深森の帝國§総目次 §物語ノ傍流 〉暁闇剣舞姫5

天球のアストラルシア―暁闇剣舞姫―(5)

◆Part.5「―凶星、是か非か―」
5-1.記述の中に手掛かりを求め
5-2.奇怪なる交錯
5-3.霧中の迷走と混乱の末に
5-4.仮面の占術官
5-5.天秤の御名の下に
5-6.宵闇の中の行き違い

5-1記述の中に手掛かりを求め

――禍福は糾(あざな)える縄の如し。

この数日間でユーリー司書と親しくなったエメラルドは、含蓄のある箴言を、実感と共に噛み締めていた。 超古代に由来するらしいと言う事の他には、詳細が良く分かっていない箴言ではあるが。

標準的なアッシュグリーンの髪を軽いシニヨンにまとめ、パリッとした女官用の白いヘッドドレスを装着し、 竜王国の紋章付きのエプロンドレス制服をまとう――ユーリー司書は、若いながら、大図書館の中を知り尽くすベテラン司書だ。

ユーリー司書の春の空のような柔らかな色合いの目は、実に夢見るような眼差しを形作っているが、 その応答には、鋭い機転とユーモアが利いている。そして、的確な情報を引き出して来るそのスピードは、武官としての目から見ても惚れ惚れするレベルであった。

ユーリー司書とは、何という事の無い最近の出来事を語り交わす仲になった。

まだロドミールの名前を出せると言う程では無い。しかし、男友達となかなか連絡が付かず、涙声の同僚がいつも出て来る――という事は気楽に話せた。 連絡メッセージボードでは、いつも『遠方出張』、たまに『一丁上がり』となっているらしい――これはこれで、笑い話ではある。

ユーリー司書は『一丁上がり』という言い回しを面白がって、コロコロ笑ってくれた。

次の半日公務の日、午後から女子会というか食事会に来ませんか、というお誘いも頂いているが――

*****

――次の『バーサーク危険日』まで、残り2日。

日に日に、我が身がバーサーク化すると言う悪夢の内容が、ハッキリとしたリアルな感覚と共に再現されるようになっている。

今朝などは、全身にギシギシとした違和感が残っていた。単なる幻覚だと言い聞かせながらも、違和感が消えるまで、ベッドの中から出る事が出来なかった。

セレンディは、こういう、身を灼くような不安を抱えて生きていたのか――

ふと小耳に挟む形になったセレンディの述懐を思い返すにつれ、悩みが増す。 気休めかも知れないと思いながらも、支給された拘束具を、1日中、装着するようになった。 こうやって資料に取り組んでいる間は、幾らか悩みを忘れられるのだが――それでも、解決には程遠いのは、事実である。

いつものように、バーサーク関連の資料をピックアップしていたユーリー司書は、エメラルドの顔をジッとのぞき込んだ。

「エメラルドさん、体調は大丈夫ですか? 顔色が悪いですし、余り良く眠れていないのでは?」
「確かに、眠れてはいないですね」

エメラルドは苦笑するしか無い。

ユーリー司書は、エメラルドのプライバシーに踏み込んだ質問はして来ないが、エメラルドが深刻なタイムリミットを抱えて焦っている事を充分に理解しているらしい。 『特定の分野に関心を示した利用者の監視』という事情もあるのだろうが、大図書館の開館の刻から閉館の刻まで、ほとんどの時間を資料検索と読み込みに付き合ってくれるのだ。

エメラルドは天井までギッシリと詰まった本棚の前に陣取ると、《風》魔法を使って、ユーリー司書がピックアップした本を、順番に取り出して行った。 魔法の『つむじ風』がヒュルルと渦巻き、目的の本が次々に空中を飛んで、用意していたワゴンに積み重なる。

「いつもながらスゴイですねぇ、梯子、要らないですね」

ユーリー司書が感心する。ユーリーも《風霊相》生まれだから《風》魔法は得意な方なのだが、その得意分野はどちらかと言うと、 力任せの運搬よりは、ホワイトノイズ魔法の発動や、空気で出来た『魔法の栞』の細工といった方面に偏っているのだ。 その得意分野を生かして、司書になった訳だが……人生、何がどう転ぶのか分からない物だ。

一通り資料が揃うと、ユーリー司書は本の山を乗せたワゴンを押しつつ、エメラルドを、いつもとは異なるコーナーに案内した。

「今日は、上級魔法神官の研究グループによる読書談話室の予約が多くて、この階層の読書談話室は、ほぼ塞がってしまっているんですよ。 隅っこの方に、ホワイトノイズ魔法の掛かった仕切りをセットして仮設の読書コーナーを作っておきましたので、どうぞ」

やがて、読書コーナーに到着した。エメラルドはワゴンから資料を降ろしながらも、ふと首を傾げた。

「上級魔法神官の研究グループって、そんなに数がありましたか?」
「えぇ、『バーサーク危険日』占術には複雑な計算式を使うそうなんで、複数の研究グループに分かれて慎重に検算をやってるそうです。 本当に、その日なのかどうか――占術の正確さを、そうやって高めていくそうですよ。今は、連続して3回、最高70%の的中率をレコードしているそうです」

エメラルドも、その話は聞き覚えがあった。その驚異的な的中率が達成されているからこそ、ラエリアン卿が、ひっきりなしにスパイを放って来るのだ。

仮設の読書コーナーに腰を下ろしたエメラルドとユーリー司書は、いつものように資料を開いた。やがて、ユーリー司書が有望な記述を見つけたようだ。

「エメラルドさん、こんな記述がありましたが、如何です?」

エメラルドは、示されたページに目を通した。

――2つの大凶星、《死兆星(トゥード)》と《争乱星(ノワーズ)》の、《宿命図》における違い――

《死兆星(トゥード)》――《宿命図》において、「死相」と判定される星配置である。 運命線の上に一時的に出現する予兆的な歪曲相であるが、変化の激しい運命線に現れるため、事前に検出するのは極めて難しい。 例外的に3代目の竜王の《宿命図》運命線で検出した事例があるが、当の本人は《風の盾》による守護を得ていたため、死亡しなかった。 この相は、運命線の上に予兆的に現れた後、生命線の上に転写されると考えられている。 事後の《宿命図》において、星々の異常変位によって生命線が断ち切られている様相が検出できる。

《争乱星(ノワーズ)》――《宿命図》において、「破局の相」とする星配置である。 何らかの理由で、この相が《宿命図》に定着した竜人は、心身状態が元々乱れやすく、バーサーク化しやすい。 ただし、ドラゴン・パワー極小&極大、または《器》極大の場合は、バーサーク化しにくい。 バーサーク傷を受けた場合、バーサーク毒による新たな星々が展開し、一時的・疑似的ではあるが《争乱星(ノワーズ)》様の《宿命図》凶相を示すため、 これが定着する前に、速やかにバーサーク毒を抜く事で対応する。

エメラルドは一通り読んだ後、思案を口に出して呟いた。

「一部、知らなかった部分もあるけど……医療院の中で、既に知られている事しか書かれてないみたい。この《器》というのは何かしら?」
「占術用語みたいですね。ちょっと検索しますので時間を下さい」

ユーリー司書はブツブツと呟きながら、大量の情報を手持ちの半透明のプレートに呼び出した。やがて、ユーリー司書は眉根を寄せて思案し始めた。

「ユーリーさん、何か見つかりました?」
「曖昧な記述だけです。どうも上級占術の奥義みたいですね。大神官のみ立ち入りできる『禁書目録』の書物にしか、 《器》というタグが付いてないんです。……えぇッ! この目録、11冊しか無い! ――何が書かれているんだか」

ユーリー司書は、更に検索を進めていた。ありとあらゆる糸口を試してくれているのは明らかだ。エメラルドはユーリー司書に注意を払いつつ、別資料のページを繰って行った。

やがて、ユーリー司書は顔を上げた。エメラルドもパッと顔を上げる。

「健康運、恋愛運、金運は『上級占術』で動かせる。そして、魔法(アルス)の結果と《器》との間には、相関関係がある――と言う付記が出てるのがありますね。 えっと、資料の名前は――」

――パキッ。

「えッ」

ユーリー司書は、手に持っている魔法の杖を眺めて、目を丸くしていた。エメラルドも絶句である。

「えっと……ユーリーさん、魔法の杖が……」
「不調……っていうか……カンペキ、壊れましたね……ハハハ……」

5-2奇怪なる交錯

――ユーリー司書の魔法の杖は、度重なる酷使で遂に限界が来たのか、見事に真っ二つに割れていた。

横にへし折れたのでは無く、縦にヒビが入り、綺麗に、割り箸を割ったみたいに割れてしまったのである。不調を誤魔化しつつ使うどころでは無い。

ユーリー司書は首を振り振り、魔法の杖の割れ目を合わせようとしていたが、無駄な試みである事は明らかである。

「一瞬だったんで、余り自信は無いんですけど、確か『天秤』という語が入っている資料名でしたよ」
「良く分からないキーワードですね。市場とか、お金? ……って事は無いでしょうし……」
「司法や裁判のシンボルも『天秤』なんですよね。まさかの『異議あり! 逆転判決』とか?」

ユーリー司書は盛んに首を傾げた後、「確か、予備の備品がありますから」と呟いて立ち上がった。

読書コーナーの仕切りを出ようとしたところで――ユーリー司書は、不意にギョッとしたような顔をし、サッと顔を引っ込めた。

「何か?」
「シーッ……私、あの人、苦手なんですよね。この間の食事会に割り込んで来て、友人に強い酒を飲ませたヤロー……」

エメラルドは仕切りの隙間から、ユーリー司書をギョッとさせたと思しき、その人物を、そっと窺った。若い男だ。 下級魔法神官の制服を着用しており、2人ばかりの上級魔法神官――いずれも男だ――と会話しつつ、隣の読書談話室へと入って行く。

(聞いた事のある声音……?)

エメラルドは、すぐにピンと来た。

意外にも、エメラルドの既知の人物である。ロドミールの同僚。目下、連絡係を任されていると言う、修行中の新人の下級魔法神官だ。 いつも接続先で応答して来て、『位置情報魔法すら充分にマスターして無くて』と、涙声で平身低頭してきた人物。

(――いや、でも何か……ちょっと待って。何かが、決定的に、おかしいような気がする――)

それは、いきなり閃いた。まさに雷撃のようなショックだった。

エメラルドは、ユーリー司書を激しく振り返った。 余りにも強く振り返ったので、髪留めが少しズレて、エメラルド色の髪が一筋、ほつれる。

ユーリー司書は一瞬ギョッとしていたが、流石に受付のベテランだ。すぐに『何でしょう?』と眼差しで聞いて来る。

「ちょっと変な事を聞きますけど、ユーリーさんは『位置情報魔法』マスターしてますよね?」
「え、えぇ、そうです。公務に携わる文官は皆、受付に回される可能性がありますし、中級の『位置情報魔法』を充分にマスターしてる事が必須条件です。 大図書館の資料検索なんて、『位置情報魔法』のカタマリですよ」

エメラルドの直感は、今や確信に変わった。

「下級魔法神官ともあろう者が、受付の人が皆マスターしている『位置情報魔法』を、充分にマスターして無くて――という事は、絶対に、有り得ないんですよね?」
「それは、そうですよ。神官は全員、上級だろうと下級だろうと、 辺境赴任の無印だろうと、《宿命図》を読めるんですから……《宿命図》占術の初歩が、最上級の『位置情報魔法』なんですから」

エメラルドの脳内は、高速で回転し始めた。武官としての直感に、ビシバシ引っ掛かるのだ。例えば――

「――忍者(スパイ)……?」
「えッ……」

ユーリー司書は、目を大きく見開いた。次いで、ユーリー自身にも思い当たる事があったのか、頭を抱えて、必死で考え出す。 記憶を掘り返せるだけ、掘り返しているのだろう。

「えっと、エメラルドさん、あの人は確か、おニューの新人です。えっと、入って来たのが……そう、 エメラルドさんが入院した日の翌日です。そう! それに、ウラニア女医の弟子でもある親友に強い酒を飲ませて、 バーサーク傷を受けた患者さんの事やら、バーサーク化した武官の事やら、聞き出そうとしてました……!」

――容疑、確定。

エメラルドは険しく目を細めた。セレンディの魔法の杖を、慎重に振る。

彼等――怪しい3人組は、密室でもある読書談話室の中に入って行ったのだ。明らかに、密談のためだ。 防音魔法やノイズ暗号、ホワイトノイズ魔法といった、ありとあらゆる情報漏洩防止の対策を用意している筈だが、 何としてでも、何が密談されているのか、知らなければならない。

セレンディの魔法の杖は、エメラルドの意思に、良く応えた。 エメラルドの、上級武官としての経験の限りを尽くして設計した、高性能な『地獄耳』を忠実に描き出して行く。 その様を注目していたユーリー司書が、目を丸くする。

「え、エメラルド、さん……、その魔法陣、一体……?」

それは、実に奇怪な魔法陣だった。無意識のうちに造り上げていたエメラルドも、ギョッとする程だ。

見た目は――3次元立体の魔法陣だ。

正円錐形の形をしており、大皿サイズの基盤面に《風》のシンボルが白く輝く。 正円錐形の頂点からは、基盤面に向かって幾本もの竜角のような形をした突起が緩やかな角度で伸び、 次第に基盤面を取り巻く、緻密な網の目をしたパラボラ型になった。白いパラボラの縁で、四色の光がチラチラと燃え始める。

新種の巨大キノコさながらに、大きなパラボラを頂点に乗せる格好になった白い正円錐形。

そのナゾ物体スタイルの魔法陣はフワリと浮き上がり、読書談話室の壁に、基盤面とパラボラの縁をピッタリ張り付けるや、チラチラと光りながらも透明になって行った。

今、エメラルドとユーリー司書の目に見えるのは、チラチラと燃える四色の光で出来た、単純な円環が、目標となった読書談話室の壁に張り付いている様子のみだ。

即席の『無色透明パラボラもどき』の魔法陣は、暫し様々な小細工と衝突していたのか、沈黙が続いていたが――急に、3人の男たちの声を捉え、焦点を合わせた模様だ。

『――では、2日後にバーサーク危険日が到来するのは間違いないのだな』
『ええ、夜明けと同時に。それと同時に、逆方式を立ち上げ、運命の《呪い》を発動すれば……』
『前回と前々回の《死兆星(トゥード)》照応は、爆心地の場所がズレて失敗してしまった。今度こそ、この占術方式であれば、 遂に我ら、《神龍の真のしもべ》が、究極の大逆転魔法によって、闇ギルドに身をやつしているバーサーク義勇軍と共に、竜王都の全てを正常化して――』

どうやら、『地獄耳』を超える『超・地獄耳』に成功したらしい。いわば『ハイパー壁耳』だろうか。

エメラルドとユーリー司書は、互いの目を見合わせた。 ユーリー司書は、半透明のプレートをきつく抱き締めて口をパクパクさせていたが、すぐに頭が回り出したらしい。

「う、噂の、神殿内部の熱血派、過激、そ、その魔法の杖、ちょっとお借りし、このプレートに録音し……!」

*****

――やがて、奇怪な密談が終わった。3人の男は、読書談話室を出て行った。

エメラルドとユーリー司書は、偶然に耳にした事実の異様さに、身体をカタカタと震わせるのみだ。

呆然自失の時間が過ぎた後――エメラルドの発音器官が、本来の機能を取り戻す。

「えっと、ユーリーさん、これって誰かに通報するにしても……上級魔法神官がかなり入ってそうですし、通報先って、限られますよね」
「うッ、うう……とりあえず、当ては無くも無い、かな……」

窓の外に見える光景は、既に夕方だった。大図書館の閉館の刻だ。今日は、もう、資料検索どころでは無い。

エメラルドとユーリー司書は、『3人の男の間で交わされた奇怪な密談の件』の通報先を慎重に選別し、 通報先が決まるまでは口外厳禁――という申し合わせをしたのであった。

5-3霧中の迷走と混乱の末に

遂に『バーサーク危険日』まで、残すところ後1日だ。

エメラルドは、もはや馴染みとなってしまった、あの嫌な違和感と共に目を覚ました。

――昨日の大図書館では、資料検索どころでは無く、ほとんど調査にならなかった。まるで、神か、神に等しい誰かが妨害しているみたいだ。

(こんな非合理な事を次々に思いつくのも、睡眠不足で頭が疲れているせいか。それとも、バーサーク化の前兆の1つか)

エメラルドは、いつもの朝食を済ませた後、ボンヤリと大図書館で取っていたノートを再読した。 このノートは、半透明のプレート様式である。 武官標準支給の品で、基本的なメモ&検索機能しか無いが、今のエメラルドにとっては、なかなか便利な道具となっていた。

エメラルドは、最後のメモに目を通した――

――『2つの大凶星、《死兆星(トゥード)》と《争乱星(ノワーズ)》の、《宿命図》における違い』。

竜人の変身魔法の暴走に伴う、バーサーク化との関連が深いのは、《争乱星(ノワーズ)》だ。 かのセレンディも、先天性の《争乱星(ノワーズ)》持ちである。

*****

《争乱星(ノワーズ)》――《宿命図》において、「破局の相」とする星配置である。 何らかの理由で、この相が《宿命図》に定着した竜人は、心身状態が元々乱れやすく、バーサーク化しやすい。 ただし、ドラゴン・パワー極小&極大、または《器》極大の場合は、バーサーク化しにくい。 バーサーク傷を受けた場合、バーサーク毒による新たな星々が展開し、一時的・疑似的ではあるが《争乱星(ノワーズ)》様の《宿命図》凶相を示すため、 これが定着する前に、速やかにバーサーク毒を抜く事で対応する。

★付記・資料名『天秤(?)』――健康運、恋愛運、金運は『上級占術』で動かせる。そして、魔法(アルス)の結果と《器》との間には、相関関係がある。

*****

エメラルドは、何回も読み直しているうちに、記述の奇妙さに引っ掛かった。

『何らかの理由で、この相が《宿命図》に定着した竜人は、心身状態が元々乱れやすく、バーサーク化しやすい』

何らかの理由で――何らかの理由で?

(どうして、こういう記述なのだろうか?)

こういった際どい内容に関わる著者が、何の理由も無く「言い回し」を選ぶ筈が無い。エメラルドは、必死に推理した。

セレンディは先天性の《争乱星(ノワーズ)》相を持っている。 天然に授かってしまった大凶星であって、それ以外の何物でも無い。 バーサーク傷を受けた場合も、《争乱星(ノワーズ)》に呪われたのと同じ結果になる訳だが、それはバーサーク竜と対峙した結果であって――

(それ以外にも、バーサーク化する原因が有り得る、という事なのだろうか?)

今のところ、最も怪しいのは、セレンディを強制的にバーサーク化させたと思われる、『疑惑の総合商店』の違法ドラッグだ。 目下、ウラニア女医と彼女が率いる研修医スタッフのチームが、全力で対応している問題である。

(だけど、私は、その違法ドラッグを摂取していない)

メモをつらつらと読み直していると、聞き慣れたノック音がし、次いで、いつもの女性スタッフが顔を見せた。 そして女性スタッフは、遠隔通信セットを乗せたワゴンを押して入って来たのであった。

遠隔通信セット――腕一杯に抱えるくらいの大きさの正六面体と言い、その上に乗せられている、 正六面体と同じくらいの大きさの天球儀に似たアンテナと言い、 かなり大振りな代物だけに、ワゴンに設置するだけでも大変だったのでは無いだろうか。

「あの、済みません、エメラルド隊士。《水》の上級魔法神官ロドミール殿から、遠隔通信が入ってますよ」
「……え?」

我ながら、間抜けな返事だ。ベッドに座ったままだったエメラルドは、枕元からボンヤリと魔法の杖を取り出し、遠隔通信装置を起動させた。

すぐにロドミールの声がやって来た。

「――あ、私だよ。こんなタイミングでごめん、エメラルド。ついさっき、同僚から、何回か呼び出しが来ていたらしいと聞いたばかりなんだ。 一体、どういう用件だったんだい?」

エメラルドは一瞬、ポカンとした。

どういう用件だっただろうか。 最近は、バーサーク化をどうやって自力で阻止するか――という問題で頭が一杯だったから、すぐには思い出せない。

「何だったかしら。最近、悪い夢を毎晩見るようになって、眠れてないから――と言うよりは、睡眠薬で寝てる状態だから……」

ロドミールは、接続先の向こうで絶句しているようだ。暫し沈黙が続く。 ロドミールの背後で、ロドミールの同僚らしき人物の声がブツブツと続いているのが、接続先から聞こえて来た。

「あ、同僚さん、居るのね。新人の下級魔法神官さん。何か随分ご迷惑おかけしちゃったみたいね。 ロドミール、メッセージボードはキチンと更新しなきゃダメよ。ずっと『遠方出張中』のまま放置されてたから、同僚さん随分、困ってたようだし」
「メッセージボード? 何を言ってるんだ、エメラルド? まぁそれは良いけどさ、 何かカードみたいな物、見なかったかな? いつの間にか紛失したみたいで――何処で落としたのか思い出せないんだ」

ロドミールは、焦っているようだ。口調が少し早い。

エメラルドは暫く考えてみたが、エメラルド自身にも思い当たりが無い。ボンヤリと首元に手をやる。 そこには、すっかり馴染みとなった、チョーカーの形をした拘束具の感覚があった。 気休めでしか無いが、バーサーク化を抑え込んでくれる道具とあって、ついつい感触を確かめてしまう。

「カードみたいな物? メッセージボードの事じゃ無いの? 何か、次の『バーサーク危険日』の検証とか、 上級魔法神官のグループでやってるって話、風の噂で聞いたけど。ともかく、こっちはちょっとそれどころじゃ無いから、通信を切っとくね」

エメラルドは、通信を切った後になって、今まで武官用の魔法の杖で通信していた事に気付いた。 セレンディの魔法の杖は、ペン程の大きさにして、ベルトに挟み込んだままだった――我ながらウッカリしていた事に気付き、ちょっと「フフフ」と笑ってしまう。

女性スタッフは、礼儀正しく耳を塞いで待機していた。 「終わりましたか」と、にこやかに確認した後、いつものようにキビキビとワゴンを押して、個室を出て行った。

――そろそろ、大図書館の開館の刻だ。この1日が、最終決戦日だ――

遠隔通信を、手際よく切り上げられて良かった。エメラルドは、セレンディの魔法の杖を使い出して以来、余り使わなくなった武官用の魔法の杖を暫し眺めた。

(これは、今日1日は、長持に入れておいたままでも良いかも知れない)

外出する時は、使用する予定の無い身の回りの品は、全て長持に収めておく事になっている。 エメラルドは長持のフタを開き、中身を適当に移動し、武官用の魔法の杖を収める場所は何処が良いか、検討し始めた。

失恋のショックで、春夏用の新品のドレスを燃やし尽くしてしまったクセに、何故かスカーフだけは燃やし尽くすのを忘れていたりする。 我ながら、おかしな所で抜けている。そのスカーフを広げた瞬間――

――カシャン。

何処かで聞いた事のあるような物音だ。エメラルドは、スカーフの間から落ちた物をジッと見つめた。

――『カードのような物』だ。

(え? ちょっと待って? まさか、ロドミールが言ってたのは――)

一気に、記憶がよみがえる。何で忘れていたんだろう――こんな重要な事を!

神殿の一角にある『上級占術・匿名相談コーナー』の割当チケット――「未使用」。

震える手で、カードを――チケットを拾い上げる。このチケットは倍率が高いから、入手するのは大変なのだ。 エメラルドの心臓が、早鐘を打ち出した。確か、このチケットには、あらかじめ割り当てられた、使用指定日が付いていた。記憶によれば、それは――

――今日の、午後の刻だ!

エメラルドは、未使用チケットに刻まれた指定日時を凝視したまま、いつの間にか震えていた。

本来はロドミールに返すべきなのだろうが、得体の知れぬタイムリミットが迫っている今、もう、なりふり構って居られない。エメラルドは、口元を引き締めた。これはチャンスだ。 数少ない上級魔法神官に《宿命図》をチェックしてもらえるチャンスだ。絶対に、逃す訳にはいかない。

エメラルドは逸(はや)る心を落ち着け、まずはユーリー司書に連絡する事にした。

彼女は、いつものように大図書館の受付でスタンバイしているであろう――ユーリー司書に向かって、魔法の杖を使った直通の遠隔通信を飛ばしてみると、間もなくして応答が来た。 少しタイムラグがあったのは、予備の備品の魔法の杖を使っているからだろうと予想できる。

『――お早うございます、エメラルドさん。もうじき大図書館が開館しますが、如何いたしましたか?』
『ユーリーさん、今日は、他に重要な用事が出来たんです。大図書館には行けなくなった事をお知らせしたいと思って。こちらの都合で色々振り回して、ごめんなさいね』
『いえいえー。お気になさらず。ちょっと心配してたんですよ。何か意外にお元気そうでホッとしました。例の件は、鋭意、検討中という事をお知らせしておきます。 では、またのご利用をお待ちしておりますね』

流石、ベテラン女官のユーリー司書は、いつもと変わらぬテキパキとした軽やかな受け答えだ。 『例の件』と言うのは、あの『3人の男の密談の件』の事だ。ユーリー司書の機転の利く言い回しに、感心させられてしまう。

――ユーリー司書が、あんなに機転が利くのだ。自分も、ちょっとは知恵を絞ってみなければ。

忍者(スパイ)などと言った思わぬ人目がある事を考えると、誰なのかが分かってしまうような形で、医療院から直接『上級占術・匿名相談コーナー』に出向くのは、 やはり考え物だろう。昨日の密談に参加していた2人の上級魔法神官の、いずれかに当たってしまわないとも限らない。

エメラルドは、セレンディの魔法の杖を再び眺めた。セレンディ親子や馬丁ゲルベールとの買い物の際に、武官用の杖から移行していた褒賞金の残りが、まだ入っている。 此処は、再び資金を活用して、偵察スタイルで行くのが正解だ――

*****

一方、手際よく遠隔通信を切られた形になったロドミールは、困惑しきっていた。

同室に詰めている同僚が、怪訝そうな様子で疑問を投げて来た――ロドミールと同じ、上級魔法神官だ。

「エメラルド隊士と喧嘩したのか? それに、私の事を『下級魔法神官の新人さん』って……それに、『メッセージボード』って何の事なんだい?」
「私にも訳が分からないよ。彼女は疲れているんだな、多分」

――と、その瞬間。

ロドミールと同僚が詰めている、その執務室のドアが、音を立てて激しく開かれた。同僚が、入って来た人物を見て目を丸くする。

「――ウラニア女医!?」

ウラニア女医は、一層いかめしい顔をしていた。その後ろから、武官を伴った研修医スタッフが、素早く部屋に飛び込んで来た。

「さて、『定期健康診断』です。全員、ベッドに寝なさい」

ロドミールと同僚は、訳が分からぬままに武官に口を塞がれ、そのまま、誘導に従って部屋の隅に移動する。

数人の研修医スタッフが、鮮やかな手際で遠隔通信装置を分解し始めた。ロドミールと同僚は、目を見張ったまま、それを眺めるのみだ。

やがて、遠隔通信装置の基盤プレートが現れた。そこには、有り得ない筈の、魔物の血管のような禍々しい雰囲気の異様な魔法陣がセットされていた。

「――『血管に、致命的な異常あり』です! 緊急手術!」

研修医スタッフが掲げてみせた基盤プレートの魔法陣を目撃し、ロドミールと同僚は、武官に口を塞がれたまま、愕然として立ち尽くすしか無かった――

――盗聴魔法陣だ!

数人の研修医スタッフが手分けしてて各々の魔法の杖を振るい、異様な魔法陣の上に更に別の魔法陣をセットし始めた。 訳が分からぬ程に複雑な重ね合わせになっているが、盗聴魔法陣を逆手にとって、情報収集ステージに上げようとしているのは明らかだ。

「ウラニア女医、『緊急バイパス手術』が終了しました」
「大変よろしい。さて、事情説明しますよ、お二方」

ウラニア女医は、まだ呆然としているロドミールと同僚に向き直り、キビキビと説明を始めた。

「お二方は出張が多く、また、ここ最近も、長く執務室を留守にしていました。そこを狙われたのです。 この盗聴魔法陣は、此処に接続して来る本来の遠隔通信コールを妨害し、別の通信網に転送する物です」

だんだん、『とんでもない陰謀に巻き込まれていたらしい』という事を理解し始めたロドミールと同僚は、青ざめて行った。 硬直したまま、ウラニア女医の説明に耳を傾けるのみだ。

「――我々は、その通信網は、闇ギルドの勢力下にあると睨んでいます。 今日の朝一番で、『メッセージボード』という闇ギルド用の隠語が割り出せましたので、神殿の全ての通信内容に対して、緊急に隠密監視を施しておりました。 それに引っ掛かったので、取り急ぎ措置を取りました」

ウラニア女医は、灰色の眼差しをギラリと光らせた。

「不自然と思われる通信内容を記憶しているのでしたら、一切合切、説明をして頂きましょう。 隠密捜査に全面協力を願います。お二方で、やっと3例目の検出です。尻尾をつかむための情報が、少なすぎるのですよ」

5-4仮面の占術官

エメラルドは衣料雑貨店を回り、新しい街着を購入した。念を入れ、スカーフも新調する。

そして、人目の無い物陰に入ると、いつものザックリとした淡色の街着を処分し、セレンディが着ていたような型染めの入ったロングシャツ型の街着に着替えた。 あのドレス並みに化けるという程では無いだろうが、いつもは無地の物だったから、程々に別人に見える筈だ。

――この辺で引き上げれば、約束の刻に充分、間に合うだろう。

エメラルドはスカーフを巻き、ロングシャツの裾を捌きつつ、神殿の一角にある『上級占術・匿名相談コーナー』を目指した。

*****

神殿は、巨大な複合建築スタイルである。

その中で、『上級占術・匿名相談コーナー』は、不特定多数の来客に対応するためとあって、正面ゲートに近い棟が割り当てられていた。 見た目は街区役所と地上アーケード回廊を組み合わせたスタイルで、意外に入りやすい感じである。

エメラルドはスカーフで半ば人相を隠したまま、指定チケットを首尾よく手に入れたのであろう10数人の来客と共に、暫しアーケード回廊の下で待機した。

10数人の来客のうち、半分以上は男女カップルで手をつないだ格好だ。 男女ともに、アーケード回廊の列柱の影に入って、互いに他の訪問客の人相を目撃しないようにコソコソとしている。 女の半数以上は、更に念を入れて、濃色のスカーフで半ば人相を隠している。

一見してアヤシイ儀式か何かに集まった不審者たちだが、相談のほとんどは恋愛問題――《宝珠》に関する事だ。程度の多少はあれ、面映ゆさを感じて当然なのである。 エメラルドは、数年前は自分も、こうしてロドミールと手をつないでスタンバイしていたという事を思い出し、少しチクリとするものを感じた。

ちなみに、この匿名相談コーナーが出来たばかりの頃は、こうしたコソコソとした行動が公然と出来る場所という事があって、とんでもない陰謀の舞台となった事もあった。 例えば、竜王国を転覆させるための反乱軍の面々が、外観を真似した建物を建てて、反乱アジトとしていたり――

やがて、誘導担当であろう下級魔法神官の制服をまとったスタッフが出て来て、来客を招き入れる。 エメラルドは、10数人の来客と共に、建物のフロントに足を踏み入れたのであった。

フロントは、さながら大図書館の広々とした受付ロビーを縮小したような様式であるが、地上階層の床全体を使った、正方形に近いフロアとなっている。 或る程度プライバシーを守るため、窓の数は少なくなっており、薄暗い空間だ。

――各種の事務を担当していると思しき下級魔法神官が並ぶ受付デスクが、奥にあるだけだ。 支柱だけが規則的に並ぶガランとした空間の中、7台の大天球儀(アストラルシア)が円陣を組む配列で設置されている。

10数人の来客たちは、「お一人様」と「お二人様」に分かれた。「お一人様」であるエメラルドを含めて、ちょうど7グループになっている。 来客たちは、思い思いに、それぞれ選んだ大天球儀(アストラルシア)に近寄ると、手持ちの魔法の杖の先端に「未使用」のチケットをくっ付けて、 大天球儀(アストラルシア)をつつき始めた。

エメラルドも同様にして、セレンディの魔法の杖の先端にチケットを取り付け、目の前の透明な球体をつつく。

7台の大天球儀(アストラルシア)の中できらめいていた、模型の星々の光が、ランダムにかき回されて行く。 すると、大天球儀(アストラルシア)の位置に従って7グループに分かれていた各々の来客の足元に、即席の転移魔法陣が展開され、白く輝き出した。

エメラルドの足元でも、見慣れたパターンの転移魔法陣が白く輝いている。魔法陣から白い光が柱のように立ち上がり、 ヒュルルと言う風音を立てながらも、魔法陣の外周円に沿って一巡する。

一瞬ではあるが、7台の大天球儀(アストラルシア)の傍に、7本の白い光の柱がセットされたかのように、ユラリと立ち上がっていたのであった。

やがて、転移魔法に伴う風が収まって行く。

エメラルドの視界を塞いでいた白い光の壁が薄くなり、微細なエーテル粒子となって分解して行った。エメラルドは既に、別の場所に転移させられていた。

目の前にあるのは、フロントに並ぶ大天球儀(アストラルシア)では無い。ランダムに割り当てられた上級魔法神官が控えているに違いない、応接室の扉である。

――他の来客たちも同様に、上級魔法神官が「占術官」として待ち受ける、応接室の扉の前に、各々転移している筈である。 それぞれ、ランダムに割り当てられるというプロセスで――

エメラルドは風で吹き乱れたスカーフを直し、応接室の扉をノックした。

「――どうぞ」

中から占術官の声が応えて来た。穏やかなそうな男の声だ。とりあえず、大図書館の読書談話室に居た怪しげな男たちの、いずれの声音でも無く、ホッとする。

*****

匿名相談コーナーの応接室は、医療院にある応接室と同じくらいのスペースであった。

窓外からの盗み見を防止するため、応接室の窓はマジックミラーとなっており、更に濃いグレーが掛かっている。昼下がりの刻ではあるが、応接室の中は薄暮に近い明るさだ。

2人用の小さな円卓の上で、中に天球儀を仕込んだ水晶玉のような球体が、台座の上でボンヤリと光りつつ回転している。

エメラルドを担当する事になった占術官が、円卓の向こう側の椅子に座っていた。

《風》の上級魔法神官の神官服をまとった男だ。匿名相談コーナーの流儀に応じて人相を隠す仮面を装着しているが、 エメラルドと余り違わない――若手ベテランの上級魔法神官だと知れる。

占術官を務める上級魔法神官もまた、プライバシーを守るため、こうして仮面を装着して対応するのだが、これが逆に、 一定以上の上級占術スキルを持っている事の資格証明になっているのだ。

エメラルドは一瞬、数年前に訪問していた時は、中堅と言った年齢層の《地》の占術官だったという事を思い出し、 スカーフの中で、ちょっと微笑んだ。あの時の占術官は愉快なユーモアのある人物で、コウモリの仮面を装着していたのだ。

今回の《風》の占術官は、穏やかで生真面目な性質らしい。 標準的な《風》の白い仮面で、薄い金色の唐草パターンが施されているところは熟練の上級魔法神官ならではの威厳を感じるが、 仄かに紅茶の香りをまとっていて、何となく親しみを覚える。

「今日は、どうぞよろしくお願いいたします、《風》の占術官」
「椅子にどうぞ。いずれの《霊相》の生まれですか?」
「同じく《風》ですので……」
「分かりました。ではシルフィード、相談を伺いましょう」

エメラルドは《風霊相》生まれの女性なので、不特定多数の呼称は「シルフィード」となるのだ。不特定多数の《風霊相》生まれの男性であれば、「シルフ」となる。

貴重な時間を、無駄にできない。エメラルドは呼吸を整え、単刀直入に切り出した。

「私の《宿命図》に、バーサーク化の兆候が強く出ているのかどうか、確認して頂きたいのです」
「――珍しい内容ですね。普通は《宝珠》の件、つまり恋愛運の相談が多いのですけど」

占術官は暫し、困惑の余りか絶句していたが、事が事である。「失礼」と言い、エメラルドの手を取った。 片手に魔法の杖を構えると、手相を読むような格好になる。その杖の先端部には、やはり小さな円環体が取り付けられており、 円環の中央で、淡い白い光が仄かに光り出した。

「この《宿命図》は、一般には、強い武官の相とされる――表層の乱れは大きいが問題なし。 中間層の広範囲で散乱の相が見られる。《四大》エーテル魔法発動に際して無駄な漏出の方が大きく、エーテル騒音(ノイズ)が相当に出るタイプだが……」

占術官はブツブツと呟きながらも、次第に《宿命図》の深層部の読み込みに入って行ったようだ。

――やがて。

占術官は、ハッと息を呑んだ。エメラルドは武官ならではの動体視力で、それを察した。

「何かありましたか、占術官?」
「シルフィードの直感は正しかったようです。かなり不味い事になって来ています」

占術官はエメラルドの手を解放して椅子に座り直し、説明を始めた。

「心臓部、つまり《宝珠》相の1つ上……相当に深いレイヤーで、普通では有り得ない星々の異常変位が見られます。リアルタイムで進行中の。 『バーサーク危険日』の到来と共に異常変位が極大となり、《争乱星(ノワーズ)》相として爆発する見込みです」

占術官は、動揺の余りか青ざめていた。口元が、わずかながら引きつっている。エメラルドは暫し首を傾げ、以前から何となく感じていた仮説を口にした。

「普通では有り得ない……自然では無い。人工的、故意な物だと考えられるという事ですね?」

占術官は、中央の小さな『水晶玉もどき』に魔法の杖をかざし、上方向へ投射される光束を引き出すと、 目にも留まらぬスピードで、3次元立体の魔法陣の如き図解を空中に描き始めた。

「此処に来たからには、何が起きているのか知りたい筈です、シルフィード。少し複雑ですが説明します」

*****

《宿命図》は、大きく表層、中間層、深層、心臓部のレイヤーに分かれる。 実際は、我々の時空で解釈できるような構造体では無いので、正確な状況を再現した言い回しと言う訳では無いが、 便宜上、そういうモノだとしておく。

心臓部にあるのが《宝珠》相である。陰・陽の原初的な星々が作る構造体だ。今は詳細は割愛する。

表層は、変身魔法に応じて心身の位相を変える領域だ。竜体(戦闘モード)と人体(平常モード)の移り変わりは、此処でコントロールされている。 竜体解除の魔法陣や、神官が使う治療魔法は、主にこの表層に関わる物である。

中間層は《宿命図》で最も広大な領域だ。《四大》の断片たる星々が特徴ある配列を作っており、個人個人の《四大》エーテル魔法の発動の状況を決定している。 《争乱星(ノワーズ)》相は、この中間層に現れる特徴的なパターンの配列であるが、表層を荒らす力が強く、バーサーク化する原因ともなる。

――深層は、上級占術によって読み取り、または『成就祈願(オマジナイ)』として干渉する領域だ。万物照応のレイヤーと言って良い。 健康運、恋愛運、金運といった各種の運命線の不可視の軌跡と、それに沿って刻々変動する星々の配置で出来ている。

*****

「そして、シルフィードの《宿命図》の状況を簡単に描くと、こうなります」

占術官は更に図解を変形した。天球儀の模型も同然に、無数の星々が散在している。神官では無いエメラルドには、どの星が重要な星なのかも分からない。

占術官は、瞬く間にボンヤリとした繭のような星々を選び、ラインでつないで、一つの星座のような構造体を描き出して見せた。 無数のラインで緻密に構成されているため、一見して歪みの無い、3次元の真球に見える。

「これが、シルフィードの中間層で、じきに爆発するであろう《争乱星(ノワーズ)》相です。 今は卵のような状態ですが、『バーサーク危険日』の到来と共に、大量のエーテルを吸い込んで爆発し、 中間層における明るい星々の相として定着すると共に、表層に出て来て荒れ狂う事になります。しかも、この通り断片どころか、ほぼ100%という完全形です」

エメラルドは目を凝らした。

魔法感覚を合わせてジックリと観察してみると、不思議な真球の各所で、四色のエーテルの光が、異様な躍動性をもってキラキラと点滅しているのが見える。 バーサーク化する時に、この四色のエーテルの光が、超新星も同然に、まばゆく輝く事になるらしい――

仮面の占術官は、こめかみを揉んでいる。仮面の下で、きつく眉根を寄せているのだろうと想像できる。

「普通は、このような繭(まゆ)状態の星々で《争乱星(ノワーズ)》相が形成される事はありません。 先天的に授かる《争乱星(ノワーズ)》は、最初から、中間層における、ハッキリとした星々の相として配置されている。 バーサーク毒による疑似的な《争乱星(ノワーズ)》は、後天的ではあるけど、やはり中間層における、現役の星々の相として分布します」

説明を聞いているうちに、エメラルドは、ボンヤリとした星々で構成された『真球の星座もどき』の構造体があるという事実そのものが、異常なのだと言う事が感じられて来た。

占術官の説明は続いた。口調に、苦さが混じっている。

「1つ下――深層における星々の異常変位が、中間層にこのような異形の相を作り出しているんです。 此処まで完全に構築されているのは珍しいですね。100%に近い確かさでバーサーク化する事が予想されます」

エメラルドは、思わず身を乗り出した。

「でも、私は今まで、《争乱星(ノワーズ)》を持っていると指摘された事はありません。大凶星の断片が10%でもあれば、 神殿隊士の入隊考査の段階で、不適格と判断された筈です」
「シルフィードは、神殿隊士なんですか。でしたら、これは間違い無く人工的にセットされた物です――上級占術を通じて」

エメラルドの脳裏で、不吉な想像が湧き上がり始めた。占術官は、仮面の奥で、気づかわし気な眼差しをしている。

「最近、上級魔法神官の誰かに、《宿命図》をチェックしてもらったと言うような事はありませんでしたか?」

そう問われたエメラルドは、慎重に記憶を掘り返した。

――ここ最近で、関わりのあった上級魔法神官は3人だ。《火》のライアス神官。《地》のウラニア女医。《水》のロドミール。 他には、下級魔法神官と言うのもあって少し微妙だが、技術的には、《風》のエルメス神官も候補になるだろう。

「医療院の女医。他には、――恋人に。今はちょっと問題があって……別離状態ですが。彼は上級魔法神官です。 私が大怪我していたので、傷の治りが早くなるように、健康運アップのオマジナイをしてくれた……」

占術官は「別離?」と呟き、仮面の奥で一瞬、眉根をひそめたようだった。再びエメラルドの手を取り、魔法の杖を光らせる。

「健康運の周辺に――確かにありますが。シルフィードの回復と共に、 星々の変位も正常な範囲に戻っている。過去の痕跡であって、バーサーク化には関与していない……」

占術官は、程なくしてエメラルドの《宿命図》の構造を飲み込んだらしく、更に透視魔法が続いた。 やがて、魔法の杖の仄かな白い輝きが、一瞬フラッシュに変化して閃き、エメラルドはギョッとした。

「さっきのフラッシュは、何ですか?」

占術官は、再びエメラルドの手を解放すると、疲れたような溜息を付いて椅子の背にもたれ、身体を沈めた。

「――シルフィード、此処だけの話ですが。異常変位は、恋愛運の領域の物のようです。 先程、星々の異常変位の解除を試みましたが……どうも《宝珠》相にまで食い込んでいるようで、解除は不可能でした。 あ、いや……《宝珠》そのものが原因なのか……?」
「どういう意味ですか、占術官?」

仮面の占術官は、やりきれない――と言った風に首を振った。

「多分、タイミングが最悪だった。くだんの恋人は、ただでさえ不安定な状態の《宿命図》の――それも心臓部に、 シルフィード本人の同意も無しに干渉したんでしょう。 シルフィードは、彼と、結婚を前提とした恋人関係を結んでいた。互いの《宝珠》の適合と調和のために、 仮の《魔法署名》を交わしていたのではありませんか?」

エメラルドは、うなづいた。占術官は、重々しく言葉を続けた。

「私の推測が正しいなら――彼は、シルフィードの《宝珠》に刻んであった、自分の《魔法署名》をこっそりと解消し、 更に恋愛運も操作しておく事で、別離、つまり恋人関係の自然解消を期していたに違いありません。上級占術が使えるからこその方法ですね。 『正式な手続き』ではありませんが、そうして関係を清算する――いつの間にか恋人関係から友人関係に戻る――という手続きがあるんです」

エメラルドは、ロドミールの性格を改めて思い直した。

――ロドミールには、確かにそういう行動をする所があるかも知れない。

『気を回す』とでも言うのだろうか――エメラルドの真剣な思いを察していたからこそ、『他に好きな人が出来た。別れよう』などと爆弾発言をして、 ただでさえ大怪我で弱っていたエメラルドに、更なるショックを与えたくない、と言うような。

「秘密裏に……とすれば、思い当たるのは、2回目に《宿命図》を見てもらった時……あの時は、 1回目の健康運のオマジナイの時よりも、ずっと長かったから……あの時、真昼の刻の鐘が鳴っていた――」

――それが、こうなったと言うのか。エメラルドは自嘲した。

「自分の何が、悪かったのでしょう? ――《宿命の人》同士じゃ無いのに、敢えて結婚を前提として、交際を続けた事……?」

仮面の占術官は、言うべき言葉が見つからないのか、無言でエメラルドの言葉に耳を傾けるのみである。

「彼が、別の女性とお話をしているのを見ました。直接的にではありませんけど。《宿命の人》同士だそうで、 とても良い雰囲気だった――関係を清算したいなら、このように、こっそりと罠にハメるような形ででは無く、直接、口で言ってくれたら良かった。 失恋確定という事になったら、その時は泣いたかも知れないけど……多分、 多少は未練がましく付きまとったかも知れないけど……綺麗に別れる事は、多分、できたと思いますから」

これは、怒りだろうか。それとも、悲しみだろうか。エメラルドは、やり場のない思いを込めて溜息をついた。

占術官は、相槌を打ちつつ呟いていた。

「男の方では、そう考えなかったのかも知れませんね。 シルフィードの気持ちは、それなりに真剣だったから――ストーカー行為のリスクも考え合わせて、こういう方法になったのでしょう。 それが、最悪のタイミングで起きたために、『バーサーク化の呪い』として発動してしまった。 この異形の卵は、瞬間的に発生した筈です。彼は――この卵を見て、相当に動転した筈ですが……」

占術官は、エメラルドの《宿命図》の図解に現れた《争乱星(ノワーズ)》の卵を改めて眺めていた。そして――やがて、仮面の下で顔をしかめたようだった。

5-5天秤の御名の下に

――時として、真相は、恐ろしく残酷だ。

かなり長い時間、エメラルドは落ち込んでいた。

仮面の占術官の方は、エメラルドがチラリと見た限りでは、深い思案に沈んでいるようだった。 占術官は、円卓の上の『水晶玉もどき』が投射する光の中に浮かび上がった、エメラルドの《宿命図》の図解を、しげしげと眺めている。

やがて占術官は、ふと思いついたと言った風に立ち上がり、応接室の奥の戸棚からティーセットを取り出して来た。

「紅茶はお好きですか、シルフィード?」

エメラルドは思わず、ボンヤリとうなづいていた。

*****

暫し、応接室に、馥郁たる紅茶の香りが漂った。

エメラルドはボンヤリと紅茶を一服し、取り留めも無い思いをアレコレと巡らせた。 そして、次第に感覚が戻って来た――という気分を覚えたのであった。

エメラルドは、手持ちのティーカップの底に薄く残った紅茶を、ジッと眺めた。あと一服で尽きる量だ。 『お代わり、要りますか?』という占術官の確認に、ゆっくりと首を振って、謝辞の意を示す。

エメラルドは、もう何度目になろうかと言う溜息を、もう1回ついて、ボソボソと呟いた。

「私は、このまま――この結果の《宿命図》の軌道のままに、生きていくしか無さそうですね」

――自力でバーサーク化を阻止する手段は無さそうだ。セレンディのように、強い《争乱星(ノワーズ)》持ちとしての生を覚悟するしか無い。 想像もしていなかったし望みもしなかった事だが、諦めて、現実を受け入れるべきなのだろう。

「――それは違う」

仮面の占術官の声音は、ほとんど憐れみそのものだったが、緊張を含んで硬い物になっていた。

「占術は、ある程度の道筋――可能性の輪郭を指し示すだけです。上級占術は……呪いもそうだけど、そもそも他人の道を捻じ曲げるための物では無い。 上級魔法神官だから、そう言う事が出来る力――権力があるからと言って、名を懸けた契約が関わる『正式な手続き』を省略して良い理由には、ならない」

この《風》の仮面の占術官は、普通の人なら目を背けてしまうであろう真実に対して、真摯に向き合っている。 上級魔法神官として失敗して、恥をかく事も厭わず、大凶星の解除を試みてくれたのだ――ロドミールの性格なら、多分しなかったであろう事だ。

――とは言え、ロドミールの『失敗は許されない、失敗する様を他人に見せる事は出来ない』という考えも、理解はできるのだ。 殊に、大陸公路の諸王国の間では、ロドミールは、竜王国の誇りを背負って行動する立場なのだから。

――エメラルドの《宿命図》に、《争乱星(ノワーズ)》の卵を発生させてしまったと言う事実に際しては、 事情説明もせず立ち去ってしまうと言う行動につながってしまった訳だが――

エメラルドは最後の一服をして、薄く微笑んだ。自分でも、惨めな表情になっているだろうと分かっているが、それでも笑むという事しか出来なかった。

「――『正式な手続き』を通さずとも問題は無いと言う事例は、実際に、あった訳でしょう」

切り返された形になった占術官は、暫し口を噤み、円卓の端に置いていた魔法の杖に視線を落とした。 無意識のクセなのか、口をきつく引き結び、顎に手を当てている。まさに考える人のポーズだ。

こういった異常な事態に対抗するための術は、やはり禁術や秘法といった領域に属するに違いない――エメラルドには、 占術官の頭の中で、あらゆる可能性が検討されているらしいという事が、うっすらと察知できた。

やがて占術官は、ゆっくりと面を上げた。薄い金色の唐草模様の入った白い仮面を透かして、エメラルドをジッと見つめて来るその目の色は、淡い琥珀色だ。

仮面の占術官の目の色は、『水晶玉もどき』の光の揺らめきが入ると、薄い金色に色を変える。エメラルドは、ふとセレンディの薄い金色の目を思い出した。

暫し間が入った後、占術官は口を開いた。穏やかだが、確信めいた口調だ。

「翌日、『バーサーク危険日』の到来と共に、100%に近い確かさで、シルフィードはバーサーク化する。 しかし、シルフィードは元来、好戦的な性格では無いし、過剰な暴力を良しとしない考えの持ち主でしょう。 心身の、病的なまでの異常なズレは、何者にとっても耐えがたい苦しみの筈です」

占術官は少し沈黙してエメラルドの《宿命図》の図解を眺めた後、魔法の杖を手に取って、円卓中央の『水晶玉もどき』をつついた。 投射光が収まり、中空に浮かんでいた複雑な図解は消えて行った。占術官は再び、言葉を続ける。

「シルフィードの《宿命図》が吸い込むエーテル量は、充分以上の物がありますね。 エーテル漏出が無駄に大きいタイプなので、魔法発動が上手くいかなくて、平均的な魔法パワーしか出ないようですが……この散乱の強さであれば……」

占術官の淡い琥珀色の眼差しは、エメラルドを真っ直ぐに見つめて来た。その眼差しは、異様に強い光を湛えている。

「一期一会の瞬間に――2つの軌道を、《星界天秤(アストライア)》の御名(みな)の下に――懸けてみませんか?」

――『天秤』。

エメラルドは無意識のうちに目を見開いていた。昨日、ユーリー司書が気にしていたキーワードだ。

占術官の説明は、次のような物だった。

――バーサーク化の呪いとして仕掛けられた《争乱星(ノワーズ)》の卵を、事前に解除する奥義が存在する。 大昔、神殿内部の抗争で『呪い合戦』のような事があって、その時に上級魔法神官の間で、奥義として確立した。

奥義――というのがポイントだ。それは、壮絶なまでに大量のエーテルを扱うのだ。

「基本的には、バーサーク化の瞬間、四方八方から体内の《宿命図》に流入して来る大容量エーテル流束に対して、 最大強度の《四大》エーテル魔法を、全方位でぶつける――と言う形になります。 《宿命の軌道》と《運命の軌道》が正面衝突する、その二重の衝撃で、卵となっている構造体を激しく揺さぶり、完全に破綻させる」

占術官の説明は続いた。エメラルドは、いつの間にか、息を詰めて耳を傾けていた。

「ただ《争乱星ノワーズ》の卵が、爆発のために呼び集めるエーテル量は膨大です。 そのエーテル量に匹敵する、ないしは上回る程の、エーテル魔法が発動できなければなりません」

流石にベテランの上級魔法神官と言うべきか――占術官の説明は、よどみない。

「竜体解除レベルのエーテル魔法では話になりません。上級魔法神官の中でも、それ程のエーテル量を扱える《器》となると限られてくる」

――《器》。

エメラルドは再び、目を見張った。ユーリー司書が、大図書館の資料を調べているうちに拾い上げてくれた、謎のキーワードだ。

占術官は、エメラルドの表情の変化に気付いた様子である。 エメラルドが上級魔法神官としての知識を持たない事に配慮したのであろう、占術官は《器》について追加説明をして来た。

「《器》と言うのは神官用語です。 その人の《宿命図》が内に溜めて変容する事の出来るエーテル量には個人差があり、その大小に関し、《器》と言っています。 魔法パワーの威力を決める基準とは違います。 強靭さと柔軟さの掛け合わせと言うか――変容幅の大きさと言うか――魔法使いとしての器量を決める要素です」

――どうやら《器》というのは、かなり込み入った概念であるらしい。

エメラルドの単純な思考では理解はしにくいものの、『単純なパワーアップ』と『高度化&ハイテク化』とが、全く異なっている事は分かる。 正確な理解では無いだろうが、だいたい、そういう事なのだろうと思える。

占術官は思案深げに息をつき、エメラルドを眺めて来た。白い仮面の角度が変化し、その仮面の唐草模様が、再び微かな金色にきらめいた。

「シルフィードと同じような、上級魔法神官としての力量や経験が無かったケースで、奥義に成功した人が1人しか居ないので、参考程度にしかなりませんが……」

占術官は一旦、席を立つと、応接室の奥にある別の戸棚から半透明のプレートを取り出して、戻って来た。 魔法の杖でプレートをつついて該当資料を呼び出し、占術官は説明を再開した。

「竜王都創建の時代から間も無い頃の事例です。 くだんの成功者は《地霊相》の人で、城壁維持に関する《橋梁魔法陣》……重量分散のための魔法陣を吹っ飛ばして、奥義の発動の媒体にしたそうです。 シルフィードの場合は《風霊相》なので、《転移魔法陣》を媒体に、奥義を発動すると言う方法になります」

占術官の説明が暫し途切れ、奇妙な沈黙が降りた。エメラルドは、息をするのも忘れて考え込んでいた。

「魔法陣を、大容量エーテル発散の道具として使う……と言うと、《四大》雷攻撃エクレール魔法で魔法陣を切り刻んで、 そこからエーテルを一気に噴出させるという事になりますか? ――雷電シーズン中の転移魔法陣の落雷事故に、そんな話がありますが……」

占術官は一瞬、仮面に覆われていない口元を、皮肉っぽく歪ませた。

「それでは、魔法陣に組み込まれていたエーテルが飛び散るだけで、《宿命図》に仕掛けられた卵の爆発は、阻止できません。 大型の魔法陣は、本人の《宿命図》に連結された大容量エーテルの貯蔵回路に過ぎない。エーテル魔法の発動は、あくまでも本人の《宿命図》が主役です」

ほんの一瞬だが、エメラルドの脳裏に、或る光景が浮かんだ。

いつだったか、前線となった見張り塔の戦いで、ラエリアン軍の魔法使いと対峙した時の光景だ。

竜体状態の神殿隊士に強い攻撃魔法を続けざまにお見舞いし、城壁まで吹っ飛ばして全身骨折させた魔法使いは、後ろに大勢のバックアップ部隊を引き連れていた。 あの魔法使いは、息を合わせたバックアップ部隊から充分な量のエーテル供給を受けて、強烈な攻撃魔法を続けざまに繰り出して来ていたのだ――

そして、この場合。

バックアップ部隊に相当するのが、膨大なエーテル量を溜め込む力のある、大型の魔法陣だ。

全方位・最大強度の《四大》攻撃魔法のターゲットが、バーサーク化エネルギーとして四方八方から流入して来る、大容量エーテル流束――

エメラルドの表情に理解の色を認めたのか、占術官は暫し沈黙し、エメラルドの様子を眺めて来た。 そして占術官は、ホッとしたようにうなづき、説明を続けた。

「――この奥義の発動は、結果として《宿命図》を書き換え、その人の運命を大きく変えて行きます。我々、上級魔法神官の間では、 通常の魔法(アルス)に対する上位概念として、この奥義に『アルス・マグナ』という名を割り当てています」

この世界には、天地万物の照応の原理がある事が知られている。《宿命図》は、それを図式化した物だ。 その天地万物の照応の原理そのものに干渉する奥義――大魔法なのだ。

宿命の凶星《争乱星(ノワーズ)》を動かし、《宿命図》を書き換える――運命を変える。

大いなる魔法(アルス)――

――アルス・マグナ。

エメラルドは少し首を傾げ、眉を寄せた。

「中小型の転移魔法陣の方が、エーテルが溢れやすい分、その現象が起こしやすい気がしますが……」

占術官は溜息をついた。

「残念ながら、大型の魔法陣でないと『アルス・マグナ』の衝撃に耐えられません。魔法陣そのものの《器》が違います。 大凶星たる《争乱星(ノワーズ)》のエネルギーを相殺するには、転移ハブ駅にあるような大型の転移魔法陣が必要になるでしょう。 それに……そもそも転移魔法陣は、こんな事のために作られてはいませんから、或る意味、非常識というか……想定外の使い方でしょうね」

――それでも。

エメラルドはスカーフの下で、歯を食いしばった。

それでも、一縷の望みが、無い訳では無い。

エメラルドは、大図書館で見い出した内容を思い返していた。

――《器》極大の場合は、バーサーク化しにくい――

――魔法(アルス)の結果と《器》との間には、相関関係がある――

このくらいの事ではバーサーク化しないと言う事を証明し、それゆえの未来をつかみ取るには、やるしか無いのだ。

自分が――己の《器》が、『アルス・マグナ』を起こせるかどうかだ。

「私、やってみます」

かなり長い間、占術官は無言のまま、円卓の傍で立ち尽くしていたが、やがて「そうですか」と溜息をついた。占術官なりに心配しているのは明らかであった。

「ではシルフィード、手を……両手とも」

エメラルドは疑問に思いながらも、素直に両手を差し出した。

占術官は、その上に魔法の杖をかざして来た。

エメラルドの両手の上で、一瞬、鏡がクルリと回って光を反射したかのような、複数の白いフラッシュが閃く。

「――え?」

不思議なフラッシュは、一瞬だった。フラッシュが走っていた空間の中に、今度は水晶玉のような透明な色合いとサイズをした、1つの球体の幻影が現れた。 見る間に、円卓の直径と同じくらいの大きさに膨らむ。

複数のフラッシュから合成された物だからだろうか、その幻の球体は微妙にユラユラと揺らいでおり、像が定まらない。

――まるで不確定性原理をイメージ化したかのようだ。

その透明な水晶玉のような球体の中に、魔法による幻影と思しき、白い天秤のイメージが浮かび上がった。どうも二重像らしいが、多重像にも見える。

占術官は、エメラルドの戸惑いと疑問には答えず、呪文のような言葉を紡ぎ続けていた。 仮面の上からでも、ギョッとする程の無表情をしているという雰囲気が窺える――この魔法は、凄まじい集中力を要求するのだ。

「……《星界天秤(アストライア)》の御名(みな)の下に――宿命は生を贈与して、運命は死を贈与する。 しかしこれら二つのものは、一つの命の軌道を辿る――」

見ているうちに、天秤の形をした幻影に変化が現れた。

片方の皿には、《宿命図》の図解で描かれていた《争乱星(ノワーズ)》の卵が乗せられた。 もう片方の皿には、暁星(エオス)と思しきラベンダー色に輝く球体が乗せられた。

暫くすると、不思議な天秤の幻影は砂時計の砂のようなサラサラとした感じの粒子のカタマリになり、遂には微細エーテル粒子となって、蒸発するように消えていった。

占術官は、エメラルドの両手の上にかざしていた魔法の杖を引っ込めた。

これで、《星界天秤(アストライア)》という名前の、不思議な魔法は仕上がったらしい。

――限界を遥かに超える体力を使うような、高難度の魔法だったようだ。

占術官は立ちくらみを起こしたかのようにグラリと傾ぎ、円卓の上に手を突いて身体を支えた。 その身体は激しい疲労のためか、震えている。うつむいた顔――その口から洩れる息遣いも、相当に長い間、乱れていた。

やがて――占術官は、ようやくの事で息を整え、説明を始めた。

「シルフィードに仕掛けられたバーサーク化の呪いは、翌日『バーサーク危険日』の夜明けと共に発動します。 夜明けを知らせる暁星(エオス)が、空で輝き出したら、『アルス・マグナ』発動のタイミング――同時に、タイムリミットと考えて下さい」

一期一会のチャンス――次は無い。究極の幸運とはそのような物だ。武官として、日ごろから戦いの場にあったエメラルドは、実感と共にシッカリとうなづいた。

仮面の占術官は、口元に柔らかな笑みを浮かべた。

「私からも、些少ですが《風》の加護を添えておきました。性質が《風》だけに気まぐれな物ですが、 上手くタイミングが合えば、『アルス・マグナ』の発動は、より効果的になると思います」

エメラルドは一瞬、目を見張った。

*****

「月並みな言い方しかできませんが――相談に乗って頂いて有難うございます。あと、加護の力添えも」

エメラルドは上級占術の相談を切り上げ、退去することにした。バーサーク化のタイムリミットが迫っているのだ。手をこまねいては居られない。

エメラルドは扉の前、所定の場に立つと、白い仮面をつけた占術官を真っ直ぐ見つめた。

「――呪いを仕掛ける方は、ホンのちょっと手を加えるだけで済むのに、 仕掛けられた側がそれをくつがえすには、相当に死に物狂いにならないといけないんですね。それは、不公平とは言いませんか?」

占術官の仮面の奥の眼差しは、穏やかだが強い光を湛えていた。

「運命は、なにぶん不確定性な物ばかりで分からない事が多いですが、それが運命の側からの――死を贈与する側からの、答えなのかも知れません。 我が身の生として贈与された宿命を、そこに現れた凶相を、本気で書き換えようとするなら、全力を尽くして対応してみろ――という事が」

エメラルドは無言でうなづいた。突風に備えて、スカーフをシッカリと手で押さえる。

占術官は、エメラルドの用意が済んだ事を確認すると、エメラルドの足元に転移魔法陣を展開した。

転移魔法陣は白く輝き、正確に作動した。白い柱が風音を立てて一巡した後、そこからエメラルドの姿は消えていた。

瞬きする程のわずかな間に、エメラルドは、『上級占術・匿名相談コーナー』のフロントとなっている場、 大天球儀(アストラルシア)が並ぶ地上階層のフロアに戻されていたのであった。

*****

――窓の外の光景は、既に夕方だった。

エメラルドが『上級占術・匿名相談コーナー』の棟を出て、少し経った頃。

担当の占術官は、深い溜息を付いて、白い仮面を外した。仮面から出て来たのは――《風》のエレン神官だ。淡いアッシュグリーンの髪、薄い琥珀色の目。

エレン神官は、強い危機感を感じると共に、苦い思いを抑えられない。

――上級魔法神官の間で、越権行為が、余りにも軽々しく扱われている。

仮にも上級魔法神官たる者が、このような類の些細な問題で――しかも、 新しい恋を始める際、今までの恋人との契約関係を秘密裏に解消する必要が生じた、ただ、それだけの理由で――非常時にしか認められない越権行為に、手を染めるとは。

《神龍》を中心とする神殿政治において、上級魔法神官は、『上級占術』を通じて人々の運命を変えると言う、ほとんど神にも等しい、独裁的な権力を認められている。

絶対的権力は、確かに判断基準をおかしくするようだ。権力に、酔い始めたという事か。

――権力は腐敗する、絶対的権力は絶対に腐敗する――

エレン神官の中で、いつだったかのゴルディス卿の警鐘が、いっそう重みを増していた。

5-6宵闇の中の行き違い

落日の刻だ。辺りは既に薄暮に包まれている。

エメラルドは『上級占術・匿名相談コーナー』のフロントを出ると、人目に付かない道を駆けて行き、医療院の個室に戻った。 道々、我が身のタイムリミットである翌日『バーサーク危険日』の到来までに、何を済ませておかなければならないか、素早く整理する。

エメラルドは個室に入るなり、首元を覆っていたチョーカーのような魔法道具――竜体変身を禁ずる拘束具を引きちぎった。

――『上級占術・匿名相談コーナー』では、想像以上の示唆を得られた。それに一縷の望みも。

同時に、仮面の占術官の言葉も思い出されて来る。

――この奥義の発動は、結果として《宿命図》を書き換え、その人の運命を大きく変えて行きます。 我々、上級魔法神官の間では、通常の魔法(アルス)に対する上位概念として、この奥義に『アルス・マグナ』という名を割り当てています――

エメラルドは夕食を早めに済ませると、ベッド脇の長持のフタを開いた。 退院後の任務に備えて、新しく支給されていた武官服を収めてある。神殿隊士の制服でもある、白い武官服だ。

久々に――いつものように髪留めで長い髪をキッチリとしたアップにまとめ、武官服に袖を通した。 着慣れた物という事もあり、これがやはり、一番落ち着く。

その布地はビーズのように細かい竜鱗で出来ており、魔法で出来た鎖帷子のようなものだ。 軽さに対して、その頑丈さは驚くべきレベルであり、同類のドラゴン・ブレスやバーサークの有刺鉄線のような鱗からも、 或る程度、防衛してくれる。自前の竜体に由来する鱗や皮もかなり頑丈な方だが、二重化すると、防衛力はやはり違うのである。

出で立ちの準備が整うと、エメラルドは、道々整理しておいた必要事項や確認事項を、次々に済ませて行った。

*****

夜がトップリと暮れた頃。

ロドミールと同僚は、ウラニア女医の隠密捜査の一環でもある、詳細なチェック作業から解放された。

――貴君らは偶然にも、闇ギルドの通信システムの要素として使い回されていたらしい、 明日も色々調べなければならないので、是非ご協力を――という要請、いや、命令と共に。

知らず知らずのうちに、良からぬ事を企む誰かに付け狙われていたらしい――という状況は、流石に不気味である。

ロドミールは、剥き出しになった遠隔通信装置の基盤を何度も見直した。魔物の血管の如き、四色の迷彩で出来た不気味な魔法陣。 その上に、研修医スタッフたちの手によって、通信傍受のための隠密スタイルの魔法陣が仕掛けられている。

――これからは、通信を全て、ウラニア女医が率いる隠密調査チームに記録される事になるのだ。

ロドミールは、不意にハッとした。

――という事は、エメラルドからの遠隔通信も、全て傍受されるという事だ。そして、そのデータは大神官たちに回り、そして、大神官長たちも閲覧する事になる。

ロドミールは焦った。

エメラルドは、まだ《宝珠》に起きた変化の影響を受けていない。こういう心理関係の変化は、一朝一夕には進まないのだ。

こんなにも想定外の事態が急速に進むとは思っていなかった。エメラルドとの通信内容の如何によっては、恋人関係がまだ清算し切れていない事を、立証してしまう。 しかも、《水》の大神官長ミローシュ猊下やティベリア嬢には、『エメラルドとの間に恋人関係は無い』と公言してしまっている――

――エメラルドは何と言っていた?

『最近、悪い夢を毎晩見るようになって、眠れてないから――と言うよりは、睡眠薬で寝てる状態だから……』

ロドミールの中で、ごくごく小さな『引っ掛かり』に過ぎなかった物が、急速に膨れ上がって行く。

――あの日。真昼の刻の鐘が、荘厳に鳴り響いた日。

気のせいだ――と、思ったのだ。思い込もうとしたのだ。 エメラルドの《宝珠》相に巻き付いていた自分の魔法署名を解き、それによってランダムに振動し始めた恋愛運の軌跡を調整し――その瞬間。

心臓部という位置に相応しく、《宝珠》は極めて原初的かつ堅牢な構造体であり、猛烈な速度でスピンしているのだ。 魔法署名はバラバラの断片になって飛び散り、一部は《宝珠》に不完全に引っ掛かったまま、巻き込まれてしまった。

恋愛運の軌跡が、不安定になった《宝珠》の回転に引きずられて、大きく跳ね狂った。

慌てて抑え込もうとしたが、間に合わなかった。 跳ね狂った軌跡は瞬く間に無数のエーテル流束を放ち、《宿命図》の中間層にボンヤリとした繭のような星々を配置し、『或る形相』を結んだ――

――禍々しい可能性の「卵」を。

ただし、あの時に見た限りでは、粗雑で脆い構造体に過ぎなかった。 エメラルドが元気になってから、解除なり修正なり対応すれば、間に合うだろう、と思える程度には。

(今なら、まだ間に合う筈だ。『バーサーク危険日』は、まだ到来していない。 魔法署名を上手く解除できなかったのが原因だから――ちゃんと事情を話して、同意の下で、『正式な手続き』で解除し直せば――)

ロドミールは口元を引き締め、座っていた椅子から立ち上がった。 隣でグッタリとしながら遅い夕食を取っていた同僚が、ビックリしてロドミールを振り向く。

「何だ、ロドミール? 神殿街区の外へは出ちゃいかんって言われただろ。転移魔法陣も、行き先申告制の小型の物だけって事で」
「街区の外には出ないから大丈夫だ。医療院にちょっと行って来るから」
「エメラルド隊士の所か。彼女、意外に綺麗な声してるんだな。意外に美人でもあるんだろう、うらやましい。 暫く大変だから会えないって程度なら大丈夫だろうが、アレコレ喋るなよ。ウラニア女医は情報漏洩については、ピリピリしてんだから」
「分かってる」

*****

ロドミールは神殿のゲートを出て、夜のメインストリートを走った。

――転移魔法陣を経由しない状態では、時間が掛かりまくって、しょうが無い!

門前街区の高級プロムナードは、いつものように夜間営業中の店が色とりどりの華やかな常灯と看板を出している。 昼の仕事を終えて、夜の街に息抜きに繰り出した人々で一杯だ。歩行者天国ならではの雑踏である。

中央部にある高級レストランの辺りで雑踏の密度が最高潮になった。 この時期の定例交渉プロジェクトの打ち上げなのか、神殿勤務の役人たちと平原エリアの役人たちが高級レストランのゲートに集まって、 予約席が空くまで待機していたのだ。そして何やら、盛んに雑談を交わしている。

「――でさ、その折り畳みプレートにあった『バーサーク危険日』注意報、わずか1週間後って事にショックを受けたのか、 青ざめてサーッと行っちゃったんだよね、そのシルフィード」
「シェルリナ嬢の代理だったのかい、本当に? 御本尊が大金を積んで、探偵や魔法使いたちにその謎のシルフィードを探させてるけど、 知り合いの《風》女官の中にはおろか、平原エリアの令夫人と令嬢たちの中にも居なかったし、1週間経っても見付からないんだろ? 逃げ足の達者なスパイだったんじゃ無いのか」
「それは無い無い。スパイだったのなら、御本尊の到着と同時に姿をくらますってのが、まず有り得ない。 御本尊の方が、完全無視されてショックを受けてたくらいだからな」
「まさに事実は小説よりも……って所だね。新しい紅茶メニュー『暁星(エオス)』を知ってたって事は、ここ最近の客に違いないんだろうが、 店スタッフ全員、口を揃えて『全く記憶に御座いません』って、どんだけよ」

一時的にではあるが、高級プロムナードの雑踏に阻まれていたロドミールは、その雑談を小耳に挟む形になった。

良家の令嬢と思しき竜人女性が1人、錯乱して行方不明になったらしい。 こちらも注意が要る案件だが――警備担当に通報するように促すのは後回しだ。今は、エメラルドの問題の方が最優先だ。

――ティベリア嬢との事を、ちゃんと説明して、エメラルドとの恋人関係を清算しよう。

元々そのつもりで、『上級占術・匿名相談コーナー』のチケットを入手していたんだし、最初から話し合えば良かったんだ。

偶然にも、今の同僚とエメラルドとの《宝珠》の相性は良い感じだ。 もし嫌じゃ無ければ、同僚と一緒に『上級占術・匿名相談コーナー』に行ってみてはどうか、という事も含めて――

――そう言えば、今日がチケットの割り当て指定日だった。執務室の遠隔通信セットが乗っ取られていたのも想定外だった。 あんなタイミングで、ウラニア女医と隠密調査チームが介入して来なければ、今頃は――

雑踏を抜けたロドミールは、心の中こそ千々に乱れていたものの――その後は、スムーズに医療院のゲートに到着できたのであった。

ロドミールはエメラルドの個室をノックした。

いつものエメラルドからの応答が無い。部外者に対する開錠魔法陣が扉に飛んで来たと言う気配も無い。 ロドミールは疑問符を頭の上に浮かべつつ、扉に手を掛けた。

扉は難なく動いた――ロックが掛かっていないのだ。

――様子がおかしい。

ロドミールは息を呑みつつ、エメラルドの個室に踏み込んだ。

正方形のベッドは、空っぽだ。だが、長持は消えていない。ストリートの、夜間営業中の店にでも行っているのか――

夜目が利く竜人としてのロドミールの目は、ベッドの上に驚くべき物を見い出した。

引きちぎられた、チョーカー。竜体変身を禁ずる拘束具だ。その近くで、微かな光をキラリと反射する物があった。

――エメラルド色の鱗だ。

ロドミールは、信じられない思いで、その鱗のカケラを拾い上げた。

――バーサーク体特有の、有棘性の鱗。

まだエーテル成分が通っている。この鱗は、剥がされてから間もない、真新しい物だ。 恐らく、拘束具を引きちぎった時に、偶然に、勢いで剥がれ落ちたものに違いない。

鱗の持ち主であるエメラルドの異変に合わせて、鱗も変化したのだろう――その鱗は正常な物の面影を留めていたが、 バーサーク化の前駆症状をハッキリと示していた。異形の棘が、確かに生えかけている。

――まさか。

ロドミールは、焦りのままに医療院のゲートを飛び出した。最寄りの行き先申告制の転移魔法陣を発動し、 エメラルドの馬が預けられている筈の、クラウン・トカゲの厩舎に転移する。

厩舎ゲートの前で、エメラルドから教えられた、その相棒を呼ぶための魔法の『笛』を吹く。 エメラルドの恋人であるロドミールの呼び出しにも、クラウン・トカゲは反応するのだが――

――来ない。

近くに居たクラウン・トカゲたちが物珍しそうにロドミールの身体に鼻を寄せ、ヒクヒクさせた。上級魔法神官というのは、やはり珍しい存在なのである。 そのうちの数匹が、つぶらな目を不思議そうにパチパチさせ、『その子は居ないよ』と言わんばかりに、頭頂部のフッサフサをフルフルと振って来る。

――エメラルドは、相棒のクラウン・トカゲと共に消えた。

こんな時間帯に消えるという事は、趣味としている城壁ハイウェイの朝駆けどころでは無い。 幾つもの魔境を突っ切って――何処か遠くへ移動しているのだ!

(エメラルドは、自分がバーサーク化するという事を知らないんだ! 私が、 ちゃんと言わなかったから! よりによって、『バーサーク危険日』は明日の夜明けだ――彼女がバーサーク化するのを、何としてでも止めなければ!)

ロドミールはショックで青ざめながらも、警備担当の部隊の一つ、『バーサーク捕獲部隊』に緊急通報をした。

――神殿隊士1名、行方不明。バーサーク化の可能性あり。払暁の刻までに捕獲し、拘束具を付けるべし。

*****

その頃――

山の頂上に広がる神殿街区を出奔したエメラルドは、魔境を幾つも駆け抜け、回廊街区を猛スピードで降下して行くところであった。既に8合目の辺りだ。

目的地は、大陸公路と連結する平原エリア。そこに点在する大型の転移ハブ駅――すなわち、大型の転移基地だ。

背筋に、ゾワゾワとした嫌な感覚が広がり始めている。『バーサーク危険日』のタイムリミットが押し迫って来ている事を証するかのように。

――そんなエメラルドの道連れは、エメラルドの良き相棒であり続けたクラウン・トカゲである。

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