深森の帝國§総目次 §物語ノ拾遺書庫ノ目録(物語ノ拾遺・隔離版) 〉合戦の文化史

『合戦の文化史』――日本の軍事史についての概略

読書ノート:『合戦の文化史』二木謙一、講談社学術文庫2007

本書の内容は、日本の古代から明治までの軍事史である。 元は連載シリーズとして執筆されていたものという事で、取っ付き易い構成である。 『合戦の文化史』が描くところの、日本の軍事史を簡単に紹介:

古代から中世まで

縄文から弥生の移行期に、大陸から、鉄と銅が同時にもたらされた。 (したがって日本は、はっきりとした青銅器時代を持たない。 石器・土器時代からいきなり、鉄時代にシフトしたのだ。)

弥生の倭国大乱を通じて、鉄と銅との使い分けが急速に進み、 鉄製の兵器が発達する。

白村江の敗戦の後、亡国の危機の中で大化の改新、および軍制改革が進む。 律令制度と共に唐の軍制を輸入し、防人(さきもり)などによる朝廷軍が組織されたのはこの頃であったが、 平安時代に至って儀礼化・形骸化を起こし、 坂東における騎馬武者の台頭が進んだ。

蝦夷との戦争のため、健児(こんでい)などの軍事制度改革もあったが、 期待するほどの効果は無かったようである。初期の坂東武者は、 蝦夷戦争の人員としての消耗品であった。

日本刀の反りが生まれたのは騎馬武者の台頭とほぼ時を同じくするが、 当時の武器は、騎馬戦に有利である弓矢が主力兵器であった。

特に中世の合戦においては騎馬戦が主流であり、直刀の場合は衝撃と抵抗が大き過ぎたそうである。 深い反りを持つ刀の方が、一騎打ちなど、高速ですれ違いざまに斬るときに効果的であり、 ペルシアの湾曲刀なみに深く反った刀もあったようだ。

室町時代から戦国時代にかけて、徒歩白兵戦が広がる。 主力武器は槍にシフトした。

しかし、信長の頃から急速に鉄砲戦にシフトし、 鎧の西洋化・堅牢化が進む。 西洋風の鎧は見た目が質素であったためか、兜装飾の奇抜化が進んでいる。 また、騎馬戦から徒歩戦へのシフトに伴って、日本刀の反りは浅くなった。

近世から幕末まで

江戸幕府が成立すると実戦的な武術は衰え、 教養・技術研究としての武芸が残る。 しかし、幕末の危機を目前にして、再び実戦的な武術が復活した。 それと共に西洋軍事・海防の研究が拡大し、幕末の軍事改革が起きた。

特に長崎に近い西南の雄藩で軍事の進歩が著しく、 洋銃(ライフル)、西洋大砲、水雷、三本マスト軍艦などの生産もここから始まる。 (最先端の製鉄所があった場所でもある)

明治維新政府の軍事改革は、近代徴兵制度と廃藩置県(藩の兵力を滅する)にあった。 これが効果的なものであったことは、西南戦争に代表される士族の反乱を、 徴兵による政府軍が鎮圧したという事実に現れている。 こうして、坂東武者以来の武士の時代は、終焉したのである。

特に、戦国時代に広がった葬礼・供養の発達や、首実検のしきたりの解説がすぐれている。 武士社会、すなわち「武家のしきたり社会」における法治要素の発達――という 側面を捉えたところは、秀逸であった。詳しくは本書を読まれたい。

日本文明の変容性という視点において、特に深く興味を引かれたくだりがあったので、 ここに引用する:

・・・ポルトガル人によって、種子島に鉄砲が伝えられた・・・(中略)・・・が、 それ以前にすでに中国には鋳銅製の手銃があったし、 南蛮人も来ていたから、鉄砲について(秀吉の朝鮮出兵当時の) 朝鮮や明軍が無知であったとは思えない。大砲さえもっていた大陸軍である。
しかし日本の戦国大名らは、またたく間に鉄砲と火薬の製法を学んで、 新兵器として活用することに成功したのである。(142頁)
・・・幕末の軍事改革と明治以後の日本軍国主義とを同一に論じることは誤りである。 欧米文化の同化・咀嚼というが、これを摂取しうる体質こそ問題とすべきであろう。 体質に合わない食物は、栄養として吸収されないのだ。 (241頁)・・・

上代の先人の金属技術への素早い適応と言い、戦国時代、幕末の跳躍ぶりと言い、 簡単に説明できない事象ばかりである。 特にアジア圏において、わが国が突出した事象に示唆的なものがあると思われる。

》付記――陽明学について

わが国における奇妙な突出の例として、中国と朝鮮では廃れてしまった陽明学が、 わが国においてはなお伏流している(らしい)、という現象を挙げたい。

この陽明学は、幕末の尊皇攘夷運動を支える主要な思想潮流となっていた。 陽明学は「知行合一」を重要視しており、激烈なる行動派・戦闘派といえる思想である。 実際、大塩平八郎の乱など、反体制かつ革命志向のある事象を、多く生み出している。 (もっとも、創始者・王陽明は、このような活用のされ方は想定外であったろうが。)

なお、この陽明学を学んだ近・現代人に、東郷平八郎・安岡正篤・三島由紀夫などが居る。 まさしく、この陽明学は、幕末〜現代に至るまで、日本政治と共にあったのだ。

ちなみに、安岡氏が「平成」の元号を考案した人物だ、という話がある。 この安岡氏を師匠として仰いだ多くの政治家の中に、福田赳夫氏が居た。

北京五輪の時期に首相であった福田康夫氏は、福田赳夫氏の子息である。 この穏やかならざるファクターが、将来にどう響いてくるのか――未知数ではあるが、 なみならぬ因縁を感ずるものであった。


§総目次§
物語ノ岸辺物語ノ本流物語ノ時空物語ノ拾遺