深森の帝國§総目次 §物語ノ時空 〉華夏の時空1=青銅華炎ノ章(創世篇)

華夏の時空1. ―― 青銅華炎ノ章/創世篇

「青銅華炎ノ章/創世篇」では、次のような構成で上古の世の興亡を物語るものです。

――以上

序文:〈上古諸州〉の諸文化 ―― 緑滴る華夏大陸

ここでの「華夏大陸」はおおむね、東アジア大陸および半島部、島嶼部を想定しています。

緑滴る華夏大陸―― 太古の東アジア大陸の中原は温暖湿潤な気候に恵まれ、 世界随一と言ってよいほどの豊穣な緑の沃野を誇っていたと推測されています。

中原に栄えた文明は、ざっと「中華文明」という風に言われておりますが、 当サイトでは、これまでに読み込んだ各種資料を鑑みて、 中華五千年の前に、〈上古諸州〉の時代があった…と想像してみました。

ちなみに〈上古諸州〉というのは、あくまでも当サイトでの私的なネーミングであり、 公の学術用語ではありませんので、重々ご了承ください。

現代の発掘研究からは、以下のような知見が得られています。 先史文化の「複合地帯」たる中原は、各文化圏がその先端部を接する〈境界〉でありました。

◆新石器時代以後の基層文化の系譜――【注】あくまでも知見のうちの一部に過ぎません◆
各地域地域文化各種主な特徴など
黄河中流域仰韶文化
龍山文化
磨製石斧、石刀、紡錘車
アワ・キビ農耕、父系社会、城壁集落、玉器祭政
山東半島域大汶口文化
山東龍山文化
彩陶・黒陶・灰陶、白陶、占卜(獣骨)、原始銅器、殉葬風習
長江下流域馬家浜文化・ッ澤文化
三星村文化・良渚文化
河姆渡文化〜イネ農耕、紅陶、絹、抜歯、玉器祭政、原始磁器
(養蚕・絹の技術に優れる)
長江中流域彭頭山文化・大渓文化
屈家嶺文化・石塚河文化
イネ農耕、紅陶、母系社会、甕棺墓、輪中集落
(優秀な銅山に富む、黄河流域の諸部族と銅資源の争奪戦を繰り返す)
四川盆地域宝墩文化
三星堆文化
城壁集落、象牙、養蚕、紡績、青銅人物像、玉器祭政
(三星堆文化の頃、古代国家が成立していたとの推測あり…古代蜀王国)
遼西部地域興隆窪文化
紅山文化
狩猟採集からアワ農耕へ
彩陶、細石器、玉器祭祀、環濠集落、積石塚
遼東部地域遼西部からアワ農耕が伝播朝鮮半島における初期農耕化の第一段階を起こす

先史時代における華夏大陸の諸文化圏――融合文化という視点から
古代中国の地方文化
出典:『古代中国の地方文化』(六興出版1987)/W.エバーハルト・著

◆〈上古諸州〉を形成する諸文化――ゆるやかに広がる融合文化◆
各地方融合文化民族系統融合文化の内容
西北部トルコ・モンゴル文化(馬飼養)狄系内蒙古高原の遊牧文化(騎馬民族を含む)
西方部チベット・東チベット文化(羊飼養)羌系チベット高原の遊牧文化
東北部ツングース文化(豚飼養)夷系シベリア樹海の狩猟文化(貂皮交易を含む)
中央部瑤(ヨウ)文化(焼畑農耕)戎系中原を占有した山地民(アワ・キビ〜コムギ農耕)
沿海部越(エツ)文化(海洋民族)呉越&夷タイ系・瑤系・夷系の複合、南海交易(百越の民)
南方部タイ文化(渓谷居住民、稲作)南系苗族、モン・クメール系=百濮、カム・タイ系=百越

中華文明は、通常、「中華五千年」と言われる言葉で象徴されていますが――別の側面から見れば、 以下4種類の文化圏が流入してきて、華夏の大地において、 「中華五千年」としてツギハギされたもの、と言うことも出来るかも知れません。

いつとも知れない先史時代の始原から続いてきた〈上古諸州〉は、 青銅文明が到来した後、古代の王権神話を形成してゆく血みどろの戦乱の中で、 次代の〈前シナ文明〉を胚胎しつつ、滅びてゆきます。

そして、中原における〈上古諸州〉の終焉と共に――伝説の青銅王国、「夏」が成立します(注:神話のみ)。

「夏」こそは、〈上古諸州〉の最後の王国にして、〈前シナ文明〉の最初の王国であります。 〈上古諸州〉が終焉し、次の〈前シナ文明〉が拡大してゆくという時代の谷間に生きた 伝説の夏王朝は、後世においては、「華」ないしは「中華」という概念に彩られる、 歴代王権の神話的始祖となりました。

いずれにせよ、アジアの歴史時空を――ことに、「中華」という物語を――語り直すという事は、 それほど簡単な作業では無い、としみじみ思うのであります。


前篇:青銅文明、到来せり ―― 西アジア文明の終点としての東アジア

古代における東アジアは、ずっと長い間――文明の辺境でありました。

西アジアに、壮麗なる古代オリエント諸文明が繁栄したのは、紀元前3000年頃のこと。 シュメール文明と並行して、エジプトでは古王国時代が勃興しつつあり、 まさしく当時においては、西アジア・オリエント地域が世界最先端であったのです。

――さて、当時は青銅文明でありました。

ユーラシア大陸の文明を支えた黄金の炎――青銅器は如何にして生み出されたのか。 そしてどのようにして、東アジアの果てまで拡散したのか。 〈上古諸州〉が滅び、〈前シナ文明〉が成立した――という事象を探るためには、 これは欠かせないテーマです。

青銅の原料となる銅。この金属は自然界に露出している事が多く、 純銅――純粋な銅――もまた、 旧石器時代以来の単純な手掘り技術で容易に得られる金属資源でありました。 (おそらく当時の人々の意識の中では、 「輝きを放ち、高温の炎にかざすと成形加工が容易となる、柔らかい石」でありました!)

銅が組織的に掘り出されるようになったのは、考古学上の推定で、おそらくは紀元前4000年頃の事。

ユーラシアの大草原のどこか――大地の深い裂け目の中を、 さながら太古の偉大な龍(ドラゴン)か蛇のように輝きながらうねりゆく鉱脈、または鉱床において、 銅は掘り出されてきた筈です。 いにしえの物語群――とりわけ、地底王国の至宝を守護するドラゴンの物語群――は、 そういった太古の記憶をあざやかに反映しています。

ドラゴンのうねる中央ユーラシアの大草原――そこは、ドラゴン物語の遠い故郷でもありました。

紀元前3500年頃に、メソポタミア地方において古代青銅の冶金術が立ち上がってきた…と推定されています。 時代は、大きく動きました。石(リト)の時代から金属(メタル)の時代へ――

本格的な青銅器を製作するには、その銅を集めて精錬し、一定の比率で錫と混ぜ…という プロセスを踏むのでありますが、これは合金を作り出すための溶鉱炉の開発と合わせて、 非常に高度な技術的跳躍を要したであろうという事が推測されています。

また、錫はアジアでもヨーロッパでも地上に局地的にしか存在せず、どうやって青銅器の製作まで たどり着いたのかは謎のままです。 しかし、一旦その技術が普及すると、青銅のメリットである大量生産が進みました。 そして次第に、必要量の錫を確保するための広域貿易が、西アジア諸文明を中心として進みます。

――かつてのシルクロードは、青銅ロードであったのだ――と、考えられているそうです。

青銅交易ロードは、民族大移動のルートでもありました。 また、気候変動その他に追われて、ユーラシア大陸の諸部族は、東西に拡散します。 推測に因れば、民族大移動の波は主要なもので3回。 第1波は紀元前4500年頃、第2波は紀元前3500年頃、第3波は紀元前2500年頃に 起こったのではないかと言われています。

この民族大移動の波に刺激されて、 西アジアから遥か東アジアの果てまで遷移してきた諸部族こそが、 最初の東アジアの青銅文明――〈前シナ文明〉――を形成した、 「夏」などの諸族だったのではないでしょうか。

そして青銅器と、青銅にまつわるドラゴンの王権伝説もまた、 青銅交易ロードの上に並んだ幾多のオアシス集落を渡って伝えられてきたのであります。

》付記:古代の青銅について

この篇を終える前に、青銅技術の進歩について、もう少し説明します。

青銅は銅と錫との合金ですが、そのままでは脆く、やわらかい合金であります。 故に、農機具や武器などとして通用する堅牢さを備えた青銅が、次第に求められていった筈です。 おそらくは旧石器時代以来の長い年数をかけた、冶金術の蓄積があり―― それは時代を下って、錬金術の基礎となった知識でもあります。

――さて、青銅は、錫の含有量で色が変わる合金です。 (※錬金術の初歩もまた、金属なるものの色の変化とその由来を理解する事から 始まったのでは無いかという説が提唱されています。 錬金術とは実に、金属の変容を扱う知恵であり、テクノロジーでありました。)

錫の割合の少ない青銅は、いわゆる純銅と同様の赤銅です。 そして、錫の含有量が増すと共に黄味を帯び、次第に金色に輝くようになります。 最も堅牢で、武器や祭器として珍重されたのが金色青銅です。

しかし、錫比率がある割合を越えると、錫の色である白銀色が勝るようになります。 これがいわゆる白銅と呼ばれるものです。銅鏡に使われるのも、この白銅です。

古代青銅における硬化技術は、ことに西アジアにおいて、 こうした青銅合金の研究と共に進歩しました。 紀元前4000年頃には既に、ヒ素を含む新しいタイプの青銅が見られます。 (西アジア沿岸〜ギリシャ西部海岸で、ヒ素を含む青銅の出土例あり。)

含ヒ素青銅の出現は、比較的重い元素であるヒ素を含む深層鉱脈まで 採掘が進んだためという説もありますが―― いずれにせよ、それまでの青銅とは比べ物にならないほどの堅牢さを備えている事が 判明し、以後、ヒ素を不純物として含ませた青銅の普及が進みます。

これらのブレークスルー現象は、紀元前3000年頃の東地中海、エーゲ海諸島といった西アジア沿岸地方で、 特に著しいものであったようです。 そして紀元前2700年頃には、最高強度を実現し、かつ脆くない銅90パーセント、 錫10パーセントという理想の混合比率を遂に獲得した――という推測が出ています。

銅90パーセント、錫10パーセント、及び脱酸のための不純物(ヒ素・亜鉛等)――という構成となっている 最高強度の青銅合金は、その優れた堅牢性が注目され、後世は大砲用の合金としても活用されていました。 この比率を備えた青銅は、大砲用の金属として使われていた事から、 現在でも砲金(gun metal)と呼ぶところがあります。

東アジアの古代文明を支える事になる青銅が、 民族大移動の波に乗って遥か西アジアからもたらされたものであった――と すれば、このタイミングや交易速度からしても、 西アジア由来の優秀な青銅に刺激されて、前シナ文明が開花したのだと申せましょう。 それは西の最果て、古代エーゲ海文明においても、同様でありました。

ちなみに武器としての青銅の切れ味は包丁にも劣る代物であり、実際の戦争においては、 殴り合い・突き合いといったスタイルが主であったようです (想像すると、ちょっと気分が…)^^;


後篇:中原に覇者は立つ ―― 中原の青銅諸王国(推定・前20世紀〜前11世紀)

いわゆる「中華文明」の栄えた華夏の地における青銅器時代は、 ほぼ都市国家の成立〜発展の時代と並行しているという事が、 ひとつの特色となっています。

話は有史以前の事であり、正確な処は分かりませんが、 未だ歴史記録を編纂する習慣が根付いていない頃である――という事も考慮すると、 やはり当時は、氏族社会の全盛期でありましたでしょう。 宗家を中心にして多数の分家が取り巻く形を取るという、各氏族の集落が点々と営まれていた時代です。

甲骨文字のスケッチからは、おそらく玉器を軸としていたであろう 〈上古諸州〉の農耕文化には、2種類の系統があっただろうという事が読み取れます。 ひとつは、乾燥した大地の中、オアシスに寄り集まり、雨季に頼る農耕を営むスタイル。 もうひとつは、東方の氾濫原で洪水を防ぎつつ、輪中を造成して農耕を営むスタイル。

これが後世、「邑」という漢字で表現される集落です。 大地の中の孤島のように、思いも拠らぬ旱魃、または洪水におびえる数百〜数千という小集落の群れ。 〈上古諸州〉の歴史は、こうした条件の下で、緩やかに、かつ大きな地域差を含みつつ、 展開していたのではないか――と推測されます。

真に恐れ、礼を尽くすべきは、我ら人の外に超在する永遠の天――これは、『礼記』に記された伝承、 「夫れ礼は必ず天に本づく」というくだりからも見て取れるものです。

初期の「邑」は自治であり、「大人」として邑のリーダーを推挙し、 それ以外の人を「小人」として区別するやり方でありました。 もちろん氏族社会である以上、「大人」として選ばれるのは、 長老的な集団または人物――実績を認められた宗族である事が多かった筈です。

或いは、迫り来る災厄を敏感に察知する人物――いわば超能力を 持っていると見なされた人物を選ぶ、というケースもあったかも知れません。 しかし多くは、長老の補佐的な立場だったのではないかと推測されます。 (殷の時代は、占い師が王の補佐の地位にあり、「貞人」と称されていたそうです)

しかし、洪水や旱魃といった深刻な天災への対応は、単一の邑だけで出来るものではなく、 数多の邑を取り仕切る「大人」たちがさらに寄り合いを持って「大人」を選ぶという流れもありました。 次第にそうした中から、「大人」たちの上に立つ「大人」も生じてきます。

「大人」の中の「大人」――それが「君」です。

この「君」という漢字の語源には、杖が密接な関わりを有しているらしい――という事が、 白川静氏の研究によって指摘されています。 「尹(いん)」は杖をもつ形。神に仕える聖職者としての「尹」は神杖を帯び、 神の依代となるべき存在であります。

この「尹」に、祝詞(のりと)や託宣を示す「口」を添えた形が「君」。 初期の「君」は、神杖を執って神々と人間とを媒介する、最高の巫祝者にして 祭祀王のような存在であったのではないか――と考えられているそうです。

当時の社会は、石器・土器(彩陶・黒陶・白陶・褐色陶)及び、アワ・キビ農耕が主流でありました。

「君」という最高の霊的権威と、最新テクノロジーの結晶である青銅器が、 原始の文字を軸として、上代神話の中で急速に結びついていった事は容易に考えられます。 そのかみの文字とは、神と人の物語を物語る、素朴な「器」であったのです。

西アジアからの青銅器の到来と共に、小麦もまた到来しました。 おおむね、紀元前2100年頃の事です。

この出来事は、華北地域における農耕文化、及び食文化の激変を起こしたという意味で、決定的に重要です。 アワ・キビ農耕からコムギ農耕へ――冷涼乾燥気候に適した、 新たな栽培穀物の導入――それと同時に、卜骨(卜占用の獣骨)も出現するようになりました。 これは、西アジアに由来する牧畜型農耕社会が、西域を中心として、 華北に向かって急速に広がり始めていた事を暗示するものなのです。

初代五諸族――夏・殷・周・羌・南――は、遥かな西域から到来した 青銅文化を捉えつつ、〈上古諸州〉の一員として、その第一歩を記しました。 後に、「中華五千年」という言い回しによって、ひと括りに縛られる事になる 古代の中原タイプ青銅文明、即ち〈前シナ文明〉の萌芽の姿は、 こうしたものだったのでは無いでしょうか。

最高の呪術的権威としての、青銅器の普及―― そこに「商人」の介在を想定する試みも、あながち的外れでは無いと思われます。 〈上古諸州〉も末期に入った頃――中原の近辺の諸族は、西アジアからもたらされた青銅を珍重し、 また自らの手でも新たな青銅器を鋳造し、様々な青銅祭祀を発達させていったのです。

おそらくそれは、華夏の大地の銅山探索、及び開発を含む活動であり、 数百年の時間をかけた、〈上古諸州〉世界との相互浸透でもあった筈です (長江地域は優秀な銅山に富み、長江近辺の諸族と銅資源の争いが 行なわれていたらしい――という報告が出ています。これは神話伝承にも見られます)。

古代の東アジア大陸における巨大銅山の分布
古代の巨大銅山の分布
出典:國立故宮博物院(台湾)

現代の地質調査員が中国大陸の銅鉱資源を調査したところ、 主に長江中下流域、中条山鉱区、川テン(シ+眞)地方、甘肅省などの四大鉱区の総産出量が、 全国産出量の三分の二以上を占めることがわかりました。 これらの地方では調査過程でほぼ例外なく古代の古い坑道が発見されました。
――國立故宮博物院(台湾)

紀元前1600年頃の中原――黄河中流域――において、西域から到来した青銅文化を核として、 「中原」という境界に向かって各文化圏の凝縮が起こり、その混合の中で、新たな文化が築かれる事になります。

これが、後の〈前シナ文明〉に変貌を遂げてゆく事になる 青銅文化――二里頭文化、及び二里岡文化です。

二里頭文化が夏王朝と関係するかどうかについては疑問があるそうですが、 二里岡文化と殷王朝とが連続している事は、最近の発掘で確かめられており、 現代の中国考古学の常識となっている――という事です (※二里頭文化と二里岡文化の間には、長大な文化的断絶が認められており、 そのミッシングリンクを埋める遺跡が発見されていないそうです。 ですが、発掘が進めば、将来の発見はあるかも知れません)。

二里頭文化、及び二里岡文化の時代の中原は、華北及び西域からの衝撃にさらされ、 激しく揺れ動きました。 イネの地位が段階的に低下してゆき、代わりに地位上昇した穀物は、コムギです。 この時代にコムギの作付面積が大きく伸びた――という知見が、 現代の考古学の研究から得られています。

この華夏大陸が西アジアと異なったのは、青銅の文明が、玉(ギョク)の文明と並行していた事です。

◆参考1.――「中原」と呼ばれる地域の特殊性:

・・・さて「中原」ですが、ここはいわゆる西域からの回廊とオルドスにそって 北から南下する回廊が交錯する地域のことなのです。
オルドスとはまさに北にむかって開かれた玄関のようなもので、ここから匈奴、 突厥、鮮卑、蒙古などの北方騎馬民族が大挙してのちに 「シナ」と呼ばれる歴史の舞台へと次々と登場してきたのです。
その北からやってくる者たちと、さらにのちに河西回廊とよばれる道にそって 西の先進地域からやってきた者たちが西安から洛陽にかけた一帯でぶつかり合った、 まさにそのエネルギーが「中原」と呼ばれる地域の政治的特殊性を規定していると思います。
※「中国」という語のオリジン/『丸幸亭老人のシナにつける薬』の指摘より

◆参考2.――「龍と鳳凰、そして蛇―大陸の北と南からニッポンへ来た文明」より:

最古の玉文明、女神への祈り
「遼河文明」…(中略)…それは最古の玉(ぎょく)文明であったということだ。玉というのは、 硬玉・軟玉と言われる古くから知られた宝物作りの材料である。日本も含めて古代世界においては、 玉で数々の宝物が作られていた。中でも長江文明はしばしば「玉文明」とさえ言われてきた。 しかしその淵源はこの「遼河文明」にあったのだ。約六千年前の紅山文化こそ、玉と龍の文明と呼んで差し支えない。
この秘密は、前述のステップ・ルート経由の西域との交流にある。ステップ・ルートで西方に行き、天山山脈の南麓に回れば、 そこはタリム盆地(狭義の「西域」)である。中国中央部からタリム盆地へ入る所に、 古くから玉門関(ぎょくもんかん)という関が設けられている。なぜ「玉門」なのか。西域が玉の産地であったからだ。 特にホータンという地は美玉の産地として知られていた。この交流の証拠に、紅山文化の牛河梁遺跡からは、 モンゴロイドにはない「碧」眼を持つ女神像が出土している。
女神像は「遼河文明」のもう一つの特徴物である。それは大地の豊穣を祈願する大地母神である。 これも「遼河文明」が「森の文明」段階だったことを証明している。ちなみに、 わが縄文文化の土偶もその伝播を受けた女神像と考えてよい。さて、これで三つが出揃った。 彼らは、複合トーテムの龍を信仰し、西域との交易による玉文化を育み、 豊穣をもたらす大地母神である女神に祈りを捧げていたのだ。

◆参考3.――「文」の原形――文身習俗:

文は人の形であること疑がない。そして胸に花文(かもん)を加えている。 文身でなくて何であろう。
文身の俗は今では未開野蛮の風であり、中国の人は聞くを喜ばぬことであろうが、 上古の時代には、どの国もどの民族も愚蒙ならぬは無い。 臂(ひじ=肉体)に文身を入れるのは、呉越のみの習俗とは限らない。
漢字の制作者とされる倉頡(そうけつ)が字を作った当時、 中国の人もたいてい文身をしていたのであろう。
文はその象形の字として作られた。
思うに太古の未開の人々は、衣冠礼服の美を知らず、 入墨をしてその身を文(かざ)ったのであろう。
※『書契淵源』昭和初期、中島竦(なかじま・しょう)著/原文は漢文、白川静・訳

中原において、青銅文明と玉文明との間で何が起こったのか――は、不明です。

しかし、遠く西アジアに由来し、好戦的で気性の荒い青銅文明は、 伝統の蓄積において遥かに先行していた玉文明を瞬く間に滅ぼし、 我が物として呑み込んだであろうと考えられます。

記録に残される事の無かった先史時代の大戦争。玉文明に打ち勝った青銅文明は、 周辺の森林開発を速め、ついには原初的な部族国家――城壁都市――を形成する 混成氏族をも生み出しました。

こうした城壁都市の大きなものには特に人口が集中し、文化・知識活動のターミナルスポットとして 栄えました。中核となった住民は、その地における部族社会のメンバーでもあり、 自然、これらの城壁都市は、部族であるが故の強い団結心に支えられた、 ポリス的国家――「古代の諸王国」でもあったのです。

中核住民の労働力のみで支えられる都市は、極めて小規模です。そこでは、朝には 郊外の畑を耕しにゆき、夕には城内に戻って集団生活を楽しむという生活でありました。

そうした小ポリス的部族国家の散らばる中で、商売を通じて急速に膨張し、 ひときわ巨大な城壁都市となるものが出てきます。 伝説の夏王朝が、もし実在したとすれば、この頃の事であったのでは無いでしょうか。 殷の古い名を「商(大邑商)」というのも、 元は商売で大きくなったが故――という事を暗示しています。

急速に膨張した都市は、中核住民の労働力のみでは到底支えきれず、近辺の都市と同盟(人材派遣など)し、 あるいは戦争で奴隷を獲得して、その繁栄を維持せざるを得なくなります。 人口が更に増大すれば、また新たに多くの奴隷を必要とし、 都市間の戦争も大規模化する――そして遂には、都市群・都市群の大戦争時代に突入するのであります。

(戦争というよりはむしろ、利益誘導あるいは利益確定のための部族抗争に近いものだったかも知れません。 都市の膨張が、あまりにも急速すぎたのでは無いか――と想像するものであります。 また、おそらくは気候に恵まれ、農耕社会の長期安定があり、ゆえに人口爆発があったのでは 無いか、という事も考えられます。)

戦争に負けそうになった都市は、縁戚を頼んで同盟を結ぶのでありますが、 そこでは宗家・分家の地位格差が微妙に効果を発揮し、 軍事同盟は対等な同盟ではなく、主従関係が生じてきます。 その主従関係は裏切りを含む不安定なものであり、 青銅器を用いた呪術――霊的威圧――によって彩られる事になりました。

そのようにして、かつて中原に広がっていた〈上古諸州〉は、滅びてゆきました。 氏族ごとの、自治の伝統の消滅です。 生き残った「部族」は、いわゆる「祀(祭祀)・戎(軍事)」に優れた、強大な部族のみでした。

いささか背筋が寒くなるようなプロセスではありますが、青銅祭祀の高度化、複雑化という事象は、 戦争、及び戦争に付随する血みどろの呪術戦の発達と、切り離して考える事は不可能であります。

当時の呪術戦は、魔術的な眉飾を施した眉人(=邪視の呪力を発揮する巫女)が先頭に立ちました。 また、呪術戦に敗れた呪術師については、男女を問わず、その魔術的な力を失わせるために、 全て殺害処分した――と言われています。その事を、甲骨文で「蔑」と記したそうです。 想像ではありますが、その首を刎ね、城門にかけて国の守り(春秋期は城門の下に埋めて呪禁)としたり、 辻の祭壇に首を並べて道の守りとした筈です。

いつしか、血で血を洗う戦争が普通となり――やがて多数の従属都市を従え、 強大な権力を行使し、その権力を証しする強力な青銅祭祀を完備した都市が出現します。 こうした核心的な都市のリーダーが、いわゆる「王」でありました。

多数の従属都市に対し、かくも強大な権力を――それは殆ど 霊的威圧でありましたが――行使しうる核心都市は、 もはやポリス的な意味で言及しうるような部族国家ではあり得ません。

それは、「領土国家」なのです。

そして更に――長い長い戦争を通じて――最後に生き残った一つの領土国家が大領土を得、 ここに前シナ王権の誕生を、そして中原を制覇した青銅文明、〈前シナ文明〉の台頭を見ることになったのです……

》付記:夏王朝の社会 ―― 青銅器による霊的威圧の始原

伝説の夏王朝の政治を司ったのは、六卿(りくけい)という組織です。 以下のように伝承されており、この仕組みは殷・周も継承していたようです。

  1. 冢宰(ちょうさい)は、諸政全般を預かる。いわゆる宰相
  2. 司徒(しと)は、人民教化(教育)を担当する
  3. 宗伯(そうはく)は、祭祀を行なう
  4. 司馬(しば)は、軍隊を統率する
  5. 司寇(しこう)は、司法にのっとり、警察を指揮する
  6. 司空(しくう)は、国土と人民の掌握を担当する

夏の時代には、すでに工業を専門とする職人集の発生があり、 青銅兵器の生産も行なわれていたと言われています。 特に武器の生産に携わったのは、地方平定を任された将軍(方伯)だったそうです。 そのうち、もっとも勢力を誇った方伯が、後の殷の王となる湯王だったという話があります。

当時の武器は戈、矛、矢じり、大型刃(生贄や捕虜の首を切断するため)などだったと言われています^^;

祭祀に使われるような大型タイプ、あるいは金文を鋳込むタイプの青銅器の製作技術は、 殷王家ないしは周王家直属の工房の独占であり、 周辺諸侯にはそうした高度な青銅器が製造できなかったと言われています。 (高度技術を駆使した青銅器が周辺諸侯に下賜され、周辺諸侯はそれをこっそり真似したようである、 という事も、当時の出土物の分析から推測されています)

前1100年頃、従来の青銅に鉛を含ませる方法が始まりました。 鉛を含ませると、冷えて固まるまでの時間が延びるため、型の隅々まで青銅を浸透させる事が出来るようになります。 霊的威圧のための細かな文様や金文を鋳込む――という需要があって、 そのための技術が伸びていった、と考えられます。

青銅器が霊的威圧のための呪術的器具であった事も考慮すると、 青銅器の霊威によって正統な王を証しする――という伝統が生まれていても、 さほど不思議ではありません。 それが、おそらくは、「古代シナ王権」の種子であるのでしょう(「鼎の軽重を問う」などの言い回し)。

夏の時代――〈初代五諸族〉の闘争心は、極めて原始的かつ獰猛なものだったのでは無いでしょうか。

曖昧な区分ではありますが、神話伝説が暗示する〈初代五諸族〉の系統は各々、 次のようなものであったようです (もちろん、彼ら〈初代五諸族〉は中原に集結した部族なのであり、 他の地域には、他の部族が多く栄えていた筈です。 巴蜀地域には巴蜀の民が、沿海州には呉越の民が定着していました)。

服属を誓わせるために血の盟約の儀礼が発達したという事象、 主従の連結を確実にするために、強力な霊的呪力を発揮する青銅祭祀が発達したという事象―― そうした諸々の記録が残っている事に、注意しておきたいと思います。

当時の――〈前シナ文明〉時代の――「王」の権力は、それ程に、曖昧模糊としたレベルであったようです。


詩的考察:21世紀中国の考古学事情 ―― 夏殷周三代断代工程

何故、黄河流域の一帯に、いち早く「國」が成立したのでしょうか。

これは現代考古学の謎の一つであると言われています。その回答を得る為には、「國」が 生まれる以前の農耕社会について、その発生から展開、あるいは変遷について 眺めてゆく事が必要であり、そして各々の諸族が到達した「國」のありようを、 学問的に考えてゆく事が必要であると申せましょう。

一方で、中国大陸は極めて広大であり、多様な地理環境が存在する事が知られています。 従来は、黄河流域を中心に一元的な文化・文明の発生を論ずるというやり方が 一般的なものでありました。 しかし、1980年代半ばからの中国考古学の進展は著しいものであり、 特にここ20年の間には、中国の多様な地理環境に基づいて、 多元的社会の展開を重視する――というやり方への転換が見られるようになった、という事です。

長江文明への注目は、このような中国考古学の進展によっています。 今日の中国の地域社会や地域風土を考える際に、決して無視できないのが、 先史時代から続く周辺情勢の動向である事は、明らかであります。

目まぐるしく王朝交代を繰り返し、政略暗闘の歴史を刻み続けてきた中原史にあって、 周辺地域の情勢の影響もまた、厳然として存在してきました。 周辺地域の情勢変化は、歴史記述にはなかなか表現されてこないものではありますが、 現代考古学、そして現代社会は、こうした要素を無視して論ずる事は、もはや不可能な筈です。

さて、現代の中国考古学は、今や情報過多の世界に足を踏み入れつつあります。 特にここ10年の変化は、現代中国における目覚ましい経済成長に呼応しているもので ある――と、言われています。 21世紀の中国考古学の傾向は、現代中国の発展と、無縁ではありません。

現代中国では、国家的プロジェクトとして、『夏殷周三代断代工程』が動いているそうです。 夏・殷・周を科学的に研究し、特に夏王朝の存在を科学的に証明し、 殷・周の歴史年代を証明する、という事に重点が置かれているものだそうです。 この工程は「中国」なるものの国家威信をかけたものであり、 かつ「中国」のアイデンティティを 確立する試みでもある――のでしょうか?

現在、先史時代の社会発展については、地域の独自性を追跡するものになっています。 一方では、歴史時代に入ると、夏・殷・周といった古代国家が、黄河中流域を中心として 一元的な歴史的展開を果たした…という印象のある歴史観――中国史観――が強調され始めます。

そこには、当然、大きな問題がある事が指摘されます。 殷・周社会の発展とは、まさに中原を中心とする「中華」概念が成立してゆく過程でありますが、 問題とは、果たしてこうした単純な中国史観で、 多元的発展(先史時代)から一元的発展(歴史時代)への転回を論ずる事を、 真に学問的と言えるかどうか――であります。

他の問題もあります。「中国史観」なるものは、「中国」という名の呪術的イデオロギーを、 暗に含んでいるものでは無い――と言えるのでしょうか? そして、それは、「歴史学」というよりは、 「歴史」を絶対価値とする宗教カルト―― いわば「中国史的一神教」に変化してゆく危うさを孕んでいないと言えるのでしょうか?

多元的歴史から一元的歴史へ向かう、という転回。混沌の中の華夏大陸――

――数多の諸族がその生を営々と刻み続けてきた華夏の大地の歴史とは、果たして、 「中国」という概念で統べられる存在として、 「中国史観」の論理の元に描いてゆけるものなのでしょうか。 夏殷周三代断代工程の最終的な形を、息を詰めて見守るものであります。

資料

◆参考書籍

§総目次§
物語ノ岸辺物語ノ本流物語ノ時空物語ノ拾遺