深森の帝國§総目次 §物語ノ時空 〉華夏の時空4=大乾帝國ノ章

華夏の時空4. ―― 大乾帝國ノ章

以下のような構成で、〈後シナ文明〉を物語ってみます。

――以上(最下段に参考文献の紹介

死ぬものがアレクサンドロスと秦始皇帝、カール大帝と唐太宗皇帝、スターリンや毛沢東であっても、 彼の死そのものはいたって単純な自然現象、生命力を失った物質の量塊の科学的分解でしかない。 それが自然の領域から文化の範疇に移行するためには(中略)、 彼のその死がすでに生前から国民や臣民の関心と注視のうちにその意義を展開しているのでなければならない。 そしてその場合に、圧倒的多数者たる国民や臣民の関心と注視は、その内実が恐怖すれすれの讃仰であれ、 敬愛まじりの憎悪であれ、それ自体でひとつの解釈であるから、彼の死という事件は、一個の出来事に変容する。 加えて、ことばがこの出来事をとらえて記述するとき、その出来事、 カール大帝や太宗皇帝の死は歴史に変成されるわけだが、断るまでもなく、ことばは無垢(イノセント)ではないし、 純粋に中性的な機能でも個別科学的な論理分析の記号でもない。 その社会的な帰属はつねに明白なのであり、どのような国家や社会においても、 ことばはそれの属する国家や社会の政治と経済とに従属し奉仕する。 とりわけ歴史のことばは。 従って出来事がことばによって記述されるとき、 その記述の解釈を決定するのはその出来事が生起した社会を支配している権力にほかならず、 こういう解釈の論理的かつ心理的な審問を通過したのちに初めて出来事は歴史に、 同じことだが物語(ゲヒシテ)に昇華されるのである。――大室幹雄・著『遊蕩都市』三省堂1996

序文:〈中華の投げ網〉に呪縛されし大乾帝國――〈後シナ文明〉という仮説

漢王朝が滅んだのも「漢民族の繁栄」も、 既に遠い昔となった時代――騎馬民族を中心とする王朝交代の戦乱を通じて、 様々な民族を取り込みながら急速に変質・膨張していった「その後の中華帝国」。

〈シナ文明〉の頂点を築いた漢帝国の遺産を墨守し、或いは都合よく書き換え、 或いは「漢民族の歴史」を信仰する、“その後の中華なるもの(或いは、ポスト-漢文明)”。

『干潟幻想』=「中華」という名の「コスモス再建と解体と修復」 ――を彩った、〈投げ網〉の如き都市たちによって物語られる文明世界――それを仮に、 〈後シナ文明〉と名づけてみたいと思います。

(「干潟幻想―コスモス再建と解体と修復」は、大室幹雄氏の著作のタイトルを引用しています)

一個の巨大な干潟と隠喩した専制的世界帝国にあっては、 内と外との分節化こそが最も普遍的な構成原理にほかならなかった/ならないからである。
こうしてほぼ三百年の歴史を生きた長安、謹厳で殺伐な監獄都市から、 大周革命で放棄されたのちに富貴花の芳香が鼻を窒ぐ内臓的な遊蕩都市、 その懦弱な精神においていかにも小体な工芸品の帝国の首都として、 山水愛好癖と造園趣味を現前させた園林都市へと変貌を重ねた長安は「丘墟」に化した。 古代以来、天下=世界の中心として多くの帝国と王国の首都が置かれたこの土地に天子皇帝の永遠の宇宙軸、 天―天子=皇帝―父―赤子―人民の象徴的哲学的世界樹が立てられることはこれ以降もはや起こらないであろう。 けれども、いまのところは転倒して干潟の間を潮汐に漂流している中心軸はいずれ再建されるだろう、 約半世紀後に趙氏の北宋王朝(960-1127)によって。 だが、その場所は丘墟に帰した長安、上古以来の伝統的な世界の中心ではなくて、 いま昭宗と哀帝を弑殺して自身の後梁王朝を建てた朱全忠の汴州(開封)であるだろう。 天に二日は無くても、土には分散された複数の権力の併存がありえることを理解できず、 むしろ極端に嫌忌したこの文明にあっては、中心の世界樹はつねに立てなおされねばならず、 それをめぐって天下=世界が整序されなければならず、それがこの文明の生理であった/あるからである。 しかし趙家の北宋王朝がそれを再建した場所は上古以来の伝統的な世界の中心、洛陽でも長安でもなく、 隋帝国によって開設され、唐帝国によって維持されてきた大運河の結接点、 北方の中原と江淮および江南の南方とを繋ぐ運輸と経済の要衝地汴州であった。 そこでは何か新しい文明の傾向が現われるのだろうか? いまひとつだけ明らかなことは、そこに立てられた世界樹がまた打倒されると、 今度もまた別の新しい場所に世界樹だけは元のとおりに再建されたことである。 なぜならこの中心の世界樹へ不断に回帰するのがこの古い文明の生理であった/あるからである。 すなわち、官僚制的専制帝国への永遠回帰――。/大室幹雄・著『遊蕩都市』三省堂1996

〈シナ文明〉の残照のまばゆさの中で――〈後シナ文明〉の予兆

〈シナ文明〉は、儒教、道教その他の様々な古代思想を融合し、 代々の帝国の基礎となる宇宙観――即ち華夷秩序の世界観を構築した文明です。 〈シナ文明〉は、その文明の周縁部を、東夷・西戎・南蛮・北狄という形で、 華夷秩序の世界観の中に組み込みました。

華夷秩序の世界観が実際の国際関係として適用され展開したのが、冊封体制でした。 この冊封体制は、「朝貢貿易」と呼ばれる国家管理貿易を裏付ける秩序であり制度でありました。

この一方的とも見える華夷秩序グローバリズムと干渉しつつ、アジア世界は世代交代しました。

中原を支配する王朝が、前漢から後漢へ移り変わる頃――中原の帝国や西域の帝国の変容に刺激されて、 草原の世界もまた変容してゆきました。気象パターンは激しく変わり(飢饉・蝗害が頻発)、 巨大な匈奴帝国の分裂・崩壊を促すと共に、数多の遊牧騎馬民族によるユーラシア世界の再編を促したのです (この世界再編は、後に、欧州におけるゲルマン民族大移動の原因となりました)。

衰退した匈奴に取って代わり、 草原のシルクロード流通において特権的な地位を勝ち取ったのは、鮮卑です (後漢と協力して、他の部族=北匈奴・烏桓の後漢への侵入を抑制)。 鮮卑は概ねトゥルク系の民族で、多くの部族の連合体でもありました。 3世紀初頭には既に部族君長の世襲制が成立しており、 慕容・宇文・乞伏・拓跋・禿髪などの鮮卑系諸族があった事が知られています。 彼らが、後の魏晋南北朝時代の主役です。

朝鮮半島北部・高句麗(前37-668)の周辺は、 国境紛争や人口流出(徙民)で俄然騒がしくなります。 そして朝鮮半島南部には、馬韓・弁韓・辰韓(2-4世紀)がありました。 大陸の各地方から追われた様々な民族がバラバラに流入しており、 習俗も文化も異なったパターンで入り乱れていたと言われています。

朝鮮半島沿岸部や済州島(耽羅)には、 海上流通に関わる倭人コロニーが増加していたと考えられます。 彼らは華南の稲作漁労民に由来する道教文化を持っており、また日本の古代シャーマン文化とも共通するものでした。 日本では、奴国(=奴国の王は57年に後漢に使いを送り、皇帝から「漢委奴国王」金印を授かる)や邪馬台国など、 多くの小国が生まれていました。

そして時代は、後漢末に移ります。 黄巾の乱(184)が発生し、赤壁の戦い(208)をきっかけにして大陸勢力が大きく三分された頃、 最大の勢力を持って〈シナ文明〉の後継者を称したのが、 北部辺境流入の遊牧騎馬勢力を擁していた魏(曹操、220-265)、 そしてそれに取って代わった晋(司馬炎、265-420)でした。

止め処も無い分裂抗争に彩られた三国時代、八王の乱、及び五胡十六国を含む魏晋南北朝時代は、 〈シナ文明〉の、長い長い落日の時代でもありました。 中央の弱体化に伴い、大陸の周縁部には(海も含めて)、一層の動揺と活性化がもたらされたのです。

乱世の中、公権の確立が強く求められた時代でもありました。 八王の乱に続く五胡十六国時代は、胡族・漢族に関わらず、多くの流民を発生させます。 流民は大陸全土に拡散していったのみならず、周縁部にも流入定着してゆき、 各地で様々なパターンの胡漢複合――民族シャッフルが進行しました。

なお、混迷の極みでもあった「八王の乱」についての鋭い批評をご紹介:

この王国が世界の中心を回復したにもかかわらず、 その中心に位置していた皇帝を初めとする王家の人々の精神がそろって、 世界の中心の宇宙論的かつ政治哲学的な価値を自覚することなく、田舎芝居もどきに、 首都とその宮廷に登場して、各自が手にした権力と暴力の小道具を伎倆のありったけを尽くして振りまわし、 悲惨にして滑稽な芝居を踊り狂っては退場していった、その可笑しさをわれわれは見逃すまい。 ――『桃源の夢想』大室幹雄・著、三省堂1984

乱立する冊封関係や仏教普及を通じて、周辺国同士の政治事情もまた大きく変化します。 朝貢の有無に関わらず、物流が目覚ましく増加した時代でもありました。 人々の移動と共に、中央集権に関わる統治技術や知識も周縁部に流入し、 独立国を自称する、いわば「独自の中華」を自称する国々を各地に生み出します。

華夏大陸にあって、魏晋南北朝時代とは、まさしく〈シナ文明〉の、 残照のまばゆさの中にあった時代です。

北ベトナムでは、 漢人が建国した南越(秦滅亡の際に辺境の官僚が建国-前111・武帝により滅亡)という国がありました。 しかし、その後は中国の支配下にあり、徴姉妹による反乱(後40年)も鎮圧されてしまいました (1009年の大越国・李朝成立で、中国から独立したとされています。 華南に居た越人がベトナムへ南下し、建国)。

一方、中・南部ベトナムでは、 チャム人によるチャンパ王国が建国されました(192-1832、時代によって林邑・占城・環王などの名があり、 実態は連合王国だったらしい)。林邑の土着の区長である区連という人物が、 この地を支配していた後漢の日南郡に対して蜂起したのがきっかけですが、 当時の後漢は黄巾の乱に始まる大動乱の中にあり、この反乱を鎮圧する力がありませんでした。 領土を確定したチャンパは、海上交易国家として、南シナとインド・ペルシアの中継交易で栄えます。 3-4世紀頃に仏教やレンガ建築を初めとするインド文化が流入し、インド風の言葉も増加したと言われています。

日本でも更なる動きがありました。 『魏志倭人伝』に記録される邪馬台国の女王・卑弥呼が、239年に魏に使者を送り、 「親魏倭王」の封号を授かります。魏(三国時代)の冊封体制に組み込まれる事で、 残照にあってなお輝かしい〈シナ文明〉の威光を背景に、自らの地位や正当性を周辺諸国にアピールするという、 政治的な行動であったと考えられます。

同じ現象は西域でも進行しました。 青海地方に栄えた吐谷渾(4-8世紀、鮮卑系)は、北朝とも南朝とも冊封関係を結び、 朝貢・中継貿易を行なう事で、次第にシルクロード含む西域の強国となりました。 北朝(洛陽)とはシルクロードで結びつき、南朝(蜀地方)とは黄河上流地帯を通じて結びつきました。 早期から仏教が盛んでした(高句麗も、吐谷渾と同じように北朝とも南朝とも冊封関係を結びました。 高句麗もまた、早期に仏教が伝来した国です)。

華北で進行したトゥルク系民族=鮮卑による「正統な中華」を称する帝国・北魏の確立と、 その勢力拡大は、中原における民族シャッフル、及び支配民族の交代をも暗示する、決定的な出来事でした。

更にこの北魏は、その後の歴史において、連続して北シナに建てられる鮮卑人王朝(隋唐)、 モンゴル人王朝(元)、満洲人王朝(清)の雛形となりました。 つまり、〈後シナ文明〉の到来を予兆する帝国でもありました。

〈後シナ文明〉の第一原理を「シナ化都市化」とすれば、 第二原理は「正史の編纂」と言う事ができます。 異民族による王朝乱立が続いた事は、 「正史の編纂こそが中華王朝の正統な後継者の証である」と言う認識を強固にする方向に作用したのです。

(魏晋南北朝における王朝の乱立は、後々まで続く「正閏論」の争いを生み出しました。 「正閏論」が最も隆盛を見せたのは宋の時代の事ですが、いずれにせよこの「正閏論」を制する事が、 〈後シナ文明〉における中華王朝のアイデンティティを左右するようになったのです)

トゥルク、 シナの歴史のもう一人の主役 IV]より

ハナシは五胡十六国にもどります。三国時代のバトルロイヤルを勝ち残った魏を簒奪した司馬氏は、 晋をたてるもまもなくして「八王の乱」という内部分裂をきたし、 そこにつけ込んだ匈奴をはじめとする騎馬民族が陸続と国をたて、晋は南方に逃れ(東晋)南北朝時代が始まります。
北朝を統一したのは、トゥルク系鮮卑、拓跋氏で王朝名を北魏と称しました。 その後、王朝は東魏、北斉、西魏、北周と移り変わりますが全て鮮卑でした。
そして南朝を滅ぼし、再び天下を統一したのが隋ですが、これもまた鮮卑、普六茹氏、普通は楊氏と言われていますが、 シナ化した鮮卑なのか、鮮卑化したシナ人(ハン・チャイニーズ)なのかはっきりしません。 しかしはっきりしているのは、隋の文帝(煬帝の父)の皇后は独孤氏というれっきとした鮮卑人で、 その妹が李淵の母にあたります。つまり隋の煬帝と唐の高祖は母親が鮮卑人姉妹同士のイトコということになります。
(※当サイト補足=隋は、589年に南朝の陳を滅ぼして、天下を統一した)

トゥルク、 シナの歴史のもう一人の主役 V]より

440年の北魏建国から907年の唐滅亡までトゥルク系鮮卑人の王朝がまず華北、 そしてシナ全土におよび陸続としてとぎれなかったこと。 この結果、シナ文明の主体がハン・チャイニーズからあたらしいシナ人へとバトン・タッチしたこと。 岡田英弘氏はこれを「第二の中国」と呼んでいます。
漢は建国当初のつまずきで匈奴に隷属する羽目に陥りましたが、れっきとしたハン・チャイニーズの王朝でした。 (というのは転倒した理屈で、漢文明を築いた民族をハン・チャイニーズという、とすべきでしょう)
このハン・チャイニーズのシナは三国時代をもって終了し、 五胡十六国の戦乱による民族シャッフルをへて新しいシナへと生まれ変わりました。 この過程で果たしたトルコ人の役割を見るとき、 トルコがシナの歴史の影の主役であるとはこのことでお解かりになると思います。

〈シナ文明〉から〈後シナ文明〉へ――民族の変質と華夷秩序の世代交代

439年、鮮卑の拓跋氏族が建てた北魏が華北を統一し、 135年続いた五胡十六国時代は終わりました。 鮮卑の天下が確定した華北では鮮卑系諸族が定着し、鮮卑系の農耕も始まりました。 その過程で多くの亡命漢人、ひいては漢の文化習慣をも受け入れてゆき、 有力者層の中でも混血が進んだのです。

しかし、このような急激な民族シャッフルは、鮮卑諸族と漢族との対立を先鋭化し、 情勢を不安定化させる要因でもありました。漢族が勧める儒教や道教だけでは、 多くの鮮卑諸族と漢族の連合体であった北魏を安定させる事は極めて困難だったのです (北魏は、鮮卑を上位とする国家運営を望んだ)。

この王朝(北魏)の創設から終焉までを始終彩っていた歴史人類学的な主題―― その都市化と文明化とシナ化との三位一体の歴史現象の展開過程に絶えず顕現していた中国農耕文明と北方遊牧文化 あるいは都市的文明と放牧原野の文化との対立、端的に文明と野性との鋭い対立拮抗が、 (晋・洛陽の都での抑留・滞在の間に急激にシナ文化に染まってしまっていた) 太子拓跋沙漠汗殺害の伝承のうちにほぼ象徴的な形姿で物語られている ――大室幹雄・著『干潟幻想』三省堂1992
(北魏・太武帝に重用されていた漢人官僚)崔浩は漢-シナ教養人の誇りにかけて仏教を嫌悪した。 彼の妻は太原の郭逸の女(むすめ)だったが、 生家の宗教として仏教を信仰して釈典を好んでときおり読誦することがあった。 すると崔浩は怒って釈典を取り上げて焚き、その灰をご丁寧にも厠中(かわや)に捨てるほどだったと伝記は語る。 仏教嫌悪に理由はそれが「胡神」、化外の異国の野蛮な神だというので、この明快単純な理由によって、 妻や親戚縁者の信仰に神経質な反感をつのらせ野鄙な嘲弄を加えるのを信条としていた。 ――大室幹雄・著『干潟幻想』三省堂1992

華北を統一した太武帝の曾孫にあたる孝文帝は、 494年に、北魏の首都を平城(大同)から洛陽に移し、遷都と同時に遊牧民の服装を禁止し、 朝廷で遊牧民の部族語を話す事も禁止して、漢人の服装と漢語の使用を強制します。 また、遊牧民と漢人の融和を図るため、遊牧民に漢字一文字、二文字の姓を名乗らせ、 漢人有力者の家を指定して遊牧民の貴族と同格に扱い、遊牧民と漢人の婚姻を奨励しました。

鮮卑系のシナ化・中央集権化は、皇帝の「中華宇宙論的な意味での権威を高める」という目的のもと、 「憑依」的な過程を辿ったという事が、大室幹雄氏によって指摘されています。 中華宇宙論の魅力に「憑かれた一革命家」としての孝文帝の姿の部分を、以下に引用:

太和20年(496)正月丁卯、皇帝家の姓拓跋を漢-シナ風に元と改め、 同時に平城から移住した功臣や旧族の複姓もまた漢-シナ式に改めよとの詔が発せられた。 その詔はいう、「北人は土を呼んで拓といい、后を跋という。わが魏王国の祖先は黄帝から出て、 土徳を以って王となった。故に拓跋氏というのである。夫れ土は宇宙の時間と空間の中心の色であり、 万物の元〔根源〕である。宜しく姓を元氏に改めるべきである。 また諸功臣旧族の代〔平城〕より移住した者で、姓が重複しているならば、全員それを改めよ」 ――大室幹雄・著『干潟幻想』三省堂1992

北魏の新しい価値観として導入されていたのが仏教です。 最初は鎮護国家などの呪術的効果が期待されていました。 歴代の鮮卑系の皇帝は、「漢族による〈シナ文明〉の世界観を超越し、 なおかつ鮮卑上位の胡漢複合を支える世界観としての仏教」への期待の元に、 仏教を篤く信奉し続けたのです(三武一宗の法難を除く)。

北魏には「皇帝即如来」という国是があり、 当時の都・平城(大同)の郊外にある雲崗の石窟に彫られた大仏(弥勒仏)は、皇帝に擬せられていたという事です。 華北仏教は、クマラジーヴァ(鳩摩羅什、亀茲出身)などの影響を大きく受けていました。

漢族の「儒教(北シナ的・大陸的)-道教(南シナ的・海洋的)」が構成する中華世界観に対して、 仏教とは即ち、中原の〈シナ文明〉を、新たに覆い尽くそうとする上位的な文明的世界観として解釈することができます。 しかし、華北仏教は、「正史」の編纂を通じて、 中原において特権的な地位を打ち立てようとする鮮卑系諸族の王権神話に変貌を遂げて行ったと言う側面もあったのです (こうした華北仏教の複雑な性格は、後の唐・武周革命において、奇妙にねじれた影響を与える事になります)。

北魏勢力の拡大を恐れた南朝は、その初期より冊封関係を通じて、 北魏を封じ込めるための国際包囲網を築いていましたが、その膠着状態が破られたのは、 5世紀後半の事です。

それに遡る439年の記録によれば、北魏はこの年、河西・涼州の北涼王国を征服、 華北統一を確実にしました。同じ439年、「鄴善、亀茲、疏勒、焉耆、高麗、粟特、渇盤陁、 破洛那、悉居半等の国がみな使節を派遣して朝貢した」という記録があり、 涼州が東北アジア-西域を連結する戦略的要衝だった事を示しています。 華北における北朝(北魏)の確立は、東北アジア-西域(中央アジア)間の流通路の確定でもありました。

450年、北魏・太武帝は50万の大軍により南朝の宋を攻めて長江の北岸に達した時、宋の太祖に、 以下のような、「おまえの考えなど、まるっとお見通しだ!」という内容の書状を送った事が知られています。

「この頃、関中で蓋呉(がいご)という人物が反逆し、 隴右(ろうゆう)の地の氐や羌を扇動しているが、それはおまえが使いを遣わして誘っていることである。 ……また、おまえは以前には北方の芮芮(ぜいぜい/柔然)と通じ、西は赫連(十六国の一、 夏国を建国した匈奴・赫連氏)、蒙遜(河西地帯にあった匈奴・沮渠蒙遜しょきょ-もうそん)、吐谷渾と結び、 東は馮弘(ふうこう/十六国の一、北燕の主)、高麗(高句麗)と連なる。 凡そ此の数国、我みなこれを滅したり」――(『宋書』索虜伝)

日本では倭の五王の時代ですが、この頃の山東半島は、 倭国をはじめとする東夷諸国の南朝への使節派遣において、 その中継地として大きな役割を果たした事が指摘されています。

(※410年に南朝東晋の将軍・劉裕が、山東半島にあった鮮卑慕容部・南燕国を滅ぼし、 その地を領有した後、413年に高句麗の南朝朝貢が70年ぶりに再開、及び倭国の南朝朝貢が147年ぶりに再開しています。 倭国では女王・壹與が魏に替わった晋に266年に朝貢して以来の出来事でした。 山東半島情勢の激変は、東夷諸国に大きな衝撃を与えたのです。なお、当時の倭国は南朝朝貢国で、 北朝朝貢の高句麗と対立していました。そのため、朝鮮半島陸路以外のルートを選択せざるを得ない状況でした。 最も確実性が高いのが、対馬海峡-朝鮮半島沿岸-黄海-山東半島というルートだったのです。 荒れやすい東シナ海を一気に横断するのは、当時の造船・航海技術では殆ど不可能な事でした)

469年、山東半島は北魏の手に落ちました。北魏は光州を設置し、軍鎮を設けて拠点とし、 東夷の船舶を厳しく監視しました。そのため、東夷諸国からの船舶が、 北魏によって拿捕されるという事態が生じるまでになったのでした。こうして、 南朝の北朝封じ込め戦略は、東部戦線において破られていったのです。 その後、東夷諸国――柔然、高句麗、庫莫奚(こばくけい)、 契丹といった国々――が、北朝に盛んに朝貢しました。 特に高句麗は、貢献品の額を倍増していた事が記録に残っているそうです。

次に南朝が国際戦略上の重要拠点であった四川の地を喪失したのが、554年です。 四川は吐谷渾、河西回廊諸勢力、柔然などと連絡する西部戦線の地でありました。

589年、南朝滅亡及び隋唐帝国の出現は、冊封を通じて南朝と連動していた諸国にとっては、 決定的な打撃でした。柔然、吐谷渾、雲南爨蛮(うんなん-さんばん、雲南にあった南蛮勢力)、 高句麗、百済などの南朝諸勢力は、唐代にかけて次々に滅亡したのです。 南朝を中心とする冊封関係=国際関係の消失でもありました。

「〈シナ文明〉から〈後シナ文明〉へ…」という観点から見れば、 〈後シナ文明〉の雄・鮮卑王朝を中華とする華夷秩序の創世記であると共に、 〈シナ文明〉の雄・漢族王朝を中華とする華夷秩序の世界終末記でもありました。 このようにして、「〈シナ文明〉の残照」の時代は、幕を閉じていったのでした。

(※北魏の元々の本拠・内モンゴルには、 六鎮(リクチン)という遊牧民の六個軍団が駐屯していました。 孝文帝の死から24年を経て、辺境に取り残された六鎮の遊牧民が反乱を起こし、5年後、 六鎮一派の司令官が、洛陽の皇太后と幼帝を黄河に投げ込んで殺害した事で、北魏皇帝の血は断絶しました。 543年に北魏は東魏と西魏に分裂。なお、隋も唐も、王朝の祖は、西魏に仕えた軍人です)


》資料:北魏の内部変化…民族シャッフルにおける、漢族とトゥルク系鮮卑諸族との確執

『干潟幻想』中世中国の反園林都市/大室幹雄(三省堂1992)より――

北中国の統一に成功した440年、太武帝は太平真君と改元したが、この道教風の元号の選定は、 即位当初は父祖以来の習俗として仏教を尊崇していた皇帝が、 崔浩および彼と親交を結んだ道士寇謙之を政事と軍事に重く用いる過程で道教に深く染まっていったことを表している。 つとに皇帝は崔浩たちの勧説によって天師道壇とか静輪宮とかいった、 道教信仰を直接に表象する一連の建築を平城に建設してもいたのである。

崔浩は漢-シナ教養人の誇りにかけて仏教を嫌悪した。彼の妻は太原の郭逸の女(むすめ)だったが、 生家の宗教として仏教を信仰して釈典を好んでときおり読誦することがあった。 すると崔浩は怒って釈典を取り上げて焚き、その灰をご丁寧にも厠中(かわや)に捨てるほどだったと伝記は語る。 仏教嫌悪に理由はそれが「胡神」、化外の異国の野蛮な神だというので、この明快単純な理由によって、 妻や親戚縁者の信仰に神経質な反感をつのらせ野鄙な嘲弄を加えるのを信条としていた。 その崔浩に仏教を徹底的に叩きつぶす絶好の機会がやってきた。

太平真君6年(445)9月、廬水の胡人蓋呉(がいご)が杏城(陝西省中部県)で民衆を集めて叛乱を起こした。 翌月、長安の鎮副将元紇(げんこつ)が討伐に向かって逆に殺され、 意気あがる蓋呉と民衆は渭水を渡って南山へ走ったのである。叛乱は拡大して、 年末には蓋呉が天台王を自号し、百官を署置するほど強大になるのだが、 翌る7年2月、自ら西伐に向かった太武帝が長安に滞在した。 そのとき、ひょんなきっかけで長安の仏教寺院に弓矢矛盾といった武器が大量に蔵されているのが発見され、 皇帝に報知され、皇帝は沙門たちが蓋呉と通謀している証拠であると激怒、その寺院の捜査を命じたところ、 醸酒用の道具だの近辺の大官や富人による寄蔵物が夥しく現われ、 屈室つまり穴蔵式の密室をつくって高貴な家の妻や女たちと沙門が淫乱を行なっていることまでが露見した。 皇帝の憤激。崔浩はそれをとらえて、長安の僧侶を誅殺し、仏像を破壊焚焼する詔を発せしめ、ついで全土一円、 長安の例に従って仏教を禁圧する詔を出させた。 曰く「彼の沙門は、西戌の虚誕に仮り、妄りに妖孽(ようげき)を生み、 政化を一斉して淳徳を天下に布(し)く所以に非ず。 王公より已下、私に沙門を養う者有れば、皆く官曹に送りて隠匿するを得ざれ。 今年2月15日を限り、期を過ぎるも出さざれば、沙門は身死し、 容止する者は一門を誅す」――妻や知人たちの仏教信仰に向けられた崔浩の反感、嘲弄、 嫌悪といった個人的な感情が皇帝の権力と権威を通過したことだけによって そっくりそのまま全領土内に拡充していった次第が理解されるであろう。

そしてこの翌月に再度下された詔も、仏教排斥のはなはだ単純な論点のうちに、 崔浩の神経症的な国粋主義の心情がほぼ肉声のまま露呈している。 「昔 後漢の荒君(明帝)は信じて邪偽に惑い、妄りに睡夢に仮り、 胡の妖鬼に事(つか)え、以って天常を乱す。古より九州の中に此無きなり」とまず詔は宣言する。 すなわち、(一)仏教はもと九州=中国土産の教えではなく、(二)異国の妖鬼の幻惑であり、社会秩序を乱し、 (三)その教説は誇大放誕で非現実的であり、(四)末世の闇君乱主がそれに眩惑され、 (五)結果として中国固有の伝統たる「政教は行なわれず、礼義は大いに壊れ」、 「王者の法」は廃れてしまった/しまうであろうというのが批判の主論点であった。

論旨は単純きわまりないけれど、それを現実化するのは現存の国家の権力だったから、 その単純明快にもかかわらず/ゆえにこの批判の効果は巨大だった。 この詔が発布されるや、王国全域にわたって「胡神」撲滅が断行された。 すなわち地方行政組織を駆使し、軍隊まで出動させて、沙門は少長となくすべて処刑し、 仏像や仏典は焚焼し、寺院や僧房や仏塔を破壊し尽くしたのだった。

(別の章より、崔浩の人となりについて説明する文章は以下の通り)――

…太武帝に仕えて仏教撲滅を敢行した崔浩である。「経史」を博覧し、卜易やオカルトにも精通して、 戦略家としての己れの才能を過大に評価していた崔浩はつねづね自身を漢の張良に比擬し、 学識においては彼を凌駕していると自負していたのではなかったか。 加えて、これもまたすでにわれわれの知悉していることであるが、 崔浩は彼が学者として古代の馬融や鄭玄らに卓越しているという、 孝文帝が堯・舜より秀れているとする咸陽王の讃辞と同一の論理と心性に発する追蹤的な讃美に呪縛されもした。 すなわち、太武帝の宮廷官場に、北中国残留の漢-シナ人官僚の勢力を拡張することに熱心だった崔浩は、 当然彼の周辺に漢-シナ学者-官人の閉鎖的な利益集団を形成した ――(崔浩の人となりについての説明文章、終わり)

この異国文化撲滅の運動にむける崔浩の位置は明白であるだろう。 仏教が彼にとって憎悪の対象であるのは、それが胡神の信仰、外来の文化だったからであり、 彼のうちにはそれに対抗し、それを凌駕する絶対的な文化として「政教」「礼義」「王者の法」への確信、 つまり儒教の伝統があった。仏教対儒教の対立は崔浩の時代の社会にあって、漢-シナ人たち、 とりわけ彼のような士大夫文官つまり知識分子にとっては多かれ少なかれ意識せざるをえない問題に違いなかった。 前述のように、太平真君元年あたりを漠とした境として崔浩の現実理解に失調が生じたのは、 仏教対儒教の対抗関係において、彼が儒教の側に彼自身や寇謙之など漢-シナ人だけを置くことに限定せず、 もともと鮮卑族の胡人で胡神を信仰しており、現にそのライフスタイルは依然として遊牧的であり、 また征服異民族たる皇帝太武帝までを儒教の側―― 漢-シナ人の少数者が信奉する残留博物館化の著しい中国文化の中へ取り込んでしまったことである。 反対に皇帝からすれば、仏教弾圧の一事に関する限り、 本来彼にその必然性はまるでないのに全国規模の大弾圧を断行してしまったのは、 彼が崔浩の偏執的エスノセントリズムの中へあまりに深く引き込まれてしまったことを意味した。 記録に残された太武帝の二度の詔というのが、 どちらもほとんど崔浩の肉声というべき仏教嫌悪に彩られているのはその証明である。 このことは早晩太武帝が崔浩の自民族中心主義の国粋的心情から自らを分離し、 従前の我から望んだのでもない崔浩との強い一体化にたいする反動として、 彼自らの鮮卑拓跋族の草原文化とそのエートスに回帰して、 終局的に崔浩にたいして復讐的な打撃を加えることを予測させもするだろう。 歴史の現実はこういうわれわれの予測を裏切りはしなかった。

全国的な仏教弾圧が行なわれた4年後、太平真君11年(450)6月、崔浩は太武帝によって誅殺された。

――中略(歴史編纂において鮮卑族を侮辱したことが原因で、崔浩は皇帝の怒りを買って殺されたらしい?)

(けれども)北人鮮卑人の反感の歴史的かつ文化的な諸要素はほぼ明らかといってよかろう。 端的にいって、それは崔浩と彼が宮廷官界へ呼び込んだ漢-シナ人の廷臣による都市化、文明化、 この場合ならとりわけシナ化に向けられた土着の草原遊牧文化の反動であり反撃にほかならなかった。 歴史家たちが指摘するように、漢-シナの士大夫の出自を絶対とする崔浩は、 たとえば国史撰述を総監した2年後に、笵陽の廬玄、博陵の崔綽、趙郡の李霊、河間の邢穎、勃海の高充、 広平の游雅、太原の張偉など、 彼同様に北中国の漢-シナ人社会で高門著姓として認められている貴族たちを太武帝の宮廷に引き入れた事実が示すとおり、 魏・晋の時代に彼らの父祖が享受していた門閥貴族が支配する社会と政治の復興を企図したのでもあろう。 だが、こういう崔浩の願望や企図は、主君太武帝が国家建設にかけた意志とは当然食い違っていた。 皇帝の意図は漢-シナ文化を摂取しつつ、鮮卑拓跋部族が主人であり、 彼らを中心に構成された独自の新しい国家を作り上げることにあったらしいからである。 これもまた歴史家たちが指摘しているように、 けれども老年に入って、崔浩は自分が魏王国の牧童頭の倅に過ぎなかったこと、 功績を挙げて王国の頂点近くに攀じ登りはしたものの、彼が招致した同胞の高門貴族たちとひとしく、 彼自身も騎馬遊牧民の制服王朝にあっては宿生木でしかなく、 宿生木が大輪の花々をにぎやかに樹冠のあたりへ咲かすわけにはいかないことを失念してしまったのに相違ない。 さきに崔浩は彼の教養と文化によるシナ化の効力を過信するあまり、 北魏王国の文明化や平城の都市化をただちにシナ化と思いなして絶対視したと記したゆえんである。 拓跋族北人たちの崔浩たちへの反撃が数年前の、 崔浩の発議にかかる仏教弾圧にたいする怨恨によって助勢されたであろうとは容易に想像される。 こうして太武帝に見捨てられた崔浩は、70の高齢で彼の一族、清河の崔氏一門ともども誅殺された。 崔浩一族の誅滅が彼個人に向けられた怒りや怨みの直接的な帰結だったのはむろんだが、それ以上に、 彼を代表とする漢-シナの士大夫たちとその文化にたいする北人たちの反感と敵意の表出であったことは、 皇帝により族誅されたのが崔氏一族に限定されなかった事実によって知られる。 すなわち崔浩と婚姻の縁があるという理由で、笵陽の廬氏、太原の郭氏、河東の柳氏といった大姓が族滅され、 また崔浩の勢力下で働いていた属官や下級吏員までが五族に及んで夷滅されて、記録は、 こうして粛清されたものは128人に達したと伝えている。

だが、歴史の可笑しさというべきか。崔浩による崔浩風のシナ化を圧しつぶした皇帝、 太武帝も無事では済まなかったのである。 父明元帝、祖父道武帝と同じように、その王国の文明化の過程で、 彼もまた文明の害毒によって生命を奪われてしまった。 ただしその害毒には、父祖を中毒死させた寒食散が文明の腐敗の一小部分でしかなかったのと違って、 中華の文明の堕落であるのか、それとも精粋であるのか、いちがいには判定しがたいようなところがあったのである。 すなわち、彼の王国もシナ化の一環として王宮制度の内部に宦官組織を組み込んだのだが、 太武帝は自身が寵愛して中常侍に引き立てた宦官宗愛に弑殺された。 崔浩を粛清した翌々年(452)、そのとき皇帝は45歳であった。


〈後シナ文明〉絢爛たる呪縛――隋唐帝国を襲う園林化とニュータイプ革命思想

人間が自身を都市の内部へ囲い込んだ長大な歴史はついに人間の卑小化、 矮小化を産みだしたのである。それと同時に都市的世界も銭の孔にまで萎縮した。・・・(中略)・・・そして、 古代以来の都市文明が銭の孔の中の虱にまで衰え果てたとき、 北方から侵入した騎馬遊牧の異民族に世界の中心を明け渡した、その文明の創造者は江南の長江流域へ移住し、 そこで文明の再生を図らなければならなかった。

これが、大室幹雄氏が『桃源の夢想』にて描く、古代の漢族による都市文明の終末、 南方へと亡命して行かんとする、かつての中原を支配した帝国の終末の姿です。 続く『園林都市』で、歴代南朝の都市の変容が描かれていますが、その都市の姿は、 漢代バロックから遥かに遠くなった物として言及されています。

世界の神話的な中心から地理的に大きく逸脱し、 城壁の欠如を初めとして従来の漢族の都の古典的な造形モデルからも逸脱した、歴代南朝の都市―― 交通エンジンは馬ではなく牛であり、牛歩の如く緩やかな歩み、 清談に表現されるような細部に囚われた精神が、ロココ的とも言える園林世界像を現出しました。

そしてこの「園林都市」の中に興亡した南朝の文化遺産が、 「干潟幻想/反園林都市」たる隋唐帝国の中に染み込み、 銭の孔の形をした〈投げ網〉よろしく、新興帝国をジワジワと呪縛して行ったと考える事が出来ます (=華北の人々は江南文化に憧れており、いわば江南コンプレックスを抱いていた)。

かつて、絢爛たるロココを現出した江南文化は、その富貴の文化的完成性の故に、 恐ろしい腐蝕作用の力を蔵していたと言えます。 この「反都市理念」をまとった園林の夢想、永遠普遍の腐蝕は、 隋帝国のみならず、唐帝国にも作用したのです。

同じく、『桃源の夢想』より、引用

端的にいって、戦国期的な渾沌と自由の再来にも関わらず、 世界解釈の枠組みが伝統として完成されすぎていたのである。そのため世界を初め、 国家、社会、人間をめぐって未来を展望し、それらの新たな諸関係を構想し、 世界解釈全体を構成しなおす想像力の潑溂はどこにも湧き起こらなかった。 ・・・(中略)・・・ 都市の城郭を去って山地に逃げ匿れた流民たちの塢堡建設の歴史現象のうちに潜む反都市のリアリティを発掘し、 他方で上古以来の文化を通じて伝承されてきた反都市理念の和楽と鶏犬相聞えるその共同体のイメージを彫琢して 「桃花源記」一篇に造形しえた陶淵明の境位の独自性は、こうして、やはり卓抜であったというほかはない (※人間存在は卑小であるという自覚の中に個人の解放があるかのように錯覚していた…という部分を越える事が出来なかった、 一般の学者-官人-知識分子は、魏晋の玄学もしくは清談の文化現象といったレベルに留まっていたという風に指摘されている)。 この小さな散文物語の創作によって、彼は彼の時代の歴史現実を未来へ向けて遠く越えぬけ、 彼の文明の基底の一半にほかならない反都市性の伝統を永遠の普遍性へと結晶化した。 ――そうして歴史の現実がこの反都市理念の普遍性をいささかなりとも実現するかにみえたのが、二十世紀、 われわれの世紀の半ばに毛沢東たちによって行なわれた革命の出来事であったといいそえるのは余談ではないであろう。

唐帝国が完成した都市・長安は、〈後シナ文明〉の完成形、 或いはその後の宋・元・明・清といった歴代帝国の都のロールモデルとして理解する事も可能です。 その都市・長安は、これまた、やはり時の変遷と共に変貌した都市でした。 最初は、城壁によって厳格に内/外を仕切る「檻獄都市」として登場したと言う事が、 大室幹雄氏によって語られています。

以下に、大室幹雄・著『檻獄都市』の緻密な語りを引用

一個の巨大な干潟と隠喩した専制的世界帝国にあっては、 内と外との分節化こそが最も普遍的な構成原理にほかならなかった/ならないからである。
長安の外郭城は規模の大小に些少の差異はあれ、高さ3m、厚さ2mを越す土牆によって防禦され、 画然と横長の矩形に区画された、蓋の無い巨大な平べったい箱に似た夥しい都市都市の集合にほかならなかったことが判かる (※補足=長安の外郭城=「坊」と呼ばれる街区によって構成される。「坊」全体の概数は110区)。 感受の仕方によっては、これは戦慄的な恐ろしい光景、それ自体としては荒涼たる不気味な景観、 権力の専横と倨傲だけが実現すること可能な反自然の構築、 醒めて眺めれば壮大な奇観以外の何ものでもなかったといってよかろう。 ・・・(中略)・・・ もうひとつ、景観の印象の表現を。高宗の代に完成された大明宮の前殿、 龍首原頭の高みに建てられて大明宮の「外朝」だった含元殿からの眺望である。 「天晴れ日朗(て)る毎に、終南山を南望すれば掌(て)を指さす如く、京城の坊・市・街陌は、 俯視すれば檻の内に在る如し。蓋し其〔含元殿〕の高爽なればなり」 ・・・(中略)・・・ 相対的に天に近い含元殿の高所に立って、げに昊天上帝のご機嫌もうるわしい青天白日のもと、 脚下に拡張する京城を俯瞰すれば、縄直の街路を挟んで、 高く厚い黄土の直立する堆積に囲まれて碁盤目状にびっしりと詰まっている街区と市場の集合は一個一個が巨大な 「檻」の群だというのである。それらの「檻」の内部に生きているのは羊たちであろうか? 昊天上帝の愛息子と彼の忠良な臣下たちの富貴に眩んでいる遠眼には、それが牛羊の群であれ、 人の男女老幼の群集であれ、現実にはさしたる差異はなかったといってもよかろう。 少なくとも権力の高みから俯視した、この景観はわが巨大都市の殺伐を歴歴と具象化してはいた。
首都長安は世界を天下的に所有し支配する皇帝と、 彼に禄仕する官僚たちが繫縛されていた底のない富貴願望の実現に奉仕する目的で設計され建設された檻獄都市であった。

唐帝国を彩った帝都は、長安と洛陽。 長安が「檻獄都市」だったのに対し、洛陽は「仏教的トポス」としての姿を見せました。 洛陽の伝統的位置づけの変遷は、以下のようなものだったと言う話です:

洛陽は、「中国」すなわち首都として「中国」(こちらは中原の意)の中心であった。 だからいわば「中国の中国」である。漢代に成立したシナ・イデオロギーの宇宙論的定位によれば、 この都市は天下・世界の中心として永遠に首都たるべきであった。・・・(中略)・・・
三国時代の混乱を経て北シナを統一した鮮卑拓跋氏の建てた北魏は、孝文帝によりこの洛陽に遷都した。 この時期は、仏教が大いに栄え、洛陽郊外の龍門に石窟が掘られたばかりでなく、 洛陽市内にも堂塔伽藍が立ち並んでいたことが後の世に著された≪洛陽伽藍記≫に詳しい。
北朝を引き継ぎ全土を統一したやはり鮮卑系の隋は、 二代目・煬帝のとき洛陽を東都と定め事実上は首都としての機能を与えられていた。 また経済軍事上の中心地として国家財産が集積された土地でもあった。 隋朝内部から帝位を簒奪したおなじく鮮卑系の李淵李世民父子も、自らの王朝・唐を立てた後は洛陽を東都とした。
それはシナ・イデオロギー上からその地が重要であったばかりではなく、 その都市の仏教的トポスも機能していたのかもしれない。/ 【シナの変容】洛陽、トポス・ブッデイスモ

唐・第三代皇帝・高宗の代、宮殿の増改築による都市・長安のいびつな変形、 「象徴性の深層において、この巨大都市は頸骨が折れて、 頭部が異様に脱臼してしまったと見立てるほかはない」と言う有様に乗じて、唐帝国を大いに揺るがし、 〈シナ文明〉に代わる新たな文明の予兆を見せた時代がありました。

それが則天武后の時代、武照革命(大周革命)とも記される時代です。 しかし、これもまた、あの江南の園林都市の影が差した結果なのか、 政治文化の拠点としての洛陽を徹底的に破壊した事実の他には、文明的な意味合いは無かったようです (江南コンプレックスの呪縛、恐るべし!)。

大室幹雄氏による、武照の大周革命論評(『檻獄都市』大室幹雄・著/三省堂1994):

武太后の専政と革命とが、 辛辣で覚醒的なリアリズムと夢想的な理想主義と壮麗広大なシンボリズムとのアマルガムによって神都を光被し尽した、 すなわち現実と夢想と象徴が混融する妖しげな巨大趣味(メガロマニイ)の実現によって、 東都洛陽を万象の秘儀が顕現し交響する場として文字通りに神秘な都に変成することに成功した
(中略)…宇宙の神秘が示現した聖母神皇の都をあげての壮大なカーニヴァル、20年間ぶっつづけに興行された世界芝居、 あるいはこの文明の開始以来最初の女性として、 世界の中心に聳立する宇宙軸を祀る単一至尊の天子-皇帝に再生した彼女自身の生の浄福をことほぐ祝祭、 それが大周革命の本体であった。…
さして広くもない神都洛陽にこれほど多種莫大な天下=世界の力が凝集して、 その力のたぎりの中心から断乎として集中的に強烈に、 壮麗誇大に多彩な表現として現前したこと――顧みれば、本書の前篇『干潟幻想』で、 天下=世界のほぼ全域に拡散して遊ばれた、始原児皇帝煬帝の世界遊戯を、彼の独自な心情をも勘案して、 江南ロココ崩れの擬似バロックと呼んだのだが、それとの対比において、われわれは武照の支配した世界、 より適切には閻浮提における彼女の「化城」に現前した精神と物質のメガロマニィ的な創造をバロックと呼ぼう。

(※当サイトにおける解釈&補足=もっぱら天空のみに定位された、 垂直的な力の上昇の意思をバロック的な精神と呼ぶ。 武照が力の限り破壊し変成した天上志向の帝国が、すなわち神都洛陽であった。 その支配の下、洛陽は、弥勒下生のバロック・ユートピア、あるいはバロック都市として展開した。 しかし、その実態は、秘密警察組織が活躍する「(恐怖政治)テロル都市洛陽」でもあった)

則天武后が押し通した仏教革命は、 シナ・イデオロギー都市を仏教イデオロギー都市に改造するという形で進行しましたが、 〈後シナ文明〉の第一原理――「シナ化都市化」そのものを変容させると言う事態には至りませんでした。 その代わり、〈後シナ文明〉を彩る事になる、新たな革命思想が定着しました。

つまり、 従来の「儒教・道教(陰陽五行説)を基にしたシナ・イデオロギー的な革命思想」に対して、 「弥勒下生信仰イデオロギーによる救済としての革命思想」が加わったと考える事が出来ます。 このニュータイプの革命思想は、20世紀の文化大革命にも及んだ事が指摘されています。

武照の弥勒信仰という外部思想を利用した革命は空前ではあったが、しかし絶後ではなかった。 彼女の仏教革命は後世に深甚な影響を及ぼす事になったのである。/ 【シナの変容】革命の変質

『遊蕩都市』(大室幹雄・著/三省堂1996)より、 歴代の中華帝国に関する素晴らしい論評を紹介:

歴史的現実は「富貴」の巨大な集合である。われわれの解読によれば、 最大最高の「富貴」は天下=世界そのものであり、専制主義的世界帝国の社会システムにおいては、 原理的に単一至尊の天子-皇帝が彼の「富貴」として天下=世界を所有し、 現実的には彼に禄仕する官僚の集団が彼の「富貴」の配分に与ることによって各自の欲望を充足しつつ皇帝を補佐して、 皇帝と相俟って天下=世界の支配を実現している。皇帝も彼の官僚たちも人類の救済、自由で平等な社会の達成、 超越的な観念あるいは実在による魂の彼岸への救拯、「小康」のユートピア実現のために彼らの世界を統治したのではない。 この専制的社会の悠久的歴史にあっては、 目まぐるしく興亡した帝国と王国の支配がそういう普遍的価値の実現を志向したことは絶無だったのであり、 いずれの王朝であろうと例外なしに、皇帝は世界大の「富貴」を所有し、 彼の忠実な官僚の群は彼への禄仕によって彼の全世界的な所有を各自の地位に応じて分有することを許され、 皇帝も官僚たちも各自の「富貴」を享受し衒示し蕩尽した果てに彼ら自身が歴史の現実から消滅していった。 端的に歴史とは「富貴」の世界大の所有、分配、享受、衒示、蕩尽の経過だったといってもいいようなのである。

【シナの変容】短命だった世界帝国より、 「唐」という帝国の概観

唐朝を開いたのは鮮卑人で、突厥との軍事連合により隋を倒したことはすでに述べた。 突厥とはチュルク(トルコ)の漢字表記である。鮮卑人はトルコ系ともモンゴル系ともいわれるが、 そのころはトルコとモンゴルの明確な区別がなかったようである。
いずれにせよ、唐の朝廷は西アジアとの密接な関係を有していた。 (中略)…唐の太宗(李世民)はそれらのトルコ系諸族から 「テングリ・カガン」と尊称され畏怖されていた…(中略)。 その唐の都の長安はそれら中央アジア諸族にとっての「帝都」でもあったのだ。
東西文化交流といえば聞こえはいいが、実際は、トルコ系や、 イラン系の人々が帝都の繁栄をしたって集まっていた、というにすぎないのである。 それはよくいわれるように長安が東西交通の要所だったからなどという理由だけではなかったのだ。 帝都であればもちろん富が集積されおこぼれに与ろうとする者たちがすりよってくるのは当然なのだ。
かれら中央アジアの民にしてみれば唐とは、 かれらの代表がシナを軍事平定し統治していると見えたに違いない。 そのような政治社会状況であれば、辺境から中央へと宗教も流入してくることもなんら不思議なことではない。 マニ教もそのひとつであったろう。
突厥をその後滅ぼしたウイグルが国を建てる(745年)が、彼らはマニ教を国教にしたという。 このウイグルは、唐の統治を揺るがした「安史の乱」(756年から763年、安禄山も胡人)の際、 唐へ援軍を送り長安の奪還に貢献した。このことも唐という王朝の性格をよく物語っている。 歴史をどう歪曲してとりつくろうとも、唐という政権はシナ人のものではなかった事実をごまかすことはできない。
唐は西へ開かれていた。というよりも、 それは西方からシナへ張り出した軍事パワーがシナの扉を西へとこじ開けた、というべきであろうか? 占領者がその出自とする土地とあらたな占領地を結びつけたのであるから、 その間の交通が開かれていたのは当然といえば当然のことだったのである。

》文化方面の概略

曹操の時代には建安文学といわれる新しい詩風が発生。 民謡の形式を採り入れ、知識人の気風に合うように改良したもので、後の唐詩に繋がる第一歩。 但しこの時代の文学精神は「慷慨(こうがい)」と言われるもので、曹操の次男・曹植が一番の名手だったと言われている。 一方の長男・曹丕(後の文帝)は永遠に関心があったらしく、後の老荘思想・仏教思想への道を拓いたと言われている。 いずれも乱世と政情不安の中で生み出された精神であった。

華南では無為自然・老荘思想が流行し、陶淵明などの大詩人を輩出した。 北朝で国教としての仏教が発達したのに比べ、南朝における仏教は貴族仏教としての性格を獲得した。 東晋の慧遠が指導した廬山の白蓮社という念仏結社が有名。 慧遠は貴族の援助の下に、「沙門は王者を敬せず」・「神(=シナでは「魂」のこと)滅びず」という議論を展開し、 中国知識人の間で「神滅不滅(霊魂は肉体と共に滅びるか滅びないか)」という、唐代まで続く論争を引き起こした。

乱世に翻弄された民衆の間では末法思想が流行し、 観音・弥勒・阿弥陀などの念仏によって救済されるという内容が広まった(浄土信仰)。 こうした民間信仰と民間の団体(或いは秘密結社)は強力に結び付き、反政府分子にもなった。

文学の世界では大衆化が進んだ。初唐の頃の漢詩は、 南北朝の貴族社会の影響を受けた定型的な美文調が殆どだったが、盛唐に至って、李白・杜甫など、 門閥の類では無い下級士族の間で、個人的な心情を表現する作品が増加した。 宋代の文人のモデルが出来上がってくるのは、中唐の頃だと言われている。

中唐の時代になると白居易が登場する。民衆の台頭があり、 民間の大勢の読者を対象にした平易な漢詩作品が増える。白居易は「長恨歌」「琵琶行」といった物語詩も作成した。 「伝奇」と呼ばれる小説が書かれるようになった事とも関連している(『唐代伝奇』など)。

中唐の頃は文人にも「文とは道を貫く器なり」というような儒教的な政治的確信があったが、 晩唐にはその政治的確信も薄れ、耽美的・退廃的な作品が作られるようになった。 晩唐の文人には杜牧・李商隠などが居る。


〈後シナ文明〉陸続たる征服王朝――〈中華〉世界樹の後継者たち

五代十国時代:後梁初期における各地自立勢力の出自

華北地方

四川地方

江南地方

《以上、資料は『世界歴史体系 中国史3 五代-元』(山川出版社1997)より》

北魏以来、鮮卑系の遊牧騎馬民族の部族連合体としての勢力図を強く残していた隋唐帝国には、 中央直轄の軍隊、つまり近代的な意味で言う「国軍」が存在しませんでした。 軍閥・節度使といった、地方有力者の軍事力に抑止力を依存したため、反乱や外敵侵入に対応する際、 指揮系統が混乱していた事が指摘されています。

五代十国時代は、中央の権威の弱体化に乗じての、節度使の群雄割拠の時代とも言えます。 五代政権は、唐の中央官制と節度使の権力構造とを折衷した物となりました。

節度使の政権運営は、各地方における、軍部(軍閥)による政権掌握であると言う事も出来ます。 多極化などの時代変化に伴い、多くの令外官が設けられました。 禁軍(中央直轄の軍・親衛隊)の編成は、この変化に伴う物でした。

傭兵中心の軍が禁軍その他の軍部組織(≒国軍)に繰り上がったため、 兵士は「民間からの徴用」では無く、給料を出して雇う、公務員的な存在となりました (『水滸伝』に出て来る兵士は、国家から給料をもらっている存在と語られています)。

必然として、国家財政における軍事費(人件費を含む)の割合は、唐帝国のシステムに比べると劇的に増大しており、 重い負担となったという事が指摘されています。

なお、五代政権の中央官制と禁軍編成は少しずつ改編しながら宋代に受け継がれましたが、 宋代になると武人の権限は大きく縮小され、再び「皇帝」の下、文人支配体制に移行して行きました。

この五代十国時代に起きた重要な変化は、華北・華南の人口分布が、古代とは様相を異にしていたという事、 そして共通通貨としての銅銭の重要性が増していたという事です。

華北地方は、 ユーラシアとつながる西域(シルクロード)を通じて襲来して来た数多の異民族の間で揺れ動き、 綱渡りのような不安な政情が続いたため、人口流出が続きました。 それに対して、長江デルタにあって水運が発達し、大量の人口を支える肥沃な土地が広がっていた華南地方では、 群雄割拠があったものの経済的繁栄が続いたため、更なる人口流入が生じていたのです。

代々の帝国の戸籍からの推測ではありますが、以下のような変遷であったようです:

五代十国時代における十国の国境線は、宋の統一後も広域行政区である「路」として継承されました。 その後、元の中書行省(元帝国の独自の地方行政区画)を経て、 現在の民族自治区を除く地方行政単位である「省」の境界にそのまま引き継がれます。

現在、この「省」が、 地理的条件、風俗・習慣・言語(方言)、広域経済ブロック単位として機能していますが、 それは、五代十国時代に由来を求める事が出来るのです。

五代十国時代は、特に華南地方(江南地方)の経済的躍進の時代でもありました。 各地方に分裂した勢力が、おのおの地元の経済振興策に集中したという側面があり、 各地方で地場産業が成長するきっかけになりました(特産品の創出など)。生産力の南北格差の始まりです。

地場産業(塩、茶、絹、綿、製紙、陶磁器、木工・竹工雑貨等)の生産物や物資は、 新興都市である「鎮(商業の拠点となる都市)」に集荷され、付加価値のついた商品になって広域流通圏の販路に乗り、 国境を越えて流通しました(大陸全土で起きた変化ではありましたが、華北よりも華南の方が活発でした)。

このような広域流通の発達は、必然として、共通通貨としての貨幣を、より強力に必要としました。 銅銭は古代の頃から、高額商品を金や絹で決済すると言う実物経済の補助として使われていましたが、 安定した唐の時代を経て、華夷秩序が及ぶとされるアジア圏(朝貢諸国)での、 国際決済通貨(朝貢諸国におけるハードカレンシー)としての圧倒的なパワーを持つに至っていたのです(銅本位制)。

この「共通通貨」は、後の時代、イスラム諸国を降し世界帝国となったモンゴル帝国(元)の下で、 ユーラシア諸国の経済活動と更に深く結び付きました (当時の西洋はイスラム経済の影響を大きく受けており、金銀複本位制。 なお、イスラム諸国では銀鉱脈枯渇・精錬用の木材の減少のため銀不足が起き、 アフリカ産の金貨が多くなりました。 経済発展に伴う貨幣が充分に供給できず、小切手が一般化し、銀行業が発展していたと言われています)。 そして更に後の、いわゆる大航海時代においては、スペイン・ポルトガルが主導した「銀」が、 グローバル経済の基準となっていました(銀本位制)。

五代十国時代の群雄たちは、財政を左右する銅銭の確保に必死になった事が指摘されています。 富国強兵政策を維持するため、群雄たちは様々な経済振興策を図り、商品作物を輸出して銅銭を輸入したり (後の時代、日本が宋から大量の銅銭を輸入したのも、この銅本位制の流れを受けたため)、 ライバル国の交通網を封鎖したりしていました。

自国発行の銅銭の改鋳によって貨幣価値を切り下げ、 この差から生じる対外的な利(輸出有利&為替有利)を得るという事も、 商業経済が成長し続ける華南の諸勢力の間では、盛んに行なわれていました (より低品位の貨幣、つまり鉄銭・鉛銭の併用もありました)。 対して華北勢力は、経済規模が小さい割に傭兵への俸給は大きい (軍の規模も、華南諸勢力に比べ相対的に大きいものだった)という条件があったため、 商業振興よりも農業振興に集中し、銅本位制にこだわったと言う事が指摘されています。

五代十国の間に通貨は地域ごとにバラバラになり、租税の制度や流通手続きは煩雑になりました。 この過度の貨幣市場の分裂が、群雄割拠を終わらせるきっかけともなりました。 あたかも古代の秦帝国のように、統一政権による共通通貨の一元化が求められたのです。 宋が天下統一を成し遂げたのは、地域差を容認しつつ着実に均一化を進めたためという指摘があります。

都市の光景もまた、大きく変わりました。唐代の間、平和が続いたため商業が発展し、 それまで政治中心であった謹厳な古代都市は、 「不夜城」とも呼び習わされるような娯楽を含んだ商業都市へと変貌を遂げていました(特に「揚州」が有名)。

古代においては長安・洛陽が即ち首都であるという認識がありましたが、 貨幣経済の発達、流通の発達に伴い、富が通過する場所も移動していました。 流通の大動脈たる大運河を擁する場所、即ち「開封(汴京)」が、 機能的な面から新しい首都として認識されるようになりました。

伝統的な都市構造から見ると、「開封(汴京)」は、中心部が妙に傾斜し、 内城・外城の至る所に商業施設が進出した異例なタイプの都市と言えますが、 同時に、今日の都市に随分近い雰囲気でもあったろうと思われます。 五代十国時代から宋の滅亡まで首都であり続けた都市でしたが、 金の侵攻により運河が荒廃し南北分断されると、富の集積地としての機能を失いました。 その後は運河の再建はあったものの、再び首都の座に返り咲く事はありませんでした。

宋代には既に、商人活動を制限する古代の「市制」が崩壊していました。 特に「瓦市(がし)」と呼ばれる歓楽街があり、酒楼、演芸場、飲食店などの店が出ており、 白話文学(後の『水滸伝』や『西遊記』の元となる)や、 戯曲(『西廂記』、『琵琶記』)などの都市文化が育まれました。

都市の商人たちは「行」と呼ばれるギルドを作り(手工業者の場合は「作」)、 多くの場合は同郷単位で団結していましたが、仏教や道教といった伝統的な民間信仰を通じて団結したり、 媽祖信仰や白蓮教のような新興宗教を通じて団結したりする場合も多かったようです。 これらの組織は、それぞれ固有の守護神を持っていました。

農業に関わる民衆の仲間内の団体の場合は、「社」と呼ばれていました。 例えば水利施設は元々国家管理下にありましたが、おおむね唐代末期の頃、 国家のあり方が古代の頃から変容すると共に、民衆が組合を作って施設を管理するようになったのです。

こうした「行」「作」「社」といった民衆の団体は、王朝交代の混乱期に際し、 強力なカリスマ指導者を得ると容易に秘密結社と化し、自分たちの土地を防衛するために、 或いは混乱に乗じて利を確実にするために、しばしば反乱に加わったと考えられます (勿論、情勢によっては、その逆のケースもあったと思われます)。

隋の時代の大運河の建築に始まる交通網の整備、及び流通の進展が、 貨幣(共通通貨)経済の普及拡大と共に大陸の各地方を重層的に結び付け、 国家そのものの変容、都市と地方のあり方の変容を促していたのです。

この変容は、 「古代そのままの中華(華夷秩序)世界観の拡大」に強固に裏打ちされていた事もあって、 大陸の分裂混乱期を劇的に短くする方向に作用しました。

実際、古代における分裂混乱期としての魏晋南北朝&五胡十六国時代は、300年から400年も続きましたが、 唐宋変革期における分裂混乱期としての五代十国時代は、ほんの50年ほどにしかならなかったのでした。

地域ブロック単位の群雄割拠としては、五代十国・宋の時代が最後と思われます。 この分裂の時代を最後に、華夏大陸は、国土としては分割不可能な広域ブロック単位として完結し、 遼・金といった、陸続たる征服王朝の帝国となったと考える事が出来ます。

これらの征服王朝は、生産様式が大きく異なる複数の民から効率よく利益を上げるために、 二重体制を運用していた事が知られています。この複雑な統治経験を充分に積んだ、いわば「世界帝国」として、 〈中華〉世界樹の最強の後継者たる征服王朝=「元」が登場しました。

図版:モンゴル帝国の最大領域
モンゴル帝国
出典:ウィキペディア「モンゴル帝国」

偶然かどうかは不明ですが、帝国の名乗りの由来や解釈も一変しました。 従来、地名に由来する帝国名を名乗るという習慣でしたが、 各王朝は、「良い名前」と判定された帝国名を名乗るようになったのです。

新たな征服王朝である「元」の国名は、 『易経』の「大いなるかな乾元」に由来していると言われています。 そして、続く「明」は火徳とされ、「清」は水徳とされています。

いささかオカルト的な話になりますが、五行説で言えば、「元」から新たに始まった征服王朝の並びは、 「相剋」の関係になります。この関係に従うと、どうやら「中華民国」は土徳、「中華人民共和国」は木徳のようです。 古代の帝国が、王朝交代に際して「相生」の繋がりをこじつけた事と比べると、実に対照的ではあります。

「文明におけるパラダイム・シフトという側面から見ると、如何な物か?」という疑問は、 無きにしも非ずです。

唐宋変革において分裂と混乱の時代が続いたにも関わらず、知識人(≒士大夫)の定義や、 科挙に伴う社会的・人生的成功に相当する「富貴のレイヤー」がいっそう固定された事は、重要です。 中断の期間はあったものの、1000年を超えて、清帝国の末期まで強固に続くという伝統的な社会レイヤー構造――

それはやはり、「大いなるかな乾元」が示した、 〈後シナ文明〉の文明的完結の姿であり、「一つの終わりと始まり」であったと申せましょう。

〈中華の投げ網〉に呪縛された帝国。古代都市の時代から続く、 強固な華夷秩序に憑依されている世界観(及び宇宙観)と、都市に集中する富貴(或いはエリート文化)志向。

中国史上の反体制運動の指導者となった知識人として、唐末期の黄巣、清末期の洪秀全などが有名ですが、 彼らが科挙試験の優秀な落第者であった事実は、「華たる者のプライド」という心理的コンプレックスと合わせて、 様々に考えさせられる物があると申せます。


資料:明末清初の人々――宗教と結社、民変と士民公議

明末の人々が示した新たな可能性が非常に興味深く、以下に引用しておくものです (当サイト管理人が、この方面について全く不勉強であるため)。

当時は、〈海のアジア〉からの新しい変化が、次々に押し寄せていました。 宋の時代以来、ずっと続いていた東シナ海・南シナ海の商人たちの海洋進出の歴史は、 元代に持ち込まれた新たなテクノロジーに力を得て、明代の「鄭和の大航海」という国家的大事業に結びつき、 倭寇や鄭成功などの海洋の新興勢力を生み出すまでになっていた事が知られています。

〈海のアジア〉ネットワークと深く結びついた事で、南中国にもたらされた富は、 非常に大きい物だった事が想像されます。民間における資産の蓄積が積み重なったと言う事があって、 明末清初の社会・宗教運動のような、新しい変化が起きるだけの条件が整っていたのだと考えられます。

明末期、大陸の此処彼処で現れていた地方公議システムが、 果たして文明を変容させる力を持っていたかどうか?というのは不明ですが、こうした民間の変容は、 「清の登場がもっと遅かったら?/清がもっと無能で弱小な支配者だったとしたら?」 という可能性を感じさせるものでした。

清は秘密警察を使って地方の実情を探っていたと言う話があり、 秘密結社のルートを使ったとしても、明末期に続いて、清帝国の支配下で、 地方公議が発展してゆくのは難しかっただろうと思います。

長く続いた支配にも関わらず「漢族っぽくない」という違和感が清帝国に付いて回ったのは、 このような、人民の間での自然な変化を強力に弾圧し続けたと言う行動のせいだったのであろうか、と想像しました。

地方分権については、清末期に二度目のチャンスがあった筈でしたが、 その時にはもう、西洋列強や日本との渡り合いで、それどころでは無かったのだと考察するところです。

》宗教と結社/『世界歴史体系 中国史4 明-清』神田信夫・編、山川出版社1999より

中国では2000年以上も「万人の万人に対する闘争」とでも言うべき状況が進行していた。 これはまた「自律的団体結合の欠如を特質とする中国社会のありかた」とも表現される。 これを過大評価すると「自由と活力と競争に富む社会」となるが、 実は人々が散砂に近い状況でひしめきあっていたとも言えよう。

中央権力はこの状態を維持し、 更に散砂化を促進する事によって「平天下」の実現を目指してきたかに見える。 官僚が横に連合する事は許されなかったし、民の連合は一族や郷村内の相互扶助のみに限定された。

しかし、中央権力のおとろえた明代後期に状況は変化した。 明末清初は中国の歴史では稀な「結会・結社の時代」と言われ、また「民間宗教簇生(そうせい)の時期」とされる。

知識人だけでなく庶民に対しても陽明学が情熱的に伝道された事は、その傾向を促進した。 無学な人々に対する羅教の普及もまたその傾向を強めた。 陽明学と羅教は中国史では稀な人間結合をもたらす運動であったのである。 陽明学は結局、党争の激化を招き、明朝崩壊の原因ともされた。 羅教は民衆の無数の秘密結社と言う形で後世に継承された。

だが、中央権力は一貫して、民衆の血縁地縁を超える結合を危険視して弾圧したから、 民衆の結社はすべて秘密結社の形を取らざるを得なかった。 しかし、少なくとも数百年、おそらくは数千年の散砂の状態にあり続けた民衆は新しい結合の仕方に慣れていない。 よく知っているのは皇帝が散砂の民衆を支配すると言う形式であった。しかも組織全体を権力から守らなければならない。

従って民衆の秘密結社は指導部のみが全体を把握し、 構成員は横のつながりを持たないという組織原則にならざるを得なかった。 民衆独自の結社においてまでも民衆は散砂であり続けなければならなかったのである。 此処に中国文明の特質のひとつが示されていると言えよう。

》民変と士民公議/『世界歴史体系 中国史4 明-清』神田信夫・編、山川出版社1999より

明末清初の税役問題の処理には、国家権力ないし中央の一方的意思のみによっては決定しえず、 地方の世論が様々な形で提起され、政策に影響する状況が看取される。 特に不当、あるいは不平等な負担が強いられる場合、抗議・要求する民衆が実力行使に出るのを「民変」と言う。

明末、直接に経済的利害をめぐって発生した大規模な民変としては鉱税の賦課、 およびその徴収にあたった宦官以下の誅求に抗議して運河沿岸や江南の諸都市で起こったものが有名である。

このような大規模なものの他に、税役負担をめぐって、府県レベルで小規模な民変が発生している。 とりわけ、郷紳の優免特権による負担の甚だしい不平等に起因する徭役問題=「役困」の解決では、 均田均役と呼ばれる改革が明末清初に進行するが、湖州府などで民変が発生している。

このような民変は、負担が集中する中間層、つまり或る程度の資産を有し、 担税能力ありと認定されているが郷紳身分を持たない庶民身分の階層がリーダーシップを取っていたと思われる。 このような中人層は、実際において、下級読書人層、 特に官僚身分を獲得してはいないが科挙の第一段階を通過した「生員」層と、重なり合う存在であった。

士大夫の末端に位置する生員層には、わずかながら優免が与えられていたが、雀の涙であった。 生員層にはかろうじて「館師」=住込家庭教師で生活を支えている者も少なくは無かったが、 やはり貧困の細民は少なく、相当の資産を有する者が多かった。 従って、重い役負担に悩む者が少なくなかった事は、史料にしばしば見出されるところであり、 徭役改革を求める運動の主導者となるのである。

このような階層が展開する運動は、必ずしも実力行使の形を取るとは限らず、 むしろそれは事態が順調に進行せぬ場合の例外的状況であったと考えられる。 むしろ彼らは、公開の場に会同して問題を検討し、解決策を形成する方途を追求する。 それは主に府学・県学、時には城隍廟や大寺院を会合場所とする、知府、知県など官憲との会議として現れる。

往々にしてそこには郷紳が出席し、更に古風に「耆老(きろう)」或いは「父老」と表現される、 庶民身分の有力者も出席する。全国については確認できないが、 少なくとも江南デルタはじめ華中・華南の相当の県でこのような慣行が定着しつつあり、 「士民公議」或いは「地方公議」と呼ばれるようになる。

このように明末には、中央集権的権力の一方的な統治・支配には収束されぬ、 県を単位とする地方政治の場が成立しつつあった。 それは一面、経済力を背景とする「地方」の「中央」に対する成立と見る事も可能であろう。

「士大夫」と概念的に区別される社会存在としての「郷紳」層の成立も、 このような県を場とする政治社会の形成と相関していた。 このように、「郷論」が形作られる場のヘゲモニー(人々の合意に基づく指導権)を握ったのが、郷紳層であった。 彼らのうち東林派に表現される開明派は、変動する社会・経済に対応して、 安定し、かつバランスの取れた秩序を極力維持すべく(端的には民変などの生起を防止すべく)、 理不尽で恣意的な収奪や特権享受を自制すべき事を説くのである。

明末の著名な思想家・顧炎武が「封建論」=地方分権論を説いて、 財政・人事・立法などの権限の地方分与を主張し、 また黄宗羲が「学校論」=地方公議論を説いて、 天下・地方の大事は宰相・地方長官が国子監・府県学に学生を集めて検討すべき事を語ったのも、 決して彼らの思弁のみの空想の産物ではなく、当時の社会の現実を反映していたのである。

清初、生員層が政治を談ずる事は厳禁された。 統治能力を喪失しつつあった末期の明朝と異なり、精気に溢れていた初期清朝は、 このような地方公議の芽を摘んだのである。 しかしともあれ、郷紳、或いは紳衿層の合意の上で知県の治政が実現する構造は、 明末以降の大勢となっていたと言えるであろう。


参考文献

参考書籍 参考サイト

§総目次§
物語ノ岸辺物語ノ本流物語ノ時空物語ノ拾遺