深森の帝國§総目次 §物語ノ傍流 〉花の影を慕いて.第七章(小説版)

花の影を慕いて/第七章.時の娘

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  1. テンプルトン町…薔薇の名前
  2. テンプルトン町…ギャング襲撃
  3. テンプルトン町…乾坤一擲の大勝負
  4. テンプルトン町…惑乱果つる処
  5. クロフォード伯爵邸…時の娘〔一〕
  6. クロフォード伯爵邸…時の娘〔二〕
  7. クロフォード伯爵邸…時の娘〔三〕
  8. 首都…虚実流転
  9. 首都…花の影を慕いて

1.テンプルトン町…薔薇の名前

ギネスの工房は、テンプルトンの町外れの中小ストリートの一角にある。

町の一番外側を巡る田舎道が、建物の向こう側を走っている。 そこから先には、既に、クロフォード伯爵領の大部分を占める緑の丘陵地帯が広がっていた。

最寄りの停車場で馬車から降りた三人連れは、早速、ギネスの工房の扉に近づく。

すると、いきなり野太い声が工房の中から響いて来た。

「一見さん、お断りだ! 帰りやがれ!」

当然と言うべきか、工房の主は、馬車の音、即ち来客に気付いていたのである。

工房に更に接近した三人――マティとルシールとキアランは、工房から聞こえて来た声の主を、一斉に注目した。

声の主は、内部を仕切っているカウンターの向こう側に、背を向けて座っていた。 そこには、宝飾細工のデザイン設計のためなのであろう、大きな製図台がデンと鎮座している。

工房のそこら中の壁には注文書や設計図と思しき様々な大きさの紙がピン止めされており、 一見して雑然とした印象を与えている。しかし、工房の床は頻繁に掃除されているのか、なめたように綺麗だ。

いかにも頑丈そうな実用一辺倒の大きな戸棚が幾つか壁際に据え付けられており、 一部の開いている引き出しの中に、様々な工具が見える。 戸棚の一つは書棚として使われているようで、業務用ファイルや資料と思しき物がズラリと並んでいる。 部屋の奥の方を更に仕切るカーテンの裏には、貴重な宝飾品の類を保管するのであろう、 本格的な金庫が見え隠れしていた。

『ロイヤル・ストーン』宝飾店が誇る、トップレベルのベテラン職人・ギネス。 黒いボサボサ頭、後ろからも明らかに見て取れる盛大なヒゲ面、そして熊のような体格と雰囲気の持ち主だ。

「昔かたぎの職人さん……」
「ガミガミ・アントンみてえだ」

ルシールは絶句し、マティは感心した。キアランは無言のままであった。

このむくつけき大男の手が、あの美しく、繊細かつ緻密な宝飾細工を次々に生み出していたのである!

マティが早速、障害となっているカウンターに、身軽な動きでよじのぼった。

「レナード・カフスを作ったの、ギネスだろ? 新年社交でスッゲェ評判だったってさ!  ダレットのオバハンを覚えてる?」

ギネスは図面を前に、何かしら悩んでいた様子である。 ギネスは苛立たしそうに、シャツの袖をまくり上げた毛深い腕を振り回した。

「あァんだと? 人間のツラと名は忘れろ! この虚しき世間に覚えても無意味だ」
「それって哲学かい、おっさん」

カウンターの上に鎮座したマティは、明るい茶色の目をキラキラさせ、元気一杯に突っ込んだ。 よほど気に障るツッコミだったらしい。遂にギネスが振り返り、目を引き剥いて怒鳴った。

「うるせえガキだな! 手が空いたら放り投げるぞ、首、洗ってろ!」

ウッカリ振り返った拍子に目に入った三人の姿――マティとルシールとキアラン――が、それなりに珍しい存在だったのか、 ギネスはそのまま、訝しそうな顔になって見入って来た。

改めて正面から眺めてみると、ギネスは実にもっさりと毛深い、熊のようなヒゲ面の中年男である。 ボサボサとした太くいかつい眉を寄せてはいたものの、しかし、その眼差しは、驚く程に柔らかく繊細だ。 この男、強面の割に、内面に詩人を飼っているらしいと見える。

『ギネスの注意を引く』という目的を達したマティは、生真面目な顔つきになり、 大先輩の技術者に敬意を表して、速やかにカウンターから降りた。 これでも、名家の御曹司としてのマナーは心得ているのである――ただし、子供バージョンである。

半身をねじって椅子の背に肩ひじを置き、ギネスはフンと鼻を鳴らした。更に野太く低い声でうなる。

「変な三人組だな、黒に茶に栗かい。五秒で説明しろ、私は忙しいんだ」

ルシールは、即座に反応した。

最初の二秒で手提げ袋から小箱を取り出す。次の一秒で小箱の蓋を開けながらギネスに迫る。同時に口を開く。

「このブローチを作ったのは、あなたでございますか?」

きっかり五秒で完了。いきなりの質問に、ギネスも一瞬、目が点になったのであった。

「ホントに五秒で説明したね……」

マティは感心しきりである。キアランも無言でルシールを眺めるのみだ。ルシールも、やる時はやるのであった。

ギネスはルシールの勢いに気を呑まれたまま、素直にアメジストのブローチを調べ始めた。 繊細な宝飾細工を扱う手つきは、やはりプロと言うべきか、極めて慎重だ。

流麗なラインで切り取られた、バラの花の形。そのラインを彩るのは、繊細なアメジストの粒。

ギネスは相変わらず、ボサボサとした眉根を寄せて威嚇中の熊のような顔になっているものの、 その眼差しには、次第に、戸惑いと驚愕の色が浮かび始めていた。

やがて、ギネスは顔を上げた。

「確かに私が注文で作ったブローチだ……26年前の二月受注、制作期間七ヶ月なり」
「すげー記憶力」

マティは、まじまじとギネスを眺めるばかりだ。ルシールはドキドキしながらも、質問を重ねた。

「誰が注文を?」
「私は納品済みの客のツラと名前を忘れちまうんだよ。頭の配線が、生まれつきイカれてる」

ギネスは顔をしかめ、仕方無さそうに自分の頭を指差して見せた。 ギネスの脳みそには、記憶パターンがまだらであると言う、いささかの欠陥があったのである。

「顧客台帳がある筈です」

キアランが静かに指摘した。

ギネスは一瞬、キョトンとした様子でキアランを眺めていたが、やがて納得の表情を見せた。 むくりと立ち上がると、まさしく熊であるかのように工房の中をのしのしと動き回り、 熊が蜂の巣を探っているかのように、奥の書棚に手を突っ込み、引っ掻き回す。

「良く気付くな、黒エナメルは」
「ギネスの頭が、別仕様なだけだと思うけど」

即座に突っ込むマティなのであった。

やがてギネスは、一番古い台帳を取り出して来た。

「作品七番、九月納期……これだな、納品時の確認に直筆のサインを頂いてたんだ。 刻み文字の注文もあった――『愛しいアイリスへ、結婚の記念に、L』……」

事のついでのように付け加えられた説明の内容に、ルシールは一瞬、息を呑んだ。 少し震える手で台帳を受け取り、該当するサインを確かめる。マティもカウンターの上に身を乗り出し、一緒にのぞき込んで来た。

「R・ローリン……」
「家名の方のローリン! レオポルドじゃ無いんだ……!」

キアランも台帳をのぞき込み、納品書に書かれた受領サインに注目する。意外に流麗な筆跡だ。

――この筆跡は……?

キアランは目を見張り――そして、次の瞬間には、鋭く息を呑んでいた。

――まさか。

キアランは急に身を返すと、ギネスの工房を飛び出した。

「急用が出来た……確認する必要がある」

いきなりのキアランの行動に、ギネスは勿論、マティも呆気に取られていた。 ギネスとマティが、慌てながらも次々に工房を飛び出し、二人で並んで、表の通りを確認する。

キアランは既に馬上の人となって、あっと言う間に遠ざかって行くところであった。

「急に何だ? 顔色、変わってたけど……」

ギネスも流石に、呆気に取られた熊さながらに唸るのを忘れ、ポカンとして呟くのみである。

通りに出て来ていたクロフォードの馬車の若い御者が、帽子に手を掛け、ギネスの方とキアランの方を交互に見ながら、解説を口にした。

「クロフォードの町に行って来るとか、何とか。一時間も経たずに、戻って来られるんじゃ無いかと思いますが」

暫く外を窺っていたマティは、やがて、工房の中に残っているルシールの方をクルリと振り返った。

「どうする? ルシール……新聞に尋ね人の広告を出す?」

しかし、ルシールは、心ここにあらずだった。台帳に記されたサインを、ボンヤリと眺めているばかりだ。

「……何だか訳が分からない……正式に結婚した筈なのよ。 母は何故、『アイリス・ローリン夫人』じゃ無かったの? 何故、『ライト』名のままだったの?」

口では疑問形を重ねてはいたが、次第に、ルシールの心の中に、黒いシミのようなものが――確信を伴う絶望感が、広がっていった。

思い出されるのは、昨日の大広間で飛び出して来た、ウォード夫人の言及である。 レオポルドこそが実の父親だと言う、恐るべき可能性だ。 そして同時に、レオポルドが否認するように、アラシアが主張するように、『レオポルド以外の胡乱な誰か』という可能性も、 恐ろしい事に――半分は、確実らしい。

プレイボーイ貴族が、身元を隠すための偽名を使って、平民クラスの若い娘を弄ぶ事は昔から良く聞く話だ。 そして大抵の場合、男性側は、その騙し討ちも同然の手法と手際の良さを称賛されるが、 女性側は、誰からも祝福される事の無い妊娠と言う結果と共に、全てを失ってしまう。

恋に恋している間は、まだ幸いだ。だが、憧れと現実は、違う。

恋愛が終わる、その時。結婚が成立しているか否かは、博打である。 とりわけ貴族社会に接触するとなると、賭けに失敗した場合、男性側はエロスと言う名の憧れを終わらせるだけで済むが、 女性側は、一生続く社会的立場の低下と、名誉失墜のリスクを負わねばならないのだ。

現在、クロフォード直系の第一の血族として名誉を得ているレオポルド。 ダレット夫人となったレディ・カミラは、まさに勝者だ。 敗者となり、『ふしだらな女』と言う評価に付いて回る諸々を恐れて、地元を逃げ出すしか無かったのであろうアイリス。

貴族社会と言う『現実』が決定する、その格差は――途方も無く、大きい。

――庭師として、植物が成長していく長い時間を考える事の多かった母が、 男性の一時的な美貌や財布の中身に、目がくらむような女性だったとは、とても思えないけれども。

それでも、若い頃のレオポルドには――或いは『レオポルドでは無い胡乱な誰か』には――、それ程の、何かがあったのだろうか。 一生の愛を捧げ、人生を投げ打っても良いと思う程の何かが。 実際、アシュコートでは、再婚の話も無かった訳では無いが、アイリスは一生涯、独身を通していたのだ。

マティはルシールの顔色の悪さを見て取っていたが、まだまだ子供という事もあって何も言う事が思いつかず、 困ったような顔で、ルシールの周りをソワソワと歩き回っていた。

表に出ていたギネスは、工房の入り口から、マティとルシールの様子をそっと窺っていた。 暫し思案に沈んでいたのか、いかついボサボサ眉をしかめ、物騒なまでに不機嫌な熊のような顔になっていたが、 やがて、控えめにフンと鼻を鳴らす。

ギネスは、近づいて来たクロフォードの馬車の若い御者に、声を掛けた。

「――聞いてみりゃ、深刻らしいな」
「相続問題に名誉の問題も紛糾しまして……父親を突き止めて、母親の名誉を証明しないといけないそうなんですよ」

御者は困惑した様子でうなづきながらも、分かる限りの事情を説明したのであった。

折り良く、ギネスの工房にやって来る人があった。

ギネスの工房の隣にある店舗から、チョコチョコと出て来た人物だった。見てみると、ぽっちゃりとした小柄な老婦人である。 頭は白髪で真っ白だ。老婦人は、地味ではあるが清潔な服装に身を包み、手には重そうなヤカンを持っていた。

「お茶持って来ましたよ、ギネスさん。あらま……お客さんですか?」

ギネスは、チョコチョコとやって来た小柄な老婦人を振り返ると、工房の中を指し示して見せた。

「私の駆け出しの頃の作品を持って訪ねて来たんだ。 20年以上も前のヤツだが、状態良好でな……ムゲにする訳にもいかんし」
「まあまあ……、それじゃ、作者冥利に尽きますね」

ぽっちゃりとした小柄な老婦人は、にこやかに微笑んで理解を見せ、何度もうなづいていた。

ギネスは老婦人と若い御者を工房の中に招くと、マティとルシールにも声を掛ける。

「隣のばあさんのお茶は美味いぞ、ちょっと飲んでけ」
「まッ、可愛い坊ちゃま! お菓子もあるのよ」

ぽっちゃりとした小柄な老婦人は、サッと振り返ったマティを認め、楽しそうに笑い掛けた。 そしてルシールを見て目をパチクリさせ、今度は感心し始めたのであった。

「まあ、綺麗な娘さんねえ」
「お手伝い致します」

ルシールは何とか気を取り直すと、薄く微笑んで一礼し、老婦人が持っている重そうなヤカンに手を伸ばした。

真昼に程近い、まばゆい陽射しが工房の中まで差し込んでいる――

老婦人はルシールを見直し、そして再び見直した。ヤカンを受け渡した拍子にルシールの前髪が分かれており、 光が入ったルシールの目は、まさしくアメジスト色を見せていたのである。

「アイリス様……」

老婦人は呆然としたように呟き、気を失ってゆっくりと後方へ倒れて行った。

流石に緻密な宝飾細工の職人と言うべきか、ギネスは老婦人の異変に即座に気付き、喚いた。

「こんな所で失神するな、ばあさん!」
「何が何だか……このお婆ちゃん、一体、誰です?」

マティが老婦人の片手を捕まえ、若い御者が弾かれたように駆け寄って腕を差し伸べ、 ギネスが両手を突き出して、すんでのところで老婦人を支えた。

ルシールは、熱いお湯で一杯のヤカンを持っていて動けなかった。従って、仰天しながらも手を出せずに居たのだった。

ギネスは工房の奥に駆け込むと、その辺の椅子を適当に引っ張って来て、若い御者の手を借りて、グッタリとなった老婦人を座らせた。 よっぽど驚き慌てたのか、どもりながらも、早口で説明している。

「隣の庭園道具店のメイばあさんだよ、臨時雇いの店番だ……元・家政婦だが、三ヶ月前に急に失業したとか……不景気だしな」

やがて、椅子の上で老婦人が目をパチパチさせた。

「おッ、気付いたか」

ギネスがホッとしたように、老婦人の顔をのぞき込む。

老婦人は頭を起こし、驚愕の面持ちでルシールを見ていた。工房の奥に移動したため、 ルシールの目は茶色に戻っていたが――それでも、ルシールの面差しから目が離せない様子なのである。

ルシールは戸惑いつつも、「あの……?」と声を掛ける。老婦人は、その声にすら驚愕した様子で、震える手で口を覆った。

「ああ……、そんなバカな……アイリス様……」

マティの頭脳は、既に素晴らしい速さで回転していた。マティは早速、身を乗り出し、推理を披露する。

「ルシール・ママ、知ってるんだね。じいじも、幽霊を見たような顔をしてたんだよ」
「お嬢さんは、一体……?」

老婦人はルシールの姿をなおも眺めながら、呆然と疑問を口にしていた。

「私はアイリス・ライトの娘です」

ルシールが答えると、ぽっちゃりとした小柄な老婦人は、更なるショックを受けた様子で、 再び失神したのであった。

*****

やがて、再び老婦人が気が付いたところで、互いの事情の説明が交わされた。

ルシールは呆然として、ぽっちゃりとした小柄な老婦人を眺めるのみであった。

――元ライト家の家政婦だった、メイプル夫人――何と言う偶然……!

ギネスも御者も、マティやルシールと共にカウンターの周りでお茶を頂きつつ、驚愕の面持ちで老婦人を眺めていた。 ギネスにしても、老婦人とは三ヶ月未満の付き合いでしか無く、それ程、詳しい事情を知っていた訳では無かったのである。

「それじゃあ、ばあさんが勤めてた家と言うのは、三ヶ月前に急に死亡したとか言う、 ローズ・パークのオーナーの一人、アントン老の家だったのかい……」

ギネスの呟きに、老婦人メイプル夫人はうなづき、何故自分が此処に居るのかを説明した。

「アントン様もアイリス様も庭園道具店の常連で、よくお供したので、 店主とは昔から顔見知りで……その縁で置いて頂いてたんです。 店主は、トッド家の海外出張のお供で、復活祭の直後から不在なので、その間の留守も預かってて……」

ギネスは、まだら模様の記憶を整理するかのように、黒いボサボサ頭をガシガシと掻きむしった。

「愉快な噂のトッド家か? 都も回って来るとか……そろそろ、帰ってる頃だよな?」
「そう、主人のトッド夫妻はまだだけど、先行の荷物は到着済み……本当に変てこな記憶パターンがあるんですねえ」

クロフォードの馬車の若い御者が、タイミング良く合いの手を入れた。 そして最後は、ギネスの不思議な脳みそに感心しているのであった。

メイプル夫人は再びルシールの方を振り返り、アイリスに良く似た面差しを長々と眺めた。

「アイリス様が、あの頃、妊娠してらしたなんて……そうと知ってみれば、色々と納得する事が……」

流石に、妊娠に伴う数々の微妙な兆候には、『まさか』と思いつつも、 気付いていたようである――本当に妊娠しているとは思っていなかったのではあるけれど。

マティがカウンターに身を乗り出し、毎度のように的確な質問を投げた。

「謎の恋人のローリン氏について、聞いた事はある?」
「お名前だけは聞いていたけど、私は彼に会った事は無いのよ。 夏の終わりの頃、九月だったかしら? 秘密結婚の話が出ていたけど……それだけで……」

メイプル夫人は戸惑ったように、頬に手を当てた。しかし、それは重要な指摘であった。 呆然とするルシールの横で、マティは目を見開きながらも、最も重要な要点を口にした。

「秘密結婚……! 二人で駆け落ちしたって事……!?」
「駆け落ちとは、ちょっと違うわね。『状況が落ち着くまで公表しない』と言うだけの事で。 タイター氏の付きまといが、深刻だったし」

メイプル夫人は暫し小首を傾げていたが、やがて、ピンと来た様子で再び口を開いた。

「あの頃で唯一思い当たるのは、確か、二泊三日で……トワイライト・グリーン・ヒルに旅行してた事が……」
「ああ……そりゃ、ダグラス家の昔の地所じゃ無いですか」

御者が早くも指摘した。クロフォードの馬車の御者だけあって、クロフォード領内の地理には詳しかったのである。

「あ……そうだ! じいじが昔、担当してたって言う教区のとこだ!」

マティが、ハッとしたように頭に手をやった。

メイプル夫人の方は、回想モードに入ったせいか、ノンビリした様子だ。

「そうなの? この辺りじゃ、観光地と言う認識だけど。 同期の女友達との数ヶ月に一回くらいの、いつもの旅行だと言う話だったから、 あのタイター氏もストーカーはしてなかったけど……」

そこでメイプル夫人は、ちょっと首を傾げた。

「考えてみれば、ご帰宅の時はお一人だったわ。 もしかしたら、デイジー様……ウォード夫人も、口裏を合わせていたのかしら?」

ルシールは震えるような思いで、母親の最後の言葉を思い返していた。

――あの日、夕暮れの緑の丘の上で――『トワイライト・グリーン・ヒル』の上で。

――最後の謎のうわ言は、地名だったのだ……!

驚くべき新たな事実の浮上に、ルシールは、ただ呆然とするのみだった。

――まだ確証は持てないけれど、そこで結婚指輪を交わしたのでは無いか……!?

しかし、メイプル夫人は眉根を寄せ、頭の上に疑問符を浮かべ始めた。

「……でも、恋人と一緒に居たとは、とても思えないわ。アイリス様はご帰宅の時、何だか、 すごく暗くて疲れた顔してらしたから……」
「すごく暗くて疲れた顔?」

ルシールは困惑しながらも、オウム返しに聞き返すのみである。

ギネスは、客の人相を忘れているとは言え、自分が制作したブローチにまつわる人物の運命については、 流石に気に掛かっている様子であった。ギネスはノッソリと口を挟んだ。

「続きの話を聞きたいのは、山々だが……新しい宝飾デザイン図面が完成していて、早く店に送らねえと……急ぎの仕事でな」

次いで、ギネスは製図台から図面を取り上げ、手際よくクルクルと巻いた。

「カフス石をイヤリングに作り直すってヤツなんだ」
「忙しいとか言ってたのは、そう言う訳でありますか」

御者も、納得した様子でうなづいている。ギネスの最初の大声は通りの端まで響いていた事もあって、 御者は、それをシッカリと耳に入れていたのであった。若い御者は、通りに出ようとするギネスを追いかけ、再び声を掛けた。

「馬車で行けば早いですよね! 今、出しますよ」

ギネスはその申し出に、有り難く乗る事にしたのであった。

工房を含む中小ストリートから出る交差点の一角が幅広くなっており、そこが駐車場を兼ねている広場になっている。

「それじゃあ、メイばあさん、工房の留守番もよろしく頼むぜ」
「お安い御用でございますよ。往復20分も無いでしょ」

馬車に乗ったギネスと、通りで見送るメイプル夫人の間で、了解が交わされた。

そして、ルシールとメイプル夫人とマティの三人は、テンプルトン中央に向かって足早に駆けて行く馬車を見送った。

「――ダレットの鬼婆の注文だったんだ」

マティは、フンッと鼻を鳴らした。メイプル夫人はキョトンとしてマティ少年を振り返った。

「ダレットの鬼婆? 確かにダレット夫人は、ご大層な方らしいけど……」
「鬼婆ってのは、20歳になる娘の事さッ!」

ルシールは、曖昧な苦笑を浮かべるしか無い。

メイプル夫人も、最初の頃のルシールと同じように、『年齢からいってダレット夫人の事であろう』と思い付いていたようだ。 マティは、毎度の意味深な様子でサッと振り返り、それを訂正したのである。

2.テンプルトン町…ギャング襲撃

馬の脚は流石に早い。御者とギネスは既に『ロイヤル・ストーン』に到着していた。

従業員や職人が出入りする脇入口に直結するスペースには会議用カウンターがあり、 そこで宝飾デザインの図面の受け渡しが行なわれている。 いつものように、ギネスと担当の『ロイヤル・ストーン』係員との間で最終的な了解が交わされ、契約書が成立した。

手早く用事を済ませた御者とギネスは、中央ロータリーの駐車場へと引き返して行く。

中央ロータリーの駐車場に設置された標識ポールの傍に、年配の小太りの男が居た。 人待ち顔で、あちらこちらに目をやっている。

「おや? 隣の庭園道具店のオーナーだ!」

ギネスは早速、その男に気付いた。野太い大声で呼び掛けながら近寄る。

「奇遇だな、パーカー氏。何してるんだ?」

年配の男パーカーは、ギネスの顔を見てホッとしたような顔になった。お洒落なヒゲを持つ、やや小太りの小柄な老人だ。

「見ての通り、乗合馬車を待っているんですよ。今、トッド夫妻や他のオーナーと解散したところなんですけどね、 出張帰りだから、この通り荷物が多くてねえ……」

成る程、見てみると、パーカーの周りにはトランクや運搬ボックスが相当数、 積まれているのであった。乗合馬車に積み込むには、ちょっと苦しい量である。

折り良くクロフォードの馬車を回して来た御者が、ギネスの背中越しに、パーカーに声を掛けた。

「それじゃ、こちらの馬車を使って下さいよ。帰り道は同じですし」
「おッ、世話になりますわ」

クロフォードの馬車だけあって、一般的な乗合馬車より少し広いスペースを持っている。 パーカーは帽子を取って、感謝の気持ちを表した。可愛らしい禿げ頭が現れた。

ギネスは荷物の積み込みを手伝いながらも、つい先ほどから心にあった疑問を投げた。

「パーカーは、アイリスって娘、知ってたのか? アントン老に娘が居たとは初耳だったぞ」
「そりゃ勿論!」

パーカーはにこやかに微笑み、思い出話を始めた。流石に、長い付き合いならではの詳しい内容だ。

「アイリスってのは目の色がアイリス、つまり紫色の花と同じ色だからでね。 急に蒸発して死亡したのは、25年も前の話になりますわ。 ギネス氏が独立して隣に工房を構えたのは10年前でしたかねえ、後期大抗争の後の事で……」

パーカーは暫し指を折って思案し、シミジミとした様子で最後のコメントを付け加えた。

「15年程も、すれ違いになってしまいましたねえ」

パーカーの言葉を暫し考えていたギネスは、やがてピンと来た顔つきになったのであった。

「……成る程……、アメジストを注文したのは……そういう事だったんだな」

――紫色の、《花の影》。

アメジストによる宝飾は、アイリスの目の色に合わせて注文したに違いない――

*****

ギネスとパーカーと御者の三人を乗せたクロフォードの馬車は、早速ストリートを走り出した。

馬車の中は、ほとんどパーカーの荷物で占められ、座るところが無くなった。そのため、 男三人は御者席に、若い御者を真ん中にして並んで座った。流石に、ぎゅう詰めに近い状態である。

パーカーは暫し瞬きした後、不思議そうにギネスを眺め始めた。

「……しかし何で、そう言う話題になったんです?」
「今、私の工房にアイリスの娘が来ているんだ」
「はあ……!?」

ギネスの説明に、パーカーは心底、仰天していた。 『アントン氏の娘アイリスが既に死亡しているという事実』は、既に知人たちの間では周知の内容だったのである。

事と次第を簡潔に説明された後、パーカーは感心したように首を振った。

「メイプル夫人が二回も失神するなんて、そんなに似てるんですか。これは是非、お会いしてみませんと」

そしてパーカーは、はたと思いついた様子で、思案を口に出して呟いたのであった。

「――ウォード夫妻は、もう彼女と会っておられるかな……」

*****

男三人が乗ったクロフォードの馬車が、中小ストリートに分岐する角に到達した。

不意に、斜め後ろの方から、騒音が近づいて来た。蹄鉄の音と車輪の音だ。ギネスが振り返った。

暴走族と見える人馬一体の一味が、猛スピードで追突せんばかりに迫って来る。 一味の中に、速度違反そのものの一人乗り軽装馬車が混ざっていた。

「ぶつかる!」

クロフォードの御者は、車両同士の衝突を避けるため、慌てて馬車のスピードを緩めた。

四人から五人程と思われる馬賊の一味は、何の合図も返礼も寄越さぬままクロフォードの馬車をジグザグに追い抜き、 その後、更に公園を突っ切りつつ爆走すると言う、重大な交通違反行為をやらかした。

暴走馬車の車輪に引っ掛かった屋台は、商品もろともに、次々に台無しになって行く。 悲鳴を上げながら逃げ惑う客も、売り子たちも、次々に弾き飛ばされて行った。 幸いに重傷者こそ出なかったが、公園にたむろしていた人々にとっては、まさしく災難である。

目撃者となった全ての人々が、開いた口が塞がらぬと言った様子で、 盛大な土埃を巻き上げて駆け去って行く馬賊を眺めるのみであった。

暫し呆然と見物する男三人――パーカーと御者とギネス――である。やがて、若い御者が呆然としたまま口を開いた。

「ありゃ何です?」
「馬賊だな。場末の何処かで、ギャング同士の果たし合いでもあるんだろうよ」

ギネスは首を振り振り、嫌そうに説明しつつ予想した。 テンプルトンの住民にとっては、町を荒らしまわる暴力団(ギャング)は、全て忌避の対象である。 パーカーもギネスの予想に同意し、溜息をついた。

「全く嫌ですねえ、ギャングってのは。三ヶ月前に老アントン氏が急に死んだのも、ギャングによる殺人ですわな」

――聞き捨てならない言及である。

御者は目を丸くして、人の良い平凡な好々爺そのもののパーカーを振り返った。ギネスも息を呑んでいる。

「今、何と言った!?」

パーカーは、いつもと変わらぬ様子で、だがしかし、更に聞き捨てならぬ重大な内容を口にした。

「メイプル夫人が、そう言ったんです。判事に話さないといけないだろうって言ってみたんですが、 アントン氏もアイリス嬢も居ないでしょ。意味無いってボヤいてて……」

ギネスは、すっかり顔色を変えていた。

「あの馬賊って、行き先……まさか、我々の街区……」

ギネスは、動転と混乱の余り、口がどもっていた。御者も慌て出した。

「確かに彼ら、向こうの角に消えましたよ……そんな馬鹿な……大変だ!」

果たして、御者が直感した通り、馬賊のリーダーは、ギャングたるタイター・ビリントン氏であった。

*****

何故にギャング=タイターが、馬賊と共に現れ、テンプルトンのストリートを暴走していたのか。

これについては、いささか説明を要する。少し時間をさかのぼり、クロフォードの町から始まるのである。

――30分か、40分ほど前であろうか。

タイター氏は、クロフォードの町に出張っていた。

流石に役人の目を避けて、 裏通りや中小のストリートを経由しての事であるが――役所や事務所が並ぶクロフォードの町のメインストリートの一角に、 タイター氏は、その太く短い足を踏み入れていたのである。

偶然の成り行きとは言え、 ローズ・パーク案件でクロフォード伯爵の弁護士と対立する事になったタイター氏にとっては、敵地である。

ちなみに、この『クロフォードの町』は、クロフォード伯爵邸の最寄の町、即ち城下町という事になる。 通称は、単純に『クロフォード・タウン』という事になろうか。

タイター氏は、長いギャング経験ならではの素晴らしい腕前を披露して、カーター氏の弁護士事務所の扉の鍵を破っていた。

「鍵をこじ開け、不法侵入だが構うもんか!」

タイター氏は盛大に鼻を鳴らした。

「あのカーターの裏をかくには! まず情報だッ!」

実際は空き巣なのであった。タイター氏は有望な情報を求めて、ゴミ箱をあさり、書庫をあさった。 必然と言うべきか、カーター氏の弁護士事務所は良く整理整頓されていた。タイター氏は即座に、いわくありげな封筒を発見した。

「定期便だな……なになに? ……修正報告書……在中……」

タイター氏は勝手に封筒を開封し、中身を改める。

役所の書類だけあって、文書タイトルは実に直接的なものであった――

『アイリス・ライト/25年前の馬車事故/死亡報告書の修正』

タイター氏は修正報告書を読み込んでいくうちに、ローズ・パーク案件について、 決定的に形成逆転される項目を見つけ、顔色を変えた。 問題の出生データ関連の修正がなされ、本人確認における混乱が解消されていたのである。

タイター氏は、苛立ちの余り顔を真っ赤にして、修正報告書をメチャクチャに床に叩き付けた。

紙束がバラバラになり、部屋中の床に、乱雑に撒き散らされる。

「畜生めが! 本人確認の矛盾が解決されている! これじゃ、 あの娘が一片の疑いも無くアイリスの子孫と立証されてしまうでは無いか! クソ! アントンの遺言書に、 『子孫』などという余計な一筆が無ければ……!」

まさしくアントン氏は、ルシールが女性である事を考慮して、その一筆を付け加えていたのであった。

法律上、普通は女性が相続人になる事は想定されておらず、『娘』という言葉は使えなかったのである。 しかし、『子孫』であれば、女性も対象に含まれた。 つまり、娘が将来、『子孫』たる男子を出産ないし係累の男子の養子を持つと言う確実な見込みがあれば、 『子孫たる相続人の母親』という事で、時間をさかのぼって認められるのである。

ついでながら、キアランとアラシアの婚約案件の裏にも、類似の法的事情がある訳だ。

タイター氏の怒りは止まらない。

「この調子で父親不明の問題も解決されちまうと、 裁判を起こしても負けてしまうぞ! 秘密の父と確定するところのローリン=レオポルドのヤツは、 王室に連なる大貴族の! バックアップがある故に! 今も伯爵に次ぐ権力者!」

タイター氏は、確信していた。レオポルドの魔手から、ローズ・パークを守らなければならない。

ルシールの手にローズ・パークが渡ってしまえば、レオポルドがルシールの血統上の父親として、 再びローズ・パークの地主に返り咲くであろう事は、火を見るよりも明らかだ。 そうなれば、ローズ・パークは再び借金地獄に突き落とされ、その資産価値は、岩のように沈下するのだ。

「顔だけのパシリ貴族に! 我が財産ローズ・パークを、 奪われてなるものかよ! 有利のうちに! 決定的に決着を付けてくれる!」

タイター氏は逆上するままに、弁護士事務所の扉をぶち破らんばかりの勢いで、猛然と駆け出した。

まさにその時、扉から中をのぞき込む赤毛の男の姿があった。カーター氏を訪ねて来た若手弁護士トマス氏だ。 カーター氏の弁護士事務所の扉が不用心に開いている事に気付き、流石に不思議に思ったのである。

「カーター氏? 居るんですか?」

そして哀れなトマス氏は、猛然と飛び出して来たタイター氏の丸々とした身体と衝突した。

トマス氏の痩身は華麗なまでに弾き飛ばされ、反対側の廊下の壁に叩き付けられる羽目となった。

叩き付けられた格好のまま、トマス氏の身体は、ズルズルと壁をズリ落ちた。 続いて、床に尻餅をついたトマス氏は、目を回しながらも、余りにも有り得ない――しかし、 タイター氏の無法ぶりを考えると有り得る気もする――事態に、驚愕するのみであった。

「な……何で、タイターが出て来た……」

超メタボ体型が、建物の裏階段を、まるで転げ落ちるかのように駆け下りて行く。

トマス氏はその姿を確認し、何があるのかと首を傾げながら、手すりから身を乗り出した。

裏階段の先に広がる裏の広場で、早速、タイター氏が怒鳴りながら、太く短い腕を振り回している。

「野郎どもッ、整列ッ!」

裏の広場や、そこに直結する裏街道の方で待機していたらしきギャングの手下どもが、 三々五々と言った感じで集まって来た。

激怒エネルギーのお蔭か、タイター氏は超・肥満体には有り得ない程の身軽さで高く飛び上がり、 裏の広場を仕切る飾り台の上に、一ッ跳びで着地してのけた。 こうすると、背丈の低すぎるタイター氏でも、手下の全員を上から目線で見下ろせるのだ。

タイター氏は、飾り台の上で傲然と短身を反らし、更なる大声で怒鳴った。

「標的ルシールは、確かクロス・タウン通っているんだな!」
「帰りの馬車は通ってないから、テンプルトンに居る筈ですぜ」

報告したのは、タイター氏の前で整列していた手下の一人だ。タイター氏の決断は早かった。

「よし! 標的をとっ捕まえる! このチャンスを逃すものか!」

裏階段の上の方で、その物騒な打ち合わせを耳にする羽目になったトマス氏は、ただ青ざめるばかりである。

タイター氏は早速、手下が引いて来た馬に乗る――

しかし、馬は、タイター氏の何らかの要素を察知するなり、タイター氏を振り落とした。 タイター氏は再び、乗馬にトライする。馬は再びタイター氏を振り落とした。 そればかりか、他の馬も一緒になって、タイター氏を踏み潰そうとするか、タイター氏から逃げ回ろうとするかであった。

「魔女の呪いは本物らしいです」
「何度試しても、馬がおかしらを振り落とすし……」

タイター氏の手下たちは、驚き戸惑うばかりである。

初顔合わせとなった直談判の時に、ルシールが、馬が嫌がるハーブの粉を、タイター氏の頭にまぶしたのが原因だ。 風呂で良く洗えば取れるのだが、真面目に風呂に入る習慣を持っていなかったギャングたちは、真剣に恐れ入るのみであった。

「乗馬不可になる呪いって、ホントにあったんだな……」

馬の脚の下で無様に転げ回っていたタイター氏は、しかし、それでもめげなかった。 飾り台の上に再度よじ登ると、尚更に傲然と短身を反らしたのであった。

「馬車を用意!」

早速、手下の手によって、タイター氏のための一人乗り軽装馬車が引かれて来た。

タイター氏は即座に軽装馬車に乗り込んだ。乗馬を済ませた手下たちと共に、ほとんど暴走と言って良い、 交通違反そのもののスピードで、裏の広場を飛び出す。

「野郎ども、出撃ッ! 偉大なる尊大なる、このワシに続け!」

タイター氏の怒鳴り声が、建物の壁で反響しながら響いて来る。

裏階段の上で一部始終を目撃したトマス氏は、途方に暮れて、ただ身を震わすのみであった。

「あわわ……何という事を……!」

そこへ折り良くカーター氏が戻って来た。カーター氏はトマス氏を認め、怪訝そうな顔をする。

「トマス・ランド氏ではありませんか、タイター氏の弁護士の……」

慌てて振り返ったという様子のトマス氏に、カーター氏は丁重に挨拶し、簡潔に理由を述べた。

「お待たせして、大変、済みませんでした。 アシュコートから届いた親展の特別速達便の受け取り署名で、留守にしていて……」

しかしトマス氏は、すっかり慌てており、それどころでは無かった。

「大変です! カーター氏! さっきタイター氏が、ギャング連中を全員、引き連れて出撃……!」

カーター氏は、目を見張りながらも急いで弁護士事務所に入り、 タイター氏によって中が荒らされたのを確認したのであった。 部屋一杯に、新旧も内容も様々な文書が乱雑に散らばっている。 カーター氏は、破られたばかりの封筒と最新の文書のページを手に取り、息を呑んだ。

「アイリス・ライトの修正報告書が……! 娘さんが危ない……!」

*****

カーター氏とトマス氏は、各々速やかに準備を整えると、通報のため役所に駆け込んだ。

クロフォードの町のメインストリートには、各種の事務所や役所が集結している。 弁護士事務所と治安判事の役所及び裁判所も同じメインストリートにあり、ほとんど隣接していると言っても良い位置にあった。

二人の弁護士による通報を受けたプライス判事は、早速、厩舎が並ぶ役所付属の中庭に手勢を集め、 タイター氏の身柄を緊急に確保するべく、指示を飛ばした。中庭は、にわかに騒然となった。

同じ中庭には、目下、『証拠品たるレナードのカフスの片方を食べた容疑』により、 子犬のパピィも取調べのため身柄拘束されていた。 とは言え、お腹の中のカフスが出て来るのを待つという事もあって、ほとんど放し飼いと言う状態である。

パピィに件の容疑が掛かったのは、 『パピィは光り物が好きである』、『パピィは大型ハサミに執着していた』という事実があったためだ。 パピィは、過去に既にカフスの片割れを食べていて、それが気に入ったため、 最近まで大型ハサミに残っていた『もう一方のカフス』にも、えらく執着したのだという推理が成り立ったのである。

パピィは、プライス判事とその部下の緊急出動に、賢くも気付いた様子だ。

お気に入りの毛布から、弾丸顔負けの勢いで飛び出したパピィは、素晴らしいスピードで駆け出した。 そして、忍者さながらの驚くべきジャンプ能力を発揮し、 テンプルトンに向かって一斉に駆け出した武装騎馬隊の、最後の馬の上に飛び乗ったのであった。

*****

テンプルトンへと急ぐプライス判事が率いる武装騎馬隊と、 クロフォードの町へと急ぐ騎馬姿のキアランとが行き逢ったのは、クロフォードの町の郊外の、丘の上の道であった。

キアランは、プライス判事が率いる武装騎馬隊の一団に驚き、馬を急停止させた。

武装騎馬隊には、捕り物用の大道具を屋根に積んだ快速馬車も同行している。 快速馬車の中に居るのは、カーター氏とトマス氏の二人であった (二人の弁護士は乗馬対応の服装では無いため、馬には乗れないのである)。

キアランは驚きながらも、確認の質問を投げた。

「プライス判事! カーターさんも――手勢を引き連れて一体、何処へ……?」
「タイター氏が手下共を率いて、テンプルトンに走ったんです!」
「修正報告書を見て逆上したらしくて」

二人の弁護士と騎馬隊の幹部が、口々に事情を説明する。

カーター氏は窓を下げた馬車から身を乗り出し、キアランに更に声を掛けた。

「ルシール嬢を襲うようです。彼女は今、テンプルトンなんですか?」
「……しまった……!」

キアランは鋭く息を呑んだ。

――まさか、このわずかな時間に、タイターが行動を起こすとは。ルシールの護衛は、御者だけだ!

*****

プライス判事の一団はクロス・タウンに迫って行った。

既にクロス・タウンの運河や倉庫街が視界に入って来ている。 クロス・タウンとテンプルトンは隣り合った町であり、クロス・タウン即ちテンプルトンと言っても良い距離にある。

そして次の瞬間――クロス・タウンから今まさに出て来たという風の、 一頭立ての怪しげな小型馬車が、軽快なスピードでやって来るのが見えて来た。

早速、先頭の騎馬隊が不審な小型馬車の正体に気付き、声を上げた。

「前方注意! ナイジェルの馬車、接近中!」
「タイターの甥じゃ無いか……妨害か!?」

流石にプライス判事も、灰緑の目を険しく細めた。今は、全てが怪しい。全方位警戒である。

先頭の騎馬隊は素早く警戒態勢を取り、御者席のナイジェルに呼ばわった。

「止まれ! 検問だ!」

ナイジェルは騎馬隊の一団にプライス判事の姿を認めるなり、得意そうな様子で声を掛けた。

「おおーい! 良いところで会いましたな……プライス判事さまに、 一報入れるところだったんですよ! 叔父の手下の連中が、ライト嬢の居場所を捜索しているところを見たもんでね……!」

次にナイジェルは、先頭の騎馬隊の制止に従って、素直に小型馬車のスピードを緩めた。 そして騎馬隊の前で停車しながらも、ナイジェルは下心タップリの笑みを浮かべた。

御者席にはナイジェルだけ、馬車の中には誰も居ない――しかし、騎馬隊は警戒を緩めなかった。

ナイジェルは、武装役人の面々から放たれる警戒の眼差しに、気付かない様子である。 骨折して包帯をぐるぐる巻きにされた片脚を得意そうに見せびらかしながらも、ナイジェルは言葉を続けた。

「私は骨折中にも関わらず、努力して通報した功労者! ローズ・パーク問題で、叔父と私との裁判になってしまった場合に、 相続権の優先順位に関して、判事さまの口添えを頂きたいんですよ……良いでしょ? へへッ」

プライス判事は厳しい表情を浮かべ、素っ気無く返した。

「貴殿も信用ならんのだぞ、ナイジェル氏」

そしてプライス判事は、サッと手を振り上げるが早いか、次の命令を下したのであった。

「コナー! そのまま、ナイジェルを馬車に拘束、かつ護送だ! 参考人を一歩も外に出すなよ!」

ナイジェルが驚き慌てる間も無く、コナーを代表とする部下たちの一団は、一斉に御者席のナイジェルに飛び掛かった。 その身柄を、本人が乗って来た小型馬車の中に押し込める。

部下たちは捕り物用の大道具の中から鎖を選ぶと、ナイジェルを閉じ込めた馬車を手際よく封印していった。 間に合わせの移動型牢屋ではあるが、重く頑丈な鎖だけに、逃げる事も困難だ。

我が身に起きた事態をようやく理解したのか、ナイジェルは驚き慌てた様子で、 牢屋のように馬車の窓を塞いだ鎖の列を揺さぶり始めた。

「どういう事です、プライス判事ッ!」
「参考人は! 当分、我々の監視下だ!」
「そんなバカな!」

哀れっぽく喚くナイジェルに構わず、再びテンプルトンに急行する騎馬隊であった。

3.テンプルトン町…乾坤一擲の大勝負

ギャング=タイターの一味は、早くもギネスの工房に到達した。

「野郎どもッ! ギネスの工房を厳重に包囲! 煙幕弾を撃て」

タイター氏は工房の前の植え込みに身を隠しながらも、手下たちに命令を下した。

実のところ、タイター氏には人間としての欠点が数え切れない程あるが、 決断の素早さと正確さには素晴らしいものがあった。 この才能ゆえに、テンプルトンの大抗争を幾度と無く切り抜けて来たと言えるのだ。

甥ナイジェルを子供の頃から引き取って、流血の続く町内で後見して来たと言う過去を見ても、 単なる乱暴者と言う訳では無い。他グループとの流血を伴う対立抗争に関して、 手下の生存率に配慮しているのは間違いなく、その性格は、それなりに複雑である。

手下たちが、ギャングのボスとしては小物に過ぎないタイター氏に付き従っているのも、 実に、この生存率の高さを評価している故であった。

植え込みから工房に向かって投げ込まれた煙幕弾は爆発し、猛烈な煙を辺りに撒き散らした。

カウンターの傍に居たマティ、ルシール、メイプル夫人の三人は、 煙幕弾の衝撃波を受けて、揃って椅子から転げ落ち、煙に巻かれて咳き込む羽目になった。

「突撃! まずは標的を確保!」

タイター氏は早速、号令を掛けた。

手下たち(全員で五人)は、工房入口の扉を荒々しく殴り広げ、一斉に工房内部に侵入した。 しかし、真面目にマティとルシールとメイプル夫人を蹴り飛ばしたのは赤毛のトサカ男一人だけだ。 他の三人は工房の中の物に目が眩み、戸棚や箱の中を物色し始めたのであった。

「ウッヒョーッ、流石、宝石屋の工房だねえ! 金銀お宝が、あちこちにあるぜッ!」

最後の手下の一人が、大きな戦斧を勢いよく振り上げた。戦斧の刃が、不吉なうなりを立てた。

戦斧を高速でぶん回し、しかも刃先が触れないと言う驚くべき神技が展開した。 最後の手下の一人は、他の四人の手下を、次々にお仕置きしていったのである。

我が物顔で戦斧を振り回しているのは、片目の、筋骨隆々の物騒な巨人だ。

身体の頑丈さに自信タップリな筈の、ガチムチとした大柄な体格の四人の手下たちは、 アッと言う間にノックアウトされる羽目となった。

「バカヤロウッ! まずは、偉大なる尊大なるワシが改めてからだ!」

無慈悲にノックアウトされた手下たちに向かって、タイター氏が怒鳴りながら太く短い腕を振り回した。

手下たちは、痛む頭を抱えながらも、渋々、整列である。

「新しい用心棒は、メチャクチャ乱暴じゃ」
「変な事するなよ、『片目の巨人』は軍人をも殺すプロだからな」

片目の巨人は、体格のみならず人相も物騒だ。片方の目玉を失っているらしく、海賊のように黒い眼帯をしている。 片目を失った時に傷付いたのか、その顔面を横切る、ゾッとするような大きな傷痕があった。

何故、こんな強大な戦斧使いが此処に居るのか。それが、古参の手下たちにとっては、大いなる謎であった。 片目の巨人には、タイター氏が経営する賭場で借金をこさえ、 借金返済の代わりにタイター氏の手下になった――と言う経緯があるのだが、 取って付けたような不自然さを感じざるを得ない。

タイター氏はカウンターの上に乗る事で、ようやく巨人よりわずかに、上から目線の状態になった。 毎度ながら、いびつなまでに高い特製のシルクハット――フサッとした金髪のカツラ付き――を、頭に乗せている。

タイター氏はカウンターの上で威儀を正すと、もったいぶってルシールに語り掛けた。

「さて、大事な話をしようじゃ無いか」

ルシールは、片目の巨人に黒いドレスの背中部分をつかまれ、タイター氏の前に引きずられて行った。

「放せったら、この野郎!」

早速マティが巨人の肩によじ上り、巨人の髪の毛を引っ張り始めた。

巨人は奇妙なヘアスタイルをしていた。 片目を含む片方の顔面全体を横切る物騒な傷痕は、そのまま頭頂部にまで達しており、 その部分を含む頭半分の方には、毛が無いのだ。 マティが引っ張っているのは、巨人の頭に残った、半分の方の毛なのである。

当然ながら、ゆうに二メートルを超える巨人にとっては、マティの攻撃は、風に吹かれた程の意味合いも無かった。

巨人は軽く肩を揺すり、マティのベストをつかんで、高速でぶん回した。 マティのベストは瞬時に破れ、ベストが形を失った。それと同時に、マティは勢い良く工房の端まで転がされた。

床に叩き付けられ、その勢いで端までクルクルと転がり、壁に衝突したショックで、一瞬、息が詰まる。 飛び起きたマティは、頑丈な筈のベストの布が散々に破れているのを見下ろして、青ざめるばかりであった。

「子供にまで、何て事を!」

腰を抜かして動けない状態ながらも、メイプル夫人が抗議の悲鳴を上げた。

マティは畏怖を込めて、雲を突く如き巨人を見上げた。

……一体、何なんだ……この化け物は……!?

巨人は、ルシールのドレスの背を片手で捉え、軽々と吊り下げていた。 ルシールはその手を外そうとジタバタしているが、無駄な抵抗である事は傍目にも明らかだ。

タイター氏は『大事な話し合い』の前に、ギネスの工房の封鎖と、工房内部のお宝の没収を命じた。

「隠蔽工作じゃ! カーテンを全部引け! お宝を全部袋に詰めろ! グズグズするな!」

*****

ギネスの工房の中で進行していた物事と平行して、工房が入っている小さな雑居ビルは、俄然騒がしくなっていった。 煙幕弾による濃い煙が、辺り一帯に、もうもうと立ち込めていたのである。

「爆発だ!」
「火事だ!」

雑居ビルに入っている他の店舗や工房の人々が口々に叫びながら、ビルから飛び出して来る。

ビルから飛び出してみると、ギネスの工房の隣にある庭園道具店も、 店番の不在を良い事に、手当たり次第に荒らされていたのが判明した。 ギャングの馬車や馬の置き場所として借用されているのだ。

「ギャングの襲撃だぞ! 避難しろッ!」

通りに出た誰かが大声で叫び、雑居ビルに続いて、周辺の民家やストリートでも、パニックが広がっていった。

その時、ちょうどギネスやパーカー、若い御者が工房前に到着した。

「私の工房が!」
「私の店が!」

ギネスもパーカーも、各々、開いた口が塞がらぬと言った様子である。

一足ずれて、プライス判事とその部下たちも、連なる丘を越えて工房前のストリートに到着した。

「クソッ! 一足遅かったか!」
「至急、速やかに状況確認ッ!」

歯ぎしりして呻くプライス判事の横で、部下代表のコナーは早速、部下に指示を飛ばしている。

ストリートの仕切りであり目隠しにもなっている植え込みの裏で情報交換がなされ、実に最悪の状況である事が判明した。 工房の中には、女子供しか居なかったのである。

ギネスの工房の窓や扉は閉じられていた。隠蔽工作のためであろう、窓には分厚いカーテンが引かれている。 カーテンの隙間からは濃い煙が漏れ出しており、濃い煙幕が今なお立ち込めている事が見て取れた。 工房の内部は窺い知れないものの、問題の女子供の三人が人質状態になっている事は、明らかである。

コナーは手馴れた様子で、次々に部下たちに指示を飛ばす。

「物音を立てずに速やかに包囲ッ! 逃げ足を絶つ! 馬を探し出して没収しろッ!」

その指示に応え、部下たちが早速、隣の庭園道具店に押し込み、ギャングの馬車や馬を次々に押収した。 偶然ではあるが、煙幕が立ち込めており、ギャングたちが宝石強盗に夢中だったため、 判事たちにとっても隠密行動しやすかったのである。

プライス判事の部下たちがひっきりなしに行き交う中、プライス判事の部下の最後の馬が到着した。 そこには、子犬のパピィが相乗りしていた。賢いパピィは、人間たちに気付かれるより前に素早く馬から飛び降りると、 忍者さながらに、こっそりとギネスの工房の中に忍び込んで行くのであった――

*****

宝石強盗に一区切り付いたのであろう、ギネスの工房の中から、外の通りの真ん中へと、タイター氏の大声が響き渡り始めた。

「此処に新たに作成した誓約書が用意されてある! ルシール・ライト、 テーブルの上の筆を取りたまえ! ローズ・パークの! 相続権を捨てると言う誓約書じゃ!」

壁を隔てているのに、まるで同じ部屋に居るかのような大音響だ。

プライス判事たちもギョッとして、通りの植え込みの陰に更に身を潜めた。 やがて部下の一人が目をパチクリさせ、呆然としながらも口を開いた。

「窓ガラスが割れているから、中の会話が筒抜けだ……」
「速記しろ、会話を全て記録だ!」

どうやら、カーテンで見えなくなった事もあって、ギャングたちは失念していたらしいのである。

入口の扉を乱暴に殴って開いた時の衝撃によって、 安普請に見合うクオリティだった窓ガラスが、散々に割れていたと言う事実を。

*****

タイター氏は、カウンターテーブルの上で、なおも居丈高にふんぞり返っていた。

ルシールの方は、カウンターテーブルの天板に突っ伏している形だ。 巨人の手によって上半身を押さえつけられており、身動きもままならない状態である。

タイター氏はルシールをビシッと指し示し、マティとメイプル夫人に向かって、更に怒鳴り続けた。

「やい、クソガキ! ジタバタするな! 偉大なる尊大なるタイター様が、 指をパチンと鳴らせば! 片目の巨人が! ルシールの首を引っこ抜くぞ!」

片目の巨人がタイター氏の声に応えるかのように、改めてルシールのドレスの背中部分をむんずとつかんだ。 片や筋骨隆々の怪物の如き巨人であり、片や小柄で華奢な娘であり、ルシールは、 一息でひねり潰されても不思議では無いと納得させられる光景であった。

マティとメイプル夫人が真っ青になり、口々に抗議する中――片目の巨人は、 ルシールの左腕をチョンとつまむと、事も無げにドレスの袖を引き裂いて見せた。

「ギャハハァ! この片袖のようにッ!」

タイター氏は、その片袖を、硬直したマティとメイプル夫人の前で振り回して見せたのであった。

*****

ストリートの植え込みの陰で、一斉突入のタイミングを窺いつつスタンバイしていたプライス判事、 及び、その部下も、窓ガラスの割れ目から洩れて来る一連の会話の内容に青ざめていた。

「片目の巨人?」
「全国指名手配の連続殺人犯です……怪物ですよ!」

*****

ルシールの上半身は、再び巨人の手によって、カウンターテーブルの前に拘束されている状態だ。

目の前には、タイター氏の手からぶら下がった文書が―― 『ローズ・パークの相続権を放棄する』という内容の誓約書が――あるのだが、 ルシールは筆を取らず、なおも署名拒否の態度を続けている。

業を煮やしたタイター氏は、カウンターテーブルから降りると、文書と筆を手下の一人に預け、 頑として言う事を聞かないルシールの頭を揺さぶり始めた。

「何度も同じ事言わせるんじゃねえぞ、小娘! 流石にあの偏屈アントンの孫だ、 強情なヤツめ! 遅かれ早かれ、貴様は署名をするのだよ!」

なされるがままという状態のルシールであったが、 心の中では、こんな卑劣な奴らに絶対に負ける訳にはいかない、と固く決心していた。

――タイター氏の言うなりになって、ローズ・パークを諦めると言う誓約書になんか、署名してたまるか!

ルシールは、タイター氏に頭をガクガクと揺さぶられ、目の回るような思いだ。 きちんと結ったアップスタイルの髪がもつれ、ほどけてゆく。 一房の髪がほどけた拍子にタイター氏の手が滑り、ルシールの顔が勢いよくカウンターの天板に打ち付けられた。 ルシールの口の中が切れて血がにじみ出し、鼻血が溢れた。

頭を打ち付けたショックで、ルシールがグッタリとした状態になると、タイター氏は一旦、手を止めた。 ルシールが朦朧ないし失神した状態では、法的に有効な本人署名が取れなくなるからだ。

タイター氏は気取ったような仕草で、観客たるマティとメイプル夫人の方に向かって身を返す。

「偉大なる尊大なるタイター様は、常に勝利するのだよ! ワシこそが、 ローズ・パークの正当なオーナー! ワシこそが、 かの極悪非道な借金王レオポルド一族の魔手からローズ・パークを守護する至高の大天使、 正義の救世主なのだ! 金! 女! 権力! ハーハハハハッ!」

明らかに、勝利を確信した故の演説であった。高笑いし続けるタイター氏に、遂にメイプル夫人が抗議した。

「タイター! お前は……! アントン様を殺しただけじゃ、飽き足らないと言う訳なの!」

――聞き捨てならぬ証言だ。

マティがサッとメイプル夫人の方を振り返った。ルシールもハッとして、メイプル夫人の言葉に耳をそばだてる。

「タイターがアントン様を突き飛ばして、殺したのよ! お金の無心から始まった口論の末に――」

メイプル夫人は、すっかり青ざめてワナワナと震えながらも、指先をタイター氏に向かって突き付けた。

「お医者様を呼んでいる間に、タイターは逃げたのよ! 靴跡から何から、全部消して……」

タイター氏は足を乱暴に踏み鳴らしてピョンピョンと跳ね回り、ダミ声で怒鳴りながら指を突き返した。

「あれは事故死で処理されてる! 実際に、打ち所が悪かっただけさ!」

実際のところ、タイター氏も本当にアントン氏を殺害するつもりは無かったのである。 勢いで手が滑ってしまい、アントン氏に死ぬ程の衝撃を加えてしまっただけなのだ。

「しかし、まあ……タイミング良く死なれたもんで、ラッキーだぜ! 証拠の隠滅はするものだ!」

タイター氏は、自分の運の良さを改めて実感していたのであった――その奇妙に歪んだオムスビ顔には、 邪悪な笑みが浮かんでいた。

*****

勿論、その内容は、割れた窓ガラスを通じて、プライス判事たちの方へも筒抜けであった。

「判事さま! これは重要な供述ですぞ!」
「分かっとる! 速記を続けろ」

*****

タイター氏は再びカウンターの上によじ登り、周りの人の誰よりも上からの目線の状態になった。 ルシールがポカンとしている間に、タイター氏はメイプル夫人を指差し、新たな命令を下した。

「このババアを、戸棚の中にでも閉じ込めろッ!」

早速、赤毛のトサカ男が、メイプル夫人を戸棚の中に閉じ込め、カギを掛けた。

「窒息死するじゃねえか!」
「カギは此処じゃ、取ってみな」

マティがカギを奪おうとしたが、如何せん、 プロレスラー並みの大男と10歳にもならぬ子供とでは、体格差が余りにもあり過ぎる。 マティは、赤毛のトサカ男の思うままに振り回されるのみであった。 ルシールも動こうとはしたのだが、目の前に巨人の戦斧の刃を突き付けられ、恐怖に身を強張らせる羽目になっていた。

ほぼ同時に、煙幕を突いて、パピィが工房の内部に入り込んで来た。 パピィは、カギを追って走り回るマティの背中が接近した瞬間を逃さず、高く飛び上がり、マティの背中に飛び付いた。

馴染みのある『モフッ』とした感覚に、一瞬マティは息を呑み、急停止する。

――パピィじゃねえか! プライス判事が取調べ中の筈の――

マティの脳みそは、超高速で回転した。

――プライス判事たちが、近くに来ている! となれば、判事たちが突入できるチャンスを作らなければ!

パピィは賢くも再び物陰に身を隠し、マティはタイター氏に向き直った。

「やい、タイター!」
「何だ、クソガキ!」

マティは自分の手荷物を高く掲げると、いっちょまえに脅迫を始めたのであった。

「オイラ、爆弾持ってんぞ! そいつが爆発すれば、全員がお陀仏だぜ!」
「ウソコケッ! ガキが、そんな代物持ってる筈が無い!」

タイター氏は顔色を変えながらも、怒鳴り返した。

しかし、タイター氏の手下――ガラの悪い闘犬によく似ている二人――が、 揃って慌てたようにマティを指差し、口々に喚き始めたのである。

「おかしらッ! コイツは只のガキじゃねえ!」
「トッド家の神童、マティですぜ! 花火を魔改造して、アジトのロッジを吹き飛ばした!」
「何いッ!」

カウンターテーブルの上で、タイター氏は一気に青ざめた。

マティが袋の中から謎の小箱を取り出すと、 マティを取り押さえるべく後ろに回っていた二人の手下が――赤毛のトサカ男と丸刈り狼男が――、 二人とも目を引き剥いて、飛び上がった。

「たッ、確かに袋の中から妙な箱が!」
「魔改造爆弾!」

しかし、そんな事で怯む片目の巨人では無かった。

片目の巨人は、一瞬のうちに戦斧を振り回してカウンターテーブルの半分をぶち抜いたのである。 そして、恐るべき重量を持つ戦斧を、パレード用のバトンでもあるかのように軽々と振り回し、超高速で大回転させた。 目にも留まらぬ謎の攻撃ではあったが、効果は抜群であった。

高速回転する戦斧の、ただし刃では無い部分に打たれ、 ガチムチとした大柄な手下二人が――トサカ男と丸刈り狼男が――もろともに、スペースの端まで吹き飛んだのである。 吹っ飛ばされた手下たちの身体の下で、そこに置かれていた椅子が粉々になった。

想像を超える怪力ぶり、凄まじいお仕置きぶりだ――マティは、腰を抜かして座り込んだ。

ルシールにしても、言わずもがなである。 目の前で、一瞬にして頑丈なカウンターテーブルの半分が粉々になるのを目撃する――という経験など、 一生に一度もある物では無い。 巨人の手による拘束は解けた状態だが、ルシールは恐怖に目を見開いて、マティの方を振り返る事しか出来なかった。

マティの後ろでは、お仕置きされて吹き飛ばされた手下の二人が、半ば失神して転がっている。

「その度胸は褒めてやる」

片目の巨人は、不気味な称賛を述べつつ、マティの前に立ちはだかった。片手に、謎の小箱をつかんで見せる。 マティは呆然として、奪われてしまったチャンスを眺めているのみであった。

片目の巨人は、容赦の無い男ながらも、大の男に劣らぬ少年マティの機転ぶりに感心している様子だ。

「トッド家の神童が、復活祭の気晴らしに爆弾を作って、空き家を丸々吹っ飛ばした……実話らしいな」

ガラの悪い闘犬に似ている二人の手下が、顔を引きつらせながらも、口々に解説を加えた。

「あのカーティスのお喋りオバハンが宣伝しまくるから、界隈の伝説ですぜ」
「トッド家の神童は、目下、大破壊の罪で、お尋ね者って話だ」

マティはムッとしながらも素早く立ち直り、反論を始めた。

「そりゃ誤解だぜ! 『ツクモガミ』に出て来る打ち上げ花火を再現しただけじゃん! 第一、 あの空きコテージはトッド家の持ち物で、解体前の空き家なら誰も居ないから――」

そこまで言って、マティは改めてギョッとした顔になり、タイター氏の方に目を向けた。

「って……てめえ! 不法侵入もしていたのかよッ!」

――ギャングたちが『アジトのロッジ』と言うからには、そうに違いない。

ルシールは、マティとタイター氏の応酬に、無言で圧倒されるのみだった。 マティがやらかした『復活祭の時のイタズラ』とは、つまり、こういう事だったのだ。

「それがどうした!」

果たしてタイター氏は、開き直って怒鳴り返している。

タイター氏は、すっかり激怒していた。 異様に高いシルクハットを乱暴に外して見せると、果たして見事な禿げ頭が出現した。 タイター氏の腕の動きに合わせて、シルクハットに取り付けられた金髪が、天使の如くフサッフサッとなびき輝く。

「ワシのこの禿げ頭、どうしてくれる! あの大爆発で死に掛けたぞ! 復活祭の祝福で、 不死身の復活を遂げたがな……! 美しいフッサフサ・ウェーブを無残に燃やしやがったな! 我が自慢の髪を!」

マティは実に独創的なコメントを返した。

「自業自得だぜ、クラーケン・劣化コピー・イカタコ!」
「こ……このッ、超・生意気なクソガキ!」

タイター氏は、もはや、茹でダコさながらに、頭から湯気が出ている状態である。 怒りの余りか、気の利いた返しも思い浮かばぬ様子で、使い古された悪口雑言を言い返すのみであった。

*****

ストリートの植え込みの陰では、プライス判事の部下たちが、工房の中で新たに展開したらしい物事に浮き足立っていた。

「あの凄まじい破裂音は何だ? 一応……人質は無事らしいが」

勿論、片目の巨人が、巨大な戦斧をぶん回してカウンターの半分をぶち抜いて吹っ飛ばした時、 この世の物とも思えぬ凄まじい大音響が響いたのである。

マティが元気良くギャングたちの気分を逆撫でしている様子からして、 流血の事態は無かったと確信できたのではあるが、それでも、気を揉む状況である事には変わらない。

プライス判事と共に待機していたキアランは、ますます眼差しを険しくしていた。 傍に控えていたカーター氏は、早口でキアランに何かを耳打ちし、キアランの暴発を抑えている様子である。

部下代表のコナーは、口の端を引きつらせて、プライス判事を見やった。

「余罪も成立しましたね」
「最近、タイターが禿げ頭だったのは、そう言う訳か……」

プライス判事は、この時にも関わらず痛み始めた頭を押さえていた。 此処で言う『タイター氏の余罪』とは、勿論の事、トッド家のコテージへの不法侵入である。

判事の部下たちの後ろでは、ギネスとパーカーが、唖然としながらも対決の行方を見守っていた。

その更に後ろでは、馬車に拘束されているナイジェルが、「叔父貴……」と呟いている。 馬車脇に控えていた弁護士トマス氏も、「タイター様……」と呟いていた。

ナイジェルとトマス氏は、二人とも、この場においても相変わらず積み重なるタイター氏の余罪ぶりに、 流石に呆れ返っていたのである。

*****

激怒の止まらぬタイター氏は、マティの『謎の小箱』をガッチリと抱え、マティを指差した。

「おいッ、片目の怪物!」

片目の巨人は、タイター氏の意を正確に察知したようである。不気味な片目が、マティを捉えた。

マティは、恐るべき危機を悟ってギョッとした顔になり、一歩、後ずさる。

「このクソガキの首をかっ切れッ! 悲鳴が長続きするように、ジワジワと!」

タイター氏は遂に、その暴力性を爆発させたのであった。 片目の巨人は手際良くマティを捕まえると、悲鳴を上げて暴れるマティを、ルシールの隣に持って来た。

半分だけ辛うじて残っている、カウンターテーブルの天板の上。

もがき続けているマティの上半身が、巨人の手によって、うつ伏せに押さえ付けられた。 カウンターテーブルにしがみついていたルシールは、信じられない思いで、目の前の光景を呆然と見守るばかりであった。

ルシールが呆然としている間にも――

片目の巨人は、うつ伏せになったマティの首に、ゆっくりと巨大な戦斧の刃を当てた。 ゾッとするような巨大な刃が、マティの小さな首に触れ、その薄皮一枚を刻み、ジワジワと沈み込む――

ルシールは極限まで青ざめた。

無我夢中で、天板の上にふんぞり返っているタイター氏の足首に取りすがる。

「待って下さい、署名します!」

それこそが、まさにタイター氏の望む瞬間であった。

「では待ってやる、早く署名しろ!」

マティの首筋に沈み続けていた、巨大な戦斧の刃が止まる。

一人の手下が、タイター氏の合図に応じ、一枚の文書を持ち出して来た。

ルシールの目の前に、文書が置かれた。続いて、既にインクが入っている羽ペンがセットされる。

相続放棄を宣言する誓約書だ。そこに記されていた文面は、極めて簡潔で直接的な物だった。

『この私、アイリス・ライトの娘たるルシールは、この誓約書により、 ローズ・パーク庭園のオーナー権について、これを永久に放棄する』

明らかにタイター氏の筆跡だ。大いに気取って記された物らしく、以前の脅迫状のような乱暴な文字では無い。 脅迫状の物と同様、クセの強いいびつな筆跡ではあるものの、 タイター氏は、かつては確かに名家ビリントン家の御曹司だったのであり、 現在はビリントン家の当主なのだという事実を、より感じさせる文字になっている。

――マティの命には、代えられない。

羽ペンを取ったルシールの手は、もはや震えていなかった。

ルシールは鼻と口元から流れる血をぬぐうと、息を詰めて、誓約書に向かう。

神聖とすら言える、ひとときの静寂が落ちた。

直接には見えていなくても、羽ペンが紙の上を滑る音をシッカリと捉えているのであろう。 巨人の手によってうつ伏せに押さえ付けられているマティは、すっかり抵抗を止めており、不思議なまでに大人しい。

『ルシール・ライト、本人署名』――

ルシールが、署名を済ませた誓約書を、無言で差し出す。

タイター氏は気取っているのか、意外な程に丁重な手つきで、誓約書を受け取った。

「――良し! 解放しろ!」

タイター氏の命令に応じて、片目の巨人は戦斧を引き、手を放した。

そして――遂にマティは、死の淵から解放されたのであった。

タイター氏は、一度、二度、と署名入りの誓約書を確認し、得意満面で高笑いを始めた。

「ハハハッ! これで、ルシールは用済み……! 偉大なる尊大なるタイター様は、また勝利を収めた!」

そうしている間にも、マティは大急ぎでカウンターテーブルから降り、ルシールにしがみついた。 マティとルシールは言葉を詰まらせたまま、お互いの無事を確かめるべく抱き合った。

一方、笑いの止まらぬタイター氏は、勝利に酔うままに、抱えていた『謎の小箱』を手前に持ち直した。

「おっと! その前に! こんなフザケた小箱が爆弾の筈が無い!  ハハッ! 神童と言っても、ガキの傑作じゃ、こんな物よ!」

タイター氏が持っている、マティお手製の小箱。それは意外に簡素な小箱であり、 絵本に出て来る海賊の宝箱を模したオモチャにも見える。

「裕福なトッド家、お宝の程も――」

タイター氏は、その目に欲望と期待の色をみなぎらせて、『謎の小箱』のフタに手を掛けた。

箱のフタが開いた音にハッと息を呑み、信じられないと言った顔で振り返るマティ。

そして、マティの小箱は――遂に大爆発したのであった!

最初の洗礼は閃光弾である。

いきなり閃いた強烈なフラッシュと煙に取り巻かれ、タイター以下、ギャング全員が目が眩み、 或いは叫び声を上げながら目を塞いだ。ルシールは、閃光弾の爆発の衝撃で、マティもろとも後ろに吹っ飛んだ。

次に来たのはビックリ箱の攻撃である。

小箱の持ち主の顔、即ち小箱をのぞき込んでいたタイター氏の顔を、バネ仕掛けの『謎の手』が捕らえたのだ。 プロレスラーの渾身の一撃に等しい程の強烈なバネの衝撃を食らい、一瞬、 『謎の手』を顔面に張り付かせたまま宙に浮かぶタイター氏である。

小箱の攻撃は、なおも続いた。次に飛び出したのは、大量の煙幕弾だ。

バネ仕掛けによる連鎖爆発シリーズだ。永遠に弾け続けるかと思われる程の長々とした煙幕弾シリーズは、 大量の煙を撒き散らした。狭い工房の中が瞬く間に煙で充満し、一気に暗くなる。

まさか此処まで長続きする連鎖爆発とは、全くの想定外だ。 すっかり油断していたギャングたちは、有効な手段を取るチャンスを失ったまま、煙にむせ、咳き込んだ。

凶悪な小箱の攻撃は、更に続いた。

小箱の中には、なおも大量のバネ仕掛けが仕込まれていた。一つ一つのバネに丹念に取り付けられたパチンコの仕掛けが、 謎の小玉を、散弾銃さながらに四方八方へと打ち出した。空中に散らばった謎の小玉は、ミニ打ち上げ花火よろしく次々に破裂し、 赤や黄色やオレンジと言った極彩色の粉末を、止め処も無く撒き散らした。

極彩色の微粒子で出来た、超高速・連続打ち上げ花火のような光景は、その後も続いた。 工房内部の空気が、赤、黄色、オレンジ、茶色、灰色、その他様々が入り交ざった、異様な色に染まっていく。

ギャングたちは、煙幕弾に由来する煙にむせた結果、新鮮な空気を吸おうとして、 異様な色に染まった空気を大量に吸う羽目になっていた。

ギャングたちは揃って、苦痛の叫びを上げた。異様な色に染まっている空気を吸い込んだ瞬間、 目、鼻、喉、あらゆる粘膜への強烈な刺激が始まったのである。

「涙が! 鼻水が!」
「カラシの粉とトウガラシ……!」
「クシャミが止まらねえ」

ギャングたちは、涙声だか鼻声だか分からない悲惨な声で、口々に症状を訴える。そのうち、一人が賢くも叫んだ。

「カーテンを! ドアを開けろッ、外の空気を……!」

当然ながら、証拠隠蔽のため、工房の中は密閉されていたのである。

片目の巨人は、目と鼻を巧みに覆いながら巨大な戦斧を振り回し、カウンターやドアを粉々に破壊して、脱出口を開いた。

ほぼ全面的に破壊された工房の入り口から、ギャングたちが転げ出す。

そして、そこでは当然ながら、プライス判事の手勢が厳重に包囲し、待ち構えていたのであった。

「袋のネズミだぞ! 一網打尽にせよ!」

タイター氏の手下たちは、既に刺激性の涙と鼻水にまみれており、喉もヒリヒリして、満足に叫ぶ事すら出来ない。 連続クシャミの方に忙しかった事もあって、大した抵抗も出来ず、次々に捕縛されて行った。

だが、ただ一人、片目の巨人は、マティの小箱の爆発に対する巧みな防衛の甲斐あって、症状は軽かったのである。 巨大な戦斧を振り回し、役人を一歩も近付けない。プライス判事の部下たちは恐れを成して、次第に遠巻きになった。

「大男に気を付けろ! あの斧はヤバイぞ!」

武装役人たちによる包囲を破りつつあった片目の巨人は、 退路を断つべく第一線に出て来たキアランと、正面から対峙する形になった。

巨大な戦斧が横切った瞬間、刃の衝撃と風圧で、キアランのシルクハットが吹っ飛ぶ。

明るみに出たその人相を認めた片目の巨人は、凄まじい因縁を込めて、耳まで裂けるかと思われる不気味な笑みを浮かべた。

「グレンヴィル……!」

片目の巨人は、一撃必殺の意志を込めて、巨大な戦斧を振るった。

「死ね……!」

目の前に立ちはだかった巨大な戦斧使いが、ルシールを痛め付けた『片目の巨人』だと気付いたキアランは、 不意に怒りが湧いて来たのであった――特製のステッキを斜めに持ち、鋭い身のこなしで巨大な刃を受け流す。

一瞬のタイミングを逃さず、ステッキをひねる。 ステッキは、一撃必殺の勢いで振り下ろされた巨大な刃の勢いを、そのまま斜めへと流しながら、 その一瞬、刃の運動にねじれを与えた。

運動のねじれの中で、巨大な質量に掛かる重力と回転運動に伴う遠心力とが合流した。

そして、片目の巨人の手から、戦斧がもぎ取られた――

――何だと!?

巨大な戦斧は今や、人の手の届かぬ空中を舞っていた。

片目の巨人は、余りにも有り得ぬ事態に、一瞬、呆然とする。

互いの身体がすれ違う瞬間、キアランのステッキが、目にも留まらぬスピードでうなりを上げた。

片目の巨人の動体視力は、確かにその一部分の動きを捉えていたのだが、 片目の巨人――自身には、何が起こったのか分からないままだった。 実際に片目の巨人が感じたのは、身体の数ヶ所を順番に襲った、説明のつかない痛みだけだ。

わずか、数秒後。

片目の巨人とキアランは、数歩ほど行き違った結果、お互いを背にして身体の位置を入れ替えていた。

呆然とする複数の目撃者の前で――持ち主を失った巨大な戦斧が、ガランと音を立てて路上に倒れる。

片目の巨人は、まだ信じられないと言わんばかりの表情を浮かべたまま、その後を追うように、ゆっくりと倒れていく。 続いて、巨体が地面に倒れ伏した証の、鈍く重い衝突音が響き渡った。

既に勝利を知っていたキアランは、実にあっさりと、残心の構えを取るのみである。

――数秒の沈黙。

「何なんだ? 何か一瞬で」

目をパチクリさせるギネス。並んだパーカーも、何が起きたのか分からないと言った様子で口をポカンと開けていた。 即席の移動牢屋の中のナイジェルは、ただ驚愕するのみだ。

「肩を斬ったと思うけど、他は分からんです」

若い御者も、余り役に立たない解説を口にするばかりだった。

プライス判事は、驚愕と安堵が入り交ざった表情で、口を引きつらせていた。

「……シンクレア家、直伝の剣術……!」

*****

なおも異様な色の空気が淀む工房の中は、ほぼ瓦礫の山と化していた。 爆発の拍子に吹っ飛んだルシールは、半分失神したまま瓦礫の中に埋まっている。

マティは瓦礫の中からルシールを掘り出しながらも、片目の巨人がいつの間にか倒されていた事に気付き、 唖然とするのみであった。

4.テンプルトン町…惑乱果つる処

――片目の戦斧使いが――あの巨体の怪物が――倒れた!

プライス判事の部下たちは、揃って愕然としたまま、固まっていた。

部下代表のコナーが、いち早く気を取り直し、口ごもりながらも指令を飛ばす。

「み、身柄……、確保しろ!」

部下たちは、その聞き慣れた指令に、一斉に反応した。数人がかりで、路上に倒れ伏した片目の戦斧使いの巨体に取り付く。 数人が片目の巨体を仰向けにしている間、別の数人が、運搬のための板を運び出して来た。

流石に此処まで来ると、普段からの訓練のお蔭もあり、作業スピードが一段と上がる。 片目の巨人は、我が身に起こっている事が分かっているのかいないのか、異様な程に大人しい。 その異常性に、作業中の何人かが、遅ればせながら気が付いた。

片目の巨人を運搬用の板に縛り付け、全身をシッカリと拘束する。 その過程で、異常性に気付いていた勇気ある部下の一人が、片目の巨人の身体に触れ、チェックし始めた。 そこには明らかな兆候がある――驚きの余り、息を呑む。

「げッ、何ヶ所も骨を折ってる……」

その指摘にビックリした別の部下たちが、愕然とするままに、一斉に片目の巨人の身体をまさぐった。 片目の巨人はうめき声を上げはしたものの、それ程、激しい抵抗はして来なかった――出来ない状態だったのだ。

巨体に伴うだけの体重。圧倒的な筋肉パワー。それらの凄まじい身体能力を支える、骨格。

その骨格の要所、ほぼ全てに渡って、はなはだしい粉砕骨折が起きていた。 手の骨、肩の骨、それに大腿骨を始めとする両脚の各所、 その他――片目の巨人は、ほぼ身動き不可能と言って良い程のダメージを受けていたのである。

片目の巨人は、全身を貫く激痛に顔を歪ませながらも、大声で敵を呼ばわった。

「戻って来いッ! 俺と勝負しろ、グレンヴィル!」

しかし当のキアランの方は、既にそこには居なかった。 マティとルシールの姿を求めて、破壊し尽くされた工房の中に飛び込んでおり、 それどころでは無かったのである。工房の主であるギネスも、キアランの後に続いていた。

工房の中は、極彩色の粉塵が立ち込めた異様な空気で、薄暗くなっている。 ギネスが早速、肌身離さず持ち歩いているマスターキーで、心当たりのある戸棚の鍵を開けた。

「大丈夫かよ、メイばあさん!」

メイプル夫人は幸いな事に、密封された戸棚の中に居たため、マティの小箱の爆発の影響は、ほとんど受けていなかった。 キョトンとした様子で、いささかピントのズレた疑問を口にするばかりである。

「爆弾とか言っていたようだけど、トウガラシじゃ無いの? これ」

キアランは手際よく瓦礫の中からルシールを掘り出すと、シッカリと腕の中に抱き上げて外へと運び出した。

「私、歩けますわ、リドゲート卿」

そう抗議するルシールは、『謎の小箱』に由来する様々な種類の粉塵が、身体全体にビッシリ張り付いている状態だ。 口元には鼻血が飛び散っており、口の端からは、口を切った時の血がまだ流れていた。 いずれ青あざになるだろう打ち身も、顔の各所にある。 刺激性の涙が止まらず、埃だらけになった頬に幾つもの涙の筋を付けており、クシャミ混じりの鼻声涙声という散々な有り様だ。

キアランは勿論、ルシールの抗議をすっかり無視していた。

マティの方は、この混沌の発明者・張本人にしてイタズラの仕掛人という事もあり、 中身の暴走に対する初動対応が出来ていた分、症状はずっと軽い状態だった。 賢くも自分やルシールの手荷物を忘れておらず、ちゃっかりと持ち出して、キアランの後を付いて行く。

「早く出て下さいよ、裏の仕切りも開けて換気しませんとね」

後から来たパーカーは、刺激の強いピリピリとした空気に咳き込みながらも、キアランたちに手際よく声を掛けた。 そして、ギネスやメイプル夫人と共に工房の中を走り回りながら、あちこちのドアや仕切りを次々に開けていった。 隣人だけあって、パーカーやメイプル夫人は、ギネスの工房の内部構造を充分に承知している様子なのであった。

換気が進んで次第に空気が澄んで行き、見通しが良くなって来た工房である。

タイター氏は、トウガラシやカラシの粉で、すっかり目や鼻が利かなくなっている様子であった。 クシャミ混じりの鼻声で叫びながら、床の上を転げ回っている。

「ギャアア! 何か怪物が居るぞお! 毛だらけの、爪のある……」

プライス判事や部下がタイター氏の傍にやって来て、『怪物』の姿に目を丸くした。

「パピィ君が、じゃれてるだけだろう」

プライス判事は首を振り振り、呆れながらも、モフモフしている毛玉を、タイター氏から引き剥がした。 当然ながら、赤や黄色や、その他の様々な粉塵がビッシリと張り付いており、凄まじい色合いの、正体不明の毛玉になっている。

「それにしても、パピィは何処から混ざって来たんだ?」
「ギャフンッ☆」

図らずも『ギャング団のボスを取り押さえる』という一番の大手柄を立てる形となったパピィは、 得意そうな顔つきをしながら、一鳴きするのみであった――ただし、鼻声で。

*****

マティとルシールは早速、近所から運ばれて来た新しい水で、目や鼻を洗い始めた。

キアランは傍に居て、新しいリネンタオルをその都度、二人に差し出している。

「ルシールから目を離している場合ではありませんでした……申し訳ありません」
「い、一応、無事ですから」

ルシールは鼻声になりながらも、何度もうなづいて答えた。

「涙と鼻水で、きっとひどい顔してるわ、恥ずかしい」
「直撃してねーし、ディナーまでには治ってると思うよ」

そう応じるマティの方は、盛大に水タライに栗色の頭を突っ込んでは流すと言う、 『いかにも男っぽい』方法で、刺激物を洗い流していた。

マティとルシールは、二人とも、密閉された工房の中で濃厚な空気に取り巻かれたため、 服や肌には、赤や黄色の粉が大いに付着していた。顔や肌に張り付いた刺激物を洗い流すだけで精一杯である。

髪の毛や服の隙間に付着した分については、風呂や洗濯で無いと落ちないため、館に戻ってから対応するしか無い。 と言う訳で、埃だらけの上に極彩色の粉末ペイントを施したと言う風の、何とも言えない異様な格好に見えるのであった。

タイター氏は早くも、ナイジェルと共に、即席の移動型牢屋に拘束されていた。

「ふ、ふ、ふぅ……、フザケやがって! 今頃、援軍が来ても遅いぞ!」

タイター氏は、付着した刺激物で顔を真っ赤にし、間断なくクシャミをしながらも、強がっている。 勿論、タイター氏にも、目や鼻を洗うための水やリネンタオルが提供されていた。 タイター氏は禿げ頭なので、頭の掃除は早く済んでいたのである。

タイター氏の顔面の中央部には、マティの小箱から飛び出して来た『謎の手』の手形が、 いっそう真っ赤な痕跡となって、バッチリと残っていた。プロレスラーの張り手を食らったような物だ。 手形の跡は、いずれ紫色や黄色のアザに変色して行くだろう。

「俺を無視するな! グレンヴィル!」

タイター氏とナイジェルが拘束されている即席の移動型牢屋の傍で、 そのように喚くのは、運搬のための板に拘束されている片目の巨人だ。 そして勿論、キアランはそれどころでは無かったし、プライス判事も部下たちも、同様の状態だ。 全身を縛り付けられ、もはや脅威では無くなった片目の巨人は、すっかり無視されていたのである。

プライス判事は改めて、涙や鼻水、咳やクシャミの止まらないギャングたちを眺めた。 哀れなギャングたちは、砂漠の中の行き倒れさながらに、新鮮な水を溜めたタライに頭を突っ込んでは、 刺激物を洗い流しているのだ。

「それにしても、あの凄まじい催涙弾は、一体、何なんだ?」
「想像以上に大爆発したな……アラシアへの仕返しのためだったけどさ」

判事に問われたマティは、リネンタオルを頭からかぶりながらも、ケロリとした顔で解説したのだった。

「アラシアへの仕返しだと?」
「名付けて、カンシャク・バクハツ・ボックス!」
「変な物、発明するんだな」

マティの返答に呆れ返っているプライス判事の後ろでは、部下代表のコナーが口を引きつらせながら、 バネ仕掛けだらけの『謎の小箱』を恐る恐る持ち上げていた。 その周りを、いささか青ざめている他の部下たちが、遠巻きにして囲んでいる。

中身をすっかり吐き出し切ったマティの小箱は、今は何の影響も無かったのだが、 流石にその緻密かつ謎めいたバネ仕掛けは、余人には読み解けない程の複雑さだ。 そして、とりわけ大きなバネの上で不気味に揺ら揺らしている『謎の手』は、 『まだ何かあるのでは』と警戒を抱かせるに充分な代物であった。

*****

即席の移動型牢屋――鎖を掛けられた小型馬車の中では、タイター氏とナイジェルの言い争いが始まっていた。

「流石にあの大声はマズイじゃ無いか! アントンやら何やら! 調書にシッカリ取られてたぞ!」
「貴様の場合は、アシュコートのセクハラ訴訟や、結婚詐欺訴訟を何とかするのが最優先だろう! 我が甥ながら、情けないッ!」

何とか甥の抗議を押し返したタイター氏は、皆に見えるように、一枚の文書を高々と掲げて見せた。

「やあやあ! 遠からん者は音にも聞け! 近くば寄って目にも見よ……新しい誓約書は、 まさに此処だ! ルシール自筆サインだぞ!」

二人の弁護士、カーター氏とトマス氏は一瞬、驚いたように目を見張った。 しかし、プロ意識溢れる二人は、すぐさま、タイター氏の提示する誓約書を受け取り、内容の確認を始めたのであった。

タイター氏は勝ち誇ったように、極彩色の粉末ペイントを施された太く短い腕を振り回した。 タイター氏の後ろでは、勢いで飛び散ったカラシ&トウガラシの粉末を吸い込んだナイジェルが、盛んにクシャミをしている。

「しかと見るが良いぞ、弁護士どもよ! ルシールは既に! ローズ・パーク邸の相続権を放棄してしまったのだッ!」

誓約書の内容を、しかと確認したカーター氏とトマス氏は、口々に驚きの声を上げるのみであった。

「何という事だ!」
「これは法的に有効で……」

若手弁護士トマス氏は、まだ信じられぬと言う面持ちで、依頼主タイター氏を振り返った。

「こんなに慌てて文書確定するとは思わなかったです……タイター様!」
「偉大なる尊大なるタイター様は、常に先回りするのだ!」

トマス氏は奇妙に口を引きつらせたまま、シルクハットの縁に手を掛けてカーター氏を振り返った。 カーター氏も同様に、トマス氏に向かって、無言でシルクハットの縁に手を掛け、うなづいて見せる。

カーター氏とトマス氏は、そのようにして、互いに無言で了解し合ったのであった。 そして二人の弁護士は、改めて威儀を正すと、おもむろに、タイター氏とルシールに向き直った。

――法的決着の時だ。

既に勝利を確信しているタイター氏は、ハンカチで鼻を挟んだままポカンとしているナイジェルを脇に放り、 いそいそと小型馬車の窓際に寄った。

ルシールは、破れた袖を見苦しくないようにリネンタオルで覆うと、小型馬車のやや脇の辺りに佇んだ。 そこに、興味津々と言った様子のマティが、ピッタリくっ付いて来た。

――脅迫されて無理矢理にサインさせられた形だし、その辺りの合理的配慮には、期待しても良いのかしら?

ルシールは、不安交じりの期待を抱きながら、二人の弁護士を注目した。

カーター氏が誓約書を読み上げる。

「この私、アイリス・ライトの娘たるルシールは、この誓約書により、 ローズ・パーク庭園のオーナー権について、これを永久に放棄する……」
「確かに確認いたしました、タイター様、ルシール様」

読み上げが終了すると、トマス氏がうなづいて見せる。

カーター氏は暫し間を置き――遂に、法的決着を宣言したのであった。

「故アントン氏の遺言書に従い、該当者が相続権を確かに放棄し、 件のオーナー権は、クロフォード家に返還されると言う事で、確定しました――」

――タイター氏の名前も、ルシールの名前も、無い。そして、ナイジェルの名前も、無い。

耳を傾けていた面々は全員、暫しの間、その意味を考え――奇妙な沈黙が広がった。

そして、不意に、全員の口がパカッと開いたのであった。

「今、貴様、何と言いやがった!」

やっと意味が飲み込めたタイター氏は、大声で喚き始めた。

カーター氏は、タイター氏の反応を一顧だにせず、冷徹なまでに手続きを進めていく。

「治安判事どの、公証人として、この誓約書に裏書を願います」

プライス判事は目をパチクリさせながらも、カーター氏の依頼に応じて誓約書を受け取った。

「以上……これにて、クロフォード家による、オーナー権の没収は完了です」

――まさに目の前で、オーナー権が取り上げられたのであった――

ルシールは勿論、勝利を確信していたタイター氏もナイジェルも、驚愕と混乱の余り、ただ口をパクパクさせるばかりであった。 余りにも想定外の事態で、一切の言葉が思い浮かばないのだ。

遠巻きにして見物していたプライス判事の部下たちも、涙と鼻水とリネンタオルに埋もれていたタイター氏の手下たちも、 皆が皆、揃ってポカンと口を開けたまま、絶句している。

マティが目を丸くし、近くに居たキアランを勢いよく見上げた。

「そうなの!?」
「そう言えば……」

キアランも流石に、呆然と呟くのみであった。

その後ろでは、なおもグレンヴィルの名を呼び続けていた片目の巨人が、遂に錯乱したように、 『うおおお』と、意味の無い叫び声を上げていた。 もはや、署名に集中しているプライス判事に、たしなめられていると言う有り様である。

「今、大事な話の途中なんだから静かにしてろよ、『片目の巨人』君」

タイター氏、ナイジェル、ルシールの三人は、頭の上に疑問符を浮かべたまま、なおもポカンとしていた。

やれやれと言った様子のカーター氏が、アントン氏の遺言書を改めて提示し、解説を始める。

「直談判の際に説明した筈です。故アントン氏の遺言書の内容は、ご承知でしょう」

『我が所有する、ローズ・パーク邸の一区画の庭園オーナー権、其を我が娘アイリス・ライト、 及び、アイリス・ライトの子孫が着実に相続するを、我望むものなり。 かつ、此処に厳密に指定せし相続人の全てが既に死亡せし時、相続人による相続放棄の真正なる意思の確定せし時、 ただちに其のオーナー権を、謹んでクロフォード伯爵家に全返還するものなり』

――相続人による相続放棄の真正なる意思の確定せし時、 ただちに其のオーナー権を、謹んでクロフォード伯爵家に全返還するものなり!

全てを理解した瞬間、タイター氏、ナイジェル、ルシールは、三人とも、天をも仰ぐ格好になった。 口をアングリしたまま、身体全身をワナワナと震わせるのみである。

まごうかた無く、タイター氏とナイジェルとルシールは――気質の共通する、親戚同士であった。

タイター氏は激怒と喜悦の故に、ナイジェルは驚愕と焦燥の故に、ルシールは恐怖と懊悩の故に――三人揃って、 動転の余り、真っ白になっていたのだ――アントン氏の遺言書の、『最も重要なポイント』を、すっかり忘れていたのだ!

トマス氏は、『これ程おかしな事が、現実にあるのだろうか』と言わんばかりの表情を浮かべながら、シルクハットを直していた。 そして、カーター氏の解説が済むと、タイター氏を説得するかのように言葉を続けた。

「新しいオーナー協会員は、伯爵さまが改めて選定されますが……あんなに余罪があるんじゃ、 ビリントン家が選定される可能性は無いかも……」

トマス氏は、そこで、再びシルクハットの縁に手を掛けた。

「あッ、そうだ。此処で弁護の契約終了なんで、後で料金を請求しますんで、よろしくです」

だがしかし、不意に絶望の底に突き落とされた形となったタイター氏とナイジェルは、それどころでは無かった。

「そんなバカなッ! 叔父貴! 何と言うヘマをしたんだ! あれは俺の物になる筈で……!」
「ワシの物だぞ!」

次いでタイター氏は、キアランの方を向いて怒鳴り出した。

「クロフォード家に、何の権利があって――」

キアランは無言で、タイター氏とナイジェルの二人を睨み付けた。 漆黒の刃さながらの殺気が、不吉に閃いた。身体の奥まで突き刺さるかの如き、鋭利な視線だ。

流石にその不穏な眼差しに貫かれて、すぐさま口ごもる二人であった。

*****

プライス判事の部下たちは、その後も事件現場の後片付けを続けた。

ようやく『怖いリドゲート卿』の姿が遠ざかって行った事で安心したタイター氏とナイジェルは、 プライス判事に向かって、口々に『負け犬の遠吠え』を述べ立てるのみである。

「権力者の横暴ッ!」
「社会革命! 造反有理! 強者打倒! 弱者救済!」

流石にプライス判事も呆れた様子で二人を振り返り、『揺るぎようの無い現実』を指摘したのであった。

「タイター氏が誓約書を書き、ライト嬢が署名したんだ……私の出る幕が、あったかね?」

そこへ、判事の部下代表のコナーが、パピィを見ていた部下と共にやって来た。

「判事さま! 子犬のパピィが、ただ今、カフスを排出しました!」

部下たちは、派手な粉末ペインティングを施されてモフモフの極彩色と化した毛玉と、その排泄物を包んだ手巾を示した。 出来立てホヤホヤの排泄物の固まりの中には、最高級のダイヤモンドが緻密にセットされた、 信じられない程に豪華なカフスボタンが埋もれている。

タイター氏とナイジェルは、子犬のパピィの笑い顔と、その排泄物を目撃する羽目になった。

目の前で、その排泄物の中から、見間違いようの無い燦然とした輝きが現れた。

タイター氏とナイジェルは、ひたすら仰天だ。

「子犬のウンコから、何でダイヤモンドが出て来るんだよ!」
「話せば長くなる」

縷々、解説するプライス判事である。部下たちは、ニヤニヤと面白そうな笑みを浮かべていた。

「このチビの毛玉、復活祭の前には既にブツを発見しているんでな。 お漏らししたのは、催涙弾のショックのせいに違いないな……」

部下代表コナー以下、部下全員が、上司の私見に完全同意なのであった。

*****

いつしか、昼下がりの後半頃となった。

帰還の準備をしているクロフォードの馬車の脇では、虚ろな目をしたルシールが、 まるで本物の幽霊のような顔色をして、植え込みの前に座り込んでいた。

マティは馬車の後ろから心配そうに首を伸ばして、その様子を観察するのみである。

「ルシール、放心してる」
「ローズ・パーク相続の可能性が消えたんですよ、頭の整理も大変なのに違いない」

マティに応えて、若い御者が仕方無さそうに呟いた。

ルシールに追加説明を終えたばかりのカーター氏が、各種の書類を改めつつ馬車に近付いて来た。 早速マティが、カーター氏を呼び止め、説明を要求する。

「遺言書の内容は、これで全て終了……今回の案件も終わりました。案件に伴う、館への滞在も終了です」

そのように端的に解説したカーター氏は、暫し沈黙し、ルシールとギネスが何やら会話を始めている様子を観察していた。

――ルシール嬢は確かに絶望に打ちのめされたが、会話が出来る程度の冷静さは残っているらしい。

やがて、マティは馬車の御者席の隅に座り込み、戸惑ったように顔を伏せた。

「ルシールは、アシュコートに帰るのかな?」
「それは、彼女の自由ですが……ただ、彼女に関して、別の重大な案件が持ち上がりまして。 この案件で、もう少しクロフォード領内に拘束させて頂く事になりましたので」

カーター氏は、いつものように律儀に答えた。マティは再びパッと顔を上げて、目をきらめかせた。

「重大な案件?」
「目下、機密です」

カーター氏は再び律儀に答えた。そしてシルクハットを直しつつ、珍しく、少しばかりの本音を呟くカーター氏であった。

「……しかし、仕事とは言え……流石に、此処は悩むところですね」

シルクハットを直した拍子に、胸ポケットの違和感に気付いたカーター氏は、「アッ」と言う顔をした。

「そうだ……あの親展の速達、まだ開封していなかった……」

――アシュコートから送付されて来た、特別な速達便。

カーター氏は手際よく、速達便を開封した。 中の書類に素早く目を通し――いつもは穏やかなポーカーフェイスを保っているカーター氏の顔には、 押し隠せぬ驚愕の表情が浮かび始めた。

「これは……」
「何か古そうなお手紙っぽいね」

マティが首を伸ばして文面をのぞき込みながら、鋭いコメントをして来た。

――マティ少年は観察力が鋭い上に、勘が良すぎる。

有能な弁護士たるカーター氏は、『危険すぎる可能性』にシッカリと思い至ったのであった――マティの頭脳は、 とんでもないタイミングで、秘密のベールを剥がしてしまうのだ。

マティには、非公式かつ内密の打診というレベルであった筈の、 『リドゲート卿とダレット嬢の婚約』を早々に察してしまったと言う実績があるし、 しかも、その話をルシールにバラしてしまったと言う前科もある。

カーター氏は、そそくさと書類を封筒に戻した。

「ああ、済みません、マティ様。目下、機密の案件に関わる内容なので……」
「ふーん、ケチ!」

マティはむくれ返って文句を言ったが、流石にまだまだ子供だ。 カーター氏が心底ホッとした事に、程なくして、マティの興味関心は別の事に移って行ったのであった。

*****

クロフォードの馬車の準備が整い、マティとルシールとメイプル夫人は、馬車内の人となった。

メイプル夫人は、まだ平常状態では無いルシールの世話を担当すると共に、 アントン殺人事件の証言者として、一旦、館で身柄を預かると言う事になっていた。

今までメイプル夫人を保護するという形になっていたパーカーの庭園道具店にしても、 ギャング襲撃の余波を食らってメチャクチャになっており、とても人間を泊められる状況では無かったためである。 ギネスもパーカーも、当分の間は隣近所の空き室に宿泊しつつ、町の大工たちに、工房や店舗の修復を依頼する事になっていた。

カーター氏は、若い御者と共にクロフォードの馬車の御者席に腰を落ち着けた。 キアランは既に乗馬を済ませ、馬車の脇に控えている。

目下、ルシールの服の片袖が破れていると言う状況なので、とりあえず成人の男性、つまり、 若い御者とカーター氏とキアランは、馬車内部に入る事は遠慮している状態なのである。

御者席に落ち着いたカーター氏は、静かにキアランに声を掛けた。

「館に戻ったら、ダレット家との対決ですから……リドゲート卿」

キアランは、いつものように、冷静沈着そのもののムッツリとした顔で、うなづいたのであった。

*****

テンプルトンの町からクロフォード伯爵邸までの道のりは、馬車で一時間程。

既に昼下がりから夕方へと移り変わる時間帯であり、周りの光景も、いつの間にか色合いを変えていた。 西の空に漂う雲は、次第に赤らみを帯びていく。 一面の丘陵地帯も、緑色と金色とが入り交ざる、詩的幻想を思わせる輝きと色彩を見せ始めた。

しかし、ルシールはボンヤリとしたまま、車窓の外の光景には目を向けようとしなかった。

*****

いつしか。

ルシールは馬車に揺られながら、ギネスとの会話の内容を回想していた。

――馬車に乗る少し前の事。

ギネスは、アメジストのブローチをチェックし、『少し壊れてる』と指摘した。

不思議な事だが、母親の形見が、娘の身代わりになったらしい。

ギネスは目下、複数の注文を抱えて多忙な身ではあったが、アメジストのブローチを優先で修理すると約束してくれたのであった。

――頑張ってはみたけれど、アメジストのブローチしか残らなかった。まるで25年前の母のように……

5.クロフォード伯爵邸…時の娘〔一〕

陽射しが更に傾き、周りの光景は、いっそう夕方の色合いを見せ始めた。

クロフォード伯爵邸でも、夕方の訪れと共にやって来た訪問客を迎えている。

執事がおもむろに大広間の扉を開き、訪問客の到着を告げた。

「レオポルド殿、レディ・ダレット、ダレット準男爵家が嗣子レナード様の、ご到着です」

アラシアを除くダレット家の三人が、毎度の傲然とした様子で、クロフォード伯爵邸の壮麗な大広間に入って来た。 三人とも、大いに贅沢を極めた、王侯貴族さながらの装いである。 貴族そのものの容貌、体格、輝くような金髪碧眼の持ち主という人々だけに、その装いは、実に素晴らしく似合っているのであった。

「正常化まで今少しだな、リチャード殿」

レオポルドは得々とした笑みを満面に浮かべ、クロフォード伯爵に声を掛けた。 敬意を表して会釈するというような素振りはいっさい見せず、それどころか、傲然と身を反らしたままである。

大広間には既に、今夜のディナーの招待客であるトッド夫妻が到着していた。 トッド夫妻は、ダレット一家への表敬のため、ソファから立ち上がって来た。

「トッド夫妻か」

レオポルド以下、ダレット家の面々は、なおも傲然と身を反らしつつ、うなづいて見せたのであった。

「お久し振りです、ダレット家の方々」

ダレット一家の傲然とした態度に驚きもせず、丁重に返礼するトッド夫妻である。

トッド氏はテンプルトンの町の活動的な資産家の一人だ。 クロフォード伯爵宗家たるダグラス家の縁戚であるクレイグ氏の娘を妻に迎えた事で、 以前よりも一段階ほど上の名家としての扱いを受けていた。

レオポルドが偉そうに身を反らし続けているのは、トッド氏の、その微妙な立場を承知しての態度でもある。

トッド夫人は硬い表情を崩さなかったが、夫であるトッド氏の方は、ダレット一家の傲然とした態度を気にしていない風だ。 大広間には既にドクター・ワイルドも来ており、同席していたクロフォード伯爵やクレイグ氏も交えて、適当に社交辞令が交わされた。

ダレット夫人が辺りを見回し、怪訝そうに口を開いた。

「アラシアったら、まだ出て来てない……少し様子を見て来るわ」

ダレット夫人は、今や一片の曇りもなく確信していた。

――今夜の注目のヒロインは、我が最愛の娘たるアラシア! その次に注目されるのが、 このわたくし、レディ・カミラ・ダレットに他ならない……!

ダレット夫人は、いそいそと身を返して大広間を退出して行った。

クロフォード伯爵やクレイグ氏が座しているソファ群から少し離れたところで、 早速、身分的に抵抗できないトッド氏を相手に、レオポルドによる『正論のショータイム』が始まった。

「館も領地も財産も、本来はクロフォード伯爵宗家の直系子孫たるダレット家の所有なのだよ。 正統も正義も無い今の世は、明らかに異常と言える!」

明らかに、クロフォード伯爵のみならず、その跡継ぎたるキアランに対する当てこすりも含んでいる。 伯爵は頭を抱えて溜息をつくのみだ。

トッド氏は慌てず騒がず、滑らかに一般世論の話題に持ち込んで行く。

「テンプルトンの住民には、異なる見解を持つ者もいるようですが」
「所詮、下等で無知な庶民の寝言でしょう」

レナードが斜に構えつつ、何やら悟り切った様子で応じた。

「白と黒の区別すらも付かない奴らだから、我々正義を守る者は、常に苦労するのです」

ダレット一家の凄まじい癇癪気質を考えると、『このような些細な意見の相違』に口を挟む訳にもいかず、 伯爵は苦い顔をして頭を抱えるのみである。館内の平和の責任者としての立場も、なかなか大変なのだ。

伯爵の眉間のシワは、ますます深くなった。クレイグ氏は苦笑しつつ、娘にそっと声を掛けた。

「辛抱強いご夫君で良かったな、キティ……」

クレイグ氏の長女にしてトッド夫人キティは、マティに良く似た表情豊かな面差しに、困惑の表情を浮かべるのみであった。

「帰ってみたその足で館を訪問してみたら、マティが不在だと言う事の方が気を揉むわよ」

そう言って、キティ・トッドはコミカルに腕を広げて見せた。

「また何か、とんでもない事やらかしていないでしょうね?」

トッド家の末子マティには、今回の『復活祭』の折、トッド家の所有である空き家を、 お手製の花火爆弾で丸ごと一気に吹っ飛ばしたと言う、ガチの『とんでもない前科』があるのだ。

トッド夫人は、更なる困惑に眉根をひそめていた。 大広間の隅に持ち込んでいた『配達ボックス』をクレイグ氏に示しながら、解説を加える。

「それに、この荷物は、『ローズ・テイラーズ』の店主が、 『マティも一緒に来ていたのでビックリ』と言って渡して来たものよ」

大きさの割に軽い箱で、その中身は、やはり『ローズ・テイラーズ』制作のドレスか何かであろうと予想できる。 しかし、トッド夫人は、その箱に更なる疑いの眼差しを注いでいた。口元は、すっかり『への字』になっている。

「彼は信頼できる仕立て屋だけど、マティ経由だけに、何が入ってるのか、警戒の余り開封もできないんだわ」

キティ・トッド夫人は、流石にマティの母親であり、マティが如何に奇想天外な行動をするかという事については、 充分以上に――と言って良い程、承知しているのであった。

ドクター・ワイルドが面白そうに身を乗り出して、箱のラベルを確かめる。

「ディナードレス?」
「受取人が、マティか……」

伯爵とクレイグ氏も、しげしげとラベルを眺め、妙な感心をし始めた。

マティは、何か新しいイタズラ・プロジェクトを思い付いているらしいが、今度は一体、 どんな『とんでもない事』を始めようとしているのであろうか。しかも、女物のディナードレスをネタにして、だ!

「マティは、女装趣味でも始めたのかしら!?」

トッド夫人は、ソワソワと落ち着かない様子だ。だんだん、顔が引きつって来ている。

それは、いきなりの事であった。大広間の扉が大音響を立てて開いた。

大広間の面々がビックリして注目する中、ダレット夫人がひどく動転した様子で大広間に駆け込んで来た。 何やら、意味の分からない叫びを上げている。

「た……大変! あ……ああ……、アラシアが!」
「どうされました、ダレット夫人?」

流石にダレット一家の気まぐれに慣れているトッド氏も、心底ビックリした様子だ。

「アラシアが、ライナスと駆け落ちをしたの……!」
「何だと!?」
「アラシアが?」

ダレット夫人は、すっかり顔色が変わっていた。余りにも想定外の事態だ。 レオポルドもレナードも呆然として、驚きの声を上げる他に無い。

ダレット夫人は、ワナワナと震える手で、一通の手紙を掲げた。

「なかなか部屋から出て来なくて、変だと中をのぞいてみたら……お金も、宝石も、 あらかた消えてしまっていて……こ……、この……、置手紙が!」

アラシアの置手紙の内容は、以下のような物であった――

『ライナスと、ちょっと遠方までお出掛け! 『こんな夜中に?』ってビックリするお顔が、とても見たかったわ!  これは、あくまでも正義の行方不明よ! お金やら宝石を盗ったのは、あのクソ女って事にしといて頂戴!  あの悪辣なクソ女の悪巧みが全部バレて、破滅する時は近いわ!  この事件は、全国の社交界を席巻するでしょうね! 新聞記者やロマンス作家を呼んで来ても、全然構わなくてよ♪ キャハ☆』

アラシアの気まぐれは毎度の事とは言え、これは、余りと言えば余りな内容だ。

トッド氏も唖然とするばかり、その驚きの声は、無意識のツッコミとなっていた。

「意味不明な行方不明!」
「あのライナスに、オニババのネコババが可能だとは……!」

トッド夫人も息を呑んでいた。トッド夫妻は、夫婦そろって妙に息が合っている。

それにしても、アラシアは一体、何がしたかったのか? 単に、このタイミングで、 どうにもフォロー不可能な行動に出て、大騒ぎを起こす事が目的だったのか?

「何たる展開じゃ! アシュコート辺りで、嘘八百のゴシップを流して騒ぐつもりでいるのじゃろうが……」

アラシアの気まぐれな性格を充分に承知してはいたものの、それでも、驚愕しきりのドクターである。 ドクター・ワイルドは思いつくままに可能性を喋っただけであったが、実は、その内容は、正鵠を射ていたのであった。

手痛い損失に直結する事態を悟ったレオポルドは、動転するままにダレット夫人を怒鳴りつけた。

「この時間まで気付かないとは、お前は、それでも母親かーッ!」
「あんたが、ちゃんと娘を見ていないから、わたくしが苦労するんじゃ無いの! バカッ!」

流石と言うべきか、『他人を怒鳴りつけるパワー』という点では、ダレット夫人も全く負けていない。

その時であった。執事が再び大広間の扉を開き、更なる人物の参上を告げた。

「リドゲート卿が出張より、お戻りでございます!」

続いて、テンプルトンから帰還した一行が姿を現した――キアラン、マティ、ルシール、 そして少し離れてカーター氏とメイプル夫人が、そっと入って来たのであった。

一行を認めた大広間の面々は、驚きの余り、物も言えない状態になった。

マティとルシールは、ありとあらゆる種類のカラシ粉とトウガラシの粉にまみれ、 物凄い色の粉末ペインティングを施された服装をしているように見える。 一体何があったのか、目と鼻は相当に充血しており、髪の毛は極彩色のザンバラ髪となって逆立っていた。

そしてトドメは、何やら壮大な喧嘩をしたとしか思えない程の、 新しい傷やアザだらけの顔と全身、それに凄まじいばかりの衣服の破れである。

「な……な……何だ、そのボロボロの格好は……!?」

大広間の何人かが、一斉に同じ言葉を口にした。

「こりゃ何じゃ!? ……カラシ粉とトウガラシの粉?」

ドクター・ワイルドも、驚きに目を見張る。 ドクターは、マティの頭や衣服に貼り付いた粉末を検分し、すぐにその凄まじい濃度を察知した。

「人体実験のレベルを超えとるじゃ無いか! こりゃ話を聞かねば……」

ドクターは興味津々の余り、物騒なコメントを口にした。 トッド夫妻の口が揃ってパカッと開いたままになったのは、言うまでも無い。

マティは、充血したままの目で辺りをキョロキョロと見回し、 驚愕の余り絶句したまま固まっているトッド夫妻の姿に、ようやく気付いた。

「あッ、ママ! パパも……!」

マティは、戸惑いながらも手を差し伸べた父親トッド氏に近づき、端的な説明をした。

「タイターのギャング団と、すっげえ抗争やってたんだ! もう少しで死ぬかもと思ったよ!」
「抗争……!?」

トッド氏はオウム返しにしたものの、余計に信じがたいと言う顔つきになった。

伯爵は愕然としながらも、カーター氏に救いを求めるかのように、真偽を問うた。

「冗談じゃ無いのか」
「いえ……その説明で、ほぼ正しいです」

カーター氏は律儀に一礼し、無慈悲なまでの事実を述べたのであった。

「後ほど、プライス判事より報告書が提出される筈です」

トッド夫妻は再び、開いた口が塞がらぬと言った様子で立ち尽くした。

ダレット夫妻の方は、タイター氏の名前や、ギャング団というキーワードに反応した。

ダレット夫人は、いきなりルシールに指を突き付け、金切り声を張り上げた。

「テンプルトン界隈のギャング=タイター! 確か、ルシールの仲間!」

ただでさえ刺激物で朦朧としていたルシールは、内容もろくに分からないまま、 ダレット夫人のキンキン声に呆然としているばかりである。

都合の良いスケープゴートを見い出したダレット夫人は、凄まじい剣幕で怒鳴り続けた。

「アラシアが急に駆け落ちしなきゃならなくなったの、下等で不潔なネズミ女めが脅しまくったせいだわッ!」
「おおッ、そうだ! 不明の父親だって、ギャングの誰かに決まってるんだッ!」

レオポルドも一緒になって、ルシールへの誹謗中傷に余念が無い状態だ。 ルシールを貶めれば貶める程、アラシアの救済の可能性が上昇するのだから、当然と言えば当然の事ではある。

クロフォード伯爵は、いきなり持ち上がった非難の有り様に唖然としていた。

「ちょっと待て! 何でそう言う話になる!?」

早くもドクター・ワイルドが、ダレット夫妻の余りにもムチャクチャな言い掛かりに気付き、口を差し挟んだ。

マティはダレット夫妻の言葉の一部分のみに反応した。マティも、割と朦朧としているのである。

「破壊工作付きで脅しまくったの、アラシアの方じゃねーかよ」

カーター氏はダレット一家の気まぐれに少し驚いて見せただけだったが、トッド夫妻は話に付いて行けず唖然とするばかり、 ダレット夫妻の伝説的な癇癪ぶりを実際に見せ付けられる羽目になったメイプル夫人は、 ひたすら真っ青になって固まるばかりであった。

レナードでさえ、両親の目論見が理解できず、目を見張るのみだ。

「何と言う論理飛躍!」

ダレット夫人は、癇癪が暴走するままにルシールの髪を引っ張り、 ルシールの肩を殴りがてら、破れた片袖を隠していたリネンタオルを剥ぎ取った。 更に、ルシールの顔をズタズタに引き裂こうと、危険な程に鋭く長い爪をした手で襲い掛かった――

そこへ、衝立の如く、キアランが割って入って来た。

「暴力禁止です、ダレット夫人」

キアランの護身術は巧みであった。目立つような動きをした訳では無いのに、 ダレット夫人の両手はルシールの身体をそれ、反動で流れたルシールの髪の一房を触れるだけに留まった。

ダレット夫人は驚くべき反応速度で、ルシールの髪をギュッと握り締めた。 ルシールの髪は腰まで届く程に長かったので、キアランに割り込まれても、それだけの長さが残っていたのである。

ダレット夫人は、燃え上がる怒りに任せて、ルシールの髪をグイグイと引っ張り出した。 ルシールは髪を引っ張られる痛みに、口をパクパクさせるばかりである。

「ギャングの両親、親戚が凶悪犯!」

すっかり激高しているダレット夫人は、まさに悪鬼の如き形相をしていた。 レオポルドでさえ一瞬、恐怖を感じ、冷静になって飛びすさる程である。 ダレット夫人は、ルシールの破れた片袖をどう解釈したのか、勝ち誇った様子で叫び続けた。

「この恥知らずが! 色仕掛けで他人の婚約者を奪うのも当然だわよねッ! アラシアが言ってたわ、 レナードとも二股かけてるとか……何て、破廉恥な、女ッ!」

ダレット夫人は、金切り声を張り上げたまま長い言葉を続けたため、息継ぎの間に、ルシールの髪を握り締める手の力が緩んだ。 キアランはその隙を逃さず、ダレット夫人の手を弾いて、ルシールの髪を一気に解放した。 それが一層、ダレット夫人の怒りを煽った。

「それは誤解……」

すっかり混乱し、弱り切っていたルシールは、キアランの背中で縮こまりながらも、自力で説得し訂正しようとした。

対するダレット夫人は、理性の限界を遙かに超えて怒り狂っていた。

――この下賤な女、許しがたい事に、キアランの背中にへばりついているでは無いか! そしてキアランも、 この取るにも足らぬ存在を、まるで掌中の珠であるかのように、注意深くガードしている!

将来の義母(姑)、すなわち将来のクロフォード伯爵家の大奥方候補の、本能ならではの直感だ。 ダレット夫人は、キアランとルシールの間には、既に、単なる知人関係を超えた何か――キアランとアラシアの間の他には、 あってはならない何か――が存在すると察知していた。

――この下賤な女は、その存在そのものが、絶対的に許されぬ罪だ。 すぐにでも二目と見られぬ程に顔面を潰した上で、粉々の肉片(ミンチ)となるまでに誅殺しなければならない!

「お前は、すぐに監獄送りよ! 鞭打ち百回や二百回じゃあ済まないから、覚悟なさいッ!」

ダレット夫人が、キアランの後ろに居るルシールに向かって、なおも誹謗中傷を重ねようと口を開いた――

その時、クロフォード伯爵の、威厳に満ちた大喝が響いた。

「やめんか!」

流石に長年、当主を務めている者ならではの、よく通る声である。

「ルシールは、私の娘だ!」

その一瞬、世界が動きを止めた。

今、伯爵は何と言ったのだ?

――大広間に居合わせた全員が、棒立ちになった――

そして、大広間の騒ぎを聞き付けて、ダレット夫妻の癇癪の爆発に対応するための盾を構えて飛び出して来たスタッフも、 その後から付いて来た執事とベル夫人も、大広間の異様な雰囲気を察知して、唖然とした様子で立ち尽くした。

重苦しい沈黙の中、ルシールは、ボンヤリとクロフォード伯爵を注目する。

――父親は青い目。

クロフォード伯爵の目の色は、深い青だ。若かりし頃の肖像画にも描かれていた――海を思わせる青藍色――わだつみの青。

ルシールの脳裏には、母親と共に眺めた冬の海の深い青さが閃いた――

そのままルシールは意識を失い、ゆっくりと崩れ落ちた。

「ルシール!」

ギョッとして息を呑むキアラン。

ルシールが後ろに倒れて行くその先にはレナードが居て、 その華奢な身体を受け止めようと手を伸べたところであったが――、キアランの方が、一足早くルシールを抱きかかえた。

そしてキアランは、幾つもの疑問と共に、クロフォード伯爵を見つめた。

血のつながりの無い自分を息子として受け入れ、20年以上もの間、保護し、育ててくれた男の姿を。

クロフォード伯爵は蒼白な顔色ではあったが、 深刻な疑問を湛えたキアランの眼差しを真っ直ぐに受け止め――避けようとする様子は無かった。

ルシールは、すぐに意識を取り戻す様子は無く、その顔からは血の気が引いたままである。

ドクター・ワイルドが早くも診療カバンを手に取り、指示を下した。

「部屋へ運べ、ワシが診る!」

その指示に従って、キアランはルシールを横抱きにしたまま、ドクターに続いて大広間を飛び出して行った。 メイプル夫人も驚き慌てながらも、ドクターやキアランの後に付いて行く。

あっと言う間に大広間に取り残された面々は、呆然とするのみであった。

「一体、これは……」

トッド氏が呟いた。マティもボンヤリと大広間の扉を眺め、無意識のうちに解説である。

「今日は、ルシールにとっては、散々な一日でもあったからさ……、ショック続きで……キャパ超えちゃったんだ……」

カーター氏はマティの解説の的確さに感心していたが、ダレット夫人は別の意味で理解した様子だ。

「わたくしのせいじゃ無いわ! 勝手にひっくり返って……ホントに厚かましいッ!」

ダレット夫人が騒いだお蔭と言えるのか――大広間の面々は、ようやく茫然自失の状態から抜け出したのであった。

トッド夫人が改めて、驚愕しきりと言った様子で末息子マティを眺める。

「マティ……とにかく、凄い格好」
「一応、女装する予定は無いよな?」

トッド氏も困惑の余り、『ローズ・テイラーズ』の配達ボックス――しかも、 中身は女物のディナードレスだ――をマティに示し、頓珍漢な確認をした。

マティは、『勿論じゃ無いか!』と言わんばかりに元気良くうなづく。

「それ、ルシールのドレスさッ!」
「私が風呂に入れて来る……着替えも用意してあるし」

苦笑しながらも口を挟んだのは、クレイグ氏だ。まだ困惑が止まらないトッド夫妻に向かって、なだめるように手を振り、 マティを連れ出して行ったのであった。

*****

――何かが引っ掛かる。

マティは祖父のクレイグ氏に風呂に入れられていた。お湯を張ったタライの中で、頭のてっぺんまで石鹸の泡に浸かる。 目下、大広間での出来事を、モヤモヤとした引っ掛かりと共に思い返している真っ最中だ。

そしてマティの脳裏で、一つの連関が出来上がった。スパークが弾けた。 ようやくショッキングな事実に気付いたマティは、石鹸の泡を頭に乗せながら、タライの中から勢いよく半身を乗り出した。

「ちょっと待てよ、じいじ! 伯父さんは何て言ったんだ――ルシールが、娘、だって!?」

クレイグ氏はリネンタオルと着替えを用意しつつ、呆れた様子で応じた。

「お前にしちゃ、理解するのに随分と時間が掛かったな。道理で、妙に落ち着いてると思ったよ」
「あんな事、急に言われても普通、分かんねえよ! じいじは、前から知ってたのッ!?」

マティの方は、クレイグ氏が落ち着いている様子に仰天していた。 仰天が収まらぬまま、マティはタライ一杯の泡の中で手を振り回していた。タライの周りに、石鹸の泡が次々に飛び散った。

「ルシール・パパは頭文字Lなんだよ、ローリンと伯父さんが何でつながるんだ。伯父さんの名前は、頭文字だと、R・Dになって……」

クレイグ氏は逆に、納得顔を見せ始めていた。

「ローリン? アイリスさんは、彼の事をローリンと呼んでいたのか?」

その言及を耳にしたマティは、驚愕と不可解さの余り、絶句するのみであった。

*****

ゆっくりと夕暮れが始まった。薄暮の光の中、大広間の各所に蝋燭の灯りが配置された。

大広間の面々は、椅子やソファに腰を下ろして、今日のテンプルトン騒動に関するカーター氏の説明に聞き入りつつ、 改めて驚き呆れていた。それこそ、物事の始まりから終わりに至るまで、信じがたい出来事のオンパレードなのだ。

「以上が、タイター氏との揉め事の顛末でございまして。余罪その他の詳細は、後ほどプライス殿が調査報告をします」
「その時、マティが死に掛けたのは、冗談では無かったって事ですか……」

カーター氏が説明を締めくくった後、トッド氏が呆然としたまま呟いていた。 カーター氏の説明を疑うような要素は全く無く、流石のレオポルドも、何も言わない。レナードも無言のまま、何やら思案に沈んでいる。

「この誓約書に署名したとは……あの母親にして、この娘ありか……」

クロフォード伯爵は、『ローズ・パークのオーナー権の相続を放棄する』という旨の誓約書を眺めながら、感心しきりであった。

先程からイライラがつのっていたダレット夫人は、憤懣やるかたないと言った様子でソファから立ち上がった。 ダレット夫人にとっては、今日のテンプルトン騒動など、 過去に何度も起きたテンプルトン抗争の、退屈な延長であり、付け足しでしか無いのだ。

「今は、こんな些細な事より、アラシアの駆け落ちの方を!」

トッド氏は、一応はレディであるダレット夫人に敬意を表して、既に椅子から立ち上がっていたが、そのまま、ヒョイと肩をすくめた。

「トッド家の子が死に掛けた事は、些細な事件ではありませんよ」

トッド氏なりの、ささやかな抵抗である。 そしてトッド氏は、折よく風呂と着替えを済ませて、クレイグ氏と共に大広間に戻って来たマティを迎え、高く抱き上げた。

「タイター抗争の件、カーターさんからご説明を頂いたが、実に大変だったな。後でルシール嬢に、紳士らしく丁寧にお礼をするんだよ」

マティは久し振りに父親に抱っこされつつも、先刻ダレット夫人が喚いた内容を、耳ざとく聞き付けていた。

「アラシア、駆け落ちしたの!?」
「昨夜、ライナスと一緒に快速馬車で抜け出したとか」
「何と言う驚き!」

仰天するマティに、トッド氏はユーモアたっぷりの笑みを見せた。

「驚く仕事は、我々が既に済ませてる」

ダレット夫人は、そんな父子のささやかな交流さえも癪に障った様子で、更なる金切り声で喚いた。

「トッド氏は、マティが末の子だからって、甘やかし過ぎよッ! 今この瞬間にも、わたくしのアラシアが、 大変な目に遭っていると言うのに……、こんな無礼千万な悪ガキ、厳しくお仕置きしておかないと! 棘付きの鞭を使って!」

マティは『あかんべえ』と舌を出して見せた。

アラシアの駆け落ち話には流石にビックリしたものの、騒ぎを巻き起こして自分に注目を集めるのが何よりも大好きなアラシアの事、 それ程、驚くような事態でも無かったのである。『今まさに大変な目に遭っている人物が居る』としたら、 それは、勝手に連れ出されたパートナーの男性、即ちライナスの筈なのだ。

ダレット夫人のムチャクチャな言い掛かりに対して、トッド氏は、あからさまな困惑の表情で応じた。

「アラシア嬢は、もう20歳……分別つく大人でいらっしゃるでしょう?」

トッド氏の脇に控えているトッド夫人は、流石にムッとした顔でダレット夫人を眺めている。

マティは確かに『とんでもない事をやらかす子供』なのだが、いにしえの狂信者の時代に使われていた、 拷問用の棘付きの鞭を使ってお仕置きしないと分からないような、愚かな子供では、絶対に、無い。

現代では厳しく禁止されている拷問用の鞭を、児童の教育用に持ち出すあたり、 『ダレット夫人の教育方針の方が絶対にオカシイ』と、トッド夫人は確信していた。 第一、ダレット夫人にしてからが、レナードやアラシアの躾に、拷問用の鞭を使っていないでは無いか。 悪い事をした時のレナードやアラシアが、きちんと叱られている場面など、目にした事も無い。

大広間の中、少し離れた上座の方では、伯爵とカーター氏が、クレイグ氏を交えて密談を始めていた。 目端の利くマティは、当然ながら、その奇妙な様子に気付いたのであった。

父親トッド氏は、ダレット夫人との議論にかかりきりになっている。 父親の腕から素早く降りたマティは、伯爵を取り巻く密談を邪魔しない程度に遠巻きにしつつも、密談の様子を注意深く観察した。

――リチャード伯父さんが持っているのは、あの古い書状だ。

マティの頭には、幾つもの疑問符が浮かび上がって来た。

*****

時間を少しさかのぼる。

急遽、部屋に運び込まれていたルシールは、そのまま、地下階の浴室に移動させられた。 そして風呂桶の中で、石鹸の泡の中に埋もれた。カラシ粉とトウガラシの粉にまみれて、ボロボロの状態だったのだ。

「カラシ粉の影響がまだ強く残っとる……風呂の後で診察しよう」

ドクターは、ルシールの入浴をベル夫人とメイプル夫人に任せて、手際よく浴室の扉を閉めた。 そしてドクターは、扉の前に控えていたキアランの方を振り返り、顔をしかめて見せる。

「テンプルトンで何があったんだ? それに、彼女が、あのメイプル夫人?」

――とにかく、色々な事がいっぺんに起こり過ぎた。

どのように説明したものかと思案するキアランである。

そこへ、執事が慌てたようにやって来て、ディナーのために用意していた衣服を差し出していた。

「とにかく、お着替え下さい、リドゲート卿」

その頃、浴室の中では――

メイプル夫人が半ば失神したルシールを巧みに洗いつつ、不思議そうな顔でベル夫人を振り返った。

「あの方は、確か、ベネディクト様の弟様ですよね?」
「当代の伯爵さまでもございますが」

ベル夫人はシッカリうなづき、丁寧に説明した (メイプル夫人は庶民という事もあり、『クロフォード伯爵』というような高位の人物とは面識が無かったのだ)。

メイプル夫人は、暫しの間、ボンヤリしていたが――ようやくベル夫人の言及の意味を理解した時、 仰天の余り腰が抜けそうになったのであった。

6.クロフォード伯爵邸…時の娘〔二〕

大広間の、下座に近い中ほどの辺り。

ダレット夫妻とトッド夫妻の議論が白熱していた。

「アラシアが、どうなっても良いってのッ!」
「トッド夫妻は、やはり金儲けにしか興味の無い、正義を知らぬ連中だったと言う訳だな!」
「そんな事は言ってません。発見までの費用は、多少なら、援助できますから……」

お金をやると言えば、ダレット夫妻は、多少は静かになるのである。ただし、そのお金は、ダレット夫妻の贅沢費に消える筈だ。 アラシアの捜索に活用されるような事は、未来永劫、有り得ないだろう。

レナードは、やかましい口論を繰り広げているダレット夫妻やトッド夫妻から少し離れて、 一人考え事に沈んでいた。最初は些細な物であった疑惑が、急に大きくなって来ていたのである。

――何だか変な事になって来た。今夜のディナーの、本当の目的は何だ?

そもそもの初めより、レナードの人生は単純だった。キアランによって不当に冷遇されている、正統な跡継ぎ。

血統や見栄え、社会的地位の条件において、非の打ちどころの無い両親。その特権的な生まれによって、 レナードの前途は、常に約束されていた。

貴族の頭脳と体格は、元々、その辺の庶民などとは比べ物にならない程、有利に出来ている。 名門の寄宿学校。特に何もしなくても自動的に付いて来る立派な成績。数多の宮廷セレブと関わる、選り抜きの人脈――全て、 高貴な血統の力が成せる業だ。レナードは、口を開けて待っているだけで良いのだ。

しかるべき時が来れば、何もしなくても正義の力が自然に発動し、クロフォード伯爵の地位さえ、向こうから転がって来る。 望めば、金も女も、自然に向こうからやって来た――それと同じ事だ。

『ルシールは私の娘だ』――そう言った伯爵の意図は分からないが、そのルシールさえ、偶然ではあろうが、 失神すると共にレナードの方へ倒れて来たのだ。鉄が磁石に引かれるように。

レナードは、ただ、手を伸べて待っているだけで良かった――いつものように。

そこで、レナードは、不意にギクリとした。突き刺さるような、強烈な違和感だ。

――あの時、キアランはレナードより一瞬だけ速く踏み込み、倒れて行くルシールを捉えた。 まるで、目の前から、ルシールをかっさらって行くかのように。

この違和感は、何らかの運命の予兆なのだろうか――

*****

それは、やはり突然だった。大広間の扉が乱暴に開かれ、大広間の面々は目を見張った。

入って来たのは――キアランとドクター・ワイルドである。

(念のためだが、キアランが扉を乱暴に開いたのは動転のためであり、普段は絶対にやらない行動である)

クロフォード伯爵は、カーター氏やクレイグ氏との密談で詳細を詰めているところであったが、 キアランとドクターの穏やかならざる様子に気付き、ハッと息を呑んだ。

キアランは血相を変えたまま、つかつかと伯爵に近寄ると、のっぴきならぬ口調で詰め寄った。

「先刻の言葉は、一体どう言う事です? 父上」
「ワシにも、きっちり、ご説明頂きますぞ。いつだったか閣下は、あのお嬢さんとは血の繋がりは無いと言われた筈です」

ドクター・ワイルドも、すこぶる苛立っている様子である。

「ああ……先に報告しときますぞ。ライト嬢は、急性ストレス障害を起こしたのじゃ。 相当量の鎮静剤を投与して、後をベル夫人とメイプル夫人に任せてある」

ドクター・ワイルドは憤然として腰に手を当てながらも、鋭いギョロ目で伯爵を凝視した。

その後ろでは、即座に思案を止めたレナードが、目を見張っていた。 トッド夫妻も――そしてダレット夫妻でさえも、口論を中止している。

キアランとドクターが、クロフォード伯爵を問い詰めている様を、全員が、固唾を呑んで注目していた。

「驚くべきところじゃが……同時に納得する。閣下の血筋なら、さもありなんと言うところじゃ。 結局、ワシの医学的見立ては正しかった訳じゃ。 ライト嬢の――ルシール嬢の、あの骨格の形は、ダグラス家の特徴を示しているのじゃからな」

ドクターの指摘は、確信に満ちていた。

クロフォード伯爵はソファの中で頭を抱え、深い溜息をついた。

「タイミングを選んで、話す予定だったんだ……ああ、確かに私は、 あの時は血縁では無いと言ったが――その時は私は、まだ正しい医学データを知らなかったんだ……」

近いうちに明かさなければならない事としていたが、伯爵は、ルシールに倒れる程のショックを与えるつもりは無かったのである。 もっと早く話をしていれば、ルシールが怪我だらけになる事も無かった筈だ。伯爵は後悔を滲ませ、頭を抱えながらも、説明を続けた。

「娘だと分かったのは、彼女がお見舞いに来て……流れの都合で、六月生まれだと言う話をした時だ」

その時、ルシールは、アメジストのブローチを伯爵に見せていたのである。 そのブローチは間違いなく、伯爵が若い頃にアイリスに贈った物であった。

ドクター・ワイルドは意外さの余り、目を見開きつつ、立ち尽くした。

「出生データの、四ヶ月のズレ? ……てっきり知っておられるものと……」

伯爵は苦り切った表情であった。

「何処かの弁護士が、ローズ・パーク案件を左右するような要素では無いと判断して、省いてくれたんでな」

ドクター・ワイルドの隣で、弁護士カーター氏は面目無さそうに佇んでいた。

キアランは疑問顔でカーター氏を振り返った。カーター氏は丁重に一礼し、弁解を述べた。

「修正報告書によって正式に訂正された後に、報告申し上げる予定でございましたので……」

キアランは再び伯爵を振り返った。

「ギネスの台帳に、『R・ローリン』とサインしたのは……父上ですか?」
「ああ、短い間だったが、ローリンは私の家名だったんだ。兄の後を継いでホリーと結婚した時、消滅した名だが」

カーター氏はおもむろに資料を取り出すと、伯爵の回答に補足説明を加えた。

「故ベネディクト・ダグラス様が爵位を継いで伯爵になり、ダグラス家が即ち伯爵宗家とされた後の事です。 弟リチャード様の方は、結婚した場合、独立してクロフォード直系親族ローリン家の主となる筈だったのですが、 ベネディクト様が急死された時と同時に、分家の創設の話も消滅していたのです」

大広間の面々は、すぐに重大な矛盾に気付いた。

――分家の家名が既にあったという事は、『既に結婚していた』と言う事以外に、有り得ない!

ドクターは、ギョロ目をいっそう見開いた。

「先代伯爵の生存中の、三年足らずの間に……アイリス嬢と結婚していた……じゃと?」

リチャードの方も、いつの間にか結婚していた――という事実は、 流石に、古参に位置するドクターにとっても、初耳だったのだ。

伯爵は、少年のように顔を紅潮させて、うなづいた。

「兄の跡継ぎが法的に承認され、親族の間でも意見の相違が決着してからの後だ。私は、その時点でリドゲート名を喪失したが、 何のしがらみも無く彼女に求婚できるようになったから……実際、重圧からの解放感で、天にも舞い上がる程の思いだったよ」

続いてクレイグ氏が口を開いた。

「式の担当が、私でした。正式な結婚であり、結婚証書も存在します。目下タイター問題があったし、 伯爵家でも子爵問題の後処理でそれどころじゃ無く、秘密結婚、及び事後公開……という事で取り扱っていました」
「お……お父さん!」

トッド夫人が目を丸くして絶句した。トッド氏もマティも、驚き覚めやらぬ顔である。 数秒経過した後で、マティが、ようやく口を動かした。

「じいじ……それじゃ、26年前の九月の、ルシール・ママの、謎の旅行って……」

アイリスの謎の旅行先だった『トワイライト・グリーン・ヒル』は、ダグラス家の昔の地所だったところで、 牧師を引退する前のクレイグ氏が担当した教区でもあったのである (なお、クレイグ氏は今でも牧師資格を持っており、各種儀式を執り行う事は可能である。基本的に牧師は終身資格なのだ)。

伯爵は腹をくくったのであろう、迷いの無い口調で説明を再開した。

「私は、彼女と正式に結婚していた。一日の間だけだが。 翌日の朝、兄が……先代伯爵が急死したと言う一報が届いて、クレイグの立会いで、今度は離婚を行なった」

伯爵の言葉の意味を理解した一同は、ショックを抑えきれない様子である。

確かに先代伯爵ベネディクト・ダグラスは、26年前の秋、不自然な急死を遂げていた。 年若い二人の結婚は、一日でご破算になったのだ!

伯爵の説明は続いた。その口調は決然としてはいたが、そこには確かに、押し隠せぬ無念が滲み出ていた。

「クロフォード領内の混乱はひどくなる一方、収まる気配すら無く……危険な立場になった未亡人と遺児が居た。 グレンヴィル氏が殉死してまで調停に導いた全ての問題が、再び紛糾しかねない――決着すべき問題も、山ほど残っていた」

当時のショックを想起したのであろう、説明を続ける伯爵の顔からは、すっかり血の気が引いている。

「親族の一つでしか無いローリン家――伯爵宗家としての地位と権力を持つダグラス家――、 どちらを取らなければならなかったかは……余りにも、明白だったよ。 アイリスは、すぐに離婚証書に署名し、私をダグラス家の者に戻してくれた。まさか、あの時……娘が、出来ていたとは……」

ドクター・ワイルドもまた、蒼白になっていた。額を押さえるその手は、細かく震えている。

「何たる事だ! 先々代の遺言も復活していた……こんなむごい選択は無いぞ!」

先々代伯爵フレデリックは、確かに、遺言書を残していたのだ――

『ダグラス家に爵位を移行すると共に、爵位を継ぐ条件として、グレンヴィル未亡人ホリーを正式に妻とし、保護せよ』

それは恩人たるグレンヴィル氏に対する、フレデリックなりの精一杯の善意の計らいであったのだが、 その善意が、あろうことか裏目に出てしまったのであった――

伯爵の説明が終わった事を確認すると、カーター氏は改めて、大広間の面々に語り掛けた。

「当時の社会情勢を考慮すれば、『アイリス・ローリン夫人』が何も明かさずに出奔した理由も、推測は可能です。 テンプルトンの抗争で、クロフォード直系親族が続けざまに壊滅したのを、彼女は見聞きしていた。 25年前の状況において、クロフォード伯爵宗家たるダグラス家の直系の息子ないし娘の出生は、必然として、 領内に再び更なる抗争と混沌とを呼び起こしたでしょう。そして、アントン氏も、その辺りの事情を良く理解していた筈です」

大広間の面々に、納得と理解が広がった。ダレット夫妻さえも、特に異論は思い付かない状態だ。

カーター氏はそこで一息つくと、手元の書類を改め、かねてからの打ち合わせの通りに、伯爵を意味ありげに振り向いた。

「では……よろしいでしょうか、閣下」

伯爵はその問い掛けに、シッカリとうなづいて見せた。

カーター氏は威儀を正して大広間の面々に向き直ると、書類を前にして演説を始めた。

「……アイリス・ライト、即ちローリン夫人は、閣下の正式な前妻と認められる者です。 そして、その娘であるルシール嬢の父親は当時のR・ローリン氏、即ち閣下であります」

その演説の内容は事実の再確認であり、大広間の面々からの異論は無かった。

「タイター氏による間断無き確認もあり、この事実について、疑念を挟む余地は全くございません」

伯爵家の血縁問題は大問題であり、しつこく事実の確認をする必要があるのだ。

『タイター氏による間断無き確認』とは、まさにタイター問題の事であり、 当時のアイリスが悩まされていたストーカー問題の、穏やかな言い換えでもある。 ドクター・ワイルドは目をパチクリさせ、アゴに手を当てた。

カーター氏は、そこで遂に伯爵の方を振り向き、重大な確認事項を口にしたのであった。

「この事実に従って、ルシール・ライト嬢を正式にルシール・ローリン嬢と認め、我が実の娘と公認されますか」

大広間の面々がハッと息を呑む中、クロフォード伯爵は、ハッキリと宣言した。

「――公認する!」

カーター氏は厳粛な態度で一礼した。

「以上――公証人としてクレイグ牧師、親族代表としてダレット家当主レオポルド殿の立会いを頂き、 公認が成立したと確定するものです」

驚愕ゆえの深い沈黙が広がった――クロフォード伯爵家につながる、新しい血縁者が公認されたのだ!

最初の衝撃が過ぎた後、大広間の面々は一斉に口を開いた。

「彼女って、私の姪!?」
「マティの従姉でもある……?」

最初に反応したのは、トッド夫妻である。

続いて、ようやく理解の段階に至ったダレット夫人が、顔をひきつらせた。

「アラシアを差し置いて――」

一瞬の間を置いて、レオポルドもダレット夫人と同じ認識に至り、愕然として立ち尽くした。

――アラシアと同格か、それ以上の立ち位置になるクロフォード直系親族の――娘!

「認めん! 断じて、私は認めんぞ! これは全て茶番だッ!」

ようやくにして、レオポルドが猛然と抗議し始めたが、既にレオポルドの反応を見越していたカーター氏は、 なおも冷静であった。慌てず騒がず、古い文書を取り出して見せる。

「ロックウェル公爵の直筆の公文書が、此処にございます……」
「――ロックウェル公爵!?」

レナードが叫んだ。続いてマティが驚きの声を上げた。

「――あッ! その古い手紙……!」

カーター氏は、アシュコートからの特別速達便に含まれていた最後のページを、一堂に示した。

「この公文書が作成されたのは25年前の二月。かの馬車事故の前日です。 故ローリン夫人は、縁あって、ロックウェル公爵夫妻の出張のお供として加わっていました」

古い公文書の文面は、次のような物になっていた。

『下に記す内容は、これ真実である事を名誉にかけて宣誓す。 当代ロックウェル公爵ユージーン・クレイボーン、及び公爵夫人セーラ・クレイボーン。 日付時点において妊娠六ヶ月たる妊婦、アイリス・ライトの息子ないし娘の父親は、 当代クロフォード伯爵リチャード・ダグラス氏である事を、此処に明記するものである』

常に貴族である事を鼻にかけているダレット一家にとっては、 由緒ある大貴族であるロックウェル公爵の名前は、絶大な権威を持つものだ。 ダレット一家は青ざめたまま抗弁も出来ず、全身をワナワナと震わせるのみだった。

「この公文書が本物である事は、アシュコート伯爵が保証するものです。 従って、この文書の真実性を疑う者は、貴族の名誉において確認された事実をも疑うと言う事です。 レオポルド殿は、勇猛な人物と評判のアシュコート伯爵に、決闘を申し込まれますでしょうか?」

貴族社会の中では、名誉において宣誓された物事が紛糾した場合は、決闘によって決着を付ける事になっている。 癇癪を起こして当たり散らす事は得意なものの、 実際に武器を持って戦う事は不得手である事を認識しているレオポルドは、歯軋りするのみであった。

レオポルドは腕を振り回し、弁護士に向かって癇癪をぶつけるべく喚き出した。

「謀ったな! この……この……油断のならん弁護士めが!」
「私は特に、出席の強制はしておりません。立会いを望まれたのは、レオポルド殿ご自身の意思によるのですよ」

カーター氏は、血縁者の公認に必要な条件が揃った――と言うこのタイミングを逃さず、正式に公認を成立させてしまったのだ。 ベテラン弁護士の鮮やかな手際に、レナードもキアランも、ただ感心するばかりであった。

「直系……」

レナードの、その呆然とした呟きに、キアランは耳ざとく気付いた。

次の瞬間、レナードとキアランは、互いに驚愕の表情で、顔を見合わせた。

レナードにとっては、より伯爵家に接近するのに都合の良い、宗家直系の娘。

キアランにとっては、自分の政治的立場をより強固にするのに都合の良い、宗家直系の娘。

――立場こそ違え、同じ事を考えているのだ!

レオポルドとダレット夫人は作戦を切り替えたのか、二人掛かりでカーター氏に詰め寄り始めた。

「ア……アラシアじゃ無くて、何で、あのネズミ女が、伯爵令嬢……!」
「レディ・ルシールと呼べと……!?」

カーター氏は冷静に、その言及を否定した。

「ルシール嬢は、正確には伯爵令嬢では無いのでございます」

意外な返答だ。ダレット夫妻は静かになった。伯爵が苛立ちを抑えながらも、冷静に解説する。

「爵位を継ぐ前に、離婚が済んでいた――前妻の娘だ。直系親族の一つ、ローリン家の娘。それ以上でも、以下でも無い」

ダレット夫人は、地位と名誉がもたらす利益に執着する者ならではの頭の良さで、要点を理解し――なおかつ、 それ故に、激しく反発した。

――後顧の憂いを断つためには、何としてでも、ルシールを考えられる限りの下賤な地位に落としておかなければならない。 最も名誉を受けるべき唯一の、しかも貴重であるクロフォード伯爵家の直系の娘は、アラシアの他には有り得ない!

「あの下等者には、クロフォード直系親族の名を名乗る資格すら無いわ! 母親の離婚と同時に資格喪失している筈よ!」

カーター氏は眉をピクリともさせず、議論に応じた。

「それでは、レナード様の爵位継承権も、父親レオポルド殿の爵位継承権と共に、30年前にさかのぼって既に喪失しているのですね。 更にダレット夫人が離婚した場合、ダレット兄妹には、クロフォード直系親族の名を名乗る資格は無い……」

クロフォード直系親族としての、ルシールの公認は、既に成立したのだ。 ルシールの地位に対する法的解釈は、そのまま、ダレット家にも跳ね返って来る――ダレット夫人は悔しそうに歯軋りした。

「これだから、弁護士ってのは……!」

暫し、レオポルドとレナードは、互いの視線を見合わせた。流石に父子の間で通じる物はあったのか、何らかの了解が成った様子だ。

レオポルドは、ゆっくりと大儀そうに伯爵に向き直ると、これまた大儀そうに、伯爵に語り掛けた。

「実に不運な事だったろうな? リチャード殿……彼女が男子なら、押しも押されぬ跡継ぎだった」

レオポルドは嫌らしくも、ルシールが女性である事の、法律上の不利を指摘したのである。

「如何かな? 伯爵令嬢どのを、リドゲートたるレナードの妻にすれば……諸々の難問は、解決だ」

恩着せがましいまでの提案だ。しかし、伯爵は、厳しい表情を崩さなかった。

「私の話を、ちゃんと理解しなかったな? 私は、ルシールを伯爵令嬢として迎える事はしない。 ルシールは、あくまでもローリン家の者であり、男に生まれたとしても、ダグラス家の跡継ぎになる可能性は、無い!」

そう切り返された瞬間、レオポルドは伯爵の強い意志を悟り、青ざめた。

平均的な男性に比べると線が細く、いささか繊弱な印象のある伯爵であったが、 長年にわたって責任ある立場を全うしてきた者ゆえの厳格さや断固とした決断力には、目を見張るべきものがあった。

「レオポルド・ダレット――或いは元セルダン家のレオポルド。お互いの立場、改めて確認をしておこう」

伯爵は、厳しい表情を崩さぬまま、言葉を続けた。

「私の兄が爵位を継いだ時をもって、クロフォード伯爵宗家は、我がダグラス家に移行した。 ダグラス家の正式な嫡子にして嗣子たるキアラン以外に、リドゲートの名前を許す事は、絶対に有り得ない。 セルダン家の者に、後継者を決定する力は既に無いという事実を、改めて承知しておきたまえ」

一瞬の静寂。

後方で聞き耳を立てていたトッド夫妻やマティ、ドクター・ワイルドは、圧倒されていた。ダレット夫人もレナードも、同様だ。

クロフォード伯爵の言葉は、決定的であった。レオポルドが仮に離婚して旧セルダン家に戻ったとしても、 政争の具としてルシールを手に入れたとしても、その政治工作は一切無駄――と言う最後通牒だ!

レオポルドは、伯爵の言葉の意図をハッキリと理解し――そして、激昂した。

「よくも、抜かしてくれる!」

怒りのままに腕を振り回し、伯爵に肉薄する――

レオポルドの身体が、身辺警護上の警戒エリアに接触した瞬間、キアランが飛び出した。 レオポルドと伯爵の間に割って入ると、護身術の構えを取って立つ。

レオポルドは息を呑んだ――そして、そのまま硬直した。伯爵も驚愕した様子で、キアランの後姿を見つめた。

――下手に動けない。

レオポルドは初めて、深刻な脅威を感じた。

伯爵に害を成そうとすれば、キアランはレオポルドを容赦無く取り押さえるだろう。 キアランは、今はもう小さな子供では無い――しかも、確か、シンクレア家直伝の戦闘術を会得していると言う話だ。

気を呑まれて動けなくなったレオポルドに、カーター氏がおもむろに声を掛けた。

「では、そろそろ『本題』に移らせて頂きます……」

レオポルドばかりでは無く、ダレット夫人もレナードも、不吉な予感に息を呑んだ。

「先日、庭師の倉庫にて拾われたと言うカフスは、レナード様の所有でした。 そして、レナード様が、新年社交シーズンの装飾として用いた物です」

大広間の面々は、一斉にレナードを注目した。レナードのカフスが紛失した一件は、 ダレット一家の大騒ぎもあって、地元では周知の事実となっていたのである。

カーター氏の言葉は続いた。

「カフスの紛失の前後にわたって、レナード様は館に一度も立ち入りされておられない。 従って、カフスが館の敷地に存在すると言う状況は絶対に有り得なかった。 それなのに何故に、レナード様のカフスが館の敷地にあったのか?」

主張と事実の矛盾を指摘され、レナードは一気に青ざめた。カーター氏は容赦なく畳み掛けた。

「そして、アラシア嬢は何故に、馬車馬の暴走の仕掛けをご存知なのか? レナード様より、 納得のゆく説明を頂きたく存じます」

レナードは咄嗟に抗弁した。

「あのカフスは盗まれたのであって、落とした訳では!」
「復活祭の前の日に、館に入り込んでいたパピィと言う子犬が、もう片方のカフスも見付けていました。 まさに此処、館の敷地の中で。復活祭の前日、カフスは此処にあったのです!」

カーター氏は一つの包みを出して、開いて見せた――そこには、プライス判事から提供されたカフスがあった。 パピィが、催涙弾のショックで排出した物である。アラシアが既に片方のカフスを持ち出した後だ。 このカフスは確かに、今まで行方不明だった片方の物なのだ。

「レナード様は、ご自分のカフスを如何なる状況にて紛失したのです? まさか、 復活祭の……伯爵さまの馬車事故の前に……という事は?」

言い訳の利かない状況を察知し、レナードはいっそう青ざめた。

そこへ、ドクター・ワイルドが後ろから声を掛けた。

「答えたくない質問らしいな」
「何で、門番の目を盗んで、こっそり館に侵入してたのか……って事で、長い説明、必要になるからねー?」

マティも一緒になって、レナードの抗弁の余地を塞いで行く。

「今は……! こんな意味の無い問答をしている場合では無かった筈だ……!」

レナードは叫んだ。まさに追い詰められた者の叫びだ。 レナードは素早く身を返すと、逃走そのもののスピードで、慌しく大広間を退出して行った。

「アラシアを連れ戻す方が、もっと重要だ! すぐにでも出発しなければ!」
「レナード!」

混乱しながらも呼び掛けるダレット夫人。

「カミラ! 我々も、アラシアをすぐに見付けないと!」

レナードの反応にレオポルドは何かを察知したのであろう、ダレット夫人を引きずりながらレナードの後を追った。

ダレット一家は、まさしく遁走した。大広間の扉を、ぶち破らんばかりの勢いで。

その時ちょうど――大広間の扉の外側には、プライス判事が陣取っていた。

大広間の扉が大音響と共に激しく開かれ、プライス判事は驚いて思わず声を上げる羽目になった。 扉との衝突をよけて、素早く身を引く。

そのようにして空いた空間を、ダレット一家は、感謝はおろか、挨拶も社交辞令も欠いたまま、慌しく駆け抜けて行ったのであった。

*****

マティが大広間を飛び出し、プライス判事と共に、前庭ロータリーが見える窓の前に陣取る。

ダレット一家の御用達の馬車が慌しく正面扉の前に回され――今まさに、逃げ出して行くところだ。 例によって、一番贅沢な大型馬車を持ち出している。

見ていると、御者席から御者が突き落とされた。レオポルド自身が、御者席に座って手綱を取っている。 その顔には、遠目にもハッキリと見て取れる程に、激しい怒りと焦りの入り交ざった形相が浮かんでいた。

すぐにでも、ダレット一家の汚名を返上し、なおかつ名誉を挽回するための、様々な糊塗計画に取り掛かるのであろう。 政治工作の証言者となるような、『余計な目と口は邪魔』――と言う訳だ。

マティは憤然としたように口を開いた。

「あれじゃあ、テーブルの上に飛び乗ってさ、『見てくれ! 私は、これこれ、 こう言う犯罪をしたんだ!』って、大声で白状したのと同じじゃんか」
「容疑者の逃亡だな」

プライス判事は、マティの言葉に重々しくうなづいて見せた。

「いずれにしろ、王族親戚レディ・ゴディヴァの所に駆け込むだろうって事は分かるし……放っとくか」

レオポルドの母親は、王族に連なる者――王族親戚の出である。王族親戚には幾つかの血縁グループがあるのだが、 レオポルドの母親を出した一つの血縁グループのトップが、まさにレディ・ゴディヴァなのだ。

タイター氏がいみじくも喚いたように、そのレディ・ゴディヴァが、王族親戚としての権勢を利用して、 ダレット一家を強力にバックアップしているのである。 故に、ダレット一家は、クロフォード伯爵領の中で権力を発揮できていたのであった。

大広間の中では、トッド夫妻が呆然と立ち尽くしていた。

「これは、カーティス案件だわね……」

ようやくの事でトッド夫人が、意味のあるコメントをした。 カーティス夫人が大騒ぎして、四方八方にお喋りするような出来事である――という意味である。

ドクター・ワイルドはカーター氏を振り返ると、疑わしそうに目を細めた。

「伯爵に対する殺人及び殺人未遂は、確か謀反罪に相当し、爵位継承権を失う理由の、第一になるのでは無いかね?」
「左様にございます。かつてのレオポルド殿の爵位継承権の喪失に続き、 嫡子レナード様もまた、爵位継承権を喪失……と言う事になりましょう」

そう解説するカーター氏は、誠実、生真面目そのものだった。 『こうなるように陰謀を仕掛けたのか』と聞かれても、『何の事でございましょう?』と答えるに違いない。

ダレット一家の逃亡を見届けたプライス判事とマティが、大広間に戻って来た。 プライス判事は驚き覚めやらぬ様子で首を振り振り、伯爵を眺め始めた。

「それにしても、えらい話ですな! 途中から、立ち聞きしてしまいました。 あのライト嬢が……リチャード殿の、まさか実の娘とは! てっきり、我々は、レオポルド殿の私生児かと……」

レオポルドとは違い、クロフォード伯爵の方には、浮いた話は一つも無かったのだ。 確かに伯爵は、若い時はプレイボーイだったと言ってはいたのだが、実際は、社交上の冗談の一つだと受け止められていたのである。

旧友でもあるプライス判事をも、驚かせる事になったのだ――クロフォード伯爵は、 先程の厳しい表情とはまるで異なる、戸惑った表情を見せた。 伯爵はプライス判事の言葉の内容を暫し考え――そして意外そうに瞬きし、近くに控えていたキアランを見やった。

「まさか、キアランも……あの子の事を、レオポルド殿の私生児だと思っていたのか……?」

キアランは無言のまま、ギクシャクとうなづいた。

「何たる事だ!」

途方に暮れたように頭を抱える伯爵なのであった……

ドクター・ワイルドもまた、今の今まで、釈然とせぬ物を感じながらも、レオポルドの私生児の可能性を考えていた一人だ。 かつての絶世の美青年レオポルドの放蕩ぶりは、実に伝説的なレベルだったのだ。 レオポルドの不倫ハーレムの結果としての私生児は、10人以上は居る事が確実なのである。

ドクターは顔をしかめ、ヒゲを撫でながら感想を述べた。

「レオポルド殿には、誰の目にも明らかな前科があったしなあ」
「無理も無い……私にしてからが、今だにあの子が私の娘だと言う実感が無いんだ」

伯爵は深い溜息をついた。プライス判事が思わず伯爵を見直す。

「実感が無いだと?」
「それは、いささか誤解を招く物言いと言う物ですぞ」

ドクター・ワイルドも首を振り振り、呆れている。

「実の娘と公認する事には、変わりは無いよ」

伯爵は慌てたように付け加えた。 そして、途方に暮れたようにうつむき、不自然なほど長い間、口ごもった――そして、やっと口を開いた。

「――25年と言う時間は……青春を共にした恋人が手の届かない存在になり、実の親子もまた他人同士になるには、充分過ぎる時間だ。 キアランの事は、実の息子以上に、息子と思うが……ルシールの場合は、私にとっては、謎めいた見知らぬ娘なんだ……」

――我が娘は、ゴールドベリの魔女の元で、どんな暮らしを重ねてきたのか。 あの神秘的なハープの技術は、どうやって身に付けて来たのか。

25年と言う空白の時間は、すぐには埋まらない時間だ――

ドクター・ワイルドは、おもむろに懐中時計を取り出すと、時刻を改めた。

「ふむ……そろそろ、鎮静剤が切れるタイミングですな」
「やはり、見舞いに行かねばならんな」

伯爵は、幾分か決まり悪そうに呟いた。

カーター氏は少し離れたところで資料を片付けていたが、キアランが傍を通ったひと時を捉え、語り掛けた。

「先程の閣下の護衛、実にお見事でした」
「いつもして来た事です」

キアランは若干戸惑いながらも、うなづいて見せた。 レオポルドの怒りの度合いは予想は出来たものの、伯爵に害を成す行動に出る事は、流石にカーター氏にとっても想定外の事であったのだ。

伯爵は松葉杖を突いてギクシャクと歩み、大広間の扉に差し掛かった。そこで伯爵は不意にキアランの方を振り返り、呼び掛けた。

「キアラン、内々の話がある。ちょっと一緒に廊下に来たまえ」

キアランはやはり、いつものように伯爵の元に急いだのであった。

伯爵とキアランが大広間を退出した後。

ドクターはカーター氏を振り返り、珍しく感心したように語り掛けた。

「タイター氏のストーカー振りが、逆にルシール嬢の父親の確定条件に寄与するとは――何がどう転がるか、分からぬ物じゃな」
「――『真実は時の娘』……とは、昔の人は実に上手い事を言った物です」

そう応じた後、カーター氏は、穏やかに微笑んだのであった。

*****

予定より少し遅くなったものの、伯爵家のディナーが始まった。

伯爵はルシールの見舞いのため不在であり、キアランがいつものように伯爵の代理を務める事になった。

早速プライス判事が口を開き、タイター氏の手下に混ざっていた、謎の『片目の巨人』の調べが付いた事を話題にした。

「古い記録を調べてみて、驚いたの何の。『片目の巨人』なる大男、ロイド氏殺害犯でした」
「ほう……!? 戦斧のような武器を、本当に持っていたのじゃな?」

ドクター・ワイルドが驚きの声を上げた。

かつて、ドクター・ワイルドは、ロイド・グレンヴィル氏の死亡報告書の作成に際して、その無残な死体を検死していたのである。 共に襲撃されていた先々代伯爵フレデリックの証言とも突き合わせて、ロイド氏は、 巨大な斧のような武器によって殺害されたと見当を付けていたのであった。

プライス判事はドクターの指摘にうなづき、話を続けた。

「ロイド氏の抵抗で片目を潰されていて、以来、グレンヴィルに対して根に持っていたとか」

件の巨人が片目になったのは、ロイド氏が隙を突いて、巨人の手元を狂わせたのが原因だと言う。 その時、戦斧は思わぬ方向に滑って、巨人の半面をしたたかに襲った。 片目の巨人の顔面に残った恐ろしい傷痕は、その時の物であったのだ。 『グレンヴィルとの勝負』に対する、狂気に近い執着も、また――

「今、片目の巨人は正常な受け答えをしていないんだな。壊れてるらしくて」

判事はそこで、手持ちのワインで喉を潤すと、感慨深げに付け加えた。

「あそこまで敗北し、無視されていた――死より耐えがたい屈辱だったらしい」

ドクター・ワイルドは、片目の巨人の奇妙な症状に興味を持ち、医者らしく見当を付けて見せた。

「ショック性の退行現象じゃな」
「あの怪物が? 信じらんない」

マティが目を丸くした。クレイグ氏も、別の意味で感慨深げである。

「因縁とは言え、こんな不思議な事があるとは……」

ロイド・グレンヴィル氏は、キアランの実の父親だ。流石に微妙な話題である。

「大丈夫ですか、リドゲート卿」
「何だか奇妙な気分がするだけです……血の復讐は、いつの間にか終わっていた……」

カーター氏の気遣いに、キアランは、いつものように静かに応じていた。

キアランが必死で銃&剣の腕前を磨いたのは、私的には、 実の父親の復讐のためという人生上の目的があっての事だったのが――ルシールに関わる一件の、 『まさに余談』という形で対決し、気が付いてみたら、仇敵は既に倒れていたのである。 知らぬ間に、復讐が完璧に成されていたが故に――逆に、実感が無いのだ。

――片目の巨人は、かつての時も、そして今回も、元々は誰かが放った暗殺者の筈だ。

「本当の黒幕を聞けないのは残念ですが……」
「いずれにせよ、この件の首謀者は、近いうち暗殺者の運命を知る筈でございます。 今後、手を引く事を考えるでしょうね」

ドクター・ワイルドは、キアランとカーター氏の会話に、注意深く耳を傾けていた。

――クレイグ氏がいみじくも述べたように、つくづく不思議な巡り合わせだと思わざるを得ない。

暗殺者を倒す仕事は、体格上の素質を欠くダグラス家の者には不可能だった。 ダグラス家は線の細い体格を持つ家系であり、平均以上の身体能力は無い。 しかし、キアランは、武門の家柄たるシンクレア家の者に近い身体能力に恵まれているがゆえに、 シンクレア家の戦闘術を身に付ける事が可能だったのである。

ドクターは、キアランの実父が軍人の経歴を持っていた事を、改めて思い返したのであった。

――復讐の後に来る反動で放心状態になるかと思ったが、いつの間にか、何やら新たに、気に掛かる事が出来ていたか。

ドクターは、いつもと変わらぬ様子のキアランを注意深く観察した。キアランは、カーター氏やトッド氏と何やら話し込んでいる。

やがてキアランは、やれやれと言ったような様子で頭を抑え、溜息をついた。

「カーターさんが何故、タイターの無茶な誓約書に、すぐに納得して見せたのか分かりましたよ。 クロフォード直系親族は……ローズ・パークのオーナー協会員には、なれない」
「閣下の意志は、固かったのです」

カーター氏は、困惑気味の苦笑を湛えていた。

「ルシール嬢の説得では、流石に悩みましたが……タイター氏の思わぬ横槍のお蔭ですね」

――全くだ。信じがたい程の迂闊さの故とは言え、 タイターが、あそこまで全力で――しかも脅迫的な手段すら用いて――アシストしなければ、 ルシールは『ローズ・パーク相続を諦める』という選択はしなかった筈だ。

少しでもタイミングがズレていれば、『クロフォード直系親族たる社会的地位』、 『ローズ・パーク相続の権利』――という二つの選択肢が上がっていたのだ。ルシールの性格を考えれば、結果は明白である。 ルシールは、縁切りをしてでも、『ローズ・パーク相続の権利』の方を選んでいたであろう。

それはそれで、将来、また別の紛糾につながるような、面倒な政治的状況が展開する事になったであろうけれど――

キアランは暫し思案を巡らせた。

「アントン氏が手がけたバラ園が、この館にもある……私から彼女に話してみます」
「それは、良い事でございましょう」

カーター氏は、いつものように律儀に応じたのであった。

ディナーの歓談はその後も続き、やがて話題は、トッド夫妻の土産話に移って行った。

「商会仲間の速報、小耳に挟みました。遂に宮廷疑獄事件の大法廷が開かれて、 王室の血縁たる王族親戚や、大貴族の方々も、大勢が連座して弾劾されるとか」
「そりゃ、大変なニュースだね」

クレイグ氏が感心したように呟いた。ドクターも同意である。

「来月からの都の社交シーズンは、大政変の話題で埋まりそうじゃな」

*****

キアランは自室に戻った後も、深い感慨にふけっていた。

――あの台帳のサインを見た時ほど、動転した事は無かったと思う。

謎のローリン氏の直筆のR文字は、クロフォード伯爵のR文字の筆跡そのものだった――

ルシールがレオポルドの私生児だとしても、別に構わない――と、決着を付けてはいた。 それでもやはり、最も信頼し敬愛して来た人の娘なのだという事実を考えていると、不思議に穏やかな気分になって来るのであった。

7.クロフォード伯爵邸…時の娘〔三〕

クロフォード伯爵が、ルシールの見舞いに訪れた。

ルシールは既にベッドから起き出していて、ピンピンしていた。庭師の必須条件として身に付けていた、基礎体力のお蔭だ。 しかも、伯爵に対して失礼に当たらないようにと、届いたばかりの新しいディナードレスを身にまとって、出迎えていたのであった。

伯爵とルシールは、ささやかな円卓を挟んで座り、長い話をしていた。

*****

その昔、リチャード・ダグラスは、気楽な身分の青年であった。 クロフォード直系親族ではあるものの末席の家柄であり、爵位を継ぐ見込みは、ほぼ無い――しかも次男であった。

リチャードは、当世風のプレイボーイが良くやるように、各地の季節ごとの舞踏会をフラフラと巡っていた。 そして、宗家筋に当たる遠縁・レオポルド=リドゲートが主催するローズ・パークの春の舞踏会にも、 親戚づきあいの都合上、フラリと立ち寄っていたのである。

当時のアイリスは、春の第一回目の舞踏会で社交デビューを済ませたばかりだった。 そして、間を置かずして、凶悪なストーカーと化したギャング=タイターに悩まされているところであった。

――アイリスは、父・アントン氏の庭園作業の助手として、ローズ・パーク庭園に来ていた。

――リチャードは、暇を見つけて、ローズ・パーク庭園の乗馬コースを馬と共にそぞろ歩きしていた。

必然として。

地元社交界における、ローズ・パークの春の社交シーズンの――合間の昼時。

ローズ・パーク庭園の一角で、乗馬服姿のリチャードと、作業着姿のアイリスは、出逢ったのであった。 若い二人は当然ながら、お互いに一目惚れであった。

そのシーズンも終わらないうちに、ローズ・パーク破産宣告を巡って騒動が持ち上がったが、 オーナー協会が設立されたのをきっかけとして、リチャードとアイリスの頻繁な交際が始まったのである。

ローズ・パークのオーナー協会のバックアップとして、他のクロフォード直系親族と共にダグラス家も参入しており、 ローズ・パークの財務状況の建て直しに関わっていたのであった。

人目を忍ぶ恋人だった若い二人にとって、やはり何よりも楽しみだったのは、折々の舞踏会であった。 オーナー協会の親交と言う名目で、二回までは堂々とダンスのペアを組めたのである。

タイター氏によるストーカー問題は相変わらず続いていたが、 オーナー協会の親交を名目とした社交ダンスにまで踏み込んで来る事は無かった。この辺りについては、 流石にタイター氏も、名家ビリントン家の一人として、それなりに社交上の慣習を心得ていたという事だろう。

ちなみに、この頃のアイリスは、オーナー協会員の血縁として社交デビューを済ませたばかりの若い独身令嬢だったという事もあり、 社交ダンスでは引っ張りだこだった。

タイター氏の非友好的な視線をものともせずに、下心タップリにアイリスに近付いた独身の紳士は、それなりに多かったのだ。 当時はまだ独身であったレオポルドにも、やはり多少は下心はあったようで、何度かアイリスにダンスを申し込んでいたのであった。

政局的には、激動の時代であった。

二つのクロフォード直系親族が壊滅した後、あわやダグラス家も壊滅かと思われたところで、 ロイド・グレンヴィル氏による介入があったため、ダグラス家は首の皮一枚でつながると言う形になった。 これが、ダグラス家が、グレンヴィル氏に尽きせぬ恩を感じている理由である。

当時のクロフォード伯爵であったフレデリックが闇討ちされて死亡した後、遺言書により、ダグラス家に爵位が移行した。 最初にクロフォード伯爵になったのは、リチャードの兄ベネディクトであった。

その後も、ダグラス家によるローズ・パークのオーナー協会に対する間接的なバックアップは続いていた (実際にオーナー協会の代表を務めたのは、クロフォード傍系親族にして元テンプルトン町長のハワード氏である)。

リチャードとアイリスは少しずつ、深い関係となって行ったのである。

*****

ルシールは、静かに耳を傾けていた。

在りし日の回想と説明を続けるクロフォード伯爵は、話が一区切りついたところで、長い溜息をついた。

「――キアランの事を、ちゃんと説明する必要があるな」

*****

キアランの出生は、亡き伯爵フレデリックの予想を超える出来事であった。

フレデリックの遺言書によって、キアランの母であるホリーは正式なクロフォード伯爵夫人であり、 偶然とは言え、微妙な時期に出生したキアランは、非常に危うい立場のまま貴族社会に放り込まれた形となっていたのである。

まかり間違えば、『要らない子』だ。

しかし、ホリーを妻に迎えて新しくクロフォード伯爵になっていたベネディクト・ダグラスは、 そういう状況に子供を置く事を、絶対に許さないという人であったのだ。 ベネディクトは、キアランを正式に我がダグラス家の嫡子として認め、更にクロフォード伯爵家の嗣子たるリドゲートと定めた。

相応の紛糾期間を乗り越えて――『新・リドゲート卿』の存在は、法的に承認された。 それが不幸の元であったのかどうかは、今でも分からない。

事実としては、その後、間も無く――キアラン=リドゲートが二歳の誕生日を迎える前に――ベネディクトは、 おそらくは暗殺者の手に掛かったのであろう、いきなり不審な死亡を遂げたのであった。

口約束ではあったが、ベネディクトは生前、『自分に何かあった場合、キアランをよろしく頼む』――と言い残していた。 リチャードにとっては、両親亡き後、叔父クレイグ氏と共に親代わりとなって自分を育ててくれた兄でもあり、 その遺志は、決して無視する事のできない物であった。

アイリスにしても、選択の余地は無かったのだ。

ルシールが、マティの命には代えられないと観念して相続放棄の誓約書にサインしたのと同じ事である。 かつてのアイリスも、危険な立場になってしまったクロフォード伯爵夫人ホリーや、 まだ幼いキアランの命には代えられないと判断して、離婚証書にサインしたのだ。

リチャードとアイリスの離婚は、ベネディクト急死の一報が届いた、 その日――その運命の一日が終わる前に、成立していたのである。

*****

アイリスの蒸発・急死の一件をリチャードが知ったのは、月末に提出される定例報告書を通じての事であった。 クロフォード直系親族の筆頭となるダレット家の成立と共に記載されていた事項だけに、 何とも言えない気持ちになった事は、言うまでも無い。

既に亡き兄の後を継ぎ、新しいクロフォード伯爵として多忙を極めていたリチャードには、 それ以上の詳しい事情は分からず、ローズ・パークのオーナー協会を通じて弔慰金を送る事以外には、何も出来なかったのである。

そして何年かが更に過ぎて行った――キアランが10歳の時、ホリーが病死した。

兄・ベネディクトの妻だった事もあり、姉のように慕う存在であった。

ちなみに、元々ホリーは、弁護士だった故ロイド・グレンヴィル氏の妻だったという事もあり、 種々の法律運用に関する知識は、玄人はだしだった。 駆け出しの頃のベネディクトやリチャードが、おっかなびっくりながらも、 何とか『クロフォード伯爵』と言う重責を務める事が出来たのは、ホリーの助言のお蔭があっての事も大きいのだ。

クロフォード伯爵夫人ホリーの死亡は、血の繋がらぬ親子であるクロフォード伯爵・リチャードとキアラン=リドゲートにとっては、 新たな困難の到来でもあった。先々代伯爵フレデリックの遺言書の範囲を遥かに超える出来事であり、 先々代伯爵の権威をもって親族を説得する事は、もはや不可能だったのである。

――キアランの立場を保証し、更に親族たちをも納得させる事が出来るような、 高位の身分の――『新しい母親にしてクロフォード伯爵夫人』が必要だろうか?

そのような伯爵の悩みを見透かしたように、方々から再婚の話が持ち込まれて来た (勿論、ダレット夫人からの、何というか、『身体を張った強引な申し出』もあった)。

キアランが寄宿学校に上がる直前の頃は、かくの如く『頭の痛くなる状況』と化しており――カーター氏もまた、 クロフォード伯爵家の顧問弁護士として、周辺の説得や法的解釈の整備などで、目が回る程の忙しさになっていたのである。

アントン氏が、珍しくクロフォード伯爵に話し掛けて来たのは、そういう頃であった。

*****

館の庭園の一角には、新しいバラ園が出来ていた。秋のバラが盛りの頃であった――

アントン氏は、無骨な仕草ながら伯爵に敬意を込めて一礼すると、 やはり『人と話すのは苦手だ』と言う風に背中を向けた(人によっては、この行動を、 『偏屈で変人で無礼である』と受け取るのである。そしてそれは、実際、正しいのだ)。

そしてアントン氏は、秋バラの枝に目を留めると、訥々と話し出したのである。

『あの若さんは、見込みのある若枝に育った。母親は、素晴らしい人だったに違いない』

伯爵は、気まずさと後悔とが複雑に入り交ざった、何とも言えない苦い思いを感じていた。 かつて、たった一日で終了してしまったアイリスとの秘密結婚の事を、今更、アントン氏に明かす事は――とても出来ない。

強張ったまま、何も言えない状態のクロフォード伯爵に気付かない様子で――後で考えてみると、 アントン氏はその時には、秘密結婚から離婚の事まで、何もかも承知していたのだ――アントン氏は、言葉を続けた。

『その昔、私の妻は、他の男と駆け落ちして出て行った。私がビリントン家の厄介者だったせいで、色々とあってな。 私の娘は幼い頃だったが、覚えていて――いや……、私事だ――』

アントン氏は、クロフォード伯爵とは立場も状況も異なるが、 超・偏屈と言う評判が立つ程に、親族付き合いでは失敗し続けた、不器用な人物だったのである。 アントン氏は、無意識の癖なのであろう、いつも頭に乗せている麦わら帽子に手をやると、 これまた珍しくも、更に話し続けたのだ。

『若枝の時間は、とても速い。今、手を離したら、取り返しがつかん』

無骨そのもの、昔かたぎの職人の如き老庭師であり、庭園にしか興味が無いように見える偏屈老人。 しかし、そのアントン氏は、伯爵とキアランの事を注意深く見ていたのだ。

伯爵は、ただ無言で驚くばかりであった。

アントン氏は伯爵に背を向けたままではあったが、明らかに伯爵に向かって、 訥々と語り掛けていたのである――若枝の成長を見守り続ける、庭師ならではの、直感を。

『私は、再婚はしなかった。閣下が、如何されるかは分からんが。あの若さんは――』

再び秋風がザアッと吹き、秋バラの花々が、ざわめき揺れた――

*****

謝罪であり懺悔でもある、クロフォード伯爵の長い昔語りが終わった。

そして伯爵は、固く組んだ手元に視線を落とし、深い沈黙に沈んだ。

世相の変化の不思議――と言うべきか。あの秋の間に、貴族社会における養子縁組の法律整備が急速に進んだのだ。 キアランの立場は不安定ながらも、結婚適齢期までの法的な余裕を得たのである。

――あの頃、複雑に錯綜した思いを、どう説明すれば良いのだろうか。

「ホリーを看取った後、アイリスが生きていた事を知っていたら……再婚を真剣に考えたと思う」

そう呟いた伯爵は、不意に――新たな気付きを得たのであった。

「ただ、キアランは、当時は難しい年頃でもあったからな。アントン氏は、そういう事まで配慮してくれたのかも知れない……」

伯爵の声は、静かではあったが、大いなる驚嘆を湛えていた。

*****

実際は、クロフォード伯爵の言葉は――いささか説明不足に終わっていた。

しかし、ルシールは、言外の内容を正確に読み取る事が出来た。 ゴールドベリ邸で鍛えた、直感力の故だ――オリヴィアやアンジェラの卓越した能力には、遠く及ばない物ではあるが。

――実際、アントン氏は、クロフォード伯爵宛の私信を書かなかったのだ。

老庭師は理解していたのだ――遺された子供の、不安や孤独感を。

直系親族はダレット家のみ、右顧左眄する傍系親族たち。 当時、10歳の子供が必要としていたのは、母親を守って来た、その人の手だったのだ――

――年頃の子供は、扱いが難しい。特に、子供から大人へと成長する激変の期間は、人が変わると言っても過言では無い。 もう一人のレナードが出現しても、全然おかしく無かった筈――

ルシールは暫し、深い物思いに沈んだ。

そしてルシールは、心配そうな表情の伯爵に気付き、何らかの言葉を返す必要を悟ったのであった。

言う事は山ほどもあったが――言葉にならない思いも、それ以上に感じていたが――ルシールは、 結局のところ、かつて母親アイリスが下したであろう結論に、辿り着いたのである。

ルシールは、いつものように微笑んだ――母親アイリスと同じように。

「リドゲート卿は、良い伯爵におなりになると思いますわ」

クロフォード伯爵は、驚いたように目を見張った後――ルシールの中に、 今は亡きアイリスの面影をハッキリと見出していたに違いない――懐かしそうな顔になって、ルシールを見つめていた。

伯爵は暫し、ホッとしたかのように顔を伏せ、深い溜息をついていたが、やがて再び顔を上げ、また別の意味深な眼差しを投げて来た。

奇妙な間が空く。

ルシールが不思議に思い、小首を傾げながらも伯爵を見直していると――伯爵は不意に、その眼差しに笑みを浮かべて来た。 クロフォード伯爵の、サファイアよりも深い青い目が、朗らかにきらめく。

「実に光栄だ……時に、キアランは、ルシールに求婚をしているそうだが」

――いきなり、その質問は、反則だわ!

不意打ちを食らったルシールは、動転の余り、開いた口が塞がらない状態だ。いみじくもアンジェラが指摘したように、 ルシールは動転すると、真っ白になってしまう性質なのである。

伯爵は、真っ赤になってソワソワし始めたルシールを、面白そうに眺めていた。 そして、ユーモアを込めて、キアランの性格を説明し始めたのであった。

「あれは、つくづく堅物だし、言葉も相当、ひねくれているヤツだ。 しかし、政略結婚やら血統の都合は別にして、ルシールにぞっこんではあるらしい」

伯爵はそこで、困惑しきりのルシールに、イタズラっぽい微笑みを寄越して来たのである。 若い頃は、まさしく、このようであっただろうと言う、屈託の無い笑みであった。

少し前――大広間で続いた問答と対決の末に、ダレット一家が遁走した後――伯爵とキアランは、 大広間とつながる廊下で、ちょっとした密談を交わしていたのだ。

伯爵の確認に対して、キアランは、 やはり奥歯に物の挟まった――しかも堅苦しい言い方で――ルシールに対する求婚の意志に変わりが無い事を告げていたのである。

『爵位を継ぐというチャンスに対して、野心が無いと言う訳ではありません。 直系では無い分、レナードよりも強い野心があると思います。改めて願わくは、ルシール・ローリン嬢を――』

伯爵は、ルシールの様子を注意深く観察し、困惑こそしては居るものの、嫌悪や拒絶の気配は無い事を見て取っていた。

「ふむ……脈は、あるらしいな」

ルシールをしげしげと観察しながら、意味深に呟く伯爵であった。

*****

伯爵は、そろそろ頃合と見て、ルシールの見舞いを切り上げる事にした。

何と言ってもルシールは、今日一日だけでも、必要以上のショックを受けているのである。 それなりに観察すれば、ディナードレスでは隠し切れない各所に包帯が巻かれているのが分かる。 背筋を伸ばして椅子に座り続けているのも、流石に疲れ始めている様子なのだ。

伯爵は松葉杖を突いて、椅子から立ち上がった。

「色々あって疲れただろうな……今宵は休んでくれたまえ」
「お気遣い頂いて有難うございます、伯爵さま……」

ルシールは無意識のうちに、社交界における公式な礼儀作法に従い、 身分の高い人物である伯爵に合わせて椅子を立ち、丁重な礼を述べたのであった。

伯爵は暫し、驚きに目を見開き――そして、おもむろに微笑み、うなづいて見せた。

ルシールの部屋を退出しながらも、伯爵は、運命の偶然に驚嘆の思いを抱くばかりであった。

――不思議な程に、絶妙なタイミングで出逢ったと思う。

しかも、この出逢いは、充分に良い結果を期待させる物となった。 キアランの堅苦しい態度や言葉遣いは誤解されやすいシロモノなのだが、ルシールには妙に直感があり、 正確なところをきちんと読み取っている。

17年前の時点では機が熟していなかった。今の『この時期』という奇跡的なタイミングが無ければ、 その前であっても後であっても、同じように出逢ったとしても、不幸な結果にしかならなかったであろう。

――劫初 終極 界(カイ)を湛えて立つものよ――

いにしえの狂信者の時代、ゴールドベリ一族の直系の最後の魔女が、火刑台の上で詠じた謎の辞世の句。 狂信者がその後、全知全能の神を称える詠唱として取り入れたために、教会の中で、現代まで残って来た言葉。 今では、各地の教会のバラ窓を彩る聖句としても一般的だ。

クロフォード伯爵は、その『真の意味』に触れたような気がしたのだった。

*****

夜が明けて――

クロフォード伯爵邸では、都の夏の社交シーズンを直前に控え、上京の準備のため、慌しい日々が始まった。

ルシールは、怪我から回復次第――という事で、上京準備の手伝いを依頼されたため、 クロフォード伯爵邸への滞在を延長していた。

ルシールは、休養期間のうちから、それなりに忙しい状態であった。

クロフォード伯爵への挨拶を兼ねてルシールのお見舞いに来た、 ローズ・パークのオーナー協会の面々との改めての再会があったり、 アントン氏殺害事件やテンプルトン襲撃事件の後始末を含めた、煩雑な法的手続きが続いたりしたのだ。

数日後。

ずっと不在だったプライス判事が、クロフォード伯爵邸の門をくぐった。 あの夜のディナーの後、プライス判事は急な用件が出来たため出張していたのだが、無事に仕事を終え、 クロフォード伯爵への報告のため、戻って来たのである。

小回りのきくルシールが、早速、クロフォード伯爵の部屋を訪れ、客人の来訪を告げた。 いつものようにルシールの後をくっついて来たマティも、後ろから顔を出している。

「伯爵さま、プライス判事がおいでですわ」
「カーティス案件だから、耳に入れといた方が良いってさ」

折りしもドクター・ワイルドが、クロフォード伯爵の往診に来ているところであった。

ルシールのハープ演奏には、わずかながら不思議な癒しの力があったらしく、伯爵の骨折の治癒は相当に早まっていた。 しかし、流石に年齢の影響もあり、一ヶ月程は、松葉杖ないし杖の世話になるだろうと言う状況である。

マティとルシールが連れ立って伯爵の部屋を離れると、ドクター・ワイルドは奇妙な目つきをして、 伯爵をまじまじと眺め――そして、疑わしそうに水色のギョロ目を細め、眉を鋭く上げて見せた。

「――『お父様』じゃ無いのかね?」

伯爵は、無言で苦笑いするのみだった。

そんな所へ、折よく茶を運ぶ途中のベル夫人が、部屋の隙間から生真面目な顔でツッコミをして見せたのであった。

「リドゲート卿と結婚すれば、閣下を『お父様』とお呼びになりますでしょう」

ドクターは再び、伯爵をまじまじと注目した――伯爵は流石に赤面し、「まだ確かな話じゃ無い」と呟くばかりであった。

キアランもルシールも互いにオクテという事があって、あの夜以上の進展は、特に無かったのである。 単に、二人きりの時間が、なかなか取れていないという事情もあるのだが。

*****

大広間に、一同が揃った。

プライス判事は大広間に落ち着くと、早速、一同に向かって今回の出張の報告を始めた。 生真面目な顔つきをしているものの、何があったのか、その陽気そうな灰緑の目は面白そうにキラキラと光っている。

「いやあ、実に驚いたの何の。都の社交シーズンが始まったら、絶対にカーティス夫人が宣伝しまくるぞ」

実は、プライス判事の元に届いたのは、アシュコート発の召喚状だったのだ。

その召喚状の内容は、『ナイジェル・ビリントン氏の身柄を早急に確保し、 アシュコート伯爵領・レイバントンの町の裁判所まで護送せよ』という物である。

たまたま別件逮捕でナイジェルを拘束中だったプライス判事は、そのまま、 ナイジェルの護送を遂行するべく、アシュコートまで出張していたのだった。

プライス判事の報告は、実に驚天動地の内容であった。

「アラシアとナイジェルが結婚した……!?」

大広間の面々は揃って、驚きの叫びを上げた。

「あのお二人は、アシュコートで、縁組詐欺の罪で訴えられていたと言う話でな」

プライス判事は、今だ驚愕覚めやらぬと言った様子で首を振り振り、説明を続けた。

「かのアラシア嬢は、アシュコート到着の瞬間に身柄拘束されていたそうだ」

結局のところ、『意味不明な行方不明』をやらかしたアラシアが、 アシュコートで何をしようとしていたにせよ、その目論見は、遂に実現できなかったのである。 アラシアは、そのままアシュコート伯爵領・レイバントンの町の裁判所に拘束された。

「裁判所の中で、賠償金を払うか、結婚を行なうか、二つに一つだと、 『縁組サービス』のイザベラ代表、その他の幹部スタッフ嬢の面々に脅迫され……、いや、説得されたんだと。後々までの語り草だな」

アシュコート伯爵領の治安判事・ジャスパー氏の娘、金髪のイザベラ嬢は、 ベテラン弁護士も恐れ入る程の、説得の手腕の持ち主だったのである。 イザベラ自身、レディ・オリヴィアと交渉して、 アンジェラとルシールを『縁組サービス』の仕事仲間に引き入れたという実績を持っている。

『縁組サービス』の幹部スタッフ嬢たちにしても、弁論や脅迫にかけては強者(つわもの)なのだ。 あのアラシアを脅迫し、ダレット一家の面々をも圧倒できるというところからして、全員揃って、タダ者では無い。

プライス判事は、やれやれと言ったように苦笑いをしながら、コメントを付け加えた。

「アラシアの事だ、暇つぶしの冗談で縁組作戦に乗っていたんだろうが、 イザベラ代表の『縁組サービス』は、正式な結婚を前提にしていたからなあ……」

――アラシアの結婚式に引きずり出されたであろうダレット一家の驚愕は、想像するだに余りある。

ドクター・ワイルドが、やっと口を開いた。珍しい事だが、すっかり絶句していたのだ。

「全く、何たる事じゃ! 全く」
「信じられんが、納得は出来る」

クロフォード伯爵も、口を引きつらせていた。

「ライナス氏も、やれやれだね」

クレイグ氏は苦笑交じりながら、無難なコメントに留めている。

アシュコートの『縁組サービス』の恐るべき戦闘力について、大いに思い当たるところのあったルシールとキアランは、 二人揃って何とも言えぬ奇妙な思いである。そのまま二人して、お互いの当惑顔を、無言でそっと見交わすばかりであった。

アラシアとナイジェルの結婚式では、『縁組サービス』のスタッフ嬢たちが、怖い顔をしてズラリと並んでいたに違いない。 証人として参列していたライナスも、気が休まらなかったであろう。 『恐るべき結婚式』を執り行なった牧師にしても、きっと始終ハラハラする余り、大量の脂汗を流していたに違いないのである。

マティは、やはり流石に、的確な批評を言ってのけたのであった。

「アラシア・ビリントン夫人ーッ!? 何かスゲェ!」

8.首都…虚実流転

首都の初夏の社交シーズンが始まった。主だった貴族や地方の名家たちは、揃って上京である。

中央街区を貫くメインストリートには、大きな役所や繁華街が立ち並んでいる。 そのストリートの、大きな交差点の周りを彩る形で、これまた広大かつ立派な公園が広がっていた。 ローズ・パークの庭園のように、乗馬コースも備えている本格的な自然公園スタイルである。

正午に近い頃の、都の中央部の公園――

爽やかな薫風が吹き渡り、濃い緑の枝葉をさやがせている。 公園の各所にある洒落たカフェテラスでは、公園の中を行き交う人々に、季節の飲み物を提供していた。

お気に入りのパラソルを持って、久し振りに顔を合わせたアンジェラとルシールは、 多くの通行人に混ざって都の公園を散歩しつつ、尽きぬ話に興じていた。

アンジェラとルシールは、公園を行き交う他の多くの淑女たちと同じように、 初夏の季節に相応しい淡い色合いの軽やかなエンパイア・ラインのワンピースと、薄手の上着をまとっている。 そして黒ネコのクレイが、二人の足の間をクルクルと走り回っていた。

「ナイジェルとアラシアね……結構、上手く行く組み合わせかも知れないわよ」
「……案外、良い夫婦って事?」
「人騒がせな夫婦ってとこね。互いの非常識が見事、合致するの。芸術的なまでに」

そこで、アンジェラはイタズラっぽい顔つきになった。生真面目な顔つきを保ってはいるものの、 緑の目は面白そうにキラキラと輝いている。口元は吹き出し笑いを押さえようとして、プルプル震えていた。

「離婚と再婚の大騒動を、何度も繰り返す未来が見えるわ」

実際、傍目から見ても、本人同士の感触においても、ナイジェルとアラシアは、『喧嘩する程に仲が良い』という状態なのだ。

ナイジェルとアラシアは、地元社交界では、早くも『夫婦喧嘩や痴話喧嘩といったゴシップのネタを豊富に提供する、 賑やかなトラブル・メーカー・カップル』だと認識されている。首都の社交界でも、瞬く間に、同様な評判と共に、名を上げるであろう。

そして、あれよあれよと言う間にアラシアの舅になってしまったタイター氏にしても、 名家ビリントン家の出身という事に加えて長年のギャング経験があっての事か、 アラシアの鼻持ちならない性格や癇癪気質を、何とも思っていないらしいのだ。 それどころか、アラシアの癇癪が爆発する方向を巧みにコントロールし、 利害が衝突した他のケチなギャング団を圧倒するのに利用している――と言う噂であった。

結局のところ、タイター氏、ナイジェル、アラシアの三人は、お互いのエゴを激しく衝突させながらも、 不思議なまでに奇跡的に、ピッタリとかみ合っていると言う雰囲気なのである。 別の方向から見れば、『三すくみ』であるとも言えようか。

話題が一区切り付き、ルシールはベンチの前でパラソルを畳みながら、アンジェラを気遣った。

「脚は、まだ痛む?」
「ちょっとだけね。ゴールドベリの通過儀礼が、軽く済んで幸いだわ。あの雷撃にしては結構、良い結果だし、進行性じゃ無いし」

アンジェラは庭園のベンチに手を掛けて身体を支えながらも、微笑んで見せた。 一回二回ダンスをしたり、軽く歩き回る程度なら問題は無いのだが、長く走る事はできないのだ。 雷が灼いた傷は見た目以上に深く、運動機能にダメージを与える所まで到達していたのである。

ロックウェル城でラルフと対峙した際の雷撃は、アンジェラにゴールドベリの巫女としての確かな能力を与えると共に、 その脚に、一生残る樹状フラクタルのパターンをした火傷痕を――『運命の通過儀礼』を済ませた証としての刻印を刻んでいた。

いつか、それほど遠くない将来、今のゴールドベリ一族の宗主・老グウィン氏が死亡した後、 新しい宗主を決定する巫女たちのグループの中には、おそらく、アンジェラも加わっているであろう。

二人に付いて来ていた黒ネコのクレイが、早くもベンチの上でアクロバットを始めている。

アンジェラはベンチに腰を下ろすと、心配そうにルシールを見やった。

「それより、ショックじゃ無かった? ローズ・パークの相続は、無しになったでしょ」

ルシールもベンチに腰を下ろしつつ、戸惑いに頬を染めながらも小さくうなづいた。 ルシールは暫し沈黙していたが、やがてポツポツと話し出した。

「館の方にも、祖父が手がけたバラ園があって……少し拡張して、管理を任せると言ってくださったの。 土に手を入れて、ハーブも植えてみようかと……」

その話は勿論、キアランからの物である。アンジェラは察し良くうなづいた。

「成る程。そのうち、ゴールドベリからハーブを送るわね」

ルシールはボソボソと呟き続けた。

「良いのかしら……私、まだ慣れなくて……」

非常に省略された内容の呟きであったが、アンジェラは、その意味するところを正確に読み取っていた。 これまで、辺境でひっそりと暮らしていたルシールにとっては、クロフォード伯爵家はやはり大きな存在であり、 身辺の環境の激変には、戸惑うところも多かったのである。

「あら、ベスト・カップルよ、あなたたち」

アンジェラは、『縁組サービス』の時のように、自信満々で太鼓判を押したのであった。

黒ネコのクレイが、先程から飛び回っている不思議な蝶を見つめていた。 不思議な蝶は、アンジェラの視線の先に飛んで行く。アンジェラは奇妙な表情で暫し沈黙し、蝶を眺めていたが、 やがてルシールの方を振り返り、訳知り顔で片目をつぶって見せた。

「想定外の結果だけど……公認の件は、喜んでるって言ってるわよ」

目をパチクリさせたルシールに、アンジェラは、先程から意味ありげに飛び回っている不思議な蝶を指差して見せた。

「――お母様が」

ルシールは驚きに頬を染めて、蝶を見つめるのみであった――亡き母・アイリスの魂を乗せていると思われる蝶を。

やがて、昼時を告げる鐘の音が響き渡った。広大な公園の中で小高くなっている丘からは、 樹木の枝葉越しに、宮殿に併設されている大きな時計台が見える。その時計台の鐘の音なのだ。

「そう言えば、お昼の会議が終わる頃だわ。そろそろ、角の喫茶店で待ち合わせと行きましょか」

アンジェラは足が休まったのか元気よく立ち上がり、ルシールを促した。 二人とも、エドワードやキアランと、昼時に喫茶店で逢う約束をしていたのである(言ってみれば、ダブル・デートなのである)。

二人は公園を出て、乗合馬車の列が続くメインストリートへと入って行った。メインストリートは、多くの馬車と人々とで混雑している。

「この道路の混雑ぶりって、流石、首都ね」

アンジェラは暫し感心し、そして早くも、メインストリートの反対側の群集の中に、目当ての人物を見付けたようだ。

「エドワード! 此処よ!」

手を振って見せるアンジェラの隣で、小さなルシールは、乗合馬車の列に視界を阻まれた状態だ。

ルシールが背伸びをしてキョロキョロし始める――すると、そこへ、新たな通行人が接近して来た。

背の高い見知らぬ赤毛の男が、背後から素早くルシールに近づき、手に持っていたステッキで、ルシールのパラソルを叩き落とす。 非常に紳士らしからぬ振る舞いであったのだが、ルシールは突然の事で、その不自然さに気付かなかった。

ルシールがパラソルを拾おうと身をかがめると、見知らぬ男は手を伸ばし、そのままルシールを抱きかかえた。

息を呑むルシール。

次いで、見知らぬ赤毛の男は、ルシールを抱えたまま、メインストリートの別の方向へ逃走したのであった!

「ルシール!」

一瞬の異変に気付き、アンジェラが叫んだ。その時、また別の男が近づき、アンジェラの行く手を阻むように立ちはだかった。 しかも何と、アンジェラを、背後の公園に引きずり込もうとしたのであった!

「ちょっと何するのよッ、友人が……」

アンジェラは抵抗し、激しく腕を振り回し始めた。男は「まあまあ」とか何とか言いながら、 意外に手練れらしく、アンジェラが武器にしようとしたパラソルを奪い取ってしまった。

ようやく、通りの向こう側の異変に気付いたエドワードとキアランが、ビックリした様子で、 馬車の行き交うメインストリートを横切ってやって来た。 アンジェラが見知らぬ男に絡まれている様子は、当然ながら、エドワードの気分を大いに損ねたのであった。

アンジェラに絡んでいた男は、早速、エドワードの鉄拳を受ける羽目になり、路上にゴロリと転がった。

「話と違う……」

半分失神して路上に転がった男は、意味の通らぬ事を呟いている。

事態をつかみかねている様子のキアランを確認し、ルシールの連れ去られた方向も確認して、アンジェラは、ただ呆然とする他に無かった。

「お、驚きだわ! 交通の多い道路だから、乗合馬車の列が死角になって……!」

エドワードは早速、転がった男の人相を確認した。

「また、お前か! マダム・リリスの遊び相手の……!」

成る程、見てみれば、確かにマダム・リリスの愛人を務めていた伊達男だ! 彼もまた、 初夏の社交シーズンに合わせて上京して来ていたのだ。伊達男は喚き始めた。

「私にも、ちゃんと名前があるんだ! ランスロット・ナイトと言う――」

伊達男が更に喚こうとして身体を曲げた拍子に、その衣服の間から、バラバラと硬貨や紙幣が落ちた。

ハッとして目を剥くアンジェラ。「ゲッ」と呟いたまま固まる伊達男。ポカンとするエドワードとキアラン。

アンジェラは、即座に意味を理解した。

「誘拐犯とグルだったのね……!」
「貴様、金を受け取って邪魔を!?」

エドワードも驚いている。キアランも、『ルシールが居ない』という事態とその意味を理解し、伊達男に不穏な眼差しを向けた。 黒い不吉な眼差しに貫かれると、流石にランスロット・ナイトなる伊達男も身の危険を直感したらしく、 即座に言い逃れの言葉を喚き始めた。

「わッ、私は無実だ!」
「ルシールを誘拐した男は一体、誰よ!」
「しッ、知らないよ、覆面なんだから! その辺で意気投合しただけの関係で、最近は金欠でさ」

アンジェラの詰問に、伊達男は弁解しつつも器用に窮状を訴えた。 エドワードに胸倉をつかまれて空中に持ち上げられながらも、伊達男は、死にもの狂いで更に弁解を続けたのであった。

「彼の情熱の恋、決死の駆け落ち、協力しても罰は当たらん筈だ」
「あの誘拐が駆け落ちの筈、無いでしょ! この節穴ッ!」

アンジェラは、怒りと動転の余りピョンピョン飛び跳ねながら、ビシバシ突っ込む。

キアランは、時間を無駄に出来ない事を悟った。

「誘拐犯を追わないと――他の交差点に到達する前に、身柄確保を」
「待って! ルシールが何処へ行くか、見えるのよ!」

アンジェラが咄嗟に手を上げた。

「透視能力……!」

耳を澄まして集中している様子のアンジェラに気付き、仰天するエドワードである。 『ゴールドベリの不思議な勘』は承知はしていたが、やはり常に驚かされる物ではあったのだ。

アンジェラは即座に顔を上げ、ルシールの連れ去られた方向の更に先を指差した。

「その次の通りを大回りした裏よ……あの建物の中、突っ切れるなら、先回りできる」

見るからに役所らしき建物である。エドワードとキアランにとっては、意外にも馴染みのある施設だ。

「公文書館の、二号館か!」

驚きつつも、いったん承知した後は、エドワードとキアランの行動は早かった。 哀れな伊達男を路上に放り、キアランとエドワードとアンジェラは、目標の建物を目指して疾走し――あっと言う間に、 公文書館の中に突入した。

公文書館の警備人はキアランとエドワードを良く知っている様子で、ビックリしながらも声を上げた。

「すぐに通せ! リドゲート卿とエドワード卿だ!」

門番が次々に道を開ける。アンジェラは驚愕し、困惑するのみであった。

「忘れてたわよ、顔パスで役所を突っ切れる程の身分だったのね」
「この前の疑獄事件の時は、常連だったんだ」

エドワードは、幾分か足の悪いアンジェラを気遣い、脇に抱えて走りながらも解説を加えた。

三人が廊下の突き当たりまで来ると、ちょうどヒューゴが偶然にもそこに居て、驚きの声を上げた。

「先輩!?」
「ヒューゴは、何故か常に必要な時に居るんだな」

妙な事に感心するエドワードである。キアランは早口でヒューゴに問う。

「裏通りはどちらだ! 赤い壁飾りの集会所の前に出るヤツは――」
「向こうの扉ですよ……一体、どうしたんですか!?」

ヒューゴは早速、案内に立った。ヒューゴは、三人が血相を変えている事に既に気付いており、 目標に向かって走りながらも、首を傾げるばかりであった。

四人連れとなった一団は、裏の扉を通り抜け、あっと言う間に、狭い裏通りを挟んで向こう側にある小さな集会所に到達する。

ほとんど使われていない集会所である事は、目にも明らかだ。

元々は小さな教会だった建物だ。赤い壁飾りは、その名残である。 本来は白い壁飾りだったようなのだが、昔の赤党と白党による教会内部の党派対立をきっかけに、 赤党に属する誰かが、赤く塗りたくったらしい。

裏通りの建物に特有の、薄暗さやいかがわしさに満ちている。 向こう側の壁には、更に外の通りに面する大きな窓があった。家具は、ほとんど無い。 ある物と言えば、売れ残ったような感じの円卓と、数種のビリヤード台のみであった。 たまにカードゲームや玉突きゲームをするだけの、不真面目な空き部屋と言う風である。

そして、無人であった。

呆然とするキアランとエドワード。

「誰も居ない!?」
「先回りが速すぎただけよ!」

アンジェラは、他に出入り口は無いのかとキョロキョロし始めた。

「裏口から、誰か来た!」

ヒューゴが即座に気付いて注意を促し、四人は物陰の暗がりに素早く身を潜めた。

果たして、大窓と同じ側にあった裏口の扉が無造作に開かれ、そこから、二人の怪しげな男が入り込んで来たのである。

怪しげな二人は互いに合図し、大きな窓の前で互いに向かい合う。 一人は、小太りの身体を派手な衣服で包んでいたが、その頭に乗せた帽子は、牧師である事を示していた。

(裏街道の牧師か……、確実にモグリだな)

エドワードが不審そうに目を細めつつ、ささやいた。

もう一人の怪しげな男は背が高く、立派な体格をしている。 シルクハットの縁からは、不自然にフワリとした赤毛が流れていた。髪に隠れて見えないが、整った顔立ちと思しき、若い男だ。 何処かから無理矢理さらって来たと見える、小柄な女性を脇に抱えている。

(誰か、駆け落ちしたんですか……)

ヒューゴは戸惑って、小声で疑問を呟いていたが、 『何処かから無理矢理さらって来たと見える小柄な女性』が、ルシールである事に気付き、無言で仰天した。

小太りの牧師は、もったいぶった様子で、懐から儀式用の書物を取り出した。 人相の良くない顔をしかめ、口を歪ませる。やがて小太りのモグリの牧師は、不真面目な態度ながらも、 結婚の儀式の言葉を述べ始めたのであった。

「この秘密結婚の礼金は、タンマリ用意しておけよ。招待客は居ないが、異議あらば唱えん……」

ルシールの口は赤毛の男の手によってシッカリ塞がれており、異議どころか何も言えない状態だ。 キアランは勿論、エドワードもアンジェラも、そしてヒューゴも、余りの展開に唖然とするのみだ。

――断固、妨害する。

キアランは物陰から立ち上がると、手に持っていたステッキを構えた。

「異議あり!」
「何いッ!」

モグリ牧師と赤毛の男は、よもや他人が居るとは思っていなかったのであろう。 怪しげな二人は、キアランの異議宣告に唖然とし、反射的に無意味な大声で喚くのみであった。 刀剣のように構えられたキアランのステッキに気を呑まれたのか、二人揃って、ズザッと一歩、後ずさる。

「食らえ、ネコ爆弾!」

アンジェラが、『殺(や)る気』満々の黒ネコのクレイを、二人の曲者に差し向けた。

既に爪を立てていたクレイは、素晴らしい身のこなしで曲者に飛び掛かり、次々にその顔を引っかいて行った。 黒ネコ・クレイは、人間の幽霊に憑依されていた間に、何がしかの戦略的知恵が付いていたらしい。 交互に素早く飛び回るので、まるで分身の術を使って攻撃しているようなものだ。

キアランのステッキに注目していたがゆえに、別の方角からの全くの想定外の急襲を受ける羽目になった二人の曲者は、 黒ネコの爪を避けるのに、必死である。

ルシールが隙を突いて背の高い赤毛の男の腕を逃れ、キアランに飛びつく。キアランがその小柄な身体をシッカリ捉えた。

「あの人、銃をいっぱい持ってる!」

ルシールが警告した通り、果たして曲者は銃を取り出すと、銃口を差し向けたのであった。

「この野郎どもが!」
「神の名において殺す……! 正義の鉄槌、食らえや!」

モグリ牧師は、多くの銃口を備えた新型銃を取り出していた。叫ぶが早いか、手当たり次第に銃乱射を始めた。

弾幕を避けるため、五人になった一行は、一斉に物陰に身を潜める。

しかし――幸いな事に大量の弾丸はひとつも命中せず、後方の壁や柱にめり込むばかりであった。 大音量の銃声と共に、大量の硝煙が、もうもうと漂う。

赤毛の背の高い男の方は、手練れそのものの手つきで銃を構えていたが、 次の瞬間、明らかな驚愕の表情を湛えて、口をポカンと開けていた。 その驚愕の表情には、内心の言葉がハッキリと書いてあった――あにはからんや、 硝煙の煙幕に阻まれて、狙いを付けられないとは!

弾幕の嵐が過ぎ去った後の集会所の壁は、穴だらけになっていた。エドワードは、その的外れぶりを一通り眺め、呆れ返った。

「下らん腕前だ」
「何言ってるのよ! 銃乱射が、ご趣味の、極道牧師だなんて、存在自体が犯罪よ!」

初めて銃撃戦に遭遇したアンジェラは、すこぶる動転して喘いでいる。

ヒューゴも開いた口が塞がらぬと言った様子であったが、流石に経験者、すぐに気を取り直した。

「心配しなくても、証拠写真を撮れば逃げられません」

ヒューゴはそう宣言するが早いか、先程から手に持っていたカメラに手を掛けた。

カメラは、確かに作動した――

だが、作動し過ぎた。強烈なフラッシュと共に爆発が生じ、 その煙幕と衝撃波とが、大砲の如き威力をもって、極道牧師と背の高い男を襲ったのである。

二人の曲者は、叫び声を上げつつ吹っ飛ばされ、床の上に勢い良く叩き付けられた。 そして怪しげな煙幕の中、二人の曲者は、何やら静電気らしき青白い電光に取り巻かれ、意味不明な痙攣を始めた。

「……あれが、カメラ?」

エドワードは本気で目をパチクリさせた。恐怖と安堵の入り交ざった引きつり笑いをするアンジェラ。 ヒューゴはカメラを構えつつ、「まさか」と言ったきり、固まっていた。

二人の曲者のうち、モグリの牧師の方は完全に失神している。 もう一人の背の高い男の方は、失神した仲間を確かめ、「クソッ!」と悪態をつくと、素早く身を起こして逃げ出した――裏口の方へ。

「あッ、逃げた!」

エドワードとヒューゴ、次いでアンジェラも、曲者が走り抜けた裏口に殺到した。 裏口の扉を駆け抜け、集会所に面する、もう一つの裏通りに出る。すると、何やら馬の蹄鉄らしき大音響が、そこら中に轟いた。

目に入ったのは――物凄い勢いで、別の通りへと走り去って行く騎馬姿である。

アンジェラは口をあんぐりした。

「馬が……!」
「手回しの良い奴だ」

エドワードも呆れる。ヒューゴは辺りを確認し、裏通りを仕切る掘割と柵の向こう側を見渡した。

掘割の中には、射撃場がある。間違って弾が上の方に飛んで行った場合に備えて、障壁さながらの窓の無い建物が連なっていた。 勿論、ちゃんと角度も設計されており、集会所の側にも、間違って弾が飛んでも大丈夫なように、スペースの余裕が設けられている。

「しかも射撃場の裏……これじゃ、牧師が銃を撃っても、誰も来ませんよね」

ヒューゴの指摘に、エドワードもアンジェラも同意するばかりである。

アンジェラは、すぐに曲者の落とし物に気付いた。道路の上に残された『それ』を拾い上げる。

「髪の毛が落ちてる。あの赤毛、カツラを使った変装なんだわ」
「悪くない計画だ……奴は本気で、駆け落ち結婚する予定だったんだな」

背の高い曲者の方は、念入りに変装までして、ルシールをさらっていたのだ。 エドワードも流石に、誘拐犯の執念に不気味なものを覚え始めていた。

三人は呆然としたままで、気付いていなかった――裏通りの街路樹の中に、もう一人の人物が潜んでいた事を。 あのマダム・リリスの愛人を務めていた伊達男、ランスロット・ナイトである。

街路樹の中に身を隠していた伊達男ランスロット・ナイトは、曲者が走り去った方向を眺めつつ、 『してやったり』という笑みを浮かべていた。

――フフフ。尾行はしてみる物だ。あの怪しい赤毛の覆面男の正体は、シッカリ見たぞ! こりゃ素晴らしいゴシップの種……!

集会所の中の方では、恐怖と動転の収まらぬルシールが、まだキアランにしがみ付いていた (キアランがエドワードと共に裏口へ走り出せなかったのは、これが理由である)。

キアランがルシールを何とか落ち着かせた頃、エドワードとヒューゴとアンジェラが裏口から戻って来た。

エドワードは珍しく悔しそうな口調で、キアランに声を掛けた。

「馬で逃げられた。あの誘拐犯は変装していたし、手がかりは、このモグリ牧師だけだな」

一同は、モグリ牧師を注目した。 牧師らしからぬ派手な上着をまとった小太りの男は、大窓の傍らで、なおも無様に失神したままだ。 傍らには、多数の銃口を備えた新型銃が放り出されていたが、その弾は、既に尽きている。

やがてエドワードが、疑わしそうな目付きで、ヒューゴを振り返った。

「証拠写真とか言ってたけど……撮れたのか?」
「それが……余り確信、無くて」

ヒューゴは口を引きつらせつつ、謎の大砲に化けたカメラを、恐る恐る、ひっくり返すのみである。

エドワードは再びモグリ牧師をジロジロと観察する。普通の爆発で、此処まで真っ黒になるだろうか。

「それにしても、煤(スス)まみれだな」
「カメラと言う説明でしたがね、まるで宇宙人のSF兵器です。マティ少年の発明だけに、謎ですね」

アンジェラが何処からか、雨水の溜まったバケツを持ち込み、牧師に水を掛けた。 しかし、小太りのモグリ牧師は、なおも失神したままであった。

「バケツの水でも目を覚まさないわ……こういう類の極道牧師には、天罰テキメンってところね」

バケツの水で煤(スス)が流れ、牧師の人相があらわになる。中年を思わせる小太りの体型の割には、意外に若い男だ。 何処か、甘やかされた子供と言ったような印象はあるが、エドワードやキアランと同世代と言っても差し支えない。

「このモグリ牧師……!」

ヒューゴがハッと息を呑んだ。

「寄宿学校の先輩だ! 僕たち下級生からカツアゲしていた、 不良グループの! 確かレナードも、そのグループの一人だった……!」

エドワードも改めて牧師の人相を眺め、かつて、性質の悪い事で有名な不良学生だった同輩だと気付いた。

「驚きの再会だな。殆どの科目で――特に武術で全て落第して、確か留年していた筈だが……」
「卒業はしてます、親の七光か何かで。彼の父親が確か、銃器工場を所有する資産家で……準男爵の名誉を受けてるんで」

アンジェラはピンと来た様子だ。

「成る程……それで銃乱射の趣味って訳。学内で新型銃を見せびらかして、ボスを気取って歩くような学生だったんでしょ」
「大当たりです。学校では最大の不良グループを仕切ってました。 工場主&準男爵どころか、裏街道のモグリ牧師とは、落ちぶれたって言うか……」

ヒューゴは首を振り振り、補足情報を付け加えた。最後は呆れ果てて物も言えない、といった様子だ。

不意に、ルシールは過去の記憶に思い当たった――ベル夫人が話していた内容の、一部分だ。

「レナード様に恐喝詐欺のコツを伝授していた、寄宿学校の友人って、まさか……」
「この人脈は、納得だわ……」

アンジェラは確信を持ってうなづき、モグリ牧師に非友好的な視線を投げた。

想像に過ぎない物ではあるが、どうやら主犯の目星は付いたようだ――

エドワードは失神したままのモグリ牧師を再び眺め、口を開いた。

「レナードはルシールと結婚すれば、身分回復する可能性がある。 動機を考えるとレナードで決まりだが。こいつに白状させる事は、難しいだろうな」

キアランは不機嫌な様子で、ムッツリとうなづくのみである。

ヒューゴも同意を示してうなづき、思案顔で牧師を眺めた――小太りの不良牧師は、まだ失神したままである。

「モグリとは言え、牧師で、秘密結婚じゃ沈黙の義務がありますしね。 子孫の名誉に関わる問題じゃ無いと、情報公開は出来ないし」

アンジェラは、足に擦り寄ってきた黒ネコ・クレイを抱き上げると、自信タップリに呟いた。

「犯人を捜すのは難しくないかも。最近、ネコに顔を引っかかれた男を調べれば良いわ」

そこで、アンジェラはクルリとルシールを振り返った。 ルシールは、キアランがエドワードやヒューゴと共に牧師を検分している間、邪魔しないように後方で控えていたのである。

「そろそろ落ち着いて来たかしら、ルシール?」

ルシールはドキッとしつつも、何とか……、と言った様子でうなづいた。

――本当は、あの時、もう落ち着いていたけど。

ルシールは先程、自分を落ち着かせようとしていたキアランの言葉を――と言うよりは、その低い声を――そっと思い返したのであった。

*****

失神したままのモグリ牧師を集会所に放置し、一同は、再び公園前のメインストリートに戻って来た。

「とんだ午後の冒険だったな」

エドワードは首を振り振り、呆れたように感想を述べるのみだ。 キアランは、まだ不機嫌が直らぬ様子で、ステッキを物騒に握り締めている。

「この件を冗談で済ますつもりは無い……今日中にも中央の筋に報告する」

アンジェラとルシールは、パラソルを公園前に落としたままだった事を思い出し、パラソルを回収するべく、公園に入った。

二人の淑女がパラソルを手にしたところで、偶然にも良い構図が出来たらしい――そんなタイミングで、 カメラのシャッターが切られる音が響いた。ビックリして振り返ったルシールは、 近くの木の枝の上でカメラを構えていた少年の姿を認めたのであった。

「……まあ、マティ!」

マティは怪訝そうな様子でカメラを下ろすと、早速、ルシールに話しかけた。

「何処に行ってたんだよ? 角の喫茶店に居なかったから、どうしたかと……」

しかし、そうは言いながらも、やはり子供であり、得意そうな様子でカメラを見せびらかし始めた。

「オイラの新発明のカメラ・オブスキュラ、すっげえイイだろ?」
「あッ、マティ君。このカメラに、もしかしたら、変な爆弾とか入れてない?」

ヒューゴがはたと思い出し、場末の集会所で盛大に大爆発した『謎のカメラ』を示した。

マティは最初は不思議そうな顔をしていたが、ルシール誘拐の一件を説明されると、流石に仰天したのであった。 マティは慌てて、問題のカメラを確認した――そして果たして、目を丸くした。

「あッ、やっちゃった。フラッシュ用の燃料が多過ぎた……」

初歩的なミスではあったのだが――

「それだけで、あんな威力が出るなんて」
「また変な物を発明したな」
「軍は、えらく興味を持つぞ」

ヒューゴ、キアラン、エドワードの順で、呆れ混じりの称賛が続いたのであった。

黒ネコのクレイは、一同の足の間を気ままに巡り歩いていた。 そのうち、近くの茂みの中に、何やら気になる気配を嗅ぎ付けたようだ。毛を逆立てて茂みに近づく黒ネコ・クレイ。

早くもアンジェラがクレイの状態に気付いて、クレイの後をそっと付いて行く。 次いでルシールが、アンジェラの様子に気付き、アンジェラと同じように、足音を立てずに黒ネコの後を付いて行った。

アンジェラとルシールが移動を始めると、当然ながら残りの面々も、その奇妙な様子に気付いたのであった。 黒ネコに先導されて、一同はこんもりとした茂みに身を潜めつつ、辺りを窺う。

すると、聞き覚えのある男女の声が、前方の植え込みの間から聞こえて来た。

植え込みの間で、二つの人影が動く――金髪碧眼の美男美女、レナードとシャイナだ。

シャイナは清純な笑みを浮かべつつ、魅惑的なナイスバディの身体を、レナードの長身にすり寄せていた。 シャイナの白く麗しい手が、レナードの頬を優しげにさする。

「世間では妙な噂を聞くのよね。噂では、謀反の罪で爵位継承権を喪失と言う話だけど? ダレット家のレナード様。 そう言えば、そのお顔の傷、真新しいけど、変な事してネコにでもやられたのかしら? 不幸と失敗は、不思議な程に重なるのよね」

レナードは痛いところを突かれたのか、引きつった笑みを浮かべつつも無言である。 白百合の如き清らかな笑みを湛えたシャイナの、しかし、その悩殺的なまでのナイスバディをスリスリされて、 陶然とならない男は居ないのであった。

シャイナは、誘惑を続けるかのように、レナードの頬を撫で続けていた。

「この間の、妹アラシア様の駆け落ちと結婚も、巷のゴシップよね。宮廷の一大疑獄事件の大法廷の話もある……」

以前に、ハクルート公爵が言及した毒殺事件は、その宮廷疑獄事件の関連で発生したものだ。 そこで毒殺されかかった証人は、何故か死の寸前に正気を取り戻して、数々の犯罪を証言した (ゴールドベリの癒し手が加わった事実は機密であり、限られた人々しか知らないのだ)。

そして――証人は、ダレット一家の後ろ盾となっていた王族親戚の関わった犯罪をも、証言していたのである。 政治情勢を読むのに長けた、勘の良い一部の人々は、早くも気付いていた――時間は掛かるだろうが、 いずれ司法の手は、レディ・ゴディヴァ自身にも及ぶであろうという事を。

シャイナは、純真無垢な天使そのものの憂いのある笑みを浮かべ、しかし、シッカリと指摘した。 ダレット当主たるレオポルドの母方の王族親戚は、大法廷で弾劾を受けている真っ最中である――という事実を。

シャイナの、純真無垢そのものの、しかし思わずキスしたくなるような誘惑に満ちた薄紅色の唇が、続く言葉を紡ぎ出す。

「ローズ・パークのオーナー契約の法的解釈の歪曲、ライバルとなる直系親族を潰す陰謀の数々――ギャングと共に、 かのレディ・ゴディヴァの権勢拡張の手先となって、 ダレット一家がクロフォードを支配する計画……全て水の泡になったって事は無いかしら?」

レナードは暫し言葉に詰まった。シャイナの指摘は、ほぼ正確な内容だったのだ。しかし、レナードは、すぐに気を取り直す。

「我が尊き大伯母のレディ・ゴディヴァが、何とかしてくれる……私の父方の本家筋だ」

シャイナは、憂いを込めた美しい笑みを浮かべたまま、切り返した。

「どうかしらね? 彼女が秘密で雇っている暗殺者、『片目の巨人』は最近、使い物にならなくなったと言う話よ。 ギャング抗争に紛れてリドゲート卿を暗殺するという作戦は、レナード様が立案したそうだけど、 血の海に沈める前に、奇想天外すぎる大爆発が起きた訳よね」

レナードは息を呑み、愕然とした表情を浮かべた。

「何故……」
「……私が秘密を知っているのかって事かしら?」

シャイナは、抜け落ちた疑問を補足して来た。 そして、見惚れる程の雅やかな所作で頬に手を添え、その絶世の美貌を、意味ありげに傾けて見せた。

「先日、レディ・ゴディヴァを説得したのよね……この美貌でね。魚心あれば水心……と言うじゃ無いの」
「どうやって接近した!?」
「本当に観察力が貧困な方だわね……この美貌を見て、誰かに似ている……と思わない?」

シャイナは清らかな微笑みを浮かべているが、投げて寄越して来た視線は熱い。 言い換えれば、清楚な微笑みを浮かべながらも、誘いかけるような妖艶な視線を向けて来たと言う状態だ。 まさに全ての男が夢見る至高の女――この世の者ならぬ魅惑の聖女にして妖婦。

レナードは、崖っぷちに立ったかのような強烈なスリルと魅惑に囚われつつも、シャイナを見つめた。 自分と似ている――双子のように色合いが共通している、金髪碧眼の美女を。そして次第に、レナードは青ざめて行った。

「まさか……」

今や、シャイナは、レナードと真向かいに立って語り掛けていた。

「先日、カーティス夫妻から、ルシール嬢がレオポルドの私生児では無いか――と言う疑惑を聞いた時、驚いたわ」

そして、シャイナは、遂に爆弾宣言をしたのであった。

「そう……この私こそが、レオポルドの私生児の一人なのだから……!」

今まさに、明らかになった真相は驚くべき物であった――シャイナは、レナードの腹違いの妹なのだ!

テンプルトンで――ローズ・パーク舞踏会でも――限りなく色っぽい内容のやり取りをした覚えのあるレナードは、 驚愕の余り物も言えない状態だ。この、危険な程に美しすぎる異母妹に、人道倫理上の弱みを握られてしまったのだ!

シャイナは、ワナワナと震えているレナードに、再び下心タップリに寄り添った。 悩殺的なまでのナイスバディが、レナードの長身を、それとなくスリスリしている。 上品で楚々とした身のこなしであるのに、端々から、むせかえるような濃厚な色気が立ち上っている。

シャイナは、清純そのものの笑みを浮かべながらも、不道徳の情熱を込めた熱い眼差しで、 レナードをひたと見つめていた。美しい青い目が、妖しく潤んだ。天使の微笑に、妖魔の情熱だ。

シャイナは、まさしくファム・ファタルであった。清楚にして、妖艶。 聖性と魔性を二つながら併せ持つ、完璧なまでの、禁断の――女。

運命の女。或いは、宿命の女。男を翻弄し、そして破滅させると言う、危険な魅力に満ち溢れた女。 レナードは、本能の深い部分で、己の運命がシャイナの手に絡め取られてしまった事を直感し、我知らず震えていた。

「それに、もっと興味深い真実を教えてあげるわ、腹違いのお兄様。レディ・ゴディヴァが、教えて下さったの。 あなたの妹様……アラシア嬢は、本当はレオポルドの子供じゃ無いのよね。レディ・カミラが、ご夫君の留守の間に浮気した結果なの」

これまた、壮絶なまでの真相であり、爆弾発言である――

茂みに身を潜めて聞き耳を立てていた一同も、驚愕の余り唖然とするばかりであった。

シャイナは、自分の発言がレナードにもたらした効果をじっくりと鑑賞しつつ、更なる笑みを浮かべた。

「年が少しばかり離れていて当然ね。テンプルトン抗争で記録が混乱するのを良い事に、火遊びを楽しんでらしたし」
「し……信じられるか!」
「私は、すぐに分かったわよ。兄妹にしては、顔立ちが異なっていらっしゃるし。 色々考えると、ナイジェル氏は、実にアラシア嬢にピッタリのお相手だと感心したわ」

もはや恐怖に打ち震えているレナードの上で、更に容赦無く、シャイナの爆弾発言が炸裂した。

「――アラシア嬢の実の父親は……片目の巨人よ」

そこで、シャイナは、同族ゆえか同情ゆえか――慈悲深い、とすら言える笑みを見せた。

「若い頃は、彼も美青年だったとか――海賊のような、危険な魅力があったそうよ」

――恐ろしすぎる真実だ。

若い頃は絶世の美女だったダレット夫人。 片目の巨人も、今でこそ完全に幼児退行して、おまけにボケてしまっているが、最近までは容貌は悪くは無かったのだ。 若い頃の彼は、きっと古代の英雄戦士そのものの美しい偉丈夫だった事だろう。

浮名の絶えない夫を持つ、美しすぎる貴婦人。暗殺者として闇を生きるしか無い、暗い影を秘めた戦士。 シチュエーションからして、まさに『騎士道物語』に出て来る、禁じられた恋人たちだ。 そんな二人が、人目を忍ぶ熱烈な純愛ロマンを繰り広げ、豪華な寝室で思いを遂げている有り様は、何故かスムーズに想像できた。

まさにアラシアのような、美しい子供が出来たであろうことも――

レナードは、顔に恐怖を張り付かせたまま、遁走した。

「予想外に早く消えて頂けたわね……」

シャイナは事も無げに懐中時計を手にしながら、何やらタイミングを推し量っている……

そして果たして、シャイナの計算通り、あの大富豪ランドール氏が声を掛けながら姿を現したのであった。

「待ったかな、愛しい妻よ」

さながら秘密の恋人の逢瀬と言った風である。シャイナは絶世の美女ならではの、 目もくらむような笑みを見せ、情感タップリにランドール氏に抱きついた。

「ええ! 私にはあなただけなの、秘密の旦那様」

この奇妙な密会を更に目撃する事になった、茂みの中に潜む面々は、ひたすら驚くばかりである。

「私が居ない間は寂しかっただろう、美しいシャイナ。経営会議が一杯、押して来たんだ。大勢の貴族から投資話が来るし」
「まあ、ダレット家からも投資話があったでしょう?」
「良く分かるね」
「気になる噂を聞き込んだのよ、愛しいあなた。今宵にも、社交界で、ゴディヴァ様公認のアラシア・ゴシップが炎上する見込みなの」

――そのゴシップ炎上は、勿論、シャイナの陰謀による物なのだが――

シャイナは美しい青い目を無邪気にパチパチさせ、心配そうにランドール氏を見上げた。

「大急ぎで投資を引き上げた方がよろしくてよ」
「片目の巨人と、レディ・カミラの火遊びの件だな。これは貴重な情報だ……賢い妻のお蔭で、我が資産は年内にも倍増の見込みだよ」

ランドール氏は、如何にも秘密を心得ていると言う様子で熱っぽくささやき返した。 そして、秘密の夫婦は、改めて情感タップリに抱き合ったのであった。

(余りにも濃厚な抱き合いなので、流石にルシールも慌てて、「子供には目の毒よ」とばかりに、マティの目を塞いであげる程だった)

やがて、ランドール氏は名残惜し気に熱いラブシーンを終えて、感慨深げな様子で重要な言及をした。

「シャイナの亡き姉上殿は、レオポルドの私生児だった……一つ、無念を晴らせたね」

茂みの中で聞き耳を立てていたヒューゴは、その内容に驚き、レオポルドの不倫ハーレムの経歴を、改めて検討し直したのであった……

恐るべき事に、シャイナは、レナードの時とはまるで矛盾する内容に素早く話を合わせて行った。 実際、シャイナは、駆け引きにおいては百戦錬磨なのだ――いつだったか、 ローズ・パーク舞踏会でパートナーを務めたキアランが、直感したように。

「ええ、本当に。あ……そう言えば、レナード様は、本当は私の方が私生児なのだと誤解しているかも知れないわね」

そして、シャイナは情感タップリにランドール氏の頬に口づけをした。

「本当は、あなたの方が、レオポルドの血筋なのだけど……」

……嘘も方便と言うべきか、シャイナは、レナードに嘘をついていたらしい……

ランドール氏は如何にも、と言った様子でうなづき、シャイナの頬に熱い口づけを返す。 ランドール氏もまた、明らかに、シャイナのファム・ファタルとしての魔力に囚われている男なのだ。

「そう、この程度で驚いてはならない……レオポルドの子供は、まだまだ出て来る。 その全員が、ダレット準男爵家の嗣子の座を狙っている。マダム・リリスの愛人だった伊達男ランスロット・ナイトもレオポルドの息子、 レナードを陥れるネタを見付けたとかで、ゴシップを作ってるよ……」

実際、ランドール氏の面差しは、マダム・リリスの愛人たる伊達男ランスロット・ナイトと、不思議な程に似通っている。 お互いに父を同じくする異母兄弟なら、如何にも、成る程だ。

世間は狭いと言うべきか、次々に明らかになって行くレオポルドの不倫ハーレムの結果は、実に驚くべき内容の連続である。 茂みの中で耳を傾けている面々は、もはや恐怖に震えながら聞き入るばかりであった。

一方シャイナは、この複雑怪奇な血縁関係に、少しも動じていない。 悠然とした様子でランドール氏の言及に同意し、解説的なコメントすら口にしているのである。

「ゴディヴァ様の公認の嗣子なら、準男爵の地位は確実ですものね。血縁詐欺師の活動も、全国で始まってるわ。 ダレット家に押し掛ける自称・後継者が何人まで増えるのか、今から恐ろしい程よね」

――10人は下らないのは確実だ。場合によっては、百人以上を数える可能性すらある。 身元調査のための経費が、何処まで膨れ上がるのか、予想も出来ない――

密会の時間が残り少なくなったのか、秘密の夫婦は情感タップリに眼差しを交わし、密やかな言葉を交わし始めた。

「では、シャイナ、我が秘密の妻よ、今夜の舞踏会の逢瀬を楽しみに……」
「ええ、あなた……」

シャイナは秘密の妻らしく、貞淑かつ誠実そのものの態度で、密会の場を離れて行くランドール氏を、名残惜しそうに見送った。 やがて、ランドール氏が充分に遠くまで離れたと見るや、シャイナは再び、得体の知れぬ妖艶な笑みを浮かべたのである。

「記録の混乱に乗じて、姉上を捏造しといて良かったわ……」

恐るべき事に、シャイナは、これまた先程とは矛盾する真相を呟いたのであった!

「今夜が、アラシア・ゴシップの爆発に悩める哀れなレナードを、慰める頃合ね……マダム・リリスのヒモなる伊達男ランスロット、 きっと使えるわ……」

何やら新たな陰謀すら企てている様子だ。やがて方針が固まったのか、シャイナは固くコブシを握ると、 これまで幾度と無く呟いて来たのであろう言葉を、改めて呟いたのであった。

「安心の老後生活に、貯蓄は欠かせないわ! レナードには、 まだまだお金を吐かせられる! これがチャンスで無くて、何だと言うのかしら……!」

そしてシャイナは、絶世の美を備えた容貌を、誇り高き戦士の如く昂然と上げた。

「あの宝石の群れ……! ダレット家の全財産を分捕るのは、この私よ! 天国のお母様、 シッカリ見ていてね! オーッホホホ……!」

あでやかな高笑いを響かせながら、植え込みの前から、足早に立ち去って行くシャイナであった。

9.首都…花の影を慕いて

誰も居なくなった植え込みの背後。

ずっと茂みの中に身を潜めていた一同は、やっと緊張から解放され、息を付いたのであった。

「盗聴して正解だったな。不穏な密談を聞かされたよ……」

流石に半ば呆れた様子のエドワードである。

カーティス夫妻の自慢の姪御・シャイナの、『思いがけぬ正体』を目撃する形になったマティも、 言い知れぬ恐怖のような物を感じたのか、顔を引きつらせるばかりであった。

「シッカリし過ぎてて、こえーよ」

実際、マティは、まだ幼すぎる。ファム・ファタルの魔性――本能的な恐怖とないまぜになった、 ゾクゾクとするような、なおかつ陶然とするような、秘めやかな魅惑ならではの魔力――という物は、理解できないのだ。

ルシールは戸惑いながらも、アンジェラを振り返った。

「……そう言えば、誰だったかしら。レナード様にピッタリとか言っていた令嬢……」
「実は、シャイナ嬢だったんだけどね。根性叩き直し、再教育も上等……ランドール氏と秘密結婚してるのも驚きだけど、 物凄い才能だわね。三角関係どころか、恐怖の多角関係もさばけるなんて」

アンジェラも流石に首を振り振り、天をも仰ぐ格好だ。

ヒューゴは、茂みを出た後も、聞き知った内容をあれこれと整理していたが、やがて困惑の表情になった。

シャイナの秘密の夫・ランドール氏は、レオポルドの私生児。 マダム・リリスの愛人たる伊達男ランスロットも、レオポルドの私生児。

どうやらシャイナは、レオポルドの私生児たちを、一気に振り回す予定のようだ。 そのシャイナは、これまた、レオポルドの私生児かも知れない――シャイナには、 これまたレオポルドの私生児と思しき姉が居たらしいが、話を聞くと、それも定かでは無いのだ。

なおかつランドール氏、伊達男ランスロット、レナード、シャイナ、いずれも同じ父・レオポルドから生まれた兄弟姉妹ならば、 この関係は、間違いなく近親相姦だ。恐るべきスキャンダラスな事態だ。

――しかし、カーティス夫妻の姪御たる良家の令嬢・シャイナが、 それ程に凄まじい不道徳をやらかすという事など、有り得るのだろうか?

――それとも、レオポルドの私生児という因縁が本当にあるのか。ダレット家の後継者問題を混沌の渦に叩き落とし、 レナードをも破滅させ、全財産を分捕る事で――おそらくは愛人の立場に落とされたに違いない、 実の母親の復讐を遂げようとしているのだろうか?

シャイナは外国から来た令嬢という事もあり、カーティス夫妻との縁戚関係にしても、真剣に疑ってみると、相応に曖昧なのだ。 シャイナが言及した通り、テンプルトン抗争の影響で当時の記録は混乱しており、得られる確証にも限りがある。

謎の絶世の美女、シャイナ。まさしく、この世の者ならぬ女、ファム・ファタル――

ヒューゴは、忌まわしき可能性に打ち震えながらも、救いを求めるかのように虚しく呟いた。

「誰が真実を言ってるのか混乱して来た……二重、三重の近親相姦……じゃ無くて、彼ら全員が、血縁詐欺師って事……?」
「ヒューゴがそう言う位なんだから、ダレット家の将来の混乱が、今から明確に想像つくよ」

エドワードは苦笑しながら、そのように応じるのみだ。

黒ネコ・クレイが面白そうな笑い顔をして、タイミング良く合いの手を入れるかのように、「ニャー」と鳴いた。 やはり、この黒ネコ、人間の幽霊に憑依されたという『世にも奇妙な経緯』のせいで、何らかの知恵が付いているらしい。

シャイナの陰謀により――今夜のうちにも、ダレット家にまつわる過去の因縁の数々が、凄まじいスキャンダルとして炎上する筈だ。 都のあちこちの社交場で、どのような黒いゴシップが飛び交うのか、想像するのも恐ろしい程だ。

貴族社会においては、曖昧な血縁関係は、それだけで致命的な隙となる。

ダレット夫妻が、ダレット家の財産を自由にできる嗣子の座を狙う、 隠し子、私生児、血縁詐欺師たちに取り巻かれる事になるのは明らかだ。 その更に後ろには、追い払っていた筈の借金取りやギャングたちの大群が、しつこく控えているに違いない。

若い頃のレオポルドは、地位と権力と財産に恵まれた絶世の美青年で、浮名が絶える事は無かった。 不倫を伴うハーレムをたしなんでいたと言う華々しい過去さえある。レオポルドの私生児の数は、確実に10人以上は居るのだ。

ウカウカしていると、レナード自身の血統上の正統性にすら疑惑が生じて、 レナードは、『ダレット準男爵家の嗣子』の座から引きずり降ろされ、血縁詐欺師たちの群れに混ざる羽目になるだろう。

近い将来、アラシアが先頭となって、レナードやダレット夫妻をゴシップ攻撃するであろう事も、容易に予想できた。 アラシアは、ナイジェルと結婚した事で金欠状態になっているのだ。

アラシアにも、ダレット家の社会的地位や全財産を分捕るに相応しい、正当な権利とチャンスがあるのだ――という事を、 あの欲深な、かつ機を見るに敏なギャング=タイターが、アラシアに吹き込まない筈が無い。

キアランは、いつものようにムッツリとシルクハットを直し、コメントした。

「結局、彼らの真実は、藪の中――それもまた、結果の一つではあるだろうな」

エドワードは意外そうな表情を浮かべて、キアランを振り返った。

ダレット家を揺るがす内容なのだ。キアランもまた、ダレット家から婚約話を持ち込まれた『あの時』のように、 動揺しているのでは無いか――と、エドワードは予想していたのである。

「冷静だな、キアラン」
「私の関与する問題じゃ無い」

キアランは、実にあっさりとした様子であった。

実際、キアランは、クロフォード伯爵とルシールの父娘関係に関して、既に一生分の驚きを使ってしまったのであり、 ダレット家に今更どんなスキャンダルが積み重なろうと、さほど驚かなくなっていたのである。

黒ネコ・クレイが上機嫌で尻尾を振り回しながら、アンジェラの足元に駆け寄る。 アンジェラは、いつものように、小さな黒ネコを抱き上げた。

キアランは、ごく自然に、その方向を眺めた――その視線の先には、アンジェラと並んだルシールが居て、 ヒューゴやマティと話を交わしていた。マティが新発明のカメラの箱を開け、中の仕組みを見せながら、得意そうに説明している。

キアランは、静かな眼差しでルシールを眺めながら、感慨深げに呟いた。

「カーター氏が言っていた。昔の人は、上手い事を言ったと……」

――『真実は時の娘』――

エドワードは暫し沈黙していたが、やがて親友ならではの、理解のある真摯な表情を浮かべた。

「時の娘、花の影……か」

エドワードは、深い奥底に閃いたものを、何とか言語化しようとして――視線を虚空にさ迷わせた。

――劫初 終極 界(カイ)を湛えて立つものよ――

「《藪の中》も、《花の影》も――世界が見せる『真実』の二つの相だな。 生と死のように、二つの相は、一つの世界を構成する……」

――世界とは、《有限》の器だ。だからこそ、劫初なる物と終極なる物が――例えば、生の相と死の相が――あるのだ。 愛と憎しみ。善と悪。成功と破滅。確定性の真実と不確定性の真実――

――世界とは、まさしく、《無限》から贈与された、「二つにして一つのモノ」であるのだろう。

エドワードはキアランを振り返ると、イタズラっぽい笑みを浮かべた。

「……多分、我々は幸運だったんだ――我が友よ」

暫しの間とは言え、各々、『深淵の迷宮』――界(カイ)――に翻弄されていた者たちの間に、それ以上の言葉は要らなかった。

*****

太陽はゆっくりと移動し、昼下がりを過ぎ、やがていつものように、西の方へと傾いて行く。

一同は各々解散し、次第に夕方の色合いに染まってゆく帰路に、歩みを向けた。

キアランがおもむろにルシールに腕を差し出すと、ルシールはやはり、いつかのように物慣れぬ様子で戸惑った後、 キアランの腕を取った。

キアランはルシールをエスコートして街角を歩きつつ、ふと思い出したと言った様子で語り始めた。

「ギネス氏から、あのブローチの修理が済んだ……と連絡がありました」

ルシールは顔を上げ、興味津々と言った様子でキアランを見つめた。

「品も到着したので、タウンハウスの方に転送してあります。 別の言葉が、上書きで刻印されています……形見のブローチに相応しい言葉だと、私は思いました」
「別の言葉?」

キアランの語りに耳を傾けていたルシールは、不思議そうに聞き返したのであった。

*****

クロフォード伯爵家が所有するタウンハウスにて――

都の土地は限られているため、各所にあるマンションのような大きなタウンハウスを、幾つかの貴族たちが分割所有している形だ。 それでも流石に上流貴族の持ち物と言うべきか、地元の館に次ぐレベルの豪華さである。

喫茶室となっている小間に無事に落ち着いたルシールは、 やがて、宮廷の業務から戻って来たクロフォード伯爵のお見舞いを頂いた。

当然ながら、伯爵は、キアランの一報を通じて、ルシール誘拐未遂の件を耳に入れていたのであった。 ルシールの無事を確認しながらも、伯爵は、驚愕と安堵の入り交ざった溜息をついている。

「キアランは、事件の報告に行ってるんだ。今日は大変だったな……無事で良かった」
「お蔭様で……ご心配お掛け致しました……」

昼の一件はルシールの責任では無いのだが、それでもやはり、ルシールは恐縮するしか無かった。

伯爵の耳に既に入っていると言う事は、噂好きかつゴシップ好きの、カーティス夫人の耳にも入っている筈だ。 そしてカーティス夫人の桁外れの宣伝力からして、間違い無く、ダレット家を揺るがす様々なゴシップと共に、 今宵の社交界を賑わせるニュースになると思われるのであった。

椅子に落ち着いた伯爵は、ルシールが持っている小包を不思議そうに眺めた。

こうして、クロフォード伯爵は、ギネスから送られて来た、 修理済みのアメジスト細工のバラのブローチを手に取り、少し変化した部分を目にする事になったのであった。

キアランが言及した通り、バラの形をしたブローチの金属部分には、新しい言葉が刻印されていた。

「……『花の影を慕いて』……か」

クロフォード伯爵は意味ありげに呟き、ルシールに微笑んで見せた。

「ギネス氏も、粋な事をやるな」

夕陽は更に傾き、数奇な運命に翻弄された親子に、柔らかな光を投げ続けていた。

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