深森の帝國§総目次 §物語ノ傍流 〉暁闇剣舞姫1

天球のアストラルシア―暁闇剣舞姫―(1)

◆Part.1「竜王都争乱~狂戦士」
1-1.暁星(エオス)の刻
1-2.城壁と退魔樹林
1-3.想定外の前線
1-4.汝の敵を愛せ

1-1暁星(エオス)の刻

――大陸公路、竜王国――竜王都は未明の終わりの刻。

竜人の女武官「《風》のエメラルド」は、自分だけの絶景ポイント――お気に入りの城壁の一角で足を止めると、頬を撫でる一陣の風に、暫し目を閉じた。

いつも髪をキッチリとしたアップにまとめ上げている髪留めを外し、背中まで届く濃い緑色の髪を、風に晒す。 その髪は緩やかなウェーブが掛かっていて、濃淡の色ムラはあるもののエメラルド色だ。

エメラルドは、竜王都の神殿に勤める武官、つまり神殿隊士だ。

生命の根源パーツを成す《宿命図》において、四大エレメントのうち《風》をメインとする《風霊相》生まれとして示されているので、 正式な名乗りも「《風》の――」だ。

――もう春も半ば。夜明け直前の空気は気持ちよくヒンヤリとしており、非番の日の楽しみとなっている早駆けをした後の熱を、適度に冷ましてくれる。

非番の日ではあるが、予期せぬ緊急出動に備えて、エメラルドは神殿隊士の制服をまとっていた。 聖職に準じる立場に相応しく、白く漂白された武官服だ。なお、通常の武官服は、黒みを帯びたミリタリー・グリーンである。 神殿では威信をかけて、これを物理的にも魔法的にも手間を掛けて白くしているのである。

竜人がまとう服は、首回りを隙間なくカバーする、高い襟がポイントだ。竜人の喉元には逆鱗が生えている。 高い襟は、この逆鱗を守るためだ。喉仏の位置からすぐ下、身体の中では最も神経質なパーツで、逆鱗に触れられると竜人は必ず激怒する。 他に理由が無くてもだ。先祖から受け継ぐ本能であって、如何ともしようがない。

竜人の逆鱗に関する知識が他種族の間で広く共有されていなかった古代の頃は、竜人と事を構える羽目になった原因のほとんどは、 「不埒にも逆鱗に触れたのが理由」というケースが多かったものである――

――エメラルドが佇んでいるのは、気の遠くなるような断崖絶壁に、数多の尖塔と共に聳え立つ高い城壁の上だ。

再び目を開け、城壁の内側の方へと視線を巡らせる。 闇に慣れたエメラルドの視界には、《地》魔法の粋を尽くした城館や尖塔、摩天楼といった高層建築物が入って来た。

竜王都の中でも、この辺りは富裕なエリアとあって、摩天楼が密集しているのだ。 これらの建築物は、全体的に淡くグリーンを帯びた薄灰色の魔法建材で構成されている。

窓枠や扉、屋根と言った各ポイントは黒色や濃灰色がメインであるが、下町になるに従って、住民たちの習慣や趣味、 或いは資金力に応じて、多彩な色合いをした天然素材の割合が増えていた。

*****

――竜王都の城壁や摩天楼は、竜人の魔法使いによる《地》魔法の結晶である。

この辺りは、元々は背後の巨大山岳地帯から突き出した、ほぼ断崖絶壁そのものの巨大な岩山だった。 しかも、無尽蔵のエーテル資源に恵まれていたため、古来から無数の魔物がはびこる『魔の山』であった。

『魔の山』の山麓からは、広大な扇状地となった地形が小ぶりな岩山や丘陵を連ねながら広がっている。 雨が少なくなる夏場の盛りでさえ渇水を知らぬ豊穣な土地だが、『魔の山』を下りて襲撃して来る魔物の大群が途切れる事が無かったため定住には向かず、 長い間、冒険者ギルドの「魔物駆除クエスト」の定番のターゲットとなった、まさに「魔物の王国」であった。

この恐るべき『魔の山』を竜王都に相応しいと見込んだ、創建当時の竜人たちは、 隙あらば這い寄る魔物どもを駆除しつつ、断崖絶壁を開発して行ったのだ。

大所帯が収容できるレベルの平らな居住スペースが確保できる良ポイントを選び、その外縁部を、城壁と黒い樹林帯で防護した。 こうした断崖絶壁の各所に散在する細長い平坦スペースはまさに『回廊』であり、これが竜王都に属する回廊&街区の単位となっている。

そして、場所によっては、幾回層もの回廊を造成し、そこに尖塔や摩天楼が立ち並ぶ都市や街区を作ってしまったのである。 ドラゴン・パワーによる土木工事は、その技術力、規模を含めて、常に、大陸公路の諸王国の驚きの的なのだ。

回廊ごとに設けられている分厚く高い城壁の上は、回廊&街区の外縁部を巡る幅広の幹線道路ハイウェイとなっており、人も馬も高速で行き来できる。 早駆けには最適なルートだ。ただし、落下防止の安全柵、梯子などと言った設備が一切無いので、城壁に上がれる者は限られる。 まさに、エメラルドのような軍事関係者しか、城壁に上がれないのだ。当然ながら、城壁ハイウェイは、軍用道路である。

城壁の上に一定距離ごとに並ぶ尖塔の上では、竜王国の黒い紋章旗が、威風堂々とひるがえっている。 竜王国の紋章デザインは、金色の盾の中に、剣を挟んだ一対の黒いドラゴンを描いてある――という物だ。 遠目には、黒いフルール・ド・リス紋章にも見えるだろう。

――さて、この辺りで、竜人について少し説明しておこう。

竜人は、大陸公路に群雄割拠する亜人類の一だ。 亜人類は、平常モードたる「人体」と戦闘モードたる「本体」、2つの姿を持ち、必要に応じて、 『宿命図エーテル魔法』の一種『変身魔法』を通じて、2つの姿の間を行き来する。

竜王国の住民――竜人は、普段は人体の姿で社会生活をしている。しかし、その本体は、文字通り翼の生えたドラゴン――竜体だ。 戦闘力を決めるドラゴン・パワーの大小は、《宿命図》が設計した竜体サイズの大小によって大枠が決まる。

自前の翼で高速飛行できる大物クラス竜人と、滑空のみ可能な中小型――小物クラス竜人――と、2種類に分かれる。

大物クラスは、その大いなるドラゴン・パワーに相応しく、見上げるような大きな竜体を持っている。 人類のドラゴン神話伝説でお馴染みの巨大ドラゴンに相当すると考えて良く、竜人の中では発現率は極めて少ない。 一つの街区に大物クラスが出生した場合は、畏怖と歓迎の両方を含めて、街区全体を挙げての大騒ぎになるのだ。

竜人と言えば、小物クラスの竜人の方が一般的だ。竜体に変身した時の平均サイズは、人体と同じくらいである。 特に大柄な竜体でも、大陸の馬と似たようなサイズに留まる。

エメラルドは、標準的な小物クラス竜人だ。とは言え、その竜体は武官に相応しく、平均を上回るサイズである。

*****

――竜王都の城壁の上から望む東の空。うっすらと東雲が広がっている。辺りはまだ暗い。

エメラルドは笑みを含みつつ、早駆けの馬を務めた気の良い相棒の方を見やった。哺乳類の馬では無く、淡いアッシュグリーン色のトカゲである。

竜人は素晴らしく夜目が利くのだ。その気になれば、闇夜でも或る程度ヘッチャラである。

淡いアッシュグリーン色を全身にまとった相棒は、今は手綱を外されて、城壁ハイウェイの各所を気の赴くままにウロチョロしている所だ。

トカゲは、時折、路面に鼻を近付けてヒクヒクさせている。 仲間の同種のトカゲが残した謎の印――トカゲ同士の間だけで通じるサイン――を読み取っているのだろうと知れる。 そして、長い首を傾げたり、自身でも『フンフーン♪』と鼻を鳴らして(相棒は鼻歌を歌うに違いないと、エメラルドは確信している)、 謎の印を残したりしている。

竜人の馬となっているトカゲは、クラウン・トカゲと言う。見た目は、ダチョウに似た二本足歩行のトカゲである。 恐竜で言えば、まさに「オルニトミムス」類だ。ただし、その顔形は可愛らしい。 おっとりした楕円形で、トカゲにしては愛嬌のあるつぶらな目がチャームポイントだ。

クラウン・トカゲは元々、断崖絶壁の魔境に棲息していた。 断崖絶壁を縦横する優れた脚力を持っており、魔境にはびこる魔物と張り合える程の猛烈な速度で長く走り続ける事も出来るので、 竜王都の創建の頃に竜人の軍馬として早くも活用され、以来、重宝されている。 頭頂部にフッサフサとした、合歓ねむの花冠のような繊細な色合いと形をした柔らかな毛が生えているため、 ユーモアと洒落を込めて、「王冠(クラウン)トカゲ」と名付けられているのだ。

目の前をヒラヒラと飛び交う夜行性の蝶を見つけると、クラウン・トカゲは、面白そうな鳴き声を上げながら蝶を追いかけて行った。 蝶とトカゲは、目もくらむような高さの城壁を軽々と飛び降りて、城壁に沿って並ぶ、高く黒い樹林へと消えて行った。 蝶は今まさに、樹林にある寝床へと戻って行くところだったろうに、災難である。

エメラルドは、ひとしきり笑い声を立てた後、頭上を振り仰いだ。一陣の風が再び吹き、女武官のエメラルド色の髪が流れる。

頭上で、夢のようなラベンダー色をした一つ星、暁星(エオス)が輝きを強めた。

夜と朝が入れ替わる、ほんの少しの間だけ、天球の中で最も輝く不思議な星だ。 その正体は、物理的な意味での星では無く、エーテルで出来た未知の天体だと言われている。 その謎めいた存在には興味が尽きる事が無く、エメラルドの最もお気に入りの星である。

東雲を縁取っていた薄明は次第に金色を帯び、未明の闇に沈んでいた空も、やがて炎のような紫と紅に染まって行く。 払暁のまばゆい陽光に取り巻かれた暁星エオスは、見る間にラベンダー色を失い、赤らみを増す空の中に溶けるように、かき消えて行った。

――まるで、ラベンダー色の砂糖細工が、熱い紅茶の中でサッと溶けるように――

エメラルドは、もう一ヶ月ほど前になろうか、この一瞬をモデルにしたと言う紅茶のメニューを試した時の事を思い出した。 あの紅茶のメニューの名前も、「暁星(エオス)」だった。

恋人とのデートの一環で、滅多に着ないような華やかなドレスをまとい、 高級レストランで初めて食事をした時――メニューで興味を持って、食後の紅茶として頼んでいたのだ。 ちなみに、このレストランは、王宮や神殿の御用達として外交パーティー会場にもなる、メインストリートの高級レストランである。

(四大エレメントのエーテルに満ちた、この世界の、魔訶不思議の一つだ)

女武官は一つ息をつき、ゆっくりと伸びをした。

エメラルドが選んだビューポイントからは、摩天楼の如き高層建築が多いこのエリアの中でも、 天球で繰り広げられる星と光の華麗な舞踏劇が、建物の影に邪魔される事なしに鑑賞できたのであった。

1-2城壁と退魔樹林

すっかり姿を現した太陽が、竜王都の断崖絶壁の東側全体に、浅い角度の陽射しを投げかけている。

クラウン・トカゲは、まだ蝶を追いかけているらしく――或いは、他の楽しみ事を見つけたのか――黒い樹林の中から戻って来ない。

城壁の外側は魔物がはびこる魔境となっているのだが、魔物と遭遇してしまう事については、それ程、心配はしていない。 元々クラウン・トカゲは、魔境を走り回っていたトカゲである。

エメラルドは、もう少しクラウン・トカゲを遊ばせておく事にした。こんな時だからこそ、気晴らしは大切だ。

――数日前まで、エメラルドも相棒のクラウン・トカゲも、竜王都を戦場とする紛争で前線に出ており、 そこで運悪く『バーサーク竜』の群れによる無差別攻撃と遭遇し、その灼熱のドラゴン・ブレス空爆の中で、 一歩間違えば死ぬような大変な状況にあったのだから。

エメラルドは、その激しい戦闘の内容を思い起こした。

――ストリートに並ぶ多数の高層建築の屋上や側壁を足場としてジャンプ移動する、人馬一体となった竜人武官とクラウン・トカゲ。 双方の突撃部隊が激突していた前線の上空に、翼を大きく広げた竜体の影が現れ――

(まさに、竜体をした『狂戦士(バーサーク)』。敵味方の区別なくドラゴン・ブレスを吐きまくるような、 あんな理性を失った凶暴な奴らもまた、我々と同じ竜人だなんて、何という事だろう)

――前線は、尋常に雌雄を決するどころでは無くなった。 正気を失った異形の竜体から放たれた灼熱のドラゴン・ブレス空爆によって、辺り一帯が大火事となり、双方ともに陣容が乱れた――

目下『バーサーク竜』は、一片の疑いも無く、即座に討伐&捕獲すべき対象だ。 だが、同族という事もあって、リスクの高さを無視して、生きたまま捕獲する方に力を入れているのが実情だ。 強制的に竜体を解除して人体に戻すと、正気になるのである。 しかし、余裕の無い戦場においては、どうしても『ドラゴン退治』さながらの討伐ケースが増える。

実際、数日前の戦場では、バーサーク竜によるドラゴン・ブレス空爆の範囲が野放図に拡大しかねないという危惧があり、 エメラルドを含む神殿隊士の迎撃チームは、半数の重傷者を出しながらも、3体のバーサーク竜を討伐する羽目になっていた。 重傷者の方は、次の機会にバーサーク化する可能性があり、今は傷を癒しながらも、厳重な監視下に置かれているところだ。

(竜体を解くと同時に、バーサーク状態も解けるだけに――なおさら理不尽だ)

エメラルドは、どうしようもない苦々しさを感じつつも、歯を食いしばるしか無い。

――竜王都は、権力闘争の真っ最中である。新しく即位した竜王を中心とする王国派と、 神殿を中心とする神殿派とに分かれて、竜王国を左右する『絶対権力(或いは、絶対正義か?)』を争っているのだ。

竜人ならではの尊大さや気の短さが災いし、将来を見据えての政治構造の組み換えプロセスにおいて、話し合いでは決着をみる事が出来なかった。 竜王国の首脳部は、王国派(改革派)と神殿派(現状維持派)に、大きく分裂した。 竜王国そのものの歴史の浅さ、政治力の未熟さも相まって、武力衝突のステージへと突入してしまったのである。

竜王都で、最も広い平坦スペースを独占するのが王宮エリアだ。岩山の頂上部に位置しており、4~5階層が密に連なった回廊である。 その次が、幾つかの街区を挟んで王宮エリアと隣り合う神殿エリアだ。

目下、戦場となっているのが、王宮への攻略ルートとなっている諸街区と、神殿への攻略ルートとなっている諸街区で、 前線となっているのが両方の街区が接触している所である。この運の悪いエリアが激戦区となっており、最も荒廃が激しい。 一部は既に廃墟ストリートと化しており、治安悪化に乗じて、闇ギルドも跋扈し始めている。

幸い、竜王都の全体を巻き込むような戦争ドンパチには発展していないが、混乱が長引くに従って、バーサーク竜が急激に増加した。 急激に増えたバーサーク竜は、今や、竜王都の治安維持に関して、第一級の懸案となりつつある。

一度、バーサーク竜と化した竜人は、その後は、監視などの処置を必要とする『ハイリスク竜人』として扱われる。 一定条件を満たすタイミングで『変身魔法』を使うたびに、繰り返しバーサーク化するためだ。 しかもバーサーク化は、武官に付き物の創傷を通じて伝染する。竜体に伴うドラゴン・パワーが上昇すればする程に、強大なバーサーク竜になる。

幸いに、竜体が小さすぎる弱小な竜人は、ドラゴン・パワーが不足しているせいで、バーサーク化はしない。 その代わりバーサーク毒に対する耐性が低く、死亡率が上昇する。

大物クラスの竜人の場合も、不思議な事に、バーサーク化に対する免疫があるせいで、バーサーク化はしない。 その代わり、ドラゴン・パワーの均衡が崩れ、歩けなくなったり飛べなくなったりする確率が上がる。

なお、『宿命図エーテル魔法(変身魔法)』とは違い、『四大エーテル魔法』の能力の方は、総じて、何故か余り影響を受けない。 《宿命図》によって決定される竜体サイズ、すなわちドラゴン・パワーとは違い、『魔法(アルス)の杖』を介するからだと言われている。 魔法の杖には、エーテル整調機能がある。

――いつ、何処で、誰がバーサーク化するのか。バーサーク竜が発生するのか。

これについては、神殿の上級魔法神官による『神祇占術』方面からの研究の進展があって、 まだ理論レベルながら、或る程度は予測が付くようになって来ている。 だが、一定以上のドラゴン・パワーを備えている竜人武官にとっては、特に自身の将来の破滅に直結する、最も恐るべき不吉な疫病と言えた。

更に、社会不安も急上昇したせいか、不穏な噂が回り始めている。 正常な竜人を無理矢理にバーサーク化するような、まさに同族を生物兵器と化す『禁断の魔法』が横行し始めているのでは無いか――という噂が。

バーサーク竜の出現は、今のところは紛争エリアに限られているが、このまま権力闘争が長引き、対策が遅れてしまうと、未来は分からない。

*****

エメラルドは、かぶりを強く振ってモヤモヤした思いを振り払うと、 足元に置いていた刀剣――柳葉刀に似た反り返った太刀で、竜人が使う最も標準的な武器である――を手に取った。

刀剣を片手正眼に構える。呼吸を整えて無心になり、最初の荘重な一振りを決める。 その一振りに続いて、素早い二振り――朝の体操代わりの演武を、ひとくさりこなす。緩急自在。身体の調子は良い。

――そろそろ、朝食の頃合いだ。

エメラルドは城壁の端に立つと、今まで刀剣だった物を魔法の杖に変化させ、更にそれを『笛』に変化させた。 そして、城壁直下から城壁の上まで聳え立つ巨木の樹林に向かって、その魔法の笛を吹いた。

クラウン・トカゲだって腹が空く頃合いなのだ。 樹林帯から遠く離れていたとしても、笛の音が届かない距離にまでは離れて行かないし、それ程しないうちに帰還して来る筈である。

エメラルドは魔法の笛を、再び基本形である魔法の杖に戻した。

魔法の杖――何という事の無い、肘から指先までの長さを持つ単純な1本の棒である。 その太さで見ると、警棒か、或いは分枝の無い十手のようにも見える。戦闘用の機能が強化されており、様々な武器への変化が特にスムーズだ。 武官に支給される標準的な品で、特に『戦闘用の魔法の杖』と但し書きが付くケースが多い。

相棒の帰還を待つ間、エメラルドは、魔法の杖を手元でもてあそびつつ、朝の陽光を浴びる黒い樹林を改めて見やった。

城壁に沿って街路樹さながらに並ぶ『退魔樹林』は、摩天楼の如き樹高を誇る、成長の早い巨木の一種だ。 その葉は、若干ギザギザはあるものの、1枚1枚が大皿と同じくらい大きい。ほぼ円形、或いは微妙に楕円形をしていて、闇夜のような漆黒の色を持つ。 その表面には、虹色の光を反射する不思議な斑点――曜変天目――が散らばっている。まさに宇宙を思わせる外観だ。

退魔樹林というネーミングが明らかに示す通り、その巨木全体から発散する或る種の樹香によって、 城壁の外側に広がる魔境からやって来る魔物の接近を、或る程度、防いでくれる。 非常に特徴のある巨木だから、魔境の中でも良く目立ち、安全圏の位置を示す手頃なサインとなるスグレモノだ。

ただし、慣れぬ人が見れば、昼なお漆黒に沈む葉群の中を、虹色の無数のツブツブが揺れるのだから、見ようによっては、かなり不気味な光景だ。

黒い葉の下となると、退魔樹林の根元は相当に暗くなる筈だが、葉を彩る虹色の不思議な斑点は、光の透過率・反射率が極めて良い。 虹色の斑点を透かし、或いは下方に向かって透過と反射を繰り返した陽光は、巨木が林立する樹林の中、まるで光の雨のように根元に降り注いでいる。 退魔樹林の根元には、意外に下生えが密集している。こうした下生えは、多種類の昆虫や動植物の揺り籠でもある。

やがて、エメラルドの魔法の笛を聞き付けたクラウン・トカゲが、頭頂部のフッサフサを風になびかせつつ、断崖絶壁の下に姿を現した。 持ち前のジャンプ力で、樹林帯の先でいきなり切れ落ちている急峻な断崖絶壁を登って来る。

クラウン・トカゲの後方から、不気味な海綿に似ている異形の魔物が4体、現れた。いずれも、驚く程に大きい。 1個体が、1つの民家に匹敵するサイズだ。ご丁寧に、赤・青・白・黒のフルセット・チームである。 それぞれ、人の頭の大きさ程もある珠を連ねた、数珠のような4色の極彩色の長い触手を振り回して、猛スピードで追いかけて来る。

しかし、淡いアッシュグリーン色をした相棒は、魔物から食料(エサ)と目された状態にも関わらず、少しも意に介していない。

退魔樹林の樹香が強くなる範囲に接近するや、不気味な海綿に似た異形の魔物は、揃って、その移動スピードを鈍らせた。 その隙に、賢い相棒は、グンと距離を引き離した。明らかに駆け引きのスリルを楽しんでいる様子だ。

魔物のうち1体――黒色の海綿が、なおも油断のならないスピードで退魔樹林の根元の下生えに向かって大きく身を躍らせて、見事、着地する。 クラウン・トカゲの行く手を塞ぐ形である。

クラウン・トカゲは次の一瞬、巨木の間を縫って、惚れ惚れする程の大ジャンプを見せた。

――高く分厚い城壁となると、その重量も凄まじい。 傾斜の激しい断崖絶壁の上で城壁を安定させるため、城壁の外側には、一定の間隔を置いて、 巨大な空中アーチ構造をした梁――フライング・バットレス風の壮大な幾何学的構造体が並んでいる。

大ジャンプしたクラウン・トカゲは、唖然とした様子の黒い海綿状の魔物を差し置いて、 巨木の中間層を横断している、その幾何学的構造体に足を掛けたのだ。

斜めになっているとは言え、断崖絶壁の急峻な地形に沿って、急速に立ち上がったラインを描いている梁だ。 最高レベルの《地》魔法が施された、恐らくこの世で最も理想的な強靭さを実現している建材である。 かなり登りにくい筈だが、充分に勢いの付いていたクラウン・トカゲの脚は、軽業師も同然に、その恐るべき急傾斜を軽々と駆け上がって行った。

一瞬、道のりのショートカットのために逆様になって駆け切ったところなど、魔物で無くても、 『貴様には"重力"という、この世で最も重要な物理的感覚が無いのか』と叫びたくなる光景である。

結局、クラウン・トカゲは、モノの数秒で城壁の上に到着した。

――城壁ハイウェイの上には、ハイウェイをまたぐアーチを脚部とした尖塔が、一定距離ごとに並ぶ。

1つ先の尖塔の下、アーチ通路をくぐって、朝の巡回当番の神殿隊士2人が現れた。各々、2匹のクラウン・トカゲにまたがっている。 白い武官服をまとった2人は、それぞれの手に、『槍』に変化させた魔法の杖を携えていた。

城壁直下までカバーする初歩的な『探知魔法』を展開していた巡回当番の神殿隊士2人は、 早速、城壁直下に集結した4色の海綿状の魔物を見つけて目を丸くした。 次いで、魔物を脅すため、『槍』を振り回し、魔法の火花を次々に落とす。魔物はそそくさと、退魔樹林の向こう側へと退散して行った。

「また新しい芸を開発したんじゃ無いの、相棒?」

エメラルドも、流石に呆れが止まらない。

トカゲの姿をした相棒は、『スゴイでしょ、褒めて』と言わんばかりに、つぶらな目をきらめかせて、エメラルドの手の届くところに長い首を下げて来た。

巡回中の神殿隊士2人もまた、呆れたような訳知り顔で、各々のクラウン・トカゲの上からエメラルドに手を挙げて挨拶して来た。

エメラルドも苦笑しつつ、手を挙げて応える。 その後、淡いアッシュグリーン色をした相棒のおねだりに応え、頭頂部の繊細なフッサフサを、丁寧にモフモフしてやった。

1-3想定外の前線

――数日後の竜王都。

朝から快晴ではあるが、空の半分は雲に覆われている。その空の下で、市街戦に伴う煤煙が幾本も立ち上っていた。 神殿軍の防衛線は、竜王配下の軍の猛攻撃に押されて、かなり後退している。

竜王配下の軍を指揮しているのは、猛将として有名な大物クラスの竜人だ。 小さな街区の下町に住む小物クラスの竜人を両親としながら、 大物クラスの竜体の持ち主として夢のような立身出世を遂げたという経歴の持ち主だ。 竜王の側近中の側近――『英雄公』の二つ名を取る、ラエリアン卿である。

なお、大物クラスの竜人は、『卿』を付け加えた呼称となるのが定番だ。 その突出したドラゴン・パワーに敬意を表しての事である。『卿』が付けば、ほぼ大物クラスの竜人と判断して間違いない。

今日のラエリアン卿の軍事作戦は、橋頭保の確保であろうと知れた。前線となったスペースは、 大物クラスの竜体の着地に耐えられる巨大な見張り塔を備えた、街区のメインストリートだ。

見張り塔は、城壁に挟まれたメインストリートを横断する、これまた城壁素材で出来た巨大アーチの上に建築されている。 神殿への攻略ルート上にあるメインストリートの通行状態を眼下に望み、かつ左右する位置にある。 軍事的に見れば重要なポイントだ。

前線では、戦闘モードたる竜体に変身した、数多の神殿隊士と、ラエリアン軍の武官とが、空中戦を展開していた。 街区を彩る高層建築の屋上や壁の間を飛び交いながら、ドラゴン・パンチやドラゴン・キックを繰り返している。

それぞれの後方に集結しているのは片や神殿の下級魔法神官、片やラエリアン軍の魔法使いだ。 それぞれチームを組んで、それぞれの軍を有利に導くために、可能な限りの最高強度の攻撃魔法を展開する。

両軍の《四大》エーテル魔法の閃光が瞬くたびに、きな臭い煙を伴った爆発音が幾つも轟き、 ストリートを覆う石畳が弾け飛んだ。 その場に居た竜体の幾つかが、爆発の熱や石畳の破片に襲われて、鱗に次々に穴を開け、痛みで悶える。

かまいたちのような無数の《風刃》がゴウゴウと音を立てて街路樹を木っ端みじんに切り刻み、 その陰に潜んでいた竜体の全身の鱗が切り飛ばされて行った。 そこへ襲い掛かった《水砲》魔法、ウォータージェットが、その強烈な水圧で、その哀れな竜体を城壁に叩き付ける。

エメラルドは腕の立つ神殿隊士の一人として、竜体に変身した状態で前線近くに出張っていた。 エメラルドの竜体は均整が取れていて、敏捷に動ける事を示唆している。 その鱗は、人体の時の髪色に準じた、ムラのあるエメラルド色だ。 濃いアッシュグリーン色が標準的な中にあって、その宝石のような澄んだきらめきは、目を引くだけの物はあった。

一方で、竜体に関しては、色合いの揃った美しい鱗であれば鱗の強度も揃っているという、重要なポイントがある。 故に、色ムラのあるエメラルドの竜体は、竜人としての美的感覚に照らせば、 美点も欠点もある平均的容貌という事になる(完璧美人では無い)。

だが、エメラルドの竜体の能力の高さは、人体の時の物と同様、 平均を遥かに上回る緩急自在の身のこなしとして、明らかに示された。

「重傷者、多数! 前線に出動して、回収可能な隊士を全て回収せよ!」

指揮官によるゴーサインに応じて、エメラルドは、他の救助部隊の隊士と共に前線に飛び出した。 ラエリアン軍の魔法使いによる数多の《火矢》を全て見切り、白い翼でジグザグに滑空しつつ、 舞踏の名手さながらに次々にかわして行く。 救助部隊の隊士は、救助活動と防衛戦を同時並行でこなすだけの、高い身体能力が要求されるのだ。

エメラルドは、前線に近い路上で動かなくなった神殿隊士を目指して突進した。 《風刃》でボロボロになり、更に《水砲》で城壁に叩き付けられて全身骨折する羽目になった、あの哀れな竜体だ。

その突進の勢いを利用して、軌道上に飛び出して来た敵方の竜体の腹部にドラゴン・パンチをお見舞いし、地面に叩き付ける。

更に襲って来た《水砲》を、《風》魔法をまとったドラゴン・ブレスで丸め込み、1個の大きな水球と化す。 水球はドラゴン・ブレスに包まれて一瞬ジュッと音を立てた後、プカリと空中に浮かんだ。

微小な水滴であれば、魔法が無くても物理的現象として空中を漂うが、 このような大きな水球を浮かべるだけの《風》魔法となると、《風霊相》生まれの竜体としても大したものだと言える。

次いでエメラルドは、大きな水球を蹴鞠と見立て、《風》魔法の威力をまとったドラゴン・キックを繰り出した。 水球は、魔法によって生じたジェット気流に乗って、襲って来た元の方向に、正確に飛び去って行く。

豪速球ストレートさながらの水球は、ラエリアン軍の魔法使い(人体)の1人を見事、捉えた。

想定外の反撃を食らう羽目になった魔法使いは、自分の後ろに居た大勢のバックアップ部隊を巻き込みつつ弾き飛ばされた。 雨水処理用の水槽に落ち、続いて落ちて来た水球の形崩れによって、水位の増した水槽の中に浮かぶ。 誰かがタイムリミットまでに救助しなければ、余分な水を流す水門に吸い込まれ、下へと向かう水路に乗って、 遂には一番麓の回廊を巡る水路の何処かで、赤っ恥と共に拾われる事になる筈だ。

エメラルドは、前線における戦闘プロセスを可能な限りの短時間で切り上げ、敵を深追いはしない。 前線の押し戻しは、あくまでも前線部隊の担当だ。 エメラルドは、目的の竜体状態の隊士の脚部を竜の手で引っつかむと、再び《火矢》が猛然と飛び交う中を、 高跳びと滑空を繰り返して後方に退却したのであった。

エメラルドが、意識を失った重傷者を最後方の治療部隊に引き渡したところで、神殿の軍全体に、《風》魔法を使ったアラートが響き渡った。 ラエリアン軍の側に内容が洩れぬよう、ノイズ暗号による機密保護が施されている。

「緊急応援、求む。我が神殿直下の街区、第3階層、第4街区の広場、ラエリアン軍に属するバーサーク竜1体、出現。 既に下級魔法神官による防衛がスタートしている。 バーサーク討伐および捕獲レベルに到達せる上級武官は、可能な者は全員、アラートに応じよ。繰り返す――」

エメラルドは竜体状態のまま、長い首を鋭く巡らせた。頭部の後ろへと生えている2本の竜角を改めて調整し、 繰り返されたアラートを一字一句、洩れなく捉える。違和感がぬぐえない。

(1体のバーサーク竜だけでも相当数の被害が出る――ラエリアン卿の軍事作戦の一環か? それにしては妙なパターンだ)

神殿攻略ルートからは、明らかに外れているのだ。 軍事作戦の常道で行くとしたら、バーサーク竜は陽動作戦の側だ。先にバーサーク竜で派手に混乱を起こしておいて、 本命の方、メインストリートの攻略を容易にする。作戦を遂行する順序が、明らかに逆である。

更に別の懸念が浮上して来た。神殿の上級魔法神官によるバーサーク出現予測の占術の精度が上がって来て、 特にバーサーク化しやすい『バーサーク危険日』が特定されるようになって来たが、 今日は『バーサーク危険日』では無い。

最近は神殿の奥にまで侵入して来る敵側のスパイ活動が激しくなり、『バーサーク危険日』の情報が漏洩するようになっている。 ラエリアン卿が、『バーサーク危険日』に合わせてバーサーク化しやすい武官を差し向けて来る事が増えて来ており、 それは今や一種の様式美と言えた。猛将ラエリアン卿は容赦なく、使える戦力は何でも使うのだ。

だが今のところ、ラエリアン卿は、『バーサーク危険日』では無い日に、 特定の武官を思い通りにバーサーク化させる方法は見つけていない筈である。神殿の方でも、それは同様だ。

――それなのに、バーサーク竜が出た? ラエリアン卿の――或いは、竜王の――配下の魔法使いの誰かが、 遂に『禁断のバーサーク化魔法(仮)』を開発したのか?

(胸騒ぎがする)

エメラルドは上級武官――ベテランの一人だ。竜体を解除し、素早く人体に戻る。 髪留めで緑色の髪をキッチリとしたアップにまとめ、白い武官服をまとう、いつもの姿だ。手には魔法の杖を握っている。 今までの多彩な《風》魔法は、この魔法の杖を介していた物だ。

エメラルドは人体の姿を取るが早いか、目的地までの最短ルートを疾走した。 武官として訓練された身体能力を発揮して、自陣のテントの屋根やバリケードを幾つも飛び越えて行く。

「相棒!」

声を張り上げると、いつも通り、相棒のクラウン・トカゲが、戦闘を避けて身を隠していた建物の陰から姿を現して並走して来た。 エメラルドはストリートの石畳を蹴り、空中でヒラリと身を浮かべ、後ろから追いついて来たクラウン・トカゲの背にまたがる。

人馬一体となったエメラルドとクラウン・トカゲは、瞬く間にトップスピードに達した。 対バーサーク緊急招集に応え、エメラルドに先行しているクラウン・トカゲと神殿隊士は、数人も居ない。 少し遅れて、後ろから駆けて来る数の方が多いくらいだ。

*****

対バーサーク竜の戦場となっている街区の中央の広場は、混乱の極にあった。

中央部で、ほぼ黒と言って良い程の黒々とした竜体が、高跳びと滑空を繰り返して、 白い武官服をまとった神殿隊士たちを追い回している。 バーサーク竜の、狂乱状態ならではの激しい動きに対応できる隊士が居ないのだ。 神殿の主戦力は前線の方に集中していて、竜王配下ラエリアン軍との戦いの真っ最中である。

城壁のあちこちには、既に、バーサーク竜のドラゴン・ブレスによる凄まじい変形が出来ている。

広場に出ていた屋台店や荷車(リヤカー)店など、ほぼ天然素材の燃えやすい物は、防火魔法陣を仕込んだ特別な魔法道具で保護されていたが、 ドラゴン・ブレスの余波を食らうたびに防火魔法陣の効果が崩れていき、端々に火が付き始めていた。今にも火達磨と化さんばかりだ。

このまま放置していれば、一刻もしないうちに、街区の方へも延焼するだろう。

だが、経験不足の新人の神殿隊士たちは、バーサーク傷を受けないように逃げ回る事に精一杯で、広場周辺の街区の保護にまで注意が向かない。

5~6人ほどの下級魔法神官が一丸となって懸命にドラゴン・ブレスを防いでいるが、 武官でも何でもない一般人の犠牲者が増え始めており、あちこちから悲鳴が上がっていた。

交易や観光などとして運悪く居合わせた、他の亜人類の者たち――数こそ少ないが、獣人、鳥人、魚人たちの姿も見える。

獣人パンダ族は色合いからして目立つ。その飛び跳ねるような身のこなしが注目されて、 イヌ族・ネコ族・ウサギ族といった弱小タイプの獣人に、避難のための乗り物として取り付かれていた。 両腕を翼に変えて飛び回る鳥人の脚に取り付いた獣人も居る。

魚人は、ヒレのようなヒラヒラの付いた、トロピカルカラーの長衣をはためかせながら走り回っている。 頭には乾燥を防ぐための特別なターバンを巻いていて、魚の細長いヒレを変化させたアクセサリーで、ターバンの結び目を装飾している。 衣服に火が付いて、慌てて人魚に変身し、思い切ったジャンプで雨水処理用の水槽に飛び込むという有り様だ。

先頭を切って到着したベテランの隊士が、上官として、新人隊士たちに指令を飛ばした。

「広場を封鎖して、一般人の避難を援助せよ!」

新人隊士たちが即座に指令に反応し、広場に取り残された一般人たちを目指して散開する。

広場には、エメラルドを含め、クラウン・トカゲと共に急行したベテラン隊士たちが次々に到着していた。

クラウン・トカゲは、ベテラン隊士たちが背中から飛び降りるや否や、訳知り顔で広場を縦横に走り回る。 適当に数があるので、バーサーク竜の気を反らすには、うってつけだ。

ただし、クラウン・トカゲによる目くらまし効果は、一瞬でしか無い。

バーサーク竜が鋭くベテラン隊士たちの方向を振り向いた瞬間、先頭に居たベテラン隊士が、魔法の杖を電光石火の勢いで振るった。 目にも留まらぬ一瞬、その魔法の杖は、《地》魔法を施した『仕込み槍』に変化していた。

――斜めに振り上げられた、その『仕込み槍』から放たれたのは、数多の手裏剣だ!

黒い刃の群れが、バーサーク竜の顔面を襲う。《地》魔法の産物だけに、その刃は重い金属並みの衝撃力を備えているのだ。

バーサーク竜は恐るべき反射速度を見せた。身をひねり、背中の黒い翼の片方を目にも留まらぬ速度で振り抜き、手裏剣の群れを弾いてしまったのである。

黒い翼――この、ほぼ純粋な黒竜と言って良い竜体は、《地霊相》の生まれなのだ。翼の堅牢さにも納得がいくと言うものである。

一方で、手裏剣によって生まれたその空隙は、クラウン・トカゲの一群が方々の物陰に身を隠し、 ベテラン隊士たちがバーサーク捕獲チームを組むのに、充分な時間だった。

エメラルドは、駆けつけたベテラン武官と共に、隊士4人+下級魔法神官2人から成るバーサーク捕獲チームを組み、第1班として先陣を切る。

――バーサーク竜の抑え込みは、想像以上に難しい任務となっていた。

バーサーク竜の全身を覆う、有刺性の異形の鱗が問題だ。 バーサーク毒を含む棘が長く突き出しており、バーサーク傷を負わずに近づくのは容易では無い。 異形の棘を持つ鱗がこすれ合い、耳障りな騒音をひっきりなしに立てている。

バーサーク化している本人も、鱗の着け心地については最高に不快な気分になっている筈だ。 それでも、人体に戻ろうとしないのはどう言う訳なのか。自分で自分を不快にして、他者への攻撃性をつのらせているのか。

エメラルドを含む4人の隊士は『仕込み槍』を構え、バーサーク竜の包囲ラインを詰めた。

飛び道具を使い、バーサーク竜の足元や翼を狙って動きを奪うという作戦だ。 下級魔法神官を含むチーム・メンバーと息を合わせ、城壁の出っ張り、燃え残った屋台の上、 三本角(トリケラトプス)車の停車ポール、街路樹――利用可能な限りの足場を飛び回り、連続して手裏剣を放つ。

しかし、信じられない程のスピードで繰り出されたバーサーク竜の手足の爪に、 《地》魔法の手裏剣を次々に弾かれてしまう。《風刃》と似た攻撃法だから、 エメラルドにとっては得意な攻撃法の一つだが――敵ながら天晴れな身のこなしだと言わざるを得ない。

――バーサーク竜の出現頻度が上がったため、ベテラン武官が次々にバーサーク傷を負い、その結果として、 強いバーサーク竜が急増している。このバーサーク竜も、恐らく熟練の武官であろう。とは言え――

(強すぎる!)

竜体そのものは一般的な中小型で、小物クラスと知れる。平均をかなり上回るサイズだが、武官としては標準だ――中の下とすら言える。 だが、武官としては最強レベル――近衛兵レベルの強さだ。 下級魔法神官の攻撃魔法をすら、「竜の爪牙術(上級武官が習得する最高位の剣術に相当)」で弾いてしまう。

エメラルドの属する第1班は早くも息切れを起こし、第2班へと交代する。隊士の数が揃わなかったため、 第3班は人数が足りず、体力に余裕のある隊士が飛び入りする事になっている。

通常は、バーサーク竜1体当たり、4人の隊士と2人の下級魔法神官が対応する。 竜体のままバーサーク傷を受けると、自身もその場でバーサーク化してしまうという懸念に加えて、 クラウン・トカゲの脚力が急に必要になった場合に備えて、人体のまま対応するのだ。

変身魔法にしても、《宿命図》エーテル魔法を通じて、全身組織を細胞レベルで切り替える――と言う精密さが要求されるため、電光石火と言う訳には行かない。

変身状態が混乱したままフリーズした場合は、《宿命図》エーテルそのものに干渉するレベルの、特殊な治療魔法が必要になる (この手の治療魔法は神官にしか出来ない。神官が扱うエーテル量とエーテル深度は、武官や一般人に比べて圧倒的に大きく、深い)。

バーサーク竜の捕獲手順は、おおむね以下の通りだ。

1人の下級魔法神官が地上にバーサーク竜を拘束するための最高強度の『拘束魔法陣』を展開・維持しておき、 もう1人の下級魔法神官が、バーサーク竜の動きを鈍らせるための攻撃魔法と、ドラゴン・ブレスからチーム全員を守るための防御魔法を担当する。

そして、攻撃魔法と防御魔法の合間を縫って、4人の隊士がバーサーク竜を包囲し、バーサーク竜を、拘束魔法陣の内側に追い込むのだ。 そして、その拘束魔法陣に重ね合わせる形で強制的な竜体解除の魔法陣を展開すれば、バーサーク竜は人体へと変わる。 そこへ、竜体への変身を禁じるための特殊な拘束具を取り付ければ、取り押さえが完了する。

なお、今はあらかじめ竜体解除の魔法陣を描き込んだ、巨大なシートもある。 通常の魔法陣より変化はゆっくりだが、あらかじめ大物クラスにも対応できる大型の物を仕込んであるので、効果はテキメンだ。 拘束魔法陣の中で動けなくなったバーサーク竜に、このシートをかぶせるという方法もあるのだ。

バーサーク竜は漆黒の翼を大きく広げた。黒い翼の軌道に沿って白いエーテル流束が輝き、《風刃》が轟音を上げる。

白い三日月の形をした一群の刃が閃き、手裏剣さながらに舞い散った。

その先にあった広場の街路樹の葉が飛び散り、そこを足場にしていた隊士の1人が、慌てて身をひるがえした。 その拍子に2人の下級魔法神官を巻き込みつつ地面に叩き付けられ、3人もろとも失神する。 もう少し遅ければ、全身をズタズタに切り裂かれていたであろう。

バーサーク竜は恐るべき戦闘技術を持っている。《風霊相》生まれでも無いのに、これ程に強い《風》魔法を使えるとは驚きだ。

「剣舞姫(けんばいき)……! 奴は女(メス)だが、称号持ちだ!」

バーサーク竜の足元への接近に失敗したものの、もう1人の隊士は、バーサーク竜の爪牙の特徴をハッキリと確認していた。

後方に退いて体力を回復していたエメラルドは、ハッとしてバーサーク竜の手足の爪に注目する。

一般的な竜体の爪牙は、城壁の色に似た薄灰色だ。しかし、目の前に居るバーサーク竜の爪牙は、濃密な《地》エーテルによる、漆黒の補強部分に縁どられている。

単なる汚れだと思っていたのだが――確かに補強パーツだ。

エメラルドは一瞬、唖然とした。

そのうちにも、2人の隊士が一斉に城壁に叩き付けられた。何処かの骨が折れる時の嫌な音が響く。

「くそぅ! 2班合同で取り押さえるんだ! 今、上級魔法神官の出動を依頼した! 到着まで堪えろ!」

下級魔法神官のうち、最も年かさのベテランが指示を下した。隊士たちにも否やは無い。

隊士たちの消耗も激しく、3人が失神ないし骨折で脱落していた。最初は辛うじて3班分の人数であった物が、2班でしか回らなくなって来ている。 事態が手に負えなくなるのは、もはや時間の問題と言えた。

1-4汝の敵を愛せ

黒い翼、黒い鱗――黒いバーサーク竜は、咆哮した。その咆哮は、だが、同族たる竜人にとっては言葉である。

『私に近づかないで!』

黒いエーテルをまとったドラゴン・ブレスが、エメラルドの方向を襲う。

エメラルドは持ち前の身のこなしで横っ飛びし、綺麗にかわした。エメラルドの立っていた位置の石畳が、ドラゴン・ブレスの衝撃で、後方へと盛大に弾け飛ぶ。

大重量と大衝撃を伴う、《地》の攻撃魔法の威力は、実に恐るべきものであった。

石畳の破片は、超音速の石礫となって飛び散り、三本角(トリケラトプス)車の停車ポールに掛かっていた掲示板を穴だらけにし、停車ポールを傾けた。 その余波で、停車ポール下の転移魔法陣も傾く。

8人のベテラン隊士がチームを組み、総がかりで対応しても苦戦するレベルだ。4人の下級魔法神官が加勢していたが、 武官より遥かに身体能力に劣る下級魔法神官(人体)は、バーサーク竜にとっては倒しやすい相手と言えた。

バーサーク竜は、細長い漆黒の瞳孔を持つ薄い金色の目を、ギラリと光らせた。一瞬のチャンスを逃さず、《風刃》をまとった尻尾を猛烈な速度で振り払う。

3人の下級魔法神官が、尻尾になぎ倒され、次々に吹っ飛ばされていく。 《風刃》に対する防御魔法が間に合わず、3人はそろってズダボロになり、そのまま城壁へと叩き付けられた。 身体各所を骨折し、失神はしてもペシャンコにならなかったのは、竜人としての身体の物理的頑丈さのお蔭だ。

尻尾を高速で振るったため、その遠心力で、バーサーク竜の足が一瞬、地上から浮く。

それは間違いなく好機だった。

エメラルドは、先輩のベテラン隊士と共に、最大限の長さにした長物を構えてバーサーク竜の足元に迫った。

――不安定になっている竜体の足元を、渾身の力で薙ぎ払う。強い手応えが来た。

バーサーク竜は身体をふら付かせ、遂に黒く光る拘束魔法陣に足を突っ込んだ。

「やったか!?」

しかし、バーサーク竜は拘束魔法陣に捉えられたにも関わらず、死に物狂いで魔法に抵抗した。

「いかん!」

最も年かさのベテランたる下級魔法神官が、真っ青になった。

バーサーク竜は、その圧倒的な爪牙術で、拘束魔法陣がセットされていた石畳を粉砕したのである。 普通のバーサーク竜は、拘束魔法陣に捕捉された段階で諦観の気分が湧くのか、若干、狂乱が収まるのだが――

――だが、この女(メス)のバーサーク竜は――

(何故だ!? 何が、この女を、これ程までに頑(かたく)なにさせているのだ!?)

最初は些細な物であった違和感が、エメラルドの中で急に膨れ上がった。

咆哮の中で聞こえて来た言葉。バーサーク化している者としては意外な程に、決然と拒絶していながらも冷静な気配があった。 そもそも、今日は『バーサーク危険日』では無いのだ。では、何故――

――改めて広場の状況を確認したエメラルドは、西側に珍しい看板が掲示されているのに気付いた。 四色の『卵』を描いた、妙に女性向けを思わせる繊細なフレームデザインの看板だ。

(――まさか!?)

或る可能性に思い至り、エメラルドは、ハッと息を呑んだ。

年かさの下級魔法神官は流石にベテランだ。再び襲って来たバーサーク竜の尻尾を、ギリギリでかわす。 しかし、そこに付いて来た《風》魔法による突風には意表を突かれ、城壁にしたたかに叩き付けられる羽目となった。

そこで下級魔法神官は、失神した。打ち所が悪かったのは明らかだ。

――バーサーク竜を取り逃がしてしまう――もはや、討伐しか無いのか。

戦闘モードに対応できる強い拘束魔法陣を扱う魔法神官が、一人も居ない。エメラルドを含め、隊士の全員が真っ青になった。

「と……、討伐に移行!」

臨時チーム代表を務めるベテラン隊士が叫んだ。上級魔法神官は、まだ到着していない。

バーサーク竜が、素早く後退して身構える。その竜体を取り巻くエーテルのモヤの中で、《火》魔法を暗示する赤いエーテル流束が、激しく閃いた。

破壊的な《火》魔法を伴ったドラゴン・ブレスを吐こうとしている。「討伐」という言葉に反応したかのようだ。

(――やはり、この女は!)

エメラルドの中で、半分以上の確信が固まった。

同時に、バーサーク竜が絶望的なまでに強烈な攻撃魔法――ドラゴン・ブレスを放つ。

その方向は――やはり、エメラルドが推測した通りのものだった。

「東はダメだ!」

エメラルドのアドバイスに従い、広場の東側に集結していた隊士たちは、死に物狂いで散開した――広場の西へと。

灼熱の豪風が、今まで隊士たちが立っていた石畳を粉砕しつつ通り過ぎ、燃え残った屋台を完膚なきまでに粉みじんにした。 屋台を保護していた防火魔法陣が、魔法道具ごと、一瞬で吹き飛んだのだ。

そして、運悪くも、新人隊士の手引きで東側のストリートを避難している一般人に襲い掛かる。

「防壁(ウォール)!」

ベテラン隊士の1人が、咄嗟に初歩的な防御魔法を放ったが、余りにも壮絶なドラゴン・ブレスの前には無力だった。

標準的なアッシュグリーン色をした、魔法で出来た透明なガラスのような防壁は、《火》魔法ならではの灼熱にさらされ、見る間に蒸発して行った。

だが――

次の瞬間、空気が――エーテルが、ビシリと音を立てた。

死の絶望に立ち尽くした新人隊士と一般人たちの目の前で、ドラゴン・ブレスは黒い火花となって激しく爆(は)ぜ、さえぎる物の無い遥かな上空へと跳ね返って行った。 まるで、見えない鏡に全反射を食らったかのようだ。

「なッ、何だ!?」

その疑問のどよめきは、すぐに収まった。

三本角(トリケラトプス)車の停車ポールの下で、上級魔法神官が魔法の杖を掲げていたのだ。 その魔法の杖は、強力な《四大》エーテル魔法が発動した事実を証明するべく、赤く明るく輝いている。

――ドラゴン・ブレスによる煤煙が、ひとしきり収まる。

そこには、魔法の大きな『盾』が掛かっていた。ストリート幅をシッカリとカバーしている。

つい先ほど、ドラゴン・ブレスを全て弾きおおせた『盾』――《地》を象徴する金色のシンボルが刻まれているだけの、 シンプルな半透明の黒い『盾』だが、その圧倒的な防衛力は、今まさに示されたばかりだ。

上級魔法神官の衣服は、一見して街着さながらの高い襟の淡色の上衣と濃色の下衣という、良く見かける組み合わせだ。 その上に、カッチリとした雰囲気の、春夏期の文官服のような淡色の袖なしの前開き長衣をまとっていたが、 上半分を覆う大きな装飾パーツは神官服にしか付いていない物で、赤い鱗紋様に彩られていた。

「――《火》の上級魔法神官だ!」

新人隊士が叫んだ。黒いバーサーク竜は再び、薄い金色の目をギラリとさせた。

上級魔法神官は、強い魔法を発動したばかりで息切れが収まっていない。恐らく、此処へ転移する時にも、かなり体力を使った筈だ。 三本角(トリケラトプス)車の停車ポール下の石畳はひどく乱れていて、そこにあった転移魔法陣の形がズレていたのだから。

一瞬の、隙。

上級魔法神官の息が整う前に、バーサーク竜の攻撃態勢が整った。バーサーク竜は黒い翼を広げ、今にも《風刃》を巻き上げようとしている。

「――ダメ!」

エメラルドはバーサーク竜を抑えようと、本能的に動いた。先輩隊士の1人が何か叫んだが、もはやエメラルドの耳には入らない。 体内の《宿命図》エーテル魔法が燃え、エメラルドの身体は、見る間に竜体へと変じる。

バーサーク竜はギョッとしたように口を開け、長い首を巡らせた。《風刃》の轟音が一瞬、収まる。

――漆黒の翼を持つ黒色の地竜と、純白の翼を持つエメラルド色の風竜が対峙した。

そして、瞬く間に竜体同士ならではの、くんずほぐれつの戦いになった。バーサーク竜がエメラルド竜の首に噛み付こうとする。

エメラルド竜はバーサーク竜の足元がガラ空きになったのを狙い、自慢の足技を振るい、渾身の力でバーサーク竜の膝を蹴り砕いた。

バーサーク竜が痛みにひるんだ隙に背中を捉え、バーサーク竜をうつ伏せにして組み敷く。 黒い翼がボンヤリと上がっていたままだったので、その隙間に潜り込めた形だ。

そのまま、竜体バージョンのレスリング技さながらに、頭部と両肩のポイント、無事な方の片脚をガッチリとホールドする。

バーサーク竜は激しく抵抗した。長い尻尾を振り回し、エメラルド竜の足元を攻撃する。

瞬く間に、エメラルド竜の鱗が光沢を失い、ボロボロになって行く。バーサーク竜の有棘性の鱗のせいだ。 バーサーク毒が含まれている棘は鋭く、身悶えするたびにエメラルド竜の鱗を突き刺し、中の肉を貫いた。

足首のみならず、鱗の弱い腹部をこれでもかと突き刺される形になり、エメラルド竜は激痛に呻いた。 バーサーク毒は、気が遠くなるような激痛をもたらすのだ。

バーサーク毒に汚染された血液が鱗の外へ溢れ出し、直下の石畳を染めて行った。

「無茶だ!」

隊士たちが茫然として叫ぶ間にも、上級魔法神官は素早く魔法陣を展開した。

上級魔法神官の手前の石畳の上、漆黒に艶めく光を放つ、黒い檻の如き拘束魔法陣が展開する。 そこに、強制的な竜体解除を施す金色の魔法陣が重なって輝き始めた。通常の2倍の明るさだ。

2竜体をカバーする大きさとエネルギーを備えた魔法陣は、上級魔法神官の魔法の杖の動きに応じて、 破壊を免れた滑らかな石畳の上を、滑るように移動して行った。バーサーク竜とエメラルド竜を目指して、着実にスライドして行く。

バーサーク竜は絶望と拒否を込めた鳴き声を上げ、拘束魔法陣から遠ざかろうと、身体をくねらせる。 実に奇妙な反応であり、行動と言えた。

エメラルド竜は、先程から感じていた違和感を確かめるべく、尻尾でバーサーク竜のお腹を捉えた。

(――妊娠している!)

この竜体は、卵を抱えているのだ。しかも、お腹が大きく膨らんでいる――臨月であるのは明らかだ。

バーサーク竜の妙な行動にも納得がいく。広場の西側には、 この女が叩こうとしていた『卵』の看板が掛かっていたのだ――この辺りでは唯一の、産婦人科を専門とする医療局の看板が!

その気になって感覚の焦点を合わせてみれば、バーサーク竜には母親としての意識があり、 その妙な鳴き声の中に、ハッキリとした訴えが混ざっているのが分かる。

(私、絶対この子を産む! お願いだから、邪魔しないで! 人体化は、今はイヤ!)

竜体で無いと出産できない。メスのバーサーク竜は本能で、竜体解除の魔法による強制的な人体化に抵抗していた。 今にも排卵しようとしているところで、陣痛の痛みで、いっそう荒ぶっている。

別の最寄りの産婦人科は、魔境を幾つも連ねた先の回廊にある。竜人の出生率が低い事もあり、産婦人科の数は少なく、分散していた。 いつ出産するか分からない臨月状態では、竜体のまま、魔境を通って行かなければならない。

――転移魔法陣は、魔境に分断されて孤立している回廊同士を連結する重要な交通手段だ。しかし、 平坦スペースに限りのある竜王都では、ほとんどの転移魔法陣が、戦闘モードたる竜体状態に対応していないのだ。 自力飛行できない小物クラスは、クラウン・トカゲの協力が無ければ魔境を突っ切る事は不可能だ。 だが、クラウン・トカゲは、手足に鋭い爪を持つ竜体を乗せて、長く走る事は出来ない――

ホールドした箇所から激痛と流血が広がり、エメラルド竜の鱗がボロボロになって行くが、構わず抑え込む。 そして、バーサーク竜に対する下半身の締め付けを緩めた。

『産みなさい! 私が抑えてやるから!』

バーサーク化している竜体の意識に、その語り掛けが通じるかどうかは、未知数だ。 しかも陣痛が始まれば、妊婦は、一切の感覚が弾け飛んでしまうと聞く。

一方で、上級魔法神官は、舗装状態が乱れた石畳に苦労していた。 滑らかな平面で無いと、正確な形の魔法陣を維持し続けるのは難しいのだ。

しかし、程なくして、地上に展開された二重の魔法陣は、ようやく難所を通過した。 今まさにバーサーク竜とエメラルド竜が折り重なっているポイントに潜り込もうとする。

――エメラルド竜は、死に物狂いで叫んだ。

『止めて! 彼女、卵を産もうとしている!』

それは竜体ならではの咆哮ではあったが、同じ竜人である面々には、ちゃんと言葉として伝わった。

その場にいた全員が真っ青になる。上級魔法神官は唖然として、魔法陣の移動を停止させた。 判断の付かない状況に直面し、上級魔法神官の表情は迷いで歪んでいる。

「まともな産婦人科にかからなかったのか!? 鎮静効果のある妊婦用の丸薬がある筈だが」

臨月に入った妊婦は、気が立っていて危険な状態だ。戦闘モードたる竜体であり続ける時間が長びくからだ。 妊婦がバーサーク化していた場合、ほぼ例外なく、卵をあきらめて強制的に竜体を人体に戻すのが暗黙のルールになっている。 つまり卵は変身魔法に伴うエーテル凝縮で砕け、中のヒナは死ぬのだ。 割合こそ少ないが、竜人の出生率の低さに直結している原因の一つだ。

上級魔法神官は暫し口元を引きつらせていたが、決心は早かった。魔法の杖が再び赤く光る。

「――《水の精霊王》の御名(みな)の下に――《調整》!」

黒い檻の如き拘束魔法陣の上で金色に輝いていた竜体解除の陣が、姿を変えた。青い光に輝く、全く異なる魔法陣が展開する。 青い魔法陣は、円周に囲まれたヘキサグラムを何種類もの円環が彩るという、複雑なパターンだ。 その黒と青の魔法陣の組み合わせが、改めてバーサーク竜とエメラルド竜の真下の地面に潜り込んで行った。

ベテランとは言え、まだ独身と言った年頃の若い隊士が目を丸くする。

「何ですか、あれ?」
「いつか、結婚したら覚えておきたまえ。エーテル循環を整える医療用の魔法陣の一種で、 女性のヒステリー、特に妊婦の気分を落ち着ける効果が入っている――バーサーク状態の妊婦に効くかどうかまでは分からんが」

上級魔法神官の身体は、疲労で震えていた。言葉の切れ目ごとに、激しい息遣いが入る。 上級魔法神官と言えども、即席かつ遠隔スタイルで最高難度の《水》魔法を発動するには、大いに体力を使うのである。

魔法神官が懸念した通り、バーサーク状態の妊婦には効果は薄い――と言えた。 普通の妊婦なら、リラックスの余りウトウトとしてしまう程の反応を示すのだが――

バーサーク竜は相変わらず大暴れして、刃物魔法を繰り出していた。 竜体を取り巻くエーテルのモヤと化した魔法の杖を、全力で振り回しているのは明らかだ。 エメラルド竜は何度も致命傷を負いかけるが、防刃魔法で本能的にしのいで行く。

2つの竜体がうねる度に魔法の杖に相当するエーテルのモヤが光り、鋭い剣戟音が響く。 意外な事に、真下に展開された青い魔法陣は、バーサーク傷の激痛で錯乱しかねないエメラルド竜に、 冷静な判断力を与えていた。

やがて、バーサーク竜はカッと目を見開き、身体を細かく震わせた。 前腕が2本ともパタリと地面に落ちる。竜の手で石畳をガリガリとかきむしり出した。妙に人の声に似ている呻き声が続く。 陣痛の痛みがひときわ強くなり、魔法を繰り出すどころでは無くなったのだ。

――ついにバーサーク竜は出産した。大きく竜体をくねらせると、赤い色の卵が転がり出す。

卵の大きさは、人の両手に乗る程度だ。クラウン・トカゲやダチョウの卵を、ほんの少し上回るサイズである。 サイズが小さすぎるために拘束魔法陣の影響を受けず、その領域の外に転がって行った。

特に素早い隊士が卵を拾い上げ、三本角(トリケラトプス)車の停車ポールの台座の上に卵を安置する。 台座は石畳の乱れに伴って少し傾いていたが、その上には苔が生えており、卵の手頃なクッションになっていた。

上級魔法神官は、即座に青い魔法陣を竜体解除の魔法陣に変えた。

2竜体の真下で輝き始めた金色の光が、円環とその内に描かれた図式パターンを、グルリと巡る。

魔法陣は正確に作動し、2竜体をスムーズに人体に変えて行った。 ほんの瞬きほどの間に魔法陣の光は一巡し、そこは、血みどろの2人の女武官(人体)が横たわる場となっていた。

エメラルドの全身は、血にまみれて無残な状態である。 かねてから担架を用意していた隊士たちが駆け付けて、エメラルドの身体を担架に移すと共に、 武官の間では一般的な、一時的に激痛を緩和する鎮痛魔法を施した。

バーサーク化していた方の竜体は、人体になった後も出産のショックで頭がフラフラしたまま横たわっている状態だ。 上級魔法神官はその隙をついて、女の首に素早く拘束具を嵌めた。 竜体への変身を禁じる拘束具は、幅広のチョーカーのような形だ。 首輪のように、喉元にある逆鱗を、すっぽりとカバーする形になっている。

今までバーサーク竜だった女武官は、人体の姿になってみると、意外に美女だ。 返り血を浴びた武官服、艶やかな黒い髪、薄い金色の目――見る間に、目の焦点が合って行く。

チョーカーに似た拘束具を装着させられたばかりの女は、ギョッとしたようにお腹に手を当てた。 当然、卵の感触が無い。口をポカンと開けて素早く身を起こし、辺りをサッと見回す。

三本角(トリケラトプス)車の停車ポールの台座に置かれていた赤い卵に気付くなり、 女は異様に折れ曲がった片足を引きずりながらも、ダッシュで駆け寄って行く。 赤い卵を抱き締め、卵の中から確かな鼓動と身動きの気配を感じると、女の目に涙が溢れた。

「私の赤ちゃん……!」

広場にはひとしきり、念願の母親となった女の号泣が響いた。

意識を取り戻したばかりの、ベテランの下級魔法神官が、驚き覚めやらぬと言ったように頭を振った。 半分意識を取り戻したばかりで朦朧としては居たが、出産の瞬間を確かに目撃していたのである。

「全く何という……ひとつ間違えていれば、貴殿の地位も危うかったろうに――《火》のライアス殿」

――《火》のライアス――と呼ばれた上級魔法神官は、すっかり疲れ果てて魔法の杖にすがってはいたが、 そのワインレッド色の目には、ホッとしたような薄い笑みが浮かんでいた。 注意して見れば、ベテラン下級魔法神官と同じくらいの、中堅の年齢層である。

「汝の敵を愛せ――とは、この事だよ」

上級魔法神官は、呆けたまま担架に乗せられているエメラルドを、感嘆の眼差しで見つめた。

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