深森の帝國§総目次 §物語ノ傍流 〉花の影を慕いて.第二章(小説版)

花の影を慕いて/第二章.忘れえぬ面影

画像一括版1》 《画像一括版2》 《画像一括版3》/ 《目次に戻る
  1. ゴールドベリ邸…老庭師の孫娘
  2. ゴールドベリ邸…謎へ続く道
  3. クロフォード伯爵邸…忘れえぬ面影〔一〕
  4. クロフォード伯爵邸…大広間にて
  5. クロフォード伯爵邸…忘れえぬ面影〔二〕
  6. クロフォード伯爵邸…老庭師の倉庫
  7. アシュコート伯爵領…交差点〔一〕
  8. アシュコート伯爵領…交差点〔二〕

1.ゴールドベリ邸…老庭師の孫娘

時間は既に正午を少し過ぎた頃である。

緑の森に囲まれたゴールドベリ邸の、閑雅な応接間の中――

アンティークの円卓を中心に、椅子とソファが並んでいる。

一人の女主人と四人の訪問客たちが、めいめい腰かけて、訪問客のうちの一人である弁護士の説明に耳を傾けていた。 老貴婦人たる女主人の傍らには、付き人である二人の若い女性が立ち控えている。

「……という事で、此処までは昨日、説明いたしました――」

弁護士カーター氏は、 三ヶ月前に突然死した地元紳士――老庭師アントン氏が遺言書を残していたと言う事実を説明し、現在状況の確認を続けた。

アシュコート伯爵は、隣地クロフォード伯爵領でも未解決事件――老庭師の不審死事件――が生じていたという事実に、 興味津々である。

「そして、ローズ・パーク邸の一区画の庭園オーナー権を、女系子孫たるライト嬢が相続する事に関し、 ライト家の本家に当たるビリントン家が不服を申し立てております。 ご存知の通り、女性が資産を相続する事は困難であり、遺言書の内容は尊重されるものの、 アントン氏の甥であるタイター・ビリントン氏の、本家直系の当主ゆえの法的立場は非常に強いのです」

カーター氏は資料を慎重に確認し、言葉を継いだ。

「目下、アイリス・ライトの死亡報告書の内容修正を急がせておりますが、裁判に持ち込まれた場合、残念ながら、 分家筋に過ぎぬライト家の地位、父親不明という事実は、不利に働くでしょう」

静かに耳を傾けていたオリヴィアは、浅くうなづいた。

「大いに予想可能な事態ですね」

カーター氏の現況説明が続く。

「アントン氏が所有していた一軒家と庭園作業用コテージは、二件とも既にタイター氏が占有し、売却して金に換えています。 故に、ライト嬢がクロフォードに来た時の滞在先は宿屋になるところですが、 ライト嬢の今の財務状況、及び身辺安全を考慮し、手続きに必要な間、クロフォード伯爵邸での滞在が許可されます」

オリヴィアの傍でアンジェラと共に控えていたルシールは、息を呑んだ。

「伯爵様のお屋敷……!?」
「それは破格な待遇ですね!」

アンジェラも、緑の目を丸くしている。

「ローズ・パークのオーナー問題は、クロフォード伯爵家の重大な関心ごとでございますので。 アイリス及びその子孫無き場合、及び子孫による相続放棄の場合――そのオーナー権はクロフォード伯爵家に返還されるので、 クロフォード伯爵家も、この件に関しては当事者なのです」

カーター氏はそのように説明を締めくくり、ルシールが要点を理解したことを確認した。

オリヴィアは、ルシールの当座の保護者としての立場だ。早速、気がかりな点を確認する。

「クロフォード伯爵は、この案件に関して協力的という事?」
「勿論でございます。館への受け入れ話でも、快諾を頂いておりまして……」

カーター氏はオリヴィアの質問に応じた後、慌てたようにキアランを振り返った。

「リドゲート卿がご不在の間に、当主と取り決められた話でございますが……」
「別に私は構いません。――この話は初耳でしたが、父の決定に従いますから」

ルシールは不安な面持ちで、カーター氏とキアランのやり取りの様子を、そっと窺っていた。

――この黒髪の紳士が、クロフォード伯爵家の当主の跡継ぎとは、すごい偶然だわ。

やがてオリヴィアが、ルシールの方を振り返った。

「後はルシールの意思ね。一晩考えて、結論は出て?」

その問いに、ルシールは大きくうなづいた。既に決心はついていた。

「クロフォードを訪問して、ローズ・パークのオーナー権を相続したいと思います!」

次の一瞬。

わずかな沈黙の中、キアランとルシールの視線が交差した。無表情ではあったものの、 キアランの鋭い眼差しは、ルシールがギョッとするに足るものであった……

*****

訪問客たちが、ゴールドベリ邸を退去する頃合になった。

送迎馬車が回されている間も、ルシールは不安な思いで『リドゲート卿』という人物を観察した。

キアランは、黒髪黒眼の背の高い男性だ。妙に着やせする性質らしく、一見して平均的な体格に見えるのだが、 その着衣の縫製を目測してみると、中身は軍人並みの体格らしいと予想できる。

ただでさえ小柄なルシールにとっては、キアランは、非常に威圧的なものを感じさせる、近づきがたい存在だ。

キアランの、総じて鍛えられた鋼を思わせる低い声や立ち居振る舞いは、断固とした性格を暗示していた。 常に無表情で気難しそうな人だし、目つきはキツイし、下手にドジ踏んだらマズイ事になりそうだ。

彼の父親であるクロフォード伯爵も、おそらくそういう人物なのだろう――ルシールは、 いっそう不安な思いが大きくなっていくのを抑えられなかった。 アシュコート伯爵のような、気さくな方なら良かったのに。

少し離れたところで、キアランとカーター氏が、何やら打ち合わせをしている。

――カーター氏なら怖くないんだけど。

ルシールは、二人の様子を、注意深くチラチラと窺った。

すると、突然キアランが身を返し、こちらを振り向いて来た。突き刺さるような視線だ。

――ジロジロ見ているのが、バレた!?

ルシールは一瞬、抜き身の刃を突き付けられたかと錯覚し、無意識のうちに、 二歩ほど後ろに飛びすさっていた(さながら、ビクビクしている小動物なのである)。

ルシールの、見ようによっては不敬罪スレスレの反応を知ってか知らずか、キアランは、あっさりとした様子で声を掛けて来た。

「明日の朝一番で馬車を手配します。個人的に必要なものを荷造りしておいて下さい」
「お……、お手数おかけ致します」

ルシールはドッと冷や汗をかきながらも一礼した。まだ心臓がバクバク言っている。

キアランは奇妙な眼差しでルシールを見やると、何やら思案しつつ、ステッキを上げ下げして「この位か」などと呟いている。 どうやら、ルシールの背丈を確認しているようだ――ルシールはポカンとするばかりであった。

そうしているうちにも、送迎馬車の準備が終了した。

キアランは、「それでは、また明日」と言って身を返すと、他の人たちと共に馬車に乗り込んで行った。

訳が分からないままのルシールは、ゴールドベリ邸の入り口にアンジェラと並んで、送迎馬車を見送った。

「ローズ・パークのオーナーの一人になると、有難くもクロフォード伯爵家の人々と、 お近付きになると言う話だけど……私、あの人たちと上手く付き合えるのかしら……?」
「高い身分の人々の例にもれず、気難しい性質だろうけど……その伯爵様もリドゲート卿も、根は悪い人じゃ無いと思うよ」

アンジェラは、『ルシールなら大丈夫だから』と請け合ったのだった。

*****

ゴールドベリ邸の訪問客は、無事に町に到着した。

各々必要な手配を済ませている内に、早くもその日は暮れて行った。

ルシールは不安がっていたのであるが、クロフォードの面々にとっては、ルシールの印象は、実際は悪いものでは無かったのである。

父親が誰なのかは分からないままであり、母親の不可解な行動の結果もあって、 社会的立場において多少の難点は出て来る。しかしそれでも、ルシールは、立派にレディとして通用する女性だ。 勿論オリヴィアによる教育があっての事だが、 そのようにルシールを育て上げたアイリスは、総じて素晴らしい母親ではあったのだろうと言う結論である。

キアランとカーター氏は、滞在中の町内ホテルの前で送迎馬車から降りると、 ゆっくりとエントランスを歩みながら、暫く中断していた会話を再開した。

「舞踏会の方で既に、リドゲート卿が若いライト嬢とお会いだとは思いませんでした」
「まさか彼女が、今回の案件の当事者とは……。確かな後見人は居るのですか? 彼女は20歳未満では?」

キアランの目には、ルシールは10代の少女にしか見えなかったのだ。 カーター氏も同じ印象を持っていたらしく、同意して来た。

「彼女は小柄ですし、世間ズレしていないし――あの大きな目じゃ、17歳か18歳にしか見えないですね」

カーター氏は、これからクロフォード伯爵邸の客人となるルシールについて、更に情報を補足した。

「ライト嬢は今年25歳です。つまり、若様とは二つ違いですね……遺言書の内容を、 一人で遂行できる資格をお持ちです。彼女は、見かけの割にしっかりしたお嬢さんですよ」
「――そうですか」

キアランはそう言ったきり、後は沈黙していた。

*****

一方、ゴールドベリ邸の中。

夜が更けると共に、ルシールの旅の準備も整いつつあった。

オリヴィアはルシールを呼ぶと、テーブルの上に畳まれたショールを示した。

「これは私からの贈り物よ……クロフォード伯爵様とご挨拶する時は、身に着けると良いでしょう。 これだけでも格があるから、だいぶ違うわ」
「ライラック色……初めてです」

ルシールは感激に顔を赤らめて、一礼しつつショールを手に取った。 細かな小花パターンの地紋が織り出されており、上品な光沢がある。滑らかな手触りで、大きさの割に軽い。 クルリとターンすれば、花びらのように風にひるがえるだろう。

オリヴィアは緑の目をきらめかせ、意味ありげに微笑んだ。

「ルシールには、その淡い紫色が一番似合うから大丈夫ですよ……気を付けてお行きなさいね」

やがてオリヴィアは、普段は余り話さなかった事を話題にした。オリヴィアが覚えている限りの、過去の記憶である。 滞在先となるクロフォード伯爵邸で、根掘り葉掘り聞かれるだろうと予想しての事だった。

「――流石に色々思い出すわ。母親のお腹に居た時分から小さかったのよ、ルシールは」

*****

25年前の冬。辺り一帯は、連日、常ならぬ大雪に見舞われていた。

雪が弱まり、或いは止んだ隙をついて、雪道仕様の馬車(トロイカ)が行き交うという交通状況である。

全ての発端となった、雪の中の馬車事故。それもまた、慣れぬ大雪の中で馬車を走らせたのが原因だ。 その事故の混乱の中で、ルシールの母親は、アンジェラの母親と取り違えられたのだ。

その誤解が解けぬままに、ルシールの母親アイリスが、急遽ゴールドベリ邸に運び込まれて来た。

当時のアイリスは、馬車事故で受けた傷もあって、寝たり起きたりという状態であった。 そしてオリヴィアがその透視能力で見抜いた通り、妊娠していた――妊娠二ヶ月と言う診断カルテはあったが、 オリヴィアには、どう見ても妊娠二ヶ月とは思えなかったのである。

人違いだという事はすぐに分かったが、オリヴィアは、 安静が必要な怪我人を――しかも妊婦を――再び雪の中に放り出すような真似はしなかった。 アイリス本人にしても、朦朧とした状態ながらも、最初は人違いだと言う事を訴えはしたのである。 しかし、凄惨な事故に遭遇したショックで混乱していると思われるのが常だったのだ。

アイリスの肋骨は折れており、その微小な欠片が肺に突き刺さって傷を作っていた。 不慣れな医者には見抜けない程度の傷だし、身体の防衛機能が働いて、微小な欠片は自然に排出される事になるだろう。 しかし、場所関係の都合で、つわりに似た不快感と吐き気が続いており、 それが妊娠二ヶ月と言う誤診を下す原因となってしまっていたのである。

アイリスはひどく落ち込んだ様子で、胎動が無いという事を告白した。馬車事故の前にはあったのに――と。

しかし、オリヴィアが見る限りでは、胎児は何とも無かった。 馬車事故と言う大きな衝撃をどう感じていたのか、或いは再び衝撃が来ると思っていたのか――お腹に居たルシールは、 ジッとしているだけだったのである。

アイリスは、お腹の子は女の子であると告げられて、『見えますの?』と唖然とするばかりであった。 どうやら同じ頃に妊娠した友人が居たようで、その友人と比べると非常に小さいお腹だったという事も、 気にして悩んでいた様子なのであった。

オリヴィアはアイリスの身体状況を読み、呆れるしか無かった。アイリスは事故に遭う前から、妊婦にしては無茶をしていたのである。 その事実を指摘すると、アイリスは恥ずかしそうに目を伏せた。

――妊娠六ヶ月。お腹が目立たないので、今まで誰にも知られずに済んでいたけれど、ドクターを呼ばれそうになって――

思わず息を呑んだ瞬間を、オリヴィアは今でも、まざまざと思い出す事ができる。

『予期せぬ妊娠』ないし『望まぬ妊娠』である事は、明らかだった。 誰にも知られずに産んで育てようとしていたのだ――この、明らかに良家の娘が!

『正式な結婚をした夫との間にできた子供である』――『ライト夫人』と名乗ったアイリスは、 それ以上の事情は、頑として明らかにしなかった。 故に、問題の『夫』との間に如何なる経緯があったのかは、今でも謎のままだ。

アイリスは傷が癒え次第、首都に行こうとしていた。

しかし、社交シーズンを外れた時期の首都で、有望なアルバイト先が見つかる筈が無い。 それに、今はお腹が目立たなくても、わずか四ヶ月後には出産を迎える事になる。 数ヶ月でお腹はビックリする程大きくなるのだ。仕事を探すどころでは無い。

オリヴィアはアイリスを引き留め、ゴールドベリ邸の家事手伝いの仕事を提供したのであった。

――結果としては、想像以上に良い物があったと思う。 一人ぼっちで育つ羽目になったであろうアンジェラにしても、同い年の妹のような存在が出来た訳だから。

*****

今は亡きアイリスが残した唯一の手掛かりは、肌身離さず持っていたアメジスト細工のブローチだ。

バラの線描を切り出したかのような、流麗な金属のラインで構成されている繊細なデザイン。 その金属ラインの上に、無数のアメジストの粒が緻密に埋め込まれている。宝飾細工の名手による逸品である事は明らかだ。

紫のバラの花の形をしたそのブローチの金属部分には、恋人ないし夫の存在を暗示する言葉が刻印されていた。 しかし、ブローチの贈り主の名前は、頭文字Lで刻印されているだけで、『L氏』という事の他は一切、分からない。

贈り主の財力と趣味の良さからして、アイリスと同じ程度の、程々の良家出身の紳士であろうという事は窺い知れる。 それでも――アイリスは遂に、ルシールの父親である『L氏』が誰だったのかは、死ぬまで明かす事は無かったのである。

オリヴィアは、『それ程に深い理由があった』という事は確信するものの――同時に、 『いつか、謎は明らかにされるだろう』という事も確信していた。

――劫初 終極 界(カイ)を湛えて立つものよ――

オリヴィアは祈るように呟いた。遠い先人の残した辞世の句――《花の影》を。

25年後の現在、状況は明らかに変わっていた。クロフォード伯爵領の事情が、 アイリスが出奔した時の事情に追いついて来たという事を、オリヴィアは的確に感じ取っていたのである。

2.ゴールドベリ邸…謎へ続く道

《アンジェラ篇》

早朝、ゴールドベリ邸の入り口の小道に、四頭立ての長距離用馬車が手配された。

後方に、身辺警護を担当する従者のための席を備えており、見るからに上流貴族の御用達の馬車だ。 わずかに緑色を帯びて艶めく黒い車体には、クロフォード伯爵家の紋章が刻まれている。

御者は二人交代制であり、二人のスタッフの間で、御者と従者の役割を交換するようになっている。

クロフォード伯爵家から随行して来ていた二人の若い御者-兼-従者のスタッフは、 初めて見る『魔女の隠れ家』ゴールドベリ邸の様子を、興味深そうにチラチラと見やっていた。

同行人となるキアランとカーター氏は勿論、旅姿だ。朝の乗馬と称して、騎馬姿のエドワードが一緒に付き添って来ている。 男性陣は、ゴールドベリ邸に到着した後、長距離を走る事になる馬車の整備について打ち合わせを始めた。

馬車の整備があらかた終わり、ルシールの荷物が積まれている間、アンジェラとルシールは暫しの別れを惜しんだ。 春とは言え早朝の冷え込みはきつく、二人とも外套をまとっている。アンジェラは、小柄な親友の身体をギュッと抱き締めた。

「向こうに着いたらお手紙を書いてね、ルシール! タイター何某の有象無象なんか、粉みじんにしてやっつけちゃえ!」

アンジェラには、『タイター氏との相続争いは大変になるだろう』と言う予感があったのだ。

*****

キアランとカーター氏、そしてルシールを乗せたクロフォードの馬車は、 前方の御者席に一人の御者、後方の従者席に一人の従者を備えて、順調に出発した。

アンジェラはエドワードと並び、馬車の影が見えなくなるまで見送っていた。

「ルシールは動転すると真っ白になる性質だから、色々心配……」
「大丈夫ですよ。キアラン=リドゲートは、有能な男です」

エドワードは余裕の笑みをして見せたが、アンジェラは憂い深く眉根をひそめるばかりだ。 アンジェラは何やら思案しながら、森の中の朝の小道をそわそわと歩き回っている。

「寂しいですか?」
「ええ……、ルシールと私は、生まれた時以来、ずっと一緒にいましたから。 ――クロフォードでは、ルシールは事件に巻き込まれそうな気がするけれど、大丈夫かしら?」
「それは、あなたの不思議な勘ですか? ゴールドベリの……」
「オリヴィア様ほど……という訳では無いけど、外れはありません。ただ、 自分の事は見えなかったりするので――父の領地では、色々と緊張しますね」

アンジェラは暫し沈黙していたが、急に何かを聞き付けたかのようにキッとした顔になり、エドワードをサッと振り返った。

「あなた、何か手紙を持っているのでは?」
「分かりますか」

エドワードは、何か楽しい事を企んでいるようなイタズラっぽい笑みを浮かべていた。 そうしていると、大人なんだか子供なんだか――と言う風だ。

予期せず、からかわれる形となったアンジェラは、 苛立ちながらもエドワードに猛然と飛びかかり、その乗馬服のポケットを次々に探り始めた。 この金髪紳士、背丈はあるし、チャラチャラしたファッションのくせに、その下の体格は予想以上に逞しい。 何処にどうやって隠したのか、探り出すにはコツが要る。

「一体全体……何をもったいぶって……見せて下さい!」

果たして怪しげな書状が出て来た。

「此処の治安判事ジャスパー氏から、あなた宛の書状を預かっただけです」

エドワードの弁明に、アンジェラは仰天した。

アシュコート伯爵領の次席の治安判事ジャスパー氏は、その腕を買われて、首都の最近の疑獄事件を扱った経験もあると言う名判事だ。 目下ジャスパー判事は、ロックウェル事件の捜査に関わっている。信頼できない人間には、絶対に自分の署名が入った書状を託さない筈だ。

「ジャスパー氏と、もうお知り合いなんですか!?」
「驚きの再会でしたよ。都で多少の知遇を得てはおりましたが」

エドワードは、都会的な洗練された面差しに気の置けない笑みを浮かべていたが、 アンジェラの苛立ちと疑念は、いっそう深まるばかりであった。

「……何か、企んでいらっしゃる? エドワード卿……」

アンジェラの表情の変化を見て、流石にそろそろヤバイ、と判断したエドワードである。

「昨夜は、舞踏会の最終の夜でした――白い羽飾りの水色のドレスの女性と、ダンスをしたんですよ」

アンジェラはその意味を理解し、鋭く息を呑んだ。エドワードは意味ありげに顔を伏せて、シルクハットを被りなおす。

「彼女の名前は、マダム・リリス。あなたの父上・ロックウェル公爵の――正確には、59番の愛人で――将来の公爵夫人だとか……」
「リリスはお勧めじゃ無いって言ったのに……どうして?」
「物心ついた時分には――あなたの父上は既に、ひっきりなしに愛人を取り替えていたと言う状況だったのですね」

アンジェラはエドワードを睨んだ。

「私の質問に答えて無いわ」

朝の光がアンジェラの金髪をキラキラと輝かせ、陶磁器のように滑らかな白い顔は、苛立ちで上気していた。 だが何よりも印象的なのは、神秘的な透明感に満ちた深い緑の目だ。エドワードは、すっかりアンジェラに魅せられていた。

「――理由? それは実に単純ですよ。私は、アンジェラ嬢をもっと詳しく知りたいだけですから」

如何にも放蕩紳士と言った風の返答だ。アンジェラは怒髪天である。

「バラバラ死体になっても知らないから! バカ!」

エドワードは素早く馬に乗り、陽気に声をかけた。

「では、また明日会いましょう」
「もう会う事は無いわよッ!」

アンジェラの方は、苛立ちの余り叫びながら、ピョンピョン飛び跳ねるばかりであった。

*****

エドワードは朝の乗馬を続けながら、昨夜の時点で新たに判明した内容を整理した。

分かった事は随分あった――いずれも、アンジェラが自分の口から話そうとしない内容であろうと予期できるものだ。

昨夜のダンスの後。

マダム・リリスは、自分の秘密の快楽の園に、美しく若いツバメたちを集めた。 頭が相当に空っぽな色とりどりの美青年たちに囲まれて、強い酒をしこたま楽しみ始めたのだ。

やたらとアルコールに強い、恐るべき体質の女だ。 話を聞き出すには、自白効果のある強力なドラッグを盛るべきなのだろう。 エドワードは数種類の薬剤をこっそりと用意しつつ、更にリリスの酔いが相当に深くなった頃を慎重に見計らって、 素知らぬ顔でツバメたちの中に混ざったのであった。

いつしか、気持ち良くまどろみ始めたリリスは、エドワードの誘導に応じて、 アンジェラがロックウェル公爵に対して親子認知の裁判を起こしている事を、馬鹿にしたように喋り出したのである。

『――アンジェラ? あの色気も皆無なビスクドール! 墓場から復活した、何処かのゾンビの娘だって話だわね!  身の程知らずにも、親子認知の裁判を起こしていて――ユージーンも流石にうざいって言ってるわ』

マダム・リリスは、逆ハーレムとアルコールとアヘンを同時にたしなむ女帝だった。 そして恐ろしく勘が良い。ちょっとでも頭が回るような男は、如何に美形であっても、逆ハーレムのメンバーには入れないのだ。 これだけ用心したからこそ、快楽の園では赤裸々な自慢話を披露すると言う訳だ。

エドワードが、自分に関する社交界での軽薄な噂を放置し、更に面白がって助長していたのは、 趣味を兼ねた全く別の目的があっての事だったのだが、思わぬところで――妙な形ではあるが――役立ったのである。

高価な宝飾細工を施した特注のキセルに、これまた上質なアヘンを仕込みつつ、マダム・リリスは、 なまめかしく照り輝く特大の胸をふるわせて嘲笑した。

頭の空っぽなツバメたちは、リリス自慢の胸に注意が行って、話の内容など頭に入らない。 リリスを取り巻く美青年たちは、既に、急激に大量のアヘンを吸って酔っぱらっていた。 男らしさをアピールするために、お酒の一気飲みよろしくアヘンを一気に吸い込んだのだ。 アヘンで脳みそが溶けるし、知性や知能がゼロになるから、どぎつい真相が漏洩するかも――と、警戒する必要も無い。

『――血統違いで苦労させられたから、余計恨みも重なるって。 この間、ネズミの死体をプレゼントされたから、流石に思い知った筈よ?』

血統違いで苦労させられたから余計恨みも重なる――とは、また奇妙な言葉だ。

しかしその時分には、リリスもまた、ドラッグ仕込みのアルコールに加えて、キセルに仕込んでいたアヘンが相当に回っている状態だった。 快楽の園の中で若いツバメたちと共に大いに管を巻いていたし、或る程度は辻褄が合わない部分もあるだろうと思われた。

そして勿論、エドワードはマダム・リリスから聞き出した事を整理して、ヒューゴの仲介の元、 アシュコート伯爵領の治安判事を務めるジャスパー氏に照会したのである。

ジャスパー判事は、ネズミの死体を送り付けたのはロックウェル公爵本人であったという証言を得てガックリすると共に、 重要証言を引き出して来ると言うエドワードの手腕に感心していた。

同席していたヒューゴも、『早速、夜の私的パーティの招待状をもらうなんて、 よっぽど頭の軽いイケメンに見えるんですね』などと、妙な称賛をするほどだ。

ロックウェル公爵は城に籠もったまま出て来ようとせず、人あしらいに恐ろしく長けたマダム・リリスが相手であるという状況で、 バラバラ死体のゴシップで知られるロックウェル事件の捜査も難航していたのである。 マダム・リリスから出来るだけ情報を引き出すというのが、当面の捜査方針であった。

ロックウェル公爵は、25年前の馬車事故で容貌をひどく損ない、大怪我をしたために全身の体格も歪んでしまったと言う。 城に引きこもり、仮面で顔を覆い、マントで全身を覆い隠す公爵――それが、今のロックウェル公爵なのだ。

以前の彼は社交好きで、普通に人当たりの良い人物だったと言うが――それが、 実の娘にネズミの死体を送り付ける程に狂うものか――

エドワードは、謎のロックウェル公爵に対して、深刻な疑問が湧き上がって来るのを禁じえなかった。

そして――

ロックウェル公爵令嬢、レディ・アンジェラ・クレイボーン。

アンジェラが親子認知の裁判を起こしたのは、正式なロックウェル公爵夫人であった母親、 今は亡きセーラ・スミス・クレイボーンの名誉のためなのだ。

ロックウェル卿は確かにやたらと愛人を交換しているが、不思議な事に、アンジェラの他には子供を作っていない。

その、微かな良心とも思われる『何か』に、アンジェラは賭けていたのである。

《ルシール篇》

アシュコートの緑の森を出た一台の長距離馬車は、最寄りの町の交差点で方角を変えた。

そして、行く手に広がる山岳地帯に向かって、だんだん勾配のきつくなる坂道を登り始めた。 アシュコート伯爵領とクロフォード伯爵領の境となっている峠を目指しているのである。

朝から雲が多く、今や半曇りといった曖昧な天気だ。春の天気は変わりやすく、雨も多くなる。 山岳地帯に近付くにつれ多くなってくる雲は、この辺り一帯にまとまった雨が到来する事を予兆していた。

――流石、クロフォード伯爵家の馬車と言うべきか。

ルシールは、出発してから一刻程の間は馬車の中に感心しきりで、 目の前に恐るべき威圧感を放つ黒々とした存在がある事も、気にならないくらいだった。

馬車の中の調度は一流品だ。座席には深い緑色のビロードが張られ、スプリングも利いている。 長く座っていても、お尻はそれほど痛くならない。

一般的な乗合馬車よりずっと広いスペースがある。前部座席側にはカーター氏とキアランが並んで座り、 後部座席側には、外出着を兼ねた黒い簡素なドレスと外套をまとうルシールが、ちょこんと座っていた。 その横には、ルシールの手荷物が二つばかり鎮座している。

ダレット一家の荷物がやたらと多かった往路に比べると、復路は荷物の少なさもあって、 馬車はすこぶる快速といったスピードで走り続けていた。順調に行けば、日が暮れる前にクロフォード伯爵邸に到着できるだろう。

峠に通じる坂道の中ほどに差し掛かった頃、カーター氏が、やっと思い出したという風に、 隣にムッツリとした様子で座っているキアランに声を掛けた。

「そう言えば、ダレット一家には、お声掛けは……?」
「彼らは今アシュコート伯爵領の社交界を満喫しているところですし、その楽しみを邪魔するのも無粋な事かと」

キアランは相変わらずムッツリとした顔のまま、ピクリとも表情を変えなかった。

ボンネット風の外出用の帽子をきっちりと留めていたルシールは、深いつばの下から、黒髪の紳士をこっそりと窺った。

――常にムッツリとしていて、実に気難しそうな人だわ。

思案を巡らせているうちに、ルシールは、舞踏会を引き上げる時に、 レナードと名乗る金髪碧眼の美青年と『リドゲート卿』について話した事を思い出した。 レナードは、キアランの人となりについて、『無愛想で冷淡、そして冷酷、野心的』などと評していたのだ。

ルシールは、心の中で小首を傾げた。

――カーター氏との間には信頼関係があるようだし、この黒髪の紳士の性格は、それほど悪くは無いらしい。 余裕で美形の範疇に属する顔立ちなのに、この取っつきにくさで、大いに損しているのかも知れない……

ルシールの視線に気付いたかのように、キアランが不意に目を向けて来た。 撫で斬りにするかのような、漆黒の刃さながらの鋭利な眼差しだ。

ルシールの心臓が跳ね上がった。もし立っていれば、昨日のように、思わず後ろに飛びすさっていただろう。 その物騒な視線を外してくれというルシールの願いに反して、キアランはルシールをしげしげと眺め始めた。 ルシールの背中に、冷たいものが流れ始めた。

「あなたは、旅行慣れしていないようですが……遠出した事は余り無い?」

キアランの態度はあっさりとしたものだったが、目つきが鋭い分、声音にも脅しの気配がにじみ出ているような気がする。 ルシールは、どう受け答えしたら良いのかと、一瞬パニック状態になった。

――息が止まるかと思った――漆黒の刃物の如き怖い目で睨んでたよね、このお人……!?

とは言え、いつまでもビクビクしてもいられない。視線さえ合わなくなれば、幾分かはマシになるだろう。 ルシールはうつむき、何とか気持ちを落ち着かせると、質問に対して小さくうなづいた。

「昔からずっとオリヴィア様の付き人でしたし……オリヴィア様は脚がお悪くて、余り外出されていなかったので……」
「旅行した事は一回も無い?」
「運河を下って、海を見た事はございます」

――その旅行は、母が亡くなる直前の小旅行だったのだ。

ルシールは、五年前の冬の事を、ボンヤリと思い出していた。 ちょっとした用があって、母と二人で海まで出掛けていたのであったが、 ふと陽が差した冬の海に魅せられたかのように、母は長い間、立ち尽くしていたのだ。

――わだつみの青。紺青に近い、吸い込まれるような青さ。母が好きだった、青――

ふと気付くとルシールは、その小旅行で海風にやられた事がきっかけで、 母は急に体調を崩したのだという事を、カーター氏とキアランに説明していた。

昔の馬車事故で受けた傷によって、アイリスの肺は元々弱っていたのだ。 肺炎は余りにも急に進行し、回復が間に合わなかったのである。

カーター氏は静かにうなづき、更に質問を重ねた。身辺調査のテクニックの一つではあるが、 カーター氏自身が、かねてから懸案事項としてピックアップしていた項目でもあった。

「先日は、あなたはゴールドベリ邸の庭園に居ましたが……あの庭園は、ライト嬢が管理を?」
「昔は、母が管理を……母は庭園管理が上手だったのです」

ルシールは、妖精のような面差しに優美な笑みを浮かべた――白く繊細な花が、ほころんだような笑みを。

「今は私とアンジェラとで管理しています。 庭園の管理方法は母に教わりまして――ローズ・パーク邸の庭園は未知ですが、管理は上手くやれると思うんです」
「成る程……」

カーター氏は資料と照らし合わせながら相槌を打っていた。

アントン氏が会得していた庭園管理の技術は断絶していなかった。娘アイリスへ、そして孫ルシールへと引き継がれているのだ。 それは、ローズ・パーク邸の庭園オーナーとして望ましい条件でもある。

――クロフォード伯爵に良い報告ができる。

カーター氏は、すこぶる満足していた。

一方、キアランは、先程と変わらぬ無表情でルシールを注目していた。 その気難しそうな眼差しに、改めて恐れを抱き、笑みを強張らせるルシールであった……

3.クロフォード伯爵邸…忘れえぬ面影〔一〕

正午を回る頃、馬車は山岳地帯の中央部にある峠を越えた。

此処からクロフォード伯爵領である。

山岳地帯を完全に抜ける前に、ランチや御者交代、その他のための休憩が一回入った。 その後、馬車は下り坂をノンストップで走り続けた。しかし、いかに頑健な馬車馬も、いつかは足が鈍るものである。 クロフォード伯爵領の緑の丘陵地帯が広がり始めると、目に見えて馬車のスピードが徐々に落ちて来た。

昼下がりも後半を過ぎる頃、雨がぱらつき始めた。馬車はまだ道の途上にあった。 カーター氏は、急速に暗さを増していく空と雨雲の群れを確認し、どうした物かといった表情である。

「雲行きが妙に怪しいですな、リドゲート卿」
「本格的な雨になるとまずい……駅で馬を替えて急がせましょう」

天候変化のリスクに関しては、キアランもカーター氏と同じ結論を下していた。

宿駅を兼ねる最寄りの集落で、御者と従者の手によって馬車馬がスムーズに交換された。 馬車は、再び速度を上げてクロフォード伯爵領を走り続けた。

ルシールは、馬車の窓の外に広がる見慣れぬ光景を、しげしげと眺めた。 アシュコート伯爵領とはまた異なる、オーク林が点在する丘陵地帯だ。

――ちょっと不安だったけれど、案外、良い場所かも知れない。

地所は良く管理されており、クロフォード領主の優れた支配を、そこかしこに見出せるのだ。

馬車の窓に、雨粒が斜めに張り付き始めた。強くなっていく雨脚と競い合うかのように、 馬車は小高い丘に続く道に入り、緩やかな坂道を駆け登って行く。

窓の外を眺めていたルシールは、やがて丘の上に豪邸が見えて来た事に気付いた。

立派な正門がそびえ、その両脇には高い柵が続いている。視界に見える前庭は本格的な自然公園となっており、 絶妙に配置された樹木が、緑の城壁を作っていた。 新古典風とゴシック風の建築様式がバランス良く入り交ざった豪壮な館には、大きな窓が幾つも並んでいる。

――これが、クロフォード伯爵邸。

ルシールは、その規模に呆然となった。

*****

雨が本降りになり始めていた。

馬車は正門をくぐり、高い樹木が並ぶ前庭ロータリーを回ると、館の正面玄関の扉の前に横付けされた。 立派な扉の前には、執事を含む数人のスタッフが、既に迎えに出て来ていた。

ルシールの背丈を考慮して踏み台が二段置かれ、カーター氏の手を借りて、ルシールはやっと馬車から降りて来られたのである。

夕闇も加わって急に薄暗くなってゆく中、その馬車を物陰から窺う少年の姿があった。 少年は、馬車から現れた見慣れぬ客人に興味津々だ。ルシールが館に入った後も、近くの物陰に移動して、そこからこっそりと窺い続けている。 明るい栗色の髪とキラキラした茶色の目の、何とも腕白そうな少年だ。

――茶色の髪の……女の子!? とにかく、アラシアじゃない――誰だ!?

しかし、この少年は別件で忙しくしており、これ以上長く此処に居る事はできなかったのであった。

*****

ルシールは、クロフォード伯爵邸の堂々たる玄関広間に圧倒されていた。

大理石の床。高い天井を支える、壮麗な列柱。 領主との面接に際して、応接室への入室順番を待つ人々のためのスペースを兼ねているのであろう、 衝立とセットになった長椅子やローテーブルが、壁際の各所に配置されている。

照明が灯り始めた壁に見えるのは、年代物のタペストリーや、 先祖の騎士の時代に由来するのであろう古い紋章を刻んだ盾や、年季の入った大きな紋章旗だ。

目の先には、これまた堂々たる正面階段がある。そこは最上階までの吹き抜けとなっており、 周囲の重厚な石造りの壁には、騎士の時代を思わせる、細長く高い窓が並んでいた。 細長く高い窓の間には、これまた、騎士の時代に由来すると思しきアンティークの甲冑を始めとする、先祖伝来の品々が飾られている。

――何だか、凄いところに来てしまったわ……

キアランとカーター氏は、既に玄関広間や正面階段で控えていた館内の人々と打ち合わせをしており、 やがて人々を引き連れて、玄関広間から立ち去って行った。 入れ替わりに、古参の家政婦と思しき堂々とした一人の女性が、一人のメイドを従えてやって来た。 そして、二人の女性はルシールに一礼した。

ルシールは、クロフォード伯爵その人が招いた特別な賓客としての立場を与えられており、 クロフォード伯爵邸の家事全般を取り締まる、家政婦長の出迎えを受ける事になったのである。

家政婦長は、如何にもベテランと言った風の中年の家政婦であった。 背が高く、ややカッチリとした印象の立派な体格で、館の女主人と紹介されても違和感が無い程の威厳がある。

「予定より早いお着きでしたね。雨脚が速くて――嵐になる前で、ようございました」

続いて家政婦長は、脇に従えたメイドと共にルシールの荷物を持ち、ルシールを割り当てられた部屋へと導いた。

「事情はお聞きしております、ライト嬢。こちらへどうぞ」

この威厳のある家政婦長は、『ベル夫人』と名乗ったのであった。

*****

割り当てられた部屋の中、ルシールは暫し一人で戸惑っていた。

荷物は既に運び込まれている。ルシールはそっと大窓に近付いて、外の光景を眺め始めた。 ベル夫人が言った通り、急いで正解だったようだ。

バルコニーに接する大窓には流石に相応の雨避けが付いていて雨に濡れては居なかったが、 別の小窓には大きな雨粒が叩き付けられていた。既に幾筋もの流れが出来ており、窓はすっかり冷たくなっている。 既に本格的な嵐となっており、日が暮れると共に、気温も急に下がっていたのである。

ルシールは、部屋の中でも何か羽織れるものは無いかと荷物を探し回り――やがて、 オリヴィアから贈られたライラック色のショールを見つけたのであった。 オリヴィアが保証した通りの上質な品で、これなら礼儀を欠く心配は無いと、ルシールはホッとした。

*****

一刻の後。

クロフォード伯爵は、最上階の居間にある大きな暖炉の傍らで、椅子に腰を下ろしてくつろいでいた。 そして、執事の案内で客人が挨拶にやって来た事に気付いて、おもむろに入り口のドアの方に目をやった。

クロフォード伯爵は、この客人に強い関心を抱いていた。 客人が落ち着いた頃を見計らって、すぐに面会できるようにとクラヴァット付きで服装を整え、時間を空けていたのである。

暖炉の炎に照らされているのは、想像以上に小柄で華奢な人影だ。 簡素なデザインの黒いドレスに上品な薄紫色のショールをまとった人影は、一歩近付き、優美な所作で丁重に一礼した。

「――お初にお目にかかります、クロフォード伯爵様」

クロフォード伯爵は、我知らず、椅子の中で動きを止めていた。

「館へのお招きにあずかり、心より感謝いたします。私はルシール・ライトと――」

そこでルシールは不思議そうに顔を上げ、驚愕の表情で固まったままの、館の主人を目にする事になったのである。

奇妙に気づまりな沈黙が流れた。ルシールは内心、オタオタし始めた。

――何か、変なところがあったかしら!?

しかし、ようやく驚きから覚めたらしいクロフォード伯爵が、 気を取り直したように、ゆっくりと柔らかな笑みを見せたのであった。

「失礼した。あなたは25歳だと聞いていたが、そんなに小柄だとは思わなかったんだ」

流石に当主と言うべきか、その声は、落ち着いた音量の割によく通る性質のものだ。 クロフォード伯爵は、平均的な男性に比べてやや線の細い体格の持ち主で、 淡い茶色の髪に青い目という組み合わせも、柔和な印象を強めていた。 脚を悪くしているのか、大判のひざ掛けが掛かっている。

――リドゲート卿とは、全く似てないわ……!

ルシールは予想外の驚きに目を丸くし、「確かに平均よりは背が低いですが……」と、口ごもるばかりだ。

あの鋭く剛直な印象のある黒髪のリドゲート卿の父親なのだから、 きっと同じように、或いはそれ以上に、厳しい威圧感に満ちた人だろうと想像していたのである。 初めて目にするクロフォード伯爵は、地位相応の威厳はありながらも、涼やかな目元と柔らかな笑みを持つ、 穏やかな雰囲気の紳士だった。

「今夜は冷える……もっと暖炉に寄りなさい」

伯爵は滑らかに暖炉を指し示した。それに応じて、そろそろと近付くルシールである。 伯爵はルシールに、近くの椅子に座るよう促すと、その立ち居振る舞いをしげしげと眺め始めた。

ルシールは小柄で華奢な体格をしているので、大きな目とも相まって、一見して17歳か18歳ではないかと言う印象だ。 祖父アントン氏と同じ濃い茶色の髪だが、その小柄な身体にまとった薄紫色のショールは、或る予感を感じさせる――

暖炉の炎に照らされたルシールの面差し――そして、その目のきらめき。

「実に驚きだ……あなたは、アイリスにそっくりだね」

伯爵は感慨深そうにルシールを眺めていた。 ルシールは目をパチクリさせながらも、綺麗な所作で、椅子にちょこんと腰を下ろした。

「私の母が、そんなに有名人だったとは存じておりませんでしたわ」
「ああ……いや、アントン氏がローズ・パークのオーナーの一人だっただろう。オーナー協会の付き合いでね」

小首を傾げるルシールに、伯爵は再び笑みを見せ、言葉を継いだ。

「勿論、私はあなたの母親を知っている。テンプルトン辺りでは、多くの紳士に人気があったと聞いているよ」
「テンプルトン?」
「カーター氏から聞かなかったか? ローズ・パークはテンプルトンに位置するんだ」
「そうだったのですか……ちょっと遠いのですか?」

ルシールはまだ緊張しており、生真面目な顔をしている。伯爵はイタズラっぽく微笑んだ。

「馬車で大体、二時間だね」

そんなに距離があるのかと、口アングリのルシールであった。流石に上流貴族の領地、とんでもない広さだ。

「――ああ、そうだ、馬車と言えば……母親は馬車事故に遭ったとか……」

伯爵と言えども、知人の運命は気になる物なのである。ルシールはうなづいた。

「冬の二月で、私が生まれる前になります。崖道でのスリップ事故だったと聞いております」

その答えを聞きながらも、伯爵は伯爵で、別の疑問に囚われていた。

――そして、アイリスは別の女性の死体と取り違えられ、役所の処理遅延もあって、死んだ事にされていた。 アントン氏がアイリスの生存やルシールの存在に気付いたのなら、彼はどうやって気付いたのだ――?

心の底で次々に湧き上がる疑問を押さえつけ、伯爵はおもむろに口を開いた。

「何だか良く分からない部分がある……あなたの父親は、その時は何処に居たんだろう?」
「その辺りは聞いた事はございませんでしたので……『何処かの紳士』と言う事の他は、全く存じません。 でも、母が父と正式な結婚をしていたのは確かでございますわ」

――母が、あんなに早く逝ってしまうとは。ルシールは、そっと目を伏せた。

「まさか急に相続の話を頂くとは思いませんでしたので……、亡くなる前に聞いておくべきでした」

伯爵は暫し沈黙してルシールを眺め、「急な話で色々と大変だっただろう」と心遣いを見せた。

「あなたの訪問は、常に歓迎するよ……我が家と思って、是非くつろいでくれたまえ」
「ご親切に……有難うございます、伯爵様」

折り良く執事が別件でやって来て、最初の挨拶は、こうして終了したのである。

その夜、伯爵はローズ・パーク案件に関するカーター氏の報告書に目を通していた。

――アイリス・ライトが変な男に捕まっていたのでは……と心配はしていたが、どうやら杞憂だったらしい。

伯爵は深い驚きと共に、先程の対面を改めて思い返した。

――暖炉の炎に照らされていた、あの目の色は、間違い無くアイリス譲りだ――

*****

嵐の夜は速やかに過ぎて行った。

部屋でルシールが目を覚ますと、早朝の光がカーテンの隙間から差し込んでいた。

「嵐一過……!」

ルシールはベッドから降りると、ショールをまとい、外の光景を確かめようと窓を開いた――

一瞬、バルコニーに動く人影。ポカンとするルシール。

「うわーッ!」

お互いの存在をしかと認識し、バルコニーに忍び込んでいた方は驚きの余り叫び出した。 明るい栗色の頭をした、小さな人影――まだ子供だ。ルシールは呆気に取られた。

「誰?」
「ご……ッ、ごめんよ! まさか、この部屋だったなんて! すぐ出てくから、誰も呼ばないで!」

如何にもイタズラ小僧と言う感じの少年は、すっかり慌てていた。八歳から九歳の辺りだろうか。 明るい栗色の髪に、明るい茶色の目。運動神経が良いのであろう、弾むように躍動する動きは、敏捷な小動物を思わせる。 その腕には、何か子犬らしき物を抱えているようだ――

もっと良く見ようと、ルシールは視野を塞いでいた前髪を上げた。

ルシールの顔を見るなり、少年は何故かポカンとして、熱心に眺め出した。

少年の腕の中に居たのは、果たして子犬であった。亜麻色の柔らかな毛皮をしていて、モフモフの毛玉のようだ。 毛足の長いタイプの矮小型キツネか、胴を短くしたオコジョに見える雑種だ。 忍者の如き身軽な動きで知られる犬種の血を引いているらしく、四つ足は細いながらも、シッカリとした筋肉がついている。

「あら、可愛い」

ルシールは思わず呟き、そっと手を伸ばした。子犬はポンと前足を出して来た。なかなか賢そうな子犬である。

「まだ子犬でしょ?」
「う、うん……昨夜は雨嵐だったんで、此処に移動してたんだ」

喋っているうちに、少年はいつもの落ち着きを取り戻したらしい。 少年は訝しそうな様子で、バルコニーに接する大窓越しに、部屋の中を窺い始めた。

「この部屋、空き室の筈だけど――」
「昨夜から此処に泊めて頂いてるの」
「……って事は、昨日、馬車から降りて来た人? 空を飛んで来たんじゃ無くて……」

何故か少年は、ルシールの妖精のような繊細な面差しに、非現実的な印象を持っていたらしい。 それとも、ライラック色のショールのせいか。少年に熱心に見つめられて、ルシールは困ったように顔を赤らめた。

「私はお化けじゃ無いわ……あなた一体、誰?」
「マティってんだ……じいじと一緒に来てる」

マティは再び部屋の中を窺い、またルシールの方を向き直った。ルシールの面差しをなおも熱心に眺めている。 一方のルシールは、釈然としない面持ちで、バルコニーの周りを確認し始めた。

「何処からどうやって来たの? 二階の筈……なんだけど」

――マティの方こそが、空を飛んで来たのでは無いかしら……!?

マティは早速、ルシールの疑念に気付いた様子で、バルコニーの近辺に並ぶ屋根の群れを指差した。

「下に屋根が見えるだろ、馬小屋に車庫……こっち側に大きな木でさ」

成る程、馬小屋と車庫が並び、間に大樹が生え、その大枝が上手い具合にバルコニーまで延びていた。 良く見ると、ツル植物に偽装したロープが大枝に巻きついている。 そのロープ細工は、枝葉に見え隠れしながら、ルシールの部屋のバルコニーまで到達していたのだ――まさしく、 手頃な侵入経路を成していたのである!

「何て知恵の回る子なの……大人には思い付かないルートね!」

ルシールは唖然とするばかりであった。マティはすっかり困惑した顔で子犬を抱き締めた。

「どうしよう、バレたらすげえ困る――雨風よける秘密の場所なんて、他に無いんだよ」
「此処で良いわよ」
「ホント!?」

信じられない、と言う風に頬を染めたマティに、ルシールはニッコリと微笑んで見せ、子犬の頭を撫でた。 子犬は上機嫌で、亜麻色の尻尾をモフモフと振っている。

「誰にも絶対見つからないようにしてね……嵐の最中は別にしても、お掃除の人とか来るでしょう?」
「それは大丈夫だよ! 此処にパピィを連れて来るのは、昨日のような時だけだから!」

目下の懸念が晴れたマティは、顔いっぱいに嬉しそうな笑みを浮かべた。 マティは早速、子犬を抱えたまま身軽にバルコニーを飛び出すと、大枝に続くロープに取り付いた。

「ほんじゃ、急いで抜け出すからね!」
「落ちないようにね!」

マティが怪我しないかと、ハラハラするルシールである。

スルスルとロープを伝ったマティは、器用に大枝に飛び移ると、ルシールの方を振り返った。

「オイラ、さっきはビックリしたよ! 紫色の目なんて初めて見たから――じゃあ、またね、レディ・アメジスト!」

思いがけぬ言葉に、ポカンとするルシール。ルシールは全く知らなかったし意識もしていなかったが、 その大きな目は、朝の光が入って、美しいアメジスト色に変わっていたのである。

マティは素晴らしい身のこなしで、大樹をスルスルと降りて行った。 そして子犬を何処へ連れて行くのか、馬小屋と車庫の間の細道を駆け抜け、庭園の緑陰の中に消えて行く。

ルシールは、その小さな姿が見えなくなるまで見送った。 朝っぱらから駆け回っているところはスタッフの子供と同じだが、スタッフの子供にしては着ている物が上等だ。

――変わった子ねえ。

お祖父さんと一緒に来ていると言っていた――クロフォード家の親族のご子息ってところかしら……

4.クロフォード伯爵邸…大広間にて

初日という事もあり、ルシールの部屋まで朝食が配達されて来た。

部屋の中でくつろぎながら朝食を進めるルシールである。

昨日は薄暗い時刻に部屋に入った事もあって、ベッドや鏡台、円卓に椅子、燭台、戸棚と言った家具や、 水回りの施設が揃っているという事くらいしか見て取れなかった。

こうして明るくなってから見てみると、やはり相応のスペースを持った立派な客室だ。 衝立で、寝室部分と居間部分を仮に仕切ってある。 クロフォード伯爵邸に一時的に宿泊する地方役人の類を想定しているのであろう、書き物などの事務仕事に向きそうな部屋である。

ルシールは朝食を済ませた後も、少年マティや子犬パピィとの楽しい時間を思い返し、うっとりしていた。 そこへ、若いメイドが朝食を片付けにやって来て、大広間でキアランやカーター氏が待っている事を告げたのであった。

――ポカをするところだったわ!

ルシールは手早く身の回りを確認すると、大広間に急いだ。

クロフォード伯爵邸の有能極まりない執事が、どうやって人の動きを察知するのか、素晴らしいタイミングで大広間の扉の前に居た。 濃い色の髪をピッチリと撫で付けた中年の執事は、丁重な所作で大広間の扉を開き、 ルシールの来訪を大広間の中の人々に告げつつ、ルシールを中に入れた。

伯爵家の本邸たる豪邸の大広間だけあって、壮麗な部屋だ。扉の先に広がる光景に、ルシールは思わずクラッとする。

最初に目に入ったのは、淡い模様の大理石でできた滑らかな床と、そこに敷かれた豪華な絨毯だ。 舞踏会場としても充分なスペースが広がっており、広い天井を各所で支えるための壮麗な柱が規則的に設置されている。

大広間は館の広大な中庭に接している。中庭との連絡口を兼ねている大窓が、 重厚なビロードのカーテンに縁どられつつ並んでいた。

大窓はおおむね南向きだ。しかし、庭師の腕が良いのであろう、庭木が絶妙な配置で並んでおり、 しなやかに伸びた枝葉が夏場の直射日光を上手く遮る形になっている。真夏でも、大広間の中は爽快な状態だろうと予測できる。

普段の大広間は、談話室を兼ねているらしい。 大広間に付き物の柱時計や陳列棚、各種のチェスト、キャビネなどと言った家具――いずれも一級品だ――と一緒に、 ソファ&ローテーブルのセットと、椅子&円卓のセットが各所に配置されている。 流石に普段使いの談話室としては広すぎるのか、衝立で東・中央・西の三つのスペースに仕切られてあった。

朝食が終わったばかりの時間帯という事もあり、大広間の中には、ルシールの案件の関係者以外には、特に人は居ないようだ。

仮に仕切られた中央スペースのソファセットに、キアランとカーター氏、そしてもう一人の見知らぬ中年の大男の三人が居た。 ソファが囲んでいるローテーブルの傍らには、茶器セットを備えた移動テーブルがある。

ルシールが大広間の扉の前で戸惑っていると、 既にソファ席から立ち上がっていたカーター氏が、穏やかに微笑みながら歩み寄って来た。 カーター氏は、ルシールをエスコートするための手を差し出しつつ、朝の挨拶を口にした。

「お早うございます……昨日の長旅では、思いのほか疲れていたようですね」
「ご心配おかけいたしました……」

――まさか、マティと子犬のパピィの事で、うっかり失念していたとは言えないわ……

ルシールは面目無さそうに顔を赤らめながら一礼した。 そして、カーター氏のエスコートを受け入れ、ソファまで連れて来られる形となったのであった。

ルシールがソファに近付くと、キアランと見知らぬ大男も、紳士らしく立ち上がって来た。 既に日中の気温が高くなっており、二人はシャツ&ベストという気楽な服装だ。ただし、クラヴァットはきちんと締められている。

「こちらとは初対面ですね……プライス判事です」

キアランは、揉み上げの目立つ中年の大男を、ルシールに紹介した。

プライス判事は、短く刈り上げられた癖の強い赤っぽい髪と、陽気そうな灰緑の目をしていた。 ルシールの何処がツボにハマったのかは謎だが、プライス判事は、無言ながら満面の笑みを浮かべている。

「今回の案件の係争相手、 タイター・ビリントン氏はトラブルの多い人物だと言う話がありますから……問題発生の時は、 プライス判事に相談すると良い」

キアランの助言に、ルシールは素直にうなづいた。

「お世話になります……プライス様」
「初めまして、ライト嬢。噂以上に可愛らしい方ですな」

プライス判事は、その大きな体格とガッチリとした風貌に相応しい、太く轟くような声で応えて来た。 大振りな所作で一礼すると、ルシールの小さな手を取り、敬意を込めて口付けをする。

「噂……って、どんな内容ですの?」

ルシールは目をパチクリさせ、雲を突くような大男そのもののプライス判事を、おずおずと見上げた。

――まさか、治安判事だけに、今朝のマティの事がバレたとか……!?

しかし、プライス判事は、ユーモアたっぷりのウインクと共に、予想外の返答をして来たのであった。

「なに! 如何にお嬢さんが可愛らしいかと言う事を、キアラン君がそれは熱心に説明しまして」

――あの無表情で、威圧的で、気難しそうなリドゲート卿が……?

幾ら何でも、想像がつかない。それに、下手にキアランの方を振り返って、 その突き刺すような視線にギョッとしないでいられるような自信は、全く、無い。

ルシールは戸惑いながらも、曖昧な笑みを浮かべるのみだった。

*****

ルシールがカーター氏の隣のソファに座るのを待って、キアランも座に着いた。

「父は目下、脚の件で医師から安静状態を指示されているので……この案件では、私が父の代理を務めます」

ルシールはギクシャクしつつ、「はあ」と返すばかりである。

中央のローテーブルを挟んで真向かいにキアランが座っているので、どうにも落ち着かない。 しかし、ルシールの困惑など知らぬげに、キアランはゆったりと座っていた。 ホームベースならではの余裕もあるに違いない。

「昨夜は寝付かれなかったですか? 部屋が合わないようなら、今日にも差し替えますが」
「い……いえ! お蔭様で! お部屋はとても気に入りました!」

ルシールは冷や汗をかきながらも、何とかコメントを述べ切った。挙動不審に見えないことを祈るばかりだ。

――あの部屋じゃ無いとまずい……可愛いマティとワンちゃんが追い出されてしまう!

カーター氏は文書を改めると、ルシールの方を振り返り、説明を始めた。

「弁護士事務所からの連絡で……やはりタイター氏は、こちらに出向きたくないと言っています」
「私の親戚の?」
「ええ。勿論、相続に関する談判が必要で――ライト嬢の身辺安全を考え、 タイター氏に此処に出向するように要請していたのですが」

カーター氏は、タイター氏の名で送付された書状をルシールに示した。 ルシールは、その書状を受け取ると、疑念の面持ちで文面を確認し始めた。

「そんなに危険な人物なんですか?」

キアランの隣に座っていたプライス判事が、困惑混ざりの苦笑いを浮かべながらも、ルシールの疑問に対して解説を加えた。

「リスク回避です。タイター氏には、ギャング繋がりの噂がありまして……ライト嬢は、難しい親戚をお持ちですな」

書状の内容については、ルシールに先立って、キアランとプライス判事も目を通している。 プライス判事にしてみれば、問題の書状をカーター氏がルシールに手渡した事は、 正直言って、『大丈夫なのかよ!?』――という類の驚愕なのであった。

問題の書状には、如何にもギャングらしい乱暴かつ粗暴な筆跡と、下品な言葉遣いの文章が並んでいるのだ。 『知性と教養』というものの存在を一かけらも感じられない、その凶悪的なまでの下品さを極めた文面と来たら、 『読むに堪えられる文字が書ける』という事実の方が、いっそ驚きだ。

「……この尊大なる、ワシ、幽霊女と話し合う、趣味は、無い……?」

常識的な人々の前ではとても口に出すことができない、下品な言葉遣いが並ぶ実際の文面を、 ルシールは苦労しながらも解読しようとしていた。

そもそも文面のほとんどを占める悪口雑言、罵詈雑言、罵倒、悪態……などといった卑俗かつ低俗な言い回しの群れは、 ルシールにとっては初めて見る物ばかりだ。 実際ルシールは、それらの語句の発音を知らないので、声に出して読み上げる事もできない。

ルシールの顔には、「意味不明」「理解不能」といった類の四字熟語が、ハッキリと書いてあった。

「ライト嬢は、最近まで『生死不明』でしたから……」

カーター氏は、そのように臨機応変の解説を加えながらも、とりあえず、 ルシールが第一の取っ掛かりとなる書状の要点を理解した事で、ホッとしていた (キアランは、相変わらずムッツリとした無表情のままだった)。

ごねるタイター氏を、 何としても直談判に引きずり出すしか無い――生真面目に眉根を寄せて思案していたルシールは、 いっそう眉根を寄せ、真剣な表情になった。

「私から一筆書いた方が、効果ありそうですね」

*****

ルシールは、筆記作業しやすい円卓の方に移動すると、文書作成を始めた。

流麗な文字でタイター氏に一筆したためているルシールを、プライス判事は感心したように眺める。

「色々と驚きだ……彼女は、レディと言っても通るぞ」
「雇い主が貴婦人で、レディとしての教育はその人が授けたそうです」

カーター氏の受け売りではあったが、キアランは、そのように端的に説明したのであった。

その頃、大広間に続く廊下を軽やかに駆けて来る者があった。大広間の扉が勢い良く開かれ、 果たしてマティが、明るい茶色の目をキラキラさせながら飛び込んで来たのであった。

「ねえ、キアラン! 東の端の部屋に新しく来た人が居る筈だよね!? 探しても居ないんだけど――」

言葉を続けようとしたマティは、大広間に目当ての人物が居る事に気付き、目を見張った。

「居た……!」
「おや、坊主のお出ましか」

プライス判事はマティ少年を良く知っている様子で、陽気に声を掛けた。 ルシールは、マティのいきなりの再登場に目を丸くするのみだった。

マティは一瞬の絶句の後、ルシールを指差して、「レディ・アメジスト!」と声を上げた。

「レディ・アメジスト?」
「とっくに知り合いとは、マティもやるね!」

不思議そうなキアランと、陽気な判事を差し置いて、 マティは「身柄確保!」などと言いながら、ルシールに向かって一直線に駆け寄って行った。

「おい、こら、マティ!」

プライス判事が驚く程の素早さで、サッとマティをつかみ上げた。

「彼女は今、お手紙を書いているのだ」

大男に高々とつかみ上げられて、脚の回転を止めるマティである。

ルシールは「今、お手紙を書き終えたところですから……」と、ニッコリ微笑んだ。

おや、と言った様子で、カーター氏は「子供はお好きですか?」とルシールに問いかけた。

ルシールはうなづき、カーター氏との初対面となったあの朝は、近所の教会で主婦を中心とする早朝バザーが開かれていて、 その間、子守のボランティアをしていた事を説明した。

「成る程、それであの時間ですか」

――と、カーター氏は納得したのであった。

プライス判事に吊るされる形となったマティは、それでもルシールを熱心に見ながら、訳の分からぬ事を言っている。

「目の色が茶色!?」
「マティは、この館の子供……?」

ルシールは戸惑いつつも、マティを振り返る。

キアランが相変わらずムッツリとした様子ながらも、プライス判事の手からマティを受け取った。 そして、プライス判事と同じようにマティを吊り下げながら、人物紹介を始めるキアランである (実は、これはこれで、キアランなりのユーモア・サービスなのだ)。

「彼はマティ・トッド、今年九歳になります。クロフォード伯爵家の親族トッド家の末子で、 両親の海外出張に伴い、当家で預かっています。 目下の後見は、彼の祖父です――いずれ、マティが紹介するでしょう」

マティは観念したように、大人しく吊り下げられている。 それがまた、プライス判事の陽気な吹き出し笑いを刺激したようであった。

キアランは、ほぼ同じ位置に顔が来ているマティをヒョイと回転させ、顔を見合わせた。

「――で、マティは、もう彼女の名を突き止めたか?」
「残念ながら『ライト嬢』ってとこまで」

ルシールには全く分からない――おそらくは男同士の間だけで通じるのであろう――謎の理由とタイミングで、 キアランはマティを床に降ろした。

「では、私の勝ちだな。彼女はルシール・ライト嬢だ。復活祭の時の如きイタズラを控えて、 本物の紳士らしく振る舞いたまえ」
「アイアイサー」

キアランの謎の勝利宣言と口頭注意を受けて、マティはコミカルな仕草ながら本格的な挙手注目の敬礼をしている。

「全く恐るべきイタズラだったからな! ありゃ」

プライス判事が大笑いしながら、突っ込んだ。

――マティは、リドゲート卿の事を全く怖がっていないのね。

親族だけあって、不思議に気が合っているらしい。

ルシールは意外に思いながらも、その微笑ましいやり取りを見つめたのであった。

5.クロフォード伯爵邸…忘れえぬ面影〔二〕

正午より少し前の刻。

大広間での相談が済み、カーター氏とプライス判事は館を退去し、町に戻って行った。 キアランもアシュコート訪問の間に溜まっていた仕事があり、ルシールの案内をマティに任せる形になった。

「マティは頭が良い……あなたを退屈させないでしょう」

――リドゲート卿は、マティの頭の良さを随分と買っているようだわ。

ルシールは不思議に思いながらも、素直に受け入れる。

「それから、この敷地を出る時は執事に言って下さい。護衛が付きます」

ルシールは、キアランが追加した注意の意図が、すぐには分からなかった。 しかしマティは、即座にそれを悟った様子で、正面階段の手すりの上から身を乗り出しながら驚きの声を上げた。

「狙われてんの!?」
「ライト嬢は、タイター氏と係争中なのだ。彼の事は、マティも知ってるだろう?」
「ギャング=タイター! テンプルトンじゃ、知らないヤツはねえよ!」

――私の親戚は、みんな変な意味で有名人だったりするのかしら?

ルシールは呆気に取られる他にない。ルシールが呆気に取られているうちに――キアランは多忙なのであろう、 速やかに執務室へと引っ込んで行ってしまったのであった。

マティは驚き覚めやらぬといった風で、正面階段の手すりに変な風に乗り上げた。

「じゃーあれ、本物の果たし状!? すげーよ! 『尊大なるタイター様』なんて、変な書き出しだと思ったけど」
「どうやら私は、エラい親戚に喧嘩を売ろうとしてるみたいね」

――マズい内容の返し状を作成してしまったのかも知れないわ。

ルシールは頭を抱えるのみであった。

マティは、階段の手すりから降りてルシールに更に接近すると、改めてルシールを熱心に観察し始めた。 ルシールは大人の女性にしては小柄な体格であり、少年マティとの背丈や体格の差も、それ程大きくない。 階段の一段上に陣取ったマティとは、ややズレはあるものの、ほぼ同じ高さの目線になっていた。

マティは「……やっぱり、茶色の目?」などと首を傾げている。 やがて、マティは何かを思いついたようで、「これを、こうじゃ」と言いながら、ルシールの顔を明るい方に傾けた。

「……あーッ、分かった!」

マティはいきなり大声を上げた。ルシールの驚愕をよそに、マティは謎の納得顔をしつつも、 絵本に出て来る名探偵のような気取ったポーズを取って、クルリと向きを変えた。

「何か、すごーく勿体無いような……、オイラだけの秘密にしたいよーな……」

テンポ良く、クルクルと変わるマティの様子に、ルシールは目を白黒するばかりだ。

マティは、絵本に出て来る名探偵さながらの決めポーズで、半身を返す。 何か楽しい事を企んでいるような、意味ありげな目付きでルシールの方を見ながら、これまた意味ありげな口調で喋り始めた。

「昨日、馬車で来た時も、その黒服だったよね……白い服は着ないの? ……寝巻きだけ!?」
「白い服は無いけど、……それが何か意味ある?」
「大有りさ!!」

マティはルシールの目を指差した。ルシールの目は、正面階段に降り注ぐ光が入ってアメジスト色に変わっていたのである。

「光が入ると目が紫色になるんだよ! 白い服なら光の量が多くなるから……」

今まで考えもしなかった事実を指摘され、ルシールは顔を赤らめて戸惑うばかりであった。

「今まで私、目の色は茶色だと思ってた……」
「何で、カーテンみたいに前髪下げているんだか……陰になるから、茶色の目に見えるんだよ」

マティは不思議そうにしながらも、目を半ば覆い隠す形で深く下ろされているルシールのセンターパート型の前髪をつかみ、 カーテンを開くかのように両脇に押しやった。

更に色合いを変え、宝石のような鮮やかさになったアメジスト色の目と共に、妖精のような繊細な顔立ちも露わになる。

ルシールは戸惑いながらも、まぶしさに目を細めた。

「ああ……、まともに光を見ると、まぶしいから……」
「そうなの?」

ルシールは光に目を慣らすため、パチパチとまばたきした。流石に急に明るい光が入るとビックリするのだが、 それでも、こころもち長めの慣らし時間をおくと、だんだん平気になって来る。 明るい光に慣れるための時間が、平均的な人より少し長くなっているのだ。

マティは少し心配そうにルシールを見ていたが、やがてルシールが平気な様子になって来たのを確認して、ホッとした顔つきになった。 そして、正面階段の上、キアランが立ち去って行った方向に向かうと、得意そうな顔つきでガッツポーズをした。

「フッ……キアラン、オイラの勝ちだぜ!」
「一体、何を勝負してるんだか」

――と、思わず突っ込むルシールなのであった。

ルシールは、正面階段の周りに広がっている古風な装飾や、 いにしえの騎士の時代にまでさかのぼる年代物の品々を感心して眺めた後、頭上に広がる吹き抜けの高さに見入った。

「この館は素敵ね……伯爵様は、長くいらっしゃるの?」

マティはうなづき、ルシールを手招きしながら上のフロアへ上がって行った。

「都のお仕事以外は、こっちだって……まず画廊を案内するよ! 北側だから、前髪上げてても平気だよ」

画廊は、最上階のフロアにある。メインの廊下と同じくらい長く伸びた画廊には幾つかのドアがあり、 マティはそのうちの一つを開けて入って行った。ルシールも後に続く。

画廊には多数の絵画が掛けられており、さながらちょっとした美術館と言った趣だ。 いにしえの騎士の時代に由来すると思しきアンティークの品々も、置物よろしく一緒に陳列されている。

代々のクロフォード伯爵家の人々なのであろう、壁には相当数の肖像画が並んでいる。 ルシールは興味を持って、最近の肖像画に描かれた人々とその名前を順番に見て行った。

流石にサイズの大きいものは、代々のクロフォード当主の肖像画と推測できた。 フレデリック・セルダン、ベネディクト・ダグラス……途中で、不自然な程に短い年数のうちに氏名が変わっていた――が、 ルシールはボンヤリと流していた。不意にルシールの目を引く肖像画が出て来たのである。

その肖像画は割合に小さなサイズではあったが、ルシールは描かれた夫婦らしき二人の男女の面差しに見入った。

――この軍服をまとった黒髪の紳士は、リドゲート卿に良く似ている……

額縁に付けられたプレートには、『ロイド&ホリー・グレンヴィル』と刻まれていた。 この画廊に並べて掛けられているという事は、このグレンヴィル夫妻は、クロフォード伯爵家の親族か、先祖だという事だ。 ルシールの中に、ジワジワと納得の思いが広がって行った。

――リドゲート卿は、この人たちの血が強く出たんだわ。

ロイド・グレンヴィル氏は灰色っぽい青い目をしていたが、その黒髪と強い眼差しは、 キアランの父親と言っても不自然では無い。あと数年もしたら、キアランも大体こんな感じになるだろう。 グレンヴィル夫人ホリーは、黒い目と思慮深そうな雰囲気を持った知的な美人で、 不思議に惹きつけられる神秘的な笑みを湛えていた。

――目はけぶるように細められ、口元は控えめなアルカイック・スマイル。ミステリアスな魅力がある。

ルシールがしげしげと肖像画を見ていると、先に行っていたマティが、一枚の肖像画の前でルシールを呼んだ。

「今の伯爵は、この人だよ……リチャード・ダグラス」

ルシールはマティの隣に並んだ。

その肖像画は、画廊中央の重厚なマントルピースの上に掛かっていた。 此処は、現在の当主の肖像画が掲げられる定位置である。

流石に、クロフォード伯爵家の当主ならではの、比較的大きなサイズの肖像画だ。 そこに描かれた紳士は20代半ばから後半と思われる若さであったが、その涼やかな目元には見覚えがある。 その穏やかな笑みは、昨夜見たものと全く同じ柔らかさを湛えていた。

「20年以上前に爵位を継いだ時に描かれたんだって……今も、老けた他は変わってないね」
「昨夜、お目にかかったわ……昔から素敵な方だったのね」

マティはクルリと振り返ると、興味深そうな顔でルシールをマジマジと眺め始めた。

「もしかして、こういうのが好みなの?」
「まあ……何となく……」

マティは妙なところで、やたらと鋭い。まさに図星であり、ルシールは思わず頬を赤らめていた。

照れ隠しもあって、辺りをキョロキョロと見回す。 すると、壁際に並ぶ椅子の一つに、古そうな小型ハープが置かれているのが目に入った。

――これも、先祖伝来の品というか、置物の一つかしら?

しかし、驚いたことに、弦は新しく張られたばかりの物だ。

試しに爪弾いてみると、整備された音程ではあるが調律が甘く、微妙に狂っている。 しかしながら、楽器としては年季が入ったお蔭か、ハープ本体の共鳴は素晴らしい物になっていた。 年季の入ったバイオリンが優れた音色を出すのと同じである。

後世の音響工学が施された改良タイプに比べれば扱いにくいだろうが、 弦を一本一本、正確に調律しておけば、充分に演奏に堪えられる状態だ。

何故ここに、こんなハープがあるのか。ルシールは疑問顔でマティを振り返った。

「弦が緩んでるけど、現役のハープよね……」
「ハープが弾けるの!? すげーや! 何か弾いて!」

*****

画廊の隅で、ハープ音楽が流れている――

「プロ並みの腕前……」

マティは、すっかり感心している様子だ。ルシールはニッコリと微笑んで見せた。

「アシュコートのオリヴィア様が師匠だったの。 私が母から教わったのは庭園の魔法……祖父が庭園のプロだったと聞いてるけど」

マティは、すぐに知人に思い当たった。

「アントンの事だよね? 年末年始に此処に親族で集まった時、見た事があるんだ。 此処の館の庭園を管理していて――ものすげえ偏屈なガミガミじーさんって感じだった」

ルシールは目をパチクリさせた。

「あッ……でも、庭園の管理は、とても上手いって聞いたよ」

ルシールの意外そうな顔を見て取ったマティは、自然にフォローを続けた。

「あのガミガミ・アントン……確か茶色の目をしてた――けど、もしかしたら、 ルシールみたいに紫色に変わる目をしてたかも知んない」

自信無さげに追加するマティである。

「若い頃は割とイケてる顔立ちだったのかなあ」

実際、ルシールの濃い茶色の髪は、アントン氏の髪と同じ色なのだ。

マティとルシールが夢中で談笑しているところに、杖を突いた老人が現れた。 老人はルシールを見るなり――驚愕の表情で立ち尽くした。

人の気配に気づき、マティとルシールは一斉に振り返る。マティが目を見開いた。

「あッ……じいじ!」

杖を突いた老人は、マティの祖父だったのだ。 70代の頃であろうか、クロフォード伯爵より一回り二回り程度は年寄りと言った風だ。 暗色系のスーツをキチンと着こなしており、寄る年波にやつれた印象はあるものの、 その雰囲気には、年季の入った端正さがある。

老人は、ルシールの顔に釘付けになったまま、すっかり青ざめている。不自然なまでの挙動不審だ。 老人は、まるで幽霊でも見ているかのように震えているのだ。

マティがビックリして、祖父の異変を見つめた。

「私の目が、どうかしただろうか……あなたは……アイリス・ライト嬢その人に見えるのだが」
「アイリス・ライトは、私の母です」

ルシールもまた、老人の挙動不審を不思議に思い始めていた。

実は、マティが前髪カーテンを開いた結果、ルシールの繊細な面差しは、 ほぼ露わになっている状態であった――前髪に塞がれていない大きな目は、ほのかにアメジスト色を帯びているのだ。

「ああ……思わず失礼をして……余りにも驚いたので――アイリスさんに、生き写しだ……」
「伯爵様にも同じような事を言われましたわ。母は金髪で、私は茶髪ですが……そんなに似ているんですか?」
「どういう事だよ、じいじ! オイラの知らぬ間に」

マティが老人に飛び付く。老人は困ったようにマティを見下ろした。

「慌てるな、マティよ……椅子を持って来てくれんか」

老人は杖を突いているとは言え、長く立っているのは辛そうな様子である。

マティが椅子を引きずって来ると、ルシールが気遣って差し出した手にすがり、老人はゆっくりと腰を下ろした。 最初の衝撃が過ぎ去った後は何らかの納得がいったらしく、老人はルシールをしげしげと眺め始めた。

「しかし、あなたがハープがお出来になるとは驚きです。これは、私の亡き妻の物なのです」
「それは済みませんでした」
「いやいや……そのハープは、いつでも弾いて良いですよ。私は腰が痛くて、ずっと放置していたもので」

ルシールもマティも改めて各々腰を下ろし(マティは小さい机の上に陣取った)、 老人は一息つくと、自己紹介を始めた。髪はすっかり白くなっていたが、マティと良く似た明るい茶色の目をしている。

「マティの母方の祖父、クレイグです。現在は腰の痛みで引退しましたが、昔、ダグラスの地所の牧師を務めました」

牧師――雰囲気や物腰の端正さに年季が入っているのも、当然だ。 ルシールは納得し、引っ掛かった部分を疑問にして、口を開いた。

「ダグラスって、今の伯爵様の氏名と同じ……?」
「うん、昔、先々代だかの伯爵が急に亡くなった時、一番目の跡継ぎの子爵が失格しててさ。 ダグラス家の伯父さんたちが伯爵に繰り上がったんだよ。その跡継ぎに次ぐ爵位継承権を持つ、クロフォード直系親族でもあったんでさ」

マティが目をキラキラさせながら、クロフォード伯爵家の事情をかいつまんで解説して来た(マティは非常に頭が良いのである)。

ルシールは目をパチクリさせて、老クレイグ氏とマティを見比べた。

「伯父さん……って……クレイグ様は、伯爵様のご親戚なんですか?」

クレイグ氏はうなづいた。

「クレイグ家はダグラス家の傍系で――偶然ながら、私はリチャードの……クロフォード伯爵の叔父なんです。 クロフォード方とは血が繋がっていないので、爵位継承権は無いですが」

ルシールは感心して、目を丸くした。確かに血縁ならではの物か、伯爵と似通う部分が端々に見られる。

クレイグ氏はおもむろにマントルピースの方に首を傾け、 その上の壁に掛かっている若き日の伯爵の肖像画を、感慨深げに見やった。

「今の伯爵は、両親を早くに亡くしていて……彼には兄も居たが……私がまとめて後見をしとりました。 あの頃は……まさか、宗家直系の子爵が失脚するとは――ダグラス家が宗家に繰り上がるとは――夢にも思わなかった」

ルシールは、クレイグ氏の昔語りに興味を持って、慎ましく耳を傾けていた。

――伯爵の叔父に当たるお方がそう言うのだから、伯爵本人も、いっそう戸惑ったに違いないわ。

自分が生まれる前の話だからか、マティ自身は、ギクシャクとした部分を全く感じていない様子である。

「ダグラス家の伯父さんたちは、二人兄弟なんだ。兄の方が先に伯爵になって、それが先代。 先代も急に死んでしまったんでさ……」

ルシールは、今聞いた話を何とかまとめようと、頭の中を整理し始めた。

――伯爵様には、お兄様が居た。お兄様は、今は亡くなられている――

そこで、ルシールの脳裏に閃くものがあった。先ほど見た、グレンヴィル夫妻の肖像画を思い出す。

――あの人だわ。キアラン=リドゲート卿の顔立ちが、 父親に当たる筈のクロフォード伯爵といささか雰囲気が異なっているという理由が、これで綺麗に説明がつく!

――伯爵のお兄様のフルネームは、ロイド・グレンヴィル・ダグラスと言ったのかしら?

氏名についての疑問を、口に出そうとしたルシールであったが――

その時、クレイグ氏が先に口を開いた。 ルシールの面差しの中に、かつての忘れえぬ面影をハッキリと見ているのであろう、クレイグ氏は懐かしそうな顔をしていた。

「リチャードから、あなたの話を聞きましたが……リチャードが……伯爵が驚いたのも、無理は無い。 アイリスさんに良く似ています。しかも、同じ紫色の目をしている……」
「前髪で塞いでないから、光が入って……」

ルシールは戸惑って、目をパチクリさせつつ、顔に手をやった。他人に、目の色が紫色だと言われても、実感が無いのだ。

「何だよ、目の色の秘密はオイラが第一発見者なのにさ!」
「彼女の母親は、見事な金髪のお嬢さんでな……それは美しいアメジストの目をしとった」

マティは机の上でむくれ始めた。クレイグ氏は愉快そうに笑い声を立てていた。 ルシールは頬に手を当てたまま、ポカンとして、クレイグ氏を眺めるばかりだった。

「良くご存知なんですね……母とは、何処でお会いになったのですか?」
「テンプルトンですよ」

ハッとするルシールに、クレイグ氏は説明を続けた。

「そこは、昔の……『前の子爵』の地所だったのです。 失脚前の『子爵』は、クロフォード伯爵家の筆頭の跡継ぎだったと言う事もあって――特にローズ・パーク邸は、 ダグラス家も含めて、地元の多くの良家が訪問する場所でした。今でも、クロフォード領内の地元社交界の名所ですよ」

聞いてみれば成る程である。ルシールはドキドキしながら、 まだ見ぬローズ・パークについて様々な想像を巡らせるのであった。

――ダグラス家がクロフォード伯爵家を引き継ぐ前の時代、 かつて第一位の爵位継承権を持っていた『子爵』と言う人の館が、ローズ・パーク邸だったのだ。 その『子爵』の失脚に伴って、ローズ・パーク邸の主人も、子爵からオーナー協会に変わった――

6.クロフォード伯爵邸…老庭師の倉庫

画廊では、再びルシールが奏でるハープ音楽が流れていた。

執事が、画廊の様子を見に来た。館内を巡っている間に、ふと気付いたのである。 画廊の中ほどに、クレイグ氏とマティとルシールの三人が居た。

執事がお盆を器用に取り回し、声を掛けながら近付いて行くと、三人は揃ってクルリと振り返った。ハープ音楽が止む。 執事は伯爵の部屋へお茶を運ぶ途中だったのだが、クレイグ氏がピンと来た様子で、執事と言葉を交わし始めた。

「ワイルド先生の、リチャードへの往診が済みましたか」
「ええ……、旦那様はクレイグ様をお待ちですよ」

一方、マティは、ちゃっかりとルシールの手を握り締め、 「今度は、此処のガーデンを見てみたくない?」などと誘っているのであった。

マティとルシールが手に手をつなぎ、姉と弟のように連れ立って画廊を退出する。

「マティ様は、ライト嬢を気に入られたようですね」

執事が興味深そうに呟く。クレイグ氏は、ホッとしたように微笑んでいた。

そして、執事とクレイグ氏も、画廊を後にする――

マティは、ふと振り返り、祖父の足の運びが少しばかり軽くなっている事に気付いた。

――足の調子が、変わっている……?

*****

いつの間にか正午を過ぎて、穏やかな春の昼下がりの刻である。

館の前庭から続く庭園の入り口で、春の陽射しを楽しみつつ散策する、マティとルシールの姿があった。

流石にルシールは、ボンネット風の帽子をキッチリと留めて、眩しい陽差しから目をガードしている。 傍では、子犬のパピィが何故か興奮して、 キツネのようにモフモフとした亜麻色の尻尾を振り回しながら、楽しげに走り回っていた。

マティは『パピィの家』という秘密の場所に、ルシールを案内していた。

客人用の散策コースから外れた場所で、周りの木立に巧みに溶け込むようにして、 常緑性の樹木が、一年中変わらぬ生け垣を作っている。 人の背丈より高い緑の生け垣の中に囲われているため全く見えないのだが、ささやかな空き地があるらしい。 生け垣の上に、何やら平屋建ての小屋の屋根らしき物がのぞいている。

マティが、目印の大木の根元をクルリと回り、盛んに手招きした。

大木は生け垣の角から立ち上がり、偉大なる主よろしく広々と枝葉を広げている。 さながら生け垣に囲まれた空き地の屋根と言った風だ。大木の横に、ポッカリと入口が開いている。

ルシールは感心しつつ、マティの後に続いて、秘密基地めいた入口をくぐった。

常緑性の樹木が作る生け垣に囲われて、小屋が建っていた。見るからに倉庫という感じの小屋だ。 いずれにしても小屋の筈なのだが――その有り様は、ルシールを絶句させる物だった。

「――これが、犬小屋?」

ルシールは、破壊し尽くされた小屋の前で足を止めた。

「何だか、えらく破壊されているけど……庭園管理のための道具の倉庫よね……おまけに雨漏りするじゃ無いの」

倉庫のドアと思しき部分は、すっかり粉砕されていた。

辛うじてドア枠に相当すると思われる骨組みが残っており、散々に破れた板がへばりついていると言った風だ。 マティが一応は片づけたのか、元ドアだったと思しきボロボロの板切れの山が、小屋の脇に出来ている。

他の壁も、屋根の部分も、ドア部分ほどでは無かったが相当に痛めつけられたと見え、 大きくひしゃげた板が剥がれたり飛び出したりしていた。

大きく歪んだ隙間を通して、明らかに庭園道具と見える数々が、雨ざらしになっているのが見える。

マティがルシールを振り返り、解説を始めた。

「今は庭師が居ないんだ……誰にもバレずに犬を飼えるって訳」
「庭師が居ない?」
「三ヶ月前にアントンが死んだ後、まだ決まってない」

これ程に破壊された小屋では、成る程、間に合わせの犬小屋以外には、適当な利用法が無いようだ。

ルシールは困惑するしか無かった。 毛布を持ち込めば、子犬に必要な保温は確保できるが、屋根も壁もこれ程に破壊されていては、雨風を防げない。 現に、日中の気温が高くなったため乾き始めてはいるものの、床には水溜りの名残が、シッカリとあるのだ。 マティが館の客室のバルコニーにパピィを連れ込むのも、当然なのである。

小屋の中の物が目当てならば、 鍵を壊すだけで済んだだろうに――倉庫全体を破壊するとは――犯人はきっと野蛮人に違いない、 と思うルシールであった。

ルシールは、マティの後を付いて、恐る恐る倉庫に入った。 いつ何が起きるか分からない程に破壊されている状態という事もあり、 倉庫の奥へ乗り込むというような、スリル満載の探検は出来なかった。 比較的動きやすい簡素なデザインとは言え、ドレス姿では、どうしても慎重にならざるを得ない。

屋根の穴から洩れる昼下がりの陽射しの中、ひとかたならぬ関心をもってキョロキョロと見回してみる。

外見こそ破壊されて無残な物ではあるが、倉庫の中は意外に片付いている。 三ヶ月も人が入らなかったと言うだけあって、歪みや傷みは目立つものの――中の物はゴチャゴチャと落ちておらず、 足元は、さほど危険な状態では無かった。

――奇妙に馴染み深い空間。

ルシールはその理由を考え、すぐに、スコップや熊手といった各種の庭園道具の並び順が、 自分の知っているパターンと全く同じだと言う事に気付いた。

――母も、こういう収納パターンだったわ。

まるで、此処に母が居るような気もして来る。隅に並んだ収納箱の中に、どういう種類の道具があるのかも、 何となく分かるのだ。ルシールは、懐かしさすら覚えていた。

ルシールはふと、隅に近い床の中ほどに、剪定用の小型ハサミが放り出されている事に気付いた。 その小型ハサミだけ本来の収納場所から大きく離れているのが、不自然に目に付く。 取り付けのボックスの中に保管されてある筈の、小型ハサミ――

ルシールは小型ハサミを拾い上げると、慎重に観察し始めた。

「この倉庫が襲われたのは、ツイ最近って感じ」

パピィをモフモフしていたマティが、驚いたようにルシールに目を向けた。

「分かるの? 復活祭の頃には、こうなってた」
「四月上旬……? 理由はサッパリ分からないけど、此処を襲った犯人は、剪定用のハサミを必要としてたみたい」

マティは明るい茶色の目をパチクリさせ、ルシールが持っている小型ハサミをマジマジと見つめた。 ルシールはマティに、小型ハサミの刃の部分を示した。

「プロの庭師なら、使った道具をそのままにしないわ……錆びちゃうもの。此処に、樹液のシミが見えるでしょ」

成る程、じっと見てみると、屋根の穴から洩れる光の中、錆つき始めたシミが明らかに見て取れる。 マティは感心しながら小型ハサミの刃を見つめた。

ルシールは手持ちの布でハサミの刃を磨きつつ、シッカリした作りの倉庫を見回した。

「この倉庫は……もしかして、アントン氏が管理してた……?」
「そうだよ、彼が居た頃は近付けなくて……怒るとすごく怖かったんだぜ、あのジーサン」

此処は、アントン氏ゆかりの場所だったのだ。 館の庭師も務めていたというアントン氏が、死亡した日の前日まで出入りしていた倉庫に違いない。

――顔も知らぬ祖父の手が触れた物なのだ。

ルシールは、とりあえず磨き終わったハサミを、心当たりのある所定のボックスに収納した。 改めて、視界に入る限りの倉庫の各所を観察してみる。 古い道具もあるけれど、丹念な手入れで――雨ざらしが続いたにしては状態が良い。

豪壮なクロフォード伯爵邸を取り巻く見事な庭園を――緑の城壁と回廊さながらの樹林を、これらの庭園道具が造り上げたのだ。 それも、10年以上もの時をかけて。広大な庭園だけに、大掛かりな庭園改修工事が必要になった折には、 庭園関係の臨時スタッフが、アントン氏の指示の下に動いたに違いない。 祖父アントン氏の、庭師としての腕前は、驚嘆すべきレベルであった。

――眺めているうちに、祖父の人柄が見えて来るような気がする。

もう少し倉庫の隅々を見てみたいのだが、ドレス姿では、これ以上無理は出来ないのは明らかだ。 明日にでも作業着に着替えて、庭園の方も本格的に回ってみよう……と、決心するルシールであった。

*****

ディナーの時間である。ルシールは、アップスタイルの髪型にリボンを整え、時間通りに食堂に赴いた。

執事の手引きで食堂に入ると、当然と言うべきか、ディナー用に服をきちんと整えたマティが、 ルシールを待ち構えていたのであった。

マティは、ルシールを見るなり意外そうな顔つきに変化した。思わず戸惑うルシールである。

「私の格好、何か変? 茶色のサテンのリボンを着けてるから、礼儀は充分かなってる筈で……」
「地味だから」
「……?」
「つまり、ダレット一家と比べると地味だって意味」

ダレット一家とは、また何者なのだろうか――マティはゲッソリとした様子で、「会えば分かるよ」と呟くのみだ。

一方、ディナーテーブルの主人席には既にキアランが居て、当主代理として、ルシールが席に着くのを待っていた。

ディナーが始まるが早いか、マティは陽気にお喋りを始めた。マティの舌は良く回った。 ルシールを画廊に連れて行った事、庭園のさわりだけを案内した事……

「明日はバラ園とか、東の方に行く予定だよ」

相変わらずキアランは無表情なままであったが、マティのお喋りをしっかり聞いている事は明らかだ。

ルシールが「広いお庭で、大変ビックリしまして……」とコメントを寄せると、 「それは光栄です」と、滑らかに返すキアランである。

改めて、失礼の無いようにそっと見回してみると、流石に伯爵邸だけあって、豪華さを兼ね備えた広い食堂だ。 親しみを醸し出すためか天井は比較的に低く、そこに明るいシャンデリアが下がっている。

重厚なビロードのカーテンを備えた大窓からは、ますます緑濃くなる木の葉や草が、夕べの風にサヤサヤと揺れているのが見えた。 窓の無い方の壁には冬季の暖房用の暖炉が設置されており、 暖炉の周りを彩る重厚なマントルピースの上には、趣のある種々の置物や絵画が掛かっている。

床はやはり滑らかな大理石で、天井のシャンデリアの灯りや、長いディナーテーブルの上にセットされた燭台の灯りを、 キラキラと反射していた。

今夜のディナーの面々は、キアラン、ルシール、マティの三人だけだ。ルシールは首を傾げた。

「伯爵様とクレイグ様は、お食事は……?」
「父とクレイグ殿は、上の居間で食事です。二人とも階段の昇降が難しいので」

キアランの説明は、納得できるものだった。

――成る程、伯爵は脚が悪そうだったし、クレイグ氏は腰を痛めている――

「足腰に来ると、大変ですね……お大事になさって下さいませ」
「二人に伝えておきましょう、ライト嬢」

キアランとルシールの、互いの遠慮がちな会話が一段落すると、マティがルシールの袖を引き、 再び、好奇心タップリの少年らしい、際限の無いお喋りを開始した。ルシールは笑みを浮かべながら、マティのお喋りに応える。

キアランは沈黙したまま、話の種が尽きぬ様子のマティとルシールを観察していた。

――ライト嬢は、不思議な目をしている――

蝋燭の光のせいなのか、と心の中で首を傾げるキアランである。 ふとした折に、ルシールの目は、幻の花のようにも見える優美な色合いを見せるのだ。

7.アシュコート伯爵領…交差点〔一〕

アシュコート伯爵領の辺境――ゴールドベリ邸から一番近い町、レイバントン。

朝の仕事始めの時間帯、馬車が多く行き交うメインストリートの交差点に、更にもう一台の馬車が入って来た。 角を回り、目的のロータリー部分に馬車を止めると、御者は馬車の中に向かって声を掛けた。

「ヒューゴ様の弁護士事務所に到着しましたよ、アンジェラ様」

馬車の扉が開き、春らしい爽やかな色合いのお出掛け服に身を包んだアンジェラが、元気良く降り立つ。 大きなつばの白い帽子に緑のリボンを着け、小粋な角度で被っていた。 さながらお忍びの貴族令嬢だ(実際に、本物の公爵令嬢だったりする)。

「どうも有難う、スコットさん……それじゃ、またいつもの時刻に」
「ハイ、お迎えに上がりますよ」

ゴールドベリ邸の住み込みの御者スコット氏は、了解したという風にシルクハットに手を掛けた。 そして手際よく馬車を回して、来た方向に速やかに帰って行った。

アンジェラは、前日に受け取ったジャスパー判事からの書状を確認し、ヒューゴの弁護士事務所に向かって歩き出した。 ジャスパー判事の書状には、親子認知の裁判のための法廷の召喚状が添付されていたのである。

本日十時に開廷――ロックウェル卿は、今度こそ現れるかしら?

アンジェラは半信半疑ながらも、テキパキと歩を進めた。

やがて、小さな弁護士事務所の表の窓に到着である。アンジェラの弁護士を務めるヒューゴの事務所だ。 まだ若く元手も頼りないのだが、以前の住人が良いタイミングで引っ越した事と、その際の特別な好意で、 このような一等地に近い場所に事務所を構えられたのである。

「ヒューゴさん! いらっしゃる?」
「アンジェラ! どうぞ入って!」

ストリートに面した表の窓を通して確認を交わした後、 礼儀正しく、「失礼します」と言いながら事務所に入るアンジェラである。 そしてアンジェラは、思ってもみなかった人物がヒューゴと共に居るのを見て、目を丸くした。

ヒューゴと一緒に居るのは、あの軽薄そうな金髪紳士、エドワードだ!

「――ええッ!?」
「こんにちは、お姫様……そのお出掛け服は、とても良く似合うね。お父上のためだろうけど」

エドワードはアンジェラを熱心に眺めていた。 薄いクリーム色をしたエンパイア・ラインのワンピースに、緑色の上着というファッションは、 アンジェラの宝石のような緑の目を良く引き立てているのだ。

「な……、何で、此処に、エドワード卿が……!」
「ごめんよ、アンジェラ」

ヒューゴは困ったような笑みを浮かべるばかりだった。

「先輩に相談に乗ってもらっていたんでさ……目下、暗礁に乗り上げているしさ……」

アンジェラは、開いた口が塞がらない。やがて、キッとした顔でエドワードを睨む。

「あなた……、絶対、バラバラ死体になってるわよ」
「まあ、せいぜい用心しますよ」

エドワードは、アンジェラの威嚇を全く気にしていない様子だ。公爵令嬢たるアンジェラに対する敬意を込めて、その手を取る。 流石にピカイチの出身ゆえの教育は行き届いているのか、驚くばかり洗練された所作で、 アンジェラの手の甲に挨拶の口付けをしたのであった。

*****

ヒューゴが、机の上の書類の山から一つの書状を取り出し、アンジェラに手渡した。

「ジャスパー判事から先程、連絡が届いたばかりで……ロックウェル卿も代理人も出席無し、また『無効』だよ」

アンジェラは一枚の書状に見入り――そして、気が抜けたように近くの椅子に座り込んだ。 理由は知れないが、父・ロックウェル卿は、その強大な『拒否権』で、またしても親子認知のための法廷を無効化したのだ。

元々、爵位を持つ貴族の間では、嗣子相続に関する『お家騒動』の激化を防ぐため、 血縁関係の曖昧な子孫の認知に対する『拒否権』の発動が認められている。

アンジェラの場合、ヒーラーの資格を持つオリヴィアによって、医学的な意味での身元保証は確かである。 しかし、ルシールと一緒になって出生時の記録の混乱に巻き込まれた事と、 折悪しく馬車事故でロックウェル卿が大怪我をし長く意識を失っていたという事があって、 『修正された出生記録』への、ロックウェル卿の署名サインが遅れてしまったのだ。

そして、今に至るまで、『修正された出生記録』への署名サインが空白のまま――すなわち、 公的な文書記録が曖昧なままだったのである。

アンジェラの望みは、その出生記録への、改めての署名サインだ。 正確な親子認知が成立すれば、しかる後に、正式な縁切り――男子で言えば廃嫡の手続き――が出来るのだ。 だが、アンジェラを縁切りすればスムーズに片付く話だろうに、ロックウェル卿は何故か、 裁判を起こされてなお、それをも拒否し続けているようなのだ。全く、矛盾している。

エドワードは別の資料に目を通しながらも、アンジェラを気遣うように声を掛ける。

「ロックウェル卿の拒否権発動は、これで五回目になる。法廷資金の確保は大変だろうね」
「今のところは、まだ大丈夫なの……母の貯金が残ってるから」
「しかし、それもいつまでも続くと言う訳では無いが」

アンジェラは決然と頭を上げて宣言した。

「あなたの縁組は高く売れるから、それで不足分を埋める予定よ」
「やれやれ」

エドワードは、いつものアンジェラに戻った様子なのを見て、ホッとした様子である。 次いでエドワードは、おもむろに、ヒューゴの机の上から更に数種類の資料を取り上げた――過去の裁判資料だ。

「証拠調べにしても、しかるべき書類は決定的な諸要素に欠けている……か」
「あなた……裁判記録、理解できるの!?」

アンジェラは目を丸くする。ヒューゴは机の上にうずたかく積まれている別の資料に向かっていたが、 パッとアンジェラの方を振り返り、得意そうな顔をした。

「先輩の法律の成績は、寄宿学校トップクラスさ」
「一体全体……どういう事なのかしら?」

アンジェラの反応を見て、ヒューゴは、キョトンとした顔になった。

「言って無かった? ハクルート公爵の三男で財産分与は無い立場だから、先輩は弁護士で身を立てようとしてたって……」
「ハクルート公爵……!?」

アンジェラの中で、記憶の火花が散った。以前に町に出た時、公園の新聞の紙面でも見かけた名前――

「お父上が、本当に都で大臣を務めていらっしゃる……!?」

エドワードが不思議そうな顔になった。

「もしかして、何処のシンクレア家なのか、全く知らなかった?」
「個別の構成なんて知る機会無いわよ! ゴールドベリ邸では貴族名簿の類なんか持ってないんだから!」
「驚きだね、お姫様の勘は本物の力だ……」

エドワードは感心したようにアンジェラを眺め始めた。ヒューゴがタイミング良く解説を挟む。

「アンジェラは、魔女のゴールドベリ一族の血が先祖返りで強く出てるんだそうです。 金髪に緑の目が、ゴールドベリの一族の特徴で。 アンジェラの母親、旧姓セーラ・スミスはレディ・オリヴィアの姪でしたが、目の色はレスターの黒でした。 アンジェラは、我が家系では実に神秘的な変わり者です」

エドワードは興味深そうに片眉を上げた。

「アンジェラは、レスターと血が繋がっている?」
「アンジェラも、レスターの一族の係累になるから……僕の曽祖父の弟が作ったのが、レスター分家のスミス家で」

エドワードは頭の中で素早く家系図を組み立てた。

「ヒューゴとアンジェラは、祖父が従兄弟同士……か」

アンジェラは目の覚めるような金髪緑眼の美女、ヒューゴは黒髪黒眼のひょうきんな感じのする青年だ。 二人は全然似ていないのであるが、それでも、血縁関係にあるのは事実なのである。 ヒューゴは美しい従姉妹を指し示して、ニッコリと笑った。

「ほとんど知られてない事実です」

アンジェラは疑いの眼差しでエドワードを睨み続けていた。

「あなたは見かけを裏切ってる御曹司ね……弁護士では無さそうで、 銀行家ってのも何か違ってるし――ジャスパー判事のお仲間っぽいけど、私の知らない職があるのかしら?」

エドワードは感心しきりだった。アンジェラは都の最新情報や適切な言い方を知らないだけで、 ヒントも無しに、その仕事内容を正確に言い当てている。

「先輩の都での経歴に関係があるんだよ」

ヒューゴはアンジェラに説明しながらも、手際良く外出の準備を整えている。 説明を言い終えた時には、ヒューゴは既に、シルクハットを頭に乗せていた。

「ともかく、例のバラバラ死体の人相書が上がって来たそうなんだ。 僕はこれから捜査本部の方を訪問するから――済みませんが、アンジェラをお願いします、先輩」
「任せてくれたまえ」

エドワードはうなづき、安請け合いした。

瞬く間に、ヒューゴは外出してしまった――暫し呆然とするアンジェラである。

そして、弁護士事務所の中に取り残されたエドワードとアンジェラの間で、意味深な視線がかち合った。 エドワードは何やら思案しながら、アンジェラを眺める。

「先刻も思ったけど、あなたは、そのお出掛け服がホントに良く似合ってる……」

エドワードはサッと自分のシルクハットを手に取ると、気取ってアンジェラに一礼した。

「せっかくの装いを無駄にしたくない――公園でお茶でも如何でしょう」

開いた口が塞がらぬといった風のアンジェラは、呆然としたまま、 エドワードに手を引かれて外出する羽目になったのだった。

「カータレット嬢、エリー嬢、シーア嬢、それに、ララ嬢……私の努力は……お勧めは……!」

*****

レイバントンの町の大きな交差点を成す公園は、可も無く不可も無しと言った風の標準的な庭園だ。 しかし、春の季節ならではの風光が、そこに魅力的な趣を添えている。

エドワードは公園に入った後も、アンジェラのエスコートを続けていた。 エドワードは、毎度の歩くファッション雑誌さながらの服装なのだが、チャラ男らしい着崩しや気取った身振りが無いためか、 それとも、こちらが本性なのか――お忍び中の快活な貴公子と言った風だ。見事に通行人に紛れており、それ程目立たない。

「前シーズンは、なかなか面白い事があったとか……あなたの武勇伝を聞かせて下さい」

エドワードは魅力的な笑みを見せた。 アンジェラも年頃の若い女性と言うだけあって、エドワードの快活で魅力的な笑みにクラッとするのは、必然だった。

公園でティータイムを楽しむ多くの紳士淑女に混ざって、二人も手頃なカフェテラスに席を取った。 最初はぎごちなく、しかし、やがてお互いに気が合ったのか、談笑がスムーズに進む。

アンジェラにとっては、前シーズンのメインの出来事と言えば、男同士の恋人縁組だ。

「男同士の恋人縁組!? ……J&J商会の二人は女性に人気あるのに、独身で妙だと思っていたが」
「流石に教会は男同士の結婚は認めないけど、そういう縁の形はあるとは思っています」
「あなたの哲学は自由奔放ですね」
「現実を認めているだけです、エドワード卿」

アンジェラはお茶を一服して喉を潤すと、再び話し始めた。

「常識が確定した社会だからこそ、型破りの価値が増しますもの。完全な自由は、非常識な存在を暴走させます。 『型破り』と『非常識』……似て非なるものですわね」

エドワードにスムーズに先を促され、アンジェラは気分が乗った様子で、縁組の観点からの持論を述べ始めた。

「型破り同士は驚きの良縁になるの。常識人と組むと、これまた面白いわ。 型破りな人は、『普通』をちゃんと踏まえてるから面白いってことね。でも、非常識と型破りの縁組は失敗するわ。 型破りは、非常識に耐えられないのよ。型破りって、繊細な感性を持っているの。付き合ってみると、平均以上に常識人」

アンジェラは熱弁を振るい、エドワードは興味深い内容と共に、その美しい声に聞きほれていた。

「非常識なタイプは感受性が鋭いだけに、自分の内面も発言も制御できてないから、なかなか安定しないの。 同じ非常識同士で支配服従の関係を組んだ方が安全で、それも注意深く組まないと周りも大迷惑するし、 いつかは大爆発して、損害賠償レベルの問題になっちゃうわ」

エドワードは面白そうな笑みを浮かべた。実際、頭の良い人の話は、面白いのだ。

「縁組の仕事は面白そうですね」
「縁組と言うのは、世界の謎と同じくらい奥深いものだわ」

そこで、アンジェラは急にビジネス向けの顔つきになった。

「……そう! 縁組と言えばエドワード卿! あなたは四人の淑女と赤い糸の謎を探求して――」

アンジェラが何を話そうとしているのか――エドワードは、その内容を素早く悟った。 先手を打って、意味深な顔つきで人差し指を立てて見せる。

「何ですか?」

一瞬、謎の仕草に気を呑まれ、アンジェラの目が点になる。

エドワードは物慣れた笑みを浮かべた。

「あなたは今、周りの紳士たちの目下の注目の的なんです」

確かに、通り過ぎて行く紳士の半数以上が、アンジェラの類まれな美しさを二度見しているのであった。 思ってもみなかった指摘をされ、アンジェラはポカンとするのみだった。

――何が何だか分からないけど、都仕込みの社交術や巧みな話術とやらに翻弄されていたのかしら?

その気になればエドワードは、アンジェラよりも人あしらいが巧みであるらしい。 アンジェラはモヤモヤとし始めた。気が付けば、 レイバントンの町を二人で散策しており――それは、デートと言っても差し支えないものであった。 アンジェラは、『こんな筈では無かった』と焦るばかりだった。

やがて昼下がりから夕方と言った時間である。エドワードはアンジェラに、再び満面の笑みを向けた。

「今日も時限ありますか?」
「一応、夕食に間に合うように、ゴールドベリ邸から御者のスコット氏が迎えに来る事になっていて……」
「幸運の続きを期待しましたが、時限ではそうも行かないですね。送迎ロータリーまで送りますよ」

エドワードは楽しそうにウインクして来る。

素敵な紳士だから縁組も早く固まると思ったのに、これは難敵だわ……と思い悩むアンジェラであった。

二人は、送迎ロータリーまで続く通路を歩いて行った。通路の出口がロータリーである。

――通路の出口を塞いでいる、何やら見覚えのある人影。

その正体に目ざとく気付いたエドワードは、アンジェラの行く手を腕で塞いだ。 エドワードの急な行動に、目をパチクリさせるアンジェラである。

エドワードは巧みに身をさばき、アンジェラの顔が死角に入るように腕の位置を変えた。

「彼女には見られたく無いでしょう、アンジェラ? リリスですよ……しかも、一夜の愛人連れです」

アンジェラも、前方の人影が誰なのかという事に気付き、鋭く息を呑んだ。

――贅沢で、きわどいドレス。妖艶な立ち姿。確かに、マダム・リリスだ!

「送迎馬車を待ってるらしいな……行ったり来たり……」

そうささやくエドワードの声は、常ならぬ気迫に満ちていた。 マダム・リリスとその連れの一挙手一投足に注意を払い始めた琥珀色の目には、刃のような光がある。 先刻までのチャラチャラした遊び人は――いや、それどころか、快活な貴公子さえも――何処へ行ったのかと思うほどだ。

「お父上の愛人とは、一人残らず顔見知りになるんですか? 彼女と会うとバラバラ死体になる――と、 昨日も言ってましたね」

アンジェラは慌てたように、高速で首を振った。

「実際はここ最近の愛人しか知らないの、生後六ヶ月の時以来、父とは会ってないし……」

エドワードの予想通り、アンジェラはリリスと遭遇した事ですっかり動転して、口が軽くなっていた。 手提げ袋をきつく握り締めた手が、細かく震えている。その震えは、瞬く間に全身に広がっていった。

アンジェラにとっては、マダム・リリスは恐怖の対象だ。理由は知れぬが、リリスの存在自体が、冷静さを失う原因なのだ。 蒼白になったアンジェラは、無意識のうちに、ペラペラと事情を説明している。

「一つ前の裁判で、父代理の弁護士が来なくなって――その時に、 彼女が現れて弁論して――気になって、復活祭の機会にロックウェルを訪ねてみたら……、 バラバラ死体を、見付けた、から……」

アンジェラの威勢が、急に弱くなった。エドワードには、アンジェラの考えがありありと分かった。

「成る程……リリスが弁護士をバラバラにしたのかも……とは、有り得る事ですね」
「私はそんな……」
「いや、あなたの疑いは自然です」

リリスと遊び人風の洒落た紳士は、少し前から、既に後ろの気配に気付いていた。 一見すると、金髪紳士が若い娘を通路の壁に押し付けて口説いているという状況でもあり、 次にどうなるのかと、こっそりと盗み見すらしているのであった。

「しかし、しつこいな……この類の見物が趣味と見える」

エドワードは真剣な顔でボソッと呟くと、不意にアンジェラを腕の中に囲った――

一方、マダム・リリスとその連れの洒落男は、ニヤニヤ笑いを深めていた。

「あの金髪紳士、舞踏会に居た若いツバメ? 女遊びの噂は本当だねえ!」
「頭の軽い放蕩者の金欠紳士……今度のパーティが待ち切れない訳よ」
「それにしても、女の子の方は誰だ? ほとんど見えないが――」

リリスと洒落男が立っている場所から見ると、エドワードが誰か見知らぬ少女とキスしているように見えたのである。 アンジェラの顔は、彼らの死角の中に入るように、巧みに隠されていた。

時を同じくして、送迎ロータリーの真ん中で、にわかに騒動が持ち上がった。

「キアランのクソが……! よくも、私をたばかって!」

ロータリー中に響き渡るような大声で叫びまくっているのは、 かの貴族風の中年メタボ紳士、華麗なファッションに身を包んだダレット氏だ。 その脇には、同じように華麗なファッションに身を包んだダレット夫人とダレット嬢も居た。 全員で揃って呆然とした後、全員の口から、怒りの言葉がとめどもなく噴き上がる。

いつの間にか、キアランは既にクロフォードに帰還しており、ダレット一家は揃って、 アシュコートに放置された形になっていたのである。

ダレット氏は激昂の余り顔を真っ赤にしながらも、先行馬車を操っている御者を乱暴に引きずり下ろし始めた。 馬車馬もビックリしているのか、落ち着かなげに脚を踏み鳴らしている。

「おい、こら、どけどけ! 早く馬車を出せ、一刻を争うのだ」

割り込まれた御者は、ダレット氏の剣幕に仰天するばかりだ。

「おお、でもダレット様、順番が……」
「順番なんか、どうでも良い! この私の命令が聞けんのか!」

ダレット氏の大声が送迎ロータリー中に響き渡り、近くの人々は一斉に騒動の中心に目を向けた。 流石にマダム・リリスとその連れの洒落男も、新たなる騒動の発生に目を引かれていたのであった。

「ダレット氏の横車に注目した……」

エドワードは、リリスと洒落男の注意がそれた一瞬を見逃さなかった。 「この隙に!」とばかりに、アンジェラを抱えて通路から連れ出す。

一瞬の後、リリスが再び後ろに目をやると、二人の姿は既に消えていたのだった。

*****

――ダレット一家の乱入で当分揉めるであろう送迎ロータリーは、今はまずい。

エドワードは、アンジェラを自分の馬で送る事を決心した。 得体の知れないマダム・リリスへの恐怖が先に立っているせいか、アンジェラは素直に従っていた。

町内ホテル付属の厩舎の傍らで、エドワードとアンジェラは、一頭の馬の上に相乗りになった。 そのまま、二人はゴールドベリ邸への道を急いだ。 アンジェラは、まだショックが続いているのか、蒼白な顔色をしていたが、大人しくしている。

アンジェラの状況理解が早い事に、エドワードは改めて感心していた。

――あの突然の対応にも、本気で怒っている訳では無いらしい。

身体の震えが残っているうちは、姿勢が安定しない。エドワードは落馬に対する用心のため、アンジェラの身体をシッカリと抱え込んだ。 偶然とは言え、まさに役得だ――スラリとした体格ではあるが、大人の女性ならではの柔らかさが感じられた。 ごく微かながら、白花系の清涼で甘い香りをまとっている。

――マダム・リリスとの距離に比例して震えが収まって来るという部分は、何とも正確と言うか素直と言うか。

エドワードは、アンジェラをゴールドベリ邸の前で降ろすと、通り一遍の挨拶をして速やかに走り去って行った。 アンジェラは顔をしかめながらもゴールドベリ邸の前にたたずみ、その騎馬姿を見送っていた。

そして――アンジェラのしかめ面は、徐々に、困惑顔になっていった。

実際は、アンジェラは、怒っていると言うよりは――驚きの余り呆然としていたのである。

8.アシュコート伯爵領…交差点〔二〕

翌日のゴールドベリ邸。正午に近い時間帯。

アンジェラが書斎で郵便物や文書の整理をしていると、ゴールドベリ邸の住み込みの家政婦スコット夫人がやって来た (実は、ゴールドベリ邸の住み込みの御者スコット氏と家政婦スコット夫人は、夫婦である)。

「お客様が、おいででして……」

スコット夫人は、意味深な笑みを浮かべていた。

――もしかしてエドワード卿!?

アンジェラはギョッとした。いそいそとした様子でスコット夫人が立ち去って行った後、 アンジェラは文字通り、ヘナヘナと床に手をついた。

――いい年してて、動転するなんて赤っ恥だわ! 昨日の今日で、一体どんな顔をして会うべきか……!

実際、アンジェラは、昨夜は余り眠れなかったのだ。70%がエドワードのせいで、30%がリリスのせいだ。 これまでにも、真剣に好意を抱いた男性と腕を組んだり手を繋いだり――友情のキスもしたり――した事は、一応ある。 ただし、それはアンジェラが動転していない状態での話だ。

エドワードは紳士的だった。それは間違いない。まさに『縁組サービス』の目玉商品だ。 競売で売り飛ばす方式にすれば、こちらも大儲け出来るのは確実だ。

だが、動転した状態を突かれたせいなのか――今後、エドワードに接近されると落ち着かなくなるであろうという確信があるのだ。 昨日の『キスの演技』にしても、口の端に触れていたから半分は演技では無い。 『場合が場合だから本物のキスでもOK』と言う思いが一瞬よぎっていたと言う事実は、エドワードには、絶対に内緒だ。

アンジェラは気合を入れ直し、シャキッと背筋を伸ばし、殊更におすまし顔を作って戦闘態勢を整えた――

しかし、今日の訪問客は――アシュコート伯爵一人のみであった。

アシュコート伯爵は、オリヴィアへの求婚も兼ねて、ロックウェル事件の経過報告にやって来ていたのだ。

(このご時勢だから、身辺警備を兼ねた従者を一人連れて来ているのだが、伯爵がオリヴィアと会見している間は、 従者は別の部屋で、御者スコット氏と、共通の趣味でもある魚釣り談義に興じているのである)

いつものように応接間にお茶を運びつつ、ホッとしたような、残念なような……と複雑な気分のアンジェラである。 持ち前の気の強さもあって反発しきりではあるが、エドワードに翻弄されているのは確かだった。

アシュコート伯爵は、いつものように応接間のソファに座ると、 一枚の紙を取り出しながら、オリヴィアにロックウェル事件の説明を続けた。

「昨日、バラバラ死体の人相書が完成したんだ。この人相書について奇妙な点があったので、見て欲しいのだが」

人相書を眺めた後、オリヴィアも「実に奇妙ね」と同意した。

オリヴィアは暫し考えていたが、いつものように傍に控えていたアンジェラを呼んで、人相書を手渡した。

「法廷に出ていた、ロックウェル卿の代理の弁護士かしら?」

アンジェラは人相書を手に取り、慎重に観察した。線描に水彩という簡潔な人相書ではあったが、 肖像画と同じくらいの精度で、人物の特徴が描き出されている。想像以上に貴族的な面差しの男だ。

人相書に描かれた男は、褐色の髪をしていた。40代から50代と言った年頃であろうか。

――この人が、ロックウェル事件のバラバラ死体の、主。元の顔が分からない程に破壊されていたと言う――

「復活祭を境に行方不明になった、父の代理の弁護士では無いですね」

アンジェラは軽い驚きを覚えながらも、シッカリと答えた。

謎の第三の男が登場して来たという状況だ。アンジェラは困惑するばかりだった。

「彼は一体、誰……?」

オリヴィアは真剣な面持ちでアンジェラを見やった。

「アンジェラは当時は生後六ヶ月だったから、覚えていないのも当然ね。ロックウェル卿ユージーンに似ているのよ」
「父に……!?」

その余りにも意外な言葉に、絶句するアンジェラであった。

アシュコート伯爵は眉根を寄せて灰色の目を伏せ、 白髪混ざりの銅色の髪に手を突っ込んで、かき回していた。伯爵も、相当に困惑している様子だ。

「弁護士は生死不明、バラバラ死体はロックウェル卿に良く似た男――捜査本部も大混乱なんだ」

オリヴィアは緑色の目をわずかに細めた。その目の輝きが、深みを帯びた。

「死体をバラバラにしたのは、本人を正確に特定するための身体全身の特徴を、 ごまかすためだったのかも知れませんわね。顔が潰されていたと言うのも……」

そう言って、オリヴィアは暫し目を伏せて思案した――透視能力の発動だ。 やがて、オリヴィアは一つうなづくと、アンジェラに声を掛けた。

「書斎に、25年前のライト夫人のカルテと一緒に来ていた、ロックウェル卿のカルテがあるから、持って来て。 あれには馬車事故で出来た傷痕の全ての記録があるから、何かに役立つ筈――ヒューゴさんに提供しておきましょう」

オリヴィアの透視ビジョンは、極めて精度が高い。アンジェラは了解し、一礼した。

アシュコート伯爵は青い顔をして、そのやり取りを眺めていたが、やがて他にも報告すべき内容を思い出したのであろう、 気を取り直して茶カップを手に取った。

慎ましく応接間を退出し始めたアンジェラの耳に、伯爵の説明が届いて来る――

「エドワード君が、ヒューゴ君と共にリリスに接近しているところだ。 先日、リリスの私的なパーティの招待状を受け取ったそうでね」

エドワードの名が急に出て来た――アンジェラは思わず耳をそばだてた。

「童顔のヒューゴ君に、軽薄そうな放蕩貴族……リリスへの肉薄は、確実だろうな。 謎のロックウェル卿やバラバラ死体の男について、彼らなら、リリスから新しい情報を引き出せるかも知れん」

最後の部分は、応接間のドア越しになったため、 不明瞭になったのではあったが――アシュコート伯爵は、エドワードについて重要な事を喋っていたのだ。 それは、大臣や側近たちを巻き込んだ首都の疑獄事件の解決に、 エドワードが関わっていたらしいという事を暗示する内容だったのである。

しかし、リリスの名に注目していたアンジェラは、最後の部分をすっかり聞き逃していた。

――リリスの私的なパーティに関しては、『いかがわしい噂話』がごまんと流れてるわ! アヘンが出るとか、 ナイジェルの如き変態が出るとか……仮にも名門公爵家の三男が、 そんな場所に出入りするなんて! 縁組ビジネスの商品価値が暴落するじゃ無い!  ヒューゴさんなら、場数を踏んでるから良いけど――

エドワードの、余りにも軽率な行動に、腹が立って来るアンジェラであった。

****

翌日は絶好の散策日和に恵まれた。気持ちの良い昼下がりである。

あのメインストリートの交差点の名所、レイバントンの公園の一角には、 今しも縁組作戦に取り掛かろうとするイザベラとアンジェラが居た。

イザベラは、今季シーズンの掘り出し物である筈の金髪紳士エドワードが、 不良紳士そのものの行動をしていた事を知り、目を丸くして驚くばかりだった。

「えええ!? そうなの!?」
「もう、ホントに信じられない! 我らが『縁組サービス』一押しの、カータレット嬢との縁組は、 まず見込み薄だわ! 近くまで来たから、ちょっと弁護士事務所に寄ってみたけど、ヒューゴさんの御者の説明じゃ、 みだらで異常な一夜を過ごして朝帰りだとか」

アンジェラはぷりぷりしながらも、男物のシルクハットを頭に乗せた。 そしてアンジェラは気を取り直すと、肩肘を張り、詰め物をした男物の上着が崩れていないかどうか、チェックを始めた。

縁組作戦の都合で当て馬の男を演じる必要があり、 アンジェラは、如何にも伊達男と言った風の扮装をしていたのである――ただし、 絶世の美貌を誇る、謎の伊達男である。

イザベラが『縁組サービス』の仲間たちと注意深く手筈を整えた通り、公園の一角では、 可愛らしいララ嬢と好青年クリプトン氏が、如何にも偶然と言った様子で出会っていた。 なかなか良い雰囲気だわ……とうなづきつつ、イザベラとアンジェラは、その様子を物陰から注意深く窺った。

しかし――かなり時が経ったのであるが、 ララ嬢もクリプトン氏も無言で連れ立って公園を散策しているばかりで、なかなか事態が進展しない。 今季シーズンの舞踏会で顔を合わせたばかりという事もあり、この若い二人、照れが先に立っているのだろうか。

イザベラは短気な性質だ。当て馬の男役のアンジェラの腕を取って物陰を引きずり回しながら、 「しっかりしないと、当て馬をけしかけるからね!」などと、クリプトン氏に向けた不満を呟いていた。

しかし、果たして照れまくりだった恋人たちは、無事婚約と相成ったのであった。

「婚約指輪を渡したわ!」
「縁組成立! 礼金ゲット! イエーイ!」

植え込みの間で肩を組み合って喜びのダンスを始めたイザベラとアンジェラは、 その奇妙な扮装の組み合わせもあって、通行人からおかしな目付きで見られていたのであった……

*****

レイバントンの町のメインストリートで互いの健闘を称えつつ、イザベラとアンジェラは分かれた。

アンジェラはヒューゴの弁護士事務所に向かった。

――あの金髪の不良紳士、ヒューゴさんの弁護士事務所で、よろしくない行為をいたしている筈よ!

アンジェラの勘は、外れた事は無い。

自信満々で歩き続けるアンジェラは、やがて、小さな黒ネコが後を付いて来るのに気付いた。 何やら見覚えのある黒ネコである。不思議に思いながらも、アンジェラは小さな黒ネコに優しく声を掛けた。

「確か、この前の迷子の黒ネコ? 後でエサあげるわ」

やがて、ヒューゴの弁護士事務所の窓の前に到着である。

アンジェラは表の窓から中を窺った。早速、ソファの上で寝入っているエドワードを発見である。 以前のように、ヒューゴがエドワードを誘惑し、アブナイ道に引き込んだに違いない。

「また弁護士事務所に入り浸ってるわね!」

アンジェラは、殊更に足を踏み鳴らしてヒューゴの弁護士事務所に押し入った。 黒ネコも後を付いて来た。 ヒューゴの定位置は分かっていた。文書資料の山が乗っている机の所だ。 アンジェラは、毛布を被ったまま机に突っ伏して寝ぼけているヒューゴを叩き起こした。

――予想通りだ!

不健全な目的が窺える趣味の悪い夜会服は、上着を脱ぎ捨てただけで、まだ着替えられていない。 アヘン特有の、胸の悪くなるような邪悪な匂いが漂っている。 それに、アルコール臭にタバコ臭も――媚薬っぽい、アヤシイ香水の香りも、混ざっている!

「ヒューゴさん! 私の商品の価値、暴落させたわね!」
「変な事はしてない筈だわよ、魔女紳士サマ……ごめん、昨夜は一睡もしてなくて……クソ眠くて」

アンジェラは呆れ果てていた。それでは、正午を過ぎて昼下がりという時間帯になっても眠い筈だ。 ヒューゴは寝ぼけたまま、弁解らしき物を続けた。

「……何だったかなあ、先輩のお父上に手紙を書いて……此処に来てもらって……」

詳しい説明がすっぽ抜けたため、その弁解は、アンジェラの誤解を一層深める羽目になった。 アンジェラの勘は外れた事は無いが、オリヴィアの透視能力ほどには、正確なビジョンを示す物では無いのだ。

「お父上にまで迷惑が掛かる程の失態……って事!? 情けない!」

ふとヒューゴの机に目をやったアンジェラは、その手紙が一応最後まで書かれ、発送待ちの状態である事に気付いた。 面倒な発送準備をしているところで、ヒューゴの体力が尽きていたようだ。

「私が一筆、書いてあげるわよ」
「うんうん……宛先はもう書いたけど、まだ封してないから……」
「その寝ぼけ眼じゃ、封蝋にも失敗するじゃ無い――封蝋したら、発送すれば良いのね」
「そうそう」

ヒューゴは意識混濁に陥りながらも受け答えしていた。しかし、そこで最後の根性が切れたのか、 ヒューゴは瞬く間に深い眠りに落ちて行ったのであった。黒ネコが「ニャー」と鳴いた。

アンジェラは、控え室でくつろいでいた御者ジャガー氏を呼び、手紙の発送依頼を済ませた。 流石に経験の長いジャガー氏は、アンジェラの男装姿にも、全く驚いていない。

ヒューゴはまだ若く資金不足もあったので、ヒューゴの生家・レスター家の御者の一人ジャガー氏が、 個人的好意で、御者を兼ねて弁護士助手も務めているのだ。 ジャガー氏はレスター家では古参のスタッフであり、ヒューゴの事を小さい頃から可愛がっていた人である。

一連の作業が済んだ後、暫くの間、弁護士事務所は静まり返っていた。

「寝覚めには濃いコーヒーだわね」

アンジェラはそっと呟くと、次いで、散らかり放題で埃っぽい事務所を批判的に見回した。

「片付けに……お掃除もしなくちゃ」

コーヒーが出来上がってくる間、アンジェラは手際良く掃除を進めた。

ゴールドベリ邸の家政婦スコット夫人が、アンジェラが何処へ行っても困らないようにと家事全般を教授していたので、 アンジェラは、家事全般は平均程度には上手くやれるのだ。これはルシールも同じである。

*****

ヒューゴの弁護士事務所の中には、昼寝用にもなる簡素なソファがある。 エドワードは、強い緊張を伴う異常な夜を過ごして、すっかり疲労した身を、そこに横たえていた。

先程からヒューゴの御者のジャガー氏か、 それともネコか――悪意や邪気を感じない存在が掃除をしながら動き回っているらしく、窓が開かれ、 春の昼下がりの暖かな微風が、気持ちよく入って来ている。

エドワードの眠りは次第に浅くなり、夢の中で、昨夜の出来事を回想し始めていた。

マダム・リリスの私的なパーティは、噂通り――いや、噂以上に、いかがわしい代物であった。

アンジェラは間違いなく実態を知らない筈だが、 アンジェラがマダム・リリスに異常な程の恐怖を覚えているのは事実だ。 ゴールドベリの不思議な直感は、そのおぞましいまでの邪悪さと危険性を見抜いていたに違いない。

アヘン窟と化した幾つもの部屋。

高濃度のアルコール、様々な違法ドラッグ、密輸タバコ。

人相を隠す仮面を付けた事で羽目を外した人々の、乱痴気騒ぎ。

部屋の方々に垂れ下がる分厚いベールの中で、堕落した大人の不健全な楽しみが、これでもかとばかりに繰り広げられていた。 体質的に弱い人々は早くも身を持ち崩し、死人のような状態になりながらも、なおも快楽の園に手を伸ばし続けていた。

エドワードは、自白効果の高いドラッグを仕込んだワイングラスを持ってリリスに近付き、共に乾杯するふりをして、 手品よろしく巧みにグラスを差し替えた――アルコールに強い体質のリリスは、そのグラスを二杯も飲み干したのであった。

果たして過剰に陽気になったリリスは、エドワードの促しに応えて、ロックウェル卿についてペラペラと喋り出したのである。

『ロックウェル公爵夫人になったら、もっと贅沢なお遊戯をしてやるの!』

リリスは将来の派手な計画を思い描きながら、得意満面になっていた。 次々に強いお酒を飲み干すリリス――凝ったデザインを施された特注のソファに寝そべり、 リリスは不健全なまでに陽気なお喋りを続けた。

『あいつったら、子供が出来ない身体なのよね。あの馬車事故に遭ってる割には、 綺麗な身体なのにさ。肝心の部分がね……』

リリスは、ロックウェル公爵の愛人の立場としては、当然と言えば当然ではあるが、きわどい内容を口にした。 健忘症を伴うドラッグ性の深酔いに陥ったリリスは、 他の肉体的特徴についても、露骨なまでにきわどい内容を喋り続けたのであった――

不健全な時間に弁護士事務所に戻る羽目になったエドワードとヒューゴであったが、 リリスから新しく搾り出した情報には、それだけの価値があった。

アンジェラは確実にガッカリするだろうが、ロックウェル卿は、 愛人との子供を作らないのでは無く――馬車事故の後、子供を作れない身体になっていたのである。

リリスが明らかにしたロックウェル卿の傷跡の位置は、更に重大な矛盾を示した。 25年前の馬車事故の当時に、医師がカルテに記録していた傷跡とは、その分布の様相が全く異なっているのだ。

透視能力によるのは間違いない――素晴らしいタイミングでオリヴィアから提供された、25年前のカルテ資料。 リリスの証言内容と突き合わせた結果に、ヒューゴは困惑しきりであった。一方、エドワードには、別の疑いが生まれ始めていた。

今、ロックウェル卿と名乗っている人物。アンジェラに、ネズミの無残な死体を送り付けた人物。

――彼は果たして、本物のロックウェル卿なのだろうか?

疑いは増したものの、直接にロックウェル卿本人を知らないエドワードには、それ以上の確認手段が無い。

しかしながら、エドワードの父親であるハクルート公爵は、 ロックウェル公爵とは寄宿学校の同輩であり――本人確認として最適な候補であった。

エドワードは、父親のハクルート公爵に、ロックウェル公爵の本人確認を依頼する事を決心したのである。

*****

やがて、コーヒーが出来上がってきた。

アンジェラはコーヒーを淹れながら、弁護士事務所の窓越しに、表通りの様子を眺めていた。 アンジェラに付いて来た黒ネコも窓辺に居座り、面白そうに尻尾をユラユラしている。

表通りの向かい側には洒落たカフェテラスがあり、そこでは、ちょっとした騒動が持ち上がりつつあったのである。

カフェの客の中には、あの黒髪の大男、ナイジェルが居た。

ナイジェルは、新聞の広告欄に目を通し、意外につぶらな黒い目をカッと見開いた。

「これはいかん! ローズ・パークで舞踏会だと……!」

ナイジェルは急用を思い出したように、慌てて立ち上がる。その勢いでナイジェルはカフェを飛び出そうとしたが、 以前からナイジェルの金欠ぶりを警戒していたカフェのスタッフが、電光石火で気付いた。 大柄なスタッフがナイジェルをガッチリと拘束する。

「急ぐんだ! 離せ!」
「こちらも商売なんだ、払わなければ訴えますぜ!」
「今までのツケ、綺麗にしやがれ! 賢者の箴言でも、飛び立つ鳥、跡を濁さずと言う……」

どうやらナイジェルは、無銭飲食の常習犯だったようである。 ガチムチとした大柄な体格に相応しく、ナイジェルの大声は、表通り全体に響く音量であった。

「金欠らしきセクハラ紳士は、元気だわねえ」

アンジェラは表通りの向かい側で進行中の騒動を観察し、呆れるばかりだ。 面白そうな騒動を聞き付けたのか、物見高い野次馬たちがだんだん集まって来ている。

ナイジェルの金欠ぶりは、今季シーズンの三晩連続の舞踏会の間に、あっと言う間に方々に知れ渡っていた。 イザベラもまた、ナイジェルに料金支払いを要求している一人である。

何とナイジェルは、セクハラ行為だけでは無く、縁組詐欺もやらかしているのだ。 たった数日の間に、悪い意味で感動させられるほどのハッチャケぶりだ。 縁組ビジネスを手がける全てのグループが、イザベラを代表として、その犯罪を裁判所に訴えているところである。

「法廷の召喚状が作成される前に逃げ出すなんて、何て勘の良いヤツ!」

アンジェラが弁護士事務所の窓でブツブツ呟いている間にも、人だかりが出来始めた。

カフェの前の路上で、ナイジェルの周りを、カフェのスタッフがズラリと取り囲む。 何処からどうやって集めて来たのか、いずれも筋骨隆々の大柄なスタッフだ。 路上プロレス試合を始めようとしているらしい。まさに一触即発だ。野次馬がどよめき、にわかに表通りは賑やかになった。

開いた窓から聞こえて来るその賑やかさのせいか、エドワードが不意に目を覚ました。

近くのテーブルには、ヒューゴとエドワードがその時間に起きる事を予期していたかのように、 飲み頃のコーヒーが置かれている。エドワードはコーヒーを手に取り、不思議そうにアンジェラを見やった。

「コーヒーを淹れたのはアンジェラ? 何で男装を?」
「縁組の仕事に関する扮装よ。当て馬らしい、誘惑の美青年に見えるでしょ!」

掃除用のハタキをステッキよろしく構え、気取ったポーズで颯爽と答えるアンジェラである。 目をパチクリさせるエドワードに、アンジェラは顔をしかめて見せ、更に畳みかけた。

「エドワード卿の商品価値は目下、暴落の危機なの」
「私が商品? 参ったな」

エドワードは頭に手を当てて、ガックリするのみだった。 縁組ビジネスの商品として売り飛ばされるという状況は、正直言って、余り楽しい気分ではない。 表通りで今まさに盛り上がり始めた路上プロレス騒ぎを見物している方が、幾分かマシな気もする。

「結婚相手が決まったなら、男だろうと女だろうと当て馬の役をお務めするわ。 割増になるけれど、前日、ロータリーでリリスの目から隠してくれたから、サービスって事で」

アンジェラはクルリと背を向けて、ハタキを収納するための物置の棚に向かった。 何処かで見たような小さな黒ネコが、アンジェラの足元をクルクルと歩き回り、「ニャー」と鳴いている。 エドワードはコーヒーを口に含みながらも、意味深な眼差しでアンジェラを見つめた。

「異常な夜を楽しんでたらしいわね……もうお昼過ぎだわ、不良紳士様。 お父上へのお手紙に、私から一筆入れたわ。感謝するのよ!」
「――さっきの手紙? 一筆入れた?」

今まさに起きたと言った風のヒューゴが思わず反応し、毛布の中から訝しそうにアンジェラを眺めた。

「勿論よ! 下手に近付いたら死体になると言う忠告も、ちょっと入れたし」
「ああッ……まさか! ハクルート公爵への書状ッ……!」

ヒューゴは一気に顔色を変えた。毛布をはねのけ、机の上を探し回る。 ある筈の書状が無い事に初めて気づき、動転するばかりだ。

一瞬ポカンとした後、エドワードは笑い転げた。バカ笑いである。 何がツボにハマったのか、ソファの中に倒れ込み、全身をひねって大爆笑だ。

「それは、父への脅迫状と受け取られるかも知れんな」
「笑い事じゃ無いでしょ、先輩!」

エドワードの謎の爆笑は続いた。ヒューゴは途方に暮れて、オロオロするばかりだ。

「週末にはもう、ロックウェル城で仮面舞踏会で! 昨夜の手練手管で、 リリス女史をたらし込んで――招待状をゲットしたって言うのに」

アンジェラは、ヒューゴの言葉の意味に即座に気付いた。

「仮面舞踏会? ロックウェルの招待状……?」

アンジェラは謎の直感で、机の上の書類の山から、その招待状を過たず選び出した。相変わらず素晴らしい直感だ。

「それ、招待状?」
「ああッ! 待って!」

ハッとしたヒューゴが手を振り回したが、もはや後の祭りであった。

アンジェラは招待状に素早く目を通し、顔を引き締めた。

「マダム・リリスの、気まぐれの遊戯! 復活祭以来のチャンス……!」

アンジェラはコブシを堅く握った。アンジェラの決心が固まった事を見て取ったヒューゴは、青くなるばかりだ。

「ゴールドベリの血は事件を呼ぶ――復活祭の時はバラバラ死体――今度も何が出るか不明だってば!」
「ロックウェル城……仮面だろうが仮装だろうが、私も行くわ!」
「危険だよ、アンジェラ! 第一、それには贅沢なドレスとかが必要で――」

しかし、アンジェラは既にヒューゴの警告を聞いていなかった。クルリと身をひるがえし、大股で玄関へと走り出す。 ワンピース姿では無いだけに、小気味よいまでに素晴らしいスピードだ。

「母のドレスなら問題は無い筈! 古着屋に売る予定だったけど新品の状態だし、 ローズ色の絹でレースとフリル一杯だから……」

物騒な計画を口にしながら、アンジェラは弁護士事務所のドアを開いて飛び出して行った。 あの不思議な黒ネコも、一緒に飛び出して行った。

ヒューゴは必死の形相でエドワードに飛びかかり、その襟元をつかんでガクガクと揺さぶった。 ついでながら、傍目から見れば、互いに恋愛感情を抱いている男二人が、 ソファの上でくんずほぐれつしていると言う、アブナイ光景にも見える。

「先輩ったら、黙ってないで、何とか止めて下さいよ!」
「ローズ色のドレスか……」

エドワードの方は、感心したようにアンジェラを見送るばかりだったのである……

画像一括版1》 《画像一括版2》 《画像一括版3》/ 《目次に戻る

§総目次§
物語ノ岸辺物語ノ本流物語ノ時空物語ノ拾遺