深森の帝國§総目次 §物語ノ時空 〉華夏の時空3=黄河乱世ノ章

華夏の時空3. ―― 黄河乱世ノ章

以下のような構成で、栄華と乱世の中を揺れ動いた中原の物語――〈シナ文明〉を物語ってみます。

――以上(最下段に参考文献の紹介)

序文:黄河乱世の文明――〈シナ文明〉

〈上古諸州〉が滅び、次世代の〈前シナ文明〉もまた崩壊した後、 真に〈シナ文明〉の歴史が始まります。

この〈シナ文明〉こそ、数々の栄華と乱世とを生み出し、現代にまで続く「中華世界」の基を築いた文明です。

大室幹雄・著『劇場都市』に、そのダイナミックな活動を描写した文章があったので、以下引用します:

孔子の没後、中国の社会は大きく変貌する。 君主権を確立し、征服と破壊と併合によって強大化した大国は領土国家へと巨歩を進め、 それは端的に軍隊の編成と戦闘法との変化として現われた。 春秋期に始まる歩兵と輜重兵の増加は諸国で動員の方法にさまざまの試行を生んだが、 杜正勝のいう「全国皆兵」の傾向は動かしがたい趨勢になり、 また趙と秦とに導入された遊牧民の戦闘法、いわゆる「胡服騎射」は大量の騎兵軍団を戦場によびいれた。
農業もまた変化した。鉄製農器具の開発、灌漑と施肥の普及、犂耕その他の農耕技術の発達により 農民人口は増加し――戦国期の全人口は約2500万人――、 土地を家族で所有するようになった農民が荒地を開墾するいっぽうで 余剰人口は都市へ流入してそのほとんどは都市細民を構成した。 そして商人に倣って農民たちも南方へ、現在の広東、広西省、 はては遠くヴェトナムのトンキン地方にまで移住していった。
商業――貨幣の使用が始まり、 交易や鉄鉱山と鉄工場の経営などで鉅万の富を築いた大商人は農民と下級貴族を対象に高利貸を営み、 諸侯の租税徴集の請負人となり、蓄財と土地の取得にいっそう前進した。 農民の商人への依存の度合いは高まり、商人のうちには地方官庁の官吏になるものも現われた。 この中国史上で最初の隆盛期に都市が発展したのはいうまでもない。 都市化は漢-シナ人の領域外へまで拡張し、従来の方形を基本的なプランとする都市のほかに、 交易市場から発達した不定形の町や都市が現われ始めた。
――大室幹雄・著『劇場都市』/第三章「知識人の登場と退場」より

そもそもの〈シナ文明〉とは、春秋戦国時代にスタートした、青銅器と鉄器の併用のあった文明と申せましょう。 『詩経』の元となった地方王権神話と融合しつつ、秦の興亡を挟む激しい社会変動と共に、各地に拡大してゆきます。 幾つかの断絶を起こしながら、「漢」帝国という絶頂を迎え、ここに「中華」概念が完成します。

つまり、秦の始皇帝が一代で創出し、漢が完成した文明、それが〈シナ文明〉であります。

いわゆる中国の歴史とは、皇帝の歴史そのものである。 近代以前には、「中国」という「国家」があったわけでもなく、 「中国人」という「国民」があったわけでもない。 言い換えれば、「中国」という国家が先にあって、 それを治めたのが皇帝だったのではないということになる。先にあったのは皇帝である。
皇帝の支配が直接及ぶ範囲を「天下」といった。 この「天下」とは、具体的には、皇帝を中心に展開した都市のネットワークをさすものであり、 各地にはりめぐらされた商業都市網の経営が、すなわち皇帝制度の本質なのである。
――シナ文明の構造から生まれる「シナという病」III /ブログ『シナにつける薬』より

秦の始皇帝は六つの異国を急速に統一し、「ただ一人の皇帝」を支える「中華帝国システム」を組み上げ、 度量衡や文字の統一をはかりました。 それは「焚書坑儒」という言葉にも見られるように激烈なものであり、 その余りにも急激な改革は、必然として民の恨みを増すばかりであったのが実態でありました。

何でまた焚書坑儒が行なわれたのか、という事を突き詰めると、 「諸夏思想に代わる新たな教義=中華思想」を刷り込む必要があったから――という風に考えられます。 「新たな教義の刷り込み」に伴う思想統制―― ここに、「オリエント文明的な外圧」を見たほうが自然である――としか言えない部分もあります (=戦後日本でも、GHQによる神道指令や教科書塗り潰し、 出版検閲があった訳で、やってる事は古代も現代も変わらない…)

焚書で焼かれた書物は、 民間にあった医薬・卜筮・農事などの実用書以外の書物、と伝えられています。 「以外の書物」というのが気になるところで―― 〈前シナ文明〉が蓄積してきた、各地に伝わる神話・伝承や歴史書の焼却が メインの目的だったのではあるまいか…と、推理せざるを得ません。

――歴史と思想と文明文化は三位一体。

ここに、〈シナ文明〉が〈前シナ文明〉を滅ぼしていったプロセスを、読み取りたいと思います…

――秦末期、陳勝・呉広の乱が発生しました。反乱は見る見るうちに拡大したのでありますが、 秘密結社のネットワークの力が大きかったようです。

最初に蜂起した陳勝・呉広は「王侯将相、いずくんぞ種あらんや」と叫びました。 秦は確かに最初の統一帝国を作りましたが、その前身は諸侯国の身分であったので、 ここで、文字通り、出身階層も血統も問わない、無制限権力バトルの時代が始まった事が宣言されたのであります。

「漢」帝国の前身は、「秦」帝国とは異なり、下層階級の秘密結社に基盤を置くものでありました。 陳勝が死んだ後は、西楚の覇王・項羽と漢王・劉邦との間で、秦王朝滅亡後の政権をめぐり、 当時の中国のほぼ全土を巻き込んだ内戦が繰り広げられたのであります。

◆シナ秘密社会についての参考資料: シナ秘密社会の概観 /ブログ『シナにつける薬』

その後、項羽が宮殿に放火し、宮中の書物も、大部分が失われてしまいます―― (歴史にif≠ヘありませんが、項羽と劉邦の争いで、もし項羽が生き残って項羽の帝国≠建国していたら、 今ごろ、東アジア情勢はどうなっていたのか――を考えずには居れません^^;)

――その中で辛うじて継承された書物から、漢代の学問が始まるのです。 秦に由来する〈シナ文明〉の時代――ないしは、「ハン・チャイニーズ文明」の時代。 それは既に、「前シナ文明ないしは上古のローカル文化」が大部分失われてしまった後の、 無色透明に近い天下一統…諸都市を結んだ世界であったに違いありません…

代表的な書物が、孔子が書いた歴史書だと思われていた『春秋』です。 「魯」と呼ばれた諸侯国の君主の年代記という内容になっており、誰もがこれを読んで 魯国の歴史書だと思い、孔子が作ったものだと考えていた――と言われています。

この『春秋』をより具体的に説明していると思われた各種の書物が、「伝」と呼ばれました。 現存しているのは、『左氏伝』『公羊伝』『穀梁伝』。他にも文献が多少残っていたそうですが、 書物名とわずかな引用文章のみを残して、その後の歴史の中で散逸してしまったそうです。

前漢中期にこれらの諸資料を集めて、歴史書が編纂された。これが、かの有名な『史記』です…

王莽の「新」をはさんでの混乱は、従来の祭祀の世界にも地殻変動をもたらし、 シナ文明の学問のオカルト化を生みました。 そして、後漢時代には、前漢の記録をまとめた歴史書『漢書』ができる…

――俯瞰してみると、「焚書坑儒」と「項羽の暴挙」と「王莽のディープ・オカルト主義」が、 その後の「中華の正統を主張する歴史・学問」に大きな影を落としている事が、よく読み取れるわけです…

「秦」から「漢」へ――「中華の継承」という牽強付会の概念の発生。

雑多な民族が交じり合って作り上げた、都市文明型の共同幻想――「漢民族」という名の、灼熱の呪縛。

この瞬間に、〈異形の帝国〉が誕生した――と考えられるのではないでしょうか。

図版:中華秩序の世界観
中華秩序
出典:「シナにつける薬」(http://marco-germany.at.webry.info/200710/article_12.html)

董仲舒のイメージにあって王者は宇宙軸あるいは生命の樹それ自体だったのである。 したがって「ただ天子のみ命を天に受け、天下は命を天子に受ける」と彼がいうとき、 この「命」は政治的ないしは道徳的な支配の根源に限定されるのではなく、 字義どおりに世界に還流する生命力そのものなのだった。 ――シナの世界観の淵源 /ブログ『シナにつける薬』より

》付記:春秋戦国時代の青銅と鉄

春秋戦国という時代は、画期的な時代でした。鉄器が生み出す急速な社会・経済の発展があり、 その発展の中で古い体制が壊れ、新しい体制を模索しなければならなくなった混乱期―― それが春秋戦国時代です。

鉄製の農具は、春秋時代に現れます。それまでは石器の農具が殆どでしたが、 鉄の農具の出現に伴い、農業生産力が飛躍的に増大します。 特に鉄製の大きな犂を牛に引かせて畑を耕す「牛耕」の 普及が、大きな役割を果たした事が知られています。

また各地の鉄の鉱山を開発し、鉄工業を興し、鉄製品を各種商品と共に売り歩く――という商人が現れ、 やがて、新しいタイプの富裕層(豪商の階級)を構成します。

中原の初期の鉄は鋳造鉄でした。これは武器としては非常に脆いものでした。 ゆえに、春秋戦国時代の戦争で活躍したのは、ずっと青銅武器でありました。 (当時の鉄は「悪しき金」と呼ばれ、青銅より下の地位にありました)

中原の鉄が鍛造鉄に置き変わるのは秦・漢代の事であり、『三国志』の時代に至ってようやく、 青銅の武器と鉄の武器とが干戈を交える――という場面が見られるようになってきたという事です。


匈奴大帝国――遊牧騎馬民族のユーラシア

中央ユーラシア――ないしは、内陸アジア。そこには、遊牧騎馬民族が行き交う広大な草原の世界が広がっていました。

この草原の世界は、シナ=東アジア世界ともオリエント=西アジア世界とも接触しており、 政治的にも経済的にも、ユーラシアの東西を結びつける、重要な役割を果たしてゆきます。 したがって、華夷秩序が成立してゆく古代の東アジア世界を考えるとき、 この内陸アジアに繁栄した遊牧騎馬民族の影響を抜きにして考える事は、不可能であります。

歴史的には、匈奴――フン族――は、前3世紀末から約500年間に渡って、モンゴリアに繁栄した、 多数の遊牧騎馬民族による連合体の総称と申せますでしょうか。 周の記録に見える異民族「獫狁(ケンイン)」の子孫であろうと言われていますが、 確証は無いそうです(夏の時代には「獯鬻(クンイク)」と呼ばれたという記録がある)。

匈奴は戦国時代、オルドスを根拠地として、燕、趙、秦の北境を侵犯していた事が記録されています。 スキタイに発生した騎馬戦法を東アジアに持ち込んだのは彼らでした。 従来、馬に引かせる戦車と歩兵とを用いた車戦と歩戦が一般的だった中原の人々は、 彼らから騎馬戦の技法を学んだのでした。

文明や国家様式といった色分けで考えると、秦・漢帝国は農耕シナ型の都市国家を結んだ固定帝国であり、 匈奴帝国は牧畜オリエント型の、オアシス諸都市国家との交易を前提とする移動帝国であったと言う事ができます (そして実際、匈奴の文化は、スキタイ文化の影響を強く受けていました)

中原に近い遊牧部族ほど、「中国」の製品を手に入れる機会は多く、 それを交易に回す事も出来て裕福になった事が知られています。 中原をめぐって起きた民族移動としては、 北方から常に新たな遊牧民が南下し、南方の遊牧民はこれに襲撃されて、 更に南方か西方に移る――という流れが、ずっと優勢でありました。

中原を通過した遊牧民は、 支配階級は支配階級のまま、一般の遊牧民は牧畜をしながら、農業も行なうようになります。 農耕民の領域と遊牧民の領域とがまだらに入り交ざる――しかも、騎馬民と商人がその間を行き交う――という、 中原という〈場〉における複雑怪奇な政治模様は、こうして形成されていったと考えられます。

――さて、紀元前210年に始皇帝が死ぬと、中原の統一が破れ、各地で反乱が起きます。

その中で、項羽と劉邦が中原の天下を二分して争っていた時期、 北方の陰山山脈の匈奴部族の冒頓単于が、 ペルシャのダレイオス大王やマケドニアのアレクサンドロス大王に匹敵する程の、 世界征服を行ないました。

冒頓単于の指導の下、匈奴帝国の勢力は、東方では大興安嶺山脈を越えて、 今では中国領になっている遼寧省、吉林省、黒竜江省一帯の狩猟民に及び、 東の遊牧民東胡(トウコ)・他を服属させました。 北方ではバイカル湖、 西方ではアルタイ山脈にまで及んで、月氏(ゲッシ)その他の遊牧民を全て支配下に置きます。

「匈奴帝国」は、モンゴル高原を最初に統一した遊牧騎馬民族による、空前の大帝国でもありました。 将来「五胡」と呼ばれる事になる多くの民族――鮮卑などのトルコ系、 韃靼などのモンゴル系、柔然などの東ツングース(後の金や満洲)系――をまとめ上げた大国だったのです。

「冒頓」はモンゴル語で「バガトゥール」ないし「バートゥル」と発音し、「勇者」という意味を持っています。 「単于」とは「テングリコト単于」の略です。 「テングリ」=「天」、「コト」=「子」で、つまり「テングリコト」とは「天子」の意味。 続く「単于」とは、「広大」という意味。

要するに「単于」は、中国の「皇帝」に相当する、匈奴帝国の最高指導者の称号です。 ちなみに、冒頓単于は、戦士30余万人を率いた大王だったと言う事です。

※参考:モンゴル帝国の祖としての匈奴帝国

―― モンゴル高原の遊牧民にとっての方位は、南(実際はやや東南)が前、北(実際はやや西北)が後ろである。 今のモンゴル語でも、左と東、右と西は同じ言葉を使う。 匈奴でも、左翼(左方)の部族長達は東方におり、北京以東、満州・朝鮮半島の前線を担当した。 右翼(右方)の部族長達は西方にいて、陝西以西、中央アジア方面の前線を担当した。 単于の本営は中央にあって、山西の前線を担当した。
単于以下、それぞれ割り当ての土地があって、その範囲内で水と草を求めて移動するのである。 24人の部族長はそれぞれ、千長(千人隊長)、百長(百人隊長)、什長(十人隊長)などの官を置いた。 この匈奴帝国の仕組みは、後の13世紀モンゴル帝国と全く同じである。 遊牧騎馬民自身が残した記録はこの時期はまだ無いが、伝統は受け継がれていったのだ。
匈奴が史上初めて遊牧帝国を作ったのは、秦の始皇帝が中国を統一したために、 それまでのように遊牧部族が個別に中国の農村を略奪する事が難しくなったからだと言う意見がある――
――『モンゴルの歴史』宮脇淳子、刀水書房2002

冒頓単于率いる匈奴帝国と劉邦率いる漢帝国は、必然ながら激突しましたが、 漢帝国は、当時、秦末の混乱をサバイバルした後で、それ以上戦う余力が無かったそうです。 紀元前200年、「白登山の戦い」で敗北した漢帝国は、和睦の条件をのみ、 匈奴帝国の属国になってしまった――と言われています。

和睦の条件として以下の4つの条項があったと言われています:

  1. 漢は皇女(=公主)を匈奴の単于の妃に差し出す
  2. 匈奴の単于を兄とし、漢の皇帝を弟として兄弟の約束を交わす
  3. 漢は匈奴に絹・酒・米などの品々を献上する
  4. 国境に貿易場(=関市)を開く――(注:この条項は文帝・恵帝の時に追加された)

この国際関係は、両国が作成する国書の様式に影響を及ぼしました。 例えば、文帝が匈奴に送った国書では、「先帝の制に、長城以北は弓を引く国、命を単于より受く。 長城以南は冠帯の室、朕またこれを制す。漢と匈奴は、鄰敵の国…」と言う風に書かれたそうです。

「鄰敵」とは隣り合った敵国という意味でありますが、今日でいう「敵」の意味ではなく、 「匹敵する」などというような「対等の国」という意味で使われていたそうです (※当時の論理では、対等な国=敵国となるそうです)。

ここでは匈奴の方が兄という事になっていたので、 漢側の国書では「皇帝、敬(つつし)みて匈奴大単于に問う、恙無きや」と書き、 匈奴側の国書では「天の立つる所の匈奴大単于、敬みて皇帝に問う、恙無きや」、または 「天地の生む所、日月の置く所の匈奴大単于、敬みて漢の皇帝に問う、恙無きや」 と書いて交わしたという事です。

国書が書かれた木牘の長さも、漢側が一尺一寸で匈奴側が一尺二寸だったそうです。 この国書のスタイルは、後世に受け継がれる事になったという話です―― (例:推古朝から隋に送られた国書:「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや」)

――匈奴帝国の属国となった漢帝国では、 西域経営(=西域の征服=)に乗り出す力が無くなりましたが、 その分、辺境の安全保障に割く膨大な人員・軍事費が浮くというメリットがあった事がうかがえます。 高祖自身も、この状況を利用して政敵を粛清するなど、自らの権力の確立に集中しました。

それ以後の漢帝国の内部では、 呂后一族の専横(前180年、呂后没)や呉楚七国の乱(前154年)といった政情不安が続きましたが、 匈奴帝国による安全保障があったため、 後漢末のような、大規模な異民族侵入の脅威は皆無であったと言われています。 漢の中央政界にとっては、対外的には非常に平和な時代でした。

匈奴帝国と前漢帝国

出典:ウィキペディア「前漢」(武帝時代初期の漢の国際関係)

しかし、辺境の人々にとっては、匈奴の脅威は続いていたのであり、 毎年のように人間と家畜が略奪され続けたという記録があります。 当時の西域には人身売買および家畜売買のルートが確立していたという話もありますが、 現在は、「帝国」支配スタイルにおいて普遍的な、強制移民政策であったという説が有力です。

匈奴だけでなく、秦、鮮卑、柔然、突厥など遊牧騎馬民族の間では、国家的な政策として、 住民を集団で強制移住させるという事が行なわれていたそうです(=中国語では、「徙民(しみん)」と言う)。 三国時代でも魏の曹操による移民が知られており、五胡十六国の時代も、北魏など遊牧系王朝が栄えた華北で、 強制移民が行なわれていたという記録があります(屯田制。後世のキタイ=遼帝国も同様)。

※これは20世紀でも、国土拡張および防衛のための植民地政策、移民政策という形で続いていたらしい節があります。 ことさらに遊牧系だから、中国だから…という訳でも無いように思います。わが国でも、 松前藩の設置などという形での北海道への移民政策があり、 アイヌとの軋轢が生じたという苦い歴史がありました^^;

遊牧騎馬系による監視の下、 漢人を中心とした定住民は川沿いなどの小規模な集落に済み、 鉄の精錬などの手工業や農業に従事したのであろうという事が、 発掘結果から推測されています(=役割分担の社会を運営)。

前1世半ば以降、武帝の匈奴政策の激化により、匈奴帝国は次第に、 前漢の弱体化と同調するように、分裂の度合いを深めてゆきます。 そして2世紀半ばごろには、モンゴリアの支配権を鮮卑に奪われる事となりました (彼ら鮮卑諸族が、後の五胡十六国の立役者となる)。

しかし、5世紀にも及んだ匈奴帝国の繁栄は、 単于一族を中心とする多民族連合体の帝国支配スタイル、 分封制、十進法的軍事体系、国会、シャーマニズム的世界観、 金属文化など、多くの影響を後世に及ぼしました。

更に、分裂した匈奴の一部は、西方へ移動を始め、 フィン族・スラブ族などの諸民族と融合して新たな民族ヴォルガ・フン族を形成し、 4世紀に南ロシアに現われ、ゲルマン諸族の大移動のきっかけとなりました。 そして5世紀にはアッティラに率いられてヨーロッパに現われ、 西欧情勢に大きな影響を及ぼす事になったのであります。


漢帝国の宗教政治:黄老思想と陰陽五行説――儒教と道教の神秘思想的合体

戦国時代、諸子百家において「陰陽説」「五行説」と呼ばれる古代神秘哲学が流行しました。 五行説が陰陽説に同化し、陰陽五行説が完成したのが、漢代であったと言われています。

陰陽説
生命の根源である「気」は、陰と陽とから成る。宇宙の万物は陰陽によって形成される。 人間界(政治・道徳・日常生活など)も陰陽によって変動する。道家が天に重点を置いて主張した。
五行説
宇宙のあらゆる事象は、「五行」(木火土金水=五元素)の働きによって生み出されている。 五行相生と五行相剋によって自然界の秩序が回っている。儒家が人に重点を置いて主張した。
陰陽五行説
陰陽家が陰陽説と五行説の折衷を行なって成立した思想。 この思想を実践に移すのが方士であり、神仙術(錬金術・不老不死の術)や医療などを行ない、 儒教・道教の成立要素となった。 この他、3世紀頃に伝来した仏教と習合して密教形成の要素となり、 民間信仰や新興宗教へも影響を及ぼした事が知られている。

漢初の政界においては、 無為自然を尊ぶ道家の思想(=黄老思想=)が流行していました。 これが、後に儒教と結びついて、陰陽五行説の完成につながりました。 ――参考: 政治指南書としての『老子』(シナにつける薬)

この時期に黄老思想が流行した原因は、 法家を信奉した秦の政治があまりに苛酷だった事への反発ではないかと言われていますが、 実際はあまりよく分かっていません。 いずれにせよ、漢初の政治がきわめて消極的な態度に終始した事により、 秦末の深刻な疲弊と混乱からの回復が進んだと言われています (=郡国制。この郡国制が後に、呉楚七国の乱の要因となる)。

漢代において、陰陽五行説は十干十二支と結び付いて天文・気象を取り込み、 暦法・暦術へと発展する一方、易・卜筮・八卦などとも結び付いて、 歴史思想や占術・戦法の変化を生み出しました。

王朝革命思想(易姓思想)は、五行の相生、相剋の理を背景にしています。

戦国時代、諸子百家の鄒衍(すうえん)が提唱した五徳終始説は、 「五行相剋説」に基づく王朝革命思想でありました。 各王朝は五行のいずれかに相当する徳を有しており、 土・木・金・火・水の順による五行の徳の推移によって王朝が交替するというのが、 「相剋説に基づく五徳終始説」が説く内容でした。

これに対して、木・火・土・金・水の相生関係によって王朝の交替を説くのが、 漢代に唱えられた「相生説に基づく五徳終始説」です。 漢は火徳の王朝とされましたが、「漢=火徳」は、五行相生説によって定義付けられたものです (この頃、始皇帝の秦が中華文明の正統の後継者だったかどうか、という議論が本格化し、 これが「正閏論」としてまとめられました。漢代のお話です)。

漢代の「相生説」に基づく歴史的な議論においては、秦は短命だったので無視され、 周=木徳とし、漢=火徳とする、と決められたそうです。 しかし実際は、帝王一人に一つの徳を割り当てたり、 何代か飛ばして相生に基づく徳を割り当てたりする場合もあり、 易姓革命を合理化するための理屈として使われた節があります。

いずれにせよこうした歴史議論の中で、神話の帝王であった五帝を、神々としてではなく、 実際の歴史上の古代の帝王と考えるようになったのは明らかであります。 陰陽五行説を通じて、神話と歴史との神秘的合体が行なわれたと言えます。

◆三皇(※唐代に確定):
【包犠】=伏羲、天皇とも言い、庖犠とも書く。 八卦や文字をつくり、結婚の制を定め、その身体は人頭蛇身であった。
【女媧】=地皇とも言う。女の神で、傾いた天地を元に戻し、 笙や簧(コウ)という管楽器をつくり、その身体は人頭蛇身であった。
【神農】=人皇とも言う。農と医を始め、五弦の瑟(シツ)(=琴)をつくり、 商業を始め、八卦をもととして易をつくり、その身体は牛頭人身であった。 そして毎日百草を食(な)め、七十の毒に当り茶を食(な)めてその毒を消したという (西安の西北の地が神農の生地とされていて、この地方は晋や周の発生地でもある)。
◆五行から発生した五帝:
秦の時代――太皥(タイコウ)、 炎帝、黄帝、小皥(ショウコウ)、顓頊(センギョク)
漢の時代――黄帝、顓頊(センギョク)、帝嚳(テイコク)、 帝堯、帝舜(※名称・順序が変化)

これらを一口に三皇五帝と言い、黄老思想・神仙信仰の対象となりました。

◆豆知識――東西南北を守る四神について
中国古代の『堯書』に「堯をついだ舜が天下を治めるにあたり、悪神を四方に放つ」とある。 悪神は内では邪悪の神であるが、敵に対しては之に祟るので、四境の守護神となった。 その神の名は「渾敦(コントン)」「窮竒(キュウキ)」 「檮杌(トウゴツ)」「饕餮(トウテツ)」である。 このうち「饕餮(トウテツ)」は、殷周の銅器の主としての文様になり、これを「饕餮文」と読んでいる。 以上の四方の守護神が、後に麟、鳳、亀、龍と変化した ――出典:『茶の湯と陰陽五行』淡交社1998

※武帝時代に董仲舒(讖緯思想の基盤となる、天人相関説・災異説の権威)が活躍した事が知られています。 この頃に、儒教と結びついた陰陽五行説が中華概念の荘厳化に利用されるようになり、 現代に繋がる中華帝国スタイルや『史記』などの歴史記述スタイル、 華夷秩序などのパターンが立ち上がってきたと考えられます。 武帝の匈奴政策はあまりに有名ですが、彼を動かした要素の中には、 当時ますますカルト化を強めていた中華思想も存在していたのではないかと思います。

これらの理論が最も発達したのは王莽の「新」帝国の時代であり、 その後の東アジアの歴史哲学に、大きな影響を残しました (王莽自身は、「新」=「土徳」と考えていたそうです)。 「新」の失政に対して「赤眉の乱(後18年)」という反乱が起きた事が知られていますが、 これは「赤=火徳の復活=漢王朝の復興」という理論が根底にあったと言われています。

》漢代易学――知≠フ呪術化・神秘化――〈前シナ文明〉の知≠フ終焉

50本の筮(メドギ)を用いて占う「易」は、 亀の甲羅や獣骨の割れ目の形状から吉凶を占う亀卜(キボク)と共に、 先史時代から伝わる古い占術の一つでありました。

漢代は、自らの正統の強化のために、儒教イデオロギーが縦横に活用された時代です。

その中で、「韋編三絶」――孔子が『周易』を、綴り紐が三度切れるまでに愛読し、 易の解説書である『十翼』を記したという故事――を通じて、 『周易』は『易経』として、王権のバイブルとして祭り上げられる事になりました。

(注:『周易』と『易経』とは互いに別の書物であり、 通常は『周易』に儒教的な解釈による附文(十翼)を付け加えたものを『易経』と呼ぶそうです)

本来は占いの書であった「易」が、儒教イデオロギーの深化の中で、 次第に「国家倫理を説く知恵の書」としての性格を持ち始めたという事です。 「易」は、春秋戦国時代に興隆していた陰陽思想や道家思想を取り入れて天地万物の生成変化を説明し、 自然現象や人事社会事象にまで拡張させて、 「経(バイブル)」としての体裁を整えていました。 漢代初期、この「易」の解釈を巡って、様々な学派が対立します。

漢代易学の特徴は2つあります。

「易」に対する態度は元々2つあり、 大別すると象数易(しょうすうえき)と義理易(ぎりえき)に分けられるのですが、 漢代易学は象数易(しょうすうえき)≠フ立場の方が大勢でした。

ちなみに、象数易は、卦の象形や易の数理から天地自然の法則を読み解こうとする立場であり、 占いの呪術的・神秘的側面を重視するものでありました。 反対に、義理易は、経文から聖人が人々に示そうとした義理(倫理哲学)を明らかにしようという立場であり、 哲学的合理的思考に近いものでありました。

前漢の孟喜・京房らは、戦国時代以来の五行と呼ばれる循環思想を取り込み、 十二消息卦など天文律暦と易の象数とを結合させた、 「卦気説」と呼ばれる理論体系を構築した事で知られています。 前漢末の劉歆は、こうした象数に基づく律暦思想の影響のもと、 漢朝の官暦太初暦を補正した三統暦を作りました。 また劉歆から始まる古文学で、『易』は五経のトップとされるようになります (※劉歆は、王莽の重臣でした)。

春秋戦国時代から秦代へと続いてきた合理的思考の道筋は、漢代に至って変質を起こし、 王権神話を補強する儒教イデオロギーの強烈な潮流に乗って、 〈知〉そのものの呪術化・神秘化が進んだのだと申せましょう。

この〈知〉の呪術化は、王莽の「新」帝国の頃にいっそう顕著になり、儒学全体を覆ったと言われています。 それは、さながら、占星術予言を含むグノーシス神秘思想が、 爆発的に流行したようなものだったろうと思われます。

その中で、天象と人事が影響し、 君主の行動が天に影響して災異が起こる――とする天人相関説が流行し、 これに基づいて、易の象数から未来に起こる災異を予測する神秘主義的な象数易が隆盛したと言われています。 『易』は政治活動に密着し、預言的な性質を以って、政治を支配する道具となったのです。

この頃もてはやされた王朝交替の革命理論には、干支に含まれた未来予言として易(陰陽)思想や讖緯思想、 そして五行思想などが複雑に関わっていました。 神秘主義に根ざした讖緯思想と革命思想は、陰陽五行思想と深い結びつきを持っており、 いずれも漢代神秘思想の中核を成していました。

前漢から後漢にかけての動乱期、従来の『易経』や『書経』など、 儒教の根本経典(五経)の呪術化も進み、 特にこれら五経に述べられていない秘密の教義を説くものとして、 「緯書」と言われる一群の書物が現れるようになります。 もう少し詳しく言うと、経書の内容に沿った解釈書が「緯」、 天文占などの未来予言書が「讖」、これら両者を合わせて「緯書」、 一般的には「讖緯」と言われたものだったそうです。

当時の言説によれば、経書と緯書とは、 「たて糸」を意味する経に、「よこ糸」の緯が交わることで初めて一枚の布ができあがるように、 両者は相互に補完する関係にある――経書を補足するものが緯書とされる、 という風に受け取られていたそうです。

未来予言で活躍した讖緯思想は、革命思想としての面も含まれており、 王朝交替の革命理論として用いられました。 非常に流行したのが「図讖」と言われる一群の予言書で、 王朝交代や天子の廃立を予言する内容となっていました。 「新」帝国の皇帝となった王莽もまた、自らの帝位の正当化のために、 こうした異形のオカルト文書を大いに利用した――と伝えられています。

讖緯思想は、後々まで大きな影響を及ぼしました。例えば、後漢の末期を揺るがした184年の黄巾の乱では、 「蒼天已死,黄天当立,歳在甲子,天下大吉」 =蒼天已(すで)に死す、黄天当(まさ)に立つべし。歳は甲子に在り、天下大吉 という、陰陽五行-讖緯説に基づく易姓革命スローガンが掲げられた事が知られています。 讖緯思想によれば、甲子は第一番目の干支であるため「天命が革まる年」とされ、 甲子革命とも言われたものでした。

後世、魏の王弼は卦象の解釈に拘泥する漢易のあり方に反対し、 経文が語ろうとしている真意をくみ取ろうとする義理易を打ち立てました (義=文字本来の意義、理=道理や原理)。 彼の『易注』は、様々な人事・人間関係を重視し、 老荘思想に基づく個人の処世の知恵を見出そうとするものとなっており、 現在に至るまで、その内容が高く評価されています(『十三経注疏』にも採用される)。 唐代には、『五経正義』の一つとして『周易正義』を確立する要素となりました。

こうして王弼注が国家権威として認定されてゆく中で、 どちらかというと神秘主義的傾向にあった漢易の系譜は次第に途絶えていったと言われています。 なお、この漢易の衰退期の中にあって、李鼎祚が漢易の諸注を集め、 『周易集解』を残した事が知られています。


「新」帝国の貨幣政策――古代東アジアの巨大デフレ・スパイラル

前漢末期、経済界には貨幣不足の兆候が現われ始めていました。 従来は、『貨殖伝』にも末を以て財を致し、本を用(もつ)て之を守る≠ニ書かれたように、 投機で儲けた資金を農業に投資するというのが最も安全な財産運用の方法だと 思われていたのですが、その貨幣の流通が、著しく欠乏してきたと言われています。

春秋戦国時代以来の好況の原因は何かと言えば、それはやはり、 鉄という新たな金属の流通が農器具の発達と相まって好況の下に拡大したこと、 それに国土が広がったことによる、未開の地での新たな銅鉱山や金鉱山の開発と運営といった、 一種の開拓ブーム(=今で言えばゴールドラッシュ=)が大きかったと申せましょうか。

後世の歴史家は、前漢時代の黄金流通の豊富な事、 それゆえの黄金価格の低廉の事について、頻繁に言及しています。 前漢時代の都中央部及び支配領域において、 非常な好景気があった事を暗示しています。

ところが前漢以降、匈奴帝国との交易の市場が開かれ、西域との流通が大きくなってくると、 前漢よりもずっと経済活動が盛んだった西域に向かって、黄金が流出したのです。 それが前漢末期の貨幣不足として現われてきたと言われています (=古代であるからして、その流通の速度も変化の度合いも、 現代に比べると非常にゆっくりとしたものではあった筈ですが、 それだけに不景気は一旦始まると、非常に長く続いたものと思われます)。

漢代の貨幣制度は、ほぼ銅銭を基本通貨とし(五銖銭が正貨)、その補助貨幣として 黄金が用いられるというスタイルでした。黄金一斤が銅貨一万銭に相当する――という 交換レートで運用されていたという話です。

◆王莽時代の貨幣についての資料: [五銖銭(新)]、 [王莽銭

西域との交易によって黄金が大量に西方に流出すると、流通貨幣の不足が起こりました。 経済が回らなくなった前漢は、大不況に陥ったのです。 この影響をもっとも受けたのが前漢の豪商・知識人たちでした。 彼らは王莽を支持し、王莽は「新」帝国を樹立し、貨幣制度の改革を行ないました。

※興味深いことに、同時期(後1世紀頃)に、 ローマ帝国でも黄金の東方(インド方面)への流出があった事が知られています。 西方では、むしろ銀貨の方が高い価値を持っていたそうです。

復古主義であった王莽による経済再建は、概ね、武帝の経済政策をなぞったものとなりました。 貨幣総量を増すため、銀に貨幣価値を付与して銀貨二品を作りました (朱提銀:重さ八両=銅貨1580枚相当/它銀:重さ八両=銅貨1000枚相当)。 しかし、その結果は、武帝の失敗をもう一度なぞるものとなったのです。

※武帝の場合は、充実した国力を背景に、匈奴攻略に膨大な資金を注ぎました。 この結果、国内の貨幣流通の不足が生じ、財源不足に陥りました。 新たな貨幣「五銖銭」の鋳造や、鉄・塩の専売制度は、この財源不足を補うために始まったものでしたが、 かえって密売などの闇流通が横行し、私腹を肥やす外戚・宦官が増加し、民間の窮乏が広がったと考えられます。

王莽はその後、銅貨の改鋳を盛んに行ないました(様々な王莽銭が発掘されています)。 彼は大小の様々な銅貨を作りましたが、その目的は銅を小分けにして流通量を増やすという事であって、 今で言えば貨幣価値の無謀な切り下げ作戦――政府が銅の国内総量をコントロールできないままに施行された、 巨大デフレ・スパイラルの中のインフレ政策に他なりませんでした。

旧銭の所持者は、銅貨の価値が下がる事を恐れ、手持ちの銅銭の放出を惜しみました。 ひとたび悪貨(=私貨や密造貨幣=)が市場に溢れて良貨を駆逐し始めると、ますます銅貨の流通量が欠乏し、 「新」帝国の経済情勢は、ますます悪化したのです。 地方の軍閥・農民への影響は甚大なものとなり、赤眉の乱が起こりました。

※王莽の外交政策も、過度の中華思想の下に武帝をなぞったものとなり、匈奴や高句麗の反発を買いました。

》ポスト「新」としての後漢の文化と経済についての小記

王莽を倒して天下を取った赤眉の軍と覇権を争い、 後漢王朝を樹立した事で知られる光武帝・劉秀は、漢委奴国王の金印を奴国(1世紀-3世紀前半、 福岡市付近に存在した国)に授けた皇帝でもあります。

讖緯(予言書)を利用して帝位についた光武帝は、中国史上、稀な名君として知られています。 その治世は、民間の活力が上昇し、最高識字率を達成した事でも注目されます。

『三国志』の時代は、それまでの時代とは異なり、 檄文などの文書戦や知謀戦のスタイルが新たに発生してきますが、 こういった現象は、光武帝の遺産と考えても良いかも知れません。

一方で、王莽のもたらした甚大なる経済混乱とデフレ不況は、 その後の豪族や商人たちの経済的サバイバルに影響を与えたと思われます。 彼らは、なるべく銭を使わない経営をする、つまり荘園などの自給自足の経済圏を築き、 塩と鉄を買う時にだけ金銭を放出するというような対策を取るようになりました。

必然の流れとして、彼らの旺盛な消費活動は、もっぱら素材購入に集中し、 加工品に出来るだけ手を入れたものを自分の車船に積み込んで、 荘園外に出向いて商品として販売し、 少しでも余剰利益を大きくするという方向に向かいました。

このような消極的な経済活動は、一箇所に蓄積される貨幣の量を増加させる一方で、 ますます市場における貨幣流通を少なくし、 デフレ・スパイラルを強め、不況や経済格差が更に拡大・長期化する原因となりました。 後漢頃には、こうした「上に政策あれば下に対策あり」経済活動が定着したものであり、 そのまま三国・南北朝(五胡十六国)の時代へと突入したのだと考えられます。


三国/南北朝・五胡十六国時代――退嬰と混沌の果ての「華夷秩序」

ますます混迷を深めてゆく後漢末の社会の中で、新興宗教が盛んに活動し始めました。 当時、官僚登用試験に落ちた知識人の多くが、民間秘密結社や新興宗教教団の中で活動しており、 その知識人の血縁のつながりで、 反乱軍を起こせるほどの財力のある富裕な宗族(門閥豪族)にもツテがあった事が指摘されています。

道家思想を奉じる下級民間団体が本格的に教団活動を始め、 一時は軍閥割拠の一角を占めるほどの勢力を誇ったのは、こうした社会背景がありました (※例えば、清朝末期に太平天国の乱を起こした洪秀全も、官僚登用試験に落第した知識人でした)。

後漢末で有名なのは道教教団である「太平道」(開祖・張角)、 「五斗米道」(開祖・張魯)です。 太平道は黄巾の乱を起こし、三国時代のきっかけとなりました。 五斗米道は、曹操と劉備の間にあって独自の宗教王国を形成しました。 開祖・張魯の子孫は代々「張天師」を名乗って教団に君臨し続けたと言われています (後に「天師道」と名を変え、現代も台湾で活動を続けているそうです)。

184年、太平道の頭目である張角・天公将軍、張宝・地公将軍、張梁・人公将軍は、 「火徳である漢王朝は、易姓革命によって土徳の王朝に替わるべし」として、 数十万の信徒ともども黄色の頭巾をかぶり、黄巾の乱を起こしました。 二度にわたる党錮の禁で宦官優勢になっていた政府では、 黄巾の乱に対応するため党錮の禁を解き、清流派官僚及び外戚勢力を反乱鎮圧に差し向けました。

黄巾の乱は同年の内に急速に鎮圧されましたが、その後、全国で多くの内乱が相次ぎました。 涼州では韓遂、辺章、王国の乱、東北遼東では張純、張挙が烏丸族を結んで反乱、 四川では馬相が反乱。いずれも軍閥であり、割拠の末に皇帝を名乗りました。

もはや権威が地に落ちてしまった後漢王朝の都で、189年に「董卓の乱」と呼ばれる激しい内戦が続きます。 董卓は先の皇帝であった少帝を廃し、異腹の弟・陳留王を皇帝に立てました。これが献帝です。 そして董卓自らは、相国(=宰相よりも上の地位=)として権力を振るいます。 更に公孫度を遼東大守、劉表を荊州牧に任じた事で、意図せずして後の群雄割拠時代への道を開きました。

ちなみに董卓は、東方勢力(=反董卓派の官僚連合である関東諸侯=)が結集すると、 都を長安に移しました。 内輪もめから瓦解する東方勢力を尻目に帝位簒奪の手筈を進め、 いよいよ後漢に替わる自らの王朝を立てようという時に、 部下の呂布に裏切られて殺されたと言われています(192年)。 天下は麻の如く乱れました。

図版:建安元(196)年における軍閥割拠:翌197年正月、讖緯(予言)を利用して袁術が皇帝を称する
三国時代の幕開けとなる軍閥割拠
出典:『中国の歴史04-三国志の世界』講談社2005

長い戦乱と飢饉のために、漢人の人口は、2世紀半ばの5600万人から3世紀初めには400万人に激減したと言われています。 後漢王朝は220年に滅亡し、魏・呉・蜀という長い三国分裂の時代に突入しました。 この分裂が60余年も続いたのは、三国ともに人口が極端に少なく、長い間戦争を続ける力が無かったからだそうです。

人手不足を補うために、三国はそれぞれの辺境で異種族狩りを熱心に行なったという記録が残っています。 魏の曹操は、内モンゴル西部の南匈奴を支配下に置き、 彼らを山西省の高原に移住させて私兵とし、また内モンゴルの烏丸という遊牧騎馬民族を征服し、 直属の騎兵隊としたという事です。なお、烏丸は鮮卑と同族だそうです。

遊牧騎馬民族の傭兵戦力を手に入れた魏は早速に蜀を併合しましたが、 その後、魏の実力者の司馬炎が曹操の子孫に代わって皇帝となり、 国号を晋と改めました。 この晋が呉を併合し、天下統一を果たしたのです。

しかし晋の天下はあっという間に乱れ、皇族の将軍達が争い、 「八王の乱」という内戦になります。

この間の304年に、南匈奴の単于の後裔の劉淵が独立を宣言し、 漢(前趙)を建国しました。 これが五胡十六国時代の始まりである、とされています。

五胡とは、匈奴、鮮卑、羯、氐(テイ)、羌の五種類の遊牧民の事をいい、 みな中国内地に移住させられていたのでしたが、彼らは次々に、16の王国を建国しました。 この時代に、中原は全く遊牧民の天下となってしまったのでありました。

わずかに生き残った漢人は、今の武漢を中心とする長江中流域と、 今の南京を中心とする長江下流域に集まり、南朝と呼ばれる亡命政権を維持しました。

この時代は、東アジアの周辺民族が急速に独自の王国を構成していった時代でもあります (=五胡十六国、大和朝廷の成立、高句麗の独立、百済・新羅王国の成立…etc.仏教の拡大も見られたそうです)。

ますます混迷する国際的状況の下で、いっそう先鋭化してゆく陰陽五行説と中華思想は、 遂に〈シナ文明〉独創の、中華至上主義を基盤とする国際関係の概念を完成しました――いわゆる「華夷秩序」です。 その言葉は、南北朝の対立と混乱の中で、正統な中華王朝を特徴付けるための堅牢な呪文になってゆくのであります。

いわゆる「華夷秩序」によれば、「中華」が世界の中心で、 それをとりまく「東夷西戎南蛮北狄」は、「中華」の文化に畏れ入り朝貢をなし、 「中華」の天子から封ぜられる、という形をとります。
シナ的「世界」では、天子が諸侯を各地の王侯に封ずることを「封建」といい、 その詔書を「封冊」といいます。その権力分配の制度にちなみ、 「中華」周辺の蛮夷が、「中華」の権威をみとめ投降するさい、「封建」の形を後から整えるわけです。
――「世界の中心」の田舎芝居 /ブログ『シナにつける薬』より

図版:6世紀前半の東アジア国際関係
6世紀東アジアの南北朝-冊封体制
出典:ウィキペディア「南北朝時代 (中国)」

倭は5世紀しきりに南朝に通交したが、 6世紀になると南朝との関係は502年に記事があるのを最後に途絶える。 高句麗は南北両朝に遣使していたが、北朝との通交頻度が高まった。 百済・新羅も6世紀後半には北朝を重視するようになり、北朝に通交するようになる


考察:〈中華〉レイヤーに呪縛された異形の帝国――大乾帝國

オカルト的に考えるならば、漢代から五胡十六国の時代に至る「或る時期」に、 シナという「諸都市国家」の群れは、 「乾(天帝/龍)」を至上の紋章とし、名実共に「中華」に変質した――と考える事ができます。

この「中華」という概念を、通常の意味で「国」と言うことは、まったく不可能であると思われます。 「国」とはまったく別の概念で、何やら「呪縛レイヤー」的な気配も感じざるを得ません。 シナは、「中華レイヤー」の完成と引き換えに、 歴代王朝の運命を天命――大いなる乾=\―に動かされるようになったのであり、 言い換えれてみれば、 「大乾帝國」という異形の歴史時空を生きるようになった――というのが正しいかと思います。

龍は、『史記』における劉邦出生伝説に物語られて以来、中華皇帝の紋章として扱われているという事です。 儒教イデオロギーと共に、民族的宗教的な紋章に変質したのが前漢末期の頃だったと推測しています。 そしてこの「天帝/龍」なる乾≠ヘ、「易」によれば、天の運行に従って各王朝の「命」を定め、 易姓革命を運行すると考えられているようです。

(※儒教の理論=血統の断絶ではなく、徳の断絶が易姓革命の根拠となる。 同時期に、北斗七星=妙見信仰とも混交し、北極星=天帝というような解釈も広まる)

この「乾」というのはなかなか恐ろしい概念で、 「中華と引き換えに王朝≠サのものの命(=徳=)を要求する龍神」と言えなくも無いと思います。 陰陽五行説の深化に伴って、「中華」や「易姓革命」という神秘哲学的な歴史思想が現われたのも、 必然と言うべきでしょうか。 武帝を含めて、当時の中原の人々を「中華」に走らせた原因といえば、 やはり匈奴帝国の存在に違いありませんが、複雑な気持ちを禁じえません。

図版:陰陽五行-讖緯説-易姓革命論に基づいて歴代王朝に割り当てられた五徳
歴代王朝に割り当てられた五徳
出典:『中国の歴史04-三国志の世界』講談社2005

なお、春秋戦国に発祥している遊侠の位置づけも、漢代を境に変わってきた――という事が指摘されています。 以下、大室幹雄・著『劇場都市』の文章を引用し、それを元にまとめてみました:

遊侠:古典期――春秋末期から戦国時代まで
知識人、交易商人と共存し、ときに混合しあった時期で、 のちのちまで社会の周辺や底辺に生きる人々に遊侠的生活様式の原型を提供した (※墨子集団は遊侠集団でもあったらしい)
遊侠:活動期――秦末から漢初まで
戦国的な自由が再現された世界に、 周辺から――都邑や郷曲の底辺や片隅から――彼らは中心を攻撃し略取して、 それに替わる新たな中心を樹立するべく、躍り出てきた。 換言すれば、彼ら遊侠の活動は、中心=正常に対する周辺=異常の挑戦と攻撃、 乱世や変革期に特有の異人(ストレンジャー)の群れの跳梁を意味する
遊侠:変質期――武帝期(前漢の第7代皇帝/前漢の全盛期)
本来の知識人が学者-官人に変形したように、 遊侠も一方では中心の権力に取り込まれて「酷吏」に変形し、 他方では閭里郷曲の周辺で、危険分子の位置に定着した―― 漢帝国の成立は、戦国期に独自の二流と三流の権力の存在を抹消し、 その結果、知識人と遊侠から遍歴遊行する現実の拠点を奪いとり、 その流動性の自由を消滅させていた
遊侠:衰退期――成帝期(前漢の第11代皇帝/外戚王氏が執政――王莽による簒奪のきっかけ)
皇帝自身による気紛れで奇妙な結合の試みはあったが、 それに先だつ宣帝の弾圧によって遊侠はいよいよ周辺化し、暗黒化した。 中央権力の衰頽は地方に二次権力としての土豪勢力を強化し、遊侠はそれに吸収され、 その結果土豪勢力が部分的に遊侠化して「豪猾」になる。 中心でも外戚王氏一族を筆頭とする顕門勢家が豪猾化、つまり間接的遊侠化を示す一方で、 逃亡して匪賊化した農民や都市細民の「群盗」や悪少年と結合して、遊侠は周辺部に暗黒化を進めた

出典:『劇場都市―古代中国の世界像―』大室幹雄・著

参考文献

書籍資料 サイト資料 ――他、数種

§総目次§
物語ノ岸辺物語ノ本流物語ノ時空物語ノ拾遺