深森の帝國§総目次 §物語ノ傍流 〉暁闇剣舞姫2

天球のアストラルシア―暁闇剣舞姫―(2)

◆Part.2「行き行きて、その時」
2-1.神殿付属医療院「医の聖杯」
2-2.宿命の凶星《争乱星》
2-3.宵闇の中の群像
2-4.神殿に集える者たち
2-5.待ち人、今ひとたび
2-6.幕間…『魔法の杖』概論

2-1神殿付属医療院「医の聖杯」

対バーサーク竜の作戦が終了したとあって、広場は解放され、瞬く間に人が集まって来た。

バーサーク竜の発生の一報を受けて被害状況の視察に駆け付けた街区役所の担当スタッフは勿論、竜王都の街角広報『風の噂』や『井戸端会議』を名乗る野次馬も。

ひと山の灰塵と化した自分の屋台店や荷車(リヤカー)店を見い出し、ショックで騒ぐ店主も居るが、たいていは立ち直りが早い。 中には商魂たくましく、いずれ街区役所から支給されるであろう『バーサーク災害見舞金』の額を予測計算し、先行取引を始めた人も居る。

新人の神殿隊士が、魔法の杖を持って駆け回り始めた。 バーサーク竜やエメラルド竜から剥がれ落ちた多数の鱗の表面を、《火》魔法で焼いて毒性を弱め、あらかじめ用意した鱗専用の焼却処理袋に入れていく。

正常な鱗は焼却の必要が無いのだが、バーサーク竜の鱗やバーサーク毒に侵された鱗は毒を持つので、最終処分に回す前に、安全に焼却処理しておかなければならない。

一般的に、武官による処理作業は、その場しのぎのレベルに留まる。時間も技術も限られるからだ。 本格的な作業は、それを専門とするプロの魔法職人(アルチザン)の手に任される事になる。

広場の各所に、バーサーク毒に汚染された血痕が散らばっている。汚染された血痕は《水》魔法で洗浄され、歪んだ石畳は《地》魔法で修復されたが、 これについても、本格的な部分は魔法職人が担当する事になっており、『立ち入り禁止』を示すバリケードによって囲われていった。

無残になった街路樹は、造園業を専門とする魔法職人によって癒されるだろう。 造園業が専門の魔法職人は、城壁の外に並ぶ退魔樹林の維持管理にも、公務として関わっている(城壁の外に出る時は、武官が護衛に付く)。

瓦礫の撤去に関しては、ドラゴン・パワーの出番だ。 人体より一回り大きいサイズの幾つかの竜体が、ビックリするような大きな瓦礫を竜の口でガッチリとくわえ、 或いは竜の手でむんずとつかみ、広場を忙しく往復し始めた。

こういった土木工事の類の作業は、竜人がまだ人体変身の能力を得ていなかった超古代の頃、 普通のドラゴンとして、岩山や峡谷に洞穴を掘って生活していた時代からの十八番(おはこ)である。

*****

――バーサーク傷を負ったエメラルド。バーサーク状態で出産を済ませたばかり、なおかつ片脚が折れ曲がっている状態の女武官。 2人とも高度な治療を必要とする事態であり、担架に乗せられたまま、幾つかの転移魔法陣を経由して、神殿付属の医療院に緊急搬送された。

神殿付属の門前街区、そのメインストリートにある医療院は、「医の聖杯」と呼ばれている。 その名の通り、その正面玄関を成す堂々とした魔法建材のアーチの両柱に、大陸公路共通のマーク――「医の聖杯」のシンボルが刻まれているのだ。

「医の聖杯」は、基本的には、対になった陰陽の幾何学的な杯を上下に連ねたデザインだ。その周囲を、陰陽の幾何学的螺旋が取り巻いている。 万物の循環と照応、そして均衡を同時に象徴する事を意図したシンボルとなっている。

神殿付属の医療院の救急外来は、一般的な街区の医療局に比べると非常に充実している方だ。

しかし今や、救急処置用のベッドの数が足りなくなった――という状態である。 広場で展開した対バーサーク捕獲作戦で重傷を負った他のベテラン神殿隊士や下級魔法神官、それに巻き添えを食った一般の重傷者も一緒に運び込まれたためだ。

かくして、赤い卵を抱きかかえたままの黒髪の女武官と、ボロボロのエメラルドは、偶然ながら同じベッドを共有する事になったのである。

翼の生えた竜体にも対応できるような正方形のベッドであるため、人体状態の2人は、並んで横たわる事が出来た。 この正方形のベッドは、竜人共通の標準的なサイズである。

ちなみに、図体のでかすぎる大物クラス竜体の場合は、 この竜人共通の標準的なサイズのベッドに収まるためには人体状態で無ければならないので、その辺りは、むしろ制約は大きい。 睡眠中に、無意識のうちに竜体変身をやってしまうと大変なので、 普段の生活でも、あらかじめ竜体解除の魔法陣がセットされたシーツをベッドに敷いて寝るのが決まりである (そして勿論、寝相が悪すぎる場合は、竜体変身を禁ずる拘束具で対応するのだ)。

数人の女性スタッフの手を通過して、2人の女武官は裸にされ、全身を清められ、傷を縫われた。

今は2人とも、既に患者服をまとっている状態だ。一般服や武官服とは違い、喉元の逆鱗が剥き出しになるデザイン――袖なしVネックの貫頭衣である。 首回りがスースーして落ち着かないが、非常事態なのだから致し方ない。

なお、バーサーク化していた黒髪の女武官の方は、再びの予期せぬ竜体変身、及びそれに伴うバーサーク化を防ぐため、 チョーカーの形をした特殊な拘束具を装着したままである。

*****

物理的な救急処置が済んだ2人の女武官は、正方形のベッドに並んで乗せられたまま、高度治療室へと運ばれて行った。

高度治療室は、特別に仕切られた部屋となっていた。

一般的な救急処置室より狭いが、壁の表面や戸棚の中には、高度治療用の不思議な魔法道具が幾つも掛かっている。 最も目立つのが、「医の聖杯」を刻んだ青い円盤装置だ。大皿と同じくらいのサイズである。

エメラルドに対する高度治療は、《宿命図》エーテル状態を汚染するバーサーク毒を抜く事が中心となる。

バーサーク化した竜人が何度もバーサーク化するのは、全身にバーサーク毒が定着するのみならず、 《宿命図》の近くにまでバーサーク毒が食い込み、『バーサーク危険日』ごとに活性化して《宿命図》エーテルの様相を激しくかき乱すからだ。 《宿命図》エーテル魔法――変身魔法が不安定になり、心身ともに暴走しやすくなるのである。

まさに《宿命図》は、竜人の運命の全てを決める根源パーツなのだ(大陸公路の他種族でも事情は共通している)。

《火》のライアス神官の立ち合いの下、2人の女武官の担当となった女医「《地》のウラニア」が、ベッド脇に陣取る。 周囲には、研修医であろう男女スタッフたちが控えていた。

ウラニア女医は、武官養成コースの鬼教官のような、いかめしい顔立ちをしている。 もう中高年と言って良い世代のベテラン女医であり、灰色の鋭い眼差しも相まって、近づきがたい雰囲気だ。 しかし、半分ほど白髪が混ざった髪をキッチリと髪留めでまとめており、エメラルドは何となく親近感を覚えた。

ウラニア女医は魔法(アルス)の杖を振り、何度見直してみても分からないような、難解なパターンを持つ3次元立体の青い魔法陣を、幾つも空中に描いて行った。 ウラニア女医は、上級魔法神官の神官服を身に着けている――ベテランの上級魔法神官でもあるのだ。熟練された動作は、舞手の流麗な演技を思わせる。

3次元立体の青い魔法陣は、いずれもバーサーク毒を抜くための魔法陣である。 多数の青い魔法陣は、白色の光を放って無数の青い粉末に変化し、エメラルドの全身に降り注いだ。

エメラルドの全身に毒抜きの魔法が行き渡ると、1回目の救急処置としての物理的な洗浄では取り切れなかったバーサーク毒が、 既に縫われている状態の傷口から、魔法陣の力に包まれた青い液体となって、にじみ出て来る。

ウラニア女医は、エメラルドの全身の傷口から出て来た青い液体を、消毒済みの布で手際よく拭き取ると、 脇にあった処理袋にテキパキと封印して行った。スタッフの1人が訳知り顔で、その処理袋を何処かへ持って行く。

女医は続けて、ベッドの枕元に置かれた「医の聖杯」が刻まれた青い円盤の上で、魔法の杖を振った。 女医の魔法の杖の動きに応じて、濃いペリドット色をした2本のエーテル流束が、引き出されて来る。

宝石のようにきらめく2本のエーテル流束は、輸血管さながらに、エメラルドの左右の腕に挿入された。

ウラニア女医は、バーサーク傷を負った隊士を何人も治療して来たのであろう、手慣れた様子でテキパキと説明を付け加えて来た。

「エーテル補給を応用した高度治療です。《宿命図》のエーテル循環を加速して、この装置を通じて全身のバーサーク毒を急速排出しています。 エメラルド隊士の竜体サイズだと、バーサーク毒は3日目の辺りで急に痛みが消える見込みだけど、 同時に《宿命図》の中の星々の相として定着してしまいますからね。 完全に排出できる訳では無いから、後ほど、そうね、1週間くらい後で、改めてバーサーク毒の残留状態を検査しますよ」

ウラニア女医は一旦、言葉を切った。暫く首を傾げて思案した後、再び説明を続ける。

「エメラルド隊士の場合は、いささか珍しいケースになります。 1ヶ月ほどは医療院に観察入院という事になるけど、傷が塞がり次第、頃合いを見て外出許可を出しておきましょう。 次の『バーサーク危険日』に備えて、竜体変身を禁じる拘束具が必要になるレベルかどうかも、判断しておく必要がありますから」

エメラルドは、了解の印に瞬いて見せた。全身の激痛がひどく、うなづいて見せると言う身振りすら出来ない。 しかし、青い円盤に刻まれた「医の聖杯」が回転すると共に、全身の激痛は急に緩和し始めた。 体内に侵入したバーサーク毒が、どんどん抜けているのだ。このペースでいけば、翌日には我慢して動ける状態くらいには回復できそうだ。

隣に横たわっていた黒髪の女武官は、「そんなやり方があるのね」と興味深そうな顔をしている。 実際この青い円盤を使った治療法は、まだ新しく登場したばかりで、巷の街区に普及しているものでは無いという状態だ。

やがて、ライアス神官とウラニア女医の指示に従い、研修医スタッフたちは高度治療室を退出して行った。

入れ替わりに、半透明のプレートを脇に抱えた青年が1人やって来た。

青年は魔法の杖を振り、再び閉まった扉の面に、複雑な魔法陣を設置した。 魔法陣パターンの上で白いエーテル流束が輝いており、その周囲は、隠密スタイルを示すランダムな四色パターンで縁取られている。

――《風》魔法の一種、『防音魔法陣』だ。しかも、最高レベルの秘密保護が入っている。

この部屋全体が、機密会議室と同じレベルの部屋になったのだと分かる。

治療タイムは終わり、事情聴取タイムが始まったのだ。

2-2宿命の凶星《争乱星》

ライアス神官は、今までバーサーク状態だった黒髪の女武官に、改めてワインレッド色の穏やかな目を向けた。

「貴殿は非常に協力的なようだ、プロセルピナ。名前は?」
「元・王宮隊士、今はラエリアン軍に属する突撃隊を務める《地》のセレンディです」

――ちなみに『プロセルピナ』は、《地霊相》生まれの不特定多数の女性全員に対する呼称である。 《地霊相》生まれの不特定多数の男性であれば、『プルート』になる。

「セレンディ隊士の《宿命図》をチェックさせてもらうよ」

ライアス神官はセレンディの脇に立つと、セレンディの片手を取り、手の平を通じて《宿命図》を透視し始めた。

手相を読むようにして《宿命図》を透視する――神官のみが習得している特別な占術であり、《神祇占術》と呼ばれている。 《宿命図》という、まさしく天神地祇の領域を占い、裏読みするのだ。故に《神祇占術》だ。

ライアス神官は、もう一方の手で、ロウソクを持っている時のように魔法の杖を立てて持っていた。 その魔法の杖の先端部の円環体の中心部には、まさしくロウソクの炎のように、チラチラと赤く揺らめく光がある。

――魔法の源となるエーテルを効率よく扱えるようにするため、神官の魔法の杖の先端部には、円環体が付く事が多い。 古い時代の魔法の杖は、作成技術が未熟だった事もあって、特別な宝石が仕込まれたデザインが一般的だったものである。

ライアス神官の脇には、先ほど扉に防音魔法陣を設置していた青年が控えていた。 持ち込んで来た半透明の魔法素材のプレートに、ペン程の大きさにした魔法の杖で記録を取っている。 下級魔法神官だ。神官服の独特の装飾は、上級魔法神官ほど目立つ物では無いが、その白い鱗紋様で《風霊相》生まれの者と知れる。 成体になるかならないかという青年は、ライアス神官の弟子にして助手らしいと予想できる。

ライアス神官は、やがてハッとしたように目を見開いた。

「セレンディ隊士は《争乱星(ノワーズ)》持ちなのか? 元々バーサーク化しやすい性質。 《宿命図》の星々に、強い屈折の相と共に、乱反射の相がある――バーサーク化の確率は、60%から70%という所か……」

宿命の凶星――《争乱星(ノワーズ)》。

エメラルドは息を呑んだ。

――竜人の中にも、元々暴発しやすいタイプはある。 暴発した時の自らのドラゴン・パワーの大きさに酔い、欲望のままに身を持ち崩して闇ギルドの者となるのも多い。 そうした粗暴なタイプの《宿命図》に多いと聞かれる、代表的な凶相だ。

後方に退いて耳を傾けていたウラニア女医が、ギョッとしたような顔をした。

「50%超えで、今まで一度もバーサーク化しなかったのは長い方だ」

――というような事を呟いている。

セレンディは、薄い金色の目を笑みの形に細めた。ライアス神官の占術の能力に感嘆している様子だ。

「先天性の《争乱星(ノワーズ)》相です、《火》の神官どの。 残念ながら、強い《争乱星(ノワーズ)》が関わるバーサーク化は、手遅れになった重度のバーサーク傷と同じように、 高度治療では解決できないそうですね。一度バーサーク化したら、その後は、もう拘束具で抑えるしか無いとか……」

ライアス神官は苦い顔をして、ゆっくりとうなづいた。間を置いて、セレンディの説明が再開した。

「元々《四大》エーテル魔法の発動パワーは充分だったのですが、《争乱星(ノワーズ)》のせいで暴発しやすくて、 神官や魔法使いになるのは無理だと言われました。攻撃魔法を多く扱う武官としてなら生計を立てる事が出来ますし、 どの分野の魔法職人を目指すのが良いか、時間を掛けて探す事も出来ましたので」

エメラルドは、その内容に納得しきりだった。セレンディが発動していた《四大》エーテル魔法は、そのパワーが桁違いだったのだ。

武官は、その職業の特性上、文官よりも定年が早い。退官後の生活を考えると、収入が安定しやすい各種の魔法職人がベストだ。 武官として身に着けた特殊技能を生かす事も出来る。魔法の熟練度を高める事を兼ねて、 武官を選ぶというのは妥当かつ賢い選択だ――エメラルドも武官の一人として、そういう将来図を描いている所だ。

――ライアス神官は、更に質問を重ねた。 武官を目指す前、そして武官になった後の経歴。セレンディはエメラルドより少し年上に属する世代なのだが、 その経歴は、エメラルドや他の武官の経歴と似たり寄ったりであった。

半年に一度の王宮隊士の武闘会がある。そこでセレンディは次第に、近衛兵と同じレベルの上位に食い込む常連となり、「剣舞姫(けんばいき)」の称号を得たと言う。 憧れの近衛兵に配属されるかと思いきや、竜王都争乱がスタートし、急遽、ラエリアン卿の軍隊に配属される事になったのだ。

「私の夫は、元は私の幼馴染で、我が唯一の《宿命の人》でした。 大凶星の相にも関わらず、今まで一度もバーサーク化しなかったのは、夫のお蔭で――神官なら、理屈はご存知ですね」

セレンディの言葉に、ライアス神官は相槌を打って見せた。

――ライアス神官の質問の内容は、次第に核心に近づいて行く。

「既に理解している事と思うが、『バーサーク危険日』では無い日に、セレンディ隊士はバーサーク化した。 その気が無かったにも関わらずだ。何故そんな事が起きたのか、我々は知らなければならない。最近の生活状況について説明してくれたまえ」

セレンディは、赤い卵を胸の上で抱え直した。頭の中で内容をまとめ始めたのであろう、目があちこち彷徨い始める。

エメラルドは聞き耳を立てた。勿論、ウラニア女医も注目している。

セレンディは、ポツポツと語り出した。

「半年以上前になります――軍規に基づいて出産休暇を申請しましたが、こんな世相です。 ラエリアン卿の下でも隊士の人手不足が深刻になっている上に、 元々《争乱星(ノワーズ)》持ちという事もあって出産の許可は出ず、早期の堕胎を指示されました」

忌むべき大凶星――《争乱星(ノワーズ)》の相を持つセレンディには、出産する資格すら無いのか。 もっと弱小な、武官にすらなれない程の貧弱な竜体であれば、バーサーク化する程のパワーは無く、問題は無かったであろう。 バーサーク化しにくい大物クラス竜体でも、同じように問題は無い。

――普通の生を全うしようと努力を続けて来た結果、たまたま、最悪の条件が成就してしまった。 運が悪かった――或いは、巡り合わせが悪かった。言ってみれば、それだけの事だ。

臨月の時期のバーサーク化のリスクについては、充分に承知はしていた。 『バーサーク危険日』と出産日が重なれば、100%に近い確率でバーサーク化するであろうと言う、 《宿命図》が描く未来予想図の確かさについても、充分に理解はしていた物の――

セレンディは、《宿命図》に沿って自動的に決定された内容に、どうしても納得がいかなかった。

悩んだ末、セレンディは上官の指示通り堕胎したと言う事にして、こっそりと卵を抱え続けた。 もしかしたら、もしかすれば、『バーサーク危険日』では無い日に、穏やかな出産日を迎えられるかも知れないでは無いか。 《宿命の人》たる夫が、自分のバーサーク化を抑え続けていてくれたように。

「臨月に入ると、前線任務が体力の限界を超えるようになりました。 上官の指示に違反したと言う事が分かれば、軍規にのっとって全財産没収の上、追放される。 ですから、体力回復剤に頼りました。そうですね……最近は1日にボトル5本、服用していました。武官向けの標準支給の品で、最高濃度の物を」

ウラニア女医が、「感心できない」と言う風に眉根をしかめて首を振った。

「信じがたい乱用レベルね。男性の竜体であっても、その服用パターンは問題外ですよ」

セレンディは少し首をすくめた後、再び説明を続けた。

「臨月に入れば、卵との胎内リンクが切れるから、子供は薬物の影響は受けなくなると本で読みました。 子供が大丈夫なら――それに幸い、『バーサーク危険日』では無い日に予兆があって。 最初の陣痛の予兆が、あんなにキツイとは思わなかった。 今日の前線で、突撃作戦に掛かる少し前に、前もって……痛み止めを飲んで……」

そこで、セレンディは気まずそうな顔になって口ごもった。ライアス神官がピクリと眉を跳ね上げた。

「――どの種類の痛み止めを? どれくらいの量を?」

セレンディは、ますます首を縮めた。胸の上で抱きしめている赤い卵と同じくらい、頬が赤く染まっている。

「その……余り覚えてないけど、 激戦区エリアの近所に『よろず何とか』という、ドラッグ類も扱っている総合商店があって……《地霊相》向けだという、 黒い帯が付いたボトルを、10本くらい。竜体のままだったから……」

ライアス神官は怖い顔をして、脇に控えていた青年助手の方を振り返った。

「エルメス君、確か激戦区――あの廃墟ストリートに近い場所で営業中の、 不自然に勇気と善意に満ち溢れた総合商店『よろず★ハイパー☆ミラクル屋』は、 『疑惑』の対象だったな? 闇ギルドの違法ドラッグも一緒に扱っていると言う噂がある、いわく付きの」

エルメスと呼ばれた《風》の下級魔法神官は、口を引きつらせていた。

「黒い帯が2本入っているボトルなら、違法ドラッグである可能性が高いです。 普段は『ドラゴン・パワーの底上げをする』という触れ込みで売られていますが、 売り上げを伸ばすためか、全く別の薬効を宣伝していたりするので、正確にどんな被害が出るのかは、まだ判明していなかったかと……」

ライアス神官は、あごに手を当ててブツブツと呟き始めた。

ウラニア女医は、セレンディを穴の開く程に注視した。 医師として、セレンディに違法ドラッグの症状が出ているのかどうか、 物理感覚も魔法感覚も総動員して、注意深く観察しているのだ。やがて、ウラニア女医は、溜息を付いた。

「この場合は、ただでさえバーサーク化しやすいレベルの《争乱星(ノワーズ)》持ちだった事に感謝すべきかも知れませんね」

ウラニア女医は続いて、ライアス神官を厳しく見やった。

「多分――ライアス君、全くの想定外だけど――偶然に、『禁断のドラッグ』が出来た可能性がありますよ。 ボトル10本を一気に服用したケースは、恐らく闇ギルドにとっても初めての事。 この件、闇ギルドの手の者が野次馬に混ざって、服用の影響を観察していたかも知れません。それはともかく、予想される薬効のメカニズムとしては――」

ウラニア女医とライアス神官とエルメス神官は、部屋の隅に寄ってヒソヒソ話を始めた。エルメス神官が《風》魔法によるノイズ暗号を、その会話に仕掛けている。 見るからに、最高機密に属する内容であるという事が窺えた。

セレンディは暫くその会話を眺めた後、気まずそうな様子のまま、エメラルドの方に顔を向けて来た。

エメラルドは瞬きし、そっと首を動かして応じた。痛みがだいぶ引いて来て、頭の向きだけなら何とか変えられる状態だ。 青い円盤の形をした装置は、非常に良い働きをしている。

セレンディは、おずおずと口を開いた。

「バーサーク傷を負わせてしまうつもりは無かった。互いに対立する者同士で、こんな事を言うのも何だけど――ごめんなさい。 もしかしたら、エメラルド隊士の武官としての将来を、奪ってしまったかも知れない」

エメラルドは、セレンディの薄い金色の目をマジマジと眺めた。シャンパンゴールドと言うのだろうか、こうして見ると、なかなか神秘的な色合いの目だ。

――全体的に見れば、セレンディの行動は余り褒められたものでは無い。 だが、セレンディは《争乱星(ノワーズ)》に呪われた宿命を持ちながら、その生き方を歪ませる事は無かった。 だからなのだろう、普通は不可能だとされていたバーサーク状態での出産に挑み、無事に我が子の宿った卵を抱く事が出来たのは。

――不思議な巡り合わせだ。《運命》は、時として、こういう事をするものらしい。

「『エメラルド』で良いです、セレンディ先輩。私は、自分の行動を後悔はしていません」
「私の事は、『セレンディ』で構わないわ」

エメラルドは承知し、わずかにうなづいて見せた。

気が付けば、喉の痛みが薄らいでいる。この分であれば、もう少し喋る事が出来そうだ。

――自分の将来が一気に不確かになったのは問題だが、セレンディにしても、事情は同じような物なのでは無いか。 しかも、セレンディの方が、事態は切羽詰まっている筈だ。

エメラルドは懸念を口にした。

「セレンディは――許可なしに前線離脱したのでしょう? 致し方の無かった事でしょうけど、 武官としては……ラエリアン卿の下には、帰還できなくなったのでは無いですか?」

セレンディの薄い金色の目は、穏やかなままだった。セレンディが口を開きかけたところ――

――ヒソヒソ話が終了したのであろう、ライアス神官と助手エルメス神官が、再びベッド脇に戻って来た。

ウラニア女医は、今まさに高度治療室を出て行くところだ。此処で最も地位の高い神官として、神殿トップに近い機関に報告しに行くのであろうと予想できる。

ライアス神官は咳払いし、セレンディに説明を始めた。

「セレンディ隊士、ウラニア女医の伝言だが――エメラルド隊士に蹴り砕かれたその片足は、骨格からして完全に粉砕されている。 高度治療を施しても元に戻らないレベルでね。杖を突けば歩けるが、武官としては難しい」

セレンディは、『承知している』と言う風にうなづいていた。武官としての勘で、うっすらと気付いていたようだ。

「当分の間、経過観察という事で、拘束具を付けたまま監視下に置かれる事になる。かなり行動制限が掛かるが、卵の方は心配は要らない。 医療院の中の、竜体解除の魔法を施した個室に入ってもらうが、初脱皮を迎える前の幼体には影響は無いし、 元は産後の女性が回復を待って滞在するためのスペースを手配してあるから」

ライアス神官は、高度治療室で一晩様子を見た後、 問題が無ければそれぞれの個室に移る事になる――と追加説明をした後、若いエルメス神官を引き連れて、高度治療室を出て行ったのであった。

2-3宵闇の中の群像

――エメラルドは早速、片脚を蹴り砕いてしまった件でセレンディに謝罪した。

セレンディは朗らかに笑い出し、「気にしていない」と返して来た。卵の殻を通じて我が子の確かな感触を感じているからだろう、セレンディの顔は明るい。

耳を澄ましてみると、赤い卵の中から、子供が「クルクル」と喉を鳴らす音が聞こえて来る。 おまけに、卵の殻を叩く音も。母体の外に押し出された後の成長の早さからして、大物クラスという程では無いが、小さすぎる竜体という訳でも無いらしい。 ハッキリした事は、卵の中から出て来ないと分からないが。

「ラエリアン軍の軍規に幾つも違反しているから、どのみち武官としての未来は無かったわ。 片脚1本失ったところで特に違いは無いし――もともと臨月を迎えた時点で、『一身上の都合』で武官を退くつもりだったから」

そのタイミングを失したのは、ラエリアン卿が、大規模な軍事行動を連続して策定したからである。

そんな事を話している内に、医療院の女性スタッフが入って来た。

気が付けば、もう夕食の時間帯である。 だが、まだ普通の食事ができる程には回復していなかった2人の女武官には、夕食代わりの栄養剤が与えられたのであった。

「そう言えば、私のクラウン・トカゲは今、どうしてます?」
「乗り手が戻って来ない事に気付いて、自分で厩舎に戻って来たそうですよ」

エメラルドに馬の状況を問われた女性スタッフは、質問の内容を予期していたかのように軽い笑みを浮かべた。 続いて、「そう言えば」と、セレンディの方に目を向ける。

「あの広場の城壁の外で、はぐれ者のクラウン・トカゲが1匹、ウロウロしていたそうです。 広場の城壁の破損個所をチェックしていた隊士が気付いて回収して――その隊士のクラウン・トカゲが、 そこで盛んに鳴き続けて動こうとしなかったので、調べたところ、気付いたと言っていました。 セレンディ隊士の馬ですよね? 手綱が我々の物とは違っていたそうですし」

セレンディは申し訳なさそうな笑みを浮かべた。

「間違いなく、私の相棒だわ。背中にだいぶ傷がついている筈です――竜体のまま、乗せてもらったから」
「あのトカゲは出血していたそうですが、そういう訳でしたか。当分、我々の方でお世話させて頂きますね」

話が一段落した後、女性スタッフは若い女性らしく目をキラキラさせて、セレンディの了解の元、赤い卵を暫く撫で回した。 お年頃の竜人女性は、ほぼ全員が卵に特別な関心を覚える。卵を見ると撫で回したくなるのである。 そして女性スタッフは「ごゆっくり」と言い、速やかに高度治療室を退室して行った。

*****

同じ頃――夕闇に沈む神殿の長い廊下の一角で、ささやかな会話が交わされていた。

天球の上では、既に夜の刻を刻む数多の星々がきらめいている。

神殿の一角――その棟の連絡路となっている長い廊下には、高い窓が列を成して並んでいる。 そこからは、神殿の高い尖塔や他の巨大な複合棟がシルエットとなって、星空を切り取っている様が見えた。空の半分は、朝から雲に覆われたままだった。

「師匠は、バーサーク化した妊婦に関する暗黙のルールは熟知していた筈です。そのリスクも。急に横紙破りを決めたのは……」
「言わんでくれ」

若い弟子エルメス神官の指摘を受け、ライアス神官は苦い顔をして、在らぬ方を眺めた。 今になって考えてみると、弾劾裁判に突き出されるギリギリのラインだったと、ライアス自身でも震え上がってしまう。そうなったら――

「何故、我々は、あのようなケースに対しては、これ程に無力なんだろうな……?」

――そんな事をボヤくライアス神官の、横紙破りのきっかけにして懸念の対象が、タイミング良くと言うのか、悪くと言うのか、近付いて来た。

小さな子供らしい、テンポの速い軽い足音が聞こえて来る。 その足音の主は、2人の神官が陣取っていた一角につながるコーナーを回って、長い廊下に転げ出すように走り出て来た。

「エルメース! 私の《宿命の人》!」

その身長が、まだ大人の腰の高さにも達していない少女だ。頭に付けているピンク色のレース付ヘアバンドが目立つ。 クシャクシャしたビリジアン色の肩上までの髪に、ワインレッドの目。 女の子らしいピンクのワンピースをまとった少女は、エルメス神官の身体の周りをクルリと回り、 大人の恋人たちの間で交わされるようなロマンチックな抱擁と口づけをねだった。

「お前には、そう言うのは、まだ早い」

ライアス神官は、いっそう苦り切った顔になり、小さな女の子をヒョイと抱え上げた。エルメス神官と引き離された少女は、盛大にむくれる。

「もう、お父さん! 《宿命の人》同士でも、《宝珠》の相性を合わせて行くには時間が掛かるんだから!  こんな調子じゃ私たちの《宝珠》の相が太鼓判レベルになる前に、私がシワクチャのおばあちゃんになっちゃうでしょ!」
「あのなぁ、いつも疑問に思うんだが、ライアナ、 そう言う『大人の知識』を何処で仕入れて来るんだ? それに、一人で此処まで来たのか? お母さんはどうしたんだ?」

ライアナと呼ばれた少女は、平均以上に可愛らしい顔立ちだ。父親ゆずりのワインレッドの目がきらめく。 成体脱皮を迎える頃になれば、すこぶる色気のある妙齢の美女になるだろう。

問題なのは、少女の頭の中身だ。口を開けば、おしゃまな内容がポンポン出て来るので――しかも、 相当に意味を理解して喋っているらしいので――父親・ライアス神官としては、気の休まる暇が無い。

流石に、父親の腕の中の特等席がお気に入りという年頃で、抱っこされると大人しくなったり、 オモチャや絵本を抱えて父親の膝の上に乗って来たりするところは、年相応に可愛らしいのだが……

「お母さんと来たのよ、変な勘繰りはしないで頂戴。 お母さんは受付ロビーの大天球儀(アストラルシア)の近くで、いつもの平原の令夫人や役人たちと長いお話をしてるわ。 《雷電》災害とか、山から下りて来る魔物への対応とか、大型転移魔法陣の物資輸送のギブ&テイクとか――ああいう交渉が、 如何に大変で長くなるか、知ってるでしょ」

――確かに、遊びたい盛りの幼体にとっては、死ぬ程に退屈な時間だろう。

そう納得しながらも、ライアス神官の脳内には、平原エリアの令夫人や役人たちが、魔法の杖で台座の上の大きな球体をつついて、 地元の状況を長々と説明している様子が浮かんだ。 大天球儀(アストラルシア)は受付ロビーに並ぶ常灯&案内板の一種なのだが、地図表示機能もあるから、この類の話し合いには便利なのだ。

小さなライアナの、『立て板に水』の如きお喋りが続く。

「それで私は、ちょっと時間をもらって、愛しのエルメスが浮気してないかどうか確かめに来たのよ。 《宿命の人》同士でも、恋人をシッカリ捕まえておくためには、その辺はキチンとしなくちゃいけないって、令夫人が令嬢にアドバイスしてたしね」

目下、ライアナに熱烈な求愛を受けているエルメス神官も、苦笑いするばかりだ。 可愛い女の子に追いかけられるのは悪い気分では無いが、それでも、師匠の愛娘となると、相応に恐れ多い気持ちになるのである。

そんなエルメス神官の慎ましい気持ちを知ってか知らずか――父親の腕の中にすっぽりと納まった小さなライアナは、エルメス神官の方を振り向くなり、 猫の目のような表情豊かなワインレッドの目を、キッと釣り上げた。

「さっき、『地獄耳魔法』を展開してたら、 神殿の受付の方で、綺麗な女の人がエルメスの居場所を聞いてたのが、耳に入ったのよ。《地》の下級魔法神官の女の人。 平凡すぎるアッシュグリーン色の髪を、こう、クルクルのお洒落な巻き巻きにして、 パリッとした女官用のヘッドドレスをしていて……あれは髪は長いわね、キーッ! 目はアーモンドの形をしていて、 目尻の方への睫毛が長くて、目の色は黒に近い吸い込まれるような濃紺色、……って言うのも癪だけど!」

――いつもながら、正確無比な人相描写だ。

その『綺麗な女の人』が誰なのか、ライアス神官とエルメス神官には、すぐに心当たりが付いた。 近ごろ、事務連絡で顔を合わせるようになった新人秘書に違いない。

小さなライアナは、お行儀悪く鼻をフンッと鳴らして、更に喋り続けた。

「もちろん、受付さんの『位置情報魔法』を、『虚報(ガセネタ)魔法』で、こっそり邪魔してやったわ。 『機密会議してるから後ほど』って感じでね。ねぇ、エルメス、この私の目を盗んで、こそこそ彼女と浮気して無いでしょうね? ウソはダメよ、 既に自己紹介済みの顔見知りだって事は『地獄耳魔法』で分かってるんだから」

――将来は、天才的なスパイになれるのでは無いか。

ライアス神官もエルメス神官も、幼いライアナが事も無げに披露して見せた、油断のならぬ魔法使いぶりに、舌を巻く思いである。

エルメス神官は、ライアナの気分を損ねないように、おずおずと事情説明を始めた。

「えーと、それだったら、新しく来た《地》のティベリア嬢じゃ無いかな。 《水》の大神官長ミローシュ殿の所の……次の緊急会議の予定を連絡しに来たんだと思うよ。 上級魔法神官を招集する会議の――多分、今回の『疑惑の総合商店』の件で。済みませんが師匠、すぐに確かめて来ます」

だが、頭の回り過ぎるライアナは、回れ右したエルメス神官を、素直に解放してやらなかったのであった。 すかさず、子供用の可愛らしい魔法の杖をビシッと振る。 その杖の先端部には、如何にも女の子らしい、ピンクのチューリップの花のような飾りが付いている。

駆け出したエルメス神官の足元に、オモチャのような可愛らしい拘束魔法陣が展開した。 しかし、狙いは唖然とする程に正確だった。

エルメス神官は、その『子供のイタズラ』そのものの拘束魔法陣に、見事に足を引っ掛ける羽目になったのだ。

幼体さながらにスッ転び、床に打ち付けた額をさすりつつ、情けない顔をして起き上がったエルメス神官である。 これでも、神殿に属する下級魔法神官の中ではトップの成績を維持しており、 上級魔法神官への昇格年齢についても、ほぼ最年少タイ記録となるであろうと言う、エリート中のエリートなのだが……

おしゃま過ぎるライアナは、大人の女性が色仕掛けをする時のようにキュッと肩をすぼめて、 鏡の前で念入りに練習した流し目ポーズをエルメス神官にくれてやった。 ただし、色気が皆無のお年頃なので――父親の腕の中にすっぽりと納まったままなので――それは色仕掛けと言うよりは、 可愛らしいおねだりのポーズになっている。

「よくって、私の《宿命の人》。幼体趣味の犯罪に走ったりしなければ、ボーイズラブの方の浮気は、 許してあげない事も無いわ。でも、私以外の女との浮気は、絶対に、厳禁だからね」

――何やら、とんでもない内容が飛び出したような気がする。

エルメス神官は呆然とする余り、開いた口が塞がらない。ライアス神官でさえも、恐怖の面持ちで愛娘を見直すという有り様である。

「……なぁ、娘よ、意味を分かって言っているのでは無いだろうね?」

小さなライアナは『おすまし顔』になると、文字通り『立て板に水』の詳細説明を加え、そのはかない望みを木っ端みじんに粉砕して見せたのであった。

*****

――セレンディの赤い卵が孵ったのは、未明のさなかの事だった。

ベッドに横たわってウトウトしていたエメラルドは、隣から何やらゴンゴン、カシャカシャといった聞き慣れない音が続く事に気付いた。 『此処は工場だったろうか』と頓珍漢な事を思いながら、うっすらと目を開ける。

未明とあって、ほとんどの照明は無く、暗い。だが、エメラルドの竜人としての夜間視力は、すぐに機能した。

此処は医療院の高度治療室の中だ。

ほぼ痛みが引いた首を巡らせてみれば、あの『医の聖杯』が刻まれた青い円盤が、枕元にセットされているのが見える。 『医の聖杯』は、今もクルクルと高速回転していた。

――パリン、カシャン。

不思議な音は、すぐ隣からする。セレンディが横たわっている所だ。続いて、小さく震えるような動きの気配。

エメラルドは、その方向に頭を傾けるなり、目をパチクリさせた。

同じベッドを共有しているセレンディは、枕にもたれて半身をわずかに起こしたまま、 薄い金色の目を大きく見張っていた。 とは言え、竜人特有の細長い瞳孔が最大限に開いている状態なので、 わずかな光をも反射して、実際の目はペリドット色にきらめいている状態である。

セレンディは、こちらに半身を向けて横たわっている状態であり、その剥き出しの両腕は、 ベッドの上に置かれている卵を緩やかに囲う形である。その赤い卵の上部が、少しずつ砕け始めている。

――孵化するのだ。

エメラルドは唖然として、卵のヒビが少しずつ増えて行くのを眺めるのみだった。 記憶に無いだけで、自分もこうして生まれて来た筈だが――やはり、驚嘆の思いが自然に湧き上がって来る。

息を詰めて待ち続ける、未明の闇の中の数刻が過ぎた。

卵の中の存在は、流石に連続して固い殻に挑み続けるのは疲れるらしく、しばしば小休止が入る。 しかし、何やら効率的に殻を破る方法を閃いたらしい。卵のヒビは、横方向にグルリと回る形で広がった。 遂にヒビが大きく広がり、まるで鍋のフタをパカッと持ち上げるかのように、上部分の卵殻が分離する。

赤い卵殻の上半分を赤い帽子のように頭に乗せた、小さな小さなドラゴンが、卵の中から上半身を元気よく突き出した。 両手の上に乗るようなサイズだが、幼体ならではの丸っこい頭部には生え初めたばかりの突起のような竜角があり、 《火霊相》を示す赤色の竜翼も、小さいながらシッカリと備わっている。

エメラルドもセレンディも、無言のまま、卵の中から出て来た新しい命を見つめるのみだ。 余りにも感動が大きいと、何も言えなくなる――今が、まさにその瞬間だった。

赤ちゃんドラゴンは、まだ夜間視力が不充分なのか、つぶらな目を不思議そうにパチパチさせている。 セレンディの目に良く似た、薄い金色の目だ。匂いか何かで母親が分かるのであろう、クルンと首を巡らせた後、 セレンディの方向を真っ直ぐ見つめる。

「――ニャア」

エメラルドは一瞬、目がテンになる思いだった。子猫の鳴き声のようだ。赤ちゃんドラゴンは、 こういう鳴き声なのだろうか? 孵化の瞬間は滅多にお目に掛からない珍しい場面だから、 無事に、健康に孵化した時に聞かれると言う『初鳴き』が、どういう物なのかは、全く知らないのだが……

セレンディは目を潤ませて、卵の中から赤ちゃんドラゴンを、そっと取り出した。

卵から孵化したばかりの幼体は固い鱗が生えておらず、柔らかな鳥の羽のようなフニャフニャの薄鱗に覆われている。 通常の鱗に比べると、色も一段階ほど白っぽく、半透明に見える。 初脱皮の際に、この薄鱗が、ドラゴンならではの堅牢な鱗に置き換わるのだ。

「――本で読んで勉強はしてたけど、ホントに『ニャー』って鳴くのね。ビックリしたわ」

セレンディは口元がすっかり緩んでいた。赤ちゃんドラゴンを撫で回し始めると、子供の方は母親の手の感触が心地良いのか、早速「クルクル」と喉を鳴らし始めた。 そして、卵殻に挑み続けていた時の疲れが一気に来たらしく、母親の手を枕にして、スピスピと鼻音を立てながら眠り込んでしまったのである。

エメラルドは驚きの余り、呼吸を忘れていた。ようやく、詰めていた息をホッと吐き出すと、セレンディを祝福した。

「おめでとう、セレンディ。何となくだけど……男の子?」
「男の子ね。夫に良く似てる――夫も、オリーブ・グリーンの竜体をしていたの」

セレンディは、妊娠中の間に暇を見つけては街区の図書館に通い、その手の知識を詰め込んだと言う。 1年くらい経って初脱皮を済ませた後、程なくして人体変身の能力――変身魔法を本能的に獲得すると言うが、 その時が今から待ちきれないと付け加えたのであった。

やがてセレンディは、畏まった様子でエメラルドを見つめて来た。

「――エメラルド隊士、貴殿は命の恩人だわ。この子の名付け親になってくれる?」
「普通は、神官が名付け親を務めるんですよ。ただの武官には、恐れ多い事では無いかと……」
「エメラルドに付けてもらう名前が、一番良いと思うの。直感だけど」

――思わぬ大役だ。名前は一生の贈り物である。何も知らぬ赤ちゃんドラゴンは、小さな赤い翼を折りたたみ、丸くなってお眠り中だ。 エメラルドは改めてその様子を眺め、戸惑いながらも、考えをまとめた。

「セレンディのご夫君の名前は、何と言いますか?」
「《火》のファレルだけど」

――ふむ。平凡と言えば平凡だが、《火霊相》の男の子に相応しい、定番の名前だ。 変身魔法の際、音声に依らない特別な方法で自分の名前を《宿命図》に向かって唱える。 最近は凝ったネーミングも増えて来たが、伝統の中で選び抜かれて来た定番の名前であれば、変身魔法のミスが起こる可能性も低い筈だ。

「この子の名前は『《火》のファレル』――それで良いですか?」

エメラルドの提案に対し、セレンディは輝くような笑みで応えた。

2-4神殿に集える者たち

神殿――幾つもの高い尖塔に彩られたその複合型の巨大建築は、竜王都の創建の頃から、少しずつ増改築されて来た物だ。 岩山の頂上にある一等地の、かなり広い部分を独占している。

最も古い部分は「聖所」と呼ばれている。巨大建築の中心部に、ポッカリと空いたスペース――中庭のようにして存在する。 この周りに最初の建物が出来、それが外側に向かって増改築され拡張していって、今のような複合型の巨大建築になったのだ。

この「聖所」と呼ばれるスペースは、此処が神殿に相応しいとされた『理由』が存在する場所でもあるが、 現在は聖なる《神龍》の住まう聖地とされており、非常に限られた特別な人々しか立ち入る事が出来ない。

特別に立ち入り許可を得ている、数少ない大神官たちの説明によれば、 「聖所」は、原初の黒い退魔樹林と緑の下生えに覆われ、虹色の光の雨の降り注ぐ、鬱蒼とした場である、という事になっている。 その中心の空き地に、《神龍》を礼拝するための、創建当時の様式の礼拝所がポツンと置かれている――

歴史は伝説となり、伝説は神話となる。 今や、「聖所」の最奥部に存在するとされる《神龍》は神格化された存在であり、神殿の『絶対不可侵の権威』を保証する物となっていた。

――神殿政治は、《神龍》をトップとする、古代の神託政治さながらの王権神授スタイルだ。

神殿の支配体制は、4名の大神官長の下、大神官、上級魔法神官、下級魔法神官、 そして方々の街区や地方に赴任している一般の神官(特定占術と治療魔法のみ扱う)から成る。

なお、その他に、神殿と《神龍》を専門に守護する特殊な神官――4名の『盾神官』が存在するのだが、彼らは神殿政治には直接タッチしていない。

神殿の基本方針は常に、《神龍》の意思を占い、その神聖なる結果に沿う事を理想として、 4名の大神官長と、数少ない大神官による『大神官会議』で決定されて来た。

世俗と密に関わる実務的な部分は、『上級魔法神官会議』が担う。 4名の大神官長の臨席の下、大神官たちのうち委任されて議長を務める者が会議のプログラムをコントロールし、 そこで、神殿に属するほとんど全ての上級魔法神官たちが、議題について議論したり提案したりするのである。

*****

――その日、午前の半ば辺りの刻に、緊急の上級魔法神官会議が開催される運びとなった。

急に決まったスケジュールとあって、神殿の中では、朝も早いうちから、下準備をしている下級魔法神官たちが忙しく立ち回っていた。 上級魔法神官たちも、今回の緊急会議の内容を前もって把握するべく、 秘書や助手を務める下級魔法神官たちから上がって来る会議資料に、次々に目を通している。

神殿の受付ロビーに程近い大食堂の中でも、多くの上級魔法神官たちが朝食もそこそこに、 半透明のプレートに詰め込まれた会議資料を展開する光景が広がっていた。

半透明の魔法素材で出来たプレートの盤面は、開いた本と同じくらいの大きさだ。 従来の水晶玉より操作性が良い上に、詰め込める情報量が多く、情報処理スピードが速い。そのため、会議記録や速記記録を取る時などに広く使われている。 元は文官の必須の仕事道具として開発された物だが、魔法職人による改良が重ねられ、今や、神官にとっても欠かせない仕事道具となっていた。

――大食堂の端、テント屋根や緑の木陰を連ねたカフェテラスと連結している壁には、出入口を兼ねる大きな窓が並んでおり、そこから朝の光が差し込んで来る。

朝食の席の上、ライアス神官も《火》の上級魔法神官の1人として、半透明のプレート盤面に次々に展開される資料に目を通している。 弟子にして助手エルメス神官が、大急ぎで準備した資料である。

予想通り、『疑惑の総合商店を速やかに取り締まるか、それとも泳がすか』に関する政治決定の件が主要テーマになっていた。 その次に重要なテーマが、『見張り塔の戦い(引き分け)における戦後処理の方針』だ。そして、いつもの『次のバーサーク危険日に関する占術予測の検討』。

ライアス神官は面を上げ、「エルメス君」と、いつものように傍に控えている若い弟子の名を呼んだ――

――その時、エルメス神官が応じる前に、別の焦ったような声が割り込んで来た。

「済みません、ちょっと宜しいでしょうか?」

ライアス神官とエルメス神官は、朝食テーブルの席に立ち寄った人物を振り向いた。

――若い男だ。しかし、エルメス神官よりは明らかに年上で、あと数年もしたら中堅の年齢層に入るという頃合いである。

身に着けている神官服の装飾パーツは、青い鱗紋様に彩られている。《水》の上級魔法神官だ。 標準的なアッシュグリーン色の長めの髪を、うなじの後ろで一つにまとめている。 濃い水色の目が印象的な、すこぶる眉目秀麗な容貌は、遠目にも目立つだろうと思われた――

エルメス神官が素早く応じる。

「何か御用でしょうか?」
「昨日、隊士がバーサーク傷を負ったと言う情報を小耳に挟んだのですが、 詳細をご存じありませんか? 昨夜遅くに出張から戻ったばかりで――私の知人の隊士かも知れなくて」

エルメス神官は、まだうなじで結わえるには短すぎる髪に指を突っ込んで考え始めたが、すぐにピンと来た――と言った様子で、再び口を開いた。

「昨日の出来事でしたら、エメラルド隊士ですね。昨夜は付属医療院の高度治療室に入っていましたが、今朝はもう個室の方に移っているかも知れません。 詳細を知りたければ、医療院の女性スタッフに聞いて下さい」

エルメス神官は、エメラルドとセレンディの食事担当を務める、若い女性スタッフの名を挙げた。 《水》の上級魔法神官は、エメラルドの名に、うろたえたような顔をしている。果たして、ビンゴだったようだ。

「ライアス殿、エルメス殿――情報、感謝いたします」

濃い水色の目をした眉目秀麗な男は、一礼して速足で去って行った。ライアス神官とエルメス神官は、その様子を暫く眺めた。

――過去10数回ほど、上級魔法神官会議の時に顔を合わせたという記憶があり、 1回、自己紹介をし合ったという記憶も確かにある。だが、咄嗟に名前を思い出せない。

見ていると、大食堂の出入り口のアーチに差し掛かったところで、くだんの《水》の上級魔法神官は、 ちょうど向こう側からやって来た若い女性と衝突した。2人ともに驚きの声を上げた後、丁重に謝罪を交わし合っている。 お互いに頭の中が一杯で、注意散漫だった様子だ。

――この場所に不慣れな様子の若い女性の方は、果たして、新しく入って来た秘書、《地》のティベリア嬢だ。 女官用の白いヘッドドレスをキッチリと装着した、綺麗な濃紺色の目の美人である。 いつものように、下級魔法神官の神官服をまとっている。

エルメス神官はハッとした。それはまさに天啓だった。

――謝罪を済ませた後、お互いに初対面の場合は、自己紹介が続く筈だ。

エルメス神官は早速、ペン程のサイズに縮小していた魔法の杖をこっそりと振り、《風》魔法の一種『地獄耳』を発動する。 小さなライアナを真似して、スパイもどきの一連の作業を済ませた後、エルメス神官は、ライアス神官を振り返った。

「彼の名前は、『《水》のロドミール』でした」

ライアス神官は苦笑しつつ、「今度は名前を忘れないようにしよう」と返した。

2-5待ち人、今ひとたび

エメラルドとセレンディは、『願わくば、高度治療のお世話になるのは、これで最後にしたいわね』と笑い合いつつ、 高度治療室での朝食を済ませた。相変わらず栄養剤のみの食事である。通常の食事は、3日間を過ぎた後から始める事になっていた。

赤ちゃんドラゴンのファレル君は、未明の奮闘の疲れでウトウトしている所だったのだが、 食事担当を務める若い女性スタッフが、やはり目をキラキラさせて『キャアキャア』言いながら構いたおしたので、 ポテポテと歩いて見せたり、小さな翼をパタパタ動かして見せたりと忙しくなっていた。なかなかサービス精神のある男の子のようである。

「赤ちゃんドラゴンって、何を食べるのかしら?」

流石にセレンディは忙しすぎて、そこまでは勉強していなかったようだ。 助けになったのは、やはり食事担当の若い女性スタッフである。

「此処で用意できますから心配は要りませんよ、セレンディ隊士」

若い女性スタッフは、ポテポテと歩いて来た赤ちゃんドラゴンをヒョイと抱き上げ、その白っぽい柔らかな鱗を堪能するかのように、撫で回した。 初脱皮前の幼体の柔らかな鱗は、触り心地が良いのである。

「孵化直後から3日間は水だけで大丈夫なんです。多分、母体の回復タイムの関係でしょうけど――昔は我々は、水場の近くで出産していましたしね」

その内容は、エメラルドにも覚えがあった。女性の竜人の間では、この辺りの事は一般常識である。

女性スタッフの説明が続いた。

「その後は当分の間、水場に生える数種類の草の実が主食になりますけど、 この種の草は、元々魔の山でもある竜王都では生えていませんので、山麓エリアや平原エリアから取り寄せる形になります。 1ヶ月くらいで胃腸が完成して来ますので、その後は、我々の通常の食事内容に、徐々に慣らしていくと良いですね」

エメラルドは、いつか自分も母親になる機会があるかも知れないし、その時のために覚えておこうと、心に留めておいたのであった。

*****

――朝食後、エメラルドとセレンディ親子は、速やかに各々の個室に移された。

エメラルドは、3日間は青い円盤のお世話になる身だ。移動先の個室の壁にも、ウラニア女医の立ち合いの元、 青い円盤が不思議なインテリアさながらにセットされる事になった。

エメラルドの主治医を務めるウラニア女医は、一度、バーサーク毒の排出ペースをチェックし、 「全身重傷の有り様はともかく、エメラルド隊士は運が良い」と感心した。 恐らく、『バーサーク危険日』を外れていた事が、プラスに働いたのだろうと言う事だった。

「私は、これから上級魔法神官の一人として緊急会議に出席しなければならないので、今日の往診は、この早朝1回で終わりです。 昨夜のうちにエメラルド隊士の寮にある長持を持ち込みましたので、身の回り品の不足は無いと思いますよ」

ウラニア女医は、「何かあったらスタッフに言って」と言い残して、同伴していた女性スタッフと共に、忙しそうに去って行った。

エメラルドは枕を立てて半身を起こし、ベッド脇に置かれた黒い長持を、つらつらと眺めた。武官に標準支給される品である。

上下2つの平たいトランクボックスに分解できるスタイルで、クラウン・トカゲに積んで移動する事の出来る最大サイズだ。 時には野営用の簡易テーブルや簡易ベッドとしても使える。 軍規に従って身の回り品は全て、野営セットと共に長持に収納する事になっているので、急な異動や遠征、赴任に対応できる。 そして今回のような、予期せぬ入院にも。

フタに取り付けた魔法署名付きの錠前のみがエメラルドの趣味を反映したラベンダー色で、 退魔樹林の落ち葉から切り取って作った虹色の造花の飾りが付いていた。

――恋人は出張が多い人だ。もし昨夜、帰還していたとしたら、 エメラルドの部屋の鍵が開いていて、しかも長持が消えている事に気付いて、ギョッとしたかも知れない――

久し振りに1人になったせいか、エメラルドはフッと恋人の事を思った。

その時、個室の扉からノック音が響いた。このノック音のパターンは――

「――ロドミール!」

まさに噂をすれば影、いや、念ずれば通ず。エメラルドは驚きのままに、枕元に置いてあった魔法の杖を手に取り、 先ほど女性スタッフから支給されたばかりの『扉の開錠魔法陣』を空中に作成すると、扉に向かって投げた。

この1ヶ月ほど御無沙汰だった恋人のロドミールが、扉を開けて入って来た。 転移魔法陣を慌てて使っていたのは明らかだ。《風》魔法の乱れに伴う突風を食らったのであろう、ロドミールの髪は乱れている。

「ああ、無事で良かったよ、エメラルド!」

ロドミールは濃い水色の目を潤ませ、ベッド脇に両膝を突いてエメラルドを抱擁した。その拍子に創傷が疼き、エメラルドは呻いた。

「済まん、バーサーク傷を受けていたって事を忘れてた」
「大丈夫。来てくれてありがとう、ロドミール」

エメラルドは息を詰まらせた。会いたくても会えなかった1ヶ月の間、積もった話も色々あるが、 特にこの一昼夜は、色々な事が起こり過ぎていた――何から話したら良いのかも分からない。

ロドミールはエメラルドを見直すと、改めてギョッとしたような顔になった。

「そんなに痛かったか!? 涙が……」
「大丈夫よ。ホントに大丈夫。ただ、色々あったから……」

――そう言えば、此処に椅子はあっただろうか。エメラルドは改めて個室の中を見回し、「やっぱり」と息をついた。

「何が『やっぱり』なんだ?」
「此処には椅子が無いの、ロドミール。多分、寮のと同じくらい、狭い個室だからだと思うけど――そこに長持があるから、座って」

ロドミールは苦笑し、簡易ベンチさながらの長持に、そっと腰を下ろした。やや気分が落ち着いたのか、大きく溜息を付きながらも、乱れた髪をかき上げる。 ロドミールは早速、高速回転中の青い円盤装置に気付き、ジッと見つめた。やがて、感嘆そのものの眼差しになる。

「――もしかして、主治医は《地》のウラニア女史?」
「良く分かるのね、ロドミール」
「お手本にしたくなるくらい見事な魔法陣が掛かってるからね。彼女はバーサーク傷の第一人者だし、ホッとしたよ」

エメラルドは改めて、青い円盤装置に目をやった。

――自分には、あらかじめ刻まれていた「医の聖杯」が回転している様子と、 円盤の中心から出て来るペリドット色のエーテル流束が自分の両腕に連結されている様子しか見えないが……上級魔法神官レベルにしか分からないような、 不可視の魔法陣が掛かっているらしい。

「そう言えば、ウラニア女医は先ほど、緊急会議に出席しなければならないって、忙しそうだったけど。ロドミールは大丈夫なの?」
「ああ、私は元々、出張から帰還する日程が早まっただけだから。上級魔法神官と言っても、若手のうちは、下級魔法神官と余り変わらないな」

ロドミールは自嘲的な笑みを浮かべた。広大な平原エリアの各所や、他種族の諸王国への出張が多く、神殿の中央部の動きからは、どうしても縁遠くなってしまう。 上級魔法神官になったばかりではあるが、中央に詰めている同期に後れを取りつつあるのは、やはり気に掛かる事なのだ。

エメラルドにとっても、その辺りは理解できる部分だ。エメラルドが早くも上級武官として活躍できるようになったのは、 皮肉な事だが竜王都争乱が勃発して、この数年のうちに急に経験値が積み上がったせいである。

エメラルドは微笑み、「大丈夫だと思うわ」と返した。

「たいていの竜人って、竜王都の城壁の中に閉じこもってしまう分、大陸公路の諸王国には無関心になりがちでしょう。 外交ルートの維持だって重要な任務なんだし、見ている人は、ちゃんと評価してくれる筈よ」

エメラルドは、ロドミールが出張のたびに土産話として持って来る、大陸公路の諸王国の話題を聞くのが、いつでも楽しみなのだ。 そこからロドミールとの交際が始まったと言っても良い。

「エメラルドは、ちゃんと見ていてくれる人の一人目だよ、多分」

ロドミールは朗らかに笑い、ウインクして来た。

「――ちょっと《宿命図》をチェックしてみても良いかな?」

エメラルドがうなづいて片手を差し出すと、ロドミールは、ライアス神官がやっていたように、手相を読むような格好で透視魔法を使い出した。 ロドミールの魔法の杖の先端部が青く光り出す。

やがて、ロドミールは顔を上げた。

「さっき、『健康運』の項目を一時的に強化しておいたよ。『上級占術』の一種でね。バーサーク毒には効かないけど、その全身の重傷については、治りが早くなる筈だ」
「ロドミールが居ると、いつでも大丈夫な気がするわ」
「それは買いかぶり過ぎだよ。こんな事くらいしか出来ないんだから、これくらいしないとね」

そんな事を語り合っていると、ロドミールの魔法の杖が『ヒュルル』と音を立てた。《風》魔法を使った遠隔通信の呼び出しだ。

『――《水》の上級魔法神官ロドミール殿、緊急会議に来られたし』

ロドミールは首を傾げた。

「名指しで呼び出しが来るなんて珍しいな。今日の議題は大陸公路の諸王国とは無関係だった筈だけど」
「外交経験を踏まえての見解が、必要になったんじゃ無い?」
「頭の固い大神官の連中がそう考えたとしたら、ビックリだよ。ともかく急がなくちゃいけないようだ」

別れ際、ロドミールとエメラルドは、互いの頬に親愛の口づけを交わした。

2-6幕間…『魔法の杖』概論

エメラルドはロドミールが個室を出て行くのを見送った後、長持の中を改めた。 フタの裏の収納スペースに読みかけの本を詰めていたのを思い出し、読書には良い機会だと思ったのだ。

『魔法(アルス)の杖』を取り巻く若干の歴史と知識をまとめた本である。 最も身近な道具なのだが、余りにも身近過ぎるために却って知らない事が多く、冒頭部の内容からして感心させられたものだ。

エメラルドは、改めて冒頭部から読み直し始めた――

*****

――魔法(アルス)工学入門シリーズ、『魔法の杖』概論より――

この世界は、四大エレメント《火》、《風》、《水》、《地》によって構成されている。 そして、四大エーテルとは、四大エレメントが生成する四種のエネルギー場の事を言う(場についての精密な定義は、物理学の本を参照されたい)。

各種のエーテル操作術『魔法(アルス)』によって、古典的な物理手段を跳躍した結果を得る事が出来る。

『魔法の杖』は、人類によって発明された。超古代においては、『人類』と呼ばれる種族が唯一、『知性』なるモノを持ち、種族的繁栄を独占していたのである。

さて、『魔法の杖』には無数と言って良い形態があり、『ただの一本の棒(基本形)』から、多種多様な宝石細工を施した『宝器』、権威の象徴を施した『笏』まで、色々ある。

当然ではあるが、天然素材をそれらしく成型しただけでは、『魔法の杖』にならない。 四大エレメントをそれぞれ司るとされる四大『精霊王(エレメンタル)』が、四つの有効なシンボル記号として刻まれて初めて、『魔法の杖』としての機能を発揮するのだ。

――ただし、四大『精霊王(エレメンタル)』なる神的な存在が、本当に存在するかどうかは今なお解明されていない。 四つのシンボル記号は、世界最初の魔法陣にして神聖文字である。 学問的誠実さを追求する限りにおいては、そういう、究極の、『万物の理論』という意味での《場の単位》が存在するのだ、と言うべきである。

『魔法の杖』を製作するには、先述したように、四つの有効なシンボル記号を、位相幾何のルールにのっとって任意の場所に刻めば良く、色や形にこだわる必要は無い。 これが、『魔法の杖』のデザイン可能性を無限に広げているのだ(位相幾何については、数学の本を参照されたい)。

――賢明な読者諸君は、此処で既に気付いたと思うが、『魔法の杖』の拡張バージョンにして特化バージョンが、巷で見られる『魔法陣』なのだ。

エーテル魔法のパワーを発動する全ての魔法陣は、四大エレメントを司る四大『精霊王(エレメンタル)』のシンボル記号が、必ず入っている。生物・無生物を問わずだ。

生物が、その根源に授かった天然の魔法陣が、すなわち《宿命図》と呼ばれる物だ(なお、《宿命図》占術教本の序文を、補足資料として付記した。必要があれば参照のこと)。

魔法陣を通じて各種のエーテル魔法を発動する時、元々は無色透明である不可視のエーテルは、それぞれのエレメントに応じた色(シンボル色)で光り輝く。 《火》の赤、《風》の白、《水》の青、《地》の黒。

我々が、目的に応じて様々な魔法陣を人工的に作成する時は、エーテル魔法の効率アップのため、各種のシンボル記号に応じた各種のシンボル色を入れるのが定番だ。

※他の色を自由に使っても問題は無いが、その場合、パワー効率が格段に落ちる事が分かっている。 よほど自民族の特色を出したいと言うような、狂信的なまでの自民族中心主義(エスノセントリズム)の持ち主でも無い限り、滅多にやらないだろう。

――『人類』と『魔法の杖』の歴史に、学ぶべき事は多い。以下、簡単に記そう。

超古代のミレニアムが終わる頃、『世界終末予言』なる『バーサーク的な存在』が、人類社会を席巻した。 その詳細は明らかでは無いが、最終戦争(ハルマゲドン)が始まり、破滅的なまでのエーテル魔法が横行した事が知られている。 その結果、四大エレメントのバランスが遂に崩れ、全世界レベルの変動が起きた。

最も大きな世界的変化は、天球の回転軸の変化である。

元は『銀河(天の川)』などといった名前で呼ばれていた、天球のほぼ中央部を横断していた星々の壮大な帯は、地平線にまで下がった。

現在は、回転軸の刻々のズレもあって、微妙に半円形をしたギザギザの不定形の山脈か虹のように地平線上で輝き続けているという状態だ。 ゆえに、『軸光山脈』、『連嶺』、『時の虹』などと呼ばれるようになっている。『時の』というネーミングは、かつての北極星さながらに、時と方角のガイドとなるからだ。

四大エレメントの均衡が崩れた事によって、気象も不安定になった。

定期的な巨大エーテル乱流――《雷電》と呼ばれる狂乱的な荒天に見舞われる季節が生まれたのも、 大きな変化だ。これについては、更に込み入った専門的な説明が必要になるので、割愛する。

人類は、破滅的なまでのエーテル魔法を横行させた事で、更にとんでもない置き土産を残した。

生物兵器として作成されていた、各種の亜人類である。現在の大陸公路に生きる我々の祖先だ。 人類は、元々知性の無かった動物を適当に選び、強い生命力と知性とを与え、更に人体変身能力を付け加えたのだ。

これら亜人類が人類に対して反逆を起こした事も、人類絶滅のきっかけになっている。 人類・亜人類入り乱れる大陸公路で、遂に全世界レベルの変動が起きた時、生命力の強い亜人類しか生き残れなかったのである。

――獣人、竜人、鳥人、魚人。

かつての大絶滅の危機を乗り越え、現在の大陸公路に繁栄する亜人類を大別すれば、こうなる。 そして、これら四種の亜人類のそれぞれに対して、科、属、種の単位で区別できるような各種族が属している。

ちなみに獣人に属する全種族を数えれば、レオ族、ネコ族、ウルフ族、イヌ族、クマ族、パンダ族、ウサギ族である。元となった動物については、説明は不要だろう。

*****

補足資料『《宿命図》占術教本』序文より――

古き《謎》はかく語りき…
宿命は生を贈与して
運命は死を贈与する
しかしこれら二つのものは
一つの命の軌道を辿る――

《宿命図》は個人によって内容が異なる。

神官の《神祇占術》を通して観察すると、個人の《宿命図》は、3次元立体の星空――ボンヤリとした形の、範囲のハッキリしない量子で構成された天球のように見える。 超古代の人類は、それをハイパー・ホロスコープ、アカシック・レコードの一部、霊魂、魂の地図、運命の設計図などと言っていたが、それは今は置いておく。

そのボンヤリとした天球の如き範囲の中に、万物照応のルールに沿って、四大エレメントの素粒子――分(わ)け御霊(みたま)――が星々のように配列されている。 世界の四種のエネルギー場、すなわち《四大》エーテル流束が、その素粒子と反応し生命の炎となってきらめくので、 《宿命図》は3次元立体の星空のように見えるのだ。

透視能力に優れた者であれば、その3次元立体の星空の如き《宿命図》の中に、屈折の相、反射の相など、 《宿命図》の星々のエーテル反応の軌道が結ぶ個性的な相関――すなわち、ホロスコープで言うアスペクトのようなパターン――を見い出す事が出来る。 大凶星とされる《争乱星(ノワーズ)》のような相も。

個人の《宿命図》に含まれる四大エレメントの含有量には偏りがあり、その偏りの度合いによって、 いずれかの《霊相》の生まれと判定される。《霊相》の傾向次第で、得意とする《四大》エーテル魔法の種類も偏って来る。

ちなみに、大自然によって授かった「偏り」や「混在」が無いと、生命の根源パーツ《宿命図》として機能しない。

これが世界の不思議な所で、いわゆる無属性や全属性と言ったような完全な均衡タイプの《宿命図》、 或いは純粋な火属性、水属性といったような単一タイプの《宿命図》は、存在しないという事が知られている。

完全な均衡タイプの代表的な物が「竜体(本体)解除の魔法陣」であるし、 単一タイプは、例えば「拘束魔法陣(地属性)」、「転移魔法陣(風属性)」として機能する――

目次に戻る

§総目次§
物語ノ岸辺物語ノ本流物語ノ時空物語ノ拾遺