深森の帝國§総目次 §物語ノ傍流 〉暁闇剣舞姫7

天球のアストラルシア―暁闇剣舞姫―(7)

◆Part.7「悠かなり雪白の連嶺」
7-1.最北部の辺境に来たりし者
7-2.驚愕と戸惑い、そして……
7-3.涼しき蒼穹の下、白妙の風
7-4.最北部の辺境という所
7-5.ささやかなダイアローグ
7-6.天球は巡りて、風立ちぬ

7-1最北部の辺境に来たりし者

――竜王国の最北部の辺境。文字通り世界の端に位置し、「世界の屋根」の二つ名を取る山岳地帯である。

万年雪を頂く急峻な岩山と深い峡谷とが、縦横に走っているエリアだ。 もっと低い麓の方では――ほとんどの大陸公路や竜王都の方では、既に春の盛りと言うのに、この恐るべき高山帯は、やっと雪解けが始まったばかりだ。

方々に散らばっていた近場の竜人たちが、冬越しのために集まって来ている《大砦》――

その《大砦》は、峡谷を織りなす険しい岩山が高密度で林立する中で、ひときわ大きな岩山の頂上に、もう一つ岩山を乗せたかの如く聳え立っている。 古代・中世様式の大きな円形塔や城館、高い城壁を備える、古風な外観と構造を持つ城塞だ。 大所帯を収容可能な、一つの回廊&街区に匹敵する程度の居住スペースを備えている。

辺境の国境線がまだ確定していなかった古代・中世の頃は、大陸公路の版図を賭けて、 毛色の異なる種族ごとのみならず、同族の有力者の間でも王位を争って対立していた戦国乱世であった。 《大砦》創建当時の頃は、現在につながる統一版の竜王国の、王室の血筋が定まったばかりの時代に相当する。 当時は、新興国・竜王国の威信をかけた壮麗な建築物であったのだ。

そして今や《大砦》は、竜王都創建の時代の記憶を伝える、風格のある歴史遺産といった風情だ。 時の流れによって蓄積された、古色蒼然とした古さが全体に滲み出ている。

*****

――雪解けが始まるか、始まらないか、と言う不安定な気候である。その日は季節の戻りがあり、未明から本格的な雪が舞っていた。

分厚い灰色の雲の下、《大砦》を囲む城壁内部の建築物の1つ――それも転移基地が、驚く程に明るく光った。 今日の予定表には入っていないのに、いきなり転移魔法陣が稼働したのである。しかも、一定以上の長距離レベルか、一定以上の大量物資レベルだ。

「何か凄い光ったぞ! 誤作動か? 大量のエーテルが飛び散ってる」
「鳥人の誰かが、急性の鳥頭でも発症して、大量の荷物を間違って転送して来たか」
「有り得ん! 第一、此処の転移魔法陣は古代遺物も同然の『旧々々式』なんだ! 中央の軍事予算も、 こんな辺境には滅多に回って来なくてな、設備更新が……」
「魔物か、バーサーク体か、それともドラゴンスレイヤーを持って襲って来た、人類の勇者の復活か!?」

《大砦》に詰めていた辺境警備の朝当番の隊士たちが、口々に騒ぎながら、春の雪が降り注ぐ『見張り回廊』へと飛び出した。

この『見張り回廊』は、全方向への緊急出動に備えて、《大砦》の高階層をグルリと一周するアーケード回廊様式となっている。 隊士たちの訓練場所であり、体力維持のためのランニングの場所であり、更には竜体でのジャンプや着地にも耐えられる、頑丈な造りとなっているのだ。

隊士たちは、武官として訓練された竜人ならではの、高い身体能力を発揮した。

竜体に変じるや否や、《大砦》を巡る『見張り回廊』を全力疾走し、転移基地の最寄りのコーナーから一気に飛び降りる。 10数階層ほどの間をつなぐフライング・バットレス風の梁の上を、積雪に足を滑らせもせず駆け降りて行く。

この辺り一帯では、転移基地は《大砦》にしか無い。城門前広場の真ん中に堂々と立ち上がる、円筒形の吹き抜け構造の塔だ。

円筒形をした塔の頂上の周りには、足場となる細い張り出しがある。ほんの瞬きほどの間に、7体の竜体は各々の背中から四色とりどりの竜翼を広げ、 フライング・バットレス風の梁から滑空しつつ飛び降りて、その足場に正確に着地したのであった。

吹き抜けの塔を煙突となさしめたかの如く、転移魔法陣から噴き上がる白いエーテル流束――それが渦を巻く柱となって、回転していた。 大量放出されていたエーテル魔法は、次第にユラユラと揺れる煙となる。それが空中に漂う白いモヤとなり、やがて吹き流されて消えて行く。

転移魔法が終わった。

隊士(竜体)たちは各々の疑問顔を見合わせると、足場の上に身を屈め、円筒形の壁の頂上から首を伸ばして中の様子を窺った。 独特の風音の残響が続いた他には、特に警戒すべき物音は聞こえて来ない。

少し間を置いた後、風音の残響の名残が尋常に消えた。吹き抜けとなっている円筒形の底を、なおも窺ってみる。 吹き抜けとなっているのだが、その空間の底は、真っ暗だ。竜人の視力をもってしても、底の様子は分からない。

隊士(竜体)たちは、円筒形を成す塔の底に降りて、何があったか確認しなければならない事を理解した。

円筒形を成す吹き抜けの壁の内側は、創建当時と変わらぬ、異様にツルツルとした滑らかさを維持している。魔法の潤滑剤が掛かっているのだ。 如何なる魔物であっても、この壁に取り付くには大変な努力が要ると、素人目にもハッキリと見て取れるであろう。

隊士たちは各々、人体に戻った。魔法の杖を梯子に変形し、足場にシッカリと固定する。

吹き抜けの塔の底に向かって梯子を降りて行くと共に、暗さが急速に増す。 昼なお暗い空間だ。特に今日は雪空という事もあって、雪がちらつく円筒形の空間の底は、闇夜のような暗さだ。 相当に夜目の利く竜人で無ければ、夜間照明も無しで底に降りるのには、非常な勇気が要る。

隊士(人体)たちは、いつでも戦闘モードたる竜体に変じる事が出来るように警戒しつつ、魔法の梯子を降りて行く。

その目の細長い瞳孔は、夜間と同じく既に最大級に開き切っており、微かな光をも反射していた。 闇夜のような暗さの中で、梯子に沿って並んだ一対の目が7セットばかり、キラキラとペリドット色に光っている。

底に近付くと、円形をした金剛石(アダマント)製の一枚板――基底床に、幅と深さが一定した溝でもって、 古い時代の転移魔法陣が、精密かつ慎重に刻まれているのが分かるであろう。今は積雪によって、ほぼ隠されている状態だが。

ノミを使って精密に刻まれた転移魔法陣は、創建当時としては最先端技術の限りを尽くした代物ではあるが、 現代の最新型にして大型の物に比べると、随分と小ぶりなサイズである。 大陸公路を行き交う隊商の、それも山道仕様の中小型の荷車(リヤカー)を、ギリギリ転移させられるという規模だ。 或いは、人体状態の小隊――突撃隊メンバー程度の人数を、頑張って転移させられると言う程度か。

転移基地――吹き抜けとなっている円筒形の空間の中は定期的に除雪されてはいるのだが、 今日は、未明から降り続けていた雪が既に相当に積もっている状態である。

――先程の光は、この積雪をものともしない程の明るさだったのだ。

7人の隊士(人体)たちは梯子の途中で留まり、畏怖の念を抱きつつ、慎重に転移魔法陣の中央を窺った。1人の隊士が、照明灯の魔法を発動した。

――転移魔法陣の中央部で、何やら人体らしき物が、湧き出て来たかのように横たわっている。 だが、人体にしては異形のパーツが目立ち、得体の知れぬ妖怪にも似た雰囲気がある。

リーダー格の――特に腕っぷしに自信のある大柄な男が、遂に基底床に降りて、転移魔法陣の中央に近づいた。

転移魔法陣の中央、うつ伏せ状態になり、積雪に埋もれてグッタリと横たわっている人物は――確かに竜人だ。

慌てて変身したためにミスをしたのか、それとも変身途中だったのか、背中に竜の翼の片方を生やしている。翼の色は白く、《風霊相》生まれの者と知れる。 何があったのか翼は痛ましいまでにボロボロになっており、全身、血だらけだ。腕にも脚にも、ギョッとするような裂傷が出来ていて、まだ出血が続いている。

隊士は、すぐに異様な特徴を見い出した。人体なのか竜体なのか――変身状態が混乱したまま、フリーズしているのだ。 成る程、異形のパーツが目立つ訳だ。ほとんど人頭蛇身の妖怪といった所だ。

ほぼ人体といった様相なのに、ブーツが脱げている両足の先端には、竜体さながらの鋭い爪が生えかけていて、素足は鱗でビッシリだ。 後ろの腰の部分から、同じくビッシリと鱗をまとう長い尻尾が生えている。 その尻尾もまた、無残な程に傷ついて血まみれだ。しなやかに動くであろう細めの長い尻尾だが、目下ピクリとも動かない。

少年か或いは女性を思わせる、妙に細い肩の辺りに手を掛ける。次に、首周りをカバーする高い襟の中に指を差し入れ、喉元の方にある逆鱗の近くまで指を滑らせる。 だが、あってしかるべき反応が無い。意識を完全に失っているのだ。

(喉仏が無い!)

隊士は、ハッと息を呑んだ。積雪に半ば埋もれていた人物を掘り出し、抱き起こす。

背中まで届く長い髪を振り乱した状態。女ならではの、緩やかな曲線を描く胸。続いて、やはり男には有り得ぬ、曲線を描く腰。 鱗でビッシリと覆われた顔面は、ゾンビさながらに裂傷にまみれていて、血の川を流している――が、明らかに女だ。

「大怪我をしてる女だ! まだ若い!」
「何だってぇ!」
「若い女だって!?」

残りの6人の隊士たちが殺到した。梯子の形から解放された魔法の杖が次々に光源となり、せせこましい基底床の上は、たちまちのうちに夜間照明の光で溢れた。

注意して見ると、女の着衣は、神殿隊士がまとう武官服である。聖職に準じるという事もあって、大変な手間を掛けて白く漂白されているという、ハイテク品だ。 相応に値の張る品だが、今や元型を留めぬ程に破損しており、鮮血に染まって見る影も無い。

「壁に取り付けてある担架を出せ! 1人は重傷者発見の旨、本部に連絡! 1人は、そこにある封印扉を開錠!」

リーダー格の隊士の指示に応え、6人の隊士たちが素早く対応する。

担架の上に横たえるべく女の身体を動かすと、その拍子に、女の指の間から1本の魔法の杖がこぼれ落ちた。 肘から手先までの長さの、標準的なサイズだが武官用の物より少し細い杖だ。リーダー格の隊士は素早くそれを拾い上げ、自身の武官服のベルトに挟んだ。

この転移魔法陣は、その昔は、敵方の突撃部隊が転移して来た場所である。今は、時として予期せぬ魔物たちが、原始的な転移魔法を使って湧いて来る場所だ。 そのため、円筒形の塔の地上部分の出入り口となっている扉は、転移して来た者の正体を確認するまでは、魔法で厳重に封印されたままとなっているのだ。

今、封印扉がいっぱいに開かれた。全開状態で、荷車(リヤカー)がギリギリ通過できる幅となる。

隊士たちは、身元不明の女の身体を乗せた担架を運び出し、今しがたバッと開いたばかりの《大砦》の正門扉を駆け抜けて行った。 開扉担当の隊士たちもまた、唖然とした顔で、担架の上に乗せられた血みどろの女を注目するのみだ。

予期せぬ来訪者だ。しかも白い武官服をまとっているのだ。 竜王都の中央神殿か、竜王都に匹敵するような裕福な地方管区の神殿の関係者である事は明らかで、何があったのか瀕死である――

《大砦》の中は、久々の大事件で、上も下も大騒ぎになった。

辺境警備部隊の隊長や副隊長が出張って交通整理をしたが、長い冬ごもりで退屈しきっていた野次馬たちが殺到して来るのは、当然の結果と言えた。

*****

身元不明の女は、担架に乗せられたまま、速やかに《大砦》の治療室に運ばれた。

同時に、数少ない治療魔法の使い手たる神官が呼び出された。 既に100歳を超えているのでは無いかと思える程のシワだらけの、歩行器代わりに魔法の杖をつくような魔女さながらの老婆だ。 しかし、足腰はシャンとしており、緊急事態とあって、驚く程に身のこなしにキレが出ている。

婆神官は、担架ごと治療室のベッドに横たえられた、ゾンビ状態も同然の異形の女を一目見るなり、年の功ならではの即断力を披露した。

「まず武官服をむいて、裸にするよ。次に全身消毒。鱗の破損が全身に広がっているから、ほぼ全身の鱗を抜かなきゃならないね」

――素晴らしく簡にして要を得た、直接的な物言いだ。

治療室に留まって次の指示を待ち受けていた隊士たちは、ポカンと口を開けるのみである。 中には、全身の鱗を無理矢理に引っこ抜かれる時の痛みを連想したのか、痛そうな顔をした若者も居た。

「男たちは出てな。パメラとパピ、フェリア、ララベル、治療師(ヒーラー)としてアシスタントしな」

婆神官の指示を受けて、男たちは速やかに治療室を退散した。

治療師(ヒーラー)資格持ちの女隊士2人と、やはり治療師(ヒーラー)資格持ちの、白衣を素早く身に着けた2人の女が残る。 白衣姿の2人の女が治療室の戸棚の間を走り回ると、ベッド脇やその近くのテーブルに、救急処置に必要な数々の手術器具が、あっと言う間に揃った。

消毒作業を済ませた女隊士2人が、大怪我をしている身元不明の女の武官服を、手際よく剥ぎ取り始めた。女性向けの衣服の構造が分かっている事もあって、速やかだ。 しかし、大抵の怪我に慣れている武官でも、身元不明の女の全身に広がっている重傷には、流石に青ざめている。

裂傷と火傷と打撲傷のオンパレードなのだ。あらゆる種類の攻撃魔法を受け、岸壁か何かに何度も叩き付けられたような形跡があるし、物理的な意味での刀傷が目立つ。 腹部の裂傷は内臓にまで到達して大出血を起こしており、ほぼ致命傷だ。まだ息があるという事実の方が、いっそ奇跡と言うべきだ。

人頭蛇身と言うべき混乱した変身状態で、顔面や尻尾を含め、全身を鱗がビッシリと覆っている。 深刻な骨折が全身に及んでいるものの、鱗のお蔭で、幸いにして極端な変形は無い。治療魔法で復活できるレベルの骨格が維持されているのだ。 事情は知れぬが、本能に従って全身を堅牢な竜鱗で保護していたのは、賢い選択だったに違いない。

女を全裸にすると、4人のアシスタントは「せーの!」と担架を持ち上げ、ベッド脇に用意してあった透明な青緑色の消毒液プールに女の全身を浸した。 数秒後、消毒と洗浄が済んだと言うサインの泡が一面に立つ。

全身を清められた女は、担架ごと再びベッドの上に戻された。清められた分、なおも出血が続いている全身の裂傷が、いっそう生々しい。 消毒液プールの中には、細かな泥や汚れ、雑菌、古い血液と言った浮遊物が残った。

婆神官は魔法の杖を青く光らせ、治療魔法を開始した。

女の背中に生えたままの片翼を微細なエーテル粒子に分解し、女の身体の中に押し込むや否や、麻酔を施す。

全身麻酔が掛かったと言う婆神官の合図に応え、各々、鱗を引っこ抜くための特別なペンチを持った4人のアシスタントが、総がかりで破損した鱗を抜き取り始めた。

軽いヒビのみの鱗であっても思い切って抜き取らないと、替えの鱗が綺麗に生えて来ず、竜体での身体動作に支障が出てしまう。 武官としても、1人の竜人としても、それは致命的な事態と言えた。

「よほどの死闘を演じて来たみたいだね」

婆神官は何回も魔法の杖を振り、最高レベルの治療魔法を発動しつつも呆れた。

5回、6回と杖を振り、強い青い光を通じて、ペリドット色をしたエーテル粒子を限界ギリギリまで呼び出しては、そのたびに女の身体に注いでいる。 しかし、あっと言う間に身体の奥に吸い込まれてしまい、身体全身を覆う重傷からの出血が止まらない。明らかに、止血どころでは無いという状況なのだ。

婆神官は、女の身体状況を素早く透視した。

大出血を乗り切るためであったのだろう、生命を維持するための基幹エーテルの消耗が激しい。 混乱した変身状態を整理するために必要なエーテル量すら枯渇している――更には、とんでもない事に、 生命の根源パーツを成す《宿命図》エーテル状態にすら響くほどの枯渇レベルとなっていた。

――このままでは、全身麻酔から覚めても、危険なレベルの昏睡が続いてしまう。

婆神官は腹を決めると、治療室のドアをサッと開けた。

ドアの外にズラリと並んだ幾つもの顔が、目と口を丸く見開き、どよめいたが、婆神官は少しも驚かない。ドアの周りに野次馬が集まっている事は、百も承知だった。

「誰か、余分の魔法の杖を持ってないかい。普通より強めのヤツだ」

隊長や副隊長と共に野次馬を交通整理していた、あの大柄な体格をしたリーダー格の隊士が駆け付けて来て、「女の傍に落ちてた」と魔法の杖を差し出して来た。 驚く程に精密な細工がされている魔法の杖で、作風もハッキリと出ており、腕の良い魔法職人による一点物らしいと知れる。

「こいつぁ掘り出し物だね。《風》魔法が強化されてるのも、ちょうど都合が良い」

杖を受け取った婆神官は、再びドアを閉じて治療室に引っ込んだ。

ドアの外で再び野次馬が騒ぎ出したが、婆神官は意にも介さない。 身元不明の女のベッドの柱に、夜間照明よろしく魔法の杖を紐でくくり付けると、自分の魔法の杖を再び振って光らせた。

ベッドの柱にくくり付けられた細い魔法の杖の先端部に、白い折り紙で出来た可愛らしい風車のようなモノが現れる。 即席のミニ風車は扇風機のように高速で回転し、大量のエーテルを呼び出し吸い込んで集めるや、濃度の高いエーテル流束を紡ぎ出した。

婆神官は、宝石のような濃いペリドット色にきらめき始めた濃密なエーテル流束を引っ張り、輸血のための管を挿すかのように、女の片腕に連結した。 長い尻尾を生やした異形の女は、ほぼ全身の鱗を抜かれて赤膚を晒している状態だ。ベッドの下には、ギョッとするような数量の、破損した鱗が散らばっている。

血流に乗って、女の全身にエーテルが急速に補給されて行く。頃合いの良いタイミングで、婆神官は再び自分の魔法の杖を振り、裂傷からの出血を止めた。

婆神官の杖が再び光ると、女の身体の周りがエーテルのモヤに包まれ、混乱したままフリーズしていた変身状態が整理されていった。 尻尾が引っ込んで、ベッド上での姿勢が安定する。わずかに残った正常な鱗も皮膚の内部に退き、替えの鱗を準備する状況が整った。

女が麻酔から覚めないうちに、婆神官と4人のアシスタントとで、再び総がかりになって、裂傷を手際よく縫い合わせる。そして、全身に包帯を巻く。 包帯には創傷に効く薬草成分が染み込んでおり、ツンとした匂いがするものの、あらゆる種類の傷の回復を早めるスグレモノである。

身元不明の女の怪我は全身に広がっていたため、「まさにミイラ」と言ったような見かけになった。 頭部も包帯でグルグル巻きになり、長い髪は、ほぼ包帯の下に隠れた。包帯に覆われていないのは、目、鼻、口を含むわずかな顔面のみだ。

麻酔が切れると、ミイラとゾンビを混ぜこぜしたような姿になった女は、うっすらと目を開けた。夢見るようなラベンダー色の目だ。 ボンヤリとしては居たが、婆神官の顔を認識した様子で、口がポカンとした形になる。

婆神官はテキパキと語り掛けた。

「あんた、ひどい怪我だ。此処まで治療魔法が必要になるレベルと言うのは、この辺じゃ見ないね。今は寝てな」

女は力尽きたように目を閉じると、深い眠りに落ちて行った。

7-2驚愕と戸惑い、そして……

――ボンヤリとした、柔らかな夕暮れのような明るさを感じる。

女は、ゆっくりと目を覚ました。女が最初に感じたのは、全身の疼くような痛みだ。

――そうだ。私は、大怪我をしていた。あの時は死に物狂いだったせいで、余り痛みを感じなかったけど。

慎重に視線を動かす。古色蒼然としているが、清潔感を感じる天井だ。部屋の中は、薬草の匂いで一杯だ――医療局とか、医療院と言った場所に違いない。 窓があるのだろう、ベッドの右側に仄かな明るさが漂っている。オレンジ色に偏った色合いからすると、どうやら夕方らしい。

「おや、目が覚めたかい。あんた、3日間ずっと寝てたよ」

女は思わず、声のする方向に視線を動かした。

ベッドの左側に、婆神官が居た。女が目覚める頃合いを見計らって、傍に居たのだ。

婆神官は、時代錯誤なまでに古風な、たっぷりとした神官服をまとっている。装飾パーツのパターンも今の物とは違って古典の鱗紋様となっているが、 その青い色は、明らかに《水》の神官である事を示していた。

髪は当然ながら、ほぼ総白髪だ。若かりし頃の名残が残る側頭部の左右の一房が、それぞれリボンで結わえられ、お下げとして身体の前面に流れている。 その左右の一房の髪は、宝石のような光沢を放つ濃い緑色である。

アクアマリン色の目を愉快そうにきらめかせ、これまた古風なデザインの大振りな椅子に、100歳を超えた魔女さながらに鎮座している。 そして、これまた古代様式の、種々の宝石細工のある魔法の杖を携えていた。 杖の先端部にある円形枠に嵌め込まれた水晶玉は、手の平より一回り大きいサイズの見事な品で、透明な青に染まっている。

――この婆神官は、《水霊相》の生まれなのだ。ジワジワと感じられる、ただ者ならぬ風格と、威厳。 うっすらとした確信しか無いが、大物クラス竜人に違いない。

婆神官に攻撃の意思が無い事を見て取った女は、それでも用心深く、目の届く限り、見知らぬ場所をザッと観察した。

天井は、木製の剥き出しになった梁と、頑丈な漆喰がほとんどだ。部屋の設備は、どれもこれも旧式の物で、 ベッドでさえ、切り出したままの魔法加工の無い、古代さながらの天然木材である。 昔ながらの職人が居るのであろう、古典的な定番の彫刻を施し、ニスを丁寧に塗って仕上げた、素朴な伝統工芸品だ。

部屋の仕切りも、歴史教科書に出て来るような古典的な織や模様の薄布を、透かし彫り細工を施した木枠に張った代物だ。 透かし彫りや薄い布地を透かして、向こう側にあるドアの位置がうっすらと窺える。現代社会に必須の、機密保護も何もあった物では無い。

――当時の言葉では『御簾(みす)』とか『簾屏風(すだれびょうぶ)』とか言ったか。

古代・中世の時代に迷い込んだような気すらして来る。そうで無ければ、古代&中世ワールドを本格的に再現した人形劇の、歴史考証もバッチリの実物大の舞台セットか。

婆神官の背後では、白いエプロンを付けた女性が2人、キビキビと動き回っていた。

1人は若い女で、1人は中年女だ。そのエプロンのデザインも旧式だが、もっと馴染みのある近代の頃の物だ。 当時、爆発的に流行したと言われているレース細工の幅広のフリルが二段も付いていて、現代が求める機能性には少し欠けるが、エレガンスな感じだ。

2人の女性は、婆神官の助手に違いない。部屋の仕切りの間を行き来しながら、小声でささやきかわし、あれこれと整理作業をやっている。 薄布の仕切りを透かして女の状態に気付いたのであろう、2人は仕切りの後ろから顔を出して、様子を窺って来た。

2人とも、白いエプロンに合わせて、伝統紋様を織り込んだ白いヘアバンドで各々の髪を留めている。 若い方は残りの髪を後ろにフワフワと流しており、中年の方は古風なシニヨンの髪型にしている。近代の頃の治療師(ヒーラー)さながらの格好だ。

――私、包帯しか身に着けてない状態なの?

女は、不意に、自分が包帯グルグル巻きの状態だという事に気付き、目をパチクリさせた。

包帯が寝巻代わりなのか、包帯以外の布地を、全く身に着けていない。掛け布団さえも回復の邪魔になると判断されたのか、掛け布団すら掛かっていないのだ。 その代わり、暖房のための《火》魔法が適切に稼働しており、空調は完璧だ。

「まさにココはドコ? ワタシはダレ? って顔してるわねぇ」

ややふくよかな体格をした若いエプロン女が先に仕切りから出て来て、婆神官の背中から、丸い顔をヒョコッと出した。 次いで、婆神官の横を回り込み、ベッド脇にしゃがみ込んで、愛嬌のある可愛らしい笑みを浮かべた。

――若い。私と同じ年ごろみたい。

全身を包帯でグルグル巻きにされた女は仄かな親近感を感じ、やっとの事で口元に薄い笑みを浮かべた。

若いエプロン女は、明るいオリーブ・グリーンの髪と明るい赤銅色の目をしていて、見るからに陽気そうな性格だ。 若いエプロン女は、部屋の仕切りの向こう側で既に準備していたのであろう、ストローの付いた水差しを持っていて、顔の近くに寄せて来たのであった。

女は全身の痛みをこらえつつ、ストローを通じて、水分を少しずつ補給した。

――美味しい。これは、天然の湧き水だろうか?

大出血の影響なのか、自分でもビックリするレベルの水分欠乏状態だったらしい。驚く程の水量が入った。 やがて、喉の状態が、次第にマシになって来た――少しなら、喋れるかも知れない。

婆神官は、女の状態を注意深く観察していた。女がホッと息をついて落ち着くと、婆神官はテキパキと説明を始めた。

「さて、あんたの状況を説明するよ。あんたは3日前、雪が降る朝、この《大砦》の転移基地に現れた。全身ズダボロでね。 治療魔法を全身に施したけど、傷はまだ完全には塞がってない。 こんな田舎じゃ、高度治療やら上級占術やら使える魔法使いが皆無でね、竜王都と比べりゃ、野蛮で乱暴で原始的な治療法しか無いんだよ」

女が1回うなづいたのを確認し、婆神官は更に説明を続けた。

「今は、あんたが来てから3日目の夕方だ。ほとんどの鱗を引っこ抜いてあるから、替えの鱗が生え揃うまで、 数ヶ月――そうだね、安全を見て1年ほどは、竜体への変身は厳禁だよ。体内エーテル欠乏が深刻だから、変身どころじゃ無いだろうがね。 安静にしてな。寝床と食事の心配は無いよ、今のとこはね」

女は改めて、うなづいた。全身ズダボロだったと言う自覚はあるのだ。

《大砦》――随分と古風な名前だ。余程の田舎に転移して来たらしい。しかも、雪がまだ降っていると言う。相当に北方の田舎のようだ。 数ヶ月から1年とは随分と長い療養期間だが、医療技術も設備も不充分な田舎とあっては、致し方ない。

魔法感覚を使わなくても、耳を澄ませてみると、この部屋の出入口と思しき古風な木製のドアの外から、相当数の野次馬らしき人々の話し声や足音が感じ取れる。 一番手前の人々が、ドアの隙間にピッタリと聞き耳を張り付けているらしいという気配も。

どうして、どうやって転移して来たのかは自分でも分からないが――此処の人々をビックリさせてしまったのだという事は、容易に理解できた。

次に婆神官は、ベッドの傍のテーブルに備え付けられた、細い魔法の杖を示した。ちょっと首を回すと視界に入って来る。 テーブルには台座代わりの細い首の花瓶があり、魔法の杖が切り花よろしく、セットされているのだ。

魔法の杖の先端部で、まさに幾何学的な形をした白い花さながらの可愛らしい白い風車が、軽快に回転していた。 魔法の風車の中心からは淡いペリドット色にきらめくエーテル流束が伸びていて、女の片腕に、栄養補給のための点滴さながらに連結されている。

「あんたの魔法の杖だろうけど、当分、基幹エーテル補給に使わせてもらうよ。今は、これと治療魔法とで、骨格を優先的に修復してるところだ。 あたしゃ上級占術やら高度治療やらは使えないから、健康運の強化というレベルで回復を早める事は出来ないけど、骨格の修復だけは得意中の得意でね。 次に目が覚めた時には、日常動作レベルは問題ない筈だ。変身魔法にも対応できる。ただ、武官としての強度は戻らないから、そこは覚悟おしよ」

もう、武官に復帰する事は出来ないのだ――全身の疼くような痛みを考えると、日常動作や変身魔法が出来るだけでも、幸運だと思える。 女は、理解したと言う印に、再びうなづいた。

婆神官は、すこぶる感じ入ったと言った風の笑みを浮かべると、すぐにテキパキと確認の質問を投げて来た。

「あんた、《風霊相》の生まれだね。名前は何だい、シルフィード?」

女は口を開いたが、すぐに名前が出て来ない。思い出そうとして――やがて、とんでもない事実に気付き、絶句した。

「思い出せない……」

婆神官の後ろに待機していた、白いエプロン姿の2人の女性が、ポカンとした顔になる。

ふくよかな若い女性の方が、信じられないと言う風に明るいオリーブ・グリーンの髪を振り乱して、素っ頓狂な声を上げた。

「ホント?」
「これが、かの話に聞く『記憶喪失』というものかしら……!?」

そう続いたのは、白髪の混ざった薄いオリーブ・グリーンの髪に淡い水色の目をした中年の女性だ。年相応に、落ち着いた顔立ちをしている。

世代の違う2人の女性は、口々に疑問の声を上げた。

――神殿隊士の白い武官服だったから、神殿隊士なんだろうとは思うけど。こんな辺境じゃ中央のニュースが来るのも遅くなるから、 我らが竜王国の王都で大きな政変らしき物があったと言うような事くらいしか知らないけど、そんな不気味すぎる『ミイラゾンビお化け』になる程の、本格的な戦闘があったのか――

「辺境……?」

女は辺りを見回し、次いでベッドの右側にある窓に、目をやった。夕方の陽光が、そこで仄かに漂っているのだ。

武骨なまでに簡潔な、着雪と寒気を防ぐ事のみに特化した窓だ。中世風の両開き窓の周りに漂う陽光は、温かみのある金色とオレンジ色に満ちているが、 見える限りの外枠には、積雪の名残が凍り付いているのが分かる。

夕方になって気温が急低下したのであろう。窓の外には、見かけを裏切るような、ブルッと震えが来るような冷気が漂っているに違いない。

窓の外の光景に気付くと――女は深く驚嘆する余り、何も言えぬまま、目を丸くした。

――深い雪に包まれた壮大な連嶺が、驚くほど近くに見える。 赤みを帯びた金色の光の中、いつまでも見ていたくなるような、息を呑む程に見事な夕映えの絶景が広がっているのだ。

「雪山……」

婆神官は、女の視線の先を見やった。

「あたしらは、アレを『雪白』って呼んでる。此処は、竜王国の最北部の飛び地だよ。今まさに雪解けが始まったとこさ」
「雪白の……『連嶺』……?」
「そんな大したもんでも無いけどね。あんたは名前を思い出せない訳だ。此処に来る前の事は、どうだい?」
「神殿隊士……を、やっていたのだろうとは思いますが……」

女は視線を彷徨わせながらも、必死に思案した。断片的な記憶しか掘り出せないのだ。

「夜間の戦闘……闇の中で戦闘をしていた。ずっと遠くの場所で。でも、自分の名前は思い出せない」

婆神官は、女を注意深く観察していた。アクアマリン色の目の表情は変わらなかったが、物理感覚も魔法感覚も使っているのは明らかだ。 やがて婆神官はハッキリと診断を下したのか、一つうなづくと、更に別の質問を投げて来た。

「あんたの持ってた魔法の杖だけど。武官用のモンじゃ無いんだよね。そっちは?」
「知人から頂いた……そう、女友達……敬愛する先輩から譲ってもらったと言うような記憶があります。実際の戦闘で使った覚えは無いですが」

世代の違う若いエプロン女と中年のエプロン女は、興味津々で耳を傾け、相槌を打っていた。

後ほど、この建物《大砦》に居るであろう他の人々に、新情報の話として広めるであろう事は、女にも流石に、うっすらと予想できた。 とは言え、ほぼ記憶喪失となった身には、機密どころか、話せる内容も大して無いのだが。

2人のエプロン女は、顔を見合わせて早口で喋り合っている。

「王都で、偉い人たちが何か揃って荒れてて、幾つかの管区で紛糾があったって、前の夏に来た軍需物資の運搬業者が言ってたわ。 麓の大きな管区では、本格的な戦闘も増えてるって」
「こんな田舎じゃ、情報が来るのも遅いからねぇ。新しい竜王が即位したと言うニュースが此処まで届いたのも、何と3年後のタイミングだったのよう。 転移魔法陣が回ってる、この現代によ!」

名無しの女は、婆神官と2人のエプロン女を、しげしげと眺めた。改めて眺めると、不思議な組み合わせだ。

「あの……お名前は……?」
「あたし、《火》のパピよ。山一つ越えたとこの、村長の娘」
「私は《水》のパメラ。もうこんなオバサンだけど、宜しくね」
「あたしゃ、《水》のエスメラルダ卿じゃ。でも、こんな年になって『卿』も何も無いからね、婆で結構だよ」

――やはり大物クラス竜人だった。エスメラルダ卿。つまり、エメラルド卿。

女は何故か、訳も無く急に笑いたくなり、喉の奥で笑い声を立てた。

「何じゃ、失礼な嬢ちゃんだね。これでも、あたしゃ若い頃は絶世の美女だったんだよ」
「済みません……若かりし頃の髪の色が、まさに……そんな色合いだったんですね」

婆神官――エスメラルダ卿はユーモアを込めて、アクアマリン色の片目をつぶって見せた。 若かりし頃の髪の色を伝える一対のお下げが、まさに名前そのものの宝石のような緑色に輝き、揺れている。

「まあ良いさ。笑えるという事は、回復も早いという事だからね」

そして婆神官は少しばかり、困惑した表情になった。

「ついさっき、竜王都発信の緊急メッセージで、新しい行方不明者の《宿命図》の情報がドッと入って来たんだけど――それも、 バーサーク体が大量発生したとかで、バーサーク化して錯乱して行方不明になったヤツのだけど。 シルフィードの《宿命図》にはバーサーク化の痕跡は無い。それだけじゃ無い、過去の行方不明者の、どのデータとも一致しない」

名無しの女は、目を見開いた。

――それは、とんでもない事態では無いか。

肝心の《宿命図》そのものが、全ての行方不明者のデータと一致しない――

女の理解の表情を見て、婆神官は重々しくうなづいて見せた。婆神官の説明が続く。

「実は、シルフィードの《宿命図》には名前が無いんだよ。バーサーク化の痕跡が無いのは幸いだが、《宿命図》エーテル枯渇が深刻過ぎたんだね。 表層レイヤーのエーテルが完全に枯渇していて変身状態がフリーズしたままだったし、見るところ、名前や記憶に関わる部分まで破綻するレベルだったんだろう」

婆神官は、ヤレヤレと言ったように首を振った。その眼差しには、まだ困惑の表情が浮かんでいる。 婆神官の長年の経験の中でも、恐らくは初めての事態――普通は有り得ない事態なのだという事が窺える。

「身元証明も変身魔法も不可能な『名無し』ってとこだ。記憶の巣が残っていて、名前やら何やら思い出せれば、不完全な魔法署名であっても使えたんだよ。 類縁なんかを通じて本来の国籍データを突き止める事は出来たし、その国籍データを取り寄せて来て、魔法署名の原状復帰のための治療も出来たんだがねぇ」

女は急に不安になって、眉根を寄せた。

自分は、一体、何処の誰なのか。徹底的な天涯孤独――『名無し』だ。《宿命図》そのものに名前が無いままでは、魔法署名も変身魔法も出来ない。 困惑の余り、何をどうしたら良いのか――何を言えば良いのかも、思いつかない。

一方――婆神官は、魔法の杖の先端部にある青い水晶玉で額をコツコツとやって思案していたが、やがて結論が出たのか、サッパリした顔になった。

「正式にシルフィードの《宿命図》を記録して、竜王国の新しい国籍データを作成するよ。出生地『雪白』でね。 普通は親の分からない卵から孵化したばかりの幼体に適用するんだが、『名無し』なら、成体も幼体も変わらんからね」

婆神官は、窓枠に置かれた小さな花瓶と、そこに挿してある花を眺めた。

「リリフィーヌって名前にしとこうかね。あの花の名前だよ」
「……?」

女は――やっとの事で窓枠の花に気付いた。

スミレ程度の大きさの、小さな白ユリのような花――植物図鑑で見たような記憶がある。雪解けの時期のみに花を咲かせる、スプリング・エフェメラルの一種だ。

――小さくて白い……何だか、自己像のイメージと違うような気もするけれど。

女は暫く考えているうちに、失神するように目を閉じ、再び寝入った。

「今日は此処までだね。次に起きた時は、もうちょっと話が出来ると思うよ。さて、ちょっと《大砦》の役人どもの尻尾を叩きに行くかい」

婆神官と2人のエプロン女は、うなづきあった。

7-3涼しき蒼穹の下、白妙の風

続く数日の間、女は深く寝入っていた。

ハッキリしない夢と記憶の断片を漂い続けた――クリアな断片もあったが、所詮は断片であり、前後の脈絡が無い。

そして次に起きた時は、女はかなり体力が戻って来ていた。

前回に目覚めた時とは違い、掛け布団が身体の上に掛かっている。全身の骨格が、ほぼ修復されたに違いない。 相変わらず全身、包帯をグルグル巻きにしている状態だが、前回の時の疼くような痛みは、ほとんど引いていた。

最低限の必要なエーテルも身体に補充されたようだ――前回に見かけた、可愛らしい白い風車を先端にくっ付けていた魔法の杖は、今はベッド脇のテーブルの花瓶から抜き取られ、 まるで最初から、そこにあったかのように横たわっていた。

自分の名前すら思い出せない、全てを失った女にとっては、かつての身を偲ぶよすがだ。

――とは言っても、偲ぶような記憶すら、それ程ある訳では無いが。

婆神官から『リリフィーヌ』と言う新しい名前をもらった。《宿命図》に向けて念じてみると、『リリフィーヌ』が新しい名前として結ばれてあるのが分かる。 しかし、それが自分の名前だと言う実感は、まだ無い。かと言って、前の名前は、今でも全く思い出せない。

――宿命は生を贈与して、運命は死を贈与する。しかしこれら二つのものは、一つの命の軌道を辿る――

――星の大海、星宿海。永劫の時を寄せては返す、星宿海の渚よ――

いつか何処かで――確かに、神殿隊士として学習した覚えのある言い回しだ。

真夜中の刻、広々とした丘陵地帯を、クラウン・トカゲにまたがって延々と駆け抜けていたような記憶は、ある。 宝石箱をひっくり返したような星空、地平線に広がる『連嶺』。

その中で、ふと一息ついた時間があって、その時、確かに、こういうような言葉を思った。 ハッキリしない夢の断片の中で、唯一、クリアに浮かび上がって来た記憶だ。

竜王国、竜王都、《宿命図》、バーサーク問題――こういった一般知識は、 不便を覚えない程度には承知している状態なのに、自分の身元や来歴に関する事だけ、すっかり抜け落ちている。

婆神官に名付けてもらうまでは、『名無し』だった女は、何とも言えない気分になって、軽く溜息を付いた。

窓の外は快晴だ。

身も心も吸い込まれそうな程に青く深く、何処までも澄み切った蒼穹が広がっている。 窓から見える純白の山々の間を、まばゆいばかりに白い雲がたなびいていた。どうやら、正午に程近い刻らしい。

手前に見える背の高そうな樹木の枝で、輝くような緑の葉が勢いよく萌えている。この部屋は、《大砦》なる建物の中では、どうやら中階層といった場所にあるらしい。

目下ベッドから動けず、窓から地上を見下ろせない状態だ。窓の外にはチラチラと周辺の岩山や山脈の頂上が見える――しかも総じて雪をかぶっている――ところからして、 相当に険しい山岳地帯の真ん中なのだろうという事は想像された。この辺りの大いなる主が、かの『雪白』なのだ。

パピかパメラが窓を開けておいたらしく、柔らかな微風と共に新鮮な空気が入って来ている。

気温は充分に上昇しており、風は涼しい。少し暖かみもあり、窓を開けても問題のないレベルである。日取りを考えてみると、麓の方では、既に新緑の季節に違いない。 耳を澄ませば、何処か遠くから、微かな雪解け水の音も聞こえて来る。

リリフィーヌは、そろそろと慎重に身体を起こし、ベッドの端に枕を立てて寄りかかった。

身体の痛みは無く、違和感も皆無だ。婆神官が『得意中の得意』と言うだけあって、全身骨格の再構築は見事に仕上がっているようだ。 頭のてっぺんから足の爪先まで、分厚い包帯に覆われている状態だから良く分からないが、傷口も、ほぼ塞がっているらしい。 腹部の辺りには、まだ強い痛みが残っているが――

暫し時を忘れて、女は、窓の外に広がる『雪白の連嶺』を、飽かず眺めた。

すると――窓枠のずっと上で、何やら梯子が掛けられたような『ガシャ』という音がした。次いで、梯子がきしむような音が続く。誰かが梯子を降りて来ているらしい。

息を詰めて、待ち受ける。窓から、見知らぬ人物が顔を出して来た。

リリフィーヌはギョッとして、もたれていた枕から身を起こした。包帯しか身に着けていないと言う事もあり、反射的に半身をひねり、両腕で胸のラインを隠す。 胸は包帯ですっかり隠れていて素肌は全く見えない状態なのだが、獣人や魚人と言った他種族と比べると、竜人は基本的に慎ましい性質なのだ。

「――失礼した、まさか起きていて……下着? 包帯……」

見知らぬ人物は一瞬、絶句した後、バツが悪そうな様子で謝罪し、驚愕の余りか無意識ゆえか、女性の顔を赤面させるような、デリカシーの無い言葉を続けて投げて来たのであった。 ボソボソと呟いただけの低い声音だが、声の低さからすると、どうやら男らしい。

――早朝ならまだしも、既に日が高くなっている時刻なのだが……胡乱な男だ。

リリフィーヌは、武官としての記憶にある無意識の習慣で、黒みを帯びたミリタリー・グリーン――標準的な色合いの、竜人専用の武官服をまとった人物を、ジッと見つめた。

大物クラスでは無いが、竜体としては大柄な方だと分かる。人体の状態であっても、そのガッチリとした大柄な体格の特徴は明らかだ。 もう1回ほど脱皮して、文字通り『もう一皮むければ』、小物クラス竜体の持ち主としては最高位に位置する、士爵クラスにも到達するに違いない。

同じような年ごろの、若い男だ。如何にも武官といった風の、いかつい顔立ち。明るめのオリーブ・グリーンの髪。まさに今日の蒼穹のような色をした、涼やかな青い目。 竜人特有の、縦長の漆黒の瞳孔。

竜人以外の他種族の不審者が、人体変身した時の人体同士の類似性を利用して、竜人の振りをしてスパイ工作をして来るケースは意外に多い。 しかし、同じ縦長タイプの瞳孔を持つ他種族であっても、竜人特有の瞳孔の形と色合いを真似るのは、意外に難しい。逆もまた真なりだ。

――この人物は明らかに、本物の竜人だ。激しく胡乱だが。

見知らぬ男は太い眉をしかめていたが、それは恐らく、包帯グルグル巻きのミイラ、なおかつゾンビの如き顔面の人物にジッと見つめられたが故の、戸惑いと困惑のためだろう。 『ミイラゾンビお化け』だと言われた程の、己の不気味な姿を考えてみれば、確実に、お化け屋敷ホラー的な意味で恐怖される状況ではあるのだから――

リリフィーヌは不意に、妙な事に気付いた。

――何故なのか、いかつい顔をした男からは、最初に驚愕があった以外には、恐怖はおろか、生理反射的な攻撃の意思すらも感じない。

「あの……?」

リリフィーヌが警戒心満載で問い掛けると、無意識のうちにリリフィーヌを眺めていたらしい男は、ギョッとしたように瞬きし、何故か目の端を赤らめた。

「窓枠が壊れて無いか、見に来たんだ」

如何にも取って付けたような理由だ。スパイ偵察にしては、抜けている――抜けまくっている。窓枠には、おかしな所は無いようだが……胡乱だ。 決定的に胡乱なヤツだ。リリフィーヌは口を引き締め、眉をキッと逆立てた。

リリフィーヌの表情の変化の意味を、即座に読み取ったらしい。男は焦ったように、窓枠の花瓶に新しい花を挿すと、サッと顔を引っ込めた。 直後、再び梯子の軋み音が聞こえて来る。

焦っているのだろうか、不自然な程に速いペースで上の方に登って行っているようだ――おそらく、この辺りは見張り塔のような構造になっているのだろう。

(おかしな人……)

リリフィーヌは、小さな花瓶の中で新しく増えた花々を見つめた。

雪解けが進んだ時期の花だろう。陽光を一杯に受けるようにパラボラ形に開いた花弁は、仄かなラベンダー色だ。 花弁が繊細なまでに薄く、裏がボンヤリと透けて見える。透明感のある、夢見るような不思議な色合いは、昔から気になり続けていた、そして好みになった色合いを思わせる――

リリフィーヌは暫く考えて、ようやく、暁星(エオス)に似ている花だと思いついたのであった。

――まさかとは思うが、この繊細な花を傷つけずに持って来るのは、大変だったのでは無いだろうか?

花々を見つめているうちに、ある可能性が閃き、リリフィーヌはドキリとして目を見張った。 状況こそ、激しく胡乱だったが。改めて脈絡を考え直してみると、まさか、あれは――?

――蒼穹そのものの、明るさと深さを同時に兼ね備えた青い目の男。

いかつい顔立ちは、ボンヤリと記憶にあるような無いような、都会で見かけるような『モデル風イケメン』という訳では無いが、 闇ギルドで身を持ち崩した者たちに見られるような、バランスが崩れた歪(いびつ)な顔立ちと言う訳では無い。

改めて考えてみると、印象そのものは悪くは無い――それどころか、割と良い。結構、良いかも知れない。

チグハグな方向に迷走し始めた心を落ち着けるべく、リリフィーヌは『考える人』さながらに、クラクラしているような気もする頭を、シッカリと抱えた。

グルグル巻きの包帯に手が触れる。

そう、大怪我をしているせいで、ちょっとばかり、おかしくなっているだけだ。きっと、そうだ――

――ギョッとするようなタイミングで、部屋のドアが古典的な『ガチャ』と音を立てた。そして、ドアが開かれた。

リリフィーヌは仰天した。

頭を両手で押さえたまま、勢い良く振り返る。ちょっと見た目には、無抵抗を示す『ホールドアップ降参』の格好である。

ドアを開けて入って来たのは、婆神官だ。毎度のように時代錯誤なまでの古風な衣装に身を包んでおり、前回と同様、パピとパメラを従えている。

「おッ、やっぱり起きてたね、リリフィーヌ。リリーで良いね。そろそろだと思ったんだよ」

婆神官――エスメラルダ卿は魔女さながらの得意満面の笑みを浮かべ、ヨシヨシと言う風にうなづいている。

リリフィーヌはドギマギしながらも、ギクシャクと両手を降ろした。

――妙な男が出て来た事について、話すべきだろうか。それとも、そうすると、あの男は、もう来なくなるのだろうか。

暫しクルクルと考えていたリリフィーヌは、迷走する心を、とりあえず意識の脇に置いておく事にした。

婆神官は古風な魔法の杖を、部屋の端にある杖立てに無造作に突っ込む。透明な青色に輝く見事な水晶玉が、水の精霊か何かのようにペカリと光った。

年の功と言うべきか。重ねて来た年齢が自然に醸し出す豊かさと言うべきか。その何でも無い日常の一連の動作だけでも、実に味わいがある。 一挙手一投足の全てが、見ていて飽きない。

見ていると、婆神官は腕まくりをし始めた。

婆神官の後ろに居たパメラが、部屋の仕切りを移動する。

すると、あらかじめ用意していたのであろう大きなタライが現れた。タライには既に水が張られている。

落ち着いた中年女性――パメラが手持ちの魔法の杖を振ると、タライの中の水は暫くの間、水の精霊が笑っているようなコポコポとした水音を立てた。 そして、丁度良い感じの乳白色の湯に変わった。

蒸気と共に、薬草の特有の香りが漂って来る。

エスメラルダ卿はタライの中の状況を確認すると、再びリリフィーヌの方を振り向いて来た。

「此処の隊士たち、むさいのが頑張ってくれたんで、春先の良い薬草が入ったんだ。今日は薬湯風呂に入ってもらうよ。 この《大砦》にはもう一人、若手の神官が常駐してるんだけど男だからね。今は遠慮してもらってるが、この薬湯は、そいつの自信作だ。良く効くよ」

くだんの若い男の神官というのは、婆神官の自慢の弟子か、助手と言った立場の人に違いない。

婆神官の美しいアクアマリン色の目が誇らしそうにきらめいているのを見ると、もしかしたら、婆神官が属する一族の血縁関係者かも知れない。 一族から優れた神官が出る事は、一族にとっては誇らしい出来事でもあるのだ。

婆神官は、リリフィーヌを頭のてっぺんから足の爪先までサッと眺めた後、言葉を付け加えた。

「お腹は包帯は取れないけど、頭と手足の方は外しても良い頃合いだね」

リリフィーヌは、感謝を込めてうなづいた。

《大砦》の人々をビックリさせたのは間違いないし、色々と迷惑を掛けてしまっている。それにも関わらず、《大砦》の人々は、 予期せぬ行き倒れとして現れた身元不詳の怪しい女を、歓迎してくれているのだ。

ずっと絶食状態だったから、足がまともに動かない。栄養分に富む薬草が入ったブレンド果汁を頂いて少し経った後、 リリフィーヌは、パピとパメラの介助の手を借りて、ゆっくりと薬湯に身を沈めた。久し振りの入浴だ。流石にホッとして、気分がほぐれる。

――入浴中に包帯を解くので、リリフィーヌは素っ裸になる。

パピがピョコピョコとした足取りで素早く窓に駆け寄り、窓を閉じて、『のぞき見防止』の魔法が掛かったカーテンをひいた。 次いで、パピは、窓枠に置かれている小さな花瓶の花の変化に、目ざとく気付いたのであった。

「花が増えてる。しかも何コレ、崖下のレア物なのに、水切りもせず突っ込んで――」

パピは暫し不思議そうな顔をしたが、すぐに陽気そうな赤銅色の目をきらめかせて、パメラの方を勢いよく振り返った。 明るいオリーブ・グリーンのフワフワした髪が、パッと広がる。愛嬌のある顔全体には、ニンマリとした笑みが浮かんでいた。

「ねぇ、パメラおばさん、最近、挙動不審な人が居るよね? イヤーン、ス・ケ・ベ♪」
「女性の部屋に顔を突っ込むなんて、全く……後で往復ビンタの罰だよ、あのバカ野郎……」

パメラの握りこぶしは、激怒の余りかプルプル震えている。おまけに、落ち着いた中年女性には似つかわしくないような、過激な言葉を口にしたようだ。

リリフィーヌは大きなタライに張られた薬湯風呂の中で、婆神官に手足の包帯を解かれていた。 リリフィーヌはボンヤリと目を閉じていて、パピとパメラの間の意味深な会話の内容には、注意が向かなかった。

やがて、脳みそへの血流量が増えたお蔭なのか、急にクリアになったリリフィーヌの脳内で、一つの懸念が不意に形を結んだ。

これは重大な問題だ――リリフィーヌはパッと目を開いた。

「――あ、あの、エスメラルダ卿、私……もしかしてバーサーク化しやすいとか、 宿命図に《争乱星(ノワーズ)》が食い込んでるとか、そういう事は……ありませんか」

婆神官は呆れたような様子で、即座に切り返して来た。

「何言ってんだい、そんな、パピより小さい竜体のクセして……まぁ武官の相は妙に強いけどね」
「パピより小さい……?」

パピは小物クラスではあるが、ふくよかなせいか、見るからに武官と同じくらいの大きめの竜体を持つ竜人だ。 武官としては、最低限、これくらいの竜体サイズが必要となる。

――その、パピより小さい……?

それでは――かつて神殿隊士だったという過去、ボンヤリと残っている記憶の断片と、矛盾するのでは無いか? リリフィーヌは、違和感がぬぐえない。

婆神官は、リリフィーヌの頭部の包帯を解き終わった後、部屋の隅に置かれていた鏡を持って来た。

「見てごらん、これがリリーだよ」

リリフィーヌは、鏡を見るなり息を呑んだ。

「髪が白い……」

髪が――長さは記憶にあった物と余り変わらないが、違和感を感じる程に白い。

リリフィーヌは愕然とするままに、鏡の中の自分を調べた。

これは確かに、今の自分らしい。顔立ちは余り変わっていないようだ。そこだけはホッとする。

だが、髪の白さがショッキングだ。それに――目の色も少し変わったような気がする。 自分の目の色は、確か、もう少し赤みの強い色合いでは無かったか。

リリフィーヌが眉根を寄せると、鏡の中の人物も妖精めいた繊細な柳眉を寄せて、同じ顔を返して来る。

ほとんど色の無い、白い髪。神殿隊士の武官服のように、いつの間にか髪の毛が――鱗の色が――恐ろしいまでに脱色されてしまったらしい。 そして、暁星(エオス)に似ているような気もする、透明感のあるラベンダー色の目。

――これが、自分? 本当に自分なのか?

寝込んでいた間にやつれたという事は認めよう。しかし、エスメラルダ卿が言う通りの、どちらかと言うと小柄に属する竜体だ。有り得ない。

――知らない間に身が削れてしまったのだろうか。それとも自分の霊魂が、この哀れな身元不明の――行き倒れの重傷者と思しき見知らぬ人物に、 憑依してしまったのだろうか。記憶にあるよりも竜体のサイズが縮んだような気がする。

婆神官が包帯を外す事を決めただけあって、手足や顔面の傷は塞がっており、元・裂傷だった名残の傷痕が、凸凹状態となって残っている。

相応にゾンビ状態を思わせる外観ではあるが――幸い、竜人の整形修復力は相当に高い。 一旦、傷が塞がれば、数日のうちに凸凹も消えて、本来の正常な形になるだろう。鱗の再生だけは、やたらと時間が掛かってしまうので、こればかりは致し方ない。

リリフィーヌは、震える手で自分の髪をつかみ、目の前に持って来て、改めてその色を眺めた。やはり白い。鏡のマジックでも、己の幻覚でも無い。

薬湯風呂の中で呆然としたまま、リリフィーヌは気が遠くなるのを覚えた。

――そこからは、どうやら呆然自失の状態だったらしい。

パメラとパピが慌てて「ゆだっちゃうわ」などと言いながら駆け寄って来た。ついでにリリフィーヌの頭を洗い、髪も清めてくれたらしいという事を、ボンヤリと感じる。

リリフィーヌは面目ない気持ちになり、ボソボソとお礼を呟いたが、頭がクラクラする余り何が何だか分からない状態だ。

リリフィーヌは薬湯風呂から引き上げられた後、パピの《火》魔法によって手際よく全身を乾燥させられた。此処の患者服の流儀なのだろうか、 Vネックの物では無く、古典的なガウン型の寝巻のような物を着せられ、ベッドの上に戻される。

リリフィーヌは、まだ呆然としていた。

「私の髪は、もっと黒かったような気がする……、いえ……、色ムラは割とあったような気がするけど」

パピが、リリフィーヌの髪をしげしげと眺めて来た。

「緑色は付いてるわよ。淡いミントグリーンと言うか……光沢はあるから緑系の真珠色? 白緑色ってレベルだけど」
「髪が白くなる程の大変な思いをしたのね」

パメラが目をウルウルさせていた。リリフィーヌの母親に相当する年代――中年の年ごろと言う事もあり、リリフィーヌを娘のように思い始めているらしい。

婆神官は、杖立てから自分の魔法の杖を取り出して来ると、リリフィーヌの手の平を取った。

手相を読むようなスタイルで、リリフィーヌの《宿命図》を読み込んで行く。 神官が専門とする魔法――《神祇占術》が稼働しているのだ。水晶玉の中で、透明感を増した青い光がチラチラとダンスしている。

「竜体は、平均より少し小さい方だね。その割には筋肉の質は良く、武官向き。厳しい戦闘訓練を受けてたのは確かみたいだね。熟練度が高い。 地方によっては小柄な武官も居るから、余り変だとは思ってなかったよ。健康運は目下、弱いけど、或る程度なら回復の見込みはある。 金運も問題ない。物欲が無さすぎるのが問題なくらいさ。恋愛運は、ちょっと注意が必要という感じかねぇ」

――はて。

過去のボンヤリとした記憶の中では、恋愛運は――と言うよりは、《宝珠》は――

「恋愛運……?」

リリフィーヌの聞き返しに、婆神官は珍しく、ブツブツとハッキリしない事を呟きながら首を傾げた。 水晶玉の中の青い光も、首を傾げたような形になった。やがて、キラリと瞬いた後、平常通りのほぼ球形を満たす光の形となって、落ち着いたのであった。

婆神官は、パピがタイミングよく引いて来た大振りな椅子に腰を下ろし、再び口を開いた。

「リリーの《宿命図》は、竜体サイズに対して武官向きの相が強すぎるんだ。 あんたの違和感が本当なら、転移魔法陣が稼働している間に事故か何かがあって、《宿命図》の様相が変化したか、 星々の配置が付け替えられたと考えられるんだがねぇ」

そこまで言うと、婆神官は暫し、魔法の杖の先端部にある青い水晶玉を撫で回した。水晶玉を撫で回すと言う古典的なやり方で、 何らかの記憶情報を呼び出しているらしいと知れる。やがて婆神官は一つうなづき、説明を続けた。

「ふむ。金剛石(アダマント)級の基底床を使う魔法陣――《地》の橋梁魔法陣や《風》の転移魔法陣、それに《火》の溶鉱炉魔法陣なんかで、 基底床そのものの変形を伴う、想定外の大事故が発生する事が稀にあるんだ。神官用語で『バースト事故』と言うんだけどね」

婆神官は、いつも通りのテキパキとした口調になった。しかし、リリフィーヌを見つめる、そのアクアマリン色の眼差しは気づかわしげである。

「滅多に無いケースだけどね。バースト事故に巻き込まれると、性質の似た《宿命図》が共鳴して、その様相が変化するらしい。 大昔、竜王都の回廊と城壁を支える橋梁魔法陣のデカイのが吹っ飛んだ時、 そこに居合わせた《地霊相》生まれの人の《宿命図》が大きく変化したという、真偽不明の伝承があるんだよ。 何にせよバースト事故を切り抜けた生存者が居ないから、雲をつかむような曖昧な話だが」

リリフィーヌは、「そう言う事なら」と何となく納得した。初めて聞いた内容が多いが、 竜王都の橋梁魔法陣に起きた大異変については、そんな感じの話を小耳に挟んだという記憶が、ボンヤリと残っているのだ。

リリフィーヌの納得顔を眺め、婆神官は思案深げな顔になって沈黙した後、再び話を再開した。

「転移魔法陣の誤作動――雷電シーズン中の落雷事故や、《四大》雷攻撃(エクレール)魔法による誤作動なら、無くは無いね。 雷電シーズン中の転移魔法陣の使用が、厳しく禁じられている理由でもある。リリーも、その辺の一般常識は承知してると思うがね」

リリフィーヌは、婆神官のその確認に、うなづいて見せた。常識的な事は、何故か覚えている。

婆神官の話は続いた――その語りは、プロの語り部そのものだ。リリフィーヌは、暫し引き込まれていた――幼体が、 歴史人形劇を上演する語り部たちの演技に引き込まれている時のように。

「転移魔法陣が《四大》雷攻撃(エクレール)の類を受けると、魔法陣の形が切り刻まれて、組み込まれていたエーテルが噴出するんだが、 同時に雷撃が感電事故を起こしまくって、想定外の転移ルートを開きまくるのがある。 それに運悪く巻き込まれた竜人の髪、つまり竜体の時の鱗がマダラに脱色されちまった、記憶も飛んだ、という事例があるよ。 リリーの火傷の半分は雷攻撃(エクレール)の物に似ていたし、そんな感じだったんだろうね」

婆神官は語り続けながらも、魔法の杖の先の水晶玉で、額をコツコツと叩いていた。思案している時のクセらしい。

「誤作動を起こした転移ルートを割り出すのは、カオス問題を解くのと同じで、不可能なんだ。 リリーが何処から来たのかというのは流石に特定できないけど、相当に追い込まれていた状態だった事は確かだね」

婆神官の後ろでは、パピとパメラが興味津々で耳を傾けていた。相当に珍しい話だったようだ。 この話も、《大砦》に居る他の人たちに広まるに違いない――身元不明の女に関する新情報として。

「誰か強い魔法使いが、バーサーク体を倒そうとして《四大》雷攻撃(エクレール)をやらかしたに違いないわ。 麓や平原の方では本格的な戦闘があったとか、そういう噂が来てるし、バーサーク騒動もあったばかりだし」
「竜王都の大改革だか大政変だか知らないけど、とばっちりに巻き込まれる方としては、たまったもんじゃ無いわよねぇ。 英雄公のとんでもない武勇伝とか……幾つもの街区が吹っ飛んだとか、仰天モノだし」

パピとパメラの時事雑談が、一段落した。

婆神官は、額にコツコツと当てていた魔法の杖を降ろし、思案顔を解いた。 フッと息をつくと、リリフィーヌの方を振り向いて、アクアマリン色の目を面白そうにきらめかせる。

「凶星《争乱星(ノワーズ)》が入っているかどうかは、この婆には分からんが。リリーの《宝珠》の相は、フラフラしてる状態なんだ。 『恋愛運は注意が必要』と言うのは、そう言う事だよ。明らかに独身で――まっさらな《宝珠》で、恋人の気配も婚約者の気配も皆無。 しかも結婚適齢期なのに、《宿命の人》を見つけにくい状態だからね。その気があるなら、自分の目と耳と感覚をフル動員して、見つけな」

婆神官の説明が終わった。リリフィーヌは、呆然として呟いた。

「独身……、恋人や婚約者の気配が、皆無?」

――どういう事だろう?

強烈な違和感がぬぐえない――が、婆神官が言うからには、真実であるに違いない。

そこへ、パピがニヤニヤして口を突っ込んで来た。

「あーら、挙動不審なヤツなら、すぐそこに居るわよ」

パピはニヤニヤしていたが、すぐに、そのニヤニヤは盛大な吹き出し笑いに変わった。相方のパメラが、ヤレヤレと言った風に額に手を当てて首を振る。 その横で、パピは腹を抱え、涙を流し、ピョコピョコ飛び跳ねながら、壁をドンドン叩いて大笑いする勢いだった。

「あの、いかつい顔で、一体どんな顔して花を花瓶に挿して行ったのかと考えると、あぁ可笑しいわ!」

エスメラルダ卿は「フォフォフォ」と笑い、リリフィーヌは目をパチクリさせた。

7-4最北部の辺境という所

薬湯風呂を使ってから3日後。

リリフィーヌの重傷の中で最も深刻だった腹部の傷跡が塞がり、遂に全ての包帯が取れた。

食事も徐々に、通常の物となった。辺境ならではの素朴なメニューである。 筋肉が回復して来ると、病み上がりさながらに補助杖付きではあるが1人で歩けるようになって来て、 衣服も襟の高いチュニックを含む薄緑のパンツスタイルになった。流石に傷病者向けの、時代の影響を受けない簡素なデザインだから身に着けやすい。

この3日間、リリフィーヌは、《大砦》周辺の地理や歴史、生活スタイルについて、エスメラルダ卿とその弟子である若手の神官の男から、少しずつ教わった。 若い男の神官は、やはり、婆神官の孫だった。

リリフィーヌは、どうやってか自分が、本当に世界の端に転移して来たのだと言う事実を知って、最初は呆然とするばかりであった。

真相は今なお不明だが、リリフィーヌは雷攻撃(エクレール)魔法を受けた中小型の転移魔法陣の誤作動に巻き込まれたと推測されると言う。 そして、極めて出現確率の低い――幸運にも寿命の長い――分岐ルートに吞み込まれた。 そこから次々に分かれて延長して行った小さな分岐ルートを渡って行き、最終的に、《大砦》の転移魔法陣に湧いて来た――らしい。

――此処、竜王国の最北部の辺境は、飛び地となっている竜王国領土の一つだ。 周辺には、獣人、鳥人、魚人など他種族の王国領土が、やはり飛び地スタイルで散在している。緩衝地帯を兼ねた空白の土地が、あちこちにあるのだ。

いずれにしても深い峡谷に彩られており、夏の通商シーズンごとに回って来る辺境ルートの軍需物資の運搬業者や、 深山幽谷を専門とする巡礼者や隊商――放浪癖のある変人の竜人や、渡り鳥タイプの鳥人が多い――以外は滅多に来る事は無いと言う徹底した僻地だ。

春・夏・秋の間の居住スペースは、竜人がまだ人体変身の能力を得ていなかった古代から変わらぬ、谷間に点々と掘られた洞穴である。 洞穴の中に人体向けの集合住宅を建てて数世帯が共住するスタイルであり、そうした洞穴が十数個集まったクラスタが、村とされている。 勿論、作業小屋となっている洞穴や、倉庫代わりとなっている洞穴もある。

そして、そうした峡谷の個々の洞穴クラスタ――村々をつなぐ人体向けの交通手段は極めて限られており、剥き出しの鎖場と梯子しか無い。

《大砦》とは別に、村ごとに魔物対策用の小ぶりな砦が分散している。春・夏・秋の間は村長が特別に、村ごとの担当の隊士メンバーと共に此処に詰めているのだ。

冬季は完全に連絡が寸断される。各々の洞穴に分散していた住民は、『雪白』の山おろしに襲われる厳しく長い冬の間、 奇跡的に広い平地を伴う、麓に近い《大砦》に集まって冬越しをするのだ。転移基地を置ける程の平らなスペースがあるのは、此処しか無い。 色々考えると、リリフィーヌは幸運だったと言えるだろう。

*****

1週間ほど経った後の日の夕方――

《大砦》の役人たちと、会食を兼ねて面談を行ない、リリフィーヌの今後の身の振り方を決めるという事になった。

リリフィーヌが歩ける程度に回復してから後も少し間が空いたのは、すこぶる強い魔物が《大砦》の城門前広場や転移基地に連日転移して来て、 その撃退と始末に数日ほど要したからだそうだ。

リリフィーヌが転移基地に現れた際、尋常ならぬ大量のエーテルが飛び散った。 周辺の魔物たちは日を追って痕跡を辿り、発生源たる転移基地にまでやって来て、食い付いて来たのだ。 ただでさえエーテルが希薄な地域なので、濃密なエーテルが大量に飛び散ると、そういう事が起きやすいと言う。

リリフィーヌは平身低頭した。婆神官が魔女さながらに含み笑いして言う所によれば、

「むさいのの手頃な運動になったんじゃ無いかね。フォフォフォ」

――と言う事ではあったが。

会食に先立って、パピとパメラと婆神官の手により、リリフィーヌの衣服が一そろい、用意された。 元型を留めていなかった武官服から、どうにかして復元サイズを予測計算したに違いない。少し緩かったが、全体的には問題は無い――いや、あるのか。

問題と言うべきか、言わざるべきか。

辺境の人々の間では現役の日常着には違いないのだが、作業服の方にしても、中世さながらの古典的な衣装なのだ。実物大の歴史人形劇のコスプレをしているみたいだ。 リリフィーヌは、時代錯誤にも感じられる伝統衣装を眺め、不自然じゃ無いのかどうかという点で、すぐに自信が無くなった。

古代のデザインを色濃く引き継いでいる膝下丈ワンピース&ニッカズボン。舞台衣装さながらの極彩色では無いのだけが、せめてもの救いか。 上衣は、まだ自分でも実感のない目の色に合わせたのか、淡い藤色。下衣はオフホワイト。

上衣を武官服のようなシンプルなチュニックにしてもらおうとは思ったのだが、 首回りを覆う高い襟から胸周りに向かって、白い糸で手の込んだ伝統刺繍が施されてあり、交換を申し出るのも心苦しい。

チラリと同年代の女性パピの衣装を見てみると、極彩色だ。白衣の下には、こういう類の衣装があった訳だ。 茜色の地にマリーゴールド色の刺繍。ただしパピの場合、明るい赤銅色の派手な目をしているので、不自然では無い。

――郷に入れば郷に従え、と言う。この服の縫い方は、早く覚えておく必要がある。リリフィーヌは、固く心に留めた。

一方で、春夏用のショートブーツは、すぐに気に入った。高山帯ならではの峻烈な気候と地形に鍛えられて進化したのか、履き心地が最高なのだ。 寒気がきつくなる秋冬になると、防寒性を高める事も含めて、ロングブーツになると言う。

時代錯誤なまでの伝統衣装の着付けに奮闘して、早や昼下がりのティータイムの刻。

ようやくにして、髪型と、魔法の杖を挟むための古風なサッシュベルトが、やっと整った。 ほぼ着付けが仕上がったところで、パメラは《大砦》の面々との取次のため、先に部屋を出て行った。

パピは出来上がりをつらつらと眺めて「良いわー♪」とコメントしてくれたが、リリフィーヌは物慣れぬ状況という事もあって、引きつった笑いしか浮かべられない。

――パピに倣って髪をゆるく下ろし、伝統紋様が織り出された幅広のリボンを、中世さながらにヘアバンド形式で巻いてあるのも、果たして合っているのかどうか。 だが、以前の普段の髪型がどうだったのか、その辺りが何故か思い出せない。ポニーテールだった気もするが、何か違うような気がするのだ。

婆神官はリリフィーヌの反応を興味深そうに観察し、ユーモアたっぷりに片目をつぶって見せた。

「どうやら、リリーが今まで居た所は、いわゆる『ハイカラでアーバンでナウ』な街着が普通だったらしいね。 此処じゃ《大砦》そのものの事情もあるんだが、気候も地形も峻烈すぎるから、こういうのが日常着さ。 街着と言うよりは訪問着だから、当分の間は着回しが利く筈だよ。ま、取っときな」

*****

古代・中世の賓客さながらに、リリフィーヌは婆神官と2人の女隊士に先導されて、部屋を出た。 付き添いを務めるパピが隣にいる事で、ようやくホッとする。

2人の女隊士フェリアとララベルは、要所要所で、ガイドさながらに《大砦》の中を説明して来た。

「此処は《大砦》の治療塔でして、リリー殿の部屋は、この塔の一室でもあるんです。 円形塔の中階層の中央に治療室があって、入院療養のための部屋が窓側に沿って並んでます。 地階層は薬草などの貯蔵庫。高階層の方は辺境の巡礼者のための礼拝所になっている所なので、テラスからの見晴らしは良いですよ。 もう少し体力が付いたら、《大砦》内の散策コースとしてお勧めします」

リリフィーヌは、ふと、窓から顔を出して来た胡乱な武官を思い出した。では、あの男は、礼拝所テラスに梯子を掛けて降りてきたに違いない。 状況を考えると、何だか段々おかしくなってくるのだが……

流石に傷病者向けの施設とあって、治療塔の出口からは緩やかなスロープといった廊下が《大砦》本館への入口に向かって続いていた。 通路の壁には簡潔な窓が並ぶ。夜間照明ともなる常灯だけは現代の物だが、細く高い窓は、まさに中世様式だ。 女隊士2人の説明によれば、リリフィーヌは担架に乗せられて、このスロープを運ばれて来たと言う。

スロープのような廊下が尽きた所で、かなり大振りなサイズの古代風アーケード入口が現れた。

――《大砦》の大広間に出た。中央広間でもある。高階層までの吹き抜けとなっており、面積は広大だ。 まさに古代・中世の城の世界だ。《大砦》の外観も同様なのであろうと知れる。

ひたすら、物理的戦闘の衝撃に耐える頑丈さを追求した、武骨な石積みの壁。 今は魔法耐性に優れた城壁素材によって補強カバーされているが、創建当時の面影がハッキリと残っているのだ。 そこに、中世さながらに、竜王国の紋章旗やタペストリーが掛かっている。

その下で、まさに中世から出て来たような恰好の、大勢の人々がたむろしていた。皆、周辺の村に住む村人である。

現在の大広間は、社交場を兼ねた多目的広場だ。荷車(リヤカー)を利用した多数の食事処やカフェ、手芸教室、日替わりの蔵書コーナー、 それに絨毯を敷いた所では手工芸品の修理コーナーなどが並んでいる。中世の街角の広場そのものである。

此処では流石に、時代錯誤なまでの伝統衣装の方が、空気に馴染んでいる。 現代風の物は定期的に軍需物資供給を受けている武官関係の物のみだが、昔から竜人武官はシンプルを旨として来たという事もあり、 暫く眺めているうちに、違和感が全く無くなってしまった。

――記憶にボンヤリとある、街区の広場よりずっと広い。

大広間は、昔は《大砦》の内部に侵入して来た敵方の突撃部隊を迎え撃つ戦場となっていたところだ。 有効な魔法陣を敷かれるのを防ぐため、大広間の床には、つまづくと言うレベルでは無いものの、天然の岩山の表面を活用した凸凹の名残が広がっている。

元は様々な飛び道具を使って敵方の部隊を迎え撃つためであったのだろう、 吹き抜けに沿って10数階層ほどの防護柵の付いた連続バルコニーがグルリと設置されている。 そのバルコニーの奥は古代風アーケード回廊となっており、 各々、各階層の居住スペース――昔は《大砦》に詰める各部隊が入っていたスペース――への連絡路となっていると分かる。

各階層の連絡路は、もっぱら梯子だ。ほとんどは鉛直に立っている梯子だが、一部分、老人や傷病者向けと思しき、手すり付きの梯子階段がある。

大広間の中央辺りに、城壁素材で出来た太い柱が規則的に立てられており、 吹き抜けとなった空間をぶち抜いて、遥か高階層の天井――中世さながらの城館の中央屋根――を支えていた。 高階層の方で、城壁素材の梁が張力構造を成して縦横に走っている。そして、数名ほどの武官が、梁をショートカット通路として歩き回っているのが見える。

2人の女隊士は更にガイドした。

一方の端、一段低くなっている長方形の広間が正門扉と連結する玄関ロビーフロントだ。

竜王国の他の場所と同様、大天球儀(アストラルシア)を4台、セットしてある。僻地という事もあって、最近、その1台に、特別に遠隔通信機能が追加された。 今は、これで竜王都や近くの管区からの緊急メッセージや官報、主要ニュースが受けられるようになっている。 刻々の市井ニュース配信機能といったような物は付いておらず、交渉中だと言う。

リリフィーヌは少し首を傾げた。

「此処には、クラウン・トカゲは居ないみたいですね?」
「ああ、寒すぎるからですよ。夏場は、トカゲ放牧の人がチラホラと来てますけど」

此処ではむしろ、竜体の方が力仕事や移動に役立つので、変身魔法を得意とする人が多いのだと言う。

だいたい《大砦》の特徴を飲み込んだリリフィーヌは、2人の女隊士と婆神官の先導に従って、大広間の中で方向を変え――そしてギョッとした。 大広間の中に居る大勢の村人たちの目が――巡回パトロールを務めているらしい隊士たちの目も――全てこちらを注目しているのだ。

横で、パピがニンマリと笑った。

「リリーってば美人の類だし、いきなり転移基地に神殿隊士の姿で現れた上、2週間以上も面会謝絶だったでしょ。 おまけに記憶喪失だとか、髪が白くなる程の大変な出来事に巻き込まれてたらしいとか、みんな興味津々なのよぅ。 対策を打つ前まで、あの部屋のドアに集まってた野次馬の数を知ったら、ビックリするわよ」

どう反応するべきか分からず、リリフィーヌは、困惑の笑みを浮かべる他に無い。

2人の女隊士と婆神官は、大広間の中央辺りへとリリフィーヌを先導した。そこは、青い水中花が入った大きな水槽をしつらえた水場となっていた。 水汲みコーナーが幾つかあり、周囲に水飲み場を併用したカフェテーブルが並ぶ。

リリフィーヌはピンと来た。

――いつだったかの美味しい水は、この水場の水だ。植物図鑑によれば、青い水中花は、少しずつ水を浄化する魔法の力を持っていて、 魔物成分が多いために綺麗な水が手に入りにくい地域では、必須の装備だと言う。 竜王都などでは、大量の水を効率よく浄化するための強力な水浄化装置があるので、余り必要では無いが。

水飲み場に並ぶカフェテーブルの1つに、パメラと、すこぶる高齢の老婦人が並んで座っていた。2人とも、やはり伝統衣装をまとっている。 リリフィーヌが近づいて来たのを見て、パメラが穏やかに立ち上がり、老婦人はウキウキとした様子で青灰色の目をきらめかせた。 ほとんど白髪だが、左右の側頭部に流れるアッシュグリーンの髪が、かつての鱗の色を伝えて来る。

「まぁ、パメラ、これが噂のリリフィーヌ嬢ね。今日はご苦労様、婆神官どの」

目をパチクリさせたリリフィーヌに、パピが手際よく解説して来た。《大砦》の先代の大将夫人で、元・武官だと言う。

「この度は大いなる厚遇を頂きまして、幸甚に存じます」

リリフィーヌが一礼すると、先代大将夫人は、いっそう目をきらめかせた。

「竜王国の最北部、雪白の《大砦》にようこそ、リリフィーヌ嬢。先代の大将夫人です。早速だけど、演武といった物は出来て?」

リリフィーヌは暫し考え――そして、ハッとした。身体に叩き込まれた動きであるせいか――何故かクリアに思い出せるのだ。

婆神官が「大丈夫かね?」と尋ね、更に2人の女武官とパピとパメラが、心配そうに眺めて来た。リリフィーヌは大丈夫と言う風にうなづいて見せた。

「では、少し場をお借りします。身体が本調子ではありませんので、模造刀で失礼いたしますが」

リリフィーヌはベルトから魔法の杖を抜き、ボンヤリとした記憶に沿って、柳葉刀のような反り返った刀の形に変えた。

――朝日を浴びて、確かにこういう演武をした覚えがある。前後の脈絡は全く覚えていないけれど。

片手正眼に武器を構える。次いで高く構え、荘重な一振り――そして、素早い二振り。寝込んでいた間に衰えていた筋肉が震えるが、耐えられない程度では無い。 丈の短い武官服だと回転しても裾は広がらないが、今着ている淡い藤色の伝統服は丈が長いため、身体回転に応じて、フワリと円状に広がった。

一節分の演武の区切りで、身体を低く構えて模造刀を小脇に収める形になり、そこで一区切りつけた。

体力欠乏が大きく、早くも息が上がっている。記憶にあるような武官用の刀剣を持つ事は、骨格の強度と武器の重量とのバランスの関係上、不可能だ。 筋肉の方は、婆神官が言う通り、何故か強いまま維持されているので、こういった動きに耐えられるが――

――やはり今となっては、武官に復帰する事は出来なくなったのだと、リリフィーヌは改めて実感したのであった。

気付くと、大広間は静まり返っていた。大広間の全員の目と口がポカンと開いたまま、リリフィーヌを注目している。 やがて、先代大将夫人が満面の笑みを浮かべて来た。

「凄いわ。婆神官どの、リリフィーヌ嬢は本当に熟練の神殿隊士だったと、私は確信したわ。 戦闘用の動作の基礎が、ほぼ入ってる。それに、動きも正確よ。王宮勤めの武官には無い動きも入ってるわ――神殿隊士は、祭礼用の演武もこなす必要があるから」

エスメラルダ卿は、魔女のように悪戯っぽく含み笑いをしながらも、飄々とうなづいている。

「神殿隊士の制服をたまたま着ていただけの偽物じゃ無いかと言う噂もあったけど、見事なもんだね。一気に疑惑が払拭できたんじゃ無いかね」
「リリフィーヌ嬢、数ヶ月から1年ほどは《大砦》に留め置きになると聞きましたよ。体力が回復してきたら、若手の女隊士の演武の教官をお願いしたいわ。 私がやってたんだけど、もう寄る年波で腰がおかしくてね、フフフ」

程なくして大広間の中に、いつものようなざわめきが戻って来た。口々に、先ほど目撃した内容を噂し合っているのだろうと知れる。

先代大将夫人は、謎めいた笑みを浮かべて、パメラとリリフィーヌを順番に眺めた。リリフィーヌにだけ聞こえるように、こそっと耳打ちして来る。

「リリフィーヌ嬢、あのいかつい顔の大柄な武官の男、覚えてるかしら? 彼は何て言って来たの? ええと、半透明の薄紫色の花を持って来た時?」
「……窓枠が壊れて無いかどうか、見に来たと言ってましたが……」

あの日、窓から顔を出して来た妙な男の武官の事は覚えている。リリフィーヌは、覚えている通りの言葉を説明したのだが――高齢の老婦人は、 盛大に吹き出し笑いをしたのであった。爆笑の余り、目じりには涙がにじんでいる。パメラの方は、唖然としていた。

「アッハッハ! ホッホッホ! ホントに、お嬢さん、そんな奇天烈な、面白い事を言わせたのね。ホントに、タダの、『挙動不審なヤツ』ねぇ!」

――やがて、笑い上戸と、それに伴う一時的な呼吸困難の発作が収まった先代大将夫人を先頭にして、 一行は会食の場だと言う奥の間へと移動して行った。

元は竜王が滞在した時の玉座の間だったというだけあって、古典的ながらも重厚かつ豪奢なスペースだ。 今は、《大砦》の役人たちが詰める仕事場である。その一角が、折々の会食の間として解放されている。 竜王都からの巡回役人や辺境の巡礼者の送迎、辺境巡回の隊商たちとの会食&取引の場となっていると言う。

――その入口アーチで警備している大柄な隊士たちの中の1人が、何とも言えぬ奇妙な眼差しで見つめて来る。

リリフィーヌは、その男に見覚えがあるような気がして来た。 隊士たちのリーダー格と思しきその男は、岩のような『しかめ面』なのだが、目の色は蒼穹の色だ。 あの日、窓から顔を出した、いかつい顔の若い武官の男に違いない。

――結論から言えば、『挙動不審なヤツ』の正体は、すぐに知れた。

会食の間に揃った《大砦》の役人の面々の自己紹介に続き、辺境警備部隊に配属されている小隊のリーダーの1人として名乗って来たのである。 彼はパメラの息子で、「《水》のグーリアス」と言った。

7-5ささやかなダイアローグ

――会食の結果。

リリフィーヌは当分の間《大砦》に滞在し、体力が回復次第という事で、パピの父親が村長を務める「村=洞穴クラスタ」への受け入れが決まったのであった。 同年代の気心の知れる知人が居るという事で、少しホッとする。

翌日――風は少し強いものの、快晴だ。今日の風で、雪解けがいっそう進むに違いない。

竜体への変身はまだ禁じられているが、少しの間なら外を出歩けるという程に回復して来ている。 リリフィーヌは、リハビリがてら――パピやパメラの手芸作業の手伝いの合間に、まずは部屋の窓の直下に見える緑地に降りてみようと思いついた。

直下に見える緑地は、気持ち良さそうな緑の芝草に覆われている。高原性の樹木を取り巻く緑の葉も、本番さながらの濃い緑色だ。

婆神官の話によれば、後1週間もすれば、ほとんどの村人が方々の洞穴クラスタに散らばる予定との事だ。 その前日は大広間で《大砦》冬ごもり終了の打ち上げがあり、ちょっとしたお祭り騒ぎになると言う。 パピやパメラ、他の村人たちにしても、その準備作業で大わらわだ。

繁忙期の人の時間を取るのは心苦しい。リリフィーヌは、手持ちの魔法の杖を梯子に変えると、窓から直接、降り始めた。 地上の緑地まで5階層ほどの高さだ。何となく記憶にある、摩天楼が並ぶ街区の高層ぶりに比べれば、ドウという事は無い。

中ほどまで降下した頃だろうか――

「――何してる!?」

リリフィーヌは、ただでさえ神経過敏な状態だったのだ。以前は、絶対にやらかさないような間違いをした――

誰何の鋭い声音にギョッとした弾みで、手を滑らせ、梯子から転落したのである。己自身の失敗に愕然とする余り、悲鳴を上げる事すら忘れていた。

武官としての記憶通りに、素早く受け身の姿勢を取る。しかし、病み上がりに近い身で、 しかも全身の鱗がほぼ失われている状態で――地上との激突に耐えられるだろうか?

――数秒後、リリフィーヌの身体を襲ったのは、地面の硬さでは無かった。リリフィーヌは目をパチクリさせる。

いつか見た覚えのある、蒼穹の色を映したような青い目がリリフィーヌをのぞき込んでいた。

*****

涼しい風が、樹林の間を吹き抜けて行く。

「悲鳴すら上げず、スーッと落ちて来るからビックリした」

――と、グーリアスは、硬い声でボソッと呟いた。

グーリアスは色々と言いたそうな顔をしていたが、最初に誰何で驚かせた側だという事もあるのか、それきり口を噤んだ。 蒼穹の色を映したような青い目で、リリフィーヌをジッと眺めて来る。

――私、そんなに変な風に見えるんだろうか? 白緑色の髪は、確かに色が薄すぎる方だと思うが。 今着ている服か? エスメラルダ卿いわく訪問着だから、確かに緑地を探検するには、少し妙な格好には違いない筈だが――

リリフィーヌは、梯子から落下した恰好そのままにグーリアスに抱えられて移動させられた後、少し先にある樹林の中のベンチに座らせられ、 バツの悪い思いで、物問いたげなグーリアスの視線を受けるのみである。梯子は既に魔法の杖の形式に戻っており、 今はベンチの脇に立つグーリアスの手に押収されている状態だ。

――流石に、辺境警備部隊の小隊を指揮する小隊長の1人と言うべきか。

一見して、くつろいだ風の立ち姿に見えるのだが、感心する程に隙が無い。不意を突いてタックルしても、逆に取り押さえられる羽目になるだろう。

リリフィーヌは未練がましく魔法の杖にチラリと目をやり、ついでに、グーリアスの背後に広がる『雪白』を眺めた。

こんな状況ではあるが、このベンチからの『雪白』の眺めは、まさに絶景だという事に気付く。此処にベンチを設置した人物は、この眺めを飽かず楽しんでいたに違いない。

「――美しい光景ですね」
「あぁ。綺麗だと思う」

地元の人でもそうなのだと、リリフィーヌは納得したのだが――どうも妙だ。グーリアスの視線は、『雪白』の方を向いていないような気がするのだが……

リリフィーヌが疑問顔でグーリアスの方を見つめると、グーリアスは何故か、あの時のように瞬きした。いつも『しかめ面』なせいか、分かりにくい男だ。 おまけに、非常に口の重い――必要事項しか喋らないタイプらしい。

リリフィーヌは少し思案し、当たり障りの無い話題から始める事にした。

「この《大砦》には転移基地があると聞きましたが、私が湧いて来たと言う転移基地は、どちらに?」
「城門前の広場の真ん中だ。此処からだと、《大砦》の構造上、城門前広場とは隔絶されているから見えにくい。『見張り回廊』や正門扉からであれば見える」

――少しずつ事情を聞いてみれば、転移魔法陣の基底床の上で意識を失っていたリリフィーヌを、最初に確認した隊士だと言うでは無いか。 リリフィーヌは思わずベンチから飛び上がり、身を乗り出していた。

「確認しますけどグーリアス殿、私の髪の色は、目の色は、その時から、こんな色でしたか!?」

グーリアスはリリフィーヌの剣幕にギョッとしたようだったが、シッカリとうなづいて来た。 グーリアスは、あの時のようにジッとリリフィーヌの顔を眺め、過去の記憶と照合しつつなのだろう、ポツポツと語り出した。

「最初は竜人じゃ無い別の異形に見えた。あの時は雪が降っていて、転移基地の底は闇夜並みに暗かった――髪や鱗が白いと言う事よりも、 全身重傷の状態の方が記憶に残っている気がする。目の色は見てない」

そこでグーリアスは一旦、言葉を切った。リリフィーヌが意味深な間に気付いて小首を傾げると、グーリアスは思案顔をしながらも、説明を付け加えて来た。

「救急処置が一段落した後、婆神官どのが、シルフィードの目の色の事を話した。 暁星(エオス)だったと。全身麻酔が切れた後、一瞬、意識が戻って、目が合ったとか」

リリフィーヌは暫しうつむき、足元の地面を見つめた。

――そう、ボンヤリとだが、あの時、目の前に見知らぬ老女が居てビックリしたと言う記憶がある。

まだ混乱が残っては居るのだが――此処に転移して来た瞬間から、この状態だったのだと、納得するしか無い。 幾つかのハッキリしない断片を残して、過去とは、ほぼ縁が切れてしまったらしい。全てと言う訳でも無いだろうが。

自分の神経過敏の理由は、自分でも分析できている。

――根無し草。寄る辺の無い孤独感。

つらつらと思いを巡らせていると、自然に、この男が窓から顔を出して来た件を思い出した。 実に奇妙な事態ではあったが――リリフィーヌは半ば困惑しながらも、呟いた。

「いつだったかは、花を有難うございます。パピがちょっと言ってましたが、珍しい花だそうですね」

グーリアスは、あたふたと顔をそむけた。ムニャムニャと、よく聞き取れない言葉を呟いている。注意深く観察してみると、どうも顔を赤らめているのでは無かろうか。 どうやら、あの遭遇は、グーリアスにとっても決まり悪い出来事であったらしい。両者ともに、痛み分けと言ったところだろうか――

グーリアスは、樹林を透かして見える『雪白』を眺め続けていた。一陣の微風が流れ、暫しの沈黙が過ぎた後――

――グーリアスは『雪白』を背にして、再びリリフィーヌを振り返って来た。

「暁星(エオス)の光で、『雪白』が不思議な――何処までも透き通るような――色合いに染まる瞬間がある。 この一帯では、その一瞬を『エフェメラル・アストラルシア』と言っている。あの花の名前も、そうだ。 リリフィーヌ殿の目の色は、そう言う不思議な色をしている。リリフィーヌ殿が元気になったら、この《大砦》の展望台から見せたい」

グーリアスを眺めているうちに、不意に――リリフィーヌの中で、確かな直感が閃いた。心臓が、ドキリと跳ねる。

リリフィーヌは絶句し、息を詰まらせるのみだった。

7-6天球は巡りて、風立ちぬ

――大広間からは、賑やかな音がずっと続いている。

《大砦》冬ごもり終了の打ち上げで《大砦》中の人々が集まり、お祭り騒ぎになっているのだ。

この1週間、グーリアスは当番の間を縫って、リリフィーヌに根気よく《大砦》の内外の構造を案内してくれた。 お蔭で1週間前に比べると、リリフィーヌは、《大砦》の中を1人で歩き回れる範囲が広がった。 まだ《大砦》全体の構造を飲み込めている訳では無いが、いずれにしても、さほど深刻な問題では無い。

リリフィーヌは、お祭り騒ぎが続く大広間で一通りの挨拶を済ませ、正門扉と連結する玄関ロビーフロントに降りると、 そこに設置されている大天球儀(アストラルシア)をつついた。 見る間に、一抱え以上もある「水晶玉もどき」の中に、《大砦》の概略図が浮かぶ。

この1週間、幾度となく魔法の杖で大天球儀(アストラルシア)をつついたが、それでも、そのたびに現れる《大砦》の概略図には、目が回るような思いをする。 この《大砦》は元々、古代・中世の主流だった物理的戦闘に備えて建造された物だ。要所要所に、敵方の侵入を阻むための迷路が広がっている。

リリフィーヌは体力が完全には戻り切っておらず、更に替えの鱗が生え揃うまでは《大砦》のお世話になる身だ。パピの村を訪ねるのは、安全を見て更に1年後という事になっている。 先代大将夫人から依頼された一時的な仕事もあるし、《大砦》から人が少なくなる前に、1人で歩き回れる範囲を少しでも拡大しておかなければならない。

リリフィーヌが大天球儀(アストラルシア)の前で首をひねっていると、程なくしてグーリアスがやって来た。

暫し見つめ合った後、グーリアスは承知したという風に一つうなづき、リリフィーヌの案内に立った。 不思議な事だが、この1週間の間に急にお互いの距離が縮み、幾つかの事柄についてなら、言葉を交わさずとも通じる仲になっている。

*****

――リリフィーヌが入っている療養部屋の窓の下に広がる、緑地――

後で分かった事だが、これは《大砦》を一巡する空中庭園となっており、いわば城内の散策路を兼ねている場所である。 部屋の窓から梯子を出して降りて行けば、直通で簡単に到着するのだが、《大砦》の中をまともに通過して目指そうとすると、 その途中で難所と言うべき迷路にぶつかり、そこで常に苦労させられる事になるのだ。

先日、リリフィーヌが梯子から落ちた件は、グーリアスにとっては想像以上にショッキングな出来事だったらしい。 『二度と梯子で降りるな』と、隊士たちのリーダー格としての口調で、きつく申し渡されてある。

体力(及び、自前の鱗)さえ回復すれば、リリフィーヌにとっては最も確実かつ安全なルートなのだが……時として、他人の心理は、大いなるミステリーだ。

《大砦》の中の迷路は、地下迷宮(ダンジョン)さながらの、複雑怪奇な石積みの迷路なのだ。 敵方を怯ませるためだったのであろう奇怪かつ不気味な彫刻の群れすらあり、お化け屋敷も同然だ。 古代・中世の建築技術の限りを尽くした、今となっては謎そのものの遺跡である。 うっかり迷路に入った村人たちが老若男女問わず迷子になり、涙目パニックになって、隊士たちに遭難信号を送って来るそうだ。

――グーリアスに手を引かれて、意味不明なまでに曲がりくねった迷路を通り抜ける。 闇の中から大口を開けてワッと出て来るような奇怪な彫刻の群れには、やはりギョッとさせられる。 しかし、グーリアスに手を引かれているリリフィーヌにとっては――特別にときめく、ささやかな時間だ。

陽光の降り注ぐ緑地に出た頃には、リリフィーヌの心の内では、或る決心が固まっていた。

――窓の下を過ぎて少し行ったところに、田舎ならではの素朴なデザインの手すりが付いた、あのベンチがある。 リリフィーヌはグーリアスの手を借りて、ベンチに腰を下ろした。グーリアスが隣に座って来る。

グーリアスは、リリフィーヌの表情に拒絶などの気配が無いのを確認すると、 ゆるく流したままのリリフィーヌの淡い色の髪を撫で、そしてその肩に、そっと腕を回した。

リリフィーヌは、濃い緑色にきらめく樹林の間を透かして、昼下がりの空の下、万年雪がいっそう白く映える『雪白』を眺めた。 やはり、このポイントから眺める『雪白の連嶺』は、まさに絶景だ。

リリフィーヌは、淡い藤色のワンピースをまとい、つばの無いボンネットに似た留め紐付き帽子をかぶっていた。第1着目として揃えられていた、あの伝統衣装である。 ボンヤリと記憶にあるような無いような、都市圏のユニバーサルな衣装とは違っていて、今はまだ違和感を感じる。 だが、時間が経てば、この違和感も次第に薄らいでいくのかも知れない。

つばの無いボンネットに似た留め紐付き帽子――これは都市圏の街着ファッションと同様、外出する時のみ使う。街区で見られる留め紐付きベレー帽の元型だ。 帽子は頭をスッポリ覆うようになっており、頑丈な繊維を使った布地で出来ている。 運悪く鎖場や梯子で足を踏み外し、深い峡谷に落下する羽目になったとしても、或る程度、頭部をガードしてくれるのだ。

(人体の状態は、竜体の状態より構造的に脆いのである。ただし、破損した鱗を抜き取って、替えの鱗が生えて来るまで安静にしていなければならない間は、 人体状態は或る程度、外界活動の自由を保障してくれる――竜体状態に比べて絶対安静の必要性が低くなるのである。どっちもどっちである)

*****

(やはり、思い出せた限りの事は、話しておかなければ――)

婆神官に新しい名前をもらうまでは名無しだった女が、『雪白の連嶺』に見入りつつ思案をしていたのは、実際は2分、3分の事だった。 元々武官を本分としていたという事もあり、決断は早い方である。

リリフィーヌは、グーリアスを振り返った。

「――グーリアス殿、私にはまだ話していない事があります」

グーリアスはリリフィーヌの眼差しを見て瞬きした後、ゆっくりとうなづいて来た。

普通では考えられない程の大怪我をして、転移魔法陣から出て来た女だ。 婆神官の推測によれば、転移魔法陣の事故か何かで、《宿命図》も恐らくは変容してしまっている――記憶系列が破綻し、自分の名前すら失うレベルの変容だ。 想像もつかないような秘密があるだろうという事は、グーリアスは承知していたのであった。

だが――

「私には以前、恋人が居ました」

まさに爆弾宣言であった、と言うべきか。次の一瞬、グーリアスは、気が遠くなったような顔になっていた。 『バキッ』という奇妙な音が響いたが、グーリアスは反応していない。

「グーリアス殿、ベンチの手すりが……」

リリフィーヌは奇妙な音の原因に気付き、グーリアスのもう一方の手を見つめて、絶句するばかりだ。

つくづく、リリフィーヌの肩に触れている方の手では無くて、幸いだったと言うべきだ。

グーリアスは全く表情を変えぬまま、竜人ならではの圧倒的な筋力を持つ手で、その手に触れていた哀れなベンチの木製の手すりを、粉々に握り潰していたのであった。 後で、修理しなければなるまい――いや、修理しなければならない。

グーリアスは焦った様子で、リリフィーヌから視線を外した。

一息置いた後、グーリアスは改めて気付いたと言う風に焦った様子で、リリフィーヌの肩から手を外し、 手すりの残骸を隠すような形で両手を組んで、握り締めた。ややうつむいた、いかつい顔は、いつも通りしかめ面のままだったが、目の端は赤くなっている。

「あ、いや、その、考えてみれば……当然か……リリー殿は……良い人だから」

そのモゴモゴした口調を裏読みすれば、『綺麗な人』とか『魅力的な人』と言おうとしたらしいというのが、何となく分かる。

――転移魔法陣に出て来た時の、ゾンビ状態も同然だったであろう凄まじい顔面を見ておいて、そう思う心理というのも、非常に謎なのだが……

リリフィーヌは戸惑った後、どうやら続けても大丈夫らしいと判断した。

「続けて大丈夫ですよね、グーリアス殿……その、『居ました』という事です。エスメラルダ卿の見立てでは、 私の《宿命図》の《宝珠》相は、まっさらだそうですから……今は縁が切れているのだと思います。 正式な手続きで関係を清算したような記憶が無いので、自分でもアヤフヤですが……」

リリフィーヌは面差しを上げると、『雪白』の彼方に広がる虚空へと、視線をさまよわせた。過去の記憶を思い出そうとする時のクセだ。 グーリアスはそれを充分に承知しており、黙したまま、次の言葉を待っている様子だ。

「今でも、前の名前は思い出せません。恋人だった人の事も、同じくらい……『居た』というような、曖昧な感触だけです。 私が以前の名前を思い出せないのは、その人が、名前に関わる何かをしたから――かも知れません」

竜人の間で、恋人や婚約といった類の関係を結んだり、逆に関係を清算したりする時には、 《宿命図》の心臓部たる《宝珠》と魔法署名とが関わっている――そこからして、名前に関わる『何か』に相当するのだが……

リリフィーヌは諦念と共に、暫しの間、目を伏せた。

思い出せる限りの記憶の断片と、今の状況と、微妙に食い違っているような気がするのは、確かだ。 しかし、《宝珠》に何が起きたのかも分からないし、思い出せない事を幾ら考えても、しょうがないでは無いか。

「いつか、私の旧名を知っている人に出会うかも知れませんけど――その人が、恋人だった人かも知れませんけど――気にしないでくれたら良いと思います。 今の私は、リリフィーヌ……リリーでしかありませんから」

リリフィーヌは再び、ゆっくりとグーリアスの方を振り向いた。まだ傷にうっすらと覆われているものの、 しなやかで均整の取れたリリフィーヌの片手が、どちらかと言えば『ごつい』と言える、グーリアスの手の上に重なる。

「今はまだ、気持ちが落ち着いていないんです。でもグーリアス殿、貴殿の《宝珠》との間で、暫しの署名を交わしたいと思っています」

――結婚を前提とした、恋人関係として。

グーリアスは蒼穹の色をした目をきらめかせ、少年のように頬を赤らめたまま、リリフィーヌを見つめた。

万感の思いを込めた無言の時が、過ぎて行った。樹林の間を涼しい風が吹き渡り、濃い緑の葉がきらめき、さやいだ。

――1年後の同じ日、同じ場所で――2人は竜人特有の伝統的なやり方にのっとって、 互いの手をつなぎ、正式な結婚関係そのものである《宿命の盟約》を交わす事になるであろう。

その予兆とも言うべき、その様子を目撃していたのは、いつの間にかグーリアスの手から転がり落ちていた手すりの残骸と、 濃い緑にきらめく樹林と――その遥か彼方に見える『雪白の連嶺』のみだった。

*****《終》*****

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