミラ帝国(パルミラ地縁の派閥)」という3つの帝国が登場。

ガリア帝国は、もともとの政治的根拠が脆弱だったため独立を維持できず、 後に復活したローマ帝国の権威に再び服属する事で、わずか15年(260-275)で解体しましたが、 ガロ=ローマが生み出したガリア帝国こそは、 微妙にフランク王国の前身とも言える帝国では無いかと考えております。 その首都は、現ドイツ南東部の辺境、ラインラント=プファルツ州のトリーアにありました。

その後のローマ中央政府に現れたのが、統治の天才、ディオクレティアヌス帝。 官僚制度を整備し、皇帝権力の強化(専制君主制・ドミナートゥス)を図り、 もとは40程度であった属州を100以上に細分し、「分割して支配する」という手法でローマ帝国を統治。

この属州再編で、属州の自立性は奪われました。地方政府の首長の権限を制限したようなもので、 これが後々の混乱を呼ぶことになります――多数の小作人を持つ大地主の権限が伸張し始めたのです。 これもまた、封建制度成立の種子となったと考えられます。

西暦375年は、ヨーロッパ激震の年です。ゲルマン第2波に続いてフン族が侵入、 この時、西ゴート族がフン族に追われて西進をスタート。 フン族が世界最強の騎馬民族(ゲルマン族より強かった!)だった事もあり、 ゲルマン諸族は西に南に追われてローマ帝国とその属州に次々に流入。 アッティラ大王の件は有名です。

総じて、ガリア北部&東部からゲルマン民族の定着と支配が進むという流れがあり、 海を隔てたブリタニア(現イギリス)ヘも、ゲルマン諸族(特にアングロ=サクソン)が 組織的に出没するようになっていました。

続く4世紀から5世紀、ヨーロッパ全体が、本格的な民族大移動で大混乱になりました。 当然、ローマ帝国を支えていた各種のローマ制度は、完膚なきまでに崩壊。

ローマ帝国の東西分割(395年)の後、官僚制度の疲労がいっそう激しくなり、 各地のローマ都市は急速に荒廃してゆきます。 都市の混沌が広がってゆく中、地方の大きな地主はますます慣例を無視して領土と権限を 増やしてゆき、じわじわと小王国への道を歩み始めていたという事が指摘されています。 これらの小王国を次々に制圧していったのが、必然ながら、ゲルマン諸族でありました。

(※この頃になると、フン族も西ローマ帝国の中枢部に食い込んで、帝国内部を翻弄していたようです。 詳細はここでは省きます。)

以上の経緯を考慮してみると、中世ヨーロッパ全体に均一な封建制度が広まった基礎的要因として、 ローマ帝政末期の改革の一として、 属州全体で分割支配のための行政区の細分化が行なわれていたという 事実は――案外――注目に値するのでは無いでしょうか。

こうした中、 軍管区といった軍事的保障のある将軍が常駐した区画では――特に、 以前からゲルマン族の将軍が優勢だった地域においては――ゲルマン社会の伝統的な構造も考慮すると、 必然として、属州将軍から封建領主への移行ルートが開けていた筈です。

この頃、各地で城壁の建設も進んだそうです(ゲルマン風かどうかは不明ですが、中世の城壁の始原と申せましょう)。 事実上の暗黒時代にふさわしく、 ゲルマン諸王国の前身となる統治組織――後に封建制度に変わってゆく統治組織――があちこちに作られてゆく、 戦国乱世下にあったと申せましょう。

後にフランク王国を打ち立てることになるフランク族が、 遂にベルギカ(現・フランス北部辺境)に達したのも、この375年でありました。

――諸王国の興亡を生き抜いた末に、遂にヨーロッパを制したゲルマン系の統一王朝が、フランク王国でした。 「ヨーロッパ」を定義する物語は、ここに始まったのであります――

歴史文化という観点で見れば、ローマ帝国は、エーゲ海文明からギリシャ文明に至る物語の末裔にして、 ヘレニズム文化の最後の華であります。 そしてまた、思想という観点で見れば、 新プラトン主義やグノーシス主義を始めとする、多様な神秘哲学が花開いた時代でありました。


プレ-中世のヨーロッパにおける戦国乱世――民族大移動

ローマ帝国の崩壊と並行して、ヨーロッパ全域に大きな混乱が起こります。プレ-中世の動乱時代です。 歴史的には、民族大移動の時代とも言えます。ここに、ヨーロッパ世界のあけぼのがあったと考えられます。

ここで、ヨーロッパの地勢を眺めてみます。端的に言えばヨーロッパは、 ユーラシア大陸から大西洋側に突き出た半島部です。その海岸線はかなり限定されてはいますが、 海側から上陸するのは、さほど困難な仕事ではありません(だから、ヴァイキングが活躍したと言えます)。

ヨーロッパとアジアを分かつのは、ウラル山脈です。 その南端はカスピ海の北東の岸辺に延びており、アジアからヨーロッパに入るには、 カスピ海―黒海の北側沿岸を通過するルートが一番安全で、効率が良い事が分かります。 一方、南側のルートは、カスピ海と黒海との間をカフカス山脈が横断しており、平坦なルートの探索が容易ではありません。 しかもその更に南側は、すでにトルコ領域の険しい山岳地帯になります。

したがって、ヨーロッパにとっての急所はウラル山脈―カフカス山脈の狭間のカフカス平原(コーカサス地方)であり、 この領域を占有する王国を押さえておくのが、 中世以降の――「ヨーロッパ」の――必須の外交であった事は想像するに難くありません。

少し時代を下りますが、7世紀〜10世紀頃は、この一帯は、ハザール王国が独占していました。 動乱やまぬ条件の下で300年近くも栄えたのは、したたかにして恐るべき強国であった故では無いでしょうか。 その後のヨーロッパとアラブの歴史を大きく左右する存在でもあった筈です。

(21世紀初頭では、ウクライナという事になりますでしょうか。 また、カフカス山脈とトルコ山岳地帯の間の貴重な平坦ルートを領有するのが、グルジア・南オセチアです。 2008年、南オセチア紛争=別名・ロシア・グルジア戦争が起きた場所でもあります)

カフカス平原を抜けて最初に現れる大河が、ドナウ河です。移動という観点で見ると、 そこから2つのルートの選択があります。 即ち、コンスタンティノープルを目指してバルカン半島に抜けるか、カルパチア山脈の 北の山際を辿って、もっと西へ向かうか――の、どちらかです。

古代のローマ帝国の防衛線は、まさにこのドナウ河にありました。 1世紀末にライン河〜ドナウ河の岸辺に長城(リーメス)を築いています――後々、 食い破られる運命ではありましたが。

ちなみにギボンの『ローマ帝国衰亡史』によると、 アウグストゥス(ローマ帝国の初代皇帝)は、ローマの領土をライン河とドナウ河の内側に限るようにと戒めていたそうです。 彼はローマの伝統でもあった対外拡張政策を止め、防衛体制の整備に努めた皇帝でもあります(ローマ帝国初の常備軍を創設し、 国境警備を推進)。

もともとローマ帝国が理想としていた北部国境は、エルベ河とドナウ河だったのですが、 紀元9年のトイトブルグの戦いでゲルマン人によって手痛い打撃を受けたため、これを諦め、 結局ライン河を国境と定めたと言う話です。 ライン河とドナウ河の線の北側は、ローマ帝国にとっては、支配利益と防衛コストが逆転するラインでもあったのです。 このラインに沿って、リーメスが築かれていました。

さて、カルパチア山脈を辿って西進すると、行く手の南側に平原が広がります。これがハンガリー平原です。 当時はパンノニアと呼ばれており、民族移動の際、吹き溜まりのような役割を果たした事が知られています。

注意すべき事は、パンノニアこそがヨーロッパの玄関口であり、この平原に一旦達してしまえば、 ヨーロッパのいずれの地方にも移動が容易になる――という事実です。 交通を妨げるような山岳地帯は無く、あっても開口部が広いため、ルートを見つけるのが容易なのです (大河は有効な境界を構成しますが、それほど交通を妨げるものではありませんでした。まして当時のヨーロッパは、 深い森林に覆われた土地がまだ豊富にあったのであり、船の材料には事欠かなかった筈です)。

ユーラシア大陸最強の騎馬民族であったフン族は、カスピ海の北を通ってこのパンノニア平原に陣取り、 東ゴート族を支配下に置き、ゲルマン諸族を圧倒しました。

大体、この地域の民族移動は、ケルト系を嚆矢として、東から西へ玉突きのように起こるもののようです。 数百年後にハザール王国がマジャール人を圧迫した時も、 同じルートでマジャール人が移動し、ハンガリー人の祖先になっています。 ハンガリー王国が建国されたのは、西暦1000年の事です。

かくして到来したプレ-中世の動乱の時代、4世紀〜5世紀のヨーロッパは、東西ローマ帝国、 拡大しつつあったカトリック世界、民族大移動によって追われてゆくケルト世界、 快進撃の止まぬゲルマン世界、フン族の拡大が、激しく衝突する場となりました。

いずれの勢力が、ヨーロッパを制覇するのか――民族大移動はその実、欧州の戦国時代であったのです。

〔余談〕

バルカン半島は、太古から民族紛争の震源地であったようです。

最古の世界大戦――といっても先史時代になりますが、その時代の出土物の分析により、 地中海東部沿岸を中心として栄えた古ヨーロッパ文明を滅ぼしたのは、カスピ海の北から到来し、 バルカン半島に滞留したインド=ヨーロッパ語族の第一波であったと推測されています。 紀元前4500年頃の話です。

古ヨーロッパ文明の別系統は、紀元前2000年頃までクレタ文明として続いていましたが、 これもインド=ヨーロッパ語族の第二波であるアカイア人・イオニア人のバルカン半島の南下によって崩壊しました。 その後のアカイア人・イオニア人らが築いたミケーネ文明も、 同じくバルカン半島から南下してきたインド=ヨーロッパ語族のドーリア人によって崩壊しています。 この後、アテネやスパルタの諸都市の時代が到来するまで、およそ400年に及ぶ暗黒時代が続いたのでした。

ちなみに、小アジアでは、クレタ文明より古くからトロヤ文明が栄えていました。 『イーリアス』、『オデュッセイア』に歌われた物語は、紀元前1200年頃、 ミケーネ文明がトロヤ文明を破って、エーゲ海の覇権を握った事を伝承する物語でもあります。

20世紀の世界大戦が、同じくバルカン半島のサラエヴォ事件から始まったのも、 何やら因縁めいて感じられます。


参考(1)年表――前後1世紀-5世紀の欧州史

AD51年|「長髪のガリア」がローマ支配下に入る
AD44年|ユリウス・カエサル没
AD13年|属州「アクイタニア」、「ルグドゥネンシス」、「ベルギカ」新設(3つのガリア)
0009年|★トイトブルクの森の戦い(属州候補ゲルマニアとローマ帝国との戦い。ローマ敗退)
0021年|ガリアの反乱(トレウェリ族・アエドゥイ族、課税に反発のため)
0030年|キリスト磔刑
0043年|ローマ、ブリタニア征服開始、ブリタニア属州新設
0046年|トラキア属州(バルカン半島、コンスタンティノープル付近)新設
0064年|ローマの火災
0068年|ガリアの反乱(暴君ネロ帝の打倒。西部属州全体で反乱蜂起あり、ネロ帝は自殺)
0079年|ヴェスヴィウス火山噴火、ポンペイ埋没
0083年|ライン・ドナウ両河上流に長城(リーメス)建設
0096年|ローマ・アントニヌス朝(96-192終)。パックス・ガリア。五賢帝時代(96-180終)
0098年|★タキトゥス『ゲルマニア』著述、この頃よりゲルマン諸族がローマ領内に現れ始める
0166年|ペスト大流行・大飢饉/ゲルマン系マルコマンニ族が北イタリア侵入、撃退される(177年にも同様の事件)
0180年|ゲルマン系諸族のローマ領内居住が始まる
0193年|ローマ・セウェルス朝(193-235終)
0212年|カラカラ帝の勅令。帝国内の全自由民にローマ市民権を与える
0235年|ゲルマン第1波/翌年、ローマ帝国は軍人皇帝・僭帝時代に入る(236-284終)
0247年|ローマ建国千年祭
0250年|ゴート族ドナウ河を越える、アラマンニ族・フランク族の流入
0260年|★ガリア帝国(260-275消滅)
0270年|プロティノス死、新プラトン主義の時代
0276年|マニ教の創始者マニを処刑(ササン朝ペルシャ)マニ教の流行グノーシス主義の流行
0313年|ミラノ勅令――キリスト教の公認
0325年|ニケーア宗教会議(三位一体説。アリウス派キリスト教を異端として追放、アリウス派はゲルマン系に広まる)
0330年|コンスタンティノポリス建設/コンスタンティノープル遷都
0332年|ローマ軍、ドナウ河の中・下流域にてゴート族・ヴァンダル族と戦う
0352年|ゲルマン第2波
0375年|フン族、ヴォルガ河を越えてゴート族を蹂躙/ゲルマン民族大移動(西ゴート族の侵入)
0380年|初代サン・ピエトロ寺院(バシリカ式。プレ-ロマネスク様式)、バチカンに建立
0392年|キリスト教、ローマ国教となる、教父神学の時代
0395年|★ローマ帝国、東西に分裂
0410年|西ゴート王アラリック、ローマ市を劫掠(当時のローマ市は西ローマ帝国の領土)
0429年|ヴァンダル、西ローマ帝国の政争に乗じてカルタゴの故地に建国(434独立-534滅亡)
0431年|エフェソス宗教会議、ネストリウス派を異端として追放
0449年|アングロ=サクソン、ブリタニアに渡来、七王国時代始まる(449-829終)
0451年|カタラウヌムの戦、フン族敗退/フランク族を中心として、ゲルマン諸族の勢力拡大
0476年|★西ローマ帝国滅亡、オドアケルの王国(476-493滅亡)
0486年|フランク王国建国、クローヴィス王即位(486即位-511没)、メロヴィング朝
0493年|東ゴート王テオドリック、オドアケルを謀殺、イタリアに東ゴート王国建国(493-553滅亡)
0496年|★フランク王クローヴィス、カトリックに改宗


参考(2)物語――ゴート族の伝承より――バルト渡海からフン族との邂逅まで

【注】
以下の歴史記述の大部分は、ゴート族の末裔が語る伝承を元にしているものであり、 「科学的に正しい歴史事象」とは合致しないので、注意されたい (参考書籍:『東ゴート興亡史‐東西ローマのはざまにて‐』、松谷健二・著、白水社、1994)。

紀元前1世紀頃、ゲルマン諸族が長く住み着いていた北部ヨーロッパ(スカンディナビア周辺)は、 長く続いた気候不順のため、従来の人口を養えなくなっていた。 実際に、その頃の北部ヨーロッパの平均気温は、今より2.5度低かったとされている。

ゴート族はその当時、すでにかなり強力な部族に成長しており、 王という存在――実際は首長に近いものであったろうが――を擁する 製鉄の民であった(スカンディナビア周辺は、高品質な鉄鉱石を産出する)。

彼らゴート族を含むゲルマン諸族の遠い祖先は、 カフカス平原に栄えた墳墓クルガン文化の担い手たるインド=ヨーロッパ語族であり、 その後に北部ヨーロッパへ移動した一派であった。 彼らは巨石文化の担い手であった先住民族を征服し、数多の混血を重ね、 後世のゲルマン諸族を構成するゴート族など複数の部族に分かれた。 この経緯はすでに『エッダ』神話の彼方にある。

西暦550年頃に、アリウス派キリスト教のゴート族の僧ヨルダネスが、 孫引きが多く、はなはだ不完全であるものの、 今に残る唯一のゴート史を記述しているという事である―― 以下の知識は、『東ゴート興亡史』(松谷健二・著)による。

さて、ヨルダネスの記述によれば、紀元前1世紀頃、ゴート族は武装難民となり、バルト海を渡った。 ゴート族を運んでバルト海を渡った船は3隻。うち1隻は少し遅れ、ゲピド族を運んだと言われている。 実際に、ゴート族とゲピド族は深い関わりを持っていたらしく、 その後のゴート史でもゲピドの名がしばしば登場する。 (※ゲピデ王国とゲピド族の関係は調べきれなかった。 名が似ているので、何らかのつながりはあるのであろうが――)

無論、僧ヨルダネスの「船3隻」という記述を史実と信ずるのは危うい。 古今東西を通じて3という数字は何らかの呪術的な意味合いを込めて使われているものであり、 この類の伝承ではよく出てくると思っておいた方がよい。

ヨルダネスはキリスト教徒だから言及はしなかったのだろうが、 ゴート族のゲルマニアを目指してのバルト渡海の決定の際には、 祖先の代から崇めてきた神々に託宣を求めた筈である。 この集団を率いるのは、ベーリヒという名の王だった。

ゴート族の渡海は成功し、続くゲルマン諸族に大きな刺激となったに違いない。 大量の武装難民を迎える羽目になった先住民には真に災難であったろうが、 さしあたりゲルマン諸族は、故郷の地と比べて遥かに温暖なゲルマニアの地に満足し、その制圧に力を注いだ。 必然、その勢力はローマ帝国まで伸びるものとなる。

ゲルマン諸族のうち、ユトラント半島東部からエルベ河口の辺りに定着していたテウトニ族とキンベリ族は、 突然の高潮に打撃を受け、急遽武装難民となる。 彼らはエルベ河の上流を目指して移動し、マインツ近くでライン河を捉えたのが紀元前110年。 続いてガリアに侵攻し、ついには紀元前105年にローマ軍を殲滅。 勢いに乗って2年後にイタリア本土への侵攻を図ったが押し返され、マルセイユの北で敗北し、 彼らは歴史から姿を消した。

『ガリア戦記』にもゲルマン諸族との戦い(西ゲルマン系アリオウィスト王がケルト人を煽動し、 ライン河の南まで勢力を伸ばそうとしたが、アルザスでカエサルに大敗北を喫する)が記録されている事からして、 ローマ帝国をして長城(リーメス)を用いたガリア防衛――国防または辺境警備――の必要性を十分に痛感させたはずである。 当時のガリアは、既に大穀倉地帯であった。

紀元前12年からローマ帝国のガリア北部国境での活動が盛んになり、 一時はエルベ河までの地を掌握したが、紀元後9年、 トイトブルグの森の戦いでゲルマン系ケルスキ族を中心とするゲルマン系連合軍に手痛い敗北を喫し、 ローマ帝国は、以後ライン河まで後退する。

一方ゴート族は、ベーリヒ王の5代後、フィリメル王を擁し、ゲルマニアを南東へ移動する。 南東を目指したのは当然、ローマとの接触を避けるためであったと言われている。 テウトニ族とキンベリ族の悲運は、子々孫々の語り草となっていたのである。

フィリメル王の代のゴート族が、何故に再びの移動を開始したのかは明らかになっていない。 ゲルマニア上陸後それほど時間は経っていないにしろ、安定した生活を築いていた筈であり、 これは経済的事情というよりも、 むしろゲルマン系に強く備わった民族的本能のようなものでは無いかと思われる節がある。

ドイツ語には、「Fernweh(遠方への憧れ)」という言葉があり、 wehという語は悲傷を意味すると言われている。 その反対語は「Heimweh」で、こちらは里心の意味だそうである。 いずれにせよ、真実は彼らに聞かねば分からない――が、 ゲルマン諸族の遠い故郷の位置を考えると、先祖の血が呼んだとしか思えない出来事である。

ともかくゴート族は黒海の北の穀倉地帯に達し、(おそらく)キエフを都とする、大王国を築いていった。 (厳密な意味では王国ではない。 交易路を支配下に置き、商業活動から隊商警備まで幅広く手がけたというのが正しいであろう。 先住の農民は、ゲルマン族の一派の支配下にあったという事を理解していなかったかも知れない。 360年頃、エルマナリク王の頃に、王国は最大の版図と勢力を誇った。 その領土はドニエストル河〜ドン河の間の南ロシア――カフカス平原――にあった。)

ゴート族が東西に分かれた時期ははっきりしていないが、 キエフを都とする頃には、既に東西に分かれていたのであろうと推測されている。 ゴート族の伝承によれば、ドニエプル渡河の時に舟で作った橋が壊れて、全員が渡りきれなかった。 ゴート族はそのまま、ドニエプル河を挟み、二手に分かれて移動した、というくだりがある。

その後のゴート王国は、ローマ帝国と幾度も事を構えた。ローマ文書でも、ゴート族に関する記録が詳しい。

332年、コンスタンティヌス大帝はゴート族と協定を結んだ。 ゴート族は、皇帝の定めた国境(ドナウ河)を守り、ローマ帝国に一定数の兵士を供給し、 その代わりに助成金をもらうという内容である。これによる平和は35年続き、 その間にギリシャ・ラテン文字の影響を受けてルーン文字が完成したり、 ゴート語に訳された聖書が作られたりするなど、文化面での発展は多数あったようである。

すべてを終わらせたのは西暦375年、フン族の侵入である。ゴート史に奇妙な伝承がある。

ヨルダネスの記述いわく――例のフィリメル王がスキタイの地(=黒海の穀倉地帯を指すのであろう)に到着したとき、 そこに数人の魔女を見た。王は魔女がゴート族に災いを成すことを恐れ、荒野に放逐した。 荒野にさ迷った魔女は、やがて荒野の悪霊とまじわり、醜悪な子供たちを生んだ。 子供たちは湿地に住み、人間とは余り似ておらず、言葉も人間離れしたものであった。 それがフン族の先祖である。

いやはや何ともすさまじい内容ではあるが、 ローマ人が蛮族と見たゲルマン系をして恐怖せしめたのがフン族であり、 この伝承の内容は、ゲルマン諸族がフン族を如何に怪物視していたかということを 示していると言えよう。

東ゴート王国は、フン族の来襲であっけなく崩壊する。 草原の民の戦法は、ゲルマン系には理解しがたいものであった。 伝承によれば老王エルマナリクは既に110歳(さすがに誇張であろう)、 絶望に陥って自殺した。若い指導者に代わっても状況は好転せず、 内部分裂から王国は滅亡し、残ったものはフン族の軍隊に組み込まれ、 その略奪の手伝いをする事になったという。

エルマナリク王を自殺に追い込み、その後継者ヴィニタリウスを弓矢で射殺したフン族の王バラムベルは、 エルマナリク王の孫娘を妻とした(フン族は一夫多妻制であった)。 その子フニムンドが東ゴートの王位を継いだ――とされているが、 これらの内容は、如何せんヨルダネスの魔女伝説の続きであり、 実際には、その後の足跡を追うのは、殆ど不可能といってよい。

西ゴート王国も同じ運命に見舞われた。西ゴートを蹴散らしたフン族は、 ドナウ河を越え、パンノニアに到達する――以後の物語は、 ヨーロッパにおける民族大移動、およびゲルマン諸王国の時代にゆずる事とする。


§総目次§
物語ノ岸辺物語ノ本流物語ノ時空物語ノ拾遺