深森の帝國§総目次 §物語ノ傍流 〉花の影を慕いて.第三章(小説版)

花の影を慕いて/第三章.庭園ラプソディ

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  1. クロフォード伯爵邸…庭園ラプソディ
  2. クロフォード伯爵邸…前哨戦
  3. テンプルトン町…裏街道バトル
  4. テンプルトン町…交錯するもの
  5. ローズ・パーク邸…オーナー協会の人々
  6. クロフォード伯爵邸…襲来インタールード
  7. クロフォード伯爵邸…老庭師の私信
  8. クロフォード伯爵邸…思惑の彼方

1.クロフォード伯爵邸…庭園ラプソディ

朝から春らしい上天気だ。

クロフォード伯爵邸を城壁のように取り囲む緑の木々が、陽射しを受けてキラキラと光っている。

ルシールは、腰まで届く濃い茶色の髪をうなじで簡単にポニーテールにまとめ、麦わら帽子に作業服という姿だ。 ルシールがクロフォード伯爵邸の東側の廊下と繋がる出入り口を歩いていると、 折り良く文書を運んでいた執事と遭遇する形になった。

「ライト嬢も外出ですか? どちらまで?」
「庭園の東側ですわ。昨日、マティと約束していたので……」

次にルシールは、執事の質問の奇妙さに気付いた。

「私も……って事は、今日は誰か外出してます?」
「ええ。今朝、リドゲート卿が領地見回りに乗馬で外出されましたので……治安判事が半分を受け持ちされるので、 大体お昼過ぎに戻られる筈です」

――道理で、朝早くから、あの黒髪の背の高い紳士の姿をお見かけしなかったわ。

ルシールは納得した。

クロフォード伯爵は脚を悪くしている。階段に苦労している状況では、オリヴィアのように、外出も難しいに違いない。 キアランがクロフォード伯爵家の跡継ぎとして、当主の代理を務めるのも当然なのだ。

――いつも無表情で冷淡な感じだから、何を考えているか分からないけれど……あの人は、きっと責任感の強い人なのだ。

既に表に出ていたマティは、上機嫌で数歩先をクルクル走り回っている。 そんなマティの後を付いて行きながらも、ルシールは、キアランに対する第一印象を改める必要を感じていた。

キアランがまだ独身である事は、館の様子からして明らかだ。

――アシュコート舞踏会ではバタバタしていて時間が無かったけれど……次の機会に、 良縁を紹介してあげられるかしら?

*****

ルシールとマティが庭園の散策に出て、少し後。

弁護士カーター氏の乗った馬車が、慌てたような速度でクロフォード伯爵邸の正門をくぐり、前庭ロータリーに入って来た。 カーター氏は、館内のメイドの一人からルシールが画廊に居た事を聞き出すと、足早に画廊へと駆け込んだ。

ちょうど画廊でお茶をしている最中だった執事とクレイグ氏が、カーター氏の常ならぬ慌てぶりに目を見張った。

「カーター殿? 一体どうしたのです?」

カーター氏は二人に、丁重に失礼を詫びると、昨日のルシールの一筆にタイター氏が反応を見せた事を説明したのであった。

「それで、ライト嬢の予定を確認したいのですが、彼女は何処に……?」
「私の孫のマティと、庭園の東側辺りをデート中の筈です……暫くしたら、戻って来るかな?」

そう説明しながら、クレイグ氏は画廊の窓から樹林の群れを見やった。 画廊は最上階にあるので、その窓からは、正門に続く前庭エリアと、それに付随する東部と西部の庭園が見渡せるのだ。

執事が不思議そうにしながらも、タイミング良く口を挟む。

「まあ、お席にどうぞ。それにしても、カーター氏を走らせるとは、一体、如何なる内容で?」

カーター氏は、執事の勧めでお茶の席に落ち着きながらも、困惑した様子で、一つの書状を示した。 ルシールの一筆に対する、タイター氏の返信である。 当然と言うべきか、タイター氏の返信は、以下のように乱暴な筆跡と言葉遣いを以って記されていたのであった。

『貴様は金目当てでアイリスの子孫を騙る詐欺師じゃ!  最も偉大なる尊大なるワシ、タイター様に逆らう輩には、今日の命も無い物と思えや、コラ!  本当に幽霊じゃ無いと言うなら、明日の朝一番にクロス・タウンのレンガ倉庫裏にツラを出せや!  ぶち殺すぞ、コラ!』

かくの如く、脅迫状を兼ねた返信だったのである。

そして勿論――まともに意味が取れるのは、その部分だけだ。 残りの文面は、全て卑俗と低俗を極めた罵詈雑言の嵐で埋められていた。 更に、タイター氏が指定した『レンガ倉庫の裏』という場所は、クロフォード領でも評判の、治安の悪い裏街道にあるのだ。

「……こりゃあ、ギャングの脅迫状では無いですか」

書状に目を通し、クレイグ氏も執事も、ひたすら困惑するばかりだ。

カーター氏が、この書状を『脅迫状』として公開扱いにするのも当然だ。 『今日の命も無い物と思え』という見逃せない一節がある。

ギャング団に紛れて暗殺者が暗躍するのは、領内で展開した『お家騒動』以来の、周知の事実でもある。 プライス判事に協力を仰ぎ、必要とあらば、身辺警護用のスタッフを館に速やかに手配しなければならない。

カーター氏は、いつもの穏やかなポーカーフェイスに、戸惑いの表情を浮かべた。

「タイター氏はテンプルトンの金欠ギャングで、場末の賭場を経営しており……詐欺や恐喝は、お手の物とか」
「何処で道を踏み外したのでありましょう?」

執事は、困惑顔をしたまま、首を傾げた。

アントン氏は確かに気難しい老人であったが、それでも土地持ちの名士ならではの品格はあった。 アントン氏の孫娘ルシールも、見るからに上品な淑女である。遠い血縁とは言え、ギャングの親戚が居るとは実に驚きだ。

「確か、トッド家もテンプルトンですから、タイター氏とは結構やり合ってますね……」

その執事の指摘にクレイグ氏はうなづき、心配そうな顔をした。クレイグ氏の孫マティは、トッド家の子供である。

困惑こそしては居たが、有能なカーター氏は、あらかじめタイター氏の経歴や財務状況を調査済みである。 幾つかの資料を確認しつつ、種々の質問に滑らかに答えたのであった。

「事業の拡大に失敗したとか。元々ビリントン家はライト家より格上で、昔はテンプルトンの良家の一つとして、 平均以上に裕福だったそうですが……」

*****

マティとルシールが、緑の生け垣に囲われた庭園道具の倉庫の前を通ると、 その生け垣の片隅から亜麻色の毛玉――パピィが飛び出して、二人を歓迎して来た。

パピィは、マティとルシールにモフモフされて上機嫌になった。その後、最初は二人の周りを駆け巡っていたが、 やがて別の関心事を見つけたのか、いつの間にか姿を消した。

マティは庭園を巡る散策路を歩きつつ、ルシールの質問に次々に答え始めた。

「ダレット一家? クロフォードの筆頭の血族だよ。ダレット当主が、先々代の伯爵の腹違いの弟でさ。 王族に近い血統が入っているとか」

マティの頭の良さは、留まるところを知らないのであった。 流石に子供という事もあって理解状況は怪しいものの、受け売りに関する記憶は素晴らしく正確である。 ルシールは感心しながら、耳を傾けるのみであった。

「血統主義の親族と、そうで無い親族が、 そのダレット当主とキアランのどちらがクロフォード伯爵の正当な跡継ぎかってところで、今も揉めてるんだ」

喋り続けている間にも、バラ園に到着である。 頑丈さと繊細さを兼ね備えた瀟洒な柵に囲まれているこのバラ園も、 アントン氏の手になる物だけあって、花の季節になれば見事な眺めになるだろう事が窺える。

マティは、バラ園の柵の上に身軽によじ登ると、器用なアクロバットを始めた。

「じいじが、前にも詳しく話してくれたけど……何だか良く分からない話だったな。 昔のゴタゴタで……爵位継承権を持つ直系の類の親族は、 ダグラス家以外は破滅していて……後はトッド家とか、傍系の親族だから、地位に大きな差があり過ぎだとか」

ルシールは相槌を打ちながら、マティの話に耳を傾けていた。

先程、画廊でクレイグ氏やマティと早めのお茶を頂いた時、 クレイグ氏は、ルシールに、クロフォードの昔の歴史について、ひとくさり講義してくれたのだ。 牧師を務めていただけあって、その話は分かりやすい物であった。

クロフォード伯爵領では、30年ほど前、ローズ・パークの主でもあった『前の子爵』の失脚が起きていた。 『前の子爵』は、宗家直系の後継者と目されていながら、第一位の爵位継承権を失った。

当時、クロフォード伯爵家には、他には後継者となるべき子供がおらず、爵位は当然、別の家系に移行することになっていた。 それを巡って、深刻な『お家騒動』が展開していたと言う。 ブラックマネーが絡み、ギャング抗争も並行して勃発したため、血で血を洗うレベルに達していた政局抗争の数々。

その結果、爵位を継ぐ可能性が薄かった末流のダグラス家に、爵位が回って来たのだ。 ダグラス家にとっては、この出世は、驚天動地の出来事であった――

いずれにしても、今は、もはや先祖の言い伝えと化していた。 マティにとっては昔の歴史でしか無い。子供の頭には、流石に理解しにくい代物であったようだ。

ルシールの方は、マティよりは、貴族社会の仕組みについて理解していた。

現在のクロフォード伯爵家における『宗家』――第一位の爵位継承権を持つ家系――が、ダグラス家なのだ。 そして、宗家に次いで、最も地位の高いクロフォード直系親族が、ダレット家と言う訳だ。

貴族社会と言うのは、得てして血統を重視するところなのである。 今でこそ嗣子相続については、『養子縁組も含まれる』とはしているが、血統の伝承は今なお重視されている。 マティのような傍系親族の子が爵位を継ぐ事は不可能では無いが、 『宗家直系の親族に相当する血族との婚姻』が、絶対条件としてあるのだ。

暫しの間、マティはバラ園の柵の上で熱心にアクロバットをしていたが、やがて、むくれた様子になった。

「オイラは、ダレットの鬼婆の事は嫌いなんだ」

急に話が変わり、ルシールはキョトンとした。 鬼婆とは、年齢から言って、ダレット夫人の事であろうか。ダレット当主とダレット夫人……

「何だか話が見えないけど、とりあえず夫婦なの?」
「鬼婆ってのは、ダレット家の19歳の娘の事さ……金髪美女に化けてるけど、オイラは騙されねーぞ」

何処かファンタジーが混ざっているような返答だ。ルシールは小首を傾げた。

――19歳の、うら若い令嬢が鬼婆とは、これまた奇妙なコメントだわ。

バラ園の柵から身軽に飛び降りた後も、マティのお喋りは続く。

「鬼婆アラシア、13日の金曜日、キアランと魔のコンニャクしたと言ってるけど」

――どうやら、子供ならではの言い間違いが含まれているらしい――

「コンニャク? どういう事?」
「つまり、こういう事さ……」

マティはバラ園で赤いバラを手折ると、コミカルに身をくねらせ、バラをドラマチックに振り回して見せた。

「キアランはアテクシと結婚するわ、オホホ!」

その高笑いも、物真似らしきコミカルな身振りだ。納得しつつルシールは苦笑した。

「つまり、婚約って事ね……」

――リドゲート卿には、もう婚約者が居たんだわ。

アシュコートの舞踏会で、金髪紳士エドワードよりも余裕があるように見受けられたが、それも当然の事だったのだ。 ルシールは納得すると共に、何故か、ちょっと気が抜けたような気持ちになったのであった。

ルシールは気を取り直すと、マティが手折った赤いバラに目を留め、そっと手を差し出した。

「早咲きのバラね、ちょっと貸して……手を切るから、トゲはちゃんと落とさないと」

ルシールは手荷物を入れた袋から小型ハサミを取り出すと、器用にバラのトゲを切り落としていく。 この小型ハサミは、アントン氏の倉庫から拝借した物だ。錆が出ていたハサミとは別である。 少し念を入れて手入れしただけで、本来の物らしい見事な切れ味がよみがえっていた。

ルシールは微笑みながら、マティにトゲ無しのバラを差し出した。

「基本的には喜んで良い事でしょ? クロフォード家にとっては、プラスの縁組じゃ無いの。 分かれた一族が、また一つになるって感じだし」
「そりゃ状況は、そのようにも言えるけど……」

マティはバラを受け取りながらも、不満タラタラの表情だ。

――マティは、リドゲート卿とダレット嬢の縁組には反対みたいね。

『大好きなお兄ちゃんを取られちゃうから、ヤダ』という所かしら――小さなマティのむくれ顔を可愛らしく思いながらも、 ルシールは、周りに広がるバラ園を観察し始めた。バラの葉群の間で、ルシールの麦わら帽子の頭がヒョコヒョコと動く。

「それにしても……このバラ園は、かなり痛んでる感じね」

人工的に踏み荒らされたような箇所が目立つ。三ヶ月の間、放置されただけで、此処まで痛むだろうか。 荒天や雑草のせいだけでは無い、不自然な荒れようだ。

「敷地の柵が壊れてるから、誰かが侵入したんだよ」

マティはそう答えるが早いか、疑問顔のルシールを手招きし、館の敷地を仕切る一番外側の柵に案内した。

バラ園を過ぎ、雑草や枝葉が伸び放題になった散策路を歩いて行く。

低木で仮に仕切られた境界線を幾つか通り過ぎると、やがて敷地の境界を示す柵が見えて来た。 流石に、一番外側の柵という事もあって、牧草地の囲いと同じように、木製の板をまばらに連ねた簡素な柵である。

そして。

樹木に見え隠れしながらも、いきなり柵の破れ目が現れた。

明らかに人手によるもので、ポッカリと破壊されている。 鈍器か何かで、力任せにメチャクチャに破ったのか、破られた板はひしゃげながら散らばっている。 庭園道具の倉庫入口の、無残な破壊ぶりを思わせる空間だ。

破られた範囲は、意外に幅広かった。目測だが、破壊によって広がった隙間は、二メートルほどだろうか。 大量の戦利品をせしめた泥棒でさえも、膨れ上がった袋を抱えたまま、敷地の外を通る小道にサッと逃げ出せる状態だ。

柵に沿って平行に走っている、その明らかに裏道と思しき岩がちな小道は、人通りの多い――と言うよりは、 馬通りの多い道らしい。土になっているわずかな部分には、蹄鉄を付けた馬の、妙に新しい足跡が残っている。

小道の下は結構な崖になっていて、むき出しになった岩がゴロゴロとしており、 小川が岩を噛みながら流れていた。多種多様の低木や草で出来た藪が、堤防さながらに岩をガッチリと抱えつつ生えている。

問題の小道は、馬が余裕で通れるほどの幅があるが、下に崖があり小川が流れているからして、 乗馬コースとしてはスリリングすぎる。この小道を馬で通る人物は、よほど乗馬技術に自信があるに違いない。

「……ビックリした」
「だろ? 馬に乗ったままでもラクラク通れるぜ。タイターのギャング団が出入りしても、驚かないぞ」

マティの指摘は、もっともだ。ルシールは呆然としつつも、同意した。

「かなりヤバイ状況じゃ無い? 執事か誰かに話すべきじゃ……」
「大人が、オイラのお話に耳傾けると思うかい?」

マティは、すっかり諦め顔と言った様子で、腕を広げて見せた。ルシールは、 改めてイタズラ小僧の顔をマジマジと眺め――そして、色々な面で、大いに納得したのであった。 ルシールは苦笑するしかない。

「私から話してみるべきか……早く戻らないと」

マティとルシールの後ろの茂みで、人馬一体の影が動いた――先刻から、樹木の裏に潜んでいたのだ。 ガサッという葉擦れの音が響く。

「後ろに……!?」

穏やかならぬ気配を感じ、サッと振り返るマティとルシール。

目の前の柵の破れ目を通って、明らかな敵意を向けて来る騎馬姿の侵入者が現れた。ギョッとする二人。

「見ーたーなーッ!」

人馬一体の侵入者は恐ろしい声で呼ばわると、馬に激しく拍車をかけた。

マティとルシールを踏み潰さんばかりに、馬は猛烈な速度で駆け寄って来る。 人物の手に握られた棒状の物は、おそらくステッキだろう。不吉な予感を思わせる動きで回転している。 見るからに、マティとルシールを棒でメッタ打ちにしようという気配が満々だ。

「イヤーッ!!」

マティとルシールは、極めて正しい手段を取った――回れ右して、全速力で逃げ出したのである。

馬と人間との競争では、どう見ても人間の方が不利だ。一瞬のうちにその事を悟ったマティは、 手に持っていたトゲ無しのバラを、侵入者の顔めがけて放った。

赤いバラの花を付けた小枝は華麗な上昇軌道を描き、 侵入者の顔にヒットした――そして、実に上手い具合に、その視野を塞いだ。

視界を塞ぐようにへばりつくバラを取ろうとして、混乱の余り手綱を外した侵入者は、 暴走する馬の鞍から見事に転がり落ちて行った。

いよいよ暴走する馬は、マティより少し足の遅かったルシールを、思いっきり蹴っ飛ばす形になったのである。

*****

なおも暴走を続ける侵入者の馬は、猛々しい蹄の音を立てながら庭園の東側から飛び出し、 館の前庭エリアに姿を現した。

その時、偶然にも、ちょうどキアランと判事が領地見回りから戻って来ていた。二人とも、まだ騎馬姿だ。

出迎えのために前庭エリアに集まって来ていたスタッフや馬丁たちが、 当然のことながら、東側から大音量と共に乱入して来た暴走馬に気付き、驚愕そのものの表情に変わった。

「な……何だ、暴走馬!?」
「止めろ! リドゲート卿がお戻りだぞ!」

人間に追い回されている事に気付いた暴走馬は、急に方向を変え、 ギョッとするキアランとプライス判事を目指して衝突せんばかりに走って行く。

しかし、キアランとプライス判事は、熟練の乗り手だった。見事な手綱さばきで、暴走馬を一瞬の差でかわす。

「何故、馬が……!」

興奮した自分の馬を落ち着けながらも、驚き覚めやらぬプライス判事である。 暴走馬は、前庭エリアのあれやこれやといった障害物に行き当たって、ようやくスピードを緩めた。 そこへ、おっかなびっくりといった様子で、馬丁たちが取り付き始めた。

*****

画廊の窓からは、前庭エリアが一望できる――画廊の窓から外を眺めていたカーター氏は、 一連のトラブルの発生に気付き、庭園の東側から暴走馬が現れたと言う事実に不吉なものを悟った。

「あの方向は、ライト嬢とマティ様が居るところでは――」
「何て事だ! タイター氏の脅迫状が先刻、届いたばかりでしょう……!?」

カーター氏は慌てて庭園に飛び出した。執事も後に続いた。 庭園の東側を巡る、樹林で出来た緑の回廊のような散策路を辿って行くと、 果たして、マティとルシールの姿が見えて来たのであった。

ルシールは、散策路に沿って並ぶ植え込みの茂みの中に頭から突っ込んだ格好で、グッタリとしていた。 マティがルシールを植え込みの隙間から取り出そうと、悪戦苦闘している。

「馬に蹴られて突っ込んだ!」

カーター氏は早速、植え込みの中からルシールの身体を取り出すと、芝生の上に横たえた。

植え込みに突っ込む前に、 脇に並ぶ、どれかの大樹の幹に頭を打ち付けたに違いない――ルシールは頭から派手に出血しており、 繊細な顔は血だらけになっている。 マティはショックの余り、腰が抜けたようにしゃがみ込んでいた。

「頭から血が出てるし、揺すっても起きないし……死んでたら、どうしよう」
「落ち着きなさい」

カーター氏はマティをなだめながら、ルシールの身体の各所を触り、脈や節々を確かめた。

「何処も折れていないようだ。頭を打って気を失っただけらしい……頭部は、 軽傷の割に出血する場所だから……」

そこにキアランと判事が駆け付けて来た。いきなりの出現に、流石に執事も驚いて振り返る。

「一体、何の騒ぎだ!?」
「これは、リドゲート卿!」

芝生の上に横たわる物に目をやったキアランは、ルシールの血だらけの顔に気付いてギョッとし、驚きの声を上げた。

「ライト嬢……!?」
「さっきの暴走馬に蹴られたようです。幸いドクター・ワイルドが往診に来る頃合なので、部屋に運びます」
「後で、タイター氏の脅迫状についても話を致したく」
「脅迫状!?」

執事とカーター氏の報告に、プライス判事も開いた口が塞がらぬ様子である。 気を失ったままのルシールは、執事とカーター氏の手によって、速やかに館内へと搬送されていった。

マティはキアランに飛び付くと、少し離れた場所で目を回し続けている侵入者を指差した。

「あの人だよ! あの人が……!」

大きな樹木の根元で半分失神しながらグッタリと横たわる侵入者の顔には、 マーキングさながらの赤いバラの花が、ちょこんと乗っている。 落馬の際に、身体のあちこちをしたたかに打ち付けて、目を回したようだ。

「あのガキ、変な物投げて……!」

侵入者は、苛立たしげにバラの花を振り払った。ようやく落馬のショックが収まり、感覚が戻って来たようである。 密集した枝葉や柔らかな芝生がクッションになったのであろう、幸い、何処の骨も折れていない様子だ。

――トゲが無かったのだけは、幸運だ。自慢の顔には、目立った傷は出来ていない。

やっとこさ起き上がろうとした侵入者は、不意に息を呑んで硬直した。

キアランが死神の影さながらに立ちはだかり、ステッキを喉元に突き付けているのだ!

「久し振りだな?」

キアランは低い声で語り掛けた。無表情ながら、その眼差しは明らかに険しい物だ。

侵入者は、限りなく殺気に似た物を感じ、取り乱した。喉元に突き付けられているのはステッキの筈なのに、 まるで抜き身の刃を突き付けられているようだ。

侵入者は、それなりに戦闘技術の心得はあった――振り払って起き上がれば良いのだが、そう出来ないのだ。 キアランの構えは必要最小限の物でありながら、反撃を許すような隙が、全く無い。

「ちょっと待て! 幾ら何でも殺しは――馬のせいだ! いきなり暴走して――」

侵入者は必死で弁解を始めたが、キアランは不吉なまでに表情を変えない。

「館への出入りを一切認めないと申し渡した筈だ。私に慈悲の心があるうちに、速やかに立ち去るが良い!」

キアランの漆黒の眼差しは、鋭利な刃のように突き刺さって来る。

侵入者は、すっかり顔面蒼白だ。 キアランが喉元からステッキを外したが早いか、侵入者は物凄い勢いで起き上がり、 そして庭園の奥へ向かって、一直線に走り去って行った――

正門の方向とは、全く別の方向に。

「正門は反対側の筈だが……!?」

意外な逃走先に驚くプライス判事。そこでマティが、ボソッと指摘した。

「裏の柵が壊されているんだ」

ポカンとする館の面々であったが、本当に柵が壊れている事を確認し、大騒ぎになったのであった。

2.クロフォード伯爵邸…前哨戦

カーテンを閉め切り、適度に薄暗くなった部屋の中で、ルシールはゆっくりと意識を取り戻した。

傍には灯りがあるようだ――シルエットが動いて、話し掛けて来る。

「頭はハッキリしているかな、お嬢さん?」

ルシールは瞬きし、そのシルエットが、頭の禿げ上がった老医師である事に気付いた。 ヒーラーでもあるオリヴィアとは多少は異なっているが、清潔な石鹸の匂いと、 多種類のハーブや消毒薬の匂いとが長年かけて混ざり合った、ベテラン医者の独特の匂いがある。

よく見ると、後頭部には、フサフサとした白髪が残っている。 口元には立派な白いヒゲ。鋭いギョロ目は薄い水色をしており、片眼鏡が掛かっていた。

ルシールの意識がハッキリして来た事を見て取った老医師は、おもむろに燭台を手に取った。

「さて……この灯りは幾つに見えるかな?」

急に灯りに照らされ、ルシールは思わず驚きの声を上げて、眩しそうに手をかざした。

「まだ星が見えて……五つかしら」

実際は、燭台の灯りは三つであった。

頭を強く打ったショックで眩暈が続いている状態であると判断し、 ドクターはうなづいた。咄嗟の瞬きは勿論、動いた腕も、動きは正常だ。 幸い、脳震盪を起こした割には覚醒後の意識はハッキリしており、深刻な障害も残っていない。 眩暈が落ち着けば、回復も早まるだろう。

「ふむ……紫色の目のお嬢さん、馬に蹴られた割には軽傷で幸いだったな」

ドクターは片眼鏡を外し始めた。その隣には、マティが面目無さそうな様子で座っている。 ドクターはマティに、ルシールの部屋のカーテンを開くように言い付けると、怪我の状況について簡単な説明を始めた。

「……頭部の傷痕はシッカリ縫っておいたが、今日と明日は、念のため包帯を巻いておきなさい」

もう少し安静が必要だが、眩暈が落ち着いて嘔吐感も無ければ、とりあえず動いても大丈夫だとドクターは請け合った。

頭部の包帯は、大袈裟なまでに分厚く巻いてあるが、実際は頭部にできた裂傷は、特に重傷と言う訳では無い。 『転ばぬ先の杖』、ヘルメットかクッションのように、頭部を保護するための物だった。

*****

老医師がルシールの部屋を退出すると、マティがその後を追いかけて来た。

「ドクター・ワイルド!」
「何だね、坊主?」

面白そうな顔で振り返るドクター・ワイルドである。

マティは、かねてからの疑問を口にした。ルシールは何故、強い光を眩しがるのか、と。

「実に素晴らしい観察力だな!」

ドクター・ワイルドは感心しながらも、うんちくをマティに語った。

「目の色素が薄いからだ――紫色の目の場合、アルビノの次に色素が薄い。 本来の目の色は青系統の筈だが、色素が薄くて目の奥の血が透けて見える。 赤と青を混ぜると何色かな、坊主よ?」

流石に合点がいった、と言う風のマティである。マティの頭は、素晴らしい速度で回転し始めた。

「……という事は、ルシール・ママが紫色の目だから、皆目不明のパパの方は、青い目……?」
「遺伝からして、その可能性は非常に高いね」

ドクター・ワイルドは、ニヤリと笑って同意した。

――ライト嬢は、庭仕事で身体を鍛えていただけあって、あの華奢な体格にしては回復が早そうだ。

その後、ドクターは、いつものように最上階フロアにあるクロフォード伯爵の居室に往診に赴き、 伯爵の片脚の骨折状態をチェックしたのであった。

仕事が一段落すると、ドクターは用意された茶を飲みながらくつろぎ始めた。 心配そうな顔をしたクロフォード伯爵に、客人の治療の経緯を説明する。

「閣下の客人のお嬢さんは、実に運が良いです。華奢な身体じゃが、その分だけ素直にすっ飛ばされてね。 主な怪我は頭部の打撲。背中の辺りに蹴りを食らっとるが、湿布と安静で、じきに治る」
「良かった……」

クロフォード伯爵は、その説明を聞き、やっとホッとした様子で、大きな溜息をついた。 松葉杖を突きながら、落ち着かない様子で歩き回っていたのだ。

添え木は既に、大袈裟に固定するタイプの物から目立たないタイプの物に交換されており、 下衣の種類を選べば、上手くスーツ姿の中に押し込んで隠せるようになっている。 これはこれで、数日前まで落ち込んでいたガウン姿の人物と同一人物とは、ちょっと思えない。

――ローズ・パーク案件に関連して一客人を迎えるという話があって以来、 クロフォード伯爵の気の張りは見違えるようだ。

この調子なら、骨折の治癒にも良い影響が期待できそうだ。 茶を飲みながらも、主治医として伯爵の身体の調子を注意深く観察していたドクター・ワイルドは、 ふと気付くところがあり、伯爵をしげしげと眺め始めた。

「――つかぬ事をお聞きしますが、あのお嬢さんは、閣下の親戚ですか?」

伯爵は一抹の寂しさをにじませた微笑みを浮かべながらも、ゆっくりと首を振り、その指摘を否定した。

「残念ながら、血の繋がりは無いよ。彼女の祖父のアントン氏には、随分お世話になったからね」
「さようですか」

ドクターは、ひとまずは納得し、茶カップを置いた。次に眉根を寄せ、白ヒゲを撫で始める。

「それにしても、不法侵入の主の正体は、こちらも驚きました」
「私も驚いたが、同時にそれ程驚いていない――彼は父親に似て、不意打ちの訪問が妙に上手い男だ」

伯爵も苦い顔をしてうなづいている。伯爵は、憤懣やるかたないと言った様子で松葉杖を突き、 再びギクシャクと歩き回った。

「あれからすっかり失念していたが、敷地の中ぐらいは見回るんだったよ。 まさか、裏の柵が破れていたとは思わなんだ……」

ドクター・ワイルドは、ギョロ目をぎらつかせて先手を打った。

「骨の回復は順調ですが、階段昇降となると許可はできませんぞ!  段差では、特に想定外の衝撃が来ますからな!」

*****

夕方も押し迫って来た頃。

クロフォード伯爵邸の堂々たる正面玄関の扉が開き、三人の人影が現れた。

「レオポルド・ダレット殿が、奥方様とお嬢様を連れて、お戻りに……!」

従者の大声が響いた。

執事とスタッフたちは、予期せぬ人々の予期せぬタイミングでの帰還に驚き、慌てて玄関広間に飛び出した。 しかし、如何に熟練のスタッフと言えども、わずか数秒で、ダレット一家好みの美しい整列ができる訳では無い。

ダレット一家はスタッフたちの混乱ぶりを完全に無視し、或いは侮りながら、尊大な様子で館の中に入って行った。

金糸銀糸を施された華麗な上着をなびかせて、威風堂々と足を踏み鳴らしながら執務室に近付いて行く、 中年メタボの金髪紳士――レオポルド・ダレットは、途中で執事に制止された。

「お控え下さい、リドゲート卿は執務中ですので――」
「私はワザワザ、アシュコートから飛ばしたんだ! 執事の分際で……そこをどけい!」

レオポルドは傲慢な口調で執事を怒鳴りつけ、腕を振り回して執事を跳ね飛ばした。 レオポルドは、いっそう乱暴に足を踏み鳴らして執務室の堂々たる扉に近付き、ノックもせずに、乱暴に押し開ける。

「キアラン君! 私の目を盗んで、妙齢の娘を館に連れ込んでいるそうじゃ無いか! 私の娘以外の、しかも女を!」

いつもながら――と言うべきだ。クロフォード伯爵宗家の跡継ぎに対して、敬称も無しである。

執務机の端に立ったまま書類に目を通していたキアランは、相変わらずムッツリとした様子で口を開いた。

「その報告は全く正確ではありませんね、レオポルド殿。 彼女は弁護士カーター氏が扱う一案件の当事者で、父・伯爵の客人でもあります」

レオポルドは聞く耳持たずだ。レオポルドは、クロフォード伯爵の跡継ぎの説明よりも、 曖昧な噂から組み立てた自分の思い込みの方を信じ込んでいた。

「いや! やはり感心しないね……君自身の評判もあるだろう!」
「……評判?」

書類をめくるキアランの手が止まった。

「その女は、レディでも何でも無いとか……! 門番のコテージでも充分じゃ無いかね!」

レオポルドは、『噂の女』を貶めるべく、口を歪めて怒鳴り続けた。『噂の女』が、 アラシアよりも魅力的な娘ならば……と言う不安のせいもあって、その言葉遣いは、より過激なものになっていた。

「下賤な商売女を館に招き入れるとはな……紳士が聞いて呆れるわ!」
「あなたがお持ちのゴシップ網には、常に感心させられますよ」

キアランは冷たく切り返した。書類から目を離すと、「他に用は?」と問う。

ただでさえキアランの眼差しには、漆黒の刃のような鋭さと威圧感がある。

身を切り裂く刃さながらの鋭い眼差しにさらされ、レオポルドは一瞬ギョッとして顔色を変えた。 しかし、レオポルドは、急に傲然とした態度で身を返すと、これまた乱暴に執務室を退出して行った。

――ゴシップを漁り、真偽を確かめずに他人を罵り、その評判を貶める事についてだけは、達者な人々だ。 親戚の半分には、既に間違った話が伝わっている筈だ――

キアランは内心むかつきながらも、 書類棚を片付け始めた。何かが引っ掛かる、と思いながら。

不意に閃き、キアランは息を呑んだ。

レオポルドは言っていた――『門番のコテージでも充分じゃ無いかね』と。――部屋割りだ!

――ダレット家の面々は、もう彼女の部屋を突き止めたのか!?

キアランは、不吉な予感を禁じえなかった。

*****

ルシールはズキズキと痛む頭を抱えながら、部屋の鏡台の前に座り込んでいた。

「何とか眩暈が収まって来た」

ルシールは目の前の鏡を、もう一度、じっくりと見つめた。

鏡の中から、地味な自分が見つめ返してくる。 一見してストレートの髪型にも見える程の、ごく緩やかなウェーブになっている濃い茶色の髪。 陰を含んだ濃い茶色の目。長く伸ばした前髪は、センターパートの髪型となって顔を半ば覆い隠しており、 目の上にシッカリとした陰を落としていた。

低木に頭から突っ込んだお蔭で、顔には無数の引っかき傷が出来ていた。 頭には包帯が分厚く巻かれており、まるで布製のヘルメットのようである。

「コブだけで済んで幸いだったとか、ホントよね。明日、朝一番でタイター氏と対決してやるのだから……」

ルシールの意識が戻ったと言う知らせを受け取ったカーター氏は、館を退出する前に、ルシールのお見舞いに来た。 そして、タイター氏からの、ほとんど脅迫状も同然の返信について、ルシールに簡単な説明をしていたのである。 法律的に言っても、この機を逃すことはできなかった。

やがて、廊下から駆け足の音がしたかと思うと――勢い良くドアが開き、マティが慌てた様子で、 猛然とルシールの部屋に飛び込んで来た。

「アラシアが来るんだ! ベッドの下に隠して!」

ルシールが唖然としている間にも、マティは素早くドアを閉じ、部屋のベッドの下に高速ダイビングである。

廊下に再び足音が響いて来た。 今度は明らかに女性の足音だ。ハイヒールを履いた足に特徴的な、速いリズムを刻んでいる。

「アラシア……って、婚約者……!?」

噂のダレット嬢が、何故やって来るのか。ルシールは、訳が分からない。

ベッドの下に潜り込んだマティの方は――と言うと、何をゴソゴソ、モタモタとしているのか、 身体の半分がまだ残っている状態だ。マティの雰囲気に呑まれ、ルシールも焦り出した。

「頭隠して尻隠さずじゃ無いの……早く!」

早くもギョッとするような音を立てて、部屋のドアが乱暴に開けられた。

「あんたが噂のアバズレね!」

その敵意に満ちたキツイ声音に、ルシールは心臓が飛び上がらんばかりになった。

ルシールは動転のままにベッドの上に座り込み、まだ潜り込みが完了していないマティの姿を隠す。

ドアを開いて現れて来たのは、ブランド物の華麗なドレスをまとった、うら若き乙女だった。 華やかにうねる、理想的なウェーブを持つ金髪。透き通るような、それでいて鮮やかな青い目。 まさに19歳と言う、輝かんばかりのお年頃だ。 絵から抜け出て来たかのような、完璧な金髪碧眼の、キラキラとしたお姫様である。 しかし、美しい青い目は、すっかり三角になっていた。

「……とりあえず、こんにちわ!」
「――心配して、損したわッ」

アラシアの方は、いっそう目付きを険しくしていた。 ルシールの傷だらけの顔と、みすぼらしいとも言える作業着姿をジロリと眺め回すと、 上から目線で、軽蔑に満ちた笑みを浮かべる。

「チビでクソの茶ネズミ女!」

完璧な金髪碧眼の美少女の、そのなまめかしい紅色の唇から飛び出したのは、唖然とするほど低俗な悪口雑言だ。 余りの落差に呆然とするルシール。

「成る程ね!」

アラシアは指を突き付けるが早いか、金切り声を上げた。その先には、ルシールの包帯頭がある。

「仮病を使って、同情を誘おうって事ね! あんた――(以下、過激かつ品性下劣な言い回しで、 公序良俗の観点から言っても大変よろしくない表現であるため、省略する)!」

アラシアは、美しいがキンキンとした声で、凄まじい誹謗中傷の羅列をまくし立てた。 何処でそんなに大量に仕入れて来たのかと驚く程に、その過激かつ品性下劣な言い回しは、豊富な種類に満ちていた。

初対面の、それもクロフォード伯爵の正式な客人たるルシールに対して、アラシアは、完全に礼儀を失していた。 金髪碧眼の美少女という類まれな容姿をしていながら、耳を疑う程に、聞くに堪えないレベルの罵詈雑言を並べ立てるアラシア。

「あんたのようなクソの茶ネズミ女が、何かしようったって、無駄無駄無駄ァーッ!  貴族ダレット家の前では、あんたなど、クソの代わりにもならないからねぇッ!」

ルシールは、聞き覚えのある名前に唖然とした。

「アシュコートの方で、レナード・ダレットとおっしゃる紳士と、お会いしましたが……ご親戚ですか?」

果たして、アラシアは目覚ましく反応した。

「それは、あたくしの兄だわッ! 成る程ね! あんたは茶ネズミのくせして、二股かけてた浮気女だったって事なのね!」

――それは、完全なる早とちりにして悪意に満ちた誤解だわ!

ルシールは訂正しようとした。しかし、アラシアは、もはや如何なる訂正をも受け入れない様子だ。

「あんたの破廉恥な二股ぶり! キアラン様に全部バラしてやるわよ!」

アラシアは高価なマニキュアを塗った長い爪を振り立てて、猛然とルシールにつかみかかった。

「まずは、そのウソ包帯を正してやる!」

ルシールは「痛いッ!」と叫びながらも、素晴らしい反射神経を発揮してベッドから弾かれるように立ち上がった。 狙い過たず、アラシアの両手首をシッカリとつかむ。

小柄で華奢な体格にも関わらず、意外にハードな庭園仕事で鍛えていたルシールの身体は、驚くべき抵抗力を発揮した。 重量のある庭園道具を上手く扱うためには、基本的な筋力は勿論、身体の重心もシッカリと安定している必要があったのだ。

「ぬううううう!」
「きいいいいい!」

ルシールとアラシアの取っ組み合いは、拮抗状態である。

ファッショナブルな高いハイヒールを履いていた事は、アラシアにとって思わぬ不利となった。 さほど鍛えていない身体に高いハイヒールだ。 エスコート無しの状態では、自力で重心を安定させる事が出来ず、シッカリと床を踏みしめる事も出来ない。 レース装飾の多すぎるドレスに動きを阻まれている事もあり、当然ながらルシールを蹴り倒そうとしても上手くいかなかった。

ルシールは本能的直感で、アラシアの踏み込みや蹴りを次々にかわしていた。

このままでは、先にバランスを崩して無様に尻餅をつく事になるのは、アラシアだ。

アラシアは作戦を切り替えた。手首の動きを封じられながらも、ルシールを押し倒そうと、 上から体重をかけてグイグイと押しまくる。 アラシアはルシールより背が高く、栄養の行き届いた華麗な体格だ。 当然、体重もルシールよりある筈だ。

流石にヤバイと感じ、「ちょっとストップ、ストップ!」と慌てるルシールである。

その時であった――ベッドの下から、信じられない代物が現れたのは。

……クネクネと動く、不吉に長い形……

ルシールとアラシアは取っ組み合いをしながらも、今しも襲い掛かろうとする大きな蛇に気付いた。

「ギャアアァァアアアアァァァアァァアアァァア!」

館全体を震わせんばかりの、キンキンとした凄まじい叫び声が響き渡った。

大蛇は不気味に身体をくねらせ、 アラシアはパニックに陥り――こけなかったのは、まさに奇跡だ――行く手を塞ぐ家具を倒しながら、 ルシールの部屋を飛び出して行った。

余りと言えば余りの急転直下である。ルシールは呆然とするばかりだ。

突然、キアランがノックも無しに、ルシールの部屋のドアを開けて入って来た。 ルシールの部屋で、ただならぬ叫び声と衝撃音が続いただけに、 駆け付けたキアランも、いつもの冷静さが吹き飛んでいた様子である。

「何とも無いか!?」

ルシールは呆然としたままだ。ベッドの下から伸び上がって、長い身体をくねらせる大蛇。

キアランは無言でその様を眺めていた。 やがてキアランは、くねり続ける大蛇の身体をつかみ、ルシールのベッドの下から、その全体を引っ張り出した。

鱗と見えたのは、蛇皮に見立てた布の、派手な模様のせいだ。 大蛇の尻尾の端に当たる筈の部分は途中から切れており、布の中から、蛇の身体を動かすための取っ手が飛び出している。

「良く出来てる蛇のオモチャだ……これは、ライト嬢が……?」

その時マティが、ルシールのベッドの下から、ひょっこりと顔を出した。得意そうに目をきらめかせている。

「オイラのスペシャル最新作さ」
「マティ……!」

流石にルシールも、驚きの余り喘ぐばかりだ。マティはベッドの下から這い出ながらも、説明を続けた。

「アラシアは蛇が死ぬほど大嫌いってヤツだから、仕込んどこうと先回りしたんだ。 それにしても、アシュコートの社交界のお楽しみは今も続いてるのに、随分と早いお帰りだよね?」

そしてマティは目をキラキラさせながら、トドメのコメントで、この場を仕上げたのであった。

「宇宙人の落とし物にして伝説のオーパーツ、 『物真似エコーの不思議な箱』があれば! あのすげえセリフの数々、全部モノにできたのに!」

*****

アラシアが倒していった椅子が、部屋の真ん中に横たわっている。

まずは椅子を立て直そうと近付いたルシールは、直前でキアランに止められた。 驚き戸惑うルシールの前で、キアランは椅子を起こし――そして、ルシールを振り返って来た。

「ダレット嬢と大立ち回りしましたか」

あれでも、ダレット嬢は身分の高い令嬢だ。ルシールは口ごもった。

しかし、後ろからマティが、遠慮なく口を挟んで来た。

「言っとくけどさ、アラシアの性格はみんな知ってるぜ」

マティは大蛇のオモチャを片付けるべく操作していた。大蛇が身体をくねらせ、トグロを作っている様子は、 アラシアを仰天させただけあって、本物を思わせる程のリアルさに満ちている。

「ルシールは、レナードと会った事があるの?」

マティはルシールを不思議そうに眺めながら、質問して来た。 あんな状況でもマティは、ルシールとアラシアの会話をシッカリと理解していたらしい。

「え……、アシュコートの舞踏会で……」
「じゃあ、もうレナードとはダンスした?」
「裏方とか時限でバタバタしてて……ご挨拶しただけ」

キアランは相変わらずのムッツリとした無表情のまま、ルシールとマティが話している様子を、じっと眺めている。

ルシールは頭を振って気を取り直すと、アラシアが倒して行った屑籠などの小物を立て直し、 乱雑に散らかったアレコレを拾い始めた。

一応は、『レナード・ダレット』の事を思い出そうとしたのだが――ルシールは、戸惑ったままだった。 アラシアの方が遥かに強烈だった事や、アシュコート舞踏会の後で様々な出来事が集中して起きていた事もあって、 立派な体格や完璧な外見の他には、余り思い出せないのだ。

「何だかよく覚えてないわ。前シーズンもいらしたけど、その時は、別件で混乱があったから……」
「あのレナードと会ったのに、余り覚えてないの? あいつ、金髪の青目の美形で、女たらしだよ!」

ルシールがレナードを余り思い出せないと言う事実に、マティは目を丸くしていた。 ダレット一家は、貴族的と言うか何と言うか、黙って立っていても、豪奢で強烈な印象を与える人々なのだ。

「認めたくないが、ダレット一家は金髪で青い目の美形の一族でさ!  現・準男爵ダレット家の当主のレオポルドも、今でこそ、あんな中年メタボ・オヤジだけど――若い頃は、 金髪碧眼の絶世の美青年で、社交界の評判だったんだってさ」

むくれながらも、マティは端的なコメントを披露していた。

マティは生き生きと明るい茶色の目をしているのだが、平凡なブラウン系統の容姿を、 ダレットの面々に小バカにされた事があったのだ。ルシールの容姿に対する罵詈雑言と比べると、 流石に、もう少し穏やかな言葉遣いではあったのだが。

「レオポルド殿とお会いした事は無いけれど、ダレット家の兄妹を見ると、評判の内容は信じられるわ」

ルシールは、マティの説明に納得しきりである。 片や、『騎士道物語』に出て来そうな高潔な英雄タイプの、立派な体格の美青年。 片や、絵から抜け出て来たような完璧なお姫様タイプの、輝くような美少女だ。

ルシールは何度も感心しながら、床に散らばった様々な小物を、部屋の端の戸棚に片付けていった。

戸棚を整理しているルシールの背後で、マティはこっそりと円卓の上によじ登ると、キアランと内緒話を始めた。 お行儀悪い振る舞いだが、こうしないと、ちっちゃなマティの背丈では、キアランの耳まで届かないのだ。

「ねえキアラン、ルシールとレオポルドが顔を合わすのは、今は絶対マズイよ……じいじの話だと、 レオポルドって、都でも地元でもプレイボーイで、不倫ハーレムの前科あり」

キアランは生真面目にうなづき、マティの内緒話は核心に入っていった。

「面食いで、美形で、怪しい年齢で、しかも青い目だ」
「青い目だと、まずいのか?」

マティの表情は、真剣そのものだ。キアランは目をパチクリさせた。

「ワイルド先生の見立てによると、ルシール・パパは青い目なんだよ」

マティの指摘は、キアランをギョッとさせる物だった。

――ルシール・ライト嬢は、レオポルド殿の私生児なのか?

レオポルド・ダレットは、誰もが認める鮮やかな青い目をしている……!

キアランの中で、疑惑は、瞬く間に膨れ上がった。 馬鹿げた内容だが、レオポルド・ダレットの華々しい過去を検討すると、充分に有り得る――信じられるレベルの話だ。

カーター氏の報告書を通じて、ルシールの母親アイリスが、おそらくは『望まぬ妊娠』であったろう秘密を抱えたまま、 いきなりクロフォード領を出奔した事実は承知していた。 そして『望まぬ妊娠』と言えば、それは大抵、私生児という事情を含んでいる――

キアランは、混乱し始めた頭を押さえた。

マティの指摘は、もっともだ。今、ダレット一家とルシールが食堂で顔を合わせる事は、確実に『予期せぬ爆発』を招く筈だ。

「今夜は部屋に食事を運ばせます――明日に備えて休んで下さい」

ルシールはビックリして振り返り、キアランを注目した。予想外の指示だったのだ。

――リドゲート卿の顔色(機嫌)は、悪くなってるみたいだわ。頭痛かしら?

キアランは一層きつく眉根を寄せており、眉間に出来たシワを揉んでいる。 ルシールは、幾つもの疑問符を脳内に浮かべて小首を傾げたものの、 礼儀正しく姿勢を正し、キアランの指示に、素直にうなづいて見せたのであった。

キアランは溜息をつき、眉間のシワを解くと、ルシールの部屋を退出するべく、ドアを開けた。 そして不意に動きを止め、ムッツリとした顔のまま、ルシールの方を振り返った。

「ライト嬢……、ルシールと呼んでも構いませんか?」

一瞬、ルシールは息を呑んで、キアランを見つめた。不思議な事だが、不可解さと驚きの余り、 キアランに対して感じていた、いつもの怖さは忘れていた。

「ハイ」

ルシールはコクリとうなづいた。暫しの間、キアランとルシールの視線が交差した。

「……では、私の事もキアランと――良い夜を……ルシール」

キアランはそれだけ言うと、再び身を返し、静かにドアを閉めて立ち去って行った。

――あの奇妙な間には、何か意味があったかしら?

キアランの表情は相変わらずムッツリとした物だった。 漆黒の眼差しには、相変わらず突き刺さって来るような鋭さがあった。 しかし、微妙に別の雰囲気が感じられたのだ――戸惑いや迷いと言った、微妙な揺れが。

夕暮れの薄明りの中、ルシールはボンヤリとして立ち尽くすのみだったが、マティの方は、何かを感じ取ったようだ。 マティは意味深な目付きでルシールを見やり、これまた意味深な言葉を口にした。

「……ねえ、ルシール。ルシールはキアランの事、どう思ってる?」
「どう……って……素敵な紳士だと思うけど」
「ふーん」

マティはオモチャの大蛇に埋もれながらも、明るい茶色の目を輝かせ、ますます意味深な顔をしていた。

ルシールは訳が分からず、首を傾げるばかりだった。

3.テンプルトン町…裏街道バトル

朝まだき、薄明の中でルシールは気合を入れた。

部屋の鏡台の前に陣取り、ボンネット風の帽子をきっちりと留める。

今日は朝一番で、遂にタイター氏と対決だ。

――レンガ倉庫の裏だろうが、場末の酒場だろうが、きっと彼を粉みじんにやっつけてやるわ!

ルシールは、手提げ袋の中身を慎重にチェックし、イザと言う時の秘密兵器が完全に装備されている事をシッカリと確認した。 タイター氏の脅迫状には、しかと目を通した。

『貴様は金目当てでアイリスの子孫を騙る詐欺師じゃ!  最も偉大なる尊大なるワシ、タイター様に逆らう輩には、今日の命も無い物と思えや、コラ!  本当に幽霊じゃ無いと言うなら、明日の朝一番にクロス・タウンのレンガ倉庫裏にツラを出せや!  ぶち殺すぞ、コラ!』

――このような罰当たりな脅迫状を寄越して来た上、 本当に脅迫状の通りに、破れた柵を越えて馬の上から不意打ちを仕掛けて来た。 このような暴走野郎には、この手で、キッチリと罰を当ててやらなければ!

そのように盛大に意気込み、部屋を飛び出すルシールである。朝食の事は、完全に忘れていた。

ルシールが車庫に到着すると、車庫の前に御者や馬丁が集まっており、馬車が既に用意されていた。

馬車の傍で待機していたキアランは、早速ルシールに気付いて振り返った。 そして、相変わらずのムッツリとした無表情のまま、ルシールをジロジロと観察し始めた。

「ちょっと雰囲気が変わりましたね」
「髪を首の位置でまとめましたの……年増に見えて、貫禄が出ます」

確かに今日のルシールは、あの堂々とした貴婦人オリヴィアと同じ髪型なのである (頭に包帯が巻かれたままだから、いつものアップスタイルの髪型が作れないと言う事情もある)。

キアランは内心、ルシールの場合、『貫録を出す』と言うその目論見は、完全に失敗しているのでは無いかと思い始めた。 華奢なうなじでエレガントにまとめられたシニヨンは、ルシールの少女っぽい顔の輪郭を逆に引き立てていたのである。

二頭立てのクロフォードの馬車は、早朝の薄明の中を、急ぎ足で出発した。

早くから起きていたクロフォード伯爵は、正門側の窓に立ち寄り、その馬車が見えなくなるまで見送っていた。

*****

馬車はクロフォード伯爵邸の最寄の町で一旦停車し、町の弁護士事務所の前でカーター氏を拾った。 そして、馬車はクロス・タウンに向かって、再び急ぎ足で走り出した。

馬車に乗り込んだカーター氏は、早速ルシールに、クロス・タウンという町の説明を始めた。

クロス・タウンはテンプルトンへの入り口となる小さな町ではあるが、国道と運河が通っており、 荷物の積み替えを中心とした中継事業で賑わっている。 メインストリートと交わるようにして倉庫通りがあり、そこには、中継事業に関わる各種の倉庫が並ぶ。 テンプルトンよりは規模は小さいながら、都と取引する高級ブランド商店も一緒に展開していた。

「ギャング団も当然、マネーに釣られて寄って来るんですな」

――とは、カーター氏の言である。

馬車はクロス・タウンのメインストリートに入って行き、 朝早くから倉庫通りを行き交う多くの荷馬車をかわしつつ、目的の裏街道に分岐する辻の前で止まった。

キアランとカーター氏とルシールは、馬車から降りると、裏街道を目指して歩き出した。 カーター氏はルシールを先導し、後に続くキアランは、辺りを警戒している。

「裏に回ると、治安も悪くなります。この角を曲がれば、談判の場所ですね……」

カーター氏はそのように説明しながら、レンガ倉庫に挟まれた狭い通路を進んでいった。 三人は、やがて、レンガ倉庫の裏口が並ぶ開けた場所に出た。 如何にも裏街道のギャングたちのホームベースという雰囲気だ。

そこでは、タイター氏が手下の男たちと共に、ルシールが来るのを待ち構えていたのであった。

――もしかして、あの人たちが、そうなの……!?

タイター氏とその手下たちの、想像以上の姿を一目見るなり、ルシールは驚愕の余り後ずさった。

何とタイター氏は、ルシールと、それほど変わらない背丈だ!

タイター氏は、何とも言えないチグハグな印象を持つ人物であった。 太眉と意外につぶらな目、高く突き出した鼻と分厚い唇が飾るオムスビ顔。 その周囲に、金髪は幻想的なまでに麗しく、天使のウェーブとなって広がり輝いている。

不健康な食生活のせいか見事なまでの中年太りの超メタボ体型であり、その体重はルシールの何倍もありそうだ。 普通の穏やかな雰囲気の持ち主であれば、見ようによっては可愛いオッサンと言えなくもないが、 流石にギャング生活の長さは人相の悪さに直結している。まさに極悪タイプのハンプティ・ダンプティだ。

タイター氏が、自分の背丈に大いなるコンプレックスを持っているのは確実であった。 体格の良いガチムチとした手下たちを従えながらも、自分の背丈を周囲より高く見せるために、 いびつなまでに高いデザインのシルクハットを被り、持ち運び可能な簡素なローテーブルの上に乗っているのだ。

ちなみに、ローテーブルの上に乗ってなお、タイター氏の目線は、 周りの大柄な四人の手下たちより、少し下の位置になっている状態だ。

その有り様は、如何にも、トロル巨人たちに囲まれたドワーフ小人の王という風なのであった。

四人の手下たちは、いずれもギャングだ。 手下その一は、ニワトリのトサカのような髪型だ。ツンツンと突き立った真っ赤な赤毛が、 その男を、よりニワトリそっくりに見せている。 手下その二は、丸刈りにした狼男のようだ。眉毛の薄い物騒な目つきが、如何にも殺人犯のような印象である。 手下その三とその四は、鼻をうごめかせたり歯を剥いたりしている様子が、ガラの悪い闘犬そっくりだ。

仰天する余り言葉の出ないルシール。

ポーカーフェイスながら唖然とした様子のカーター氏。

後ろに控えていたキアランは、「金髪の小男か……」と呟きつつ、不穏な眼差しでタイター氏を注目した。

ようやくルシールは気を取り直したが、半分絶句したまま口をパクパクさせるばかりであった。

「親戚とは思えない」
「類まれなる背丈は、流石に親戚かと……正確には、四代前に分かれた兄弟です。 アントン氏の従兄弟の、そのまた従兄弟の息子で……」

苦笑を浮かべながらも、律儀に説明するカーター氏であった。

一方、タイター氏はサッと短い腕を振り上げ、先手必勝とばかりに暴力行為に出ようとしていた。

「者ども! こやつらをのしちまえ!」
「合点、承知のスケ!」

タイター氏の命令に応じて、戦闘態勢で飛び出す四人の手下たち。 そのプロレスラーのような大柄な身体は、それだけで迫力がある。

しかし、キアランの反応は素晴らしく速かった。

「動くな! タイター!」

鋼のムチのようにしなったキアランの警告と共に、火薬の爆裂音が轟いた。

キアランが隠し持っていた銃を構え、電光石火の速さでタイター氏のシルクハットを撃ち抜いたのである。 シルクハットのほぼ中央部に、穴が出来た。フサッとした金髪が震えると共にシルクハットが弾け、タイター氏が目を剥いた。

――恐ろしい程に正確な射撃だ。

タイター氏の麗しい金髪の正体は、シルクハットに取り付けられた特注のカツラだった。 シルクハットは金髪をなびかせたまま、スポッと抜けて後方に舞い上がり、タイター氏の禿げ頭が剥き出しになった。

タイター氏は飛ばされたシルクハットに合わせて後ろに倒れて行き、手下たちが慌てて、 ローテーブルの上から転げ落ちんばかりのタイター氏を受け止める。しかし、タイター氏の圧倒的な体重は、 ガチムチとした四人の手下たちが総がかりで抱えても、多少よろけてしまう程のレベルだった。

キアランは銃を構えながら、容赦の無い命令口調でギャングたちに告げた。

「クロフォード領では流血沙汰は許さない。 この周りは既にプライス判事が包囲している……逮捕投獄されたく無ければ、 可及的速やかに、その方の手勢を退きたまえ!」

タイター氏は仰天し、禿げ頭のてっぺんまで青ざめながら、黒髪の紳士を見直した。

「まさかッ、リドゲート卿で……!?」

ルシールもまた、開いた口が塞がらぬ、といった状態で、隣に立つ背の高い黒髪の紳士――キアランを見つめるばかりだ。 キアランの鋭利な眼差しには、底冷えすら感じられて来るような殺気がある。

正直言って、タイター氏よりもキアランの方が、よほど脅威である。 視線がルシールの方向を向いていなくて、運が良かったと言うべきだ。 視線で人が殺せるとしたら、ルシールは瞬殺で地面に転がっていただろう。

「鉛の次に、鋼鉄の味も試してみるか?」

キアランはギャングたちに向かってステッキを刀剣のように構え、不吉な口調で畳みかける。 少しでも武術の心得がある者が見れば、そこには一切の隙が無い事が分かる筈だ。 タイター氏と四人の手下――というケチなギャング団など、あっという間に全員片づけてしまえるだろう。

流石にその威圧的な雰囲気に気を呑まれたのか、タイター氏は更に青ざめて、太く短い腕を振り回し始めた。 タイター氏の圧倒的な体重を抱えていた四人のガチムチとした手下たちが、タイター氏の腕の動きに合わせて、 ガクガクとよろけている。

「ちょっとストップだ、ストップ!」

体勢を立て直そうとアワアワしているギャングたちの後ろから、弁護士と見える若い男が、困惑した様子で姿を現した。 赤毛でヒョロヒョロとした印象だが、真面目そうな男である。食うや食わずで困っていたところを、 タイター氏に金で釣り上げられたのであろうという事情が、ありありと見て取れた。

「申し遅れました……私がタイター氏の弁護士を務めます、トマス・ランドです」

若手弁護士トマス氏は早速、タイター氏に、彼は確かにリドゲート卿本人である、と保証した。

「ローズ・パークは伯爵さま案件だし、お出ましになって当然なんですよ」

タイター氏はパイプ・タバコに火を着けながらも、悔しそうに歯噛みをしたのであった。

手下の一人が、金髪のカツラが取り付けられたシルクハットを、なおも呆然として抱えている。

タイター氏は盛大に鼻を鳴らすと、手下の手から乱暴にシルクハットを取り返した。 禿げ頭に再びシルクハットを乗せ、金髪のカツラを天使よろしくフサッとさせる。そして、改めてカーター氏を睨み付ける。

確かに周囲を見回してみれば、プライス判事の手勢と思しき多数の制服姿の人影が、 あちこちでじりじりと動いているのが分かる。クロフォードの治安判事が既に包囲している以上、 迂闊に暴力的手段は取れない。

「食えない弁護士だな!」
「この位で無くては、伯爵家の顧問など到底、務まりません」

タイター氏の暴言に対して、カーター氏はポーカーフェイスで一礼した。 この程度の暴言など『負け犬の遠吠え』に過ぎず、カーター氏にとっては称賛以外の何物でもない。

タイター氏は、手下たちが立て直したローテーブルの上に再び立ち上がった。 タバコのヤニで黄色に染まった歯を剥き、尊大そのものの態度で超メタボ体型の短身を反らし、 今更ながらに無駄な威嚇を始める。

しかし、カーター氏は冷静にルシールをいざない、 やる気満々のルシールをタイター氏と同じローテーブルの上に乗せて、人物紹介をしたのであった。

「こちらが、アントン氏の孫娘ルシール嬢。該当する土地の正当な相続権を主張する者です」

タイター氏はルシールに向き直り、太く短い指をビシッと突き付けた。

「断固! 認めん! ワシはアントンの本家に連なる甥だ! ライト家は分家、しかも格下ッ!  女が権利を主張するなど、無礼千万ッ!」
「問題の土地は庭園ですよね、タイターさん! 私には庭園管理の技術がございます!」

ルシールも負けじとコブシを振り回した。

タイター氏は一瞬、言葉に詰まったが、すぐに「生意気な小娘がッ!」と怒鳴り返す。

ローテーブルの周りから程々の距離をもって後退し、白熱する二人の論争を眺めていたギャングたちは、 ガラの悪い顔に唖然とした表情を浮かべた。「明らかに親戚やな」と感心すらしている。

カーター氏とトマス氏、それにキアランは始終無言で眺めていたのであったが、やはり同じ事を思っていた。

四代前の兄弟から分かれた二人の子孫は、背丈は勿論、互いの反応が似ていたのである。 両者ともに『つぶらな大きな目の持ち主』と言うのも、遺伝の成せる業に違いない。 一方は横幅がある体格で、もう一方は華奢な体格であったが。

タイター氏は改めてパイプ・タバコを構えると、ルシールに詰め寄った。

「貴様がアイリスの幽霊で無けりゃ、あんたは私生児だ!」

ひそかに気にし続けていた事をズバリと突かれ、ルシールは一瞬、ギクリとして言葉を詰まらせた。 タイター氏は、此処ぞ、とばかりにルシールを指差した。

「ローズ・パークは上流階級の場だ! クソ私生児などお断りってんだ! この浮気女の不義のガキが、 何処の監獄から脱走したかも分からん、インチキ腐れ外道など連れて来やがって!」

その暴言の内容に、弁護士トマス氏が素早く反応した。

「その暴言は問題ですよ、タイター様」

トマス氏はその理由を説明しようとしたが、勢いの止まらぬタイター氏は、 その勢いのままに興奮して、いびつなまでに高いデザインのシルクハットを振り回した。 フサッとした金髪のカツラをなびかせる『世にも奇妙なシルクハット』は、 トマス氏の口を封じるのに充分な代物であった。

再び禿げ頭をさらしたタイター氏であったが、苛立ちの余り、もはや気にしていないようだ。 更にタイター氏は、重大な内容を口にした。

「真実を言って何が悪いッ! アイリスはワシの婚約者だっちゅーに、プレイボーイ貴族と浮気しやがって!  不誠実な浮気女に、欲深の娘ありじゃ!」

ルシールの奥底で――ブチッと切れる物があった。

次の一瞬、ルシールの手がタイター氏のパイプ・タバコを取り上げ――そして、 そのパイプ・タバコが、タイター氏の禿げ頭の上に伏せられた。 パイプ・タバコの中から、火が着いたままの灰が、ポトリと落ちる。タイター氏の禿げ頭が、ジュッと音を立てた。

「母の侮辱は絶対に許しませんッ!」
「ぎゃああああ!? あぢいいいいい!」

いきなり禿げ頭を火傷し、タイター氏は悲鳴を上げ始めた。

ルシールの予想外の『お仕置き』に気が付いたトマス氏、カーター氏、それにキアランは、唖然として息を呑んだ。 ギャングたちも同じように口をポカンと開けたまま、目を丸くするばかりだ。 それは実に、誰もが納得するものであり、同時に奇妙な光景だったのであった。

「あなたが何を抜かそうと、私の母が殿方を選ぶ目のあった、賢い女性だった事は確かです!  この私ルシールは! アイリスの娘として、祖父から譲られた権利を正々堂々と行使するのみッ!」

怒りの収まらぬルシールは、「これ以上話す必要が無い程に明々白々ッ!」と締めくくり、 パイプ・タバコを投げ捨てると、手提げ袋の中に手を突っ込んだ。ギョッとするタイター氏である。

ルシールは何やら、怪しげなハーブを結わえたハタキのような物を取り出すと、猛然とタイター氏をはたき始めた。 二人とも同じような背丈だった事もあり、『ハタキもどき』は、タイター氏の禿げ頭を直撃した。

この『ハタキもどき』こそが、ルシールの秘密兵器であった。怪しげな粉末が、タイター氏の周りで飛び散る。

「あなた、昨日お馬に乗って、私とマティを蹴ったでしょ! 馬に絶対に乗れなくなるように、 魔女の呪いをばプレゼントして差し上げるッ!」
「魔女だと!? ちょっと待て!」

ルシールはローテーブルの上から飛び降りた。タイター氏は再び、無様に転げ落ちた。

「おととい来なさい! あなたのお馬が、また蹴りに来ても無駄ですからね!」

ルシールは、いっちょまえに見事な捨てゼリフを披露すると、 足を踏み鳴らして裏街道を飛び出して行ったのであった。

尻餅をついていたタイター氏は、その体重の問題もあって、すぐには起き上がる事が出来なかった。 ひっくり返された亀よろしく手足をばたつかせ、早足で遠ざかって行く小柄な姿を指差して喚くばかりだ。

「あの魔女のアバズレをぶち殺せッ! 傷害罪で逮捕しろ!」

カーター氏は溜息をつくと、トマス氏が先ほど言い損ねた内容を、冷静に告げた。

「その前に、『監獄から脱走云々』なる発言を、不敬罪で告発します。 リドゲート卿の立会いを失念しておられたのですな」

タイター氏はグインと反動をつけて転び起き、低い背丈の身体を精一杯伸ばしてカーター氏を威嚇し始めた。 そこへ、後ろに控えていたトマス氏がオロオロした様子で、カーター氏の指摘の正しさを強調したのであった。

「その通りです、タイター様。裁判に持ち込む前に、 先程のリドゲート卿に対する不敬発言について、示談にしないと……」

タイター氏は歯軋りした。下手を打ったのだ。 アイリスの幽霊かと見まがうほどに、アイリスにそっくりなルシールの出現に動転し、 なおかつ激怒の余り真っ白になって、重要なポイントを忘れてしまっていたのだ――

かねてから周囲を包囲していたプライス判事の部下たちが、初対面の終了を察知し、姿を現して来た。

彼らの姿を確認したキアランは、 「ルシールを保護します」とカーター氏に告げると、その後の処理をカーター氏に任せ、 急ぎ足でその場を後にした。

4.テンプルトン町…交錯するもの

時は既に、午前の半ばを過ぎていた。

ルシールは無我夢中で、クロス・タウンのメインストリートを駆け抜けて行く。

裏街道でタイター氏が口にした内容は、ルシールを動転させるのに充分なものだった。

――祖父の事は知らないけれど、祖父が遺言書を作ってまで相続を限定していた訳は、 タイター氏と直接話し合った今では、完全に理解できる。

タイター氏はきっと、庭園の管理どころか、庭園を切り刻んで売り飛ばしてしまうだろう。 祖父が管理していたと言うクロフォード伯爵邸の庭園道具の倉庫を見ても、 祖父アントン氏が、庭園に深い愛情を注いでいたのは確かなのだ。

――言わせておけば、不誠実な浮気女に私生児ですって? あんな不良紳士、父親で無くて却って幸いだわ!

父親不明と言う、社会的にも法的にも不利な条件は確かにあり、 自信を持って言い返せないのは、何とも悔しく、歯がゆい思いだ。 結婚証書は必ず実在する――しかるべき書類の場所が不明なだけで、両親が正式な結婚をしていたという証拠は、 何処かに存在する筈なのだ。

――あんな奴に、庭園オーナー権を渡してなるものか。あんな奴に、あんな奴に……!

動転の続いていたルシールは、標識を取り付けたポールが目の前に迫って来た事にも気付かなかった。

ゴッ、という鈍い音が響き渡る。

全速力でポールにぶつかり、目を回すルシール。「目から星が……」と呟きながらも、一瞬ルシールは、気が遠くなった。

驚いた様子の若い男の声が、後ろから追い付いて来た。

「大丈夫か、お嬢さん! 呼んでも気付かず、全速力でぶつかって行ったから――」

赤面モノの失敗をした事に気付きながらも、ルシールは痛む頭を抱えた。

ぶつかった拍子にボンネット風の帽子がずれ、包帯が見えるようになってしまっている。 昨日、ドクター・ワイルドが念のためと言って、大袈裟な包帯を巻いてくれて、本当に運が良かった。 勢い良く打ち付けたのだから、きっと新しいコブが出来ている筈だ。

「大丈夫です、馬に蹴られて打った所を、また打っただけで……」
「そう言えば、包帯してるね……お大事に」

男は、流石に苦笑している様子である。何処か聞き覚えのある声だ。 ようやく痛みが落ち着き、ルシールは帽子を整えながらも顔を上げ、そして背の高い若い男を見た。

ルシールの顔を認めた男は、驚きに目を見張った。

「アシュコートで……確か……そうだ! スタッフ嬢」
「あら? 奇遇ですね」

ルシールも、やっと顔を思い出した。アシュコートで見かけた金髪碧眼の紳士だ。 レナード・ダレットと名乗った、絶世の美貌の騎士さながらの、完璧な美青年。 こんなところで出逢うとは、まさしく奇遇だ。

間を置かずして、あの標識のポールに続くメインストリートに、キアランが現れた。

ルシールは気付かなかったのだが、裏街道に分岐する辻の前で、クロフォードの馬車がまだ待機していたのだ。 御者がルシールの走り去った方向を目撃していたのである。勿論、御者は唖然としていた――御者の話を聞き、 『ルシールは、その方向に居るだろう』と予想するのは、キアランにとっては容易な事だった。

果たしてルシールは、標識ポールの立つ交差点に居た――ただし、レナード・ダレットと共に。

レナードはルシールをエスコートしようとしているのか、たった今、ルシールに腕を差し出したところだ。

驚いて足を止めるキアラン。

人の気配に気付いてレナードはサッと振り返り、キアランを見て、ギョッとした表情を浮かべた。

続いて、ルシールも振り返り――そして、キアランを認めた。

標識の立つ交差点の上で、三者三様の視線が交錯する――

キアランは、その黒い眼差しに険しい光を浮かべてレナードを見つめた。 レナードも非友好的な眼差しを返し、気色ばんで身を反らした。 しかし、思うところがあったのか、レナードは不意に身を返すと、挨拶も無しに別の通りへと足早に立ち去って行った。

――この二人は知り合いなのに、挨拶しないの?

ルシールは、目の前で起きた奇妙な出来事にポカンとし、訳の分からぬ思いで立ち尽くすばかりだ。

警戒しているのか、キアランは険しい眼差しをしたまま、レナードが立ち去って行った先を眺めている。 レナードの姿が見えなくなると、ようやくキアランは警戒を緩めたようだ。身を返し、ルシールに一歩近づく。

「ルシール?」
「あ……ああ、リドゲート卿」
「昨日、私の事はキアランで良いと言った筈ですが」

キアランは、いつものようにムッツリとした様子で切り返した。 ルシールは戸惑って口ごもり――そして、どう反応したら良いのか分からないまま、顔を赤らめてうつむいてしまった。

何を納得したのかしなかったのか、相変わらずムッツリとしたまま、キアランはルシールを見つめる。

「まあ、良いでしょう――今の気分は?」

キアランは、不意にルシールに問いかけて来た。彼なりに心配していた様子なのである。

ルシールは何と答えたら良いのか分からずに沈黙していたが、その時、健康な身体が、 腹の虫を通じて空腹を主張して来たのであった。

――ぐう。きゅう。

キアランは口を押さえて礼儀正しく横を向いていたが――どう見ても、吹き出し笑いを抑えている様子だ。 ルシールは居たたまれなくなって目を伏せ、しどろもどろに弁解するのみだった。

「朝、食べるのを忘れていて……」
「それでは空腹の筈だ……ランチの頃合ですし、食事にしましょう」

キアランは身を返し、ルシールに後を付いて来るよう促した。ルシールは素直にうなづき、キアランの後を付いて行く。

道々、ルシールは、先程の交差点での出来事を思い返さずには居られなかった。

レナード・ダレット。彼は、ダレット家の御曹司――準男爵レオポルド・ダレットの息子であり、 アラシア・ダレット嬢の兄なのだ。

――レナード様とリドゲート卿は仲が悪いらしいけど。 マティの話によれば、将来、アラシア嬢とリドゲート卿は結婚し、レナード様はリドゲート卿の義兄になる。 婚約者の家族と仲が悪いのは、流石に問題だわ……

*****

クロス・タウンのメインストリートには、中堅レストランが幾つか集まっている。

こうした中堅レストランは、隣り合うテンプルトンの町の商人たちの間で、商談と接待に使われる事が多い。 出される食事はそれほど量は無かったが、用意されるお茶と軽食の種類が豊富にあり、厳選された食材が使われていた。

キアランがルシールに案内したのは、そういう中堅レストランの一つだ。 ルシールと共に、メインストリートに面する窓際の席に着いたキアランは、ルシールが食事を始めるのを確認すると、 裏街道の対決の後の処理をカーター氏に全委任した事を説明した。

「今は、カーター氏とタイター氏の弁護士トマス氏が、直談判を含め、話を詰めている筈です。 ルシールの欠席は先方の了解済みなので、気にせずに」
「タイター氏とお話をきっちり付けておく予定だったのに……私ったら、何だか火を振り回していたような……」

ルシールは、売り言葉に買い言葉で対決の場を飛び出した事を思い出し、 流石に軽率だったと恥じ入らざるを得なかった。

――何だか、記憶がぼやけている所もあるような気がするわ。

ちょっと不安になったルシールは、恐る恐るキアランを見やった。

「私……何か変な事とか、言いませんでしたか?」

キアランは相変わらずの無表情で茶カップを手に取っていたが、その黒い眼差しは穏やかな光を湛えているようだ。

「ルシールが激怒するのを見たのは初めてでしたが、ギャングの噂もある『あのタイター氏』と、 実に対等に渡り合っていたと思いますよ」
「血は争えないと言う事かも知れませんね……先祖は兄弟だったとか……三代前? 四代……?」
「四代前」

キアランは正確に指摘し、ゆっくりと一服である。ルシールは赤面してうつむき、目を伏せるばかりだ。

「素晴らしい記憶力をお持ちなんですね……」
「ローズ・パークのオーナー候補の一人ですから、確かに関心はありますね」

キアランはチラとルシールを見やった後、茶カップを持ったまま、思案に沈んだ。

頭の中では、キアランは別の疑惑を広げていたのである。

――父の態度も奇妙なのだ――

キアランは、クロフォード伯爵のルシールへの特別待遇に、少なからぬ違和感を覚えていた。

ローズ・パーク邸のオーナー協会に属していた地元紳士の孫娘とは言え、ルシールは、平均的な領民の一人でしか無い。 ルシールに関する案件は、弁護士に一切の処理を任せておいても、全く問題の無い些細なレベルの物なのである。

『門番のコテージでも充分じゃ無いか』と言うレオポルドの暴言に与するつもりは全く無いが、 必要な宿代くらいは伯爵家の予算から出す事は出来るし、ローズ・パーク邸にも、充分な設備の整った客室は、あるのだ。

――父・伯爵が直々に関与すると言う事を聞いて、カーター氏も意外に思った、と言っていた――

ただでさえクロフォード領主として多忙な父が、直々に関与する程の、目的と理由。

キアランは改めて、ルシールについて、レオポルドの私生児――と言う、胸の悪くなるような可能性を考えざるを得なかった。

黙々と食事をしていたルシールは、余りに長い沈黙は流石に気まずいと感じ始めた。 何でもいいから話題を見つけるしかない――が、先程のショックが大きすぎた事もあり、何も思いつかなかった。

「あの銃の腕前には、大変、驚きました……」
「光栄です」

滑らかに返すキアランである。キアランはルシールの意図を汲み、更に話を続けた。

「先々代の時分から、近辺では銃撃戦など抗争が続いていて……、一通り対処できるようにと、 父が私に最高の師匠を付けてくれました」

ルシールは納得してうなづいた。クロフォード伯爵領内で続いていた、過去の政変。 先日、マティやクレイグ氏が説明してくれた内容と一致している。

「そんな昔から、私の親戚も一緒になって、ご迷惑して……」

ルシール自身には責任が無いことだが、それでもエラい親戚を持ってしまった事は事実である。

マティの説明によれば、昔のゴタゴタで爵位継承権を持つ直系の親族は、ダグラス家以外は破滅した――と言う。 クレイグ氏も詳しい内容を話そうとしなかった事からして、そのゴタゴタに複数のギャングが――そして勿論、 ルシールの遠い親戚であるタイター氏も――関わっていた事は、ほぼ確かだと思える物なのであった。

ルシールは、次に言うべきことが思いつかないまま、静かにスープに口を付けた。

――絶品の野菜スープだわ。後で此処のコックさんと、お話は出来るかしら?

気まずさもあって、ルシールは野菜スープに集中し、ボンヤリと思考を散らし始めた。

キアランは不意に微妙な気配に気づき、窓の外を見やった。

レストランの窓の外には、クロス・タウンのメインストリートが広がっていた。 幾つかのブランド店が、メインストリートに沿って並んでいる。

通りの向かい側のブランド店の前に、レナードが居た。 見知らぬ女性をエスコートしながらも、キアランの事を気にしている様子で、時折、 通りを挟んで、友好的とは言いがたい視線を投げて来る。

「此処まで来ると、もうテンプルトンに入っている状態か……」

ルシールは、キアランの呟きにハッとして、顔を上げた。

「この辺って、テンプルトンなんですか!?」
「そうですが……」
「ローズ・パークって、テンプルトンの何処かですよね!?」

このチャンスを逃す訳にはいかない。 ルシールはテーブルの上に身を乗り出し、無我夢中で、キアランの手をシッカリと握ったのであった。

無言の一瞬。

ルシールはハッとしつつ赤面してキアランの手を離し、後は椅子の中で小さくなるのみだ。

微妙な沈黙が流れた後、キアランが、やっと呟いた――いつものように、ムッツリと。

「午後の予定は、決まりましたね」

*****

クロフォードの馬車は、メインの用件が済んでいた事もあって、 送迎ロータリーに付属している共同駐車場の中で待機していた。 馬用の水場もあり、馬車馬がのんびりと水を飲んでいる。

馬車に付いていた御者は、メインストリートから出て来たキアランとルシールの姿を見て、 早速、共同駐車場から馬車を出して来た。

キアランは午後の目的地を御者に告げ、カーター氏が館に戻る時の馬車の都合を確認した。

「町を往復する乗合馬車が結構ありますから」

万事心得ている若い御者は気楽な様子で答え、馬車同士の連絡など、 必要な手続きを手際よく済ませたのであった。

5.ローズ・パーク邸…オーナー協会の人々

ルシールとキアランを乗せた馬車は、クロス・タウンを出ると、テンプルトン郊外の丘を目指して走った。

この丘に建つローズ・パーク邸へと続く道は、平均的なスピードの馬車で一時間といった程度の距離である。 ローズ・パークの地所は、かつてはクロフォード伯爵家の跡継ぎが管理していたエリアだけあって、 その面積は広大なのであった。

春の柔らかな陽射しの中、田舎道を縁取るオーク林が、緑濃い木蔭を作っている。 ローズ・パークの地所が最大エリアを誇っていた頃、この辺りは既にローズ・パークの地所の一部だったという話だ。

昔のゴタゴタでクロフォード伯爵家の跡継ぎの子爵が失脚し、ローズ・パークの地主がオーナー協会に変わった今では、 地代収入のほとんどは、領主であるクロフォード伯爵の物である。 しかし、ローズ・パーク邸のオーナー協会に対して分割委譲された分の土地は、 オーナー協会に属する地元紳士たちの所有であり――彼らに安定した収入を約束していた。

次第に庭園エリアに近付いているのは明らかだ。牧草地の囲いに毛が生えたようなレベルの簡素な柵を抜けると、 周りの光景は一気に自然公園めいて来た。乗馬コースもある。

密集した並木道を抜けると、程なくして凝った細工の柵が現れた。そして、やはり同じように凝った細工の素敵な正門が現れた。 かつてのローズ・パークの地主だった子爵の趣味は、なかなかに貴族的な物だったのだ。

広い前庭の中のロータリーを回って行くと、高い庭木の間に、遂に、貴族的な豪華さを備えた白亜の館が見えて来た。 まるで王宮のようだ。

「わあ! 素敵!」

馬車から降りたルシールは、いっそう目をきらめかせた。

古典風味とロココ風味が入り交ざった雰囲気の、華やかな館だ。 此処が、母が繰り返し物語った『思い出の場所』なのだと思うと、尚更、胸に来るものがある。 20年以上のタイムラグによる変化は確かに大きいが、母がかつて手掛けたのであろう前庭の一部分には、 母が語った通りの順番で、幾種類かの庭木が並んでいた。

前庭の別の一角には、警備人が詰めるコテージがある。中に居た大男が、訪問客に気付いて出て来た。

警備コテージの反対側には、樹木エリアが広がっている。そこでは、いずれも中年といった年頃の三人の紳士淑女が、 そぞろ歩きをしながらも、年若い訪問客に気付いて不思議そうに振り返った。三人のうち一人は男性で、二人は女性である。

「あら、邸宅見学の方かしら? リドゲート卿もご一緒されて……」

適度な好奇心をもって訪問客を眺める三人の中年男女である。 そのうち、白亜の豪邸に見入っていたルシールが、先客らしき三人の中年男女に気付いた。

一礼して近付いて来たルシールの顔を見るなり――中年男女の三人は、 ハッキリと顔色を変え、次々に驚きの言葉を口にした。

「アイリス嬢! 背丈が縮んでいるような――」
「髪の毛を染めた!?」
「その顔……アイリスさん、生きてた……!?」

彼らは、かつての知人――アントン氏の娘であるアイリスの面影を、ルシールの中に、確かに認めたのである。

ルシールは顔を赤らめ、おずおずと帽子を取った(その頭には、勿論であるが、包帯が巻かれていた)。

「私は、アイリスの娘のルシールです」

ルシールの後ろには、キアランと警備責任者の大男が立ち並んでいた。 二人とも、三人の中年男女の反応に驚いている様子である。

中年の男性がグループを代表して一歩近付き、深い驚きを浮かべながらも、ルシールをマジマジと眺めた。 茶褐色のフサフサとした髪と口ヒゲを生やした、誠実そうな印象の中年紳士だ。 そして、中年紳士は、まだ仰天している顔でキアランの方を見やった。

「驚いた……! この娘さんが新しい庭師で、オーナーで?」
「残念ながら、ビリントン家と依然、係争中です。家主側の立場としても、早々に決着したいものですが」

キアランは、相変わらずムッツリとした様子で受け答えしている。 ルシールは、キアランの言葉の意味を暫し考え、そして内心、コブシを握らざるを得なかった。

端的に言えばタイター問題とは、こういう事なのだ。家主の目の前で、店子が所有権を取り合っていると言う状況なのである。 考えれば考える程、喜劇としか思えないわ、と落ち込むルシールなのであった。

*****

ルシールは、挨拶もかねて、ローズ・パーク邸の華麗な玄関広間に案内された。

クロフォード伯爵邸の堂々たる玄関広間とは違って、いにしえの騎士の時代に由来するような荘重な陳列物は無かったが、 あちこちに置かれた趣味の良い花瓶に季節の花々が活けられており、ルシールにとっては親しみやすい雰囲気である。 天井を支える華やかな列柱には複雑で繊細な彫刻が施されており、見ているだけで気分が浮き立って来る物だった。

間もなくして、オーナー協会の面々が玄関広間に集合して来た。全員で七人だ。

「今日は、邸宅見学という事ですね……」

白髪交じりの灰色の頭とヒゲをした、謹厳実直そうな雰囲気の中年紳士、グリーヴ氏が一礼し、オーナー協会の面々を紹介していく。

一回り若い中年の夫妻は、オーナー協会代表のカーティス夫妻。 初代オーナー夫妻は既に天に召されており、彼らは二代目のオーナーであった。 カーティス氏は一見して、良家の御曹司がそのままオジサンになったと言う風の、地味で大人しい中肉中背の中年紳士だ。 対照的に、カーティス夫人は若々しいファッションをまとう活発そうな性格の中年女性で、 好奇心いっぱいに目をきらめかせてルシールを注目していた。

前庭の警備コテージから出て来た、巨人並みの体格をした若い紳士は、これもまた二代目のオーナーで、警備担当のケンプ氏。 まだ独身である(ちなみに、ローズ・パーク邸のスタッフとして雇われている人々は、ローズ・パーク特有の『のっぴきならぬ事情』により、 ほとんどがプライス判事の元から派遣されている警備スタッフだ)。

ルシールを見てビックリした三人のうち、男女二人は、ローズ・パーク庭園の初代オーナー、ウォード夫妻。 アントン氏とは別の一区画の庭園エリアのオーナーである。平凡な中年夫婦といった雰囲気だ。 ウォード氏は長年の庭園作業のせいか、フサフサした茶褐色の髪にも関わらず老けて見えるが、ウォード夫人とはそれ程変わらぬ年齢だ。 ウォード夫人は、金茶色の髪と鳶色の目をした物静かな中年女性で、しっとりとした印象がある。

そして、ルシールを見てビックリした三人のうち残りの一人、 淡い茶色の巻き毛も相まってふわわんとした印象のある中年女性は、グリーヴ夫人であった。 その夫のグリーヴ氏は初代オーナーであり、ローズ・パーク邸の破産管財人も務めていた。

オーナー全員の紹介を終えると、グリーヴ氏は、改めて自己紹介をした。

「この私グリーヴ、当館の主人が『前のリドゲート子爵』であった頃においては、執事を務めておりました」

聞き慣れた名前に、ルシールは目をパチクリさせた。

「リドゲート子爵……リドゲート卿?」

グリーヴ氏はルシールの混乱をすぐに理解した様子で、言葉を継いだ。

「キアラン=リドゲート卿の事では無くて――昔、深刻な経緯があって失脚した『前の子爵』の件は、 お聞きでしょうか? もう30年ほど前の話ですが……」

そこまで説明されて、ルシールも流石に、クレイグ氏とマティが話していた内容に思い当たったのである。

ローズ・パークの昔の地主だった人で、先々代クロフォード伯爵の跡継ぎだったけど、 失脚してしまった……その子爵が、グリーヴ氏が言うところの、『前のリドゲート子爵』なのだ。

グリーヴ氏はルシールを案内しつつ、ローズ・パークの歴史を簡単に説明した。

かつては、ローズ・パーク邸とその周辺の地所は、 ルシールも知る通り、代々クロフォード伯爵家の跡継ぎたる子爵が所有していた。

30年ほど前――その当時の跡継ぎたる子爵の負債が膨大なものになっていた。 子爵は、それを埋めるため、ギャングが関わるブラックマネーにも手を出していた。 借金は雪だるま式に膨れ上がり、深刻な金銭問題と化したのである。

当然の結果として、ローズ・パーク邸は、館&地所もろともに、切り売りの危機に直面した。 当時のクロフォード伯爵――即ち先々代が、宗家としての強権を発動し、事態の収拾を図っていた。

先々代クロフォード伯爵は、子爵の破産宣告を出したのである。

領主たる伯爵の了解も無く勝手に地所を競売に出そうとした件については、 当然の事ながら、領主の権限を侵害したと解釈され、謀反の罪が適用された。 以上のような失脚劇が展開し、跡継ぎたる子爵は廃嫡されたのであった。

子爵の失脚の後も、混乱は収まらなかった。 新たに判明したブラックマネーの存在など、ローズ・パークの金銭問題をめぐって、ギャング同士の抗争が長引いた。 クロフォード直系の主だった親族たちがすべて断絶するという大きな政変が関わって来た事もあり、 領内の状況が落ち着くまでには、なお数年を要したのである。

グリーヴ氏は、ローズ・パークのオーナー協会の設立についても説明を続けた。

跡継ぎたる子爵は、ローズ・パーク邸を、膨大な借金と共に放り出した。 そこで、管理費用の節約も兼ねてローズ・パーク邸のオーナー協会が創設された。 領主から委託される形で、テンプルトンの地元紳士たちが共同管理をする事になったのであった。

「ダグラス家、つまり現在のクロフォード伯爵宗家にはバックアップを様々頂いておりまして、 かれこれ30年――ローズ・パーク邸には借金取りやギャングが押し掛けて10年以上も混乱しておりましたが、 その後は運営が順調で……幸い、社交界の名所の評判も頂くようになり、借金の返済も、大方は済みました」

ルシールは、そんな騒動があったなんて――と、呆然と聞き入るばかりだった。

――跡継ぎ子爵が失脚して、ダグラス家が伯爵になった時期って、一番大変な時だった筈だわ。

クレイグ氏も、まさかダグラス家が宗家に繰り上がるとは夢にも思わなかった――と言っていたのである。 それ程に大きな政変だったのだ。でも、そのお蔭で、ローズ・パークの地所は空中分解を免れた。 この素敵なローズ・パーク邸も、庭園ともども、一個の館として続いたのである。

――そして、祖父のアントン氏が、偶然にもローズ・パーク邸のオーナーの一人で――

そこで、ルシールは或る事に気付いた。確か、ローズ・パークのオーナー協会は、 テンプルトンの地元紳士によって構成されていたという話だったような気がする。

「アントン氏は、テンプルトンの地元紳士……?」
「さよう……私も含めて、初代オーナーは全員がテンプルトン出身です」

グリーヴ氏は、ルシールの呟きにも律儀に応じていた。 そして、ふとグリーヴ氏はルシールを見やった。何処か懐かしそうな様子である。

「見れば見る程……アイリス嬢に似ていますな」

――何故か、母を知っている人は、皆が皆、そう言うみたいだわ。

ルシールは戸惑って、曖昧な笑みを浮かべるのみだった。

*****

館の回廊の案内が終わり、最後にグリーヴ氏は画廊に続くドアを開けた。

「画廊です……オーナーたちの記念の肖像画を掛けております。サイズ制限で、小さな額のみですがね」

確かに画廊に相当する部屋ではあったが、ほとんどの絵画や家具は借金返済に充てられていた事もあって、ガランとした雰囲気である。 しかし、豪華な壁紙が全面に張られており、壁紙だけでも一財産になるだろうと、ルシールは感心していた。

画廊の真ん中に鎮座する豪華な暖炉の上には、当然、当主の肖像画が掛けられている筈だ。

そこには――何も無かった。脇に、オーナー協会の面々を描いた小さな肖像画が、こじんまりと並んで掛けられているだけだ。

「前の子爵の肖像画は……無いですね?」
「借金返済のため、競売に出したので」
「競売?」

ルシールは首を傾げた。肖像画は、それ程大したお金にはならない筈である。

グリーヴ氏は微妙な咳払いをした。

「額縁が相当の値打ち物で……」

そのシニカルな様子に、ルシールは目をパチクリさせた。

前の子爵は、相当に困った人物だったと思われる。 膨大な借金をこさえた上に、領地を勝手に切り売りしようとした事で謀反の罪を適用され、その結果として、 爵位継承権を喪失して失脚した――と言う人物。親族関係を考えると、キアランの遠縁の伯父に当たる。

――貴族名簿とか見てないから、誰だったのかは不明だけど……

ルシールは、顔も知らぬ先代子爵に、少しばかり好奇心を覚えたのであった。

オーナー協会の面々は、並ならぬ好奇心を持って、ルシールの立ち居振る舞いを眺めていた。 ルシールは、オリヴィアがレディ教育を施しただけあって、実に上品な娘であった。

「可愛らしい娘さんだね……あの偏屈老人アントン氏のお孫さんとは、とても思えん」

カーティス氏が感心した様子でコメントを述べた。 ウォード夫妻は、二人して慎ましく沈黙していたが、何やら別の方向で驚いているのは明らかだ。

グリーヴ夫人が、まだ驚き覚めやらぬと言った様子で続く。

「彼女はホントに、アイリスさんに生き写しですわ!」

年若い二代目オーナーであるケンプ氏は、流石に不思議そうな顔をしていた。

「そうなのですか? 私めも二代目だから、アントン氏の娘さんの事は全く知らんのですが……確か蒸発したんですよね?  冬の真っ只中に行方不明……タイター氏を激怒させて……」
「そりゃ大騒ぎでしたわよ! レオポルド殿の結婚騒ぎの方が、大変だったけど」

グリーヴ夫人は顔に手を当てて、大きな溜息をついている。

キアランは興味を持って、その会話にしっかりと耳を傾けていた――オーナー協会の初代オーナーたちは全員、 最初からローズ・パークに関わっていただけあって、アイリス・ライトの事を良く知っているようだ。

ルシールの母親アイリスの蒸発は、25年前だ。オーナー協会の創設から五年後に起きた出来事でもあるのだ。 当時は、子爵の失脚劇を含む政変により、クロフォード領内の混乱が激化し、最悪の様相を見せていた。 グリーヴ氏がいみじくも説明したように、借金取りやギャングの抗争が続いていたのである。

ルシールは、オーナー協会の面々に注目されている事には気づいていなかった。そのまま、ルシールは暖炉の脇に近付いた。 オーナー協会のメンバーのうち一人の肖像画――即ち『アントン・ライト氏』と銘打たれた肖像画を、しげしげと眺め始める。

肖像画家は、アントン氏の性格を良く描き出していた。如何にも頑固そうな目元に口元――確かに気難しそうな老人だ。 実の祖父アントン氏は、ルシールと同じ濃い茶色の髪をしていた。目の色も平凡な茶色だ。 しかし、何処と無く眩しそうに細められている。

――マティが言った通り、光が差すと紫色に変わる目だったかも知れないわ……

やがてボンヤリとした記憶が浮かび上がって来る――ルシールは奇妙な感覚を覚えた。

初対面と言う感じがしないのである。

「私、この人、会った事がある……?」

ルシールのすぐ後ろに居たキアランが、ルシールの呟きに気付いた。

「アントン氏を知っている……という事ですか?」
「確信ある訳では……多分、五歳か六歳の頃で……、一度だけで」

ルシールは曖昧に答えながらも、何が引っ掛かったのかと首をひねり始めた。

――やがて、幼い頃、母親と外出した日が思い出されて来た。

その日は、最寄の教会で、園芸に関する何らかの催しが開かれていたと言う記憶がある。 アイリスは滅多に町に出ない人だったのだが、かねてからいつもお出掛けをねだっていた幼いルシールを連れて、 その日、珍しく賑わう教会を訪れていたのだ。

しかし、ルシールの記憶は断片的であり、アントン氏らしき老人と出逢った時の状況も、ボンヤリとしたものだった。

「何だか途切れてる……もう少し考えれていれば、思い出せると思うけど……」
「頭の怪我が治れば、大丈夫かも知れない」
「それは、そうかも知れません」

キアランは、いつものようにムッツリとした表情で、包帯を巻かれたルシールの頭を眺めていた。

ひとまずはキアランの指摘にうなづいたルシールであったが、次の一瞬、ハタと気付き、 暗に『頭が悪い』と言われたような……と、モヤモヤとした気持ちになったのであった。

やがてローズ・パーク邸の大広間に落ち着いた面々である。 クロフォード伯爵邸の大広間と同じように、此処も談話室として客人に開放されている場所だ。 庭園に面する瀟洒な大窓が、レースカーテンに縁どられつつ並んでいる。

淡いローズ色を帯びた大理石の床が華やかな雰囲気を醸し出している。 真ん中あたりには結構な段差があり、これはこれで興味深い構造だ。 やはり舞踏会場としては充分なスペースがあり、華麗な彫刻を施された列柱が並ぶ。 高い天井には、華麗なデザインのシャンデリアが下がっていた。

絢爛豪華な大広間の中にあるのは、その華やかなスペースに相応しい豪華な家具――と言う訳では無かったが、 地元から提供されて来たらしい、素朴な味わいの円卓と椅子が並んでいた。

アントン氏に関するルシールの曖昧な記憶の話を聞き、謹厳実直なグリーヴ氏は怪訝そうな顔になった。

「五歳か六歳の頃? アシュコートで?」
「多分、20年前……」

ルシールは、再び曖昧にうなづくしか無い。

傍で聞いていた警備担当ケンプ氏が、驚愕の面持ちでルシールを見直した。

「今、25歳か26歳って事?」

ルシールは小柄な体格と大きな目をしているので、一見、20歳にもならない少女に見えるのである。

「今年25歳です」

その時、今まで慎ましく沈黙を守っていた庭園担当ウォード氏が、呆然とした様子で呟いた。

「アイリス嬢が失踪したのも、25年前だ……」

ウォード夫人も、何とも言えない奇妙な眼差しで、ルシールに注目している。

グリーヴ氏は暫く思案していたが、やがて何かに納得したかのような顔になった。

「アントン氏は、アシュコートに行ってますね……20年ほど前に。 この館の運営が軌道に乗り始めて、借金返済も見えて来たのが、その頃で……」

ルシールは目を丸くした。

その頃、ローズ・パークを巡る借金取りやギャングたちの抗争もやっと静かになり、 治安も良くなって来ていたのだ――

「余裕も少し出て来たから、娘の墓参りに行ってくると……」
「私の母は、その時は生きてましたわ!」

ルシールは驚きの余り、思わず声を上げていた。

再び奇妙な反応をしたのは、ウォード夫妻であった。ウォード夫人は、半信半疑と言った様子である。 ウォード氏は心当たりがあったようで、ハッと息を呑んでいた。

「アントン氏は、アイリスが生きていた事を知っていた……?」
「そうだ……! アシュコートから戻って来た後、 確かアントン氏は妙な事を言っていて……自分が死んだ場合、誰がオーナー権を相続するか――とか……」

そこでカーティス夫人が、当然の疑問を口にした。

「アントン氏は、何故アイリスお嬢さんを連れて戻って来なかったのかしら? タイター氏関連で、 命の危険があった?」
「それくらいしか思いつかないね、タイター氏はギャングだ……ローズ・パークの借金取りの一人でもあったし」

カーティス氏は、カーティス夫人の私見に同意している。

ケンプ氏も最近の事情しか知らない状態ではあったが、タイター氏の危険性については、完全に同意していた。 タイター氏は館の資産価値に目を付けていて、アントン氏とはローズ・パークの管理の件で、激しくやり合っていたのである。

一方、グリーヴ夫人とウォード夫人は、不安そうに顔を見合わせて、別の事を呟いていた。

「タイター氏は、アイリスさんの恋人を殺すとか言ってて……」
「青い目の背の君?」

キアランはその意味深な内容に気付き、一瞬、目の端に緊張を走らせた。

その間にもカーティス氏はルシールに向かって困ったように肩をすくめて見せ、タイター問題について更に言及していた。

「タイター氏の甥ナイジェル・ビリントン氏ね、彼もオーナー権を主張していて、管理人割り当ての個室を占領してるんだわなあ。 庭園を管理してくれなきゃ意味が無いんだけどね、アシュコートの舞踏会の視察で、今は留守なんだ」

――ナイジェル? アシュコート――?

聞き覚えのある名前だ。ルシールは思わずギョッとして、身体を強張らせた。

――あの、セクハラ上等の、似非紳士! ああ……どうか、あの人じゃありませんように!

ようやく衝撃が収まって来たルシールは、ふと窓の外に広がる庭園に目をやった。 木々の葉が微風に揺れ、気持ち良さそうに、昼下がりの光を乱反射している。

「――庭園の見学は、できますか?」
「可能だけど……庭園と言っても、結構広いから。三時間か、四時間ね」

カーティス夫人は首を傾げて思案しながらも、端的に答える。 ルシールは「そんなに!」と驚いて、頬を上気させるばかりだった。

「テンプルトンに宿を取らないと、時間的に厳しい」

キアランが冷静に指摘した。

ルシールは怪訝な思いで振り返った――その目の前で、『そろそろ見学は終わりだ』と言う様子で、 キアランはシルクハットを手に取ったのであった。

「今、ライト嬢はクロフォードの方で保護しているので、今日のところは、 これで引き返す事にしましょう。父に報告する事も、色々とありますし」
「まあ! それはそうですわね」

カーティス夫人は驚いたように頬に手を当てながらも、納得している様子である。

やがて、カーティス夫妻は、オーナー協会の代表夫妻として、正面玄関の前でキアランとルシールを見送った。 カーティス夫人は気取りの無い笑みを浮かべながら、ローズ・パーク舞踏会の招待状をキアランに手渡す。

「今朝、いささか広報しましたが、明日の夕刻から気楽な舞踏会を開催しますから。 リドゲート卿もライト嬢も、是非おいで下さいね」

*****

クロフォードの馬車は順調に帰路に着き、並木道を駆け抜けて行った。

キアランは相当に長い間、ルシールをジロジロと眺めていた。 無言の眼差しに、毎度の如くルシールが居たたまれなくなって来たところで、キアランは、やっと問いを発した。

「本当に父親の事は、一切不明なのですか?」
「そういう訳では……父が母に贈った、形見のブローチがありますし」

ルシールは手提げ袋からアメジストのブローチを取り出すと、キアランに手渡した。

手の平ほどの、標準的なサイズ――キアランはブローチを一瞥し、すぐに見覚えがある事に気付いた。 アシュコートの舞踏会で初めて会った時、ルシールはこの紫色のブローチを付けていたのだ。

「このブローチは、訳ありと思っていましたが……」

キアランは、しげしげとブローチを眺めつつ、呟いた。

バラの線描を切り出したような繊細なデザインで、無数のアメジストの粒が、その金属のラインの上に精密に埋め込まれていた。 裏を返すと――金属ラインの上に、刻印された文字が並んでいる。

『愛しいアイリスへ、結婚の記念に――L(F&F)』

最後に刻印されている『L』は、贈り主の頭文字に違いない。謎の『L氏』という訳だ。 『F&F』は、凝った飾り文字のようなフォントで、精密に刻まれている。 この流れから見ると、何処かの宝飾ブランドのロゴだろう――クロフォード領内では聞かない名前だが。

「刻印された言葉は、正式な結婚をしていたと言う証拠になるかも知れない」

キアランは思案しながらも、そう呟いては見たものの、 これだけでは公的な検証に堪えられる程の決定的な証拠にならないのは、やはり明らかだった。

キアランは改めて、ブローチをじっくりと観察した。

――アイリスの顔は知らないけれど、ルシールと同じ面差しであったと言う母親だ。 彼女は、このようなデザインが良く似合うと思われるような、繊細な印象の美人だったに違いない。

「L氏……確かに、タイター氏の頭文字では有り得ない」
「もしかして、疑ってらしたんですか!?」
「身長が平均未満と言う共通点が……」

むくれ返って、プイと横を向くルシール。キアランはその様子を眺めつつ、アシュコート舞踏会での事を思い出していた。 ルシールは営業スマイルで器用かつ上品に取り繕ってはいたが、端々に素が出ていたのだ――つくづく、素直な性格だ。

キアランはルシールにアメジストのブローチを返すと、再び黙考に沈んだ。

アメジストのブローチは特に高価な品という訳では無いが、 手の込んだ細工や、ブランド名らしき『F&F』と言う刻印が打たれているのを見る限りでは、 一定以上の価格であった事は確実だ。このようなブローチを買える程の財力となると、 昔のタイター氏と同じ程度には、程々の良家に属する紳士だったに違いない……

キアランの脳裏に閃いたのは、やはりレオポルド・ダレットの姿である。

ダレット当主レオポルドの名は、頭文字Lだ。しかもダレット一家の出自はテンプルトンである。 ダレット夫人カミラも、アラシアの母親だけあって、問題のあり過ぎる性格なのであった。

――ルシールの母親が行方をくらます程の理由には、なる。

しかも、婚約者アイリスに逃げられたと言うタイター氏の恨み言の内容や、 アイリスを直接に知っていたローズ・パークの初代オーナーたちの洩らした内容を総合してみると、 それらが導き出す可能性は、明らかに一つのベクトルを持っていた。

プレイボーイ貴族。25年前、アイリスが失踪したのと同じタイミングで、レオポルドの結婚式があった。 アイリスの恋人は、青い目をしていた。

全てのベクトルが集中し指し示すところの人物像は、まさにレオポルド・ダレット以外に有り得ない――

マティの推理が正鵠を射ていて、ルシール・ライトという存在が、 本当にレオポルド・ダレットの、華々しい過去の結果であるなら。

*****

キアランの表情は、次第に厳しいものになっていった。

沈黙を続けるキアランの様子をそっと窺っていたルシールは、流石にハラハラして来ていた。

――何を考えているのか分からないけれど、何か気に障った事があったのかしら。 話しかけちゃいけないような険しい雰囲気だわ……

6.クロフォード伯爵邸…襲来インタールード

キアランとルシールの乗った馬車がクロフォードへの帰路半ばに来た頃。

クロフォード伯爵邸では、新たな騒動が持ち上がっていた。アラシアが凄まじい癇癪を起こしていたのである。

「あのクソの茶ネズミ女……! 叩きのめして、八つ裂きにして、釜茹でにして、食ってやるわ!」

金髪碧眼の美少女・19歳は、何とも惨たらしい殺害方法を大声で触れ回りながら、 手当たり次第に物を投げ付け、あらゆる物を破壊して行く。 壊れやすい家具や装飾品、カーテンなどの布地の類の物は、アラシアが通り過ぎた場所では、 全て原形を留めていないと言う状態だ。

「キアラン様は何処なのよッ! 見つけたら、絶対タダじゃおかないッ!」

クロフォード伯爵邸のスタッフたちは、アラシアの破壊行動を何とか制止しようと、空しい努力を続けていた。 ガラスや陶器の破片がひっきりなしに飛び散るので、なかなか近付けないのである。

執事は、目の前に飛んで来たガラスの破片をかわしながら、何とかアラシアに声を届けようとしていた。

「ですから、ダレット嬢、リドゲート卿は出張中でござい……」

しかし、そこへ新たな破片が勢い良く飛んで来た。執事は再び悲鳴を上げながら、素早く身をかわした。

逃げ遅れていたクレイグ氏は、アラシアが放り投げていた『戸棚の引き出し』を避けきれず、 元々悪くしていた腰を再び打ってしまうという有り様だ。 腰の痛みが再発し、クレイグ氏は震えながら、近くのソファにグッタリと倒れ伏した。

「大丈夫!? じいじ!」
「腰を打った……」

クレイグ氏は辛そうに呻いた。マティも流石に、すっかり慌てている。

幸い、アラシアは、クレイグ氏とは反対側の場所に移動しつつあった。 クレイグ氏とマティは、揃って青ざめながらも、アラシアの凄まじい暴れぶりを呆然と眺めるしかない。

「若者の本能で、リドゲートがルシール嬢を連れ出した事を察知しとるな」
「オイラも、とばっちりで殺されそう」

マティは暫し恐れ入ったようにアラシアの方を見ていたが、やがてこっそりと館を抜け出し、正門前の庭園に駆け込んだ。 高い庭木の枝に上ると、マティは望遠鏡を構えて、クロフォード伯爵邸へと続くなだらかな坂道を見張り始めた。

マティの予想によれば、ルシールの乗った馬車が、やがて見えて来る筈なのだ。

「――来たッ!」

果たして、間も無くしてクロフォードの馬車が現れたのである。

マティは急いで木から降りると、無謀にも馬車の前に飛び出した。

「ストップ、ストップ!」

御者は、馬車の前にいきなり飛び出して来た子供の姿に驚き、急ブレーキをかけた。 馬車馬は、土埃を撒き散らしながら止まった。

馬車の中では、急停止の衝撃でルシールが前方に投げ出されてしまい、 反対側の座席に座っていたキアランがルシールを抱き止める格好になっていた。

馬車が止まるが早いか、マティは急停止の衝撃で開いた馬車のドアに飛び付き、よじ登る。 すると、すぐにキアランが、そこから顔を出した。

「何だ!? いきなり飛び出すなんて」
「ルシールも乗ってるだろ!? アラシア警報、最大級さッ!」

ルシールは急停止の際に、前方の座席の背に勢い良く顔面を打ち付けていた――キアランが抱き止めていなかったら、 鼻の骨が折れていたであろう。ヒリヒリする顔面を押さえつつ、ルシールは驚きと疑問の声を上げた。

「アラシアお嬢さんが、何か……!?」
「今、すっげえ、ヒステリー! 冗談じゃねえよ! ルシール、絶対、殺されるぞ!」

若い御者が慌てたように降りて来て、やっとマティの無事を確認した。 『アラシア警報・最大級』という警告に、御者はすっかり青ざめてしまっている。

「こりゃまた……どうしましょう、リドゲート卿」

キアランはルシールを速やかに元の座席に戻すと、思案顔でブツブツと呟き始めた。

「昨日の書状の中に、カニング氏による今夜の舞踏会の招待状があった……カニング家はトッド家の隣人だし、 堅苦しくない集まりだから、良い機会だと思っていたが……」

最後に謎のコメントを追加してキアランは眉根をきつく寄せ、シルクハットを被り直した。 ルシールは、キアランの言葉の前後の意味が取れず、同じようにずれた帽子を直しながらも戸惑うばかりである。

キアランは馬車から降りると、早速マティに声を掛けた。

「マティ、隠れんぼは得意か?」
「身を隠すポイントは、お手の物さ」

キアランは素早くうなづくと、馬車の中からルシールを軽々と抱き下ろした。

「その辺に隠れて。ダレット嬢を今夜の舞踏会に連れ出すから、その後で二人で館に入ると良い」

キアランはそう言い残すが早いか、再び馬車に乗り込み、「出せ」と御者に指示したのである。

マティの手引きで、ルシールは正面玄関が見える低木の中に身を隠した。 キアランが乗った馬車は、正面玄関の前のロータリーを回り、扉の前に横付けされる。 馬車の帰還に気付いて、館のスタッフたちが次々に集まって来た。

その様子を眺めながら、キアランの冷静さと手際の良さに、ルシールは感心しきりだった。

「あっさりしてる……」
「あっさり? あれが?」

マティは、その感想がキアランの印象に対して向けられた物だと理解しながらも、 自分とは全く違う内容となったルシールの感想に、目をパチクリさせていた。

*****

小一時間は経過したかと思われる頃。

正面玄関の扉の奥から、舞踏会用の贅沢なドレスに身を包んだアラシアと、 そのアラシアをエスコートするキアランが姿を現した。 そしてその後ろから、同じく贅沢な舞踏会用の姿のダレット夫妻も姿を現して来たのである。

「ダレット一家を、一体どうやって急かしたんだろ? 一時間以内で引きずり出すなんてさ!」

マティは驚いたようにささやいた。一方、ルシールは、輝かんばかりの金髪の美少女に感心していた。 キアランも容姿は悪くないのだ。二人で並ぶと、まるで一枚の絵のようだ――漆黒の貴公子と黄金の姫君。

「ダレット嬢とリドゲート卿は、こうして見ると美麗なペアね。アシュコートの舞踏会でも、なかなか見かけない代物!」

彼らの乗り込んだ馬車は、金の縁の付いた豪華な大型馬車である。中の内装も、豪華な物だと知れる。 ルシールとマティは、低木の中に慎重に身を隠しながらも、正門へと駆けて行く馬車を興味津々で見送った。

「多情多感と冷静沈着って、相性は結構良い方だし、この縁組は割と上手く行くんじゃ無いかしら」
「キアランは超が付く堅物で、なお冷静だけど、全然あっさりしてねーよ」

マティは、ブツブツと反論していた。

やがて馬車が充分に離れて行ったと見て、マティはルシールを茂みから連れ出した。

館のスタッフ揃っての大仰な見送りが終わった。正面玄関の扉を閉めようとしていた執事は、 マティとルシールが近付いて来たのを認め、ホッとしたような顔になった。

「ご無事で、ようございました」
「ご無事?」

ルシールは執事の苦笑交じりの言葉に首を傾げたが、割り当てられた部屋に入ると、 驚きの余り棒立ちになったのであった。

「こッ……この目を疑う破壊はッ……」

部屋に据え付けられていた鏡台は、鏡が粉々に割られていた。 それだけでなく、すべての引き出しも引き抜かれ、中身は部屋の中に乱雑に散らばっていた。 しかも、無事な物は一つとして無かったのであった。

戸棚の扉も、どうやって破壊したのか見事にひしゃげており、もはや戸棚としての用を足していない。 部屋を仕切る衝立も、原形を留めていない。火を付けられたのか、ススだらけだ。

幸い、部屋の窓は、アラシアが破壊に取り掛かろうとする前に制止が入ったらしい。 乱暴に開かれたのか窓枠の装飾が削れており、カーテンもボロボロに引き裂かれてはいたが、 奇跡的に、ガラスだけは割れていない。

部屋には既に片付けのためにメイドが入っていて、青い顔をしながらも破片の掃除を続けていた。 ルシールに気付いたベル夫人が振り返り、困惑の表情を浮かべながらも、丁重に一礼する。

「部屋管理の不行き届きで、大変申し訳ございません。お止めしようと、 努力はしたのでございますが……」

ベル夫人に促され、ルシールは部屋の中の物を確認し始めた。

ルシールは戸棚をのぞき、その破壊の有り様に絶句した。

手持ちの中では一番良い服だった筈の、舞踏会用の茶色のサテンドレス一式が、 ズタズタに破られた上に火を付けられて、無残な燃え殻と化していたのである。 明日の夕方のローズ・パーク舞踏会に招待されているという状況なのだが、 もはやサテンドレスが役に立たないと言うのは、目にも明らかである。

一方、庭園作業の時に着る男物の服は、不思議な事に無事だ。 みすぼらしく見える代物であるお蔭で、破壊を免れたようなのだ。 旅行用カバンも、傷だらけで古びた外見のお蔭であろう、二つ三つばかりは蹴られた跡が見られるものの、 意外に大した破壊を受けていない。

余りにも計算高く明らかな悪意を感じ、ルシールは鳥肌が立つのを抑えられなかった。 アラシアは、対象を冷静に選んで破壊していたのだ。

ルシールは思案した。

今着ている黒服は、幸いな事にサテンに次ぐ格式を持つモスリン製品だから、 首周りや袖周りなどを縫い直せば、非常に地味ではあるが、舞踏会用のドレスとして使える。 これで行くしかない、とルシールは決心した。

アラシアの破壊パターンからして、 アメジストのブローチを持ち出していて実に幸運だったとホッとするのみである。 ルシールは戸棚の下側の確認に移り、無事な物をカバンの中に詰めて行った。

一つの引き出しを開け――ある筈の物が無い事に気付き、ルシールはギョッとする。

「……ショール!? ライラックのショールが!?」

その時、先程からルシールの作業を見守っていたマティが、手持ちの袋の中から薄紫色の物を取り出した。

「ルシール、これでしょ」

それはまさしく、ライラックのショールだ。ルシールは驚愕の余り絶句した。

「マティ……! どうやって?」
「毎度の先回り!」

まさにマティは救世主だ。ルシールは感激して、マティをギュッと抱き締めた。

「ああ、マティ! オリヴィア様が下さった大切なショールなの! 本当に有難う、お礼に何でもするわッ!」

素敵なお姉さんに抱き着かれた形になり、思わず真っ赤になるマティである。 そしてマティは照れながらも、何かを思い付いたようで、意味深な目付きでルシールの方を見た。

「じゃあさ……部屋に来て、ハープを弾いてくれるかな?」
「それは勿論……、あら? 画廊じゃ無くて?」
「とばっちりで、じいじがまた腰を打ってさ」

話が一段落したところで、ベル夫人が声を掛けた。

「実は、食堂も相当の被害がございます。クレイグ様の部屋に、ライト嬢の食事も運びましょう」

承知してうなづくルシールである。ベル夫人は更に確認を重ねた。

「夜は、別の部屋で休まれますか?」
「あ……、この部屋で大丈夫です」
「では、お食事をされている間に、お部屋を整えておきますので」

ベル夫人は一礼すると、ルシールの荷物を預かり、ルシールとマティを部屋の外に出した。

*****

クレイグ氏の部屋は、伯爵の部屋と同じ最上階に割り当てられている。

クレイグ氏、マティ、ルシールの三人の食事が済み、ルシールは画廊から持ち出したハープを奏でていた。

曲が一段落したところで、「マティのおねだりで大変だったでしょう」 とクレイグ氏はルシールを気遣った。マティは一日の疲れが出たのか、既に祖父の膝の上で寝入っている。

「あなたのハープを聞かせて頂いた後、腰の調子が、 ちょっと良くなっていたんだ……マティは、しっかり見ていたんだな」

クレイグ氏は溜息をつき、愛情深い手で、熟睡しているマティの頭を撫でた。 当惑しているルシールを見て、クレイグ氏は穏やかに言葉を続ける。

「私も牧師です……ハープの師匠と言うレディ・オリヴィアが、ヒーラーと言う事は、すぐ分かりました」

成る程、牧師であれば、その辺りの知識は豊富な筈だ。ルシールは納得した。

「オリヴィア様は、魔女と言われる程の腕前ですわ。アンジェラも、 その魔女の血と能力を受け継ぎましたが、私は無関係で……」
「全く無関係だとは、とても言えませんな。 私の腰に効果があったのですから……通常の感覚では分からないような、ごく微細な調律があるに違いない」

――確かにオリヴィア様は、ハープの調律については、とても細かくて厳しかったわ。

ルシールは、ハープの修行に明け暮れた長い日々を思い返していた。

7.クロフォード伯爵邸…老庭師の私信

夕食後の時間帯、館の最上階にあるクロフォード伯爵の応接間。

既にクロス・タウン出張から戻っていたカーター氏が、伯爵に報告を行なっていた。

当日の出来事――即ち、タイター氏との直談判の詳細――の報告の後、アラシアの破壊行動の報告に移る。 概要を聞き終えた伯爵は、再び眉の間にシワを刻んだのであった。

「アラシアの件……未成年だから、罪には問えないのだろうな?」
「さようでございます」

伯爵や、伯爵の跡継ぎたるキアランの部屋に立ち入って破壊を行なったのなら、これはこれで軽微ながら反乱の罪となり、 未成年であっても館から放逐できたのであるが、アラシアは妙に賢いところがあったのである。

集中的に被害を受けたのはルシールの部屋だ。 そのルシールは、平民階級の――父親が不明であるため、平民階級としても社会的立場が低い――客人に過ぎなかった。 従って、館から放逐可能な程の重犯罪として扱う事は、まず不可能であった。

「ダレット夫妻は、躾がなっとらん。我々を困らせると言う目論見があって、 あの破壊を放置したのだろうが……」

伯爵がそう言っている間にも、執事が夜のお茶を運んで来る。部屋のドアが開くと――微かながら、音楽が流れて来た。 ドアが閉まるまでのわずかな間、伯爵は不思議そうに耳を傾けた。

「クレイグの部屋から音楽が……?」

執事は茶を用意しながらも、訳知り顔でうなづいた。

「マティ様の癖で、ドアが完全に閉じていなかったのですね。ライト嬢がハープを演奏しておられるのです」
「ハープ?」
「緑の森の魔女に仕込まれたとか」

そう答えた執事は、洒落っ気のある笑みを見せていた。

*****

執事はクレイグ氏の部屋を訪れ、クレイグ氏の了解を得て、ルシールを伯爵の応接間に案内した。

ベル夫人とメイドたちの協力があって、黒服は既に洗濯され、アイロンで急速乾燥を施されていた。 今は、ルシールの手によって、縫い直しのための印を各所に付けられた状態である。 目下ルシールが着ているのは、庭園作業用の男物の服だ。

服装上の礼儀を失している事は確かである。ルシールはその点を心配してはいたのだが、 クロフォード伯爵は軽く微笑みながら、面白がっているだけだった。

「これはまた素敵な格好だ、ライト嬢」
「手持ちの服の都合で……大変失礼いたします」

ルシールは一礼すると、伯爵に促されて、光栄にも同じテーブルに着く事になった。

伯爵はまだ面白がっており、感慨深そうにルシールを眺めていた。

「アイリスも、庭園作業の時はそんな格好でね。ローズ・パークで初めて会った時は、驚いたものだよ」
「伯爵様は昔、良く訪問されていたんですか?」
「爵位を継ぐ前の話だよ。爵位を継いで妻と結婚した後は忙しくて、何年も行っていなくてね……気が付いたら、 アイリスは既に居なかった」

昔の事を思い出したのか、伯爵は寂しそうに微笑みながら言葉を続けた。

「誰かと結婚していたそうだが……、一度会って話を聞くべきだったかも知れんな」

――ローズ・パークの関連の事とは言え、恐れ多い事だわ……

ルシールが恐縮しながらお茶を一服すると、カーター氏が書類を整え、声を掛けて来た。

「今まで閣下と相談していたのですが。所有物の破壊の件で、ダレット嬢を訴えになりますでしょうか?」

ルシールは首を振って、その気が無い事を告げた。

「今は、ローズ・パークの件に集中したいので……」
「訴えるつもりは無いという事で?」

カーター氏は意外そうな様子である。ルシールは理由を説明した。

「アシュコートでは、アンジェラが公爵を訴えているんです。 そちらの問題の方が、ずっと大変なので……、ローズ・パークの相続をできるだけ早く確定しておいて、 少しの間、アンジェラの傍に居たいのです」

クロフォード伯爵は驚いた様子だ。

「勇敢にも公爵を訴えている?」
「親子認知の裁判ですわ……彼女は正当な公爵令嬢ですが、公爵が少し頭がおかしくなっているらしくて」

実際は、ルシールの見るところでは、問題の公爵は少しどころでは無く、完全に頭が狂っていると思われたのではあるけれど。

「ああ……あのロックウェル卿の案件の事ですね」

カーター氏は納得したようにうなづいていた。伯爵は、何とも言えない表情を浮かべていた。

一方のルシールは父親が不明だ――その事実は、クロフォード伯爵を悩ませるものだったのである。

――私の知る誰かが父親では無いのか……と面影を探してみたが、やはり分からないものは分からない。

祖父アントン氏の色を受け継いだのであろう濃い茶色の髪。 そして妖精のような繊細な顔立ちや、光を受けてアメジスト色に変わる大きな目は、 間違いなく母親アイリスから受け継いだ物。遺伝のイタズラなのか、偶然にも、父親の特徴は身体の奥に沈み込んだのだ。

25年前にアイリスが失踪した時、何があったのか……それは、25年経った今でさえ謎のままだ。

不意に沈黙した伯爵を、ルシールは不思議そうに眺めた。

「あの……足が痛みます?」

伯爵は苦笑しながら否定し、気を取り直すと共に、逆に穏やかに問いかけた。

「そう言えば、ローズ・パークを訪問したとか……?」

地位に伴う業務の必要上、身に着けた、ちょっとした社交術であり会話術であった。

政界の話術や駆け引きを余り良く知らないルシールは、 駆け引きに乗せられたとは気付かないままに、注意をそらされた(勿論、ベテラン弁護士のカーター氏は、 伯爵がルシールにちょっとした話術を仕掛けたと言う事には、気付いている)。

ローズ・パークの件で、少し思い出した事があった――という事を、ルシールは説明し始めた。

アントン氏は20年前アシュコートを訪問していたらしいと言う事。 幼い頃に自分は、そのアントン氏と会った事があるような気がすると言う事。

カーター氏は不思議そうな顔をしていたが、やがて思い当たる事があったのか、納得の表情を見せた。

「それなら、綺麗に説明が付きます」
「心当たりがあると?」

伯爵の確認に、カーター氏は滑らかにうなづいた。

「実はアントン氏の遺言書を預かった時、私信もあったのです。 子孫が居る事を説明する内容になっていまして……まさかと思っていたので、 アシュコートの役所の記録に、本当に該当する記録が見付かった時は驚きました」

カーター氏は、いつも持ち歩いているカバンの中から、古い書状を取り出して見せた。

アントン氏の私信は、以下のような書き出しで始まっていた。

『前略、弁護士カーター殿。以前に受け取った、アイリス・ライトの死亡報告書は誤りであると報告致し候』

内容は次のような物であった。

アントン氏はやはり、20年前、ローズ・パーク邸の運営が軌道に乗り余裕ができた頃、 アシュコートを訪問していたのである。レイバントンの片隅の教会にあると聞く娘の墓を訪ねるための旅であった。 しかし、アントン氏がそこで見たのは、生存中の娘と孫だったのだ。ルシール五歳の時の、初夏の頃だ。

『事と次第を説明致し候』――と言う文章に続いて、アントン氏は、その時の状況を書き記していた。

*****

その教会では、地方巡回の園芸市場が開かれていた。

そこで、親からはぐれたと見える小さな子供が、いつの間にかアントン氏の後を付いて来ていた。 つばの広い麦わら帽子を頭に乗せていたため、最初は、脚を生やした麦わら帽子が付いて来ていると思ったくらいである。

子供に訳を尋ねてみると、やはり母親とはぐれた状態であり、しかも迷子だと言う。

アントン氏のブーツに刺繍されていた『ライト』の文字を読み、 『自分や母親の名前と同じ』と言うだけの、如何にも子供らしい単純な理由で後を付いて来たのであった。

奇妙な事に子供の面差しは、幼い頃のアイリスに良く似ていた。 『ライト』と言う名前は良くある名前とは言え、アントン氏は不思議な思いを禁じ得なかったのである。

暫く子供の相手をしているうちに、地味な身なりの金髪の女性が現れた。 彼女はアントン氏の顔を認めるなり、絶句した。 そして、口に手を当てて嗚咽をこらえながらも、ポロポロと涙をこぼした。

――不思議な子供の母親は、まさしくアイリスだった。

アイリスは、左の薬指に結婚指輪をしていた。それもまた、アントン氏を驚愕させるものであった。 当時のアイリスは既に、『ライト夫人』だったのである。

アイリスとは長い話をした――あの冬の大雪の日にいきなり蒸発したのは何故なのか、 馬車事故では何があったのか、そして何故、孫が居るのか。

全ての事情を了解したアントン氏は、長く考えた末に、遂に納得せざるを得なかったのだ。

偶然とは言え、タイター氏の目を逃れたと言う状況だ。 子供が居る事が分かれば、タイター氏は子供にも害を成そうとするであろう。 流石に命までは取らないだろうが、それでも、危ない橋は渡らないに越した事は無い。

*****

アントン氏の私信は、以下のように締めくくられていた。

『娘の意思を尊重し、夫の件については一切を秘密にする。しかし、孫の将来は、やはり気になる。 孫がローズ・パーク邸の庭園を相続する事は、娘アイリスの希望でもある。 遺言書が確かに遂行されるよう、願うものである――敬白』

アントン氏の私信の内容を聞き終えた伯爵は、難しい顔をして考え込み始めた。

「アントン氏は、アイリスの夫が誰なのかを知っていて――敢えて秘密にしたのか」

伯爵の呟きに、カーター氏も『そうとしか思えぬ』と言う風に同意して、うなづいた。

「タイター問題が流石に深刻と言う状況でしたから……オリヴィア様にも確認いたしましたが、 彼女もご存知ではありませんでした」

カーター氏は暫し無言で考えていたが、やがて、当時の事情を整理して私見を述べ始めた。

「アントン氏から遺言書の相談を受けたのは、ちょうどリドゲート卿が寄宿学校に上がる頃です。 ダレット夫妻が館に押し掛けて、レナード様も同じ寄宿学校に入れるべきだと騒いでいた頃でした」

伯爵は、あからさまに溜息をついて、頭を抱えた。

「ああ……あの頃か。今でも、思い出すと頭痛がしてくる」

ゲッソリとした様子の伯爵を見て、ルシールは目を丸くしていた。

一方カーター氏は、当時の目の回るような忙しさを思い出していた。

「別件も持ち上がって、 騒動への対処に手一杯でしたので……アントン氏の文書の奇妙な箇所にまでは気付かなかったです」

カーター氏は改めて、老庭師の私信に署名された日付を確かめた。 遺言書の作成と同じタイミングで、私信が書かれている。

「計算すると、アントン氏はこの件について……三年か四年の間、ずっと考えていたようですね」

8.クロフォード伯爵邸…思惑の彼方

夜は更けて行き、やがて深夜に近い時間帯となった。

カニング家の舞踏会から戻って来たキアランたちの一行が、クロフォード伯爵邸の正面玄関の扉の前に到着した。

「お帰りなさいませ、リドゲート卿」

ベル夫人を伴って玄関広間まで迎えに出ていた執事は、いつものように滑らかに一礼した。 早くも、ベル夫人の後ろには若いメイドたちが整列している。

執事は、一行の人数が増えた事に気付き、怪訝そうな表情を浮かべた。

「……レオポルド殿、その方は……?」

見ると、レオポルドの隣に、一人の若い紳士が控えている。赤毛の優男と言った雰囲気だ。 特に飛び抜けた容貌と言う訳では無いものの、美青年と言って良いほどには、整った顔立ちだ。

レオポルドは、いつものように傲然とした命令口調で、居並ぶメイドたちに向かって怒鳴った。

「お前たち! もう一人分の部屋を作れ! 地元の紳士のライナスだ……傍系の親族だが、 トッド家などより地位は上だぞ!」

若いメイドたちは、レオポルドの怒鳴り声に思わず首をすくめた。

「一体、どういう事なのでございましょう?」

若いメイドたちは、互いの顔を見合わせながら、こそこそとベル夫人の後ろに隠れた。 ベル夫人は、レオポルドの怒鳴り声にも顔色一つ変えず、冷静なままであったのだ。

「レオポルド殿の気まぐれが、また始まったとか……」

執事もまた困惑しつつ、声を潜めて、若いメイドたちに解説するのみであった。

ベル夫人は、レオポルドを無視してキアランに一礼すると、早速、若いメイドたちを指揮して部屋の準備を言い付けた。 かねてから手順を叩き込まれていた若いメイドたちは、心得た顔をして、一斉に散らばった。

レオポルドは、不機嫌に鼻を鳴らした。実際のところ、ベル夫人に関しては、 このような失礼な態度を取られても、家事能力に徹底的に欠けているレオポルドには、どうしようも無い。

ベル夫人は、クロフォード伯爵邸の中では最も有能な家政婦だ。 クロフォード伯爵邸が、由緒正しい名門に相応しい、威厳と格式に満ちた荘重な雰囲気を維持しているのは、 ベル夫人の家事能力による部分が極めて大きいのである。

レオポルドは、傍で贅沢な羽毛扇をいじっている娘に耳打ちを始めた。

「良いか、アラシア……キアランが当て馬で来るなら、こちらも当て馬だよ。 お前の部屋の隣がライナスの部屋だ。キアランの関心を引き付けて、煽っておけ」
「任せといて、パパ。キアラン様の心は、あたくしの物だから」

アラシアはキアランを横目で眺めながら、自信タップリで安請け合いした。

キアランとライナスは、執事を挟んで、明日の朝食のスタイルについて打ち合わせをしている。 その辺りの事に手を掛けるのが面倒なアラシアにとっては、つまらない話し合いの一つだ。

アラシアが欠伸を噛み殺しながら、羽毛扇やドレスのレース&フリル部分をボンヤリといじっている間、 ベル夫人は奥に姿を消していた。しかし、それ程の間を置かずして、 ベル夫人がテキパキとした様子で再び現れ、キアランとライナスに一礼して来た。

ベル夫人は流石にベテランの家政婦だけあって、早くもライナスのための部屋が整ったらしい。

ライナスが戻って来ると、アラシアは気取った様子でライナスの腕に手を回した。 そして、ライナスの後から近付いて来たキアランに、意味深な笑みを浮かべて見せたのであった。

「エスコートはライナスにして頂きますのよ。もしかしたら……明日の舞踏会のエスコートも、 ライナスにして頂くかもね?」

アラシアはそう言うと、ライナスの腕に、一層ピッタリとくっ付いた。 キアランは暫し驚いたように目を見開き、アラシアを眺めた。 アラシアに合わせて、ライナスも申し訳なさそうな笑みを浮かべている。

キアランは浅くうなづくと、丁重に一礼した。

「どうぞ、あなたのお気に召すままに」

キアランはそのまま身を返し、執事を伴って自分の部屋に向かって行った。

アラシアは上機嫌で、レオポルドを振り返った。

「さっき見た? 明らかに反応してたわよ!」
「良し良し……幸先良いぞ……ウフフ……」

意地悪く忍び笑いをするレオポルドであった。

レオポルドは、今も、そしてこれからも、キアランを自分の都合で振り回すつもりでいた。

そのようにして、絶大な富と権力とを兼ね備えているクロフォード伯爵邸を、おのれの自由にしている。 キアランをコントロール出来ている限り、ダレット家の将来は約束されたも同然であった。

*****

自室に戻ったキアランは、ダレット家の面々から解放されて、明らかにホッとした様子である。

「気まぐれのお蔭で、面倒が省けたな……被害は片付いたか?」
「お蔭様で」

端的に応じた執事は、苦笑しつつ、キアランの上着を受け取った。

不意にキアランは、微かに音楽らしき物が流れている事に気付く。

「――音楽?」
「ああ、ハイ、旦那様の応接間で――」

*****

程無くして、キアランと執事がクロフォード伯爵の応接間に現れた。

そこでは、ルシールが伯爵のリクエストに応えて、小型ハープを演奏している真っ最中だった。 暫く耳を傾けていると、定番の幾つかのバラードを、即興でハープ音楽向けにアレンジした物らしいと分かる。

――プロ並みの腕前だ。

キアランは驚いて動きを止めたが、やがて、アンジェラもハープ演奏に関してはプロ並みの腕前だった事を思い出し、 急に納得の気分が広がるのを覚えていた。

やがて、曲が一区切り付いた。そのタイミングで、キアランは控えめに扉を叩いて見せた。

「父上……」
「おう、戻ったか」

伯爵は、すぐにキアランに気付き、上機嫌で応えたのであった。

そろそろ頃合と見たカーター氏とルシールは、伯爵とキアランに一礼して、部屋を退出する。

「それでは、私どもはこれで……」
「いつもの部屋を用意してありますので、ごゆっくり……」

挨拶を交わした後、各々部屋に戻って行く二人を、キアランは暫くの間、無言で見送っていた。

キアランの後ろでは、クロフォード伯爵が感心したように執事に語りかけている。

「彼女のハープの腕前は実に大した物だ……驚きだよ」
「存じ上げておりました」

執事はテキパキと茶器を片付け、やがて応接間を退出して行った。

伯爵は真面目な顔つきになり、キアランの方を振り返ると、今日の確認の質問を口にした。

「タイター氏との直談判で一戦交えた後、ローズ・パークを訪問したそうだな」
「ええ。今日はもう遅いので、報告は後ほど……」

*****

その日も、諸々の処理が済み、キアランは自室に戻った。 既にベッドに入っている筈の刻限ではあったが、様々な物思いにとらわれて、なかなか気が休まらない。

急停止した馬車の中、座席から放り出されてしまったルシールの、華奢な身体を受け止めた時。

正直なところ、一瞬、心臓が高鳴ったと言っても良い。

ドクター・ワイルドが調合した、強烈にツンとする消毒薬の匂いの中に、 清潔な石鹸の匂いと――露を置いた花のような、微かな香りがしたのだ。

香水にしては淡すぎるし、ポプリ系の香りという訳でも無いようだ――あんな状況で無ければ、 あの意外に柔らかな身体を更に抱きしめて、その微かな香りを、もう少し確かめようとしていたかも知れない。

今夜の舞踏会でエスコートしていたアラシアとは、全く違う匂いだった。 社交ダンスのペアを務める時、互いの身体の距離が接近するから分かるのだが、 アラシアの匂いは、高価な香水と化粧品と紫煙の成分が混ざった、濃厚な物だ。 上流階級の、それも特定方面のレディとの付き合いが多いから、必然ではあるが。

ルシールは本当にレオポルドの私生児なのかも知れないという疑いが、キアランの心を悩ませる。

――あのアメジストのブローチに刻まれた、謎の頭文字Lの主――青い目の紳士は、本当にレオポルド・ダレットなのか?  タイター氏との関係は致し方無いとしても――あのダレット家の血が流れていると言うのか?

タイター氏との直談判の内容や、ローズ・パークでの会話で小耳に挟んだ事柄を改めて考えていると、 キアランは、悪夢を見ているような気分になっていった。

*****

ルシールは、次の日の舞踏会の準備に掛かりきりであった。 黒服の縫い直しの手順を改めて確認し、せっせと針仕事を進めていたのである。

そうしている内にも、その夜は、いつものように、ゆっくりと明けていったのであった。

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