深森の帝國§総目次 §物語ノ傍流 〉花の影を慕いて.第六章(小説版)

花の影を慕いて/第六章.追憶ラビリンス

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  1. クロフォード伯爵邸…未必の故意〔一〕
  2. クロフォード伯爵邸…未必の故意〔二〕
  3. クロフォード伯爵邸…訳ありの来客
  4. クロフォード伯爵邸…追憶ラビリンス〔一〕
  5. クロフォード伯爵邸…追憶ラビリンス〔二〕
  6. クロフォード伯爵邸…追憶ラビリンス〔三〕
  7. クロフォード伯爵邸…華麗なる狂奔
  8. テンプルトン町…歳月と行跡と

1.クロフォード伯爵邸…未必の故意〔一〕

朝まだき、薄明のもやの中をマティ少年は駆け抜ける。子犬のパピィを、いつもの犬小屋に戻すのである。

いつものコース。車庫と厩舎の間の細道の途中に、スタッフが詰めている棟がある。いつものように馬丁の熟睡ぶりを確認し、 いよいよ、犬小屋代わりにしている、アントン氏の倉庫に続く隠れ小道に入る――

――目の先の、もやに霞む木立の間で、人影のような物が動いた。

マティはハッと息を呑み、傍の茂みの中にサッと隠れる。

「しーッ、パピィ」

腕の中にいるパピィに、静かにするように言い付ける。賢いパピィはすぐに静かになり、ヌイグルミのように動かなくなった。 マティはパピィを地面に降ろすと、慎重に匍匐前進した。人影の正体を見極めようと、茂みの中から目を凝らす。

アントン氏の倉庫の前をウロウロしている……長い金髪の女。

マティは、此処に居る筈の無い人物だと言う事に気付き、驚きと怪訝さの余り、目を見張った。

「アラシアじゃねえか……夜更かしが朝っぱらから一体、何を……」

流石アラシアと言うべきか、こんな野外活動にさえ、ヒラヒラ&フリフリ&ハデハデのドレスをまとって出て来ている。 アラシアにとっては、これが『最も活動的なドレス』なのかも知れないが。

そして一足ごとに、雨上がりの柔らかい泥に何かを突っ込んでいるような、異様な足音がする。 その異様な足音は――高いハイヒールを履いているからだ。

見ているとアラシアは、アントン氏の倉庫の中から何かを持ち出したようだ。

「アントンの倉庫から何か持ち出したな。ルシールが中の道具を、できるだけ整理してたってのに……」

アラシアは、身体の重心が定まらないフラフラした歩き方をしている。 男性によるエスコートが無いため余裕も無いのであろう、優雅さも何もあったものでは無い。 物陰を徘徊するゴブリンか何かのように背中を丸め、一歩ごとに地面を突き刺しているような異様な足音を立てている。

アラシアは、少し先にある一区画の仕切りとなっている、瀟洒なアーチをくぐって行った。

マティは、警戒心タップリに目を細めた。

「……向こうはバラ園だけど、本格的な花は無い筈だぞ」

バラの季節には、まだ早過ぎるのだ。早咲きのバラは幾つかはあったが、 成長不良の小ぶりな代物に留まり、身分の高い人々の鑑賞に堪え得るとは思えない。

アラシアは暫くの間、緑の葉群の中に沈んでいたが、再び身を現した。早くも、目的の物を手に入れた様子だ。 アラシアは、 またしても危なっかしいまでのフラフラとした足取りで――重心を低くして姿勢を安定させようとしているのであろう、 背中を不格好に丸めつつ――バラ園の出入口となっているアーチを潜っている。

「戻って来る!」

マティは再び、茂みの奥深く身を隠した。マティが潜んだ茂みの前を、アラシアは足を踏み鳴らしながら横切って行った。 柔らかい地面を突き刺しているがゆえの異様な足音が、一歩ごとに遠ざかって行く。

――アラシアは一体、何をしているのか。何が目的なのか。

好奇心押さえがたく、マティは、こっそりとアラシアの後を尾行して行くのであった。 何故かパピィも、マティの仲間と言った顔つきをして、賢くも忍者のように物音を立てず、こっそりと付いて行く。

アラシアは角を曲がり、屋根のある一角に入り込む。マティは勿論、そこに何があるのか、承知していた。

「……厩舎……?」

マティはアラシアの死角を窺いながらも、茂みと茂みの間の空白を素早く移動した。 パピィも、ピッタリくっついて来る。身を隠すのに手頃な、大人の腰の高さまである大きな植え込みが、すぐ先にあった。 マティとパピィは、その植込みの中に改めて身を潜めると、その隙間から恐る恐る、アラシアの様子を窺うのであった。

――厩舎が真ん前だ。良く見える。

マティは早速、アラシアの手に何があるのか、素早く見て取った。

たった今、切り取ってきたばかりという風の――棘だらけの、バラの小枝。

――バラの枝と馬。余りにも、有り得ない取り合わせ。いよいよアヤシイ。

アラシアはテキパキと事を進めて行く。普段のものぐさなアラシアからは、余り想像できない姿だ。 アラシアは、バラの枝を、馬車用の馬の装備の裏側に突っ込み始めた。

意味不明な行動だ。流石に馬も怪訝そうな様子で、何度もアラシアの方に首を向けている。

「あれじゃ、馬車を引き始めたら馬が痛がるって……バカじゃんか」

マティはパピィにささやいた。パピィは賢い聞き役になっていた。

「馬が暴走しても――暴走――させる……!?」

マティは、いきなり気付くところがあり、ハッと息を呑んだ。

そうしている間にも、アラシアは一仕事を終えた様子である。

「……これで良いって、レナード兄様が言ってたわ……」

そしてアラシアは、輝くような金髪に縁取られた、その類まれな貴族的な美貌に、 『邪神の聖女』もかくやと思えるほどの、恐ろしい笑みを浮かべた。 鮮やかに美しい青い目が、攻撃的な光を帯びてギラギラと光る。

「……馬車から放り出されて! 首の骨を折って死ぬが良いわ! あの茶ネズミの、 オールド・ミスの乞食女なんか……!」

アラシアは高ぶる感情のままに、鈴を転がすような美しい声で高笑いを始めた。東雲の空の下、 雨上がりの輝きを帯びて明るくなりつつある早朝の厩舎の一角に、美しすぎる高笑いが響き渡った。

植込みの中に身を引っ込めてシッカリと聞き耳を立てていたマティは、しかし、 人食らいの鬼婆さながらのドス黒い悪意を察知して、硬直して青ざめるばかりだ。 パピィも、野生の本能で何らかの危険を感じているのか、歯を剥き、胴震いし、毛を逆立てている。

ひとしきり高笑いをした後、アラシアは身を返す。 『もう用済み』とばかりに、小型ハサミをその辺に放り捨てて、サッサと館の中に戻って行った。

マティはまだ固まっていたが、やがて――やっとショックが過ぎて、頭脳が働き出した。

「パピィ……オイラ、大変だ!」

マティはパピィを物陰の中に隠すと、大慌てながらも、アラシアとは別のコースで館へと走り去って行った。

「パピィ、イイ子にしてろよ! 非常事態なんだ!」
「ワンッ☆」

パピィは賢くもその指示を了解した様子で、一声鳴いたのであった。

*****

マティは、館の厨房の方に開いている出入り口を通って、館内に入り込んだ。 既に野菜くずやその他の雑多なゴミが、出入り口の脇に小さな山を作っている。 アラシアと絶対に行き逢わないというコースは、此処だけだ。急がば回れだ。

厨房で朝食の準備作業をしていたコックやメイドが、明るい栗色の髪をした少年の不意打ちの登場に、驚き慌てる。 マティの爆走コースに沿って、トレイの上に乗っていたナプキン類が、危なっかしく空を舞った。特急馬車なみの高速通過だ。

「マティ様……!?」

コックやメイドと一緒に居た執事が驚きながらも声を掛けたが、 マティはあっと言う間に、別の廊下へと消えて行ってしまったのであった。

マティは早くも目的の部屋の前まで到達し、勢い良く扉を開いた。

「判事! プライス判事ッ! 大変なんだ、起きてよ!」

プライス判事の部屋の扉は、緊急事態に対応するため、夜間も開錠状態である。 しかし、時間が時間という事もあって、その時、判事はグッスリと寝入っていたのであった。

マティは部屋の中に侵入すると、いつの間にか泥だらけの靴を脱いで放り出し(此処は、マティの配慮である)、 大声を上げながらプライス判事の布団の上で飛び跳ねた。

「事件だ! 起きろ!」

いきなりお腹の上に乗られたプライス判事は、流石に一気に目が覚めたのであった。

「な……何だ……何なんだ!?」

プライス判事は、寝ぼけ眼でベッドの上に起き上がった。癖の強い赤っぽい髪には、盛大な寝癖がついている。 もし髪の毛が短く刈り込まれていなかったら、悲惨な事になっていただろう。 プライス判事は窓から見える空を確認するなり、驚きの声を上げた。

「冗談だろ、まだ夜明け前だぞ!」

しかし、マティの様子に思うところがあったプライス判事は、取り急ぎ、外出のための最小限の身だしなみを整えたのであった。 マティは、滅多な事では大騒ぎしないという事を、プライス判事は良く心得ていた。

プライス判事と一緒に来ていた若い部下は、館の別室に泊まっていた。 上司たる判事の急な指示に驚きながらも飛び出し、スタッフ棟で熟睡していた馬丁の一人を起こし、 正面玄関の脇まで連れて来る。

此処だけの話ではあるが、複数人の馬丁たちの中で最初に叩き起こされた馬丁にとっては、 館の最寄りの端の部屋で寝ていたのが、運の尽きだったとも言えよう。

「ただ今、馬丁を此処に起こして参りました!」
「馬車用の馬の装備をチェック!」

馬丁は寝ぼけ眼で呆然としているばかりであったが、判事にキビキビと注文された事で、ようやく頭が回り始めたらしい。 帽子をシッカリ被りなおすと、首を振り振り、厩舎に続く小道に出て行った。

馬丁の後を付いて行ったプライス判事とその部下は、早速、馬丁と共に、 泥の上に残された見慣れぬ足跡に仰天する事となったのである。

「何だ、この足跡は!?」

一部は芝生を横切ったりしているため途切れているが、昨夜の雷雨で泥だらけになった地面の上には、 その奇怪な行動の痕跡がクッキリと残されていた。厩舎の前で目的の馬を探してウロウロした足跡、 庭園の一区画へ行って帰って来た足跡、回れ右して館の方向を目指している足跡。

そして見慣れぬ足跡は、いずれも同一人物によるものだ。 男物の革靴やブーツでは有り得ない形である。プライス判事は怪しい足跡を注意深く睨み付け、当たりを付けた。

「女の靴だな。えらく高いヒールの……」
「――アラシアのハイヒール! 取って来る!」

マティは即座にピコーンと来たようだ。マティは再び館内に駆け込んで行った。

プライス判事と部下は、マティの様子に一時はビックリしたが、すぐに馬丁を伴って厩舎の周りを調べ始めた。 怪しい足跡は、馬車用の馬が入れられている一つの仕切りの前で、何らかの作業をしていたらしいと言う事を暗示していたのだ。

馬丁は不審そうに首を振り振り、早速、その仕切りに入っている馬を調べ始める。 馬は違和感を訴えているような素振りだ。馬丁は馬の装備を降ろすと、裏側を慎重に探った。

すると、果たして、馬車の荷重が掛かる部分に、バラの枝が差し込まれていたのであった!

「は……判事さま、そんな馬鹿な……バラの枝が……!」
「――リチャード殿の事故の時と同じだ!」

まさしく、そのバラの小枝は、伯爵の馬車事故の時と同じ場所から出て来たのである。

ショックの余り、馬丁は青ざめた。プライス判事は早速、部下と馬丁に指示を飛ばした。

「現場保存! 役所に飛んで応援を呼べ、捜査が済むまでは誰も近づけるな!」

*****

一刻の後、役所から十数人ばかり、緊急の応援の先発隊がやって来た。 実際、早馬で行き来すれば、クロフォード伯爵邸と最寄の役所のある地元の町とは、往復に30分と掛からない距離なのだ。

同じ頃、アラシアのハイヒールを持ち出して来たマティも、現場に到着した。

マティは息を切らしながらも、早速、泥だらけになったハイヒールを判事に見せた。 泥だらけにはなっていたが、スパンコールや刺繍がたっぷりと施されている事が見て取れる贅沢な品である。

「泥だらけで放り出してた……この靴を履いて歩いてたんだぞ、この泥の中を!」
「凄い才能だな」

感心する判事ではあったが、その感心は、どちらの才能に対してなのかは曖昧だった。

これ程に高いヒールで泥道を歩けると言うアラシアの才能もさる事ながら、 アラシアが放り捨てた物を見つけ、拾って来ると言うマティの才能も、大した物なのである。

早速、部下たちが、現場の足跡の形とハイヒールの形とを比較する。 部下たちはハイヒールを持って各所を走り回った。そして、早くも各所の現場から、報告が上がって来た。

「現場の足跡と完全一致!」

プライス判事はうなづき、近辺の手の空いている部下たちに手早く指令を下した。

「キアラン君を呼び出してくれ、非常事態だ!」

部下の一人が、館の方へ走って行った。

次に判事は、マティを一睨みする。マティは察するものがあり、一歩後ずさったが、 流石に判事は、『重要参考人』たるマティを逃すようなヘマはしなかったのであった。

「……マティ君、そろそろ白状してみないか?」
「何で、オイラが!?」
「とぼけんな!」

プライス判事は、あからさまにソワソワし始めたマティをガッチリと捕まえ、その小さな額に人差し指をグリグリした。 マティは変な声を上げて身をよじっている。

「坊主がライト嬢を巻き込んで何かを隠してる事は、こちとら既に、 昨日からお見通しだ! アラシアの行動は、いずれ解明してやるがな、坊主は何故に、朝っぱらから此処に居た!?」

マティは図星を突かれ、更に言い訳のできない状況を理解し、真っ赤になって口をパクパクさせるばかりであった。 頭が回るとは言え、流石にまだまだ素直な子供なのである。

判事がイタズラ小僧をつつき回しているところへ、部下に呼ばれたキアランがやって来て、不思議そうな顔をした。

キアランも流石に、寝入っているところを急に起こされたと言う状況なのだ。 身だしなみは整えてはいたものの、シャツ&ベストという簡素な姿である。

マティは、モジモジと小さくなりつつも、横目で大人たちを見やった。

「怒んないって約束してくれるかな」
「この期に及んで、なお司法取引とは……全く大した坊主だな!」
「……(無言)」

プライス判事もキアランも、揃って呆れるのみだ。

とにもかくにも、怒られないと言う約束を取り付けたマティは、早速、物陰からパピィを出して見せたのであった。 パピィは、お目立ちしても良いタイミングだと言う事をちゃっかり理解しているらしく、 楽しそうな顔つきで、可愛らしい尻尾をモフモフと振っている。

――館の敷地に迷い込んで来た亜麻色の子犬パピィを、こっそりと飼っていた――

館のルール破りの問題で叱るべきところではあるが、実際のところは、プライス判事もキアランも、 驚きの余り呆然としているばかりなのであった。

周囲では、部下たちが吹き出し笑いをこらえ、身をプルプルと震わせていた。

2.クロフォード伯爵邸…未必の故意〔二〕

マティと大人たち一同は、アントン氏の倉庫の前に集まった。

「アントン氏の倉庫を、犬小屋に拝借しただと……アントン氏が生きていたら、怒髪天だったに違いないな」

プライス判事は、驚きが止まらないと言った様子で首を振り振り、ボヤいた。

庭師アントン氏の倉庫は無残な状態で、見る影も無い廃屋と言った様相を呈していた。 昨夜の雷雨でズブ濡れになり、更に荒廃の度を増している。さながら『ゾンビ小屋』だ。 常緑樹の高い生け垣が目隠しになったため、この有り様に、誰も気付く事が出来なかったのだ。

マティは、『復活祭』に伴う地元社交、及び、その直後からの両親の海外出張をきっかけとして、 祖父クレイグ氏と共にクロフォード伯爵邸への滞在を始めていたのだが、その頃には既に、こうなっていたのだ。 しかも、パピィが周辺をうろついており、倉庫の傍に良く出没していたのだった。

プライス判事も、その部下たちも、そしてキアランも、開いた口が塞がらないと言った様子で、 かつて庭園道具用の倉庫だった物の残骸を、まじまじと眺めるのみである。

プライス判事は倉庫を一通り観察すると、改めて首を傾げた。

「屋根の半分が破壊されてるな。何で、チビの毛玉は全然濡れてなくて、元気なんだ……?」

パピィは、プライス判事の大きな腕の中に気持ち良く収まり、上機嫌でモフモフ&ワフワフしている。

マティはコミカルに腕を広げて見せた。

「ルシールの部屋のバルコニーに避難させていたからさ。 車庫の上から、丁度良い具合にバルコニーまで大枝が張ってて……」

マティを除く大人たち一同は全員、驚愕の面持ちで、館の東側の棟を見上げた。

車庫の屋根が並び、その間から大きな木が立ち上がり、その偉大な幹から延びている大枝が、 『丁度良い具合に』館の二階のバルコニーに隣接している様を。

今まさに、太陽が空高く上昇し始めたところであった。 朝焼けの色に染まった雲間から洩れ、庭園の樹木の間を通って来た浅い角度の陽射しが、 館の東側の棟全体を照らし――東端に位置するルシールの部屋のバルコニーをも、淡い金色で照らし出している。

成る程、朝の光の中で良く見れば、蔦かずらのような物に偽装したらしきロープが、 ルシールの部屋のバルコニーに結わえられているのが見えるのであった。 指摘されて見なければ、とてもそれとは分からない。

キアランは驚きの余り、我知らず呆然と呟いていた。

「バルコニーに登ったのか……」
「坊主は、レディの部屋に、夜な夜な侵入したのか!?」

プライス判事も、慌てたようにマティを振り返る。

マティは顔をしかめた。『人聞きの悪い事を言わないでくれ』と言う風に。

「ルシールも知ってるんだ……昨夜は、パピィを部屋の中に入れて暖めてくれたし」
「全く、何たる事だ! 全く」

プライス判事は、完璧なる想定外の状況に困惑する余り、喚きながら頭の毛をかきむしるのみだ。 その後ろに控えていた判事の部下たちも、開いた口が塞がらぬと言った様子で立ち尽くすのみである。 部下の誰かが――それも、複数人が――ブツブツと不満を呟いていた。

「ガキの特権か……」
「うらやま……、けしからんガキだな!」

プライス判事は、不意にハッとして、アントン氏の倉庫をサッと振り返った。

「ちょっと待てよ……もしかして、坊主がレナードのカフスを見つけた場所――この、 無残な倉庫の中か!」

マティは、実にアッサリとうなづいた。

「その奥の方に、大型ハサミが転がってる……裏側の柵をメッチャ破壊できるような、バカでかい代物が」
「大型ハサミ……」

プライス判事はオウム返しに呟きながらも、昨日マティが大広間で披露した推理の内容に、深く合点していた。

数日前、レナードが館の裏の柵から侵入し、馬を暴走させてルシールを襲った事は承知だ。 その柵は、実に都合よく、馬でも通過できる程の幅に渡って、大きく破られていた。

レナードが何故、裏の柵が破れている事を知っていたのか……それは、マティの推理通り、レナード本人が、 本当に柵を破壊していた犯人だったからと言う事になる!

アントン氏の倉庫を調べ始めた部下たちは、程無くして大型ハサミを発見した。

「ありました、判事どの! 太い枝を剪定するヤツで!」

マティの背丈程もありそうな大型ハサミである。 大人の男で無ければ、到底、軽々と扱えないであろうと言う大きさ、重さであった。 流石にルシールも、これ程の大型道具は、すぐには元の場所に戻すことが出来なかったのだ。

マティは、大型ハサミの中央部分のネジを指差した。

「レナードのカフスは、そこのネジにハマってた……思いっきり倉庫の奥に放り捨てた時、 カフスが挟まって行ったんだろうね」

確かに大型ハサミに相応しく、ネジも大型の物が使われている。そのネジが締まってできた窪みは、 成る程、あの贅沢なカフスが、ピッタリと入り込むであろうと言うサイズなのであった。

「今、考えてみりゃ、レナードがこの間、 侵入して来たのは……カフスを何処で落としたのかを思い出したからかも知れないな。 都の社交シーズンも近いし……見栄えの良いカフスが必要になったんだろ」

マティは明るい茶色の目をきらめかせ、考え付くままに喋り続けた。

パピィの方は、大型ハサミに執着している様子だ。 尻尾をモフモフ振りながら、判事の部下たちが証拠品押収のために固定している大型ハサミを、 フンフンと嗅ぎ回っている。

流石に押収作業の邪魔になるため、部下の一人がパピィをガッチリとホールドした。 パピィはすこぶる不満そうな顔になり、クンクン鳴き始めた (この子犬、表情がやたらと豊かで反応が分かりやすいのである)。

「このチビの毛玉、何でまた、こうも大型ハサミがお気に入りなんですかね?」
「まだ素敵な光り物がハマっているとでも思ってるんじゃ無いか?」

その部下たちのボヤきは、実は、正鵠を射たものだったのである。

やがて、マティの脳裏で、不意にピコーンと来るものがあった。

「ねえ、キアラン……リチャード伯父さんが乗ってて暴走した馬車は、キアランが普段使ってた方だろ」

その確認に、無言でうなづくキアランである。マティは、『やはり』と言った様子で続けた。

「あの日は偶然、上天気で急に気が変わったでしょ? ……町のトランプ屋に、馬車で行ってたら?」

――あの日は、偶然にも、キアランの親友のエドワードが滞在していたのだ。 体力のある若者同士の気楽さ、誘うような上天気という事があって、急に乗馬による外出に切り替えていた――

マティは改めて、意味深な顔つきでキアランを振り返った。

「仕込んだのは勿論、レナードで決まりだ……本当のターゲットは、キアランだったのさ」

キアランは、鋭く息を呑む。

レナードが裏側の柵から侵入して来た事実、そして大型ハサミにレナードのカフスが挟まっていた事実は動かしようが無く、 状況証拠は揃いも揃って、レナードの仕業を暗示していた。

「キアランが死ねば、レナードが自動的にリドゲート卿だろ? それにプラスで、 出入り禁止通達の逆恨みって言うか、カッとして……てか、復讐じゃんか」
「それはそうだな」

マティの指摘は、いちいち、もっともな内容である。キアランは顔を引き締めた。

――レナードは、そのような行動に出ても不自然では無い程の、激しい気性の持ち主だ。 アラシアの激しい性格の出方とは、かなり異なるものではあるが。

「恐ろしい頭脳だな、マティよ」

プライス判事も、感心しきりである。

いつしか彼らの背後では、ベル夫人が派遣した若いメイドたちによって、プライス判事たちへの朝食が配達されていた。

しかし、マティは脇目も振らず、推理に集中していた。マティの頭脳は高速回転しているのだ。 マティの集中力を承知していたキアランとプライス判事は、驚きつつも口を出さずに、見守るばかりである。

「アラシアは、『これで良いって、レナード兄様が言ってたわ』とか言ってたな。アラシアのターゲットになったのは……」

*****

――その頃、館の大広間には、呆然とした様子のルシールが居た。

「……タイター氏との直談判……」

ルシールとカーター氏は、朝食を済ませた後、大広間の円卓の一つを囲んでいた。 そこで、ルシールは、カーター氏から、タイター氏との第二回目の直談判について説明を受けていたのだ。

ルシールは戸惑いながらも、着ている物をチラと見下ろし、確かめた。 黒い簡素なドレスは、昨夜のうちに洗濯と縫い直しが終わっており、 ルシールは早速それを身に付けていたから、すぐにも対応できる状態ではある。

「流石に今度は、場末とは言え、屋根付きで……。今日のご予定は、大丈夫ですね?」

カーター氏のその確認に、ルシールは戸惑ったまま、うなづいた。カーター氏はカバンを用意しながら続けた。

「他にも重大なお話がございまして……これは道々、説明いたしましょう」
「とりあえず、急いで用意を致しますので」

ルシールが大広間を退出して行く――その様子を窺いながら、アラシアはコッソリと忍び笑いをしていた。

同じ大広間の中、カーター氏とルシールから少し離れた上座の方では、 レオポルドとアラシアとライナスが、特に上等なソファに腰を下ろして世間話をしていたのである。

そしてアラシアは、真面目に世間話に興じていなかった。 アラシアは高価なマニキュアをした爪をいじりながらも、ずっとカーター氏とルシールの会話を窺っていたのであった。

アラシアは頃合を見て、急に立ち上がった。

「お父様! テンプルトンに行って来るわ!」

いきなりの宣言に、レオポルドも流石に一瞬、ポカンとした顔になった。 こういう時、レオポルドは、いつも思うのであった――『女と言うのは分からん』と。

アラシアは、怪訝そうにしている父親レオポルドやライナスの様子に目ざとく気付き、 いっそう殊勝な態度で説明を付け加えた。

「お母様を迎えに行くの、当然でしょ!」

レオポルドの妻にしてアラシアの母親ダレット夫人は、昨日からずっと『テンプルトンの集会』なるところを訪問したままである。 マティに言わせれば、それは賭博なのであるが。

ライナスは早速、詩的な言葉を最大限に活用し、アラシアの称賛を始めた。

「おお、レディ・アラシア……美しいのはお姿だけどころか、 心の中まで実に類無き優しさに満ち溢れていますな! どうか、私めにエスコートの栄誉をお与え下さいますか」
「小間使いと行くのよ! 宝飾店でカフスのイヤリング加工も注文する予定だし、 買い物もあるし……座席は広い方が良いんだから!」

アラシアはライナスをすっかり無視しており、珍しくも素晴らしいスピードで、外出の身だしなみを整えたのであった。

ライナスは立ち上がって戸惑うばかりだ。レオポルドの方はソファの中でふんぞり返ったまま、 スタッフたちの召集を掛けていた。

「えっへん、おっほん……執事! 急いで馬車を回せ!」

執事は長年のベテランらしく、その気まぐれな指示に素早く応じている。

カーター氏は、急に騒ぎ始めたレオポルドやアラシアを、不思議そうに眺めた。 だが、ダレット一家の気まぐれは、いつもの事だ。 急いで用意を整えて戻って来たルシールに、カーター氏は、済まなさそうに声を掛けた。

「ダレット嬢のお見送りを、先に済ませましょう」

玄関広間では、レオポルドの命令でスタッフたちが集められており、アラシアのお見送りに取り掛かっていた。

アラシアは、館のスタッフたちに混ざって後ろに並んでいるカーター氏やルシールの姿を、こっそりと窺った。 ルシールの身に起きるであろう流血の出来事を予想し、上機嫌でほくそ笑むアラシアである。

*****

レオポルドやアラシアが騒ぎ始めたタイミングと前後して、馬丁の一人が厩舎に駆け込んで来た。

「ダレット嬢からの馬車の注文ですよ! 至急、テンプルトンにお出掛けでして……」

部下と共に遅い朝食を取りながら、調書作成と確認に取り掛かっていたプライス判事は、 いきなりの出来事に戸惑うのみだ。キアランとマティも、流石にポカンとしている。

馬丁や従者たちが、厩舎と車庫の間をせわしく走り回った。

「特に金の縁が付いた馬車を、との事でして……四頭立てだから、この馬と、この馬を足して……」
「ほらほら、急いで! ご機嫌を損ねると大変だ」

立派な大きな馬車でテンプルトンへ赴くともなると、それなりの健脚の馬が必要なのである。 しかも、ダレット一家の好みに合うように、姿もサイズも美しく揃っている必要があるのだ。

マティは、馬の出入りで慌しくなった厩舎を注目し始めた。その目が、だんだん据わって来る。

「……バラの枝を仕込まれた馬が、残されたね……」
「まさか……」

マティの呟きを聞きつけたプライス判事が、息を呑んだ。

金縁の大型馬車が、いつものように正面玄関の扉の前に速やかに横付けされた。 準備に一区切り付いたところで、残りの従者や馬丁たちが、ふと気付いたと言った様子で、 プライス判事を振り返る。

「あッ、今日は、ライト嬢も馬車ですね? カーター様と一緒に外出で、タイター氏と直談判とか」
「二頭立ての馬車……」

不意に、一同は、恐るべき事に気付いたのであった。

――暴走させるべく、バラ枝を仕込まれた馬。ルシールが乗る予定の馬車。 ルシールは、暴走馬車に乗せられ、事故に遭う予定だったのである!

「条件工作は仕上がったと言う訳だね……ひっでー、鬼畜!」
「何たる事だ!」

全てを理解したマティは、ショックの余り、ぱくついていた朝食のパンを握り潰した。プライス判事も絶句だ。

――ほぼルシールが標的で間違いないだろうが、カーター氏も御者も、巻き添えで死ぬところだった!

その悪質なまでの『未必の故意』に気付いたキアランは、すっかり顔色が変わっていた。

「プライス殿、後を頼みます……毛玉の方もよろしく」

何かを続けて言おうとしたプライス判事に、キアランはパピィを預けた。

「今日の外出は中止させる……行くぞ、マティ!」

キアランは、マティを伴って館へと駆け出した。

*****

マティは、あっと言う間に玄関広間に到達した。毎度ながら素晴らしいまでの俊足だ。

アラシアのお見送りが終わり、今まさに出掛けようとしていたカーター氏とルシールは、 目の前にいきなり飛び出したマティに、仰天するのみだった。 流石にマティは、すぐには立ち止まれず、カーター氏とルシールの周りをクルクル回っている。

「ルシール!」
「……あら、マティ! 今まで何処に? クレイグ様が探してたわ!」

当然ながらマティは朝食の席に居らず、祖父のクレイグ氏を心配させていたのだ。

カーター氏とルシールの後ろに控えていた執事とベル夫人は、いつもの落ち着いた顔に戸惑いを浮かべていた。 マティがこれ程に慌てているのは、山が空を飛ぶのと同じくらい、珍しい事なのである。

「今日の外出は中止だって!」

マティは息を切らしながらも急停止に成功し、キアランの介入による急な予定変更を、ルシールに告げた。 何があったか全く知らないルシールは、頭の上に疑問符を浮かべて、マティを見つめるばかりであった。

同時にキアランが玄関広間に到着した。そして、早速カーター氏に、深刻そうな面持ちで何やら耳打ちをした。

カーター氏は穏やかなポーカーフェイスのままであったが、微かに青ざめた様子である。 カーター氏は、いきなり身を返すと、キアランの誘導に従って、キアランと共に玄関広間から出て行ってしまった。

後に残された面々は唖然とするばかりであった。 この時間に、キアランがシャツ&ベスト姿で外から現れたのも驚きだし、 カーター氏がルシールを放置して、いきなり走り去ってしまった事も驚きである。

「ねッ! オイラの言った通りだろ」
「何だか良く分からないけど、本当に中止ね」

マティの指摘に、ルシールは呆気に取られたまま、うなづくばかりだった。

その後ろでは、ベル夫人と執事が、やはり同じように困惑の表情を浮かべていた。

「あのカーター様が、予定変更を告げずに……余程、動揺する事があったんでしょうか」
「常にポーカーフェイスなお方だけに、謎です」

ルシールは目を伏せて、暫し沈黙した。

――リドゲート卿が急に現れたから、ドキッとしたわ。

昨夜、様々な事情をベル夫人から聞き知っただけに、 ――そして、中庭のあずまやでの『求婚としか解釈できない言葉と態度と行為』もあっただけに――、 どんな顔をしたら良いか、まだ分からない状態なのだ。 何があったのかは知らないが、突然の珍事で余裕ができた事に、ルシールは正直、ホッとする思いだった。

手に持った帽子で覆ったルシールの顔は、暫くの間、赤く染まっていた。

*****

表面上は、いつものように穏やかな時間が過ぎた。午前の半ばに近い頃合である。

クレイグ氏は、孫マティの安全を確認した後、身辺警備担当として用意された従者と共に快速馬車に乗り込んで、館を出発していた。 かつて牧師として勤めていた懐かしい地所の教会を訪ねるためだ――今は、クレイグ氏の息子が牧師となり、後を引き継いでいる所だ。 『書類その他を取り寄せるため』とは言ってはいたものの、一見して、好天の下の日帰りドライブと言った風である。

レオポルドは、大広間で新聞を――主にゴシップ面を――読んでいたが、早くも退屈し始めていた。 ちょうど執事が茶器セットを運んで来たところを、相変わらずの乱暴な口調で呼び止める。

「執事! あの娘は、ずっと隣の書斎の方に閉じこもっているが……」
「えらく長大なお手紙を書いておいででした」
「手紙?」

有能極まりない執事は慇懃に説明し、レオポルドは不審そうな顔をした。

タイミング良く小用に立つ振りをして席を外したライナスは、こっそりと書斎に続く扉に忍び寄る。

――あのダレット夫人もダレット嬢も不在の今、滅多に無いチャンスだ――

ライナスは下心タップリだった。 赤毛を綺麗に整え、クラヴァットを気取って締め直すと、そっと音を立てずに書斎の扉を押し開ける。

次の瞬間。ライナスの目は、大きく見開かれた。

扉を開けて、ライナスの目に飛び込んで来たのは――

――巨大なとぐろを巻き、人の背丈ほどの高さに鎌首をもたげ、クネクネと動き回る大蛇なのだった!

ライナスは驚きの余り、気が遠くなって行った。

その後。

扉の前で腰を抜かしたように横たわり、かつ失神しているライナスを執事が発見し、不思議そうな顔をしたのであった。

扉の中からは、マティがポリポリ鼻をかきながら、顔を突き出している。

扉の奥、書斎の窓際の机の前では、手紙を書いている途中のルシールが、戸惑いながらもマティを振り返っていた。

「さっき、何か音してた?」
「単なるスケベ」

マティは、『してやったり』とでも言うような楽しそうな顔をしていた。イタズラ小僧ならではの笑みを満面に浮かべている。 その手の中には、ライナスを見事に失神させた、あの驚くべきリアルな大蛇のオモチャがあった。

そして暫くの間、ルシールの周りは静かだった。

ルシールがアンジェラ宛の長い手紙を書いている間、マティはその椅子の近くで自慢の工作道具を広げ、 何やら訳の分からない代物を工作していた。

海賊の宝箱のような小箱。大小何種類もの強力なバネ。詰め物をした革袋で出来た、大きな『謎の手』。 プロレスラーのビンタ並みの威力が出そうな代物である。そして数々の、不思議な色の付いた粉の袋――

*****

ドクター・ワイルドが、いつものようにクロフォード伯爵の往診にやって来た。

「おや? 判事の部下たちの姿が、チラホラと……」

ドクターは早速、館の前庭に接する庭園の一角が人々の出入りでザワザワとしている事に気付き、 『何か事件でもあったのか』と首を傾げながらも、鋭いギョロ目で観察し始めた。

ドクター・ワイルドは素晴らしい観察力を以て、騒ぎの発生地点に見当を付けた。 判事の部下たちの視線を避けて、こっそりと厩舎に近づいて行く。

「やあ馬丁君、顔色が悪いな……何かあったか」

果たして、仕事が手に付かぬ様子の一人の馬丁が、こちらに背を向けてガックリとうなだれたまま、応えて来た。

「ハイ、実はショックで」
「ショック?」

ことさらに穏やかな声音で、オウム返しにするドクター。 ボンヤリしていた事もあって、会話の続きの誘惑に乗った馬丁は、無意識のうちにボヤキ始めたのであった。

「朝、起きてみたら、この馬の装備の裏側に、バラの枝が仕込まれていて……」

ドクター・ワイルドの脳裏に閃いたものがあった――ドクターは息を呑んだ。

「……破壊工作か? どういう事だ!?」

鋭い声音が飛んだ。ドクターの詰問に、馬丁はハッとして振り返る。 ドクター・ワイルドの薄い水色のギョロ目は、恐ろしいまでにらんらんと光っていた。

「あッ……! 口止めされてたんです、済みませんッ!」

しかし、既に『事件ありき』と言う確かな感触を得ていたドクターは、 馬丁の胸倉をつかむと、物凄い剣幕で怒鳴り始めた。医者だけあって、凄い迫力なのであった。

「洗いざらい喋りたまえ! それとも注射しようか?」
「あわわッ……注射、嫌いです」

哀れな馬丁は、ただひたすら真っ青になって恐れ入るばかりであった。

*****

館の最上階のフロアにあるクロフォード伯爵の執務室。

クロフォード伯爵の机の周りには既にキアラン、カーター氏、プライス判事が控えている。 伯爵本人は、机の上にセットした幾つかの書類に署名サインをしていた。

そんなところへ、ドクター・ワイルドが、扉を蹴破りはしなかったものの、それに等しい剣呑な歩みで入室して来たのであった。

カーター氏が目を丸くした。

「ドクター・ワイルド! 今は取り込んでて……往診は後で……」

ドクターは腰に手を当てて胸をそらし、フンと鼻を鳴らして見せた。 地上階から最上階まで、階段をハイスピードで駆け上がって来ただろうに、廊下を歩いているうちに早くも息が整ったようである。 驚くべき体力に、肺活量だ。

「馬丁君が口を割りましてな……閣下の馬車が暴走した理由が知れましたよ。全く、もう! 殺人未遂事件なんですぞ!」

ドクターも、勘は悪く無かったのである。 クロフォード伯爵が骨折する羽目になった馬車事故の件では、マティと同じように、最初から不審なものを感じ取っていたのであった。

プライス判事は、情けない顔をして呆然とするのみである。

「口止めしたのに……」
「注射の恐怖を目の前にすれば、大抵の男は喋る」

ドクター・ワイルドは薄い水色のギョロ目をぎらつかせ、穏やかならぬ手段で馬丁の口を割った事を、暗に公言したのであった。 プライス判事は、ひたすら驚きが止まらない。

「ワイルド先生の顔が、怖いからじゃ無いんですか……」
「穏やかで非力な老人を捕まえて、言ってくれるね」

ドクターは再びフンと鼻を鳴らした。

――実際は、ドクター・ワイルドは、穏やかでも非力でも無い、パワフルでワイルドな老人なのだが……

ドクター・ワイルドは、真剣な面持ちで伯爵を振り返った。 前回は事故を防ぎ切れず、犯人の手がかりも全く無い状態だったが――今回は未遂とは言え、犯人の正体が割れたのである。

「閣下の事だから、司法処分の用意はしたと思うが……」

ドクター・ワイルドの確認に、伯爵はうなづいた。伯爵は、今まさに署名したばかりの文書を手に取り、改めて内容に目を通す。

「書類送致だ……都の高等法院の面々が必要と判断すれば、監獄送りになる」

クロフォード伯爵は、滅多に見ない程の厳しい表情をしていた。 今回は、未遂とは言え、狙われたのはルシールであった――伯爵自身が狙われていた訳では無かったのに、険しいとすら言える様相である。

ドクター・ワイルドは、驚いたように伯爵を見つめた。

「……それは、随分と思い切りましたな」
「保釈金や賄賂と言う抜け道も一応あるから、甘い処置かも知れんが……」

伯爵は厳しい表情を崩さぬまま、司法処分を実施する旨の署名文書をキアランに手渡した。 キアランは受け取った書類をめくり、署名やメモなどの不備が無いかどうか、チェックし始めた。

カーター氏はその様子を見守りつつも、奇妙な表情を浮かべていた。 カーター氏は、ルシールを標的とした今回の殺人未遂が、伯爵の逆鱗に触れた『真の理由』を、承知していたのである。

3.クロフォード伯爵邸…訳ありの来客

正午も近い頃。

玄関広間では、ルシールが手紙の発送を執事に依頼していた。傍にマティも居る。

結構な厚みのある封筒を受け取り、執事はちょっと苦笑した。

「長い手紙ですね。アシュコート伯爵領、レイバントンの町……確かにお預かり致しました」

玄関広間の窓からは、前庭ロータリーを見通す事が出来る。そこに、馬車が現れた。

マティが最初に気付き、パッと窓の外を振り向いた。続いて執事もルシールも馬車に気付いて、窓の外を見やる。

正面玄関に向かって近付いて来る、一台の馬車。町内の乗合馬車では無い。 地元の名士たちが使うような、ちょっと上等な四頭立ての馬車である。

ルシールが目をパチクリさせているうちに、有能極まりない執事は、手際よくスタッフを手配していた。

「当館の訪問客でございますね」

真昼に近い陽光が降り注ぐ中、見知らぬ四頭立ての馬車は、尋常に前庭ロータリーを回り、正面玄関の扉の前に停車した。 伯爵邸のお仕着せを身に付けているスタッフたちが、馬車から乗客が降りるための踏み台を用意して駆け寄って行く。

興味津々で窓越しに馬車を眺めていたマティが、馬車から降りて来た乗客の面々に気付いた。

「ローズ・パークの馬車だ! オーナーの人たちが出て来たよ!」

館を訪問して来たのは、ローズ・パークのオーナー協会の代表カーティス夫妻と、 ローズ・パーク庭園オーナーのウォード夫妻であった。 執事の出迎えを受け、玄関広間に入って来た二組の中年の夫妻は、 折り良く同じ玄関広間に居たルシールとマティに気付き、パッと顔を輝かせた。

「こんにちは、ライト嬢……館においでで良かったです」

最初にルシールに声を掛けたのは、ウォード夫妻である。

フサフサした茶褐色の髪をした庭師ウォード氏は、見るからに余り喋らない性質だという事が窺えるが、その声は暖かい。 黒っぽい目は、穏やかな笑みを浮かべていた。ウォード夫人も金茶色の髪を揺らして、慎ましく一礼して来る。 ウォード夫妻は夫婦仲が良いらしく、お互いの訪問着の一部分で共通の彩りと趣向を揃えていた。 控えめながら、それなりのペア・ルックである。

「まあまあ、腰の故障は大丈夫でしたの? お元気そうでホッとしましたわ!」

カーティス夫人もルシールに陽気に声を掛けて来た。まさしくバラ色を思わせるような赤系統の、 パッとした派手な柄とデザインの訪問着だが、取り合わせのバランスが良く、不自然な着こなしでは無い。 ルシールと挨拶を交わした後、カーティス夫人は、愉快そうな様子でマティに話し掛けた。

「まあ、トッド家のマティ坊ちゃま! あの復活祭の前夜の近所騒乱って、社交界じゃ大した語り草ですよ!」
「ありゃあ、傑作だったね。ハハハ!」

カーティス氏もニコニコと笑いながら、マティの明るい栗色の頭を撫でていた。 カーティス氏は平凡そうな良家の紳士に見えるが、カーティス夫人に負けず劣らず意外に賑やかで陽気な事が好きで、 マティをとても可愛がっている様子である。

――復活祭の頃に、何か物凄いイタズラをしたらしいけれど、マティって何をやったのかしら?

内心、興味津々のルシールなのであった。

執事は早速、ベル夫人やメイドたちに『来客あり』の旨を連絡していた。 ベル夫人がテキパキとメイドたちを指揮し、大広間のソファやテーブルを素早く配置換えして行く。

執事は、大広間の上座のソファでふんぞり返っているレオポルドに、素早く近づいた。 傍のソファにはライナスも座っている。

ライナスは、マティお手製の大蛇のオモチャによる失神から回復した後、相変わらずの勤勉ぶりを発揮して、 レオポルド相手に熱心にゴマをすっていたのであった。

有能極まりない執事は、流れるような滑らかな一礼をして、レオポルドに丁重に声を掛けた。

「ローズ・パークのオーナー協会の代表たるカーティス夫妻と、庭園オーナーのウォード夫妻が、館に参りましてございますが」

たまたま、クロフォード伯爵もキアランも上のフロアで忙しくしていて不在だったので、レオポルドが館の代表扱いになったのだ。 クロフォード伯爵家の筆頭の血族と言う高い地位の故である。

ライナスのゴマすりにも退屈し始めていたレオポルドは、意外と言うべきか当然と言うべきか、 同じ大広間の中でベル夫人やメイドたちが慌しく動き回っていても、特に気を悪くしてはいなかった。 むしろ、歓迎すべき変化だったのである。

「おお、舞踏会の返礼に来た訳だ……この大広間に通したまえ!」

レオポルドは大仰な仕草でソファから立ち上がると重々しくうなづいて見せ、 今更ながらの命令を振り撒いたのであった。

大広間のソファやローテーブルの配置換えが済むと、腕っぷしの強いスタッフたちが所定の場所で控え始めた。 談話スペースからは見えにくい場所である。背後には、こっそりと防御用の盾も用意してある。

抑え役となるクロフォード伯爵もキアランも居ない今、レオポルドの癇癪を爆発させない事が――そして最悪、 爆発したとしても、館の被害を最小限に抑える事が――ひそかな最優先課題となっているのだ。

やがて、カーティス夫妻やウォード夫妻と一緒に、ルシールやマティも大広間に入って来た。 レオポルドは目ざとくルシールに気付き、殊更に傲慢に立ちはだかると、横柄な身振りで命令を振り撒いた。

「ブラウン! 給仕しろ! そこの女だ! グズグズするな!」

レオポルドは典型的な『気難しい上流貴族』であった。その機嫌を損ねると、相応に大変な事になるのだ。

給仕は、執事、従者、侍女といった熟練のスタッフに任せるべき、プロの仕事である。

ルシールに対する無茶な注文に気付き、ベル夫人もメイドたちもサッと顔色を変えたが、 ルシールは余裕で微笑んでいた。

「大丈夫ですわ、オリヴィア様のところで慣れておりますから……」

ルシールはゴールドベリ邸において、侯爵令嬢たるレディ・オリヴィアの付き人を務めているので、 上流貴族に対する給仕は当然ながら日常生活そのものであり、所作や作法については、隅々まで承知していたのである。 しかも、それはオリヴィアの教育スタイルもあって、宮廷にあってもおかしくない程の正式な手順を伴う、正統派のものであった。

カーティス夫妻もウォード夫妻も目をパチクリさせ、大広間は微妙な緊張感でピリピリしていた。 しかし、ルシールの余裕のある立ち居振る舞いは、その微妙な緊張感を次第にほぐして行ったのであった。

カーティス夫人もホッとした様子で、いつもの陽気な調子を取り戻し、レオポルドと社交辞令を交わした。

「リドゲート卿は、ご不在ですの?」
「今はワシが当主なのだ」
「当主の代理でございますか、一層の健康をお祈り致しておりますわ!」

レオポルドは途中まで鼻高々な様子であったのだが、 カーティス夫人が陽気な調子のまま頓珍漢な受け答えをしたので、最後は目が点になっていた。 別の目で見れば、これはこれで、高くなった鼻を微妙にへし折られた状態とも言えようか。

間違っているとも言えず、かと言って相応の返礼もしない訳には行かず、次の言葉に詰まるレオポルドなのであった。 何故か、カーティス夫人の頓珍漢ぶりは、人の調子を狂わせるものなのである。

「カーティス夫人は、天然でボケかますオバサンなんだ」

マティは鼻をかきつつ、感心しきりであった。

――余りと言えば余りな瀬戸際社交だわ!

カーティス夫人の陽気なボケっぷりに、ルシールはハラハラさせられるのみであった。

各々、新しく整えられた場の周りに腰を下ろした後も、カーティス夫人の舌は、油を塗ったばかりであるかのように滑らかに回り続けた。 レオポルドを前にしても全く動じないという事実は、カーティス夫人の並外れた豪胆さを暗示している。 流石に、ローズ・パークのオーナー協会の代表として、数々の社交や接待の前線を務めるだけの事はあるのだった。

「本来は、グリーヴ夫妻や私どもの姪・シャイナを伴うところでしたが、 今、グリーヴ夫妻は新しい企画で多忙な上、シャイナはレナード様を接待中でして。ウォード夫妻が代理を申し出てくれまして……」

ルシールは茶器をそろえた移動テーブルの傍で慎ましく給仕を続けながら、 カーティス夫人の際限の無いお喋りの中から、興味深い部分を心に留めていった。

ウォード夫妻は、庭園管理の仕事以外の用事では、クロフォード伯爵邸を頻繁に訪問しているという訳では無いようだ。 年に数回の社交イベントの折に正式に訪問する程度で、今回のように、不定期の舞踏会の返礼に加わるのは、珍しい事であったらしい。

ウォード夫妻はローズ・パーク庭園のオーナーであり、まさにルシールの思い描く将来の姿でもあった。 『夫を持てるならば、ウォード氏のような方が良いわ』などと思いながら、 ルシールは物静かなウォード夫妻の様子を、チラチラと注目した。

裏方のオーナー故か、ウォード夫妻は、カーティス夫妻よりもずっと地味な格好である。

ウォード夫人は、洒落た肩掛け型の薄手のケープを留めるのに、手の平ほどの大きさの上品なブローチを付けていた。 意外に細かな宝飾細工が施されたブローチは、白いヒナギクを模している。

――母と同じような着こなしをされる方だわ。

見ているうちに、ルシールは不思議な気持ちになった。 ルシールは、母親のアイリスが、アメジストのバラのブローチとお洒落なケープとを組み合わせた着こなしを良くしていた事を思い出した。 この年代で、若い頃に流行ったスタイルなのだろう。

カーティス夫人の陽気なお喋りは続いた。

「……それにしても、レナード様はいつもながら、罪深い程の美形でいらっしゃいますわねえ!  先日の舞踏会では、若いレディの視線を一身に浴びていらして……」

カーティス夫人は、ゴマすりを織り合わせるのも巧みであった。レオポルドも上機嫌で、鷹揚に受け答えをしている。

「えっへん、倅はワシ譲りの美形なのでね」
「レオポルド殿も、今でもテンプルトンどころか、全国の社交界の花形の紳士でございますね!」

中央の上座にふんぞり返るレオポルドを挟んで、 カーティス夫人と対面する位置のソファに座っていたライナスが、すかさず熱心な阿諛追従をした。

レオポルドは、妻帯者らしく殊勝に謙遜しながらも、昔のプレイボーイぶりを大いに見せびらかした。

「もう20年、30年も前の話ではある。そう、この娘の母親とも……確か社交の都合上、 ダンスをした事があるんだ。確かアイリスとか言ったか、珍しく金髪で、紫色の目の……」

上機嫌が続いているレオポルドは、横柄な様子でルシールを指差し、笑いながら付け加えた。

「見覚えのある顔つきだと思ったが、こっちは金髪じゃ無いから、この間まで忘れていたよ!」

――重要な言及である。

ハッとするルシール。マティもハッとして目を丸くした。 そして、ハッとしたのは、ルシールやマティだけでは無かったのである。

ウォード夫人が、半ば伏せていた鳶色の目を開き、急にレオポルドをまっすぐに見つめたのだ。

「レオポルド殿は、アイリスの事を、やはり記憶しておられたと言う事なのですね」

穏やかだが、歯切れの良さを思わせるハッキリとした声だ。

レオポルドは怪訝そうな面持ちになり、それまで、地味過ぎて『存在しない人物』そのものだったウォード夫人を眺め始めた。 ウォード夫人は物静かで目立たなかった事もあって、レオポルドにとっては、その人相は曖昧模糊としたものだったのである。

年齢相応に白髪が入っているが、ところどころ金髪が混ざる金茶色の髪。綺麗な鳶色の目。 先日のローズ・パーク舞踏会で、その大柄な体格で目立っていたウォード夫妻の長女ソフィアも、同じ色合いを受け継いでいる。

改めて注目すると、若い頃は、それなりに可愛らしい少女だったろうと思われる面差しである。 現在は、古典的な奥ゆかしい中年の美人と言う風である――年を経て、しっとりとした美しさが加わったらしい。

絶世の美女という訳では無いが、首都圏の社交界でも充分に魅力的な女性として通るだろう。 険のある雰囲気が存在しない分、ダレット夫人レディ・カミラよりも好ましいという雰囲気さえあるのだ。

レオポルドは首を傾げた。

「……ウォード夫人、あなたを社交界で見かけた事が無いのだが――」

ウォード夫人は、静かにうなづいた。

「私は早い時期に夫と一緒になれたので、他の相手とダンスする必要性が余りありませんでした」
「そ……、そうなのか」

これが舞踏会でのダンスの申し出であれば、きっぱりと拒否された格好になっていただろう。 ハッキリとした声でこのような内容を言われ、レオポルドは気を呑まれたように返すばかりであった。

ルシールは微かな驚きを感じながら、そっとウォード夫人を観察した。

――ウォード夫人は、余り喋らない性格の大人しいご婦人だと思っていたけれど。

ウォード夫人はお茶を一服すると、おもむろに、驚くべき事を話し出した。

「私は、アイリスとはテンプルトン社交界の同期でございましたの。 オーナーの手続きなど、各種の事情が落ち着いてウォード家に移るまでは、ライト家の隣人でした」
「まあ驚きだわ、ウォード夫人! ライト家の隣人だったなんて!」

カーティス夫人は頬に手を当てて、驚愕しきりの様子だ。流石にカーティス夫人も知らない事だったらしい。 二代目オーナーであり、時期的にその手の話には疎かったであろうという事を考えれば、割合に納得できるのだが。 カーティス夫人は愕然としていながらも、その舌だけは一層良く回った。

「アントン氏は無口で偏屈な方だったし……あのグリーヴ夫妻の方も、 初めからローズ・パークにいらしたから、余り詳しい事情をご存じじゃ無いのよ!」

ウォード氏が、人前では喋り慣れていないと言う様子で、訥々と説明を始めた。

「――デイジーとは随分、相談したんですよ。タイター氏が、ローズ・パークのオーナー権の相続の件で、 ずっと騒いでいたから、大体の事情は承知しています。 タイター氏との裁判になる前に、分かっている事は多い方が良いと結論しまして……」

ウォード氏は慎重に言葉を選び、丁重な態度でレオポルドに申し入れた。

「極めて微妙な……プライベートな問題ですから……、ライト嬢と、ごく内密で話をしたいのですが」

しかしレオポルドは即座に、にべも無い返答を寄越して来たのであった。

「ダメだ! ダメだ! ワシがいる限り、秘密は一切合財、無しなのだ!」

ウォード氏は流石に気圧されていた。しかし、ウォード夫人は既に、その答えを予期していた様子である。

「分かりました、レオポルド殿……」

ウォード夫人は『覚悟を決めた』と言う風に再び目を伏せ、あの穏やかながらも決然とした声で呟いた。

ベル夫人は、茶菓子の補充のために大広間を退出しながらも、一同のやり取りに注意深く耳を傾けていた。 そして、ウォード夫妻が珍しく館を訪問して来たその目的を、鋭く察したのであった。

4.クロフォード伯爵邸…追憶ラビリンス〔一〕

大広間で、ウォード夫人が衝撃的な発言をしていた頃。

最上階のフロアにある伯爵の執務室では、クロフォード伯爵とカーター氏が、二人きりの密談を始めていた。

密談から外された形になった三人、キアランとプライス判事とドクター・ワイルドは、 伯爵の執務室を既に退去していた。三人は階段を降りながら、会話を続けている。

時刻は正午に近い。細長く高い窓から差し込む陽光も、ほぼ南中した太陽からの白くまばゆい光となっており、 階段の上に、短く色濃い陰影を投げていた。

早朝からの大仕事を終えた形になったプライス判事は、コキコキと肩を鳴らし、コリをほぐしている。 判事は、いささか呆れたと言った風に、口を開いた。

「内密で詳細を詰めるとは……カーター氏も秘密主義だな」
「伯爵と弁護士の密談が済むまで、大広間で茶など頂くとしようか」

プライス判事の呟きに応じつつも、ドクター・ワイルドは暫し階段の途中で佇んだ。 立派な白ヒゲをしごき、何やら考え事をしている。

クロフォードの馬車で町まで送迎してもらうと言う予定が決まったので、 プライス判事とドクター・ワイルドは、カーター氏と同じ馬車に乗り合わせるため、 カーター氏が用件を済ませて出て来られるようになるのを待つという事になっていた。 三人で同じ馬車に乗り合わせるのは、情報交換という目的もある――事が事なので。

プライス判事とドクター・ワイルドを先導していたキアランは、 大広間の脇の扉の前で、執事とベル夫人が何やらヒソヒソ話をしている事に気付いた。 よく見ると、執事とベル夫人は、二人して忍び足で歩き回り、脇の扉を少し開けて、 中の様子を窺っているようなのである。

キアランに続いて、プライス判事とドクター・ワイルドも大広間に面する廊下に出て来た。 そして、プライス判事とドクター・ワイルドも、 執事とベル夫人が奇妙にコソコソとした行動を取っている事に気付き、驚きの表情を浮かべた。

「来客があるのか?」

プライス判事は、空気を読んで出来るだけ声を潜めたのだが、大男だけあって、 思い切り小声にしても、かなりの音量があった。

ギョッとしたように執事が振り返り、三人に向かって人差し指を口に当てて見せた。

「お静かに……カーティス夫妻とウォード夫妻です」

盗み聞きに集中していたのか、受け答えもおざなりで、いつもの執事らしくない。 ドクター・ワイルドは愉快そうにギョロ目をきらめかせた。立派な白ヒゲの下では、口角が思いっきり上がっている。

「コソコソと盗み聞きじゃな?」
「ええ、まあ、ちょっと……」

ドクター・ワイルドの冷やかしに、執事はバツが悪そうに口ごもった。

堂々と盗み聞きしていたベル夫人が、相変わらず冷静な様子で三人を振り返る。 そして、たった今、盗み聞きした内容を、堂々と解説した。

「ウォード夫人が、25年前のアイリス様の蒸発の事情について、ご存知のようです。 結婚後も、町の抗争を避けて実家に居られたそうで……しかも、驚くべき事に、ライト家の隣です」

25年前、ルシールの母親アイリスは謎の蒸発をしている。 蒸発と言うだけあって、アイリスがライト家を出奔したところを、誰も目撃していなかったのである。 その謎の蒸発が起きた時、ライト家の隣には、ウォード夫人が居た!

キアランとプライス判事とドクター・ワイルドは、それが何を意味するのか、すぐに悟った。 貴重な証言者が現れたのである。

三人の様子を観察していたベル夫人は、やがて片眉を上げた。

「追加のお茶を、お持ち致しますわ」

ベル夫人はテキパキと立ち去るが早いか、メイドに次の指示を出していた。 時々、ベル夫人は恐ろしいほど勘が良いのであった。

程なくして、キアランとプライス判事とドクター・ワイルドが、執事の仲介で大広間に入って来る。 大広間の面々は驚いた様子で一斉に振り返り、会話が止まった。

早速、ハイテンションそのものと言った様子のカーティス夫人が、陽気に挨拶の言葉を述べる。

「あらッ、まあ! 本日は何故か、お取り込み中に訪問しまして」

天然ボケなのか鈍いのか、カーティス夫人は、 レオポルドがあからさまに「チッ」と舌打ちをしているのにも気付かない様子である。

「館にようこそ、カーティス夫妻、ウォード夫妻」

キアランは生真面目な様子で返礼をした。 この際、場の雰囲気を盛り上げるのが上手いカーティス夫人が居る事は、大いなる助けであった。

ウォード夫妻は戸惑った様子で、新しく加わった三人を眺めていた。 実際、キアランが入って来た事で場の席次が変わり、話を続けて良いのかどうか判断が付かなくなり、戸惑っていたのである。

レオポルドは、なおも傲然とした態度のまま上座をホールドしており、その場から動かない。 いつもの事だ。キアランは涼しい顔のまま、ルシールの立ち位置に程近い下座の席に腰を下ろした。

ルシールは、キアランの予期せぬ行動に暫し戸惑って、茶器を扱う手を止めていたが、 レオポルドの目がこちらを向く前に、何とか取り繕う事が出来た。

ルシールはそっと周りを窺った。キアランとレオポルドの間の緊張は、やはり、ただならぬ重さだ。 場慣れしていないらしいウォード夫妻はソワソワしていたが、 カーティス夫妻は流石に、顔面に愛想笑いを張り付けるのは達者なものである。ルシールは、改めて気を引き締めた。

プライス判事と共に着座したドクター・ワイルドは、鷹揚な笑みを満面に浮かべ、 キアランに代わって、ウォード夫妻に促しの言葉を掛けている。

「お話の途中で失礼したようだ……構わず続けてくれたまえ」

ウォード夫妻は、キアランも気にしていないらしいと言う事を何とか理解した後、話を再開した。

口を開いたのはウォード氏である。

「昔の戸籍を確認頂ければ分かりますが、デイジーは旧姓フレミングです。 ライト家とフレミング家は、テンプルトン町の郊外の村の隣人同士でした。 互いの家の往来は、徒歩15分ほど……」

男性の健脚で徒歩15分という意味である。平均を取れば、徒歩20分から30分ほどになるだろうか。 田舎の村ともなると、隣家と言っても、かなりの距離があるのであった。

ウォード夫人が後を引き継ぎ、説明を続けた。

「アイリスと私は同い年でした。テンプルトンやローズ・パークの社交界デビューは、30年前の事です」

ウォード夫人は、そこでルシールの方に視線を投げた。

「タイター・ビリントン氏が、かつてアイリスの婚約者だった事は知っていますか?」
「直談判の時に、少し聞きました」

ルシールはうなづいた。ウォード夫人は了解し、深い溜息をつくと、説明を再開した。

「ライト家の本家であるビリントン家が、本人確認もせず決めた婚約です。 故アントン氏が超・偏屈で知られる方だった事もあり、厄介者同士で結婚すれば、 一挙に片が付く……と言う思惑があったようです」

アントン氏もタイター氏も、ビリントン一族の厄介者扱いだった――というのが実情なのだ。

ビリントンの名前に、レオポルドが早くも反応した。

「ビリントン家か? テンプルトンの名家の一つだな。前の当主、ウィリアムは知っているが。今はタイターが当主か……」

レオポルドは横柄な性格ではあるが、頭の回転は速い。 特に社交界や時事の話題においては、それなりに博識で、その対応は鮮やかなものであった。

ウォード氏がうなづき、レオポルドの言及に解説を加えた。

「昔のテンプルトン抗争で、そのウィリアム・ビリントン氏と彼の長子ニック氏が同時に死亡したので、 タイター氏がニック氏の長子ナイジェル氏を後見しています」

レオポルドは、ソファの中で偉そうにふんぞり返り、考え深げにアゴに手を当てて見せた。

「ビリントンも、最近は没落して見る影も無いな……ド・ラ・リッチ家と比べると、血統が劣るから当然か」

会話の内容に耳を傾けていたルシールは、聞いた事の無い新しい名前に戸惑った。

「ド・ラ・リッチ家……?」
「ダレット夫人の旧姓さ……レディ・カミラ・ド・ラ・リッチ。何でも、リッチ公爵家の由緒正しき血縁とか」

そっと小声で呟いたルシールに、すかさずマティが耳打ちで説明した。全く頭の良い少年である。

再びウォード氏が、昔の状況の説明に戻った。

「アイリス嬢とタイター氏の最初の対面が、ローズ・パーク舞踏会での事でして。 当時の地主は、レオポルド殿でいらっしゃいました。 私たちは全員、下のフロアにいましたから、レオポルド殿は、この件については初耳では無いかと推察申し上げますが……」
「当然だ!」

レオポルドは、いささか不満そうに怒鳴った。

自分の関知せぬ内容が続いている事は、レオポルドにとっては気に入らない事である。 しかし、自分の過去に関わって来ると思しき、他人のプライベートに関する興味は、非常に大きいものになっていたのであった。

*****

――30年前の春。

ローズ・パーク邸では、地元の名士たちを招待して盛大な舞踏会を開催していた。

レディ・カミラは地元の名門中の名門の淑女であり、 ローズ・パークの第一の高貴なる美女として、地元社交界では常に注目を集めていた。 当然ながら、まだ独身であった――そして、当時の若きクロフォード伯爵フレデリックの婚約者だと噂されていた。

いつものように名門の一つとして会場に招待されていたビリントン夫妻は、 会場を回りながら、おまけの招待客として来ている筈の、ビリントン分家たるライト家の人間を探していた。

アイリスにとっては――ローズ・パークの上流社交界デビューの日であり、 ビリントン夫妻と初めて対面する日でもあった。

ビリントン夫妻は、段差の下のフロアで、一人の壁の花に目を留めた。

――薄紫色のエンパイア・ラインのドレスをまとった、金髪の若い娘。 レディ・カミラ程の絶世の美女という訳では無いものの、その楚々たる風情には、惹きつけられるような魅力があった。

その妖精のような面差しをした金髪の娘は、周りの人々からビリントン夫妻の接近を教えられており、 丁度良いタイミングを選んで一歩前に出ると、夫妻に会釈したのである。

「お初にお目にかかります、ビリントン夫妻……アントン・ライトの娘、アイリスです」

――この、金髪とアメジスト色の目を持つ若い娘が!

間違い無く『ライト家のアイリス嬢』と知ったビリントン夫妻は、ただ仰天するばかりであった。 美しい金髪と清楚な美貌の持ち主だったと言う母親に似たのであろう、正直言って、 あの凄まじいまでに偏屈なアントン氏の娘とは、とても思えない。

――いや、妖精のような繊細な顔立ちではあるが、意外に意志の強そうな目元や口元は、 確かにアントン氏の血筋だという事実を伝えているものだ。

「今夜ほど嬉しい時があろうとは思えない!」

奇声を上げたのは、ビリントン夫妻の後を付いて来ていた、背丈の低い金髪の青年である。 肥満体に特有の、奇妙に高く太い声だ――明らかな超メタボ体型をした金髪短身の青年は、そのまま、戸惑うアイリスの手を取った。

「あのアントンに、これ程に綺麗な娘がいたとは!」

そのフサッとした金髪の持ち主、背丈の低い肥満体の青年が、ビリントン夫妻の次男であるタイター・ビリントン氏であった。

タイター氏は、これ幸いとアイリスの手をねちこく撫でさすり、実にたくさんの歯を見せて、下心タップリに笑った。 タイター氏の歯は、最近ハマり始めたと言う多種類のパイプ・タバコのヤニで黄色に染まり始めている。 そして、スーツに染み付いた紫煙や、全身から立ち上るタール臭やニコチン臭は、 既に他人の目に涙をにじませる程の、強烈な濃度の物となっていたのであった。

最初の挨拶が済むと、アイリスはタバコ臭にむせて、気分が悪くなっていた。 そして、頭痛を理由に会場の端まで退散した後、青ざめ途方に暮れた様子で、同期の友人デイジーに声を掛けたのであった。

デイジー・フレミング嬢――将来のウォード夫人――は、 かねてから聞かされていた『ビリントン家が決めている、ライト嬢の婚約のお相手』と言うのが、 ビリントン家の次男タイター氏である事をアイリスから説明され、ひたすら驚く他に無かったのである。

当時のタイター氏は、ビリントン家の次男にして厄介者たる不良紳士であり、既にギャング=タイターと呼ばれていた。 タイター氏のギャングさながらの暴力的な振る舞いは、つとに知られていた。そしてタイター氏は、 その二つ名の通り、その社交シーズンが終わる前に、早くも本物のギャングになっていたのである。

そして当然ながら、その直後からアイリスは、大いに困った事になったのだった。

タイター氏は一目でアイリスを気に入ったのか、ストーカーとなって、我が物顔でアイリスを付け回し始めたのである。

ビリントン夫妻は勿論、後悔した。本人確認を怠った故とは言え、常識人に非常識人をぶつける結果になったのである。 ビリントン家にとっても幸先の良く無い縁組である事は、余りにも明らかであった。 アントン氏も激怒してビリントン家に怒鳴り込んだが、もはや後の祭りであった。

アントン氏は人付き合いが悪く、偏屈で知られる男ではあったが、 一人娘のアイリスを可愛がっていたのは確かであり、その苦境は、それなりに気にしていたのだ。

やがてアントン氏は、親しい関係であったローズ・パーク邸の執事グリーヴ氏の了解を取り付けて、 ローズ・パークの庭園管理の仕事に、アイリスを毎回伴って行くようになったのである。 タイター氏と一人で行き逢わないようにするための、防衛手段であった。

アントン氏は、その庭園管理の技術をグリーヴ氏に見込まれており、ずっと以前からローズ・パークの庭園管理を任されていた。 ついでながら、ウォード氏も庭園管理に関わっており、その縁あって、フレミング家のデイジー嬢と知り合いになったのである。

ローズ・パーク邸が所有する庭園は広大であった。 所有権を示す柵はあったが、上流の人々のための散歩や乗馬用のコースとしては開かれており、 そぞろ歩きや乗馬を楽しむ紳士淑女が通り過ぎて行った。

勿論、ギャングとは言え名家ビリントン家の直系の血族であるタイター氏も、ローズ・パークの庭園に頻繁に入り込んで来た。 そんな時には、足の速いウォード氏が先回りをして、アイリスを茂みに隠したりしたのである。

――ついでながら、アントン氏やウォード夫妻でさえ知らなかった事だが、 そんな日々の中でアイリスは、運命の人、すなわち謎の『L氏』と出逢っていたのである――

*****

ウォード氏の説明は、時折、不器用につっかえながらも続いた。

「私たちは、ローズ・パーク舞踏会には三回、出席しました。 最後の舞踏会の夜、ローズ・パーク邸の破産宣告が出てたんですが、あの大騒ぎは凄かった……。 どのようにして聞き付けたのか、門前にギャングや借金取りが集結……、勿論、その中にタイター氏も居たんですが。 貸した金返せとか、負債の額面とか……、ローズ・パーク邸の豪勢ぶりは存じてましたが、あんなに借金があったとは……」

ウォード氏は困惑の表情を浮かべた。当時も同じように困惑の表情を浮かべて、 自分の力ではどうにもならぬ事態を見守っていたのだろうと想像できるものであった。

「……おまけに、その舞踏会の後、ローズ・パークを巡る政局騒動がスタートして……テンプルトン全体、 もうムチャクチャな状況になりました」

ローズ・パークの地主であったレオポルドの失脚に始まる、クロフォード伯爵家のお家騒動。 それは直ちに、町内ギャング抗争に発展した。テンプルトンの町の住民であったウォード氏や、 テンプルトン郊外の村の一つに住んでいたアイリスやデイジーにとっては、まさに災厄の時代の到来だったのだ。

「ローズ・パークが破産宣告された後、すぐにオーナー協会が創設されたんですが……、 オーナー代表は最初、クロフォード直系の親族アスカム家……」

ローズ・パークは代々、クロフォード伯爵家の直系の後継者が管理する事になっており、 筆頭の後継者レオポルドの失脚に伴って、次席の後継者アスカム家に権益が移っていたのである。

「しかし、アスカム家は町内の抗争で間も無く壊滅、続く直系親族ブレナン家も断絶しました……」

ルシールは、昨夜、ベル夫人から聞いた内容を思い出していた。

クロフォード伯爵家にまつわる、お家騒動の顛末である。 確かにベル夫人は、お家騒動で二つの直系親族が潰れ、ダグラス家しか残らなかった……と言う事を説明しており、 ウォード氏の説明とピッタリ合致していた。

それでも、それなりの警備を用意していたであろうクロフォード直系親族が、二つも続けて断絶すると言うのは、 やはり普通では無い。余程の強力な暗殺者――例えば、巨大な戦斧を軽々と振り回すような使い手など――が、 ギャングの中に紛れ込んでいたのに違いない。

かくして、ロイド・グレンヴィル氏が、流血と混沌の続くテンプルトンの町に現れたのだ。

ロイド氏は、多くのトラブルを次々に解決して行った。 ローズ・パークのオーナー協会の代表を、クロフォード傍系親族ハワード氏に割り当てたのもロイド氏である。 政治と言う面から言えば、ローズ・パークの権益がクロフォード伯爵家のお家騒動から切り離された事で、 町内抗争の激化に関わる要素が大幅に整理された。

ハワード氏はテンプルトン町長であったにも関わらず、流血の抗争を生き延びた優れた手腕があった。 そして、ハワード氏が、記録に残されるところの、初代のローズ・パークのオーナー協会の代表と言う事になったのである。 唯一残ったクロフォード直系親族ダグラス家は、引き続き、オーナー協会の裏方でバックアップを継続した。

ちなみにハワード氏は、現在のオーナー代表カーティス氏の従兄弟である。

「そう言えば、従兄弟のハワード殿は賢かった」

カーティス氏は、感心したようにうなづいていた。

続いて、ウォード夫人が当時の社会情勢を補足した。

激しい抗争が続く当時のテンプルトンは、町に慣れていない郊外の村人にとっては、危険地帯だったのである。

「私はもう既に結婚していましたが、ウォード家はテンプルトン町の通りにあって危険だったのです。 それで、実家フレミング家に避難しておりました。以来、町には滅多に行かなくなっていたので、 ロイド氏とは余り会った事は無いのですが……カーター氏の話によれば、優秀な調停者だったとか……」

夫人の説明が一区切りつき、ウォード氏がタイミング良く後を引き取った。息の合う夫婦である。

「実際、抗争の数がグンと減ったので、そりゃ驚きでした。 しかし、先々代の伯爵様と共に、いきなり闇討ちされて、ロイド氏も死亡したとか……」

ドクター・ワイルドが早速、いささかの食い違いに気付いて、口を差し挟んだ。

「正確に言うと、先々代の伯爵様は、その襲撃後も一週間は生存しておった。 28年前の話になるな……ワシが看取った」

プライス判事も流石にハッとしていた。

「軍人弁護士の殉死事件か! 先々代伯爵フレデリック殿を闇討ちするために、 暗殺のプロを……その場で暗殺に成功していれば、事態はもっとひどい事になっていた筈だ!」
「オイラもママから聞いた事あるぜ! トッド家の本邸もテンプルトンにあるから、別邸に避難してたって」

マティも、自分の記憶と照らし合わせて合点している様子である。

ルシールは改めて、ベル夫人の昨夜の説明を、注意深く思い返していた。

――確か、その暗殺者は、巨大な戦斧の使い手らしいと言う話だったわ。

ルシールの思考は、暫しの間、脇道にそれた。

キアランは聞き知っているのだろうか。実の父親グレンヴィル氏の、無残な死に様を。 そして、その理不尽極まる死を与えた、謎の暗殺者――巨大な戦斧の使い手を。そして、暗殺を指令した黒幕の正体を。 いずれにせよ、キアラン本人が口にしない以上、想像の域を超えない物ではある。

カーティス夫妻は空気を読むのも素晴らしく、舌の回り過ぎるカーティス夫人でさえ、聞き役に回っていた。

もっとも、他の土地からやって来た二代目オーナーたるカーティス夫妻は、 テンプルトンの歴史については、当然ながら直接に見聞きしていない。 昔、クロフォード伯爵家や町内のギャングを巻き込んだ大きな抗争があったという話は承知しているが、 詳しい事情は知らないのだ。

ウォード氏は一息つくと、その後のテンプルトンの状況の説明に移った。

「先代伯爵ベネディクト様の代には抗争も減り、まあ以前ほど頻繁と言う訳では無いけど、 町にも出かけられるようになりまして……」

フレデリックとレオポルドの間にあった、婚約者レディ・カミラの奪い合いを始めとする確執、 レオポルド失脚に至る詳しい事情、ダグラス家への爵位の移行などと言った話題は――出て来なかった。

ウォード氏は、あくまでもテンプルトンの町の、 普通の住民であった――住民目線の言及が続いて行ったのであった。

「町は変わりました。テンプルトンの牧師さまも、抗争で死んでおられた。クレイグ様でしたね、 後任が決まるまでの代理の牧師さまが……」

ルシールは、ただ聞き入るばかりであった。

――そう言う訳で、クレイグ様は母をご存知でいらした。納得だわ。

ウォード夫人は、改めてルシールをしげしげと眺め始めた。

「……本当にアイリスに生き写し……恋人と結婚するかどうかと言う話は聞いていたけど。 まさか、あの頃のアイリスが妊娠していたなんて……」

屋内に居るという事もあって、ルシールの前髪はいつもより脇によけられており、 その繊細な面差しが半ば露わになっていたのである。ルシールは顔を赤らめ、少し顔を伏せた。 茶色なのか紫色なのかハッキリしなかった大きな目は、濃い茶色に沈んだ。

ウォード夫人は思案しつつ、慎重に言葉を重ねた。

「アイリスは大体、私と同じ頃に妊娠していた筈です。 でも、アイリスが妊娠に気付いたのは、私よりずっと後だったのかも知れないと思います」

結婚後もウォード夫人は、町の抗争を避けて実家フレミング家に居た。 隣家であるライト家との頻繁な交流は、独身の頃と同じように続いていたのである。

「26年前、11月頃――妊娠二ヶ月で、つわりがひどかった頃でしょうか。 アイリスがお見舞いに来ていて……彼女も、私と一緒に戻した事があって……」

*****

ウォード夫人は、その出来事を語った――

あの時、若い新妻であったウォード夫人は、こんなハプニングにまで気が合うのかと面白く思い、 冗談でアイリスをからかったのだ。

『もしかして、アイリスもオメデタだったりして――』

アイリスは、その言葉を理解した瞬間、顔色を変えていた。 それは本当に他愛の無い冗談だったのに、アイリスは、強張った真っ青な笑みを浮かべて、立ち尽くしていた。

その11月の奇妙なハプニングの後は、その類の兆候は見ておらず、 若い頃のウォード夫人も、そのまま忘れてしまっていたのだが――

「今、考えてみると……その後は、アイリスは随分と注意深くなっていたわ」

*****

ドクター・ワイルドは、おもむろにルシールに目をやった。

「ライト嬢は何月生まれ?」
「六月です」
「それなら、妊娠したのは九月頃で……時期は、ピッタリ合うな」

納得の表情を浮かべるドクターである。

ドクター・ワイルドとプライス判事が並んで座っているソファの後ろでは、マティが不思議そうな顔をしていた。

「九月? 何で?」
「大人になったら分かる」

いつもは直接的なプライス判事も、苦笑しつつ謎めかして返すのみだ。 流石に妊娠の仕組みとなると、医者では無い者にとっては、いささか説明しにくい内容ではある。

ウォード夫妻は、ビックリした様子でルシールを眺めていた。ウォード夫人が感心したように呟く。

「長女のソフィアも六月生まれだわ……夫の祖母に似て、超・のっぽさんになったけど……」

ドクター・ワイルドは、茶目っ気のある笑みを満面に浮かべた。

「あのグレート・ソフィアですか。ソフィア・ウォード嬢の逸話は良く聞いておりますぞ。 先日の舞踏会でも、ナイジェル氏を退治するなど、素晴らしい大活躍じゃったとか」

基本的に慎ましい性格のウォード夫妻は、赤面して戸惑うばかりだ。

ウォード夫妻の長女ソフィアはルシールと同い年だが、 その背丈は、並みの男性よりもずっと高いのだ――故に、『グレート・ソフィア』である。 いみじくも先日、カーティス氏がコメントしたように、ケンプ氏と並び立つと大男と大女と言うペアになり、 素晴らしく釣り合いが取れるのである。

ウォード氏が申し訳なさそうにボソボソと呟いた。

「元はと言えば、ソフィアがケンプ氏と一緒にナイジェル氏を吹っ飛ばしていたのが、 ナイジェル氏の脚の骨折の原因だったのに、大変、申し訳ない……」

目下タイター氏は、『ナイジェルの骨折の原因はルシールである』と決めつけて騒いでおり、 治療費の交渉を始めとする直談判に応じなければ、出るところに出るとまで息巻いているのだ。

ナイジェルはガチムチとした体格の、相当の大男だ。ケンプ氏と一緒であったとは言え、ソフィアは、 ダンスのターンの弾みで、そのナイジェルを軽々と吹っ飛ばしたのである。 しかも段差の下に叩き付けて、片脚を骨折させる程の勢いで。

グレート・ソフィアの新たな伝説を耳にする羽目になったレオポルドとライナスは、 その余りにも迫力満点の内容に、驚き青ざめるばかりであった。

ソフィア・ウォード嬢には、他にも色々と逸話があったのだ。剣の腕前は玄人はだしだとか、一人で盗賊を捕まえたとか、 弟が軍人だが、その弟をいつも投げ飛ばすとか、と言ったような、勇ましい内容である。

「グレート・ソフィアなら、信じられる……」

プライス判事も、感嘆を込めて苦笑していた。

5.クロフォード伯爵邸…追憶ラビリンス〔二〕

ウォード夫妻の昔語りは、本筋に戻った。

26年前の秋――数年続いたテンプルトン抗争が激化し、最悪の様相を見せ始めた頃。

ローズ・パークのオーナー手続きが本格化し、アントン氏とウォード氏は、長く家を空ける事が多くなった。 アイリスとデイジーは二人で連れ立って、激しい抗争の続くテンプルトンの町内には入らず、 村から直接、ローズ・パーク邸の管理に通い続けていた。

当時のアイリスの様子に詳しいウォード夫人が、説明を続けた。

「私は妊娠が判明して、お医者様には軽度の館内作業しか許可を頂けなかったのです。 アントン氏と夫の分の庭園の作業は、アイリスが一手に請け負っていました」

ドクター・ワイルドが、本気で呆れたように首を振った。

「無茶な事を! アントン氏の仕事内容は知っとるが……あの重労働では、身体に無理が来る筈じゃ。 流産しなかったのが不思議なくらいじゃな」

それは、医学方面に関して専門的な知識と経験を持つ者に共通の見立てであった。 事故当時のオリヴィアの見立て――『アイリスは事故に遭う前から、妊婦にしては無茶をしていた』という内容とも、一致している。

ウォード夫妻は、ルシールと目を合わせて戸惑った顔をした。そしてウォード氏が、すぐにドクターの指摘に応じた。

「タイター氏の不在でリラックスできた事が大きいかも知れない」
「――うむ?」
「10月から12月まで、都の社交シーズンになってますでしょう。 今の伯爵さまが爵位を継いで、初の都入りをなさっていて。この辺の名家も揃って不在でした。 タイター氏を含めて、ギャングや借金取りも伯爵さまを追って都に行ってて……目下、地元は静かだったんですよ」

――26年前と言えば、先代伯爵ベネディクトが急死した年だ!

その説明に、ハッとするドクター。プライス判事も、息を呑みながらも納得していた。

「ああ……そうだった! リチャード殿が爵位を継いだのが、その年だ!」

ウォード氏はプライス判事の指摘にうなづくと、説明を続けた。

「私たちローズ・パークのオーナー協会員も、登記の件で都に出張していました。 都まで押しかけていたギャング団の邪魔がしきりに入っていて、年末まで帰れなくて、 長く家を空ける羽目になっていたんです……」

ウォード夫人の追憶は、年末年始の頃に移って行った。

「アイリスは、度々私のお手伝いに来て、お医者様と私の話を熱心に聞いていました。 今になって考えてみれば、妊娠出産についての知識が欲しかったのかも知れません」

――実際、アイリスは子供を産もうとしていたのであった――ただし、誰にも知られないように。

ウォード夫人の言及に相槌を打ちつつ、ウォード氏は頭に手を当てて、溜息をついていた。

「アントン氏は、あの無骨な性格……娘さんの妊娠には気付かなかったんじゃ無いかな。タイター問題が深刻だったし」
「メイプル夫人も絶対、気付いてなかったわ。 次の年の二月になってアイリスが蒸発した時、本当に動転していたし……」

ウォード夫妻の話が途切れると、ずっと耳を傾けていたカーティス夫人が、不意に重大な疑問を口にした。

「そう言えば、メイプル夫人は何処なのかしら? アントン氏の死後、タイター氏に暇を出された後は……」
「情報通のグリーヴ夫人も、その後の消息は聞いて無いって。 まあ、テンプルトンの近くに引っ込んでいるんだろうけどねえ」

タイミング良く、カーティス氏が合いの手を入れている。

――また知らない名前が出て来たわ。

ルシールは目をパチクリさせながら呟いた。

「メイプル夫人……?」
「ライト家の家政婦です。長く勤めていて……アイリス嬢の母親代わりでもあったんですよ」

補足説明を入れたのはウォード氏だ。メイプル夫人とは、古い知り合い同士でもあるのだ。

一方、プライス判事は、新しく判明した内容に愕然としていた。

「タイターめ、嘘ついたな……アントン死亡の前に、彼女は既に行方不明などと抜かしおって……」

実際その嘘により、半信半疑と言うレベルながら、メイプル夫人にアントン氏殺害容疑が掛かっていたのである。 アントン氏の不審死事件の概要を既に耳に入れていたマティも、別の意味でギョッとしていた。

――メイプル夫人は、殺人事件の目撃者なのかも知れないのだ!

*****

ウォード氏は、いっそう真剣な面持ちになり、口を再び開いた――25年前の蒸発事件の説明だ。

年末年始になって、アントン氏とウォード氏は、やっと都での登記作業を完了し、 他のオーナー協会員と共に、地元に戻って来た。

「地元の新年社交シーズンが始まると、タイター氏も近所に舞い戻って来ました。 一月から二月が、一番キツい時期だったかも知れません。私もアイリス嬢の恋人と間違われて、大立ち回りでした」

ウォード夫人が、すこぶる困惑した様子で付け加えた。

「新年の頃は、私のお腹はもうハッキリしてたし胎動もあったけど、アイリスのお腹は分からなかったわ」

――実際、アイリスのお腹は、妊娠五ヶ月から六ヶ月の頃にしては、非常に小さいお腹だったのだ。 しかも、アイリスは、妊婦にしては無茶をし続けていた。

「そう、彼女は明らかに過労状態だった。二月になると、レオポルド殿とレディ・カミラの結婚式の準備に大わらわで、 地元の人たちと共に、色々な所に駆り出されたし……」

そこまで言って、ウォード氏は、憂い深そうに眉根を寄せた。

「急な発熱で倒れたんです――あの日に」

*****

それは、25年前の二月の――まさに、その大雪の日であった。

アントン氏とウォード氏は、その日は役所に出向していて、留守だった。

メイプル夫人は体調を崩したアイリスをソファに落ち着かせると、 折り良く隣家・フレミング家のところに医者が往診に来る頃と気付き、急いで呼び出しに行ったのだ。

そして勿論、その医者は、妊婦であったウォード夫人のかかりつけ医であり、 当然ながら、妊娠・出産に詳しい医者だった。

如何なる理由の故か、妊娠をひた隠しにしていたアイリスにとっては、 その手の体調変化に詳しい医者を呼び出されるのは、非常にまずい事であった筈だ。 にっちもさっちも行かぬ状況に至ったと言うこの運命の日、アイリスは遂に、決定的な行動に出る選択を迫られたのだ。

そして事態は、皮肉な事に、アイリスにとっては実に都合よく運んだようなのだ。

雪に阻まれ、メイプル夫人が乗った隣家行きの馬車は、大いに遅れていた――メイプル夫人の馬車の操縦が、 お世辞にも上手くないという事情もあった。メイプル夫人が焦りながらも隣家に到着してみると、 医者はウォード夫人を診察している所だった。偶然か、必然か――雪の影響で、医者の往診も遅れていたのだ。

医者とウォード夫人とメイプル夫人は、即座にフレミング家を飛び出した。 しかし、いっそう激しくなる雪に車輪を取られ、ライト家を目指す馬車は、ノロノロとしか進まなかった。

そして、何とも運が悪い事に、道の真ん中で複数の馬車が立ち往生し、道を塞いでいたのである!

何故にこんな事が起きたのかと言うと――村の人口の増加に伴って、交通量も増えていたのが原因であった。 テンプルトンでの長引く町内抗争により、多くの人々が郊外の村に避難し、各々の避難先で生活をしていたのである。 ウォード夫人もまた、その一人であった。村の人口は倍増していたのだ。

ウォード夫人とメイプル夫人、そして医者の三人が到着した時には、既にアイリスは蒸発していた。

空白の一時間、ないし二時間――その間に大雪は吹雪となり、激しく降り続いて、アイリスの足跡を消してしまっていたのである。

アイリスは忽然と消えてしまった――深い雪闇の中に。

*****

プライス判事は、圧倒された様子であった。

「たった一時間か二時間のうちに、蒸発した訳だな」
「すげー早業」

流石のマティも、感心しきりである。キアランは無言のまま、思案に沈んでいた。

ウォード氏は当時の驚愕と困惑を想起したのであろう、長い溜息をついている。

「タイター氏を警戒して、いつでも逃げられるよう、こっそりと準備していたとしか思えないのです。 事実、タイター氏は激怒していました。何処で知ったのか、アイリス嬢に恋人が居る……という情報を、つかんでいましたから」

ドクター・ワイルドは暫し思案し――顔をしかめた。

「そして、その二月のうちに、アイリス嬢の死亡報告書が届いた訳か。 アシュコート……首都直通の国道がある。オフシーズンの首都に行こうとしていたか……」

二月某日付で発送された死亡報告書の内容は、急報と言う事もあって、実に簡素なものであった。

『アイリス・ライト、事故死。至急、本人確認されたし』

ウォード氏は、未練の気持ちを込めてボソボソと呟いた。

「ギャング抗争が激化していて、本人確認のために出張できる状況じゃありませんでした。 実際は、アイリス嬢は生存していたとか――それも、五年前まで。本人確認が出来ていれば、今頃は……」

ルシールは、遂に何も語らずに逝ってしまった母親の、穏やかだが淋しそうだった微笑を思い出していた。 そして、冬の海の深い青さに魅せられて立ち尽くした母親の姿を、死の間際の母親のうわごとを。

暫し逡巡していたルシールは、不意に湧き上がった期待を込めて、 ウォード夫妻を改めて眺め――そして、問いを投げかけた。

「あの……もしかして、母の恋人の名は、頭文字Lではありませんか?」

果たして、ウォード夫妻はハッとした表情になった。ウォード夫人がギクシャクとうなづく。

「アイリスは、その人の事を『ローリン』と言っていました。タイター氏は、 彼を探し出してぶち殺す……と公言していましたが、知らない名だし、誰の事なのかは分からなくて……」
「ローリン……」

ルシールは呆然としながらも、その名を呟いた――頭文字Lのローリン。

ウォード夫人は憂いの表情を見せて、うつむいた。

「私が聞いたのは、これだけですね……テンプルトンの近辺で出逢った、青い目の紳士」

若い女性の親友同士と言う事もあって、他人には話さない恋話も交わされていたのであった。 タイター問題があったため、非常に限られた情報でしか無かったのだが、 それでも具体的な名前が分かるのと分からないのとでは、やはり大違いである。

ドクター・ワイルドは、得心した様子でヒゲを撫でていた。

「青い目の父親か……」
「ビンゴだぜ、ヒゲ先生……!」

マティが突っ込む。そしてプライス判事は、記憶に無い名前に戸惑っていた。

「ローリン? 家名か個人名か……この近辺では聞かない名だな」

キアランは眉根を寄せ、口を固く引き結んでいた。

――ルシールが、レオポルドの私生児であるという推測が飛び出すのでは無いか?

そして、ウォード夫妻の話は――まさに、その方向に向かって行ったのである。

「タイター氏を避けるための、愛称や偽名だった可能性も高いです」
「これは私じゃ無くてタイター氏が言っていた事ですが――、自分がこれほど拒否される理由は、 そのローリン氏がよっぽど良い身分だからだ――社交界でも評判の男だからだ、との事でした」

ウォード夫人は一つ間を置くと、遂に深刻な言及を口にした。

「タイター氏は、『ローリン氏』とは、即ちレオポルド殿だ――という事を、突き止めています」
「なッ……なッ……!」

いきなり自分の名前を言及され、口を震わせて呻いたきり、レオポルドは青ざめて絶句した。 阿諛追従に熱心なライナスも、フォローが何も思い浮かばないまま、硬直していた。

ウォード夫人はハッキリした声で、容赦なく畳み掛ける。

「こんな事を申すのも何ですが。レオポルド殿は当時、数人の……いえ、十数人の方と、浮名を流しておられましたね」

このようなロマンスの噂に目が無いカーティス夫人が、早速、目覚ましい反応を見せた。 カーティス夫人は、頭脳の回転とほぼ同じ速度で、舌を回転させた。

「そう! それもロマンス小説に出て来るような駆け落ちの話が! 絶世の美男美女、禁じられた恋! レナード様と言う、 二歳になられる隠し子が判明して、過ちを正すためながら、 先々代の伯爵の婚約者であったレディ・カミラと数年越しの熱愛結婚をされたと―― 『騎士道物語』の禁じられた恋人たちの伝説もかくや、過酷な運命を乗り越えて、ドラマチックなゴール・イン!」

社交界の語り草となっている、名高いロマンス物語の内容を、そのまま口にするカーティス夫人であった。 しかし、得てして華やかなロマンスの噂には、黒いゴシップもまた、セットで付いて来る物である。

「それも、その二月に――あんまりにもモテ過ぎなので、関係した淑女は数知れずで……全員は記憶しておられないけど……、 とにかくッ、身辺整理も兼ねて……」

カーティス夫人の言及は途中で止まった。しかしそれでも、その内容は、凄まじい結果を充分に予期させるものであった。

――ゴシップ爆弾をかますにも、程がある――

大広間の人々は、皆、青ざめて硬直するのみである。

レオポルドは、ワナワナと震えるばかりで、何も言い返せない状態であった。

実に、事が事だけに、凄まじい爆弾発言なのであった。

ドクター・ワイルドは、あからさまに顔をしかめた。

「他にも隠し子が居た……としても、ワシは驚かんね。あの頃も多数の養子縁組で、結構、大変だったしな」
「こちらも、幾つ修羅場を見た事か……」

豪胆なプライス判事も青ざめて、あらぬ方を向いていた。

ベル夫人が言及したように、レオポルドとレディ・カミラを結婚させる作業自体が、大仕事だったのだ。

カーティス夫人は再び、ゴシップをかました――更なる爆弾を投下したのだ。

「養子縁組? グリーヴ夫人が言う事には、10人だか、それ以上……」
「え? あれって、まさかッ」

カーティス氏も青ざめつつ、口ごもるばかりである。

……若かりし頃のレオポルドの放蕩は、伝説のプレイボーイの名に見合う結果を生み出していたのであった……

大広間の人々の中で、一番回転の速い頭脳を持つマティは、既に次の段階に移っていた。

――レオポルドが絶句するなんて、心当たりある? それとも、濡れ衣で、怒髪天の余り口も利けない状態……!?

レオポルドは、自分がいきなり疑惑の頂点に押し上げられる羽目になったという局面に、激しく動揺した。 自分に集まった視線を振り払うかのようにコブシを振り回し、額に青筋を立てて乱暴に立ち上がると、 否認の言葉を大声で振り撒いた。

「し、証拠は無い! 隠し子だの、不倫だの……私のスキャンダルをでっち上げようったって、 そうは行くものかッ! 頭文字Lなら、他にも居る! ライナスが、そうだッ!」
「ひどい! 私の父は何も……」

流石にライナスも、この言及にショックを受けていた。

レオポルドは、死にもの狂いでカッと目を見開いてキアランを睨み付け、指を突き付けた。

「グレンヴィルだ! ロイド・グレンヴィルは、頭文字Lで青い目だ!」

ルシールは、その指摘に愕然とした。ベル夫人の説明によれば、今は亡きロイド・グレンヴィル氏は、 キアラン=リドゲート卿の実父たる紳士では無かったか。

――恐れ多くも、リドゲート卿と兄妹になるの……!?

しかし、キアランの方は、無表情のままであった。

レオポルドの大声と、それによる壁からの反響音が収まった後、大広間の中は水を打ったように静まり返った。 そして、それが予兆であったかのように、不意に出現した疑念は、同じく、すぐに解ける事になった。

ドクター・ワイルドが早速、レオポルドの主張の矛盾を指摘したのである。

「それは絶対に有り得ませんな。ワシは、グレンヴィル氏の死亡報告書も作成した。 彼の死亡は28年前ですが、ライト嬢の出生は25年前になります。確実に信頼できる医学知識を持つ者が、保証する数字ですぞ」

ドクターはギョロ目をぎらつかせ、力強く断言した。

「三年に及ぶズレが存在する状況では、親子関係は絶対に成り立たんのです」

そしてドクターは、医学的な面からの指摘を容赦無く続けた。

「アイリス嬢が倒れたのは、レオポルド殿とレディ・カミラの結婚式の準備の真っ最中だとか。 レオポルド殿が即ちローリン氏だとすれば、倒れる程のストレスを受けるのも納得じゃな」

ルシールは、怖い物を見るような思いで、レオポルドの方を恐る恐る振り返った。

レオポルドも、ワナワナと身体を震わせながらも、ルシールの視線を受けるのみであった。

状況証拠から見て、レオポルドとルシールとの間に父娘関係が成り立つ可能性は――とんでもなく高い。

キアランは、恐るべき可能性の爆弾を抱えてしまった二人の様子を観察しながらも、 これまでに小耳に挟んで来た情報を思い返していた。

タイター氏が言うプレイボーイ貴族。今は没落したとは言え、30年前はれっきとした貴族だった。 今でも、金で買った地位とは言え、曲がりなりにも貴族に近い肩書きを持っている。

――本当に血縁関係があるのか、この二人……?

片や、肩幅が広く上背のある、豪奢で華麗な金髪碧眼の――かつては絶世の美青年だった――男。 片や、繊細な印象が際立つ、黒褐色に近い濃い茶色の髪の、小柄な娘。

ルシールの方は、男に生まれていたとしても、 せいぜいライナスと同様な――或いはライナスよりも細身の――文学青年らしい印象に留まるだろう。 間違い無くレオポルドのような、押しの強い印象には、ならない筈だ。

キアランは改めてレオポルドとルシールを見比べた。論理的には納得するものの、 感覚的かつ本能的な部分では、なお釈然とせぬものを感じざるを得ない。それ程に、印象の違う二人なのだ。

レオポルドとルシールもまた、釈然とせぬ感覚を抱いていた。 『父と娘』たる可能性が限り無く高まった、この瞬間においても、 レオポルドとルシールは、なおも不信感に満ちた視線を交わしたまま、硬直していた。

――私の母が愛したのは、この人だったの?
――こんな下賤な、冴えないミソッカスが、ワシの娘だと言うのか?

そして、大広間の面々の全員の視線が、渦中の二人を取り巻いていた。

――出口の分からない迷宮の中に、閉じ込められてしまったようだ。

大広間に、何とも言えない重苦しい雰囲気が立ち込めた――

それは、突然だった。執事が急に大広間の扉を開けて、いつもならぬ大声を上げた。

「ダレット夫人、及びダレット嬢、ただ今、お帰りでございます!」

文字通り、最も恐るべき人物たちの帰還であった。更なる衝撃と緊張に青ざめて固まる面々である。

6.クロフォード伯爵邸…追憶ラビリンス〔三〕

「まあ、良かった事! 皆さん、大広間にお揃いなのね!」

大広間に駆け込んで来たアラシアは、すこぶる上機嫌である。 この際、アラシアの『妙に空気を読まない能力』に、感謝すべきなのかも知れなかった。

アラシアは早速、身に着けている真新しいドレスを、一同に見せびらかした。 ファッションショーのモデルのように、華麗な所作でクルリと回って見せる。 斬新なカッティングとレース装飾を施されたフレアスカート部分が、豊かな表情を見せながら、ふわりと波打った。

「ホラ見てッ! 町で発見したの! 有名デザイナーの新作よ!」

ライナスが早速、ギクシャクとしながらも、称賛の言葉を掛けようと立ち上がった。 しかし、緊張の余り、その舌は、いつものように回らなかったのであった。 そのライナスの反応をどう読んだのか、アラシアは上機嫌で言葉を続ける。

「最新モデルのドレスも今日仕上がったの! あのローズ・テイラーズは仕事が速いわ!  残りのドレスは明日にも上がるって言ってるから、明日も行くわ!」

続いてダレット夫人が、いつものように傲然と入って来た。

カーティス夫妻やウォード夫妻が、青ざめてギクシャクとしながらも、表敬のために立ち上がる。 慣習に従って、プライス判事やドクター・ワイルド、キアランも紳士らしく立ち上がったが、 一方で、立ち上がったままだったレオポルドは、動揺を押し隠すためか、ソファに乱暴にドシンと腰を下ろした。

ダレット夫人は大広間の面々を睥睨すると、いっそう気取って、優雅な仕草で頬に手を当てて見せた。

「アラシアが、あのカフスを見つけたとは驚いたわよ! レナードには別の新しいの買ってやるわ、 ロイヤルの方で第一級のダイヤが入ったそうだし」

流石に高貴なるダレット夫人と言うべきか、返礼の言葉よりも、まずは自分の都合の話題なのであった。

ドクター・ワイルドは、噂のレナード・カフスの発見に至る経緯に、早くも疑いを持ち始めた。 勿論マティは、レナードのカフスの発見における本当の経緯と、 それにまつわる様々な疑惑について、ドクター・ワイルドにコッソリと説明したのであった。

そしてマティは、上座に改めて集まった面々を振り返り、コッソリと呟いた。

「流石にレオポルドも、さっきのショッキングなお話を喋らないね……」
「そりゃ当然だろ、マティ坊主よ」

プライス判事は、立ち上がって表敬を示した格好のまま、ダレット夫人からジリジリと後ずさり、 下座でコソコソと新しい椅子を引いていた。マティの呟きに合わせて、プライス判事も同じくコッソリと呟き返す。

「レオポルド殿には、アヤシイ事情が多過ぎるしな……おじさんだって、ダレット夫人とダレット嬢が今、暴れたら困るぞ」

ルシールは早速、上座の面々に丁重に給仕している。

給仕係としてお茶を運び、そして再び下座に戻って行くルシールの姿を眺めていたアラシアは、 あからさまに軽蔑の笑みを浮かべた。聞こえよがしに、母親ダレット夫人にささやく。

「所詮、下等階級よ。あれが身分相応なのよね!」

しかしダレット夫人は、今回ばかりは、アラシアの聞こえよがしのコメントに反応しなかったのである。

「身のこなしは覚えときなさい。あれが正統派の貴婦人の所作なの。本物のレディ教育を受けてるわ、あの女」

ダレット夫人は不機嫌そうに呟いた。小じわを覆い隠すための厚化粧がひび割れる程に、眉根をきつく寄せている。

流石に、オリヴィアと同じように、レディ称号を持つ上流貴族の出身というだけの事はある。 ダレット夫人は、ルシールが見せた一連の身のこなしが、上流社交界に相応しいものである事に気付いていた。

正統派の貴婦人の所作に、発音。基礎からしてシッカリと体系的に仕上がっており、 明らかに、背伸びや付け焼刃などに留まるような、偶然の物では無い。

――抜かった、のかも知れないわ。わたくしとしたことが。

アラシアは美しく生まれ付いた。英才教育の甲斐もあって、貴婦人としての身のこなしは、充分以上に洗練されている。 貴婦人としての基本的な教養やマナーは何処でも共通しているから、ルシールもアラシアも、中身は似たようなものだ。 身分の高さや、貴族的な顔立ちや体格をシッカリ受け継いでいると言う利点がある分、アラシアの方に軍配が上がる筈なのだ。

しかし、ルシールの所作とアラシアの所作を並べて比較してみると、 アラシアの方には決定的な要素が欠けているという事実が、ハッキリと目に見えたのである。

『品格』を感じさせるような――静かな気品を湛えているとも言える――微妙な雰囲気が。

ダレット夫人は、何処で教育が足りなかったのかを、真剣に思案し始めていた。

「何よママ。最近、変よ」

アラシアは、淑女そのものと言った様子で眉根を綺麗に寄せて見せると、 ソファのクッションに優雅にもたれ、麗しく小指を立てて茶を飲み始めた。

ウォード夫妻は、ルシールが立ち位置を占めていた下座の近くの円卓と椅子に、改めて落ち着いていた。

「聞きたい事があるんだけど……」

ウォード夫妻に呼び止められ、慎ましくルシールが立ち止まった。 ルシールにピッタリ張り付いていたマティも、ピタッと立ち止まる。 そのままウォード夫妻とルシールは、上座の会話を邪魔しないように、小声で会話を交わし始めた。

すると、上座の方で落ち着かない様子のレオポルドが、急に大声を上げて喚いた。

「我々にも聞こえるように喋りたまえ!」

それは、レオポルドならではの警戒心の現れであった。だが、そうと知らないアラシアは、 自分の話題よりもルシールの関わる話題の方が注目されている事に気付き、やはり急に不機嫌になったのであった。

アラシアは、きつい眼差しでルシールを睨み付け始めた。

――あの茶ネズミ、今すぐに居なくなれば良いのに!

ウォード夫妻とルシールは、レオポルドの意外な注文に驚き、暫し戸惑っていたが、恐る恐る、普通の声で会話を続けた。

「あなたは、何故アイリスの恋人の頭文字を知っているの?」

ウォード夫人に問われ、ルシールは母親の形見のブローチの事を説明し始めた。 しかし、要点に入ろうとしたところで、急にマティがその説明を遮って来た。

マティは、アラシアに注意するようルシールに耳打ちしたのである。

(今、アラシアが物凄い目で睨んでるんだ。今はブローチ出さない方が絶対に良いって。 レナード・カフスを拾って来た時だって、物凄かったじゃん)

ルシールは戸惑って口ごもり――そして結局、説明を差し替えた。

「あの、今は、そのブローチは無いんですが……あの先日の舞踏会の時、髪飾りにしていた……」

何とも頼りない説明ではあったが、幸いウォード夫人は、その髪飾りをシッカリと覚えており、瞬く間に話が通じたのであった。

「あ……あのアメジスト細工のバラの花ね」

アラシアはシッカリと聞き耳を立てており、早速、けたたましい声でルシールをバカにし始めた。

「あらまあ! アメジストだなんて! オモチャの石じゃ無い。 ダイヤとかルビーじゃ無いとねえ……エメラルドも持ち合わせて無いのかしら!」

美しく上品な嘲笑を続けるアラシア。流石にルシールは愕然としていたが、マティは鼻をかきつつ、小声でブツブツ呟いていた。

「フッ……予想通り、だから底の浅いヤツは……」

アラシアの挑発には乗れない――ルシールは深呼吸して気を取り直すと、ウォード夫妻に説明を続けた。

「そのブローチに、贈り主の刻印が刻まれていたので……それが『L』です。それに、『F&F』の刻印があります」
「F&F……?」

ウォード夫人は一瞬キョトンとしていたが、ウォード氏がピンと来た様子で、推察を口にした。

「……あッ、昔の『F&F』かな」
「もしかして――」

ウォード夫人も、その指摘にハッとした様子で、胸元のブローチに手をやった。 ウォード夫人はケープを留めていた白いヒナギクのブローチを外すと、裏側をルシールに示して見せた。

「このブローチは、『F&F』の品なの……こう言うロゴ?」
「それですわ」

ルシールは驚きながらも、うなづいた。 確かに、そこには、見慣れた特徴を持つ独特なスタイルの『F&F』と言う文字が刻まれている。

「古そうな文字だね。凝ったデザインなのに、こんな狭い場所に精密に刻むなんて、すげー腕前じゃん」

マティも円卓の上に身を乗り出し、ブローチに刻印されたロゴをしげしげと眺めた。 流石に工作が得意なだけあって、技術レベルに対するセンスには鋭い物がある。

ダレット夫人は、『F&F』と言うキーワードに、別の意味でピンと来た様子だ。 横目で、ギロリとレオポルドを睨む。

「あなたって……昔は浮気相手に、下らないゴミの宝石とか買って与えてたわよね。 頭文字Lの正体……なかなか興味深いじゃありませんの」

その不穏な口調に気付いたレオポルドは、いっそう青ざめたのであった。 レオポルドの隣に控えていたライナスも、硬直している。アラシアの母親であるからして、 その癇癪のレベルも推し量れようと言う物である。

アラシアの方は、ルシールへの嘲笑をなおも続けていた。

「聞いたこと無いお店だわねッ! F&Fなんて、最近の話題のJ&J商会の真似じゃ無い。 著作権侵害で、そのうち訴えられるわよ!」

場の雰囲気が悪くなり始めた事をいちはやく悟ったカーティス氏は、だんだん青ざめていった。 カーティス夫人は、空気を読んだのか読まなかったのか、のんびりとした様子だ。

「私も聞いたこと無いのよねえ」
「新しい人は知らなくて当然ですよ」

ウォード氏はカーティス夫人のコメントに理解を示し、穏やかにうなづいて見せた。

「その『F&F』と言うのは、『フィン&フィオナ』のロゴだったんです。 テンプルトンの老舗の宝飾店でしたが、今は合併して改名していて、『ロイヤル・ストーン』系列なんですから」

カーティス夫人は頬に手を当てて、素直に驚きの声を上げた。

「高級商店街の、あのお店が? まあ驚いた! あの宝飾細工は手が掛かってるわ、特注の品の筈よ」

確かに、アメジストのバラのブローチに施された精密な細工は、やっつけ仕事でできるような代物では無い。 同じブランド品であるウォード夫人のヒナギクのブローチも、同様である。

「かつての『F&F』の時代の頃から、宝飾細工では高く評価されていますね。 新年の社交シーズンの頃でしたか、レナード様のカフスのダイヤモンド宝飾の件、大変な話題でした」

これは、ウォード氏なりの、ダレット一家に対するリップサービスである。

ウォード氏のコメントの内容に、マティは別の意味で――技術的なポイントで――感心していた。 ドクター・ワイルドも相当の古株だけあって、昔のテンプルトンの名店を思い出した様子である。

「フィン&フィオナか……腕の良い職人が揃っている老舗じゃった。昔の抗争の影響で、倒産しかねない程、困っていたとか」

キアランは、謎の『L氏』を突き止められる可能性が急に高まってきた事に、驚きを感じていた。

『ロイヤル・ストーン』宝飾店の系列、テンプルトン支店。テンプルトン中央の一等地に並ぶ高級店の一つである。 商人から貴族まで幅広い顧客層を持ち、ダレット一家も常連客だ。

問題のアメジストのブローチが特注の品ならば、『L氏』即ちローリン氏の記録が、店に残っている可能性がある――

キアランは思案しつつ、ルシールに再び目をやった。予想通りだ。 ルシールは大人しく沈黙を続けていたが、その手は固く握りしめられている。 ルシールは、件のブローチが製作されたと思しき宝飾店を訪ねようと決心している筈だ。

アラシアは、ますます不機嫌になっていった。ルシールは老舗ブランドの品を持っているのだ。 しかも、ブランド改名前の――今や、幻のアンティークとしての価値を高めたのであろう――特注の品。

アラシアは、凄まじい視線をルシールに向けた。

流石にその殺気に満ちた視線は、マティとルシールの気を引いた。 アラシアの方をコッソリと窺ったマティとルシールは、二人してギョッとし、顔色を変えたのであった。

*****

ウォード夫妻とルシールの話が一段落した。

妙に空気を読んでいるのか読んでいないのか、カーティス夫人が、毎度の頓珍漢なタイミングで座から立ち上がった。 そのまま、ウキウキした様子でルシールに近づく。

「そう言えば、ライト嬢! ちょっとしたお誘いの話があるんだわ!  グリーヴ夫妻がローズ・パークの夕食会の計画を立てていて、ライト嬢も招待しようと話しているの!」

だがしかし、流石にダレット家の前では、『ローズ・パークご招待』と言うのは、禁句であった――

ダレット夫人は、チラッとカーティス夫人を見やると、ご大層な様子でソファから立ち上がった。

「ローズ・パークも落ちぶれた物だわね。道端をうろつく庶民を、夕食会に招待する場所になるとはねえ」
「まあ、そんな事ございませんわ。オーナー協会の内輪の夕食会になりますから」

ダレット夫人は上から目線でカーティス夫人を睨み付け、なおかつ上品な嫌味を込めて、傲然とした笑みを浮かべた。

「ダレット家が本来のオーナーよ、お忘れかしら、カーティス夫人?  オーナー協会の地位は所詮、召使いや使用人の地位を越える物では無いわ。真のオーナーの帰還の拒否は、不可能よ」

凄まじい癇癪の爆発に直結する気配が、満載だ。 流石に、その嫌味モードの迫力に恐れを成したのか、カーティス夫妻は揃って青ざめながらも、弁解とお世辞を言い始めた。

「ダレット一家のおいでを頂くのは、常に光栄でございますわッ!」

哀れなライナスは、すっかり忘れられていた。だが、失敬に当たらないように、 如何にして出来るだけ遠くまで遁走するかという事で、頭が一杯になっているのは確実であった。

下座に居た大の男たち、即ちドクター・ワイルドとプライス判事とキアランの三人は、 揃ってライナスの危機に同情しながらも、『ドン引き』の状態である。

「そんなの、ありかよ」
「法的解釈では、実際にえらく揉めているんだ」

マティが思わず突っ込んだが、プライス判事は怖気付いたように、解説を返すのみであった。 クロフォード伯爵家は、カーター氏と言う優秀な顧問弁護士を抱えているが、 ダレット一家もまた、相当に戦闘力の有る弁護士を引き込んでいるのである (しかも、その料金は、クロフォード伯爵家へのツケだったりする)。

大広間の控えの間で、スタッフたちが緊急出動に備えて、次々に盾を構えている気配がする。 大広間の端々まで凄まじい緊張が張り詰める中、カーティス夫人の舌は滑らかに回り続けた。

「話が決まりましたら、招待状をお送りします……ご一緒できる夜を楽しみにしております」
「まあ、本当に感心な事ね、オホホ。 何と言っても、ローズ・パークですからね! 相応の格式たる物だと期待してよろしいわね?」

ダレット夫人は勝利を確信し、優雅に高笑いをして見せたのであった。

結局のところ、ローズ・パーク邸は、元は上流貴族のお屋敷なのである。 気楽な夕食会の筈が、格式のある貴族スタイルの晩餐会に格上げとなって行く様を、ルシールは呆然として眺めるのみであった。

カーティス夫人は満面に阿諛追従の笑みを浮かべ、なおも熱心に喋り続けた。

「それは勿論でございますわ、姪のシャイナも出席の予定で」
「私の娘も、明日やっと20歳なのよ……少し早いけれど、シャイナ嬢と同じ大人の淑女として社交界活動しても良い頃合なのよね。 こちらも色々と準備しなくてはいけなくて……」

ダレット夫人も機嫌を直した様子で、言葉の最後で、意味深な様子でチラッと視線を動かして見せるのであった。

賄賂の要求を素早く察知したカーティス夫人は、早速アラシアに声を掛けた。

「まあ! 是非お喜びを申し上げなければ! 取って置きのお祝いを用意いたしますわね、お嬢様!」
「まあ素敵! 何かしら、とても楽しみ!」

アラシアは、急に自分が注目されたと言う事もあいまって、可愛らしく喜びの声を上げた。 その気になればアラシアは、可愛らしく振舞う事も出来るのだ。

ドクター・ワイルドは、カーティス夫人の天賦の舌がダレット夫人の癇癪の爆発を――ひいては、 ダレット一家全員の癇癪の連鎖爆発を――未然に防いだ事を悟り、ただ感心するのみだった。

「カーティス夫人の、あのボケをかます手腕は大した物じゃ。煮ても焼いても食えぬ、政治家の才能がある」
「オバハンには、オバハンか……」

プライス判事も、ホッとした様子で呟いていた。大量の冷や汗を流していたらしく、鼻の頭にまだ汗が浮いている。 実際、嫌味モードになったダレット夫人に勝てる勇者(オトコ)は、この世の何処にも存在しないのである。

大広間の控えの間でも、スタッフたちのホッとしたような雰囲気が広がっていた。

「すげえ横車、ごり押し……」

ローズ・パークの夕食会への割り込みに加えて、賄賂の要求もあったらしいという事を曖昧ながらも理解したマティは、 呆れながら鼻をかいているのであった。

ウォード夫人は困ったような笑みを浮かべ、ルシールにそっと声を掛けた。

「夕食会に来てくれますね? 話したい事が色々ありますから……」
「ダレット一家は、カーティス夫妻とシャイナ嬢に任せれば大丈夫」

ウォード氏も太鼓判を押している。

確かに、カーティス夫妻とダレット夫人のやり取りを見ると、カーティス夫妻は、 この気難しい一家に極めて上手に対応していると分かる。 カーティス夫妻の姪・シャイナも、どうやってかは分からないが、 レナードを始めとして、ダレット一家の好意を、上手く得ているらしい――

ルシールは曖昧にうなづきながらも、 ダレット一家が加わって来た事でドレスコードが急上昇したと言う事実を察知し、焦りを感じていた。

会話の内容からすると、アラシアの成人祝いを兼ねた、限りなく公的な催しになるのは確実だ。 そういう性質の夕食会、もしくは晩餐会には、間違い無く、サテンドレスが必要である。 しかし、数日前、アラシアの手によって、唯一のシルクであったサテンドレスが燃やされてしまっているのである。

アメジストのブローチにまつわる新しい情報も、ルシールを動揺させていた――まだ頭の中が混乱しているのだ。

*****

大広間に新しい人物が現れた。弁護士カーター氏だ。

気が付いてみれば、既に午後の半ばと言う時間帯である。太陽は既に西の方に移っていた。 再び角度が浅くなり始めた陽光が、大広間に並ぶ大窓から、柔らかに差し込んでいる。

大広間の面々を確認したカーター氏は、いつもの穏やかなポーカーフェイスで丁重に一礼した。

「皆さん、おいでのところ、失礼いたします」
「おッ……カーター氏、やっと上の用件が終わったんだな」
「お蔭様で」

プライス判事が早速、カーター氏に確認を入れる。カーター氏は穏やかにうなづき、意味深に微笑んで見せた。 そしてカーター氏は素早くキアランに近づくと、おもむろに声を掛けた。

「遅くなりました、リドゲート卿……」

キアランとカーター氏は、素早く密談モードに入った。

目ざといマティは、その意味深な様子に鋭く気付いたが、キアランやカーター氏の立ち位置との間には相応の距離があり、 とても盗み聞き可能な状態では無い。

マティの傍に居るルシールは、ウォード夫妻と会話を交わしつつ茶器の片づけに集中していた。 そして、プライス判事とドクター・ワイルドは脇に寄っていて、レナード・カフスの紛失事件について、 コソコソと情報交換中だ。

マティが周りを見回してみると、ダレット一家とライナスとカーティス夫妻は、上座の方で、 傲岸不遜とゴマすりと阿諛追従の続きをやっている。 称賛を受けるのに夢中なダレット一家の面々は、キアランを無視していた――いつものように。

カーター氏は明らかに、大広間に居る他の面々が密談に注目していない事を確認して、キアランに耳打ちしているのだ。 マティは、大いに首を傾げた。

キアランはカーター氏との密談を終わらせると、早速、ドクター・ワイルドに声を掛けた。

「再確認ですが、父は階段昇降は、もう問題は無い状態なんですね?」
「ああ、勿論じゃ。多少の注意は必要じゃが……」

ドクターは不思議そうな顔をしながらも、キアランの確認に答えた。

キアランとカーター氏は、素早く意味深な視線を交わし、互いに了解し合っている。 『大人の事情』と言うヤツなのか――マティは目をパチクリさせ、不自然な気配が満載の、事態の進行を注目するばかりだ。 マティの様子に気付いたルシールも、首を傾げつつ、周りを見回した。

キアランは、上座で談笑を続けるダレット夫妻とカーティス夫妻とライナスの一団に近づくと、進行中の会話に水を差した。

「申し訳ありませんが、カーティス夫人。 この度、ダレット一家は、クロフォード伯爵が催す明日のディナーに出席して頂く予定になりました。 ローズ・パークの夕食会の日取りは、当分、延期して頂きたいのですが」
「当方、了解でございますわ、リドゲート卿」

カーティス夫人は早速、その注文に飛びついていた。カーティス氏も、心なしかホッとした顔である。 カーティス夫妻にとっても、正直言って、『面倒事』を先延ばしに出来る有難い話であったらしい。

レオポルドは疑わしそうに顔をしかめ、キアランを眺めやっていた。

「改めてディナー招待とは、珍しい風の吹き回しだ」
「父が、階段昇降可能な程度まで回復しています。 明日のディナーは、レナードにも出席して頂きます……出入り禁止は一旦、解除と言う事で」

再び緊張が走っていたが、キアランは、いつものようにムッツリとした無表情だ。

レオポルドは青い目を険しく細め、幾ばくかの疑念を顔に浮かべながらも、傲然とした様子で呟く。

「やっと異常な状況を正す気になった……と言う訳だな」

キアランは、そのちょっとした挑発には応えなかった。

「ちょうどトッド夫妻も帰国する……トッド夫妻と、ライナス氏も招待します」

キアランはライナスにも丁重に声を掛け、ライナスは早速、招待を受け入れていた。

「父の回復祝いという事で……プライス判事とワイルド先生も来て頂けますか」
「そりゃ、勿論じゃが……」
「回復祝いと言うが、何かあるんだな」

同様に声を掛けられたドクター・ワイルドとプライス判事は、揃って招待を受け入れながらも、 流石に怪訝そうに首を傾げていた。

此処まで来ると、流石にダレット夫妻も、今までとは違う様子に気付きだしたのである。 レオポルドはゲストとなる面々をザッと確認し、これは、もしかしたら……と息を呑む。 ダレット夫人も目を見開いた。

ダレット家の傍系親族で、クロフォード傍系親族としては高位にあるライナス。 クロフォード伯爵の叔父筋であるトッド夫妻。クロフォードにおける首席の治安判事。伯爵家の主治医たるドクター・ワイルド。

このゲストたちで、『伯爵の回復祝い』という名目ならば、公式のディナー扱いになる筈だ。

ダレット夫妻の脳裏には、限りなく『確実』と思われる可能性が浮上していた。

――遂に……! アラシアとの婚約を公式に発表か……!

「当主ご臨席の正式なディナー、何て羨ましい事でしょう!」

カーティス夫妻も、アラシアの成人祝いの話が出た直後だけに、ダレット夫妻と同じ可能性を思い付いたらしい。 早速、ダレット一家に向けて、特製のお世辞と阿諛追従を積み上げ始めた。

ダレット夫人は、未来の予感に緩む頬を優雅に押さえつつ、カーティス夫人の賛辞に滑らかに応じて見せた。

「わたくしには何でも無いわね、クロフォード伯爵家の大奥方ともなれば……アラ、これは秘密ね」

ウォード夫妻は驚いたように目をパチクリさせていたが、すぐに穏やかに苦笑を交わした。 ウォード夫妻はルシールと「また次の機会に」と一礼を交わすと、カーティス夫妻やダレット一家の元に近づいて行った。 ダレット一家へのリップサービスは、ローズ・パークのオーナー協会の義務のような物なのであった。

ルシールは茶器を整理すると、マティに微笑みかけた。

「伯爵様が回復ですって、良かったわね。パパとママが海外出張から戻るって話も。そう言えば、ご兄弟は?」
「姉・兄・兄だけど、一番上の姉御は女学校行ってて、二人の兄は寄宿学校さ。オイラは、まだ……家庭教師は、じいじなんだ」

マティは四人兄弟の末っ子なのだ。実際、マティはまだ寄宿学校に上がる年では無く、 マティの勉強については、クレイグ氏が見ているのである。

公式ディナーの招待をほぼ終えたキアランは、最後に、マティとルシールの方を振り向くと、 おもむろにうなづいて見せたのであった。

「プラス、二人分……」
「ルシールも入ってるね……」

マティは早速、キアランの所作の意味に気付いて、ルシールを見上げた。

「伯爵の回復祝いと言う名目だと、公式の集まり……シルクのドレス、持ってたっけ?」

ルシールは一瞬、目をパチクリさせた。そして、愕然とした。

ドレスコードに関して、状況は、より切羽詰まった物になってしまったのだ。 曖昧な数日後どころか、明日の夜までに、シルクのドレスを用意しなければならないのである!

7.クロフォード伯爵邸…華麗なる狂奔

一通りの相談が済み、カーティス夫妻とウォード夫妻は、クロフォード伯爵邸を退去して行った。

続いて、カーター氏とドクター・ワイルドとプライス判事も、三人で何やら情報交換しつつ、 クロフォードの町へと戻って行ったのであった。

今夜のディナーまで間もない時刻だ。来客たちの見送りを済ませたマティとルシールは、大広間で待機した。

マティは、海賊の宝箱から『謎の手』がバネ仕掛けによって飛び上がって来ると言う、不思議な代物を工作していた。 完成途中の作品ではあるものの、マティからその不思議な代物を見せられたルシールは、 絵本に出て来るような海賊の宝箱からバネ仕掛けで飛び出して来た『謎の手』を眺めて、首を傾げるのみだった。

――つくづく、マティの頭の中身は、謎だわ……

アラシアは、ディナーのための身支度を済ませ、大広間でくつろいでいた。 如何にも迷惑そうな目つきで、マティとルシールが談笑している様子をしきりにチラチラと睨んでいたが、 やがて、二人に聞こえるように不機嫌な口調で喋り始めた。

「伯爵様はお怪我をされて、判断も完全にお間違いになってるだけなのよねッ!」

聞こえよがしの大声だ。ルシールは、その声に潜む刺々しさに気付き、アラシアの方を振り向いた。 アラシアは、ルシールの注目を引いた事を確信して、華麗にプイと顔を背けて見せた。

「あんたは招待もされてない筈だわ、サッサと引っ込め! 今朝の馬車で死んでいれば良かったのよ」
「今朝の、馬車?」

流石にルシールも、突然の意味不明な内容に疑問を覚え始めた。 その横では、『今朝の馬車』の事情を知るマティが、真っ青になっている。

アラシアはマティを完全に無視しており、苛立ちを叩き付けるように、ルシールに向かって攻撃的な言葉を次々に浴びせた。

「父親も分からない女が、どの面さげてディナーに出席するっていうの、空気も穢れるってのに……! ホーラ、口紅、 失敗したじゃ無い! もう! あんたのせいでよッ!」

アラシアは、『こちらが哀れな被害者だ』と言わんばかりに、手に持っていた手鏡を殊更に振り回して見せた。 その危なっかしいまでの勢いと来たら、ちょっと手を滑らせれば、手鏡がルシールにぶつかって来そうだ。

――会話が全く成り立たない上に、このままではディナーの雰囲気も悪くなる。

ルシールは困惑したものの、速やかに判断を下した。この場では、やはり、ルシールよりもアラシアの方が立場が上になる。

ルシールは、『今朝の馬車云々』については全く身に覚えは無かったが、アラシアの意図は透けて見えていた。 アラシアは、ルシールが一定の反応ないし結果を出して来なかった事で、一人で不機嫌になっており、 その不満を八つ当たりして来ているのだ。

キアランがライナスと共に大広間に姿を見せると、ルシールは丁重に一礼した。

「申し訳ございませんが、今宵のディナーも欠席させて頂きたく――」

すると、そこへ、透き通るような美声が響いたのであった――アラシアの声だ。

「どうしましょう! あたくしが居るのが、そんなにお嫌なのかしら!」

アラシアは今度は、被害者ぶった口調で、哀れっぽく訴えかけたのである。 美しい青い目に涙を浮かべ、はかなげに身を震わせ、如何にも悲劇の美少女と言った風だ。

ルシールは、アラシアに対して、所定の仕草で優雅に首を傾けて見せた。 『そのような事は全くございません』という、『貴婦人の無言のサイン』だ。 これは、男性にも比較的知られている物であり、キアランとライナスは気付いた。

しかし、アラシアの方は、最初からルシールを『卑しい身分の穢れた女』と決めつけていたせいで、 目が曇っていた。人は、見たいものしか見ないものなのだ。 アラシアは遂に、ルシールが寄せて来た『貴婦人の無言のサイン』には――成人を迎えるというアラシアに対する敬意にも――、 気付く事は無かった。

マティの目から見ても、前後の脈絡を考えれば、アラシアの言葉と行動は矛盾している――と言う他に無い。

アラシアは、いっそう悲劇的な表情になって、大粒の涙をこぼして見せた。 『ルシール、お願いだから許して』と言わんばかりに、清らかな聖女さながらに、胸の前で震える手を組んでいる。 それは、アラシアの目論見どおり、何があったか見抜けない第三者の人々に対して、 『ルシールの極悪非道ぶり』を告発する格好となっていた。

いつものように、やや遅れて大広間に現れたダレット夫妻は、非難を込めた目つきで、『アラシアを泣かせたルシール』を睨み付けた。 ダレット夫妻は、元々ルシールに悪印象を持っていただけに、 ルシールに対する不快感のゲージが更に跳ね上がったであろう事は言うまでも無い。

ダレット夫妻が口を不吉に歪ませつつ、ルシールに向かって、足を一歩踏み出した。 刺々しく、どす黒く、恐ろしいとすら言える、ピリピリとした空気が充満した。

ライナスは危険爆発物の真ん中に居る事を察知し、素早く脇に退いて無関心を通した。 マティも珍しく『ドン引き』状態で、いつもの気の利いた反撃コメントも思い付かない様子だ。

――ダレット夫妻に、殴り倒されるのかも知れない。

ルシールは直感のままに心臓部の前で手を組み、歯を食いしばって、予期せぬ攻撃に備えた。 幸い、周囲には、怪我しやすい陶器などの類は配置されていない。

ダレット夫妻が口を開き、何かを言おうと――或いは、手を上げようと――する前に、キアランが動いた。

キアランは、ルシールとダレット夫妻との間に器用に割って入ると、キョトンとするルシールの手首を素早くつかみ、 『速やかに大広間から追放する』という形で、大広間の扉の外へと連れ出したのである。

キアランは、ルシールを犯罪者か何かのように引きずり、文字通り廊下へ放り出すような格好だ。 余りにも想定外の有り様に、ダレット夫妻は揃って怒りを忘れ、口をポカンと開けた。

アラシアは、ハッと息を呑んで両手で淑やかに口を押さえ――しかし、 その手に覆われた口元には、ほくそ笑みがあった。

――そう! これよ! これが正義なのよ! このような犯罪者扱いこそが、 あの下賤な茶ネズミ女に、相応しい扱いという物よ!

ダレット夫妻の暴力の前兆を良く心得ていた執事が、大広間の扉を開けたままにしていた。 執事は、ダレット夫妻からの死角を読んでいたかのように、扉の前に控え続けていた。

ルシールが、大広間を追い出されるようにして退出する――

キアランとルシールの姿は、執事と扉が作り出した死角の中に、ほぼ隠れた形になった。

執事が、ダレット夫妻に慇懃に一礼した後、扉をサッと閉めた。 知らぬ間に死角を取られていたダレット夫妻は――死角の中で何が起きていたのかには、全く気付いていなかった。 もし気付いていたら、大爆発だったであろう。

少し場所がズレていたアラシアは、執事が扉を完全に閉じる直前、その隙間から見えた光景に目を見張る羽目になっていた。

――キアランがルシールの手を取り、ルシールの手の甲に素早く口づけをした――

貴族社会においての、その行為の意味を良く知っていたアラシアは、手で覆い隠したままだった口を、悔しさに歪ませた。

アラシアは、儀礼上必要な場面以外では、男性から敬意のキスを贈られた事は無い。 あのように、とっさの機転で予期せぬ暴力から守られた事も、無い。

一瞬は勝利を確信し、高揚していただけに、アラシアのジェラシーは、一層つのる物となっていた。

――大人っぽい髪型にしたってのに、あの石頭ったら、全く気付かないばかりか、敬意を表する相手まで間違っちゃって!

まず第一に敬意を表されるべきは、大人の門をくぐろうとしているアラシアの筈なのであった。

――何故あんな下賤な茶ネズミ女が、レディとして、 キアランから敬意を表されるって言うの! テンプルトンで判明した、クソ女の秘密をバラしてやれば良いんだわ……!

*****

広く贅沢な食堂で、いつものようにディナーが始まった。

長方形の食卓の一方の席には、レオポルド、アラシア、ダレット夫人の三人が並び、 もう他方の席には、キアラン、マティ、ライナスの三人が揃っている。

ルシールが居ない今、食堂の中では、アラシアが唯一の若い女性として――すなわち特等の者として、 丁重にもてなされている。アラシアは、この上なく上機嫌であった。

一通りのニューストピック等の世間話が一段落した後、ディナーの面々の話題は、雑談に移った。 アラシアは淑女らしく、この上なく淑やかに幾つかの話題に応じた後、 他人の注意を否応なく引き付ける、取って置きの美声を一同に披露した――

アラシアは、ルシールのアバズレぶりを告発し始めたのである。

「テンプルトンじゃ大した噂だったわ!」

アラシアは上品な苦笑を浮かべていたが、その言葉遣いは、辛辣そのものだった。

「あの女、よりによって、チビでデブでハゲのギャング=タイターと、 ご親戚ですってよ! ギャングの親戚が伯爵家に出入りするなんてね!」

アラシアは、アシュコートの社交界やテンプルトンで流れていた真偽の分からないゴシップを、次々に披露した。

「何でも邪悪な魔女の手下だとかで、恐ろしい禁術の儀式とか、お手の物だそうよ。 復活祭の頃にも、ズタズタになったネズミの死体を使って、 何か凄まじい血みどろの儀式してたって噂だわ! アシュコートじゃロックウェル事件が連日のニュースだったけど、 あのバラバラ死体の正体も、案外、ルシールの邪悪な儀式の犠牲者だった方かも知れなくてよ」

ゴシップの入手先は、容易に予想できる物であった。 ダレット夫人が出入りする『テンプルトンの集会』や『有閑マダムのサロン』である。 退屈しのぎのためもあって、妄想によって凄まじい尾ひれを付けられた噂が飛び出して来るのが常であった。

ダレット夫妻は、アラシアの長広舌を黙認していた。 上流貴族社会における伝統的な決まり事に従う限りでは、アラシアの告発行為は、正しい行動になるからだ。

そもそも、父親も分からない下賤な商売女たるルシールが、 クロフォード伯爵邸に正式な客人として出入りできる事態そのものが、不適切なのである。 ルシールの『正式な客人』としての立場は、あくまでも、 クロフォード伯爵の『破格な好意』によって与えられた物でしか無かった。

由緒正しき貴族社会の伝統と秩序を守るためには、ルシールを極悪人として、最後の血の一滴に至るまで叩きのめし、 髪の毛一筋ほども残さないように、その存在を徹底的に排除しなければならない。

ディナー席の面々は、ルシール本人ばかりか、その父母や祖父母、親戚に至るまで、 根拠の無い噂と思い込みによって、その名誉が徹底的に捻じ曲げられ、鞭打たれ、切り裂かれ――、 『アラシア劇場』において、完膚なきまでに踏みにじられ、虐殺されるのを聞かされる羽目になったのである。

ルシールの母親アイリスの蒸発は、町内でもささやかなゴシップの種になっていた。 アイリスは金髪の美しい娘だった事もあり、タイター氏との不幸な関係についても周知の事であったので、 色っぽい尾ひれが付くのは自然な事であった。

アラシアは、それを大いに誇張した。伝聞して来ただけの、裏も取れていない曖昧な内容に、 自分の妄想をさも事実であるかのように追加して、喜々として捻じ曲げて行ったのである。

「ルシールの祖父アントン、あの下賤なヤミ商売人・ビリントン家の、 一番の恥さらしだったそうなのよ! アントンの奥さんも美人なだけの浮気女で、 不埒にも、他の男と不倫して駆け落ちしてたんですって! アイリスも、 妻子のある貴族と不倫して、その末に逃げ出して……ホント破廉恥な女ね。 流石、あの卑しい商売女の祖母と母親だわね!」

他人に対する侮辱行為となると、アラシアもダレット夫妻と同じく、やはり気分が乗るらしい。 妄想を根拠とする名誉棄損は、とっておきの美声による毒液の如き誹謗中傷となって、延々と続いた。

「そうそう、或る確かな筋によれば、ルシールの父親の正体は、本当は貴族どころか、 身分詐称の卑しい犯罪者なんですって! よりによって、監獄から脱走していた腐れ外道なんですってよ。 それも10人以上の! ルシールがギャング=タイターやその甥のナイジェルと、破廉恥なハーレムやってるのが証拠ね。 まともな紳士が、あんな下賤で極悪非道の、二股どころか百股の腐れ悪女なんか、選ばなくって当然だわ!」

アラシアは品行方正な淑女そのものの顔をして、もっともらしい教訓を付け加えて見せた。 ナプキンで口をそっと押さえる様は流石に上流貴族そのものの優雅な仕草であったが、 覆い隠されていたその口元に残忍な笑みが浮かんでいた事は、疑いようも無い物だった。

「結局は、正義と正統が勝利した訳よね!」

ライナスは、アラシアの語る内容に『ドン引き』であった。 そして、お喋りの中に――言葉の選択の中にハッキリと現れている、アラシアの軽薄で残酷な性格にも。

レオポルドは、アラシアの毒々しいまでの長広舌を黙認するだけでなく、明らかに助長さえしていた。 自分の華々しい過去とルシールとの関係を――それが有ったとしての話だが――、 何処かの、自分では無い誰かに責任をなすり付けて、有耶無耶にしようという下心が透けて見える行為であった。

物議をかもす発言であったとは言え、ウォード夫人が推測し語った内容の方が、 親友として見聞きした事実に立脚している分、思慮深く、公平であったように思えて来る。

――同じ情報でも、これ程に意味合いが変わって来るものか。

ライナスは、自分以上に気分を害しているであろうと思われる隣のマティを、恐る恐る振り返った。

マティは、不思議な程に沈黙していた。

「今日は静かだね、マティ君」
「たまにはね」

マティはスープの入ったカップを空にしていった。 コックが腕によりを掛けたスープだけあって美味な筈なのだが、実際は不味そうだ。 果たして、マティは、ライナスの予想通り、大いに気分を害していたのであった。 やや大きなサイズを持っていたカップの陰で、マティはアラシアに非友好的な視線を向けていた。

――明日の、リチャード伯父さんご臨席のディナーに招待されて、得意満面じゃねーかよ。 先刻の言い草、バッチリ聞いたからな。鬼婆め。

そして、マティ以上に気分を害している人物が一人居た――アラシアは勿論、 ダレット夫妻でさえ予想だにしていなかった、無表情の、堅物そのものであると言う人物が。

「ダレット嬢……ディナーが済んだら執務室に来て下さい。内密の話があります」

キアランは、いつものようにムッツリとアラシアに語り掛けた。アラシアは目をパチクリさせた。

「内密の話……? あらッ、まあ……何か照れるわ」

ディナーが済んだ後の空き時間、アラシアは得意そうな様子で頬に手を当てた。

「これは求婚されるな!」

レオポルドは、『ルシールの正体を暴露する』という形でのキアランへの説得が成功した事を確信し、 早速、アラシアを力づけていた。大広間でのアラシアの涙を見て、遂にキアランも心を入れ替えたに違いない。 正義の名の下に、かの下賤な商売女を犯罪者として扱い、ディナーの席から速やかに追放したのだから!

「明日のディナーで婚約成立の公表も、きっとあるだろう!」

ダレット夫人も得意絶頂になって顔を輝かせ、将来の計画を立て始めた。

「リッチ公爵家にも、都の王族親戚にも報告しなくてはね……都の社交シーズンでは、 婚約のお披露目とかで色々忙しくなるわよ」

物陰で、ダレット一家の会話を聞き付けていたマティは、フンッと鼻を鳴らしていた。

特に招待客の筆頭としてダレット一家が招待された理由には、やはり何かあるだろうとは思える。 伯爵の回復祝いともなれば、そのような『一見、めでたい話である』話題にもなるだろうと言うのは、 確かに予想できるのだ。

が、最初から、キアランとアラシアの結婚話が気に入らなかったマティにとっては、 実に『お気に召さない展開』である。

マティは、物陰にコッソリと隠していた包みを取り出すと、大いに下心のある不穏な笑みを浮かべた。

「フンッ、細工は上々……悪魔も裸足で逃げ出す最新の大発明……スペクタクル超大作だぜ」
「なッ……何を作ったんだ……新手の蛇のオモチャ!?」

穏やかならぬ呟きを聞き付けたライナスは、流石にギョッとした顔になった。

マティは、おもむろにライナスの方を振り返ると、意味深な視線を投げて見せる。

「今宵が明けてからの、お楽しみさ……」

ライナスは、ただならぬ迫力を見せて立ち去るマティを、身体を震わせつつ見送るばかりであった。

――このクソガキ、ハードボイルドの才能ありだぜ……

*****

当座のダレット夫妻の公認の『密会の場』となった執務室には、キアランとアラシアの二人が居た。

先に執務室に来ていたキアランは、おもむろに書類を取り出すと、アラシアに突き付けて見せた。

「――これは、今朝の殺人未遂の企てに関する報告書です」

ハッとして、厚みのある書類を見やるアラシア。その特徴的な暗い色をした表紙には、見覚えがあった。

――犯罪に対する調査記録、ないし捜査記録だ!

「告発者は、主たる被害者ルシール・ライト嬢です。あなたが馬車に何を工作したか、記録してある。 正式な客人の命のみならず、顧問弁護士や御者の命をも巻き添えにしようとした『未必の故意』と解釈され、 クロフォード伯爵家は、この事態を重く見る事になります。この意味は、理解できますね」

キアランは、いつものようにムッツリとした口調で、簡潔に事実を述べて見せた。

しかし、アラシアは一瞬『理解できない』と言う顔をした後、鼻で笑い飛ばしたのであった。

――こんな物、ルシールが仕掛けて来ていた『極悪非道なアレコレ』に比べれば、ちょっとした悪戯に過ぎない。 『親しみを込めただけ』の、これの何処が、由緒ある上流貴族たるクロフォード伯爵家が、 目くじらを立てるような犯罪だと言うのかしら!

「冗談よ。ちょっとしたユーモアだわ、キアラン様!」

キアランの眼差しが一層冷たくなったのを察知して、アラシアは更に言いつのった。

アラシア自身にも、或る程度の面子はあった――このような、 『名誉ある淑女』らしからぬ行動が、両親にバレたら、やっぱり困っちゃうわ、と思う程度には。

――よりによって、あの下賤な茶ネズミに、自分が犯罪者扱いされるとは。 これ程に卑劣な濡れ衣を着せられるとは。まして、婚約発表前という大事な時に!

「……じゃ無くて、あれは、あたくしじゃ無い……あの、悪魔のガキに、クソ女が……」

だが、常識的に見れば、カフスボタンの件に比べると、マティとルシールに罪をなすり付けるには、 無理があり過ぎるのは明らかだ。ましてルシールが、タイター氏との二度目の対決という時に、 自分で自分を再起不能にするような事故を目論む筈が無い。

アラシアは、キアランの予想通りの反応をしていた。『地位に伴う特権』と『正義』をはき違えたが故の、視野狭窄。 元々は、ダレット夫妻がアラシアに対して『貴族教育』と言う名の『洗脳教育』を施していたのが原因だ。

肝心な部分が抜け落ちたため、アラシアは『常識』というスキルを身に着けられなかった。『敬意』というスキルも。 殊に、『常識』や『敬意』と言うのは、極めて高度なスキルであり、大人になっても分かりにくい部分だ。 それこそが、『品格』を形成するのだが。

――そういう意味では、アラシアもまた、カルト的なまでに歪んだ教育の被害者ではあるのだろう。 問題は、相応の頭脳と時間とチャンスに恵まれていながら、自力で『気付き』を得られなかったという部分だ。

「そう、ライナスに脅迫されたのよ! だから、仕方無く――」
「だから?」
「このあたくしに対する陰謀よ! あたくし、伯爵夫人になるのよ! だから……!」

アラシアは殊更に目をうるませ、被害者ぶって、他人に罪をなすり付けつつ、話を大きくしていった。 この事件の正体は、クロフォード伯爵家をゆるがす卑劣な陰謀と言う訳だ。 いつもの癖だ――もはや無意識的な習慣と化していて、そのロジックの不自然さに、自力で気付かない。

キアランは、ムッツリとした無表情のまま、アラシアを一瞥した。

「――お似合いですよ、その髪型は」

以前のように、泣き落としが通じない。アラシアは険しく目を細め、唇を噛んだ。

――髪型の変化には最初から気付いていて、 敬意を表するどころか無視していたんだわ! あんな下賤な茶ネズミ女に惑わされて……! 此処まで来ると、 退屈な石頭どころか、頭には砂しか詰まっていないに違いない! 全く無能で、使えない男だわ!

「大人としての責任を問うても良いと言う証だ……ダレット嬢は明日、20歳になる。 未来の伯爵夫人ともなるレディならば、一人の貴婦人として、責任を負える能力もあるでしょう」

しかし、キアランのその言及は、アラシアにとっては意味不明な指摘に近い物だった。

――大人になれば『子供の時には出来なかった事』が自由に出来るようになるのよ! 『責任』だの何だのは、 卑しい平民どもにこそ課せられる物であって、生まれながらの貴族であり貴婦人であるあたくしには、全く関係が無いわ!

アラシアは腰に手を当てて、傲然と胸を反らした。ビシッと指を突き付ける。 その『邪神の聖女』そのものの凶相への激変ぶりと来たら、先程までの、 涙を一杯溜めていた『あえかな美少女』は何処へ消えたのかと思う程だ。

「キアランは、あの茶ネズミに、たぶらかされているんだわ! あのアバズレの嘘八百を信じるなんて、 狂ってる……! あたくしが、キアランを正気に戻してやるわよッ!」
「正気に戻す?」

キアランは、再びアラシアに視線を向けた。アラシアは、勝ち誇った様子で事実を指摘して行く。

「知ってるのよ! 宮廷に連なる上流社会の親族たちは、伯爵家の直系の筋たるあたくしとの結婚じゃ無いと絶対、 納得しない! キアランの立場は、あたくし次第だわ! あたくしを失えば、あんたは破滅よ! 伯爵様の評判も、 地獄に落ちる……! 分かってる筈よ!」

キアランの目元が、ピクリと緊張した。

まさに、それこそが、ダレット夫妻から婚約話を持ち出された時に、キアランが動揺した理由だ。

キアランは法的には跡継ぎたる資格を持つものの、血統的には認められないと言う致命的な弱点があるのだ。 しかし、クロフォード伯爵家の公認の直系筋の令嬢、すなわちアラシア・ダレットと結婚して嫡子を成せば、 その嫡子からさかのぼる事で、この問題は解消されるのである。

そして、クロフォード直系の血族全てが既に断絶してしまっている今、条件に当てはまる『公認済みの令嬢』は、 アラシア・ダレット以外には居なかった。

キアランは、ダレット夫妻の気分を損ねる事は出来ても、アラシアの気分を損ねる事だけは、絶対に出来ない。

現に、恐るべき面倒事になっていた『金と女のゴタゴタ』に巻き込まれていた時でも、 キアランは、ダレット夫妻の抗議を無視してレナードを処分する事は出来ても、アラシアを連座で処分する事は出来なかった!

キアランの動揺を目ざとく見て取ったアラシアは、勢いに乗った。 自分には、絶対不可侵と言っても良い程の、絶対的価値があるのだ――両親をも上回る程の。 それを良く知っているアラシアは、勢いに乗って、更に痛いところを正確に突いていった。

「あの、お下劣極まるアバズレ女の口車に乗ったばかりにね! 明日になればキアランは、泣いて土下座して、 あたくしの許しの手を求めてるわ! そうしたとしても、タダじゃ許さないから、覚えててよ!」

アラシアはキアランに最後通牒を突き付けて見せると、乱暴に執務室のドアを開けて飛び出して行った。

――あたくしが居ない間に、あの悪魔よりも悪辣なクソ女が、 いろんなデタラメを吹聴してたんだわ! よくも高貴な血統を辱めてくれたわね! 絶対に、 許さない! 今に見てなさい! 明日には形勢逆転しているんだから……!

アラシアの中には、今にも爆発せんばかりの激しい怒りが渦巻いていた。

*****

夜も更けた頃。

ライナスは、いきなり部屋に侵入して来たアラシアに叩き起こされた。

「ライナス! 今すぐ全部、荷造りして出発よ!」
「こんな夜中に?」

余りにも突然だ。ライナスは、寝ぼけ眼でボンヤリするのみであった。

「夜中だからこそ、決定的に重要なの!」

アラシアはキンキン声で叫ぶ。いや、実際には大声で叫んでいる訳では無いのだが、 声量の割に、脳みそに不快に響いて来るのだ。寝ぼけた頭には、余計にキツイ声質だ。

ライナスは、アラシアの将来の夫となるであろうキアランに、一抹の哀れを感じた。 結婚したら、毎日、ベッドの中でも、この不快なキンキン声を聞かされる羽目になるであろう事は、 火を見るよりも明らかなのだ。

アラシアは無慈悲にもライナスをベッドから叩き出すと、 部屋の中の物を――主にアラシアの私物を――荷造りするように、ライナスに言い付けた。

ライナスは、これまで何度もダレット一家の荷造りに動員されていただけあって、アラシアの私物はすっかり承知していた。 贅沢なドレスや宝飾品で一杯なのだ。丁寧な収納をしないとドレスには変なシワが付いてしまうし、 精緻かつ繊細な宝飾品に至っては、専門のボックスに慎重に固定しておかなければならない。 一時間や二時間では終わりそうも無い量だ。

「グズグズするんじゃ無いわよ、このクズ男が! 早くしないと今すぐパパに言い付けるわよ。 大事な婚約前の高貴なレディを傷物にしたって!」

ライナスはブツブツ言いながらも、アラシアの命令に従わざるを得ない。

「有り金、全部よ! 目に付く限りの金銀宝石も頂いてくわッ!」

自分はソファでくつろぎつつ、更なる命令を下すアラシアなのであった。

幸い、ライナスは手先が非常に器用な性質だった。意外に短い時間で荷造りが完成した。 そして勿論、大量の荷物を引きずる事になったのは、ライナスだ。

裏口を目指すアラシアの後に付いて行きながらも、ライナスは不安を口にせざるを得ない。

「夜中に裏口から黙って出るなんて、大騒ぎになるに違いないのに」
「それが目的に決まってるわよ、この脳タリン!」

アラシアは容赦無い。車庫の前まで来ると、アラシアは再びキンキン声で命令を下した。

「さあ! 早く馬車を出して走らせて!」
「人手も無しじゃ大変なんだよ、御者や馬丁を呼んで来なくちゃ……」

ライナスも流石にゲッソリとした様子で問題点を指摘した。

しかし、アラシアの『正義の遂行』にとっては、御者や馬丁などといった『余計な目と口』は、 邪魔な要素でしか無いのだ。ライナスのような無能で下賤な男に、この自分の正義の鉄槌を邪魔する権利など、 いっさい無い。アラシアは目を更に吊り上げた。

「あたくしの事を聞けないなら、パパに言って、鞭打ち百回よ!」

哀れなライナスは、ただアラシアの言う通りにする他に無かったのであった。

奇妙な二人を乗せたクロフォードの快速馬車は、伯爵邸の裏口からひっそりと出て行った。 快速馬車は、その名前に相応しいスピードで、夜の冷え込みが続くクロフォード伯爵領の丘陵地帯を走り続けた。

御者席のライナスは、暖かく快適な車内でくつろいでいる筈のアラシアに対して、 不平不満を大いに積み重ねて行った。

――全く畜生だよ、あの報酬の話は一体、どうなっているってんだよ。 何だってまた、こんな夜中に、急にコソコソ抜け出す事になったんだ……?

そこでライナスは、賢明にも、昼間の大広間で明かされていたショッキングな情報を思い出したのである。

――ウォード夫人の、あの爆弾発言は絶対に荒れる。

悪魔も裸足で逃げ出す程の、 かの『モンスター夫人(オバハン)』と『モンスター令嬢(アバズレ)』の耳に入ったら……地獄になる前に、 早めに逃げた方が良い気がするぞ。

ライナスは、曖昧なままであった馬車の行き先を、アシュコートに切り替えた。

実は、アラシアは、『クロフォード伯爵邸から行方不明になる事』が目的なのであって、 馬車の行き先については、何も決めていなかったのだ。

アシュコート伯爵領なら急げば丸一日程度の距離だし、首都直通の国道もあって、華やかな場となっている。 レイバントンの町は、更に足を伸ばさなければならない辺境にあるが、アシュコート伯爵がまだ滞在している事もあって、 目下、アシュコートにおける地元社交の中心となっている。

アシュコート伯爵領におけるメインの春の舞踏会は既に終わってはいたが、方々の地主たちの邸宅で、 小さな舞踏会や音楽会、夕食会などが続いている状態だ。 例えば、クロフォード伯爵領における地元の名士カニング家の小さな舞踏会や、 ローズ・パークの舞踏会や夕食会のようなものである。

ライナスは、将来の脱走計画を慎重に立て始めた。

――アラシアも楽しむ事で頭が一杯になり、男一匹、不意に居なくなっても気にしない筈さ……

8.テンプルトン町…歳月と行跡と

朝焼けが終わると、青空が広がった。爽やかな朝である。

しかし、クロフォード伯爵邸の大広間の一角で、物陰をコソコソと動き回っていたマティは、 これ以上無いという程の不満顔であった。何を企んでいるのか、コソ泥さながらに、覆面代わりのスカーフを巻いている。

余りにも挙動不審な孫に対し、遂に祖父クレイグ氏が、声を掛けた。

「何をいつまでむくれているんだ、マティ坊主よ」
「アラシアが来ないんだ、手ぐすねで待ち構えてるってのに」

マティは衝立と垂れ幕の中からヒョッコリと顔を出し、いっちょまえにボヤいたのであった。 思わぬところから現れた、コソ泥に変身中のマティの姿に、執事もビックリした様子である。

クレイグ氏は、思いっきり顔をしかめて見せた。

「またイタズラか? アラシア嬢の機嫌を損ねると大爆発だ……やめときなさい、 あの『癇癪令嬢』の件は、リチャード伯父さんが最高責任者たるクロフォード伯爵として、 キチンと対応される事になっとるんだぞ」

マティは大いなる不信の表情を浮かべたまま、むくれた。

大人の事情を余り知らないマティの目には、クロフォード伯爵の無為無策は、全く筋が通らない物であると見えるのだ。 ルシールに対するダレット一家の横暴――昨夜のディナーにおける多種多様な誹謗中傷に至っては、 名誉の問題と化していた――に関してさえ、全く動いていないのだから。

クレイグ氏は、困った孫をどうやって説得しようかと思いあぐねながら、ふと大広間を見回した。

少し離れた場所では、若いメイドたちが執事を取り囲み、 マティがアラシアに対して仕掛けた『悪魔も裸足で逃げ出す程の、スペクタクル超大作』らしき物について、 何やら笑いをこらえつつ、ささやき合っていた。見るからに、余程『とんでもない代物』であろうと知れる。

クレイグ氏は、とうとう立ち上がり、マティを急かした。

「イタズラの仕掛けは、全部回収するんだ。しようの無い子だね……全く」

盛大な不満顔をしながらも、マティは、『悪魔も裸足で逃げ出す程の、スペクタクル超大作』を片付け始めた。

マティが仕掛けを手繰り寄せると、物陰から『こんなに数があったのか』と目を疑う程の、 彩り豊かな化け物のオモチャが次々に現れて来た。しかも、どれもこれも相当の傑作にして芸術品である。

幾つかの小物の行列の最後に、ラスボスを想定していたのであろう、ハイドラを模したに違いないギラギラした大物が現れて来た。 大人の背を超える高さだ。近ごろ熱中していた大蛇のオモチャの研究が、元になったのだろう。 怪奇幻想的な多頭の一つ一つが、微妙な動きからして素晴らしいまでの不気味さで、真に迫っているのであった。

――全く、私の孫は、いつも変な事に才能を無駄遣いしている。

根っから生真面目なクレイグ氏は、いつものようにマティを心配し、やれやれと溜息をつくばかりであった。

*****

ルシールは、部屋の中で、いつものように朝を迎えていた。

やがて、ベル夫人がやって来て、昨夜のディナーの席でのアラシアの発言内容について、説明をし始めた。 ダレット一家が関わる予期せぬトラブルは常に警戒の的であり、アラシアの発言の数々は、 ディナーの給仕を務めていたスタッフたちによって全て記憶され、執事とベル夫人の元に上がっていたのである。

『アラシア劇場』の再現が終わった後、ルシールとベル夫人は、揃って深い溜息をついた。

ダレット一家は、この内容をネタにして、地元の社交界で――ひいては、 都の社交界でも――数々の流言飛語による名誉棄損を仕掛けるに違いない。それも、まことしやかに。

――まさしく、『名誉の問題の紛糾』だ。

ゴシップを漁り、真偽を確かめずに他人を罵り、その評判を貶める事についてだけは、ダレット一家の面々は、 何故か素晴らしく有能なのである。

緊急で対処しなければならない問題だ――ローズ・パーク相続問題や、ディナードレス問題と同じくらい、最優先で。

――何としてでも、母の形見のブローチの贈り主――ローリン氏――を、見つけなければ。

今日は、人生で最も忙しい日になるに違いない。ルシールは改めて、気を引き締めたのであった。

*****

――外出する前に、クレイグ氏とマティに挨拶を済ませておこう。

かくして大広間を訪れたルシールは、早速、開いた口が塞がらない状態になった。 衝立と垂れ幕の間を続々と渡って行くのは――魑魅魍魎の群れである。

――お化け屋敷が出現したのかしら? それとも、もしかして……?

首を傾げ、胸をドキドキさせながらも、色とりどりの化け物の行列の後を付いて行くルシールであった。 もしかして、もしかしたら、マティの仕業だったりして――

果たして、その通りであった。 化け物の群れが消えて行く大広間の一角には――渋々と言った様子でイタズラの仕掛けを片付けているマティが居り、 その傍には、困惑顔のクレイグ氏が居たのであった。

見るからに、祖父と孫の、微笑ましい朝のひと時である。ルシールが思わず吹き出し笑いをすると、 ソファに腰を下ろしていたクレイグ氏がルシールに気付いて振り返り、頭に手をやって、照れたような苦笑をした。

「お早うございます、クレイグ様」
「おや、今日は外出ですか?」

クレイグ氏の確認に、ルシールはうなづいて見せた。 クレイグ氏が気付いた通り、ルシールは手提げ袋に帽子を揃えており、これから外出するという格好である。

「テンプルトンです。母のブローチを扱っていたお店が判明したので……それに、 手持ちのディナードレスがありませんので、古着屋で手頃な物を探しませんと……」
「それは結構、動き回る事になりますね」

クレイグ氏は、かつて代理の牧師として務めた事のあるテンプルトンの街区を思い出した様子で、 心配そうな微笑みを浮かべていた。

するとマティが早速、得意そうに目をきらめかせながら口を出して来た。

「テンプルトンの商店街なら、オイラ、案内できるよ! テンプルトン生まれのテンプルトン育ちさ!」

ルシールは自信タップリに自分を指差すマティをしげしげと眺め、クレイグ氏に伺いを立てた。

「それじゃ、マティをお借りしても良いですか?」

緊急の用件は二つとは言え、一日の間に用件を手際よく済ませるためには、 いずれにしてもテンプルトンの町に詳しい案内人が必要である。

「勿論ですよ、お嬢さん」

クレイグ氏は快諾した。驚く程の素早さで帽子や上着を取って来たマティに、 クレイグ氏は子供用のスカーフを整えてやりながらも、言わずもがなの注意を与えた。

「しっかり、お行儀良く、お供をして来るんだよ。退屈してイタズラを始めるのは、いかんぞ」
「信用してよ、じいじッ!」

流石にマティも言い返したのであったが――クレイグ氏は渋面になって頭を振り振り、 杖の持ち手で『コツン』と、マティの頭をつついてやるのみだった。

「お前の信用は、東洋の鼻紙よりも、もっと薄いんだ。 復活祭の時、イタズラして空き家を一軒吹き飛ばしただろう、マティ……プライス判事の温情ある判決に感謝しなさい」

クレイグ氏は様々な可能性を心配する余り、クドクドとマティを説教したのであった。

「伯父さんも笑って許してくれたがな、本来は騒乱の罪に問われるんだぞ」

――空き家を吹き飛ばした?

その余りにも奇天烈な内容に、ルシールは思わずポカンとするのみだった。

*****

マティとルシールは連れ立って、車庫へと向かった。

クレイグ氏が心配した通り、やはりマティは手荷物の中に、何やらアヤシゲな代物をこっそりと用意していた。

「そう言えば敵は、注文のドレスを取りに、また出るって言ってたな。 テンプルトンなら、町角でチャーンス、なーんて事も♪」
「今日はご機嫌ね、マティ」

ルンルン調子のマティを見て、ルシールは訳が分からないながらも、感心していた。 やがてルシールは、心当たりある一角に目をやり、いつもの亜麻色のモフモフの姿を見かけない事に疑問を覚え、首を傾げた。

「子犬のパピィは、何処へ行ったのかしら?」
「プライス判事が取調べ中なんだ。カフスボタンの片割れ、食ってたらしいんだって」
「取調べ? パピィの事、バレたって事なの?」

ルシールは目をパチクリさせた。

マティとルシールは足元の地面の凸凹をよけながらの情報交換に集中していて、 いつの間にか既に車庫の前に到着していたという事にも気付かなかった。

車庫の前では、キアランが御者や馬丁と共に、馬の装備を見ているところであった。 キアランは、マティとルシールがやって来ていた事には既に気付いており、 二人の会話の内容も、シッカリと耳に入れていたのである。

「昨日、マティが白状しました。他にも、実に興味深い話を聞きましたよ」

キアランの声が不意に降って来た――という風になったマティは、ワッと飛び上がった後、面映そうに首をすくめた。 ルシールは思いがけない遭遇に驚き、口ごもるのみだった。

「キアラン様……あ……その、リドゲート卿」

キアランは、いつものようにムッツリとした様子で腕組みしている。しかし、気分を損ねている様子は無い。

「キアランで結構ですよ……今日の行き先は、テンプルトン?」

何で分かるのかと首を傾げたルシールに、キアランは更に語り掛けた。

「昨日、ブローチがテンプルトンの店の品だと判明しました。 ルシールなら自分の足で確かめる筈だ。謎の父親の事が聞けるかも……と言う可能性もあるし」

見直してみればキアランも、シルクハットやステッキを携えている。 ルシールの外出を見越して準備していたのは、明らかであった。やがてキアランは、折を見て馬丁に呼びかけた。

「馬の装備は、問題ないか?」
「はい! これから馬車を出します」

馬丁は威勢よく答え、若い御者と一緒に車庫の扉を開け始めた。ルシールは再び首を傾げた。

――何だか、念入りなチェック作業になっているみたいだわ。

「気のせいかも知れないけど、普通は装備の裏側まで目を通す必要は……」
「昨日、大騒ぎだったから」

マティが早速、ルシールの質問に答えて来た。ルシールは目をパチクリさせた。

「何があったの?」

――朝の馬車と言えば、昨夜、ダレット嬢が物のついでに言い放った奇妙な言葉もあるわ。

何かを言いかけたマティは、しかし、直前で『しまった』とでも言うように、手でサッと口を塞いだ。

「プライス判事が良いと言うまで、喋れないんだ」

車庫の扉の前では――馬丁と御者が、早速、新たな異変に気付いた。開いた覚えの無い車庫の扉が開いている。 不審を覚え、車庫の中を確かめた馬丁と御者は、ギョッとして大声を出した。

「リドゲート卿! 快速馬車が、一台消えています!」
「何だと?」
「まさか、馬……!」

残りの馬丁たちが慌てて、隣の厩舎に駆け込んだ。

「――やられた! 隣の仕切りの、健脚の四頭が消えてる……!」
「馬車泥棒!? 一体、誰が……!」

にわかに持ち上がった騒動に、マティとルシールもポカンとしていた。

「アラシアじゃねーの。テンプルトン行くって、確か昨日、言ってた……」

こんな事をやらかしそうな人物を、ピッタリと言い当てたマティである。

ルシールは釈然とせぬまま、後ろにそびえる壮麗な館の、上の方のフロアを眺めた。

「彼女が外出する時は、いつも大騒ぎでしょ……今日は、まだ部屋から出てないから……彼女の筈は無いわ」
「また夜更かしで寝坊してんのかな。朝食にすら出てないし」

マティも暫くの間、盛んに首をひねっていたが、結局はルシールの意見に同意した。

キアランは暫く眉根を寄せていた――そして、やがて溜息をついて首を振る。

「とりあえず馬車泥棒の件、判事に届けておいてくれ」

御者や馬丁たちは、キアランの指示にうなづき、青くなりながらも、速やかにテンプルトン行きの馬車を仕立てた。

「また泥棒が出るとも限らないし、リドゲート卿の馬を、車の後ろに」
「昨日に続いてコレだよ、全く……そろそろ交代制で寝ずの番を立てるべきじゃ無いか?」
「門番と相談しなくちゃな」

御者と馬丁は、口々に疑惑を言い合った。 思えばダレット一家が館に居座るようになってから、奇妙な出来事が続いているのだ。 ダレット一家は気難しいくせに、妙に勘が良い。彼らの気分を損ねないように警戒するのも、気苦労の多い作業なのである。

*****

キアランとマティとルシールを乗せたクロフォードの馬車は、尋常に館を出発し、快速で走り続けた。

馬車は、あっと言う間にクロフォードの町に到達した。メインストリートを走る他の馬車をかわしながらも、 役所が並ぶ通りを経由して、クロス・タウンとテンプルトンに通じる国道へと入って行く。

先日の嵐が運んで来た大量の水分は、丘の上に広がる草原を一斉に活気づかせていた。 馬車の窓の外には、青空の下、まばゆいばかりに輝く緑の丘陵地帯が広がっている。

「――『F&F』の事は知らなかったので、クレイグ殿に少し聞いておきました」

キアランは馬車の中で、向かい側に並んで座っているマティとルシールに向かって、おもむろに語り出した。

「知る人ぞ知る老舗ですね。トッド家も、古くからの顧客だとか。正確には、クレイグ殿の娘の現トッド夫人が」
「ママの首飾りの古いのが、『F&F』だ!」

マティは目をパチクリさせていた。

「一番古い首飾りは、じいじと伯父さん二人から誕生日にもらった物だって……『F&F』って、暗号かなと思ってたよ」
「伯父さん二人?」

ルシールは思わず、小首を傾げた。マティは面倒臭がらず、解説した。

「ママの従兄弟だよ……その後で先代伯爵と今の伯爵になってる」

――すっかり忘れてたわ。

ルシールは改めて、マティ・トッドがクロフォード伯爵家の親族――即ち、 地元における名家中の名家の御曹司だと言う事実を、しっかりと胸に刻んだのであった。 マティが、その身分の割に普通の少年に見えるのは、おそらく、マティ自身の人徳(?)の故なのに違いない。

暫く戸惑っていたルシールは、やがてキアランの視線に気付き、戸惑いながらもキアランを見返した。 キアランは先刻からずっとルシールの事を注目していたようなのであった。

ルシールは不意に顔を赤らめ、顔を伏せて口ごもりながらも、呟いた。

「昨日……じゃ無くて、一昨日は……、色々誤解を申し上げて済みません」
「――誤解?」

キアランは瞬きした。

注意を向けていると、自然にそのような表情になるのであろう、 黒く鋭利な刃物を思わせる強い眼差しは、最初の頃と変わらない。 しかし、キアランの性質について、以前よりはずっと理解できるようになっていたルシールは、 今は、余り恐怖は感じなかったのであった。

それでも、モジモジと目を伏せ、ボソボソと呟くルシールである。

「ダレット家の事情とか……、グレンヴィル夫妻の事とか……」

キアランは無言で、ルシールをじっと見ていた。やがてキアランは、おもむろに口を開いた。

「後日、改めて説明する予定でしたが。誰かから聞いて、事情は了解した……と言う事ですか?」
「その……ベル夫人に、色々と……」
「――成る程」

そう呟くと、キアランは暫し沈黙した。

――ベル夫人であれば、あの複雑怪奇な事情をも、比較的公平な視点からルシールに説明できる。 偶然が働いたのであろう、自分の口から説明するよりも良かったかも知れない。

そのように納得したキアランは、再びルシールを見つめ、丁重に言葉を継いだ。

「――あの申し出はまだ有効ですから、検討して頂ければ幸いです」

息を呑んでパッと顔を上げたルシールに、キアランは笑みを浮かべて見せた。

――あのミステリアスな笑みだ。

ルシールは思わず返事に詰まり、真っ赤になって在らぬ方に顔を背けてしまった。

居たたまれないと言うよりは――喉の奥に大きな物がつかえたような気持ちの方が大きい。

昨夜のディナーの前、大広間で、アラシアにそそのかされたダレット夫妻と、 一触即発の事態になった時――そこに入ったキアランのガードと、その後に贈られた敬意の口づけの意味に、 気付かなかった訳では無い。

だが、ときめきを感じる反面――『名誉の問題の紛糾』に直結するアラシアの発言内容を思い返すにつけ、 『本当の答え』を聞いたら終わりだと言う、矛盾した恐れがある。

アラシアの発言内容に同意するつもりは無いが、今のルシールには、 『レオポルドの私生児かも知れない』というゴシップ爆弾の他には、社会的な名誉や価値になるような物は、何も無いのだ。 ダレット一家の影響力は、見える以上に大きい物の筈だ。 まかり間違えば、キアランの方が、クロフォード伯爵家の後継者の座から弾かれてしまうのでは無いか。

キアランが、レオポルドのように女性を弄ぶような人物では無いという事は承知はしているものの、 ルシールには、もう一歩踏み出せるような余裕は、全く残っていなかった。

頭の中がグルグルして、肝心な事について聞きたいけれど聞けない――

――ベル夫人の話を考えてみると、 リドゲート卿はレオポルド殿に対して、一言では言い尽くせぬ複雑なモヤモヤを抱いている筈。 確率的に、私がレオポルド殿の非公認の娘という事は有り得るけれど、それでも――?

マティは不思議そうな顔をして、しげしげとルシールを眺めていた。 マティの目から見ると、ルシールの反応は迷走しているように見えるのだ。

そして、何も知らないマティは、ズバリと要点を聞いたのであった。

「申し出って、何の話?」

ルシールは真っ赤になったまま答えない。大人の話だ――キアランも、その質問には取り合わなかった。

キアランは不意に生真面目な顔つきになると、マティに別の質問を投げた。 この辺りは、社交の必要上、会得した会話術だ。キアランは、必要とあらば、多少は饒舌になる事が出来るのである。

「いつか聞こうと思っていたんだが。マティは、何処でルシールの目がアメジストだと分かったんだ?」
「ルシールが来た次の日に、パピィを取りに行っててさ」

得意そうに目をきらめかせるマティである。

「あの部屋のバルコニー?」
「あの日ってば、夜中ずっと嵐だったんだぜ。夕方の遅い頃に馬車がやって来て、 ルシールが降りて来るのは見たけど、あの部屋だとは思わなかったんで、おッたまげたぜ。 ――考えてみりゃ、ダレット問題があったんだから、納得だけどさ」

本館を挟んで西の棟と東の棟があるのだが、西の棟は、ダレット一家の占有だったのである。 ダレット一家から一番離れた場所にある東側の部屋が、ルシールに割り当てられていたのだ。

「あの部屋のバルコニーは東向きなんだ……朝の光が、浅い角度で入る」
「――成る程」

キアランは感心した。部屋割りにおける必然の結果だったとは言え、実に驚くべき偶然だ。

「後で、大広間で茶色の目を見た時は、ホント目を疑ったよ」
「分かるよ」

マティの感慨深げなコメントに、キアランも同意してうなづく。 ルシールの目が紫色を見せた時、キアランもまた、愕然とした一人だったのである。

*****

談笑しているうちに、馬車はいつの間にかテンプルトン中央のロータリーに到着していた。

「到着ですよ、最初は古着屋ですよね!」

若い御者の確認に、キアランは何を思ったか、別の場所を指定した。

「角の『ローズ・テイラーズ』へ回してくれ」

御者は了解し、馬車を速やかに角の方向へ向けた。

『ローズ・テイラーズ』はメインストリートの角にある。 ダレット一家も毎回ショッピングに立ち寄る、高級仕立て屋の店である。立派な店構えを誇る店舗だ。

中に入ってみると、首都圏の最新流行を取り入れた、数々のファッショナブルなドレスを着たトルソーが並んでいる。 シルクやベルベット、様々なプリントが施された高級モスリンといった高価な布地も、ズラリと陳列されていた。

客層は、やはりと言うべきか、地元の名士クラスの紳士淑女がほとんどである。 ド・ラ・リッチ家のように、クロフォードに居を定めている大貴族の係累といった顧客も、チラホラと来ているようだ。

ルシールは目を丸くした。いささかながら、腰も引けている。

「新品のドレスの予算は無いわ!」

キアランは、ルシールの慎ましい抗議には取り合わなかった。

「館に戻る時に説明しますが、あなたはアラシアを追及し告発する事になっているんですよ」

ルシールは初来客という事もあって、早くも女性従業員に囲まれ、身体のサイズが取られた。

マティは流石にテンプルトン育ちと言う事もあって、『ローズ・テイラーズ』にも慣れている様子である。 顔見知りの従業員に、「ディナードレスは超特急で……支払いは、こちらが持つから」などと注文しているのであった。

マティと顔見知りの男性従業員が布地を選びつつ、にこやかな営業スマイルで、マティに語り掛けて来た。

「珍しいですな、ダレット嬢の注文じゃ無いなんて。お急ぎなら、こちらのモデルは如何でしょう」

とにもかくにも注文が済み、『ローズ・テイラーズ』を出る三人連れである。

「ディナードレスは仕上がり次第、館に配達するってさ! アラシアの目をごまかせるよう、オイラの名前で」

マティは、ダレット一家の性格を良く心得ている従業員と打ち合わせた内容を、細かく解説した。

ルシールはルシールで、注文書の写しの内容に呆然としていた。 いつの間にか、ディナードレス以外にも服の注文が増えていたのである。

「お出掛け服の注文は、一体……夏物の服って……?」
「ローズ・パーク庭園の視察の時に如何ですか。上京する時にも使える筈ですが」

キアランは、ルシールには意図の良く分からない回答を、あっさりと寄越して来たのであった。

*****

三人は再び馬車に乗り込むと、中央街区の別の通りに入って行った。

次に馬車が入ったのは、老舗が集まる古い通りである。やがて馬車は、一つの店の前で停車した。

通りに面したガラス窓――当然ながら、頑丈そうな鉄格子を装備している――を透かして、 様々な宝飾細工を施された品々が陳列されているのが窺える。指輪や首飾りと言った定番商品は勿論、 宝冠や表彰盾などと言った記念商品も揃っている。流石に首都とつながる系列店と言うべきか、品揃えは豊富だ。

その店には、『ロイヤル・ストーン』と書かれた看板が掛かっていた。

マティが早速、解説を加えた。

「この辺は、中期の大抗争の被害を受けた街区でさ……修復・改装の工事したって話だから、 以前の面影とかは無さそうだけど」

馬車から降り立ったルシールは、様々な感慨を込めて看板を見上げた。

かつては――間違い無く25年前の頃は、此処の看板には、『フィン&フィオナ』と言う店名が書かれていた筈である。

――改装する程の被害を受けたと言われているけれど、記録とか、残っているのかしら?

『ロイヤル・ストーン』は、『ローズ・テイラーズ』程に大きな店では無いものの、 やはり改装工事の痕跡はハッキリと見られ、現代的な店構えとなっていた。 三々五々と言った他の来客と共に、キアラン、ルシール、マティの三人が中に入ると、 従業員の一人が滑らかに出て来て一礼した。

「いらっしゃいませ……どのような品をお探しでしょうか?」

キアランが、物慣れた様子で声を掛けた。

「この店は以前、『フィン&フィオナ』と言った筈だが」
「先代の頃は、そうでした」
「その頃の品を持って来たので、見て頂きたい」

キアランはそう言って、ルシールを指し示して見せた。

「――それでは、拝見いたします」

接客カウンターに陣取った従業員は、丁寧な手付きで、ルシールが持って来たアメジストのブローチを調べ始めた。

「これは良品でございますね。確かに刻印は、かつての当店の物でございます」
「誰がこの品を買ったのかは分かりますか? 青い目の紳士と言う事しか聞いていないのですが……」

ルシールの問い合わせに対応するため、従業員は一番古い記録を持ち出して一通り調べていた。 だが、やがて、困惑した様子で頭を振って来た。

「残念ながら、先代が既に死亡していて詳細は分からず。顧客台帳も、合併前の物は職人ごとに分散していますから」

いずれも、この辺りの街区を巻き込んだ抗争の影響である。

「必要ならば、職人を個別に訪ねます」

そのキアランの決然とした言葉に、従業員は、『それは大変な事になるだろう』と言わんばかりの表情で、 首を振り振り、困惑していた。この従業員は、なかなか誠実な人物である。

「改名後は職人も都とかに異動してしまってるんです、系列店ですし……」

ところが、そう言っている間にも、別のドアが開き、別の従業員が新たに現れた。 年配の人物で、宝石が入っているのであろう幾つかの小箱を抱えている。彼は修理受付係であった。

最初の従業員は、修理受付係を見かけて何かを思い付いたようで、手を上げて呼び止めた。

合図に応じてやって来た修理受付係は、差し出されたブローチを一目見るなり、「アンティーク?」と訝しそうな顔つきをする。 しかし、その作風を観察しているうちに、やがて、修理受付係は驚きの表情を浮かべたのであった。

「これは、まさか……」

年配の修理受付係は、早速、三人の来客に話し掛けた。

「当店を代表するベテラン職人の、若い頃の一品に違いありません」

――25年の歳月は、駆け出しの職人をベテラン職人にする歳月でもあったのだ。

「ギネスの工房をお訪ねになってみて下さいませ。空振りでも、彼が該当する職人を知っている筈です」
「――やった!」

マティが呟いた。キアランとルシールも同じ思いである。

一歩、謎の『L氏』に近づいたのであった。

*****

ギネスの工房は、各種の工房が並ぶ町外れの中小のストリートにあると言う。 そこには、よろず修理、印刷、染色などと言った、各方面の職人の町が広がっているのだ。

三人が乗った馬車は、次第にテンプルトンの町外れの街区に入って行った。

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