深森の帝國§総目次 §物語ノ拾遺書庫ノ目録(物語ノ拾遺・隔離版) 〉「無限」の詩学(論文資料)

「無限」の詩学(論文資料)

この論文は、当サイト作成ではありません。 現在は消滅している他サイトさまからの全文複写である旨、ご了解ください。

現在、ウェブアーカイブ版のみ残存、閲覧可のURLは以下
http://web.archive.org/web/20050205104316/http://www.nct9.ne.jp/mandala/mugen.html

全文複写の目的は、物語の〈深淵の底〉の私的研究、及び考察です。 対象となっているサイトは、現在アーカイブ版となっており、 当環境においてインターネットを通じての読み出しが重くなっているため、 研究&考察対象の論考のみ、当サイトにて保存しておくものであります。

複写元サイトの説明によると、最終的なサイト管理人は、執筆者本人では無いそうです。 この場所には、「まんだら浩のページ」というサイトがあったのですが、 当時の管理人にして執筆者「まんだら浩」氏は、2000年12月31日をもって、 ネット活動から全面的に引退されているとの事です。

当サイト研究中の詩論、及び詩歌制作の試みのシリーズ「葉影和歌集」は、 この論文に影響を受けています。


「無限」の詩学
――万葉とロマン主義の詩を中心に――

The Poetics of Infinity
―― Focusing on Man'yoshu and English Romanticism ――


はじめに
  1. 家持の歌における世界了解
  2. 言葉へと到来するもの
  3. 詩作と太古の伝統
  4. 人麻呂における「古」への追思
  5. 流れるものの本質
  6. ロマン主義の詩人たち

I always return to the Mystery...
And I think there is nothing in the world but the Mystery.


Kenneth Patchen, "I Always Return to This Place"

はじめに

よく、ポスト・モダンということがいわれる。 それは結局、きわめて単純な、私たちと宇宙との本源的関係を奪回するということである。

古今・東西を問わず、そうした関係は常にあらわれつづけていた。 だが、近代においては、デカルト的二元論が猛威をふるい、 目に見える世界しか実在と考えないという偏頗な考えが蔓延している。

しかし、詩というのは、もともと、非時間の世界――あるいは、非世界――に属している。

真正の詩はすべてポスト・モダンなのだ。

それはもちろん、単なる「作者の感情の表現」ではない。 自己と世界との底なき底、あるいは、「無限」と邂逅するという事態そのもの、 それが詩なのだ。私が考えたいのは、この詩の本源的な場のことである。

その場は、一切の流行とは無縁に、今も、この世界の彼方へ私たちを誘うかのように、 黒々とした口を開けつづけているのだ。

日常的な意識では、決して宇宙の広がりを知ることができない。 近代人の日常的意識は、決定的にニュートン的世界観に汚染されている。 だが、実のところ、量子物理学でも明らかになっているように、 過去も未来も幻想にすぎないし、時間の流れも、本当に実在しているものではない。

そのことは、何(いずれ)も、カプラやボームなどのニューエイジ物理学者の本に詳しく記述されている(注1)。

だが、ある詩においては、 すでに、そうした摩訶不思議ともみえる世界との出会いが詩作(=思索)されているのだ。 そして、日本語による詩においても、 こうした決定的に底無きものへ打ち開かれるという経験が、深く保持されているのではないだろうか。

私がまず眼を向けるのは、その日本列島の「古代」である。

しかし、歴史の時間軸というのは一つの仮構であり、古代そのものは決してどこにも実在しない。 私はただ、古代と呼ばれる世界から大きな距離を旅してきた言葉に出会い、 そこに秘匿されている「世界」の運動に打ち当たるというだけである。

本当の古代とは、私たちの意識史における古代なのである。

1.家持の歌における世界了解

ともかく、古代には近代とは全く異なる、ある世界了解が存在していた。 そこでは異質の世界運動が知覚され、そして生きられていた。 古代の詩を読む者は、粘り強くこの古代の世界連関へ入り込んでいき、 同時に自らの世界了解を徹底的に相対化し、ある未知のものの遠大さに対して心を開いていなければならない。 こうした古代の世界連関を読むことなしに、古代の詩を読んだとは言えないのだ。

たとえば万葉にはこんな歌がある。

わが宿のいささ群竹吹く風の音のかそけきこの夕べかも (19-4291)
わがやどの-いささむらたけ-ふくかぜの-おとのかそけき-このゆうへかも

有名な家持の歌である。 しかし私たちはまだこの歌を本当に読みうる場をもってはいない。 この歌は、私たちが近代世界を超出した地平に立つことなしには、決して感受できるものではないのだ。

この歌に「近代人的な憂愁」を読み取ろうとする解釈を、まずきっぱりと拒否しておきたい。 いったい、「近代人」とは何なのか。たぶんそういう評言は、「独りあること」を、いわゆる孤独の寂しさと捉え、 そこに共同体から切り離された知識人の故郷喪失を見ようというのであろう。 凡庸な発想だ。しかし残念ながら、そういう読みは、全く本質に打ち当たってはいないのである。

私たちは、「読む」ということを徹底的に考えないわけにはいかない。 「読む」ということはただ「今・ここ」にしか存在しない。 「読む」とはそうした「今・ここ」において、ある限界のないものの開けに立ち会うことだ。 詩作されたものの包含する見えざる世界連関へむけて己れを打ち開き、 日常的自己が存立している「日常的現実」に亀裂を走らせることだ。

わが宿のいささ群竹吹く風の音のかそけきこの夕べかも
わがやどの-いささむらたけ-ふくかぜの-おとのかそけき-このゆうへかも

ここには、どこにも「自己」は見えない。 ふつうの自己は消滅して、竹を吹く風の音ばかりが聞こえる。 しかしそれを聞いているのは誰なのか。――家持であろうか。「作者」なのか。 実はそれは、「誰でもない」のだ。聞くということは身体の機能である。 私たちはふつう眼に見えるフィジカルな肉体に同一化している。 しかし、厳密に言うと、身体とは実体ではなく場にすぎない。 その場は、無限の宇宙の流れに浮かんだ島である。

風の音はどこから来て、どこに去るか。それは一つの公案だ。 詩の言語とは、本来的に公案である。 すなわち、考えることのできないものを考えるための言語の仕掛けである。

私はこの歌の解釈を、「作者」の心情に還元するわけにはいかない。 私はただ、この「音」が存在していること、その神秘そのものが詩作されている、 と言うことしかできない。それは全く日常のものでありながら、 その見えない領域において、無限の世界連関があることを感じさせる。 詩の価値とは、こうした、ポテンシャルの世界への響きということ以外にはない。

家持の作品は、「古代的」なのであろうか。 私が「古代」というのはただ、こうした無限なものへ打ち開かれている生のありようがあった時代だということである。 家持はけっして「近代人」であったことはない。彼の「孤」の感覚は、 近代人的な孤独とは全く異なる。今の人は、「独りあること」の本当の意味を知らないのである。

うらうらに照れる春日に雲雀あがり心かなしもひとりし思へば (19-4292)
うらうらに-てれるはるひに-ひばりあがり-こころかなしも-ひとりしおもへば
春の野に霞たなびきうらがなしこの夕かげにうぐひす鳴くも (19-4290)
はるののに-かすみたなびき-うらがなし-このゆふかげに-うぐひすなくも

こうした歌が到達した場について、いかなる常識にも還元することなしに思索しなければならない。 詩を読むとは常に、未知のものへの冒険でなければならず、 既知のものに詩作の到達したものを引きずり下ろすことであってはならない。

私は言う。――これらの歌には、「他界の光」が、ひそかに詩作されている、と。 そういうと、あまりに突飛な、強引な読みだとして、眉をひそめられるかもしれない。 しかし私が言う「他界」とは、近代人の常識とは全く違ったものである。

「他界」を、日常と明確に分離された世界だと考えてはならない。 「他界」という言葉がそういう印象を与えてしまうなら、 たとえば「無限」の場だと言ってもいい。

それは何も難しいことではない。この歌をよく見つめてみよう。 そこに詩作されたのは、いかなる条件づけもなく、世界に晒し出された心である。 この「かなし」という感覚は、徹底的な無条件性である。 無条件の悲しみ、寂しさである。それには何の理由もないのである。 独りあることとは、この宇宙に単独者として立つことである。

無条件であること。 そのことはしかし、一切の感覚・感情を離れた木石のようなものになるということではない。 一切の限界なしに開かれた心は、むしろ「悲」の感覚に満たされる。 それは余分なものが落ちていくからである。 様々な欲望や執着が無化されていくとき、心は条件のない広さに近づいていく。 この「悲」とは、ある特定の対象に制約されたものではなく、 開け放たれた世界そのものの広がりがもつ、一つの本質的な属性である。

これらの歌が詩作した広大な「スペース」の感覚をよく感受しなければならない。 その不思議な広がりの感覚は、自己というものの根底に打ち開けられている。 その広がりは、時間に属するものではない。それは時間に関わらない、歴史の根底である。 それは人間の根底に開かれる、人間を超えた場である。 人間存在とは、宇宙の無限の可能性の中において一つの限定でしかない。人間はカプセルだ。 しかしその底が開かれ、この無限の運動・無限の連関があることが予感されることがある。 詩とはこの予感のことである。

春の野に霞たなびきうらがなしこの夕かげにうぐひす鳴くも
はるののに-かすみたなびき-うらがなし-このゆふかげに-うぐひすなくも

この歌を作ったとき、彼の言葉は、何ものかに打ち当たったのである。

私は、詩を読むことは「今・ここ」でなければならないと言った。 現在における「読み」とは、ニュートン・デカルト的な宇宙の見えから離脱し、 ある限界のない宇宙へむかって開かれようとしている、 現在の「知」の根底的変化というものと切り離して考えることはできない。

それは脱・近代であるが、けっして新奇という意味での新しさを求めているのではないし、 単なる「理論」を追求しているのでもない。 むしろ人類とともに古い、ある根源的な「知」を奪還しようとしているのだ。 それは宇宙の未知の運動に無媒介に打ち当てられ、そうした「他界の光」の中で、 この生を美しく生きるための知なのである。

つまり、ここでの私の関心は、全く「文学史」的なものではない。 もちろん、それはそれとしての有効性があるし、そうした見方の意義を否定するつもりはもっていない。 ただし、言わねばならないのは、 そうした発想は、詩を「有るもの」 Seiende として扱うという前提の上に成り立っているということだ。

これに対して、私は、詩作のうちに含まれる「有ること」 Sein の経験を考えようというのだ。 「有るもの」は、すでに、私たちの時空観念、世界の常識的な「見え」によって限定され、 カテゴリー化された形で与えられている。そのことはカントによって分析された通りである。

近代的な意味の「学」は、そういう「見え」の妥当性を問うことなく、 あくまで近代の常識の地平のうちに、非・近代を取り込もうとしていた。 悪い言葉でいえば、それは一種の植民地主義だとも言えなくはない。 一度、「歴史学」への囚われから自由になってみることが必要だ。

近代の「万葉学」は、ほとんど歴史学、すなわち文学史学であった。 そこには、「学」の存立根拠そのものを問うという、 広い意味での哲学的な思索はほとんど見られなかった。 詩的認識と、歴史学的認識は、根本的に次元を異にするものである。 このことをよく確認しておく必要がある。

まず、近代的な時空観念、つまり均質的な時空間のうちに、 独立した「もの」が存在しているというデカルト・ニュートン的な「見え」を打ち破ることだ。 「古代」が姿を現すのは、それによってのみ可能である。

それはつまり、「有ること」つまり存在そのものを考えることを「知」の中心におくという転回を意味している。 私が古代の詩に向かうのは、そこに含まれる、ある存在感覚に打ち当たるためである。 それは根源的な「フィールド・ワーク」でありうる。

「読み」というテキストを場とするフィールドワークにおいて、 「私」もまた変容するのでなくてはならない。 それは、表現されえない「非在」の直観へむけて身を開いていくということなのだ。

そしてそれはまた、人類が太古からもっていたある形の「知」を探るということでもある。

2.言葉へと到来するもの

詩とは「予感する言葉」である。

現在行われつつある宇宙観の根底的なシフトにおいて、 大きな契機となったものの一つが、カスタネダ描くところのドン・フアンの教えである。 ドン・フアンによれば、「詩人は無意識のうちに呪術師の世界に憧れている。 しかし彼らは『知』の道にいる呪術師ではないので、彼らには、憧れるということしかできない」。(注2)

そして彼はある詩人の作品にコメントし、言う。

「その男はものの本質を『見て』いたという感じがする。わしも彼とともに『見る』ことができる。 わしは、詩が何についてのものかなんてことは、どうでもいい。 ただ、その詩人の憧れがわしにもたらす『感じ』だけが問題なんだ。 ……この美の一撃が、『忍び寄り』なんだ」(注3)

詩人は「見る」。これは、カスタネダも経験した「世界を止める」ということである。 それは、自我に属するさまざまな観念や習慣を剥落させていき、 ありのままの世界を、裸の宇宙を見るということだ。 それは自己を無という場に投げ入れ、 世界そのものが立ち上がってくる生成の瞬間に立ち会わせようとするものなのである。

家持に起こっていたことは、まさにそうした事態であった。 剥落のうちに打ち開かれる無限なものの予感――それは徹底的な晒し出しであり、 それゆえの寂しさ、悲しさなのだ。決して、自我に属する「感情」なのではない。 それよりもっと根源的な何か、たぶん仏教が「悲」のうちに世界を見ようとするときの感覚に近いのである。

アメリカに渡ったあるチベット僧は、この「悲しみ」についてこう言っている。

「あなたの心は、痛み、そして柔らかい。 もしあなたの眼があなた以外の世界へ開かれると、ものすごい悲しみを感じる。 この悲しみは、悪く扱われたことによるものではない。 また、誰かが侮辱したとか、追いつめられたから、悲しいのでもない。 むしろ、この悲しみの感覚は無条件なのだ。 あなたの心が完全に晒し出されたとき、それは起こる。 皮膚も皮下組織もない、むきだしの肉だ。 (中略)純粋な心がこの悲しみを感じるのは、あなたの非存在の心が満たされているからである」(注4)

この無条件の実存においては、どんな微小なものも、直接に突き刺さってくる。 この心には「文化」の生み出すもろもろの保護がない。「心」というものは実在しない。 この非存在の心が満たされるというのは、「心」というものの根底が開け放されて、 世界が流れこんでいるということである。雲雀、夕暮れ、風の音といったものが、宇宙線のように直射する。 「他界」というのは、こうした無条件性において経験される「この世界」なのである。 日常のあれこれの心の揺れを止め、「何もしないこと」のうちに、存在がふと露開するのだ。 それは、一見何でもない、春の日の午後に起こった。

わが宿のいささ群竹吹く風の音のかそけきこの夕べかも
わがやどの-いささむらたけ-ふくかぜの-おとのかそけき-このゆうへかも

これは「存在に耳を傾ける」というハイデッガーの言葉を思い出させる。 荘子のいう天籟・地籟も連想される。それは「無為」――何もしないこと――によって始めて聞きうるのだ。 そうした日常的な意識の流れの剥落によって、世界の濁りが静まっていくとき、生成の無垢が見えてくる。 それは、透き通るように純粋な、寂しさとも悲しみともしれないものに包まれて現れる。 それは、一つの生命体としてこの世界に有るということ自体から発している、 透明にみがかれた悲しみの意識である。そうした深い感情は、宇宙の彼方から到来しているのである。

家持はまた次のような歌も作っている。

移りゆく時見るごとに心疼(いた)く昔の人し思ほゆるかも (20-4483)
うつりゆく-ときみるごとに-こころいたく-むかしのひと-しおもほゆるかも

この歌について、まず指摘されるのは、斜陽の豪族である大伴氏の族長として、 時の推移を嘆き歌ったものだ、ということである。 「昔の人」とは、大伴氏が栄光にみちていた時代の人々であろう。

私はもちろんこういう解釈に反対するつもりはない。 それは正しい。しかし詩とは、本来、多様な意識レベルに働きかける、多層的なものとしてある。 いちばん表層の意味だけを解釈して、それが詩を読んだことになると思ったら間違いである。 そういう層を超えたいわば「倍音」を聞き取る感性がなければ、詩など読むことはできない。 明らかには見えない隠された連関を読むことこそが、詩を読むことだ。

この歌についても、それが「予感」している世界のありようについて、粘り強く思索していくほかない。 それは深読みかもしれないが、「浅読み」よりはましであろう。

まず私たちは、「時間」について真剣に思索しなければならない。 時間が過去から未来へ直線的に流れているという世界形態は、私たちのとりうる意識の一様態にすぎない。 それは大脳皮質的な時間感覚だ。

私たちは他に、爬虫類の脳や魚類の脳をもつのであり、 また植物の存在感覚に共鳴する層をももっているのだ。 直線的な時間観念は、人類史上のある時点で発生したものである。 それ以前においては、時間とは、私たちが考えているようなものとは、 全く異なったものとして経験されていた。 つまり、私たちが理解しているような意味での時間はなかった。

古代において、時間という問題は、私たちの存在自体の「起源」に関わるものとして意識されていたのである。 私たちは、それでは、どういう世界から発生してきたのか。私たちは、どこから来たのか。どこへ行くのか。 これは「存在」の問題、「有ること」そのものの問題である。 本質的な「知」は、こういう問いを回避することはできない。

この「移りゆく時見るごとに」の歌で詩作されているのは、苦しいほどの、「昔」に対する憧れである。 「昔の人」を思うことである。しかし、「昔」とは一体どこに存在しているのだろうか。 もちろんそれは、「存在」してはいない。 しかしそれでは、その「昔」の記憶が、心疼いほどに襲っているという事態は、どういうことであるのか。

「昔」とは、詩人が本来的に帰属し、深く世界に根ざすことができる、という場である。 懐古とは、結局、望郷ということである。 私たちは、「憧れ」ということを、ドン・フアンのように理解しなければならない。

詩人は何を待望し、予感しているのか。彼は「時」の不思議に打ち当たっている。

変転する世界。――現代の人々は、いわゆる「無常観」というものを、 きわめて浅くしか理解できなくなってしまった。 無常の感覚は、それ自身のうちに、本来的な帰還を予感するものである、という感覚が、 わからなくなってしまったのである。 つまり、まさにその変転それ自体の知覚のうちに、それを一部として含む、 巨大な宇宙の運行が予感されているのだ。 すなわち、そこで詩人は、見えない世界の深い連関に接触しているのだ。

突拍子もないことと思われるかもしれないが、このような「伝統」に属する詩のうちにも、 ハインリヒ・ロムバッハなどが言う「ヘルメス智」(注5)の輝きを見出していかねばならなくなるだろう。 ヘルメス智とは、簡単に言えば、世界の無限の連関が開ける場に立つということである。

それは、プラトンやアリストテレスによる哲学の転回が行われる以前に、 ヘラクレイトスやパルメニデスといった人たちが見ようとしていたものであるし、 もちろんそれは、仏教や道教、あるいはまたドン・フアンのような人が伝えようとしてきた、 ある根本経験なのである。

そしてまた、「神道」として組織され、神々が系譜化される以前に、 日本列島で経験されていた根本的宗教性でもあるのだ。 残念ながら、それを厳密な論理によって規定する方法はない。

ただ言っておけば、ここには何の二元論もない。 意識の明晰さと「外部」の渾沌などという図式は、近代的理性の生み出した影でしかない。 むしろ、ベイトソンが最後に到達したような、関係性の巨大なネットワークとして宇宙を捉え、 その全体を「聖」として肯定するような知性に、それは近い(注6)。

ヘルメス智とはまた、ある原初のものへの憧れに満たされた精神である。 「昔」の名でひそかに詩作されている隠された世界連関、それが原初のものだ。 ――もちろん私は、原初という言葉で、ある実体的に存在する特定の時を指しているのではない。 原初のものとは、時間を超え、時間に先立ち、時間を生み出すある働きの領域ということである。 それは、あらゆるものの「手前」にある。

よく知られているエリアーデの説によると、古代の人々は、神話や祭式によって、 自分たちの「始源の時」を再び体験するのだという。 つまり、こうした人々は、「太古」という、自己の存在の原初をつねに意識し、 それにたいする抑えがたい「懐かしさ」の感情とともに生活をしていたのである。 アボリジニーが語る「ドリームタイム」というのも、そうした「太古の時間」の一例である。

そういう原初のものを知り、感じ、それを自己の生の一部として生きること、 古代の生とはそういうものでありえた。 それは縄文の昔からそうであったし、また、誤って「未開」と呼ばれている人々もそうである。 そういう原初のものに打ち当てられるということは、宗教以前の宗教だ。 そして、こういう宇宙との関係から、詩が生まれている。

移りゆく時見るごとに心疼く昔の人し思ほゆるかも
うつりゆく-ときみるごとに-こころいたく-むかしのひと-しおもほゆるかも

この歌で詩作された原初のものへの憧れ、そして予感。 それは春の夕べの三つの歌と有機的な関連がある。 「昔」にありえたものは、独りあることにおいて、すでに取り戻されている。 詩人はすでに帰還している。しかし詩人は、それを明確に意識はしていない。 彼はただ予感するのみである。

このような「昔」への憧れと予感は、もっと古い歌にも見出すことができる。 実はそれは、万葉の根源的テーマなのである。

淡海の海夕波千鳥汝(な)が鳴けば心もしのに古(いにしへ)思ほゆ (3-266)
あふみのうみ-ゆふなみちどり-ながなけば-こころのしのに-いにしへおもほゆ

柿本人麻呂の有名な歌である。「古」を思うこと、それは人麻呂にとっても、根本的な詩人としてのテーマだ。

ささなみの志賀の大曲(おほわた)淀むとも昔の人にまたも逢はめやも (1-31)
ささなみの-しがのおほわた-よどむとも-むかしのひとに-またもあはめやも

根源的状況において、これは家持と何の違いもない。 もちろん人麻呂は、ある公的な場において、ひとつの儀式としてこの歌を作ったのである。 だが私はここで、この歌の機会詩としてのレベルよりも一歩深い領域を読もうとしているのだ。 詩人の意識的意図をこえて詩に到来している世界連関、そのヘルメス的な輝きを見たいのだ。

この歌の前半部をよく見てみよう。

ささなみの志賀の大曲淀むとも
ささなみの-しがのおほわた-よどむとも-

ここにはある、無限に明け広げられたスペースの感覚がある。 このスペースの博大さこそ、人麻呂の詩作の魅力の中心をなすものであろう。 私はこの歌のこの部分に、地質的な時間を感じる。地球的な時間である。 この歌では「昔の人」を思う。 それは、オーストラリアのアボリジニーたちが、ドリームタイムの先祖を思うのと、 基本的に同じことなのだ。 「昔の人」のいる場所、それは悠久ともみえる地球的時間よりも、更に原初にある。 それは「心」というもの、従ってまた私たちの存在そのものを遡行することなしに、 見ることはできない。

この徹底した原初、世界のはじまりを知り、感じ、表現すること。 それがポスト・モダンというものの本当の課題なのだ。 それは前後際断された、限界のないものの開けだ。 そういう裂開が世界と自己との中心に走るということ、本質的な詩の経験とはそういうものである。

ジャック・デリダは「原エクリチュール」というようなことを言う(注7)。 これは、言葉が原初のものへ限りなく接近していく経験を指し示している。 原エクリチュールとは、むしろ本来的な「言葉そのもの」である。 言葉の中に滞留する、ある輝きとしての「手前」の息吹なのだ。 言葉はどこから到来し、どこに滞留しているのか。 デリダはそういう問いにとらえられたのだろう。 (もちろん、この問題意識は、後期ハイデッガーから来たものだ。 ハイデッガーを読まずにデリダを理解することはむずかしい)

「どこから」――この問いを根源的に考えるとき、私たちは、「ロゴス」という語の深さに気がつく。

「はじめに、ロゴスがあった。ロゴスは神とともにあった。ロゴスは神であった」と古い聖典にはしるされている。 また、インドで行われてきた、「マントラ」といわれる、聖なる語をめぐる瞑想を思い出してみてもいい。 マントラは、宇宙そのものである全き沈黙から到来する。その到来そのものが、世界の生成である。 また、中国の「道」という語には、「言う」という意味もあるというのは、どういうわけなのか。 それは人間の言葉だけを示すのではないのだ。

それは、宇宙の言葉なのだ。それは、宇宙がもつ、世界の生成への意志なのである。 人間の言葉が本質性をもつとすれば――それは詩の言葉以外では不可能なのだが――それは、 この宇宙のロゴス・道(タオ)に接触し、 それを無限の光として含むことができる、という可能性をおいてほかにない。

私はここで、本格的な「東洋的言語論」を展開しようというつもりはない。 そもそも、私は「論」には興味がないのだ。 私が考えたいのは、言葉が到来するということの本質性である。 その到来を保持するのは詩の言葉だけである。 言葉には、到来が含まれているがゆえに、詩人は言葉を通して、 この初源的な到来を予感することができるのである。

非時間――つまりアボリジニーたちのいうドリームタイムを予感すること。 「昔の人」が滞在している場所、あるいは非場所。

3.詩作と太古の伝統

だから、古代の詩人が、シャーマンから発生してきたのは、本質的な理由がある。 シャーマンは、無限の世界連関へむけて、旅をする者である。 ある人々はまだ、シャーマンの見るリアリティが、共同体の幻想だなどという考えにとらわれているが、 それは近代人の偏見にすぎない。ポスト・近代人ならば、近代人の住んでいる「現実」が、 広大な宇宙のごくごく限られた一部分にすぎないことをよく知っている。 日常的生の世界と寄り添うように、無限の世界連関がつねに存在し、運動している。 シャーマンは古代の神秘家である。彼らは何よりも「見る人」(seer)だ。そして「忍び寄る人」(stalker) なのだ。 そうした経験から生まれた言葉が詩なのだ。

原始・古代の社会では、シャーマンがその魂の旅のあいだ、歌を授けられたということが、数多くあった。 彼らはそれを「力の歌」として厳重に扱った。それはシャーマンの「魂の変容」にかかわるものだった。 つまり、彼の「自我」が、宇宙の運動に打ち当たり、変容を迫られるとき、言葉が生まれるのだ。

そのことを、エスキモーの一人は、次のように語っている。

「歌とは『思い』です。人が偉大な力に動かされて、ふつうの言葉が役に立たなくなると、歌がはじまります。 人は、流れの上をあちらこちらと漂う氷の塊のように、動かされます。 喜びを感じたり、恐れを抱いたり、また悲しみを感じたりしたとき、流れる力が、『思い』を押し流していくのです。 『思い』は洪水のように人に襲いかかり、息ははずみ、心臓は早鐘をうちます。 天候がよくなって氷が溶けるように、何ものかが、人を溶かしてしまいます。 私たちはいつも、自分たちのことを小さいものだと思っていますが、いっそう小さくなったような感じになります。 言葉を使うのが怖くなります。でも、必要な言葉が、自然にやって来るものなんです。 使おうとする言葉がひとりでに飛び上がってきます――このようにして、私たちは新しい歌をもつことになります」(注8)

ここでいう「思い」とは、普通の、さまざまな「人間的」な思いとは違っている、という感覚がすぐに起こってくる。 「思い」とは、もっと何か、宇宙の深くとつながっているような感じで使われている。 たとえば、近代の生み出したヘルメス智の詩人の一人,宮沢賢治の「林と思想」を見よう。

そら ね ごらん
むかふに霧にぬれてゐる
蕈のかたちのちひさな林があるだらう
あすこのとこへ
わたしのかんがへが
ずゐぶんはやく流れて行つて
みんな
溶け込んでゐるのだよ
  こゝいらはふきの花でいつぱいだ

ここで「かんがへ」というのは何なのか。それが「流れていって」しかも「溶け込んで」いるとは。 私は、近代の詩において、これほどシャーマン的な詩は見たことがない。 自我よりもはるかに深い何物かの予感がある。意識の深い場所にある流体の層をのぞき見たような感覚だ。 ドン・フアンなら、この詩に瞑想するであろうか。 (もちろん、この詩の表層的な意味は、単に「私はあの林のことを思っている」ということである。 私が言うのはもう一つ深いレベルの話である)

「かんがへ」とは、たぶん、単に自我にだけかかわるものではないのだ。 もしかすると、それは、この自己意識を生み出しているところの、もっと広大な意識に関係があるのかもしれない。

ともかく、さきのエスキモーの言葉は、日常的現実の産物にすぎない自我が、 「力」によって解体される経験を描いている。そして、春が来て氷が溶けるように、自我も溶解する。 そのとき言葉が自然に生まれて来る。そして私たちは新しい歌を得る。 この「力」とは何か――それは、世界の不可視の領域を流れる、一種のエネルギーである。 たぶんそれは、中国で「気」とよばれ、インドで「プラーナ」とよばれてきた領界と近いものだろう。 しかしこの「力」は、決して「構造」と対立関係にあるようなものではない。 「力」とは、この世界連関の一つのアスペクトにすぎないのだ。

エスキモーのアウアというシャーマンは、その経験から、次のような歌を得た。

Joy, Joy,
Joy, Joy!
I see a little shore spirit,
A little aua,
I myself am also aua,
The shore spirit's namesake,
Joy, Joy!
よろこび よろこび
よろこび よろこび
私は小さな岸の霊を見る
小さなアウア
私もまたアウア
岸の霊と同じ名前
よろこび よろこび――(注9)

ここでは個別的な「私」は存在せず、「私」がそこから発源したところの、ある広大な流れの中にある。 歌がシャーマニズムから始まったという話はよく聞く。しかしそれは一体どういう意味なのか、真剣に考えてみる必要がある。 一体、シャーマニズムとは、どういう「知」であったのか。

シャーマニズムには「力の場所」へ入っていくという経験がある。 それはカスタネダのドン・フアンも語っているところだ。 ベラ・クーラのある女性シャーマンは、こんな歌を歌い、自分を「力の場所」へ沈めていくという。

Sky moving
as they sang
spirits sang of salmon
Sky waving
up and down
spirits singing
I was drowning
in the basin
the place of power
for curing
Spirits tossed
eagle down
to the surface
I rose singing
空が動く
彼らが歌ったとき
霊たちは鮭を歌った
空は揺れる
上へ下へ
霊たちは歌う
私は溺れていた
入江のなかで
癒しのための
力の場所で
霊たちは投げ落とす
鷹を
地表へ
私は歌いながら立った

シャーマンは、歌とともに、「力の場所」から立ち上がるのである。 彼は、世界の裂け目に入り、私たちには「未発」と思われるような場所に立つ。

歌はつづく。

He pulled me out
the one who saves
those struck
by spirit power
I gaze deep
into the face
that gave me power
as a shaman
He stood up
in the center
in the center
of power
彼は引き上げた
霊の力によって
打ち当てられた人々を
救う者を
私は深く見つめる
シャーマンとしての
力を私に与えた
ものの顔を
彼は立ち上がった
力の
真ん中に
真ん中に

「力の中心」――そして「シャーマンとしての力を与えたもの」とは何であろうか。 私たちの「知」は、これに直面しなければいけない所まで来ている。

原・詩人としてのシャーマンは、全くあからさまに、「それ」を見たのである。 「見た」というのは視覚というだけではなく、全存在的な次元の転換である。 日常とは別の周波数に入ったということである。それは「中心」である。 中心というのは、有(存在すること)の中心である。

歌はこのように終わる。

Spirits standing
in the place
of petrified
power
Sky moving
as they sang
spirits sang of salmon
Sky waving
up and down
spirits singing
霊たちは立つ
力が
石になった
場所に
空は動く
彼らが歌うとき
霊たちは鮭を歌う
空は揺れる
上へ下へ
霊たちは歌う ――(注10)

「個」を超えた世界――日常においては深く隠され、 覆蔵されるというあり方でしか現れることがないもの――シャーマンはその世界から言葉をもたらすのだ。 それはもともと神々の言葉である。gods というよりも spirits だ。

日本列島で経験されていた「神」もこれに近い。シャーマンの言葉そのものが神々の言葉である。

神々とは、物質的世界に同じ次元に存在する実体ではない。 それは私たちのある意識レベルにおいて生起してくる純粋なイメージ、 すなわち imaginatio の領域に住まっているものだ。 イマギナチオとは、とても微妙な存在性格をもつものだ。 それは、「有」そのものと、有るものの世界の境界にある。 「有」それ自体は決して現れることはないものである。 イマギナチオは、「生成」の息吹を留めているものだ。 それは「橋」のようなものであろう。「中間」とは純粋な生成そのものだ。(注11)

ともかくこうした歌を読むと、「ロゴスは神とともにあった」という言葉の意味がわかるような気がする。 それは何の比喩でもなかった。ロゴスとは「論理」ではない。 それは、宇宙の根源の力と私たちとの紐帯そのものなのだ。 ロゴスとは、世界を生み出していく根源的な「振動」のようなものかもしれない。 ――それを「生命」と言ってはいけないだろうか。

万葉集の背後には、シャーマニズムを中心として生きていた何千年もの縄文・弥生の生活がある。 その森の深さをしばし沈思してみよう。 もちろん万葉の時代は、そうした伝統は忘れられかけていた。

しかしそれが「詩」である限り、その根源的なロゴスとしての性格が失われることはない。 日本の詩は、こうした「存在」との深い関係を維持しようとしていた。 万葉はそうした伝統が形成された時期なのだ。もちろんその詩は、シャーマンのような、直接的な力は喪失している。 しかしそれでも、その歌にはなお、「個」を超えて拡がる途方もない世界への予感が、 ときおり響いていることを、疑うことはできない。

たとえば、人麻呂歌集に属している、次のような歌を見てみよう。

あしひきの山河の瀬の鳴るなべに弓月(ゆづき)ヶ岳に雲立ち渡る (7-1088)
あしひきの-やまがはのせの-なるなへに-ゆつきがたけに-くもたちわたる
ぬばたまの夜さり来れば巻向の川音(かはと)激しも嵐かも疾(と)き (7-1101)
ぬばたまのよる-さりくれば-まきむくの-かはおとたかしも-あらしかもとき
みけむかふ南淵(みなぶち)山の巌にはふりし残雪(はたれ)か消え残りたる (9-1709)
みけむかふ-みなぶちやまの-いはほには-ふりしはだれか-きえのこりたる

ここには「自然」があり、それ以外のものは見えない。 何ということもない自然の情景に見える。しかしこれらの歌には力がある。 それは、これらの歌があらゆる「自我」に無関係であることから来る。

詩人は「見た」のだ。その「見る」ことは、自我に属するさまざまな夾雑物を捨てるところから生まれる。 これらの歌の美しさは、多くを捨て去ったための美しさであり、 純粋な「見ること」がそこに保持されていることによる。 世界は止まっている。それは、限界のない連関が開かれ、詩人に打ち当たっていることである。 それが「カミ」というものの原初的な経験なのである。 「カミ」とは、地平の裂開である。広大な連関が襲いかかるということである。

こうした歌は、その根本においては、家持の「いささ群竹吹く風の」と同じ世界にある。 ただ、家持の場合は、自己の根底に口を開けている虚空を見ることから、 「私」のない世界を予感した。人麻呂歌集の歌には、はじめから「私」が欠如している。 その言葉は、「私」よりも深い場所から到来している。それは、より原初に近い詩なのだ。

家持は「意識」を通って、「カミ」の地平に帰還するところまで行きかけた、とも言える。 人麻呂歌集の歌の場合は、「意識」の影はなく、ただ深く混融した宇宙が無造作に露出している。

古代においては、私たち近代人が考えるような「自然」は存在していない。 近代の自然は、あくまで近代的自我によって見出される、 客体としての自然であり、二項対立の一項にすぎない。

つまり、「自然」とは、決して山川草木のような目に見える世界のことだけを言うのではないのだ。 「自然」とは、未発の場合から、現象が出現し、また未発へと消え去っていくという、 その全関連・全運動を言うのだ。

「古代」が見ていた自然というのは、つねに、そうした全連関性のうちにある。 ギリシア人は、そうした自然の運行全体のことを、「ピュシス」という名で呼んでいた。

「あしひきの山川の瀬」の歌は、見えざる、未発の場を覆蔵しつつ、詩作されている。 後期ハイデッガーなどの思索が見ようとしたのは、こうした世界連関の全体である。

また、ベイトソンは、サイバネティクスをモデルとしながら、 こうした全体連関そのものを、「聖」として捉えるパラダイムを確立しようとしていた(注12)。 そういう思索の方向は、「古代」が直観していた地平を取り戻そうとすることにほかならない。

「あしひきの」や「みけむかふ」といった叙景歌――何の本質性もない命名だ――それは、 ただそこに有るものを描いているように見えるが、そこにはひそかに、 この全体連関がメタファーされているのである。 そこではもちろん、詩作する者自身も、この運動の中に投げこまれている。 この運動に入り込むためには、日常的自我を脱落させ、身にまとってしまった鎧としての「時空」を捨て去って、 いわば「ソフト・アイ」をもって、世界を止めなければならない。 この「世界を止める」というのは、ドン・フアンの言葉である。

だから私は、「万葉の自然観」などというありきたりのテーマ設定をしたくはない。 むしろ、万葉において開かれ、予感された見えざる連関について問いたい。 それはもちろん、いわゆる共同体に対する「外部」ではない。 共同体と外部との分割は、すでに二元論である。その「差異」はどこから生じたのか。 その差異の手前というべき地平がある。 万葉における根源的な「帰郷」のテーマは、こうした地平に関係している。 それは赤裸々に「見る」ことによって現れることがある。それは「文化」以前の場とも言える。

「文明」の発達は、この原初のものとの直接的関連を弱めてしまうことがある。 王権や教会などは、直接経験の代補として姿を現した。 宗教・詩・芸術などは、文明にありつつ、その根源直観を保持するアート(術)の探究であった。 「カミ」の原初的経験は、あらゆる宗教や芸術が出発するところである。

今の私たちは、時空以前の「無限」を、大部分の宗教やまた古代王権のように 「外部」そして「中心」へと封印していくことなく、その無限のままで経験することを要求されている。

古代という時代はたしかに王・天皇という「外部」に捉えられていたように見える(注13)。

しかし、そういう「外部・化」の操作が行われるその手前のところでは、 「無限」そのものに打ち開いているという詩作の経験があった。 それを見ることが、万葉の詩作に到達する道なのである。

4.人麻呂における「古」への追思

さて、万葉の中でも、最も原初的なものに直接接近したのは、 人麻呂の詩作、とくに軽皇子に従駕し、安騎の野に遊猟した時の連作であろう。

やすみししわご大君、高光る日の御子、
神ながら神さびせすと、太敷かす都をおきて、
隠口(こもりく)の泊瀬の山は、
真木立つ荒山道を、石(いは)が根禁樹(さへき)おしなべ、
坂鳥の朝越えまして、たまかぎる夕さりくれば、
み雪ふる安騎の大野に、はたすすき篠をおしなべ、
草枕旅宿りせす、古思ひて (1-45)
やすみしし-わごおほきみ-たかてらす-ひのみこ
-かむながら-かむさびせすと-ふとしかす-みやこをおきて
-こもりくの-はつせのやまは
-まきたつ-あらきやまぢを-いはがね-さへきおしなべ
-さかどりの-あさこえまして-たまかぎる-ゆふさりくれば
-みゆきふる-あきのおほのに-はたすすき-しのをおしなべ
-くさまくら-たびやどりせす-いにしへおもひて
安騎の野に宿る旅人うち靡き寐(い)も寝(ぬ)らめやも古思ふに (1-46)
あきののに-やどるたびひと-うちなびき-いもぬらめやも-いにしへおもふに
ま草刈る荒野にはあれど黄葉(もみぢば)の過ぎにし君が形見とぞ来し (1-47)
まくさかる-あらのにはあれど-もみぢばの-すぎにしきみが-かたみとぞこし
東の野に陽炎(かぎろひ)の立つ見えてかへり見すれば月傾(かたぶ)きぬ (1-48)
ひむがしの-のにかぎろひの-たつみえて-かへりみすれば-つきかたぶきぬ
日並(ひなみし)の皇子(みこ)の命(みこと)が馬並(な)めて御猟立たしし時は来向かふ (1-49)
ひなみしの-みこのみことの-うまなめて-みかりたたしし-ときはきむかふ

長歌の方は古い形式を保っている。私はここに、シャーマンの見たヴィジョナリーな現実の姿を読む。 それほどにこの長歌は、神秘に深く浸されている。 もちろん人麻呂自身がシャーマン的なエクスタシーを経験して作った、と言いたいのではない。 彼のこの詩には、そうした原初的な感覚があるということだ。

長歌で描かれたものは、「他界」への遡行である。「隠口の泊瀬の山」とは、もちろん死者の国である。

真木立つ荒山道を、石(いは)が根禁樹(さへき)押しなべ、
-まきたつ-あらきやまぢを-いはがね-さへきおしなべ-

「ま」も「荒」も、神霊の力を暗示する接頭語である、と最近の研究では言われている(注14)。 ただそういう学問も、「神霊」とはそもそも何であるか、については何もはっきりしたことを言ってはいない。 折口信夫も、その点では駄目なのだ。彼は、その直感力を、思索として展開する能力がなかった。 折口の「見て」いたものを正確に思索の言葉で表すためには、 一度ポスト・モダンをくぐって来なければならないだろう。

神霊とは宇宙の生成の力である。「荒魂」を思い出してほしい。 荒魂とは、神の臨在の烈しさを指す語だ。それは存在の地平に轟く雷鳴だ。それを考えるためには、 現代の時空観念を疑うことなく物事を「説明」しようとする近代的な「学」の在り方から一歩も二歩も踏み出すほかはない。

この詩作においては、「他界」が到来している。 「他界」とは、私たちにとって日常は隠れている、世界連関の総体を意味する。 そこから見れば、私たちの日常そのものが幻想であり、存在可能性の一つに対する執着にすぎないのだ。

もちろんこの連作の背景には、軽皇子の遊猟の儀礼というものがある。 人麻呂は、その儀礼に神話的意味を与える。 神話とは、宇宙の無限の運動・生成と私たちの存在との間を架橋するシンボルの体系である。 神話の中核には詩がある。

この連作は祭式と密接に結びついている。 祭式とは、神話的な時間に回帰し、存在の根抵たる「太古」を再び生きるために行われるものである(注15)。 古代の王の権威も、この神話的な時間に由来している。 万葉の歌の中には、こうした聖なる儀式のために作詩されたものが多く含まれている。 この遊猟歌群も、その中に含まれる。

詩人は死者の国に入った。「旅宿り」とは、この神話的夜での滞在である。

エックハルトは Abgeschiedenheit ――離れてあること――を語った。 それが詩というものの本源的な場所でもある。

草枕 旅宿りせす 古思ひて
-くさまくら-たびやどりせす-いにしへおもひて

またしても「古」である。 「心もしのに古思ほゆ」と同様だ。もちろんこれは一種の定型ではある。 しかし詩人の意識的意図というのはどうでもいいのだ。 私が読もうとするのは目に見えない連関である。 「古を思う」ということは、この詩では、まず日並皇子の世である。しかしそれは一次的な意味の層である。 その奥には、もっと宇宙論的な意味の層がある。それは人間存在の根本にかかわる。 自己と宇宙という問題である。詩の全体は、ヴィジョナリーな、夢のような雰囲気につつまれている。 安騎野とは、シャーマンたちのいる「力の場所」なのである。 それは宇宙の中心である。それは根源的変容が行われる場所である。

安騎の野に宿る旅人うち靡き寐も寝らめやも古思ふに
あきののに-やどるたびひと-うちなびき-いもぬらめやも-いにしへおもふに

「旅宿り」そして「旅人」――それは深いレベルにおいては、人間存在の根底的ありようである。 実際、万葉には「旅」の歌は多い。 この旅人は、自分がどこから来て、どこへ行こうとしているかを、無意識のうちに考えている。

ま草刈る荒野にはあれど黄葉の過ぎにし君が形見とぞ来し
まくさかる-あらのにはあれど-もみぢばの-すぎにしきみが-かたみとぞこし

魂をたずねて他界へ旅をして来た、とこの歌は言う。 これは神話において、何度もくり返されてきたテーマである。 たとえば、オルペウスとエウリディケー。あれも「魂たずね」である。 オルペウスが詩人だった、ということは意味深い。 詩人は冥界にかかわり、冥界の消息を伝えるものである、という原型的な詩人像が、そこにはある。 詩人はシャーマンの末裔だ。詩人は、シャーマンのように、冥界・他界に行く。 つまり日常的自我としては死なねばならない。 聖なる時に回帰するために、日常の時間から離脱しなければならないのだ。

「黄葉」に関しては、人麻呂の次の歌がある。

秋山の黄葉を茂み迷はせる妹を求めむ山道知らずも (2-208)
あきやまの-もみぢをしげみ-まどひぬる-いもをもとめむ-やまぢしらずも

この黄葉の茂る山とは、他界そのものである。 ここには、他界に対しての否応ない憧憬、他界からの牽引がある。 詩人は他界から呼ばれているのである。

安騎野の始源的夜は、「インキュベーション」ということを思い出させる。 つまり「こもり」である。たとえば天照大神は岩戸に隠れた。 この深く隠されたものの領域について沈思してみなければならない。 「隠される」という形でしか現れることのできないものがある。 それは暗黙のうちに、何事かを指し示す。それは、分析的な知の及ぶことのない「未知」そのものだ。 その「未知」は、時間でも空間でもない。シャーマンは「力」としてその領域を経験する。 詩人はこの「未知」の力に打ち当てられる。

古代ギリシアでは、癒しの神アスクレピオスの神殿に「こもる」ことによって、病を癒すということが行われた。 つまりその癒しは、根源的な「死と再生」の変容経験によってなされた。 「こもる」とは、意識構造の根本的変容であり、宇宙的なものの全体性へ解き放たれることであった。

そして、この夜に夜明けがやって来る。

東の野に陽光の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ
ひむがしの-のにかぎろひの-たつみえて-かへりみすれば-つきかたぶきぬ

この歌は誰でも知っているが、皆これを読んだとき、「何物か」がそこに現れていることを、 ひそかに感じていたはずである。すなわち、近代の日常世界とは根本的に異なる、 「聖」の示現・世界連関の露呈が、経験されていたのではなかろうか。 オイゲン・フィンクは「全的運動」 All-bewegung という言葉を造った(注16)が、 そのような宇宙の運動が開示されているという根本経験がそこにある。

人はそれについてよく「古代的な宇宙」という表現をする。それは確かにその通りだ。 しかしそれも私たちの「読み」において経験されるからこそ言えることであり、 つまり私たちもまたその内部に「古代」と響きあうものをもっているはずなのだ。 「古代」を、直線的な時間軸において表象するから間違うことになる。

私たちは「内なる古代」を見つめねばならない。古代学とは内省の学である。

私たちの意識は多くの層からなっている地層のようなものであり、 私たちはそれを、太古の方角へむけて掘っていかねばならない。 古代の歌に詩作された――つまり言葉として建立された――見えざる世界連関の裂開的な開けは、同時に、 私たち自身がその意識・存在の原初に打ち当たるということにほかならない。

かへり見すれば月傾きぬ
-かへりみすれば-つきかたぶきぬ

それにしても、「かへり見」するのは誰なのか。 もちろん、人麻呂というような固有名詞をもつ人格ではない。

「人」というものも多くの意識レベルからなっている。 その最も外面的な殻である「ペルソナ」は、ここでは出る幕がない。 むしろ何か、宇宙へと開かれているような「自己」のあり方を、ここで感じざるをえない。 目覚めの状態の意識以外の層はすべてカオスだと思っている人がいるが、それは観念的な独断である。

ふつうの意識よりも深いレベルの自己があらわれたとしても、やはり、陽光は東にあり、月は西に傾いている。 そのいちいちは分節されているが、しかし同時に、もっと深い融合の感覚のなかに、それらは在る。 私たちの意識のうちには、宇宙とつながっている、あるいは宇宙そのものであるという場が含まれている。 というよりも、意識は「それ」から発生している。

神話的英雄が他界に出かけるのは、こうしたコスモゴニーを遡行し、 禅で言う「本来の面目」に出会うためである。 この安騎野連作での詩人の旅も、深いレベルにおいては、そうした神話的英雄の旅と同一のものだ。 そしてまた、シャーマンの旅とも同一の構造をもっている。

日並の皇子の命が馬並めて御猟立たしし時は来向かふ
ひなみしの-みこのみことの-うまなめて-みかりたたしし-ときはきむかふ

この「時」とは何か。時の世界が、時以前の場から今、生成しつつある。 それは、物が在り、出来事が生起しつつあるということ自体の謎である。 そのことは、はるかな世界運動の無限連関から到来し、今ここに滞留している。

詩人は「古」を思うことから始めたはずである。「古」はどこにあるのか。

――それは今・ここにある。「古」とは本来的に、時間に属するものではなく、 自己と世界の根底の、その底をぶち抜くようにして開かれるある地平にほかならないからだ。

そして、この「古」の到来は、詩の言葉によって切り開かれたのである。

ハイデッガーが「言葉は存在の家」だというのはそうした意味である。 神とともにあり、神そのものであった言葉が受肉したというのも、それと同じことを指す。

つまり、言葉は、言葉以前の「言」としての沈黙の無限性から由来しているのである。

5.流れるものの本質

人麻呂には、このような歌も残されている。

もののふの八十宇治川の網代木(あじろぎ)にいさよふ波の行方知らずも (3-264)
もののふの-やそうぢかはの-あじろぎに-いさよふなみの-ゆくへしらずも

彼はここで、ただ「流れるもの」の本質を思っただけである。

まず言っておきたい――彼は「見た」のである。あるいは、予感したのである。

たいてい出てきそうな解釈は、時のはかなさを嘆いたものだ、というものだろう。 しかしそれは、平凡きわまりない言葉におきかえることでしかないし、「読む」ことではない。

そもそも、「時」について真剣に思索したことのない人が、そういうことを言ってもどうしようもないのである。 隠された連関を読み取らねばならないのだ。 表層の意味を超えて、私たちの意識の深部をうちつづけているものこそ、「詩」の存在理由である。 そのひそかな振動のリズムは、私たちが「意識」と思いなしているレベルをはるかに超えた、 サイコ・ダイビングを行いつつあるのだ。

もののふの八十宇治川の網代木にいさよふ波の行方知らずも
もののふの-やそうぢかはの-あじろぎに-いさよふなみの-ゆくへしらずも

「川」は到来する。そして去る。

「川」の水はどこから発源しているのか。川を詩作することのうちに、 「源泉」がひそかに思念されているのは、当然のことであろう。 過ぎ去るものの無常のみを読むのは、あまりに弱小な感性だと思う。

いさよふ波の行方知らずも
-いさよふなみの-ゆくへしらずも

これを、近代人の抱く「不安」の意識と考えてはいけないのだ。 人麻呂は近代的自我以前の詩人である。

いいかえれば、その意識は、その土台――といっては正確ではないのだが――たる 宇宙そのもの・存在そのものの連関と結びついていたのである。 そうした、私たちが想像もできないような「連続体」からの通信を感じとれるということ、 それが古代のシャーマンであり、その後裔が詩人なのだ。

そうした詩人が「いさよふ波の行方知らずも」という言葉を発した時、彼が打ち当たっていたこととは何だろうか。 ――決して「人間的」な感情だけが問題なのではない。 「人間」を超えた、ある遠大なものの到来へと開かれていることが、 詩作のそしてまた本質的な思索の、条件なのである。

「いさよふ波の行方知らずも」との本質的な関連に立っていると思えるものに、 次の二首がある。

うらさぶる心さまねし久方の天の時雨の流らふ見れば (1-82)
うらさぶる-こころさまねし-ひさかたの-あめのしぐれの-ながれあふみれば
家にてもたゆたふ命波の上に浮きてし居れば奥処(おくが)知らずも (17-3896)
いへにても-たゆたふいのち-なみのうへに-うきてしをれば-おくかしらずも

ここでも、本質的に詩作されているものは、「流れ」である。 その「流れ」に対して、赤裸々に晒し出されていること、それが詩人たちが立つ境位である。 折口信夫は、この二首を万葉の最高峰だと見なしていた。 彼の感性は、ここに何か本質的なものを嗅ぎあてたのである。 私たちが本当にこの二つの歌を万葉の代表作と考えるとき、 万葉そのものへの見方は、大きな転換を余儀なくされるだろう。

「天の時雨」はどこから発源しているのか。それを問うてみること。 そしてまた、「波」はどこから発源しているのか。 ――それは、ある覆蔵されたもの、と言わねばならない。 その覆蔵された諸連関を暗示するのが「奥処」という語である。

「奥処」というのは、もともと「沖」と同根であり、遠く隔たるものを意味する。 入口から、深く入った所――洞穴のイメージである。 そして、それは時間軸にも投射され、「将来」という意味にもなる。 だから、「奥処知らずも」とは、「将来どうなるか、知れないことよ」とも解釈される。 しかし「将来」ということを、直線的な時間軸で表象してはいけない。

「奥処」とは「無限」なのである。有るものの根底にうち開かれる、有るものを有らしめる、限界のなさである。 「将来」も、茫々たる無限のなかにある。そして私たちの出自、発源した場所も、この無限のなかにある(注17)。

詩人はそれを知っている。予感している。一人は「天の時雨の流らふ」のを見る。 この明け広げられた宇宙のなかを運動していく雨粒。それは今、現象として発源し、詩人の実存へ打ち当たっていく。 「うらさぶる」とは、詩人もまた、底の底が抜けていき、有ることの只中へと晒し出されることだ。

近代的な思考は、「有ること」そのものを思索することがない。

それは、「有るもの」を実証的に、「いかに有るか」を問うことに終始する。 それは、アリストテレスから始められた「知」そのものの矮小化の行き着いたところである。 それ以前のギリシア思考は、直接に、「有ること」そのものの謎、 世界そのものの謎に突き当たるものであった。プラトンにさえ、なお、そうした性質は残っている。

もちろん、仏教・道教なども、本来こうした「プラトン以前」の「知」である。 しかしそれはまた、仏陀以前にもあった、およそネイティブな文化がすべてもつ「知」でもあった。 それは、この宇宙の運動のなかで、絶妙のバランスを学ぶ術でもあった。

いさよふ波の行方知らずも
-いさよふなみの-ゆくへしらずも
波の上に浮きてし居れば
-なみのうへに-うきてしをれば-

「行方」「奥処」とはまた、発源した場所でもある。 時間軸を絶対化しないとき、それはともに「無限」にほかならない。 「行方」とは「古」である。万葉に頻出する「古思ほゆ」は、「奥処知らずも」と本質的に同じなのだ。

今かりに、「奥処知らずも」の歌の「現代哲学語訳」を試みると、次のようになる。

―― 「この現象の世界においてつかのま滞留している場所(家)でも、 実存という現象を発源せしめる何か(命)は、固定することなく、流れとしてある。 そういう意識をもつ生命体である「私」は、今、波の上に浮いている――広闊な宇宙の流れ、 有るものの流れの只中に裸形で立っている。 そのときにむしろ、「有」――現象世界が本来的に由来する無限性――は、はじめて到来する。 しかしそれは、認識的に知るということではなく、むしろ「知らぬ」こと、つまり限界のない連関へ、 抗し難く牽引されるというあり方において到来する。 この到来とは、「私」の根底における「無底」の晒し出しにほかならないからだ。」 ――

つまり、「知らぬ」ということは、ヘルメス智的に言えば、 「知っている」あるいは「予感している」ということに等しいのである。

それはすなわち、最も奥にある無限のスペースに突き当たるかどうか、ということである。 「流れ」にあることの自覚は、そうした明け広げられた場を前提にしている。 その場は、きわめて普遍的なものである。もはや「日本」も「アジア」もないのだ。 「日本」の根底たる「原日本」は、同時に「非日本」なのだ。 その場には限界や境界がない。 それはまた、たとえばカスタネダのドン・フアンが見ている場と何の違いもない。

原初のものに打ち当たるということ――私たちが「不安感」と安易に言ってしまうのは、 実はそういうことだ。 これを「故郷喪失」として否定的にとらえるのは、きわめて表層的な読みにすぎない。 真の「帰郷」とは、この限界のない宇宙に投げ出されることにほかならないのだ。 詩人が「古」を思うとき、彼は「古」にすでに打ち当たっている。 「古」は喪失されたことはないのである。 喪失とみえるものは、その覆蔵された関連において、帰郷をも詩作しているのだ。

古のことは知らぬを我見ても久しくなりぬ天の香具山 (7-1096)
いにしへの-ことはしらぬを-われみても-ひさしくなりぬ-あめのかぐやま

これも万葉の傑作の一つだ。 詩人はここで、天の香具山という「山」そのものが「有る」ということに、突き当たっている。 天の香具山――それはもちろん、神話的には宇宙の中心、アクシス・ムンディとされる山である。 この名には、神話が暗示しようとする、はるかな原古の響きがある。 しかし、「古」とは、「有る」ことである。 有るものはどこから来て、どこへ去るのか。そしてそれを見る者はどこから発源しているのか。 そういう根底的な「謎」に打ち当たったのである。

古のことは知らぬを我見ても久しくなりぬ
いにしへの-ことはしらぬを-われみても-ひさしくなりぬ-

詩人は「古のこと」を知らないと言う。彼はそこへ思いをはせている。 しかしそれは知的理解を拒絶している。それは詩作されるほかないのである。 「我見ても久しくなりぬ」。「久し」――それは、直線的な時間の長さを言うのではあるまい。

ここで詩人は、山の発源している「古」と、自己が発源して以来流れた時間を重ね合わせている。 山が有ること、それは流れのようなものとしてある。 香具山は原古に生成し、そして今も生成しつづけているから、そこに有る。香具山はまさに宇宙なのである。 それがあまりにありのままにそこに見えているので、詩人は呆けのようになってしまう。 「久し」――つまり、時間に属していないものが、ここに到来している。

ここでもう一度人麻呂歌集の歌を思い出してみてもいい。

あしひきの山河の瀬の鳴るなべに弓月ヶ岳に雲立ち渡る (7-1088)
あしひきの-やまがはのせの-なるなへに-ゆつきがたけに-くもたちわたる
みけむかふ南淵山の巌にはふりし残雪か消え残りたる (9-1709)
みけむかふ-みなぶちやまの-いはほには-ふりしはだれか-きえのこりたる

「天の香具山」という言葉と同じように、「あしひきの」とか「みけむかふ」という枕詞は、 歌がかつて神の歌であった頃の記憶をとどめるものである。 しかし、神というのは、その本質においては、有ることの輝きに出会うという根本経験を指し示すものだ。 その美しさは、人間に属するものではなく、人間が有ることそのもののうちに由来している。 これが、詩というものの本源的な姿だ。

だから、詩というのは哲学なのだ。 哲学というのは、世界と人間が「有ること」それ自体の不思議へと深く入り込んでいく営み、ということである。 万葉の中には、そうした本来的な詩作の経験が含まれている。 それを救出するためには、詩作のうちに深く隠された連関を読み取るような読み=批評が要求されるのである。

6.ロマン主義の詩人たち

別の言葉で言えば、詩とは世界直観そのものである。 それは講壇哲学のような明確な「論述」というフォルムを有してはいないが、 言葉以前の言葉によって、世界の本質への直観をつたえようとするものなのだ。

近代において、そうした詩の初源的な機能を取り戻そうとしたのが、 ロマン主義とよばれる文学運動に属していた、何人かの詩人たちであった。 たとえば、ブレイク、ワーズワース、シェリー、ネルヴァル、ランボーといった名前が思い浮かぶ。 彼らの提示した問題は未だ解決されていない。

というのは、そこで問題になっているのは、私たち自身の宇宙に対する見方であり、 ひいては私たち人類というものの可能性にほかならないからだ。 彼らは、「近代」という人類史における虚構を捨て、原古の地球の上に立とうとしたのである。 彼らは近代社会のシャーマンとして、「力の場」を呼び出そうとしたのである。

近代科学の支配する社会に住む私たちは、意識するとしないにかかわらず、 デカルト−ニュートン的な唯物的世界観を日常生活のリアリティとして受け入れている。 いわば私たちは、すでに原初の力の場との接触を喪失している立場にある。 私たちにとって、成熟することは喪失することをも意味している。 ワーズワースの詩作のテーマは、まさにそういうことであった。 しかしこれは人類史的に見れば、決して普遍的な現象というわけにはいかないのである。

ネイティブな精神構造が支配する社会、 つまりシャーマンが活躍するような世界、あるいは柳田国男が『遠野物語』で描いたような 世界にあっては、大人になっても、そうした霊的な次元へのコンタクトは失われることがなかった。 それどころか、成年式というイニシエーションにおいて、はじめてその部族などの聖なる秘密が明かされ、 霊的な知識が伝授されるということもあったのである。 ロマン派の詩人の多くの作品、たとえばコールリッジやノヴァーリスなどの作品において、 イニシエーションというテーマが登場してくるのは、 近代において「聖」の次元を取り戻すための文学的な必然だった。(注18)

ここで、ごく簡単ではあるが、英語で書いたロマン主義詩人からワーズワースとシェリーの詩をとりあげ、 これまで万葉について見てきたような「本源的な読み方」を応用し、 現代の私たちにとってそれが持つ意味を考えてみたいと思う。

これまでロマン派の文学は、「想像力」という問題として論じられることが多かった。 その中でも代表的な学者・批評家が、ノースロップ・フライという人である。 彼はブレイク研究から始めた人である。 彼は、想像力によって宇宙とのアイデンティティを達成するということが、 ロマン派文学の本質であり、またひいては文学そのものの本質ではないか、と言った。 つまり、想像力によって、「原初の楽園の回復」をもたらすことが その目標であったというのである(注19)。

これはかなりことの本質に迫っているとは思う。 しかし彼はブレイクから出発しているために、想像力というものを、 あくまで人間の内部からイメージを作り出していく働きとして捉えているところがあるように思う。 ブレイクというのは周知のように、ある意味では奇怪な強烈なイメージを次々と作り出して、 予言書というものを作った人である。 しかしこういう意味での想像力は、ワーズワースに対しては、半分しか当てはまらないのである。

というのは、ワーズワースにとっては、想像力はまた自然に内在しているものだからである。 自然、あるいは宇宙には、次々と新しい形態を生み出しつづける根源的な生産力が働いていて、 人間の想像力はその一部に過ぎないのである。

想像力とは、基本的には、宇宙の属性なのである。 逆を言えば、人間はその想像力を十全に働かせることによって、 宇宙に内在する根源的な創造の力に参与することができる。 そのとき人間は、宇宙を貫く大きな力の一部となる――ワーズワースは、そのように考えるのである。 フライの論には、なお人間中心的な限界があるということができる。

さて、ワーズワースの "Tintern Abbey"(注20)と呼ばれている詩から一つ引用してみよう。

And I have felt
A presence that disturbs me with the joy
Of elevated thoughts; a sense of sublime
Of something far more deeply interfused,
Whose dwelling is the light of setting suns,
And the round ocean and the living air,
And the blue sky, and in the mind of man:
A motion and a spirit, that impels
All thinking things, all objects of all thought,
And rolls through all things. ――(ll. 93-102)
そして私は 高められた思いの喜びで私を突き動かす ある気配を感じた
はるかに深く畳み込まれた何ものかの持つ 崇高なものの感覚を
その住処は 没していく太陽の光であり
丸い海原であり 生きている大気であり
青空であり 人の心なのだ
動きと魂――それはすべての考えるもの 考えられるものを生み出しつつ
万物をつらぬいて循環している

"presence"というのはワーズワースにとって重要な言葉である。 これは日本語でいえば、「気配」のようなものである。 はっきりとした形を現してはいないが、何物かがそこにたしかに存在している。 つまり、眼には見えないある現実の存在が予感される、ということだと思う。 これはまさに、万葉で見た「カミ」との出会いという感覚と、きわめて近いものがある。 見えざる次元からある存在の力が発せられ、それに出会った人間は、 その目に見えない場所に、なにものかを感知する。

"a sense of sublime of something far more deeply interfused"――これは核心に触れる言葉である。 私は、この interfused という言葉を、「畳み込まれている」と訳してみたい。 つまり、「はるかに深く畳み込まれた何ものかの持つ、崇高なものの感覚」ということになる。 「その住処は、没していく太陽の光であり、丸い海原であり、 生きている大気であり、青空であり、人の心である」――人間の心というものも、自然のなかに畳み込まれている。 あらゆるものが無限に畳み込まれているのがこの宇宙であり、人はそのことを「気配」として予感するのである。

A motion and a spirit とあるが、これは結局同じものではないかと思う。 それは、"rolls through all things"とあるように、宇宙を貫いて流れている、ある一つの力なのである。

impel という動詞はもともと「押し出す」という意味で、つまりそうした大きな動きが、 「思うこと」も、そして「思われるもの」も、その双方を生み出しているというのである。 ワーズワースは、主体と客体の双方が存在する条件そのものに思いを致しているのである。 その両者とも、もっとはるかに大きい、無限に畳み込まれた「場」から生み出されているのである。 詩人は、そうした広大な宇宙連関の交差する地点に立っている。

今度は、"Prelude" という長編の詩から引用してみる。

There I beheld the emblem of a mind
That feeds upon infinity, that broods
Over the dark abyss, intent to hear
Its voices issuing forth to silent light
In one continuous stream; ――(Vol.XIV 70-74)
そこで私は 無限を糧とする精神の徴を見た
それは暗い淵にかがみこんでいるのだ
さまざまな声が一つの絶えざる流れとなって
静かな光のなかへ発現してくるのに
耳をすませて

ここでははっきりと infinity 「無限」という言葉が出てくる。 そして、淵からの声に耳を澄ませるというのは、「存在」が生まれてくる瞬間に立ち会うということなのである。 絶えることのない流れ (continuous stream) として、暗い淵から明るみへともたらされているということ、 そしてその声を聞くというのは、まさにハイデッガー的なテーマそのものである。

さきほどの "Tintern Abbey" からもう一箇所引用してみよう。

While with an eye made quiet by the power
Of harmony, and the deep power of joy,
We see into the life of things. ――(ll. 47-49)
調和の力 そして喜びの深い力によって
私たちの眼は静かなものとなり
ものの生命のなかへと 入っていくのだ

ここでは同じものが「力」として捉えられている。 宇宙は動的な均衡を保ちつつ無限に多様な生成を続けているが、それは「力」によって満たされている。 一つの力が見えない宇宙を貫いていて、それは深い場所からわきおこる「喜び」として経験される。 私たちの目がそういう力を捉えるとき、私たちは the life of things 「ものの生命」そのものを見ることができる。 「ものの生命」とは、カントが「物自体」と呼んだような、ものの存在の根抵であり、不可視の次元である。

ここでドン・フアンの言葉を思い出そう。そのポイントとなるのは、次の二点である。

つまり、詩のもたらす一種の微妙な感覚――あるいは、「霊的な気分」と言うべきであろうか――によって、 「とぎすまされた美への感受性」が生まれるが、それこそが、 宇宙の不可視の次元を絶えず流れているエネルギーを私たちが認識しはじめる端緒であるということである。 西脇順三郎は、「壤歌 II」の中で、こう書いている――

天体的意識が脳髄という断崖の中に
露出するとき美という
えたいの知れないエレクトロンの
光が一瞬出るのだろう

「天体的意識」、あるいは「天使的意識」が来訪する。これが「美の一撃」である。 詩人はそれを「霊感」として捉える。 これはいわば高次の意識なのであるが、それはエネルギーというアスペクトを持っている。 つまり、力、エネルギーの流れというのは、意識の流れでもある。 それが、宮澤賢治のいう「かんがへ」の、深遠な意味である。 量子的なリアリティが、「粒子」であり、かつ「波動」でもあると言われるように、 このエネルギーも、同時に力であり、そして意識なのである。

こうした「力」に対する微細な感覚は、シェリーの詩にもはっきりと現れている。

彼の「精神の美への讃歌」"Hymn to Intellectual Beauty" の一節である(注21)。

The awful shadow of some unseen Power
Floats though unseen among us ―― visiting
This various world with as inconstant wing
As summer winds that creep from flower to flower ――(ll. 1-4 )
ある見えない「力」のひそかな影が
見えないまま 私たちの間を流れている
それは 気まぐれな羽を持つかのように この多様な世界を訪れる
花から花へとひそかに動く 夏の風のように

目には見えないが、根源的なある力が宇宙を貫いて流れている、ということは、 シェリーにとっても確信であった。 この力は、宇宙の深部から発現し、私たちの宇宙の中へ流れ込んでいる。 私たちはその力そのものを見ることはできず、その「影」を、 その力の流れの痕跡を感じることができるのみである。

それは「多」であるところの現実世界を投射しているある光源の影なのである (ここにシェリーのプラトン的テーマ――「洞窟」のメタファーがあるのだが)。 ここで、「風」というメタファーにも注目した。 家持の「いささ群竹吹く風の」の歌にも、「風」が霊的な presence の感覚を暗喩していた。 ギリシャ語では「風」と「霊」とは "pneuma" という同じ単語で表されていた。

つぎの詩句、"Mont Blanc" の冒頭部は、シェリーの世界直観をはっきりと示している。

The everlasting universe of things
Flows through the mind, and rolls its rapid waves,
Now dark ―― now glittering ―― now reflecting gloom ――
Now lending splendor, where from secret springs
The source of human thought its tribute brings
Of waters ――(ll. 1-6)
滅ぶことのない万物の宇宙は
心をつらぬいて流れ その速い波を巻き上げる
ときには暗く――ときには輝き――ときには闇を映し
ときには荘厳に……その秘密の水源から
人間の思想の根源は
水という贈り物を持ち来たる(注22)

宇宙そのものが、大きなエネルギーの流れる場である。 そして、こうした広闊な広がりが the mind と言われていることも注目される。

そして、人間の「考え」――宮沢賢治の「林と思想」を想起されたい――もまた、この secret springs に由来している。 ここでも、人間の精神と宇宙が分離していない。 それは、ひとつの大きな流れの中に、渾然一体となっているのである。 ここでは、宇宙と人間(そしてその精神も)は分離不可能であり、 ともに巨大なバイオコスミックな運動体を形づくっている。

いわば一つの生き物のごときものである。 こうした見方は、biopoetic とも呼ぶことができよう。 これはゲーリー・スナイダーの言葉である(注23)。

彼は言っている―― "We have the biopoetic beginning of a new level of world poetry and myth."

詩というものは、人間のものでもなく、また純粋精神のようなものでもなく、 渾然としたエネルギーの渦の中から生まれてくるものなのだ。

シェリーはまたこうも言う―― "The secret Strength of things / Which governs thought" (ll. 139-140)

この言葉も、同様の直観に由来するものである。

この詩は、アルヴの峡谷 Ravine of Arve からモンブランを仰ぎ見つつ、 宇宙的瞑想にふけるという内容である。その光景を詩人はこう描写する。

Thus thou, Ravine of Arve ―― dark, deep Ravine ――
Thou many-colored, many-voiced vale,
Over whose pines, and crags, and caverns sail
Fast cloud-shadows and sunbeams: awful scene,
Where Power in likeness of the Arve comes down
From the ice-gulfs that gird his secret throne,
Bursting through these dark mountains like the flame
Of lightning through the tempest; ――(ll. 12-19)
だからおまえ、アルヴの峡谷よ、暗く、深い峡谷よ
その多くの色をもち、多くの声をもつ谷よ
その松、岩山、そして洞穴の上を
雲の影、日の影ははすばやく流れる 畏るべき光景
「力」はアルヴの似姿となって降下し
その秘密の王座を囲繞する氷の淵から
この暗い山々を貫いて奔出する
嵐を貫く稲妻の炎のように

ここでは、存在の力は烈しい。それは稲妻の炎の如く、詩人を貫くのである。 彼は、峡谷の風景の背後に、巨大な力の場を実感している。 その激烈なものは、雷のごとく襲いかかる。それは、神の力そのものだ。

Thou art pervaded with that ceaseless motion,
Thou art the path of that unresting sound ――(ll. 32-33)
おまえは動きに満たされ止まることはない
おまえはあの休みなき音の通る道だ

そこは、絶えざる動き、そして音に満ちている。ここは「宇宙生成」の現場なのだ。 生成の力があらわに噴出している場所、それがこのアルヴの峡谷なのだ。 それにしてもこの「音」とは何か。 それは、宇宙の始源から発せられるエネルギーの振動なのだ。 それは、マントラともいえる。空海の「五大に響きあり」という言葉が想起される。

ここではごく一端をのぞいたにすぎないが、"Mont Blanc" という詩は、本質的に、 「有るもの」そのものが到来するという、炸裂の瞬間をとらえた詩作行為なのである。 その存在裂開の激しさは、宗教体験ともあい通ずるものがあるといえよう。 こうした烈しさは、日本の詩の伝統においては、人麻呂のある歌などを除けば例外的だが、 こうした「力」の体験の一つのアスペクトとして厳然として存在しているものだ。

さて、今度は "Adonais" という詩の一節を見てみよう。 これは同じロマン派詩人で彼の友人であったキーツの死を悼んで書かれたものである。 しかし通常の挽歌の形式を踏み出していき、死とは宇宙に帰ることであって、 むしろ生という夢からの目覚めなのだ、と歌っている詩である。これはその第42節の一部である。

He is a presence to be felt and known
In darkness and in light, from herb and stone,
Spreading itself where'er that Power may move
Which has withdrawn his being to its own;
Which wields the world with never-wearied love,
Sustains it from beneath, and kindles it above. ――(XLII 373-378)
彼はひとつの気配だ 闇にそして光に
草から石までも 感じられ知られるのだ
それはあの「力」が動くところ どこにでも拡がっている
「力」は彼の存在を自己の領域に引き戻した
「力」は尽きることのない愛で世界を支配し
下から支え 上から火をつけるのだ

ここで死者は、大きな力の流れに同化し、 ひとつの「気配」として感じとられるものになったのである。

presence というのは、そこにおいて、普通は閉ざされている、 ある無限の畳み込まれの世界が開かれている、という感覚なのである。 それは無限性との接触にほかならず、 いかなる「地平」にも属することのない場所へと精神が畳み込まれていくという、 全面的な開放の世界なのである。 それは根源的な「力」によって成り立っているが、 この「力」は伝統的なキリスト教が言うような「神」ではない。 他のところでシェリーも歌っているように、 それは宇宙の巨大な運動に付けられた一つの名である。ここでシェリーが詩作しているのは、

という直観である。Power とは、別の言葉で言えば「宇宙エネルギー」であり、霊的な力である。

この力については、東洋の霊的伝統は、すでに熟知していた。 中国・インドの伝統思想においては、宇宙の根源は純粋な霊的エネルギーであることは、 自明の前提とされていたのである。 こうした東洋の霊的伝統の究極的な目的は、この宇宙エネルギーそのものと一体となって、 「宇宙意識」に達することにある。 それが、ドン・フアンの言う「知の道」なのであろう。 詩人はこの知の道そのものには属していない。彼にできるのは、「予感」することだけである。 この力の本質、その広がりを完全に理解することは、 そうした霊的修業の道を極めた人々にのみに許されているのだ。

あるいは、別の見方をすれば、先に見た万葉の歌に見られる世界感覚も、 そのような霊的な道とつながりのあるものとして捉えていく見方というものも必要であろう。 古代人の詩的直観はいまだ「憧れ」にとどまっていた。 しかしそれは、より大きな道、すなわち人類の意識の進化という道の出発を暗示するものだったのである。

万葉になく、シェリーにあったものはといえば、それはこの「意識の進化」のヴィジョンである。

それは、"Prometheus Unbound" によって実現されている。

あるいはここで、先ほどのシェリーの "never-wearied love" という詩句を思い出しつつ、 ノヴァーリスの言葉を引用してもいいであろう。――「愛は、世界史の最後の目的である。」

力、エネルギー、天体的意識、宇宙意識……言葉はさまざまに言われるが、 これはいずれもある一つの世界直観を表している。 深い深い夢が私たちをみている。私たちの真の故郷は、このドリームタイムなのだ。 このような存在次元を自らの宇宙観に取り込み、 この広漠とした時空間における自分の場所を熟考することなしに、 本質的な詩作の業には、一歩たりとも近づくことはできない。 この文章における私の主張は、つまるところ、それに尽きるのである。

沈黙から到来して沈黙へ去っていく言葉。その言葉は「今・ここ」に有る。 その沈黙は「古」のものであり、同時に「今・ここ」に宇宙いっぱいに拡がっている。 この列島にも古から存在していた、「自然」の深さへの直観。

Seer of the Silence ――

本質的な詩作のうちに深く覆蔵されているもの――それを理解するために、 私たちは、宇宙の純粋な運動の場に晒し出されるべく、身を押し出していかねばならない。 常にプロセスのうちにある、生成の純粋さとして世界が現成していることへの予感。

実は、生成こそが原・言葉なのだ。

世界は言葉として生み出されている、と空海は直観した。 それは、密教の語彙を借りつつ、この列島にも存在していた根本直観を語ったものであった。

宇宙は無始無終の連関として存在し、不可思議な律動をつづけている。

そこから立ち起こる生成への意志、それがロゴスなのだ。 それは初めから、宇宙全体に散布されているものなのだ。 そうしたロゴスに打ち当てられ、人間が聞きうる言葉となったとき――その時に詩が生まれる。

The End


『NID論集』1号 1995年

「「無限」の詩学」への注

    1. たとえば、F・カプラ『タオ自然学』(工作舎 一九七九年)や、 D・ボーム『全体性と内蔵秩序』(青土社 一九八六年)その他を参照されたい。
    2. Carlos Castaneda, The Power of Silence, Simon & Schuster, 1987, p. 130.
    3. Ibid., p. 131.
    4. Chogyam Trungpa, Shambhala: The Sacred Path of the Warrior, Shambhala Publications, 1984, p. 45-46.
    5. ハインリッヒ・ロムバッハ『世界と反世界』(リブロポート 一九八七年)
    6. グレゴリー・ベイトソン『精神と自然』(思索社 一九八二年)
    7. ジャック・デリダ『グラマトロジーについて』上下(現代思潮社 一九八五年)
    8. Holger Kalweit, Dreamtime and Inner Space, Shambhala Publications, 1988, p. 144.
    9. Ibid., p. 145.
    10. この歌は、Ibid., p. 147-148 より引用した。
    11. スーフィズム(イスラムの神秘主義)においては、古くからこの中間領域を alam al-mital として、 その精神地図に組み込んでいた。 これについては、井筒俊彦『イスラーム哲学の原像』(岩波新書 一九八〇年)に明快な解説がある。
    12. ベイトソン前掲書を参照
    13. この問題については、拙稿「他界から見た古代詩と天皇制――折口信夫の一論文を媒介として――」 (『日本文学』一九八九年一月号)で詳しく論じている。
    14. たとえば、古橋信孝『古代和歌の発生』(東京大学出版会 一九八八年)を見よ。
    15. これについては、ミルチャ・エリアーデ『永遠回帰の神話』(未来社 一九六三年)に詳しい。
    16. オイゲン・フィンク『遊び――世界の象徴として』(せりか書房 一九八五年)
    17. 拙稿「古代の詩と世界の謎――万葉集巻一七−三八九六の歌を中心に――」 (『比較文学・文化論集』七号 一九八九年一二月)
    18. 物語というジャンルにおいて、イニシエーションという構造は「元型的」な性質をもち、 きわめて普遍的な形態だということができる。しかしこれについては、この文章のテーマを超えるので、改めて論じたい
    19. ノースロップ・フライ『批評の解剖』(法政大学出版局 一九八〇年)
    20. 正確には、 "Lines Composed a Few Miles Above Tintern Abbey On Revisiting the Banks of the Wye During a Tour. July 13, 1798" という題名である。
    21. ここでお断りしておくが、ここでいう intellectual というのは十八世紀的な意味で、 「感覚の背後にある」という意味になる。つまりこの intellect というのは、 古代の「ヌース」に近い意味内容をもっている。
    22. なお、訳は可能な解釈の一つを示すにすぎない。他の訳し方がありうることは当然である。 このことは、以下の訳すべてにいえることである。詩の訳というのは本来そういうものである。
    23. Gary Snyder, Real Work: Interviews and Talks, New Directions, 1980.

§総目次§
物語ノ岸辺物語ノ本流物語ノ時空物語ノ拾遺