深森の帝國§総目次 §物語ノ時空 〉華夏の時空2=青銅華炎ノ章(崩壊篇)

華夏の時空2. ―― 青銅華炎ノ章/崩壊篇

「青銅華炎ノ章/崩壊篇」では、次のような構成で〈前シナ文明〉の興亡を物語るものです。

――以上

序文:天を恐れよ ―― 文字と呪術の帝国

〈上古諸州〉が滅び、〈前シナ文明〉が台頭し、 その申し子として急速に大きくなったのが、「商」です。 遂に中原に覇を唱えた青銅の文明――その「商」が最後に放った光芒が、 文字と呪術の帝国、「殷」であります。

〈上古諸州〉の滅亡と引き換えに成し遂げられた、〈前シナ文明〉。 それは、文字と呪術の大規模な組織化を成し遂げた文明であります。

古代人の思考で重要なものに、「感染呪術(見立ての呪術)」があります。 これは例えば、ターゲットに見立てた呪いの藁人形を、五寸釘で打つ時に見られる思考です。 こうした呪術が、〈前シナ文明〉を彩った青銅の霊威と共に、 統治・戦争の武器として用いられていたのです。

――古代国家の文字とは、実に、呪術の道具でありました――

原初の文字がどこでどのように生み出されたのかは不明ですが、 初代五諸族の時代から、その言葉は、単音節語であります。 表意文字の一字が一音節から成るという斉一性――その徹底した斉一性が、 言語による思惟分節と、その後の過程に――呪術的思考にも――影響しなかった筈はありません。

敗残の呪術師は男女を問わず、すべて惨殺されるという運命です。 「道」という文字は、異族の強大な王ないしは呪術師を斬首したものを 携えて、道を祓った――という 血なまぐさい首祭りの風習から生まれてきたものだ、と言われています。 実に、文字と呪術を伴う戦乱の中で、〈上古諸州〉は滅んだのであります。

――〈前シナ文明〉の雄、殷帝国を象徴する前シナ王権の神話があります。

「商」の名を負っていた頃からかどうかは不明ですが、殷の民は『十日神話』なるものを有し、 その概念に沿って現実の社会を運営していたようです。 この『十日神話』は、元々はツングース系統の民族に伝わる神話でありました。 故に殷は、民族的には沿海州の夷系であったのだろう、と言われています。 ないしは東夷との混血を通じて、この神話を有するようになったのではないか――とも言われています。

『十日神話』の概要をまとめると、以下のようになります(確認できた分だけ)

  1. 空桑が青々とし、天地の間の綱が張られてから、羲和という女神が現れた。 この神は日月を主管し、その出没を職務として、夜と昼を作った。――『啓筮』
  2. 羲和は十個の太陽を生み、各々に「日」の名前を授けた。湯谷で水浴した十個の太陽は、 順次、扶桑の枝に懸かり、運行してゆく。その行程は5億1万7309里、四分して朝・昼・昏・夜となす。 いずれの太陽も、カラスを乗せている。(十日送出タイプ)――『淮南子』『山海経』
  3. 堯の時、十個の太陽が一斉に出て、大地を焼いた。同時に現れた怪獣どもが、民を害した。 そこで堯は弓の名手ゲイに命じて、九個の太陽を落とし、怪獣を退治した。 万民は皆喜び、堯を立てて天子とした。 (十日並出タイプ・射日神話)――『淮南子』

殷のカレンダーは十日単位で一巡し、このサイクル単位を旬と呼び、 甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸という十個の曜日がありました。 これらの曜日をまとめて「十干」と呼び慣わすようになりましたが、 当時は「干」の字では無く、「幹」という字を充てていたという説があります。【※1】

【※1】三国時代、魏の張揖(チョウユウ)著・字書『広雅』釈天より、 「甲・乙は幹である。幹とは日の神なり。寅・卯は枝である。枝とは月の霊なり」。 扶桑樹に太陽が懸かるという神話の影響で、最初は「幹枝」という字が使われていたらしい。 「干支」という字の初出は、後漢時代の王充撰・『論衡』詰術篇か。

十個の太陽――うがってみれば、殷王朝は十の氏族によって構成される王権を戴き、 最高リーダーの地位は、十個の太陽の順番運行のごとき持ち回りであった、 という事を暗に示している――と読み取れます。

実際、最近の研究によれば、殷王朝の中枢部は王を輩出するいくつかの有力氏族から構成されており、 時代の経過と共に、王系氏族(ハプスブルク選帝侯のようなもの?)の数もまた理念に従って、 十系統の氏族に近づいていったという事です。

しかも祭祀制度として、歴代の先王・先妣は、それぞれの世系グループに対応する日の祭祀を享けて いました。五つの祭祀があり、一定の順序にのっとって、世系の順に祀られたという事です。 こうした「周祭」が一巡すると、一ヵ年が完了するようになっていた――と言われています。【※2】

【※2】祖先神が太乙=乙日に所定の幾つかの祭祀を享ける。祖先神が上甲=甲日に所定の幾つかの祭祀を享ける。

『卜辞』=丙寅(ヘイイン)、卜(ボク)して貞(と)ふ。 王、太乙の爽妣丙を賓(むか)へて翌日(=祭名)するに、尤(とが)亡きか。
(意味)丙寅の日、占う。殷王朝の始祖・湯王(=太乙)の爽(=后妃)である妣丙(ヒヘイ)に、「翌日」という 祭祀を行なうにあたって、支障なく行なわれるか。 (※「翌日」は五祀の一つ。わが国でいえば「後の祭り」にあたる。)

殷王朝は、太陽信仰であったのです。その王位継承システムもまた、 十氏族(甲族・乙族・丙族・丁族・戊族・己族・庚族・辛族・壬族・癸族)の交叉婚――すなわち、 殷王家の族内婚(父系の交叉イトコ婚)によって継承されるシステムでありました。

(殷ではおそらく、王族同士の近親婚が行なわれていたものであります。 これは彼らが牧畜系民族では無かった事を暗示しています。 逆に牧畜系であった周は、氏姓制度を運営していました。 これは、儒教を生み出した思考がどこから来たのか――という点に関して、 重大なヒントを暗示していると思います)

そしておそらく、 王位継承に関するお家騒動もまた付き物であり……十個の太陽が 順番に運行するという十日送出タイプ神話と、 十個の太陽が一斉に出て、大地に災害をもたらしたという十日並出タイプ・射日神話と ――並行して語られた二つの神話は、こうした殷王家の内紛を暗に示唆していた可能性があります。

そしていつしか、一つの太陽だけが残ります―― 天に二日無く、民に二王無し(『孟子』万章篇・孔子曰く)

――殷周革命とは、まさにこの内紛の時代に重なってきた事件です。 射日神話の存在は、十日神話を伝承していた民族の中で、 何らかの政治的異変が起きていた事を暗示するものなのです。

『十日神話』の変質と共に、上古から信仰されてきた「天」とその絶対なる権威は、大地の上に崩れ落ちました。 まさにこの時、華夏大陸に栄えた〈前シナ文明〉とその王権神話もまた、壮絶な終焉を告げたのです。

実際、その後の時代に編纂された『書経』の堯典(かなり早期に成立)では、 『十日神話』における羲和の神格が分裂し、 代わりに羲仲・羲叔・和仲(カチュウ)・和叔(カシュク)の 兄弟によって四方の天文が管理されている――という内容に置き換えられています。

〈前シナ文明〉が瓦解してゆく事象、周の弱体化とはまさに、 〈シナ文明〉の到来を告げるものでした。 そして、地上の権威を争う激烈な群雄割拠――春秋戦国時代に突入したのであります。

》付記:〈上古諸州〉の呪詛 ―― 死生観における「玉」と「徳」の連結

後々の文化展開の時代において、特に興味深いのは、「徳」に対する考え方…定義の変遷です。

古代的な認識によれば、「徳」とは、物理的効果を及ぼす、 ある種のエネルギーを指すものだそうです。 それは、自然界における万物の生長や再生を司るエネルギーであり、月の満ち欠け、 太陽の出没――といった 天文現象にさえ影響を及ぼすものであると考えられているそうです。

その「徳」のエネルギーを蔵すると考えられているパワーストーンが、玉(ギョク)です。

この「玉」=「徳」の連結が、その後の時代――「中華を享けし者らの国」と称する諸国における、 死後の世界観に波及してゆきます。 玉文明に生きていた上古諸州の名残にして、 征服者・青銅文明へ向けられた呪詛のようなものでしょうか。

――「道徳」。その言葉は、最初は血なまぐさい首祭りの呪術を意味し、 眉に呪飾を施した呪術師による道祓いの先導儀礼を意味していたのですが、 次第にその圧倒的な具象性と呪力とを失い、その後、 孔子の活動を通じて抽象的・近代的な思惟へと変化していったであろう事が読み取れます……

いずれにせよ、これらの事柄は、曖昧な仮説ではあります。


前篇:天、崩れ落つ ―― 殷周革命から春秋へ(推定・前11世紀〜前400年代)

殷の時代を中心とする青銅の文明、〈前シナ文明〉を象徴するのは、 青銅金文として刻まれた文字です。

単純なスケッチの延長でしか無かった甲骨文字は、殷の時代、或る時を以って完成され、 金文に見られるような複雑な構造として定着します (当時の文字は、全て王の所有物でした。 殷は、多民族を支配し、文字をも支配する絶対的な神聖王権を 立てていた――という事です)。

殷・周時代の文字は、大きく分けて3つの系統に分かれるという説があります。

なお、最古代の覇者――前シナ帝国――は、歴史書に拠れば、「夏」「殷」「周」三代として 記録されていますが、その実態は、ある時期において同時に、あるいは前後して存在していた 地域的集団だったのでは無いか、という説もあります。 ともあれ、多数の群小国家を束ねた前シナ帝国の中で、 呪術的文字と、「上帝(天信仰)」を中心とする呪術的世界、そして上代神話は伝承されました。

とりわけ殷・周の時代は、呪術と祭祀に彩られる事になります。文字と呪術の帝国――

殷王朝の王の墓は、その中央に王の遺骸が安置され、その両側には殉死した側近の遺骸が整然と 並べられる構造になっていたと言われています。 当時は、殉死や生贄をもって祭祀と成していた、という事です。

殷の時代には、天子が崩御した場合には、側近の臣下および奴婢はその供をして殉死するというのが、 天から降ろされた「礼」であり、信仰であったのです。 「礼」を完遂することによって、天子も民も永遠の生命を祝福され、 ひいては恐ろしい天罰を免れる――という呪術的論理によって、帝国が営まれていました。

殷の人々にとっては、それほどに世界は呪術的なパワーに満ち、 「礼」を失することに比べれば、 個々の人間の生命など軽いもの――そういう呪術社会が形成されていたのです。

それはもはや、初代五諸族が形成していた上古の社会とは、全く別のものであった――と申せましょう。

夏王朝末期の暴政、殷王朝末期の暴政。 幾度と無く繰り返し語られる伝承に、恐るべき天信仰の変質という、 不気味な想像を禁じ得ないものであります。

その頃、都の名もまた、変化していました。「大邑商」から「天邑商」へ――

恐るべき天信仰の変質――それは、商人の血がもたらした呪縛ゆえの変質では無かったでしょうか。

もともと商いとは、物資の移動または他所の富の略奪によって、利ざやを稼ぐ行為であります。 使い物にならなくなった商品は処分するしか無いのであり、 奴隷もそうした商品の一種であり、商品価値が無くなれば首を刎ねて処分したであろうことは、 想像するに難くありません。 そうした習慣が元々あったのか、それとも戦争を通じて増幅してしまった習慣なのかは 不明ですが――そうした人命軽視の風潮と共に天信仰に染まり、 巨大な軍事力による支配をものとしたのが、殷という帝国であったのでは無いでしょうか。

殷の甲骨文字の記録は、次のように語ります。

「往復するに災いなきか」――これは、殷の王の田猟を占ったものです。 田猟には決まって軍が動員され、獲られた獲物は、特別の祭祀に供されました。 殷の王は、足しげく田猟に出かけ、獲物を特別の祭祀――祖先祭祀や 周辺諸侯=「方」の霊的威圧のための青銅器祭祀――に供した、という事です。

これは、「羌伐」という甲骨文字でも記録されています。羌とは異民族の名称です。 (一説には、チベット系遊牧民族であると言われています) 田猟の「獲物」を特別の祭祀に供する――その光景を想像すると背筋が寒くなるので、ここでは申しません。

殷を倒したのは、西域から新たに起こった牧畜系民族の周です。 いわゆる殷周革命です。前1024年の牧野の戦いは、有名な伝承です。 (当サイトでは牧野の戦いは前1024年であるという説を採用します)

周王朝の統率者は、原始的かつ血なまぐさい風習を廃するべく立ち上がった、 儒教が称えるところの聖王でもあったのかも知れません。 殷の紂王を周の武王が討ったという伝承や、殷の頑民とも称された殷民の反乱の伝説は、 そうした傾向があったことを、暗に伝えていると思われます。

殷周革命せり――と簡単に言及されるところでありますが、実際は生易しいものでは無かった筈です。 殷とは、祭祀の始原から続く、強大な伝統と権威の象徴でありました。 殷周の「革命」とは、その古の伝統と権威を滅ぼすための、新しいタイプの闘争であったと申せましょう。

そしてそれは、神の掟から人の掟へと、「天信仰」が降りてきたことを示しています。 周の時代に発達したのは、礼楽でした。 祭政一致体制を支えていた古の神話は、綻び始めます。 それは周から東周に至って、王の権威の動揺を呼ぶものとなり、 「夫れ礼は必ず天に本づく」という天信仰の崩壊の淵源ともなりました。

それは、〈前シナ文明〉の――青銅器によって象徴される神話と祭祀の――終焉でもありました。

祭器としての青銅器は、氏族内部においては、祖先祭祀を通じて氏族秩序を形成するものでありました。 殷・周帝国における青銅器はその延長線上にあり、王家主催の宗廟祭祀を通じて周辺諸侯との間を 霊的に連結する事によって、王朝的秩序を形成するものでありました。

しかし、春秋期にはその知識は既に曖昧なものとなっており、 戦国期に至って、現実的・理念的な、新しい思想に取って代わられる事となります。

春秋戦国時代――諸子百家の時代は、人の心の内部において、「天」を超越する人間理性の自覚や、 人間の尊厳の覚醒が行なわれた時代であります。 己の尊厳に覚醒した人間は、もはや殷代のように天の権威で自由に出来るものでもなく、 したがって次の秦の時代には、殉葬という風習も断絶したと推測されるのです。

例えば秦の始皇帝の陵墓では、人間の殉葬の代わりに、 おびただしい等身大の陶製の兵馬俑や青銅器が埋められるようになっています。 (始皇帝の時代は、厳格な法治国家であったと言われています)

もっとも広大な東アジア大陸中原のこと、殉葬の断絶は1年や2年で広まるようなものではなく―― 地方へ行くと、まだ呪術が全盛期にあり、生贄の風習も盛んに行なわれていたようです。 秦・漢時代は、殉死を含む厚葬の風習の、最後の華の時代でもあった事が、最近の研究で知られています。

秦・漢時代に行なわれていた厚葬の習慣については、 後漢の時代の王充(前27-後91?)という知識人が、 その著作『論衡』・薄葬篇の中で批判するところでありました。

大陸全土レベルで殉葬の風習が衰退するのは、秦の時代からおよそ400年後の事―― 三国(魏・呉・蜀)時代をよほど過ぎて、魏晋南北朝の時代になってからの事だと 言われています。 最初のきっかけとなったのは、魏の曹操による「薄葬令(建安10年=西暦205年)」の通達が、 大きく関わっていたようです。

》付記:青銅器時代から鉄器時代へ ―― ユーラシア情勢と金属文化の変遷

殷・周の時代と、春秋戦国の時代とで、大きく異なるのは金属です。 ことに、鉄の登場は、その武器としての強さからしても、大いなるエポックメーキングでありました。

鉄剣は、青銅器を易々と断ち切ってしまいます。その衝撃が、 当時の人々にとって、如何に大きいものであったか――それは今となっては、 想像によるしかありません。

それまでの〈前シナ文明〉の世界は、青銅祭祀に支えられてきました。 鉄の衝撃によって、その青銅に付随する霊威もまた、 ゴルディアスの結び目よろしく断ち切られていったのかも知れない、と 想像するものであります。

例えば、呉の干将・莫邪、ないしは眉間尺(みけんじゃく)の物語に登場する、雌雄の剣。 鉄の剣です。

新しい歴史神話『史記』・「刺客列伝(第26)」に登場する秦の王は、 鞘から抜けないほどに強大な剣を背負い、ついにそれを引き抜き、 刺客の股を切断したと語られています。 その大いなる剣は、新しい金属―― 鉄で出来ていました。堂々たる鉄の剣―― 新たな時代の神話を彩る事になる、新たな主役であります。

ではどうして、その頃に、鉄が西域から到来したのでしょうか。 そこにもまた、広大なるユーラシア大陸の情勢の激変が絡んでいた、と 考えられています。アーリア民族の大移動、次いで遊牧騎馬民族の拡大です。 最大の衝撃が、アレクサンドロス大帝国の発生です。

鉄そのものは、紀元前3500年頃には、メソポタミアで既に使われていました。 当時の鉄は、隕鉄を流用したものが殆どではないかと推測されており、本格的な 鉄生産・鉄使用には至らないレベルであったようです。

それでも、紀元前2000年頃には小アジアにハッティという鉄の国が出来ており、 技術的には幼いながら、製鉄を行なっていたようです。 ハッティの製鉄技術者は、酸化鉄や硫化鉄として掘り出されていた鉄鉱石を加熱し、 そこに石灰岩を混ぜ、還元鉄を取り出す――という工程を可能にする溶鉱炉を 発明していた、という事です。

紀元前2000年を過ぎた頃の小アジアに、東からアーリア民族が侵入してきました。 インド=イラン人とも言われています。 彼らはハッティの製鉄の伝統を拡大し、 初めて鉄鉱石を溶かす溶鉱炉で鉄を量産して、ヒッタイト文化を作ったと言われています (エジプト新王国時代・アマルナ文書、前1400年〜前1350年頃)。

やがて、メソポタミア及びインダスの古代文明は、アーリア民族の侵入で動乱時代 (ゾロアスター、リグ・ヴェーダ時代)に入り、 古代の青銅文明を支えていた青銅ロードが崩壊したのでは無いか――と 推測されています。青銅の衰退と共に浮上してきたのが、新たな金属―― 鉄でした(前1200年頃)。

図版:鉄の拡大期のユーラシア大陸情勢(私製)
鉄の拡大期のユーラシア大陸情勢
[前1000年〜前800年頃]

◆前1000年〜前800年の前後におけるユーラシア情勢◆
各地域当時の情勢・概略
オリエントヒッタイト:海の民の侵入、前1190年滅亡/イスラエル:ダビデ・ソロモン時代
カフカス黒海沿岸にギリシャの植民都市が多数進出/スキタイ勃興・スキタイ交易
オクシデントケルト=ゲルマン文明の形成期/琥珀の道/地中海フェニキア諸都市交易
エーゲ海アテネ・スパルタ等、古代ギリシャ諸ポリスの勃興、各地で植民都市が増加
エジプト末期王朝時代(第3中間期):傭兵の王朝、文化・政治ともに著しく低迷する
インドインダス文明:衰退消滅/ヴェーダ時代:ヴァルナ制(カースト原型)の創設
黄河流域周・羌の連合軍が殷(商)軍を破り、勢力拡大/オルドス牧畜文化の躍進

(豆知識=イラン系民族の原郷はウクライナあたり/チュルク系民族の原郷はバイカル湖あたり)

次の時代の西アジアにおいては、ハッティに由来する鉄の技術が、 インド=ヨーロッパ語族の間で安定して確立し始めていました。 前8世紀頃、その鉄の力によって巨大な軍事帝国として台頭したのが、例えばアッシリア帝国であります。 アッシリア帝国の最盛期を築いたアッシリア王サルゴン(在位:前722年〜前705年)の宮殿跡から、 160トンもの鉄製品が発掘されている事が知られています。

鉄文化の成熟では、中央ユーラシアの遊牧騎馬民族が大いに関わりました。

前8世紀頃に新たに発生したスキタイの騎馬民族 (黒海北岸・チェルノゴロフカ型/北カフカス・ノヴォチェルカッスク型)は、 黒海を通じてギリシャと青銅交易を行なっていましたが、 騎馬となると、鐙(あぶみ)、轡(くつわ)などに使うには青銅は重過ぎ、薄く作る事も不可能でした。

そこで利用されたのが鉄だったのです。鉄文化は、騎馬装備の改良と共に発展して行きました。

なお、スキタイの青銅文化は、 黒海沿岸に進出していた古代ギリシャ植民都市の影響を強く受けた文化だと言われています。 スキタイ勢力の拡大と共に、スキタイ文化はユーラシア大陸を東進し、 黄河中流域のオルドスに広がっていたチュルク系民族(匈奴など)に伝わりました。 東アジアのそれは、ギリシャ系スキト=シベリア文化として知られています(前7世紀頃)。 実際、スキタイ勢力と匈奴勢力の各々の最大版図が、中央ユーラシアの中央部で接していた事が、 最近の研究によって報告されています。

オリエント、アルメニア(=鉄鉱石の産地)周辺を中心として、急速に拡大していった鉄の文化――

スキタイは速やかに鉄器文化を取り入れ、鉄製の馬具を作ったと言われています。 それらを、遊牧型鉄器文化として成熟させたのが、チュルク系ウラル・アルタイ族です。

アルタイ系統の鉄器生産の中心にいたのが、トルコ系の祖族であるアシナ氏族。 チュルク神話に登場する始祖伝承によれば、人間と「蒼き狼」との間に出来た 子孫が、後にアシナ氏族を築いたという事です。 後世の高車族や突厥族は、ここから出たと言われています。

次の時代、シナ西域に栄えたオルドス青銅器文化(前6世紀〜前1世紀)は、 スキト=シベリア文化の後継であると考えられており、旧地名にちなんで、綏遠文化とも呼ばれています。 青銅器と鉄器の併用があったと言われている文化です。 地理的には秦の故地とされる地域と近く、周の時代には、相互影響もあったと推測されています。 (注意:直接の歴史記録はありません。考古学的知見による推測のみです)

殷・周の記録では、オルドスの異民族は狄と総称されています。 匈奴と関係があると言われていますが、実際は明らかではありません。 紀元前3世紀には、オルドス以西の地域に月氏が入り込みました。 月氏の正確な系統は不明ですが、サカあるいはスキタイの系統とする考えもあるそうです。

最後に―― 鉄の古い字体、「銕」という漢字には、「夷」という文字が見えます。これは、東夷の事です。 極東の鉄は鍛造鉄であり、中原の鉄は鋳造鉄(青銅器の鋳造の応用)でありました。 東夷の鉄が、ウラル・アルタイ等のタタール・満蒙・シベリア系の、 遊牧騎馬民族に由来するものであった事を暗示しているのでは無いか――とも考えられます。

》添え書き――世界史に対する疑問

「古代の製鉄技術は如何なるものであったか?」「製鉄の発祥地は何処であったか?」について、 ささやかな疑問を添付。

トルコ国内のカマン・カレホユック遺跡の前2100年〜前1950年の地層から、 鉄器が発見されたとの情報があります。

カマン・カレホユック遺跡の鉄は、 2009年現在で知られている限りでは、最も古い時代のものだという話です。 ――しかし、これは本当の事なのでしょうか? そういう疑問を抱き続ける事は、 案外に重要であるように思います。

現在の世界史は、アフリカ大陸の古代文明の知識を完全に欠いた状態 で――ないしは、無視した状態で――議論されています。 アフリカ大陸は人類の発祥地であり、エジプト文明を生んだ、最も古い土地です。 従って、もっと古い時代の鉄器文化が将来、アフリカ大陸から見つかる可能性は十分にあります。 それどころか、世界最古の遊牧も農耕も、騎馬技術も言語も――神話物語でさえも、 アフリカに生まれた各種文化から枝分かれしていった可能性があるのです。

ギリシャ神話の「プロメテウスの火」の物語で有名なコーカサス山脈の一帯は、 ヘロドトスの時代にはコルキス王国と呼ばれていました。 「コルキス人は、エジプトから渡来した人々で、色が黒く、髪が縮れていた」と ヘロドトスが書き残しています。上古の世において、各種の技術に通じたアフリカ人の 世界進出は大規模なものだった事がうかがわれ、 従って、メソポタミアにおける最も古い製鉄技術は、 アフリカ(エジプト文明より前の時代)由来のものである――という可能性も議論できます。

もっとも、アフリカ地域における先史文化の研究成果が知られていない現在、 これらは根拠の無い「仮説」に過ぎません。 現代の世界史の潮流に従って、当サイトもまた、製鉄や神話などは、 メソポタミア周辺が発祥地であった――として話を進めています。

技術史という観点で見てみると、古代の製法では、 鉄の方が酸化還元反応が激しい分、銅よりも扱いが容易だった可能性があるという事です。 「スポンジ・アイアン(海綿鉄)」と言われている鉄は、鉄の還元反応の良さを利用して 400℃〜800℃程度で、鉄鉱石から塊のまま分離できる鉄です。 日常用の鉄ならスポンジ・アイアン(海綿鉄)でも十分に間に合うそうで、 古代から中世までは、この低温製法が中心だったようです。

近代ヨーロッパで高炉法(約1200℃まで加熱して製鉄する方法)が開発されると、 中世まで続いていた低温製鉄の技術の断絶が起こったのではないかと言われています。 (実際、高炉法の発展期のヨーロッパ技術史家は、低温で分離する海綿鉄を 「単なるモエガラ」としか記していません)

日本でも同様に、幕末明治期に、低温製鉄技術(タタラ製鉄など)の断絶が起こった事が知られています。 しかし、覚えている人は居たようで、戦中の物資不足の頃、簡易な窯で海綿鉄を 生産した記録が残っています。


後篇:諸子百家の時代 ―― 文明の大断絶と思想の大混乱

春秋戦国時代の思想革命とは、「怪力乱神を語らず」――人間理性の自覚とその普及にあります。 合理的思考と太古の呪術的思考との闘い―― 思想的大混乱。その結果が、諸子百家の旺盛な活動でした。

周の政治権力が弱まると、文字もまた統一性を失い、地方ごとに異なる字体が発達しました。

一般に複雑な字体の方を「籀文(ちゅうぶん)」と言い、簡便な字体の方を「六国古文」と言います。 漢字が爆発的に広まったのは、殷・周による文字の独占が終わってからの時代 ――春秋戦国時代の事でした。

地方で発達した多様な字体は、後世に天下統一した秦によって、再び規格統一される事になります。

◆秦の字体=篆文(てんぶん)。
◆焚書は異体字を滅する為の政策、坑儒は周代以来の諸夏思想を滅する為の政策であったという説があります。

春秋戦国の時代には、王道/覇道という概念が論じられました。

天下統一するには、法律(法術)・軍事・経済・外交・官僚体制といった 多種多様な統治技術が必要であり、 これらの成熟が、巨大帝国「秦」の誕生を促します。 「覇道」とは、大陸交易圏の急速な拡大に伴って生じてきたものであり、 実に徹底した合理的思考の結晶でありました。

力を以って仁を仮る者は覇である。覇には必ず大国がある。 徳を持って仁を行う者は王である。王は大国になることを期待し得ない。 殷の湯王の国は七十里(=約50km四方)であったし、 周の文王の国は百里(=約60km四方)という小さいものであった。――『孟子』、「公孫丑章上」

群雄割拠と同時に起きた、思想的大混乱――この文明的カタストローフが、 〈前シナ文明〉の断絶を引き起こしました。 その文明断絶の深い痕跡を、古代シナ神話の大断絶という事象に見る事が出来ます。

〈前シナ文明〉と〈シナ文明〉とは、 青銅祭祀の始原たる〈上古諸州〉の 神話伝承の血=i霊脈)を受け継いだかどうかによって、決定的に分断されます。

殷・周の諸王国は、〈前シナ文明〉。そして、秦・漢といった諸王国は、〈シナ文明〉です。 そしてこの間に、連続はありません。 春秋戦国時代に起きた文明的カタストローフ――古代シナ神話の大断絶――とは、 それ程に大きな出来事であったのです。秦・漢は、殷・周の後継者では、決して、あり得ないのです。

――かつての古代シナ神話は、古代ギリシャ神話と同様、数多くの物語に満ちていました。

今日、ギリシャ神話が体系的に伝わっているのに対し、シナ神話は不完全な、断片的な形でしか伝わっていません。 怪力乱神を語る事を拒否した儒教思想も大いに与るものでありますが、神話断絶に最も決定的な影響を与えたのは、 戦国時代に台頭してきた陰陽五行思想であったろうと考えられています。

〈前シナ文明〉の暦――殷・周時代の暦は、農耕生活に密着した暦でもありました。 ところが、春秋戦国時代に入ると、昔ながらの世界観も暦も断絶し、混乱を極めるのです。

この頃、大きな気候変動があり、華北地域の急激な寒冷化&乾燥化が進んだと言われています。

それ以前の華北は、比較的降雨が見られる温暖な気候であったという話があり、 意外に緑が多い地域だったのではないか…という推測がなされています。 あるいは、青銅器生産を支えてきた黄土地帯の大森林が大きく減少したために、 気象パターンが狂い始めたという事も考えられます。

いずれにせよ、殷・周文明の崩壊と遊牧系民族の南下(民族大移動)は、同じ時期に起こっています。

諸子百家の時代を生きた陰陽五行思想家らは、当然ながら、バラバラになってしまった世界観や暦の統合作業に入りました。 その過程で、あらゆる自然現象と人事現象とを総合的に捉え、 その循環によって世界を説明しようとする一派が、最も勢力を誇るようになります。

この一派の説が、司馬遷『史記』太史公自序に、次のように記されています。

「そもそも陰陽家によれば、四時(四季)・八位(八卦)・十二度(黄道十二宮)・二十四節には、 それぞれ教令がある。これに順(したが)う者は栄え、逆らう者は死ななければ国を滅ぼす」

上に曰く「それぞれの教令」の事を、月令(ガツリョウ・ガチリョウ)または時令と言います。 この「時令」系統のルールは秦・漢時代に至って完成され、 秦代の『呂氏春秋』十二紀や漢代の『淮南子』時則訓、『礼記』月令篇などとして見られます。

こうした奇妙にして厳格なルールが組織されてきたのは、春秋戦国時代において、相手国を如何に完全に滅ぼし、 後々に渡って抵抗力を奪うか――という戦略・政治の発達とも関連していた筈です。

古代社会は同時に祭祀社会でもあり、相手国を蚕食するに対して最も効果を発揮したのは、 都城の徹底的な物理的破壊では無く、 その神々に対する祭祀権を奪う事による習俗の破壊および精神的破壊でありました。

この戦略は、『春秋左氏伝』の格言、 「国の大事は祀(祭祀)・戎(軍事)にあり」として残っています……

まさしく春秋戦国時代とは、陰陽五行家らが完成した「時令」という時空ダイヤグラムの中で、 多様な神話・習俗が分断され、滅びていった時代でありました。 その中で辛うじて生き延びた神話伝承が、「夏」です。 上古の「夏」の権威を受け継ぐ諸族という意味で、 「諸夏」と名乗ったという事も、当時の記録にあります。

しかし、秦の天下統一に至って、前シナ王権の記憶を受け継いでいた 「諸夏」という観念も、滅んでゆきました。 「諸夏」は、前シナの伝統を受け継ぐ諸部族をまとめるには適切な観念でしたが、 西域出身の帝国――中央集権を目指す秦にとっては、もはや無意味、かつ弾圧すべき存在でした。

代わりに立ち上がってきた観念が、「夏」を思想操作した末に造られた「天命」です。 ただ一人の皇帝、ないしは一つの王朝による一極支配を伴う観念として、潤色されてゆきました。 実に「天命」こそは、〈シナ文明〉を彩る事になる言葉であり、観念であります。

その言葉の登場は、部族国家の消滅と時を同じくしています。 そしてその時から、義烈の精神で結びつくという、 おそらくは前シナの気風を受け継ぐ秘密結社――幇(パン)――が、 歴史の暗黒街道を歩み始めます……

〈シナ文明〉―― 恐るべき一極支配と一斉反乱の歴史が、まさにこの時、幕を開けたのです。

そのかみの神話群の――〈前シナ文明〉、ないしは青銅祭祀に基づく前シナ王権の――断絶と崩壊は、 以上のような複合プロセスによるものであったろうと考えられるのです。

いわゆる「中華文明」の中世において、古代シナ神話のルネサンスは起こりませんでした。 一方、ゲルマン文明の栄えた中世欧州では、 例えば『アーサー王伝説』や『聖杯探求伝説』などの物語として、 ケルト・ゲルマン神話が復興する、という現象が広く起こりました。

「華夏」と「星巴」の運命を分けたのは、正しく《神話》に他ならぬ、と詩想するものであります――

》付記:匈奴の東アジア進出 ―― 遊牧騎馬王国のあけぼの

知られている限りで「遊牧騎馬の民の王国」と呼べる最古のものは、スキタイ王国です。

ヘロドトスの記述からは、幾種類かの生活習慣を持った民が寄り集まって 「スキタイ集団」となっている様子が窺えます。 実際には、「王国」と言うほどのものではなく、ゆるやかな地域連合体であるというのが近いようです。

スキタイ人が黒海沿岸に到来したのは、前8世紀〜前7世紀の事で、 おそらく源流は中央アジアにあり、ウクライナ方面の民との混血であったろうと考えられます。 アケメネス朝ペルシャの時代に、中央アジアに「サカ」と呼ばれた イラン系の人々が居たという記録があります。 ギリシャ語の「スキタイ」とペルシャ語の「サカ」には共通する音韻が含まれており、 なにがしかの関連は認められるかも知れません。

黒海沿岸に進出したスキタイは、先住のキンメリア人を圧倒し、 ギリシャ諸都市の北への拡大とペルシャ帝国の北への拡大を、同時に押しとどめていました。 この勢いはアレクサンドロス大王の時代まで続き、大王の北征をも撃退しています。 しかし、その後に東方から侵入してきたサルマタイ人(イラン系遊牧騎馬民族)の集団に押され、 西方へ移動しつつ解体していったと推測されています (スキタイの歴史は、全般的に他所の記録を継ぎ合わせた代物にならざるを得ず、 直接の根拠はないという事です)。

(参考)【サルマタイについての専門資料: Alania Notes より】―― [サルマティア人

一括すれば、紀元前8世紀のスキタイの登場からずっと、西方ユーラシア・カフカス地域では、 遊牧騎馬系の民による政治的な連合組織の集合離散、ないしは「王国」の興亡が 繰り返されていた――と言えます。 そうした中で、マーワラーアンナフルを越えた遥かなる 東方――ソグド人やチュルク人の地・トランスオクシアナ――に 活路を見出した部族も少なくなかった筈です。

一方の東方にも、カフカスの大草原に匹敵する、或いはそれ以上の草原がありました。 それがモンゴルの大草原です。 東方に進出した遊牧騎馬民族の数々はモンゴル草原に集結し、ここを中心に興亡しました。 その中で、特に強い勢力を持ち、最も大きな政治的連合を成し遂げた部族が、 「匈奴」という名前で記載されたと推測されるのです。

私見になりますが、前3世紀〜前2世紀、アレクサンドロス大帝国の衝撃によって、 トランスオクシアナ=マーワラーアンナフルを横断する大陸市場の 急速な拡大があった、という事象は、匈奴帝国の発生に関わる重要な出来事であると思います。

何故ならこの時期から、ユーラシア大陸交易路を横断する遊牧民族&騎馬民族の活動が大きくなり、 シルクロード交易や、騎馬民族による大帝国の時代が始まっているからです。 ソグドの民、匈奴=フン族の民、月氏=クシャンの民、白匈奴=エフタルの民 ――いずれも、トランスオクシアナ=マーワラーアンナフルの交易路に栄えた民でありました。


あとがき:碩学による文明論 ―― 宮崎 市定・著

――『中国文明論集』 宮崎 市定・著の一章より

・・・およそ文明というものは、進歩するに伴って必ず一方では毒素が発生して堆積し、 やがてはその社会を腐敗させ、崩壊させてしまうのが、これまでの歴史が辿る運命であった。
中国もその例に洩れないが、ただし中国ではそういう場合に、 周囲の未開な異民族が中国文明の刺激を受けて成長し、 やがて中国に侵入してこれを占領支配する。
これは中国社会にとっては災厄であるが、しかし新しい支配者の下で秩序が恢復されると、 中国社会は再び新しく生気を取り戻して復活し、従前にも増して積極的な活動を開始する。
・・・(中略)・・・
職業の区分の上から言えば、美術、音楽、文芸、学術などの分野は、 最も文明主義の弊害に侵されやすい性質をもつ。 これらの職種は本質的に個性的であるが故に、同時に個人主義的であり、 孤立的であり、しかも一方、名声や営利と離れ難い。
だから文明主義の害毒はしばしば社会の最も綺麗であるべき分野の、 しかもその頂上から始まることが多い。 更にその病弊は潜伏して拡大する傾向があって、世人の目に触れにくい。 一、二の発覚した事例は、その幾十層倍もの事実を物語るものとして警戒するより外ないであろう。

》当サイトの私見――宮崎市定・著「素朴主義と文明主義再論」について

碩学が記した上の「素朴主義と文明主義再論について」の文章は、現代でも十分に通用する警告のように思えます。

文明――社会秩序の結晶体――とは、限りなく「華」を求め続ける人間の闘争心と功名心の前にあっては、 容易に砕け散るものであるように思います。とりわけ狡猾さが要求される「中華」の中央部においては、 その荒廃は、尚更に加速される現象であるようです……

伝統を失った時に、一個の歴史を持つに至る。異民族の血を輸血しないと続かない――という文明。 血の祭祀に彩られた殷の時代から、それは始まっていたのかも知れません。 〈華〉という名の、永劫回帰する灼熱の呪い。「中華」の投げ網。 秦の始皇帝が追い続けた永遠の命とは――もはや失われてしまった、 「そのかみの神話」では無かったでしょうか。

古代伝統の喪失――当サイトの解釈においては、古代シナ神話の断絶と重複して物語るものではありますが、 碩学の提供している視点も、深く考えさせられるものであります。

日本文明を支える「和」という伝統は――かろうじて、素朴というものを包含しているもののように思いました。 ……そこに、一筋の希望を見たいと思うのであります。

資料

◆参考書籍 ◆参考サイト [シナにつける薬 ――他、いくつかの資料

§総目次§
物語ノ岸辺物語ノ本流物語ノ時空物語ノ拾遺