深森の帝國§総目次 §物語ノ傍流 〉花の影を慕いて.終章(小説版)

花の影を慕いて/夕映のエピローグ

これは過去の情景である。

全てを秘めた、あの雪闇から、過去へ過去へとさかのぼり……

――26年前、九月某日。

夕陽に照らされた緑の丘陵地帯。

あの日、夕暮れの緑の丘の――道の辻に立つ木の下。

かつては夫だった人との離婚手続きを済ませたアイリスは、 正統な手続きにのっとって結婚指輪を外したのであったが、指輪を持って立ち尽くすばかりであった。

「本来ならば結婚指輪をお返しするところですが……もう少しだけ、持っていても良いですか?」

そのアイリスの呟きに応えたのは、仲立ちを務めた、第三の人物であった。

「お気持ちは分かります。かような内容を即日ご承知頂き、感謝するばかりでございます」

辻に止まっていた馬車は、二人の紳士を乗せると、暮れなずむ道を急ぎ足で駆け出して行った。

かつては夫だった人は、馬車の窓から、辻の木の下に佇むアイリスの姿を振り返った。 しかし、アイリスは固く背を向けているばかりで、 彼には、先刻までは妻だった人の最後の表情は、遂に分からなかったのであった。

――これで最後だからと、馬車の窓から幾度も彼は振り返ったが、彼女は、もう二度と振り返らなかった――

緑の丘の上に落ちた夕陽の影が、地形に沿ってくっきりと分かれ、 まるで永遠の別れを告げる底知れない裂け目のように、また黒い海のように見えた。

二人の恋人が見た、別離の光景とは、こういう物だったのである。

*****

――数年後の、ゴールドベリ邸の庭園の一角。

いつしか、物心つき始めたルシールが、やはり自然に、見ず知らずの父親について質問した時の事。

流石にアンジェラの父親の事情もあって、 ルシール自身もまた、我が父親については、ボンヤリとながら良い印象を持っていたとは言い難い物であったのだが――

アイリスは暫し考えた後、首を振った。

「ちゃんとした紳士だったわ。遠くに行ってしまったの……それだけなの」

そう言って、遥か彼方の空を眺めるアイリスの表情は、何処と無く寂しそうであった。 しかし、ハッキリとした憂いの影が差したのは一瞬だけの事で、アイリスはすぐにニッコリと微笑み、ルシールを振り返って来た。

「ルシールを産んだ事は、私の人生で最高の出来事だったのよ。 ルシールも、大人になれば分かるわ……20歳になったら、お話してあげる」

その当時、『運命』という物を思い知るには、ルシールは幼過ぎたのであった。

*****

――母親アイリスとの、謎めいた約束――

ルシールは、もう20年ほども前になろうか――と言う、そのささやかなエピソードを、万感の思いと共に回想していた。

ボンヤリと回想にふけっている間に、相当の時間が過ぎたらしい。 不意に、背中にショールが掛けられた事に気付き、ルシールはギョッとして息を呑んだ。誰か居るのかと、慌てて振り返ると――

そこには、キアランが立っていたのであった。

どうやら『事件の報告』云々と言う用件が済んで、タウンハウスに戻って来ていたらしいのである。

「いつ、お戻りに、なっていたんですか……」

ルシールは動転の余り口ごもっていた。キアランは呆れたような眼差しを返して来る。

「――驚かせるつもりはありませんでした。余りにも静かなので、眠っているのかと……」

キアランは暫くの間、ルシールを眺め回すと、いつものようにムッツリとした様子で付け加えた。

「日が落ちたら、あっと言う間に冷えますから」

確かに、此処の窓まで吹き渡って来る夕風は、昼間に比べると随分と涼しくなっている。 初夏とは言え、昼夜の気温差は大きいのだ。

薄手のワンピースのままだったルシールは、頬を染めたままギクシャクと一礼し――まだキアランの存在に慣れていないせいか、 キアランと急に接近すると、ドキドキして落ち着かなくなるのだ――ライラック色のショールを、シッカリとまとった。

キアランはルシールの隣に立ち、開け放たれた窓から、暫しの間、暮れなずむ夕空と首都の街並みを眺めていた。

やがてキアランが、口を開く。

「都のシーズンの後、地元に戻ったら……トワイライト・グリーン・ヒルに旅行すると言うのは、如何ですか?」

ルシールがその問い掛けの意味を考え始めていると、キアランは不意にルシールを振り返って来た。

「――二人で」

ルシールは、一瞬キョトンとして、キアランを振り返った。

キアランは何かに気付いたように、そのままルシールをしげしげと注目し始めた。 ルシールは戸惑い、だんだん真っ赤になって行ったが、キアランは視線を外さない。

「浅い角度で光が入って……紫色ですね」

そして、キアランの手が自然に、ルシールの頬に触れて来たのであった。

*****

――畢竟 謎は花之影(アマランタイン)
雲間より洩る光の如く――

『花の影を慕いて』――《完》
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