深森の帝國§総目次 §物語ノ傍流 〉花の影を慕いて.序章(小説版)

花の影を慕いて/雪闇のプロローグ

――何処から語り始めれば良いだろうか、と考えてみる。

やはり、この物語は、雪闇に沈む丘陵地帯の片隅で発生した、昔の『異変』――かつての、ささやかな事件を、 堂々たる『序章』として語り始めるのが最も良いだろう――

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――目の前には、見渡す限りの、ゆるやかな丘陵地帯。

とある強大な王国、その首都からみると、ほどほどの田舎となる土地。 いにしえの騎士の時代を駆け抜けた由緒正しい先祖を持ち、 代々相応の富と勢力を維持し続けてきた上流貴族――クロフォード伯爵が統治する領地の中に、その丘陵地帯はある。

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その年の冬。

この丘陵地帯に、近年珍しいほどの強烈な寒気が到来した。

厳冬の荒海を渡り、内陸部に向かって急に標高を増す丘陵地帯の地形に沿って、高く吹き上げられた、大量の湿気を含む冷涼な空気。 その中で、更に凍て付くような冷たい風が吹き荒れ始めたのだ。それは、まれなる大雪を予兆させるものだった。

真昼の薄闇に包まれた丘陵地帯は、次第に真っ白な世界に染め上げられていったのである。

――クロフォード伯爵領のほとんどを占めるこの丘陵地帯には、 この王国のたいていの上流貴族の領地がそうであるように、幾つかの地元の教会を中心とする村落が散在していた。 クロフォード伯爵家の分家筋や、地方豪族といった地元紳士たちが所有する私有地や荘園もまた、それなりに点在している。

クロフォード伯爵領の一角に、その伯爵家の血縁それも直系の後継者に当たる人物が、本家とは別に所有していた広大な荘園がある。 この荘園の名前は、この辺りの社交の中心となっている華やかな豪邸の名前にちなんで、「ローズ・パーク」と言う。

――この「ローズ・パーク」荘園に、ほど近い、村落の一つ。

その片隅に、小さな牧場程度の広さの私有地に囲まれ、二階建てになっている小ぶりな一軒家が、ポツンとあった。

田舎の、程々の土地持ちの紳士クラスの民家は、たいていこのような物だ。 いずれはクロフォード領主に納める税金となる放牧用の数頭の馬や、 その他の豚や鶏などを飼育するための、ささやかな小屋の群れや倉庫といった施設が備え付けられていた。

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――この物語の発端となった『異変』は、此処で発生したのである。

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村落の片隅にある小ぶりな一軒家の、素朴な実用性を兼ね備えた居間の中。

雪が張り付き始めた窓の前のソファに、毛布を掛けられてぐったりと横たわる金髪の若い娘が居た。

そして同じ居間の中にもう一人、窓の反対側に位置する暖炉の傍らには、 ぽっちゃりとした小柄な体格の中年の家政婦が居た。足をせわしなく動かし、バタバタと駆け回っているところである。

家政婦は外出の準備をしながらも、ソファから起き上がろうとしている娘に声を掛けていた。

「熱が出てます、お休みになっていて下さい! お隣さんに、 お医者さまが来られる頃で良かったです……すぐに呼んで来ますからね!」

妖精のような繊細な顔立ちの若い娘は、きちんと結い上げた簡素なアップスタイルの金髪の頭をわずかに持ち上げた。 繊細な顔立ちで実年齢よりはやや若く見えるものの、成人済みの女性である。

娘は、田舎ならではの素朴な手縫いの、これまた素朴な濃色の毛織ワンピースをまとっていた。しかし、そのワンピースは、 少し前の首都圏で流行が始まった当世風の切り替えスタイルを持つ、絶妙にふわりとした雰囲気のエンパイア・ライン型である。

娘は、過労から来る発熱と一時的な貧血の中にあった。眩暈をこらえながらも何かを言おうとしたのだが、 家政婦は、早くも玄関に向かって走り出してしまっていた。

「雪は凄いけど、まだ吹雪じゃ無いし、馬車も使えますから……!」

居間のドア越しの家政婦の最後の声、それに続いて、玄関の扉が閉まる音。

やがて、砂利で舗装された簡素な田舎道を、雪ごと踏みしだきながら遠ざかってゆく、馬車の車輪の音。

ぽっちゃりとした小柄な家政婦は、馬車を走らせることはできるものの、 馬車の操縦の腕前は、お世辞にも上手いとは言いがたい。 ささやかな私有地を囲う柵の間を通る時の、いつものバキバキと言う盛大な音も、ボンヤリとながら聞こえてきたのである。

居間に残された娘は、中古のソファの上でしなやかな身体を強張らせ、ただ青ざめて、呆然とするばかり。 その柔らかな胸元で、ペンダントトップにしているシンプルなリングが揺れ、きらりと光った。

――ダメよ……お医者さまは……!

決定的な状況に追い込まれてしまった――それを悟った娘の決断は、唖然とするほど素早いものだった。

決死の思いで娘はソファから身を起こすと、二階にある自分の部屋に走った。

パッチワークのカバーが掛かった中古のベッドの下から、大きな旅行鞄を引っ張り出す。 イザと言う時に備えて、かねてからこっそりと荷造りを整えていたものだ。

そして娘は、自分の机の奥深くに、誰にも見つからないようにしまい込んでいた物を取り出した。 バラの花の形をした、アメジスト細工の繊細な意匠のブローチである。 娘は、その繊細なアクセサリーが、ちょっとした事で壊れたり無くなったりしないように、 注意深く専用の小箱に固定し、手元に保管した。

その後、手早く防寒具を身にまとうと、死にもの狂いならではの力で重い荷物を持ち上げ、 雪の降りしきる道へと飛び出して行ったのである。

冬枯れの丘を襲い続ける白い嵐は、一段と激しさを増した。田舎道の浅い雪の上に点々と残されていた娘の足跡は、 みるみるうちに新たな雪の下に覆われ、深く隠されていった。

*****

――娘が我が家を飛び出してから、相当の時間が過ぎた頃。

ようやく家政婦が、医者を連れて一軒家に戻って来た。 隣家の娘も来ていた――体調を崩したと言う同い年の金髪の娘を心配して、家政婦や医者が乗り込んでいた馬車に相乗りして、 駆け付けて来ていたのである。

家政婦が居間に続くドアを開き、ベテランと思しき中年の医者が、先頭を切って飛び込んだ。

――居間には、誰も居ない。

医者は手に黒い帽子をつかんだまま、呆気に取られた。

「熱を出したって言う患者さんは、何処ですか……!?」

続いて居間に飛び込んできた家政婦も、一緒に駆け付けていた隣家の若い娘も、その不吉な意味に気づいて、ギョッとした。

居間に鎮座している、数人掛けの中古のソファに目をやる。

そこにあるのは、もぬけの殻となった毛布だけ。

「……居ない……!」

隣家の娘は勝手知ったる居間をサッと見回し、早速、ソファの横のローテーブルに残されていた書置きに気が付いた。 明らかに取り乱した状態で書かれたと思しき走り書きのメモではあるが、 その筆跡は確かに、最愛の親友たる金髪の娘のものだ。

書置きの内容は、ただ一言――

『旅に出ます、済みません』

――その読み上げを耳にした家政婦は、まだかすかに娘の気配の残る毛布を虚しく抱きしめながら、 「そんな馬鹿な」と、口をパクパクさせるばかりだ。

医者は、居間の窓越しに、外の状況を確認した。

隣家を出た時に比べると、雪が驚く程に深く積もっている。 この雪の深さに馬車の車輪を取られたりしなければ、もっと早く到着できていたかも知れないのだ。

そして近付く夕闇の中、なおも降りしきる雪。それは、もはや吹雪と言っていい激しさだ。

医者は、途方に暮れたように呟いた。

「この雪では……足跡は、あらかた消えてしまっていますね……」
「そんな……蒸発した……!」

いずれ戻って来るであろう、この家の主人である紳士、すなわち金髪の娘の父親に、何と言って伝えれば良いのか。 父一人と娘一人、そして家政婦が同居するのみの、静かな一軒家なのだ。

家政婦と、隣家の若い娘は、ショックの余り揃ってヘナヘナと居間の床に座り込んでしまった。

居間の暖炉は、静かな炎であったがまだ燃えており、床は、ぬくぬくと温かいままだった。

*****

事の起こりは、ささやかな村の中の失踪事件ないし蒸発事件であり、こう言う次第なのであった。

25年前の大雪の日に、一人の娘が蒸発した。アイリス・ライトと言う名の娘であった。

その後。

その月も変わらぬうちに、死亡報告書が届いていた。

『アイリス・ライト、事故死。至急、本人確認されたし』

*****

――そして、物語の舞台は、『今』に移るのである。

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