深森の帝國§総目次 §物語ノ傍流 〉花の影を慕いて.第一章(小説版)

花の影を慕いて/第一章.ミステリー・クロス

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  1. ローズ・パーク邸…新年の事件
  2. クロフォード伯爵邸…春の事件
  3. クロフォード伯爵邸…ディナー席の面々
  4. クロフォード伯爵邸…老庭師の遺言書
  5. アシュコート伯爵領…舞踏会・第一夜
  6. ゴールドベリ邸…緑の森の魔女
  7. アシュコート伯爵領…舞踏会・第二夜
  8. ゴールドベリ邸…ミステリー・クロス

1.ローズ・パーク邸…新年の事件

物語の本編に入ろう。

序章の最後に述べたように、『今』は、かのささやかな異変、すなわち一人の村娘の蒸発事件から、25年後である。

*****

クロフォード伯爵領内に広がる丘陵地帯の一角を占め、かつては「ローズ・パーク荘園」と呼ばれた広大な地区がある。 その地区の小高い丘の上には、この地区を中心とした地元社交の場となっている白亜の豪邸が建っていた。

「ローズ・パーク邸」と呼ばれる、そのいかにも貴族好みの豪邸、 古典風味とロココ風味が入り交ざった雰囲気の華やかな館は、新年社交シーズンの中盤を迎えており、 いつもの年のように、事態は順調に推移していた。

穏やかな雪が舞う中、地元社会で新年を祝う社交の夕べ――地元の名士たちが集まり、華やかなさざめきが続くローズ・パーク邸。

そんな豪華絢爛な、ローズ・パーク邸の地所の中――

ローズ・パーク邸の広大な庭園と直結するささやかな小道の中ほどに、平屋タイプの小さなコテージがあった。

とりわけ木立の多い片隅を選んで、その薄暗がりにひっそりとうずくまるように建っている。 元は倉庫か、作業小屋だった物を何とかリフォームして、一般民家に近づけてみたと言う風の簡素なコテージである。

とは言え、扉や窓をはじめ、煙突や暖炉などの基本的な設備は意外にシッカリしており、素朴ながらも実用的な家だ。 しかし、何せスペースが小さく部屋数も少ないので、隠者の一人住まいか、ギリギリ二人住まいといった風である。

夕方と言うには遅く、かといって夜更けと言うほどでもない、微妙な時間帯――

くるぶしの上あたりまで積もった雪の中、そのコテージ前を通る小道の上で、一人乗りの小さな馬車が止まった。

そして、奇妙に小柄に見える、上下にひしゃげた人影が出て来た。防寒着の裾をバサバサとなびかせ、 馬車の座席からノソノソ、ドスンと降りて来る。

成人男性にしては低すぎる――背丈の低さをごまかすためか、 その人物が頭に乗せているシルクハットは、いびつなまでに高いデザインだ。

浅く積む雪に、短い足を取られながらも、コテージにじわじわと接近する訪問客――

コテージの玄関で、その時ならぬ奇妙な訪問客を迎えたのは、年配の家政婦だ。 訪問客の強引な要求に応じて、渋々と言った様子で、彼を応接間に通す。

しかし、家政婦はその後も、不安そうな表情でランプの灯りを守りながら、小柄でぽっちゃりとした身体をひねり、 応接間を仕切るドアの方を何度も見やっていた。

***

それから数分経過した後の、コテージの中。

名ばかりの応接間で、コテージの主人と訪問客との言い争いが始まった。

「また来たのか、クソ野郎ッ……!」

怒髪天そのものの激怒を見せて怒鳴る主人。既に年老い、頭は禿げていながらも意気軒昂な男である。 白いものがだいぶ混ざった濃い茶色のあごひげは意外にきちんと手入れされている。 やや骨ばった頑固そうな人相や体格からして、人嫌いの隠者のような雰囲気ではあるが、 それなりの地位の地元紳士であるという事が見て取れるものであった。

コブシを振り上げるコテージの老主人。

「貴様にやる金など無い!」
「あるでは無いか!」

負けじと怒鳴り返す訪問客。

両者ともに、互いに顔を突き合わせた瞬間から激しい敵意をむき出しにしており、 今にも取っ組み合いをせんばかりの様相だ。

「ローズ・パークだ! あんたの持ってる庭園オーナー権だよ……!」
「やらん!」
「何だとォ、このジジイ!」

応接間のドアの外では、家政婦がオロオロしながらも、言い争いの様子を窺っていた。

「あんたは老人、息子は居ない! 唯一の子供は既に死んだ!」
「くどいッ! 相続については既に遺言状を作成してあるんだ! さあ……さっさと帰れ! 帰れッ!!」
「この俺を無視するか! 絶対にそうはいかねえぞ!」

訪問客は遂に激高して、コテージの老主人につかみかかった。老主人が再び怒鳴った。

「何をする!」

そのまま二人はもつれ合った様子である――続く衝撃音と、ただならぬ叫び声。 ドアの外からなおも様子を窺っていた家政婦は、ひたすら真っ青になって震え上がるのみだ。

――そして、物音ひとつせぬ、不気味なほどの静寂が落ちた。わずかな物音さえも、雪の中に吸い込まれていったかのようだ。

一分か――二分か。

その凍り付くような空白の後、一息おいて家政婦は意を決し、バタンというドアの開閉音を殊更に立てて、応接間に飛び込んだ。 しかし、家政婦が見たのは、実に最悪の事態であったのだ。

――応接間の真ん中に、ばったりと仰向けに倒れてしまった、コテージの老主人。

「あ……ああ……旦那様!」

家政婦は動転して叫ぶばかりであった。

2.クロフォード伯爵邸…春の事件

あのローズ・パークの地所の片隅で起きた、老人の突然死事件から、三ヶ月ほど後。

既に四月である。

クロフォード伯爵その人が住まう豪壮な伯爵邸でも、 『復活祭』に伴う春季の地元社交シーズンを終えたばかりであった。

白い雲が漂う穏やかな午前中の頃。

春の陽気に誘われて一斉に伸び出した庭木の緑の新芽は、瞬く間に若い葉を開き、 クロフォード伯爵邸の周囲に緑の城壁と回廊を築きつつある。 周りに広がる広大な庭園もまた、数日のうちに、色濃い木蔭を完成させるだろう。

クロフォード伯爵邸は、ローズ・パーク邸とはだいぶ趣が異なる建築物であった。 中央部にひときわ高くそびえる屋根を持つ部分は、カッチリとした直線的な石積みの壁に細長く高い窓が並んでいる。 多くの騎士が活躍した、いにしえの時代を思わせる古風な建築様式である。

その中央部を中心に、各地方の比較的大きいタイプのカントリーハウス建築と同様に、 両翼の建物が中央のラインに対して直角に伸びており、全体としては、『H』の構造となるように組み合わされている。 この土地一帯の領主であるクロフォード伯爵の住まいであると共に、部分的ながら地元の役所と社交場とを兼ねているという事もあり、 部屋数は、この地方の大抵の建物に比べていっそう多い。

クロフォード伯爵邸の広々とした前庭で、クロフォード伯爵と治安判事が並び立って歩きながら会話をしていた。 二人とも、40代から50代と言った年頃の、落ち着いた雰囲気の紳士である。

「再捜査の結果を、かいつまんで申しますと……」

話題を変え、先に口を開いたのは、治安判事だ。ガッチリとした風貌の大男である治安判事は、 強い癖をもつ赤っぽい髪をシルクハットの中にグイグイと押し込みながらも、普段は陽気そうな灰緑の目に、難しい表情を浮かべていた。

治安判事に半歩遅れてゆったりと歩を進めるクロフォード伯爵が、わずかに顔を上げた。 シルクハットの下に、淡い茶色の髪と涼しい目元が見える――顔立ちは、随分と整っている方だ。 伯爵は治安判事と同じ年頃ではあるが、しかし見てみると、ずっと線の細い体格をしている。 貴族のたしなみとして平均的な程度には身体を鍛えてあるのだが、やはりスラリとした印象が際立つ方なのだ。

「アントン・ライト氏の死亡は……どう見ても、事故では無く殺人ですな」

治安判事は断言した。耳を傾けていたクロフォード伯爵は、「殺人……」と息を呑みながらも、 予期するものも、またあったようである。

アントン・ライト氏――アントン氏とは、あのローズ・パークの地所のコテージで、 突然の不審な死亡を遂げた老人の事だ。

「冬の社交シーズンの真っ最中と言う事で、ローズ・パークのオーナー協会の体面もあって、 早急に事故死として処理せざるを得ませんでしたが……」

治安判事は、それだけの事をボヤくと、やれやれと言った様子で肩をすくめた。 クロフォード伯爵も暫し沈黙し、そして嘆息するのみだ。

「何という事だ! アントン氏は以前、 ローズ・パーク邸の庭園修繕に関わった功労者だったんだ……オーナー協会設立、当初からの人だよ」
「まさしく。彼は素晴らしい庭園管理の技術をお持ちでした。――あの意思の強い、 偏屈とすら言える頑固一徹の性格が、誰かの恨みを買ったのでは無いかと……」

三ヶ月前に起きた領内の未解決事件――すなわち、アントン氏不審死事件の報告を続けていた治安判事は、 庭木に急に行く手を阻まれ、「おっと」と言いつつ、 手に持っていたステッキで枝葉をどけた。

「前に来た時より、枝が荒れ放題になっていると見えますが……リチャード殿、此処の庭師は?」
「アントン氏が今まで管理してくれたのだが……彼が不幸にも亡くなって以来、完全放置なんだ」

クロフォード伯爵はシルクハットの縁に手をやって、困ったように微笑むばかりであった。

伯爵と治安判事の行く手には、既に軽装馬車が用意されていた。 穏やかな天候という事もあり、馬車の天蓋は畳まれている。その周りでは、 御者や従者が馬車の整備作業を続けていた。

伯爵はその前で立ち止まると、改めて判事を振り返った。

「ローズ・パークのオーナー協会に声をかけて、適当な庭師をご紹介頂こうと思っている……」
「ああ……それで、これから馬車で協会をお訪ねに……」

納得顔の治安判事に、伯爵は穏やかにうなづいて見せると、旧友でもある判事を馬車に誘った。

「そういう事だ。プライス殿も一緒に来るか? アントン氏の件について詳しく聞きたいのだが」
「では……、ご一緒いたしましょう」

判事は了解し、馬車に乗り込む伯爵の後に続いた。

馬車に乗り込んだ伯爵は、判事に向かって青い目をきらめかせ、イタズラっぽくウインクして見せた。

「例の面倒極まりない金と女のゴタゴタが、何とか収束に向かった……これでやっと庭園の問題に取り組めると言うものだ」

無言で目をパチクリさせる判事。馬車に乗り込むと、急に内容を理解したらしく彼は驚愕した。

「弁護士なしで、あのトラブルのカタを付けたと言うのですか! 確か、カーター殿は、 最近はひどく多忙で――あのトラブルには、タッチしていない筈……」

伯爵は得意そうな顔でうなづき、次いで座席の背にもたれつつ腕を組むと、更に説明を続けた。

「実はそうなんだ。キアランが対処して――」

その間にも出発の掛け声をかけ、馬車馬に合図をした御者であったが――馬はいきなりいななき、暴れ始めた。

御者がギョッとする間も無く、馬車馬は揃って暴走である!

急激な加速に驚いて声を上げる伯爵と判事。

「おい、どうしたんだ……どうどうッ!」

御者も必死で馬を落ち着かせようとしたのであるが、馬はもはや制御不能の暴走状態にあった。

凄まじい騒音を撒き散らしながら、メチャクチャに爆走する暴走馬車。にわかには信じがたい光景である。 新しく駆けつけて来た他の従者たちも、暴走馬車をどうやって止めたらよいのか分からないままに、唖然として見送るばかりだ。

馬車は暴走を続け――そして、館の敷地内の庭木に激突し――その凄まじい衝撃で、伯爵も判事も、そして御者も、 各々の座席から放り出された。馬車は無残に破壊されて転がった。

激しく放り出されながらも、幸運にも軽傷で済んだ判事は、 近くの地面の上に伯爵がぐったりと横たわっているのを見て驚いた。

「大丈夫か、リチャード殿……」

身を起こそうとした伯爵は、激痛に顔を歪めて、脚に手をやり――判事はその脚の状態に目ざとく気付き、青くなった。

「――脚の骨が折れてるぞ!」

遥か前方に放り出されていた御者が、ようやく起き上がって来た。幸いに御者も軽傷だったらしい。 帽子を何処かに落としたまま、御者は慌てながら駆け寄って来た。

「済みません、旦那様! 馬が急に暴走して――」

*****

昼下がりをよほど過ぎた頃。

「父上! 大怪我をしたとか……」

黒髪の青年が動転した様子で、クロフォード伯爵の寝室に飛び込んで来た。

「ああ、幸い大怪我で済んだよ……、うわ、痛い!」

寝室のベッドの上で老医師に治療を受けている真っ最中だったクロフォード伯爵は、 一旦いなして見せたものの、次の瞬間には骨を大胆に処置され、悲鳴を上げていた。

後頭部を残して禿げ上がった頭と立派な白ヒゲを持つ老医師は、 伯爵の悲鳴をものともせずに、極めて手際よく、かつパワフルに処置を済ませていく。 処置が一段落すると、老医師は薄い水色の目をギョロリと剥き、吼えた。

「脚で済んで幸いだったと申すべきです! 首の骨を折っていたかも知れんのですからな!」

やがて必要な処置が全て終わり、伯爵の寝室を退出するべく扉の前まで来ると、老医師は、 黒髪の青年に当分の間の注意を与えた。

「少なくとも十日間は安静にするように。では、明日また往診いたします……お大事に」
「有難うございました、ドクター・ワイルド」

黒髪の青年は、丁重に一礼した。

「人払いをしてくれ、キアラン」

クロフォード伯爵に声をかけられた黒髪の青年――キアランは、一緒に駆け付けていた金髪の青年やメイドを、 一旦部屋から遠ざけた。扉はピッタリと閉じられた。 部屋に残っているのは、クロフォード伯爵とキアラン、そしてプライス判事の三人のみだ。

伯爵は真剣な表情でキアランを見やった。

「キアラン……この馬車事故は、誰かに仕掛けられたものだ」
「えッ?」
「残念な事にな」

同じく伯爵のベッド脇に――キアランの反対側の方に『ぬーっ』と立っていたプライス判事が、 溜息をつきながらも説明を補足した。 そして、その上着のポケットの中から、小ぶりのバラの枝を取り出して見せた。

「バラの枝が、馬の装備の陰に仕込まれていた……このトゲ故に、馬が暴走した」

――暗殺未遂。

思いがけない事実と、それに伴う疑惑に思い至り、キアランは息を呑んだ。表情こそさほど動かなかったものの、 意志の強そうな黒い瞳には、明らかに剣呑な光が宿る。

プライス判事はバラの枝を懐に納め、再び言葉を続けた。

「あの馬車は、普段は君が使っている……キアラン君。 偶然にも今日の君は、エドワード君と乗馬に出ていた――別の馬でな」
「元々は……私を狙ったものだと?」

キアランの眉根が、きつく寄せられた。

「――まさか、彼が? いや……彼は、確か館への出入りを禁じた筈だから……」
「いずれにせよ、もう少し事情が明らかになるまで、この事実は皆には伏せておくべきだ。 治安判事の腕にかけて、必ず犯人を捕まえて監獄送りにしてやる!」

そう言って、プライス判事は顔を引き締めたのであった。

やがて、執事が伯爵の寝室にやってきて、ドアを叩き始めた。

「もし……失礼いたしますが」

執事は次いで寝室に入って来ると、クロフォード伯爵に一礼した。

「ディナーのお時間でございます。食事は如何なさいますか?」
「悪いが、余り食欲が無い……茶だけにしてくれ」

ベッドの中のクロフォード伯爵は、疲れた様子で頭に手をやっていた。そして、ぐったりとしたように枕の中に沈み込んだ。

キアランは、執事やプライス判事に続いて寝室を退出しながらも、想像以上に疲れた様子の父親が気になっている様子である……

3.クロフォード伯爵邸…ディナー席の面々

クロフォード伯爵邸の豪華な食堂で、当主不在のディナーが始まった。

今夜のディナーの席に連なったのは、六人だ。

伯爵家の唯一の嫡子であるキアランが、父・クロフォード伯爵に代わって、当主代理を務めている。 キアランの隣には金髪の青年――キアランの親友エドワードが居た。その隣にプライス判事。 そして向かい側の椅子には、中年夫婦と若い娘の三人が座っていた。 その三人は、いずれも見事な金髪と貴族的な雰囲気の持ち主である。

「何て恐ろしい事故でしょう! 一日も早いお怪我の回復を祈っております」

手の込んだカールと髪型をした見事な金髪、澄んだ青い目をした、上流貴族の令嬢と言った風の美少女が、 意外に大きな胸の前で心配そうに手を揉み、美しい声を震わせた。いささか大袈裟な態度ではあったが、 未成年に属する年齢である。うら若き乙女としては、このくらいの感情表現はありがちな物だろう。

「父をご心配頂き有難うございます、ダレット嬢」

キアランは、これが常なのであろう、堅苦しい態度で丁重に一礼するのみだった。

エドワードは、昼の出来事についてプライス判事と一言二言かわした後、キアランを振り返った。

「大丈夫か? アシュコートの社交界に顔を出そうとはしていたが……訪問はキャンセルした方が良いかな?  手頃な穴場といった物ではあるけど、そんなに重要でも無いし……」
「いや……予定通り付き合うよ、エドワード。この件には、一生の面目が掛かっているのだから」

キアランの返答はあっさりとした物であったが、プライス判事はその内容の意味に即座に気づき、面白そうな顔をした。

「……ほう! エドワード君は、近々アシュコートを訪問するのか?」
「トランプ勝負で、私の花嫁探しに付き合うという約束を勝ち取ったんですよ!  この絶好の機会を有効利用しない手は無いという事です」

エドワードは、琥珀色の目に愛嬌のある笑みを浮かべてワイングラスを手に取ったが、次の瞬間には、 途方に暮れたような間抜けな笑いに変わっていた。年頃の男性ともなれば、もう少し落ち着いているようなものなのだが、 この青年は「頭がチョー☆カルイ」と確信できるほどに、表情や態度がクルクルと変わる。 年相応の冷静さや落ち着きを、何処かに忘れて来てしまったかのようだった。

「まあ……、マジメな話、本家からしつこく縁談を持ち込まれ、こちらもツイ啖呵を切ってしまった手前、 北から南まで社交界巡りをする羽目になっていた……と言うのが真実です」

確かに、エドワードは結婚適齢期の青年ではある。 しかし、結婚対象としては、その市場価値は極めて怪しい物だった。

気障ったらしく金髪を伸ばし、気障なファッションに身を包む、いかにも遊び人といった雰囲気。 さながら歩くファッション雑誌だ。最先端の流行ファッションを着こなしているつもりなのだろうが、 流石に『頭の軽すぎるチャラ男』と言うべきか、着崩しのパターンが悪い――微妙に趣がズレてしまっている。

プライス判事は、そんなエドワードの様子を改めてマジマジと眺めると、おかしそうに吹き出した。

「百人の淑女にプロポーズを断られた男!? その様子が目に浮かぶようだよ……! プレイボーイの浮名は、 ますます高まっている……という訳だ!」
「浮名は余計ですよ、プライスさん! 私の理想は、極めて真面目なものです」

ことさらに大真面目な顔をして切り返すエドワードであったが、 その軽薄そうな印象は、かねてからの社交界での「チョー☆浮気者」という若干よろしくない評判とも相まって、 どう見ても金欠の放蕩紳士と警戒されるべき代物であった。出身こそピカイチではあったが、 噂によれば、放蕩が過ぎて実家から勘当され、金を持つ友人のツテを辿って、 フラフラと各地をさまよっているという有り様だ。

「実際、その真剣な動機と行動実績は、高く買えるかと…」

クソ真面目な顔をしたキアランによる、あまり効果のないフォローが入った。 傍目にはやはり、どう見ても『贔屓の引き倒し』と見えるものであった。

金髪碧眼の美少女・ダレット嬢は、生真面目そうに顔をしかめて見せた。

「浮名を流すから金髪は頭が悪いと思われてしまうの、実害があります!」
「あの社交界の評判では誰も信じないでしょ!」

隣に居た金髪の中年婦人も、口元で贅沢なハンカチをヒラヒラさせながらコメントして来た。 真っ赤な口紅を施した口元には、憐みを込めた苦笑を浮かべている。そこには、年相応の小じわが出来ていた。 若い頃はさぞや美しかっただろうと思われる婦人であったが、年齢による容色の衰えは、やはり色濃いものであった。

「第一、……あら何でしたっけ、エドワードには結構な額の負債があると言う噂!」
「その辺りは余り考えないようにしてるんですよ、ダレット夫人。 あの屋敷は柱も壁も全部ヒビがあってボロですから。何処かにお宝が埋まってると言うのは本当に違いない」

エドワードは、軽薄そのものの楽しげな笑みを向けた。 どうやら、悪徳業者に騙されてボロ家を買わされたらしいのだが、本人はその意味を全く考慮していないらしい。 平均を遥かに超える美青年だけに、金髪の輝きも相まって魅力的な笑みではあったが――今ひとつ頭が軽く、 ドラ息子ならではの物か、経済観念もまた皆無なのは、どうにも明らかな代物であるらしかった。

ディナー席で、キアランの向かい側に座る形となっている大柄な体格の中年紳士が、ダレット氏である。 金髪に青い目、貴族的な容貌――派手な顔立ちだ。彼もまた、若い頃は華やかな美青年だったに違いない。 しかし今は、贅沢と美食に目のない中年世代の男性の常というべきか、 顔面は若干脂ぎっており、腹部が不健康に突き出しているという、『ちょいメタボ体型』だ。

ダレット氏は、非友好的な目つきでエドワードを眺めていた。 『こんなチャラ男が名門クロフォード伯爵家の跡継ぎの親友なのか』とでも言いたそうな雰囲気が、ありありとにじみ出ている。 今のところダレット氏は、口を出さず、エドワードに胡散臭そうな目を向けながら黙々と食事を続けていた。

ダレット嬢は、エドワードの言葉に心底呆れたようだ。大袈裟に頬に手を当て、嘆息して見せる。

「あたくしは幸運ね! キアラン様という婚約者がいらして!」
「……キアラン君の婚約者? 初耳で、しかも意外です」

プライス判事が不思議そうな顔をしたところへ、ダレット氏が重々しく口を挟んで来た。

「いや、いや! 当然の流れと言える物だ……ほら、キアラン君はクロフォード伯爵家の直系では無いのだから、 血族のバックアップが絶対的に必要なんだ」

器用にフォローはしているものの、ダレット氏の口調には明らかに、絶対的優位者に特有の傲慢なものが混ざっていた。

ダレット氏とキアランとの間に、一瞬走った緊張――

「アシュコートの舞踏会は、目下の評判ですのよ! 勿論、あたくしも一緒に連れてって下さるでしょ?」
「未来の義父母も忘れないでね!」

微妙な緊張感に満ちた空気を全く読んでいなかったかのように、ダレット嬢はウキウキした様子で、 可愛らしくおねだりを始めた。そしてダレット夫人も、当然の権利のように便乗して来たのだった。

キアランは無表情のまま、目を伏せて一礼した。

「仰せのままに――大型馬車を、もう一台用意させましょう……」

ダレット一家とキアランとの奇妙な関係――これが、婚約を控えた関係なのか?

プライス判事もエドワードも沈黙し、キアランの様子を見守るばかりであった。

*****

深夜。

キアランの私室にはエドワードが来ていた。ディナーの時の、 野暮スレスレの気障ったらしいファッションを解き、今はシンプルなシャツ&ベストという格好だ。 親友同士の気安さで、クラヴァットまでゆるめている。

エドワードはドカッとソファに腰を下ろすと、呆れたような心配そうな眼差しで、別の椅子に座っている黒髪の親友を眺めた。 ローテーブルの上に置かれたささやかなランプだけでは、表情は細かいところまでは読み取れない。しかし、 エドワードは、キアランがどういう気持ちでいるのかについては、既にあらかた予想がついていた。

「あのアラシア嬢が、君の婚約者とは知らなかったよ! 本当に彼女と――アラシア・ダレットと結婚するつもりか?」

キアランは、ムッツリとした無表情のまま沈黙していたが、やがて口を開いた。

「私は、公的には婚約の存在すら認識していない。復活祭シーズンが終わった直後、 レオポルド・ダレットが妻子を館に引き連れて来て、長期滞在を始め――そして、婚約話を仄めかして来た。 ……あのトラブルの後、公平を期すために別途対処したのが、どうも妙な意味で理解されたらしい」
「あのトラブル? ――賭博借金に女性が絡んだ、あの問題?」

エドワードは一瞬、不思議そうな顔をしたが、すぐに「ああ……そういう訳だったのか!」と思い当たり、 納得した様子である。次いでエドワードは、なおいっそう呆れた様子でキアランを見やった。

「その努力の結果が――バリバリの政略結婚?」

否とも言わず沈黙を続けるキアラン。

エドワードは腕を組み、ブツブツと呟き始めた。その様子は、ディナーの時の軽薄そうな様子とは、全く別物であった。 シンプルなシャツ&ベスト――という服装だけに、その下の、良く鍛えられた体格が――見事に均整の取れたラインが露わになっている。 ランプの光を反射する琥珀色の目は、角度によっては金色の目だ。そこには、鋭い刃物にも似た理知の光が浮かんでいた。

「確かに、彼女は金髪の美人で血統は良い……条件としては悪く無いが……、 ダレット一家の贅沢ぶりが示す経済観念の欠如――結婚後は、面倒が増えそうだな?」

それは、疑問とも確認とも付かぬ口調ではあったが――、キアランはムッツリとした調子で応じた。

「だが、血統主義の親族たちを納得させるには、割と願っても無い話かも知れない」

暫くの間、沈黙が流れた。

ダレット氏が指摘したように、クロフォード伯爵家の跡継ぎとしてのキアランの立場は、 過去の因縁もあって、それほど確かな物ではない。 嫡子でありながら直系では無い――その複雑怪奇な事情を、エドワードは良く理解していた。

エドワードは無表情な親友の中にある動揺ぶりを察しながらも、軽薄そうに苦笑して手を広げるばかりだった。

「気苦労の多い問題ばかりだな、我が友よ! アシュコート訪問は、正しい決断に行動だ……君には絶対、息抜きが必要だよ!」

無表情のままだったものの、キアランは奇妙な眼差しで、エドワードをじっと見つめていた……

4.クロフォード伯爵邸…老庭師の遺言書

その日はアシュコート伯爵領への出発を控え、クロフォード伯爵邸の中は早朝から慌しい状態である。

町内の仕事始めの時間帯に差し掛かってきた頃、 クロフォード伯爵家に長年勤めている顧問弁護士のカーター氏が、クロフォード伯爵邸を訪問して来た。

弁護士カーター氏は、クロフォード伯爵やプライス判事、ダレット氏と言った面々よりは、 少しばかり先輩という年代の紳士である。中肉中背、ブラウンの髪と目――と言う平凡な、常識人の印象のある人物だ。

既に白髪が多くなってはいたが、オールバックの髪型に堪える程度には、毛量が多く残っている。 カーター氏は、穏やかな眼差しと物腰の持ち主だ。その雰囲気からして弁護士としては親しみやすく、 初対面の場では侮られやすい方ではあるが、なかなかどうして、経験豊かなやり手のベテランである。 最寄りの町の一等地に、弁護士事務所も構えている程だ。

執事の案内で、伯爵邸の玄関広間に入ったカーター氏は、早速キアランと挨拶を交わした。

「館にお招き頂き、有難うございます……リドゲート卿」

キアランは早速カーター氏を伴って正面階段に向かい、館の最上階のフロアにある父・クロフォード伯爵の部屋に向かった。 堂々たる正面階段の上には、細長く高い窓から差し込む柔らかな午前中の光が、長く荘厳に伸びている。

「お忙しいところ、お呼び立てして誠に済みません」
「いえ、当方も調査がやっと一段落しまして……。まさか今回の案件に、これ程、困難な調査が必要だとは思いもしませんでしたよ」
「カーターさん程の能力の方が三ヶ月も掛かるんですから、さぞ錯綜した案件だったのでしょうね」

実際、カーター氏は、ここ最近、別の案件への対応で多忙を極めていたのである。 道路事情の悪くなる冬から春の時期に、わざわざクロフォード伯爵領の各地を回ったり、 首都方面へも出張したりするほどの忙しさだったのだ。 その頃、クロフォード伯爵邸の近辺を騒がせていた『金と女の面倒なゴタゴタ』への対応へはとても手が回らず、 キアランが主導して一件落着に持ち込んでいた。

上のフロアへ続く階段を登りつつ、キアランは目下の状況の説明を続けた。

「――父は、あの馬車事故以来ずっと塞ぎ込んでいて……。 私が五日間ばかりアシュコート訪問で留守にしている間、父の傍に居て頂きたいのです」

カーター氏は、しげしげとキアランを観察していたが、やがて感心したような微笑みを浮かべた。

「つくづく、立派な後継者ぶりですね……リドゲート卿」
「いえ……、及ばぬ点は多々あります」

やがて伯爵の居る部屋のドアの前に来ると、後をカーター氏に任せて、キアランはその場を離れて行った。 隣地アシュコート伯爵領への出発時間が迫っていたのである。

*****

クロフォード伯爵は、あのワイルドな老医師から「ベッドを降りて良い」と言う確証を得た後、 椅子の上に落ち着き、座りながらでも可能な文書確認などの業務を少しずつ始めていた。

伯爵の骨折中の片脚には添え木が成され、分厚い包帯が巻かれている。 普段の服装を身に着けられないため、今はまだガウン姿である。 骨折状態の都合で、執務室の座席に座る事についてはドクターストップが掛かっていた。 そのため目下の仕事場は、負担のかかりにくい椅子と円卓という組み合わせだ。

午前中の光が注ぐ大きな窓の前で、クロフォード伯爵は手前の円卓に広げた報告書その他の文書に目を通していた。 そして――ひょっこりと現れたという風の訪問客に気付き、目を見張った。

「……カーター殿! ……久しぶりだが、今日はまた何故……」

カーター氏は訳知り顔で、穏やかに微笑んで見せた。

「口止めされておりましたが、実を申しますと、リドゲート卿に招かれたのでございます」
「彼が……か? 困ったヤツだ……私はまだまだ、耄碌しておらんぞ!」

伯爵は暫くの間、照れ隠しをごまかすためか報告書をバサバサと引っ繰り返していたが、 すぐに円卓の近くに並ぶ椅子の一つを指し示した。

「だが、まあ、来てくれて嬉しいよ……そこの椅子に掛けてくれ」

カーター氏は、ここ数ヶ月の不精を丁重に詫びると、ゆっくりとした所作で鞄を降ろし、 丁度良い位置の椅子に静かに腰かけた。

「最近の噂をお聞きしましたよ……実に優秀ですな、リドゲート卿は。 金銭問題と女性問題は、長期化するトラブルの代表格です。 その身内の面倒事を解決なさった手腕は、実に見事と申せます」
「グレンヴィル由来の素質が良いんだな……私には、あのような断固とした対応はできなかった」

クロフォード伯爵は、我が後継者たるキアランに対するカーター氏の称賛の言葉を受けて、 如何にも満足そうな顔でうなづいた。

「厳しい通達と対応で、親族が割れたが……犯罪者を出すよりは、ずっとマシな筈だよ」

カーター氏は、そこで不思議そうな顔をした。

「親族が割れた? 何故あの解決で、ダレット家以外の他の親族が因縁を付けるのですか?」

よくぞ聞いてくれたと言うべきか――クロフォード伯爵は、優秀な聞き手としてのカーター氏に満足しながらも、 涼しげな目元に苦い表情を浮かべた。しかめ面をしている伯爵の眉間には、年季の入ったシワができている。

「ダレット家が、あのトラブルの実情に尾ひれを付けて回っている――しかも、血統問題に絡めてな。頭の痛い問題だよ。 馬車事故で死に掛けて以来の、我が目下の頭痛の種は――キアランとアラシアの婚約問題だ。 キアランの女性問題は、あのトラブル男と正反対の意味で、困る代物だと思う」

伯爵のボヤキに耳を傾けていたカーター氏は、やがて首を傾げ始めた。

「その割には……、アラシア・ダレット嬢を上手くあしらっているようですが……?」
「そう! だから問題なんだよ! あのキアランが、女性に甘い言葉をささやくところを想像できるか!?  ……アシュコート領を……それも、舞踏会を訪問すると言うに――本人には、全く、その気は無しだ!  地位に、財産に、年齢――女性の関心を引く条件は、充分だ、と言うのにだ!」

伯爵の愚痴はだんだん大きくなり、しまいには苛立つ余り、大声になっていた。

カーター氏は、暫し困ったように沈黙し――やがて、「つまり、こういう事ですか」と口を開いた。

「ダレット嬢は一部の親族を納得させるが、それ以外の点では全く評価できない――とは言え、あの超・堅物の若様が、 他の女性を選ぶ事を考えている……とは、とても思えない……」

伯爵は、もうだいぶ白いものの混ざった淡い茶色の髪に手を突っ込み、そして深い溜息と共に、ガックリと肩を落とした。

「これでも私は若かりし頃はプレイボーイだったんでな……、アラシアの素質は、本人よりも、よほど詳しく説明できる」

カーター氏は、苦笑する他に無かった。無能のボンボンも珍しくない中、聞きようによっては贅沢な悩みではある。 キアランの立場の、致命的なまでの弱点を除けば、の事であるが。

とは言え、常に威厳に満ちた領主として振る舞っているクロフォード伯爵が、 心を許して愚痴をこぼしたり悩みを洩らしたりできる――個人的な友人としての――話し相手は、非常に限られている。 カーター氏は、その数少ない中の一人である事を良く心得ており、プロの弁護士としての守秘義務も合わせ、 伯爵の愚痴に対して、ユーモアと誠意をもって対応していた。

「女性の誘惑のやり方も、教えておけば良かったのでは無いですか……男の目から申すのもアレですが、 リドゲート卿は、美形ですし……」

エドワードのような華やかな容貌と言う訳では無いが、キアランも同じ程度には整った顔立ちなのだ。 黒髪黒眼のせいなのか、キアランには、クロフォード伯爵のような涼やかな印象は全く無い。 意志の強い漆黒の眼差しは、時に、歴戦の大人も気圧される程の気迫を浮かべる事がある。 妙に着やせする性質なのか、さほど目立たないが、鍛えられた体格は明らかに軍人向きだ。 父親である伯爵とは全く違う、鋭く剛直な印象があるのだ。

「過去の経緯に今回の面倒事……ダレット家には愛想が尽きたが、筆頭の血族と言う意味は重い……」

クロフォード伯爵のボヤキが続いた。

「グレンヴィル氏の恩義に応えた事に後悔は無いが――キアランの事が色々と不憫でな……、 バカな話に付き合わせてしまったな。身内の愚痴をこぼす気は全く無かったんだが……、今じゃ、 小言の多かった親の気持ちが良く分かると言うものだよ」

鬱屈する気分をあらかた吐き出すと、ようやく精神的に落ち着いて来たらしい。 伯爵は椅子に深くもたれて、「やれやれ」と言った様子の溜息をついていた。

カーター氏は適当に相槌を打ちながら、穏やかに微笑んでいた。そろそろ、こちらの話題を出しても良いタイミングだ。

「いえいえ……、相変わらずお元気そうで安心しました。実は私、これから出張しなければならないのです」
「ほう?」
「出張の前に、ご説明、及びご挨拶を……と考えていたので、今回のお招きは渡りに船でした」

クロフォード伯爵は適度な興味を持って、確認の質問を投げた。

「長い出張になるのか?」

カーター氏は椅子の下に置いていたカバンから書類を取り出すと、再び言葉を続けた。

「交渉相手次第ですが、話がスムーズに行けば四日ほどかと思われます。偶然にも、 それ程遠くないのです――アシュコート伯爵領の荘園の近くでして。 クロフォード伯爵家にも関わる内容なので、詳しく説明いたします……」

*****

カーター氏の説明が始まった。

「――私は、三ヶ月前に死亡した地元紳士……アントン・ライト氏の遺言書を預かっておりましたのです」

伯爵は思わず身を起こしていた。新年の頃、ローズ・パーク邸の地所にあるコテージの中で、 突然の謎の不審死を遂げた、あの老庭師の事だ。

「アントン氏の遺言書だと? それは初耳だ」
「その内容は、ごく簡単なものです。アントン・ライト氏が持つ、 ローズ・パーク邸の一区画の庭園オーナー権を――娘のアイリス、及び、アイリスの子孫に譲るという事です」

――以前から承知している内容と、今まさに知ったばかりの内容が、完全に矛盾している。

伯爵はカーター氏をまじまじと見つめ、疑わしそうに口を開いた。

「アイリス・ライト……? アントン氏の一人娘は――20年以上前に死亡したと聞いているが。 一人旅に出て、旅先で事故に遭ったとか……」

カーター氏はすぐに首を振り、伯爵の話を否定した。

「実は役所の取り違えで、別人の死体と入れ替わっていたのです。――結婚指輪をしていない良家の娘が、 妊娠していたとは誰も思わなかった……という事でしょう」
「――妊娠していた!?」

その信じがたいまでの内容に、伯爵は愕然とするばかりであった。その顔からは、わずかながら血の気が引いている。

カーター氏は、手元の数点の資料を並べて慎重に確認していた。注意深い弁護士にしては珍しい事ではあったが、 伯爵の顔色の変化に気付きが及ばないまま、説明を続けたのである。

「死亡報告書作成の時点で……妊娠二ヶ月だったそうです。通称『ライト夫人』――アイリス本人は、 五年前までは生きていましたが、風邪をこじらせて死亡……。アイリスの子供の方は、現在アシュコートで生きています。 追跡調査が困難で、身元確認でもえらく時間を取りましたが――、役所をせっついて、修正を急ぐよう依頼いたしました」

カーター氏は更に資料をめくり、説明を続けた。

「ローズ・パークのオーナー協会からは、早く空白の一区画の相続者を明らかにして欲しいと言って来ていますし、 彼女がタイター氏含む親戚筋のビリントン家よりも、 誠実かつ善良な管理人になるならば――クロフォード伯爵家にとっても、良い話です」

クロフォード伯爵は呆然としたまま、口を動かしていた。

「彼女……? 娘なのか?」
「書類上では、間違い無く女性ですが。アントン氏がこの遺言書を作成したのは、かなり前です。 いつからか既に、子孫の生存を察知していたようです――この謎はさておき――彼女が死亡、 または相続放棄の場合に限り、くだんの一区画は、クロフォード伯爵家に返還されます……」

カーター氏が手に入れた資料や記録ノートの内容は、まだ周辺の事実確認が済んでいないため、 全体にわたって矛盾する記述が錯綜しているという状態だ。 頭の痛くなるようなバラバラな資料の群れだ。

――とりあえず、一定以上の確証が得られた要点をまとめる事は、できた。

カーター氏は、資料記載の矛盾を整理しつつ伯爵に説明できた事でホッとしながらも、 変わらぬ様子で穏やかに話を続けた。

「私は今回の出張でアイリスの娘に会い、今回の案件に関する彼女の意思を確認するつもりです。 以上で、説明を終わります」
「アイリスの娘……アントンの孫娘について、他には何か……?」

その時、初めて、カーター氏は、クロフォード伯爵の様子が不自然な事に気が付いたのであった。

――わずかとは言え顔色を変え、不自然に口ごもっている。

弁護士としての観察力は、伯爵がそのわずかな変化の裏で、全身を耳にしている事を告げていた。 伯爵の様子を不思議に思いながらも、カーター氏は、この恐ろしく錯綜する案件に対する伯爵の関心は、意外に強い――と理解した。 カーター氏は再び書類を見直し、今の時点で分かる限りのコメントを追加する事にした。

「さて……、彼女と直接、会った事はありませんで。ああ……、もう25歳の大人の女性ですね。 とは言え、タイター・ビリントン氏には、良からぬ噂が数々ございまして。 相続争いになると、身の危険が充分に予想されます。クロフォード領主として、お力添えを頂けますか?」

クロフォード伯爵は、その伺いに、「勿論だ!」と快諾して見せた。

5.アシュコート伯爵領…舞踏会・第一夜

復活祭をよほど過ぎた春の宵――ほのかに花の香りのある、暖かな夜風が吹き渡った。

アシュコート伯爵領の辺境に近い地所の一つ、社交会場となった或る邸宅では、 既に各地から多くの紳士淑女が集まっており、社交ダンスもたけなわである。

モダンな建築様式の白亜の邸宅である。しかし、外に広がる庭園とつながる箇所には、 ツタをはじめとする観葉植物が入り込むように配置されており、山野趣味と思しき趣向が凝らされていた。 適度に春の野辺の気配の入り交ざった会場は、冷やかしの混ざった冒険心も喜ばせるものになっていたのであった。

社交ダンス会場となっている大広間は、 華やかな装飾を凝らした色とりどりのエンパイア・ラインのドレスを身にまとった淑女と、 金糸銀糸を施した極彩色からシンプルな暗色系まで、様々なタイプの正装をまとった紳士でいっぱいだ。 社交界に出席できるギリギリの未成年から、足腰が怪しくなり始めてなお元気な老年世代までと、年齢層も広い。

会場の一角では、出席者の中に混ざったキアランとエドワードが、会場の批評を始めていた。

「会場は結構、良い趣味をしているな」
「近隣の評判になるだけあって、良いスタッフを抱えてるらしいな。後でヒューゴに聞いてみよう……彼は、此処の関係者だから」

黒いシンプルな正装をまとった二人が、文字通り「壁のシミ」となって歓談している間に、ダンス音楽の曲目が変わったらしい。 数曲の間にわたって欠けていたハープ音が、再び加わって来た。

「先刻までハープ奏者が欠けていたが、今頃入ったのか……」

エドワードは会場巡りの経験もあって、耳ざとく気付いた様子である。 意地の悪い冷やかしを込めて、会場の隅に控えた楽団メンバーの方に目をやるエドワード。

ハープを演奏しているのは、今まで見たことのない、若い女性。

その光景を見るなり、エドワードは思わず息を呑んだ。 急に動きを止めた親友に気付き、「どうした?」とキアランも不思議そうな顔である。 一方、エドワードは珍しく放心した様子で、「美人だ……」などと呟いていた。

キアランは不審そうに目を細めると、何がエドワードの注意を引いたのかと、ダンス曲の演奏を続ける楽団メンバーを眺め始めた。

楽団メンバーの中の不自然なポイントは、すぐに見つかった。言わずと知れた、ハープ奏者である。

ハープ奏者は、今そこに紛れ込んだかのような雰囲気の、実にミステリアスな女性だった。 着ているドレスは良く見ると、一切の装飾を省いた制服のようなデザインの紺色ながら、楽団メンバーの物とは明らかに異なる。 地味すぎる招待客か――で無ければ、接客前線を担当する会場スタッフ嬢か。

奏でられているのは、膝の上に乗せて奏でるタイプの、古式ゆかしき小型ハープだ。 かつて吟遊詩人が使っていた楽器という事もあり、持ち運びは容易い。 小型ハープは今でも、辺境の会場を渡り歩いて営業する移動楽団の中では現役だ。 しかし、現代のオーケストラに使われるような大型ハープと違って、弦が短い分、 充分な音量を保ちつつ連続して演奏するには、細かな調律が必要になるのだ。

単なる飛び入りの愛好者の手に負えるような楽器では無い。小型ハープは総じて手の掛かる、プロ仕様の楽器である。 しかし、女ハープ奏者の腕前は、プロの楽団メンバーとして通じるレベルだ。

シンプルなアップスタイルの髪型ではあるが、見事な金髪の輝きは隠しようも無い。 指揮者がたまたま同じ方向に陣取っているため、時々、チラリと目がこちらを向く。 楽団メンバーに紛れ込むためなのか、わざわざ地味に見えるような化粧を施し、取り繕ったような硬い表情を浮かべてはいたが、 それでも、息を呑むような美貌である事が窺えた。彼女の目の色は、宝石のような深い緑。

彼女は何処から湧いて来たのか、何故に楽団に混ざっているのか――全てが謎めいている。

そのまま注意深く観察していると、女ハープ奏者には、他にも不審な点が出て来た。 演奏曲目が一区切り付くたびに、焦ったように控え室の方を何度も振り返るのである。

「彼女の謎は控え室だな」

エドワードの琥珀色の目は、強い好奇心でキラキラしていた。明らかに探究心を刺激されている。 謎の女ハープ奏者を捕まえる気満々なのだ。

親友の悪い病気が出たかと呆れながらも、 「回廊から調べる?」などと調子を合わせるキアランであった。

*****

ほぼ、同じ頃。

同じ会場の裏口では、別の出来事が進行していた。

たった今到着した、と言う風の馬車から、バタバタと二人ばかり降りて来た。 すると、裏口で小柄な女性と思しき人影が、待ちかねていたとばかりにピョンピョンと飛び跳ねた。

「急いで控え室に来て!」

その声に応えて、馬車から降りた二人は、裏口に駆け寄った。 おヒゲを生やした、明らかに医者と見える年輩の男。楽団メンバーの制服を着た若い男。

そして、その二人を誘導するのは、やはり小柄な女性である。

会場の裏口で三人連れとなった奇妙な一団は、灯りが絞られて薄暗くなった使用人用の廊下を疾走し、 会場スタッフ用の控え室の一つに駆け込んだ。

「お医者様は、そちらの方に……会場の楽団のハープ奏者が階段から落ちて、ギックリ腰です!」

小柄な女性が指し示した長椅子の上には、確かに、ギックリ腰で動けなくなっている楽団メンバー、 それもハープ奏者が、殺人的な腰の痛みにうめき声を上げつつ、横たわっていたのであった。 医者はベテランらしくすぐに事態を理解し、患者の診療に取り掛かった。

楽団の補欠メンバーの方は、小柄な女性の手で、更に会場に向かう回廊の方へと誘導される形になった。

「もう四曲分経過してる……走って!」
「ええッ……! 招待客も出てくる回廊じゃ!」
「お酒が回ってボンヤリした人たちだから、大丈夫です!」

誘導するのは、スタッフ嬢と思しき、シンプルな茶色のドレスをまとった小柄な女性。 エンパイア・ラインのドレスの裾が高く舞い上がるほどに勢い良く走っていたので、 回廊にボンヤリとたむろしていた酔客たちを突き飛ばさんばかりだ。

程なくして、小柄な女性は、その突進する勢いで、本当に男客の一人を突き飛ばした。 突き飛ばされたのは大柄な男だったのだが、勢いよく回転し、後ろにあった回廊の壁に叩き付けられる羽目になった。

「鼻血がぁ!」
「済みませんッ! 後で、お医者様の所にご案内いたしますッ……!」

そのタイミングで回廊に出て来たキアランとエドワードは、 衝突せんばかりに走って来た非常識すぎる二人の男女を、慌てて避ける羽目になったのであった。

「回避の協力、感謝です!」

キアランとエドワードがポカンとして見送る先で、全力疾走していた二人の男女は、あの控え室に飛び込んで行った。

非常識すぎる男女が台風よろしく通り過ぎた回廊の中は、ちょっとしたパニックになっていた。

「鼻血が! 鼻血が!」と喚きまくる大柄な男客。それを呆れて眺めている、これまたスタッフ嬢と思しき女客。 突き飛ばされかけた他の酔客が、事態を分かっているのか分かっていないのか、 鼻血を止めようと顔面を手で押さえている大柄な男の哀れな悲鳴に合わせて、新たな祝杯を挙げていた。

「何なんだ? この騒ぎは」

流石のエドワードも、唖然とするばかりだ。

キアランは、非常識すぎる二人が飛び込んだ先を見て、首を傾げた。

「楽団の裏の控え室?」
「もしかして……」

エドワードとキアランは、互いに顔を見合わせた。

そうしている間にも控え室を通じて、女ハープ奏者と、今しがた駆けつけて来た楽団の補欠メンバーとの交代が、手早く終了した。 楽団に欠員が出ていたという事実を全く感じさせなかった程の早業であった。

チェンジが済むと、ひょうきんな雰囲気のある黒髪の青年が、 会場を仕切っている垂れ幕にヨロヨロとしがみ付き、安堵の溜息を洩らした。

「心臓が止まるかと思ったよ! 僕は!」
「何とか急場切り抜けたじゃ無いの、ヒューゴさん! 敵はまだまだ来るでしょ! 初戦で怯んでどうするの!」

頼りなさそうな青年ヒューゴに発破をかけているのは、あの金髪の女ハープ奏者だ。 顔に似合わず、威勢のいい性格だ――こちらの方が、本性なのだ。 茶色のドレスをまとう小柄な女性の方も、なかなか度胸があるようで、息を弾ませながらも苦笑している。

「新たな追加は、ハープ奏者のギックリ腰の治療費だけで……」

本物の方のハープ奏者は、ギックリ腰で退場していたのだという情報を得て、 唖然とするエドワードとキアランであった。此処でヒューゴに会ったのも、何かの縁だろう。

「大体の事情は飲み込めたよ。予期せぬ出来事だったらしいな? ヒューゴ・レスター」

エドワードが声を掛けると、ヒューゴはすぐに、背後の二人の青年に気付いて、サッと振り返った。

「ああ……先輩! わざわざ出席頂いたのに、お恥ずかしい限りです!」

偶然ながら、エドワードとキアランとヒューゴは、同じ寄宿学校の先輩・後輩の関係である。

二人の女性は、その様子を不思議そうに眺め始めた。 男性陣の全員が、お互いに知り合いらしいと察しながらも、詳しい事情をすぐには了解できなかったのである。

ヒューゴは、垂れ幕を挟んで対面しているお互いが、互いに初対面だったと言う事に気付き、 間に立って紹介を始めた。

「紹介するよ……二人は、僕の寄宿学校の先輩なんだ。エドワード・シンクレア卿、こちらがリドゲート卿」

エドワードとキアランが丁重に一礼すると、 女性たち二人の方も、「お初にお目にかかります、紳士方」と優雅に一礼した。 女性は二人とも、上流社交界での身のこなしを心得ている様子である。

ヒューゴは、金髪と茶髪の二人の女性を指し示すと、人物詳細の説明を始めた。

「こちらは僕の地元の友人、アシュコート伯爵の……」

しかし、何とも間が悪いと言うべきか、そこに急に縮れ毛の使者が、息せき切って飛び出して来た。

「ヒューゴ様! 伯爵様が、すぐに来いとお呼びで……」

この場合の伯爵とはアシュコート伯爵であり、その命令は、此処アシュコート領では絶対なのであった。 そして『すぐに来い』とは、文字通り緊急で駆け付けて来いという意味なのであった。

縮れ毛の使者は、そのガッチリした比較的大柄な体格を生かして、 慌てるヒューゴを捕まえ、引きずって行く……

「ああ……! アンジェラ、ルシール! このタイミングで、 ホントに済まん! 今回は珍しくゲストなのに、トラブル発生で、スタッフ扱いで……」

その他にも何か訳の分からないことを言いつのりながらも、涙目で引きずられて行くヒューゴなのであった。

「いつもの事ですから気になりませんよ、ヒューゴさん」
「やれやれ、学生時代からそそっかしい後輩だったが……」

金髪女性は冷静な様子だったが、エドワードの方は、目を白黒していた。

「今夜は致し方ありませんね。持ち回りで、今夜は彼が会場責任者ですから……」

ひとしきり苦笑していた金髪女性は、仕切り直しとばかりに営業スマイルを浮かべて、エドワードとキアランに向き直った。

「改めて、自己紹介させて頂きます。私がアンジェラで、隣がルシールです」
「先程は、大変お騒がせを致しました」

小柄な茶髪の女性ルシールは、再び一礼した。その胸元で、紫色のバラの形をしたブローチが、キラリと光った。 頭を下げ、そして再び頭を上げた拍子に、目を覆い隠すほどに深く下ろしていた濃い茶色の前髪が揺れ、 一瞬、その面差しを明らかにする。

――大きな茶色の目。アンジェラのような絶世の美女というほどの容貌では無いが、繊細な花のような面差し。

理由はさほど知れぬものの、キアランは不意に気を惹かれる物を覚えた――

「鼻血! 鼻血!」

またしても、折悪しくと言うべきか、先ほど突き飛ばされていた男が乱入して来た。

ルシールは、うっかりしていたとばかりに、すぐに大男の鼻血の処置をすると、 エドワードとキアランに失礼を詫びながら、鼻血を出した男客とその連れと見える女客を控え室に案内して行くのであった。

「あなたは騒ぎ過ぎよ、ナイジェル! 別件に夢中でボンヤリしたでしょうが」

金髪の女客が、黒髪の男客を叱り付けている。 控え室のドアの前に着いた後も、鼻血で失神せんばかりの哀れな男客を差し置いて、女性同士のやりとりが続いた。

「さっきはごめんね、イザベラ」
「ナイジェルは血を見ただけでパニックみたい。先刻は、 別件で気まずい状況だったから……気にしないで」

イザベラと呼ばれた女客は、男客のヘタレっぷりに呆れながらも、牛のような大男を巧みに控え室に押し込んだ。

人騒がせな騒動を一通り眺めたエドワードは、その収拾の手際の良さに感心した。

「臨機応変ですね」
「会場スタッフの十八番ですから、慣れております。お酒が入れば、 もっと大騒ぎになりますしね……、そろそろ、会場に戻られますか?」

――面白い状況になって来た。

エドワードは、ひそかに鋭い笑みを浮かべた。

アンジェラは、このようなカオスな状況に慣れているらしい。招待客から会場スタッフに早変わりしたアンジェラは、 そつのない自然な態度で、エドワードとキアランを会場に誘導し始める。

学生時代の後輩ヒューゴが言い残した言葉は、 彼女たちは、むしろ会場スタッフとしての経験の方が長いのだろうと言う事を暗示していた。 実際、アンジェラとルシールがまとうドレスは、標準的なエンパイア・ライン型だが、装飾がほとんど無い。 必要とあらば裏方の会場スタッフとして振る舞っても不自然では無い――という程に、地味なデザインなのだ。

キアランは、ルシールが消えていった控え室のドアに目をやった。

小柄な体格のせいか、ルシールには、17歳か18歳では無いかと言う印象がある。 濃い茶色の髪と目に、茶色のドレス。 深く下ろした前髪の間に仄見える面差しは繊細そのもので、人の関心を充分に引き付けるに足るものだった。

*****

会場に戻ったエドワードは、早くも遊び人の本領を発揮し始めた様子で、 アンジェラを社交ダンスに誘った。

「ダンスの申し込みを受けてくれますか? レディ・アンジェラ」
「私の事は、単に『アンジェラ』でお願い致します。私はレディの称号は持っておりませんの、エドワード卿」

アンジェラは営業スマイルを浮かべながらも、申し込みに応じて優雅に手を差し伸べた。 アンジェラの手を取ったエドワードは、すぐにその違和感に気付いた。

爪を短く切り揃えた、実用的な手。 一般的な令嬢のように爪をお洒落に伸ばしておらず、華やかなマニキュアも施していないのだ。 手入れは行き届いていて、気持ちの良い清潔さや健康的な色艶はあるが、古い傷跡が目立ち、相応に使い込まれている証が見える。

――どういう素性の令嬢だろう?

ギックリ腰で倒れたハープ奏者のピンチヒッターを務めたことと言い、 回廊での非常識すぎる騒動に対して平然と解説を加え、ヒューゴに代わって会場の面目を保ったことと言い、 単なる田舎娘にしては人あしらいに長けていて、名門の女学校などで型通りの教育を受けた娘にしては勇気と行動力がある。

アンジェラは底意の見えない、小癪なまでの営業スマイルを続けている。

エドワードは久し振りに、手ごたえのある謎を感じていた。

ペアを組んだエドワードとアンジェラは、会場のダンスの輪の中に、滑らかな動きで加わっていく。 アンジェラは、後ろにも目があるかのようなしなやかな身のこなしで、 不規則にすれ違ってゆく他のペアとの衝突を次々にかわしていた。

これでは、男性の出る幕が無いというところだが、 会場スタッフ――特にダンス・アテンダントとして、ステップの覚束ない男性客の相手を務める時には、 非常に役立つ能力だ。アンジェラは、そういう意味では、ダンスの名手であった。

アンジェラの手の形や骨格の有り様は、明らかに貴族の血筋を示している。 エドワードは、これでも自分の観察眼には自信がある方だ。ヒューゴの人物紹介は途中で途切れてしまったものの、 アシュコート伯爵との何らかの関係を匂わせる内容だった――

「あなたは、アシュコート伯爵の係累では無いのですか?」
「伯爵様の領民の一人でございます」

涼しい顔で、隙のない回答を寄越すアンジェラである。

「おや? しかしあなたは、ヒューゴとは対等の仲でしょう?」
「ヒューゴさんのご好意で、対等で親しくさせて頂いております」
「では、私はあなたを氏名で何と呼べば良いのですか?」

アンジェラは何がツボにハマったのか、宝石のような緑の目を輝かせ、整った口元にイタズラっぽい笑みを浮かべた。

「では、スミス嬢と。フルネームは、アンジェラ・スミスです」
「やはり、アンジェラと呼ぶ方が良いですね」
「それはそうでございましょう」

何と言う事のない自己紹介に見えて、それは、互いの底意と素性を探り合うと言うゲームになっていた。

「私の事も、単にエドワードと呼んで下さい」
「それは流石に難しいですね、エドワード卿」

ダンス曲に合わせてクルリと回転し、エドワードと再び向き合ったアンジェラは、 何らかの確信を得たと言う風で、自分よりずっと背の高い金髪紳士をスッと見上げた。 その印象深い緑の目から、営業スマイルはいつの間にか消えていた。

「私はあなたと初めてお会い致しましたが、金欠の放蕩紳士と言う噂には深刻な疑いがございます」

――何かを見透かしているような、不思議な透明感のある緑の目だ。

深みを増した輝きに、エドワードは魅惑されながらも、 思わずギョッとするのを抑えられなかった。古代の神秘的な魔法をかけられているような気がしたのである。

「あなたは恐らく、爵位をお持ちの門閥の直系で――財産持ちです」

アンジェラは、間違いなく、何らかの確信をもって、仮面の存在を見抜いたのだ。 エドワードは暫し絶句した。

「……三男ですが、直系と言うのは大当たりですね。財産の件では、何故そう思うんです?」

この王国の貴族制度においては、法律上、嫡子(長子)以外は財産を継ぐ権利が無い。 嫡子以外の者は、結婚すると同時に独立して分家を創設するが、荘園の経営能力が無かったり自活能力が無かったりすると、 本家からのわずかな年金のみで生計を立てるしか無く、困窮しやすい。 妻に迎える女性の経済観念や手腕も重要なポイントになるし、 平凡な紳士の一人として地域に沈んでいくのが大多数だ。

結婚前から金欠になってしまうような放蕩ボンボンの場合は、 土地財産持ちの未亡人を狙うなりしてヒモになるのも、ある程度の面目や勢力を保つための一つの方法だ。 このやり方は、また別の才能が必要になるから、余り一般的では無いが。

アンジェラは、営業スマイルとは異なる、不思議な笑みを見せた。

「会場スタッフとしての勘です。異例の客人が事情を含めて出席する事もございますし、 察した上での対応が必要になりますから」

そう言っている間にもダンスは終盤に入り、アンジェラは最後の一礼をした。 そのまま、会場スタッフとしての別の仕事に取り掛かると言った様子である。

エドワードは、自分でも良く分からない直感を感じ、咄嗟にアンジェラに声を掛けた。

「二回目のダンスを申し込んでも?」

アンジェラは戸惑ったようにエドワードを眺めていたが、やがてピンと来たような様子で快くうなづき、その手を取った。 一回目と同様、流れるような身のこなしで二回目のダンスに入る二人である。 アンジェラはダンスのリードを取ると、エドワードを会場一杯に連れ回した。

そして要所要所で、何とアンジェラは、エドワードに、独身の令嬢の紹介をしていったのである!

「右の二番目はカータレット嬢、当会場お勧めの令嬢でもあり、 あなたなら数多の求婚者を置いて充分に上位候補を狙えますでしょう。 南三番の壁の花はエリー嬢、確実にあなたを見かけて憧れておいでです――内気な方ですが、 良く話してみれば彼女の頭の良さが分かってきますし、欠点は無いかと――」

アンジェラの言う『会場スタッフとしての勘』とやらに、エドワードは唖然とするばかりだった。 各地の社交界を渡って行く独身貴族の遊び人を装っていたのに、 この舞踏会に来たそもそもの目的を、完全に読まれていたのである。

次々に独身の令嬢の紹介と解説を続けるアンジェラであったが、とある一角に目をやると、急に顔色を変えて首をそむけた。

アンジェラの変化に目ざとく気付いたエドワードは、その一角をそっと窺う。

会場の一角に集まっていた女客の中の一人が、エドワードの視線を読み、贅沢な羽毛扇を傾けて蠱惑的な眼差しを返して来た。 黒髪の妖艶な美女だ。曖昧な視線を鋭く読むところ、思わせぶりな沈黙のやりとりに手馴れている様子である。

「――白い羽飾りと水色のドレス? 彼女が何か?」

そのエドワードの問いに、アンジェラは真っ青になったまま口ごもるばかりであった。

「彼女はお勧めでは無く――夫婦仲に問題ありの有閑マダム……とか……」

動転の余り、取って付けたような内容になっている。

その内容にしても、おそらくは『もっと別の何か』をごまかすための虚偽に違いないと、エドワードは見抜いた。

アンジェラは、まさか此処であの黒髪の女性を見かけるとは、夢にも思っていなかったようだ。 意地悪く眺めれば、今のアンジェラは隙だらけだ。 滅多な事では驚かないだけに、いったん動転すると、平常心を取り戻すのに時間が掛かる性質らしい。

アンジェラがこれ程に顔色を悪くしていなければ、からかいの一言を投げかける所である。 しかし、今はそれどころでは無い。新たな謎の発生である――それも、気安くからかいの対象にはできないだろうという、 不穏な気配が満載だ。

エドワードはいっそうの不審を覚えながらも、再び問題の黒髪の女客を素早く観察した。

年齢不詳の妖艶な熟女。豊満な胸は、襟ぐりの深すぎるドレスの胸元で、惚れ惚れする程の見事な胸の谷間を形作っている。 青白い肌は信じがたい程の艶々とした滑らかさだ。肌の青白さに黒髪が映え、かえってこの世の物ならぬ妖艶さを醸し出している。 口紅の色は血のように鮮やかな真紅。

一般的には水色のドレスは清楚な印象を与える物なのだが、この謎の女の着こなしは危ういまでにきわどく、 かの伝説のセイレーンのような、ゾッとするような妖しさを披露する物となっていた。 有閑マダムと言うよりは、誰かの愛人としか思えない。そう言う、ひそやかに熱い不道徳の情熱と愉悦の雰囲気を湛えている……

――愛人。

エドワードの脳裏に、不意に閃く可能性があった。それも、恐ろしく不穏な可能性が。

「アンジェラのお父上は、此処におられますか?」

聞くともなしに聞いたという風のエドワードの問いかけに、動転の続いているアンジェラは、無意識のうちに反応した。

「いえ……父は社交嫌いで、滅多にお城から出ない人で……」
「母上は?」
「おりません」

謎の黒髪の女の視野から外れた瞬間――アンジェラは、正気に返った。

「……済みません、令嬢の紹介を続けましょう!」

アンジェラは気を取り直し、エドワードに独身令嬢の紹介を続けた。そうしているうちに、二回目のダンス曲が終わる。 黒髪を持つ大柄な男客を伴ったルシールが、そのタイミングをはかって近付いて来た。

「アンジェラ! この方が、お話があるそうで……」

三回目のダンス曲が始まると共に、アンジェラはその黒髪の男客とペアを組む事になり、エドワードは一旦引き下がる形になった。 アンジェラとの駆け引きは、思わぬ頭脳ゲームであり――腹の探り合いでもあった。

エドワードはキアランの横に並ぶと、深い溜息をついた。

「アンジェラに、してやられたかも知れない」
「どういう訳だ?」
「二回目のダンスで、会場の独身の令嬢を軒並み……それも、効率的に紹介されたよ」

珍しく、打ちのめされたと言う風のエドワード。

親友の異変に気付き、それでも若干の余裕を持っていたキアランは、 ゆっくりとした動作ながらも、エドワードをまともに振り返った。 その口元から洩れた「マジか……」というスラングは、音声にこそなりはしなかったが、 キアランの深い驚きを、そのまま伝えるものとなったのである。

傍に居たルシールは、背の高い二人の青年の会話に気付き、にこやかな営業スマイルを見せた。

「良かったじゃありませんか! アンジェラの見立ては大体良いのです……理想の淑女は、会場においででしたか?」

しかし、エドワードはムッとした様子で腕を組んだ。

「いや! まだ全員紹介して頂いてないし」
「おかしいですね、あのアンジェラが選択を抜かす筈、無いんですけど……」
「確かに完璧な仕事だったが……私は、アンジェラ・スミス嬢をご紹介頂きたかったね」

釈然としないままだったルシールは、突然ハッとしたように振り返った。

エドワードの口元は笑みの形をしていたが、その琥珀色の目は、笑っていない――ルシールの直感は、 素晴らしいほどの精度で、その意味を読み取った。

「アンジェラ……ですか!?」
「アンジェラは片親らしいが、確実に貴族の令嬢だ。それなら、何故レディの称号を持っていない?  彼女の父親にも謎めいた問題があると見えるし……それに、あの白い羽飾りの水色の女性は誰なのか?  アンジェラは明らかに彼女を良く知っていて、避けていた……」

ダンスをしている間のわずかなやり取りの中で、エドワードはそれだけの情報を読み取ったのだ。 一見、軽薄そうなチャラ男だが、あのアンジェラと真っ向からやり合えるほどの頭脳を持っている――

ルシールは、圧倒されて沈黙するばかりだ。バツが悪そうな様子で、うつむく。 アンジェラと比べると、ルシールは隠し事をするのが器用では無い。 その奇妙に不自然な態度は、二人の青年の不審を招いていた。

「彼女が話そうとしないなら、私も余り話せないですが……」

二人の紳士にいっぺんに注目され、小柄な身体をますます小さくしているルシール。

「これだけは言えますね……アンジェラは、目下の問題にあなた方を巻き込みたく無いんです」

エドワードは怪訝そうな顔をした。

「問題?」
「一応……アシュコートの最近のゴシップなら、ご存知ですね」

言いにくそうにしながらも、ルシールは言葉を継いだ。

「復活祭の巨大卵のハリボテの中から……バラバラ死体が出たと言う事件……」

――血なまぐさいロックウェル事件。

会場のゴシップの中にもあった話題である。エドワードもキアランもギョッとした。

「ロックウェルのバラバラ死体!?」
「あの猟奇事件は本当の話だと?」

小さなルシールの口から、これ程に凄惨かつ血なまぐさい事件の話が飛び出すとは、まさしく不意打ちだ。

「……アンジェラは、ロックウェル事件の関係者なのか……?」

エドワードは、畏怖の念すら抱き始めていた。

「もし公的に知りたいなら、伯爵様か治安判事に聞いて下さい」

ルシールはそれだけ告げると、口を閉じて、それ以上は頑として話そうとしなかった。

――が、その沈黙は長くは続かなかった。

凄まじい形相をしたイザベラが金髪を振り乱し、 競馬の優勝馬のフィニッシュもかくやと思う程の猛スピードで、会場に飛び込んで来たからである。

「ルシール! ナイジェルとアンジェラが一緒だけど!」

ルシールは目をパチクリさせた。確かに、三曲目のダンスでアンジェラは、 ルシールが連れて来た黒髪の男客ナイジェルとペアを組んでいる……

イザベラは狙い過たず、ナイジェルとアンジェラのペアを指差した。

「まずいわよ! ナイジェルは手頃な金髪の若手を狙って……セクハラするのよ!」

――確かにそこでは、ナイジェルがアンジェラにセクハラしている真っ最中だ!

イザベラが言う『別件』とは、一体何であったのか――その意味を悟って、呆然とするルシール。

ルシールとイザベラは善後策に詰まり、無意識のうちに手を取り合いながらも固まっていた。 ナイジェルは牛のようなガチムチとした大男だ。女性三人で一斉に飛び掛かったとして、上手く取り押さえられるだろうか?

そして信じられない事に、エドワードが非友好的な足取りで、決然とナイジェルの方に接近して行く!

ルシールとイザベラは、今度こそ開いた口が塞がらぬ――という状態になった。

「あの金髪紳士、決闘を申し込むつもりなの?」
「まずいッ……!」

イザベラは目を丸くし、ルシールは真っ青になった。 それに引き換え、親友の気性を知っているキアランは、ムッツリと落ち着いたままである。

しかし、アンジェラの気の強さは、男たちの想定外であったようだ――

「必殺、手の平返しッ!!」

ダンスの回転運動に乗った大柄な男の身体が、アンジェラの巧みな手腕による急加速を付けられ、 超高速で近くの柱に叩き付けられていった。 芸術的なまでに均整の取れた豪速球ストレートは、素晴らしい精度で正面衝突した。 アヤシクも「やる気」に満ち満ちていた大柄な男が、無慈悲なまでに堅苦しい柱との間で、 熱烈な顔面激突キッスをした証の、何とも言えない派手な音が響いた。

全てが終わった後、再び鼻血を流し、「フガフガ!」と訳の分からぬ事を言って、 いっそう熱烈に柱にしがみつくナイジェルの残骸が、 そこにはあった(やはり、血を見るとパニックになる性質のようだ……)。

「あら、鼻血がまた出てますわ……先程の止血が不十分だったのですね?」

アンジェラは白々しく健康を尋ねた。 柱にしがみついて目を回している哀れなナイジェルの残骸に構わず、クルリと振り返る。

アンジェラの視線の先には、会場の時計があった。時針は、丁度、時限を指している。 アンジェラは、殊更にかしこまった顔をして、エドワードとキアランの方に向き直った。

「誠に申し訳ありませんが、紳士方……時限が来たので、お先に失礼を」

エドワードは目をパチクリさせた。

「時限? 早過ぎると思いますが」
「明日の朝、早いので」

アンジェラとルシールは一礼すると、素早く会場を退出して行った。 ルシールも流石に会場スタッフと言うべきか、ナイジェルがノックアウトされたと分かった後、 すぐさま気を切り替えていたらしい。

イザベラは早速、下心をタップリと満載した不吉な笑みを浮かべ、会場スタッフ仲間の男の手も借りて、 ナイジェルの残骸を柱から引き剥がしていた。

「まあ大変! 血が! 急いでお医者様に診て頂かなければ……!」

目をむくような展開の後の、あっと言う間の事態の推移に、エドワードとキアランは呆れるばかり。

「住所を聞かずじまいだったな……」

エドワードは苦笑しながらも、愉快そうに目を細めていた。キアランは、親友のその様子を、奇妙な眼差しで見つめた。

この舞踏会は三晩続くものであり、明日の夜か、或いは最終日となる明後日の夜に、 再会と仕切り直しを期待する他、無さそうである。

*****

会場を、物陰から窺う人影がある。

その人影は、そっと会場を離れると、帰宅準備のため控え室に戻って行くアンジェラとルシールの後を付いて行った。

スタッフ用の出入口と直結する控え室にて。

小柄なルシールが、高い場所に吊るされた外套を苦労して外そうとしていると、 そこに先程の人影の手が伸びて来て、外套を事も無げに外し、ルシールに手渡した。 ルシールは驚きながらもお礼を言うと、その手の主の方を振り返った。

綺麗なウェーブのかかった金髪の、背の高い立派な体格の紳士だ。目の色は、青。

完璧な金髪碧眼の美青年で、エドワードとは別人だ。くっきりとした貴族的な目鼻立ちが、周囲から際立つような華を添えている。 絶世の美貌を持つ若き騎士を想像するとしたら、まさに、こんな感じだろう。

女性の目から比較して見てみると、エドワードは都会的なチャラ男タイプの美青年で、 この金髪碧眼は『騎士道物語』に出て来そうな高潔な英雄タイプの美青年だ(そして外套を取ってくれた事実からして、とても紳士的だ)。

このような目立つタイプのイケメンは、そうそう忘れられるものでは無い。 ほとんど全ての乙女がポーッとなるような状況ではあったが、かねてからアンジェラの絶世の美貌に慣れていたルシールにとっては、 『アンジェラの次の次くらいのイケ面』という程度の感覚だ。

――以前に、会った事があったかしら?

ルシールは金髪碧眼の『イケ面』を眺めながら考えていたが、すぐに気付いた。

「前シーズンもいらした方ですね。お名前は、存じ上げませんでしたが……」

金髪碧眼の背の高い美青年は、小柄なルシールに合わせて、紳士らしく腰をかがめて来た。

「時に……先程の黒髪の紳士と、お知り合い?」
「リドゲート卿の事ですね? 今夜が初めてですが……」
「そうですか……黒髪の方は、実に無愛想で冷淡でしょう?」

――この金髪碧眼の美青年もまた、リドゲート卿の友人らしい。 成る程、リドゲート卿のムッツリぶりは、当然、多くの人々を戸惑わせている筈だ。 エドワード卿はチャラチャラし過ぎていて、お世辞にもフォローになっているとは言いがたいし、 このピカイチの友人が、その面倒を始末して回っているというパターンなのだ。

そのように納得したルシールは、外套の紐を結びながら暫く考え、失礼にならないように、慎重に同意した。

「口数は多くない方のようですね」

その答えに、金髪碧眼は『やっぱり』という風に溜息をつき、口元に困ったような苦笑を浮かべた。

「そうですね。実に冷酷な男ですから、女性に対して……身の程知らずの野心もあってね、 彼の縁結びは止めておいた方が良いでしょう」

ルシールは目をパチクリさせ、絵に描いたような金髪碧眼の美青年を見上げた。 この金髪碧眼は、前シーズンにも来ていただけあって、会場スタッフとしてのアンジェラとルシールの『もう一つの仕事』 ――良縁を探している独身の男女を対象とする、『縁組ビジネス』の存在に気付いていたようだ。

――この金髪碧眼の紳士、頭が良いんだわ。 そんな人の目から見ても、あのムッツリ黒髪のリドゲート卿は、改善の余地も無い程、性格の悪い人物だという事かしら。 アンジェラの危機の時も、素っ気無い程に無反応だったし……

ルシールの不思議そうな様子を、金髪碧眼はどう読んだのか、不意に華やかで魅惑的な笑みを浮かべ、丁重に言葉を継いだ。

「これは失礼。私はレナード・ダレットです……明日もお話をしたいですね、スタッフ嬢」

金髪碧眼は『縁組サービス』を利用する意思があるという事だ――ルシールは軽くうなづき、 レナードと名乗った男から差し出された手に応え、握手を交わした。

半分ほど屋外に身を乗り出して、送迎馬車が回って来るのを待っていたアンジェラは、背後で進行していた出来事に既に気付いていた。 アンジェラは、『レナード・ダレット』と名乗った金髪碧眼の紳士をチラリと眺め、感心したような顔つきになった。

軽い握手を交わした後、レナードは会場に戻って行った。

レナードの姿が見えなくなるまで見送った後、アンジェラとルシールは、送迎馬車へと歩を進めた。

「金髪レナードは独身貴族よね? モテモテなんだけど、釣り合う奥方候補ならいるんだよね」
「もう仲介先の淑女を検討していたの? 仕事熱心ねえ」

*****

アンジェラとルシールを乗せた馬車は、帰路を走り出した。

馬車内で揺れるランプの下、二人は、今季シーズンの会場も盛況で良かった、という感想を言い合った。 その後、アンジェラは急に先程の出来事を思い出し、飛びぬけて美しい顔をしかめて見せた。

「それにしても、客人扱いだと会場の印象も変わるわね! ナイジェル何某の正体が、 金髪狙いのセクハラ紳士とは予想外だったわよ……注意しないと!」
「そう言えば、エドワード卿と何かあったの? あの金髪紳士は、アンジェラのために決闘しかねない勢いだったけど」

ルシールは首を傾げながらも、半分は年相応の若い娘らしく、ボーイ・ミーツ・ガールに続くロマンスの気配に興味津々だ。

ルシールの最愛の親友アンジェラは、頭がとても良い。 頭も勘も良すぎるために、却って大抵の男どもの(例えばナイジェルのような男の)反応に幻滅してしまうというのが難点で、 ルシールはルシールなりに、親友の恋愛運の無さ(?)を心配していた。

アンジェラはお行儀悪く鼻を鳴らし、美しい指を二本立てて見せた。

「ホントに決闘でナイジェル何某を転がしてもらえば良かったかしら? 二回ダンスしただけなんだけど……、 武器の腕前は、ヒューゴさんより明らかに上だと分かるんだよね」
「エドワード卿って、顔だけだと思っていたから驚いたわ。アンジェラの背景を探り出せるなんて、 大した頭脳じゃ無い。金欠&放蕩の噂は、ともかく――ヒューゴさんの先輩だと言うし、 淑女百人斬りってプレイボーイの噂、実話だと思うけど」
「本人に放蕩の気配は皆無!」

アンジェラは自信たっぷりに保証した。

「四人の淑女も粒ぞろいの候補、幸先が良くて結構な事だわ」
「それにしては……エドワード卿は、会場の淑女には興味が無いみたい」

ルシールは、エドワードとの会話で感じた感触を、アンジェラに説明した。アンジェラは暫し沈黙し、悩ましそうに目を伏せた。

「お連れの黒髪の紳士にしか興味が無いなら、私の勘も鈍ったものだけど。 男同士の恋人縁組は不案内なの。前シーズンのパニック、まだ夢に出るし……」

前シーズンの縁組に関するショックは、まだ響いていたのである。 今さらながらに当時の衝撃を生々しく思い出し、アンジェラは疲れたような溜息をついた。 ルシールはコロコロと笑い、フォローに回った。

「結局ベストカップルだったから、大丈夫! 彼らは共同事業でもパートナーを組んで、上手くやってるとか……」

そこでルシールは、ふと思い出した事があり、話題を変えた。

「エドワード卿はアンジェラに興味持ちそうだから、釘刺しといた。ロックウェル事件のゴシップの紹介で……」
「それで良いわ。間違って彼らがバラバラ死体になったら、大変な損失だもんね」

アンジェラは冷静にうなづいていた。

二人にとっての最大の関心事は、今季の会場で、どれだけ多くの独身の男女を縁組できるか、 そしてその成果で、どれだけ稼げるか。そこに尽きるのだ。

アンジェラは、会場での出来事を思い返し、ウキウキとした様子で話し続けた。

「それにしても……あの掘り出し物が、 真面目な顔をして二回目のダンスを申し込んで来た時――流石にお仕事とは言え、ちょっとトキめいた!  琥珀色の目で、光が入ると金色で……彼は自分の魅力を充分に心得ているから、特に社交スタイルの助言も必要ないし」

……それは、魅力的な商品に対する惚れ込みであって、ロマンスの意味で言う一目惚れでは無い……

アンジェラは、改めて顔を引き締めた。

「あの人たちの縁組は、高く売れる! カータレット嬢もエリー嬢も完璧で、 かつ理想の候補……この縁組を成功させて、あの社交場を恋人の名所にするのだ!」
「えいえいおー!」

ルシールも調子を合わせて、コブシを上げた。

……それはすなわち、エドワードやレナードを、縁組の商品として売り飛ばすという事である……

かくして、夜は更けていったのであった……

6.ゴールドベリ邸…緑の森の魔女

アシュコート伯爵領の辺境に位置する荘園の、更にその端に、こんもりとした緑の森が広がっている。

森の入り口の村の中、朝も早い時間帯から、小道を行ったり来たりしている一人乗り軽装馬車があった。 馬車に乗っているのは、弁護士カーター氏である。カーター氏は困惑した様子で、地図を広げて何度も確認していた。

「確か、この辺りの筈だが……道に迷ったのだろうか……」

暫くグルグルしているうちに、カーター氏は、森の小道の脇に木こりの作業場を見い出した。 カーター氏は、数人の木こりが作業をしているのを確認し、木こりたちに、ゴールドベリ邸への道を尋ねたのであった。

――果たして、道を間違っていたらしい。

木こりは斧を下ろすと、汗をぬぐって何度も首を振り、訳知り顔でボヤいた。

「初めての人は迷うんだよねぇ。この辺になると、緑の迷路だから……」

出荷する材木を荷車で運んでいた別の木こりと、斧を手入れしていたもう一人の木こりが、口々に喋り出した。

「そう! 何せ、そこの女主人が魔女様でさ」
「元・貴族の令嬢のヒーラー様だよ! 男やもめの伯爵様から求婚されてるお方だよ!」

最初の木こりは、ブツブツとボヤいている。

「参ったなあ、今はちょっと忙しいんだ……」

口の良く回る二人の木こりの方は、そのボヤキにも、合いの手を入れ始めた。

「いやいや、運良く、もうじき魔女の手下が通る頃だ」
「またまた、お前は!」

そうしている間にも、小道の向こうから、一頭立ての簡素な荷馬車が現れて来た。 近所の教会の早朝バザーで出されたと思しき幾つかの風呂敷包みの他、 朝市の定番商品である新鮮な野菜や果物を入れたカゴが積まれているのが見える。

「ホーラ、来た! 時間は正確だぁ〜」

木こりたちはてんでに荷馬車を指差し、カーター氏の注意を引いた。 次いで、口こそ喧しいが親切な木こりたちは、カーター氏を伴って小道の真ん中に出て行き、荷馬車を呼び止めた。

「こんにちは、教会帰りだろ……二人とも」
「こちらの紳士が、レディ・オリヴィアをお訪ねでな」

荷馬車は止まり、麦わら帽子を被った二つの頭が振り向いた。

「レディ・オリヴィアをお訪ねですか?」

御者席の上から聞こえて来たのは、明らかにうら若き女性の声だ。

カーター氏は驚き、麦わら帽子を被った二人の男装の乗り手を、改めて見直した。 金髪緑眼の目の覚めるような美女と、もう一人は色合いが地味ではあるものの、 妖精のような繊細な面差しをした小柄な女性だ。

カーター氏が呆然と眺めていると、金髪緑眼の美女の方が、先に口を開いた。

「ああ……! 確か今日は、お客様がいらっしゃるかも……と聞いております。 ご案内いたします――ゴールドベリ邸は、わき道を二つ外れた泉のほとりです」
「私が来るのを知っていたと?」
「朝からレディは、お客様をお待ちでした」

金髪の美女は満面の笑みで答えた。カーター氏は驚き覚めやらぬ顔のままである。

後ろで、このやりとりに聞き耳を立てていた木こりたちは、早速、楽しげに論争を始めていた。

「それ見ろ! あそこの家の女主人は絶対、魔女なんだぜ」
「バカだね! ヒーラーなら、不思議な力もあるじゃろ!」

カーター氏は、二人の妙齢の女性を改めて見比べると、再び戸惑ったような顔を見せた。

「もしかして、あなたがルシール・ライトでしょうか?」

最初に問われた金髪の美女――アンジェラは「いえ」と首を振り、濃い茶色の髪をした隣の女性の方を指し示した。

「私はアンジェラ・スミスです……ルシールは、こちらです」
「そうでしたか……これは失礼を。アイリス嬢は金髪でしたので、ツイ間違いを……」

カーター氏は胸に手を当てて、丁重に一礼した。

ルシールは多くの驚きと疑問を込めて、 50代半ばかと思われるブラウンの髪と目をした中肉中背の紳士――カーター氏を見つめた。 この見知らぬ紳士が口にしたのは、今は既に亡き母親の名前なのだ。

「母をご存知で……?」
「いえ……、報告書にあった、人物特徴の記録だけですが……」

この時、カーター氏は、交渉の経験も数多有るベテラン弁護士にしては珍しい事であったが、 驚きの余り、それ以上の器用な言い回しが思い付かない状態だった。

わずかなやり取りではあったが、経験豊かなカーター氏の目と耳は、信じがたい事実を捉えていたのだ。

アンジェラとルシールの荷物の中には、数冊程度ではあるが、近所の教会の図書館から貸し出されたと思しき、 相応の古典や学術書が含まれていた――そこには既に、お手製の物らしき可愛らしい数枚の栞が挟まれていた。

そしてアンジェラとルシールは、いささか古風ではあるものの、 今すぐに宮廷に出してもおかしくない程の正統派の貴婦人の所作と発音を、自然に使いこなしていたのである。

*****

『魔女の隠れ家』とも噂されているゴールドベリ邸。

実際に到着して眺めてみると、閑雅な雰囲気のある二階建ての民家だ。 ひとつ前の時代に廃れたと思しき、古風な別荘タイプの建築物ではあったが、 若い娘が二人同居しているからなのか、今風の華やかな雰囲気が色づいている。

やがて、ゴールドベリ邸の応接間で、女主人と訪問客カーター氏との会見が始まった。

応接間にある大きな窓には、緑濃い葉影が揺れている。 その前に置かれた主人用ソファに、女主人は、杖を携えつつ座っていた。 彩度を抑えた淡緑色のシンプルなドレスに均整の取れた細身の体格を包み、黒いショールをまとっている。 背筋をスッと伸ばした、端正にして堂々とした着座姿には、女王もうらやむ程の風格があった。

静かな気品を湛えた女主人は、 訪問客を一目見るなり、『魔女』という噂のタネにもなっている、不思議な勘の良さを発揮した。

「ジャスパー判事と、最近しきりに連絡を取っていた方ですね」

冴え冴えとした張りのある上品な声は、魔女とも噂されるところの女主人が、明らかに上流貴族の出である事を暗示している。 アンジェラとルシールに、高い教養を伴う正統派のレディ教育を施したのが、 この不思議な貴婦人である事は、目にも明らかだった。

「私が、オリヴィア・ゴールドベリです――脚を悪くしているので、座ったままで失礼いたしますわね」

ゴールドベリ邸の女主人――既に齢60を越えると言うレディ・オリヴィアは、確かに相応に年老いてはいたものの、 その面差しは、若かりし時の目の覚めるような美貌がまざまざとうかがえるものであった。 アンジェラとの血縁なのであろう、白髪混ざりの金髪の輝き、そして宝石のような緑の目――

カーター氏は心からの敬意を込め、丁重に一礼した。

「こちらこそ不意の訪問で、大変お騒がせ致します。 クロフォード伯爵領で弁護士をしております、カーターと申します」
「ルシール・ライトに関する案件ですね」

冴え冴えとした声で返って来た、それは、質問では無く確認であった。

「お察しの如く」

カーター氏は再び一礼すると、女主人の勧めに従って椅子に座り、 用件の内容について説明を始めたのであった。

*****

説明が一段落し、オリヴィアは深い溜息をついた。

「成る程……、ついにこの日が……という感慨がございますわ。 役所の取り違えに気付いて修正報告を出したのは私ですが、役所の怠慢で20年以上、 放置されていた……と言う訳ですね」

カーター氏は律儀にうなづいた。

「何故、取り違えが起きたのか、良く分からんのです。心当たりがあれば、お聞かせ頂けますか?」
「取り違えられたのは、アンジェラの母親とルシールの母親です。そして、 アンジェラの出生記載が、同じく役所の処理ミスにより、月をまたいで遅延していました――お分かりですか?」

この辺りは、妊娠出産に関係する数字に強くないと、分かりにくい領域である。 オリヴィアはカーター氏の理解状況を慎重に確かめながら、説明を続けた。

「二人の子は六ヶ月しか違いません。母親は二人とも、見事な金髪を持っていました。 偶然とは言え……、起きるべくして起きた事態だと言えますわね」

出生記載が混乱したまま、役所の処理ミスに巻き込まれてしまった二人の赤子。 髪の色を始めとする身体特徴が良く似ていたために、取り違えられてしまった二人の母親。

悪いタイミングが幾重にも重なったと言うべきか、 そもそもの起点となる公的記録が修正されぬまま、現在に至るまで錯綜し続けてしまったのだ。 カーター氏を手こずらせたのは、まさにその錯綜し続ける記録の群れだった。

オリヴィアの説明は、『その日、何があったか』という核心に入って行った。

「あれは雪の中の馬車事故でした……偶然、同じ乗合馬車に、アンジェラの両親とルシールの母親とが、 他の乗客たちと共に乗り合わせていて……」

その乗合馬車は、山岳地帯の各所の狩猟場を結ぶ狭い道の上で、予期せぬ強い風雪に翻弄され、スリップを起こした。 そして、岩だらけの崖の下へ――

――黒く濡れた岩。真っ白な雪。かつて乗合馬車だった物の残骸。その上に飛び散った、真紅――

当時の凄惨な事故現場を想起したのであろう、オリヴィアの説明が暫し途切れた。

「アンジェラの母親は即死し、父親は大怪我――乗客の半分が死亡した事故でしたが、 ルシールの母親は軽傷で済みました。肋骨が数本折れただけだったので、お腹のルシールにも影響は無かったのです」

一息ついたオリヴィアは、ふとカーター氏を見直した。

「そう言えば――そちらで、妊娠二ヶ月と認識しているのは、修正する前の、古い方の記録によりますね?」

オリヴィアの頭の良さに驚きながらも、『その通り』とうなづくカーター氏。 オリヴィアは、『やはり』と言った顔をしていた。

「ルシールの母親は、既に妊娠六ヶ月――ストレスや疲労で、お腹のルシールの発育も遅れていました。 妊娠二ヶ月と見たのは経験の浅い医者です。これも今回の修正で、同時に正されますよ」

オリヴィアは、ルシールの母親との関係についても説明した。

「アンジェラの母セーラ・スミスは、私の付き添いを務めていたので、 セーラ急死に伴い、ライト夫人を後任に雇っていたのです。 アンジェラの父親の事情が問題になって、アンジェラを育てる保母も必要でしたし」
「成る程……」

カーター氏は大いに納得して相槌を打ちながらも、なおも疑問を顔に浮かべていた。

「しかし、それでは何故にアイリス嬢――ライト夫人は、自分で連絡をして来なかったのか……?」

オリヴィアは小首を傾げて暫し考えていたが、やがて女性の観点からの答えを示した。

「ライト夫人は口が堅い人でした。推察ですが、妊娠したのが理由でしょう。 冬の嵐の中を一人旅ですよ……余程の訳があった筈です」

それはそうだ――カーター氏はハッとしていた。

アイリス・ライトは、いきなり蒸発するという形で一人旅に出たのだ。 まして、妊娠六ヶ月という身重の身体で。良家の娘とは思えぬ程の、不自然な行動だ。

だが、妊娠していたのなら、夫か恋人に相当する相手が居た筈だ。カーター氏は真剣な面持ちになった。

「アイリス・ライトのご夫君は?」
「それは、私も知りません」

オリヴィアの回答は、キッパリとしたものだった。

「アイリス・ライトは此処に来た時、既に『ライト夫人』でした。正式な結婚証書が実在するのは確かですが、 何処の教会に提出したものやら――あなたなら探せるかも知れませんね、カーターさん?」
「はあ……鋭意、努力を尽くす所存ですが……」

カーター氏は律儀に応じながらも、グッタリとした気分になって来るのを抑えられなかった。 オリヴィアは、カーター氏の心中を察しながらも、致し方なさそうに苦笑するばかりだ。

各地の教会が保管する、おそらくは膨大になるだろう結婚記録の中から、 唯一の該当する記録を探し出すのは、気の遠くなるような作業になるのだ。 大きな教会から小さな教会まで相当数があり、そして近隣教区の牧師たちが代わる代わる担当する無人教会が、 それ以上に多く存在する。 なおかつ、牧師の守秘義務は、弁護士の守秘義務よりも厳しくなるケースが多い。

*****

やがて一通りの整理と確認が済み、オリヴィアは住み込みで雇っている家政婦に、 アンジェラとルシールを応接間に呼んで来るよう指示した。 二人は庭園整備の作業の途中だったが、その手を止め、すぐにやって来た。

二人が空いているソファに座ると、カーター氏はアントン氏の遺言書をルシールに手渡した。

「三ヶ月前、ライト嬢の祖父に当たるアントン氏が死亡しました。その遺言書をお読み下さい」

『我が所有する、ローズ・パーク邸の一区画の庭園オーナー権、其を我が娘アイリス・ライト、 及び、アイリス・ライトの子孫が着実に相続するを、我望むものなり。 かつ、此処に厳密に指定せし相続人の全てが既に死亡せし時、相続人による相続放棄の真正なる意思の確定せし時、 ただちに其のオーナー権を、謹んでクロフォード伯爵家に全返還するものなり』

祖父が居たという事も、その祖父が土地持ちの名士だったと言う事も知らなかったルシールは、 遺言書を読んで、ひたすら驚くばかりだった。相続する事になる場所はかなり裕福な土地であり、 その地代収入だけでも、贅沢しなければ一生余裕で暮らせるだろうと言うレベルのものだ。

オリヴィアはお茶を一服すると、アンジェラとルシールに話しかけた。

「私が以前からアシュコート伯爵に求婚されている事は知ってるわね。 将来の事を考えるとね……アンジェラ、ルシール……お前たち二人とも、そろそろ良い人を見つけて結婚するか、 土地を得て独立する頃合だと思うの。 目下の問題が山積みだけど、私が何故に今回の舞踏会への出席を許可したのか、分かるでしょう?」

思わず息を呑む、アンジェラとルシール。

カーター氏もポカンとしていたが、やがて意味を悟り、感心しきりだ。

「……重ね重ね感服いたします、レディ・オリヴィア」
「変なところで感服しないで下さるかしら? 私は変人で魔女のオールド・ミスで通っているんです」

オリヴィアはユーモアを込めて、おかしそうに眉の端を上げて見せたのであった。

ルシールの方は、この降って湧いたような事態に混乱していた。

「あの……カーターさん、余りにも急なお話で……今夜一晩だけ、 考える時間を頂けますか? 明日には多分、考えをまとめてお返事できると思うのですが……」

カーター氏は、理解と同情を込めて、穏やかにうなづいた。

「大変な動揺は理解できます、ライト嬢……では明日、改めてお訪ね致しましょう」

7.アシュコート伯爵領…舞踏会・第二夜

舞踏会の夕べが迫っていた。

しかし、予定されている出発の刻限が近付いても、ルシールは物思いに沈んだ状態のままだった。

緑の森の中、静かな春の夕闇に包まれたゴールドベリ邸。

ルシールは、アンジェラとの相部屋にある机の前に座り込んでいた。 そのルシールの手の中には、バラの花の形をしたアメジスト細工のブローチがある――母親の唯一の形見だ。

やがて、ルシールに続いて入浴を済ませたアンジェラが戻って来て、鏡台の前でブラッシングを始めた。 ルシールは、まだ心ここにあらずだ。アンジェラは、いつものようにルシールに声を掛けた。

「舞踏会に出席できる気分じゃ無いでしょう? 私で良ければ、話し相手になれるけど……」

ルシールはボンヤリとアンジェラを振り返った。

「アンジェラ? まだドレスを着てないの? 舞踏会は?」
「ルシールを最優先!」

そう言ってアンジェラは、片目をつぶって見せたのであった。 アンジェラはルシールの横にふわりと腰を下ろすと、肩ひじついて話を聞く姿勢になった。

「この前、血だらけのナイフが届いた時の借りもあるし……今、ルシールがどう言う状態なのかは、 実の姉妹よりも良く分かってる」

徐々に深くなる宵闇。ブラッシングを済ませたアンジェラの黄金の髪が、 机の上のろうそくの光を反射して滑らかに輝いた。

アンジェラとルシールは、六ヶ月しか違わないという事もあって、生まれた時から双子の姉妹のようにして育って来た仲だ。 しかし、この時ばかりは、ルシールは何と言えば良いのか分からないまま、ろうそくに照らされた机の面を見つめるばかりだった。

ルシールの母親アイリス――通称『ライト夫人』、訳ありの未亡人らしいとされた女性――は、五年前に既に死亡している。 彼女は庭園管理の技術を持っていた。そしてルシールは、母親の繊細な面差しと、庭園管理の技術を受け継いでいる。

記憶の中にある母親は、ゴールドベリ邸の庭園管理がとても上手で、その合間に手を休めては館と庭園の物語を語った人だ。 その物語の中の館は、母が愛した花の名前を持っている。『ローズ・パーク邸』は、物語の中の場所だと思っていたけれど――

多くを語らず、そして、突然に逝ってしまった母親だ。

ルシールは、自分の父親が誰なのかは、今も知らない。

館と庭園の物語も、何処かおとぎ話めいた形になってしまっていたが――それでも、 母親なりに慎重に考えて、自分のルーツのヒントを残してくれたのは、確かなのだ。 何故そんなに慎重にしなければならなかったのかは、謎である。しかし、クロフォード伯爵領に本当に実在する場所だ。

実際に行って見れば、分かるのかも知れない――見知らぬ過去の謎、見知らぬ時の真実が。

ルシールは、不思議な思いに囚われていた。

*****

ダンス会場となっている館では、続々と客人が到着し、今宵も大盛況といった様子である。

しかし、バルコニーで目的の人物を待ち構えているエドワードは、浮かぬ顔であった。

「アンジェラがまだ現れない……客リストはチェックしたんだけどな」

エドワードの後ろにはバルコニーに接する大窓があり、キアランが手持ち無沙汰で寄り掛かっている。

「ナイジェルの件で来なくなったとか?」

キアランはそう突っ込んではみたものの、自身でもその言葉を信じている訳では無かった。 ルシールも来ないのはどういう訳なのか、詳細を知らないだけに適当な説明が思い浮かばない。

昨夜のアンジェラとルシールが身にまとっていたようなシンプルなドレスは、会場の各所で見受けられた。 特に独身男女グループがたむろしているポイントで、相当数がヒラヒラと動いている。 接客前線を担当する会場スタッフが縦横に動いて、『縁組ビジネス』という小遣い稼ぎにいそしんでいるのだ。 しかし、活躍しているスタッフ嬢たちは、いずれも別人である。

やがて、アシュコート伯爵が会場回りに出て来た。アシュコート伯爵は、ヒューゴと一通り歓談を済ませると、 バルコニーの方に見覚えのある二人の青年を見かけ――そして、意外そうな様子で声をかけた。

「これは珍しい! リドゲートも出ているとは!」

エドワードとキアランもアシュコート伯爵に気付き、一礼した。 アシュコート伯爵は既に60代半ばと言う年齢ではあったが、年の割に若々しく、かくしゃくたる老人だ。 白髪混ざりの銅色の髪に、鷹を思わせる鋭い灰色の目。背筋はシャンと伸びており、今なお現役の将軍のような風格がある。

「我がアシュコート領の春の舞踏会にようこそ――辺境に近いのだが、気に入ってくれたかね」
「思いがけない穴場で、驚きです」
「地元紳士によるオーナー協会で、共同管理をしておられるとか……当クロフォードのローズ・パーク邸も、同じスタイルです」

エドワード、キアランの順で寄せられたコメントに、アシュコート伯爵は気さくにうなづいて見せた。

「複数の屋敷を同時に管理するのは、やはり時間とコストの問題があるからね」

そして、アシュコート伯爵は不意に面白そうな顔をして、エドワードをしげしげと眺め出した。

「エドワード君のあの軽薄な噂は、やはり一計を案じての事だな?  何故いつまでも貴公子二人して、ダンスに参加しないのかね? 魅力的な若いレディたちが熱い眼差しを送っているぞ」
「実は気になるお嬢さんと昨夜会ったのですが、今宵は彼女がまだ現れないのです」
「ほう? 一体、何処の誰なのかね?」

アシュコート伯爵は興味津々だ。

確かアンジェラはアシュコート伯爵の知り合いか何かだったか――その事をエドワードは思い出し、 怪訝そうな眼差しで伯爵を見返した。

「何やら色々と謎めいた令嬢で……しかるべき筋の出身にも関わらず、レディの称号は持ってないとか」
「探求気質に火が付いたと言う訳だな」
「社交界で噂にならないのが不思議な程の令嬢ですね。アンジェラ・スミスの事は、ご存知ですか」

果たして、軽い笑みを浮かべていたアシュコート伯爵は、ハッとしてエドワードを注目したのであった。

「成る程……いや、成る程」

アシュコート伯爵は、妙な訳知り顔で呟き始めた。

エドワードはポカンとするばかりだ(キアランは余り感情を見せない性質で、 相変わらずムッツリしているが、内心エドワードと同じ反応なのである)。

ひとしきり感心した後、アシュコート伯爵は肩をすくめながらも、鷹揚に腕を広げた。

「社交界で知られていないのも、当然だな。アンジェラ、ルシール……彼女たちは、魔女様の名付け子だ」
「……魔女!?」

エドワードは思わず目を丸くした。 アシュコート伯爵は気さくで陽気な人物だが、このような事で下手な冗談を言う程、野暮な人物では無い。

「森のコテージに住まうレディが、いささか変わった力を持っていてね。 あの若い二人は、彼女の付き添いだ……生まれた時から魔女と一緒に居る影響が出ているのか、 妙に直感があって、恋人たちの縁結びについて実績がある」

アシュコート伯爵は、口でこそ『魔女』とは言っているが、その魔女をレディ扱いしているのは明らかだ。 伯爵は再び、興味深そうにエドワードを眺めた。

「エドワード君も、既に適切な淑女を軒並み紹介された筈だが……如何かね」

思わず昨夜の出来事を思い出し、言葉に詰まるエドワードである。

「割増手当を付けて、舞踏会場スタッフを依頼しているが……今回は魔女様の気が珍しく変わって、 二人をゲスト扱いできた……と言う訳なんだ」

暫し思案していた伯爵は、やがて怪訝そうな顔で、エドワードを眺めた。

「しかし、エドワード君は……彼女が紹介した恋人候補には、関心は無いのか?」
「私は、アンジェラ本人の謎に相当興味があります……ロックウェルの猟奇事件との関係も含めて」

エドワードは、琥珀色の目に真剣な表情を浮かべて、アシュコート伯爵を見返していた。 そこには、軽薄な放蕩紳士という雰囲気は既に無い。さながら、事件の存在を嗅ぎ付けた探偵と言う風である。

「伯爵は、公的な事情をご存知だそうですね」

キアランもアシュコート伯爵をじっと見ている。

アシュコート伯爵は顔色を変えて沈黙していたが、やがて厳しい眼差しで若い二人を見つめた。

「警告しておくが、下手に近付くと――今度は君たちが、何処かで冷たくなっているかも知れんのだぞ?」

――ロックウェルの猟奇事件には、ゴシップで流れている以上の秘密があり展開があるらしい――

「挑戦ですか? 望むところです……シンクレア家は、武門の家柄です」

エドワードは、不敵な笑みを見せた。一見ゆったりと立っているように見えて、そこには一切、隙が無い。 見る人が見れば、軍人に匹敵する高度な戦闘技術を会得していると分かる所作だ。

一瞬、探り合いの火花が散ったが――何かを悟ったのであろう、 アシュコート伯爵は不意に灰色の目を伏せ、意味深に息をついた。

「私はどうやら、君たちを見くびっていたようだ……」

次に灰色の目を開いた時、アシュコート伯爵は既に、一つの決断を下していた。

「――よろしい! これも何かの縁……明日にでも君たちを、レディ・オリヴィアに引き合わせよう。 君たちの都での経歴が、役に立つかも知れん」

予想以上の展開に、エドワードとキアランは息を呑んだ。それに続くアシュコート伯爵の説明は、 一部分の事情のみではあったが、それでも充分に衝撃的な内容であった。

「アンジェラは目下、実の父親に脅迫を受けている。つい最近、 彼女はズタズタになったネズミの死体と、血付きのナイフを送り付けられた――ロックウェル卿、 ユージーン・クレイボーンがその父親だ……! 自分の領内で凄惨な事件が発生しても解決に動かず、 ここ20年の間に愛人を50人以上取り替えるような――アンジェラの事を実の娘と認めない男なのだがな……」

エドワードもキアランも、ロックウェル卿の名には聞き覚えがあった。 アシュコート伯爵と別れた後も、二人は大きな衝撃が抜けないまま、再び顔を見合わせた。

「ユージーン・クレイボーン……今は隠者も同然だけど――公爵じゃないか!」
「昔、大怪我して、それ以来ずっとロックウェル城に隠遁していると聞いた事がある。彼が死んだら、 お家断絶だと言う話だが……子供が――というか、公爵令嬢がいたとは全く知らなかったな」

8.ゴールドベリ邸…ミステリー・クロス

その日も朝から上天気であった。

ゴールドベリ邸の庭園は注意深く整備されて歩きやすくなっているが、大樹が林立し、殆ど森の中も同然である。

その一角で、大樹をスルスルと登っていく人影と、その根元でホウキを振り回す人影が動いている。 木を登っていた方は、やがて目的の枝に無事到達し、枝の間にしがみついていた小さな黒ネコに手を差し伸べた。

「いいコね、おいで!」

そこへ、ゴールドベリ邸の訪問客の馬車が到着した。御者も、馬車の窓から顔を出した乗客たちも、 大樹の高い枝の間にチラチラと見える不審な人影に気付き、揃ってギョッとする。

「泥棒かーッ!?」

不審な人影は、大声にビックリして枝から手を離し、悲鳴を上げながら、そのまま根元へ真っ逆さまに落ちて行った。 植え込みの低木の枝が、派手に音を立てる。

慌てて馬車から降りて来たのは、アシュコート伯爵とエドワードとキアランの三人だ。

三人が低木の間に回ってみると、そこに折り重なって転がっていたのは、 男物の作業着を着ていたアンジェラとルシールであった。 男さながらに後ろで結わえただけの長い髪が、それぞれ金色と茶色の扇のように広がっている。 木から落ちた方はアンジェラで、その腕には小さな黒ネコを抱いていた。

「アンジェラに、ルシールか!? ――そんな格好で一体、何を……!?」

いち早く声を掛けたアシュコート伯爵は、ルシールが持っていたホウキに目を留めた。 いにしえの狂信者の時代の如き、魔女の迷信と誤解を招きかねぬ光景だ。

「ネコにホウキ? ――何たる事だ! ホウキで空を飛ぼうとしていたのかね」

上流社交界で見かけても不自然では無いほどの令嬢は、一方で、高い木に登ったり、 ホウキで空を飛ぼうとしたりするのだ――エドワードとキアランは驚きの余り、絶句したまま一言も発せない。

アンジェラとルシールは、何事も無かったかのように、それぞれ立ち上がった。 足元に広がっているのは、どうやら作りかけの菜園らしい。 掘り起こされた土や柔らかな草葉が、絶妙なクッションになっていたのだ。

「この迷いネコが、木から降りられなくなっていたので……レディ・オリヴィアが、 お客様があるかもと言われていましたが、人間だったとは意外でしたわ」

ノホホンと黒ネコを撫で回すアンジェラの言葉に、目をパチクリさせるばかりのエドワードであった。

「人間じゃないお客様って……」
「ネコとかリスとか……幽霊も時々来るんです」

アンジェラは腕の中の黒ネコを地面に降ろすと、魔女の評判に直結するような怪しげな印象を与えているとは全く知らぬげに、 涼しい顔で解説し続けていた。

そこへ、別の馬車の姿が現れた――四人乗りの一般的な馬車だ。ギョッとする面々。

「馬車が、もう一台?」

その馬車もまた、ゴールドベリ邸の門の前で停車した。 その馬車は、実は、ゴールドベリ邸が所有している送迎用の馬車である――舞踏会の初日は、 アンジェラとルシールもこの馬車で送迎されていた。そして今、馬車から降りて来たのは、カーター氏だ。

「カーターさん!?」と驚くキアランである。アシュコート伯爵も「知り合いかね?」と不思議そうであった。

一方、カーター氏の訪問を承知していたアンジェラとルシールは、 この千客万来の状況を整理するべく、戸惑いながらも「どうぞ客間に……」と案内を始めた。

その時、馬車の音に気づいて、訪問客を迎えに玄関に出て来た家政婦が口をあんぐりし、次いで慌て出した。

「ああ……そんな、伯爵様の前で……お二人とも! 早くお着替えになって下さい!」

アンジェラとルシールは、薄汚れた作業着という格好だったのである。 二人の娘は、その辺りに散らばったアレコレを抱えると、失礼を詫びながら身を返して、すっ飛んで行った。

「驚かされるお嬢さんだと言う事だけは……確かだね」

エドワードの、その絶句交じりのコメントに、キアランは同意するのみだ。

次いでキアランは、カーター氏を振り返った。カーター氏も、この鉢合わせに戸惑っている様子だ。

「カーターさんは、何故、此処に……?」
「館の庭園を管理して下さっていた、アントン氏の事は、ご存知ですね?」
「ああ……確か、三ヶ月前に死亡した、ローズ・パーク邸のオーナーの一人……」

カーター氏は小さくうなづくと、腰まで届く濃い茶色の髪を揺らせて走り去って行く、小柄な女性に目をやった。

「あの茶色の髪と目の娘さんが、ライト嬢で――アントン・ライト氏の孫娘でございます」

――ルシール・ライト――

キアランは、カーター氏の視線の先に釘付けになった。

*****

一刻の後。

応接間に通された訪問客は、早速、ゴールドベリ邸の女主人――レディ・オリヴィアと対面していた。

オリヴィアは、いつものように杖を突き、主人用のソファに堂々とした姿で座している。

「そちらの若い方を、ご紹介頂けます? 私は初めてお会い致しますわ……閣下」

社交辞令が済み、訪問客たちは、おのおの座に着く。

そのタイミングで、黒い簡素なドレス姿のアンジェラとルシールが、おすまし顔をして茶器を運びながら滑らかに入って来た。 二人とも、シンプルなアップスタイルの髪型だ――これが普段の室内での格好なのだ。 個人的に知っている者で無ければ、『使用人』として見逃すところだ。

「カーターさん」

オリヴィアは、おもむろに口を開いた。

「ロックウェル事件で新たな知らせが来ているので、失礼ながら少し時間を頂きます」

承諾するカーター氏。オリヴィアは急便として受け取った文書を、中央の円卓の上に示した。

「新しい報告書の要約によれば、バラバラ死体の頭部が発見されたそうですね」
「一昨日の夜、急報が入ったので、ヒューゴ君に要約依頼したんだ。彼は捜査報告書を読むのが速いのでね」

補足説明をしたのは、アシュコート伯爵だ。

カーター氏は弁護士としての興味を持って、ロックウェル事件の内容に耳を傾けていた。

一方、エドワードとキアランは、一昨日の夜と聞いて、 ヒューゴが無理やり引きずられていった一件に思い当たっていた――あの時か!

オリヴィアは釈然としない顔つきであった。

「ヒューゴさんは慌てていた?」
「どういう事かな?」
「要領を得ない内容なのです――『ギックリ顔』とは、どういう意味ですか?」

伯爵の目が点になった――慌てて文書を確認する伯爵である。

「ヒューゴ君は有能なのに」

アンジェラとルシールは、内心困惑しながらも慎ましく沈黙を守っていた。 原因に心当たりがあるのだ。楽団のハープ奏者がギックリ腰になったというトラブルが響いたせいに違いない。

アシュコート伯爵は、やれやれと言った風に説明を補足した。

「つまり、その頭部は、その顔がかなり陥没し変形しているんだ……メッタ打ち状態でな」
「それで分かりました……顔面復元が必要だという意味ですね」

何とも血なまぐさく、かつ猟奇的な内容であるが、オリヴィアは取り乱す事も無く、すぐに要点を理解した様子だ。 オリヴィアは、宝石のような緑色の目を伏せて暫し沈黙すると、 やがて手近なペーパーに走り書きをし――そのメモをアンジェラに手渡した。

「ジャスパー判事が必要とする人材をご紹介できますよ。一人の絵描きが、この先の運河に住んでいます。 彼は、医学の道から転向した画学生で……変形した顔面の復元が正確です」

オリヴィアには、謎の透視能力があったのだ。 事件の真相や全容が分かると言うような神の如きレベルでは無いものの、 解明に必要なヒントを持っている人物や出来事を、鋭く察知するのである。

伯爵は、アンジェラから手渡されたメモを確認した。くだんの画学生の名が書かれてある。

「そう言えば、橋の上では、似顔絵稼業の絵描きの卵がたむろしているな……うむ!  ――今日の内にも、ジャスパー判事に連絡しておこう」

エドワードは会話に耳を傾け、お茶を一服しながらも、オリヴィアを慎重に観察していた。 見れば見る程、アンジェラの血縁だと分かる。

アシュコート伯爵とオリヴィアの話が一段落したところで、エドワードは口を開いた。

「ロックウェル事件の顛末を、此処で聞けるとは予想外でしたね。 ロックウェル卿とアンジェラ嬢の関係は理解できますが……アンジェラ嬢は、あの猟奇事件にも巻き込まれている?」

オリヴィアはエドワードに目を留めた。一瞬、互いを探り合う視線が交差する。オリヴィアは、 エドワードが短時間で想像以上の情報を整理した事を察知した。

「閣下が連れて来た紳士は、意外に頭が良いようですね……」

茶カップを手にして、感心したように呟くオリヴィアである。

「アンジェラが、そのバラバラ死体の発見者でもあるのです。 復活祭の機会にロックウェル卿と対面する予定が、吹き飛びました」

オリヴィアは緑の目に不思議な光をきらめかせて、エドワードを見ていた。謎めいた微笑が浮かぶ。

「エドワード卿は、ロックウェル事件に首を突っ込むつもりで居るのですね……」

それは疑問では無く、確認であった。

「ご迷惑で無ければ」

エドワードは滑らかに返答した。オリヴィアは、イタズラっぽい笑みを満面に浮かべた。

「流石に閣下が見込んだ方ね……歓迎するわ」

しかし、そのオリヴィアの急変は、アンジェラとルシールにとっては驚天動地であった。

信じがたさの余り、「オリヴィア様!」と叫ぶアンジェラ。 そのまま、「ああ……もう……信じられない!」と頭を抱えてしまう。

オリヴィアは笑みを浮かべたまま平然としている。 そして、傍らに控えるルシールを指し示し、次の話題に移っても良いというサインを送った。

「さて……カーターさん、早速、仕事の話をお願いしますね……」

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