深森の帝國§総目次 §物語ノ傍流 〉花の影を慕いて.第五章(小説版)

花の影を慕いて/第五章.仮面舞踏会

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  1. レスター邸…流転の令嬢〔一〕
  2. レスター邸…流転の令嬢〔二〕
  3. レスター邸…流転の令嬢〔三〕
  4. アシュコート伯爵領…風雲の緑の丘
  5. ロックウェル城…仮面舞踏会〔一〕
  6. ロックウェル城…仮面舞踏会〔二〕
  7. レスター邸…来し方行く末
  8. クロフォード伯爵邸…連環と連鎖

1.レスター邸…流転の令嬢〔一〕

既に夜であり、気温は寒いくらいに下がっていたが、春の季節と言う事もあって、それ程きつくない。

アシュコート伯爵領、辺境に近いレイバントンの町――

この町の郊外に、目を疑うような豪邸が建つ。 レイバントンの町を代表するトップクラスの名家の一つ、レスター家が住まう邸宅である。

ややカッチリとした、モダンな新古典風の館だ。 大規模なカントリーハウスと同様、壮麗な正面玄関を持ち、上から見ると、だいたいHの形をしている。

レスター邸は暗いアースブラウン系の外壁を持つため、宵闇が広がる時間帯になると、建物の外観は分かりにくくなる。 しかし、窓を持つ部屋のほとんどに照明が灯っており、その窓の数の多さが、 レイバントンの町の華やかな夜景の一部となっているのであった。

レスター邸の広々とした敷地の一角に、一族の墓地がある。庭木に囲まれた静かな空間だ。

風がしきりに吹くせいか雲が多く、空に見える星々の数は少なかった。 墓地を囲む庭木の葉群が、終わりのないお喋りのようなざわめきを続けている。そのざわめきの中から、 夜目にも際立つ白いショールをまとい、幽霊さながらに一人さまよう令嬢が現れた。

レスター邸の墓地を一人さまよう令嬢は、やがて、一つの墓の前で足を止める。 その墓石には、このように書かれてあった。

――シルヴィア・G・スミス夫人、此処に眠る――

一陣の風が吹き、墓の前に立った令嬢の白いショールが風になびく。 墓地の各所には、他の庭園スペースと同様、石畳で舗装された小道の各所に夜間照明用のランプがあり、 煌々と小道を照らし出している。令嬢の見事な金髪が、ランプの光を反射してキラリと光った。

やがて、令嬢の他に、もう一人の人影が墓地に現れた。

「やはり此処だったのか……アンジェラ」

アンジェラは、先刻から既に親しい知人の接近を察知していた。この夜中に驚きもせずに、声のした方を振り向く。

「久し振りね、オズワルドさん」

オズワルドと呼ばれた背の高い黒髪の青年が、アンジェラの隣に並び立つ。 二人は知り合い同士の気安さで軽い会釈をし、再会の喜びを述べ合った。

オズワルドは、公爵令嬢たるアンジェラに敬意を表して、やはり上流社交界仕込みの洗練された所作で、 アンジェラの手の甲に口づけをした。

アンジェラは礼儀正しく笑みを見せて応えながらも、オズワルドを心配し、懸念を口にした。

「レスター本家が催す音楽会だから、お歴々のご招待に加えて一族が全員集まってるでしょ。 スミス家の大奥様に気付かれたら、大目玉じゃありませんか? 仮にもスミス家の御曹司さまだし」

オズワルドは上半身を起こし、綺麗にウインクして見せた。

「抜け出して来たんだ……お祖母様は気付かないさ」

レスター邸の灯りを背にして、旧交を温めるべく親しく語り合う二人は、 気付いていなかった――墓地を取り巻く樹木の茂みの中に、もう一人の人間が居て、 彼らの会話に聞き耳を立てていると言う事を。

オズワルドは不意に怪訝そうな顔をして、アンジェラを見やった。

「つかぬ事聞くけど、ヒューゴ・レスターと付き合ってるのかい?」

最近、アンジェラがヒューゴと良く会っているという噂は、オズワルドの耳にも入っていたのである。 良く会っていると言う話であるにも関わらず、ヒューゴのひょうきんな雰囲気のある容姿が、 アンジェラの美しい容姿と釣り合わないせいか、色っぽい噂は全く無かったのだが。

アンジェラは、オズワルドを安心させるように、穏やかに微笑んで見せた。 オズワルドは、妙に気を回し過ぎるところがあるのだ。 実際、オズワルドは数年前に父親を失い、若くしてスミス家の現当主になったばかりだ。気の張る事も多いに違いない。

「ヒューゴさんは弁護士よ……目下の裁判のパートナーで、それ以上でも以下でも無いわ」
「弁護士なら、他にもいるじゃ無いか」
「それはそうなんだけど。予算の問題で――トラブルの際の身辺安全込みで、彼は格安で引き受けてくれたし」

そのように身辺安全の問題や金銭問題を含んだ具体的な理由を言われては、オズワルドも、了解して見せるしか無い。

アンジェラが、親子認知の問題でロックウェル卿との法的対決を始めて以来、 バラバラ死体の出現だの、ネズミの死体のプレゼントだの、傍目にも危険すぎる出来事が続いている。 地元社会のゴシップにもなっている、周知の事実だ。

そして、ヒューゴ・レスターは、駆け出しの弁護士という事もあって、料金は安い方なのだ。 しかも寄宿学校では、やたらと武術――戦闘技術の上手い先輩に恵まれたらしい。 見かけによらず、ヒューゴの銃&剣の腕前は、軍隊からスカウトされたという話もある程のレベルである。

また一陣の風が吹き、アンジェラの柔らかな金髪がふわりと波打った。 薄いクリーム色のエンパイア・ラインのドレスが、白いショールと共にひるがえる。

再会するたびにアンジェラは美しくなっていく――オズワルドはアンジェラの美貌に見惚れながらも、 その陶磁器のような滑らかな顔に浮かんだ憂いの表情に気付き、心配そうに眺める。

「本当に、それだけかな? お祖母様が、また何か言ったんじゃ無いだろうね?」

アンジェラは目を伏せて、かぶりを振った。

オズワルドは、なかなかシッカリした性格で顔立ちも立派な紳士だが、 偉大なる祖母でもある『スミス家の大奥様』には、ハッキリした意思表示はできない性質である。 それに、この件は、『スミス家の大奥様』が直接に干渉して来ている物では無かった。

アンジェラは、『スミス家の大奥様』に対するモヤモヤ感――或いは、 複雑な感情――を振り払うかのようにキリッと顔を上げ、ニッコリ微笑んで見せた。

「それは、流石に特定秘密だわね……知ったところで、どうにかなる訳でも無いでしょうし」
「そう言う事じゃ無いんだけどね」

生真面目なオズワルドは、アンジェラがオズワルドの立場に配慮して、 故意に質問をはぐらかしていた事には気付いていなかった。 余計な事に気付いたり急所を突いて来たりするような鋭さが無く、 その良家の御曹司ならではの穏やかな性格は、アンジェラにとっては、ホッと出来る物である。

10代の頃は、その優しさにときめいた。そのときめきは、いつしか淡い思慕となり、初めての恋心になっていった。 『スミス家の大奥様』の介入が無ければ、今頃は、結婚前提の付き合いだったかも知れない――

――最近は、少し物足りないような感じもしているのだけど……

また、一陣の風が通り過ぎた――夜ならではの冷たさと、春ならではの仄かな暖かさ。 ひとしきり庭園の木々や足元の草葉がざわめき、快い沈黙が流れ――アンジェラは、 身体が冷えないようにシッカリとショールを巻き付けて、そっとオズワルドの様子を窺った。

オズワルドは、やはり生真面目な様子で、宵闇に揺れる葉影を眺めながら思案し続けていた。

――オズワルドさんは、何か気に掛かっている事があるらしいわね。

アンジェラはそう推測しながらも、慎ましく沈黙を守っていた。 身辺で本当に困った事があれば、いつものように、きちんと言葉にまとめて相談して来る筈だ。 これまでにも、そうしてアンジェラは、オズワルドの身辺のトラブルの相談に応じて、 ゴールドベリの賜物である『直感』から来る助言を贈って来たのである。

アンジェラは暫しの間、虚空を流れる物に耳を傾けた。 予想通り、『直感』に引っ掛かって来る物がある――余り良く無い兆候を示す物が。

アンジェラは、オズワルドをサッと振り返った。

「大奥様が、あなたを呼び始めてるわ」
「えッ? もう?」

オズワルドはギョッとし、疑わしそうな顔で振り返る。 アンジェラは、そんなオズワルドに、自信タップリにうなづいて見せた――いつものように。

「ご機嫌が、どんどんお悪くなってるの……私の勘が外れた事が無いと言うの、ご存知でしょ」

オズワルドは溜息をつきながらもうなづき、 庭木の向こう側に見えるレスター邸に向かって身を返した。

「後で、大事な話があるから……アンジェラ」

オズワルドは名残惜しそうに手を振ると、足を速めた。 アンジェラも手を振り、レスター邸の方へと去って行くオズワルドを見送る。

オズワルドの姿が見えなくなった頃合で、アンジェラの背後に広がる庭園の木立の中から、 エドワードが不意に姿を現した。

「ふーん……なかなか興味深い逢瀬だな」

物思いにふけり始めていたところで、虚を衝かれた形だ。 アンジェラはギョッとしたが、その後、急に訳も無く苛立ちが湧き上がって来た。 キッと眉根を寄せてエドワードを振り返る。

「あなたってホント油断ならない人ね、エドワード卿! あなたの職業って、 もしかしてスパイとかじゃ無いの!?」

エドワードは、イタズラっぽい笑みを浮かべていた。 明らかに、不意を取られて苛立っているアンジェラの姿を、意地悪く楽しんでいる様子である。

「私が此処にいるのは、レスター本家の当主の直々のご招待ゆえだよ」

――そう言えば、この金髪紳士、ハクルート公爵家の御曹司だったんだわ。

この、見せ掛けを見事に裏切っている、歩くファッション雑誌チャラ男ヤロウ――エドワードは、 何故かアンジェラを動揺させたり苛立たせたりするポイントを、シッカリ突いて来るのだ。冷静にならなければ。 アンジェラは、あさっての方を向いて息を整え始めた。

――紹介した令嬢たちなら、このシーズンの間に話がトントン拍子でまとまるだろうに、 いよいよ謎だわ……!

アンジェラは、縁組に対するエドワードの意思を、本気で疑い出した。 何しろ、金髪の美青年と言う類まれなルックスなのに、まだ花嫁が未定なのだ。 自分の勘は、本当に鈍ったのかも知れない。アンジェラは、 エドワードが『男同士の恋人縁組』を希望している可能性を、真剣に検討し始めた。

エドワードは一歩アンジェラに歩み寄ると、不意に笑みを引っ込め、口を開いた。

「先程、大広間でレスターの一族の面々が会した時、 『スミス家の大奥方』がアンジェラ嬢を無視したと言う一場面を拝見してしまってね」

そう語りかけるエドワードの声は、低かった。

アンジェラはギクリとしてエドワードを振り返った。 エドワードは笑っていなかった。物問いたげな眼差しだ。そこには、憐みの気配も仄見える。

此処に来る前の、あの親戚一同の挨拶の場を見られていたのか――アンジェラは、 傷口に塩を塗り込まれたような気がした。すぐにあらぬ方を向いて、うつむいてしまう。

アンジェラは知らず、歯を食いしばっていた。白いショールを握りしめた手も、心なしか震える。

エドワードはアンジェラが立ち寄った墓石を観察し、そこに、いわくありげな女性の名前を見出した。

「シルヴィア・G・スミス夫人……?」
「私の祖母です。スミス家の先妻――母を出産した後の状態が良く無くて、早死にしたとか……」

シルヴィア――と口の中で繰り返したエドワードは、不意に、その名がオリヴィアと似ている事に気が付いた。

――シルヴィア。オリヴィア。

エドワードは若干の驚きを込めてアンジェラを見やった。

「ヒューゴが以前、説明していた……レディ・オリヴィアの双子の妹どのか?  レスター分家のスミス家に嫁いだとか言う話の……」
「頭の良い方ですわね」

まさに正解だ。アンジェラは、殊更に深い溜息をついた――話題が変わった事で、多少ながら気分が落ち着いて来る。

「今のスミス家の大奥様は後妻で……直接の血縁は無いけど、祖母に当たる方ですね。 オズワルドは、今の大奥様の孫だから……遠縁の従兄弟と言う感じかしら?  話に聞くところでは、祖父のスミス氏に似ているそうです」

エドワードは、アンジェラを真剣な眼差しで眺めた。

「スミス家の御曹司・オズワルド殿は、アンジェラに相当、好意を持っているな……逢瀬も、 これが初めてと言う訳じゃ無い」
「10代の頃は、彼との結婚を夢見てたわ……禁じられた恋って盛り上がるし……」

アンジェラは身に巻き付けた白いショールを直しながら、静かに呟いた。 流石に、10代の頃の恋を思い出すと、面映ゆくなってしまう。 夢見る乙女の常で、『騎士道物語』に出て来る禁じられた恋人たちのロマンスを、ひそかに重ねた事もあったのだ。 照れ隠しであらぬ方を向いたアンジェラの頬は、知らず、仄かに赤く染まっていた。

「それで今は?」

エドワードの声は奇妙に平板だ。不意に気配が変わった事に気付き、アンジェラは再びエドワードを振り向いた。

エドワードは、ハッとするような真剣な眼差しでアンジェラを見返していた。

もう既に辺りは暗くなっていて、微かなランプの他には大した光源は無い筈なのに、 エドワードの琥珀色の目は、むしろ刃の光を湛えたような金色に見え――アンジェラは、 その射貫くような強い視線に、気を呑まれたように見入るばかりであった。

――この人は、奥深くに激情を秘めている人なのだろうか――

「オズワルドの最後の言葉を聞かなかった?」

エドワードは不思議そうに瞬きして、アンジェラを眺めた。 首を傾げた事で何処かの光の入る角度が変わったのか、 それとも感情の波が去ったのか――既にエドワードの目は、いつもの琥珀色に戻っている。

目をパチクリさせたアンジェラに、エドワードは更に畳みかけた。

「オズワルドは近日中に、あなたに求婚するらしい」
「それは無いわよ! ロックウェル裁判が片付くまでは、絶対考えられない話……」

息を呑みながらもアンジェラは続きを言おうとした――

その瞬間、突然、或る予感が閃く。

視覚と言うよりは聴覚方面の、デジャブのような――しかし確信めいた感覚。 アンジェラは口を閉じて集中し、その内容を考え始めた。

いきなり賢者のような顔つきで沈黙したアンジェラの様子は、エドワードを驚かせた。全く驚かされる令嬢だ。

「……何だか、冷静だね……」
「勘だけど、オズワルドさんには将来の花嫁がいるわ。大奥様のご親戚の紹介の令嬢だけど、相性ピッタリ……!」

先刻、オズワルドが真剣に考え込んでいたのは、この事だったに違いない。 合点したアンジェラは顔を引き締めると、身を返して、レスター邸に向かって駆け出した。

「縁組の作戦スタート?」
「当たり前じゃ無い、すぐ動かないと儲からないわ! イザベラと作戦会議だから、失礼ッ!」
「成功を祈るよ」

大事なオズワルドの幸せのためとあらば(ついでに、金のためとあらば)――とばかりに、 アンジェラは、素晴らしい速さで駆け去って行く。その背中に、軽い調子で激励を掛けるエドワードであった。

また一陣の風が吹いた。二人の間の、庭木の葉群がさざめく。

エドワードは、額に乱れかかった金髪をかき上げ、意味深な笑みを浮かべた。

「実に喜ばしいね……両方の意味で」

そう言うエドワードは、美しい標的を射程距離内に捉えたことを確信する、狩人の顔をしていた。 自分の事は見えなかったりする――とアンジェラが言っていた事を、エドワードはシッカリと覚えていたのである。

*****

レスター邸の広々とした談話室に、縁組ビジネスに関わる女性グループの三人が集まっていた。

「クリプトン氏とララ嬢の婚約成立、礼金がご到着ッ!」

イザベラはお金を入れた袋を持ち上げ、得意そうな笑みを満面に浮かべた。 イザベラとアンジェラを含む三人の令嬢は、礼金を山分けにし、各々の取り分を取る。

「我らがチームは、成功率が良いわッ!」
「山分けって、気分最高!」

やがて、一人が別件で早々に抜けた。 アンジェラは手際よくお茶を準備し、イザベラは衝立の位置を調整する。 イザベラとアンジェラは、お茶を一服しつつ、身辺の最新状況について会話を続けた。

イザベラは、アンジェラの収入の使い道を確認し、納得したように呟く。

「つまり、裁判資金って事ね……裁判、まだ決着つかないんだ」
「向こうも結構しぶとくてね」

アンジェラは溜息をつく。アンジェラは、ロックウェル公爵を相手に、親子認知の裁判を起こしているのだ。 もっとも、先方がなかなか法廷に出て来ないため、ほとんど宙ぶらりんの状態だ。

イザベラは親友の苦境に同情していた。

「ロックウェル公爵って、完璧に頭のおかしい異常人物じゃ無いの!  縁切りしたって、誰も何も言わないわよ! 今、父のジャスパー判事が首都の高等法院と連絡取ってるから、 そのうちロックウェルに司法処分が掛かってくると思うけど……」

金髪のイザベラ嬢は、実は、ジャスパー判事の娘なのである。

「縁切りするには、縁を認めて頂く必要があるんだわ……変な話だけどね」
「クレイボーンの名を受け継ぐ気持ちは全く無いって事ね」
「完全に無いわ」

アンジェラはうなづいた。アンジェラの決心は堅く、イザベラは「マズイ」とも何とも言わない。 この辺りはツーカーの関係だけあって、言葉に出さなくても、意図が伝わる部分があるのだ。

――広い談話室を仕切る衝立を挟んで、彼女たちの会話に耳を傾けている中年の金髪紳士が居る。 一般招待客のような顔をして茶を一服しているが、見るからに身分の高い、堂々とした雰囲気の紳士だ。

イザベラとアンジェラは、まさか自分たちのようなお喋りスズメの会話に、 注意深く耳を傾けている存在があるとは、夢にも思っていなかった。

アンジェラの近況の話は続いた。

「……ルシールが近々、ローズ・パークのオーナーの一人って事になるし、 そうなったら、彼女と一緒に新しい事業を始めようかと思ってるの」

やはり将来の計画の話題だけあって、アンジェラの言葉は、どことなく浮き立っている。 そしてアンジェラは言葉を切り、次いで話題を変えた。

「それで、スミス家のオズワルドの縁組作戦の件だけど――云々」
「ふんふん……、スミス家の大奥方に礼金を出させるのは、私からやってみるって事で」

毎度、手早くアンジェラの作戦を了解するイザベラである。

ロックオン対象の令嬢は、既にアシュコート舞踏会で『縁組サービス』の顧客として引き込んであるし、 後はスミス家の大奥方の了解を取って、ロマンチックな恋愛劇を仕掛けるだけだ。

縁組作戦のシナリオが固まったところで、二人は成功を祈って、お茶をお酒に見立てて一服したのであった。

イザベラはお茶を一服すると、アンジェラを見て疑問顔になった。

「大丈夫? アンジェラ、オズワルドに恋してたんじゃ無かったっけ?」
「そうねえ……案外、平気みたい」
「それで今は?」

それは、本当に偶然だったのだが――イザベラの問い返しは、エドワードと全く同じ言葉に、 同じイントネーションだった。アンジェラはギョッとする余り、思わずお茶を吹き出した。

「もう、一体どうしたのよ」

イザベラは怪訝そうにしながらも、テキパキと片付けるのであった。 やがて二人は、今夜の会場で再び落ち合うタイミングを確認すると、各々、別行動に移った。

*****

イザベラと別れた後も、アンジェラの心臓は落ち着かないままだ。

エドワードが不意に見せた、刃を思わせる真剣な眼差しは、それ程にアンジェラの心に食い込んでいた。 オズワルドに寄せ続けていた思慕の念が、断ち切られる程に。

――射貫くような金色の目。あれが、エドワードの奥にある、もう一つの面なのだろう。

アンジェラは自分の動転ぶりに、すっかり動転していた。何故に自分は動転したのか――

慣れぬ方面で、あれこれと思案を巡らせているうちに、アンジェラはすっかり注意散漫になっていた。 いつの間にか、人気の無い廊下で、一人の伊達男と向き合っていたのである。

「おや! これはまた見事な金髪美少女だねえ!」

伊達男は笑い、アンジェラのほっそりとした白い手首をつかんだ。 伊達男は、既に相当量のお酒をきこしめしていた。その口からは、濃厚なアルコール臭がしている――

「酔っ払い、お断り!」

アンジェラはピシリと言って抵抗した。

だが、過分に入ったアルコールのせいもあるのか、伊達男は何やら、不穏な下心を膨張させていたらしい。 伊達男は不気味なニヤニヤ笑いを浮かべたまま、アンジェラの手首をいっそう強くつかみ、 何処かへ連れ去ろうとし始めたのである。

レスター邸は広く、重要会議室など、機密性に配慮した小部屋も各所に存在するのだ。 その小部屋は、時には別の意味を持った小部屋に変身する。 壮麗ではあるが人気の無い廊下を引きずられて行くアンジェラは、本気で身の危険を覚えた。

せめてもと、ヒールの付いた靴で伊達男の足をゲシゲシと蹴ってみるが、 絶妙に過剰になったアルコールが、人間の感覚を如何に鈍くするかという事実に、逆に驚かされてしまう。

アンジェラは、伊達男の手を何とかして外そうと必死になっているうちに、 伊達男が見知った人相をしている事に気付いた。 全く知らない人物では無いが、それはそれで、また別の疑惑が浮かんで来てしまう。

「何か見覚えがあると思えば、あの時の……マダム・リリスに何か薬盛られてるんじゃ無い」

アンジェラ、絶体絶命である。

するとそこへ、先程、衝立の裏でイザベラとアンジェラの会話に耳を傾けていた中年の金髪紳士が、足音一つ立てずに現れた。 若い頃に相当鍛えたのであろう、年齢にも関わらずしゃんとした姿勢と体格をしており、 訓練された身のこなしの様は、軍人のようにも見える。

中年の紳士は、わざとらしく咳払いするなり、伊達男の手首をつかんだ。 その手の気配など、全く無かった。伊達男は、いきなり手首をつかまれて、ギョッとした様子で振り返る。

呆然とするアンジェラの目の前で、次の瞬間、伊達男の身体が回転した。 伊達男は中年の金髪紳士に手首を逆さにひねられ、拘束されていた。

「アシュコートの判事の仕事量は、並大抵では無いと言う訳だな」

明らかに上流貴族と思しき身なりの中年の金髪紳士は、 涼しい顔で感想を述べていたのであったが、想像以上の物凄い力で拘束された伊達男の方は、 完全に酔いが醒めたらしい。本当に腕をへし折られる危険を直感したのか、すっかり顔色が変わっている。

「いきなり何だッ! 邪魔すんなよ、腕力ジジイ!」

想定外の急襲を受けた伊達男は、無意識のうちにアンジェラの手首をつかむ力を緩めていた。

アンジェラは、この隙にと、スタコラサッサと逃げ出した。

2.レスター邸…流転の令嬢〔二〕

哀れな伊達男の喚き声が、人気の無い廊下に響き渡る。

そこへ、ヒューゴとエドワードと縮れ毛の従者の三人が、ちょうど通りかかった。 三人は揃ってビックリした様子で、中年の金髪紳士が伊達男を取り押さえている光景を眺めた。

「ハクルート公爵様!」

仰天するばかりのヒューゴ。エドワードも流石に、訳が分からないと言った様子で唖然としている。

「父上? 何かトラブルでもありましたか?」
「この男がな」

エドワードの父親・ハクルート公爵は、涼しい顔で応じた。

次の瞬間、いきなり解放され、伊達男は目を回して転倒せんばかりになった。 縮れ毛の従者が早速、その身体を支えつつ拘束する。伊達男の人相を確認したヒューゴは、再び仰天した。

「マダム・リリスの、最近の愛人……!」

半分失神した伊達男を、縮れ毛の従者が手際よく控え室に引きずって行った。 その様子を眺めながら、ハクルート公爵は、近辺で聞き込んだ噂を披露した。

「しかし、ここ最近、捨てられたと言う噂を聞いているぞ。 その恨み故か、アンジェラ嬢にちょっかいを……」

相変わらずの地獄耳だ。その情報に、エドワードもヒューゴも唖然とするばかりであった。

ハクルート公爵は改めて息子エドワードを見やり、 その『頭の軽すぎるチャラ男』にしか見えない扮装をしげしげと眺め、困惑の表情を浮かべた。

「マダム・リリスの新しい愛人は、金髪……つまり、お前だと言う噂があるが」
「あのマダムが流言飛語の女王だと言う事を、すっかり失念していた……」

いつの間にか、父親は息子の最新のゴシップも仕入れていたのである。 エドワードは、バツが悪くなって顔をしかめ、父親譲りの金髪をかき回すのみだ。 ヒューゴも冷や汗をかいている。

「こッ、これには、色々と複雑な訳がありまして……」

チャラチャラした遊び人風のエドワードと比べると、 父親ハクルート公爵は、年季の入った威厳が明らかに感じられる佇まいだ。 一般招待客のような顔をして潜り込んで来てはいるのだが、 流石に大国の大臣を務めている者ならではの風格がにじみ出ている。

「どの娘が、あの脅迫状を書いた彼女かは、すぐ分かったよ」

ハクルート公爵は、アンジェラの走り去った方向をチラリと見やった。

『この件から手を引け。さもなければ、今度は貴殿が、誰も知らない冷たい場所で、 バラバラ死体となって転がっているであろう』

ほとんど脅迫状としか思えないアンジェラの一筆を、ハクルート公爵はシッカリと受け取っていたのである。

「ロックウェル公爵令嬢、アンジェラ・スミス・クレイボーンか。ユージーンの面影が、確かに存在する」

ハクルート公爵は、走り去る時にアンジェラが一瞬見せた戸惑いの表情の中に、 かつての懐かしい旧友の――ユージーン・クレイボーンの面差しを、ハッキリと認めたのであった。

「……しかし、それ以上に、レディ・シルヴィアに良く似ている……」

エドワードは意外に思いながらも、父親を見直した。

「シルヴィア? アンジェラの祖母の事をご存知でしたか?」
「首都の社交界で拝見した事がある……エスター侯爵の令嬢と言う話で」

勿論、そう説明したハクルート公爵にしても、当時はまだ少年と言って良い年齢であり、 一回りほども年上だった令嬢には、さほど関心が無かった。 しかしそれでも、エスター侯爵令嬢の息を呑むような美しさは、記憶にハッキリと残っていたのである。

ハクルート公爵は、勝手知ったる館と言った様子で、中庭を取り巻く回廊を歩き出した。 エドワードとヒューゴも後に続く。

館から洩れる光が、ボンヤリと回廊全体を照らしていた。中庭には淡い色の花々が咲き乱れ、 艶のある花弁がボンヤリとした光を照り返しているため、この辺り一帯は、意外に明るく見える。

やがて三人は、誰からと言う事も無く、回廊の一角でゆっくりと足を止めた。 中庭に宵闇の風が吹き、ボンヤリとした薄明りの中で、花々の甘い香りが流れる。 レスター家の自慢の中庭だ。今夜は音楽会がメインのため、こちらは注目の的では無かったが。

ヒューゴは暫し首を傾げた後、釈然としないと言った風で口を開いた。

「エスター侯爵は、ゴールドベリ一族では無い筈です」
「デンプシー家ですね? 確か」

エドワードも記憶にある貴族名簿を検討し、それが新興の家系に属すると推測していた。 ハクルート公爵は首を振りながらも、二人の疑問に答えた。

「私が言うのは、アルヴィン・G・フレイザーだ。話題になるような人では無かったし、 息子の居なかった貴族の常で、死後は別の家系に爵位が移行したからな」

そう説明するハクルート公爵の脳裏には、いつしか、かつてのエスター侯爵とその令嬢、 レディ・シルヴィアの姿がよみがえっていた。

故エスター侯爵は灰褐色の髪と褐色の目をしていて、物静かで印象の薄い人物だったが、 素晴らしいまでの博識の持ち主だった。 息子には恵まれなかったが、ありとあらゆる知識を惜しみなく我が娘に与えたと言う。

「故エスター侯爵のミドルネームは、G……表向きの名乗りこそ無かったが、 彼はゴールドベリ一族の子孫の一人だったのだ」

エドワードとヒューゴは、驚きで沈黙したまま、耳を傾けている。

そもそも神話時代にまでさかのぼる祖を持つ、謎と神秘に満ちたゴールドベリ一族だ。 金髪緑眼は一つの判断基準だが、それなりにありふれた組み合わせだし、まして色合いが違えば、 先方から明かして来ない限り、実際にその存在を割り出すのは容易なことでは無い。

しかも、いにしえの騎士の時代に連なる狂信者の時代、魔女弾圧が猖獗を極めた頃に、 その神秘的な能力の故に、ゴールドベリ一族は魔女と同一視されていた。 一族が神話時代の頃から伝承して来た叡智も、狂信者にとっては、許しがたいものであったに違いない。

公的には、激しい弾圧の結果、ゴールドベリ一族の直系と言う意味での血筋は、 火刑台の上で直系の最後の魔女が燃え尽きた時に完全に断絶した――とされている。 現在のゴールドベリの血は深く潜った状態で、アンジェラのように、たまに先祖返りで現れて来るのみだ。

今はまだ、辛うじて飛び石のように、先祖返りとして浮上して来た血脈を辿りながら、 細々と続いているゴールドベリの叡智と伝統。 これもまた、いつか断絶消滅するのだろうか――それは今でも、答えの出ない難問だ。

「ゴールドベリ一族は王室との歴史的関係もあるのに、徹底した秘密主義でな。 ゴールドベリの名は、血縁の中でも限られた人しか名乗れない事になっているらしい。 その分、自称『ゴールドベリ』の偽者が絶えない訳だが……今でも、巫女の託宣で一族の宗主を選ぶと言う噂がある」

ハクルート公爵の説明が、暫し途切れた。その目は、虚空を睨んでいる。

「レディ・シルヴィア・G・フレイザーには、 巫女の能力を持つ双子の姉がいたと聞くが……姉の方は、ほとんど出て来ていなかった……」

そこで、ヒューゴがハッとした様子で口を挟んだ。

「オリヴィア様は、脚の方を悪くしていらっしゃるから」
「うむ。アシュコート伯爵に聞いた時は驚いたよ。魔女同然に、こちらに隠遁していたとは……」

*****

三人は、レスター家のメインの催しである音楽会の会場に入った。 工夫と贅を凝らした華やかな会場には、既に社交界のお歴々が到着している。 プログラムが始まる前の空き時間を有効利用して、あちこちで人物紹介や挨拶が交わされていた。

ハクルート公爵は、『その筋』の見知った顔を順番に確認して、意味深な笑みを浮かべた。 そして、アシュコート伯爵と彼を取り巻く数人の知人が、レディ・オリヴィアと丁重に挨拶を交わしている一角を窺った。 年老いてなお美しいレディ・オリヴィアの姿に、改めて感心する。

平均的に言っても、足腰を悪くする人が多くなる年代だ。 レディ・オリヴィアも脚を悪くしているのだが、この年齢になれば身体的には目立たない事もあり、 このように特別な機会には、招かれれば社交界に出るようになったらしい。 ゴールドベリ一族に連なる人物をその気にさせるには余程工夫が必要だろうが、 宮廷社交界に招く事も出来るかも知れない。

ハクルート公爵は、今回レディ・オリヴィアを初めて見るという事もあり、注意深く観察した。 既に白髪がほとんどで、顔にも年相応のシワが刻まれているのだが――これ程に美しく年を取る人を、他には知らない。

「もう60代の筈だが、あの謎めいた美貌――魔女の噂も納得だな。 ゴールドベリ一族の宗主との、秘密の通信もある筈……」
「ゴールドベリの宗主? グウィン・ゴールドベリは、まだ生きていたんですか?」

エドワードは思わず声を上げていた。エドワードが初めて目撃したグウィンは、 いつ天に召されても不思議では無い、と言う程に年老いた老人だったのである。 百歳を超えていると言われても、全ての人が納得するであろうと言う程の老人――

ハクルート公爵はうなづきながらも、この時ばかりは珍しくボヤいた。

「彼の地位や影響力からすれば、このロックウェルの問題は些細な代物に過ぎん。 表立って動かないのは理由があるのだろうが、私には訳が分からん」

*****

舞台に楽団メンバーが揃い、演奏プログラムが始まった。

エドワードやヒューゴと共に観客席に着き、音楽に耳を傾けながらも、ハクルート公爵は懸念を口にした。

「アンジェラ嬢は、スミス家とは上手くいってないらしいな」
「そこまで、お聞き及びでしたか」

ハクルート公爵の地獄耳に、感心しきりのヒューゴである。

ヒューゴは暫し思案して内容をまとめると、 アンジェラの事情についてハクルート公爵に説明を始めた。

「シルヴィア・スミス夫人が早死にした後、スミス氏は残された娘のセーラの養育の事もあって、 後妻を迎えたんです。その後妻が、今の大奥方、ハリエット・スミス夫人であります」
「予想がつくな……良く聞くところの確執と言う訳だ」

――セーラ・スミス嬢と、新しい奥方ハリエット・スミス夫人は、何故か気が合わなかったのだ――

ハクルート公爵は会場の一角に目をやり、納得の表情を見せた。

――かの『スミス家の大奥方』が、孫息子のオズワルドと共に座を占めている。

『スミス家の大奥方』は、過剰なまでのプライドの高さが仄見える、面倒そうな老女だ。 レスター分家の名家スミス家を維持すると言うのは、流石に大仕事らしい。 往年の際立つ美貌が端々に窺えるのだが、威厳を保つためなのであろう刺々しい表情が、 実年齢以上に老けた印象を与えている。

ハクルート公爵は、暫しの間、レスターの一族の面々が一堂に集まっていた光景を回想した (本来、他家の者は入り込めないのだが、何故かハクルート公爵には忍者の才能があるのだ)。

*****

老スミス夫人は、レスター家の第二位の席次を持つ高位の親族として、 並み居るレスター親族の挨拶を受け入れているところであった。 しかし、アンジェラの姿を見るなり、化粧がひび割れる程に顔を引きつらせ、手に持っていた扇で、 貴婦人のサインを送った――『即、この場から立ち去れ』と。

アンジェラは、ヒューゴやヒューゴ父のレスター当主などといった、 親族として最小限必要な――最上位のレスター家の面々とのみ挨拶を交わし、その後、速やかに姿を消していた。

その間、老スミス夫人は徹頭徹尾アンジェラを無視した。 アンジェラに近付こうとする第二位以下の下位親族を険しく睨み付けて、牽制すらしていた。 明らかに、スミス家の先妻の孫娘でもある筈のアンジェラを、『その場に居ない物』として扱っていたのである。

そこには、他人の目にも明らかに見て取れるほどの、冷え冷えとした空気が流れていた。

――エドワードは、あの奇妙な関係を察知して、すぐにアンジェラ嬢を追った。 思った以上に、ユージーンの娘に本気と言う訳だ……

*****

回想から戻ったハクルート公爵は、再びヒューゴを見やった。

「貴族名簿やら何やらで下調べしておいたが――シルヴィアの夫・スミス氏は、 確か……再婚した後、間も無く死んでいなかったかね?」
「その通りです。二代目も早死にして……今はオズワルドが目下の独身当主で、花嫁募集中です」

エドワードは無言で、ハクルート公爵とヒューゴの会話に注意深く耳を傾けていた。 いずれも、エドワードにとっては初めて聞く内容だ。 実際、エドワードはロックウェル事件の更なる調査に集中していたので、 アンジェラの母方の来歴を調べる余裕が無かったのである。

ヒューゴの説明は続いた。流石にレスター家の身内だけあって、その内容は詳しい物である。

「セーラは10代半ば頃スミス家を出て、レディ・オリヴィアの付き人として生計を立てていたそうです」

セーラがスミス家を出た理由については、陰で色々とささやかれてはいるものの、正確なところは明らかでは無い。 セーラは、実母シルヴィアに似たのか大人しい性質で、正面切って抗弁するというような事は無かった。

どう見ても、後妻たるハリエット・スミス夫人が、 先妻の娘たるセーラを、何らかの言い掛かりをつけて追い出した形に近い。 しかし、それを公的に指摘すると、ズルズルと身内の恥をさらしかねず、レスター家の者でさえ遠慮する状態なのだ。

「……その後、セーラがロックウェル公爵の奥方に迎えられて――」

ヒューゴは、そこで一瞬の間だけ言いにくそうに口ごもったが、すぐに先を続けた。

「スミス家の大奥方にしてみれば……まあ、実の娘を差し置いて、 追い出していた筈の先妻の娘が公爵夫人に出世してしまった訳ですから、余計、複雑らしくて……」

ハクルート公爵は了解した。

「――流転の令嬢だな。二代に渡る因縁が、アンジェラ嬢の上にたたっとる訳だ。 その上に、ロックウェル卿の問題がある……か」

そして、ハクルート公爵は様々に思う事があったのか、長い沈黙に落ちた。

音楽会のプログラムは、いつの間にか後半へと移り、 今夜の一押しでもある華やかなオーケストラ曲が始まりつつあった。

エドワードは、数々のハッキリとしない疑問を抱えながらも、父親を見つめるのみだった。

*****

レスター家開催の音楽会が終了し、社交界の定番でもある夜会が続いている。

ハクルート公爵とその息子エドワードは、レスター邸の庭園のひっそりとした一角を散策していた。 ハクルート公爵は元々お忍びで来ている身であり、夜会をすっぽかす事など簡単な事だ。

やがてハクルート公爵が、おもむろに口を開き、エドワードに語り掛ける。

「お前も、妙な存在に惹かれる性質らしいな……あの奔放な弟に預けたのが、やはり問題だったのかね」

父親に先立って庭園の小道を歩いていたエドワードは、意味深な笑みを浮かべた。 小道の途中に、ランプが灯された瀟洒なあずまやがあり、深夜にも関わらず、ボンヤリと明るい。

「でも、そのお蔭で、想像以上に色々な事を学びましたよ。叔父が居なかったら、キアランとも会っていなかったでしょう」
「リドゲートか……彼の腕前も大した物だな」
「銃&剣の名人と名高い叔父が、私たちの師匠でしたからね」

そして自然に、沈黙が流れた。ハクルート公爵は、真剣な眼差しでエドワードを見やる。

エドワードは次に来る父親の言葉を予期しているのであろう、真剣な表情で、虚空の彼方を見つめていた。 あずまやから洩れる光に、若者の心もち長い金髪がきらめく。

長い沈黙が過ぎた後――ハクルート公爵は腕組みしたまま、確認するように問い掛けた。

「あの手紙の追伸に書いた事は、本気なんだな?」
「ロックウェル事件にケリが付いたら、彼女に求婚します」

エドワードの答えは、ハッキリとしたものだった。ハクルート公爵は片眉を上げた。

「よりにもよって、私に脅迫状を書いた娘に?」

あらぬ方を眺めているように見えて、エドワードは、シッカリと父親の表情の変化を読み取っていた。 父親の方を振り返ると、やはり同じように、ユーモアを込めて片眉を上げて見せる。

「私もまさか、多忙を極める父上が、本当に此処に来られるとは思いませんでしたよ」

今度は、ハクルート公爵が腕組みを解き、あらぬ方を眺める番であった。

「弟のヤツ、脱税の内偵の技術ばかりか、減らず口まで仕込んでいたらしいな……」

父親は、幾分か皮肉っぽい口調ではあったものの、不興を感じている様子は無かったのであった。

3.レスター邸…流転の令嬢〔三〕

音楽会が終了した会場の中では、夜会がたけなわである。

脚が不自由なオリヴィアは車椅子に座っており、夜会が半分ほど過ぎた辺りで退出する事になった。 光栄にもアシュコート伯爵に車椅子を押してもらいながら、割り当てられた控え室に向かう。

二人は会場を退出しながらも、注意深くハリエット・スミス夫人の様子を窺った。

アシュコート伯爵が困ったような様子で呟く。

「スミス家の老ハリエットは、今年もシルヴィアの孫どころか、あなたすらも避けているようだな……」
「予想できた事ですわね」
「オリヴィアが町に出て来るのは、年に一度の、この催しの時だけと言うのに」

アシュコート伯爵は、なおも納得しかねている様子だ。しかし、伯爵と言えども、 他人の感情にまで干渉する訳には行かない。こういう部分では沈黙を守らざるを得なかった。

*****

控え室に入ったアシュコート伯爵とオリヴィアは、一つの円卓を囲んだ。

円卓の上には既に明かりが灯っており、多数の手紙が入れられた小さなバスケットがある。 いつも通り、アンジェラが整理しておいた物だ。

「また近辺の相談事が集中かな?」

アシュコート伯爵は、バスケットの中の手紙の数に呆れた様子だ。

『謎を解き明かす森の魔女』と言うような神秘的な評判がひそかに広まっており、 オリヴィアの元には、何かとトラブルに関する相談事が持ち込まれて来ていた。 ましてオリヴィアが町に出て来る機会は滅多に無いため、 この時期の定例の滞在先となっているレスター邸方面に、オリヴィア宛の相談事が集中する事になるのだ。

オリヴィアは楽し気に微笑みながら、幾つかの手紙を手に取った。

「ギルバート様のご令息がたの相談もありますわね……夫婦喧嘩のようです」

アシュコート伯爵は白髪混ざりの銅色の髪をかき回し、「あいつら……」と、呆れたように呻くのみだった。

*****

長くオリヴィアに仕えている家政婦スコット夫人が、タイミング良くお茶を運んで来た。 スコット夫人が退出した後、伯爵とオリヴィアは、おもむろに会話を始める。

「あなたが今でもアシュコート領に居るのは光栄だが、レディ・オリヴィア……アンジェラにとっては、 必ずしも良い環境だとは言えないのが……」

伯爵はそこまで言うと、続きに詰まって口ごもった。

アシュコート伯爵領の辺境に近いレイバントンの町は、ロックウェル公爵の領地と隣接している。 目下、アンジェラとロックウェル公爵は、親子認知の件で揉めており、この町で裁判を起こしている。 これに関連して、脅迫だけで無く、 『ロックウェルのバラバラ死体』で知られる凄惨な殺人事件や謎の行方不明事件が発生した。 穏やかな経緯を辿っていないのは、目にも明らかである。

オリヴィアは静かな笑みを浮かべた。

「アンジェラも私も承知の上ですから、お気になさらず。 あの子が成人した時、長く話し合って決めた事でもありますから……」

ふとオリヴィアの脳裏には、アンジェラが生まれた時の記憶がよみがえって来た。 かつて遠縁の従姉が私を見出したように、アンジェラが生まれた瞬間、私にも分かった――ゴールドベリの娘だと。

しかし、ゴールドベリを名乗るという事は、いにしえの弾圧の歴史を思えば、相当の覚悟が要る。 巫女としての確かな能力が無く、単に『直感』があるという状態だけでは、名乗りに対する充分な理由にはならない。

――アンジェラは、どうして生まれて来たのだろう。

今では、先祖返りの出現例は随分と少なくなっている。だが、直系が絶えてなお、 今でもゴールドベリの先祖返りが出現すると言う事実は、 その『知』の伝統と能力には、まだ存在意義があると言う事を証しているのか。

オリヴィアは、人知を超えた運命の力を感じつつも、複雑な思いを抱かざるを得ない。

「あの子の運命は、私の勝手のせいと言えるかも知れませんね」
「どう言う事かな?」

オリヴィアは目を伏せ、静かに言葉を続けた。

「シルヴィアが此処のスミス氏と出逢ったのは、私が此処に来たから――そして、 私がアシュコートに来たのは……ギルバート様がいらしたからですわ」

オリヴィアは、微かに頬を染めた。聞きようによっては『愛の告白』だ。

アシュコート伯爵は、驚きと動転の余り、お茶を吹き出した。

「お茶が……ギルバート様」

冷静に布巾を差し出すオリヴィアである。

アシュコート伯爵は、顔を赤らめたまま、まだ信じられないと言った様子で固まっていた。

「エスター侯爵の邸宅で、ギルバート様を迎えていたのは私だったのです」

オリヴィアは、アシュコート伯爵と初めて会った時の事を説明した――もう40年以上も昔の事である。

「双子と言うだけあって、シルヴィアとは見分けが付かなかったでしょうね。 若い頃は私の脚も、ごまかせる程度には大丈夫でしたし」
「混乱して……何が何だか……」

アシュコート伯爵は、まだ呆然と茶カップを手にしたまま、固まっていた。

オリヴィアはイタズラっぽく微笑み、説明を続けた。

――あの頃、オリヴィアの双子の妹シルヴィアは、粘着質なストーカー男に悩まされていたのだ。 シルヴィアは大人しい性格だった事もあり、心底参っていたのだった。 そこでオリヴィアがシルヴィアに成り代わり、ストーカーの正体を暴くと共に撃退するという計画が進行していたのである。

そこに、容疑者の一人として現れていたのが、ギルバート青年――将来のアシュコート伯爵――だったのだ。 当然ながら、当時のギルバート青年は、跡継ぎになる可能性の極めて薄い、気楽な身分の紳士だった。

当時のオリヴィアにとっては、妹を苦しめているストーカー疑いのある候補の一人だった (勿論、オリヴィアには透視能力があり、ストーカー疑惑はすぐに晴れている)――

「あの時は……謎の脅迫状と嫌がらせが続いて……」

アシュコート伯爵も流石に、当時の薄気味悪いトラブルを思い出したようである。 何とか気を取り直し、ギクシャクとしつつ――危なっかしい手つきながらも、茶カップを受け皿に戻す。

――果たしてオリヴィアの不思議な透視能力は、間も無くしてストーカーを現行犯で取り押さえるところまで行ったのだ。 そして、令嬢は、不自由な脚でありながら闘志だけは戦士並みにあり、ホウキを振り回して、ストーカー男と戦おうとした!

当然と言うべきか、ストーカー男にお仕置きの鉄拳を振るうのは、ギルバート青年が行なった。 ギルバート青年は、その場に居合わせたのは偶然だったが、持ち前の気概と好奇心を発揮して、 ストーカー事件に首を突っ込んでいたのである。

オリヴィアにとっては、実に印象深い出来事であった。

何故なら、オリヴィア&シルヴィア双子の父親であるエスター侯爵は、とても優しい人だったが、 気が優し過ぎて、かえって頼りない人でもあったからなのだ(勿論、それはそれで悪く無いのである。 ただちょっとだけ、侯爵家の当主としての、断固とした決断力や態度に欠けていただけなのである)――

「――気が付いたら、あなたを愛しておりましたわ」

オリヴィアはお茶を一服し、感慨深げに呟いた。

アシュコート伯爵は、まだ信じられないと言う思いで、回想にふけっていた。

エスター侯爵令嬢、レディ・シルヴィアだと思っていた娘――双子の姉の方だったとは、 今まで思いもしなかったのである。

思えば納得する事が次々に思い出されて来る。 エスター侯爵邸での令嬢は、首都圏の舞踏会で初めて会った時の大人しそうな印象を、大きく裏切っていたのだ。

――何か楽しそうな事を思いつくと、緑色の目がキラキラと輝き出す。イタズラっぽい微笑み。 そして何よりも、鋭いユーモア感覚を感じさせる、痛快なまでの受け答え。

舞踏会の後で入れ替わっていたとして、何処で再び入れ替わったのか――と伯爵は思案し、 そして、その疑問も急に解けて行くのを感じていた。ストーカー事件が解決した後、 双子の片割れが、もう一人の片割れと会うと言って、馬車で一人外出する場面があったのである。

あの火のような気性に惹かれていたのに、あの日を境に令嬢は再び、 火が消えたように――物静かで大人しい、最初の印象通りの娘に戻っていた……

あの昔のやり取りの後、自然にエスター侯爵家とは縁遠くなった。 そして色々と不思議な出来事があって、思いがけずアシュコート伯爵の地位が回って来たのであった。

伯爵は、複雑な思いでオリヴィアを見やるしか無かった。 周辺の事情が落ち着いたら、いずれは求婚しよう――と思うくらいには心惹かれていながら、 最後の日、その手を取りそこねてしまった令嬢を。

「あの時、私は……あなたの手を取るべきだったか……?」

オリヴィアは少し寂しそうな笑みを浮かべ、うつむいた。

「そうは参りませんでしたわね。私には……近いうち、伯爵になるギルバート様も、 奥方の姿も……見えておりましたから……」

――恐るべき透視能力だ。

アシュコート伯爵は、今更ながらに驚きを込めて、オリヴィアを見直した。

――『最も強い先祖返り』と言われるオリヴィアで、これだ。 いにしえのゴールドベリの直系の巫女は、どれ程の物が見えていたのだろうか。

「グレースの姿が……か? 子供たちの姿も?」

その確認に、オリヴィアはシッカリとうなづいたのであった。

オリヴィアにとっては初恋であった――しかし同時に、 決して成就しない恋である事も、オリヴィアには最初から分かっていたのである。

「年を取る程に悪くなる、私の脚の事もございました。ギルバート様のご両親は、私を認めなかったでしょうね。 私にしても、当時の貴族社会が求めるような、良き妻としての能力が……子供を産む能力が無かった。 私には、生まれながらにして、ゴールドベリ一族の未来を占う巫女としての義務がございました」

人生とは選択の連続だ。生まれついた立場によっては、限られた選択肢、限られた道しか示されない場合も多い。 その迷いと苦しみの中で、オリヴィアは一つの道を選択せざるを得なかったし、 実際に断固として一つの道を極めたのである。

「私は、レディ・グレースには、なれない……」

オリヴィアは、長く秘めて来た思いを噛み締めつつも、穏やかに微笑んで言葉を続けた。

「ギルバート様の余生の旅路を……今は既に遠くなった青春の思い出と共に――古い友人として、また戦友として、 お供させて頂くだけで光栄です」

アシュコート伯爵は灰色の目を細め、ゆっくりと微笑んだ。若かりし頃のように。

「私にとっては、あなたはいつでも謎と神秘に満ちた火の乙女だったよ」
「相変わらず口がお上手ですわね」

オリヴィアも感謝とユーモアを込めて、小気味よく切り返したのであった。

*****

アシュコート伯爵は気を取り直すと、真面目な顔になり、目下の懸念を話題にした。

「しかし、奇妙だ……その透視能力をもってしても、ロックウェル事件は依然として謎ばかり……、 勿論あなたの能力無しには、此処まで追及する事も、また出来なかったが……」

オリヴィアも頬に手を当てて、思案顔になる。

オリヴィアの透視能力は、現在のゴールドベリの巫女の中ではトップクラスだ。 しかし、その能力をもってしても、ロックウェル事件には、『深淵の迷宮』が広がっているのだ。

卓越した透視能力を持つオリヴィアには、一期一会の軌道を描いて行く運命の星図が見えていた。 ゴールドベリ一族の中でも、そこまで透視できるような能力の持ち主は、滅多に居ない。 直系の者が死に絶えてしまった現在では、尚更だ。

*****

一期一会の星図――運命の軌道を描く、星辰の階梯。

一つの大きな軌道が終わる時に、『巨星墜つ』と言い方がされて来たのは、決して妄想の産物では無い。

光明星の軌道と暗黒星の軌道とが複雑にもつれ、絡み合い、 『クロノスの時』と共に無限の連関を――運命を織り成して行く、虚空の円舞曲。

そして、『カイロスの時』――『界(カイ)』と言う名の放射状の影が、 広大無辺な『クロノスの時』の各所に、チラホラと見受けられる。 音も無く生成し、そして、ふとした瞬間に消滅する、捉えどころの無い影だ。

『界(カイ)』と言う名の放射状の影は、何処までも謎めいている。 まるで、滑らかなガラスに衝撃が走り、そこを中心とする、放射状の深く暗いヒビ割れが生じたかのようなイメージだ。 そのようにして、過去・現在・未来に渡る、高次元の『深淵の迷宮』が広がっている。

――『界(カイ)』。時の裂け目、歪曲、深淵の迷宮、異界、高次の欠陥、暗い傷。

様々な言語表現はあるが、いずれも、その不可思議な異変を、正確に捉えた物では無い。 そして、その放射状の影は、異様な程の影響力をもって、 『その瞬間』接近していた星々の軌道を――ひいては、周辺の運命の星図を一変させてしまう。 ブラックホールの近くで、時空が歪むのと同じだ。

そこでは、透視能力を以てしても、一切が歪んで見える――謎も、記憶も、愛も。

ブラックホールの如き『深淵の迷宮』に吸い込まれて行った事物がどうなっていったのかは、その事物自身にしか分からない。 いや、事物自身にも、もしかしたら分からないのかも知れない――

第三者たる観測者は、『その瞬間』をもって、高く跳躍し昇華してしまった因縁の名残を、或いは、 凍て付いてしまったかの如き暗いイメージを、ただ眺めるのみだ。

『界(カイ)』に余りにも接近した事象には、運命の軌道が歪む故の、奇妙な異変が起こり続ける。 そこは、異様な場だ。光明星や暗黒星の軌道の形が、大きく変わる。そして軌道交差のパターンすらも、激変してしまう。 出逢う筈の無いものが出逢い、『ありえざること』が、容易に『ありえること』となるのだ。

運命の軌道そのものは、『深淵の迷宮』――『界(カイ)』――の中からも放射されて来て、 『クロノスの時』の中で、他の光明星や暗黒星が繰り出す軌道の群れと、尋常に連関を紡ぎ出して行くものではあるけれど。

――『界(カイ)』よ。運命の軌道を奪い、そして、また与えるものよ――

*****

オリヴィアは思案に暮れながらも、今の時点で言及できる事のみを、口にした。

「墓場まで持って行く……と言う程に抱え込んだ秘密までは見えません。 しかるべき時期が到来するまではね。――ルシールの父親が不明と言う一件も、そのケースです」

アシュコート伯爵が、思案しつつ口を開いた。

「――と言う事は、ロックウェル卿は……」

オリヴィアは静かにうなづき、確信めいた予感の断片を、象徴的なイメージにまとめて語った。

「仮面の下は別の顔――仮面舞踏会の名手ですわね」

円卓の上のランプが、周囲の茶器を照らしている。 窓の外では再び一陣の風が吹き、夜の闇をいっそう深くしたようだった。

虚空に記された、誰にも分からない神代文字を読み取っているかのように、 不思議な口調で呟き続けるオリヴィア。その緑の目の輝きが、いっそう深くなる。

「そして、『仮面』はロックウェル卿その人であるか否かは分かりませんが、決して赤の他人ではありません。 浅からぬ因縁があるようですわ。奇妙な事に、ルシールの事情も絡んで来ている……私に見えるのは、そこまでですね」

伯爵は、その指摘の意味を考え始めた。

「彼の仮面は近いうちに……いつか必ず、剥ぎ取らねばならんな」

オリヴィアは、そんな伯爵を、愛情深い眼差しでそっと見やったのであった。

――不思議な事だが、こう言う愛し方は、ライト夫人に教わったのだ――

オリヴィアは、あの25年前の冬の馬車事故の後、不思議な縁あって、 長く付き人を務めてくれた若い女性を思い出していた。

*****

通称『ライト夫人』――アイリス・ライト。

状況からして、恋人ないし夫に捨てられたとしか思えない不幸な娘ではあったが、 アイリスは不思議な事に、恨み言は一切口にしていなかった。 納得した上での、永遠の別離を覚悟していたようにも見えたのである。 若き日のオリヴィアが、何もかも了解した上で、アシュコート伯爵との恋を諦めたのと同じように。

『――私にも、そう言う愛し方ができますでしょうか?』

馬車事故で怪我をしたアイリスが、ゴールドベリ邸に運び込まれてから、数日後の事だ。

オリヴィアが独身であり、森の中のコテージにひっそりと隠れ住む理由を聞いた後、 アイリスは自問自答するように、そう呟いたのだ。

ゴールドベリ邸の窓の外では、雪が断続的に降り続いていた。 この数日間、吹雪となって辺り一帯を襲っていた猛烈な寒気が去ったのであろう、平年並みを思わせる穏やかな降り方だ。 実際、この冬の、最強にして最後の寒気だったのだ――春の気配は、すぐそこまで来ていた。

まだ寝たり起きたりと言った状態だったアイリスは、その時はベッドから身を起こしていた。 アイリスは、しきりに窓の外を眺めていた。 ゴールドベリ邸を取り巻く森の木立の中に、愛する人の姿を探すかのように。

『いつか、お互いに年老いた時に、再びあの人に出逢って……遠い青春の時代の、 まばゆい思い出を共有する良き友として愛する事が?』

やがて。

アイリスは口を固く引き結び、窓の外を眺める事を止めた。

そしてアイリスは、首に掛けていたネックレスから結婚指輪を外した。 結婚した月が恐らく九月だったのであろう、よく見るとその指輪には、 『九月』を暗示する、ささやかなシンボルが刻まれている。

アイリスは、それを指にはめた――

――かつては結婚のために、これからは流転のために。

長く故郷に帰らない事を決心していたのだ――我が娘ルシールが成人し、事情を理解できるようになるまで。

アイリスは、仮面のようにピクリとも動かない、恐ろしい程に静かな顔をした。 本当に運命を怨み、時に逆らう事を決心した人間は、その一瞬、そう言う顔をするのだ。

オリヴィアは、恐るべき『深淵』の底が抜けた音を――ハッキリと聞いた、と確信した。 意識もしない深層の底の底、人知を超えた言い知れぬ『何か』が荒れ狂い、過去へ、現在へ、 未来へと、時空(クロノス)の深淵を引き裂き、我と我が身にも傷を負いつつ、 禍々しい『迷宮(ラビリンス)』と化して行く音を――

――結婚指輪をはめている時、アイリスの手は、微かに震えていた。

その時、その手を震わせていたのは、尽きせぬ瞋恚の炎であった筈だ――

子供まで成した相手を――エロスを交わした人生の『意義』を越えて行く事は、とても難しい。

アイリスの心が創造した『深淵の迷宮』の奥にあるもの、その恐るべき暗さ激しさ。

あれは、嫉妬し欲望する神であったか。それとも、破壊し裏切る神であったか。

ルシールの父親が今でも不明だという事実は、なおも時を荒(すさ)び、裂き続ける『暗い傷』の存在を証している。 20年以上と言う時を超え、 『深淵の迷宮』を現出させていたアイリス本人の死をも超えて――群れなす光明星と暗黒星とを呑み込み、 凶星と化し続ける『暗い傷』だ。

エロス、フィリオス、アガペー。

教会による解釈――すなわち『性愛、友愛、神の愛』という有り様が、オーソドックスな物とされている。

しかし、いにしえのゴールドベリ一族の直系の中では、『劫初の愛、終極の愛、超越の愛』という解釈がなされていた。 その昔、魔女弾圧に伴う思想弾圧で壊滅し、公的な歴史には、遂には残らなかった考え方なのだが。

――劫初から終極へと至る流転。傷を負うて漂泊する神。愛の変容の軌跡。

オリヴィアは、あの時、 『癒しの星』――流転の凶星・カイロン――となりうる『暗い傷』を抱いた『ライト夫人』になら、 『花の影』にまで至る超越的な流転の軌道を、描けるかも知れないと思ったのであった。

『カイロスの時』――『カイロンの星』――『界(カイ)』。

命を障(さや)るものと命を癒すものは、基本的に同一だ。病毒として作用するものこそが、霊薬となる。 如何なる星々も、光明星としての側面と暗黒星としての側面を持つ。

中でも、傷を負うて漂泊する神――『暗い傷』を抱いて流転する凶星は、特別である。

そのような凶星は、底知れぬ領域『界(カイ)』と直結しており、必然として、 はるかに遠い超越的・根源的な場から、癒しと救済の力を引き出して来るものなのだ。

悔やまれるべきは、アイリス・ライトが、死ぬのが早過ぎた事だ――

*****

夜は更けて行き、アシュコート伯爵が控え室を退出する頃合になった。

アシュコート伯爵とオリヴィアは、いつものように挨拶を交わす。

「ハクルート公爵が、ロックウェル公爵を刺激する手筈になっている……また明日、訪ねるよ」

部屋を仕切るカーテンを通して、アンジェラは、そのアシュコート伯爵の言葉に耳をそばだてていた。

――決行の時は近いわ……!

その夜、オリヴィアは、部屋を片付けるアンジェラを見やり、荷物の数が多過ぎる事に不審を抱いたのであった。

4.アシュコート伯爵領…風雲の緑の丘

午前のうちから空には強い風が吹き、壮大な雲の群れが流れ、どよめいていた。

昼下がりも半ばを過ぎると、蒼さと黒さを増した雲の切れ間からは、白金色の薄明光線が差し込んだ。

夕暮れには早い時刻だが、既に夕方を思わせる光景だ。 過剰な湿気を含んだ、強い風。分厚い雲に覆われ、薄暗くなりつつも、異様な赤らみを増した空。天候急変の前兆である。

レイバントンの町の端にあるレスター家の私有地には、ひっそりとした小屋があり、 そこでは、ロックウェル城の仮面舞踏会に向かうための大型馬車が準備されていた。

乗客はハクルート公爵とエドワードとヒューゴの三人だ。 馬車を担当する御者と従者は、ヒューゴの私的な弁護士助手を務めても居る中年の御者ジャガー氏と、 その息子・縮れ毛の従者である。

「警戒すべきは、ロックウェル城の仮面舞踏会の筈……今から何をそんなに警戒しとるんだ?」

ハクルート公爵は、出発直前になってもウロウロと不安そうに見回るヒューゴに、 呆れたように声を掛けた。

ヒューゴは柵の上によじ登り、辺りをキョロキョロ見回しながらも、ハクルート公爵の疑問に答えた。

「アンジェラは、やると言ったらやる人なんです。 祖母のシルヴィア様も母親のセーラも、揃って物静かで大人しい淑女だったそうなんですが、 アンジェラの性格はオリヴィア様の方を受け継いだようで……」

ヒューゴは馬車の周りも念入りにチェックした後、ようやく安心したようである。

「大丈夫みたいです。アンジェラの影も形も、一応、皆無……」
「ゴールドベリの勘を逃れるのは、大変らしいな……」

エドワードも流石に、苦笑するのみであった。

かくして馬車は、ロックウェル城に向かって走り出した。

アシュコート伯爵領とロックウェル公爵領との境界は岩がちな土地になっていて、緑の丘と荒地が交互に広がっている。 荒地はそのまま、緑の量を増やしながら山岳地帯へとつながっていた。

岩の多い場所には強い根を持つ藪が生えており、強い風に吹かれて騒々しくざわめいている。 雲はなおも劇的に様相を変え、雷雨を伴う激しい春の嵐の到来を告げていた。

馬車の中に落ち着くと、ヒューゴは早速、ハクルート公爵に声を掛けた。

「ロックウェル卿の本人確認に、ご協力頂きまして……」

ハクルート公爵は鷹揚に微笑んだ。

「礼は要らんよ。ユージーンと会うのは、随分久し振りになる。 大事故の後、人が変わってしまったと言う噂も気になっているんだ……こちらにしても、 王室を巻き込んだ政府内部の混乱でゴールドベリ方の協力を頂いたしな」

エドワードはすぐに、「あの内々の一件ですか?」と思い当たっていた。

「あの時にグウィン氏を初めて拝見しましたが、年齢が分からなくて……」
「ヒーラーでもあるからな」

そう答えた公爵は、やはり自分でも不思議に思う部分があるのか、曖昧な顔をした。

「――あの毒を盛られて死に掛けた証人を、どうやって喋れる状態にしたのかは、今でも分からん」

当時、政府内部の混乱に巻き込まれた証人は、 証拠隠滅のために毒を盛られて瀕死の状態にあった――しかも、毒の作用による錯乱症状があった。 しかし、グウィン氏の驚異的な癒しの技術の甲斐あって、決定的な証言を残せる程度には意識回復していたのである。 その命こそ救う事はできなかったが、苦悶に満ちた死をもたらす毒を盛られていた筈の証人は、 グウィン氏に癒されつつ、比較的穏やかな死を遂げていたのであった。

ハクルート公爵は、分厚い雲ですっかり暗くなった窓の外を見やった。雷が遠くで響いたのである。

「嵐が接近しているな」
「御者・従者のマントは新品だから、大丈夫の筈ですよ」

御者ジャガー氏も、その息子・縮れ毛の従者も、意外にベテランなのである。

その時、馬車の窓の外で黒い妙な影が動いた。

注目する三人。

何と小さな黒ネコが、高速移動中の馬車の窓に張り付き、死に物狂いと言った様子でニャアニャアと鳴きながら、 その存在をアピールしているのだ。

何処かで見たような黒ネコだ。

余りにも非現実的な、黒ネコの登場だ。

この天候の中で起きた、それは、まさにゴシックホラーである。

「どうやって張り付いた……」

ヒューゴは絶句した。

「止めろ! 何か変だぞ」

エドワードは早速、御者ジャガー氏に声を掛けた。

ジャガー氏は直ちに馬車を止め、何事かとチェックを始めた。 そして、馬車の後ろまで回って、信じがたい状況を目撃して、恐ろしい悲鳴を上げたのであった。

「どわーッ!」

ジャガー氏の悲鳴を聞いて、馬車の中の三人もビックリして外に飛び出した。

馬車の後ろに設定されている従者席に、縮れ毛の従者と一緒に、もう一人の人物が乗っていたのである。

男にしては背丈が若干低い。マントの下に何を隠しているのか、やはり男にしては、ただならぬボリューム感だ。 そう――まるで本格的なドレスを着ているようなラインなのである。 すっぽりかぶったフードの中からは、宝石のような緑の目がのぞいていた。

縮れ毛の従者は、馬車の外に飛び出すが早いか、ひたすら面目無いといった様子で、ブンブンと頭を下げた。 土下座せんばかりの勢いだ。

「大変、申し訳ありません! 騒ぐなと脅迫されて……!」
「やっぱりやった……!」

ヒューゴは一気に青ざめた。果たして、その不審者はアンジェラだったのである。

黒ネコは何かご褒美を期待しているのか、早速アンジェラのマントによじ登っている。しかし、 「後でお仕置きするからね!」とアンジェラに叱られてしまったのであった。

開いた口が塞がらぬと言った面々を見回し、アンジェラは大袈裟に溜息をついて見せる。

「従者・尾行・作戦、上手く行くとは思ったんだけど、この程度のドッキリで大声とは……」

すぐさま、涙目で抗議したのは中年の御者ジャガー氏である。

「そんな訳無いでしょ、お嬢さん! 馬車の従者席に女性を放置したままで走るなんて、 御者の名折れ……この私ジャガーも、プロの名にかけて、『安全運転』だけは守るんですから!」

ヒューゴは、もはやワナワナと震えていた。

「あれだけ隠密行動したのに、何でバレた……」
「ジャガー氏を尾行したのよ。……ああ、でもジャガー氏を怒らないで。半分は私の勘だから」

エドワードとハクルート公爵は、『これがゴールドベリの勘と言うヤツか』と感心するのみだ。

ヒューゴは苦労しつつも、ようやく気を取り直し、見覚えのある黒ネコを『ピッ』と指差した。 アンジェラの腕の中に入り込んだ黒ネコも、意味ありげに『ピッ』と尻尾を立てて応えて来た。 小さな黒ネコは、アンジェラに随分と懐いている。

「この黒ネコを飼い始めた?」
「何故か後を付いて来たの……私もまさか、馬車の窓に張り付くとは思わなかったわよ」

アンジェラはそう言うと、困惑の溜息をついたのであった。

再び雷が鳴ると、急に雨が降り出した。まさに間一髪だ。一行は慌てて馬車に乗り込んだ。

馬車の座席に、各々改めて落ち着いたところで、一行の中で一番身分の高い人物、 すなわちハクルート公爵に対し、ヒューゴとアンジェラは揃って神妙に頭を下げた。

「私の親戚が大変お騒がせ致しまして」
「昨夜はご親切にも助けて頂きまして」

二人が頭を下げたのは同時だったが、二人の口から出た言葉は別々だった。 そして黒ネコは、ちゃっかりとアンジェラの膝の上に収まり、ハクルート公爵を見上げて「ニャー」と鳴いた。 どうやら黒ネコは、野生ならではの勘で、 この人間たちの集団の中でハクルート公爵が一番地位の高いオスだと判断したらしい。

「ユージーンの度胸も受け継いだらしいな」

ハクルート公爵が呆れたように腕組みをする横で、エドワードは吹き出し笑いをしていた。

確かにヒューゴとアンジェラは全く似ていないのであるが、何故か頭を下げる格好は、 親戚と言うだけの事はあるのか、妙に似通っていたのである。

ハクルート公爵は、まだ信じられないと言った様子で、アンジェラを慎重に観察し始めた。

「馬車の従者席に張り付いたまま、ロックウェル城を訪れる作戦だったと言うのかね?」
「その通りでございますわ、公爵様」

平坦な道に入り、馬車は更にスピードを上げていた。外の嵐は強くなり、行く手にひときわ高い丘が見えて来る。 大きな雷光が閃き、緑の丘の上に一瞬、壮麗な城の姿が浮かび上がった。

「こんな形になるとは思いませんでしたが、 ロックウェル卿の口から真実を聞きだせるのは、まさに今回しか無いと言う直感がございました」
「父親の記憶は無いそうだが、ロックウェル卿を見付けられるとでも言うのかね?」

疑わしそうなハクルート公爵に、アンジェラは神秘的な緑の目をキラリとさせて見せた。 何故か黒ネコも、揃って目をキラリとさせている。

「ネズミの死体と一緒に入っていた血付きのナイフが教えてくれますわ。 間違い無く、本人の手が触れた物ですから……」
「……ネズミの死体!?」

流石のハクルート公爵も絶句した。 美しくて若い令嬢の口から、このような凄惨な内容が飛び出すとは、まさに不意打ちだ。

そこでヒューゴが、ロックウェル裁判に伴う過去の脅迫トラブルについて、詳しく説明したのであった (ロックウェル卿がアンジェラに、ズタズタになったネズミの死体を送り付けたと言う一件)。

*****

雷雨が本格的になって来た頃、一行はロックウェル城に到着した。

岩山に囲まれた緑の丘の上に建つ壮麗な城は、近づいてみると、やはり一層、巨大に見える。 フロント部の城壁に並ぶ塔の上には、ロックウェル家の伝統ある紋章旗が掲げられていた。

いにしえの騎士の時代に全盛期を迎えた、ゴシック風の建築物だ。高い塔と、それを取り巻く重厚な城壁。 カッチリとした直線的な石積みで構成された城館には、細長く高い窓が幾つも並んでいる。

ロックウェル城の各所には、慎重に増改築を繰り返してきた歴史が仄見える。 いにしえの面影を主要な部分にシッカリと残しながらも、 各部屋の暖房や水回りなどの設備は、エネルギー効率の良い現代型の物に置き換えられているのだ。

ロックウェル城の広い前庭ロータリーや壮麗な玄関広間は、既に仮面舞踏会に出席して来た他の招待客で一杯だ。 しかし、ロックウェル城のスタッフは、このような混雑をさばくのに慣れているらしく、 招待客は次々に割り当てられた控え室へと誘導されていた。

客ごとに割り当てられた控え室で準備している間、ハクルート公爵は油断無くアンジェラに目を配っていた。

アンジェラは贅沢なシルクのドレスを身に着けている。 古い品ではあるが、それ程着られる機会が無かったのであろう、新品同様の状態だ。 華やかなローズ色とレトロ風のデザインは、仮面舞踏会の会場に充分に相応しい物だった。

「あのドレスには見覚えがある……母親の物か」
「そう言う話ですが」

エドワードの答えに、ハクルート公爵は深刻な面持ちでうなづき、再びアンジェラを慎重に見やった。

アンジェラとヒューゴは、会場に出る前の最後の準備に取り掛かっていた。 華麗な装飾が施された、ベネチアンマスク風の仮面が並んでいる箱をのぞき込んでいる。

ハクルート公爵は、あらかじめ自分用に選んでいた仮面の状態をチェックしながらも、 アンジェラに聞こえないように声を低めて、エドワードに指示と忠告を入れた。

「私の警護は構わんから、ヒューゴと共にアンジェラ嬢に張り付いていろ。 あれは、爆発する直前のマリアと全く同じなんだ。 刺し違える覚悟すらあるかも知れん……事情を考えれば無理も無いが」

エドワードは思わず、先頭に立った父親を見直したのであった。

*****

嵐はますます強まり、レスター邸の窓にも大きな雨粒が叩き付けられ始めた。

溜まった文書に目を通していたオリヴィアは、ふと顔を上げた。

オリヴィアは、自分に割り当てられた部屋の窓を見やり――そこには、 雨粒の流れが出来ていた――不意に不吉な直感が閃くのを感じていた。 その直感は明らかに、不吉な出来事の到来を予兆していた。

オリヴィアは眉根を寄せ、辺りを見回す。そして、部屋の雑用を進めているスコット夫人を見やった。

「――アンジェラが見えないわね」

急に声を掛けられて、あからさまにギョッとするスコット夫人。

「アンジェラが何処へ行ったか、知ってるでしょう?」

オリヴィアが確信を持って更に問うと、スコット夫人は、明らかに顔色を変えた。

「はあ……あの……オリヴィア様」

スコット夫人の顔は、みるみるうちに青ざめていく。 その原因を直感したオリヴィアは、ハッと息を呑み、緑の目を見開いた。

「知ってるのね」

スコット夫人は遂に、くず折れるように膝を突き、声を震わせた。

「申し訳ありません、オリヴィア様。アンジェラお嬢様に、固く口止めされておりました……じ……実は……!」

窓の外で、ひときわ大きな雷光が閃いた。

その瞬間、オリヴィアの脳裏には、決定的なビジョンが閃いたのであった――

*****

レスター邸の執務室。

アシュコート伯爵とレスター家当主は、執務室に集まった数人の役人たちと共に、各種の報告書を確認していた。

そこへ、慌しく扉が開かれたのである。『予定』より随分と早い――執務室の中の全員が、驚いて顔を上げた。 次いで飛び込んで来た人物を見て、信じられぬとばかりに仰天した。

「これはッ……オリヴィア様!」

レスター家当主が叫んだ。噂に聞く『ゴールドベリの貴婦人』の登場に、役人たちが揃ってポカンとした。

オリヴィアは杖を突きながら、決死の形相で立っていた。不自由な脚で此処まで歩いて来たのである。 オリヴィアは脚の痛みによろめき、扉に取りすがった。

「脚に無理をお掛けになっては!」

すっかり動転した様子のスコット夫人が、オリヴィアの後から駆け寄って来て、ひたすら声を上げている。

アシュコート伯爵が驚きのままに立ち上がり、震えているオリヴィアを支えた。

「オリヴィア! 一体どうした……!?」
「一番速い馬車を貸して下さい!」

オリヴィアは、今まさに押し迫ろうとする不吉な運命を感じ取っていたのであった。

「――私は……アンジェラを死なす訳にはいかない……!」

*****

春の夜の嵐は、数多の雷を伴って辺り一帯を襲っていた。雨は既に土砂降りである。

オリヴィアを乗せた快速馬車は、嵐を突いて、可能な限りのスピードでロックウェル城に向かっていた。 『予定』より随分と早くなったが、役人たちが乗り込んだ馬車も後に続いている。

アシュコート伯爵とオリヴィアが同乗している馬車の中には、重い沈黙が落ちていた。

オリヴィアはいつしか、まだ10代半ばと言う年頃だったセーラが、 スミス家を追い出されるようにして見ず知らずの紹介先に向かい、 その途中でゴールドベリ邸に挨拶に寄った日の事を思い返していたのである。

*****

――あれは、既に黄昏の頃であったか。

仄暗い中でも見事にきらめくセーラの金髪は、 シルヴィア譲りの物であり――同時にゴールドベリの血筋を伝える証でもあった。

セーラは素直で気立ての良い娘ではあったが、シルヴィアに似て引っ込み思案なところがあり、 一通りの学問はともかく、身のこなしは洗練されていなかった。

事情を聞けば、ハリエット・スミス夫人の勧めにより、紹介先の親族の邸宅で修養する事になったと言う。 貴族の間でも、長子以外の子供たちが、修養と言う名目で親族に預けられる事は良くある事だ。

だが、セーラの場合は、既に社交界デビューを間近に控える年齢であり、今更、修養と言うのもおかしい。 しかも、付き添いも無しで一人で旅立たせると言うのも、余りにも不自然な状況である。

スミス家の後妻と聞くところのハリエット・スミス夫人が、 セーラに充分な教育をしていなかったのは目にも明らかだった。 この状態で紹介先に向かわせる事は論外であった――紹介先の邸宅にしても、確かな話がある訳では無かった。

そこに見え隠れするスミス夫人の思惑に、オリヴィアは苦い思いを感じざるを得なかった。

オリヴィアは、曖昧模糊とした紹介先に代わって、セーラをゴールドベリ邸のスタッフとして受け入れた。

そして、何処の社交界に出ても相応に振舞えるように、亡きシルヴィアに代わって、 セーラに全てのレディ教育を施したのであった(オリヴィアは侯爵令嬢であり、 上流社交界に必要なレディ教育を心得ていた)。

ゴールドベリ邸から少し行ったところに、ロックウェル公爵領があった。 セーラは、地元の社交界の一つに出席した時、ロックウェル公爵になったばかりの若い紳士に見初められたのである。

シルヴィアの娘は、幸いに良縁に恵まれた。 後は行く末の幸せを見守るだけだ――と、オリヴィアはホッとしていたのだ。

25年前の冬のさなかに、運命が急転するまでは。

――劫初 終極 界(カイ)を湛えて立つものよ――

『カイロスの時』の衝撃は、常に、突然だ。

その異変が、過去から来たのか、未来から来たのか――『カイロスの時』そのものの起点は、 「それが生み出された、その時」になってみないと分からない。過去・現在・未来に渡る、『高次の欠陥』の発生だ。

その時――その場――その一瞬。

放射状のヒビ割れが音も無く走り、『深淵の迷宮』となり――そこにあった運命の軌道は、 いきなり歪み、牢獄の如き迷宮の底へと呑み込まれて行く。

奈落の底を思わせるような、不安に満ちた雪闇のビジョン。 それを、オリヴィアは今でも、まざまざと思い出す事ができた。

――激しい雪風が、その一瞬、崖の上から吹き降ろす。 路面状況は、割合に良い方ではあったのだが――雪と風とに翻弄されてスリップを起こし、 崖の下に広がる闇に向かって転げ落ちて行く、乗合馬車。

どのような運命が、雪闇の中に交差しつつも封印されてしまったのかは、ただ想像する他には無い。

*****

「あの馬車事故は、私の不注意のせい……」

そう呟くオリヴィアは、震える手で顔を覆っていた。

「五分だけ、馬車が遅れていれば……或いは、早めに出ていれば……? そのたった五分で変化した路面状況が、 私には見えたのに……私は家を出られず、何もできなかった!」

アシュコート伯爵は、オリヴィアを過去の懊悩から引き出すべく、強い口調で声を掛けた。

「予想もせぬ条件が絡み合っただけだぞ、オリヴィア」

二人が乗っている馬車は、ロックウェル城への道を走り続けていた。

土砂降りの雨が、馬車の窓を叩き付けている――25年前の吹雪を思わせる激しさだ。

「……それに、あの困った老ハリエットが拗ねて、あんな辺境の小屋に一人引きこもった上に高熱を出さなければ、 あなたが調合した薬をセーラが持って行くと言う展開は無かった……あの吹雪をおして、 廃れた狩猟場まで往診に来るような医者はおらんし」

アシュコート伯爵の言葉は続いた。

「薬は老ハリエットの娘が届ける形になり、老ハリエットは、 あの事故に関してオリヴィアが一切動かなかった事を非難したが……」

伯爵は、厳しい表情をしていた。当時は伯爵も流石に詳しい事情を知らなかったのだが、 レスター家の一族との社交の中で、秘密扱いながら事情を知る機会があったのである。

「……まだ生後二ヶ月だったアンジェラをゴールドベリ邸に残して、 馬車事故が起きた現場に駆けつける……という事は、あなたには出来なかった筈だと私は思っている」

ロックウェル卿は、新妻のセーラを心配し付き添い――そして、馬車事故で妻を失い、自身は大怪我をした。

『界(カイ)』に接近した事象は――意味が、情報が、歪む。二ヶ月と言う数字も、思わぬ逆転をした。 元はと言えば、アンジェラの出生に関する役所の書類の不備が主な原因だが、 その二ヶ月と言う数字だけが転がって行き、アイリスとルシールに降り掛かったのだ。

文書記録の食い違いが放置されてしまったのは、元の書類の不備のせいだけでは無いだろうと、 オリヴィアは分かっていた。不可思議なまでの、偶然と必然の重なり。

当時のアイリスは、セーラに良く似ていたのだ。顔見知りの人でさえ、見間違える程に。 見事な金髪は勿論の事、物静かな雰囲気も――

本人が後で気が付き、別人だと説明しても、あの大事故の後では、 頭を打って混乱していると思われても致し方の無い物だったであろう。

オリヴィアは、ようやく、過去の懊悩から浮かび上がって来た。

「アンジェラは……彼らが遺してくれた、私の夢のような物です。 若い頃の私に出来なかった事が、あの子には出来る……」

オリヴィアは、複雑な思いを込めて眉根を寄せた。

卓越する能力と引き換えに、先天的には、 女性としての身体に致命的な欠陥を起こしやすい――恐るべき血を強く受けながら、 平均的な能力に留まる『普通の子』として生まれて来たアンジェラには、子供を産む可能性が保全されていた。 後天的な巫女の一部や、潜在的な血族たちが、そうであるように。

そして今、法律的には、貴族社会の間でも条件付きながら、養子縁組が認められるようになって来てはいるのだ。 今の時代に生まれて来ていれば、オリヴィアにも、また違った人生の可能性があっただろう。

「これもやはり、私の勝手な想い……孫に我が夢を託すと言う点では、 ハリエット・スミス夫人は、もう一人の私ですわね」
「それは、いささか違うな」

そう切り返すアシュコート伯爵の口調は、確信に満ちた物だった。

「オリヴィアには、老ハリエットには無い物がある――必要とあらば、汚名を負う事をも厭わない勇気だ。 ……アンジェラは、必ず助ける!」

嵐は、なおも収まる気配が無い――しかし、特別に手配された御者は、 素晴らしい手綱さばきで馬を操り、馬車は土砂降りの悪路を走り抜けて行った。

5.ロックウェル城…仮面舞踏会〔一〕

ロックウェル城の大広間では、仮面舞踏会がたけなわであった。

ゴシック風の高い組み天井。重厚な彫刻が施された列柱が並ぶ、荘厳とすら言える会場。 灯りは最小限まで絞られ、ゴシックホラーの舞台さながらの、豪華ながらも重々しい雰囲気が充満している。

仮面舞踏会の招待客は、全員、ベネチアンマスクに似た華麗な仮面を付けていた。 仮面には、色とりどりのビーズやスパンコール、金銀その他にきらめくエナメルといった装飾が施されている。 それらが、ボンヤリと薄暗い会場の中で、キラキラとさざめいているのだ。

華麗な仮面は、全て、 『狼男』、『人魚』、『夢魔』、『ゾンビ』、『ドラゴン』、『ユニコーン』、『フェニックス』などと言った、 神話伝説や怪談では定番のモチーフが施されている物だ。

時折、ゴシック風の細く高い窓の外で、雷光が閃く。妖しげにうごめく人外の仮面の群れ。

招待客は皆、禁じられた幻想の中でしか味わえないような、非日常的な気分を満喫していた。

マダム・リリスが取り仕切るパーティーでは、アルコールと一緒に、 アヘンや禁制ドラッグの類が堂々と供給されているのが、常態と化している。 しかし、このロックウェル城の広大な会場では、目に見える所には、 常識的なアルコール製品以外の物は何処にも無かった。

舞踏会場にセットされている魑魅魍魎の印付きの衝立の後ろに、秘密の小部屋に通じるドアが隠されているのだが、 そこで、下心を持った招待客たちに、 アヘン類がコッソリと供給されていると言う形になっているのだ(勿論、これは秘密のオプション取引である)。

流石に、大勢のスタッフの目があるロックウェル城の中では、外聞をはばかっている――と言う訳だ。 これはこれで、『いけない事をしている』と言う、 堕落した人間ならではの、頭の悪い乱雑なスリル感や背徳感の演出には、なっているのであった。

退廃的な歓楽の極みを実現したような会場の中で、仮面姿のハクルート公爵とヒューゴは、 ロックウェル卿の姿を求めて慎重に巡り歩いていた。その後を、仮面姿のエドワードとアンジェラのペアが付いて行く。

「皆、仮面だから、誰が誰だか良く分からない……」

ハクルート公爵は、上流社交界には有り得ない程の怪しげな演出に、流石に呆れ気味になっていた。 此処まで怪しげな雰囲気になると、出席者も皆、正体不明の魑魅魍魎に見えて来ると言うレベルだ。

「しかも挨拶も省略だ……此処まで無礼講のスタイルを取るとは思っていなかったぞ」
「シャンデリアの数が少なくて薄暗いのは、接近に好都合ですね」

そう応じるヒューゴは、『ゴブリン』の仮面を付けていた。 柱とシャンデリアの数を確認しながら、本物のゴブリンさながらに、盛んにキョロキョロしている (これで不自然に思われないのは、仮面サマサマなのだ)。

やがて、急にヒューゴは足を止めた。『ゴブリン』の仮面が、会場の中央部分をキョロリと向く。

会場の中央部にセットされた、ゴシックホラー幻想から抜け出て来たかのような奇怪な造り物の祭壇。 きわどいドレスをまとって立つ、見覚えのある人影――果たして、マダム・リリスである。

ヒューゴは慎重な身振りで、ハクルート公爵にリリスの位置を示した。

「中央に居る『邪神の聖女』の仮面が、マダム・リリス……彼女がこの会場を仕切っていまして」

マダム・リリスは、邪神を召喚する儀式の真似事をやっているらしく、 愛人の一人らしき『邪神の神官』の仮面の紳士と、何やらアヤシイ遊びの真っ最中である。

ハクルート公爵は了解し、うなづいて見せると、辺りに目をやり始めた。

「ユージーンも、この近くか……」

一方、アンジェラをエスコートする形になったエドワードは、 背後に執拗な視線を感じ、そっと後ろを確認していた。

そこに居るのは、会場スタッフを務めているのであろう、仮面を付けていない執事姿の人物だ。 明らかに城内勤務の執事と見える、地味な印象の初老の男。 その執事は、凍り付いたようにアンジェラを見つめ続けていた。

――今のアンジェラは、ローズ色のドレスに合わせて『胡蝶』の仮面を付けているから、 直接の知人以外には、正体は分からない筈だが。

エドワードは初老の男を警戒しつつも、アンジェラに害を加えようとする気配が無い事に、疑問を抱き始めた。

アンジェラは、或る方向に視線を定めると、ピタリとそこから動かなくなった。

「アンジェラ?」

エドワードは不審に思い、アンジェラの視線の先に目をやり――そして、鋭く息を呑んだ。

――中世の兜のような、面妖な仮面を被った、男。

エドワードの身振りに気付き、ハクルート公爵とヒューゴも、その方向に視線を向ける。

――奇妙に歪んだマント姿。面妖な仮面は、本物の兜のように、すっぽりと頭全体を覆っている。

「彼が……そうか!」

ハクルート公爵は仮面の奥で目を見開き、瞬時のうちに了解した。

アンジェラは決然とした足取りで、その兜の仮面の男に接近しようとした。 しかし、直前にエスコート役がエドワードからヒューゴに変わり、ヒューゴは器用にアンジェラの動きを封じていた。

「邪魔しないで、ヒューゴさん」
「ダメですよ! ハクルート公爵が、あの人の本人確認をなさるのが先です」

エドワードはハクルート公爵の護衛に立ち、ハクルート公爵は、目標となった兜の男に素早く近づいた。

脇で奇妙に動き回る人影に気付き、面妖な兜の仮面の男が振り向いた。

男の目に最初に入ったのは、鮮やかなローズ色――アンジェラのドレスだった。

「そのドレス、何処かで見たような……」

兜の男はギギギ、と身体の方向を変えた。

そこへ、アンジェラの姿を覆い隠すように、『金の王』の仮面を付けたハクルート公爵が立つ。

「お前は……!」

面妖な兜の仮面をした男は呻いた。

ハクルート公爵は、兜の仮面の男をしかと見据えた。 かつての学友であり、親友である筈の、変わり果てた姿の男を。

「久し振りだな、ユージーン? 私の声に覚えがある筈だが……?」
「セバスチャン・シンクレア……」
「ほう、記憶はあるんだな。昔の声からは多少、変化したようだが……」

ハクルート公爵は感心しながらも、仮面の中でわずかに目を細めた。

――余りにも変わり果てている。まるで――

「あの事故のせいだよ」

兜の仮面の男は、探るような視線を遮るかのように、ふいと首をそむけた。

ハクルート公爵は親し気に苦笑した後、会場を見回した。懐かしい旧友に、昔のように語り掛ける。

「寄宿学校の時の事を思い出す……冗談で、このような仮面舞踏会を企画した事があった」

兜の仮面の男は、無言である。ハクルート公爵は、全く警戒していない様子で、ゆらりと隣に立った。

「まあ、寄宿学校だったからな。クジに負けた半分は女装するという事で、大騒ぎになった。 君も確か、クジに負けた側だったか……」

面妖な兜の仮面の男は、あらぬ方を向きながら「ああ」と、溜息混じりに答えた――

一瞬の、沈黙。

ハクルート公爵は、仮面の下で鋭く息を呑んだ。

「君は誰だ……!? ユージーンは、クジに勝った側だったんだ!」
「何だと!?」

兜の仮面の男は、ギョッとしたように振り返った。

ハクルート公爵は、特殊な駆け引きを仕掛けていたのだ。

アヤシイ遊びの真っ最中だったにも関わらず、 その会話術に早くも気付いた『邪神の聖女』マダム・リリスが、目を険しく光らせて、サッと振り返った。 流石に、前線を務めるだけの事はある――やたらと勘の鋭い女だ。

「あんた! そいつ、引っ掛けだよ!」

ロックウェル卿を装っていたと見える正体不明の男は、いきなり腰の剣を抜いた。

「この野郎ッ!」

力強い踏み込みと共に、剣が不吉なうなりを上げる。余りにも俊敏な動きだ。

刃先が触れ、ハクルート公爵の頭部が、仮面ごと斬り飛ばされる――

しかし、その後に続くと思われた、衝撃音が、無い。ハラリと落ちたのは、真っ二つになった『金の王』の仮面だけだ。

ハクルート公爵は、紙一重の差で刃先をかわしていたのだ。 流石に、武門の家柄たるシンクレア家の当主と言うべきか。恐るべき熟練した身のこなしである。

「基礎訓練が、なっとらん……寄宿学校にすら行ってないな!?」

既にハクルート公爵は、この面妖な兜の男は、ロックウェル卿とは別人だと確信していた。

「黙れッ!」

これでも腕前には自信を持っていたのであろう、必殺の一撃をかわされた兜の男は、怒り心頭だ。

怒れる男は、急に足をもう一歩踏み出し、ローズ色のドレスをまとった『胡蝶』に顔を向けた。 いきなり面妖な兜の仮面と真向かいになり、棒立ちになるアンジェラである。

「……そうだ、そのドレスだ……セーラは事故で死んだ筈だぞ! ――この、化け物め!」

兜の男は呻き、叫ぶが早いか、再び剣を構えて、今度はアンジェラに斬りかかる。目にも留まらぬ速い動きだ。 その怒れる狂人ならではの非常識な動きとスピードは、ハクルート公爵でさえも一瞬、対応が遅れる程だ。

――この男が別人ならば、彼は何故セーラを知っているのか――

驚きと恐怖の余り、棒立ちになったままのアンジェラは、明らかに逃げ遅れていた。

凶刃が、アンジェラの頭を真っ二つに割ろうとする。

次の瞬間、鋭い金属音が響き渡った。

重量のある剣が、人の背より高い放物線を描いて舞い上がった。 そして会場の中央部、奇怪な造り物の祭壇の、固い床との間で、大音響を立てる。

『邪神の聖女』リリスと『邪神の神官』の男の目の前で、重い剣がバウンドし、再び固い床との間で音響を立てた。 リリスは唖然として目を剥いた。相方の男が腰を抜かし、情けない悲鳴を上げた。

兜の男は、しびれる手首を押さえて後ずさりながら呻く。その手には、既に剣は無かった。

いつの間にか、兜の男とアンジェラの間には、エドワードが割って入っている。

エドワードは背中にアンジェラをかばい、正面に兜の男を捉えつつ、素早くステッキを構え直していた。

実はそのステッキは、剣と同じ鋼で出来ていたのだ。 目にも留まらぬ一瞬、エドワードはアンジェラの前に出て、ステッキで斬撃を受け止めていた。 そしてステッキをひねり、男の剣を弾き返していたのである。

――恐るべき体術に、剣術だ。

仮面の下の表情は知れぬものの、全てを理解した兜の男の声には、押し隠せぬ畏怖の念が含まれていた。

「貴様、『蝙蝠』……! リリスの新しいペットじゃ無かったのか……!」

エドワードは、黒い『蝙蝠』の仮面を付けていたのである。

アンジェラもまた、 兜の男と同様に――或いは、それ以上に――エドワードが見せた動きに圧倒されて、呆然と立ち尽くすのみだ。

推察するに――エドワードには、武門の血筋の者として受け継いだ、生来の身体能力の高さがあるのだろう。 それでも、エドワードの、鬼神の如き激烈な戦闘能力が、にわかには信じがたい。

目にも留まらぬ速さで続けざまに起きた荒事に、『邪神の聖女』の仮面を付けた女、リリスの方は、 明らかに度肝を抜かれていた。震えながら後ずさるリリスに、兜の男は鋭く顔を向ける。

「……無能は、この城には要らん……!」

怒れる男のマントが高くひるがえる。一瞬のうちに、その手から新たに放たれていた短剣は、 見事リリスの肋骨の間を貫き、心臓に命中した。周囲のダンス客たちが、驚きの余り口々に悲鳴を上げて散らばった。

「……あんた……よくも……!」

リリスは身を震わせ、口から血をあふれさせた。身を二つに折り、次第に崩れ落ちながらも、 激しい怒りと憎しみを込めて、兜の男を睨み付ける。

「……逃げ出してた、あの弁護士を……あたしが、この手で始末してやったと言うってのに……!」

血と共に口から吐き出された、驚くべき暴露――証言。 ハクルート公爵も「何だと!?」と息を呑むばかりであった。

床の上に崩れたリリスは、一瞬、断末魔の痙攣を起こすと、そのまま絶命した。

面妖な兜の仮面の男は、もはや狂気の只中にあった。次の短剣を取り出すなり、 「死ねぇ!」と叫びながら、『ゴブリン』の仮面に向けて投げ付ける。

ヒューゴは悲鳴を上げながらも、驚くべき身のこなしで短剣をかわした。 短剣はヒューゴの頭があった場所を正確に飛び、後ろの衝立に深々と突き刺さった。

兜の男は返す手で、再び短剣を放った。標的は、エドワードと言うよりは――むしろ、 後方で呆然としたままのアンジェラだ。

しかし、その時には既に充分に距離を取っていたエドワードは、再び目にも留まらぬ神技を披露した。 放たれた短剣は、その刃先がアンジェラに届く前に、エドワードのステッキで叩き落とされていた。

「野郎ども! こいつらをやっちまえ!」

業を煮やした兜の男は、もはや上品な貴族言葉では無かった。

会場の端々から、明らかにギャングの類と見えるガラの悪い男たちが、手に各種の刃物を構えながら湧き出した。 ご丁寧に、『魔人』、『邪神のしもべ』、『吸血鬼』など、冗談で選んだとは思えない程の、 ピッタリの魑魅魍魎の仮面を付けている。

「化け物が出たー!」

現実と妄想の区別がつかなくなった一部の招待客たちが、パニックに陥りながら逃げ回った。 アヘン類による幻覚症状も進んでいたに違いない。 女性の一部は、ドレスの裾が乱れるのも構わず、手近な柱やカーテンに登り出した。 相当数の男性は口からよだれを垂らしながら、壁に頭突きをしたり、衝立に歯で噛みついたりした。

「ロックウェル城の宝石が欲しけりゃ、さっさとやれぇ!」

兜の男の叫びに応じて、各種の魑魅魍魎の仮面を付けたギャングたちは、一斉に、 ヒューゴ、エドワード、ハクルート公爵、アンジェラに向かって殺到する。

「イザ百発百中、乱れ撃ちッ!」

ヒューゴは隠し持っていた銃を両手に構えると、シャンデリア目掛けて百発百中の射撃を施した。 弾が尽きると、いつの間に用意していたのか、小石を放つスリングショットがフル稼働である。

数少ないシャンデリアは次々に灯りを落とし、会場は瞬く間に闇に包まれた。 外で閃く雷光だけが、唯一の光源である。

「一体、何がどうなっているんだ!」
「真っ暗よ! ドアは……!?」

幻想どころでは無い、本物のゴシックホラーの世界に放り込まれた形となってしまった会場の招待客たちは、 いっそう恐怖に陥って、泣き喚きながら逃げ惑った。転んだところを上から踏まれた人も多いのであろう、 あちこちで「グエッ」と言うような、哀れな蛙のような悲鳴が上がり出した。

兜の男と魑魅魍魎のギャングたちも、いきなりの闇と混沌の中で、攻撃するべき目標を見失っている。

「アンジェラ! この隙に、ロックウェル卿の手がかりを探せ!」

エドワードは、戸惑うアンジェラをドアの方向へ押しやった。アンジェラは会場を飛び出して行った。

*****

細長く高い窓が並ぶ壁が、何処までも続いているようだ。

仮面舞踏会の会場を飛び出したアンジェラは、しきりに閃く雷光を頼りに、窓が並ぶ長い回廊を走って行った。 ローズ色のドレスの裾がひるがえる。 いつからか、黒ネコもアンジェラの先になり後になりして、傍を走っている。

春の夜の嵐は、季節の移り変わりの兆しだ。豪雨と雷光は激しさを増していた。 自らの直感の導く先を目指して、走り続ける――アンジェラの行く手で、不自然に歪んだ格好の人影が動く。

再び雷光が閃き、アンジェラはギョッとして急停止した。

「……まさか……!」

雷光に浮かび上がったのは、40代から50代と見える中年の男だ。 不自然に染めたような茶色の髪。上着は脱ぎ捨てたのか、シャツ&ベストと言うラフな姿である。 手には何かしら、剣らしき物を持っている――

そして、やつれた面差しは、狂おしいまでの殺意に満ちて歪んでいた。

「……ユージーンの娘――殺す……!」

アンジェラは回れ右して、逆方向に走り出した。恐ろしさの余り、声も出ない。 雷光が織り成す光と闇の中を、終わりの無い悪夢のように、狂える男が剣を振り回しながら追いかけて来る。

ロックウェル城のスタッフたちは――ギャングの類も含めて――仮面舞踏会の会場の方に集中しているのであろう、 会場からすっかり遠くなったこの暗い回廊には、誰も居ない。 ゴシック風の回廊は幾たびも折れ曲がり、階段やトンネルとなり、空中庭園と思しき場を幾つも貫いて続いて行く。

数世紀に渡って増改築を繰り返して来たロックウェル城は、複雑に入り組んだゴシック風の巨大建築物となっていた。 内部構造に詳しくないアンジェラにとっては、まさに古代神話に出て来た、『地下迷宮(ダンジョン)』そのものである。

――かの迷宮の奥底に棲む、恐るべき怪物の名前は、何だっただろうか。

闇のベールを剥いだ瞬間、『吾に恥見せつ』と怒り狂い追って来た邪神の名は――

自分は、迷宮の怪物と――邪神と、出逢ってしまったのかも知れない。

――迷宮は怪物の棲み処とされているが、元々は神の家だとも言う――

考えてみれば、復活祭を境に行方不明になった弁護士も、復活祭の巨大卵のハリボテから出て来たバラバラ死体の謎の男も、 ロックウェル城と言う名の『迷宮(ラビリンス)』の、その奥底に棲む怪物と、出逢ってしまったからでは無かったか。

『嘘から出たまこと』と言うのか。『邪神の聖女』の仮面をしたリリスと『邪神の神官』の仮面をした男が、 冗談で遊んでいた邪神召喚の儀式は、本当に、本物の邪神を召喚していたのか――

アンジェラは無我夢中で走り続け、いつしかゴシック風の尖塔の群れが立ち並ぶ城壁の上へと迷い込んでいた。

男が剣を振り回したのか、硬い刃先が、何処かの壁に当たる音がする。 男の姿は見えないが、不吉な音は、意外に近いところから聞こえて来た。

アンジェラは今頃になって、自分の選択の意味を悟り、悔やんだ。窓から外が見えるコースを選んで走っていたのだ。 ロックウェル城の内部構造を知り尽くす謎の男にとっては、逃走先が容易に予想できる、理想的な獲物であっただろう。

アーチ窓を開き、城壁の上に飛び降りる。せめてもと、端の塔を目指して、豪雨が叩き付ける石畳を走って行く。 石畳は分岐し、バルコニーとなり、細い空中回廊となり――いつの間にか、 塔の上に登るための、外付けの階段となっていった。

雨で外れたのであろうか、仮面は既に何処かに落としてしまっていた。 雨を吸ったドレスは岩のように重くなって行き、階段を飛ぶように駆け上がって行くアンジェラの健脚にも、 遂に限界の時が来た。

――どうやら、塔の上に出たらしい。

そこは、黄金比に近い比率を持つ長方形のスペースだった。ザッと見て、五メートル×八メートルという所か。

通常は人が登る事を想定していない場所だったらしい。 長方形のスペースのほとんどは、ゴシック風の尖塔の屋根部分に占められていた。 黒々とした屋根の頂点は、人の背よりずっと高い部分にある。

屋根の頂点には、グッショリと濡れて重く垂れ下がる巨大な旗を取り付けた、 いかにも頑丈そうな鋼鉄のポールが固定されていた。

アンジェラは、屋根の端を慎重に伝って行った。一メートル弱ほどの幅が、屋根の周りを回廊のように縁取っている。

しかも、落下防止の柵や壁など全く無い。小さなレンガほどのサイズしかない縁石が、 スペースの縁にまばらに設置されているだけなのである。

アンジェラは息を切らして震えながら、スペースの端でしゃがみ込んだ。

夜の雨に濡れた身体は、もはや極限まで冷え切ってしまったのか、思うように動かない。 端にある塔だ、地上に降りるための階段か梯子がある筈だが、 そもそも嵐の中の塔を、このドレス姿で無事に降りられるのか――?

尖塔に激しく降り注ぐ雨水は、屋根を伝い、一メートル弱の幅に溜まるが早いか、 縁石の隙間を通って、遥か下へと、滝のように流れ落ちている。 下に広がる闇は深い。そこがどうなっているのかは分からないが、 塔から落下した水が固い地面に叩き付けられている音が、微かながら区別できる。

――この下には、固い石畳が広がっているに違いない。 この豪雨では、突風にあおられて足を滑らせれば、運の尽きだろう。

塔の上でなお雷は鳴り響き、雨は激しく叩き付けて来る。しかし、そんな中にあってなお、 アンジェラの耳は、迫り来る死神の足音をシッカリと捉えていた。

――死神の足音が、塔の上に到着した。

アンジェラはギクリとして震えながらも、確信を持って後ろを振り返った。

男は大きく肩で息をしながらも、アンジェラの退路を塞ぐように立ちはだかっていた。 そして、ギクシャクと迫って来る。剣の重さのせいだけでは無い、奇妙に歪んだ歩き方だ。

「……チョロチョロと逃げ回りやがって……そこへ直れ!  あの馬車事故の古傷のせいで、私は節々がおかしい」

男は再び剣を構えた。雷光が閃き、刃がギラリと光る。

「ユージーンの娘! お前の身体も、ユージーンと同じように……バラバラ死体にしてくれる……!」

再び雷が光り、塔の上を光と闇で切り刻む。続いて、塔全体が不気味に震動する。

アンジェラは何とか立ち上がると、もはやこれまでと覚悟しながらも、 奇妙に歪んだ動きをしながら接近して来る、見知らぬ男を見据えた。

「あなたは……、一体、誰……!?」

6.ロックウェル城…仮面舞踏会〔二〕

少し時間をさかのぼる。

ヒューゴの銃撃音が続けざまに響いた事に気付き、 ジャスパー判事とその手勢が、正面玄関を破ってロックウェル城内に雪崩れ込んだ。

ヒューゴの銃は、ひそかに後を付いて来ていたジャスパー判事らに対する合図となっていたのだ。

しかし、彼らはいきなり、真っ暗な会場に踏み込む羽目になっていた。

「何で城の中が真っ暗なんだ!?」

暗闇に落ちた会場の中では、雷光を頼りに、なおも激しい果たし合いが続いていた。 様々な武器の音と、人が倒れる音とが、続け様に響いて来るのである。

「灯りを持て! ならず者どもを連行しろ!」

ジャスパー判事の指示に応え、続く手勢によって次々に松明やランプが持ち込まれた。 会場の中は白昼のような明るさになった――仮面を付けた大勢の招待客が、 まぶしさの余り、本物の魑魅魍魎も同然に、口々に呻き声を上げた。

ヒューゴが最初に、偽のロックウェル卿、いや、その抜け殻に気付いた。

「あの偽のロックウェル卿が消え失せた……!」

兜の仮面とマントだけが、そこに残されており――中身は既に無かったのである。

ハクルート公爵もエドワードも、謎の男が見せた魔法さながらの離れ業に、唖然とするばかりだった。

*****

ロックウェル城の広い前庭は、叩き付けるような雨にも関わらず、多くの馬車と人々とで騒然としていた。

既に到着していたジャスパー判事の手勢は勿論、 『予定』を早めて駆けつけて来たアシュコート伯爵の馬車や、一緒に付いて来た多数の馬車が停車している。

後続の馬車には、かねてからハクルート公爵と示し合わせていた『その筋』の政府役人たちが乗り込んでいた。 レスター家当主の協力で音楽会の招待客リストに名前が加えられ、それを口実に集結して来ていた者たちだ。

一足遅れてやって来た馬車の数の方が遥かに多い。 その中には、首都からやって来た大型馬車や、罪人を拘束し連行するための移動型牢屋も多く含まれていた。 乗り込んでいたのは、非合法アヘンや脱税を取り締まるために首都から派遣されて来ていた、大勢の特派員たちである。

政府役人と特派員たちは、手際良く強制捜査のチームを組み、ロックウェル城に踏み入った。

ロックウェル城の中から次々に湧いて来たのは、押収された大量の非合法アヘン及びドラッグ類と、 身柄拘束された大勢の非合法アヘン業者――リリスと結託し、巨大薬物犯罪にいそしんでいたギャングたちだ。

特派員に拘束され、魑魅魍魎の仮面を剥がされ、脱税の詳細を白状させられるために連行されて行く、ギャングの行列。 ロックウェル城の前庭に並んだ移動型牢屋は、瞬く間に犯罪者で溢れ返った。 そこには仮面舞踏会の招待客も混ざっていて、一緒になって口々に騒いでいた。

アシュコート伯爵は、当座の捜査本部の最高責任者としてロックウェル城の正面玄関の広間に入り、 臨時に広間で立ち上げられた本部で、 先陣を務めているジャスパー判事とその手勢から次々に上がって来る報告を切り回していた。 目下の最優先課題は、行方不明になったアンジェラの発見と保護である。

アシュコート伯爵の馬車に乗り合わせていたオリヴィアは、 アンジェラの姿がなかなか見付からない事に、急速に不安をつのらせていた。

オリヴィアは従者の一人の手を借りて馬車から降りると、 辺りを見回し――そして、不意に『直感』の指し示す位置を鋭く振り返った。

フロント部の城壁。ロックウェル家の紋章旗を立てるための、ごく細い尖塔。

再び大きな雷光が閃き、尖塔の頂上の鋭い屋根を挟んで対峙する、二つの人影がくっきりと浮かび上がる。

オリヴィアの叫びが嵐を突いて、トランペットのように響いた。

「――アンジェラが、塔のところに!」

アシュコート伯爵と手勢たちは驚きつつも、ロックウェル城の前庭に集結し、塔の方向へ松明を向けた。

幸い、地上に大した障害物は無い!

「とにかく急げ! 身柄を確保しろ」

手勢の男たちは、尖塔の下へと殺到した。早くも尖塔を囲むフロント部の城壁に到達し、 外付けになっている石積みの階段を駆け上がって行く。

雷雨は弱まる気配を見せない。雷の轟音と共に塔が震え、年数を経て脆くなっている石積みが崩れ落ちて来た。

「気を付けろ! 古い塔だから石積みが……!」

*****

――塔の上では、アンジェラと謎の男が対峙している――

誰なのかとアンジェラに問われた謎の男は、傷痕だらけのやつれた顔を歪ませて嘲った。 笑っているのか、泣いているのか――いずれともつかぬ、悲痛な嘲笑だ。

「私が……誰か……だと?」

謎の男は剣を持ち上げてアンジェラを威嚇しつつ、呻くように叫んだ。

「冥土の土産に教えてやろう! ユージーンの娘! 私はかつて、お前の父親の従者であった、ラルフだ!」

謎の男は、自分の言葉に更に激昂した。まさに狂える男だ。

「畜生! 従者だぞ! ふざけた血統主義! 私がユージーンより先に生まれたってのに、嫡子じゃ無いと……!」

動けずに居るアンジェラに向かって、ラルフと名乗った男は、高く剣を振りかぶった。

「私がロックウェルの正義と正統の当主! 我が手によって天誅だ、ユージーンの娘……!」

再び雷光が閃き、天を指す凶刃が、ギラリと光る。

次の一瞬、アンジェラに付きまとっていた黒ネコが、ラルフに向かって身を躍らせた。

黒ネコの身体から、見知らぬ男の幻影が現れ――

幻影はラルフの動きを止めようとするかのように立ちはだかった。 ラルフは幽霊と認識したのかしなかったのか、いきなり意味不明な叫び声を上げ、 勢い余って、アンジェラの方に向かって体勢を崩した。

アンジェラは本能的に後ろへ飛びのいた――塔から墜落する方向に。

塔の上に、ひときわ大きな雷が落ちたのは、ほぼ同時だった。

雷はラルフが振りかぶった剣先に落ち、ラルフの身体を貫いた。 アンジェラの脚を突き刺してなお、その下の石積みの中に侵入して激しく弾けた。 爆裂音と共に石積みは砕け、四方八方へと吹き飛んで行った。

砕けて飛び散った石積みと共に、アンジェラとラルフは、塔の上から墜落した――

城壁の周りには数多のランプや松明が集結しており、その光が、全ての光景をボンヤリと照らし出していた。

――塔の直下に広がる城壁の上には、石畳で舗装された踊り場のような広いスペースがある。 既に城壁の階段を登って踊り場に到着していた先陣グループの面々が、驚き慌てながらも駆け寄り、 落ちて来る身体を受け止めようとした。

飛びのいた分だけ、横方向への加速が付いていたアンジェラの身体は、より緩やかな落下軌道を描いた。

踊り場を駆け寄って来る先陣グループの先頭に、エドワードが躍り出た。

その勢いのまま、落下してくるアンジェラに向かって手を差し伸べる。

エドワードが突進して行った方向と、アンジェラの落下軌道が交差した。

正面衝突という程では無い、そのやや傾いた交差軸に沿って、衝突の衝撃が散らされる。 エドワードの腕はシッカリとアンジェラの身体を捉えた。 そして、衝突の衝撃が散って行く一つの方向へと、二人の身体は放り投げられていった。

エドワードはアンジェラを抱えたまま身体をひねり、 この体勢からすると、かなり上々な受け身を取った――エドワードの身体が下になって石畳に激突したが、 その角度がごく浅くなったため、衝撃のほとんどは、石畳を横滑りする勢いへと変わったのである。

石畳の表面は、意外に滑らかだった。 折り重なったエドワードとアンジェラの身体は、まるで氷の上を滑って行くかのように、相当の距離を滑って行く。

踊り場からの落下防止となっている低い城壁の直前で、二人の身体は止まった。

先陣グループの一部が、エドワードとアンジェラの周りに集まった。

「おい、大丈夫か!」
「あんな所から、よく――」

ヒューゴが前に出て、松明で辺りを照らした。

石畳との激しい摩擦でエドワードの上着はいたく破れていたが、エドワード自身は大した事は無い。 何事も無かったかのように身を起こし、ヒューゴの安否確認に、片目をつぶって見せる余裕すらある。 石畳との摩擦から来る擦り傷にしても、雨水が溜まっていた分、ダメージが抑えられていたのであった。

アンジェラの方も、幸いに無傷に近い。ショックで半分フラフラしていたが、次第に目の焦点が合って来る。

「立てるか?」

エドワードの確認に、アンジェラは曖昧な顔をしながらも、うなづいた。 エドワードがアンジェラの身体を支えて立たせようとすると――アンジェラの身体が、グラリと傾ぐ。

片脚に力が入らないのか――エドワードはアンジェラの異変に気付き、息を呑んだ。

「どうした?」

アンジェラが感じるのは、片脚を貫く、火のような熱さだ。アンジェラは、ボンヤリと足元を見下ろした。 ローズ色のドレスには、雷が貫いた証の黒焦げが出来ている。 エドワードに身を支えてもらい、裾をたくし上げてみると――

――タイツも裂けたように焼け切れていて、膝下は素足だ。

片脚全体に――薄赤い、異様な模様が広がっている。

「――火傷みたい」

アンジェラは呆然と呟いた。エドワードがギョッとして、アンジェラの素足に目をやる。

その片脚を覆うように刻まれているのは、放電図形と見える樹状フラクタルのようなパターンだった。 雷が灼いていった痕だ。 人知を超えた偉大な『何か』による、恐ろしくも美しい烙印だ――それ以外に、言いようが無い。

エドワードもヒューゴも、集まって来た他の人々も、畏怖の念に打たれて絶句するのみだった。

*****

ラルフの身体は、塔の壁に近い場所をほぼ垂直に墜落したため、人々の手が間に合わなかった。 ラルフは踊り場の石畳の上に叩き付けられていた。ショックで意識朦朧の状態である。

先陣グループの残りは、既にラルフの周囲を取り囲んでいた。

「先刻、ラルフだと言った……!」
「ラルフだ! 本当だ! あの事故の後、行方不明で……覚えてますよ、昔の彼を……!」

ようやく第二陣の人々が、松明で辺りを照らしながら踊り場の上に上がって来た。 ジャスパー判事やハクルート公爵も駆け付けている。

やがてオリヴィアが脚を引きずりつつ、アシュコート伯爵に介助されながらラルフの傍に立った。

ラルフは、あれ程の雷撃を受け、塔から墜落しながらも意識は確かにあり、ブツブツと何事かを呟いてすらいる。

ラルフは一体、どういう状態なのか。きちんと治療すれば、事情聴取ができる状態にまで回復するのか。 今この場で、瞬時に正確な診断を下せるのは、オリヴィアだけだ。

ジャスパー判事が、戸惑いながらも声を掛けた。

「オリヴィア様?」

オリヴィアはその声に応え、蒼白になりながらも、正確な診断を下した。

「手の施しようが全く無い状態よ。雷撃のショックが、心臓まで到達してしまっているの。 一見、状態が良いように見えるけど、夜明けを見る事はきっとできないわ」

ハクルート公爵がラルフの胸倉をつかみ、激しく揺さぶった。

「ラルフ! 何故こんな事をした!? ユージーンの忠実な従者であった、お前が!」

旧知の存在を傍に感じたせいか、ラルフの目の焦点がわずかに合った。

ラルフは、搾り出すような声で喋り始めた。

「先代の野郎は……私を絶対に嫡子と認めなかった……あの女には、複数の恋人が居たのだし……父親は別人だろうと!」

ラルフは、身を震わせながらも喋り続ける。

「あの馬車事故の後、ユージーンは一生目覚めぬだろうと医者が宣告した……あの日は、 確か……ゴールドベリの魔女が生後六ヶ月の女の子を……ユージーンとセーラの娘、 ロックウェル公爵令嬢だと言って連れて来た日で――」

ラルフの声はゼイゼイとした調子に変わっていた。

「魔女だろうが、赤子だろうが……得体の知れない輩が……よくも! 我がロックウェル家を奪う事は許さんッ!」

ラルフの目の焦点は、既に合っていない。

「その時……我、確信せり! 我が天啓にして天恵を、正義と正統の証を……!」

ラルフの手が震えながらも、わずかに上がった。 まさにその当時、そうやって手を天に向かって突き上げたのだろうと想像できるものだった。 意識混濁していながらも話の筋が通っているのが、逆に、恐るべき怨念を証明している。

誰を怨(うら)めば良い――誰を憎めば良い――

行き場を失った因縁――知らぬ間に積み重なっていた深い怨念は、その瞬間、正気と狂気の境界に、ヒビと歪みを入れたのだ。 余りにもはかなく脆い人間の思考回路は、奥底から噴出して来た『深淵』という名の怪物ならではの、 恐るべき炎のようなエネルギーに焼き尽くされ、決定的に組み替えられてしまったのであろう。

「ユージーンを地下に閉じ込め、何も知らぬ村の婆に世話をさせ……ふん! 仮面があれば、変装など……幾らでもできる!」

ラルフの声は次第に途切れ途切れになっていったが、ついに驚くべき内容が明かされたのであった。

「あの復活祭の日に……! ヤツが25年ぶりに目を覚まさなければ……このままだったよ!」

オリヴィアが蒼白な顔色になりながらも、呟いた。

「植物状態になっていても……起きている時と変わらぬ意識が、ある事がある……」

ヒューゴがその意味を悟り、顔を歪ませる。

エドワードに抱きかかえられつつ、ラルフの言葉を傍で聞いていたアンジェラも、ハッと息を呑んだ。

まさか、25年もの間――?

「……どうも、そうらしいな……」

ラルフは意識混濁していながらも、なおも執念で受け答えしている。

「25年の空白があったにしては……ヤツは、 状況を完全に理解していやがったよ……クソ! 夜な夜な地下まで降りて、自慢話をするんじゃ無かった!」

ラルフは思い出していた。悲痛な眼差しをして振り返った、ユージーンの傷だらけの顔を――

馬車事故で恐ろしい傷痕が残ったものの、誰もが本物のロックウェル公爵と認めるであろう面差しを。

「ユージーンのヤツ、目覚めたが早いか、あの裁判弁護士を見つけて……相談を始めやがってな! ……即その場で、 あの化け物をメッタ打ちにしてやった……!」

ラルフは苦しげな息の下から、なお尽きぬ怨念の言葉を紡ぎ出していた。

「我が憎しみの過去……ユージーンの娘も味わうが良い……!」

――暫しの沈黙。

ジャスパー判事とハクルート公爵が、怪訝そうにラルフの顔を覗き込んだ。

「ラルフ……?」
「――死んだわ」

眉根を寄せ、緑の目を伏せるオリヴィア。

アシュコート伯爵も呆然とした様子で、ラルフの最期を見守るのみだ。

「ロックウェル卿のふりをしているのに、認知と縁切りの場に出なかったのは……」

結局、事実を――真実を歪めようとする介入は、無かったのだ。 最後の最後まで残った『良心』と思しきものの、欠片のゆえだろうか。 この場合、オリヴィアが提供できる医学的な記録に基づいて、国家と司法の下に『認知』が行なわれ、 アンジェラは自動的にロックウェル公爵令嬢として認められる事になる。

――仮面の下は別の顔――

オリヴィアは、自分の直感が象徴した言葉を思い返していた。

「アンジェラの……レディの称号は、そのままなのね。憎しみゆえか、 愛ゆえか……己にも、分かっていなかったかも知れないわ……」

アシュコート伯爵は、無念そうに首を振った。

「バカなヤツだ……!」

――春の夜の嵐。なおも降りつのる雨――

「あの黒ネコ……」

オリヴィアは、雷撃で崩れた石積みの破片の上に鎮座する黒ネコに目をやった。

黒ネコは、人間たちに一斉に注目されても、全く反応しない。瞬きすらしない。 限界まで見開かれた目は、異様なまでに妖しく光っていたが、深い放心状態にあるのは明らかだった。

いつから、そこに居たのか。アンジェラは勿論、ヒューゴもエドワードも訳の分からぬ思いであったが、 ただ一人、オリヴィアだけは、先程から既に気付いていた様子だ。

「幽霊が憑依しているの……まさか、ユージーンの幽霊とは……」

雷撃の直前、黒ネコに憑依していた幽霊が、ラルフの前に立ちはだかったのだ。

「あれが無ければ、ラルフが全てを話す程に……動転したかどうか……」

いつもは冷静なオリヴィアの声は、驚嘆に満ちて震えていた。

まだ憑依が抜けていないのであろう、ヒューゴがネコを抱きかかえても、ネコは放心したまま大人しくしていた。

*****

一刻の後、ジャスパー判事がロックウェル城の捜索を始めようと、手勢を引き連れて入り口の一つに接近した。 すると、思い詰めてやつれた様子の初老の紳士が、ジャスパー判事を迎え出たのである。

「ロックウェル城の執事か?」

ジャスパー判事の確認に初老の紳士はうなづき、目を伏せて身を震わせた。

「……私が早く呼び止めて、話を致すべきでした……!」

仮面舞踏会の会場でアンジェラに気付き、驚きの余り固まっていた、あの執事だ。

――アンジェラが着ている鮮やかなローズ色のドレスは、間違い無く見覚えのある品だった。 生後六ヶ月の公爵令嬢アンジェラがロックウェル城を出た時、 まだ正気だった頃のラルフが、公爵夫人セーラのドレスを整理してゴールドベリ邸に送っていた――

「セーラ様のドレス……彼女と同じ金髪――レディ・アンジェラ以外にありえないと分かったのに!」

ロックウェル城の執事は、口を押さえて呻くのみであった。

*****

ジャスパー判事とその手勢は、執事の案内でロックウェル城の奥の間に踏み込んで行った。

地下の冷暗所――冷蔵室として使われていたのであろう石造りの広い密室には、古い血の流れた跡が残っていた。 冷たい石の床のあちこちに、『赤黒い何か』がベッタリと付いたままの、 大型の刃物が――大型の獣を解体する時などに使うような巨大な刃物が、転がっている。 見るからにゾッとするような光景だ。

ジャスパー判事の部下の一人が、松明を掲げた。

中央辺りに、搬送用の帆布で覆われた、如何にも怪しげな箱がある。 近いうちに何処かへ運び出す予定だったらしい。残りの部下たちが数人がかりで帆布を取り払い、 棺桶の如く密封されている箱の蓋をこじ開けた。

恐るべき箱の蓋が開くなり――人間の死体が発する、特有の強烈な臭気が噴き上がった。 箱の中は、流れた血でドス黒く染まっている。

かつては人間だった物の、おぞましい断片の群れ。 その中に、比較的破壊を免れた、ジャック・オー・ランタンに似た物がゴロリと転がっている。 目・鼻・耳・口などと思しき若干の凸凹と――毛髪と思しきボサボサ。

箱の中身を目にした何人もの部下が、一気に青ざめた。

「あの弁護士の死体だ……!」
「四肢の切断……第二のバラバラ死体を作る予定だったらしいな」

ジャスパー判事もこみ上げる吐き気をこらえつつ、無残に破壊された、 かつて弁護士だった物の残骸を確認したのであった。

――かくして、近い将来、 希代のリアル・ゴシックホラーとして全国の社交界の話題をさらうであろう『ロックウェルの怪奇事件』を彩る事になる、 血まみれのエピソードが、また一つ加わったのである。

*****

ジャスパー判事が夜を徹して、ロックウェル城の執事から、事件の全容についての聴取を続けている。

エドワードはその様子を眺めながらも、執事を責める事は流石に難しい、と思うのであった。

25年間、ひと時たりとも刃物を手放す事の無い狂人の発生。 人あしらいに長け、殺人や工作活動にも慣れていたマダム・リリスの登場。 そして、本物のロックウェル公爵の復活と言う『予期せぬ出来事』を通じて、 発生するべくして発生した、バラバラ死体。

これ程の恐怖を目の前にしたら、判断もおかしくなって当然だ――

*****

嵐一過の夜明け方。

ハクルート公爵とエドワードの親子は、 ロックウェル事件の捜査を続けるジャスパー判事やヒューゴたち、強制捜査チームの面々と別れ、 城を引き上げる事になった。

アシュコート伯爵とオリヴィアは、ラルフと対峙した際の雷撃で脚を負傷したアンジェラを連れて、 一足先にアシュコート伯爵領に――現在の滞在先でもあるレスター邸に戻っている。

エドワードは、朝もやに霞むロックウェル城を振り仰いだ。 東雲の中に浮かび上がる、ゴシック風の壮麗な城。こうして見ると、昨夜、あれほどの騒動があったとは思えない。

「これだけの猟奇的な事情が重なってみると、アンジェラとの結婚について、 母上の了解を得るのは難しくなりそうですね」

エドワードの数歩先を歩いていたハクルート公爵は、シルクハットを直しながらボソッと返した。

「マリアは既に了解済みだよ」
「どういう事です?」
「実はお前は、アンジェラ嬢とは赤子の時に、既に婚約済みではあるんだよ」

エドワードは目を見張った。思いも寄らぬ言葉に絶句するのみだ。

ハクルート公爵は、仕掛けがバレた時のイタズラ小僧のような顔をして、息子を振り返った。

「若気の至りか……親のロマンチックな計画と言うヤツだ」

ハクルート公爵は、ボソボソと告白を続けた。

「ユージーンとは寄宿学校以来の親友で、なおかつ公爵同士だった。それだけで、 如何なる経緯があったかは予想つくだろう? まさか令嬢が生きていたとは思わなかったよ。 ゴールドベリの先祖返りと言うのも意外だった。まあ、基本的には、そう言う事だ……」

7.レスター邸…来し方行く末

レイバントンの町――雨上がりの朝である。

郊外にあるレスター邸の一室に、脚の火傷の処置を済ませたアンジェラが居た。 部屋の大窓からは、柔らかな朝の光が差し込んで来る。滑らかな床の上を、窓枠の影が斜めに横切っていた。

アンジェラはベッドの上で身を起こし、一枚の通知に見入っていた。

その通知の宛先には、このように記されていたのであった。

――『アンジェラ・ゴールドベリ』。

「ゴールドベリ一族としての名乗りを認める――グウィン……」

アンジェラのベッドの脇では、オリヴィアが車椅子に腰を下ろしている。

「スミス家ともクレイボーン家とも、既に縁が切れていると言う事になるわね。 こうして良いのかどうか、私もかなり迷ったけれども……」
「私、大丈夫です――この子が居ますから」

アンジェラはそう言って微笑み、ベッドの上で丸くなっている黒ネコを見やった。 黒ネコは自分の話題になった事を察知し、ワクワクした気分になったのか、ピンと尻尾を伸ばしている。

「あの黒ネコ?」

オリヴィアは、しげしげと小さな黒ネコを眺めた。

ゴールドベリ邸の庭園に迷い込み、レイバントンの町の交差点にも出現して、 アンジェラの後を付いて来た――あの不思議な黒ネコだ。 今にして思えば、復活祭の時に死んでいた父親が、幽霊となって黒ネコに憑依し、 一人娘に会いに来ていたのだと理解できる。

「彼の名前はクレイです」

アンジェラは黒ネコを紹介した。オリヴィアは微笑み、黒ネコを撫で始めた。

「クレイボーンのクレイだと、このネコが自分で名前を言ったのね」

黒ネコは目を閉じて、気持ち良さそうに喉を鳴らし始めた。

「奇妙なネコが出て来たものね……あの人の幽霊は、 今はもう此処には居ないけれども――幽霊に憑依されていた間の、奇妙な記憶を持っている……」

いささか妙な形ではあるけれども、この小さな黒ネコは、最後のロックウェル公爵となった、 ユージーン・クレイボーンの記憶の一部を共有しているのである。

オリヴィアは黒ネコを抱き上げると、イタズラっぽい目付きでアンジェラを見やった。

「馬車に張り付いてアピールしている間、尻尾が縮み上がる程、怖かったそうよ。 ユージーンの幽霊が、どんな風に脅迫したのか興味深いわね」

……思わず言葉に詰まるアンジェラなのであった……

*****

正午の刻に近づいた頃、スコット夫人の手引きで、アシュコート伯爵がお見舞いに来た。

アシュコート伯爵とオリヴィアは、簡潔ながら心のこもった社交辞令を交わした。

「取り込み中に済まんが……」
「お気遣い痛み入ります。事件の処理でご多忙なところ、お見舞い頂きまして……」

ロックウェル事件の処理は、それまでの調査や交渉実績のあったアシュコート伯爵が、 亡きロックウェル公爵に代わって権限を持つと言う事になっていたのである。

アシュコート伯爵は、部屋にあった椅子を自分で引いて来て、おもむろに腰を下ろすと、 一つの古びた封書を取り出して見せた。

「ジャスパー判事からの速達が届いたんでな。 ロックウェル城のその後の捜索で、ロックウェル卿直筆の、オリヴィア宛の私信が出たのだ」
「私信?」

オリヴィアは目を見張った。オリヴィアにしても、予想外の事であったのだ。

黒ネコの方は、何かを予期したかのようだ。アンジェラの膝の上に戻ると、尻尾を揺らし始める。

アシュコート伯爵は怪訝そうな顔をしながらも、封書の説明をした。

「日付は、あの馬車事故の直前になっている。 事故の後、ラルフが忠実な従者として城に持ち込んだが、ラルフが狂った後は、 そのまま忘れられた状態だったらしい……」

不意に――オリヴィアの脳裏に、或るビジョンが閃いた。

――長く凍て付いていた『深淵の迷宮』が、今まさに解け始めたのだ。

『界(カイ)』の影に――雪闇の底に――交差しつつ封印されていた、 かの運命の軌道が、謎が、記憶が、愛が、浮かび上がって来る――

「見えますわ……あの馬車で出かける前夜……馬車の待ち合わせの間に書かれた物ね」

オリヴィアは深い確信と共にうなづき、25年前に受け取る筈であった古い私信を手に取った。

アンジェラは、オリヴィアが私信を開封する様子を、呆然として眺めていた。

25年もの間、未開封だったのだ――その封書にある『レディ・オリヴィア宛』と言う文字は、 初めて見る、父親の直筆の文字だ。丁寧でシッカリした筆跡には、その人柄がまざまざと窺えるものであった。

オリヴィアは静かな声で、私信を読み上げた。

『前略、レディ・オリヴィア――乗合馬車の宿場駅で、訳あって一人の娘を保護し、なおかつ道連れとしています。 戻った時に彼女をゴールドベリ邸に連れて来て良いかどうか、お返事を頂きたく思います。 彼女は一人旅の途中にて路銀を盗まれてしまい、人知れず真冬の川に出て身を沈めようとし、 妻がその直前で止めたのです。娘の名はアイリス・ライト。予期せぬ妊娠にて妊娠六ヶ月との事。 詳細は、そちらに戻りました時に説明いたしますが、やむにやまれぬ事情で家出した娘と申せます』

私信の内容に耳を傾けていたアシュコート伯爵は、愕然とした顔になった。

「ライト夫人? 訳ありの未亡人だと思ってはいたが、未婚の母だと……?」

――妊娠六ヶ月の妊婦。出奔し、自殺を図ろうとした若い娘――

オリヴィアは思案しつつ、呟いた。

「動転の余り、全ての事情を話すような心理状態にあったと言う事……」

*****

ロックウェル公爵の私信は、アイリス・ライトとの会話を、つまびらかに記録していた。

――山岳地帯の冬季の狩猟場をつなぐ山道では、ずっと道路封鎖が続いていたが、ようやく道路整備の作業が終わりを見せた。 風は強いものの、翌日には出発可能であると言う連絡が宿場駅を回っていた――

アイリス・ライトと名乗る若い娘は、同じ年頃の若いクレイボーン夫婦と共に、宿場駅の宿の一室に落ち着く事になった。

濡れた衣服の着替えなど一通り済んだところで、クレイボーン夫人セーラがカモミール茶を勧めると、 アイリスは意外に素直に茶カップを手に取った。

アイリスとクレイボーン夫婦は、円卓を囲んで座っていた。 ちなみに、この時、お忍びの途中だったロックウェル卿ユージーンの忠実な従者・ラルフもまた、 野暮用で隣の控え室に居たのである――耳を澄ませば、会話が聞こえる程度の距離に。

円卓を照らす蝋燭の光の中で、セーラはしげしげとアイリスを眺めて感心していた。

『綺麗な娘さんね』

良く見ると色合いは多少異なるものの、セーラと同じような金髪。目の色はアメジスト。 大きな目をしているので、大人の女性と言った年齢の割には、少女のように見える。

お茶を一服したアイリスは、やがて、その妖精のような面差しに、不意に奇妙な表情を浮かべた。 慌てた様子で、お腹に手をやる。セーラは怪訝そうな顔をして、様子を窺った。

アイリスは急にお腹を押さえながら、セーラに取りすがった。

『あの……赤ちゃん、生まれると思います!?』

円卓の反対側で見知らぬ娘を観察していたセーラの夫ユージーンは、驚きの余り声を上げて立ち上がった。

――まさか、この娘は妊娠しているのか!? 真冬の川で自殺を試みた娘が!?

ユージーンより一足早く落ち着いたセーラは、アイリスをなだめ始めた。

『落ち着いて。あなたは、妊娠してるのね……アイリスさん』

流石に二ヶ月前に出産を経験していただけあって、驚愕はしていながらも、対応はシッカリしたものだ。 セーラはアイリスを再び椅子に座らせると、カモミール茶を白湯に変え始めた。

『ちょっと濃く入れてたから、お腹がきつくなっただけよ。カモミールは、そう言う成分あるから……』

アイリスは、相変わらずお腹に手をやっていたが、先程とはまた変わった奇妙な表情をし始めた。 違和感の正体を突き止めようと、お腹を何度もさすっている。

『……これ、胎動……?』
『何ヶ月になるの?』
『六ヶ月……』
『それなら、胎動だわ』

セーラは満面の笑みを浮かべて保証した。セーラはアイリスのお腹に触れて、大きさを確かめる。

――想像以上にお腹が小さくて目立たないものの、確かに妊娠している。

『随分、小さな赤ちゃんなのね』

セーラは感心したように呟いた後、私見をひとくさり披露した。

カモミール茶には子宮収縮成分が含まれている。いきなりお腹が縮むような刺激を受け、 中に居る胎児が、ビックリしてジタバタし始めたものらしい。 妊娠初期はカモミールの摂取は避けるべきであるが、妊娠六ヶ月と言う安定期であれば、 少量なら問題は無いとも言われている。

『もう自殺なんか考えたらダメよ』

そう言ってセーラは、安心させるようにアイリスの肩にそっと触れた。

アイリスは、母親になると言う初めての実感に戸惑っているらしく、無言で顔を赤らめていた。

一刻の後。

アイリスの状態が落ち着いたと見て、セーラは重大な項目の確認に取り掛かった。

『どうして、こんな吹雪の日に一人で――お連れさんは何処に居るの?』
『連れって……?』
『ご夫君に決まってるでしょ? とっても長い話をする事になるわよ……赤ちゃんのパパは?』

アイリスは、すぐには質問の意図を理解できなかったようで、暫しポカンとしていた。

『あの人は――』

ボンヤリとしつつもアイリスは呟いたが、しかし、やがて、その顔は青ざめていった。

アイリスは、それまでこらえていた物がプツンと切れたかのように、 身を震わせて、テーブルの上にワッと泣き伏したのである。

その後、アイリスのすすり泣きは、なかなか止まらなかった。

アイリスの荷物は多くは無かったが、良く見ると、端々に奇妙な点が見受けられるものであった。

左の薬指にある筈の結婚指輪は外され、地味なネックレスに通されており、 一見しただけでは結婚指輪とは分からない状態だ。 しかし一方で、丈夫な小箱の中に慎重に固定されていたアメジストのブローチには、 確かに結婚していたと言う事を暗示する言葉が刻まれていた。

これらの矛盾する品を説明する事は、難しい。

そして、数こそ多くは無いが、恋文の束が手荷物の中に含まれていた。

文通相手は、ただ一人――アメジストのブローチの贈り主でもある謎の紳士、L氏である。

*****

アイリスとの会話を記録したページの末尾には、以下のような文章が続いていた。

『極度の精神不安定で説明が混乱しており、 彼女が愛人の立場にあったか否かは慎重に確認しないと分からないのですが、 彼女の子供についての救いは、ラルフのように父親が曖昧では無い事かも知れません。 本人による説明、及び、本人所有物に含まれていた恋文などを確認して、 我々が知り得た内容を、まずは先行情報として此処に記しておきます』

ロックウェル公爵の私信の内容は続いていたが、アシュコート伯爵は驚愕しきりだった。

「恋文などあったのか……」
「事情を考えれば、思い出の品を旅に持ち出していた筈……馬車事故で、ほとんどの荷物は崖下に落ちてしまって、 あのブローチ以外は持っていないと言う状態だったけれど……」

オリヴィアは深く納得していた。

馬車事故で散々に放り出されていたと言う事もあって、ネックレスに通していた結婚指輪や、 手提げ袋の中に肌身離さずと言った様子で入っていたアメジストのブローチしか、手元に残らなかったのだ。

ロックウェル公爵の私信は、最後のページを残すのみとなった――

『オリヴィア様の判断次第、我がロックウェル公爵家による直筆の公文書として公開可能なページを同封いたしました。 アイリス・ライトの息子ないし娘の父親は、偶然にも我が知人です。 彼の人格を考慮しても、それ程、困った事態にはならぬと存じます』

私信の最後のページは、公文書の様式で書かれていた。事故前日の日付も署名されてある。

『下に記す内容は、これ真実である事を名誉にかけて宣誓す。 当代ロックウェル公爵ユージーン・クレイボーン、及び公爵夫人セーラ・クレイボーン』

厳粛な宣誓の文章に続き――ルシールの父親の名前が明記されていたのである。

ルシールの父親は、あの人なのか――アンジェラは驚きの余り、呆然とするのみだ。

「そんな……こんな事が……!」

オリヴィアも驚きに目を見張ったが、すぐに冷静さを取り戻した。

「――これは取り急ぎ、弁護士カーター氏に届けるべき文書ね」

目下、ルシールの身柄は、カーター氏の預かりとなっているのである。

親展の速達便として送付すべき特殊な文書だ。 アシュコート伯爵とオリヴィアは、添え書き含む諸々の手続き処理のため、急いで部屋を退出して行った。

興奮覚めやらぬ雰囲気のせいか黒ネコも落ち着かない状態であり、 微妙な気配を察するが早いか、弾丸のようにベッドを飛び出した。

「ダメよ、クレイ!」

アンジェラは、脚を負傷しているためベッドの上から動けず、声を掛けるしか無い。

しかし――黒ネコは、すぐに捕まった。

いつの間にか、エドワードがアンジェラの部屋に入って来ていたのである。 黒ネコはエドワードに首筋をつかまれており、大人しく吊り下げられていた。

「エドワード卿……」

アンジェラは驚きの余り、言葉に詰まっていた。

エドワードは黒ネコをアンジェラの手に戻しながら、感慨深げに呟いた。

「先刻の話を、立ち聞きしてしまってね……故アイリス・ライトもまた、仮面舞踏会の名手だったんだな」

アンジェラは無意識のうちに黒ネコをモフモフしつつ、無言でうなづくのみだ。

――曰く言い難い不思議な気持ちだ。

あの雷撃を受けて、永遠とも思える恐怖の墜落をしていた時。

幕が切って落とされたかのように、アンジェラの脳裏に、 走馬灯さながらに膨大な量のビジョンが流れ込んだのだ。無数の星々が描いて行く運命の軌道。 今までの『直感』とは比べ物にならない、鮮明な構造を成すビジョンの群れ。 ゴールドベリの巫女・オリヴィアが透視していた物と同じ物だ。

今まで積み重ねて来ていた大量の学習知識が無ければ、見ている物が何なのか、認識も理解もできずに、 ひどいパニックを起こしていたかも知れない。それ程に、壮絶な密度と深度を持つビジョンの連続だった。

ロックウェル城を、魑魅魍魎が跋扈する迷宮と化したのは、今は亡きラルフの狂気だ。 だが、そのラルフを狂気に突き落とした、そもそもの邪神の正体、すなわち荒れ狂う『深淵』の名は――

――『界(カイ)』。時の裂け目、歪曲、深淵の迷宮、異界、高次の欠陥、暗い傷。

20年以上もの時を引き裂いてきた『暗い傷』の創造主は――アイリス・ライトだ。 アイリスの心が創造した『深淵の迷宮』の奥にあるもの、その恐るべき暗さ激しさ。

まさしく『時』を障(さや)る怪物であり邪神であった、かの底知れぬエネルギーの噴出は、 一体、どれ程の多くの星々に傷を負わせ、運命の軌道を歪めて、凶星と化したのだろう。

――アイリスもまた、仮面の下は別の顔であった。 雪闇の中の運命の軌道を、深淵の迷宮の底を、重い光明と暗黒の円舞曲を、見事に舞い切ったのだ。

そしてアイリスは、やはり、死ぬのが早すぎた。『花の影』の完成に至るための残りの軌道は、 何も知らぬルシールに引き継がれている。 ルシールが如何に舞うか――何を選択するかによって、未来の様相が大きく変わってしまう――

『カイロスの時』――『カイロンの星』――『界(カイ)』。

ルシールが出逢うであろう、運命の両面性。荒(すさ)ぶ迷宮の中の、分岐と隘路(あいろ)。

アンジェラの中で、歯がゆい思いがつのっていった。 今すぐにでもルシールの傍に飛んで行って、話を――ついでに警告も――したいのだが、 脚を怪我している状態では、それも叶わない。

古代の神話にも語られて来た、根源的な謎。このような内容を、一体、誰と語り得よう。 オリヴィアやアシュコート伯爵となら、ともかく――例えばオズワルドのような人とは、 このような深遠かつ超越的な話題を共有できないのは、明らかだ。

でも、あの恐るべき『深淵の迷宮』を共に切り抜けて来た、エドワードなら――

アンジェラは、その考えが浮かんだと言う事に自分で動転して、息を詰まらせた。

黒ネコが「ニャー」と鳴いた。

アンジェラは胸をドキドキさせながら、おずおずと振り返り、エドワードを眺め始めた。

「スコット夫人が、来客に気付かない筈が無いんだけど……あなた、まさか忍び込んだの?」

果たして、大当たりだったようである。 エドワードは、『その通り』とばかりに、イタズラっぽく微笑んで見せたのであった。

そしてエドワードは、身を乗り出して笑みを浮かべつつも、 アンジェラを落ち着かなくさせる、あの真剣な眼差しをした。

「オズワルドが来る前に、お話を済ませておこう。体調は大丈夫かな? レディ・アンジェラ」

アンジェラは大きくドキッとしながらも、光の具合で金色に見える目に釘付けになったのであった。

8.クロフォード伯爵邸…連環と連鎖

春の夜の嵐――激しい雷雨のさなかである。

クロフォード伯爵邸の近くの丘の上に、ひときわ大きな雷が落ちた。 強烈な閃光で、辺りは一瞬、真昼よりも明るくなった。

続く轟音で、部屋の窓がビリビリと震える。

ルシールは放心状態のまま部屋のベッドの上に横たわっていたが、驚きの余り飛び起き、 窓の外で荒れまくる天候に注意を向けた。

「ああ……ビックリした!」

――アンジェラの叫び声が聞こえたような気がする……気のせいかしら――

ルシールは急に湧き上がった不安を抑えつつ、バルコニーの窓を開けた。 窓が開くなり、激しい風と雨に翻弄される。すっかり解きほぐしていた髪が、ザアッとひるがえった。

「……すごい嵐! 吹雪みたい」

ルシールは窓を押さえ、バルコニーに居る筈の子犬の姿を探し求めた。

子犬は、すぐに見つかった。 上手い具合に雨風に当たりにくくなっている隅の方に毛布があり、そこから亜麻色のモフモフの毛玉が見える。 近寄って見ると、亜麻色のモフモフはルシールの気配を感じてフルフルと動き、 すぐに二つの黒い目がルシールを見上げて来た。

果たして、勇敢な子犬のパピィは、嵐を警戒していた――お目目パッチリの状態だ。

ルシールはパピィの毛布を取り、パピィを部屋の中に招いた。

「パピィ、おいで……濡れちゃうわ」

外で嵐にさらされていた毛布は、流石に相当の湿気を吸い込んで湿っていた。 今のところ、毛布は使えない程ひどく濡れている訳では無いが、 もし一晩中放置していたら、夜明けには大方グッショリとなっていたに違いないと予想できる。

部屋に引っ込み、窓をシッカリと閉じた後、ルシールは毛布の濡れていない面を上にして、その上にパピィを導いた。

パピィは嬉しそうな顔をして、早速、お気に入りの毛布の中に潜り込む。 嵐で落ち着かない状態だったものの、明らかに空腹では無いと言う様子だ。

「食事は済んでる……ディナー前に、マティが厨房から失敬してたのね」

わずかな間とは言え、強風と豪雨の取り合わせで、ルシールの服も髪も濡れてしまっていた。 ルシールは湿り気を取り、別の作業着に着替えを済ませると、時計の方をおもむろに見やった。 ディナーは既に終わり、夜の談笑タイムも既に終わっている時間である。

――もうこんな時間だけど、お茶だけなら飲めるかしら?

「食器室で確か、お湯を沸かせる……」

ルシールは早速、灯りを持って暗い館内をそっと歩き回り、食器室を目指した。 先日、ローズ・パーク舞踏会の帰りに、食器室で湿布をしてもらっていたのである。 その記憶が正しければ、食器室は玄関広間の隣の方にある筈だ。

ルシールが食器室のドアを開けると――食器室の中は明るかった。

ドアの開く音と、食器室に入って来る足音に気付いたのであろう、 カッチリとした体格の、背の高い堂々とした雰囲気の女性の影が振り返って来た。

「――ライト嬢?」

食器室の中では、家政婦長ベル夫人が、一日の最後のチェックをしているところだったのだ。

誰かが、まだ居るとは思わなかった――ルシールはビックリして、顔を赤らめた。 髪をまとめておらず流したままだったので、これはこれで、ちょっと失礼をしてしまった形である。

「失礼いたします、ベル夫人……、お茶を頂きたいと思って……」
「分かりました。砂糖を多めで頂きますね? そちらの椅子にお掛け下さい」

ベル夫人は落ち着き払った様子で、ルシールにキッチン前のカウンターテーブルを案内した。 テーブルの上には数本の蝋燭が煌々と灯っており、相当に明るい状態だ。

ルシールはベル夫人の指示に従い、カウンターテーブルの上に燭台をそっと置いた。

ベル夫人はキッチンに向かい、ヤカンでお湯を沸かし始める。

「マティ様から、お加減が良くないとお聞きしましたが……」

カウンターテーブルの席に着いたルシールは、顔を赤らめ、『今は大丈夫』という事を告げた。 驚天動地のショックを受けていたとは言え、恥じ入るばかりだ。

「それは、ようございました」

ベル夫人は物わかり良くうなづいて見せた。 お湯が沸くまでの間の時間つぶしとして、ベル夫人はアントン氏のエピソードを話し出した。

「アントン庭師とは17年ほどの縁がございましたが、アイリスとおっしゃるお嬢様がいらした事は初耳でした」

――アントン氏は、自分の事を滅多に話さない性質であったらしい。

「祖父は、非常に無口な人だったみたいですね」
「頑固一徹の人嫌い、ガミガミの偏屈と言うご老人で――新年の挨拶の時以外は、 頑として館に入ろうとなさいませんでした」

アントン氏は、よっぽどの変人だったのだと納得するしか無いルシールであった。

やがてベル夫人は、手持ちの中から古びた書状を出してルシールに示した。

「アントン氏の私信を拾った……と、リドゲート卿が……」

ルシールは目を丸くして息を呑んだ。

落としたとすれば、思い当たるのは、夕方、庭園のあずまやでの事だ。

――私ったら、落とした事にも気付かないほどに、ウッカリしていたんだわ!

驚きの余り頬を染め、ギクシャクしながら祖父の私信を受け取るルシールである。

ベル夫人は、弁解するかのように言葉を続けた。

「失礼ながら、中身を見せて頂きました。三ヶ月前に急に不審な死に方をされた方でいらっしゃいましたし、 ここ最近は、館内でも、おかしな出来事が続きましたから……」

ルシールは、コクコクとうなづくばかりだ。

――ああ……そうよね。お金が盗まれたとか、 伯爵様がいきなり馬車事故に遭遇とか……いわくありげな文書があったら、家政婦としては、当然調べる筈だわ。

ベル夫人は静かに溜息をついた。

「偏屈庭師の、意外な面を見せて頂きましたわ」

その間にもお湯が沸いた。ベル夫人は手慣れた所作で茶を淹れ、ルシールに勧める。 そしてベル夫人も、カウンターテーブルの席に着き、二人はカウンターテーブルを挟んで、 無言でお茶を一服したのであった。

窓の外では、まだ嵐が続いていた。雷のピークは過ぎ去っていたが、叩き付けるような雨は今なお続いていた。 時折、大きな雷光が閃き、轟音が館を震わせている。

ルシールは暫し戸惑った後――やはり、これは良い機会かも知れないと思い直し、 先日以来、気に掛かっている疑問を口にした。

「妙な事を聞きますが……レオポルド殿は、リドゲート卿を怒鳴っていらっしゃるとか……強圧的と言うか……」

ベル夫人は、テーブルを挟んだ対面席でモジモジしているルシールを、チラリと見やった。

「いつもの事でございますよ……子爵の特権が忘れられないと言う訳ですね」
「マティは……彼は準男爵だと言っていたような……?」
「レオポルド殿は、かつて『リドゲート子爵』だったのです」

ルシールは、開いた口が塞がらない。ローズ・パークの『前の子爵』だ!

「……じゃ、ローズ・パークや領地を切り売りしようとして……爵位継承権を失った跡継ぎ……って、彼……!?」
「ええ、その通りです。レオポルド殿の異母兄にあたられる先々代の伯爵が、レオポルド殿に最後通牒をお突き付けになりました。 でも、ああいうお方ですから、収まらなくて――親族中から資金をかき集め、それで準男爵の地位を買われたのです」

ルシールは唖然とする余り、暫くの間、二の句が継げない状態であった。

――そう言えば、以前、マティが言っていた……ダレット一家は、クロフォード伯爵家の筆頭の血縁だと……ダレット当主が、 先々代の伯爵の腹違いの弟、王族に近い血統が入っているとか――

「ダレット家の負債は膨大な額になります。ダレット夫人は、 その負債を帳消しにする努力は、なさいますが……その手段には、多くの問題がございますね」

ベル夫人は、スタッフらしく遠回しに説明するのみだった。

ルシールの頭の中では、マティの喋りまくった内容が次々に閃いていた。

――ダレット夫人は賭博に行っていると、マティが言っていた!

一旦、レオポルド・ダレットが『かつてのリドゲート子爵』、『昔のローズ・パークの地主』だと分かると、 それまで茫洋としたまま散らかっていた記憶が、あっと言う間に一本に繋がって行く。

「色々……大変ですね……」

驚愕に目の眩む思いをしながらも、ルシールは、そう呟くのみだった。

「ダレット家が、リドゲート卿に強圧的な態度を取る理由は、もう一つございます」

ベル夫人は、ルシールの前提知識の貧弱さを見て取っていた。 これでは、館への滞在の初日から訳の分からない事ばかりだっただろう――ベル夫人は、暫し思案して内容をまとめると、 淡々とした説明口調で語り始めた。過去の歴史を講義するクレイグ氏のように。

「リドゲート卿は、クロフォードの血を引く方ではございません」

愕然とするルシール。ベル夫人は、相変わらずの淡々とした口調だ。

「リドゲート卿のフルネームは、『キアラン・グレンヴィル・ダグラス』とおっしゃるのです」

ベル夫人は少しの間、意味深そうな顔でルシールを眺めていたが、再び口を開いた。

「以前に、画廊で……グレンヴィル夫妻の肖像画を、ご覧になりましたか?」
「……あ、あの黒髪の……伯爵様の亡き兄上様かと思っておりましたが……」

ベル夫人はかぶりを振って、その思い付きを否定した。

「グレンヴィル氏は、首都の出身の紳士で……、リドゲート卿の実の父親でございます」

これは、一体どういう事なのか――混乱の余り、いよいよ開いた口が塞がらぬと言う風のルシールであった。

ベル夫人の話は、クロフォード伯爵家の昔の歴史に移っていった。

*****

先々代伯爵は、フレデリック・セルダン――その異母弟が、レオポルド・セルダンであった。 まだ独身だったフレデリックには嫡子が居らず、故に、目下、腹違いの弟レオポルドが、 クロフォード伯爵家の跡継ぎであった――即ちリドゲート卿だったのだ。

しかし、ローズ・パークにまつわる歴史でも語られたように、30年ほど前、レオポルドは膨大な負債を抱え、 領地切り売り問題で爵位継承権を失って、失脚したのである。

レオポルドの借金は、いつの間にか他のクロフォード直系親族たちの名義に付け替えられており、 借金取りやギャングの抗争は、伯爵家にも及んだのであった。この責任のなすり付けが、 『レオポルド失脚の後の、次のリドゲート卿は誰か?』と言う政局騒動と重なって、 クロフォード領内に一層の混乱をもたらしたのだ。

お家騒動にも発展し、クロフォード直系の二つの親族が潰れた。 ギャング抗争の中で、前の治安判事も死亡した。

――そのような混乱を収めたのが、ロイド・グレンヴィル氏だったのである。

ロイド・グレンヴィル氏は、首都から派遣された臨時の裁判官であった。 前の治安判事が死亡していたため、後任の治安判事が決まるまでの間の代理でもあった。 グレンヴィル氏は軍人の経歴を持つ弁護士であり、その軍人としての経験は、 田舎者に過ぎない借金取りやギャングたちを恐れさせるに足るものであった。

グレンヴィル氏は早速、カーター氏を始めとする町の若手弁護士たちと問題解決のためのチームを組み、 数多のトラブルを次々に示談や調停に持ち込んで行ったのである。

ちなみに、現在のカーター氏が、見かけによらずギャングと渡り合える凄腕の弁護士だと言うのは、 この頃の経験があったためだ。

グレンヴィル氏は、順調に勤務実績を積めば高等法院の判事にもなれると言う実力があった。 しかし不幸な事に、28年前の某日、テンプルトンの町の中で、 クロフォード伯爵フレデリックをターゲットとする闇討ちと遭遇し、 フレデリックを護衛しながらも殉死してしまったのであった。

闇討ちを図った黒幕の正体は、半ば予想はつくものの不明だ。 しかし、放たれた暗殺者が、巨大な戦斧の使い手である事は判明している。 当然ながら――巨大な戦斧の攻撃にさらされたグレンヴィル氏の遺体は、 まさに惨殺死体というべき様相を呈していた。

重傷を負いながらも生き延びた先々代伯爵フレデリックは、グレンヴィル氏に深く恩義を感じていた――

闇討ちの時の傷が元で、フレデリックの余命は、わずかであった。 しかし、フレデリックは、弁護士カーター氏や後任の治安判事プライス氏、 伯爵家の主治医ドクター・ワイルドを立会わせて、最後の力を振り絞って遺言書を遺したのだ。

――その遺言書には、レオポルドに次ぐ後継・ダグラス家に爵位を移すと共に、 爵位を継ぐ条件として、グレンヴィル未亡人ホリーを妻に迎えて保護するように――と記されてあったのだ。

*****

ルシールは唖然として、驚愕覚めやらぬままに、 画廊で見たグレンヴィル夫人ホリーの知的な面差しを思い出していた。

ホリー・グレンヴィル夫人――クロフォード伯爵夫人――あの人が……!

*****

ダグラス家は、お家騒動を唯一生き延びたクロフォード直系の親族であり、 マティとクレイグ氏が語ったように、二人兄弟であった。 必然として――ダグラス家の長子、ベネディクト・ダグラスが爵位を継ぐ事になった。 ベネディクトは独身であり、遺言書の内容にも納得していた。遺言書の内容は、速やかに実行された。

ベネディクト・ダグラスは、グレンヴィル未亡人ホリーを正式に妻に迎えて、 新しいクロフォード伯爵になったのである。

――いつしか、雷の音は遠くなっていた。ベル夫人の昔語りは、続いた――

ホリーは、クロフォード伯爵ベネディクト・ダグラスに嫁いだ時、既に身ごもっていたのだ。

ルシールは呆然としながらも、その意味を悟っていた。

「その子が……リドゲート卿……」
「法的には、キアラン=リドゲート卿は、先代伯爵ベネディクト様の嫡子でございます。 しかし、実父が故グレンヴィル氏だと言う事実は、親族の間では公然の秘密……皆が、ご承知でございますね」

そして、ベル夫人は暫し沈黙に落ち、憂い深く眉根を寄せた。

「ですが、先代が急に死亡されたのです――極めて疑わしい状況で。 爵位をお継ぎになってから、まだ三年も経っていませんでした……」

当時の、絶望的なまでの混乱を思い出したのか、深い溜息をつくベル夫人である。

「レオポルド殿はホリー様を犯人とし、私どもは逆にレオポルド殿の仕業を疑い、 領内の人々は再びのギャングの陰謀かと噂をしていましたが、証拠はありません。 リドゲート卿は二歳にもならぬ子供でしか無く、ベネディクト様が嫡子と定めておられたものの、 血統と言う裏付けは一切ございませんでした。 他のクロフォード直系親族は前の政局騒動で断絶していて、一層の領内の混乱は必至でした」

ルシールは、館の中で今までに見聞きした事を、大急ぎで思い返した。 想像を遥かに超える凄まじい経緯ではあるが、ベル夫人の説明には一切の矛盾が無い。しかも、大いに納得できる物がある。

――確かに、あのレオポルドの性格では、事態の混乱に拍車が大いに掛かった筈だ。 ローズ・パークの巨額の負債に発する、借金取りやギャングの抗争の問題すら収まっていなかった――

ベル夫人の説明は続いた。

「……そういう訳で、ダグラス家・次子、リチャード様が爵位をお継ぎになり、 更にホリー様とリドゲート卿も相続されたのでございます」

納得しつつも、目の覚めるような思いで、耳を傾けるルシールである。

マティやクレイグ氏が語るダグラス家の出世の歴史、 ローズ・パークにまつわる膨大な借金とテンプルトンのギャング抗争の事情、 そして、クロフォード伯爵家のお家騒動……各々の因縁は、複雑に絡み合っていたのだ。

「急な状況変化で、閣下は長く多忙をお極めでいらっしゃいましたが……諸々の混乱も落ち着いて来て、 私どもも非常に安心いたしました」

ベル夫人は感慨深げである。

「レオポルド殿が、身辺整理を含めてレディ・カミラと結婚し、 クロフォード分家のダレット家を創始と言う事になったのも……あれは翌年の二月頃でしたが、やはり大仕事でございました」

現在のダレット夫人たるレディ・カミラは、当時は、首都方面の社交界でも評判の、絶世の美女であったと言う。 地元の名家の出身であったレディ・カミラは、 幼少時から先々代クロフォード伯爵フレデリック・セルダンの婚約者と目されていたのだが、社交界デビューして間も無く、 当時、やはり絶世の美青年であったレオポルドが、略奪愛も同然に、横から奪っていた。

かつて、レオポルドの巻き起こしたローズ・パーク問題をはじめとする社会混乱に対して、 先々代伯爵フレデリックは、『レオポルド=リドゲートの廃嫡』という厳しい決定で臨んでいた――その理由には、 レディ・カミラを挟んだ、異母兄弟ならではの深刻な確執もあったのだろうという事なのだった。

痴情のもつれも、問題の激化の要因になりやすいのだ。ルシールは驚きながらも、納得していた。 それだけの因縁があったのならば、結婚話をまとめる段階からして、大変だったに違いない。

「ほんの少しですが、聞いておりますわ。伯爵様は、ずっとお忙しくされていたとか……」

数日前の夜だったか――クロフォード伯爵は、話の流れの中で、 『爵位を継いで妻と結婚した後は忙しくて――』と言うような事を確かに言っていた。 ルシールは、次に言うべき事が見つからず沈黙した後、おずおずとベル夫人を眺めた。

「でも……随分、込み入ったお話なのに……お詳しいんですね」
「私は、奥方様の侍女でした……ホリー様が独身の頃から、お傍で勤めていたので……」
「まあ」

ルシールは感心するばかりであった。

「ホリー様は大変に苦労されましたが、ベネディクト様もリチャード様も、 お優しい方で幸いだったと存じます。リドゲート卿が寄宿学校にお上がりになる前、 死亡されましたが……誠に穏やかな最期でございましたから」

ベル夫人は深い物思いに浸っていた様子だったが、すぐにいつもの淡々とした態度に戻って、話を続けた。

「――ホリー様は、死亡される直前まで、ダレット一家を懸念しておられました」

ベル夫人の口調は、淡々としたものでありながらも、そこには確かに、苦い思いが感じられるものであった。

「レオポルド殿は、自分が失脚したと言う事実を、認めてらっしゃいません。 グレンヴィル氏への逆恨みもおありだったのでしょうが……まだ子供であられた頃のリドゲート卿にも、 猛烈に八つ当たりなさっていましたので……」

ルシールは、ローズ・パーク舞踏会から戻った時の事を思い返していた。

キアランを怒鳴り付けるレオポルドの剣幕には驚かされたものであったが、あのような事が、 子供の頃から続いていたのかと思うと、複雑な気持ちを禁じ得ない。 キアランが常にムッツリとした表情を崩さないのも、納得できるものである。

――リドゲート卿とダレット一家との冷たい関係って……これは良縁どころじゃ無いわ。

二代続いた仇敵同士もいいところだ。アンジェラなら、『即却下!』と決める話だ。

ルシールは、今までの記憶をほじくり返した。

――マティは、正確には何と言ったかしら……ダレット家の方から婚約話を……?

そこで、ルシールは、レナードとキアランとの関係にも、奇妙な点があった事を思い出した。

あの日――タイター氏と裏街道で対決した日――クロス・タウンの交差点で、レナードとキアランは偶然に遭遇した。 それにも関わらず、レナードとキアランは互いに非友好的な視線を交わし合うだけで、挨拶すらしなかったのだ。

――そう言えば、復活祭の頃に、レナード様とリドゲート卿は喧嘩してた? 館の出入り禁止とか、まさか……

ルシールは様々な可能性に戸惑って、首を傾げた。

「親の恨みが子に報い……とは、言ってみても。レナード様が館の出入り禁止を食らったと言う話……、 仕返しにしては、やり過ぎでは……?」
「それは別の話です」

ベル夫人は、ルシールの曖昧な質問の意図を正確に理解し、端的な説明をした。

「最近、地元社交界で、賭博借金や女性問題が絡んだ恐喝詐欺などのスキャンダルが、数ヶ月続いていたのです。 その恐喝詐欺に関与した地元紳士グループのトップが彼でしたので、相応の処置がされた……と言う次第ですわ」

ルシールは思わず眉根を寄せた。

聞くからに、地元の金欠の不良紳士たちが、遊ぶ金欲しさに結託してやらかした、 冗談では済まされないレベルの犯罪のようでは無いか。 町角の新聞雑誌の『事件&ゴシップ面』や、『今季シーズンの放蕩紳士のスキャンダル特集』に出て来ても、 不思議では無い内容だ。

そんなレベルのスキャンダルが公になっていないという事は、 何処かの誰かが――ダレット一家をバックアップしている何処かの勢力が――揉み消したという事に違いない。 キアランやクロフォード伯爵よりも、地位も立場も上という事であれば、王族か王族親戚なのだろうか。 レオポルドは、王族に近い血統が入っていると言う話だけど――

「レナード様が、恐喝詐欺を……?」
「レナード様の寄宿学校での友人が、コツを伝授されたとか……なかなか巧みなやり口でございました」

次いでベル夫人は瞬きし、不思議そうな顔をした。

「もしかして、ライト嬢は……数日前、レナード様の馬に蹴られた一件を覚えておられない?」

ルシールは一瞬、問いの意味が分からず、目をパチクリさせた。 数日前。馬に蹴られた……そこまで考えて、ルシールは、かのショッキングな出来事をパッと思い出したのであった。

数日前、確かに、館の庭園の裏の柵が破れていたのを見た――タイター氏のギャング団が出入りしていてもおかしくない程の、 盛大な破れぶりだった。そこから、不審な騎馬姿の人物が侵入して来て、馬を暴走させて、マティとルシールを襲って来たのだ。

「馬に蹴られ……あ、あの暴走……、タイター氏の馬賊では……?」
「裏の柵から侵入し、暴走して来たのはレナード様ですよ」

そこでベル夫人は、不意にアッと気付いた様子で、頬に手を当てた。

「――後ろから蹴られたのでは、彼の顔は見えていない筈ですね。しかも、一瞬で失神したとか」

――えええええ!! あれって、タイター氏じゃ無かったのッ!?

ルシールは、頭を棒で殴られたような気がした。気が遠くなりそうだ。

――何たる事! あの日は確か、タイター氏の脅迫状が届いていたので、 あの暴走馬の乗り主の正体は、てっきりタイター氏だと思っていて……! 彼が馬に乗れなくなるように、 馬が嫌がるハーブを、まぶしてしまったとか……!

タイター氏の暴言に対する怒り故の行動だったとは言え、盛大な早トチリに身のすくむ思いだ。 タイター氏の余罪は数知れぬ物ではあるだろうが、暴走馬の件に関してだけは、無実だったのだ。

ルシールは、己のウッカリぶりに呆然とする余り、頭をクラクラさせながら、無意識のうちに、 すっかり冷めてしまったお茶を一服するのみであった。

ベル夫人はルシールの様子をしげしげと眺めていた――そして、不意に声を掛けて来た。

「つかぬ事をお聞きしますが。リドゲート卿は、ライト嬢に求婚をなさったのでしょうか?」

不意打ちを食らったルシールは、口に含んでいたお茶を吹き出した。次に、むせ始めた。

ベル夫人は、ルシールの反応に言外の回答を察しつつも、冷静にお茶を片付け始めた。

「驚かせてしまい、申し訳ございませんでした。気になる事を小耳に挟んでおりましたので……」

やがてルシールとベル夫人は、灯りを持って食器室を出ると、就寝の挨拶を交わしたのであった。

*****

部屋に戻ったルシールは、円卓の上に灯りを置いた後も、動揺覚めやらぬまま物思いに沈んだ。

ルシールの帰還に気付いたパピィが、不思議そうに身を起こしてルシールを眺める。 パピィは暫し首を傾げた後、尻尾を振ってルシールの脚にじゃれついた。

ルシールは、ボンヤリとしたままパピィに応え、床に座り込んだ。 モフッとした可愛らしい毛玉が膝の上に乗って来たが、ルシールの方は、心ここにあらずだ。 物思いにふけりながらも、モフモフの尻尾を振り続けるパピィを撫で回す。

「……ねえ、パピィ、大変な内容を色々聞いたの。もう頭が、どうかしてるって言うか……」

ルシールは散らばる思いをまとめようとするかのように、亜麻色の柔らかなモフモフを抱き締める。

「知らなかったとは言え、私がリドゲート卿をひどく誤解して、 おバカな事を言ってしまったのは確かよね。冷淡どころか、最大限の礼儀だったんだわ」

ひとしきりモフモフすると、ルシールは、パピィを毛布の中に包み込んだ。 元々眠かった事もあって、大人しく寝入るパピィである。

ルシールは寝付かれない思いを抱えて、ボンヤリと座り込んだまま、窓の外を眺めていた。

嵐のピークは既に過ぎ去っていた。

闇の中に聞こえるのは、強く弱く降り続ける、不安定な春の夜の雨音だけだ。

――この問題は、一人の手には余ってしまう。

このような、深刻な因縁に対する正解なんて存在するのかしら。アンジェラに、相談してみようか――

ルシールは長い間、考え込んでいた。

*****

嵐の夜は過ぎて行き、ゆっくりと朝がやって来る――雨は、もうほとんど上がっていた。

ルシールが淡い東雲の光を頼りに戸棚の中を片付けていると、ボンヤリとした薄明を突いてマティが現れた。 あの秘密のロープを伝って、ルシールの部屋のバルコニーまでやって来ていたのである。

バルコニーに子犬のパピィが居ない。しかも、窓の鍵が掛かっていない。 ピコーンと来たマティは、早速、窓を開けてルシールの部屋に入り込んだ。

「……あれ? ルシール……まさか一晩中、起きてた……!?」

いつものように微笑んでマティを迎えたルシールは、寝間着姿では無かった。 昨日とは別の庭園作業着をまとっているのだ。昨夜、パピィを部屋に入れる時に、雨風に濡れてしまったためである。

マティは首を傾げて目をパチクリさせた後、目ざとくも、ルシールの手にある数枚のリネンタオルに気付く。

「リネンタオルって……これから地下のフロアで、入浴とか……?」
「夜なべで黒服を縫い直したから、目覚ましにね。前より風が強かったから、パピィを中に入れてたわ」

ルシールは微笑みながら、床に広げた毛布の中で元気よくモフモフ&ワフワフしているパピィを示した。

マティは顔をパッと輝かせて、早速パピィを抱き上げた。

「サンキュー! 流石に昨夜はヤバイかもと思ってたんだ」

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