深森の帝國§総目次 §物語ノ拾遺書庫ノ目録(物語ノ拾遺・隔離版) 〉『マルローとの対話』

『マルローとの対話』

第一の対話

レンブラントの影のほうは、これは、絶対に根本問題ともいうべきものです!
……何の影であると説明のつくものではありません。…むしろ、色彩の如きものです。 レンブラントこそは、影というものを、なにかしら絶対的に抽象的な、 いわば自由な(disponible)何物かとしてもちいた、 世界中でただひとりの画家であるということです。……この影はレオナルドで始まり、 クールベをもって終わっています。マネで終わったと言ってもいいでしょう……

私の目からすれば、(この影は)日本の水墨画における霧と同じようなものです……それは、 ある種の宇宙的力、もしくは宇宙との絆ともいうべきものでした……

写実主義(レアリスム)はかつていかなる意義をも持ったことがなく、絵画の世界は、 1550年から1600年を経て、《非現実的なるもの》の世界であったと私は考えています。 かつてサクレの世界がサクレ(聖なるもの=例:イコン的世界)の創造であったごとく、 非現実世界は非現実的なるもの(例:シェイクスピア的世界)の創造であった、と。■

日本とは、日本それ自体の国(un pays en soi)であって、 そっくりそれを受け入れるか拒否するか以外にありえない。

……「中国の薄浮彫(ルリエフ)とは何か?」と問われれば、誰でも直ちに、 雲南、竜門と、名を挙げる事が出来ます。「日本の薄浮彫(ルリエフ)とは何か?」と訊かれたら、 誰一人として! これは非常に興味深い事柄なのです。実に象徴的……日本芸術、日本的天才には、 薄浮彫(ルリエフ)がない。……日本彫刻は世界最大のものでありながら……薄浮彫は日本とは完全に無縁なのです。 ――われわれにとってラヴィ(水墨画)が無縁であるように。■

第二の対話

《天啓の文明》と《内的開悟の文明》は、いかなる点において対立しうるものであるのか……答えは容易ではありませんよ。 《天啓の諸文明》は一大絵巻になります……ユーフラテス、ナイル、キリスト教…といった具合にね。

一方、東洋の諸文明となると、これはたしかに同性質のものではありません……西洋と我々は言いますが、 古代アジア(ここでは、オリエントの意)においては、宗教は天啓であったのです……

……西欧と日本の根本的相違とは、西欧の偉大な精神的時代はすべて《人間》を何よりも信じてきたのにひきかえ、 日本では、はるかに《世界》を信じてきたという点にあります。 そこでは肖像画は重要ではなく、といって風景画も重要ではない。 日本美術は宇宙的神性(le divin cosmique)といったものと結びついているのであって、 この点では西洋美術は到底これに及ぶものではありません……■

第三の対話

……英雄的日本は、不可避的に現れてくるだろう。 一個の国なるものは、その魂の上に横たわっているのだから……
一個の国民は、その存立が危うくなるや、 いやおうなく自らの最も深い魂の上に生まれ変わると、私は信じている……

……ところで、現下の日本は、かつて遭遇した事のない最悪の状況に置かれている。 それというのも、第二次世界大戦の結果、貴国は、 どうみてもアブノーマル(非道・デレゾナーブルなもの)としかみえない生存条件の中で、 世界最強の国の一つになってきたからなのだ。いつまでもこんな事が続いていいはずが無い。

日本、偉大なる日本とは、連綿たる一個の超越性(トランサンダンス)である。

神道の超越性とは、そのフォルムを変えることなく、 しかも絶えずそれを新たにする力強さを持った唯一の超越性であると言うことが出来る。 (※伊勢の式年遷宮にからめて。)■

アマテラスの道

『那智滝図』 ―― このような《精神化》は西欧には無い。 ビザンティン絵画の《金色背景フォン・ドール》も荘厳の役割を持ってはいるが、その意義は、 これとは別物だ。この飛瀑図は、至高の記号(シーニュ)であり、 カリグラフィーである……月は、滝の、まぶしい可逆的(裏返し的)表現(※)となっている。
(※) ―― 「山中とは世界裏の華開なり」(道元・正法眼蔵;山水経、青山運歩のくだり)

図版『那智瀧図』/(財)根津美術館所蔵
那智瀧図
根津美術館のサイトより引用

……いっさいは記号である。記号から表象された物自体へ向かう事は、世界を極める事であり、 神へと向かう事である。死が近づけば、おそらく(……)自分の描くいっさいのフォルムは 理解しやすい記号となり、それが意味しているもの ―― と同時に、それが隠秘しているもの ―― は、 外に顕われてくる。

……真の日本人こそ、真の国際人である。……

日本的サクレ(神性)は、おそらく白昼の陽炎(※)の萌え立つ姿と見て大過あるまい。
(※) ―― 禅において「サクレ(聖なるもの)」に相当すると解釈される《玄妙》の「玄」は、陽炎の意。

/那智滝にて ――
これは、アマテラスだ……

[※]――滝は、あの滝は、太陽のサクレ(聖なるもの)であると言ってはいけなかろうか。 見たところ、那智の滝は落下している。だがイマージュとしては、同時に上昇してもいるのだ! その点、これらの杉の大木と意味は少しも変わらない。
(※)――この部分は『マルローとの対話』ではなく、 『いのちとかたち ―― 日本美の源を探る』山本健吉著から取材。

/伊勢神宮にて ――
神寂びた杉の巨木は、大地からまっすぐに突き立っている。
なによりも武士道に現れた、 これは日本文明の中の《垂直軸 la verticale》なのだ……伊勢とアインシュタインの相対論的宇宙とは、 収斂する……あの樹々も生き、滝も生きている。 このような垂直的上昇が日本的感受性のなかでどれほど深く生き続けている事か、 その重要性はまことに想像にあまりある……あそこに《永遠なるもの》の祖型が、 遷宮という仮象を徹(とお)して千古なお生き続けている。■

第四の対話

日本には、フォーカス(焦点)なるものは存在しない。 焦点を持とうとしないのだ。……「過ぎ行く事物の空間」はいっさいの焦点的要素の破壊を意味している。 (※水墨画の中では、例えば遠近法立方体などのオブジェ構造が成り立たない。)

ヨーロッパ精神とは遠近法だが、日本精神とは河流である。 しかも河流の精神に息づいているものは、不動ならざる何物かで、 生きているものである。……自然的要素(エレマン)が日本的天才の感受性の中で生きているということは、 この上なく深遠な事柄というべきだろう。 日本という国は、無生物というものを受け入れる事が出来ない。……日本の大画家にして そのような静物(オブジェ)を描いた人がいたなんて考えられますまい。

なぜ日本には薄浮彫(バ・ルリエフ)が無いのか ―― これは途方も無い現象と言わなければならない。 世界中どこにも薄浮彫(ルリエフ)がある。インド、中国、エスキモー、プレコロンビア(マヤ文明)など、 みな高浮彫(オー・ルリエフ)文明だ……

……背景を持ったヴォリュームというのは非常に重要なもので、 だからこそ全人類は挙げてこれを追求してきたのだったが、 ひとり日本だけは、決してこれを持とうとしなかった。ここにこそ、 量りがたく重要な問題が秘められていると言わなければならない……

一つの考えは、日本には、まだ定義する事の出来ない諸々のフォルムがあって、 定義こそ出来ないが、その輪郭をかなり はっきりとつかむ事が出来るものである……(例えば、国際生け花は丸いが、 日本生け花は背景軸を前提に音階的フォルムをとる)

もう一つの考えはこうだ。日本は、決して固着した壁を持つことを欲しなかった。 日本はつねに、開かれた空想の壁と共に花々を持つことを欲したのだ。■

第五の対話

平和とは、つねに戦いをこころみることによって勝ちとるものなり。

世界には、ノーマルな(=健康的な)平和状態なるものは存在しない。 世界は歴史的にそのように形成されてきた。……健康がノーマルな状態であり、 病気がアブノーマルな状態であることは、それはそのとおりに違いないが、 歴史の深層においては、紛争のほうこそ実はノーマルな状態だったと言わなければならない。

平和的に紛争を解決する事のほうが、むしろ例外的なことだったのだ。 要するに、人類世界において平和の時代は比較的微々たるものに過ぎなかったと見て差し支えない。■

第六の対話

……絵画と日本との関係は、言葉の語源的意味において常に「エッセンシャルな」形而上学的関係だった。 そしてこの《エッセンス》は、詩をとおして、絵画、音楽をとおして顕在化され、 しかもどんなときにもエッセンスが顕われてきたのだ。 これに反して西欧では、ある時期からエッセンスは消え、オブジェが残った。 両者間のずれは絶大というほかはない。

……日本は《はかなさ》(l'instable)と戯れる。そしてこの観点からすれば、 俳句こそは絶対の位置を占めるものだ。エッセンス(本質)と瞬間に対する、このかぎりなく鋭い感覚!■

……もはや伝統を失ったときに、一個の歴史を持つにいたったのだ。 ……伝統から見れば、歴史なんてものはエキゾチックな飾り花に過ぎない。 歴史々々と祀り上げてはなるまい。

大事な事は、奈良時代にかくかくの身振りをしたなら、 現在でもそのようにしなければならないということだ。所作は時間よりも尚(たっと)し、だよ。 いや、歴史よりも尚(たっと)し、というべきかな。……絶対的なものであるといってもよい。

……日本は、西洋文化の渡来以前には、一度たりとも歴史なるものを持ったためしは無かった。 歴史という慣習は、全くヨーロッパ的な概念に過ぎないのだ。……真実の歴史とは、 何かといえば……「歴史生物物理学」といえば、トータルだろうか。■

われわれの時代の科学と宗教の関係について ――

まず、科学は今、途方も無い変貌を遂げつつある。……科学が深まれば深まるほど、 我々は解答を求めて、ますます疑問に向かって進んでいくということなのだよ。

つぎに、宗教的感情についてだが、なるほど、今日、それの再現するさまをあからさまに目の当たりにしている。 ただね、それが如何なるフォルムを取るかという点については、何も分かってはいないのだ。 既成の宗教が生まれ変わったものかどうか、ここのところがちっとも明らかでは無いんだから。 あるいは、ひょっとすると、われわれが夢にも思っていないような何かなのかも知れない……

「インターナショナリズム」などといった概念は、マルクス主義的だろうと資本主義的だろうと、 完全な妄想(シメール)に過ぎないというのが私の考えだよ。ぺてんだよ、そんなものは! 最高権力を握った連中が顔にくっつける覆面、マスクといったところだよ。 ……君達が生きているこの世界は、列強角逐の原野と化しているのだ。 ……決定的事実は、《脅威・ムナス》(※)の一事にあり、なのだ。
(※) ―― ここでの《脅威》は、原爆の脅威のこと。

原子力問題にまったく特有な現象とは、連鎖反応の増殖である……原爆の発明は、 それを限定するうえに成り立ってはいる。 だが、限定しきれないとすると……起こりうる現象は、数学的に《∞》の記号でしか表せない「何か」になる。 原子力の問題とは、50×50の問題では無く、50×《Ω》……、つまり、オメガ(窮極)の問題なのだ。 ……極小世界においては癌があり、 極大世界においてはいま話した部分がある……両極端に《未知数》ありだ……何ゆえ癌が癌であるかも 知らないのだからね。作用の仕方については分かっているというのに――■

人類は、十九世紀まではいっさいを点として考えてきた。細胞というものがある、 細胞の中には分子、分子の中には原子がある、というふうに。 ところが、波動物理学のときからこれは論破されるにいたった。

……現代物理学は、一個の点とは不定形にしてかつ一瞬間の波動なりと仮定している。 点から波動への、この移行こそ、現代思想の最重要の事柄と称してはばかりあるまい。 なにしろ、全物理学がそこに依拠しているんだからね。

だが、もうひとつ見逃しえない事がある……一切の学問が、 その基礎の上に矛盾した与件を持つにいたったということだよ。 ……ある要素が、同時に一個の点であって点でないなんて事は、 とうてい認めがたい論理なんだからね。

……電波をキャッチしようとする巨大ステーションにとって、問題は、 いかにある波動をつかむかという事ではない。……どうしたら他の波動と切り離せるかの問題なのだ。 何故なら、実際にはパラボラは、いっぺんに千もの電波をもたらしているんだからね。 連続的波動の宇宙の中に、自分達が置かれているという事実がある。……であるからして、 「ウィルスとは病的波動である」と答えても、 それはあながち愚の骨頂ということにもならないのではないか。■

第七の対話

三島(由紀夫)のことは別の目で見ることも出来ると私は考えている。 しかも、こういったことは稀ではない。……歴史的重要性を持った作品は、どれも、 遺言の言葉をもって、あるいは誕生の言葉をもって解されうる事がしばしばである。

……三島は、必要な何物かだった。これについては一点の疑いも無い。

では、それがいかなる色合いを帯びるか……、 それは、日本そのものがいかなる色合いを帯びるかという事に関わっている。 今後、日本が、その精神力ある種の化身(incarnations)に、 しかもまったく思いがけない化身に行きつくということは、大いにありうることなのだ。

……百年後の日本的精神性の与件は、 現在のものとは似ても似つかないものとなるであろう ―― それは、まったく 別の与件となるに違いない。■

「二十一世紀は、再び宗教的時代(ソビエトがΨと呼ぶもの)となるであろう」――

《Ψ・プシ》について、我々の側から定義を下すとなると、 「《Ψ》とは、それを解く鍵を我々がまだ掌中にしていないころの、 あらゆる要素のミックスされた非合理的世界の領域である」となる。 いかに曖昧模糊たる事象であるかが分かるだろう……

かつて避雷針が既に発明されて、しかし電気そのものがまだ発見されていなかった頃には、 人は避雷針に何なりと好き勝手な意味を結びつけて解釈していたものだったが、 結局、電気というものが考えられるようになって、いっさいケリがついてしまった。 それと全く同様の事が、真面目な要素も不真面目な要素もごちゃまぜになった、 この《Ψ》の領域において起こるだろう事は、これは極めて蓋然性の高い事柄といえる。

来るべき世紀に一種の精神革命が起こりうるということは、 まったく可能なことと私は見ているが――このような精神性なるものは、 十八世紀が避雷針によって電気を予感したように、 それの何たるかを知らずして我々が現に予感しつつある領域内のものに違いないと、 こう私は信ずるのだよ。日本にあっては、なによりもそれは禅、ということになろうか。■

第八の対話

日本とは、一つの宗教のもとに人が生まれ、別の宗教のもとに死する国である……

……どうして、これは、どえらい重要性をもった事柄というべきだよ。 日本という国は、精神性が一宗教の独占物となることの無い国である、という意味だ。 このようなケースは実に稀なのだ……現実の世界は……まさにこの反対なんだからね。 日本は、包括的な(englobante)宗教を持っている。 インドでは、精神性は、一方向のみに表れてくる。 そこでは、人は乖離する(dissocier)という事が出来ない。 日本では、あなたがたは乖離する事が出来る……

……そもそも偉大な精神性なるものは、《神秘神学・ミスティック》(la mystique)に 結びつくのが一般とされている。 そして西欧ないしインドのミスティックは……何らかの原理に、統一性に、 いわば地中に突き立てた“槍”に到達するのが通り相場だ。

……日本的精神性は……《たまゆら》(l'ephemere)に到達する。 たまゆらの精神性、これが日本なのだよ。 永遠なるものをたまゆらなるものによって表そうとした唯一の民族、 それがあなたがた日本人であるといっても良い。 これに比べれば、他国民は全て、 永遠なるものをいわば抽象的彫像によって打ち立てようとした種族であると 見てよろしい。■

トインビーが「日本は中国文明の一支脈に過ぎない」と公言したことについて――

“……これは議論になりません。何故なら、マルローの観点は芸術家のそれだし、 一方、私の方は芸術に関しては、からっきしの素人なんですから。私(トインビー)は歴史家ですよ。 従って(マルローとは)出発点からして、異なっているのです”と、 トインビーは言った……造形芸術に対しても、音楽に対しても無感覚な人としては、 まことに言い得ている。……トインビーは、芸術を伝達の一手段として考えていない。 それだけでなく、彼は宗教についても……ついに《サトリ》を得なかったのだ。■

日本音楽は、中国の音階のそれよりも、西洋の音階のそれのほうに近いのだ。 何故なら、厳密に言って、日本音楽においては、朗吟するとなれば、 西洋音楽風に記譜することは不可能でも、歌う場合には殆どこれを記譜することは可能なのだから。 しかるに、中国音楽を記譜しようったって、これは絶対に不可能なんだからね。 中国は八分の一拍子だし、日本はヨーロッパ同様に四分の一拍子なのだから。■

マルロー最後の思想と言葉 ―― 後記にかえて

(一)―― 「阿弥陀思想」と「聖フランチェスコ思想」

残る問題は、精神的事件といったものの仮説についてである。

イスラム以来、地上に大宗教が生まれた事はなかった。 とはいえ、ヨーロッパにおいては聖フランチェスコ思想と宗教改革、 極東にあっては阿弥陀思想 ―― 何百万という人々を回心させたこれらの思想を、 どうして事件と考えてはならないであろうか?

―― 『無常の人間と文学』

(二)―― 二十一世紀文明と彼岸

……しかし、死は、科学と個人主義を結びつけはしない。 科学にとって死は陳腐であり、個人主義にとってはスキャンダルである。 だからといって、我々の諸発見は、 死を古代的無関心やエレポスの黄昏(幽冥の闇)の中に解体して事済めりとする訳でもない。

……西欧では、十九世紀までは、無際限の生まれ変わりの中に生きてきた。 キリストの復活や最後の審判については公然と認めながら、その一方で、 輪廻転生やら、極楽原(シャンゼリゼ)、黄泉(シェオル・魂の留まる地)、 無量光などといったものは、これを一蹴して顧みることも無かった。

しかしながら、魂の棲み替わりの場とも称すべき、 これらの模糊たる場……とうていとらえる事も出来ないほど広漠としてかつ明白な領域をとおして、 通路は開かれていたのであった。 そこでは死を、死としてではなく、変化と考えるような、そのような領域である。 そもそも、他界する(trepasser)とは、彼岸に渡る事の意味でなくして何であろう?

―― 『無常の人間と文学』

なにゆえ芸術は、美がこうむったと同様の広漠たる突然変異をこうむらずに済むであろうか? 空想美術館と、芸術の謎的価値と、非時間の世界とは、ともに生まれたときと同様、 おそらくともに死ぬであろう。 そして人間は、非時間の世界もまた永遠ならずということに気付くであろう。

―― 『無常の人間と文学』

……神々と死の、非年代記的な時間の、諸宗教の永遠性の包括的世界こそは……、 ……この世界は、サクレ(聖なるもの)よりもずっと広大だ。……おそらく、 人間の力では把握しえないもの、諸宗教の宿りの場ではあっても、 その満たす場ならざる超絶的なもの、こうしたもののすべてを、 そこに糾合する事によって、我々はそこ(包括的世界)に近づけるだろう……

……あらゆる内的実在は収斂する。そして、われわれの見る、または予感する、 ありとしあるものの内的実在は、宇宙の本質のなかで分かちがたく結ばれている。

―― 『非現実の世界』

一部抜粋、適宜編集、断片のみ/竹本忠雄、人文書院、ISBN:4-409-03046-9

『マルローとの対話』に関する私感

マルローの投げかけた謎は、幅広い事象にわたって色々なものを含んでおり、 考察の材料には事欠かない。 当サイトにおいても、『深森の帝國』物語をものがたるうえで、色々と参考にさせていただいている。

また、このささやかなページにたどり着いた読者にとっても、ここで取り上げた 「マルローとの対話」 が、何らかの考察のきっかけとなったら、幸いである。

なお、ここのシリーズは、当サイトの『深森の帝國』物語をものがたるための、 制作資料および制作背景としての適宜編集&転載である。 興味をもたれた方には、正確を期すべく原本の入手をお勧めするものである。 (現在は絶版らしいが、要望があれば復刻するのではないだろうか…)


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